「96年お笑い界に異変起こる」之巻

 1996年お笑い界に衝撃的な出来事が起こる。まず、お笑い馬の活躍の舞台として名高い高松宮杯が、なんと実力馬の舞台G1に生まれ変わる(しかも距離は6ハロンのスプリントに)。しかし、お笑い界が受けた打撃はそれだけではなかった。

 この年、お笑い界の大御所とも御三家とも呼ばれていたマチカネタンホイザ、ツインターボ、ナイスネイチャ(別項参照)が相次いで引退。御三家の一角を伺うのではとの期待がもたれていたロイスアンドロイス氏も腸捻転のため急逝。スター不在となってしまった。

 このような悪いニュースばかりでお笑い関係者はみな気を揉む。日本競馬のお笑いの伝統の火を消さないためには、次世代を担う若手のホープがどうしても必要である。関係者が右往左往した結果、偉大な素質を秘めたダイヤモンドの原石とも言える一頭の新馬がいた。

 その名はサイレンススズカ。父親はアメリカの大物俳優サンデーサイレンス。「お笑いをやらせるには父親が偉大過ぎるのでは。」という声も上がったが、「これからは偉大な俳優の息子ほど、お笑いで活躍できる時代だ。タンホイザを見て見ろ。彼の父はカナダ生まれの大物俳優ノーザンテーストではないか。」とのことで、スズカに白羽の矢が立つこととなった。



この年引退したお笑い界大御所たち
マチカネタンホイザ
 関西お笑い界最大手のマチカネ新喜劇の棟梁的存在。芸名で笑いを取るマチカネの芸人にしては珍しくクラシック音楽から取ったまともな芸名を名乗り、マチカネシンフォニとの漫才コンビ「クラシックブラザーズ」でデビュー。漫才は不発に終わったが、コンビ解消後ソロで活躍し、一躍お笑い界の第一人者となった。

 彼の持ちネタは「直前出走取り消し」と「常に生涯最高の出来」である。94年にはジャパンカップでは本馬場入場後突然鼻血ブー。世界の強豪相手に日本のお笑いのレベルの高さを見せつけた。そして、一ヶ月後の有馬記念に登録し、これまた蕁麻疹で出走取り消し。彼を応援して馬券を勝ったファンの「有馬の馬券で払い戻しに並びたい」という夢を見事に叶えた。まさに体を張ったギャグである。

 また、彼はレースのたびに「生涯最高の出来」で挑み、強いんだか弱いんだかよくわからないレースを演じたのは記憶に新しい。

ツインターボ
 彼はこだわりを大事にする職人肌の芸人である。「気違い的逃げ」と「長距離」にこだわり、それを押し通す。

 スタートしてまず先頭に立ち、競りかける馬の有無に関係なく力の限り逃げる逃げる。そのスピードは天下逸品。二つあるターボエンジンを前半後半の2回にわけて使えばいいのにと思うが、そんなまともな芸じゃ観客に受けない。常に二つのターボを同時に使う。テレビに写るたびに観客の声援を浴びる。そして、4角ではお約束のように燃料切れで歩き出す。

 そんなにスピードがあるのなら短距離に出ればいいのじゃないかと思ってしまうのだが、短距離でそれをやっても受けない、というのが彼の主張。一度も出演したことはない。

 そんな彼も一度、ライバル、タンホイザ(上項参照)の十八番である鼻血ブーをやってのけたことがある。

 晩年は中央の舞台を退き、上山温泉の温泉客相手にいぶし銀のお家芸を披露していた。なかなか評判が良かったらしい。

ナイスネイチャ
 愛嬌のあるルックスとはうらはらに、頑丈さを売りにしていた芸人である。松永昌博との人気漫才コンビ「ブロンズコレクター」として活躍した。マイルCS3着から春の天皇賞4着と様々な舞台で活躍したオールラウンドプレイヤーである。

 しかし、彼にとっての最高の舞台はやはり有馬記念だろう。あっと驚くダイユウサク、パーマーの大逃げ、テイオーの劇的な復活という主役達をもり立て3年連続有馬記念3着。そして5年連続出走という偉大な記録を打ち立てた。

 晩年は中京や小倉の地方巡業で、斤量63キロという新たな芸で沸かしつつ6年連続有馬出場を目指してたが、惜しまれつつも引退することになる。G1連対ゼロにも関わらず歴代獲得賞金10傑入り(引退時現在)していたところが、味を出している。

 同じく頑丈さを売りにしていた鉄人衣笠選手(元広島東洋カープ)の「丈夫で長持ち、僕はアートです」のセリフでお馴染みのア○トネイチャーのCMにも衣笠選手の後がまとして出演した。「丈夫でイマイチ、僕はナイスです。」


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