中城−沖縄県

 小杉未醒(放菴)は、1916(大正5)年に沖縄へ旅行した。
 2月3日に沖縄へ到着するとすぐ、那覇の壺川にあった仲地唯謙の別荘を借りることとなり、以後、2月27日に出発するまで、そこに拠点に各地を精力的に巡っている。

 2月11日には、当時、那覇から与那原へと通じていた沖縄県軽便鉄道(沖縄県営鉄道=第2次世界大戦の末期に運行を停止したまま消滅)と、与那原から泡瀬へ向かう沖縄馬車軌道(のちの沖縄軌道=おなじく、第2次世界大戦中に運行を停止したまま消滅)と推定される路線を乗り継いで、小杉未醒は中城城址を訪れた。

世界遺産「中城城址」から伊舎堂の集落と太平洋を望む

世界遺産「中城城址」から伊舎堂の集落と太平洋を望む

 その後、中城城の城郭を現在のような形に改築した護佐丸の墓にも詣でるが、近くで水彩の写生をしているときに知り合った二人の子どもたちとの触れ合いは、後年に至るまで心にのこる出来事であったらしい。
 このときの出会いは、滞在中に書かれた「琉球閑居録」や、沖縄戦後に『東京新聞』に掲載された「琉球回想」などにも語られている。

沖縄県内で最古の亀甲墓と言われる、護佐丸の墓

沖縄県内で最古の亀甲墓と言われる、護佐丸の墓

朝日出づ
清網君のすゝめにて中城に向ふ、 十時那覇
停車場発 十一時与那原の海岸につく、
それより軌道馬車に乗る、 小丘
連続、 平野逆まく海に沿ふ、 伊舎堂村
馬車を下り中城丘に登る、 伊舎堂村は
美人村なりと云ふ、まゝ見るに足る容
姿なきに非ず、 満村竹篁深樹、中城
の坂は所謂石原小石原にて新調の桐下駄を
踏み折る、 城址に上れば支那海太平洋一
望に在り、 城は弓張月の毛國鼎、護佐丸
の築く処未だ殿閣に及ばずして早く阿摩
和利の舌頭に亡ぶ   小学校に立寄て
校長の家にて午餐の副食物を御馳走になる、
辞して護佐丸の墓に詣で、民家の近処にて水彩
写生す、二童より来る、弟呼
を二郎と云ふ、為に家郷を思ふ、銅貨をやりて
茶とさつまいもとを貰ふ、 帰路馬車なし雨
到る、 二里半ばかり濡れつゝ徒歩す、 夜八
時過ぎ帰着、

小杉放菴の『日記』(大正5年2月11日の項)より

調査:2009年12月5日[小杉放菴研究舎]