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一月一日(月)龍の年
 元旦。二〇二四年の一枚目は、カペッラ・デ・ラ・トレによるモンテヴェルディ・アルバム。かれらのカヴァッリ・アルバムがよかったので買ってみた。さまざまな曲を一晩のコンサートのように構成した選曲、トラッド・ミュージック的なリラックスしたノリが心地よし。
 今年は辰年。龍といえば不識庵謙信の突撃旗、懸乱れ龍一字の旗。流れるように、ばんばん原稿が書けますように!
 そして地には平和を。

 しかし夜。東京は穏やかでよい日だったが、恐ろしいことがよりによって元旦の夕方に起きてしまった。
 被害が少しでも少なくすむことを、そして被災者の方、救難と支援に関わるすべての方のご健康と、一日も早い日常への復旧を祈るばかり。

一月五日(金)嘆きの底にある者を
 川口リリアで、濱田芳通率いるアントネッロによるモンテヴェルディの《聖母マリアの夕べの祈り》。
 時空を超え、未来にひらかれた永遠の名作(=永遠に未完成)の、生命力に満ちた美しい名演。
 父と子と精霊、三位一体の威厳にみちた愛を讃える多彩美麗な音楽のなかから次第次第に姿を現す、マリアの慈愛への切実な祈り。
 「祈り」の音楽である以上は、憂き世から目を背けるわけにはいかない。おそらく濱田さんの選択だろうアンティフォナには、ドキリとするような、胸を突くような訳語(佐藤いづみ訳)があてられている。

Pulchra es et decora filia Ierusalem;  なんと美しいことか、艶やかなエルサレムの娘
terribilis ut castrorum acies ordinata 端整な眼差しは軍隊のように恐ろしい

 そして作品を締めくくるマニフィカトの、前後におかれてくり返されるアンティフォナは、こう始まる。

Sancta Maria succurre miseris,   聖マリアよ、この世の不幸に思いをめぐらせてください
juva pusillanimes, refove flebiles 内気な者を支え、嘆きの底にある者を蘇らせてください

 元日の能登半島地震により、多くの人が苦難と悲嘆のなかで「正月-1.0」のごとく始まった二〇二四年。
 幸いにして私は何も失っていない。それでもなお、この詞とその響きを目と耳にした瞬間、涙があふれそうになって困った。
 私は何も失っていない。
 個人的には、とてもとても意義深い誕生日となった。そういえば前日、今年初めて行なったフレッシュネス占いには、こうあった。

Happiness depends on you

一月八日(月)懸乱れ龍
   
 いよいよ寒さのピークの一月後半は、アーミーベレーが必需品になる。もう五年目、黒一色では殺風景だけれど、これ見よがしなエンブレムもいやだしと思っていたところ、直径二センチのピンバッジを購入。不識庵謙信の懸乱れ龍。辰年だからちょうどいい。こういうのを探して見つけられるのは、ネット時代のありがたいところ。

一月十日(水)免許更新の浦島太郎
 外出仕事初め。中身が濃かった。午後は朝日カルチャーセンター新宿教室で、「巨匠が敬愛する大作曲家」の第一回、「クナッパーツブッシュ指揮のワーグナー」。フラグスタートが歌う〈エルザの夢〉は、四十年前の自分にとっての、いろいろな「始まり」だったのだなあと、あらためて思う。
 終了後、運転免許の更新に新宿免許センターへ。今は誕生日すぎてからでも普通に更新できるから楽になった。前は一日過ぎただけでも、住民票持ってこいだの、いったん切れたから取得年が変わってしまうだのといわれて、年末や年初に生まれた人間は忙しかったり休みになったりで、とても気ぜわしかった。更新案内のはがきもなく、切れる前に自分で気がつかないといけなかった。このへんは便利になった。
 新宿免許センターは朝カルのある住友三角ビルの斜向かいのビルの南隣、つまりビル二つ移動するだけなのだが、そのビルというのが都庁の第一本庁舎と第二本庁舎なので、五百メートルぐらい歩かされることになる。巨大ビルとだだっぴろくて横断可能な場所が少ない道路ばかりの、人間疎外の新宿副都心。
 ペーパードライバーになってゴールド免許が二十年。講習が短くて楽だが、係員の男性たちが同年配かその前後ぐらいになってきている。前はうんと年の離れたオジサンばっかりだったのに(笑)。五年に一回しかこないから、浦島太郎化がきつい。次の次の頃には、年下ばかりになっているはず。二月からは予約制になるそうで、手間が増える。
 帰りは都庁から地下通路を歩いて丸ノ内線の西新宿駅へ。店舗も何もなく、灰色のコンクリの壁だけの妙に大きな通路は殺風景きわまりないが、災害時の避難場所としては最適なんだろうな、などと考える。信号がないのは楽だが、そのぶん歩きづめになるので、変化がなくとても遠く感じる。
 新宿御苑で途中下車して、ひさしぶりにコメダ珈琲。シロノワールの「いちごのミルフィーユ ミニサイズ」を食す。美味し。
 夜はサントリーホールで読売日本交響楽団。藤田真央のひくブラームスの協奏曲第二番が素晴らしい。藤田のピアノがつねに明快に聴こえていたのには、練達のオペラ指揮者であるヴァイグレの音の出し入れの手腕も大きいのだろう。
 来週はこの人の指揮で待望の《リエンツィ》序曲が聴ける。東京春祭の《エレクトラ》も楽しみだが、《リエンツィ》本編もワーグナー・シリーズの特別篇として、いつか聴いてみたい。

一月十三日(土)はるかな月
 東京文化会館小ホールで、現代音楽プロジェクト「かぐや」。物語をなぞるのではなく、そこからイメージをふくらませ、植物の生命力と、届かぬものの象徴としての月。前者には金春禅竹の能を想い、後者には能『姨捨』を想う。
「わが心慰めかねつ更級や姨捨山の照る月をみて」
 自然の猛威。それを破壊しつつある人類。月は、人間が行ったことのある場所のなかでも、まだ破壊の手の及ばない、最後の場所なのかも、などと思う。

一月十四日(日)今日の御祈祷なり
   
 今年初の能。宝生能楽堂で「宝生会特別公演」。
・能『翁(おきな)』澤田宏司
・狂言『酢薑(すはじかみ)』野村萬
・能『大原御幸(おはらごこう)』佐野由於
・能『正尊(しょうぞん)』佐野登

 宝生流の新年最初の公演とあって、門松や祝樽が飾られて賑々しい。客席も完売。そして年の初めはやはり『翁』。
「およそ千年乃鶴は萬歳楽と歌うたり、また萬代の池の亀は甲に三極を戴き。渚の砂さくさくとして朝の日の色を朗じ、滝の水冷々と落ちて夜の月鮮やかに浮んだり。天下太平国土安穏。今日の御祈祷なり」
 狂言は、十日に九十四歳になったばかりの野村萬がシテ。驚異的。まさしく萬歳楽。

 その後は特別公演の名にふさわしく、舞台に大人数が出る芝居的な能。とはいえ二曲の雰囲気は大きく異なる。
 平家滅亡後、大原の寂光院に隠棲した建礼門院を後白河法皇が訪ねる場面を描く『大原御幸』で目に見えるのは、晩春の山里に寂しく暮らす三人の尼たち。しかし、動きの少ない、穏やかな舞台の向こうに、女院が自ら体験し回想する源平の争乱、一門の流浪と滅亡の惨劇が、目に見えないイメージとなってわき上がってくる。
 散る花や柳の枝を静かに浮かべた淵や川の水面が、一門の運命を呑みこむ壇ノ浦の、激しい波濤と深くて冥い海底のイメージを喚起する。その明暗の落差。
 白州正子はさらにこの能から、みずみずしく若く美しいままに落飾し、寄るべを失った女性を見る、男たちの卑しく意地悪な欲望の視線の、その代弁者としての後白河法皇を見いだした。たとえば以下の詞章などは、海に身を投げた若き美女が漂い、華やかな錦の装束や黒髪が波に翻弄され、ついにずぶ濡れの姿で東国武者たちの手で陸に引き上げられる、その光景のエロティシズムを暗示していると喝破した。卓見と思う。
「寂光院の有様を見わたせば、露むすぶ庭の夏草しげりあひて、青柳糸を乱しつつ池の浮草波にゆられて、錦をさらすかと疑はる」
「法皇池の汀を叡覧あつて、池水に汀の桜ちりしきて、波の花こそ盛なりけり」
 地味な視覚とのコントラストのなかで詞章がイメージを喚起する力が、この曲の生命。何度見ても心打たれる名作。

 一方の『正尊』は、派手な斬組み、つまりチャンバラもの。大原御幸の半年ほど前、兄頼朝が放った刺客正尊(土佐坊昌俊のこと)一党を、見事に返り討ちにする義経と静、弁慶以下の郎党たち。観世流では義経の郎党二人が多人数の敵を切り伏せていたが、宝生流では四対四の同人数の戦い。このあたりは流派によってさまざまらしい。
 平家を滅ぼした勢いそのままの、軍神のごとく勇壮な義経主従。しかしじつはこれが最後の勝利となり、あとは坂道を転げ落ちるように没落し、潜伏行の末に奥州へ落ちることになる。「猛き者も遂には滅びぬ」。
 静寂と諦観の背後に、争乱の叫喚と妄欲の視線が暗示される『大原御幸』と、先に待つ敗亡を想像せずにはいられない『正尊』。こうしてみると良い組み合わせ。イメージを多層化させる力こそ、能の魅力なのだから。

 それにしても、宝生能楽堂で見る宝生流のシテ方たちは、国立能楽堂で見るときよりも、自信と力にあふれているような気がした。やはり本拠地がもたらすものは特別なのか。この建物、建て替えをめぐってもめているけれど、うまくまとまってほしいもの。

一月二十二日(月)林檎と桃
 Apple表参道にて「Apple Music Classical プレス発表会」。定額ストリーミング配信のApple Musicに、二十四日から日本語版のApple Music Classical アプリが追加料金なしで加わる。クラシック音楽に特化したアプリ。
 クラシックは、音楽ジャンルのなかでも楽曲に付随するデータが圧倒的に多種多様で特殊。そのデータを使いやすく整え、CDを上回るハイレゾの音質で聴けるものもあるとなると、かなり魅力的なことはたしか。しかも追加料金なし。CDとの併用に心が動く。
 それにしてもApple表参道はおしゃれ。IT業界は華やか。

 取材を終えて、「表参道とくれば桃林堂の小鯛焼!」というわけで交差点角の桃林堂へ。
 絶品の小鯛焼、いまはなんとバレンタインデー用の「バレン鯛ンチョコ」もあるという。「尻尾のビターチョコと八朔ピール入り餡が絶妙」だそうなので、我慢できずに六個のうち半分をそれに。
   
 さらに商品棚を見ると、節分用の菓子「福は内」もある。「漉し餡(鬼)と白漉し餡(お多福)の可愛い?焼菓子」ということで、これも我慢できずに買う。
 節分にバレンタインデー、和洋なんでもありの日本ならではのいい加減さの快感(笑)。能楽に親しむようになって、微妙に移り変わる季節の風物を楽しんでこそ、この国に暮らす面白みという思いが強くなった。時候物はすべて楽しい。

一月二十三日(火)なおも我は愛さん
 トッパンホールでボストリッジ。痛いほどに鋭く美しい歌と言葉への、打てば響くドレイクのピアノの見事なバックアップ。前半のシューベルトも、後半のパーセル(ブリテン編曲)もブリテンも、喪失の悲痛とはてなき孤独を歌う。
 特に後半は、心の安息を神に祈るパーセルの《夕べの頌歌》を序幕として、現代の現実世界の悲哀を預言したかのように、《女王の死を悼む悲歌》、そして一九四〇年の空襲下のロンドンと、ウクライナやガザが重なるブリテンの《事の核心》へ。
 「十字架の上に打たれた一九四〇本の釘のごとく」(青澤隆明訳)の、「nineteen hundred and forty nails」の響きの、心に突き刺さる実在感。
 そして、

  そのときあの方の声が鳴り響く、人間の心臓のごとく
  かつて獣たちの間に寝かされし幼子であられた方の声が──
  「なおも我は愛さん、なおも罪なき我が光、我が血を流さん、汝のために。」

──なおも我は愛さん(Still do I love)。

 この一節に、遠藤周作の『沈黙』の、あの言葉を思い出す。
「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ」

一月二十四日(水)
 サントリーホールでソヒエフ指揮NHK交響楽団。モーツァルトの協奏交響曲とベートーヴェンの《英雄》、変ホ長調つながりの二曲。見事に波打ち、充実の生命感に満ちた古典派二曲。

一月二十五日(木)
 東京体育館プールで泳いだのち、いつもの喫茶店でモーニング。だがスープセットが消滅し、リカちゃんサイズのトーストサンドなどになってしまった。卑俗なる喪失の悲しみ。
 夜は王子ホールで、『天鼓』。前場は能、後場は新たに作曲された、ヴァイオリン四重奏と小鼓による能舞。息子を失った父の悲しみと、そして《ローエングリン》前奏曲のごとく天から降り、また昇っていく鼓。

一月二十六日(金)洋の東西
 サントリーホールで、カーチュン・ウォン指揮日本フィル。シェフでなければ不可能な意欲的プログラム。東アジア人として、東西の音楽の交流を象徴する作品群。
 カンボジアから一九六四年に渡米したチナリー・ウンは、カンボジア内戦のさなかには創作を止め、難民支援と自国の音楽文化を保存する活動に没頭。その後に生まれた《グランド・スパイラル:砂漠に花が咲く》では、雅楽を想わせる響きが興味深い。
 プーランクが一九三二年に書いた、二台のピアノのための協奏曲は、いかにもこの時代らしい機械的でメタルな機能性に、モーツァルトやジャズの影響を採り入れた賑やかなおもちゃ箱のなかに、前年にパリで開催された「植民地博覧会」で聴いたバリ島のガムラン風の音楽が入り込む。無邪気なオリエンタリズム。
 後半、コリン・マクフィーの《タブー・タブーアン》は、ガムランに魅せられたアメリカ人の作品。細かい動きが先週聴いたジョン・アダムズに通じていく。
 おしまいにドビュッシーの《海》。そこにあるのは、東洋的五音階のジャポニスムと、一八八九年のパリ万国博覧会で聴いたガムラン。カーチュン・ウォンは印象主義的な靄を吹き払い、精妙に音の綾を描き出し、パーカッションや管楽器の動きを顕在化させることで、この作品のなかの「アジア」をわかりやすく引っぱりだす。
 今日の全体のプログラムのなかでこそ可能な、意図がよく伝わる解釈。知的な刺激に満ちて、面白い。オーケストラも鋭敏に反応し、プーランクとマクフィーでの児玉姉妹のピアノの冴えも印象的。
 西洋人にとっての東洋と、東洋人にとっての西洋。その質の差も考えさせる演奏会。
 ここにいたって、昨夜の『天鼓』でも洋の東西が出会っていて、今日とひとつながりだったことに気がつく(そうか、『沈黙』も、か)。

一月三十日(火)ショパンのピリオド
 オペラシティで、「第二回ショパン国際ピリオド楽器コンクール優勝者コンサート」。エリック・グオが一八四三年製プレイエルを用いて、鈴木優人指揮BCJと共演。
 《フィガロの結婚》序曲、ショパンのピアノ協奏曲第二番と第一番。後者のほうが弾きなれているようで、演奏スタイルにも合って映える。そして、ショパンにはピリオド楽器のオーケストラの方がいい。響きが透明で多彩。

一月三十一日(水)休憩のタイミング
 新国立劇場で《エフゲニー・オネーギン》。今シーズンのレパートリーものはレベルが高い。大野和士監督の効果か。
 ウクライナとロシアの歌手たち。国外で活動している後者は、どんな葛藤を抱えているのだろうか。
 このプロダクション、初演のときは松本と演目が重なったこともあって見損ねたが、素直で楽しめる。ただ、休憩を一回にするべく第二幕の第一場と第二場の間だけ休憩にしたのは、決闘に向かって緊張が高まる箇所だけに、ドラマの流れを壊してしまう。
 月日が経過して、中断しても無理がないのは第二幕と第三幕の間だが、ここだけだと後半が短すぎて、バランスが悪すぎる。たしかに、休憩は二回より一回の方が無駄がなくてよいのだが…。


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