私の好きな馬

このコーナーでは私が特に好きだった馬について書きます。
(ここに書いてなくても一口出資馬は全て好きな馬です。一口出資馬については我が一口馬主人生のコーナーをご覧ください。)
好きな順にソートしました。

メイショウダッサイを追加 (2022/5/28)


スマートボーイ / ウイニングチケット / メイショウダッサイ
ポレール / サイレンススズカ / トウカイテイオー
サクラローレル / ラガーレグルス / ヨイドレテンシ



スマートボーイ 父・アサティス
母・アンラブル
[戦績]平安S2勝 アンタレスS2勝 マーチS 1995年産

 生産グランド牧場・馬主グランド牧場・伊藤圭三厩舎のアサティス産駒。ダート1800mの鬼である。

 あまり知られていないがデビュー当時は関西馬であった。栗東・吉永猛厩舎でデビューした彼は99年に伊藤圭三厩舎に移籍する。伊藤圭三といえば当時の新鋭厩舎であるが、父親はグランド牧場の先代社長、兄は現在の社長である。グランド牧場とは縁の深い厩舎であり、グランド牧場の馬が多く所属することでおなじみの厩舎である。しかも当時のグランド牧場&伊藤圭三厩舎といえばダートの鬼が多く、しかも父アサティス言えば典型的なグランド牧場&伊藤圭厩舎である。主戦伊藤直人騎手とのコンビが始まったのはこの移籍時である。ちなみに伊藤直人騎手は苗字は同じではあるがグランド牧場一族とは縁戚関係はない。

 伊藤圭三厩舎に移籍した当初は一介の条件馬に過ぎなかった。移籍後にオープン入りし、移籍翌年のマーチSで2着すると、アンタレスSで初重賞制覇。ダート1800m重賞の常連として君臨することとなる。初重賞制覇の次走では東海Sでも2着と健闘した。

 この馬と言えばその個性的な逃げ。展開が向いた時の強さは圧巻だが反面脚質ゆえの脆さもあった。だが、平安SとアンタレスSでは圧倒的に強かった。アンタレスSは初重賞の翌年も逃げ切り。01年平安Sでは1番人気に押されながら8着に惨敗。しかし、翌02年の平安Sでは7番人気ながら逃げ切り馬連万馬券に貢献した。

 そして翌03年の平安S。私はスマートボーイを頭で馬単流しの馬券を買っていたのだが、見事に逃げ切って平安S連覇である。スマートボーイ自身もそれほど人気ではなかったのだが、相手にはクーリンガーという超人気薄の馬を連れてきて馬単は20万馬券となった。私の馬券人生初の10万馬券がこれ。儲けさせてもらったのだが次走フェブラリーSでは展開が向かないと思ってスマートボーイを買わなかったら、ハナも切れずに惨敗。そしてその次のマーチSでは本命にしたら見事な勝利。またしても万馬券的中に貢献した。

 個性的な逃げ馬であること、グランド牧場の馬であることもそうだが、馬券的相性が最高だったこともあり、私にとっては最高の名馬である。03年のマーチS後に「スマートボーイ」というハンドルネームを名乗ることにもなったし。そして、私にとって平安Sは「スマートボーイ記念(GI)」である。

 高齢まで活躍した晩成タイプの馬だが、さすがに04年の平安Sでは5着に敗れた。その後引退。GI勝ちこそ無いが種牡馬入りできた。いつの日かグランド牧場産のスマートボーイ産駒が競馬場で活躍することを期待する。

おまけ: スマートボーイとの思い出を語った(?)エッセイ「府中の西門前

ウイニングチケット 父・トニービン
母・パワフルレディー
[戦績] 日本ダービー1990年産

 まだ見習い騎手のころアローエクスプレスという名馬に出会った柴田政人は「この馬で俺もダービージョッキーになれる」と密かに期待していた。しかし、非情にもその馬は当時のリーディングジョッキーである加賀騎手にのりかわった。その後彼は日本を代表するジョッキーとなるがダービーでの勝利には恵まれず、海外に遠征したときに外国の一流ジョッキー達に「ダービーは勝ったか?」と聞かれても黙って首を横に振るしかなっかた。その柴田政人の最後のダービーとなる93年のダービーで彼にダービージョッキーの称号をプレゼントしたのがウイニングチケットであった。

 その鋭い末脚でビワハヤヒデ、ナリタタイシンら強力なライバルを蹴ちらし先頭でゴール板の前を駆け抜けた。豪快な追い込みに定評のある柴田政人が、ややくせがあるが瞬発力では他の追随を許さないウイニングチケットで念願のダービーを制したのである。東京競馬場の満員のスタンドからは「マッサット!マッサット!」と政人コールが涌き起こっていた。ビワハヤヒデ-ナリタタイシンの一点買いをしていたため私は馬券ははずしてしまったが、あの日のレースの感動は一生忘れないであろう。翌年柴田政人は落馬負傷のため惜しまれつつも引退するが、まもなくしてウイニングチケットも故障のため引退することになる。

 ウィニングチケットの引退式で、スーツ姿の柴田政人は言った。「この馬は私にダービーを勝たせるために生まれてきたような気がします。」と。

メイショウダッサイ 父・スズカマンボ
母・スズカブルーム
[戦績]中山大障害、中山グランドジャンプ、その他の障害重賞3勝(2021年現在)1993年産

 グランド牧場生産馬で父も母もグランド牧場生産馬。そして、私の出資馬でGIを勝ったサンビスタの従弟である。

 血統的に思い入れのある馬だが、その馬が障害重賞で大活躍し、グランド牧場生産馬&スズカマンボ産駒として初のJ・GI馬となった。同時代にあのオジュウチョウサンがいるのにこの成績を残すのだから、ものすごい快挙である。

 この馬に対する思い入れは優駿エッセイ大賞応募作に詳しく書いたので、そちらをご覧あれ。

ポレール 父・エブロス
母・シークイン
[戦績]中山大障害3連勝1991産

 数々の障害を乗り越え、長距離を競う障害レース。そこでは飛越えセンスやスピードだけではなく、スタミナが重要である。しかし、彼の父は短距離種牡馬エブロスであった。

 そんな彼は平地で10戦して1勝しかできず、障害に転向するものの初勝利まで5戦、2勝目まで更に10戦を要した苦労人(苦労馬?)である。しかし、努力家の彼はオープン入りして東京障害特別(重賞)を勝ちあがると、日本のグランドナショナル中山大障害を3連勝。まさに当たるところ敵なしといった感じであった。

 そして1997年、なんと彼は果敢にも天皇賞(春)に出走してきたのであった。障害で鍛え上げられたスタミナがどこまで持つかというところが見物だったが、結果は芳しくなかった。しかし、障害界きってのスターホースが果敢に平地のG1にも出走してきたのは素晴らしい。

 そして名馬ポレールはこの暮れの中山大障害で4連覇という新たな伝説を興すべく燃えている。

と97年の秋ごろに書いたのだが、’97中山大障害・秋は惜しくも2着。他の馬が59キロの斤量なのに対し65キロという過酷な斤量で戦っていたのでよく頑張ったというべきだろう。

 彼の大活躍もあってか98年には障害レースが見直しされ、99年からは「ジャンプレース」と名称変更になり「中山グランドジャンプ」「中山大障害」がG1ということになった。もちろん定量戦である。ポレールの現役時にはなかった障害オープン定量戦である。この決定があと3年早ければ、彼はもっと活躍できた筈である。

 そして、99年で引退したと思っていたら、日本初の国際障害競走である2000年中山グランドジャンプに登場してきた。ゴーカイがボカボカを豪快に交わしたレースである。馬券はポレールから買っていたが、途中残念ながら落馬。この2年以上ぶりのレースで正真正銘の引退決定。残念ながらゴールはできなかったが、自分が作り出したようなこのG1レースに記念出走できてよかったのではないかと思う(飼い葉料払い続けた馬主さんはたいへんだろうけど)。

サイレンススズカ 父・サンデーサイレンス
母・ワキア
[戦績]宝塚記念1994産

 平成10年11月1日。秋の天皇賞に1枠1番1番人気で出走し、レース中に骨折予後不良。惜しまれつつも彼はこの世を去ることとなった。その後彼はその強さばかりが過大に評価され、「史上最強」とまで言い出す人も現れた。確かにG1も勝ってるし、強いことは強いだろう。しかし、私にとって彼の魅力は強さにあるのではなく、その芸、その個性にある。強いことは強いが、オグリキャップ、トウカイテイオー、ナリタブライアンといった名馬達と同列に並べられるほどの強さはないのだし、その個性がなければここまで人気にはならなかっただろう。

 まず、彼が一躍有名になったのがあの弥生賞。ゲートイン時に鞍上の上村騎手を振り落とし、ゲートをくぐってしまう。余談だが、このゲートくぐりという芸は体が柔らかく小さいサイレンススズカのような馬だからこそできる芸当であって、ヒシアケボノのような巨漢馬なんかは「ゲートくぐり」ではなく「ゲート壊し(笑)」を演じたものだ。そして、スタート後、今度は大幅な出遅れ。2秒ぐらいの出遅れに場内からは大歓声(?)があがっていた。私はこの馬を軸に馬券を買っていたので当然外したが、これでサイレンススズカという馬は私の脳裏に熱く焼き付いてしまった。

 彼のG1初登場はダービー。プリンシパルSに勝ちダービーへの出走権をものにしたが、このダービーでは後の彼のお家芸となるバカ逃げは披露しなかった。そして、かの二冠馬サニーブライアンにまんまと逃げ切られる。この時点では彼が日本を代表する逃げ馬になるとは想像もしていなかった。

 そしてその秋、彼はお笑い馬ぶりを存分に披露する。まずは神戸新聞杯。最後の直線で大差のリードをしていたので、その時点で誰もが彼が勝つと思っていた。鞍上の上村騎手もそう思っていた。「勝った」と思っていたからこそ、上村騎手は余裕をぶっこいて手綱をゆるめていたら、後の菊花賞馬マチカネフクキタルがするどい末脚で差してきて勝利をさらっていってしまう。そして、その後は距離の持ちそうもない菊花賞を回避し、古馬に混じって天皇賞・秋へ。ここで、後続を20馬身近く離すバカ逃げを披露し、場内は沸きに沸いた。結局6着だった。この天皇賞での感動的な逃げを見たのがきっかけで、私は彼をお笑い芸人に例えた小説「スズカがゆく」を書き始める。その次のレースマイルCSでは鞍ズレを起こしてレースにならなかった。キョウエイマーチにハナを切られ自慢の大逃げもできないままに。

 このように、ゲートくぐり、出遅れ、出し抜かれ、バカ逃げ、鞍ズレと出るたびに芸を披露したサイレンススズカは紛れもないお笑い馬である。やってないのは鼻血と逸走ぐらいか。そんな彼も97年の暮れ香港遠征に。香港でも彼はその自慢のバカ逃げを披露する。サイレンスズカしか日本の馬を見たことのない香港のファンは、日本の競馬はスローペース症候群に悩まされているなんてこと、夢にも思わないだろうな。

 5歳になったサイレンススズカは4歳の時の無謀とも思われるような使われかたはされず、勝てそうなところに出てきて手堅く勝利をものにしていった。特に中京競馬場では平坦かつ左回りと彼の得意条件が見事にそろった競馬場ということもあって、重賞を2連勝。金鯱賞は10馬身以上後続を突き放す大差勝ち(G2とはいえ相手が楽といえば楽だったが)。

 こういうクセ馬は勝つ快感を覚えると大ブレイクすることがある。4歳の時とは逆に手堅いローテーションで使われるようになったサイレンススズカもそうだった。連勝の勢いに乗じて宝塚記念というG1も制してしまった。その時鞍上にいたのは当時の主戦武豊騎手ではなく、南井騎手であった。あの神戸新聞杯ではマチカネフクキタルでスズカを外から差していった南井騎手が、今度はサイレンススズカに乗り、彼を見捨てた武豊騎乗のエアグルーヴを破りG1馬となる。何か因縁めいたものを感じる。やっぱりこの馬のベストパートナーは武ではなく南井であると思う。G1を勝たせた騎手は南井しかいないんだし.。

 その秋、彼は毎日王冠をバカ逃げではなく「普通の(強い)逃げ馬」といったレースぶりで勝つ。そして次走、天皇賞・秋、あの冒頭にあげた悲劇が。結果としては非常に残念だが、その天皇賞でも見事な逃げっぷりだった。自らの命をも絶ったそのひたむきさが、彼の個性として滲み出て、それが私たちの心に残っているのではないのだろうか。彼の死から1年以上たった今では、そのように思える。

トウカイテイオー 父・シンボリルドルフ
母・トウカイナチュラル
[戦績]皐月賞・日本ダービー・ジャパンカップ・有馬記念1988産

 日本競馬史で最も強い馬は何か、と聞かれたら私はトウカイテイオーだと答えるだろう。父シンボリルドルフも強かったが、好調時のテイオーは全盛期のルドルフよりも強かったと思う。安定ぶりを見せた父に対して脆さが目立ちガラスの馬とも言われたが、反面好調時はこの世の馬とは思えない位の凄まじさであった。

 無敗のダービー制覇で父に続く三冠馬かと思われたが無念の骨折で菊花賞を断念。復活した後のJC制覇で世界の頂点に立つ。その後有馬記念で惨敗、骨折するが、その一年後の有馬記念で自分を見捨てた岡部騎乗のビワハヤヒデを追い込んでの劇的な勝利。あれには驚ろかされた。まさか一年ぶりの鉄砲で有馬記念を勝ってしまうのだから。やはり、ただものではない。そして「ドラマ性」は父を確実に越えているといっても過言ではないだろう。

サクラローレル 父・レインボークエスト
母・ローラローラ
[戦績]天皇賞(春)・有馬記念1991産

 三冠馬ナリタブライアンと同期の彼の馬生はまさに怪我との戦いであった。 

 4歳春の青葉賞3着でダービーの出走権を得たものの球節炎のため断念。秋の菊花賞にも間に合わずクラシックの舞台にたつことはついにできなかった。

 その後条件戦から金杯まで3連勝するが目黒記念で今度は骨折。一年間休養を余儀なくされた

 そして平成8年。この年一番の名勝負はG1ではなく3月の阪神大賞典でのナリタブライアン、マヤノトップガンの両年度代表馬による一騎打ちであろう。そのレースがスポーツ紙の一面を飾っていたその次の日に中山競馬場では中山記念が行われていた。主戦小島太が引退し、サクラ軍団の新主戦で当時のリーディングジョッキーである横山典弘を背に、ローレルは13ヶ月ぶりにターフに姿を現した。ファンの評価は9番人気と低い。しかし、彼なら休養明けでもやれる筈だと信じた私は彼から流して馬券を買う。そしてみごとに直線一気を決めた。

 その後の春の天皇賞は阪神大賞典の見事な戦いぶりがファンの記憶に焼き付いていたため、ブライアンとトップガンで人気を二分していた。ローレルは三番人気であるもののその二頭に差を付けられていた。そして、レースはブライアンが勝利、、、と思いきや大外から彼はもの凄い脚でやってきた。そして悲願のG1制覇。クラシックでライバルとなる筈だった三冠馬ブライアンを敗っての悲願達成である。

 その後秋の天皇賞では三着だったものの有馬記念を征して年度代表馬の座に輝く。こうなると夢は海の向こうである。世界最高峰のレース凱旋門賞に向けてのプランがくまれる。そしてフランスへ。しかし、ステップレースであるフォワ賞で、ロンシャンの固い馬場が災いしてか屈腱炎を発症。凱旋門の夢は夢のまま終わることになった。

ラガーレグルス 父・サクラチトセオー
母・レインボーパーク
[戦績]ラジオたんぱ賞3歳S1997産

 この馬は2歳時から活躍し、あの香港での活躍でお馴染みのエイシンプレストンが勝った朝日杯にも出走した。しかし、その朝日杯は2番人気ながら落鉄し、7着に敗れる。

 名誉挽回とばかりに挑んだラジオたんぱ杯。ここでは見事な追い込みを決めて勝利をあげた。クラシック戦線ではGIの朝日杯を勝った馬よりもG3のラジオたんぱ杯を勝った馬の方が活躍すると言われている。「これは来年のクラシックで期待できるぞ」そう思った人も多いだろう。

 そして年が明けて最初に出てきたのが共同通信杯。ここでも2番人気の支持を集めるが、見事に出遅れ。歴史に残るかも知れないぐらいの大出遅れ。勝負にならず7着に敗退。しかし、この出遅れは大いなる序章に過ぎなかった。

 弥生賞は何とか3着になり、皐月賞への権利は得た(といっても賞金的に十分足りていたのだが)。そして皐月賞。蹄鉄を落とした朝日杯と同じ中山競馬場。3番人気の支持。ゲートが開いて各馬一斉にスタート・・・したと思ったのだが1頭ゲートを出ていない馬がいた。それがラガーレグルスだった。なんと、ゲートが開く瞬間にゲート内で暴れて騎手佐藤哲三を振り落としたのだ。ゲートを出ずに終了。今度は蹄鉄ではなく佐藤哲をスタート直後に落としてしまった、落鉄ではなく落哲である。

 93年ダービーのマルチマックス(これはウイニングチケットのダービーなので私は何度もDISK BOXで見ているのだ)、97年マイルCSのタイキフォーチュン、02年菊花賞のノーリーズンとゲートを出た直後に落馬した馬は結構いるが、GIでゲートを出る前に落馬というのはなかなかできるものではない。

 当然ゲート再審査。ゲート再審査は東京競馬場で行なわれた。残念ながら不合格。私はこれを見るために東京競馬場まで駆けつけたのだ(その時の観戦記はこちらを参照)。これを見たあとは用事があったので東京競馬場を後にした。かの有名なシルバーコレクターステイゴールドが阿寒湖特別以来3年ぶりの勝利をあげた歴史的なレースがあったらしいが、それは見ずにラガーレグルスを見ただけで競馬場を後にしたのであった。

 その後残念なことにラガーレグルスは屈腱炎を発生し、2度と競馬場に姿を現すことはなかった。

 結局能力はありながらG3を1勝しただけの馬に終わってしまったが、その破天荒なキャラクターは一生記憶に残るであろう。

ヨイドレテンシ 父・エルセニョール
母・ファイントゥグロー
[戦績]中山グランドジャンプ3着(現役)1994産

 珍名馬フリークらしく、たまには好きな珍名馬も載せてみよう。というわけで私の好きな珍名馬の代表格が、このヨイドレテンシである。

 この障害馬のどこが好きなのかというと、その「気まぐれさ」である。名前通り気まぐれな馬である。障害でオープン入りして以降成績がパッとしない。しかし、障害レースグレード制導入元年のJ・GI中山グランドジャンプで見事に3着と健闘した。人気にもなっていなければ話題にもなっていない。そんな中でGI3着と健闘した。

 その後は成績が冴えず、落馬もしたが、次の年の阪神SJ(GII)で忘れたころに3着。しかもその時に乗っていた騎手が井浩騎手という語呂のいい騎手であった。

 その後、私はこの馬が出てくるたびに複勝を買い続けるがことごとく来ない。暮れの中山大障害では障害を1つも飛ばずに落馬。

 そして次の年の牛若丸JS。「京都では4戦すべて着外。コース適性がないだろう」と思い、馬券対象から外したら今度は2着。いつまでたっても意外なところで活躍する馬である。オープン勝ちはないが、忘れたころにいきなり好走する、彼はまさに「酔いどれ天使」というその名にふさわしい。

ちなみに←の映画は競走馬とは関係ありません(と思います)。
おそらく馬名の由来ではありますが。


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