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二月一日(土)ジュリエットの饒舌
バレンタイン チョコを自分で 買う男

 金土と、二日続けて上野の東京文化会館。金曜夜は小ホールで平常×萩原麻未『ロミオとジュリエット』。土曜昼は大ホールで藤原歌劇団のヴェルディ《ファルスタッフ》。偶然にもシェークスピア原作の舞台が大小両ホールでかかった。
 『ロミオとジュリエット』を見たときあらためて感じた、シェークスピアの饒舌。同義語、類義語、角度を変えた例えが連発されて思いを語りまくり、隙間を埋めつくす。「間」の価値を信じない。瞬時に声色を変え、すべての役を演じ分けて、この饒舌を一人で語る平常の芸。
 そしてその饒舌を見事にオペラに移しかえた、ヴェルディとボーイトの《ファルスタッフ》。マリアーノ・スタービレ(トスカニーニが絶大な信頼を寄せたファルスタッフ歌い)の録音を聴き込んだという上江隼人の歌は、創唱者ヴィクトル・モーレルからスタービレへと受け継がれた軽妙な歌唱法を、自らの表現に採り入れたもの。
 饒舌をオペラに。藤原歌劇団は4月にグノーの《ロミオとジュリエット》をやるので、これも楽しみ。

 そして上野といえば桃林堂の小鯛焼。この時期には抜群に美味しい「バレン鯛ンチョコ」が期間限定で出ている。尻尾のビターチョコと八朔ピール入り白あんが絶妙。節分までの「福は内」も節分直前のギリギリで買えた。楽しみ。

二月二日(日)千五郎四役
 セルリアンタワー能楽堂の定期能、金剛流に行く。第一部と第二部を続けて観る。

第一部
・狂言『右近左近』茂山千五郎
・能『黒塚 白頭』金剛永謹
第二部
・狂言『文蔵』茂山千五郎
・能『花月』金剛龍謹

 『黒塚』は金剛永謹のシテに加え、往時は金剛座専属だったというワキ方の高安流を久しぶりに観られた。それにしてもやはり、人の性(さが)を描いた哀しい能。
 『花月』はシテが豊嶋彌左衞門というので楽しみにしていたのだが、体調不良のため降板。しかし若宗家の金剛龍謹による、若々しいシテを観たので満足。
 それよりも驚いたのは、茂山千五郎が狂言も能も出ずっぱりだったこと。『右近左近』で妻を寝取られた情けない夫。『黒塚』で鬼女の閨を覗いてしまう、余計な好奇心の強い能力。『文蔵』で源平盛衰記の石橋山合戦のくだりを延々と語る主人。『花月』でシテとからむ清水寺門前の者。それぞれに見せ場がある作品ばかりが並んでいる。
 こういう公演では、同じ狂言方が出る場合でも、能のアイをつとめる者はその前の狂言では脇役にまわるとか、負担を軽くするようになっているものだが、あえて出ずっぱり。しかも共演者には茂山家の一門ではなく、他家の大藏基誠を選んでいる。どういう理由によるのかわからないが、当主としての覚悟と力量を自ら試すような一日。
 一部と二部を続けて観るのは初めてだったが、そのおかげで「千五郎四役」を観ることができた。
(追記:この日は節分にあたり、京阪各地の寺社で狂言が行なわれたため、茂山千五郎家の役者たちは全員出払っていたのだそうだ)

二月四日(火)オルフェオのおけいこ
 十五と十六日に兵庫県立芸術文化センター、二十二と二十三日に神奈川県立音楽堂で上演される、アントネッロによるモンテヴェルディの歌劇《オルフェオ》の公開稽古を見学に行く。
 本番はもちろんピリオド楽器オーケストラだが、この日は電子ピアノによるオルガン・サウンド(これが妙にはまる。ときにチェンバロ風)が伴奏。濱田芳通の指揮が導き出す生気あふれる音楽と歌手たちの熱演で、世界最古の物語の一つであるオルフェオ伝説が、みずみずしく鮮やかに甦える。
 四百年以上前の一六〇七年に、こんなにも美しく、切ない音のドラマを生み出したモンテヴェルディのすさまじい天才に、あらためて敬服。県立音楽堂の本番がますます楽しみに。

二月九日(日)菩薩への変身
 矢来能楽堂で観世九皐会の第二部。
・仕舞『弓八幡』小島英明
・仕舞『巴』遠藤喜久
・仕舞『西行櫻キリ』観世喜之
・能『當麻(たえま)』観世喜正

 『當麻』は演能機会が多い人気作なのに、時機が合わずいままで観られなかった。喜正の充実があらわれたシテ。中入り直前、「光さして、花降り異香薫じ、音楽の声すなり」の地謡のところで、何の動作もなく菩薩の姿をイメージさせるように気配だけ変えたのは、お見事。

二月十六日(日) 藝大の佐藤俊介
 東京藝術大学奏楽堂で、東京藝大チェンバーオーケストラの第四十四回定期演奏会。指揮とヴァイオリン独奏は佐藤俊介。

バッハ(佐藤俊介編曲):《フーガの技法》〈第十四コントラプンクトゥス〉
メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲
シューマン:交響曲第二番

 予想通り、むちゃくちゃ面白かった。九八七五四の二管編成。対向配置でチェロは第一ヴァイオリンの後ろ、コントラバスは最後方に横一列。基本モダン楽器だがティンパニは小型、チェロ後列の一人あるいは二人はエンドピンなし。ヴィブラートを抑えた澄んだ響きが気持ちよく、テンポ速めで呼吸感豊かに弾む。
 弦の分奏もあって互いの音を感じあいながらの《フーガの技法》の「未完のフーガ」の補作管弦楽版で起動して、佐藤の独奏がほぼ背中でリードするメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲でエンジン全開。
 気魄のこもった、躍動するメンデルスゾーンで、とても鮮度が高い。このワクワクする感じこそ、自分がほしいもの。十九世紀半ばまでの音楽は、やはりこうあってほしい。ソロの響きが涼やかで美しい。要所に交える装飾も効果的。
 後半のシューマンもアグレッシヴに波動する。数日前のポペルカN響の第一番も見事だったが、若々しい生命力にかぎれば今日の方が上。しかし勢いだけではなく、この曲の第三楽章や、メンデルスゾーンの第二楽章での、ふっ、と灯を吹き消したような暗い翳も印象的。

 佐藤は三月二日にも東響を指揮して、モーツァルト・マチネをひきぶりする。ヴァンハルの交響曲ニ短調、ミスリヴェチェクのヴァイオリン協奏曲ホ長調、そしてモーツァルトの交響曲第三十八番《プラハ》。
 去年、沼尻が指揮するモーツァルト・マチネでは、チェロ六人の内、前の四人がエンドピンなしで演奏して、おお、いまは東響の楽員もこんな感じになっているのねと嬉しく思ったが、それだけに佐藤との古典派がどんな音楽になるのか、とても楽しみ。

二月二十三日(日)一六〇七年の音楽
 神奈川県立音楽堂で、濱田芳通&アントネッロによるモンテヴェルディの音楽寓話劇《オルフェオ》。
 素晴らしかった。一六〇七年、高山右近や天正遣欧少年使節の四人と同じ時代に生まれた音楽の持つ力。
 要所要所に響くリトルネッロの同じ旋律が、まずは我々を神話時代へと誘う幻想的な響きとして、次には深い悲嘆と、運命に抗おうとする悲壮な決意と自負を秘めた雄々しき響きとして、そして最後は一場の夢が覚め、やがて塵と消えるだけの人為の虚しさへの諦観の響きとして、ドラマの中で置かれる位置により、魔法のように印象を変えて三度響く。
 こんな凄いことをさりげなくやるモンテヴェルディの圧倒的天才と劇的センス(能『邯鄲』の、二回シテを目覚めさせる扇の音の凄さを連想した)を鮮やかに音に聴かせ、目にも見せてくれた公演。
 詳しくは別の場所に書くので、ここでは公演前後の話。
 川崎・横浜方面に行くときは、たいがい電車が遅れたり停まったりするので、今日も早めに東海道線で。すると横浜駅に着いたところで、川崎~品川間で人身事故発生のアナウンス。危ないところだった(結局、東海道線遅延を受けて、予定より十分後に開演)。
 酷暑でも雨天でもないので、今日は久々に桜木町駅から紅葉坂を登って県立音楽堂へ行く。寒いが、青空と白雲と陽光は春の気配。
 前川國男設計の神奈川県立音楽堂は、回廊部分の、木柱を想わせる円いコンクリ柱とか、障子の桟のような感じとか、和風のテイストが特に好きだ。
 舞台にはアーチ型のセット。これが第二部、第三幕の始まりでロダンの「地獄の門」(この門を通る者は、すべての希望を捨てよ)へと姿を変えたのは見事だった。
 休憩。雲が増えて寒くなってきたが、寒さに負けず、矢澤孝樹さんの示唆に富む解説を読みながら、ホワイエで買った湘南みかんぱんを外でほおばる。美味。
 それにしても、ホールのホワイエで二百円握りしめて並んで、平箱にならんだ菓子パンをつかんで買うのは、中高生に戻ったようなワクワク感がある(笑)。たぶんみなさんそう思ったようで、休憩終了時には完売の人気だった。

二月二十五日《パリの生活》など
「モーストリー・クラシック」四月号が発売。
 今月書いたのは、
・「一枚のディスクから 音盤時空往来」第二十四回 オッフェンバックの《パリの生活》
・コレクターズアイテム オイストラフBOX
・公演レビュー二本(トッパンホール・ニューイヤーコンサート、コルティ&イル・ポモドーロ)

 「音盤時空往来」では、トゥールーズ・キャピトル管が四十七年の歳月を隔てて録音した、二種のオッフェンバックの《パリの生活》全曲盤について。我が最愛の作品について書けて嬉しい。プラッソン盤の第三幕を聴きなおして、またまた惚れなおした(笑)。
 そしてここで紹介したクラカウアーの『天国と地獄 ―ジャック・オッフェンバックと同時代のパリ』。これについて書いている途中で、単行本を買ったのは一九八二年ごろ、たしかに自由が丘の不二屋書店だったはずだと、そのときの光景が脳裏に甦ってきてホロリ。こういういい本が、棚にきちんと置いてある書店さんだった……。
 コレクターズアイテムは、ワーナーが出したオイストラフBOX(58CD+3DVD)。ボリュームも凄いが、手間隙かけた中身も凄いセットでした。近年のワーナーの、あの聴きやすい音楽的なマスタリングで、CD三十一枚分のライヴ録音集を聴ける。「オイストラフとは誰だったのか」を語る上で、今後は絶対に欠かすことできないセットである。


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