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十月十三日(月)始皇帝そのほか
十月は、一日の暗殺を企んだ荊軻を返り討ちにする始皇帝の雄姿を描く能『咸陽宮』で始まった。
この能は、一四二九年の足利義教の六代将軍就任祝賀の席で、音阿弥率いる観世座が演じて覇者の強盛を寿いだそうだが、その十二年後に義教は、家臣赤松満祐の屋敷でその音阿弥が舞う能『鵜羽』を観ている最中に、満祐の裏切りによってあっけなく討たれることになる。始皇帝のようには逃げられなかった義教のことを想いつつ観る。
続いて二日から八日にかけてのフォーレ四重奏団トッパンホール二十五周年記念シリーズ。かれらを中心にした《鱒》やシューマンの五重奏曲をナマで聴ける歓び。アネッテ・ダッシュとの共演ではオペレッタやミュージカル・ナンバーの祝宴のように見えて、じつは運命の女神に翻弄され、一喜一憂するばかりの人間の姿を描いた八日が印象的。ワイルの新発見ナンバーで、近年歌われる機会が増えた名曲《ユーカリ》があったのが嬉しかった。ベルリンを追われて行き着いたパリで、さらなる不遇に苛まれるワイルがフランス語で書いた歌。ユーカリとは「あるはずのない夢の国」のこと、というのが象徴的。
このシリーズの合間には、四日のティボー・ガルシアのみずみずしいアランフエス、七日のウィーン・フィルが美しい《フィガロの結婚》、九日の不滅の生命力の泉のようなブロムシュテット&N響の北欧プロ、十日の創意と活力に満ちた佐藤俊介&チャイのベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ六曲(昼と夜で三時間空いたので、合間は東京体育館で泳いだ)、十二日の恩師汐澤安彦を偲ぶ上智大学OB管弦楽団の熱演などに接した。さらに八日の朝日カルチャーセンターの講座ではトスカニーニの情熱と闘志に背中を叩かれ、締切の将棋倒しで各所に迷惑をかけ、九日には九年ぶりとなるテレビ番組収録もあった。
その間、二日の黒田父子インタビューにかこつけて浜離宮朝日ホール前の喫茶店コリントで食べたタマゴ&ハムサンドは、予想通りとても美味しかった。
家でムーティの《ドン・カルロ》CDを聴きかえし、グラン・ギニョールや文楽を想わせる残虐趣味と恐怖趣味のなかで、フェリペとロドリーゴの対話のもつ近代性と人間性こそがこのドラマのキモであり救いなのだと思ったあと、ロバート・ウィルソン演出のイザベル・ユペールの一人芝居『Mary
Said what She Said』を観る。
フェリペと同時代、天正少年遣欧使節やシェークスピアと同じ時代を生きたスコットランド女王メアリー・スチュアートを、宿敵エリザベス一世(化粧の乙女)と同じ名を持つユペールが演じる。アリソン・アトリーの名作『時の旅人』での憧憬の対象としての女王メアリー像からは見えてこない、不器用で運命に翻弄される一生を濃密に生きる女の、処刑前夜の独白。義教とはまた異なるが、やはり権力者の横死のドラマ。
フランス王アンリ二世の宮廷に育ったメアリーは、あるいはフランス語のほうが英語より得意だったのか。芝居そのものがフランス語で演じられるのは、だから当然なのか。機関銃のように多量の台詞が語られるなか、「さようならフランス、いちばん好きだった場所」というような意味の台詞を、ユペールが客席に背を向けながら口にしたときの「France,」という響きのあまりの美しさと親愛の情に、心臓をつかまれたような気がした。メアリーもまた中世の残酷と近世の理知が入り混じる、境界の時代に生きた人間だったことを、光と影と雲の舞台が見事に示していた(十一日)。
十三日はさいたま芸術劇場でジャルスキー&ティボー・ガルシア。最初の《カーロ・ミオ・ベン》の音楽的センスにみちた、あまりにも美しい前奏に始まる休憩なしの七十分+アンコール。
コンサートとは無関係に残念だったのは、この劇場に来るときの大きな楽しみの一つ、劇場向かいの十万石饅頭が定休日だったこと。祝日でも休むなんて、時代が変わったと実感。仕方ないので、与野本町駅の向こう側の星乃珈琲で「デザートアサイーボウル」を食して帰る。家の近所より一割ほど安く、得した感じで満足(なんと安い男であることよ)。
十月十七日(金)金沢旅行(前)
一泊で人生初の金沢旅行。最大の動機は、石川県立音楽堂で野村萬斎(石川県立音楽堂アーティステック・クリエイティブ・ディレクター)と広上淳一指揮オーケストラ・アンサンブル金沢による現代能『鷹姫』が十八日午後にあること。よい機会なので、今まで行ったことのなかった金沢の町を訪れることにした。調べると十八日の夜は土曜日だからか廉価な宿がない。前日金曜は空きがあるし、平日のほうがまだしも歩きやすいだろうと考え、前日一泊で行くことに。
いまさら自分がいうまでもなく、とてもいい町。
父祖の地である仙台とどことなく雰囲気が似ているように感じるのは、前田と伊達、石高首位と第二位の外様の大藩の城下町という、共通する歴史を持つからか。ただ、空襲で町の大半を焼かれ、東北地方の経済的中心として現代化が進んだ仙台よりも、はるかに江戸・明治の建物や、土地の気配が濃厚に残っている。それを残すための条例などもさかんに制定されているらしい。
空襲されなかった都市というのは、こんなにも徳川期以来の空気感、精神を街々に残すのかと、つくづく感じた。封建制は消滅し、社会体制は激変してしまっているのに、そのたたずまいみたいなものが今も街のそこここに残っている。一方、地下鉄とか地下街といった、戦後の商業主義を象徴するものはない。
いうまでもなく京都も「空襲されなかった大都市」だが、「帝の都」として設計され、中世の公僧武の共存関係のなかで形成された京都は、「武家の城下町」として建設された他の日本の都市とは違うのが当たり前で、なりたちからして比較しようのないものがある。その点、金沢は江戸や仙台と同じ「武家の都」だから比較しやすい。そしていまなお「お武家様の町」。
この日は八時半発の「かがやき」に乗って十一時過ぎに到着。城下町の通例として駅は町の中心部から遠い。街と地形を知るにはてくてく歩くのがいちばん。まずは南東の近江町市場へ。狭い商店街の花形観光スポットで、インバウンドの方たくさん。アジア系よりもフランス語が耳に入る。あまりに魚臭くて自分はダメ(笑)。本来の目的地に向かうべく、幅広の国道へ出ると古い民家が。こういう建物があちこちに残っている。能登にもたくさんあったのだろうとも思う。
当座の目的地、尾張町二丁目の金沢蓄音器館と斜向かいの泉鏡花記念館へ。金沢蓄音機館は展示室が三階まである。かつて金沢を代表するレコード店として繁華街の香林坊にあった山蓄の、店主のコレクションが元。
エジソンが発明したフォノグラフ第一号のレプリカがある。金属製の円柱や丸棒を組み合わせた、実験機材っぽい感じがいかにも試験機。製品化され、高級感を増したフォノグラフ、米軍が使用した戦場用の蓄音機などなど。
上空を数羽のトンビが旋回していた。こんな市街地でもいるのか、と東京砂漠出身者はびっくり。その後も金沢市街のあちこちでトンビの鳴き声を聞いた。
泉鏡花記念館は生家跡に建っている。生家は一八九二年の大火で焼失し、翌年再建された建物。鏡花は、日本でおそらく最もたくさん作品がオペラ化されている作家だし、従兄弟が能のシテ方宝生流の伝説的名手の松本長だったりと、作品の魅力に加えていろいろ興味深い存在。
泉鏡花記念館を出て、橋場交差点近くにある古い堀へ。堀にかかる橋には「明治二十五年四月架」とある。鏡花は十八歳の明治二十三(千八百九十)年に金沢から東京に出て、翌年神楽坂近くの尾崎紅葉宅に弟子として住み込むが、その後二回だけ帰郷している。最後は明治二十七年父の葬儀のためだった。ということは、貧窮に鬱屈していた当時の鏡花は、この欄干を確実に目にしているし、上に腰掛けてみたりしたかもしれない。と思うと感慨深し。わきに「ホタルが生息しています」とある。夏に水辺を照らすのだろう。トンビといい、こんなに自然豊かなのが日本有数の大藩の城下町。
橋場付近の地形もなんとも魅力的な起伏と雰囲気で、あとで聞けばその北側の浅野川からひがし茶屋街あたりもとても美しいそうなのだが、そのときは気づかずに南西に向かってしまい、金沢城の大手門から場内に入る。江戸城なみに広々とした城内に感嘆しつつ歩く。
東側の石川門から城を出ると、向かいが有名な兼六園だが、人が多そうなので次の機会とし、南西へ進む。金沢能楽美術館なるものがあったので思わず入館。撮影禁止だったが金沢各地の能面のコレクションが面白かった。
香林坊へ出て、犀川大橋を渡る。金沢の町は北東の浅野川と、南西の犀川という二つの川にはさまれている。川向うのにし茶屋街に行く。かつての遊興街。浅野川の対岸にひがし茶屋街、犀川の対岸ににし茶屋街と、城下町の二つの川向こうに遊興街を作らせているのがいかにもお武家の発想。にし茶屋街の端にある元の検番は一九二二年築で、これだけがなぜか洋風建築なのが面白かった。
犀川大橋を再び渡って市内に戻り、香林坊手前の片町(現代の歓楽街はこの近辺)から北西に行くと、藩の重臣、前田土佐守家資料館があった。家祖である前田利政(藩祖利家の次男)所用の黒漆塗黒糸威二枚胴具足。渋い。
ここから北へ行く道は、かつての武家屋敷街。長い塀と堀、何よりも静かで落ち着いた空気。途中にキリスト教系の聖霊病院がいきなりあるあたりも、金沢の町。附属の教会は由緒ありげな建物。金沢の町にはほかにも、明治期以来みたいな古い教会があちこちにあって目についた。これらも、空襲がなかったからこそ現存している。少年時代の鏡花が生家近くの教会の附属学校でアメリカ人女性に学んでいるのも、金沢が港町でもないのにハイカラな一面をもっていたためか。東洋風と西洋風が混じり合う鏡花の原点は、こんなところからか。
聖霊病院の北には足軽資料館。大禄の武士だけでなく、底辺の貧しい足軽の住居も保存されている。
町のあちこちの堀をきれいな水が流れている。大半が暗渠化された東京の人間にとってはとても新鮮。「結納専門店」という業種があることに驚いた。いかにも古い町ならでは。ほかに提灯専門店なども見かけた。
この日は結局、金沢の町を十一キロほど歩いた。
十月十八日(土)金沢旅行(後)
金沢旅行二日目。宿はワシントンR&Bホテルの金沢駅西口店。駅近で安いところを第一条件に探した。清潔で静かでよいホテル。昨日見るかぎり、インバウンドの人は中心部に近い東口のホテルを多く利用しているようだった。
中心部の裏側になる西口は城下町の駅の通例で、さびしく空虚な感じがある。高い建物が少なく、間隔に余裕があって(雪国だからか)空が広いのが金沢の魅力だが、西口も大きなビルが多いわりには空が広い。昨日は日差しがきつかったが今日は少し楽そう。
まずは少し前にテレビで見てその雄大さに驚いた石川県立図書館を目指す。駅前からのバスで三十分かかるというので徒歩は断念。金沢のバスは交通系ICが廃止されていて、タッチ式のクレジットカードで支払う。乗車時に後部ドア、降車時に運転席脇と、二回タッチする必要がある。降りるときだけと思っていたので、乗車前に教わっておいてよかった。近江町市場と兼六園前を通る花道ルートなので途中まで混雑。だがその先の「金沢くらしの博物館」とかその付近の長い土塀とか、図書館に向かう途中にも魅力的な建物がたくさん見えたので、次回はそのあたりも下車して歩いてみたい。
到着した石川県立図書館は期待以上の知の宝庫。本好きの天国みたいな、聞きしに勝るものすげえ空間。本の大聖堂。回遊式の円形の階層型天国。あるいは書痴のための階層型地獄。ここをさまよう夢とか、これからきっと見そう。
各所にさまざまな形のイスがあり(五百席あるとか)、思い思いの場所に座って本を読むことができる。無論、自習用の机付のイスもたくさん。というわけで外周部のとある席につき、東京からもってきた校正の続きをやる。はかどることはかどること。図書館というのは、なぜこんなに集中できるのだろう。
名残は尽きないが時間は有限。一階の入口付近から円い天を仰ぎ、いつかまた登るぞと決意。
石川県立音楽堂は駅のすぐ脇という、至便なロケーション。
金沢は鏡花が能楽師の血を引くことが象徴するように、能楽のさかんな町。別に能楽堂もある。とりわけ「加賀宝生」と呼ばれ、前田家以来の伝統で宝生流が強い。「武家の式楽」、武家文化のものである能楽を大切にするあたりも「お武家様の町」。
萬斎はここでいろいろやっている。六月に行われた能『邯鄲』と狂言『唐人相撲』とシェークスピアの『ハムレット』を混ぜた公演を知り、行きたいと思いつつ日程的に行けなかったのが、今回の動機付けになった。今回は新作能『鷹姫』に、広上淳一指揮のオーケストラ・アンサンブル金沢がコラボするという試み。
早く着いたのでホール内のカフェで昼食。タンノイのオートグラフが置いてあって、CDやLPを持ち込めば再生してくれるという。こういう教養道楽の豊かさに、往時の大藩の余裕がいまも生きている気がする。ホワイエでは公演特製の金粉入りドリップコーヒーが売られていたので購入する。金箔はいうまでもなく金沢伝統の名物。
石川県立音楽堂には駅側のコンサートホール入口以外に、反対側には邦楽ホールのための入口もある。そちら側は白系の洋風とは対照的に、茶系の落ち着いた色合いにしてあるのがいい。さらにその座席は、和服の女性でも帯が邪魔にならないように工夫してあるのだそう。
この二つのホールを結ぶ長い通路の途中に、OEKの育ての親、岩城宏之の遺品が飾られていた。燕尾服のほか、写真の武満徹が一九九〇年に岩城に贈った指揮棒とケースなど。
十一月からはオルガン補修のためコンサートホールが休館、OEKも邦楽ホールで公演する。メルニコフがショスタコーヴィチのピアノ協奏曲二曲をひく回、北村朋幹がブラームスのピアノ協奏曲第二番を弾きぶりする回など、とても面白そうな公演がある。
この日の曲目は『鷹姫』のほか、萬斎によるイェーツの詩の朗読など。舞台は二〇一八年に萬斎が世田谷パブリックシアターで主演・演出したものとほぼ同じだった。『鷹姫』はその後いくつか能舞台で見たが、面白さでは世田谷がいちばんで、萬斎のその後の「能・狂言」につながっていった。今回は空賦麟が萬斎から息子の裕基に代り、鷹姫も片山九郎右衛門から大槻裕一に交代。若い二人の躍動的な舞が効果的。大槻文藏演じる老人を再び見られたのも嬉しい。
地謡に字幕が出るのでわかりやすい。最初と最後に「いづみは永久に涸れ果てて、静かなり、榛(はり)の小林」という詞があるのは、一九四五年に三十五歳でフィリピンで戦死した能楽研究者、小林静雄への追悼の意味だという。戦前に『鷹の井戸』の能への翻案を横道に勧めたのが小林だったそう。
既にできあがっているものに何かを追加するというのはとても難しいわけで、ここでのオーケストラの参加もその困難を避けられなかったとは思う。しかしとにかく試してみる、挑戦してみることは重要。さらに練り上げてほしい。
終演時刻の見込みが甘く、新幹線の発車まで余裕かなくなってしまった。そのため夕飯は車内で、能登牛と能登豚ミックスの弁当を食べた。
十月二十三日(木)
東京国立近代美術館(MOMAT)で開催中の企画展『記録をひらく 記憶をつむぐ』、最終日間近になってようやく見る。七月からやっていたが暑すぎた。
『記録をひらく 記憶をつむぐ』というタイトルからは、どんな内容なのかさっぱりわからない。この韜晦がすべてを貫く企画展。ようするに、MOMAT所蔵の「戦争記録画」を中心として、昭和の十五年戦争の時代に世相を反映して描かれた絵画や雑誌など、視覚的史料を展示するもの。
はっきりとした理由は示されていないけれど、どんなふうに利用されたり抗議されたりするかわからないからということなのか、宣伝も少なく、カタログもつくられていない。とにかく見に行くしかない展覧会。
戦争という、抗いえない大状況、時流の只中を生きた人々の、存在証明。そこから何を感じるか、何を学ぶかは、その人次第。
歴史を自分の都合のいいように改竄する国会議員などが増えてきそうな状況だけに、AIで改竄される前の「史実」の証明となる、「本物」の作品を大切にしないといけない。でないと、歴史が「そこから学ぶべきもの」ではなく、「利用するもの」に堕落してしまう。
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