蝶々と花

2009.11.15(恐惶)発行
コピー本/A5/36P/300円/R-18

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 静かな気配が部屋に近付いて来る。
 足音を響かせないようにと注意を払っているが、その所作には迷いが無く、邸内によく慣れた者の足取りだった。
 小十郎が戻ってきたことを悟って、政宗は閉じていた瞳を開けた。
 政宗の寝所は奥の間にあり、外廊下からは一つ部屋を挟んでいる。手前の襖の前まで来ると、小十郎が控えめに声を掛けてきた。もし政宗が既に眠っているのであれば、起こさないようにという配慮なのだろう。
「起きてるぞ」
 政宗は入室の許諾の代わりにそう答えた。
 褥の上で片肘を枕に寝そべっているものの、返事のとおり、眠ってはいない。政宗は肩越しに顔だけ向けて小十郎を振り返った。
 小十郎は政宗を見て僅かに目を瞠り、その後、さりげなく視線を外した。政宗へと歩み寄りながら口を開く。
「政宗様、何か羽織っていないと冷えてしまいます」
「暑いんだよ」
 政宗はその身に何も纏っていなかった。
 トレードマークとも言える眼帯すらも、今は取り外して枕元にある。
 部屋を出る前に小十郎が政宗の肩に掛けたはずの着物は、邪険に取り払われて傍らに丸まっていた。夜具の掛布は、足下よりも遙か遠く、褥の外に追いやられたままだ。
 しどけなく横たわる裸体の線を惜しげもなく小十郎の眼下に露わにしていても、政宗は気にも留めていなかった。今さら隠す間柄ではない。
「それに、身体拭くのに邪魔だろ」
「それはそうですが」
 小十郎は政宗の傍らに座ると、持参してきた桶を畳に置いた。張られた水が微かに揺れる。
 浸かっていた白い綿布を引き上げ、小十郎は慣れた手つきで固く絞った。
 汗ばんだ政宗の身体を、小十郎が丁寧に拭い始める。政宗は相変わらず横臥したまま、されるがままに身を任せた。濡らした手拭いは、肌に触れた初めには少しヒヤリとしたが、じきに己の体温と区別がなくなった。
 小十郎が、政宗の右腕を恭しく手に取った。二の腕の内側をそっと拭われるのを視界に捉えながら、政宗は、つい先ほど同じ場所に唇を寄せていた男の顔を思い出す。
 今、黙々と政宗の身を清めている男と、同じ顔だが同じ表情ではない。熱のこもった眼で政宗を見つめ、あらゆる場所に口付けてきた小十郎の姿は、まだ生々しく政宗の脳裏に浮かぶ。
 しかし、こうして肌の上を清められていくごとに、そこに残されている小十郎の感触が消えていくような気がする。
(――― いや、コイツはそれを消しているのか)
 そう思い当たった政宗は、小十郎に預けていた腕を勝手に引っ込めた。
 手を払われた格好の小十郎は、困ったように動きを止めたが、すぐにまた何事も無かったかのように別の場所に手を移す。それを拒みはしなかったものの、政宗は小十郎に向かって言った。
「いちいち身体拭くなんて面倒なことしねえで、湯浴みでもすれば手っ取り早いんじゃねえの?」
「こんな夜分に湯の準備などできませんよ。もう下働きの者は休んでおりますし」
「そりゃわかってるけど……なあ、こういうとき、温泉って便利だよな。いつでも湯が沸いてるんだからよ。久しぶりに、のんびり温泉にでも行きてェな」
「温泉、ですか……?」
 小十郎が、何をまた唐突に言い出すのかといった風情で相づちを打つ。
「先般の戦の処理がまだ残っている上に、国境にて不穏な輩を目撃したとの報告が入ってきたばかりですから、今、この城を空けることは宜しくないと思いますが」
「言ってみただけだろ、本気にするな」
 それきり会話は途切れた。
 空気が白けたような気がして、言葉の続きを、と思うが、雑然とした世間話や仕事の話なんぞを閨に持ち出す気にはなれない。適当な話題が見つからないまま、政宗はただ寝っ転がっているしかできなかった。







*サンプル終わり*
Novel by 秋原みゆり


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