浦添−沖縄県

 小杉未醒(放菴)は、1916(大正5)年に沖縄へ旅行した。
 2月3日に沖縄へ到着するとすぐ、那覇の壺川にあった仲地唯謙の別荘を借りることとなり、以後、2月27日に出発するまで、そこに拠点に各地を精力的に巡っている。

 2月18日、小杉未醒は写生のために、朝から人力車に乗って牧港へ行き、牧港テラブのガマを見たあと、浦添城址を経て、「浦添ようどれ」へと廻った。

浦添市の牧港テラブのガマ

浦添市の牧港テラブのガマ

牧港テラブのガマの内部

牧港テラブのガマの内部

 牧港テラブのガマは、拝所として内部が御嶽(うたき)になっている琉球石灰岩の自然洞穴で、鎮西八郎為朝(源為朝)と琉球王国・舜天王統の開祖と伝えられる舜天王との伝説にまつわる舞台にもなっている。

国指定史跡「浦添城址」より東シナ海を望む

国指定史跡「浦添城址」より東シナ海を望む

晴 次第に暖かし、子ルと襦袢と羽織にては暑し、
午前九時、三台の俥にて出づ、牧港に行き写生、
寧王女ら舜天丸と共に為朝をまちしと云ふ岩
穴を見る、鍾乳洞なり、道をきゝしが白痴
なりき、 右折して浦添城址を見る、為朝
岩あり、 よをどれの尚寧王墓を見る、……
(後略)

小杉放菴の『日記』(大正5年2月18日の項)より

琉球王国初期の王陵である「浦添ようどれ」

琉球王国初期の王陵である「浦添ようどれ」

 「ようどれ」とは、琉球の言葉で「夕凪」を意味し、「死者の世界」に通じるという。咸淳年間(1265−1274年)に、英祖王によって築かれたとされる琉球王国初期の王陵で、浦添グスクの北側の崖に横穴を掘って墓室とし、内部には、中国産の石で作られた厨子が収められている。その後、1620年に尚寧王が改修し、自身もここに葬られた。
 写真は、手前が英祖王の墓で、奥に尚寧王の墓が見える。

 現在、浦添城址は公園になっており、その中に、那覇に生まれ、東京帝国大学において言語学を専攻した民俗学者・啓蒙家で、「沖縄学の父」と称される伊波普猷の墓がある。右側にあるのは顕彰碑で、「おもろと沖縄学の父 伊波普猷」と刻まれている。

浦添城址公園にある伊波普猷の墓

浦添城址公園にある伊波普猷の墓

 小杉未醒は、沖縄に滞在中の2月14日、当時、沖縄県立図書館の館長を務めていた伊波普猷に面会し、そのときの様子を記録している。

朝日見ゆ、
伊波普猷氏を訪ふ 髯長き学者なり 座に
東京毎日の記者とか云ふ男あり、例の二面の記者の
いやな型、甚だ琉球の気分と調和せず、午後三人
と村瀬氏と共に波上神社より泊の方まで散歩す、
風多くしてさわがしき日也、夜辻にて一酌、

小杉放菴の『日記』(大正5年2月14日の項)より

 実は、この前日にも、未醒は伊波普猷を訪ねていたのだが、そのときは、沖縄県立図書館と旧・南洋館とをまちがえていて会えなかったという。
 また、「東京毎日の記者」というのは、のちに改造社を設立した山本實彦であった。日記によると、初対面の印象はあまり良くなかったようであるが、その後、交流が深まっていったらしく、この年の7月に東京堂書店より出版された、山本實彦の著書『我觀南國』には、未醒が沖縄で描いた《黄昏るる首里》や《首里と其の女》といった挿絵や、途上の鹿児島で描いた《海南の美薩摩富士》の口絵などが掲載されている。

調査:2009年12月5日〜6日[小杉放菴研究舎]