Homeへ


四月一日(土) アカデミーは続くよ
 ムーティの「イタリア・オペラ・アカデミー in 東京 2023」の最終日。ムーティの教えを受けてきた四人の若手指揮者が分担して全曲を指揮。
 抜粋の予定だったのが全曲上演に変更され、これを五千円で聴けるのは、ものすごいお得感あり。
 なんといっても、ムーティが連日教え込んできたオーケストラが素晴らしい。こういう反応をしてくれるオーケストラを指揮できるのは、若手にとってとても幸福な体験なのでは。
 日本人歌手も充実し、特にムーティも絶賛したリッカルド役の石井基幾は、本公演の外国人より優れていた。
 最後にムーティが四人に修了証を手渡し、「ラ・アカデーミア・エ・フィニート!」と、《道化師》のパロディで客席を爆笑させて終わり。
 ヴェルディ作品を取りあげてきた三年間のアカデミーはこれで一段落だが、シカゴ響のポストを離れるので時間ができるからと、ムーティも継続の意志を表明しているという。
 できるだけ長く続けて、さまざまなオペラを聴かせてほしいもの。

四月二日(日) 明日は迎に参るべし
 能の話。
 能『景清』のなかで回想される屋島の合戦。義経の亡霊をシテとする『屋島』では、義経が海に落した弓を必死で拾い上げる「弓流し」と、アイが語る那須与一の話が登場する。これは夢幻能のなかでも、世阿弥が作った典型的な修羅能。
 ほかに『攝待(せったい)』という能でも、屋島合戦の話が出てくる。
 これは生者だけの現在能で、登場する人物は十五人と最大級。舞のない、謡と語りだけの芝居に近い作品。
 なかなか見る機会がなかったが、二日に観世会の観世能楽堂での「春の別会」で初めて見ることができた。
 観世宗家の別会だけに、シテの老尼が観世清和、義経が観世三郎太、ツレの兼房が山階彌右衛門、子方の鶴若が清水義久、ワキの弁慶が福王茂十郎、小鼓が大倉源次郎、そして地頭が梅若桜雪と、きわめて豪華。

 設定としては『安宅』のあと。山伏姿で平泉を目指す義経主従十二人が、陸奥の佐藤の館までたどり着く。
 ここは、義経を護って戦死した佐藤継信と忠信兄弟の家。兄弟の母である老尼と継信の息子鶴若が、逃亡中の義経を援助するために「山伏攝待」の高札を掲げている。攝待とは接待。おもてなしするから山伏は寄ってくれ、ということ。
 だまし討ちもありうるため、一行は素姓を隠してもてなしを受けようとするものの、十二人という異例の大人数であるために見破られる。
 そこで、屋島の戦いで義経が猛将能登守教経の強弓に狙われたとき、自らを盾として落命した継信の最期を、弁慶が二人に聞かせる。
 主君を護って死んだのは後世の面目だといいながら、息子を二人まで亡くした悲しみが胸に迫る。

シテ「さりながら一人なりとも御供申し、御笈をも肩に懸け、この御座敷にあるならば」
地「十二人の山伏の、十三人も連なりて、唯今見ると思はばいかがは嬉しかるべき」
――二人のうち一人でも生きてお供して笈を代わりに背負い、今ここに十三人目の山伏としていてくれたらよかったのに

 夜が明けて旅立つ一行。鶴若は供をするべく、山伏の道具を揃えさせようとする。しかし老尼の心を知る弁慶は、
「今日は道具を拵へ給へ。明日は迎に参るべし」
と嘘をつく。兼房たちも「我も迎に参るべし」という。去っていく一行を見送る鶴若。孫を強く抱きとめる老尼。

 作者も演者も観客も、この後の義経たちの運命をよく知っている。だから、弁慶がなぜ嘘をついて鶴若を残すのか、いっそうよくわかる。
 日中戦争から敗戦へ、昭和の戦中戦後を生きた世代は、この悲劇を深く、切実なものとして受けとめたことだろう。
 そのことを、令和初めの「戦前」に思う意味。

 ありがたいことに、今年は『攝待』をもう一度、銕仙会十一月の定期公演で見ることができる。楽しみ。
 また、観世会の「秋の別会」では『夜討曾我』に「十番斬」の小書をつけて、曾我兄弟と鎌倉武士団の大チャンバラを見せてくれる。面白いことにこの「十番斬」は、国立能楽堂の主催公演でもやる予定。あまりないバッティングなので、すべて見に行くつもり。

四月三日(月)レコ芸が休刊へ
 『レコード芸術』が七月号(六月二十日発売)をもって休刊となることが、音楽之友社から発表される。

 自分が知ったのもほんの数日前。残念ではあるが、これも時流というもの。
 読者として約四十年、そのうち執筆者として約三十年。
 自分の人生はおおむね、負け戦に加えてもらって終戦までの時間を稼ぐお手伝いをするという仕事ばかりだが(笑)、そのなかでもいちばん長いおつきあい。あと三月、ご依頼いただく仕事があるかぎり、全力でやりたいと思う。
読者の皆様におかれましても、よろしくおつきあいのほどを。

 夜は「東京・春・音楽祭」恒例のシリーズ「名手たちによる室内楽の極」。メインは長原幸太を中心とする弦楽七重奏版の《メタモルフォーゼン》。
 さまざまな雑誌や、メディアや業務の終わりに何度も立ち会ってきて、負け戦には慣れているとはいえ、こういう晩に偶然《メタモルフォーゼン》を聴くのは効く。
 最後、コントラバスがエロイカの葬送行進曲の主題をむき出しにひく瞬間は、心臓をつかまれるような。さまざまな思い出への挽歌。
 自分はこの編曲版が大好きで、今日もヒンデミットと共にこれが目あて。ナマを聴くのは四回目ですが、じつにそのうち三回がすべて東京春祭で、文化の小ホール。一四年、二一年、そして今年。
 演奏者は毎回変わるけれど、東京春祭の隠れテーマ曲みたいな。

四月四日(火)明日を求めて
 東京春祭の合間を縫って、ドイツ・グラモフォンの新しい配信サービス「ステージプラス」の記者会見。続いて同社社長と重役に、「レコード芸術」のためにインタヴュー。
 昨日の今日だけに、みなひそひそ話。
 インタヴューは、変わりゆく社会のなかでどうやって歴史ある企業と築き上げてきたものを守っていくか、そのための新たな配信サービスという、強い思いを感じた。とても示唆に富んでいて、いろいろ考えさせられた。その部分をうまく記事にしたい。

四月六日(木)演奏会形式のいろいろ
 東京春祭の《ニュルンベルクのマイスタージンガー》。春祭でこの作品は二〇一三年のヴァイグレ指揮以来二回目。ワーグナー・シリーズも二周目に入りつつある(トリスタンは来年初登場だが)。
 ヤノフスキのいつもながらに引き締まった指揮で遅滞なし。
 残念なのは、肝心のザックス役がスコアと譜面台を手離せなかったこと。
 一口に演奏会形式といっても、歌手が譜面を見ながら指揮者の前や奥に直立するオラトリオ型と、客席に最も近い、指揮者の背中の舞台前端のスペースで、歌手が左右に移動できるシアターピース形式とでは、かなり雰囲気が異なる。
 前者は歌が窮屈な感じになるがアンサンブルはしっかりする。後者は自由度が増し、しぐさや表情の演技がつくので、劇としてわかりやすくなる。
 ムーティはアカデミーという性格上前者。ワーグナー・シリーズは基本的に後者が多い。それなのに、一人だけ譜面に顔をつっこんだままだと、どっちつかずの印象が否めない。ヴェテランだから何か理由があったのだろうが、惜しい。

四月九日(日)あの人
 オーチャードで二期会によるシュトラウスの《平和の日》を見る。脳にものすごく刺激を与えてくれる公演だった。
 単純ではない「平和」なるものの位置づけ。作品の両義性。ショスタコーヴィチの「二枚舌」とはちょっと異なる、一九三八年ミュンヘン初演のシュトラウス&グレゴールの「玉虫色」。
 《フィデリオ》&《合唱》から《マイスタージンガー》へのラインを受け継ごうとする、合唱大活躍のラスト。
「我らを別の世界へと昇らしめる、まばゆく、力ある王、若き支配者」って、いったい誰のことなのか?

 当時のドイツの人々は、ザールラントやラインラントを平和裡に取り戻し、オーストリアもまた平和裡に我らにもたらしてくれた、あの人のことだと思ったのではないか?
 その人のようでもあるし、そうではないようでもある。どうとも解釈できる。
 だから玉虫色。
 だがその「平和」な世界には、基本的人権など存在しない。
 そして、当のその人は、民意とは裏腹に、早く戦争がやりたくてウズウズしていた。初演四年後には、スターリングラードで包囲された部下の元帥に死守命令を出して撤退を認めず、約二十万の将兵をむざむざ失うことになる。最終的にはその数百倍の人類を道連れに、自らも包囲下のベルリンに死ぬ。
 皮肉にして凄まじき悲劇。

 この「平和」が、現代においてどんな意味を持つのか、公演レポートと合わせて書いてくれと、「モーストリークラシック」から頼まれた。嬉しい。
 ならば合わせて、同じ五月下旬の連載「音盤時空往来」で、平和裡に合邦したオストマルクこと、旧オーストリアのウィーン国立歌劇場で一九三九年六月十日に、その人の臨席で行なわれた《平和の日》ライヴ盤を使って、初演当時の話が書けるではないか。
 嬉しい。
 此岸と彼岸を、劇場と音盤を、想いがかけめぐる。頭と心の夢幻能。
 はたして何が書ける? 考えるだけでワクワクする。楽しみ。

 開演前にホワイエで片山さんに遭遇。こういうときにこういうところでこの人に出くわす玄妙さ。「レコード芸術」休刊一号前の「レコード小説」のラストはどうも凄いものになりそう。こちらは読者として、とても楽しみ。

 それにしてもシュトラウスって、ほんとうになんでも器用そうなのに、合唱の扱いは苦手だったらしいと実感。それなりに盛りあがる合唱作品は、オリンピック讃歌くらいなのではないか。

四月十三日(木)ターフェル!
 春祭トスカ、ターフェルの強烈な悪魔的スカルピア。一幕後の休憩は、西洋美術館のあれを見ないわけにはいかない。
 地獄の門。
――この門を入る者は、すべての望みを捨てよ!

四月十四日(金)景清の手
 能の話。今年は三月から十月まで、七月を除く毎月、東京で大槻文藏の舞台を見ることができる。とても嬉しい。
 今月は宝生能楽堂で銕仙会定期公演。
・能『景清』大槻文藏
・狂言『薩摩守』三宅右近
・能『杜若 恋之舞』鵜澤光

 平家の侍大将として勇名を誇った、悪七兵衛景清。主家滅亡後に捕えられ、日向の国に流された。今では老いて盲目となり、源平合戦の物語を語る乞食(琵琶法師の原型)となっている。
 景清が昔熱田で産ませた娘の人丸は、長じて鎌倉で遊女となっていたが、父に一目合いたいとはるばる訪ねてくる。父は屋島合戦での自らの奮戦を誇らしげに娘に語るが、すぐに我に返って老身を羞じ、「帰って我が後を弔え」と鎌倉に送り出す。
 高齢のシテ方が、自らの思いを重ねるように個性を発揮する曲なので、いつも見応えがある。文藏も期待通りの素晴らしい舞台。
 豪傑らしくはない。これまで見た景清は大口袴をはいて武者姿を連想させ、老いてなお逞しい、武張った外観が多かったが、文藏は着流しの痩せた姿で、ひたすらに落ちぶれた有様をまず示す。
 娘との再会に涙する場面にも、しっとりとした哀感。
 しかし合戦譚の場面では、上衣を右肩だけ脱ぐことで、甲冑姿を暗示する。
「いで其頃は寿永三年三月下旬の事なりしに。平家は船源氏は陸。両陣を海岸に張つて、たがひに勝負を決せんと欲す」と謡いだした瞬間、声に張りが出て空気が一変し、琵琶法師が戦場を言葉の力で描き出していく調子となったのは、まことにお見事。
 最後、鎌倉に帰る人丸が自らの前を通りすぎる瞬間、「くらき所の燈、あしき道橋と頼むべし」で、左手を人丸の右肩に乗せ、盲者が道を案内してもらう姿勢で数歩だけ共に歩む。しかし「さらばよ留る行くぞとの、只一声を聞き残す」で景清は足を止めて留まり、先へ行く人丸を見送る。背中の寂しさ。

 手が肩に乗ったのは、ほんの数歩の間だけ。しかし娘は、その瞬間の父の手の感触と温もりを、生涯忘れるまい。そして、自らの子にその思い出を語り続けることだろう。景清が「しころ引き」の剛力の記憶を、娘に語ったように。

 景清の生、人丸の生。語り継がれて時を超える物語。瞬間のなかに、無数の人の生がつまっている。
 こういうことを、一瞬のわずかな動作で想像させてくれるのが、能の醍醐味。文藏を見る醍醐味。

 文藏は、橋掛りの演技も大切にする。曲が終わって退場のさい、杖を頼りに歩く盲目の景清が斜めに進んでしまい、欄干に当たりそうになったところを、後ろを歩いていた里人(ワキ)が駆け寄り、方向を直してやる演技を加えた。
 七年前にこの曲を初めて見たとき、喜多流の塩津哲生は、竹杖の先で先を探る音を聞かせながら、たっぷりと時間をかけて橋掛りを去っていった。景清の果てしのない孤独の闇が、その音に象徴されていた。
 文藏の景清はそうではない。狷介なこの老人が、里人に見守られながら生涯を送るだろうことが、この一事に暗示される。それぞれの景清。

 橋掛り上の演技といえば、この晩二番目の『杜若』の鵜澤光も、私が初めて見る工夫を見せてくれた。
 序の舞の途中で、橋掛りの一の松あたりまで行き、左手を頭の上まで高くあげる。そのまま面をうつむかせると、左袖の陰に隠れる格好で、面が闇に沈む。再びあげると、今度は闇から浮かび上がったようになる。とても効果的。
 能舞台だと屋根の全周から照らされているから、翳をつくることはできない。しかし狭い橋掛りならそれができる。
 おそらく誰か先達が思いついた手法なのだろうが、私は見たことがなかった。面白い。

四月二十三日(日)
 国立能楽堂で観世九皐会別会。
・能『住吉詣』鈴木啓吾、観世喜正
・連吟『熊野』観世喜正、光岡良典、久保田宏二、柴田孝宏、坂井隆夫、深津絋
・狂言『二人袴』山本東次郎、山本則重、若松隆、山本凛太郎
・仕舞『誓願寺』観世喜之
・能『望月 古式』遠藤喜久、坂真太郎 坂瞳子、森常好、山本則秀

四月二十六日(水)若手の能
 銕仙会能楽研修所で「青山能」。
・狂言『飛越』野村裕基、野村萬斎
・能『融』観世淳夫
 ワキ:野口能弘 アイ:野村太一郎
 笛:八反田智子 小鼓:曽和伊喜夫
大鼓:亀井洋佑 太鼓:小寺眞佐人
 地頭 長山桂三

 銕之丞の嫡男、淳夫がシテ。地謡も三役も若手主体の演能なので、ひたむきさが何よりの魅力となる。『融』はやはり何度見ても飽きない名作。前場のシテとワキの対話、心の交感は本当に美しい。力と張りのある地謡も気持ちよかった。
 自由席で完売というので、うまく席がとれるか不安だったが、早めに行けたので問題なし。最寄り駅の表参道にある桃林堂で、名物の小鯛焼と五智菓を買う。美味。

四月三十日(日)ソッリマ週間
 ここまでの四月下旬の一週間ほどは、「ジョヴァンニ・ソッリマ・ウィーク」になった。
 イタリアはシチリア生まれのチェリスト、ソッリマ。クラシック奏者としても優れた技術の持ち主だが、ジャンルを自由に越境する名手で、作曲家としても知られる。
 自分も二〇一九年にミューザ川崎で、藤岡幸夫指揮東京シティ・フィルと共演したドヴォルジャークのチェロ協奏曲を聴き、「生き生きと歌い、飛び跳ねていく」、「八艘飛びのような軽快自在な演奏」に圧倒された。
 コロナ禍による二回の延期をへて、ようやくの来日。まずは二十二日にみなとみらいで、原田慶太楼指揮日本フィルと再びドヴォルジャークのチェロ協奏曲。
 今回も鮮烈だったが、思わぬアクシデントがソッリマの才能をいっそう発揮させることになった。首席ファゴットの楽器に故障が発生、修理のため第一楽章後に袖に入って、演奏が中断したこと。
 原田から事情を聞いたソッリマは、弦に音を出すよう求めると、それに合わせて同じドヴォルジャークの旋律(たぶん《民謡風の調べで》)を静かに奏でる。ひき終えてもまだ戻ってこないので、一転してニルヴァーナの曲(たぶん《スメルズ・ライク・ティーン・スピリット》)を、ノリノリの無伴奏でひきまくる。
 お客を沸かせたところに、ファゴットが戻ってきて再開。原田がここでふり返り「まだドヴォルザークです」と客席に声をかけて、さらに空気を和ませる。
 ハプニングを楽しみ、利用して歓びに変える、芸人の鑑みたいなアドリヴ。気の持ちよう一つで「ピンチはチャンス」になるのだなと感服。

 次は二十四日に九段上のイタリア文化会館で「音楽の友」のためにインタヴュー。意外にも仲がいいというムーティのこととか、面白かった。
 この日は、その後にここでドキュメンタリー映画『氷のチェロ物語』の上映会もあった。アルプスで切り出された氷で作ったチェロを、北のトレントから南のパレルモまでイタリアを縦断して演奏するツアーのロード・ムービー。坦々と進むのにけっこう面白くて感動的。本人登場のアフタートークでは四曲もソロをひいてくれて、さらに大満足。

 午後のインタヴューから夜の上映会まで時間があいたので、九段坂を下って夕食。途中、かつての九段会館の玄関部分だけが残っているのが見えたので行ってみる。ここに来るのは高校のときの何かの行事以来だから、四十三年ぶり。
 九段会館は旧称が軍人会館。前庭に弥助砲があるというので探すが見つからない。そういや途中に錆びた門柱みたいなものがあったなと戻ると、それだった。前半分で六十~七十センチくらい。拍子抜けするくらい小さい。
    
 弥助砲とはフランスの四斤山砲の国産版。作ったのは大山弥助、のちの陸軍元帥大山巌。こんなものだったのかと思いながら九段坂を上ると、今度は馬上の大山巌元帥の立派な銅像が。
   
 道を渡れば靖国神社、このあたりは今も軍人の亡魂がいるところなのだなと、あらためて納得。なんというか、大山巌をシテとする新作夢幻能、修羅能の影を見かけたような気になる。
 なにしろ九段坂とお堀に靖国、「坂」と「水」と「神社」、「異界との境界」の典型的な装置が三つもそろっていて、夢幻能の舞台にふさわしい空間。異界をかいま見るワキになったような気分。クラシックの周辺で口を糊している人間としては、《ドン・ジョヴァンニ》の石像の場とかを最初に連想しないといけないのだが(笑)

 二十五日は、いただいた今回の来日公演のプログラム(ディスコグラフィなどもついた力作!)を読みながら、愛聴盤「クランデスティン・ナイト・イン・ローマ」を聴きなおす。二〇一六年ローマでのライヴで、実演でのソッリマの魅力がとらえられている。
 ハイドンのチェロ協奏曲第一番の二楽章のあとに、『その男ゾルバ』の主題によるソッリマ自作の長いカデンツァが挿入され、観客の手拍子が入ったり、最後にニルヴァーナが演奏されたり、二十二日の即興を彷彿とさせる。

 そして三十日、浜離宮朝日での無伴奏リサイタル。期待以上の楽しさ。バッハなどでは湾曲したバロック弓を用い、ソフトで温かい響きを出す。自作はモダン弓で立ち上がり鋭く。さらにアンコールでは頭にマラカスがついた弓、最後は割箸を弓にしてひいてみせ、自由自在。


Homeへ