那覇−沖縄県

 小杉未醒(放菴)は、1916(大正5)年に沖縄へ旅行した。
 事前に、文筆家である横山健堂を訪ね、「琉球の旧族十数人」へ宛てた紹介状を書いてもらい、1月13日、まずは汽車に乗り、大阪へ向かう。その後、和歌山や別府を経由して鹿児島に至り、鹿児島港から沖縄へ向けて出港。2月3日に、那覇港に到着する。
 那覇港では、当時、隆盛を極めていた横浜の砂糖商・増田屋(商店)の沖縄出張店の社員や、商船会社の支店長などに出迎えられ、その晩には歓迎会も催された。
 翌日には、那覇区会議員であった仲地唯謙の、漫湖を望むことができる壺川の岸辺の別荘を借りることになり、以後は主に、そこに拠点として各地を巡っている。


朝九時半 那覇港に着す、 名瀬
に比すれば面目一新 快濶にて心地
よし、港口の両堡古色面白
し、 増田商店の倉増氏大河内氏
商船会社の支店長など出迎え居
る、池端旅館に行く、
仲地の唯謙と云ふ人の別荘をかり
置きくれたる由にて大河内氏と見
に行く、 好風景の土地にして閑静
なり、 かへりに市場を経、旧暦三十一日とて大
きににぎやかなり、 海上神社より墓地に到る、
墓地の形状大にて面白し、 一家一
墳墓にて代々の骨此の一窟中にありと云ふ、 辻
を巡り見て宿にかへり沐浴、 新聞記者
二三人来る、 夕 花月楼にて歓迎会
琉球の踊を見る、面白し、更に辻に行く
夜雨あり、

小杉放菴の『日記』(大正5年2月3日の項)より

ラムサール条約登録湿地「漫湖」

ラムサール条約登録湿地「漫湖」

快晴、
よき日也、
午前風多き日を再び失敗、長崎写生に行
き蛇を見てかへる、ハブは今にても尚出る
と見ゆ、恐る可し、午后「羊を牽く男」の画
稿、漫湖畔を漫歩す、夕方南嶋帳を
画く、南画は少し上達したり、

小杉放菴の『日記』(大正5年2月16日の項)より

 沖縄に着いてから一週間ほどした2月10日、小杉未醒は首里を巡り、伊是名朝睦の家を訪ねている。伊是名朝睦は尚侯爵家の家扶で、沖縄広運会社の監査役や沖縄銀行の取締役など、尚家関連の事業に従事するとともに、首里区会議員や県会議員を歴任した。当時の紳士録によれば首里大中町に屋敷を構えていたようである。

龍潭池より首里城を望む

龍潭池より首里城を望む

(前略)
午后三人にて首里に行く、 王城より丘に出で、首
里市を一周す、 虎尾丘より下り、伊是奈(ママ)
宅を訪い、車にて那覇に帰る、 一里の価
十銭、 夜二人芝居に行く、

小杉放菴の『日記』(大正5年2月10日の項)より

虎尾丘(虎頭山・虎瀬公園)より首里城を望む

虎尾丘(虎頭山・虎瀬公園)より首里城を望む

詩人・佐藤惣之助の歌碑

詩人・佐藤惣之助の歌碑

 1959(昭和34)年に濱田庄司が壺屋の窯で製作した、詩人・佐藤惣之助の歌碑。もとは首里城内にあったが、首里城の復元にともない、1992(平成4)年に、この虎瀬公園に移設された。佐藤惣之助も、小杉放菴と同様に「新作おわら」の作詞者の一人である。

 2月24日、午前中から写生に出かけた小杉未醒たちは、焼き物で知られる壺屋から坂下へと至り、金城町を経て謝名園へ通う松並木を抜け、首里城にまで足を伸ばした。

壺屋やちむん通りの新垣製陶所の入口

壺屋やちむん通りの新垣製陶所の入口

新垣製陶所の店舗と新垣貴司氏

新垣製陶所の店舗と新垣貴司氏

 壺屋やちむん通りの「やむちん」とは焼物のことで、この通りに沿っては、シーサーや陶器などの焼物を製造・販売している店が何軒かある。
 濱田庄司も作陶したことがある新垣製陶所では、人間国宝の故・金城次郎氏も修行していた。

金城町の石畳道

金城町の石畳道

(前略)
午前三人にて写生に出かく、 壺屋より坂下に
到り、右折して金城、識名園へ通ふ松葉
それより首里城に到り、山城まんぢうを
喰ふ 温かきは殊に捨てがたし
(後略)

小杉放菴の『日記』(大正5年2月24日の項)より

世界遺産「識名園」の石橋

世界遺産「識名園」の石橋

 識名園は、琉球王家で最大の別邸。国王一家の保養や、中国からの冊封使の接待にも利用された。「識名園に通ふ松葉」とは、もともと、園の入口付近まで松並木が続いていたことによる。

山城まんじゅう

山城まんじゅう

那覇市首里真和志1-58 Tel.098-884-2343

 「山城まんじゅう」は、餡を小麦粉で包んだ素朴な饅頭だが、月桃(サンニン)の葉を敷いて蒸すので、独特な香りがする。温かいうちに食べないと硬くなってしまう。
 一度に40個ほどしか蒸せないので、売り切れると30分は待つことになる。

 2月25日に、東京の家から家族の健康問題について連絡があり、急遽、帰宅することになった小杉未醒は、予約の取れた船が出航するまでの2日の間も精力的に活動している。

晴、
朝俥にて眞玉橋写生に行く、俥値の廉なるは此の地 写
生あるきの大便利なり、正網を俥にて暇乞いの
代理に廻らす、 仲地、末吉麦門冬、大河内、村瀬
来る、
(中略)
三時半那覇丸に乗る
中山倉増木村重茂大河内金城池
宮城林、仲地唯隆等送り呉るゝ、 荷の都
合にて船はやうやく五時すぎに到りて出帆
(後略)

小杉放菴の『日記』(大正5年2月27日の項)より

真玉橋の遺構

真玉橋の遺構

 未醒は沖縄を離れる日の午前中、真玉橋(マダンバシ)へ写生に出かけた。真玉橋は、漫湖の少し上流の国場川に架かる橋で、写真手前に見えるのが、戦争中、日本軍によって破壊された、古くからの石造アーチ橋の遺構である。左奥には、2002(平成12)年に架橋された現在のコンクリート製アーチ橋が見える。

 真玉橋は、1522年(嘉靖元年)、王都であった首里と
島尻地方を結ぶ主要道路に、初めて木造の橋として
築かれました。
 1707年(康煕46年)から石橋の架け替え工事が行われ、
翌年に完成。1809年(嘉慶14年)に一部が大雨で壊れ、
1836年(道光16年)、大規模な改修工事を行いました。
 真玉橋は、大きく美しい曲線の5つのアーチが連なり、
脚部には、川の流れによる水圧を弱めるために
スーチリ(潮切り)が設けられ、構造的にも景観的にも、
沖縄独特の石造文化を誇る橋でしたが、
1945年(昭和20年)、太平洋戦争末期の沖縄戦で
破壊されてしまいました。
 1996年(平成8年)、戦後につくられた橋の
改修工事に伴う発掘調査によって、戦前の真玉橋が現れ、
那覇市側・豊見城市側の双方にその遺構を
移築保存しています。

橋の遺構の「説明板」より

調査:2009年12月5日〜6日[小杉放菴研究舎]