デーケン教授のミニ講義
ー欧州ホスピス視察研修講義録ー
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老年精神疾患へのアプローチ、老年精神疾患の基礎的事項
「老年期の生きがい」
上智大学文学部人間学・倫理学教授 アルフォンス・デーケン
治療:1983,Vol65,No10,p1-6

(1)生きがいの問題

平均寿命の延長につれて、いかに意味ある老年期を送るかという課題が、第三の人生における主要な間題のひとつとして浮上してきた。今やわが国の平均寿命は世界一であり、老年期の生きがいの問題はとりわけ緊急のものとなりつつある。無論、現職の期間を極めて有意義に過ごし、さらに退職してからも意味深い第三の人生を送っているお年寄りも少なくない。しかし昭和56年に行われたアンケートによれば、対象となった日本の老人のうち、実に23%が生きがいを「全く感じない」あるいは「ほとんど感じない」と答えており、生きがいを「いつも感じている」との回答は27.8%、「ときどき感じる」が32.7%となっている。

こうした生きがいの欠如という問題が最も鮮明に、また悲劇的な形で現われるのは、恐らく老人の自殺率においてであろう。停年と共に自殺率が急激に上昇することは多くの国で知られている。わが国の一般の自殺率は世界的平均と比べて必ずしも高くはないが、老人の自殺率に限っては世界一という残念な結果が出ている。この統計は、多くの老人が働き盛りから老年期へ上手に移行できないでいること、換言すれぱ、第三の人生における生きがいを発見できないという事実を反映するのではないだろうか。

私は上智大学で新入生を対象とした人間学の講義を担当しているが、授業中しばしば、学生達に生きがいというテーマについて討論させる。そこで毎年気付くのは、多くの学生が生きがいを将来の職業・労働と同一視していることである。このような「生きがい」の概念は、あまりにも狭隘に過ぎるように思われる、こうした考え方でいけば、停年になり、仕事がなくなった途端に激しい内的危機に襲われるであろうことは一目瞭然である。「人生の意味」なる概念の中に労働や仕事上の業績が大切な要素として含まれているのは言うまでもないが、全体として見れば、はるかに広汎にわたる要素を包含する概念であることも忘れられてはならない。現在の平均寿命からして、日本人の多くは退職後20ないし30年に及ぶ第三の人生を過ごすことになる。人生の三分の一を占めるこの期間に何が生きがいとなり得るかという問題に、各人が早くから取り組んでおくことが肝要であろう。

(2)生きがいのない人生

今日、多数の老人が生きがいを発見できず。挫折感と不幸に苛まれる日々を過ごしているという事実は否定できない。この悲劇の底には、さらに遡って、それまでの人生においても生きがいを見出すことができなかったという体験が潜んでいることが多い。二十世紀の人類を蝕む無意味さの体験の問題は、フランスの作家アルベール・カミュによって極めて印象的に描かれている。

生の不条理を扱った評論「シジフォスの神話」は1942年に出版され、当時、戦争の無意味さと戦後の絶望的状況を体験していた若者達に深い感銘を与えた。意味への問いという主題の明確な表出においてその現代性は今なお失われていないばかりか、今日では多くの老人が自身の苦悩をシジフォスという神話的形姿の内に見出すのではないかと思われる。シジフォスの虚しい努力の中に彼ら自身の人生が映し出されているかのように。カミュは同書の冒頭でこう述べている。「真に重大な哲学的問題はひとつしかない一それは自殺である。人生に意味があるか否かという決断こそが哲学の根本問題に対する回答となる。その他のことはすべて二次的な問題に過ぎない。」無意味さと自殺との関連性を直規するカミュにとって、人生の意味への問いは「最も緊急の課題」であった。岩を山頂へと運ぶシジフォスの努力は常に徒労に終わる。頂上まであと一歩というところで、岩はシジフォスの努力も虚しく坂を転がり落ちてしまう。そして彼は何度でも初めからやり直す。死がその労苦を終わらせるまで。カミュは、この無意味な労働が人間の根源的状況を象徴していると考えた。人生は無意味であり、人間は決して目的地に達することがなく、すべての努力は結局のところ報われない。齢を重ねるにつれて、あらゆる労苦が究極的には何の意味も持たないことはますます明らかになるだろう……。現に老境を迎えた人々の多くは恐らくカミュほど極端な考え方をしていないだろうが、人生があるいはシジフォス的実存なのではないかという疑いを心の底に抱く人もまた少なくないであろう。

(3)生きがいと希望

老年期に生きがいを見出し得るか否かは、未来に対して希望を抱くか悲観的な態度で臨むかという問題と密接に関係している。

人間は本質的に希望する存在である。朝には今日もよい1日であるように、仕事がうまくいき、目標を達成できるようにと願い、タベには安らかな眠りと快い目覚めとを望む。暑い夏には秋の涼しさを、寒い冬には春の暖かさを、病いに臥す時には速やかな回復を願う。希望とは、人の心に植付けられた根源的衝動であり、活力、創造性、勇気、そして生の喜びをもたらしてくれる。希望なしに人間的な生活を送ることは不可能であろう。希望の対象となるものは人生の諸段階に応じて様々である。青年期には通常、具体的な対象が求められる。よい就職、職場における成功や昇進、高い社会的地位、人々の評価、あるいはマイホーム、マイカーといった財産、より一般的には経済的な安定といったものがそれである。

だが老年期に入ると希望の対象もまた変化する。若き日の夢の中には実現不可能なものもあることが次第に意識されるようになり、他方では幸いにも実現することのできた多くの望みが心の渇きを全く満たすものではないこと、それらが自分の望んだ通りの幸福をもたらしたわけではないことに気付く。かてて加えて、かつてあれほど努力して獲得し、維持してきた健康や職業や地位といったものが徐々に失われてしまうという不安が忍び寄る。そして遅くとも死の瞬間には誰もが持てるすべてを手放さねばならない。

実存哲学者のマルセルやヨゼフ・ピーパーは、希望を二つの根本的形態に大別している。即ち、日常的希望と根源的希望である。目常的希望は日常生活の具体的な目的、例えば入学試験に合格することなどに向けられる。これに対し根源的希望は我々の実存、我々の人格それ自体に結ばれている。根源的希望において問題となるのは、人が未来に対して常に肯定的な態度で臨んでいるかどうか、簡潔に言えば希望の人であるかどうかということである。

豊かな老年期を迎えるための根本的問題は、多くのささやかな日常的希望を超越して大いなる根源的希望へと到ることであると言ってよい。無論年老いても日常的希望を持ち続けることは必要であるが、この時点においてはるかに重要なのは、未来に対しオプティミズム、ペシミズムいずれの態度で臨むか、即ち度重なる失敗にもかかわらず人生全体を意味あるものとして把え、未来を肯定的に望むことができるかであろう。
こうした根源的希望の真実性は、死を目前にしてなお永遠の未来を希望し得るかという最も厳しい問いによって試されることになる。

(4)内面への道一「所有」から「存在」へ

青年期や中年期には、外向的な活動の内に人生の意味と喜びを見出すことが多い。見知らぬ土地を訪ね、新しい知識を求め、財産を築き、地位を獲得し、称賛を受け、計画を実行し、常に新たな対象を獲得、所有することに喜びを覚えるのである。年を取ってもこの外へと向かう欲求が消え去ることはないが、努力の重点は次第に内面的なものへと移行していく。人生全体が、徐々に「内面への道」を辿るようになるのである。老年期にあっては、物を「所有」することの代わりに、「存在」というカテゴリーを見出し、追求していかねばならない。何を持っているかではなく、何者であるかということが重要となる。

フランスの作家マルセル・プルーストは、ある時、彼がかつて幸せな時を過ごした場所へ帰ったことがないのかと尋ねられた。「いいえ、一度もありません、」「しかし、どうして戻らないのですか。」「失われた楽園は自らの内にのみ見出されるからです。

多くの老人が、旧友と会ったり、かつての幸せな想い出の場所を訪れたり、若き日の出来事を反芻したりして、幸せだった過去を再び見出し、改めて体験し直そうと試みることはよく知られている。しかしながら誤った期待はしばしば憂鬱な失望へと通じることになる。老年期の心は、若い時とは異なる対象を渇望している。若き日の自分を熱狂させ、満たすことのできたものは、今や空虚な抜け殻を残すのみである。

「内面への道」とは、根本的には、価値観の見直しと再評価を意味している。以前は外面的価値を指向してきた人も、老年期においては、平常心、思耐、聞き上手、寛大さ、誠実さ、希望、人々に対する思い遣りといった内面的価値を発見し、開発していく必要があるだろう。

(5)生きがいと自己実現

老年期に関しては、マスコミや社会一般の考え方の中に、あまりにもネガティヴなイメージが目立つ。しかし我々は、human potentia1(人間の潜在的能力の可能性)の問題についてより深く認識する必要があるのではなかろうか。C.G.ユングによれぱ、人間は生涯を通じて自己の潜在的能力の50%程度しか実現していないという。この点に関しては様々な議論があり、ウィリアム・ジェイムズは10%以下、マーガレット・ミードは約6%、ハーバート・オットーは5%と、さらに厳しい見方をする学者も少なくない。だがいずれにしても大切なのは、老年期においても、その気になりさえすれぼ我々にはまだまだたくさんの貴重な可能性を実現する余地があるということであり、これこそ老年期の大切な課題ではないかと思われるのである。では具体的にどのようにして未開発の可能性を引き出すかであるが、ひとつのモデルとして、「挑戦と応戦(challenge and response)」の思想が挙げられると思う。これはアーノルド・トインビーが人類史における発展のパターンを形容して用いた概念であるが、個人の場合に当てはめることも可能である。人間は人生における様々の挑戦に応えることによって、自己の潜在的能力を実現していくことができるのである。

もちろんここで言うヒューマン・ポテンシャルとは、具体的な目的のための能力だけを指す言葉ではなく、より広い全人格的なものである。例えば愛のエネルギー、ユーモアの感覚といったものの可能性を発見し、実現していくことは、老年期の課題となり得るのではないだろうか。

フランスの画家シャガールは、1977年、90歳の誕生日の折に、かくも長生きできた秘訣について尋ねられ、こう答えた。「働いて、働いて、働きぬいたのです。」この答えは、創造的人間の典型を示している。芸術家が働くと言う時、それは創造的自己開発と芸術作品の創造とを意昧する、このような労働は、彼らにとって深い生の喜びの源である。芸術家の中に、長命で人生最後の瞬間まで創造的活動を続ける例が多いのも決して驚くには当たらない。ゲーテは83歳、ヴェルディは88歳、ミケランジェロは89歳、シュヴァイツァー(薯名なオルガニストでもあった)とトスカニーニは90歳まで活動を続けたし、ティツィアンに至っては90歳を越えてなお傑作をものしている。

このように年老いても創造的であり続け、仕事が即、生の喜びの源であるなら理想的だが、残念ながら働くということは、我々の大多数にとって、創造的行為どころか、退屈で疲れさせるルーティンワークでしかない場合が多い。工場労働者、商店員、またいわゆるサラリーマンの多くは、シャガールなどの芸術家と違って、高齢になってもそれまでの仕事を続けることに喜びと幸福感を感じる、というわけにはいかないだろう。それだけに、こうした「平凡な」人達にとっては、自己の創造的側面を発見し、実現されていない潜在的能力の可能性を意識することがますます必要となってくる。ある人は趣昧を通じ、ある人はボランティアとして、またある人は未体験の仕事を通じて自己の新たな次元を発見し、実現することができよう。誰もが芸術家になれるわけではないが、人間である限り誰でもほとんど無限の潜在的能力を秘めており、それを高齢に到るまで段階的に実現していけるのだということを忘れてはならない。

(6)生きがいと愛

自己実現と潜在的能力の段階的開発が人生の意味の重要な局面を形成しているのは事実であるが、そればかりを一面的に追求するなら、常に自分自身が自己の関心の中心を占めることとなり、知らず知らずのうちに利已主義に陥る危険が生ずる。アメリカの名門、ハーバード大学の卒業生を対象とした興味深い心理学的調査の結果によれば、彼らはいずれも職業上は水準以上の成功を収めているにもかかわらず、驚くほど多くの者が不幸を感じているという。己れの業績や成功に重点を置き過ぎた価値観が利己主義的態度を生み、ひいては不幸感を増大させているとは言えないだろうか。

とりわけ老年期においては、自己実現の努力が、自分を超越し、他人を思い遣る努力によって補足され、均衡化されねばならない。シュヴァイツァーはこのことを次のように表現している。「他人のために捧げられた人生だけが価値ある人生である。」青壮年期までは、大概の人が人生の意味について各自思い思いの墓準を設けて満足しているが、老境に入り、特に死の問題と直面してからは、人生の意味が根本から問い直され、かつては完壁であるかに思えた多くの答えももはや十分ではないことが意識されてくる。

ロシアのノーベル賞受賞作家ソルジェニツィンは、長篇「ガン病棟」に為いてこの問題をみごとに描いている。イエフレムは頑健な男性であったが、悪性の腫瘍を患って入院して為り、今や死の恐怖に怯えながら、「我々は何によって生きているのか」を知ろうとする。彼はトルストイの小説「人は何で生きるか」を読み、さらに同じ問いを看護人や、党の幹部役員を含む患者仲間に投げかける。返ってくる答えは様々である。曰く、食物によって、空気によって、水によって、賃金によって、等々。党の役員は、人はイデオロギーと社会的関心によって生きるのだと言う。イエフレムはどの答えにも承服できない。若く、健康だったかつての彼なら、似たような答えを出し、さらに「人はアルコールによって生きる」とでも付け加えたであろう。しかし今、トルストイの物語は、彼を魅了するに足る新しい答えを提示した、人は愛によって生きるのである、と。死に直面することにより、この単純素朴なロシア人は、それ以外のすべての答えが結局は表面的なものでしかなかったこと、そしてトルストイのみが生きがいへの問いに納得のいく答えを与えてくれることを知った。他人への愛に満ちた思い遣りだけが人生に究極的意味を与え得るのである。人は死に際して、何か新しいアンテナのようなものを得、それなしでは知覚できない波長を受信するのではないだろうか。若い時、健康な時には、毎日無数の電波が飛び込んできて、その中から自分にとって重要な番組を選び出すのは容易ではない。老境、そして死との出会いによって新しいアンテナが与えられると、選択は単純になり、余分な、皮相的なものが排除され、真に重要なものに注意が向けられるようになる。このアンテナが、老年期の人々に、愛の重大な意味を告げ知らせてくれるのである。

老境にあって自己の人生が意味あるものか知りたいと思うなら、次のように自らに問いかけてみるだけでよい。自分が生きたことによってより多くの愛がこの世にもたらされただろうか。己れの日々の努力によって、この世が少しでもあたたかく、住みよい場所になっただろうか。これは、ドイツの哲学者、カトリック司祭であったアルフレヅド・デルプの思想でもある。彼は反ナチ運動の精神的指導者として活躍し、37歳の若さでヒトラーの命により処刑された。彼ほどの創造的人物が若くして死んだことを残念に思う人は多かったが、彼自身は、人生の意味を長さではなく質で測っていたのである。彼はこう書いている。「もし一人の人間によって、少しでも多くの愛と平和、光と真実が世にもたらされたなら、その一生には意味があったのである。」

(7)生きがいと死の意義

第三の人生に足を踏み入れた者は、遅かれ早かれ、迫りつつある死という避け難い現実に直面せざるを得ない。老人の多くは意識的にこの問題を避け、触れることさえタブーのようにしてしまうが、そのような抑圧や排除は問題を解決しないばかりか、かえって死への無用な不安を増大させる結果になる。

生きがいと死の意義の密接な関係を、ここでは二つの点で明らかにしたい。第一に、人間は自分だけの、一回限りの死を全うしなければならない。この課題の中で、生きがいの重要な局面もまた実現されるからである。第二に、死を前にした人間は、死がすべての終わりなのか、それとも死後も生き続けることを期待してよいのかという問いに取り組まねばならない。

まず第一の点についてであるが、現代の医学の進歩は、多くの病人を死の淵から救い上げている反面、死への過程を非人間的な、大量生産的なものとする危険をもはらんでいる。実存主義哲学は、一人一人の人間の生がその人だけのものであり、死もまたその人だけのものであることを強調している。人の生と死は緊密に結ばれており、自己のかけがえのない生と死を全うする努力は盾の両面である。どちらももう一方が欠けては成り立たない。死を迎えることも、単なる受動的行為ではなく。各人がそれぞれのやり方で達成すべき個人的課題である。人間の尊厳は、自己のかけがえのない生と死の実現の内に存在する。この意味で、死にゆく人は、能動的姿勢を維持し、自分は死という劇を演ずる主役なのだと考えるべきである。医師や着護婦や肉親はわき役に徹することが大切で、前に出て自分の演技を目立たせようとすべきではない。死にゆく人を単なる医学的処置の対象にするのではなく、その人なりのやり方で、スポットライトを浴びながら生と死のドラマの舞台から堂々と退場できるようにと配慮すべきである。

第二の間題については様々な解釈が存在し、単純な解決は不可能であるが、近付きつつある死を意識せざるを得ない老年期にあっては、いつかは直面することを迫られる極めて重大なテーマである。この点で、私がフランスの実存哲学者カブリエル・マルセルを師の一人に持つことができたのはまことに幸福であったと思っている。マルセルは、人間の不死性の問題を、愛という現象から説明しようと試みた。彼はそのことを美しい文章で表現している。「人を愛するとは、『いとしい人、あなたは決して死ぬことはありません』と言うことである。」マルセルが言わんとしているのは、真の愛が常に永遠への希望を含むものであること、真に愛する者は相手の不死性と死後の生命を必ず欲するものだということである。

ドストエフスキーもまたマルセルと同じく、愛と不死との密接な結びつきを洞察している、彼は「カラマーゾフの兄弟」の中で。死後の生命への疑いに取り憑かれた女に対し、ゾシマ長老の口からこう答えさせている。「(不死を)証明するとは誰にもできません。けれどもあなたが、愛において進歩なさるなら、それにつれて、神の存在や魂の不死についても確信なさるようになるでしょう。」

89歳に到るまで創作活動を続けたミケランジェロは、印象的な祈りの中で、老年の悩みと苦しみを綴っているが、同時にそこには永遠の未来への深い希望が表現されている。まさにミケランジェロは、老年期に生きがいと死の意義とを見出そうとする人間にとっての偉大な模範ではないだろうか。

「主よ、老いのパンは苦く、硬いものです。私はかつてどれほど豊かに見え、そして今はいかに貧しく、孤独で、途方に暮れていることでしょう。この世でまだ私が何の役に立つというのでしょうか。痛みは昼も夜も私を苦しめ、眠れぬ夜の時間はのろのろと流れ、私はかつて私であったものの影に過ぎません。私は他人の厄介者です。主よ、もうたくさんです。いつになったら夜が終わり、明るい朝が始まるのでしょうか。私が忍耐強い者でいられるようにお援けください。他のものがみな消えていくのですから、せめてお顔をお見せください。私の時が終わろうとする今、永遠の息吹に触れさせてください。主よ、私はあなたを望み続けてきました。どうか私を永遠の滅びに委ねないでください。」

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