―以上の考えが「万国共通の言葉」として現れたのが
CD「ロクリアン正岡作品集」であります。
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お知らせ:今年2017年2月1日の作品発表についての情報と説明 |
20170201日本現代音楽協会主催アンデパンダン展第一夜のチラシ |
いつもながら、芸術に本格的なものを望まれる方々には打ってつけの内容になっておりますが、その一方、いささか軽いお客様、つまり、魅力とか可愛らしさを好まれる方々にも楽しんでいただける工夫も致しております。力量ある6人の方々の協力を得て、ロクリアンM得意の合わせ技により多面性、多義性迸る音場が現出されることを目指します。 ―会場でお会いできることを楽しみにしつつ 2015.7.7ロクリアン正岡
![]() 「様々な音の風景」 ●10月12日(月・祝日)16時半開演 会場:すみだトリフォニー小ホール (錦糸町駅より徒歩5分) 日本音楽舞踊会議主催のコンサート「様々な音の風景」にて同編成の私の作品とともに初演されます。演奏者はクラリネットが内山厚志、ヴィオラが渡邊田鶴野(たづの)のお二人。作品は組曲「泣きたい女性のための二重奏曲」 PS音源ですが、動画アップしております (ユーチューブ、ニコニコ動画とも) |
![]() 「アンデパンダン展」 ●11月08日水曜日 18時半開演 会場:オペラシティリサイタルホール (京王新線初台駅よりすぐ) 日本現代音楽協会主催、アンデパンダン展第一夜にて念仏楽曲「時を貫く“南無阿弥陀仏”」 初演 演奏、バス歌手:松井永太郎、クラリネット:内山厚志、ファゴット:塚原里江、チェロ:松井洋之、マリンバ:會田瑞樹、 指揮:齋藤純一郎 |
・2014年12月29日 動画アップロードしたばかの正岡泰千代時代のカンバス・ミュージックの詳細
私(当時の正岡泰千代)が1990年ごろからの数年間作曲しコンサートも開いてきたカンバス・ミュージック(C.M)、そしてカンバス・コンサート(C.C)にご出演いただいた方々、スタッフの方々、お客様方に感謝しつつ― 2014年末、カンバス・ミュージック、カンバス・コンサート時代の古い作品動画を数多くネットに掲げることにした理由。 現在の私は過去からの自分に支えられつつ発展の過程にある、という思いはあるが、その時々の仕事の特性、作品の個性を考えれば、優れた意味で「作曲の一回性」ということを認めないわけにはゆかない。同じ自分ではあっても、その時々の生々しい生に支えられた志向や執着という奴が効いているのだ。 1990年頃からしばらく、私は絵画との愛に埋没した。 原画をあるいは絵葉書を画家から借りて来ては食い入るように見つめつつ、シーケンサーに音を打ち込んで行った。その対象には、かの まず、作品を提供しコンサートにもご参加された画家の名前を列記させていただく。 幸いなことに皆さんご健在で活躍されている由。 桐弘史郎、、多田夏雄、寺久保文宣、木俣創志、寺井浩一、田口安男、園部雄作 以下、最後の私自身の文章にしても、今の私からすれば若書きの観は否めないが、それでもカンバス・ミュージック(C.M)の魂がそのまま露出しているからこそ、そのまま掲げることにした。 次の文章は第4回目のカンバス・コンサートにみえられた、文学者、故宇佐美英治氏のものである。(「音楽現代」誌より) (前略)その催し「絵画と音楽の結婚・・・・・・二つのカンバスの合体を求めて」というもので、正岡氏がかねてそれぞれの絵に即してシンセサイザーで作曲した六点の絵が会場に持ち込まれ、曲ごとに対象となったその絵が奥の壁に掛けられる。室内を埋めた聴衆は照明を当てられたその絵を凝視しながら、シンセサイザーによる氏の曲と指定に従ったフルート、13弦、ピアノなどの即興演奏を聴くというわけである。フルートは野口龍氏、箏は田中美香さん、ピアノは作曲家自身が弾いた。 以下は「音楽の世界」誌に掲載されたもので 「カンバス・コンサートNo.14 音楽・絵画・舞踊・対話劇―新たなる芸術・神話の模索」 の紹介文章である。 当日の講演者:武藤三千夫氏 (美学 東京芸術大学) それは音楽ではない、また絵画でも舞踏でもない、ましてや哲学ではない何かである。 あえて言えば、それは「引用」であろう。次にこの「私が」、この引用についての引用を試みる。「私の仕事に現われる引用は、武装して不意に飛び出し、のらくら歩いている者からその確信をふんだくる追剥みたいなものである。」:「比類なき髑髏の言葉。まったき無表情を―その眼窩の漆黒を―、かれはこの上なく荒々しい表情と調和させる―剥出しの歯並びと。」:「注釈や翻訳は、様式やミーメーシス(模倣)が自然に対するのと同じように、テキストに対して振舞う。すなわちそれらは、様々に異なる観察の仕方の下での同一現象である。聖なるテキストの樹では、両者は永遠にざわめく木の葉であり、世俗のテキストの樹の場合には、時宜に語って落ちる果実である。(W・ベンヤミン『一方通路1928』より)かくしてムーサイもアポロンもその目を疑うであろう。 主宰者:正岡泰千代のもの (前略) それは声楽曲を除く西洋近代以降の芸術音楽が音の外観、内容ともに実体感が希薄で、純粋と言ってもよいほどに抽象的な在り方をしていることから来るのであろう。しかし又、その音楽の末裔たる現代音楽が周知のとおり内的に疲弊し外的に衰退したのは、自らの抽象性、純粋性の中に安住したからではなかろうか。実際のところ、この現代音楽に本気で憧れる画家や作家がどこにいるか。それなのに一流の作曲家は大方、今だに抽象的構造物作りに勤しみ、残るは過去的な音や俗っぽい響きを立てたり、はたまた自然音を駆使するというように、妄りに感情的ないし感覚的な音作りに手を汚している始末である。 そのような当世にあり、音楽が再び全芸術の確たる位置を取り戻し、皆が憧れざるを得ぬようにする為にはどうしたらよいか。私に妙案がある。音楽が他を愛するという事、即ち、他を受容し抽象する能力を発揮するという事、これに尽きよう。ストラヴィンスキーの言葉「音楽は音楽。音楽は何物の意味しない」というのが大間違いなのである(なんという精神の貧困、そして衰退ぶり化。彼の責任は重いと言わねばならぬ)。 音楽のナルシシズムは思い上がった「悪女」を育てるだけだ(例「小保方晴子」後のロクリアン正岡による)。「女性」の特性は子を産むにあり!それと同様、音楽の最大の特性はその表象能力にあり!本来、音楽は何かについてのものであるべきなのである。そのためには音楽はまず「子」を孕まねばならない。そして、その「子」にあたるものこそ、今、我が家に借り |