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九月三日(火)《アッティラ》登場
 ムーティ・イン・カミメグロ、「フン族上目黒に来襲す」、というわけで「リッカルド・ムーティ イタリア・オペラ・アカデミー in 東京」第4回《アッティラ》の初日「ムーティによる《アッティラ》作品解説」を聴きに、東京音楽大学のTCMホールへ。
 最寄駅は中目黒。高校から送電線屋時代まで二十年近く、毎日のように通学通勤で乗り換えたりしていた駅だが、降りたことはほとんどない。いつのまにか駅前のビルにロータリーができるなど、ずいぶん雰囲気が変わった。いい機会なので周辺をうろつく。再開発ビルも裏に回ればほぼ昔のまま。「目黒銀座」なんて商店街がある。そう、ほんとうの目黒というのは目黒駅とは反対側の、この目黒川右岸一帯。

 さて本番。ステージには演奏会同様にオーケストラと指揮台。解説といっても、ムーティがしゃべるだけなのは最初のうちだけ。休憩なし二時間の大半はオーケストラ・リハーサルをしながらしゃべる。ときにアカデミーに参加する日本人歌手を舞台にあげて歌わせる。翌日朝から若手の指揮者と歌手のためのマスタークラスが始まるので、かれらに自分の流儀を最初に見せておく、という意味もあるのだと思う。
 前奏曲から序幕までを部分的に取りあげたが、オケの音がみるみる「ヴェルディの音」に変わっていくのにワクワク。ムーティが信頼するコンマス長原幸太はじめ俊英をそろえたこのオケを、ムーティが「今の私の第二のオーケストラだ」と讃えたのは、けっしてお世辞ではないだろう(第一はどこなのだろう?)。

 それにしても、この二時間だけで、ムーティにとって《アッティラ》がいかに特別なオペラなのか、ひしひしと伝わってきた。「ヴェルディ初期のなかでは」とか、いや「ヴェルディのなかでは」さえ、いらないのかもしれない。全レパートリーのなかでも特別な作品なのではないか。
 歴史上、ムーティほど《アッティラ》にこだわってきた指揮者はおそらくいない。最初に振ったヴェルディという《群盗》にも思い入れはあるだろうが、その後録音をしていないところをみると、音楽的にはさほど関心なさそうだ。しかし《アッティラ》は違う。生涯にわたって取りあげている。一九七二年にフィレンツェで指揮したあとも、スカラ座で上演と無関係にセッション録音し、さらに舞台上演もした。
 そして、ただ一度のメト出演となった二〇一〇年には、この重要なデビューにさいして、この歌劇場がそれ以前もそれ以後もまったく上演していない《アッティラ》をわざわざ用意させた。結果的に何があったのか、メトとの関係がこれきりになったのは残念だが、とにかくムーティにとって「名刺代わり」のオペラ、代名詞のような作品なのだ。
 話のなかでも、前奏曲の第二テーマ(ゆったり、悲しく歌うもの)を、スカラ座では電話の保留時のメロディにしていたという話が出てきたことで、このオペラとの結びつきが尋常なものではないことが、ほんとうによくわかった(笑)。

 そしてそれは、舞台に響く音楽にもあらためて痛感した。《アッティラ》の音楽がほんとうに充実したものであることがよくわかる。たしかに、有名なアリアや合唱曲はない。でもそれは、オペラという多頭の怪物、鵺のごとく多種多様なパーツからなる怪物の魅力の、(目立つものではあるけれど)ほんの一部分にすぎないのかもしれない。
 《アッティラ》の魅力は、もっと綜合的な、有機的な、一つの交響的ドラマという、シンフォニックな点にある。その綜合的な魅力にムーティは憑りつかれていて、その体現者、あるいは(もしその魅力が同時代の人に理解されないなら)預言者のような存在になっているのかもしれない。
 交響的なドラマだから、純音楽ではない。歌詞という言葉によって、明確な物語と描写性をもつもの。声と言葉とオーケストラの有機的な唱応。そしてムーティは、《アッティラ》で初めてヴェルディは自然を描いた、と前に言っていた。たとえば第一幕のオダベッラのロマンツァの伴奏での、小川と月光など。
 今回も序幕の第二場での嵐と夜明けの音楽の充実と先進性を、ムーティは鮮やかに示した。そしてそのあとの波打つような音楽は、アトリア海沿岸の干潟に逃れた、やがてヴェネツィアの町を建設することになるイタリア人たちが乗る、ゴンドラの揺れなのだと説明し、音楽をまさにそのように響かせる。
 すると、そのあとに歌いだすフォレストの歌が一種のバルカローレなのだということも、鮮やかにわかる。
 この瞬間は、思わず膝を叩きたくなったというか、まさに目からうろこが落ちたような驚きだった。《アッティラ》の音楽がここまでドラマを語っているなんて、思いもよらなかった。
 いやあ凄い。これから二週間、すべてを聴けないのはほんとうに残念だが、発見に満ちた日々となるでしょう。

 ほかにムーティが語った、リソルジメントとこの作品との関係などの話も、とても面白く示唆に富んでいたが、長くなったのでこれはまたいつか。

九月四日(水)メーリ登場
 ムーティのイタリア・オペラ・アカデミー《アッティラ》、リハーサル初日。
 なんといっても嬉しかったのは、メーリが歌手リハーサルの初日から姿を見せて(本番まで十日もある)、素晴らしい歌声を聴かせてくれたこと。今日はまだいないだろう、となんとなく思いこんでいたので(アブドラザコフは来ていなかった)、舞台袖から何気なく歩いて出てきたのには驚いた(笑)。《マクベス》で一度ドタキャンしただけに、今回は満を持しているのかもしれない。
 そしてその歌には、ホールの空気を一変させるような力があった。バルカローレのあとでムーティが「ベリッシマ!」と声をかけると、客席も思わず拍手。そのあとのカバレッタでは、ムーティが合唱パートを歌ってメーリとのかけあいを聞かせてくれて、最高だった。
 ムーティが篤く信頼しているのがよくわかるし、そんな相手にも平然とダメを出すのもさすがムーティだし、それを真剣に聞き入れて若手と同僚に範を示すのもさすがメーリだし、その素晴らしい関係を目の当たりにできただけで、今日のリハは十分すぎる価値があった(それ以外にも得られたものも、毎回と同じくはかり知れないが)
 ムーティのこれまでのアカデミー三回と《アイーダ》は、どの年も主役テノールがもう一つ弱いというのが泣きどころだったが、今回は思いっきり拍手できそうだ。

九月六日(金)物語の中心に音楽
 二期会の《コジ・ファン・トゥッテ》を新国立劇場でみた。
 東京文化会館はモーツァルトには大きすぎるので、ここが会場なのはありがたい。同時に中劇場で歌舞伎公演、小劇場で文楽鑑賞教室という案内ポスターは、現代日本の文化政策の貧しさを一枚で示しているようで、複雑な気分だったが。
 今の二期会の歌手はイタリアで学んだ人が多いというだけあって良質な公演。歌手もよく、アルミンク指揮の新日本フィルがまたいい。まろやかで柔らかい響きは、シェフだった時代そのまま。こういう「響きの地層」みたいなものは、十年たっても残っているのなのだなあと思う。《コジ》のモーツァルトのオーケストレーションは天才以外の何ものでもなく、とりわけハルモニームジーク的な木管合奏の扱いがほんとに色っぽいが、それがじつによく出た美しい響き。
 この指揮者とオケのコンビは二〇一一年春の新国立劇場公演で《ばらの騎士》のピットに入るはずだったが、東日本大震災でアルミンクがキャンセル。それでも来日したオックス役のハヴラタや代役の指揮者でなんとか上演したものの、これをきっかけに新日本フィルとの関係は急速に冷え込んで、アンチクライマックスな感じで任期を終えることになった。その、十三年前の三月十一日の十四時四十六分で止まった時間が、因縁の新国のピット内で動き出したような感覚。

 そしてこの上演のもう一つの魅力は、ロラン・ペリーによる演出。シャンゼリゼ劇場で初演されたプロダクションで、舞台を現代の録音スタジオにして、この作品をセッション録音しているところとした。プログラム掲載のペリーのインタビュー(シャンゼリゼ劇場公演のプログラム掲載の文の日本語訳)によると「今日、誰が、あり得もしない変装劇を信じることができるでしょうか」というわけで、それを録音しているところ、ということにしてドラマを客体化する。
「私がやりたかったことは、物語の中心に音楽を置くということです」
 その音楽をマイクの前で歌っているうちに、歌手たちは役柄の心理に没入し、そのものになりきっていく。いつしか録音マイクや譜面台は消えている。
 観客側からすると、レコードを聴きながら脳裏に場面をイメージする、その脳内のイメージが舞台上に逆流して、ドラマと心情が視覚化、実体化されているという感じか。あえて我田引水をすると、能を見ているときの感覚に近い。
 すべては音楽から、聴覚から、というオペラ録音がもつ快楽。それなら時代は二十一世紀の現在よりも、二十世紀半ばのレコード黄金時代のほうがいい。録音スタジオをきわめて無機的、無個性なものにする手もあるだろうが、ペリーは逆に、古き良き時代であることを明示するために、往年の名建築にあてはめる。
 自分は予備知識なく見たので、そのデザインの懐かしさにほれぼれ。木と布による、柔和で威圧感のない木質の内装。でもデザインはモダン。しゃれた照明。自分が子供時代、一九六〇年代後半ぐらいにあちこちで見た雰囲気。ラッカーの照りと匂い、床を磨くワックスの匂いまで鼻の奥によみがえるような、一九五〇年代のデザイン。
 ザルツブルク音楽祭で《影のない女》を、一九五五年にベーム指揮の全曲が録音されたゾフィエンザールに設定するという演出があったと思うが、それに似た方法論だろう。
 ペリーが「ベルリンに実際に存在する巨大な録音スタジオ」と書いたので、調べたらすぐにわかった。一九五一年に建てられた旧東ベルリンのフンクハウス。バウハウス系の名建築で、今はイベント会場として使われているという。そのスタジオ2、ほぼそのまま。
 すべては音から。スマホに手の込んだ映像と色彩があふれ、視覚の情報過多に溺れそうな現代だからこそ、《コジ》の音楽のような永遠の傑作を、具体的な映像から切り離して、耳から人間の感情をイメージしていくことの面白さを考えさせてくれる舞台。
 といっても単純な演奏会形式ではなしに、そのことを「或る時代ならではの魅力」、失われた日々と美学への郷愁に結びつけているからこその、快感と喪失の痛み。才人ペリーならではのいい舞台。

九月十四日(土)《アッティラ》!
 雑司ヶ谷の東京音大池袋キャンパスでムーティ指揮の《アッティラ》本番。ムーティの指揮はいうまでもなく、メーリ、アブドラザコフ、スポッティという主役陣が素晴らしい。
 大切なのは、この立派な公演が、作品のスタイルと価値も再考させること。
 ヴェルディは、けっして一直線に成長した作曲家ではない。上演する歌劇場の水準や形態にあわせて、さまざまなスタイルを作品ごとに試していた。スタイルだけなら、《トロヴァトーレ》のほうがよほど紋切り型で古くさい(それを補ってあまりある熱い旋律はあるが)。
 もちろん、《アイーダ》や《オテロ》のような音楽ではない。しかし、現代なら最新流行と時代後れの差は大きく感じるけれど、時間が経過して、二百年近く前の流行を比較するなら、それぞれの個性と魅力を客観的に見られるから、単純に後の時代のほうが進歩しているからより優れている、とは思えなくなる。
 ロマン派のほうが煽情的でわかりやすいけれど、古典派には古典派の様式美と価値がある。個人の創作においても、同じことがいえるのではないか。

九月十七日(火)ヴェルディの新旧
 サントリーホールで、チョン・ミョンフン指揮東京フィルによるヴェルディの《マクベス》演奏会形式。
 三日前のムーティのヴェルディとの響きの差に驚かされる。こういう熱血表現こそがヴェルディだと、いままでは思っていたのだが……。
 あらためて考えてみることにする。

九月十八日(水)歌舞伎という器
 歌舞伎にて、秀山祭九月大歌舞伎の夜の部。玉三郎と松緑が主役の『妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)』から「太宰館花渡し」と「吉野川」。そして幸四郎と菊之助の『勧進帳』。
 どちらも高い人気を誇るが、歌舞伎オリジナルの狂言ではないというのが、歌舞伎らしい旺盛な吸収力の証明。
 まず『勧進帳』は、いうまでもなく能の『安宅』が原作。能を見るようになってからこちらを生で見るのは初めてだったので、どのようにアレンジしたかが、いっそうよくわかった。
 能のエッセンスを残しつつ歌舞伎化した、バランス感覚が絶妙に見事。歌舞伎随一の人気作であり続ける理由は、両者のいいとこ取りができたから。
 対して『妹背山婦女庭訓』は人形浄瑠璃がオリジナル。「吉野川」で中央を吉野川が縦に流れ、舞台を左右に分けるスケールの大きさは、文楽ならでは。
 そして、そのドラマのすさまじさも、いかにも文楽。敵対する二つの家の息子と娘が恋仲で、ともに落命するという悲劇は『ロミオとジュリエット』のようだが、その後が凄惨。
 父は切腹した息子の介錯をせずに、相手の娘の首と祝言させるからと、瀕死のまま介錯せずに放っておく。相手の娘の母は、ちょうど雛祭りで飾られていた雛道具を嫁入り道具に見立てて、両家を隔てる川を渡して送る。最後は娘の首を雛道具の小さな輿に押し込み、渡す。
 血を流しつつ蒼白な顔で死の苦しみにたえる美少年と、雛道具の輿に押し込まれていた美女の生首との祝言。サディスティックでマゾヒスティックで、グロテスクでホラーな、身の毛のよだつ耽美。こういう残酷劇は、洋の東西を問わず人形劇のウリとなるものだが、それを人間がやってしまえるのが歌舞伎。

九月十九日(火)《マクベス》初演版
 ビオンディ指揮のピリオド楽器オーケストラによるヴェルディの《マクベス》一八四七年初演版のCDを聴きなおす。
 実演で聴いたばかりの一八六五年改訂版の印象が鮮烈なので、相違が明快に身体に響いて面白い。そして、以前聴いたときは冷たく感じたこの演奏の印象も、まるで違って心地よい。
 この初演版は、《アッティラ》の直後に書かれたもの。原作と台本の相違がドラマの描きかたに影響しているが、音楽的には近似する要素も多い。改訂版ではマクベス夫人にしか残さなかったアリアのカバレッタが、初演版では男声にもあたりまえにある。ラストがマクベスの死で終わって勇壮な合唱がないのも、《アッティラ》のラストに似ている。
 そして、何より面白いことに、ピリオド楽器オーケストラの響きとスタイルには、先日のムーティの響きに通じるものを感じる。

九月二十三日(月)関根祥丸
 セルリアンタワー能楽堂で「定期能九月‐観世流‐」第一部。
・仕舞『玉之段』観世三郎太
・仕舞『鵜之段』関根知孝
・狂言『茶壺』野村太一郎
・能『歌占』関根祥丸

 今年四月に『道成寺』を披いて、いよいよシテ方として本格的な活動を開始した関根祥丸。『道成寺』は文字どおりの瞬殺で買うことができず残念だったが、今日は『歌占』。見事。

九月二十五日(水)ウコンドン
 モーツァルトの《魔笛》(一七九一年)の台本のト書きに、タミーノは日本の狩衣を着ている、とあるのは有名な話。一六三九年に徳川幕府が鎖国してから百五十二年後のウィーンに、どのようにしてそんなものが伝わっていたのか。
 いろいろな解釈があって謎の多い話だが、そのモーツァルトが日本を知るきっかけになったかもしれないと考えられる作品がある。ザルツブルク宮廷楽団の十九歳年長の同僚だった、ミヒャエル・ハイドン(パパ・ハイドンの弟)が音楽を担当した音楽舞台劇《ティトゥス・ウコンドン、不屈のキリスト教徒》(一七七〇/七四)。
 キリシタン大名の高山右近がモデルというこの作品が、二百五十年ぶりに完全な形で復活、上演される。

藝大プロジェクト2024第1回「西洋音楽が見た日本」
二〇二四年十月二十日(日)十五時開演
東京藝術大学奏楽堂(大学構内)

 ピリオド楽器のオーケストラというのも嬉しいが、さらに楽しみなのが、十三人の俳優が出演する舞台版ということ。
 ふだんコンサートでなじんでいると気がつきにくいが、劇音楽は、やはり劇のなかで演奏されてこそ真価を発揮する。自分の経験でいうと、二〇一九年にやはり藝大が上演した『エグモント』舞台版とか、二〇二二年東京芸術劇場での『アルルの女』朗読版などは、戯曲そのものは抜粋されていたけれど、音楽は全曲だった。どちらもドラマを語る台詞と組み合わされることで、ベートーヴェンとビゼーの音楽が初めてほんとうの生彩を放って耳と心に届いた、意義ある体験だった。以後は、どちらの音楽もそれ以前とは違った聴きかた、より親密な聴きかたをできるようになっている。

九月三十日(月)山田長政
 藝大プロジェクト2024の第二回、「日本が見た西洋音楽」で取りあげるのは、クラウス・プリングスハイムの《山田長政》。
 一九三九年に日本で作られたラジオ劇らしい。プリングスハイムが一九三七年にナチスの干渉でいったん東京音楽学校を辞めてタイに渡ったあと、再び日本に戻った直後の作品ということか。風雲急を告げる世界とアジア情勢、時局がいろいろと反映されていそう。
 信時潔と髙田三郎の作品も加えて、片山杜秀さんと仲辻真帆さんによる解説つき。これも聴かねば。


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