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Humble Monthly Voice “はんぶる”
終わりよければ ~グッドオール伝~   山崎浩太郎 1995

第1章 ブンチャッチャ時代
*今月のCD
1)SIR GEORGE THARBEN-BALL (ヘンデル;オルガン協奏曲第9番他):ラフ(B-S)他、サルベン=ボール(org)/テンプル教会cho.他(1927~48 ロンドン)
  [英EMI CDH7638272]
2)THE RISE OF FASCISM ――ファシズムの勃興――:ヒトラー、ムッソリーニ、ヒュッシュ他、(1926~40)
  [英オパール CD 9849 ]
  ・演説や党歌などの録音を集めた、ドキュメントCD。

・今回のグッドオール伝は、以下の伝記に拠って書いた。空が落ちてきても、大地が張り裂けても邦訳の出版などないと思うので、機会があればご一読をおすすめする。平易な英語なので読みやすい。
 書名/REGGIE:THE LIFE OF REGINARD GOODALL 著者/JOHN LUCAS
 出版社/JULIA MACRAE BOOKS 1993 ISBN 1-85681-051-8

・前口上
 突然で恐縮だが、今月から三回ほど〈ウィーン/六〇〉をお休みさせていただきたい。
 その代わりに、イギリス最高のワーグナー指揮者、サー・レジナルド・グッドオール(一九〇一~九〇)の生涯を書きたいと思う。
 彼がデッカに録音した《トリスタン》が、LPの発売後十四年を経て、ようやくCD化された。日本では全く無名の指揮者と歌手の録音にも関わらず、売れ行きは上々だという。
 LP時代から彼の大ファンである私にとっては、非常に嬉しい話である。なにしろ以前はグッドオール、と名前を出しただけで、ああ、あの英語で《指環》を録音した人ね、とバカにしたような薄笑いをされるだけだったのだから。
 だがその《指環》は、英語だろうと何だろうと、いい加減に聴いて鼻で笑えるような代物ではない。例えば、こんな逸話はどうだろう。
 カルロス・クライバーが八七年、コヴェントガーデンで《オテロ》を指揮するためにロンドンにやってきたとき、彼が劇場について最初にしたことは、グッドオールの居所を教えてもらうことだった。
 そしてグッドオールを訪ねたクライバーは、自分があの《指環》を繰り返し聴いていること、その演奏をどれほど愛しているかを、情熱的に語っていったという。

 もちろん、クライバーなぞ関係ない、無名のイギリス人の演奏などよいはずがない、という人もいるだろう。既成概念の中に安住したいのなら、それはそれで結構である。
 だが虚心に聴いてみた人は、この指揮者が尋常ならざる才能の持ち主であることを、知ったはずだ。その人たちのために、グッドオールとは何者なのか、どんな生涯であったのかを、これから紹介していきたい。なにしろ彼について日本語で書かれた資料はほとんどないから、そのあたりのことをお知りになりたい方も少なくないと思うからである。
 幸い、彼の生涯については、イギリスの評論家ジョン・ルーカスが、詳細な伝記を書いてくれている。本当はそれを翻訳してしまえばよいのだが、それはいつかの機会にゆずることにして、ここではそこに書かれたエピソードや談話を引用させてもらいながら、実際の録音とからめて話をすすめていきたい。
 彼の生涯は、その演奏の巨大なスケールに負けないくらいに、面白い。
 カルロス・クライバーだけでなく、クナッパーツブッシュ、エーリヒ・クライバー、そしてクレンペラーが高く評価した指揮者の、波瀾万丈の物語を、さあ、始めよう。

・教会から演奏会へ
 レジナルド・グッドオールの名が一躍知られたのは、一九六八年にロンドンのサドラーズ・ウェルズ・オペラで《マイスタージンガー》を指揮して、大評判をとったときのことである。
 この成功が六九年から年一作ずつの《指環》連続公演につながり、さらに七三年から七七年にかけてのEMIによる全曲のライヴ録音に発展していくことになる。
 彼がその実力にふさわしい名声を得たのは、つまりはこの六八年から死ぬ九〇年までの、二十年ばかりに過ぎない。年齢でいえば六七才から八八才までの、最晩年のことである。
 一体それまで彼は、何をしていたのか。

 グッドオールが生まれたのは、一九〇一年七月十三日である。場所はロンドンの北二百キロ、イギリス中部のリンカーン市だった。
 リンカーンは人口十万に満たない小さな市だが、ローマ帝国時代からの歴史を持ち、司教のいる壮大な教会が建っている。
 この教会の少年合唱団で、グッドオールは八才で歌いはじめた。ところがこの教会のオルガニスト兼合唱指揮者の、ジョージ・ベネットなる人物が大のワーグナー好きだったことが、彼の生涯に決定的な影響を及ぼすことになった。
 英国の地方都市には歌劇場などないので、ベネットはオルガン編曲でワーグナーを弾き、さらにロンドンから歌手とオーケストラを呼び、地元の合唱団と共演させて楽劇の抜粋を演奏したりした。彼の存在でリンカーンは、英国一ワーグナーのさかんな都市になったという。

 グッドオールはそのベネットによって音楽の初期教育を受けたが、十三才でリンカーンを離れることになる。
 市の事務をしていた父が公文書偽造の罪で投獄され、住みづらくなった母がグッドオールたちを連れ、親類を頼って米国マサチューセッツ州のスプリングフィールドに移住してしまったからである。
 しかしアメリカの水は、少年グッドオールには合わなかったらしい。唯一の楽しみは音楽で、ストコフスキー指揮のフィラデルフィア管弦楽団が、特にお気に入りだった。その響きはラブリーだったよと、後年彼は語っている。
 やがて成人した彼はカナダの教会でオルガニストとして働き、二四才になると単身英国に帰った。ロンドンの王室音楽アカデミーでピアノとオルガンを学ぶためである。
 結局アカデミーは学費滞納で退校してしまうが、紆余曲折のあげく指揮科に二度入学しなおし、マルコム・サージェントに指揮を学んでいる。同じクラスには、チャールズ・グローヴスなどがいた。
 派手な指揮ぶりとダンディな容姿で知られた〈フラッシュ・ハリー〉ことサージェントと、グッドオールの音楽は全然違うように思えるが、そのとおりグッドオールはこの先生をあまり尊敬しなかったようで、結局彼の指揮法は、ほとんど独学のものだったという。
 その独特の指揮が、あの明快でうねるような響きを生むのだが、しかしその分かりにくさのために、彼のキャリアの大きな障害にもなるのである。

 学資を稼ぐために始めた、同市の聖オールバン教会のオルガニスト兼少年合唱団指揮者の仕事が、彼の指揮者稼業のスタートになった。
 少年たちとの練習は厳しいものだった。
 普段は内気で照れ屋で、子供たちに対してさえ人見知りをする男が、いったん練習にはいると怒鳴り散らし、定規や楽譜を放り投げた。まるで狂人のようだったが、団員たちからは慕われたという。
 グッドオールは合唱団だけでなく、オーケストラを教会に招き、ブルックナーのミサ曲や他の宗教曲の英初演を行なったりした。また、十二音音楽も好きだった彼は、十二才下の新進作曲家ベンジャミン・ブリテンと知りあい、その合唱曲なども取り上げている。

 当時のグッドオールの録音は残っていないが、彼の知り合いで、同時期にロンドンのテンプル教会の指揮者だった、ジョージ・サルベン=ボールの録音を聴いてみると、英国の教会合唱団の雰囲気をうかがうことができる。
 このころは変声期が現在よりも遅かったこともあり、少年合唱は高い水準に到達することができた。
 なかでも、サルベン=ボールのテンプル教会合唱団は、アーネスト・ラフという不世出の名ボーイ・ソプラノがいたことで有名で、二七年に十六才の彼が録音した、メンデルスゾーンの《我が祈りを聴きたまえ》は、その切ないまでに一途な絶唱で大ベストセラーになった。
 八〇年代に活躍したアレッド・ジョーンズというボーイ・ソプラノをご記憶の方もいられるだろうが、彼などは明らかに、ラフの現代版を目指した存在だったのである。
 ラフのCDにはパールと英EMIの二種があるが、後者には他にサルベン=ボールのオルガンによる《ワルキューレの騎行》なども入っていて、グッドオールの師のベネットにも通じる、英国の教会音楽家の在り方が示されている。
 宗教音楽に加え世俗音楽の演奏家としても、彼らが英国の音楽生活に果たしていた役割は大きかった。
 それゆえに、才能のある音楽家が教会から演奏会へと活動の場を移していくことも、珍しくなかったのである。たとえばストコフスキーもイギリスの教会のオルガニスト出身で、そこから交響楽団の指揮者に転じている。
 グッドオールもまた、オペラや演奏会の指揮者になりたいと、考えていくことになる。

・君よ知るや南の国
 教会での活動と同時に、彼は歌曲伴奏の仕事もしていた。二九年から三五年には、ウォーリッチなるドイツ系バリトン歌手の独墺演奏旅行に、毎夏随行している。
 そのお陰で、ミュンヘンではクナッパーツブッシュ、ウィーンではシャルク、ザルツブルク音楽祭ではクラウスなど、ドイツの名指揮者たちのオペラ公演を聴くことができた。ブルックナーの教会音楽を知ったのも、この旅行の途中であった。
 憧れの聖地、バイロイトに行く機会はなかったようだが、それでも彼には充分だった。
 ワーグナーや偉大な作曲家たち、そして指揮者たちを生んだ風土。音楽をよく理解した聴衆の存在など、素晴らしい演奏環境。ドイツは彼にとって、夢のような音楽の国だった。
 ロンドンを訪れた彼らの演奏も、欠かさずに聴いた。とりわけ強い印象を与えられたのはフルトヴェングラーで、二八年以来何度も聴き、特に三四年の演奏会では、彼の人生の進路を決定づけるほどの感銘を受けた。
「フルトヴェングラーが、ベルリン・フィルとブルックナーの交響曲第七番を演奏したときのシンバルの響きを、私は忘れない。まるで、星のシャワーのようだった」
 ひるがえって自国のことを考えてみると、不満なことばかりだった。ロンドンすら、ビーチャムをただ一人の例外として、その音楽水準の低さは目を覆うばかりに思えた。

 三六年、彼は教会の上司と衝突して聖オールバン教会を辞めた。そこでドイツに渡り、一介のコレペティとして歌劇場で修行しようと考えたが、四年前に結婚した夫人エレノアの強硬な反対にあって、断念せざるをえなかった。
 なぜ彼がそんなことを考えたかというと、ロンドンには、独墺のそれのようにきちんと運営されている歌劇場は、一つもないからである。
 コヴェントガーデンは〈貸し小屋〉のようなもので、ビーチャムやその他何人かの興行師たちが交互に、短期間の場当たり的な興行を行なっているだけだった。
 三六年末のビーチャムの一ヶ月の興行に、彼も副指揮者として雇われたことがある。
 それらの公演では、すべてをビーチャムが指揮するわけではなく、他の指揮者も出演する。その中でも、《サロメ》を指揮してロンドンにデビューしたあるドイツ人指揮者は、グッドオールに特別の印象を残すことになった。

 その男は、彼を迎える拍手が鳴り止まないうちに演奏を始めたがった。それだけならよいのだが、拍手の中で彼が指示を出して、曲頭のクラリネットが響くと同時に、幕がサッと開くことを要求したのである。
 微妙なタイミングが難しいので、副指揮者のグッドオールが隙間からのぞき、その指揮者の異様に大きな右手が動きだすと同時に、舞台係に合図を送ることにした。
「それはまるで、神のためにやっているようだった」と、グッドオールは回想している。
 その男とは、クナッパーツブッシュである。彼も、グッドオールの偶像のひとりになった。

 しかしそのクナとて、公演が終わればドイツに帰ってしまう。
 あとは退屈な日々が続くだけである。
 薄給の上に将来性もなさそうなので、コヴェントガーデンの副指揮は一シーズンで断った。その後はロンドンの劇場街、ウエストエンドで劇音楽の指揮をしたりなどしたが、単発的な仕事ばかりで次が続かなかった。
 定期的な仕事は、サージェントのアシスタントとして王室合唱協会の下稽古をつけたり、アマチュア合唱団を指導するくらいだった。
 そうした現状への不満から、彼にはドイツという国がますます理想郷のように思えてきた。イギリスが同じような国になるなら、自分の状況もよくなるのではないか。あの国と同じ政治体制になれば、よいのではないか。

 我々日本人にも、大戦前はドイツ、戦後はアメリカ、あるいはソ連や中国が、理想の国であると思い込んだ人が少なくなかった。
 だからグッドオールの心情も理解できないではないのだが、問題は彼の時代であった。彼が理想視したドイツは、ヒトラーとナチス党の独裁下にあったのである。
 彼自身は、ナチズムの意味など分かっていなかったらしい。彼の友人は、もしドイツが共産主義だったら、彼は共産主義者になったろうと言っている。
 あのドイツ人たちが選択した体制なら、必ず優れているに決まっていると、彼は信じた。
――自分に仕事がないのも、ユダヤ人が独占しているからじゃないのか。
 まるで日本の旧制高校の学生や、士官学校出の少壮参謀のような無邪気なドイツ志向が、自分自身の不遇と結びついて、過激な思い込みへと飛躍してしまった。
 三九年、グッドオールは英国ファシスト党に入党した。第二次世界大戦の始まった直後のことである。
 この党はムッソリーニのイタリア・ファシスト党の真似をして結成されたものだが、時世の流れでヒトラーとの接近を強めていた。英オパールの《ファシズムの勃興》というCDに、ナチス党党歌《ホルスト・ヴェッセルの歌》を、彼らが英語で歌ったものが入っている。
 他国の党歌を歌って、レコードにして喜んだりしているあたり、あまり高級な連中とは、私には思えないのだが……。

・四一才の新兵
 結局、彼の入党から一年とたたない四〇年七月、ドイツ軍がフランスに侵攻したあと、英国ファシスト党党首のサー・オズワルド・モズレイは拘禁されてしまう。
 党の活動も禁止されてしまい、やがてドイツ空軍によるロンドン空襲が始まったが、グッドオールのドイツびいきは変わらなかった。
 三九年の暮れから、彼はボーンマスに新設されたウェセックス・フィルの常任指揮者になることができたが、移動のバスの中でドイツ楽壇の優秀さを力説したりするこの男を、楽員の多くはドイツシンパの狂人だと思っていた。
 この楽団は、戦争のためにボーンマス市立管弦楽団が規模縮小したあと、馘首された楽員が集まって結成したものである。
 多いときでも五十人以下の小さな団体だったが、グッドオールは四三年春までの三シーズンの間に、バッハからブリテンに至る広範な作品を指揮することができた。彼の生涯で、交響楽団と恒常的な関係を持った唯一の時期である。
 しかしもっと大衆的な演目を求める楽員にグッドオールは失望し、結局辞任してしまう。ロンドン・フィルを指揮する機会も得たが、一度きりで終わってしまった。
 グッドオールは失業者となり、高校の歴史教師をする夫人の収入に頼ることになった。

 四三年三月、彼は陸軍に徴兵された。悲劇だったのは、軍隊のだれも、この四一才の失業者が音楽家だと知らなかったことである。
 普通は音楽家なら軍楽隊とか、その技能を活かす部署に配属されるのに、彼は一兵卒として入隊し、新兵の訓練を受けさせられた。
 彼のように内向的な性質の人間が、軍隊に合うはずがない。半年もたたないうちにノイローゼになり、見かねた関係者の好意のお陰で、どうにか除隊させてもらうことができた。

 再び職さがしが始まった。
 すると、ロンドンのサドラーズ・ウェルズ劇場の歌劇団が、コレペティとしてなら採用してもいいという。明らかな格下げだったが、音楽の仕事さえできるなら何でもかまわないと、グッドオールは契約を結んだ。
 サドラーズ・ウェルズ歌劇団は、カール・ローザ歌劇団とともに、当時イギリスでただ二つの、常設のオペラ組織であった。オーケストラは三十人に満たなかったが、それでも巡業専門のカール・ローザ歌劇団よりは大きかった。
 グッドオールは、音楽監督のコリングウッド――伴奏指揮のSPをいくつか遺している――のもとで仕事を始めた。戦時体制のため、ロンドン外での巡業が続けられていた。
 やがて指揮もまかせてもらえるようになり、《セビリアの理髪師》を指揮している。アルマヴィーヴァを歌ったのは、ブリテンの〈伴侶〉ピーター・ピアーズであった。この他にも《リゴレット》や《売られた花嫁》を指揮した。

 ところが彼は、これらの作品を「ブンチャッチャ・オペラ」と呼んで、嫌っていた。
「ヴェルディには一番上の声部しか、メロディしかない。私にはまるで興味がもてない。《女心の歌》なんて、ほんとに節だけだ。ハーモニー的には、どうしようもない。
 《トリスタン》冒頭の、低音を考えてみるがいい。最初は何の意味もない。ところがそこに和声が、ハーモニーが加わると、それはすべてを語りはじめる。何か雰囲気が、そこに生まれる。だから私は、ワーグナーが好きなんだ」
 ワーグナーが好きなんだ、とコブシをにぎりしめてみても、英国の小さな歌劇団でワーグナーなど、やれるはずもなかった。
 
 四四年も後半になると、ロンドンへのロケット攻撃こそ続いていたものの、連合軍の勝利は動かないものとなった。歌劇団の関係者たちは戦争が終わったら、ひとつ新作を初演して景気づけをしようと考えた。
 そこで選ばれたのが、ブリテンの《ピーター・グライムズ》であった。指揮はブリテン自身が行なうことになっていたが、あるとき作曲者は、スタッフの中にグッドオールがいることに気がついた。
 ブリテンは、聖オールバン教会時代のグッドオールの好演を憶えていた。
――《グライムズ》の指揮は、グッドオールだ。
彼はそう決めた。
                 (続く)

第2章 楽長失格
*今月のCD
1)ブリテン;《ピーター・グライムズ》《ルクリーシャの凌辱》各抜粋、他:クロス、エバンス、ピアース他、グッドオール /コヴェントガーデンo.他(1948.&1947.ロンドン)
  [英EMI CMS7 64727 2]
2)KATHLEEN FERRIER - SONGS MY FATHER TAUGHT ME(ブリテン;《ルクリーシャの凌辱》断片、他):フェリアー(A)他、グッドオール/グラインドボーン歌劇場o.(1946.10.11ロンドン)
  [ベルギー・ガラ GL318]
3)ワーグナー;《パルジファル》第2幕:フラグスタート、レヒレストナー、O・クラウス他、ランクル/コヴェントガーデン歌劇場(1951.6.22ロンドン)
  [米レガート LCD-144-1]
4)ベートーヴェン;交響曲第9番《合唱》:シュヴァルツコップ(S)他、フルトヴェングラー/バイロイト祝祭o.(1951.7.29バイロイト)
  [東芝EMI TOCE6510]
5)ワーグナー;《パルジファル》:メードル、ヴィントガッセン、ウェーバー、ロンドン他、クナッパーツブッシュ/バイロイト祝祭o.(1951.7.&8.バイロイト)
  [ワーナーパイオニア WPCC5371~4]

・《ピーター・グライムズ》初演
 ブリテンが、自作《ピーター・グライムズ》の初演の指揮にグッドオールを指名したことは、上演を行うサドラーズ・ウェルズ歌劇団内にひと騒ぎを起こすことになった。
 なにしろグッドオールは、当初のコレペティより昇格したとはいえ、まだ副指揮者に過ぎないのである。
 それが音楽監督のコリングウッドたちをさしおいて初演の名誉を与えられるのは、道理に合わぬと反対する団員も少なくなかった。この初演が、戦争のために閉鎖されていた本拠サドラーズ・ウェルズ歌劇場に、五年ぶりに帰還する記念公演でもあるのだから、なおさらである。
 しかしコリングウッドにはこの〈現代音楽〉を指揮する気がなく、ブリテンの意志も堅いものであったため、最終的には上層部の判断により、グッドオールの起用が決定された。
 そこでグッドオールは地方巡業の合間をぬい、入念な練習を時間をかけて行なっていった。作曲者の信頼にも応えたかったであろうし、作品自体にも純粋にほれこんだからである。
 そして、戦争が終わって一ヶ月後の一九四五年六月七日、《グライムズ》の初日が来た。

 題名役はピーター・ピアーズ。ヒロインのエレン役は歌劇団のプリマドンナで、芸術監督でもあるジョーン・クロス。特別にオーケストラを五十人に増員した初演は、幸いにも大成功に終わった。
 実をいうと歌劇団内でも、この作品の真価を理解した者は少なく、もっと祝典的で単純明朗な音楽でなければ失敗するという意見が強かったから、グッドオールなど公演を推進してきた少数の人々の喜びは、とりわけて大きかった。
 批評家たちは作品を絶賛し、グッドオールの指揮も同様な評価を受けた。彼を起用したブリテンの耳は、正しかったのである。
 この成功によって、グッドオールはサドラーズ・ウェルズ歌劇場バレエ団の音楽監督に任命された。バレエ公演の他、オペラを指揮する機会も増えた。また、四五年十一月にはナショナル交響楽団なる団体を指揮して、《一八一二年》などをデッカにSP録音している。彼の最初の録音だが、CD化はされていない。

 翌四六年、ブリテンは《グライムズ》に続くオペラ第二作として、《ルクリーシャの凌辱》の作曲を行なった。
 大戦中は中断していたグラインドボーン音楽祭の、戦後第一回の公演のための作品で、キャスリン・フェリアーを主役とするものだった。
 ブリテンは再びグッドオールに指揮させたいと考え、音楽祭に招いた。ところが音楽祭の運営にあたっていたルドルフ・ビング(後のメトの名支配人)は、グッドオールではネーム・バリューが弱いと考えて、別にエルネスト・アンセルメを起用してしまったのである。
 アンセルメに較べられたのでは、彼の経歴も知名度も問題にならない。その上に人見知りが激しく、音楽の話以外はほとんど何もしゃべらないのだから、影も薄くなるばかりだった。
 結局グッドオールは十四回公演のうち、後半の四回だけを指揮することになった。しかもその間、音楽祭の主催者クリスティの別宅の、使用人部屋に泊まらされていたという。本当に小者扱いをされたのである。

 しかし彼自身も内心、《グライムズ》ほどの情熱をこの作品に注ぐことはできなかった。
 彼は前作の管弦楽が持つ力強さ、深さ、大きなうねりをこそ好んだのに、この作品では十二人の小編成で、室内オペラ的な音楽になってしまっていたからである。ブリテンはその後のオペラでも小型化の傾向を変えなかったため、グッドオールの心は次第に離れていった。
「(ブリテンの音楽に欠けているのは)第一にハーモニー、基本的なハーモニーへの感覚だ。ハーモニーはそれ自身がリズムを内部に持ち、音楽を推進させるんだ」
 ハーモニー自体がリズムを持っている。
 これは、グッドオールの演奏の核心を語る言葉だ。しかし、この演奏観に十全に適う音楽は、おそらくワーグナー以外にはないであろう。
 英国の音楽界でそうした音楽だけを求めていく以上、彼の歩く道は狭く、けわしいものとならざるを得ない。しかし、彼にその難路への自覚があったか、どうか。

 グッドオールとブリテンの関係は、四七年の第三作《アルバート・ヘリング》のオランダ公演の指揮を断ったことで――ばかげた作品、とグッドオールは切り捨てた――終わるが、その前後にグッドオールは、《ルクリーシャ》と《グライムズ》の抜粋をSPに録音している。
 CD化されたものとしては彼の最も初期の演奏で、前者は四七年の七月と十月、後者は四八年七月に録音され、両作品を合わせてCD二枚にまとめられている。
 この他に《ルクリーシャ》の方にはBBCのスタジオでの四六年の放送録音もあるのだが、これをLP一枚に収めた米ワルター協会盤は、残念ながら聴いたことがない。
 その放送録音はほんの五分ばかりがCD化されているけれども、これだけでは題名役を歌うフェリアーの素晴らしさは聴き取れても、グッドオールの指揮を云々することは難しい。だからここでは、SP用の録音に話をしぼる。
 スタジオ録音のオペラでは、どうしても生気が失われやすいのだが、この二作のグッドオールの指揮は、かなりその不利をカバーしている。音楽を大きく呼吸させる彼の演奏法は、このころすでに確立されていたらしい。
 《ルクリーシャ》は七四分弱、全体の三分の二を収めたもので、フェリアーとダブルで歌ったナンシー・エバンスが題名役を歌い、他にピアーズとクロスも参加している。小編成の楽団はむしろSPの限界に適合して、聴きやすい。
 一方、《グライムズ》は約四十分と短いが、初演と同じピアーズとクロスが主役を歌っている。こちらは編成が大きいぶん、そのエネルギーがマイクに入りきらないうらみがあるが、グッドオールの好むところの〈うねり〉は、何とか感じることができる。

 グッドオールはその後も六二年まで、機会を得ては《グライムズ》の指揮をコヴェントガーデンなどで行なった。ピアーズはその演奏を、
「自分が参加したり聴いたりしたうちで、飛びぬけて最も偉大な演奏」
と絶賛している。定評ある作曲者自演すら比較にならないと、いっていることになる。
 私は、正直にいうとブリテンのオペラのファンとはいえないが、グッドオールのライヴ録音のそれがもし残っているなら、何としても聴いてみたいものだ。
 また、ピアーズによると、作曲者自演のデッカのスタジオ盤の、第二幕冒頭のオーケストラ部分はグッドオールの指揮だという。
 五八年のこの録音セッションでは、筋肉の病気に悩まされていたブリテンの負担を軽減するため、当時コヴェントガーデンのスタッフだったグッドオールが、総練習までを代行していた。ところがこの部分だけはブリテンが疲れはて、彼にまかせてしまったらしい。
 主役として参加したピアーズの証言だから間違いないのだろうが、それにしてもグッドオールは、なぜこのとき、練習代行などという裏方の役割にまわっていたのだろう。
 それについては、彼の長き不遇のコヴェントガーデン時代を、語らなければならない。

・楽長グッドオール
「ワーグナーが上演されている劇場で、働いてみたい。そして、ワーグナーを指揮したい」 
 彼の長年の願いが、かなう時が来た。第二次世界大戦終了後、ついに英国政府は国営のオペラハウスを持つ決断をした。
 コヴェントガーデンは〈貸し小屋〉を卒業して、コヴェントガーデン歌劇場という常設の団体を持つ、立派な劇場組織になったのである。ただし、英語上演を基本とするという、いささか時代遅れな原則が守られていた。
 グッドオールもサドラーズ・ウェルズから引き抜かれて、四六年九月、コヴェントガーデンの指揮者に採用された。待ちに待ったワーグナーに、あと少しのところまで来た。
 ところが、グッドオールにまわってくるのはイタリアオペラばかりで、ドイツオペラはコヴェントガーデンの初代音楽監督、カール・ランクルの独占物になってしまったから、彼の期待は外れてしまった。
 一八九八年生まれのランクルはオーストリア出身、シェーンベルクとウェーベルンに学び、クレンペラー監督下のベルリン・クロール歌劇場で副指揮者をしていた人物である。イタリアオペラに関心が薄く、ドイツオペラにこだわるのも、当然と言えば当然だった。
 グッドオールに求められたのは、そのランクルを補佐し、彼が指揮しないイタリアオペラの新演出初演や、他の日常的な公演を無難にまとめ上げる、〈第二の楽長〉としての職人的役割だった。それなのに、彼はおよそ器用な人間ではなかったから、問題が起こるまでに、時間は長くかからなかった。

 J・ハント編纂の、〈三人のイタリア人指揮者、七人のウィーンのソプラノ〉と題するディスコグラフィ集の二七六と七七ページに、五十年一月十九日のコヴェントガーデンの《椿姫》の、プログラムのコピーがのっている。
 英語版で行なわれたその公演のヒロインは、シュヴァルツコップ。テナーはルドルフ・ショック。そして指揮は、グッドオール。
 この演出は四八年にグッドオールが初演し、その後も指揮をやらされていたものだった。
 ドナルド・キーンの著作のいくつかに、シュヴァルツコップが英語で歌うヴィオレッタを、彼が聴いた話が出てくる。その指揮も、おそらくグッドオールだったはずである。
 ドイツの第一級のソプラノとテナーを与えられ、嫌いなイタリアオペラを演奏させられる、これほどの皮肉はないだろう。
 そして、いやいや指揮した演奏がよいはずもない。またわずかな練習での本番となると、彼の指揮技術の欠陥がもろに出た。
 当時劇場でささやかれた陰口によると、《椿姫》冒頭の前奏曲で、指揮の拍が不明瞭なためにオーケストラが出るに出られず、「もうオレは始めてるぞ」とグッドオールが声に出して、ようやく奏きはじめたりしたという。
 四八年と翌年に一度ずつ、《マイスタージンガー》を指揮させてもらえたが、評判にはならなかった。逆にその遅いテンポをめぐって、クラリネット奏者と深刻な対立を生んだだけだった。何もかもがうまくいかず、彼はカーテンコールに出ることを拒否したりするようになり、歌劇場内での評価はガタ落ちになった。
 歌劇場の総支配人ウェブスターは、何人かのイギリス人指揮者――現代日本では全く無名の人たち――を新たに雇い、そして四九年七月、グッドオールを〈指揮者〉から〈コーチ〉、つまりコレペティに降格した。
 給料は四割減、これ以上ない不名誉な話にもかかわらず、彼はこの人事を承諾した。他に選択の余地はないと、思ったからだという。

 その後四年間、彼が指揮台に立ったのは、前述の《椿姫》など、ほんのわずかな機会しかなかった。劇場の外にある練習室で、歌手のコーチをすることが、その主な仕事であった。
 古参の先輩コーチにライバル視されたり――どんな低いレベルにも、対抗意識だけは存在する――、意気上がらぬ仕事だったが、五〇年の末、彼に貴重な自信回復の機会を与えてくれる人物が、ロンドンにやってきた。
 エーリヒ・クライバーである。
 監督としての能力はともかく、指揮者としての魅力に欠けるランクルへのあてつけとして、ウェブスターが招いたのが彼だった。《ばらの騎士》など、クライバーの指揮した四作品はいずれも大評判となり、沈滞気味だったこの歌劇場に、久々の興奮をもたらした。
 それらの上演に、グッドオールはコレペティとして参加していたが、クライバーはこのスタッフの能力の高さを見逃さなかった。
 そして、一年後の五一年末に予定の《ヴォツェック》英国初演のための歌手とオーケストラの下稽古を、すべて彼に一任したのである。
 この革新的な傑作を上演するためには、充分な練習が必要と考えられたのに、多忙なクライバーにはその時間がなかった。グッドオールなら代わってその任を務められると、クライバーは信じてくれたのだ。

・坂の上の雲
 当時のグッドオールにとって何よりも必要だったのは、自分を評価してくれる〈誰か〉の出現だったのだろう。
 彼は奮いたち、精力的に準備を始めた。
 五一年の夏にはベルリン国立歌劇場にいたクライバーのもとを訪ね、細部の打ち合わせをした。二六年前にこの劇場で、このクライバーの手でこの作品は初演されたのである。
 二ヶ月後にはザルツブルク音楽祭に行き、新演出で初演されたベームの同じ作品を見、これならもっと良い上演ができると考えたという。

 その少し前、彼は年来の夢を一つ実現した。
 コヴェントガーデンを代表して、戦後第一回のバイロイト音楽祭を訪問したのである。
 この街の空気、自然、環境、そしてワーグナーの家、すべてが彼を夢中にした。
 祝祭劇場の建つ緑の丘への、長い直線の坂を登っていくとき、その感動は言葉にならないものだったと彼はいう。そのまま、天へ昇っていくように思えたかも知れない。
 彼は開幕の、フルトヴェングラーによる《合唱》のリハーサルと本番を聴き、大感激した。あの伝説的名盤、《バイロイトの第九》を彼はその耳で聴いたのだ。
 それからワーグナーの孫、ヴィーラント・ワーグナーの案内で、彼はクナッパーツブッシュに再会した。クナは十四年前のロンドンで、自分の《サロメ》を手伝った副指揮者のことを、憶えていてくれた。
 そして自分が指揮する《パルジファル》のピットに、グッドオールを親しく招いてくれたのである。ゲネプロと本番を通じ、グッドオールはクナのすぐ近くに座って、その指揮をつぶさに見ることができた。

「どうやって各幕を大きな、切れ目のないアーチに形作るか。どうやってあるテンポを、別のテンポにつなげるか。どうやって個々の声部がどれも聴き取れるように、音響のバランスを取るか。どうやって歌手の声をかき消さないように、オーケストラの音量を調節するか」
 彼はクナを筆頭とするドイツの指揮者たちから、以上のことを学んだという。
 その最も重要な〈学校〉が、このバイロイト独特の、舞台下のピットだったのだろう。
 五〇年代以降、彼のワーグナーが徐々に高い評価を得るようになっていく基礎には、このバイロイト体験があるように、私は思う。
 彼は六二年まで、五三年を除く毎夏、バイロイトを訪れることになる。彼が行かなかった五三年とは、面白いことにその間で唯一、クナが出演しなかった年なのである。
 また、この五一年にヴィーラントが初めて披露した象徴主義的演出、いわゆる〈新バイロイト様式〉は賛否両論をまきおこしたが、グッドオールはこの演出の熱狂的賛同者となった。

 かくも実り多き独墺旅行を終えてロンドンに帰ったグッドオールは、前後五ヶ月におよぶ歌唱指導と一ヶ月のオーケストラ練習を行ない、来英してきたクライバーに引き渡した。
 クライバーはその成果に大いに満足し、五一年十二月の本番は、大成功となった。オーケストラはランクルが指揮したときとは、別人のように素晴らしい響きを出したという。
 そのランクルは、彼自身も上演を切望していた《ヴォツェック》を、クライバーに取られたことが決定的ダメージとなり、五一年の初夏をもってコヴェントガーデンを去っていた。

 同劇場での彼の最後に近い公演と思われる、五一年六月二二日の《パルジファル》第二幕のCDを聴いた限りでは、たしかにその指揮はあまりに即物主義的で、ふくらみに欠けるものであったようだ。
 しかし、一つの歌劇場を新たに作り上げた点においては、彼の功績は決して低いものではなかった。その実績に比して、その去りかたは寂しかった。最後の公演の後、彼は泣き伏したという。劇場は常に、敗者に苛酷である。

 だが彼の辞任の原因となったクライバーも、条件や金銭の問題で歌劇場と折り合わず、結局コヴェントガーデンの監督にはならなかった。もし彼が来ていたら、グッドオールの処遇も好転したかも知れない。
 それから数年間は音楽監督は空席のままで、新たにジョン・バルビローリとルドルフ・ケンペが、指揮者陣の中心となっている。
 五三年六月、エリザベス女王戴冠記念のためにブリテンが作曲したオペラ《グロリアーナ》が、新加入の三二才の指揮者、ジョン・プリッチャードの指揮で初演された。
 その二ヶ月後、この作品の南アフリカのローデシアへの引っ越し公演が予定されていたが、その指揮が、二転三転のあげくにグッドオールにまわってきたことが、彼に転機を与えた。
 彼も他の多くの人と同様、この作品を好きになれなかったが、否やをいえる立場ではない。それでやってみると、予想外の成功となった。
 ウェブスターのグッドオールへの心証は、突如好転した。そこで、コヴェントガーデンの《グライムズ》の新演出上演を、病気のブリテンの代役として与えられた。これも成功、さらに翌年、地方巡業での《ワルキューレ》が批評家たちに絶賛された。
 これらの好評によって、グッドオールは〈コーチ〉から〈指揮者〉に返り咲いた。五四年秋から五六年初夏までの二シーズン、彼は《ヴォツェック》や《トゥーランドット》、《タンホイザー》などを、合計五十公演も指揮できた。

 ところが頑固で短気な性格が災いしたのか、五六年秋からは再び歌唱指導が多くなり、年に数晩だけの指揮という境遇に戻されてしまう。
 日暮れて道遠し。グッドオールは、六十才になろうとしている。
                  (続く)

第3章 ワルハラの流刑者
*今月のCD
1)ヴェルディ;《オテロ》:デル・モナコ、カバイヴァンスカ、ゴッビ他、ショルティ /コヴェントガーデンo.他(1962.6.30 ロンドン)
  [伊ヌオヴァ・エラ 2357/8]
 ・文中に紹介した、ショルティ/コヴェントガーデンの《指環》はCD化されていないが、彼の演奏ぶりはこの《オテロ》にも共通しているので、ここに上げておく。
2)ベートーヴェン;《フィデリオ》全曲:ユリナッツ、ヴィッカース、ホッター、フリック他、クレンペラー/コヴェントガーデン歌劇場(1961.3.7 ロンドン)
  [伊メロドラム  MEL27076]

・ロンドンの《指環》
 ロンドンにおける《ニーベルングの指環》の録音というと、一九三七年六月にコヴェントガーデンで上演された、フルトヴェングラー指揮のそれの抜粋を、ご存じの方も多いだろう。既にいくつかのレーベルで、CD化されている。
 同様に、戦後の同歌劇場でも《指環》の連続公演は、毎年の重要な催しとなっていた。
 最初はランクル指揮で一九五〇年に行われ、ブリュンヒルデ役がフラグスタート、ヴォータン役がホッターという豪華な顔合わせだった。
 この二人はすでに四八年にもここで《ワルキューレ》を歌っているが、そのときは英語版だったので、原語での上演はこの時が初めてだった。コヴェントガーデンはこの頃から徐々に、原語上演に切り替えていったらしい。
 ただし装置は戦前のフルトヴェングラーやビーチャムが指揮したままの、古いものだった。新バイロイト風の象徴主義が加えられた、ハルトマンによる新演出が登場したのは、五四年である。以後は毎年九月から十月にかけ、二チクルス上演するのが恒例となった。
 歌手もニルソン、ヴィントガッセン、ホッター、フリックなど、当時のバイロイトに劣らぬ強力なものだったから、劇場側の力の入れようが分かるだろう。指揮は五八年まで、ケンペが続けて担当していた。

 五六年秋から再び冷遇され、指揮者としては《マイスタージンガー》や《サロメ》を年に数晩振るだけだったグッドオールは、これらの上演に副指揮者として参加している。しかし、劇場内外で高い評価を得ているケンペの演奏を、彼自身はちっとも好きになれなかった。
 他の人には室内楽的で、精妙な美しさと聞こえるその響きが、彼にはあまりに軽量で、情感に乏しいものに聞こえたのだ。
 ケンペのこの《指環》は、最初の三作品が五七年、《神々の黄昏》だけ五五年の録音という形で、テープで聴くことができる。
 それを聴いてみると、確かにグッドオールのいうことも理解できる。きびきびしたテンポで聴きやすいが、フレージングがあっさりとしていて、ハーモニーの奥深さとか立体感には、欠けているからだ。
 大地の底から鳴り出すように響かせたい、というグッドオールにとっては、これでは物足りないであろうと私も思う。
 しかしそれはそれとして、副指揮者として九才年下のケンペを補佐している以上、あくまでその音楽観を尊重しなければならないのが、グッドオールの義務である。だが彼は逆に、明らかに気乗りしない様子を見せたりした。そのためにスタッフから外されたこともあったらしい。

 五九年秋の《指環》は、ケンペに代わってコンヴィチュニーが指揮した。グッドオールは、自分と同じ五八才の彼の演奏の方が気に入った。
 これも《ラインの黄金》以外は全曲をテープで聴けるが、推進力とエネルギーにあふれた、いい演奏である。あの面白みのないスタジオ録音の交響曲とは別人のように荒々しく、やはりこの人はオペラに本領があるのだろう。
 ジークフリートを歌うヴィントガッセンの声は、数年前のバイロイト録音などに較べれば荒れているが、やはり上手い。ヴァルナイとホッターとフリックは、いつもながらに圧倒的だ。
 グッドオールが感心したのは、《ジークフリート》の第三幕、ジークフリートが炎を乗りこえていく場面だった。
 練習ではどうしても合わなかった部分を、コンヴィチュニーは本番で指揮を止めてしまったのである。驚いた楽員たちは互いに懸命に合わせようとし、結果はぴたりと合ったという。
 しかしコンヴィチュニーは、劇場内部ではきわめて受けが悪かったらしい。幕間に白ワインをしこたま飲んで、赤ら顔でピットに現われたりするのが、嫌われたのである。
 この年の《指環》チクルスで話題になった指揮者は、コンヴィチュニーではなかった。
 なんと、グッドオールだった。

 第二チクルスの《ワルキューレ》だけ、コンヴィチュニーが指揮できなかったのだ。アル中で倒れたわけではなくて、本国の東独に呼び返されてしまったのである。
 この年は東独が誕生して十周年にあたり、彼がそれを記念する式典の指揮者に、指名されたからだった。国家を代表する指揮者として特別待遇を受けていた彼は、こうした国家行事を断ることはできなかったらしい。
 劇場側は仕方がないので、グッドオールを指揮者とした。メードルにヴィナイ、ホッターという〈バイロイト級〉の歌手が共演である。
 そして公演は、大成功になった。第三幕の前には、登場したグッドオールに異例に長く、熱心な拍手が送られたという。
 バイロイトで学んだ音楽を、彼は存分に披露したのだろう。五六年から五八年のクナッパーツブッシュの《指環》を、彼は指揮台の横で、全身に吸収してきたのだから。
 この頃、批評家の一部に熱狂的なグッドオール・ファンが早くも出現しており、その一人はここぞとばかり、その素晴らしさを讚えた。
「代役、ショウをさらう」「コヴェントガーデンのシンデレラ」など、興奮気味の言葉が文面に踊った。六十に近いオッサンをつかまえて、〈シンデレラ〉はないと思うが……。
 権威ある〈タイムス〉も、遅すぎて退屈な部分もあるが、全体的には本物のワーグナー・マジックをもたらす、熱き血潮のうねりがあると評価し――これは後年の彼の演奏にも、そのまま当てはまる言葉だ――、一年に二チクルスあるうちの、第二チクルスの《指環》を彼に任せれば、聴衆たちを喜ばせることになるだろう、と提案したほどだった。

・フォーゲルゲザングの勝利
 歌劇場理事長のウェブスターは、グッドオールへの評価をコロコロと変える人だったが、この時も心を動かされた。
 このシーズンの後半、つまり六〇年春の、ニルソン主役の《トリスタン》をグッドオールに与えようとしたのである。
 ところがニルソンを確保することができず、話は流れてしまった。ならば《パルジファル》を、ということになったが、今度はグッドオールの方が、まったく指揮した経験のない作品をわずかな練習でやるのはいやだと、断った。
 まったく、こうして書いている私の方がイライラしてしまうくらい、一徹な男なのだ。
 結局いつもの《マイスタージンガー》に落ち着き、ドイツ人を含まない、座付きのイギリス人歌手たちで上演した。ところが、これがとんでもない騒ぎになってしまった。
 ワルター役のテナーが第一幕の後で気管支を痛めたのに代役が見つからず、第三幕前半の、ワルターが《懸賞の歌》を作る場面を省略せざるを得なくなったのである。
 そして、クライマックスの歌合戦の場で――誰がいつ作ったのか不明のまま――披露された《懸賞の歌》は、なんと脇役のフォーゲルゲザング役のテナーによって歌われた。
 翌日の新聞には「史上初、フォーゲルゲザング歌合戦に勝ってエヴァと結婚」という評が出た。この茶番劇のお陰で、せっかくのグッドオール再評価の気運も、台無しになったらしい。

 しかし、グッドオールの境遇が、その実力に較べてあまりに不当なものだと考える関係者、歌手、批評家などの数が、次第に増しつつあったことは疑いない。
 六〇年秋、コヴェントガーデン総裁のドロヘダ伯爵は、実務面の総責任者であるウェブスターに、〈指揮者〉に任命したまま指揮させないのはおかしいから、グッドオールにもっと機会を与えたらどうか、と下問している。
 それに対してウェブスターは、現在サドラーズ・ウェルズ歌劇場に彼を移籍させる話が来ているので、今シーズン中に彼の〈指揮者〉職は解かれる予定です、と書面で回答した。
 しかし、これは一時の方便に過ぎなかった。実際にはサドラーズ・ウェルズからそのような申込はなかったし、コヴェントガーデン側も、グッドオールを手放す気はなかったのである。

 指揮をしない〈指揮者〉。ウェブスターがなぜグッドオールを、こんな宙ぶらりんな立場に置き続けたのかは、ルーカスによる伝記を読んでみても、今一つはっきりしない。
 本当に嫌いなら、辞めさせる手はいくらでもあるはずである。だから、まったく評価していなかったというわけではないのだろう。
 練習用の指揮者としてはこの上なく便利だから、グッドオールがそれを甘んじて受けているかぎり、こちらから馘首にして、わざわざ悪評を買うこともないと思っていたのだろうか。
 グッドオールより二才下、コヴェントガーデンを軌道にのせた功績をもって、六一年にサーの称号を得たデビッド・ウェブスターという人間の心中は、私には想像がつきにくい。

 六一年六月にグッドオールは、彼自身も好きな《ボリス・ゴドゥノフ》を四公演与えられた。
 これは幸いにもテープで聴くことができ、私の聴いたかぎりでは、最も早い時期の彼のライヴのオペラ全曲である。
 出演は主役ボリスに、この役を当たり役にしたボリス・クリストフ。他はイギリス語圏の歌手たちだが、ちゃんと合唱団も含めてロシア語で歌っている。
 クリストフの歌唱は、やはり素晴らしい。
 スラヴ系のバスたちは、彼も、あるいはシャリアピンやキプニスにしても、イタリアオペラだと音程がぶら下がって気持が悪いのに、お国ものを歌うとぴしゃりと決まるのが面白い。
 彼を得てのグッドオールの指揮も、後年のワーグナー演奏の美質をすでに備えた、お世辞抜きに見事なものである。
 印象的なのが弦の深々とした、美しい歌いかたで、その大きな呼吸と立体的な響きは、まさに〈ハーモニー自体がリズムを持つ〉という彼の言葉を、そのまま音楽にしたものだ。
 音楽のスケールの大きさといい、これがろくに指揮の機会を与えられない人間の演奏とは、私にはとても思えない。
 だが劇場側は、そうは考えなかったらしい。
 《ボリス》の後、翌六二年十二月に《金鶏》を一晩指揮したのを最後に、グッドオールがコヴェントガーデンのピットに立つことは、その後七〇年四月まで、八年半もなかったのだ。
 その間、同劇場のスタッフ・リストには、決して指揮することのない〈指揮者〉として、彼の名前が空しく掲げられ続けた。

 このむごい〈飼い殺し〉には、ウェブスターの他にもう一人の人間が関わっていたらしい。
 ゲオルク・ショルティである。
 グッドオールより十一才下、一九一二年ハンガリー生まれの彼は、六一年の秋、ドイツのフランクフルト歌劇場からコヴェントガーデンの音楽監督に転じてきた。
 五八年にデッカ・レコードに録音した《ラインの黄金》の成功で一躍名を高めた彼は、続いて史上初の《指環》全四作の録音に取りかかっているところ――次作《ジークフリート》の録音は六二年、全曲完成は六五年――だった。
 当然、コヴェントガーデンでも《指環》連続上演の指揮を期待されていたし、当人もその実現を、大きな目標としていた。

・〈ワルハラ〉へ
 話がそれるが、我々日本人はどうも、ショルティ/ウィーン・フィルの《指環》スタジオ録音の印象が強すぎて、ショルティはウィーンとの組合せで考えてしまいやすい。
 そのため、実際ウィーンで《指環》を上演したのはカラヤンであり、ショルティの本拠はロンドンだったということは、案外忘れられている。レコードの幻惑作用の一つだろう。
 さて、そのショルティ/コヴェントガーデンの《指環》は、就任直後の六一年十月の《ワルキューレ》で開始された。
 演出には名バス・バリトンのハンス・ホッターがあたったが、装置が不評だったため、翌年の《ジークフリート》では装置家を交替させ、六三年に《神々の黄昏》、六四年に《ラインの黄金》、そして六五年に新装置の《ワルキューレ》で、ついに《指環》全作を完成させた。
 《指環》の成功は、音楽監督が運営面でも音楽面でも、歌劇場を完全に掌握したことの最大の証拠であり、その好評によってショルティの治世は七一年まで、十年間続くことになる。

 グッドオールは、監督としてのショルティの能力と情熱を評価してはいたが、しかし、容易に想像がつくように、ショルティのワーグナー演奏はどうにも認めることができなかった。
 私もテープで六三年の《神々の黄昏》と六五年の《ワルキューレ》を聴いたが、とにかく威勢はいいがギチギチと硬くて即物的で、なんのイマジネーションもわかない演奏なのである。
 グッドオールはいつものようにスタッフに加わっていたが、その音楽がショルティと違い過ぎたために、問題が起こることになった。
 まず、六二年の《ジークフリート》で、ホッターによる演技指導のさい、伴奏指揮のグッドオールが自分の解釈で演奏するのを、ホッターが嫌った。あまりテンポが違うと、演技のタイミングが変わってしまうからである。
 そして、決定的な亀裂は六四年の《ラインの黄金》の舞台練習で起きた。 
 指揮をしていたショルティは、音響のバランスを確かめようとして客席後方に行き、グッドオールに指揮を委ねた。
 こうしたとき副指揮者は、指揮者のテンポと解釈にできるだけ従うのが、当然である。ところがグッドオールはショルティよりずっと遅く大きい、自分のテンポでやりだした。
「私のテンポでやれ!」気がついたショルティが後方から怒鳴った。だがテンポは変わらず、もう一度怒声が響いたが、やはりグッドオールは耳を貸さなかった。
 ショルティの禿げ頭が、弾丸のようにピットへ走ってきた。そしてグッドオールの後ろに立って、自分で指揮をはじめた。
 頭から湯気が出ていたことだろう。

 この事件の後、グッドオールは《指環》のスタッフから外され、歌唱指導が主になった。
 劇場内で絶対の力を持つショルティとウェブスターの二人から睨まれたのでは、身の置き所もない。それからのグッドオールは、ほとんど誰にも気づかれないように歌劇場に出入りし、通路の端を小さくなって歩いていたという。
 当時の彼の練習室は、コヴェントガーデンの建物の最上部にあった。
 天井桟敷から、さらに長い階段を登ってたどり着く、雲の上のような部屋であった。掃除人たちと兼用で、モップ置き場や流し場の脇に、アップライトのピアノが一台置いてあった。
 練習に通う歌手たちは、いつしかこの部屋を〈ワルハラ〉と呼びはじめた。いうまでもなく《指環》の、神々の天空の城の名前である。

 もしグッドオールが、独墺やイタリアに生まれた指揮者だったら、より良い職を求め、とっくに他の歌劇場へ移っていたのではないか。
 これらの国では、ウィーンやミラノ・スカラ座でさえ唯一絶対の存在ではなく、多数の中の最大のものというに過ぎないからである。
 しかし中央集権的なイギリスでは、コヴェントガーデンは他と懸絶した歌劇場だった。交響楽団ならいくつもあるが、グッドオールは演奏会には興味がなかった。
 ただワーグナーだけが彼を導く音楽であり、演奏であれ練習であれ、それに関わることだけが彼の望みであったのだろう。
 彼がこんな境遇に置かれても、ここを離れなかった理由は、それ以外に考えようがない。

 鬼界ヶ島に打ち棄てられた俊寛のような、みじめな彼の六〇年代において、喜びを与えられる仕事が一つあった。
 ドイツ出身の名指揮者、オットー・クレンペラーのアシスタントである。
 多くの困難と災厄に打ち克ってきたこの老指揮者は、五〇年代からロンドンのフィルハーモニア管弦楽団を主な活動場所としていたが、六一年春、七五才でコヴェントガーデンにデビューして、《フィデリオ》を指揮した。
 グッドオールはその副指揮者をしながら、それまであまり興味のなかったこの指揮者が、本物の大指揮者だと初めて気がついたという。
 本能的なフルトヴェングラーに対して、クレンペラーはより構築的であり、ベートーヴェンに関しては後者の方が上だと、彼は感じた。
 確かにその《フィデリオ》はメロドラムのCDで聴けるが、盤石の安定感と巨大な推進力とが両立した、奇蹟のような名演奏である。
 そしてクレンペラーの方も、この十六才下の副指揮者の音楽を、高く評価した。同時に、自分の前では萎縮して、音楽の話しかできない彼のシャイな人柄を、好ましく思ったらしい。
 そこでクレンペラーは、翌年の《魔笛》、翌々年の《ローエングリン》上演を手伝ってもらうだけでなく、フィルハーモニア管弦楽団のアシスタントも依頼したのである。
 長時間の活動を医師から禁止されている彼に代わり、三時間の録音セッションの、最初の三十分ほどの下稽古をする仕事であった。
 六一年十一月のマーラーの《復活》に始まった九年間の仕事には、モーツァルトの《ジュピター》などの交響曲の他、《フィガロの結婚》や《ワルキューレ》第一幕などが含まれる。それは、本当に楽しい仕事だったという。
 後のグッドオールの《トリスタン》の特徴をなす、あの木管群の美しい響きは、あるいはこの仕事を通じて、クレンペラーから学んだものなのかも知れない。

「同情からいうんじゃない。グッドオールは本当に良い指揮者だ。ウェブスターたちはなぜそのように扱わないのか、自分には理解できない」
とクレンペラーは語ったというが、それは彼だけの思いではなかった。
 そして、運命は転回する。
 きっかけは六七年に、来年の《マイスタージンガー》の指揮をしてほしいと、サドラーズ・ウェルズ歌劇場が連絡してきたことだった。
「遅すぎた。もう私の指揮者人生は終わったんだ」と、六五才のグッドオールは渋ったという。
 だが、終わってはいなかったのだ。
 これから始まるのである。
          (次回、完結編に続く)

第4章 ただ憧れを知る者
*今月のCD
1)ワーグナー;《ジークフリート》:レメディオス、ハンター、ベイリー他、グッドオール/サドラーズ・ウェルズo.(1973.8.2 ~21 ロンドン)[英EMI CMS 7 63595 2]
2)ワーグナー;《ラインの黄金》:ベイリー、プリング、ベルコート他、グッドオール/イギリス・ナショナルo.(1975.3.10~29 ロンドン)[英EMI CMS 7 64110 2]
3)ワーグナー;《ヴァルキリー》:ハンター、レメディオス、ベイリー他、グッドオール/イギリス・ナショナルo.(1975.12.18~23 ロンドン)[英EMI CMS 7 63918 2]
4)ワーグナー;《神々の黄昏》:ハンター、レメディオス、ハウグランド他、グッドオール/イギリス・ナショナルo.(1977.12.6~27 ロンドン)[英EMI CMS 7 634244 2]
5)ワーグナー;《トリスタンとイゾルデ》:エスター=グレイ、ミッチンソン、ハウエル他、グッドオール/ウェールズ・ナショナルo.(1980.11~81.1 スウォンジー)[英デッカ 443 682-2]
6)ワーグナー;《パルジファル》:エルスワース、マイアー、マッキンタイア他、グッドオール/ウェールズ・ナショナルo.(1984.6. スウォンジー)[英EMI CDS 7 49182 8]

・敗者復活戦
 コヴェントガーデンで冷飯を喰っていたグッドオールに、〈敗者復活戦〉のチャンスを与えたのは、サドラーズ・ウェルズ歌劇団の経営監督のスティーヴン・アーレンであった。
 かつてグッドオールも所属していたサドラーズ・ウェルズ歌劇団は、その後もロンドンの同名の劇場を本拠に、小さいながらも活動を続けていた。五〇年代後半に原語上演に移行したコヴェントガーデンとは対照的に、こちらは英語翻訳上演が基本であった。
 この歌劇団は、二つに分割されていた。サドラーズとウェルズの頭文字をとって、便宜的にSセクション、Wセクションと呼ばれている両セクションは、それぞれ五六名のオーケストラと四八名の合唱団からなっていた。
 一方がロンドンで公演しているときに、もう片方が地方に巡業するという形態を交代で行ない、歌手は両者で共有されていたものの、二つのセクションはまったく別に活動していた。
 しかし一九六七年になって、この両者を合同した大編成で、ちょうど初演百年を迎える《マイスタージンガー》の英語版、《マスターシンガーズ》を、翌年一月に上演しようという話が持ち上がったのである。

 指揮者を誰にするかが、問題だった。両セクションにはそれぞれ、ベルナルディとボークヴィルという音楽監督がいるが、彼らでは物足りなかった。
 そこで行なわれた首脳陣の協議で、ケンペ、ダウンズ、ボールトといった指揮者が検討されたあと、一人がグッドオールの名前を挙げた。
 アーレンは、このアイデアに飛びついた。グッドオールの起用は、音楽的にも興味深いだけでなく、コヴェントガーデンの鼻をあかしてやることになるからだ。
 さっそく出演交渉が始められ、最初はためらっていたグッドオールも、関係者の熱意に負け、ついに全十回の公演の指揮を承諾した。
 やがて配役も決定し、練習が始まったが、それからが大変だった。
 弦楽器群はSとWの合同で、管楽器群は疲労を避けるために、第二幕までと第三幕とで、双方の楽員が交代で受け持つことになったが、両者が一緒になるときがないのである。
 そのためにオーケストラや合唱団の稽古は別々に行なわれ、合同練習は本番三週間前まで、ほとんど機会がなかった。
 それからグッドオールは楽団のパート別の練習などで、懸命に自らの音楽を仕込んでいった。
 一方歌手たちについては、〈ワルハラ〉でグッドオール自身による徹底的な個別指導が行なわれた。ただアンサンブル練習となると、多忙な彼らが一堂に会する機会がなかなか得られず、グッドオールをイライラさせた。
 歌手は後の《指環》の主力とほぼ同じで、ザックスにノーマン・ベイリー、ワルターにアルバート・レメディオス、エヴァにマーガレット・カーフィー、ベックメッサーにデレク・ハモンド=ストラウドという陣容である。
 リバプールの造船所の熔接工だったというレメディオスを始め、みなイギリス人だった。

 いよいよ明日が開幕という六八年一月三十日に、グッドオールは突然アーレンに告げた。
 ――自分は降りるから、誰か他の指揮者を立ててくれ。もう準備は完璧で、歌手と楽団は誰が指揮しても、ちゃんとやるだろう。私の役割はこれで済んだ。
 準備での疲労と、浮沈の激しかった長年の境遇が、こんな言葉をいわせたのだろう。馬鹿なことをいわないでくれ、とアーレンは説得したが、グッドオールの態度はあいまいだった。
 十公演全てが完売し、大変な期待と関心が、この《マスターシンガーズ》に集まっていた。そのお客は、グッドオールの指揮をこそ聴きにくるのだ。彼が振らなければ、意味がない。
 大惨事か、それともかつてない成功か。それはグッドオール次第だった。幸い、彼は当日になって出演を決意し、実に五年ぶりに聴衆の前に姿を現わしたのである。

 そして公演は、大成功になった。グッドオールのテンポは遅く、公演を重ねるにつれてさらに遅くなっていった――初日に較べて楽日は、十三分長くなっていた――が、それに反比例して聴衆の熱狂ぶりは加熱していった。
 その楽日に、ショルティが聴きに来た。
 幕間に事務局を訪れたショルティは、制作全体をほめ、歌手をほめ、さまざまのことをほめたが、指揮については一言も触れようとしなかったという。

 グッドオールは一躍、時の人になった。
 アーレンはこれを機に、コヴェントガーデンからサドラーズ・ウェルズに移る気はないかと持ちかけたが、グッドオールはそれを断った。
 二十年も勤めた劇場を、いまさら離れる気はないというのである。事実、グッドオールはその後もずっと、〈ワルハラ〉での歌手のレッスンを続けていた。地道な副指揮者仕事が、よほど好きだったらしい。

 六八年の晩夏、サドラーズ・ウェルズ歌劇団は住みなれた同名の劇場から、同じロンドン市内の、もっと大きくて音響のいい、コリシアム劇場に本拠を移した。
 グッドオールはこの新しい舞台でも《マスターシンガーズ》を上演し、再び喝采を博して、その名声を決定づけた――この中の一晩がラジオ中継され、録音も残っているらしいが、私は聴くことができなかった――。
 喜んだアーレンは、《ワルキューレ》の英語版、《ヴァルキリー》の上演を決めた。
 さらに、それを将来の《指環》全曲上演に発展させようとアーレンは目論んでいたが、そのためには解決すべき多くの問題があった。だがアーレンとスタッフたちは、不退転の決意でその準備を開始した。
 芸術的にも財政的にも失敗続きのサドラーズ・ウェルズ――本拠が変わっても、名称はそのままだった――にとって、グッドオールは最大のセールスポイントになっていたからだった。

・「我が親しき同僚」
 ところが、アーレンが《指環》全曲の計画を公にすると、コヴェントガーデンが難色を示した。財政逼迫の折りから、両歌劇団の演目の競合は避けるべきだというのである。
 その背景にはもちろん、こっちの領分に手を出さず、もっと軽いものを上演しろという、縄張り意識があった。
 アーレンたちは彼らや、政府の補助金を管理するアーツ・カウンシルを相手に粘り強く交渉し、ついに《ヴァルキリー》の結果次第で、好評なら《指環》を全曲上演、失敗なら白紙、という言質を取りつけることに成功した。

 その《ヴァルキリー》が種々の事情で延び延びになっていた六九年の春、コヴェントガーデンにはクレンペラーが六年ぶりに登場し、《フィデリオ》を再び指揮した。
 グッドオールは従前と同様、副指揮者として彼をサポートしたが、そのとき八三才になる老巨匠は、ようやく遅ればせの栄光を手にしつつある六七才の後輩に、自分の《フィデリオ》のボーカル・スコアをプレゼントした。
 その献辞にはこうあった。
「我が親しき同僚、素晴らしき指揮者、レジナルド・グッドオールに。満たされし人生を送られんことを」

 クレンペラーの願いのとおり、翌七〇年一月に幕をあけた《ヴァルキリー》は大成功した。これでサドラーズ・ウェルズの《指環》全曲上演に、ゴーサインが出た。
 もはやコヴェントガーデンも、文句を言わなかった。言わないどころか、《パルジファル》のリバイバルを、七一年に指揮しないかとグッドオールに持ちかけていた。
 健康を害し、七〇年夏の引退を控えていた同劇場理事長ウェブスターは、グッドオールの処遇を誤ったことを、今さらながらに思い知らされていた。それでこの話を言い出したらしい。
 グッドオールが断ると、ショルティが自ら説得にやって来た。
 ウェブスターに続いて、ショルティも七一年にこの劇場を去ることが決定していた。最後の最後になって、体裁を取りつくろおうとするのが、見え見えだった。
「私がここに来たとき、あなたのことを警告されたけれど、私はあなたが素晴らしい音楽家であることを、知っていましたよ」
 ショルティのこんな言葉をグッドオールは信じたりしなかったが、指揮の件は承諾した。こんな連中に、逆らうことすら阿呆らしいと、グッドオールは思ったのかも知れない。

 そして七一年四月の《パルジファル》の公演で、グッドオールはコヴェントガーデンのピットに戻ってきた。
 その活動の最初期からグッドオールの指導を受け、強い信頼関係を結んでいたジョン・ヴィッカーズがパルジファルを歌い、他にアミー・シュアード、ベイリーなどが出演したが、公演毎にグルネマンツ役が交代するような不運も手伝って、大成功とはならなかった。
 この公演の中継はテープで聴けるが、グッドオールらしいうねりは確かにあるのに、なぜか感銘の薄い、印象の散漫な演奏に終わっている。
 後年のスタジオ録音にも同じ欠点があることを考えると、どうも《パルジファル》は、彼に合わない作品だったのだろうか。
 さらにこの後もグッドオールは、七四年に《ラインの黄金》と《ワルキューレ》、七六年には《フィデリオ》をこの劇場で指揮したが、どれも成功とはいえなかった。
 《フィデリオ》はテープで聴くかぎり――デビューしたてのヒルデガルト・ベーレンスとヴィッカース、ヴァレリー・マスターソンなどの出演――、対位法的な声部のからみ合いが美しく、私個人は好きな演奏なのだが、批評家たちはクレンペラーの出来の悪い亜流としか、見なさなかったらしい。
 まるでコヴェントガーデンの建物自体が、グッドオールに祟っているかのようだった。

 そこからほど遠くないコリシアム劇場こそ、グッドオールの運が花開く場所だった。しかし、途中には波乱もあった。
 七一年一月の《神々の黄昏》は期待どおりの成功となったのだが、翌七二年二月の《ラインの黄金》の直前、アーレンが癌のために五八才で亡くなってしまったのである。
 恩人の死に激しいショックを受けたグッドオールは、《ラインの黄金》の指揮を降りた。
 そしてそのまま、引退すると言い出した。
 彼は何か事があると、すべてを投げだしてしまう悪癖があった。
 ウェブスターは彼の不遇を、彼が自分の手で招いたものだと考えていたが、確かに彼のこうした性格が、その一因となっていたことは否定できない。
 しかし、サドラーズ・ウェルズのスタッフたちはあきらめなかった。故人の遺志を無にしないでくれと懇願を続け、ようやく七三年二月の《ジークフリート》を指揮させたのである。
 こうしてサドラーズ・ウェルズの《指環》は完成し、七三年の七月末から八月にかけ、《指環》の二回の連続上演がついに実現した。

・憧れは恋に似て
 この通し上演のうち、《ジークフリート》がピーター・ムーア財団の資金提供により、EMIの手でライヴ録音され、《指環》全曲のレコード化も開始された。
 グッドオールと歌劇場との関係が、アーレンの生前ほどにはしっくりいかなくなったことや、七十才を越えた彼の体力的問題もあって、全作の通し上演は二度と行なわれなかった。
 しかし単独の再演の機会に録音が続けられ、七五年三月の《ラインの黄金》、同年十二月の《ヴァルキリー》、そして七七年八月の《神々の黄昏》で、《指環》全曲の録音が完成したのである。

 録音期間が四年にまたがり、途中でサドラーズ・ウェルズがイギリス・ナショナル・オペラ(ENO)と改称したりといったことがあったにもかかわらず、キャストの統一感を保つことができたのは幸いであった。
 ヴォータンはベイリー、ブリュンヒルデがリタ・ハンター、ジークムントとジークフリートがレメディオス、この三人を中核とする歌手陣は、確かに歴史に残るような名歌手たちではない。だが、グッドオールの大きく呼吸するフレージングに懸命についていき、実によく歌っていることは、間違いない。
 無神経な、不快なバカ声を張り上げるだけの歌手はいない。かなり金属的な声のハンターでさえ、可能な範囲で歌いまわそうとしている。グッドオールとしばしば衝突し、後にケンカ別れしてしまうことになるこのハンターでさえ、そうなのである。グッドオールがいかにきちんと彼らをコーチしたかの証拠であろう。
 そして、グッドオールの指揮。
 停滞し、緊張感が散漫になる部分があることは、私も認める。特に《ジークフリート》にそうした欠陥が見られるし、他の三作でも最初のうちは、エンジンがまだ温まっていないように感じられる。
 だが、《ラインの黄金》の〈ワルハラへの神々の入場〉の壮大な音響、《ヴァルキリー》の〈死の告知〉の悲愴美や、〈ワルキューレの騎行〉の迫力、〈ヴォータンの告別〉の万感の思い、《神々の黄昏》の〈夜明け〉の凶々しいまでに赤い太陽、〈ギビフングの合唱〉の蛮気、〈葬送行進曲〉の乾坤一擲の爆発と、〈自己犠牲〉の地鳴りのような音の大洪水などを、大きくうねるフレージングと、巨大なスケール感によって現出していくときのグッドオールには、文句のつけようもない。

 だが、グッドオールのレコードがこの《指環》だけだったら、私は彼のことを、ここで紹介しようと思ったかどうか。
 《指環》を終えたグッドオールには、もう一つ夢が残っていた。
 《トリスタン》である。
 この夢は、七九年に実現した。この年の九月に、カーディフにあるウェールズ・ナショナル・オペラ(WNO)で、ドイツ語で上演したのだ。さらに翌八〇年九月にも再演され、そのときの上演をもとに、十一月と翌年一月に、デッカがスタジオ録音をした。

 私は、この録音こそ、グッドオールの名を不滅にしたものと信じている。他の人が何といおうと、私にとってはこれが至高の《トリスタン》である。
 クレンペラーゆずりの、常に明快に、しかも物哀しく響く木管群。弦楽器群の深く、立体的な響きと、波のようにうねる呼吸。
 この音色と響きと呼吸をもって、グッドオールがつくりだした音楽は、なんと美しく、なんと凄絶なものであることか。
 〈愛の二重唱〉が、果てしなく長く昇りつめていくクレッシェンドであり、そのクライマックスが、身も心も引っさらっていってしまうような、灼熱の大津波であることを、私はグッドオールの演奏で初めて教えられた。
 それはそれまで聴いていたどんな演奏、フルトヴェングラーであれボダンツキーであれクナッパーツブッシュであれベームであれカラヤンであれカルロス・クライバーであれバーンスタインであれ、誰も体験させてくれたことのない音の世界だった。
 しかしグッドオールのさらなる凄さは、そうした部分部分を積み重ねて、一つの巨大なアーチにしてみせたことだった。
 半可通は、《トリスタン》なんか前奏曲と、〈愛の二重唱〉と〈愛の死〉を聴けば充分さ、などとしたり顔で言ってのける。
 確かにそんな演奏もある。だがグッドオールはそうではない。
 終幕の後半だけでもいいから、聴いてみるがいい。トリスタンの、熱に浮かされた夢。船の到着の歓喜。包帯を引きちぎって死んでいくトリスタン。イゾルデの嘆き。クルヴェナールの自暴自棄の奮戦と死。マルケ王とブランゲーネの後悔。それら、さまざまな人のさまざまな思いと行いの果てに、それらすべてを呑みつくして、〈愛の死〉が響きわたる。
 〈愛の死〉だけ聴くなんて事が、いかに無意味で愚かしいことかを、グッドオールは全身全霊をもって示してくれたのだ。
 やはり大歌手とはいえない歌手たちが、ここでも大奮闘している。特にイゾルデ役のリンダ・エスター=グレイは、グッドオールが惚れこんで抜てきしたというが、そのとおりの絶唱だ。
 彼女が、トリスタンの亡骸を前に歌う〈イゾルデの嘆き〉に心動かされない人は、音楽には無縁の衆生だと、私は思う。

 《トリスタン》上演の話が来たとき、グッドオールは嬉しさのあまり、コヴェントガーデンの楽屋口で、「僕は、トリスタンをやるんだ!」と子供のように踊ってみせたという。
 私は、この話が大好きだ。八十にもなって、音楽に純粋な夢と憧れを抱ける男。その喜びがあの演奏に結晶したのなら、なんと幸福な、なんとうらやましい人だろう!

 この《トリスタン》のあと、彼は八四年にWNOで《パルジファル》の録音と公演を行なっているが、前述したように、美しい部分もたくさんあるが、全体としては出来のいいものではなかった。その後も八六年まで、年に一度ほど楽劇を指揮していたが、さすがに力の衰えが隠せなかったという。
 一九九〇年五月四日の晩、グッドオールは彼が教えたソプラノ、アンヌ・エバンスがブリュンヒルデを歌った、バイロイト実況の《神々の黄昏》のテープを聴きながら、再び覚めることのない、暝い眠りに入っていった。

 若き日のグッドオールは、いつかバイロイトで指揮してみたいと願っていただろう。その願いは、ついに叶うことがなかった。
 だが憧れは恋に似て、叶わぬものほど切なく美しい。
 不器用な生き方で一生をつらぬいたこの男の憧れは、何枚かのCDとなって今も遺る。
 それで、充分であろう。


(掲載にあたり、語句の一部を変更しました。2019.3.8)
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