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三月二日(土) 空蝉の能
観世能楽堂で「大槻文蔵裕一の会 東京公演」。
・復曲能『碁』 大槻文蔵
・狂言『伊文字』 野村万作
・能『融 思立之出 舞返之伝』 大槻裕一
今年は大河ドラマの『光る君へ』を意識して、能楽では源氏物語にまつわる曲の演能が多い。『碁』もその一つで、「空蝉の巻」を題材にした複式夢幻能。
シテ(大槻文藏)は空蝉の、ツレ(大槻裕一)は軒端の荻の幽霊で、光源氏がのぞきみた、生前の二人が碁を打つ場面を、ワキ(宝生欣哉)の僧の前で再現する。碁盤の作り物が出てきたり、それに唐織の上衣をかぶせてセミの脱殻のようにして「空蝉」のさまを表現したりと、復曲能らしい独自の工夫が楽しい。
二〇一九年四月二十五日の国立能楽堂主催公演を見たときの日記に、ストーリーなどは書いている。ただそのときは蝋燭能だったので、雰囲気はあったが字幕がないために詞章がつかみきれず、細かい動きもわからなかった。
今回はそのときのプログラム掲載の詞章を手に見ることができたので、場面がよくわかった。碁の勝負に敗れたために寝床に「空蝉」をつくり、出ていく空蝉が、シテ柱に手を回して悔しさを表現するあたり、さすが大槻文藏。地頭の観世喜正が息を長く、ゆったりと謡わせることで、梅若実の名人芸を引き継ごうとしてくれたのも見事だった。
対照的に大槻裕一の『融』は、若さを前面に押し出したもの。前場はおよそ老人ぽくないが、後場で「舞返之伝」の小書の舞で、強烈なスピード感を味わわせてくれた。これはこれで、若いときにしかできない、いさぎよい表現。気持ちよかった。
そして装束の美しさ。月光のように輝くシャンパンゴールド。二〇二一年に見た塩津哲生の『伯母捨』を思い出す。どちらも月下の能である。
三月十日(日)誓願寺
矢来能楽堂で観世九皐会公演第二部。
・仕舞『西王母』観世喜之
・仕舞『西行櫻』弘田裕一
・仕舞『玉之段』桑田貴志
・能『誓願寺』観世喜正 宝生欣哉
三月十一日(月)桜はまだかいな
去年の今日は、近所の高遠桜(河津桜より遅いが染井吉野より早い)がもうかなり咲いていた。今年はまださっぱり。去年よりまるで遅い。
三月十五日(金)スエズと螺旋階段
「東京・春・音楽祭」が始まった。
自分は月末から聴き始める予定だが、今年は音楽祭公式プログラムの《アイーダ》の解説として「スエズ運河と《アイーダ》~渋沢栄一が見たもの」という一文を寄せた。
「渋沢が初めて海外を旅行したのは、江戸時代が終わろうとする、慶応三(一八六七)年である。ときの将軍徳川慶喜が、パリで開催される万国博覧会に弟の徳川昭武を派遣するさい、一行二十八人に、自らが信頼する幕臣、渋沢篤太夫こと栄一を加えたのである。
横浜からの四十日の航海ののち、昭武たちは紅海北端のエジプトの港町、スエズに到着する。当時、スエズ運河はまだ工事中だった。運河に並行する鉄道を使って、一八五九年に始まった大工事の現場を眺めながら、一行は地中海沿岸のアレクサンドリアに向かった」
「一八六九年十一月、スエズ運河はついに完成し、地中海と紅海が運河で結ばれた。喜んだイスマーイール・パシャは、祝賀事業の一環として、カイロにオペラ・ハウスを建て、運河開通と時期を合わせて開場させた。そして、その開場式典のための音楽を、ヨーロッパを代表するイタリアの作曲家、ジュゼッペ・ヴェルディに依頼したのである」
という感じで、スエズ運河とパリをポイントに渋沢栄一と《アイーダ》をつないだもの。自分にとっても、書きながら多くのヒントを得るものとなった。
その主要会場となる東京文化会館の螺旋階段、前川圀男のサイケなデザインが好きなのだが、場所によって青と赤がある。青は楽屋側、赤は客席側。アボラスとバニラみたいな(古い)。
三月十六日(土)都の春も惜しけれど
国立能楽堂で「金剛流 能楽公演」。
・能『高砂』金剛永謹
・狂言「佐渡狐」野村萬
・仕舞『巴』廣田幸稔
・仕舞『網之段』今井清隆
・仕舞『春日龍神』種田道一
・能『熊野』金剛龍謹
京都を本拠とする金剛流一門による東京公演。自由席なのが面倒だが、そのぶん料金が安い。金剛流は舞も謡も輪郭がくっきりしていて好き。能二番はもちろん、種田道一の仕舞の妙にも感服。
三月十七日(日)サクラサク
十一日にはまだ全然と書いた高遠桜、今朝はもうけっこう開花。まだまだだけれど、このくらいのほうがワクワク感があって、かえっていいのかも。
午後二時から国立能楽堂にて「山本会別会」
・狂言『靭猿』大名:山本東次郎 太郎冠者:山本則重 猿引:山本則秀 猿:山本則匡
・狂言『月見座頭』座頭:山本凛太郎 上京の者:山本東次郎(山本泰太郎の代演)
・狂言『老武者』 宿老:山本則孝 三位:山本則重 稚児:山本則光 宿主:若松隆
則秀の一子則匡が『靭猿』デビュー。『月見座頭』では凛太郎が座頭を披く。『老武者』は、いわくあり気な旅人が連れている美しい稚児を見ようと、若衆と老侍が争う話。室町時代の稚児趣味を題材にした狂言として名高いが、人数が必要なこともあって上演機会が少ない。やっと見られた。
三月十八日(月)十八時三十分開演!
今日のミンコフスキとOEKの東京公演@サントリーホール、十八時三十分開演。ここにこうして書かないと、忘れる気がする。長年の習性で、それでもいつもの時間のメトロに乗りそうな気がして怖い……。
十八時三十分開演!
三月二十日(木)トリスタンまつり
ヤマザキ春のトリスタンまつり。
「僕は、《トリスタン》をみるんだ!」
一九八三年にミュンヘンで初めて舞台上演を見てから四十一年になるが、わずか十日ほどの間に、別々の出演者による舞台上演と演奏会形式を、東京にいながらにして続けて体験できるなどという贅沢は、これまでなかったこと。
自分のように、この作品に魅入られてしまったために堅気の道を踏み外した人間にとっては、祭りというより祀り。
Ach, Isolde, Isolde! Wie schön bist du!
──ああ、イゾルデ、イゾルデ! なんて君は美しいんだ!
第三幕のこのトリスタンの叫びそのままの、作品への思い。
新国のワーグナーでは吉例となっている、わが幕間弁当、珈琲館のミックスサンドも、第二幕後にしっかり食べた。
先月から《美しきエレーヌ》《タンホイザー》、そして《トリスタンとイゾルデ》と、十九世紀半ばの作品を三つ続けて見ることができた。
共通するのは、中世キリスト教的道徳を突き破る、古代の愛の女神の凄まじき力。前二者でウェヌス、《トリスタン》でフラウ・ミンネと呼ばれる女神。主役の男女二人に歓喜と死をもたらすもの。
《美しきエレーヌ》の場合は、作品のなかではあえて語られないトロイア戦争という大悲劇に発展し、多くの人の人生を狂わせる。その結果の一つ、《エレクトラ》も続けて来月に見られるのが「東京勝手にチクルス」の嬉しいところ。
今回の舞台、プログラムの山崎太郎さんの作品ノートに、「トリスタンに対して愛と妬みが入り混じった複雑な思いを抱いているのは確かだろう」とあるとおり、メロートがトリスタンに対して同性愛的な感情を隠しもっているように感じられたのが面白かった。はっきりは示さないが、演技や字幕が、なんとなくそれをほのめかしている。クルヴェナールに殺されるのに、最後の言葉は「トリスタン…」だし。
映画『ベン・ハー』で、メッサラはベン・ハーを愛しているのに、ノン気の相手がさっぱり気がつかないため、愛が憎悪に変わるという裏設定が隠されていた(監督はメッサラ役の役者にだけその設定を教え、チャールトン・ヘストンにはわざと話さなかった)という話を連想した。
ベン・ハー同様にトリスタンもまったく気がついていないが、クルヴェナールは少し気づいているのかもしれない。わざわざメロートにトリスタンの遺骸を見せつけて、愕然とさせていたし。
すると、ではクルヴェナールは……というあたりからは、BL好きの方におまかせ(笑)。
続く東京春祭の演奏会形式上演、こちらはどんな想像の翼を与えてくれるのか楽しみ。ただし「よい子のためのトリスタン」は日程的にあきらめざるを得ず、残念。
舞台上演に接してあらためて思ったのは、第二幕最後のトリスタンの述懐とイゾルデへの問いこそ、全曲の「結び目」なのだということ。
それまでのドラマのすべてを引き受けて、永久の闇の国を現前させ、第三幕の展開を予見する。そしてイゾルデの決意を聞いたあとの、その額への静かな口づけ。愛の成就。
こここそが、全曲で最も美しい瞬間かもしれない。
二十三年前、二〇〇一年のレコ芸のHMV広告ページに書いた一文の初めのところを、おしまいに。
「夕闇のトリスタン」
──トリスタンがこれから行くところに、イゾルデも来てくれますか。そこは、陽の光のけして差さぬ土地です。
日暮れどき、川原に立たれたことがあるだろうか。
対岸の土手のむこうに夕日が沈んでゆき、川辺の茂みの闇は深く深く、川面は黒々と残光に照りはえながら、引きずりこむように流れてゆく。
ふと振りかえれば、青い輪郭だけになった友人の顔。
《トリスタンとイゾルデ》第二幕の大詰め、禁じられた愛の露顕を知ったトリスタンが、死を覚悟して歌いだす場面を聴くと、それも、フリッツ・ライナーが指揮をしたこの場面の録音を聴くと、闇が包んでゆくあの川原の光景を、かならず思いだす。
わたしにとってライナーの録音は、この場面をこそ聴き、あの夕闇を追体験するためにこそ、存在しているといってもいい。
まとわりつくかのように、足をさらうかのようにからみつくオーケストラのむこうから、メルヒオールの雄雄しくも哀しい歌声がひびく。
三月二十六日(火)祝祭の二十年目
ミューザ川崎でフェスタサマーミューザ2024のラインナップ記者発表会。
二〇〇五年に始まって今年が二十年目(東京・春・音楽祭もラ・フォル・ジュルネもみな二〇〇五年に始まっているのが面白い。規模の大きな音楽祭が震災やコロナ禍を乗りこえ、東京に根をおろしているのは、本当にすばらしいこと。そういえば、拙サイトを始めたのもこの年だった)。
七月二十七日~八月十二日の期間、首都圏九つのオーケストラと洗足学園音楽大学、昭和音楽大学にくわえて、今年は「浜松国際管楽器アカデミー&フェスティヴァル ワールドドリーム・ウインドオーケストラ」と兵庫芸術文化センター管弦楽団が登場。
ノット指揮東響のチャイコフスキー・プロで始まり、沖澤のどか指揮読響、井上道義指揮新日本フィルのマラ七、原田慶太楼指揮東響の伊福部昭の「ヴァイオリンと管弦楽のための協奏風狂詩曲」とバーチャルアーティストが独奏するラプソディー・イン・ブルー(初演百年)などのほか、アニヴァーサリーのシェーンベルク、ブルックナー、団伊玖磨、プッチーニ、ホルストの作品も登場。
個人的には初日のノット指揮のチャイコの交響曲第二番《小ロシア》に注目。ウクライナ民謡の旋律を使ったこの曲、ロシア側からの蔑称といってもいいニックネームを、はたして今後も使っていいのかという話が開戦直後に出ていただけに、あらためて実演で聴けるのは意義深い。しかも《悲愴》との組み合わせ。
三月二十七日(水)ギターのティボー
日本語解説を担当した、ティボー・ガルシアのアランフエス協奏曲の国内盤が発売された。国内盤はSACDなので音の伸びと広がりがまし、持ち前の滴るような美音がさらに気持ちよく再現され、おすすめ。グラスバーグの指揮も鋭敏で好きだ。
五月の来日ではリサイタルのほか、原田慶太楼指揮の群馬交響楽団と共演してアランフエスを弾く。さらに芥川也寸志の交響曲第一番や《恋は魔術師》など組み合わせも面白いので、ひさびさの高崎遠征を目論んでいる。
三月二十八日(木)短縮
おぼえがき。amazonのURLというのは長くてコピペしにくいと思ってたが、公式機能で簡単に二十七文字に短縮できるという。商品画像の右上の「共有」マークをクリックし、「リンクをコピー」するだけ。知らなかった。これは便利。
三月三十日(土)くつを火に
東京春祭のトリスタン。感想は、イザイとカザルスが以下に言う感じに近い。
──あなたのお友達イザイは、初めて《トリスタン》を聞いて《恍惚の中の自失》だと語りました。その夜、彼はくつを脱いだあとで、この世では、はきもののひもを解くようなつまらぬことに気を使う結果、《恍惚境》から覚まされてしまうと考えて、そのくつを火に投げ込んでしまったのです。
「私は《トリスタン》を聞いたあとで、くつを火に投げこみはしなかったが、心の奥底から感動させられたことを覚えている。それはたしかに親愛なイザイに劣らぬほどだと思う。だが、私の時代の音楽家で《トリスタン》が心に刻まれなかったものがあるだろうか」
(『カザルスとの対話』J・M・コレドール/佐藤良雄訳/白水社)
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