ハチャトゥリャンの録音年についての疑問

 本文365頁から367頁にかけて、ハチャトゥリャンとウィーン・フィルとの録音(スパルタカス、ガイーヌ、交響曲第2番)についての記述があります。
(このうち、2つのバレエ組曲を組み合わせた1枚は、国内盤[POCL6026]でも入手可能です)
 これらはカルショー自身ではなくエリック・スミスがプロデューサーだったので、巻末のレコード・リスト(書き忘れてしまったのですが、あれは私が日本版用に独自に編んだもので、原書にはありません)には加えませんでした。

 しかしこれらの録音については、そのレコーディングの年に疑問があるのです。
 上記のCDやマルコム・ウォーカー編のウィーン・フィルのデッカ録音のディスコグラフィには「1962年3月」とあり、またジョン・ハント編のウィーン・フィルのディスコグラフィには「1962年2月27日〜3月9日」とあります。
 一方、カルショーは録音年月を明記していないのですが、直前にリヒテルとの会見があり、直後にカラヤンの《オテロ》録音があるという記述の時系列で判断すると、ハチャトゥリャンがウィーンで演奏会を指揮したのは1961年春頃のことと推定できます。つまり、1年さかのぼることになるのです。
 これは、オットー・シュトラッサーの『栄光のウィーン・フィル』(ユリア・セヴェラン訳/音楽之友社)の332頁に「一九六一年の三月に」ハチャトゥリャンと定期演奏会などで共演した、という記述があることからも裏付けられます。
 また、雑誌『音楽現代』1994年3月号76頁の「VPO定期公演に登場した指揮者一覧」という表(資料提供:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)でも、ハチャトゥリャンの出演は1960/61シーズン(60年9月から61年6月まで)のみのただ1回となっています。

 これは何を意味するのでしょうか。1961年3月にウィーンに客演したハチャトゥリャンが、つづいて翌年3月に、レコード録音のためだけにウィーンを再訪したということなのか。
 しかしカルショーの記述を素直に読めば(訳注で色々否定したくせに、ここだけ「素直に」読むのかと言われそうですが)、演奏会とレコーディングは並行して同時期に行なわれたととれます。またその方が無駄もなく自然でしょう。
 前述のシュトラッサー本には「私たちは彼と定期コンサートを1回演奏し、リンツとザルツブルクでもそれを繰り返した。次の年に私たちはモスクワで彼と再会した」(333頁)とあります。
 このウィーン・フィルによるモスクワ楽旅は1962年3月23日から25日にかけて行なわれています。ということは、その後ウィーン・フィルに帯同してハチャトゥリャンがウィーンに行き、31日までに録音したのか。
 ところが、そのまま楽団はレニングラード、北欧3か国、ハンブルク、ロンドンを歴訪して、4月8日にロンドンでツアー最後の演奏会を行なっています。つまり、3月末の録音は不可能だし、その前というのでは、シュトラッサーの「モスクワで彼と再会した」という記述に矛盾してしまいます。

 素直に考えると、レコーディングも演奏会と同じ1961年3月に行なわれた(ハントの日付だけ借りれば、2月27日〜3月9日)のに、なぜか誤って1年後の1962年と記録されたのではないでしょうか。
 メジャー・レーベルでそんなミスがあるのかという思いも当然ありますが、じつは同様の疑問がブリテン自演の「春の交響曲」やストラヴィンスキーのムーヴメンツ(これはCBS盤)などのCDにもあり、時として起きていた(そして今もそのまま)可能性は否定できないと思います。

(2005.05.19補足) 芳岡正樹さんからの情報によると、1962年3月録音と表示されたのはCDになってからのことで、キング発売の国内盤LPには「1961年3月」と表示されているそうです。ポリグラム売却後にデータの錯誤が起きたと考えて間違いないのでしょう。芳岡さんありがとうございました。

CDのブックレット裏に載せられた、
オリジナルLPのジャケット