[より良い医療のために(1)]

[提案「二・五人称の視点」] 柳田邦男「緊急発言 いのちへ1」2000年7月25日
[「安楽死法」自己決定権の確立が先決] 池永 満 朝日新聞「私の視点」2001年5月28日
[「診療日記」シンプルで無責任な方が説得力がある?] 広島県保険医新聞(第300号)2001年5月10日
[自律のすすめ] 広島県医師会速報第1745号「編集室」2000年12月25日
[パッチ・アダムス「愛と笑いで病気を予防・回復」] ふしぎの国の医療(58)朝日新聞 2000年11月19日
[病院に「情報室」が欲しい] 朝日新聞「がんを生きる」2000年9月24日
[「診断は絶対ではない」医師も患者も認識を] 朝日新聞 2000年6月17日
[治療に求められる経験と根拠] ふしぎの国の医療(14)朝日新聞 2000年1月6日
[患者さんが医師に期待していること] 1998年8月15日 広島県医師会速報より
[美しい死] 医療にも節度と品位を! 1998年2月5日 前田元道先生
[心あたたかな病院がほしいー遠藤周作さんの死を悼んで]「天声人語」1996年10月1日

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「過労状態の医師と医療従事者が使命感と犠牲的精神で支える貧しい日本の医療」
[あなたの子供のいのち、疲れ切った小児科医にまかせますか?] →「小児科医師中原利郎先生の過労死認定を支援する会」

[地方医療、専門医より一般医の充実を] 済生合熊本病院副院長 副島秀久 朝日新聞「私の視点」2006年3月1日
[危険な医療]:医療は危険なもの・病院は危険なところ、自分の健康・自分の命は、自分で守る!
→日本の医療を正しく理解してもらうために 川崎市立川崎病院 鈴木厚

医療・福祉(社会保障)、教育、環境保護などの社会的共通資本は、国の責任で供給されなければならない。
憲法第25条 (1)すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
→日本国憲法

(2)国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
[診療報酬改定] リハピリ中止は死の宣告 東京大名誉教授 多田富雄 朝日新聞 2006年4月8日
…一番弱い障害者に「死ね」といわんばかりの制度をつくる国が、どうして「福祉国家」と言えるのであろうか…
[利害の抵触:泥棒が裁判官に] 李啓充 2005年5月15日兵庫県保険医協会評議員会特別講演、小泉内閣はアメリカの傀儡政権か?


[提案「二・五人称の視点」]
柳田邦男「緊急発言 いのちへ1、脳死・メディア・少年事件・水俣」
発言2 メディアに新しい座標軸を
「人間の世紀」へ・メディアに「二・五人称の視点」を、より

それでは、専門的な職業の中で医療職とか福祉職とか新聞記者にとって、治療対象としての患者の死や、養育していた障害児の死、取材対象の事件における被害者の死というのは一体どんな性質を持つのだろうか。それは単なる「三人称の死」なのだろうか。確かに人称の分類から言うと、「三人称の死」でしかないわけですが、私は医療界でよく話を頼まれると、医療者にとって患者の死は決して「三人称の死」ではない。なぜならば、医療者というのはその人の大事な場面で、非常に密接なかかわり合いを持つからであり、私は「二・五人称の関係性」と呼びたい、と提案しているのです。

「二・五人称の関係性」あるいは「二・五人称の視点」というのはどういう意味かというと、医療者というのは、ある客観性を持って患者を診なければいけない。しかし、それは冷たく突き放す客観性ではなくて、その死にゆく人に対してよりよい最期の日々のためのお手伝いをし、家族にとってもいい別れの形をつくってあげなければならない。そこにおいては、人間性豊かなかかわり合いが必要になってくる。それは二人称に限りなく近づくわけだけれど、しかしどっぷり二人称になってしまうと、冷静な判断と正しい処置ができなくなる。よく自分の子どもの手術はできないと外科医が言いますね。それと同じで、本当に二人称の関係性になってしまったら客観性が保てなくなる。そこで二人称の手前で止まっておくのだけれど、しかし冷たい三人称ではなく二人称の立場を共感的に理解するという意味で、「二・五人称の視点」という新しい用語と概念を提案しているわけです。

実は、これからの報道においては、ジャーナリスト、新聞記者に求められるのは、「二・五人称の視点」を持つということではないかと思うのです。脳死報道の中で、死にゆく人とそれを看取る家族に対して限りなく同情の気持ちを持ち、共感的な気持ちを持って対応するならば、あの高知で騒いたような実況中継的な大騒ぎはなかったと思います。「三人称の視点」でしかなかった報道が、どれほど家族を苦しめ、傷つけ、混乱させたか。私はあの後、様々な談話や評論で、「自分がその身になったらどうなのか」という視点の重要性を説きました。

そしてこの「二・五人称の視点」というのを持つと、それは何も脳死問題だけではなく、今社会的に評価の難しい問題、あるいはジャーナリズムが抱えている様々な問題について焦点を当てるべきところを明確にしていく、そして深めていくことができるのではないかと思うのです。たとえば犯罪報道一つをとってもそうです。

犯罪報道をめぐって新聞協会賞をとるようなスクープというのは過去にたくさんありました。それぞれすばらしい記者の働きだったと思います。それはそれとして大事であるし、これからもその種の取材は重要だと思います。でもよく考えてみると、被害者に目を向けるということはほとんど10パーセントもなかった。それはサイドストーリーであったり、後から追いかけた後日談といった程度の記事が時々ちらほらと出る程度でした。

しかし、二人称の立場に立つならば、被害者こそ重要な存在であるはずです。救済しなければいけない、そして伝えられなければいけない存在は、放置される被害者の悲惨さだったわけです。犯罪被害者を社会が支えていくような問題意識と社会システムというものはまだゼロに近い。やっとこの一、二年、犯罪被害者に対して救援の手を、という記事がメディアにも載るようになった。法律の専門家やジャーナリストがもっと早くから「二・五人称の視点」でアプローチしてきたなら、犯罪被害者はもっともっとクローズアップされ、その救済の動きが広がったに違いないと思うのです。

殺し合いを超える道

また、事故や災害についても同じです。確かに事故がありますと、ジャンボ機事故で五百二十人が死んだ、あるいは、阪神大震災で六千四百人が死んだという事態の中で、どんどんその悲惨さは報道されます。それは、犯罪被害者に比べれば、まだ報道の力点が被害者に当てられています。だけどもっと突っ込んで、検証取材なり、あるいはそこから問題提起をしていくという意味では、新しい視点が必要だと私は思っています。たとえば、英語の「サバイバル・アスペクツ」(survival aspects:生存の可能性の観点)というキーワードで表すことのできる視点がある。この事故ではもっと犠牲者を少なくできる可能性があったのではないか、それはどうすれば可能だったのかということを洗い出す作業です。そういう視点で事故や災害の問題点を検証していきますと、救出の出動態勢を整えておけばもっと早く救出できたはずだとか、内装材料を燃えにくいものにしておけば煙による死者を少なくできたはずだとか、いろいろなことが出てくるわけです。

さらにこの「二・五人称の視点」というのは、これからの国際紛争の中でも生かすべきではないかと思うのです。そういう視点での報道を期待したいのです。どういうことかといいますと、二十世紀末は、東西の対立する巨大な覇権国家によるタガが外れたため、民族紛争があちこちで熾烈な形でむき出しになってきました。人類の歴史とともに古い民族の殺し合い、民族の優劣の争いというのが、いまや新しい兵器を備えた、新しい世界システムの中で起こっている。そして、殺された側の憎しみというものはたやすく消えるものではない。

そういう中で一つ突破口を見出したいのが、「二・五人称の視点」による報道なのです。どんな憎しみをぶつけ合う相手でもそれぞれに家族があり愛する人々がいる。殺されたらその家族や恋人は悲しみ、生涯、傷と憎しみを抱いて生きていかなければならない。生活も苦しくなる。お互い、同じことが起こる。そこでメディアは、両方の殺された家族の悲劇を丁寧に掘り起こし報道し続けていく、そして国境を越えてその情報を双方向に伝えていく、そういう努力を十年、三十年と倦むことなく続けていけば、憎しみや忘れられないような恨みがあってもなお、相互理解による和解、殺し合いの放棄の道がどこかで出てくるのではないか。

これからの二十一世紀に、百年がかりでもいいから民族同士の紛争をどこかでやめるには、その和解の道を探らなければいけない。人間同士の相互理解をすすめるためには、メディアによる「二・五人称の視点」の相互コミュニケーションというアプローチがとても大事だし有効だと思うのです。

報道の規範「生命倫理」

私が、脳死問題、あるいは終末期医療の問題から発想した人間の命と死の人称性の問題というのは、意外に広がりを持つとても大事な視点ではないかと思います。そして、そうした「二・五人称の視点」というのは、実はこれから問われていく生命倫理の規範と裏腹の関係にあると思っています。生命倫理というのはいろいろな議論があって、どこからどこまでが生命倫理の範囲なのかについては、国際的にも学問的にも決まっているわけではないのですけれども、大方の生命倫理学者や哲学者や、あるいは医学研究者が考えているところによれば、生命倫理のまず中心に置くのは、医療の場における患者中心主義。患者の基本的人権をまず尊重するということ。患者の自己決定権、選択権を尊重するということです。これはナチス・ドイツの残虐な医学的な人体実験を教訓として、終戦直後にニュルンベルク裁判と並行して「ニュルンベルク綱領」という、生命倫理の原点となるものがうたわれて、そこに端を発しているわけですけれど、それがより現代的な生命倫理の問題として、たとえば薬の開発をするときには、必ず患者の同意を得なければ人体実験をしてはいけないとか、新しい治療法は患者の同意が必要とか、インフォームド・コンセントは不可欠であるとか、いろいろなことが言われるようになってきたのは、この二十年、三十年のことです。生命倫理の中心になるのがそういうことです。それ以外にも、遺伝子治療などの先端医療については、倫理委員会による承認が必要であるとか、安全性が確保されなければいけないとか、安全性も、今生きている人の安全だけではなくて、子孫の安全、つまり遺伝子に対して変な影響を与えないとか、環境を破壊しないとか、あるいは資源をむだ遣いして枯渇させないとか、そういったものまで含まれるわけです。そうした大きな生命倫理というものは、これまでは科学部の記者、環境部の記者、あるいは医療班の記者が単に報道の対象として伝えてきたに過ぎないわけですが、実は、そういう倫理規範というのは対象化するだけの相手ではなくて、メディア自身、ジャーナリスト自身が、報道の規範として、価値判断の座標軸として取り入れていかなければいけないのが二十一世紀ではないか。そうしなければ脳死問題にしても、あるいは様々な事件や災害・事故における安全問題にしても、その座標軸が一体どこにあるのか、価値判断の基準はどこなのかというものが定まらないまま、行き当たりばったりの報道の繰り返しで終わってしまうのではないかと思うのです。現代の非常に多様で広範になったメディアの状況の中では、何か事件があると百社ぐらい集まる、二百人ぐらいの報道陣が集まる、カメラの放列ができるというこの騒然たるすさまじい状況の中で、報道のあるべき姿の高い理念というものは、これからますます必要になると思います。そういう意味で、今こそ生命倫理の規範を、メディア自身の理念と規範の問題として認識しなければならない時代にきているのだと思います。(『新聞研究』二〇〇〇年一月号)

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[「安楽死法」自己決定権の確立が先決]
池永 満
弁護士(福岡県弁護士会)、NPO法人「患者の権利オンブズマン」理事長
朝日新聞「私の視点」2001年5月28日

オランダ国会で4月、患者の要求にもとづき医師が一定の要件下に安楽死を支援した場合、刑事訴追しない旨の刑法改正を含む「安楽死法」が成立した。「死ぬ権利」を保障したとする論評もあるが、必ずしも正確ではない。それが患者の「権利」であれば、権利の実現に協力することを医師の「義務」として強制しうるものとなるが、そうではなく、協力しても刑事訴追を受けないというにとどまるからである。すでにオランダでは、王立医師会と裁判所の協議による「安楽死報告届け出制度」(1990年)、その内容を政令とした改正埋葬法(93年)以来、安楽死支援を行った医師に対する起訴はほとんど行われていないので(過去4年間の報告数約6500に対し、起訴数は8件)、現状を追認して法制化したものともいえよう。

しかし、安楽死が年間死亡者の3%に達している状況下で、たとえ形骸化していたにせよ「犯罪被疑者」として送検される枠組み自体が消失することにより、患者の支援要求は一層強まり「安楽な自殺」を助長する懸念も否定できまい。事実そうした批判がオランダ内外からあがっている。それにしても、安楽死法に対するオランダ市民の支持率は92%という高さである。法が定める「自発的で注意深く思慮された要請であること」「苦痛が耐え難く、かつ改善の見込みがないこと」「合理的な代替策がないこと」.「これらが第三者医師により確認されること」などの要件が医師によって無視される危険性を指摘する声も、ほとんど聞かれない。

オランダ安楽死法の成立に思うことの第一は、オランダの医師たちが、患者の意思を第一義的に尊重することについては、強固な信頼を獲得していることである。自ら有罪宣告される危険をおかしながら、患者の自発的意思にもとづく「尊厳ある死」を支援してきた30年に及ぶ歴史がある。第二に「欧州でも最も個人の自由と寛容を尊ぶ国」という文化的風土にとどまらず、患者の自己決定を尊重する法制度が確立していることである。安楽死法は、インフォームド・コンセント(十分な情報を得た上での選択、同意、拒否)や自己情報コントロール権(カルテ開示を含む)などを定めた医療契約法(94年)に立脚している。

ところで患者は「人間的なターミナルケア(終末医療)を受け、尊厳ある死を迎える権利を有する」(94年3月の世界保健機関「患者の権利促進宣言」)。日本においても、オランダ安楽死法とほぼ同一の要件を満たす場合には、医師は刑事制裁を受けないとする判決が確定していることに留意すべきである。いわゆる東海大学「安楽死」事件判決(95年3月)では、患者の「死ぬ権利」は認められないが「死の迎え方ないし死に至る過程についての選択権」は認められ、「病名告知やインフォームド・コンセントは重要な前提条件である」と判示している。

だが、日本ではいまだに多くの末期がん患者や精神疾患患者が真実の病名すら知らされず、患者の意思を無視した医療行為も横行している。日本にも安楽死法を求める声があるが、それを急いでよいだろうか。オランダ在住で安楽死パスを所持しているジャネット・あかね・シャボットさんは「日本での安楽死は危険すぎます」と、「前提条件」がないことを警告している。まずは、自己決定権を中心とする患者の権利を法制度として確立することが優先的課題であろう。

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[診療日記]
ーシンプルで無責任な方が説得力がある?ー
広島県保険医新聞 コラム「路面電車」(63)(第300号)2001年5月10日

○月△日今年も又、Aさんと押し問答をしてしまった。Aさんは、気管支喘息、食物アレルギー、うっ血性心不全で当院通院中の独居老人である。Aさんは入室するなり腕をまくり上げ、「先生、今年も風邪の注射頼むよ」と言う。風邪の注射というのはインフルエンザの予防接種のことである。私は、まず問診表に記入してもらい、次に診察して、あなたの身体の調子がわかってから打ちましょうと答えると、Aさんは、「これだから最近の若いドクターは困る。昔のドクターは、『おい、手を出せ、注射してやろう』だった。何でそれができんのか」と言う。勿論、理由を丁寧に説明したがなかなかわかってもらえない。Aさんにはパターナリズム式医療が適しているらしい。

×月○日Bさんは、75歳の活発な独居の女性である。高脂血症があるので、栄養指導を行った所、「栄養指導するなら、絶対に食べてはいけない食物と、毎日どれだけ食べてもいい食物を教えてくれるだけでいいのに。食べてはいけない物は無いとか、バランスとか言われるとどうしていいかわからん。先生は患者の気持ちがわかっとらん」と、叱られてしまった。私は高齢者に対して、格別厳しい指導をしているわけではない。何でも過不足なく食べましょうとだけ言っているのだが、Bさんに限らず、多くの老人が同じ気持ちを抱いているようである。嘗ては、あれをしてはいけない、これは絶対やめなさいといった、所謂、"NO"の医療が全盛だったときく。医師の助言を基に、自分で判断して調節していくような、YESの医療に彼女らはなじめないのかもしれない。

△月□日

1)睡眠薬をのめば必ず呆ける。風邪をひいたら、治るまで入浴は禁。どんな病気の人でも、薬はのまないにこしたことはない。これらは正しいと思いますか。
2)同じ病気に対して、大学の教授と、私のような開業医の使う薬は異なっていると思いますか。

これらは、私が高齢者対象の講演会でしゃべらせてもらう時、最初に発する質問である。結果は、1)で「イエス」と答えた人は全体の70%、2)でイエスと答えた人は90%にのぼる。私はその都度、誤りについて説明するのだが、しばらくたつと、皆忘れてしまっている。残念ながら、高齢者に、ひとたびインプットされた情報が、実は誤りだと納得させるのは困難である。そして更に残念なことに、どこかの局のテレビ番組と同じように、その情報がシンプルで無責任であればある程、説得力があるというのは何故であろうか。(尾道市・板阪内科小児科医院院長 板阪和雄)

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[自律のすすめ]
広島県医師会速報第1745号「編集室」2000年12月25日

先日の新聞ニュースによると、胸水を抜いた後ショック状態となり死亡したケースが警察にて取り調べられているとの報道があった。また造影剤を注射した後アレルギーショックをおこして死亡した例も同じく警察庁での捜査が行われているという。そのほか気管支鏡の検査中術者が痰かと思って鉗子でつかんだとたんにそこから大出血して死亡したケースも警察取調べに入ったとのことだ。これからは診療中に疑義があれば警察に相談しなければいけない時代になったらしい。警察庁も医学の勉強をしなければならなくなり、大変だろう。この風潮が蔓延すると医者はいつも警察とマスコミの顔色をうかがいながら仕事をしなければならなくなりそうだ。

こんな住みにくい仕事環境になってしまう前にやはり、医師自らが襟を正して自らを律する裁定委員会を組織する必要があるのではないだろうか。この委員会は医師側でもなく、患者側でもなく、また医師会や厚生省からも独立し、マスコミにも阿ねない医療人が中心となって組織され、問題となった医療事故事例を中立的な立場からプロの目で裁定する。もちろんその過程はプライバシー部分を除いてすべて公開される。しかも日本の裁判のように気の遠くなるような時間をかけることなく、迅速に結果が出される。このような制度を作らないといけないのではないか。

もともと医療事故にはその責任性においてピンからキリまでの濃淡があるものである。どうにもその責任を言い逃れることの出来ない患者取り違え事件のような事故もある一方、虫垂炎の診断が遅れたために不利を蒙ったというような、そこまで医療側に要求するのは酷ではないかといったケースまで含まれる。現在は患者側の期待を裏切る結果が出ただけで訴えられ敗訴になるような事態も少なからずあるようだ。しかもこれに対して医師側が反論でもしようものならこの医者は誠意がないといわれ、罪が倍加するかマスコミに叩かれるため黙って頭を下げざるを得ないといったことになる。

もしも中立の立場で悪いものは悪い、仕方のないものは仕方がなかったのだと明確に示してくれる権威ある裁定委員会があったなら、事故に遭遇した医師側も患者側もまず最初にこのような裁定委員会に提訴するようになるだろう。もちろん委員会の裁定委員にしても神様ではないわけであるから、その結論に関してはいつも正しいとは限らないかもしれない。もともと医療事故の性格上正誤の判定を出すことも難しい場合が多いし、さらにどちらにどれだけの非がどれだけの比率であるかなどは出しにくいものである。当初はこの裁定に対しては賛否両論がわき上がることだろう。しかしこの委員会により真摯に中立と思われる裁定がなされそれが積み重ねられてゆくならば、いつかはこういった仕組みが次第に世の中に認知されていくと思う。これが医療倫理を全うするための自助努力というものであり、医療事故に対するプロの解決法ではないかと思うがいかがであろうか。(高田佳輝)

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[パッチ・アダムス「愛と笑いで病気を予防・回復」]
ふしぎの国の医療(58)朝日新聞 2000年11月19日

笑いは人間の免疫細胞であるNK(ナチュラル・キラー)細胞を増やし、病気の予防や回復にも役立つといわれる。高柳和江 日本医科大学助教授(医療管理学)はそれを確認するため、学生に狭い高圧酸素室に入ってもらった。一時間たつとNK細胞は二割以上低下した。ビデオ装着型眼鏡でお笑い番組を見ながらだと、逆に三割以上も上昇した。高柳さんは昨春、英国で開かれた学会で「笑いと免疫」」と題して発表した。その学会では、派手な服とダブダブのズボンをはいた身長2メートルの大男、パッチ・アダムスさんも講演。ズボンをたくし上げたり、風船のようにふくらませたり、身ぶり手ぶりで笑わせた。「愛と笑い」で治療をする米国の医師兼道化師で、映画にもなった。病因をもっと快適にしようという「癒しの環境研究会」世話人代表の高柳さんとたちまち意気投合した。

研究会などの招きで、アダムスさんは今年の夏、東京に一週間滞在した。講演会には、医学生ら二千人以上が集まった。世界の紛争地域へ道化師団として出かけて住民を励ましていること、建設中の「夢の病院」は農場も舞台もある生活共同組織であること、愛や思いやりのない現代医療を変えなけれはいけないことなど、道化師の格好で熱心に話した。会場は感動のあらしだった。アダムスさんは三病院の小児科病棟と、老人保健施設を訪ねた。病院では赤い大きな鼻をつけ、ゴムの魚をもった道化師姿で子どもたちを笑わせ、頭をなでて回った。植物状態の子どもに付き添っていた母親をじっと抱きしめた。抱きしめることで愛を伝える。老人施設では両ひざに二人のおばあちゃんを乗せ、「エーデルワイス」を歌った。

「いい病院とは思いやりのある医師がいる病院だと、パッチは何度もいっていました。日本には入院するだけで具合が悪くなるような病院がまだまだ多い。ハード(設備)にもソフト(人)にも、思いやりが欠けています。国民が、あまり強く要求しないのも不思議です」と高柳さん。高柳さんは今春、ハンガリーの大学府院のICU(集中治療室)で、医師が床にひざをつき、患者に声をかけていたのを見て「旧社会主義の国でさえ、今はこうなってるんだ」と驚いた。(編集委員・田辺功)

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[病院に「情報室」が欲しい]
「がんを生きる」朝日新聞 2000年9月24日

この連載に対して、たくさんのお便りと電話、電子メールをいただきました。がん告知を受けた直後という男性。家族をがんで亡くしたという女性。読みながら何度も胸が詰まりました。ほかにも食事療法や医療機関を教えてくださったり、癒しに関する本を送ってくださったり。本当にありがとうございました。みなさんがそれぞれの体験をもとに、「がんばれ」と応援してくださいました。がんと格闘する患者の姿が眼前に迫ります。明るい情報であれ、厳しい情報であれ、患者は治療に関する幅広い情報・体験を共有していかねばならないと改めて思いました。

これまでの治療の体験から、医療機関に提案があります。とくに中規模以上の病院にです。患者のための「情報室」を院内に設置してほしいのです。ここ数年、医師や看護婦の患者に対する対応はていねいになり、薬の副作用も詳しく説明してくれるようになりました。でも、患者への情報提供はまだまだ不足しています。医師らとの対話がわずかな時間しかない現状で、患者は独自に情報を集めなければならないのに、ほとんどの病院にはその手段が何もありません。診察を終えてから、医師に聞き忘れていたことを思い出すことだってよくあります。説明された以上に詳しく治療内容を知りたいと思っても調べようがありません。そこで、まず病院内に図書室を開設すること。病気に関する書籍はもちろん、薬などを検索できるコンピューター端末も配置していただきたい。それだけではありません。その病院の各科の医師全員について、過去の治療実績を資料として公開してほしいのです。

さらに、プライバシーに十分配慮したうえで、治療を受けた患者の闘病記録も公開するのはどうでしょう。患者自身が書き残した治療経過、手術後や退院後の奮闘ぶりの実例集は、医師や看護婦に話を聞くより参考になります。二年後に最初の手術から満十年になります。それまで私なりの「患者学」を模索しながら生きたいと思います。=おわり(井上平三)

数野博の解説:先進国の病院にはすでに患者・家族のための情報室があります。本、ビデオ、インターネットなどで必要な情報を自分で調べることができるようになっています。色々な病気やサービスに関する各種のパンフレットは自由にもらえます。

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[医療不信]
「わからないのすすめ」に反響
「診断は絶対ではない」医師も患者も認識を
朝日新聞 2000年6月17日

今月九日から三回にわたって掲載した「医療不信」に対し、三百通を超える投書や電子メールが寄せられた。九日付の紙面で、診断ミス(誤診)を防ぐため、「まずは『わからない』のすすめを」と呼びかけたところ、約三十人の医者や患者から意見をいただいた。あいまいな診断を下すのならむしろ「わからない」と言ってしまってはどうか、という提言だったが、医師からは「そんな無能な医師だと患者が逃げてしまう」などと手厳しい批判もあった。一方、患者の方は、むしろ「ごまかさず『わからない』と言ってもらった方が信頼できる」など、賛成意見がほとんどだ。(くらし編集部・佐藤純、辰濃哲郎)

投書を何度も読み直してみると、この「わからない」は、医療不信の根っこにあるさまざまな問題点…に共通するキーワードである気がしてきた。ある小児外科医の投書。「医師も人間なのだから、わからないことはある。患者にうそをつくことと、安心させることとは違う」と基本的には賛成だ。しかし、一方で、「医師も患者もそれを望んでいない。一番の問題は医師のプライドと、患者さんの主体性のなさ」という。ある女医は、「患者の訴え、症状、所見から、何が原因なんだろうという科学者の探求心があれば、『わからない』という言葉は出てくるはず。メンツのような感情は捨て去らないと。医療は完全でも確実でもない」と言い切る。

二人に共通するのは(1)診断は絶対ではない(2)過度の「プライド」を捨てなければならないーということ。だが、患者がそれを受け入れてくれるかどうか。「お医者様に治療をお任せする」という「パターナリズム」はいまでも健在だ。その患者に向かって、診断は絶対ではないことを表明することは、勇気のいることらしい。しかし、患者側の意見を読んでみると、医者が思っているほど医療に対する意識は低くない。寄せられた多くの投書は医師の誤診に触れている。本当に誤診かどうかは検証のしようがないが、問題なのは、患者が治療に納得していないということだ。

九日付の紙面で、腹痛、おう吐、下痢の症状を訴えて病院で診察を受けたが、三度も「風邪による腸炎」と診断され、最後は盲腸による腹膜炎で、手術後に死亡した女児のケースを取り上げた。「同じケースです」といって投書をくれたのは、三十代の母親だ。六歳の子供が同じような症状で診察を受けた。違っていたのは、病院の医師が「原因がわからない」と言ってくれたことという。医師は、盲腸と急性胃炎の両方を疑って、どちらでも対応できる治療法を入院しながら継続したという。最後には、手術を決断し、盲腸による腹膜炎にもかかわらず、無事回復した。医師は親に、なぜ鎮痛剤を使わないのかなど、治療法をそのつど説明していた。処置がベストだったかどうがは別として、医師は患者と向かい合っていた。このほかにも意見が相次いでいる。「命まで危険にさらすよりは、わからないと言ってくれた方が信頼できる」「わからないから、と言って、別の病院を紹介してくれた」「わからないので医学書をチェックしてきますというので、一瞬信じられなかったが、その真摯な姿勢がうれしかった」

まとめてみると、医師は@わからないから患者に考え得る可能性について説明しなければならないAその可能性に照らし合わせて別の病院を紹介しなければならないB患者も「医師は絶対」ではないことを知り、一緒に治療法を選んでいかなければならない。つまり「わからない」と言うことは、患者に対して責任をもつということで、患者も診断が絶対であるという幻想を捨てなければならないのだ。

内科医を夫にもつ妻からの投書があった。夫が研修医の時代、相当な裁量権が与えられていることを知って驚いた。夫は「自信がなくても患者に悟られないようにするのが医者の力量のひとつ」という。しかし、この妻は「若いうちから『絶対』という鎧をかぶっていると、何か迷ったりしたときに決断を急いでしまったり、絶対であるという錯覚に陥ったりするのではないか」と懸念したという。印象深い投書があった。「医師と患者の断絶をなくし、『ブラックボックス』を共有できないだろうか。医師は豊富な専門的な知識を持っている。どんなにわからなくてもいくらかの情報を持っている。それを患者と一緒に考える。患者という存在を交えた『新しい診断』は医師と患者の障壁をとりのぞかせ、医療への関心へと導き、この関心が国民の健康を気遣う心となってくれれば」この投書は、医学部を目指す高校三年生の女生徒からだ。

[不信の解消へ教育見直しを] 投書を読んで

「えっ、こんなにたくさん?」というのが率直な感想です。腹痛を訴えた女児が「風邪による腸炎」と診断され、最後は盲腸による腹膜炎で亡くなったケースには、「私の場合と同じ」「私もこんなことがあった」などの投書が殺到しました。正確ではありませんが、三百通を超える投書のうち七割近くは、体験記です。なかには、「私たちの声を厚生省に届けでください」と訴える投書もありました。「女児が亡くなった病院名を公開すべきだ」という怒りの手紙もたくさんありました。医療の現場で何かが起きているのか。あるいは、ずっと以前から起きていたものが、ここにきて噴出しているのか。医師個人の問題とは片付けられない根深い問題があるような気がします。投書から、不満の所在を拾ってみると、(1)患者が十分に説明を受けていない(2)医師や看護婦が忙しすぎて患者の話をゆっくり聞けない(3)医師が患者を見下している(4)医師同士も自由にものが言えない上下関係がある(5)診療所と大病院だけでなく、同じ病院内での連携がとれていない(6)チーム医療ができていない(7)患者の疑問や苦情を聞いてもらう仕組みが不十分・・・。ここまでくると、心ある医師が患者に十分な説明をしようと心がけるだけでは、不信が解消されるとは思えません。医療の問題というより、教育制度や診療体系の問題のような気がします。患者の権利をきちんと保障するルール作りはもちろん、患者と同じ目の高さで医療を考えることができる医師教育ができないものでしょうか。(辰濃哲郎)

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医師の裁量 [治療に求められる経験と根拠]
2000年1月6日 朝日新聞日曜版「ふしぎの国の医療」

「日本の医療で一番の不思議は我流診療の横行」と舞鶴市民病院の松村理司・副院長がいう。医師は偶然出会った患者を自分の知識や経験で診断、治療する。同じ病院の同じ診療料でも得意分野が違うから、当たる医師によって患者の運命が分かれることもある。診療科全体で議論し、治療方針を決める病院はまだ少ない。「医師の裁量権が日本ほど野放図に許されている国はない」と亀田総合病院(千葉県鴨川市)の牧野永城・診療統括副院長。専門医志向の日本の医師は大学で熱心に心臓とか肝臓の勉強をする。ある日、大学を離れて開業すると、「○○科」の看板を掲げ、何年も診たことのない風邪や頭痛の患者を治療する。牧野さんは昨年五月、デンマークで開かれた国際病院連盟のシンポジウムに参加した。テーマはプライマリー・ケア(一般診療)。「日体では専門医が一般診療も担当する。しかも、プライマリー・ケアの研修を受けることなしに」と牧野さんが正直に報告すると、会場はシーンと静まり返った。「大変な恥、国の恥です」

亀田総合病院は1996年6月から医師の裁量権の制限に踏み切った。認定委員会が個々の医師の「主治医権」や「診療領域」を認める。つまり、経験の乏しい医師は主治医になれず、実績のない手術や治療は許されない。同病院の約二百人の医師のうち、主治医になれるのは約八十人だ。
「医師がやるべきこと、やっていけないことは科学的に決まっています。裁量権という言葉で、医学的な無知や未熟な技術をごまかしてはいけない」と福島雅典・愛知県がんセンター病院内科医長は指摘する。診療の有効性は臨床試験と、それにもとづく多数の医師の治療成績で確立していく。エビデンス・べースト・メディシン(根拠にもとづく医療=EBM)と呼はれる診療だ。米国の製薬企業メルク社が1899年から刊行している「メルクマニュアル」は一般診療のEBMを網羅する。総監修者として最新版の日本語版(日経BP社)を昨年暮れに出した福島さんは「医師はこの本で、世界の基準を確認してほしい」と訴える。福島さんはまた、昨秋の全日本病院学会シンポジウムで診療録管理、治療成績の公開を骨子とする「医療の質管理法」を提言した。これも我流医療の排除のためである。(編集委員・田辺功)

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医療にも節度と品位を!
「美しい死」
元広島県医師協同組合理事(1998年11月急逝)前田元道先生
1998年2月5日付広島県医師会速報編集後記より抜粋

日本医師会雑誌平成9年11月15日号に日医設立50周年記念式典における日本医学会会長森亘先生の記念講演「美しい死」が掲載されています。さすが格調高く、含蓄のある名講演で私も感銘を受けました。まず病理学者として剖検所見から、美しい死について述べておられます。必要にして十分、かつ節度ある医療が施された後に死を迎えた遺体の剖検所見は美しく映るが、一方脳死状態に陥った後も機械と薬物の力で長く強制的に生かされた後に死に至った遺体の剖検は、演者の目には美しいとは映らなかったとの事です。

今、ターミナルケアのあり方について議論が盛んになってきましたが、結局は抽象的ではありますが節度ある治療ということになるのではないでしょうか。演者は節度ある医療とは同時に品位ある医療であると申しておられます。節度と品位、今日の日本では政治、経済をはじめ全ての分野で死語に等しい言葉であり、医療分野でも例外ではありません。無定見とさえ思える先端医療の進歩は、フィロソフィーの追いつかないまま種々の問題を提起しており、一方第一線の臨床現場においても節度と品位とは縁遠い現実は否定することはできません。

医師には他の分野では考えられない位の大きな裁量権が認められています。この裁量権が良識、節度、品位を欠く状態で行使されるなら社会から認められなくなり取り上げられてしまいます。医療保険制度の改定の度に裁量権は取り上げられつつあります。医学界の頂点にある演者が日医設立50周年、天皇皇后両陛下御臨席という晴れがましい記念講演において、医療における節度と品位を強調された真意に思い至すべきかと思います。演者は良識ある医療が将来のわれわれを守ってくれると結んでいます。

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