天狗彼氏 弐

2011.8.21(インテ)発行
A5/60P/600円/R-18


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 大切なものは奪われないように仕舞っておくべきである。
 それは、いつの時代でもどこの国でも変わらぬ原則で、ここ奥州の地を預かる伊達軍で一番大事なものも一番奥まった場所に隠されていた。
 表向きの政務を取り仕切る本丸の、そのまた奥に建てられた屋敷はまだ新しく、奥とは言え南向きで日当たりが良い。中庭には丹精こめられた植木と観賞用の庭石が置かれ、池には鯉が泳いでいる。
 庭に面した外廊下から入ってまず最初の部屋が控えの間、襖を挟んで続きの間、さらに襖を隔ててから奥の間がある。上段の座敷に立ち入ることが許されている人間は、城内でも僅かに限られた者のみだった。
 伊達軍において、最も静謐で秘められた空間。
 そこは彼らの大将が英気を養う場所であり、疲れを癒して安らぎを得る場所でもある。すなわち、城主の寝室だった。
 室内の中央で、絹の夜具にくるまっていた人の姿が、のそりと動いた。
「…………うぅっ……」
 まるで地中の底から這い出てきたような、唸り声、いや、うめき声が上がる。
 美しく整えられた寝所にはまったく似つかわしくない音色だった。
 身体に掛けられていた薄手のかいまきを投げ出し、白い寝間着からはみ出した手足はすらりとしている。
 まだ青年になったばかりという年若い彼こそが、伊達政宗である。この城のあるじであり、ここ奥州という土地を統べる国主でもある。
 家督を継いでからというもの、めざましい指導力で国力を上げ、戦場では誰よりも先陣を切る。独眼竜の呼び名を世に轟かせている彼だったが、布団の上に横たわっている様子からは、その威厳は残念ながらあまり感じられない。
「み……水……」
 呟きながら緩慢に寝返りを打つ。重たそうに隻眼の左瞼を持ち上げると、布団のすぐ傍らに水差しが用意されているのが視界に入り、政宗は一も二もなく手を伸ばした。
 おぼつかない手つきでグラスに水を注ぐと、一気に飲み干す。冷たい水が喉を潤すのが心地良い。
 政宗は深々と一呼吸した。
 この症状は身に覚えがある。嫌というほど、知っている。
「Ah……飲み過ぎた……」
 現実を噛み締めるように、ひとりごちる。
 奥州は評判の米どころで水もいい。つまり酒造りに適した土地で、領内に幾つかある酒蔵からは毎年選りすぐりの銘酒が城に献上される。折々の行事に宴席は付きもので、筆頭という立場柄、政宗は酒を嗜む機会が多い。
 自身も嫌いではないのだが、体質的にはあまり強いとは言えなかった。ついつい深酒をした翌朝にやって来る、要するに二日酔いというやつには、たびたび悩まされている。
 しかし、昨夜は特に宴会が開かれていたのではなかったはずだった。普段から晩酌は政宗の趣味だが、翌朝に残るほど飲酒することは滅多にない。
 立て続けに注いだ二杯目の水も飲み干して、人心地がついたところで、政宗は手にしたグラスに視線を落とした。
 ギヤマンで出来たそれは、つい先日、南蛮品を扱う商人から購入したばかりのものである。深い青色が気に入って即決したのだが、舶来ゆえに高価でもあり、財布の紐を締めるのが得意な側近はあまりいい顔をしていなかった。
 その時のやり取りをぼんやりと思い出した後に、はっと政宗は寝ぼけ眼を見開いた。
「そうだ、小十郎」
 短く呟くと、ぐるりと部屋を見渡す。しかし、室内には誰も居なかった。
 それで何かを理解したらしい政宗は、八つ当たりするかのように拳で敷布を叩く。
 そして、気怠い身体をおして起き上がった。
 枕元に置かれた眼帯を引っ掴み、己の右目に宛てて手早く結ぶと、寝所の襖を開け放った。続きの間にも控えの間にも人影はなかった。政宗は大股で部屋を通り抜けると、外廊下に繋がる障子を開ける。
 降り注ぐ日光のあまりの眩しさに、思わず目を眇める。
 既に朝日は随分と高い位置にまで上っていた。
「SHIT……」
 政宗は忌々しげに晴天を睨み付けて悪態をついた。昨夜に眺めていた、儚げな朧月など跡形も無い。
 まるまる一晩の記憶が飛んでいる。
 その事実に政宗は苛立ちを隠しもしないまま、ずかずかと廊下へと踏み出した。
 行き先は決まっている。
 途中で家臣や侍女に出くわしても、政宗は一切歩みを止めなかった。
 城の裏手に整備された畑へは、庭伝いに行けばすぐだ。庭履きの草鞋を無造作に突っ掛けた政宗の足取りに迷いはない。
 やがて畑が見えてくる。
 畑の真ん中では、一人の男がしゃがみ込んで手入れをしているところだった。
 まだ幾ばくか離れていても近付いて来る気配に気付いたのか、葉の付き具合を観察していた作物から顔を上げる。こちらを振り返った男は、呆然と叫んだ。
「政宗様!」
 ずんずんと近付いて来る政宗の姿を見て、ぎょっとしたように目を見開いている。
 ――― いや、本当に見開かれているのかは判別できなかった。
 男の素顔を確かめることができない。
 顔に、目を剥いて威圧感を露わにした、たいそうな仮面が被さっているからだ。
 朱塗りの強面の中央には、異様に長く突き出した鼻がついている。その顔は、誰もが知っている妖怪、天狗そのものに違いなかった。
 天狗の面を被りながら、野良着を身に付けて畑仕事に精を出すという、日常では有り得ない風貌をした男は、農具を放りだして、政宗のもとへと駆け付けた。
「何という格好でいらっしゃるのです!?」
 非常識な風貌の天狗は、常識的な叱責を政宗に浴びせた。
「伊達家の当主ともあろうお方が、寝間着でうろつくなどはしたない」
「うるせえ!」
 政宗は問答無用で遮った。ここは自分の城であって、自分こそがあるじである。どんな格好をしていようが勝手である。
 寝間着だとか、目の前の男のお面だとか、そんなことよりも重要なことがあったのだ。
「その当主を酔い潰したのはどこの家臣だ?」
 腕を組み、仁王立ちして、天狗に負けない威圧感で睨み付ける。
 実のところまだ二日酔いから醒めていない身体には、自分の喋り声でさえガンガンと頭に響くのだが、政宗はプライドでこらえた。










*サンプル終わり*
Novel by 秋原みゆり


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