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三月一日(土)初のびわ湖ホール
日帰りで人生初のびわ湖ホール行き。コルンゴルトの歌劇《死の都》を観る。
早起きして朝九時に京都駅に着き、三井寺も初めて見た。深く感じるものがあったが、その話はまたあらためて。
《死の都》も詳しくは別のところに書くので、舞台についてはここでは触れない。ただ作品について思ったこと。
モンテヴェルディの《オルフェオ》をアントネッロの素晴らしい上演で見たからこそ強く思ったのは、この《死の都》も、オルフェオ伝説の変形、再話、あるいは末裔のようなものなのだなあと。
つまり、死せる妻を現世に呼び戻そうとして失敗する話。第二幕は地獄廻りのようなものであり、第三幕前半は奪還の失敗。三百年の時空を隔てて、モンテヴェルディはオペラの始まりに、コルンゴルトはオペラの終末期にいる。
ただしコルンゴルトのラストは前向きだ。いろいろな解釈も可能だが、作品そのものは素直に、新たな一歩を踏み出す主人公を描いていると自分は思う。今日の栗山演出もそうだった。
最後にマリエッタの歌の旋律が響くのは、それにまだとらわれているというよりも、その思い出を愛おしみ、別れを惜しんでいることを音楽で表現したものだろう。
男は終わった恋の思い出を「名前をつけて保存」するけれど、女は恋愛ファイルを新たな恋でファイルごと「上書き」してきれいさっぱり、なんて違いをいわれたりする(もちろん、なんとなくそんな感じ、という程度の話だが)。《死の都》のラストはまさに、「名前をつけて保存」したファイルを閉じようとしているところ、という感じ。いったん閉じるというだけで、削除したり上書きしたりはしない。
その一方で、女性は恋バナを女子会の「共有ファイル」に入れておく、ということもいわれる。
びわ湖ホールに行く前に、旧大津公会堂で近江牛の赤身ステーキ(美味)を一人で食べているとき、隣の女子数人がまさにそれをしていた。結婚が決まった一人が、どんな場面でどんなふうにプロポーズされたか、相手の気持、自分の気持などを詳細に報告し、他の友人が興味津々で聞いている会話が、いやがおうにも耳に入ってくる。
当然のマナーとして、具体的な内容そのものは当方の記憶からすぐに削除したが、ともあれ、ああ、こうやって「共有ファイル」に入るのかあと、深く納得。「こいつのプロポーズのしかたはこう」と、かれは彼女の同性の友人たちにことごとく知られている。悪い話の場合も、同様に共有されるのだろう。
男性だと、友人の恋人や妻のことを根掘り葉掘りたずねたり、興味深く話を聞くということは、控えるほうがむしろ一般的ではないだろうか。少なくとも自分の周りはそうだ。
男の「名前をつけて保存」と、女子会「共有ファイル」。貴重なびわ湖体験だった。
三月一日(土)続 三井寺詣で
びわ湖芸術劇場へ行く前に詣でた、三井寺のこと。
関東に生まれ育った自分にとって、こういう大寺は縁が薄い。東大寺、興福寺や延暦寺とともに、平安時代以降の日本史に頻繁に名前が出てくる寺。自分がふだん知っている、葬式やら法事やら墓地に関係する場所としての寺とは次元の違う、庶人の葬祭用とは無関係に建てられた、大量の僧が修行するための場所。
午前中で観光客が少なかったのだが、人が少ないからこそむしろ、「お寺ってこんなに人間くさい場所なのか」と感じた。基本的に清浄を旨とする神社、神のための場所と違い、修行する人間のための場所だから、人間くさいのか。人のいろんな思いがこもっている場所。それを隠す必要がないのか。
金堂には本尊以外にもたくさんの仏像が並んでいたが、僧侶は仏像に仕えているわけではない。その点、神に仕える神主とは違う。修行のさい、自分を写しだす鏡として、自分を研ぎ澄ませるためのよすがとして、仏像がある。そんな感じを、ここでは強く受ける。
あらためて考えてみると、能に出てくる仏僧と神官は、そのあたりがきちんと描き分けられている気がする。しかしその清浄な神社も、神仏習合で寺と僧の支配下にあったというのが面白い。
中世まではもっともっと、たくさんの僧が三井寺全域に満ちていたはず。かれらの生活の場であり、生活するための領地の管理や、守るための武装も僧の修行の一環。その無数の人々がここで生きて死んで、いま自分がいるこの道の上を、千年以上も歩き回ってきたのだと想像すると、心がザワザワしてきてすごい。
一方で三井寺は、敗者と死のイメージが色濃い寺。もともと、壬申の乱で敗死した大友皇子(弘文天皇)を弔うために建てられたという説がある。中世においては比叡山との抗争に負けてばかりで、何度も全山焼討にあっている。いまある建築はほとんどが、千六百年頃に移築されたり建てられたりしたもの。徳川幕府が成立して、ライバル宗派による焼討や兵火に逢うことはなくなったらしい。
弁慶伝説が目立つのも不思議。弁慶は三井寺ではなく叡山の僧兵で、三井寺から鐘を奪った敵。弁慶にさらわれた鐘が帰りたいと鳴るので、戻されてきたという。鐘までが敗者のイメージを背負う。
寺の中心である金堂のまん前に立つ灯籠がまたすごい。
「天智天皇が大化の改新で蘇我一族を誅しその罪消滅のため天皇が自らの左薬指(無名指)を切りこの灯籠の台座下に納められたと伝えられている」と、不気味なことが何気なく書いてある。
蘇我一族の敗滅と鎮魂のイメージまでここに背負い込む。金堂脇にある閼伽井屋(あかいや)に湧く霊泉は、天智天皇・天武天皇・持統天皇の三帝が産湯に用いたという(三井寺の名の由来)。なぜここに大友皇子の名はないのか。天智帝というのも、最後は行方不明で道端に沓だけ転がっていたとか、暗いイメージの付きまとう人。
敗北と死を恐れることくらい、人間くさい感情はないのかもしれない。
ともあれ面白かった。叡山や興福寺も機会をあらためて体験しに行きたい。
三月二日(日)モーツァルト・マチネ
ミューザ川崎にて、東京交響楽団によるモーツァルト・マチネ第六十回。
びわ湖のエーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルトから、川崎の元祖ヴォルフガングへ。
指揮とヴァイオリンは佐藤俊介。協奏曲のソロだけでなく、交響曲でも中央でヴァイオリンをひきながら指揮する。
・ヴァンハル:交響曲ニ短調
・ミスリヴェチェク:ヴァイオリン協奏曲ホ長調
・モーツァルト:交響曲第三十八番《プラハ》
モーツァルトと同時代のヴァンハルとミスリヴェチェクの快活な演奏を通じ、モーツァルトへの影響と、それを活用するモーツァルトの天才ぶりを実感。《プラハ》は緩急強弱の変化を多彩に波動させ、その豊潤な生命力が心地よし。
三月三日(月)ホールの街
渋谷のハンズの先に、二千席の多目的ホール「シブヤラブズ」が二〇二六年夏に開場するというニュース。アニメ、ゲーム系がメインで、クラシックはまず縁がなさそうだが、NHKホールにオーチャードホール、渋谷公会堂にこのホールと、渋谷周辺は大型多目的ホールが四つあるようになる。大和田や、自分は行ったことがないけれどライヴハウス的な中小ホールも複数あるそうで、さらに劇場や能楽堂もある。「ホールの街」というのも渋谷の特徴であるようだ。
三月四日(火)しらかわホール再開
休館が惜しまれていた名古屋のしらかわホールが再開する予定という。素晴らしいホールと話に聞くだけで行く機会がなかったので、これは楽しみ。再開後は「ごしらかわホール」と改名したりして(平家物語とか好きな奴)。
三月八日(土)
観世能楽堂で「大槻文蔵裕一の会 東京公演」。
・能『定家』大槻文蔵 宝生欣哉 野村萬斎
・狂言『隠狸』野村万作 野村裕基
・能『善界 白頭』大槻裕一 宝生常三 野村太一郎
三月十二日(水)ある終焉
海外音楽ソフトの輸入代理店、キングインターナショナルが事業終了を発表。
一般の方との直接的なつながりは薄いとは思うが、フランス・ハルモニア・ムンディやBIS、ベルリン・フィル・レコーディングス、スプラフォン、ユーロアーツ、テスタメントなどなど、多数のレーベルの輸入元。ALTUSなどの販売代理店で、NHK交響楽団のライヴ盤などの発売元。かつてはターラやオルフェオ、オーパス蔵、TDK、などなどなどなど…。
BISは四月からナクソスが代理店になることが発表されている。ハルモニア・ムンディのような大きなところはどこかが契約してくれると思うが、すべてが同じとはいかないだろう。どんな変化がおきるのやら。
クラシックの輸入盤で素晴らしいことは、新譜に関する詳細な紹介文を、タワーレコードやHMVなどのサイトで読めることである。クラシック以外は必ずしもそうではない。たまにポピュラーの輸入盤新譜のページをのぞくと、何の情報もないので途方に暮れることがある。どこが始めたことかは知らないが、こうした情報は、基本的に輸入代理店が作成しているもので、前述のレーベルについてはキングインターナショナルの社員さんが作成したものだった。近年は海外プレスに日本語解説書を添付して国内盤化することにも力を入れていて、「レコード・アカデミー賞」の受賞盤にも多数が含まれている。
創業から三十五年、平成から令和にかけての日本のクラシックレコード界の歴史の、かなり大きな部分を作ってくれていた会社なのだ。
一つの時代が幕を閉じる。思い出はとても書ききれないが、いずれ「音盤時空往来」に書きたいと思う。
三月十七日(月)春の芽
ピション&ピグマリオンのミサ曲ロ短調の輸入盤CD発売予告が出た。とても楽しみだが、発売元のハルモニア・ムンディをこれまで扱ってきたのは、いうまでもなくキングインターナショナル。廃業後の四月三十日発売予定のこのディスクは、どこの扱いなのだろう。
よくわからないが、ちゃんと日本語のリリース情報もついているし、「二〇二五年秋にはブラームスの『ドイツ・レクィエム』をリリース予定」と先のことも書いてあって、嬉しい。
奇しくも卒業と新入学の季節。老い木は枯れ、緑の芽が吹く。
三月二十三日(日)ルヴフとリヴィウ
気がつけば高遠桜は満開。そして小澤征爾音楽塾の《椿姫》、東京・春・音楽祭の諸公演と、上野通いが増える時期。後者の二十三日小ホールでのピノック指揮紀尾井ホール室内管では、コフレル編曲による管弦楽版ゴルトベルクをナマで聴けた。
ピノック指揮のこの曲のディスクがリリースされた二〇二〇年のコロナ禍直前に、そのディスクについて「レコ芸」用に紀尾井ホールでインタヴューし、国内盤の解説も書かせてもらったので、その響きを見事な実演で聴けて嬉しかった。
シェルヘンの遺品から一九九三年に発見されるまで、日の目を見なかったこの編曲を一九三八年頃に完成したコフレルは、ユダヤ系ポーランド人。当時はポーランド領だったルヴフ(現在のウクライナ領リヴィウ)の、ポーランド音楽協会附属の音楽学校で教えていた。一九四四年に占領軍のナチス・ドイツによって殺害されている。
その頃、同じルヴフ(リヴィウ)のウクライナ系の音楽院で歌を教えていたのが、オペラ歌手として名声を得たソロミヤ・クルシェルニツカ。彼女は初演大失敗後の《蝶々夫人》のブレシアでの再演で題名役を歌って成功した、つまり「初めて喝采を浴びた蝶々さん」だった。
現在リヴィウの歌劇場はクルシェルニツカの功績を讃えて、その名を冠している。そしてそのソロミヤ・クルシェルニツカ国立歌劇場でアシスタントをしながら音楽家としての第一歩を踏み出したのが、オクサーナ・リーニフ。
初めてオペラ公演を指揮したのもオデーサでの《蝶々夫人》だったというリーニフ、四月の東京・春・音楽祭で読響を指揮してこのオペラを上演することになっている。
リハが始まる前に長崎を再訪して、作品の舞台をもう一度確かめてくるつもりだというリーニフが、芸術家としてのお手本に仰いでいるのが、「四つの大陸で蝶々さんを歌った」クルシェルニツカ。
ということで、東京・春・音楽祭の公式プログラムに、「《蝶々夫人》が結びつけていくもの~ウクライナと日本」と題して、クルシェルニツカとリーニフの話を書いた。
三月二十八日(金)クラーケンを見た
浜離宮朝日でソッリマ、オペラシティでシフと仲間たち、トッパンでベルチャQと充実の演奏会通いが続き、仕上げはトッパンでエベーヌ&ベルチャ。
メンデルスゾーンの八重奏が鳴りだした瞬間、これまで聴いたこの曲とは、まるで別物の響きがすることに震撼。八人の音がまったく濁らず、まるで宇宙空間のようにそれぞれが鮮明に「見える」だけで驚きなのに、それが綾をなし、有機的なハーモニーとなって響き、驚異的精度で驀進する。
「クラーケンを見た!」というか「高志之八俣遠呂智、凸版に来たり!」というか。一生忘れないような響き。
アンコールの、メルラン編曲のフォーレのレクイエムのイン・パラディスムでのオルガントーンの再現も、すごいデザートだった。
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