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一月一日(水)人類の進歩と調和
明けましておめでとうございます。
みなさまのご健勝とご多幸を心よりお祈りいたします。
そして、今こそ真の「人類の進歩と調和」を!
二〇二五年 乙巳
一月三日(木)ラフマニノフ再評価
「ラフマニノフ再評価~証言でつづる受容史」という拙文が、都響のサイトに掲載されている。
同時代の人がラフマニノフをどう評価し、受け入れてきたかを、大田黒元雄、吉田秀和、カルショー、プレヴィンなどのエピソードでつづったもので、サイトでは昨年末から公開されていたが、都響のプログラムには今年の一・二月号に掲載されるので、二〇二五年最初の書き込みで紹介する。
都響は一月にスラットキン指揮で交響曲第二番、二月にインバル指揮で交響詩《死の島》、三月にファレル指揮で交響的舞曲と、記念年だっけ?(違う)という勢いでラフマニノフのオーケストラ曲を続けて演奏するので、そのイントロとして読んでいただければ幸いである。
そういえば今年は、大田黒元雄の『華やかなる回想』が第一書房から出版されてちょうど百年にあたる。手元にあるのは、残念ながら一九四八年のアポロ出版社からの再版だが。『世界の名演奏家』は七十五周年。
一月十一日(金)巳年のヒシギ
二〇二五年最初の公演通いは、能楽から。国立能楽堂の普及公演。
・解説・能楽あんない
『古事記』『日本書紀』の八俣大蛇退治神話 谷口雅博(國學院大學教授)
・狂言『竹生嶋参(ちくぶしままいり)』(和泉流)高野和憲
・能『大蛇(おろち)』(金剛流)廣田泰能
巳年らしく、狂言は蛇身の宇賀神を祀る竹生嶋、能は素盞鳴尊による八岐大蛇退治の話と、蛇にちなんだもの。
初めの解説によれば、八岐大蛇は河川を象徴しているらしい。
能の冒頭に奏された、栗林祐輔の能管の双(もろ)ヒシギが気持の入った、まさに辺りを祓うような凛とした響きで、こちらも背筋が伸びるような清々しさ。
一年の音楽通いの始まりにこういう音を聴けるのは、とても縁起がいい気がして、ありがたし。
金剛流らしく動感豊かな演能で、山をいくつもまたぐ巨大な大蛇とのスペクタクルが、自然にイメージできた。
一月十二日(土)国土安穏
銕仙会の定期公演。
・『翁』大槻文藏
・狂言『昆布柿』野村萬
・能『絵馬』浅見慈一
正月最初は、どこの能の会も『翁』で始まるのが通例。今回もそうなのだが、大阪から大槻文藏が来て翁を舞うというので、とても楽しみだった。舞姿の美しさと清々しさ、「天下泰平 国土安穏」の謡の、献身的な祈りの響き。
この曲は翁よりも、三番叟の力演のほうが印象深いことがしばしばだったのだが、今日はまさしく『翁』
一月十四日(火)スマホ交換
二〇一七年五月以来、ほぼ八年ぶりにスマホを新調。容量に余裕ができた。
あわせてケースも交換。前のものはさすがにボロボロ。どこかちぎれたらそれを潮にスマホも交換、と思っていたが、最後までなんとか使えてしまった。長いことご苦労さま。
家のPCがメインなので高性能は必要なく、安いのにしたが、それでも八年でだいぶ進歩している。アプリの登録なども、生体認証と二段階認証の併用で、ほぼ感覚的にできてしまう。便利だが、これでいいのかという思いもあり。これでクレカとかスイカとかスマホ用電子証明書とかぜんぶスマホにまとめたら、なにか社会的存在としての自分の全人格が、そこにあるみたいな。なくしたり盗まれたりしたら、自分の人格そのものがまるごとなくなるみたいな恐怖。残るのは肉体だけの原始人、みたいな。
自分は、執筆作業をワープロからPCに切り換えたあとも、長いことネットには接続しなかった。自分の頭の中、心の中に入っていく作業に使うものが、そのまま外界に電話回線を通してつながるなんて、なにか底が抜けて漏れていくような気がして、いやだったので。いまのスマホは漏れるというより、人格を手の平サイズに抽出して携帯する感じか。
片山杜秀さんがいまだに執筆にはワープロ(書院だったか文豪だったか)だけを使っているというのは、あれだけの質と量を書かなければいけない方だけに、理解できる。そのほうが集中できるのだろう。ネットと一緒は、便利だが気が散ってよくないかもしれない。
ネット用のタブレットと、執筆用のワープロ。この二台に分けるのもありか。いまのPCにガタがきたら、そんなことも考えてみるか。
しかしカメラの性能もよくなった。画像のデータ量も大きいので、一枚を入れるのにフロッピーディスクが四枚もいる(笑)。
一月十五日(水)次のフェイズへ
十日前に六十二歳になった。六二歳。ただの量産型なので無二斎とはとてもいかないが、少なくともAIよりは個性のある文章を、せめてあと数年は書いていければと思う。
今年は、あくまで何となくだが、人生の新たなフェイズに入った年と感じる。何年も引きのばしてきたいくつかのものを、今年こそしっかりと区切りをつけられる気がする。
そこで、まず「はんぶるオンライン」の自己紹介を元旦にアップデートした。前のものを見たら「二〇一三年一月一日改訂」とあって、十二年もたってしまっている。その文面を読むといろいろなことが過去のものとなっていて感慨深かったが、ともあれ今に合わせて変えることにする。また時代の変化に応じて、自己紹介文は縦書きと横書きを併記することにした。
偶然ながら、二〇一三年も同じ巳年なのでちょうど一回り。脱皮をくり返すヘビは変革の象徴だそうなので、ことを革めるには最適のタイミングといえるのかも。四月には開設二十周年も来る。
いい機会なので、限界に来ていたスマホを八年ぶりに交換した。あらためて思い返すと、八年前の二〇一七年も、新たなフェイズに入った年だった。『演奏史譚一九五四/五五』が出たのも、生まれて初めて入院して鼻の手術をしたのも、この年だった。
そして、プロフィール用の写真を撮ったのも、この年。寄る年波には勝てず、詐欺になってきている。これも撮りなおすことに。新しいスマホはとにかく美化してくれるので、いろいろなパターンで自撮り。たまったので、場の雰囲気に応じて使い分けようかと。
八年のうち、前半四年は楽だったが、後半四年は苦しいことが多かった。差引ゼロとなったところで、再出発のフェイズに入れるといいなと思う。この年齢だから、新フェイズはいいことより悪いことのほうが多くなるかもしれないが、それでもまあ、とにかく次へ。
一月十八日(土)千秋万歳の歓びを
サントリーホールでの日本フィルのイギリス・プロ、期待通りのいいコンサート。《威風堂々》のクライマックスで、袋から取り出した鈴を振るヤマカズさんの姿に、三番叟の「鈴の段」を連想したのは自分だけではないはず(笑)。「千秋万歳の歓びの舞」、正月にふさわしい善き見もの。
一月二十一日(火)不二屋書店閉店
自由が丘駅前の不二屋書店が二月二十日で閉店というニュースを知る。
「自由が丘経済新聞」自由が丘駅前「不二屋書店」が102年の歴史に幕 幅広い品ぞろえ貫く
自分は隣駅の緑が丘に生まれ育ち、自由が丘が最寄りの繁華街だったので、この本屋さんにも一九七〇年代初めから約三十年通った。その頃は、駅の隣の自由が丘東急プラザ(現在の自由が丘東急ビル)の四階、ソハラ楽器の向かいにあった三省堂書店のほうが大きかったが、ロータリーの向う側の不二屋書店は、地上にあるぶん行くのが簡単(東急プラザのエレベーターはとても遅くて待たされたのだ)で、しかも店内に活気があり、それなのに品揃えは大衆路線ではなく、こだわりがあって好きだった。
自分が「レコード芸術」を生まれて初めて買ったのも、たぶんここだ。高校三年の一九八〇年の春~夏、ベームの表紙のもの。クラシックに興味を持ちはじめたとき、この書店にはいくつかの専門誌が、人を誘うように、わかりやすく雑誌コーナーにフェイスされていた。だからこそ買ってみようと思ったはずである。街の書店には置いていないところも多かった「音楽現代」も必ず並んでいたし、休刊前の「ステレオ芸術」ももちろん。音楽書のコーナーには日本ワーグナー協会の「ワーグナー・ヤールブーフ」も、数年分が棚に並べられていた。ここで見かけて手にとることで、存在を知った雑誌や書物は数えきれない。
音楽書だけ強かったのではなく、人文系全般に力を入れていた。通常の文庫や新書と同じ棚に、思潮社の現代詩文庫がシリーズでずらりと並んでいたのは、女学校の教員だったという二代目店主ならではのこだわりという気がする。
駅から少し離れた、別の書店の棚からは、ここまでの知的刺激を受けることはなかった。そういう書店が駅の目の前にあって、夕方など店内がラッシュアワーなみに混むというのが、いまから考えれば、すごいことだった。当時は、それがあたりまえだと思っていたけれど。
一九七〇年代までは、教養を重視する傾向が社会に濃厚に残っていた。街の書店やレコード店を通して、日本のあらゆる地域に届いていたのが、大衆教養主義のよき時代だった。私にとっては、その身近な実例だった。
余談だが、店の隣にあるダロワイヨの本店が、一九八三年頃まではお菓子の不二家だったので、同じ名前で経営母体が一緒なのかなと思っていたが、不二家と不二屋で字が違うことにと、いま初めて気がついた(笑)。
ともあれ悲しい。あとは、都立大学駅前の八雲堂書店ができるかぎり頑張ってくれることを祈るのみ。
一月二十二日(水)闇市の記憶
「肝臓公司」 学芸大学の市場 part4:戦後の闇市・マーケット~三谷マーケットと王長徳・第一マーケット・富永組マーケット・都南共栄百貨街
昔の自由が丘をネットで探して見つけた、後藤ひろしさんの「肝臓公司」というブログの記事がとても面白い。学芸大学駅周辺の闇市紹介がメインだが、自由が丘駅銀座通りの闇市が商栄会マーケットにまとめられ、次に自由が丘マーケットになり、一九五三年に自由が丘デパートになる様子を写真で見られる。あのデパートの建物は七十二年もたっているのか…。一九四六年の、バラックみたいな一誠堂時計店の姿もびっくり。
さらに都立大学駅前の闇市も。現在の目黒通りの真上にマーケットがあったなんて、知らなかった(ただあそこの道路と周囲には、曰く言い難い、荒涼とした気配をなぜか感じていたので、妙に納得できる)。目黒通りが開通したときに、その店舗が東横線の高架下(自由が丘へ向かう方にあったあそこだ)に移ったというのは、あそこも自由が丘デパートによく似た雰囲気だっただけに、なるほどと納得。
敗戦の混乱が生んだ闇市とマーケットは、私たちの生活層のすぐ下の地層にあるのだ。
一月二十三日(木)秋山和慶の引退
秋山和慶の引退に寄せて、東京交響楽団からの発表。
「1964年のデビュー以来、秋山和慶氏とは、楽団の経営破綻、再建という苦しい時代もともに歩んでまいりました。デビューからの約60年間で指揮したおよそ4300回の演奏会のうち、当団との共演は1350回を超えます」
一月二十七日(月)秋山和慶の訃報
秋山和慶の訃報。引退発表に続いての悲しいニュース。自分は秋山さんの「第九」を聴いたことがなく、昨年の十二月二十二日にミューザ川崎の、東響との演奏でようやく聴くことができたが、そのアンコールの《蛍の光》が、最後の秋山体験になってしまうとは……。
一月二十九日(水)告別不二屋書店
二月二十日の閉店を控えた不二屋書店をもう一度目に留めるべく、自由が丘に行く。
恵比寿に散髪に行ったついでに、日比谷線から中目黒乗り換えで東横線。この径路は白山まで通った高校時代と、茅場町まで通った送電線屋時代、長く通学通勤で乗った懐かしいルートでもある。
到着。ホームから見ると、北口ロータリーの東側のビル群が根こそぎ消えていて、巨大ビルへと再開発工事中。眼鏡と時計の一誠堂も洋菓子のモンブランも、かつておもちゃのえびすやがあった建物も、富士銀行(現みずほ銀行)も、根こそぎ消えていた。
駅の真正面。BOOKSとあるのが主目的地の不二屋書店。このあたりも店は変わっても建物はそのままの、私が物心ついたときからある、つまり一九五〇年代からある古いものばかりなので、やはり大規模な再開発計画が進んでいるらしい。そのためか、背後の商店街は何となく暗く、壊死が進みつつある雰囲気。
不二屋書店の隣のダロワイヨは、かつての不二家洋菓子店。いかにも「一億総中流幻想の時代」的だった不二家が、一九八〇年代にダロワイヨに改装されたのは、自由が丘が「消費生活の時代」にふさわしい、おしゃれな街(通りにええかっこしいな名をやたらにつけたがる)になっていく前兆だった。
不二屋書店に入る。雑誌を並べる什器の雰囲気や配列は昔のままのようで、懐かしさで胸いっぱい。「さて、レコ芸はどこにあるんだろう」と無意識に探している自分に気がつき、苦笑い。
二階にある新書や選書売場の陳列の仕方には、昔のままの「知的な薫り」がして嬉しい。数をしぼって並べているが、その選択がなんとも知的。近所の小中学生が歩いて行ける範囲にある、こういう場所が失われてしまうのは惜しいなあ、と思う。いまどきそんなものはスマホですぐに探せるよ、といわれればそのとおりなのだが…。
このあと南口のブックファーストに行ってみたが、この点は不二屋にかなわない。でも広いし、お客も多かったので、とにかくがんばってほしい。
その不二屋の二階、昔はここを売場にしてはいなかったと思う。一階が今よりも奥があり、数段登った先にも売場があったような気がする。あらためて見たら斜面に建っている店なので、地形的に奥が高くなる。書物の発行点数が数倍に激増した一九九〇年代に、改装して二階を売場にしたのだろうか。そのせいか、二階にあがる階段のつくりがなんとも殺風景なのが、ほほえましい。
南口への大きな踏切(子供の頃は自動化されておらず、小屋の中から人間が様子を見て仕切りのワイヤーを上げ下げしていた)を渡ったすぐ向こうにも、一九六〇年代からそのままの建物が残っている。理髪店トップのあたりには同じトップという、西洋料理店(洋食屋よりも少しランクが上)があったような記憶が。その右の穴は飲み屋街。
その飲み屋街に入ってみる。行き止まりの袋小路。昔はもう一本、東横線側(たぶん今のメルサパート2のあたり)にもこういう路地があり、それは奥の川(今は暗渠化してしゃれた遊歩道に)まで「抜けられます」だったが、もっと薄暗く、怪しげな店が並んでいた。学校帰りの夕方、開店前の暗い道をしょっちゅう自転車で走り抜けて遊んだ。抜けた先の川沿いには連れ込みもあった。なぜこんなところに旅館があるのか、子供心にとても不思議だった。
マリ・クレール通りには、今のヒロ通りにかってあった「おもちゃのマミー」が規模を小さくして移っている。まだあって嬉しい。模型少年だった小学生時代は、放課後に毎日入り浸り。模型売場が広く、すべて定価の一割引、という豪気な商法もありがたかった。
自由が丘デパートなどと同じく水曜定休で入れなかったが、「おもちゃのマミー」の看板はロゴが昔のままで、ひょっとしたら昔の店から持ってきたのではないだろうか。ドア脇の「フロア案内」の左右にある宇宙服のキャラとシュピーゲル号ぽい宇宙船は、この店の白地の包装紙に描かれているもので、ものすごく懐かしい。開いていたら何でもいいから買って、数十年ぶりに包んでもらいたかったところ。
北口に戻り、カフェ・アンセーニュダングルへ。建物は昔のままで懐かしいけれど、中は見知らぬ店に変わっていることが多い(家賃も高いだろうから仕方ない)なかで、ここは一九八〇年代のままだった。いまはなき品川店とともに、九〇年代前半までよく行った。
その後は長く分煙だったので、タバコ臭が苦手な自分はなかなか入れなかったが、今は店内禁煙とあるので、久々に寄ってみる。店内は自由が丘マダム連で混んでいて、一人客は基本カウンター。アンセーニュダングルといえば、のガトー・フロマージュ(自家製チーズケーキ)を食べる。飲み物はいろいろあるのにお菓子はこれのみ、というこだわりは昔のままで、その頑固さが嬉しい。支払いが現金のみというのも昔のままで、現金もっていてよかった(汗)。
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