「ただいま……っとと」
左腕でバケットの入った大きな紙袋を抱え、右手にも大きな買い物袋を提げたせつなは、居間に入ってきた途端に重みで少しよろけた。
「ちょっと、大丈夫?」
ソファで音楽雑誌を読んでいたみちるはその有様につい吹き出し、雑誌をテーブルに置いてどちらか持とうと立ち上がった。
「ううん平気……それよりみちる、手紙よ。あなたに」
言って、せつなは袋を持ったまま左手の人差し指と中指に挟んだベージュ色の封筒をヒラヒラしてみせた。
礼を言って受け取った少し厚みのある封筒を裏返し、そこに記された名前を見て、思わずみちるの口許に笑みが浮かんだ。
ソファに戻り、テーブルに置いてあったペーパーナイフを使って封筒を開けると、中に入っていたのは便せんに書かれた短い手紙と、幾枚かの写真。
「なあに、友達?」
荷物を置いて戻ってきたせつなに、みちるは写真を渡した。
「ええ。――これ、誰だか分かる?」
受け取った写真に写っていたのは、褐色の肌と快活そうな瞳をした一人の女性だった。こちらに向けて満面の笑みを浮かべ、大きくピースをしている。
その顔にどこか見覚えがある気がして、せつなは心の中で首をかしげた。
写真を何枚か繰っていくうち、ある一枚で手が止まった。
そこは観客で満員のスタンドを遠く臨む競技場。ジャージを羽織ったランニング姿のその女性が首から提げ、手に誇らしげに掲げられているのは、光り輝く大きな金色のメダル。
「この人、こないだの陸上の――」
「そう。エルザ・グレイ。百メートルの金メダリスト」
驚いて声を詰まらせるせつなに、みちるは微笑みながら応えた。
「みちる、知り合いなの?」
「ええ、中学の時にね。彼女お父様のお仕事の関係で日本に来ていて、同じ学校だったの。
あの頃の私の数少ない……というより、ほとんど唯一の友達ね」
何気なくつぶやく彼女を、せつなはちょっと見やった。
バイオリンと絵画の天才少女として幼い頃よりもてはやされ、しかしその裏では人知れずセーラー戦士としての記憶に翻弄され、パートナーであるウラヌス――はるかとも、そしてせつなともまだ巡り会えず、正体も知れぬ敵と一人戦っていた、その頃のみちる。
「ほんと昔から物怖じしない子でね、クラスで浮いてた私にも話しかけきたりして。
中学の頃もずっと陸上やってたんだけど……そう、私がはるかと初めて話したのも、実はエルザを通してだったの。はるかもまだそのころ陸上やってたから」
初めて聞く話にへぇ、とせつなはちょっと驚く。
「はるかったら、絵のモデルになってって頼んだのに『そういうの、好きじゃないんだ』なんて言われちゃったわ」
「まぁ」
肩をすくめるみちるを見て、はるからしいわね、とせつなは思わず笑ってしまった。
「んもう、当時は結構ショックだったのよ。
……まぁ、そのころははるかもまだ覚醒してなかったんだけど」
「でも結局はちゃんと、一緒に戦うようになったって訳ね」
「ええそう」
応えてみちるはふと目を伏せ、手許に残っているエルザからの手紙を見つめた。
さっきの写真やテレビなどで見るとずいぶんと大人びていたようだったが、元気?金メダル取ったよー!などというその文面からは、大舞台で栄冠を掴んだ陸上の女王ではなく自分の記憶の中の中学生な彼女を思い起こさせた。
いつも元気で無邪気で、何だかんだとみちるに話し掛けてきたり遊びにやら競技大会に誘ってくれたり(そこではるかと初めて会ったのだ)と、今にして思うと随分と気遣ってくれていたのだと思わされる。
けれどあの頃の自分の中にあったのは、近づく破滅の影への恐怖とまだ見ぬ仲間を捜し求めることばかりだった。
エルザの思いをいかにみちるが知らずにいたか、今も変わらぬ心遣いを示すその手紙に気付かされたように思った。
今にしてみれば、それも仕方の無いことだったのかもしれない。けれど。
「……エルザには、ちょっと悪いことしちゃったかなって思うけど。はるかと逢うために利用した感じになっちゃったし」
不意に口をついて出た言葉に、せつなはちょっとみちるを見やり、やがてこう応えた。
「彼女も分かってくれてるわよ。こうして今でも手紙をくれるくらいですもの」
そうかしらね、とつぶやくみちるに、せつなはそうよ、と静かに微笑んでうなづいてみせた。
「そうそう、ケーキ買ってきたの。二人が帰ってくる前にお先にいただいちゃいましょ」
みちるに写真を返しながら、せつなが言った。
じゃあ紅茶入れるわね、と写真と手紙とをテーブルに置いてみちるも立ち上がり、せつなと共にキッチンに向かった。
「みちる、エルザさんにお返事書くなら、あとで四人で写真撮って一緒に送りましょ」
何だか年賀状の家族写真みたいじゃない、と苦笑するみちるに、だからいいんじゃない、とせつなは言う。
「こちらも楽しくやってるわよってちゃんと知らせてあげるのが、エルザさんにとってもいちばん嬉しいことだと思うわよ」
食器棚から皿とフォークを取り出しながら、せつなは何気なく言う。
ティーポットに茶葉を入れていたみちるの手が、一瞬止まった。
「……そう、かもね」
二つのティーカップにお湯を入れて暖めながら、みちるはつぶやく。
そうして、ふと思いだした。
あの時描いたはるかの絵が入ったスケッチブックは、今も大事に取ってある。それがみちるが初めて描いたはるかだったから。
でもせつなの絵を描いたことは、まだ無かった。
あの時エルザにできなかったことをせつなに返すわけじゃないけど、と心の中でつぶやきながら、壁に掛けられたカレンダーの日付を見つめ、みちるは小さく頷く。
今なら何とか、二十九日に間に合いそうだ。
そういえば絵筆を執るのはしばらく振りだ。そう思うだけで、何となく心が浮き立つ。
どんな絵にしようか。まだ考えはまとまってない。
けれど一つだけ決まっている。
穏やかで、時として不意にお茶目に輝き、けれども奥底には常に思慮深さをたたえている、その眼差し。
気がつくと、あるいは気づかぬ所でも、みちる達を見守っていてくれているせつなの眼差しは、きちんと描きたい。
はるかと出会えたことだけが幸せじゃないんだなぁと、不意にそんなことを思う。
その思いを込めて、彼女への贈り物を描こう。
愛しき、悪友へ。
(終)
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