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十月一日(日)観世会 秋の別会
 観世能楽堂で「観世会 秋の別会」。
・能『姨捨』岡久広 宝生常三
・狂言『成上り』山本東次郎
・仕舞四曲
・能『夜討曽我 十番切 大藤内』坂口貴信 角幸二郎
 藤波重彦 坂井音雅

 『姨捨』は、たいへんな難物なのだなとあらためて思う。後半は見所の集中力が切れている気配を感じて、こちらも集中しづらい。
 近くの席に、たまたま券をもらって見にきたらしいお客が数人いたが、何も知らずにいきなりこの作品を見るのはあまりにも無茶。本番中は静かにしてくれていたのでとても助かったが、曲の後にそそくさと帰っていった。お能ぐらい、出会いかたが難しいものはない…。
 山本東次郎家は則俊以外が総出演。東次郎は狂言に出て、則重に『姨捨』のアイ、泰太郎に則孝と『夜討曽我』アイの大藤内と、二人の弟の長男たちに大役をやらせる。
 『夜討曽我』は「十番切」の小書がつく大チャンバラ。しかし『姨捨』の重苦しい空気を、見所も舞台も引きずってしまったような。切られ役のなかで、関根祥丸の放つ存在感はひときわだったが、ごく短い動きで残念。

十月四日(水)エマールとレヴィット
 最近聴いた新譜二枚、ほんとうにすごい。こんなにワクワクしながら聴ける新譜がまだあることが嬉しい。
 まずエマールとサロネン指揮サンフランシスコ響のバルトークのピアノ協奏曲全集(ペンタトーン)は、この三曲の現代最高の演者の組み合わせ。
 イゴール・レヴィットの新作『ファンタジア』は、選曲構成に演奏、そして録音と、三拍子そろった快作。実演とはまた異なる、レコードならではの快感。

十月六日(金)時の仕切り
 朝はひさしぶりに東京体育館のプールへ。ようやく気候が落ち着いて外を出歩く気になったが、十月の陽差しって、こんなに強いものだったか?
 五十メートルのプールは広々として気持ちよし。東京五輪期間に数年間休館して整備したが、設備は基本一九九〇年開場時のまま。それで、プールを出たあとに両目を水で洗う洗眼器が、何台もまだ残っている。
 七、八年前に初めてここに来たとき、小学校以来の習慣から洗眼器で目を洗ったのだが、自分以外は使っていないと気がついた。帰宅後にネットで調べると、現代は逆に、プール後の洗眼は目によくないということになっていると知った。
 二十歳以来三十年ぶりぐらいのプール体験だったので、まさに浦島太郎。驚いて髪が真っ白になった(ウソ)。
 いまはゴーグル必須なので、そもそも洗う必要がない。しかしごつくて撤去に手間がかかるからか、東京体育館にはいまもなお、洗眼器が並んでいる。
 帰りは千駄ヶ谷から信濃町までJRに一駅だけ乗り、外苑東通りを北上する。
 途中にあるレンガ塀がまだあるのか、確かめたかったのだ。幸い、一部をコンクリで塗りつぶされつつも、駐車場と住宅街のあいだに、まだ残っていた。

 なぜ見たくなったかというと、最近読んだ藤島泰輔の『東京 山の手の人々』(サンケイ出版/一九八七)のせい。
 藤島泰輔(一九三三~九七)は、いま話題の藤島ジュリー景子の父だが、藤島の妻でジュリーの母となるメリー喜多川にくらべて話題になることもなく、ほぼ存在を忘れられている。
 しかしかつては、藤島のほうがはるかに有名だった。学習院で上皇陛下のご学友となり、その体験を元にした小説『孤独の人』でデビューした人。
 『東京 山の手の人々』は、戦前戦後の山の手(当時は山手線の内側のこと)の記憶を書いた、サンケイ新聞連載の随想を集めたもの。
 恩師三谷礼二さん(一九三四~九一)は学習院で藤島の一学年下で、一九五七年、大学四年のときに『孤独の人』の映画版に出演したために大学を除籍されている。保守派の藤島とは政治思想は逆だが、縁は深い。
 そこで、生前の三谷さんが折々に語っていた、戦前のブルジョワの生活を、同窓生の目で語ってくれるだろうと思って入手したのだが、思った以上にドンピシャで、環境はよく似ていた。
 二人とも、維新後に地方に生まれて三菱財閥の重鎮に昇りつめた祖父が、東京での初代となる。藤島範平(一八七一~一九四七)と三谷一二(一八七一~一九六五)という年まで同じ二人で、昭和十三年まで岩崎家の別邸となっていた六義園に隣接する超高級住宅街の大和郷(やまとむら)に、隣同士で豪華な洋館を構えていたという。
 藤島は、赤坂プリンスホテル旧館、現在のクラシックハウス(旧李王東京邸)に行くと、空襲で失われた祖父の館を思い出すという。あれほど大きくないが、車寄せのあるドイツ風の外観と内装は似ていて、イギリス風に紅茶と葉巻の匂いがして、若い叔母がひくピアノが二階から聞こえてくるような家だった。
 この豪奢な祖父が初代で、二代目の父は日銀や三菱財閥につとめて欧米勤務も長く、サラリーマンだがヨーロッパ風の洒脱な生活をする。三代目の藤島や三谷さんは敗戦後の混乱期の学習院で青春時代を送り(中学は戦後も小金井に疎開したままだったという)、アメリカの圧倒的な豊かさと明るさに憧れて育つ。
 ジュリー藤島が私と同世代で、藤島や三谷さんは父と同世代。だから、時代と世代の雰囲気がなんとなくわかる。もちろん、うちが似ているのは年代的要素だけで、ブルジョワの生活スタイルなど、はるか雲の上のものだが。
 しかし、こうした雰囲気は昭和末期には東京では消えかけていたが、軽井沢や山中湖、箱根などの別荘地やホテル、すなわちかれらのために開発された周縁部にはまだ色濃く残っていた記憶がある。というより、今から思えば、あの感じがそれなのだろうな、と納得できるのだ。

 さてこの本に、終戦直後に藤島が父の赴任先の京都から東京に帰って来たときの記憶として、山の手の屋敷町も一面の焼け野原になっていたが、塀だけは焼けずに立っていた、と書いてあった。
 信濃町や四ツ谷の住宅街に妙に古い、長いレンガ塀が少し前までいくつか残っていたのは、戦前の洋館の生き残りだったのかと、これで気がついた。
 内側の家は空襲で焼け、戦後に建てなおされたり、人手に渡って更地になったり分譲されたりを繰り返すなかで、周囲の雰囲気からはおよそ時代錯誤なレンガ塀だけが、用地の仕切り役として、世代を超えて生き残ってきた。
 しかしそれも、遅かれ早かれ大きなビルが建つときには、完全に消える。信濃町のあの塀はまだ残っているだろうかと見に行ったら、残っていた。あらためてみると相当に古いもので、百年前後は経っていそうだ。
 十年ぐらい前までは、近所にやはり戦前の屋敷の名残らしい立派な木が雄大に枝を広げていて、ランドマークのようになっていたが、それはもはや影もない。
 とりあえず撮影して記録に残す。
   
 帰宅して、机の脇の時計を見ると、電池が切れて止まっていた。ふたを開けて前回の交換日を見る。
 二〇二〇年二月十六日。
 ちょうどコロナ禍がはじまり、海外の演奏家が次々と帰国、コンサートが止まりだしたころ。あれから単三電池一本で三年半動いたのだから、たいしたもの。
 その間に、いろいろなことがあった。
 ミュージックバードの番組ナレーションを自宅で録音することになり、あわててマイクを購入して、この時計のすぐ脇に立てた。それから、いくつかの番組が終わっていき、結局、二〇二二年いっぱいですべての番組が終わった。
 この時計の針をいちばん見るのは、半蔵門のスタジオへ収録に行く前に、台本を仕上げるために真冬の午前五時に起きて、朝食用に前夜にコンビニで買ったタマゴロールをほおばっているときや、執筆の合間などに、出発までの残り時間を確かめるためだった。
 今はもうそんな作業はない。会う機会のごく少なくなった、何人ものスタジオの仲間たち。
 この日付を書いたころは、そんな三年後はまったく想像していなかったなと、しみじみと思う。
   
 電池を交換、「2023・10・6」と日付を書きながら、次に電池を換えるときは、世の中はどうなっていて、自分はどこで何をしているのだろうと思う。
 ま、想像もつかない未来のほうが楽しい。淀むよりは流れるのが楽しいにきまっている。
 こいつも写真を撮っておこう。
 自分は、視野のどこかにアナログ時計の文字盤が入っているのが好きなので、部屋のあちこちに時計が置いてある。
 そのなかから、いちばん古いやつ、おそらく三十年近く自分と一緒にいる時計を持ってきて、並べる。
 昔のものだから、単二電池が二本も必要で重く、電子時計でもない。落としたりして秒針は外れ、アラームは狂って、数時間ずれて鳴るから使えない。
 だが、肝心要の時刻は、それでもかなり精確。
 送電線工事の時代から、前の家にいたころから、ずっと一緒の時計。いまも自分の生活を仕切るために働いている。
 これからもよろしく。

――時とともに。

十月八日(日)東次郎の『月見座頭』
 横浜能楽堂で「横浜狂言堂」。
・狂言『縄綯』(大蔵流)
シテ(太郎冠者):山本則重
アド(主):山本則孝
アド(何某):若松隆
・狂言『月見座頭』(大蔵流)
シテ(勾当):山本東次郎
アド(上京の者):山本則孝
お話:山本東次郎

 なんといっても東次郎の『月見座頭』が絶品。終演後、間を置かずに橋掛りを走って登場。先月地方公演でバスに乗ったさいにコロナにかかったこと。三日間入院して、退院するとそのまま国立能楽堂に行って開場四十周年記念公演の『獅子聟』のシテをつとめたこと。その後も体調がさえず、昨日も発熱したが今日は出るといってきかなかったこと。「この年齢になると、今日よくても明日は身体が動くかどうかわからない。だから出られるかぎり出る」こと。
 続いて、弟たちが相手だったころは思いきっていけたが、甥たちが相手の場合は腹のさぐりあいになるところがあること。今も杖を転がしたときに少し離れたら、則孝は間をとろうと謡を伸ばした。お素人が相手ならそういう工夫は大切だが、自分にそんなことは無用なのでムカついていること、など。
 わずかな時間に濃密な話。これからも元気で、いい舞台をもっともっと見せてほしい。

十月九日(月)文藏の『隅田川』
 観世能楽堂で「ひとつのはな」。
・能『隅田川』大槻文藏

 最後の悲しみを生々しく、格調を崩さないギリギリのところで表現。見事。

十月十三日(金)新しい時代へ
 サントリーホ―ルで日本フィルの演奏会。カーチュン・ウォンの首席指揮者就任披露で、マーラーの交響曲第三番。精巧緻密、そして爽快な棒に、高い完成度でオーケストラが応えた。これからも楽しみなコンビ。

十月十七日(火)二つの日本初演
 ヴァイグレ指揮読売日本交響楽団。きちんとした感想は日経新聞に書くが、それはそれとして、今年は四月にシュトラウスの《平和の日》、十月にアイスラーの《ドイツ交響曲》、この対照的な、しかしともにある時代のある男の存在がきっかけとなった二つの曲が日本初演されて、記憶に残る年になった。
 かつて「太鼓たたき」と自ら名乗り、その前には絵描きだった、その男がもたらす憎悪の連鎖。
 この二作品には、それがそれぞれまったく違う形に込められている。ひとつは間接的に、両義的に、都合よく、ひどくあいまいに韜晦された玉虫色の祝典に。ひとつは直接的に敵対し、わなないて爪が食い込むほど強く握りしめられた、鉛色の拳骨に。
 関わっているのかいないのか、どうともとれるツヴァイクと、全身をさらすブレヒト。
 そしてそれぞれにベートーヴェンを源泉としている。ひとつは《フィデリオ》を。ひとつは「第九」を頂点とするドイツ音楽のパンテオン、「交響曲」なる象徴化された神殿を。
 憎悪の波。旧東独時代の生活を語ったときのヴァイグレの目に宿った、あの暗い影。ウクライナに続いてパレスチナで憎悪から憎悪が生まれる、今日ただいまの地上。
東京という一隅。

十月二十日(金)現代語の字幕
 国立能楽堂ショーケース。
・狂言『太刀奪(たちうばい)』善竹大二郎(大蔵流)
・能『紅葉狩(もみじがり)』観世喜正(観世流)

 初心者にも安価に能に親しめるようにという「ショーケース」。中身は充実している。ただ地謡が六人で迫力不足だった。それから字幕が詞章ではなく、現代語による説明だったのだが、どうも味気ない。古語に宿る精気が失われてしまうような。
 しかし考えてみれば、西洋のオペラの日本語訳の字幕も、意味は理解できても原語の品格のようなものは、やはり失われているのだろうなと思う。

十月二十四日(火)マケラの特性
 昨日と二日続けてサントリーホールでマケラ指揮オスロ・フィル。勢いは素晴らしいが、粗さも気になる。オーケストラの力量や特性がはっきり出てしまうのが、今のマケラの難しさか。

十月二十五日(水)ゴルトベルクの旅
 王子ホールで、ジャン・ロンドー弾くゴルトベルク変奏曲。冒頭の即興演奏も加えて、百十分休憩なし。CDと同じくすべて反復するのでこの長さ、しかし間然するところなく艶やかに歌う。ドイツ風の明確なドラマ性とは異なる叙情性。極端に照明を落とした薄明のなかに響く音の旅。

十月二十六日(木)露に映るは
 国立能楽堂開場四十周年記念公演。
・狂言『菊の花(きくのはな)』野村萬(和泉流)
・能『檜垣(ひがき)』 金剛永謹(金剛流)

 昨日のゴルトベルク百十分に続き、今日は能百二十五分。いずれも休憩なしの上演で、素晴らしく濃密な時間と空間。
 今日は金剛永謹の『檜垣』。能の最奥の曲とされる「三老女」の一つ。この曲に関しては、自分は「三老女」の中でもいちばん運に恵まれていて、二〇一九年九月に観世流永島忠侈、昨年五月に大槻文藏(蘭拍子の小書付)と、一生物の体験を続けてできた。そして今日もまた。「三老女」の中でも、見る側も演る側もポイントをはっきりさせやすい曲ということがあるのかも。
 ぐっと抑えた謡も囃子も素晴らしい。そして金剛流の地謡の、独特の色気。ときに清元みたいな官能性さえはらむのが素敵。
 現代人がいちばん親しみにくい、動きの少ない「序の舞」が、じつは万華鏡のように静かに変化を重ね、流れていることを、素人にも感じさせ、集中力を持続させる見事な舞。
 そして、驚かされたのが面の美しさ。「老女小町」という洞水作の面だそうだが、たしかに老女なのに絶世の美女だった、いや今もやはり美女だと、ほれぼれとさせる面。
 こんな面は見たことがない。おそらくは現物がそうである以上に、優れたシテ方がかけて生命を与えることで、さらにその美しさが輝いている。
 そして金剛流では、最後に独自の詞章が追加される。
地謡「教えの本の悟りをば」
シテ「胸なる月や澄ますらん」
地謡「心の玉の台の濁りにしまぬ、蓮華のはやく仏道なりにけり、蓮華のはやく仏道なりにけり」
 これは古今和歌集の僧正遍照の「蓮葉の にごりに染まぬ心もて なにかは露を玉とあざむく」が本歌らしい。そしてこの追加部分は、前の部分の詞章に対応している。
シテ「思ひも深き小夜衣の」
ワキ「袂の露の玉襷」
シテ「影白川の月の夜に」
ワキ「底澄む水を」
シテ「いざ汲まん」
地謡「釣瓶の水に影落ちて、袂を月や上るらん」
 煩悩の深さを象徴する水。しかしその底は澄んでいる。
 月の影が水面に映って、天界と水底が結ばれる。
 その水を汲む袖の袂に水滴が飛び、その露にも月が映って、玉のように輝く。
 水底の冥さと、袂を上る露の輝き。
 その水滴は澄んだ心か、はたまた心をもてあそぶ煩悩か。
 なんという詩的な喚起力。古歌の力を借りて世界が無限に深く広がる。こういうところ、世阿弥はほんとうに物凄い。そして、シテとワキと地謡が交唱する、その抑揚の美しさ。
 日本語の詩的な力というものを、自分はまだまるで知らないのだなと、実感する瞬間。
 世阿弥が水に感じる官能と、金春禅竹が植物に感じる官能。炎でも動物でもないものから官能を引っぱりだすのが、二人の天才的能作者のすごいところ。

 末尾の部分、金剛流以外の他の四流ではその前の「罪を浮べてたび給へ」という詞で、夢幻能のいつものパターン通りに終わる。
 一対四という割合からいけば、金剛流の末尾は後人が追加したものという感じだが、古歌を巧みに借りて織り込んでいること、前述のようにそれ以前の部分にも古歌を連想させる詞句があることを思うと、金剛流版こそが世阿弥のオリジナル、初稿ではないかという気がした。

十月三十日(月)来年の東京春祭
 午前に東京文化会館小ホールで東京・春・音楽祭の記者会見、午後にサントリーホール青薔薇で外山雄三さんお別れの会、夜に東京文化会館に戻って大ホールでヴァンスカ指揮都響のシベリウス後期プロと、ジャーナリスティックな一日。
 二十回目となる来年の東京・春・音楽祭は、例年以上に盛りだくさん。大物はヤノフスキ指揮N響の《トリスタンとイゾルデ》と《指環》ガラ、ヴァイグレ指揮読響の《エレクトラ》、モランディ指揮東響の《ボエーム》、そしてムーティ指揮東京春祭管の《アイーダ》という四+一の演奏会形式オペラに加え、ケーニヒス指揮都響によるブルックナーのミサ曲第三番。
 室内楽やリサイタルも面白そうなものが並ぶなかで特に目をひくのは、ディオティマ弦楽四重奏団によるシェーンベルクの弦楽四重奏曲全曲と《浄夜》ほか、一日で計六時間のマラソンコンサート。
 二十回を期に、これからは過去の名作だけでなく現代の音楽にも力を入れていくそうで、アンサンブル・アンテルコンタンポランの登場がその始まりとなる。
 ムーティのオペラ・アカデミーは、九月に独立して行われる予定で、《アイーダ》はそれとは違う単独公演。
 あと、三井住友銀行東館でやる「子どものための《トリスタンとイゾルデ》」も、なんというか絶対矛盾的自己同一な感じで(笑)、楽しい。

十月三十一日(火)トリスタン密度
 気がつけば来年三月後半の東京の「トリスタン密度」は、物凄い。
十四日(木)十六時 新国立劇場
十七日(日)十四時 新国立劇場
二十日(水・祝)十四時 新国立劇場
二十三日(土)十四時 新国立劇場
二十三日(土)十四時 子どものための
二十四日(日)十四時 子どものための
二十六日(火)十四時 新国立劇場
二十七日(水)十五時 東京春祭
二十八日(木)十九時 子どものための
二十九日(金)十四時 新国立劇場
三十日(日)十四時 子どものための
三十日(日)十五時 東京春祭
三十一日(月)十四時 子どものための

 二十三日と三十日以外は重複しないので、十八日間に十一回(全曲は八回)トリスタンを見ることができる! 二十六日から三十一日にかけては毎日トリスタン。廃人必至…。


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