Homeへ
二〇〇五年
四月五日
 渋谷のタワー・レコードのクラシック売り場に「日本音楽の巨匠シリーズ」が売られていた。キングの竹本綱太夫の一枚(仮名手本忠臣蔵)に一九六〇年録音を見つけて購入。キング、コロムビア、日本クラウン、ビクター財団の共同企画だそうだが、録音年月日がジャケ裏に明記されていたのはキングのみ。過去の録音はきちんと載せてほしいものだが、そんなこというのはマニアだけか。
 それにしても綱太夫、門外漢が聴いてもききほれる名調子。通しの録音(七枚組)にも興味の虫が騒ぎだす。ここに入っている三段目以外にも一九六〇年録音がありそうだし…。

四月七日

 「レコード芸術」誌のためにテンシュテットの来日ライヴ盤についてのディスク・レヴューを書く。一九八四年の大阪公演で、《ハフナー》とマーラーの五番。この時期までの来日オーケストラはわりとこまめに中継されていたと思うが、このときは東京では中継がなく、大阪のみ中継されたのだった。
 マーラーの演奏は各部がぞわぞわと動き回るような、すごいもの。二十一年前にこのエアチェックを聴いて、テンシュテットのライヴのマーラーの面白さを知ったのだった。のちのEMI盤のライヴ・シリーズにはこの立体感がない。
 一方モーツァルトはまったく面白くない。「荘重」様式そのまま。個人的には、テンシュテットはマーラーだけの指揮者である。

四月八日
 各雑誌の原稿が一段落したので、ホームページ開設に向けての準備を開始。
 DVDを借りてきて、『ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還』の「スペシャル・エクステンディド・エディション」(こういうの、今はみんなカタカナ)を観る。前2作は劇場版しか観ていないので、特別延長版(にするぞ)は今作が初めて。なるほど、サルーマンはどうなったのかとか、オーク軍団の指揮官はどこで死んだのかとか(かれ、足が悪いのね)、アラゴルンはどんなふうに海賊船に載ったのかとか、がわかる。ガンダルフがミナス・ティリスの戦いの途中で杖を失う場面もあった。劇場版では気がつかなかったが、あらためて観ると、たしかにその後は杖を持っていない。
 とはいえ、やっぱり説明が増えてしまうと、劇場版のリズムのよさが懐かしくなったりする。両方買い揃えるのがマニア道なんだろうけど(でも欲しいのは『新撰組!』)。

四月九日
 新宿御苑で花見。生まれて初めて御苑に入ったが、有料のせいか、駒沢公園や砧緑地で子供の頃に見慣れた「芝生に入らないでください」の立て札がないことに喜ぶ。有料たって二百円。交通費ゼロだから、駒沢公園に緑が丘からバスで往復するより安く済む。これからはときどき行こうと決心。
 松井秀喜のホームランをテレビで観る。タイミングのとり方もスイングも、往年の掛布をほうふつとさせる。ただ違うのは、掛布のは参考にしたり、表面的な形だけでも真似したりできそうだけど、松井のはとても真似できそうにないこと。

四月十日
 五月二十三日から二十七日にかけてミュージック・バードで放送する、生誕百二十周年「クレンペラー名演集」の構成と台本を書く。輸入盤初期CDのマーラーの七番とクレンペラー自作の二番の組み合わせとか、「ヴォータンの告別と魔の炎の音楽」など、貴重品をここぞとばかりに放送する。

四月十一日
 横浜の佐々木がまたリリーフ失敗とか。
 それまで、二イニングときには三イニング投げることもあったリリーフ・エースが「勝っているときの一イニング限定」になったのは、かつての佐々木あたりからだったと思うが、その時代が終わりつつある。佐々木の場合は単なる年齢的限界だとしても、リリーフ・エースの起用法そのものも転換期になってほしい気がする。
 一イニングをほぼ確実に抑える存在というのは、九回制ではなく八回制に短縮したようなもので、観ていて面白いものではなかった。
 野球には、さまざまな確率の組み合わせを楽しめるという要素がある。スポーツの中でほぼ唯一、コンピューターなどなくとも、サイコロと紙と鉛筆さえあれば簡単にゲーム化でき、しかもプレーヤーの想像力次第でそれなりに楽しめるものなのだ(そういう人物を主人公にしたアメリカの小説が邦訳されていたが、題名を失念した)。
 娯楽としての野球は、肉体性の部分を取り除いて確率性の部分だけを残しても、それなりに楽しめるという、特殊なスポーツなのである(だから、ラジオで聴くだけでも展開が把握でき、楽しめる)。
 そのほとんどが五割に届かない成功率の組み合わせだから面白いので、ほぼ十割の成功を実現するリリーフの起用法など、娯楽としてはまるでつまらない。これからは変わるのかしらん。

四月十二日
 ミュージック・バードの収録のためFM東京へ。「クレンペラー名演集」の収録(ナレーターは寺澤京子さん)に立ち会ったあと、自分がパーソナリティを担当する「BBCコンサート」の収録に入ることになっていたが、その合間に片山杜秀さんと顔を合わせたので、暫時話しこむ。
 そもそもわたしがミュージック・バードで仕事をするようになったのは、片山さんが推薦してくれたからである。今も「輸入盤ショーケース」という番組を交代で担当している。だが収録日が異なるし、何しろお忙しい方だから、顔を合わせる機会はまれにしかない。
 しかし、会話をさせてもらうことで、片山さんほど当方の脳味噌を刺激してくれる人は少ない。ほんとうに希有のひとである。脳の中のさまざまな端子が言葉の刺激で接続され、電気が流れだすような感じといったらいいのか、自分の頭まで回転がよくなったような気がしてきて、何とも言えない幸福感が味わえるのだ(もちろんそれは錯覚で、実際には当方の頭は錆びついたままであり、片山さんが補足してくれているだけなのだが)。
 というわけで今回の会話も楽しかったのだが、困ったのはBBCの収録のさい、片山さんとの会話に刺激されたのか、わたしの欠点である早口が復活してしまったこと。このところは、スペシャル・セレクション担当の寺澤さんの落ちついた語り口をじっくりと聞いたあとで収録するお陰で、わたしの語りも多少は落ちついていたのだが、一度ブーストをかけてしまった口の回転は、簡単には落ちてくれなかった。
「頭は早く、口はゆっくり」が理想なのだが、逆に「口は早く、頭はゆっくり」になるから、ますます我を失うという悪循環(誤解を防ぐために書きますが、片山さんご自身の語り口はわかりやすいものです)。いやはやまいった。
 収録後、「BBCコンサート」の今後の予定を決める。グッドオールがモールティングズで一九七四年に演奏した《ヴァルキリー》第一幕を、いよいよラインナップ。楽しみ。

四月十三日
 武満徹の音楽を用いた《ウェイ・オブ・ライフ》を東京文化会館で観る。月並みな感想だが、喜歌劇版《ウィーン気質》を名曲とは言わないように、これも…。オリジナルが日本語なものをドイツ語やフランス語で聞く不思議。新国立劇場が間にあっていたら、彼のオペラがつくられただろうか。

四月十四日
 ホームページの公開準備がととのってきた。迷ったのは画像化による縦書き表示。きっと重いだろう。しかし、ためしに「ビーチャム蕩尽録」を、折り返しなしの横書きで表示してみると、だらだらで本人さえ読む気にならない。ドン・キホーテのふるまいかもしれないが、縦書き表示でいくことにする。

四月十五日
 秘密裡に公開してあった(そんな大層な話ではないが)ホームページ開設のメールを、先輩友人知人関係者に送る。早速多くの方に閲覧していただいたうえに、多数の反応メールをいただいて、とても嬉しい。
 自分自身は至ってずぼらで、こういうとき「返事しなきゃ、ちゃんとした返事しなきゃ」と思っているうちに時機を逸して欠礼、という事態にしばしばなるのだが、いざ自分がもらう立場になると、それでは駄目よということがよくわかる。今まで失礼をしたみなさん、ごめんなさい。先崎君ごめんなさい。安田さんごめんなさい。名前出してごめんなさい。みんなわたしが悪いんです。
 さて、カウンターの番号から推測すると、どうやらベトナムにいる同級生が最初に閲覧してくれたらしい(あ、アクセス解析なんて高級かつ不気味な機能はこのサイトにはついていません。いつでも安心してご覧ください)。物理的な距離の一番遠い人間が最初というのは愉快。
 粗品として『レコードはまっすぐに』の贈呈を約束したが、ベトナムへ直接送ると高いので、いったんかれの実家へ送って、他の荷物などと合わせて送ってもらうことにする。ネット上の情報と、現物との伝播力の差が出るなあ。
 画像化の縦書き表示は、やはり賛否両論。テキストのままで縦書き表示する方法もあるのだが(といってもわたしは使いこなせない)、それだと明朝体が使えないらしい。プレ・ネット世代の原人(?)にとっては、ゴシック体の縦書きはどうにも気持ち悪い。これが難問。
 それにしても明朝体って、明の時代に由来するのだろうけど、もし元朝体とか清朝体とかいうのだったら、名前変わっていたんだろうか。漢人のプライドをかけた文字なのか? 滅満興漢にならって、ゴシック体撃滅と明朝体振興運動、「滅ゴ興明」でも始めるか。そういや国姓爺って、母親が和人だったんだっけ。

 お話変わって、スマップ出演のCMで『エイトマン』の主題歌の前半だけを何度も聴かされたため、その後のサビ(サワリ)が聴きたくなってネットでさがす。
 子供の頃の記憶ではたしか三番の歌詞がかっこよかったはず。そう思って確認してみたら、笑ってしまった。前田武彦の歌詞は最後が「響け轟け、鋼鉄の男」となっていてたしかに語呂が心地いいのだが、そこまでが「燃ゆる空」だの「進め、無敵の力もて」だの、「征け、エイトマン」だの、ほとんど軍歌。軍歌で育った人間(つまりわたし)は、やっぱりこういう歌詞に惹かれてしまうのか。バカ。
 ベルトラン・デ・ビリー指揮の《ラインの黄金》DVDの音声のみを聴く。ビリーの指揮はまさに「俊敏」様式で心地よく、嬉しくなる。これでもっとタメがきいてくると、言うことなしだが、それはまだ先の楽しみか。

四月十七日
 公開から数日たって、ページの不備がいくつかわかってくる。
 まず一つは、大学時代の後輩からのメールで判明したのだが、トップページの「引用ならびに転載を禁じます」という文言が、ネットの世界では、威圧的あるいは高圧的な印象を与えるらしいこと。
 引用禁止と書かれていても、出典を明記して分量が適切な引用なら、著作権法上の例外となるので問題ないはずなのだが、それまで禁じているような印象を与えるらしい。文章が画像化されていてテキスト・コピーできないことと合わせると、引用に対してひどく警戒心の強いサイトだと思われても、仕方ないのかも知れない。
 このままでは「自分の文章は引用だらけのクセにな」などと、きっと「2ちゃんねる」に投稿されるだろう(自分自身が思いつくかぎりの悪意で発想すると、「2ちゃんねる」の投稿に近くなる。一種、ピカレスク・ロマン執筆のための練習問題みたいなものだ)。
 とりあえず「著作権法上の例外を除いた」と加え、「リンク・フリー」とあらためて明記する。もっとやわらかくするかどうかは、また考えよう。
 もう一つは、リンクのページを忘れていたこと。「リンク張りますね」などとネットの諸先輩から親切なお言葉をいただいて、やっと気がついた。ネットの双方向性(というか無限方向性)についての考えが甘いことを反省する。

 ライナー・ノーツを執筆した、ベーム指揮の《ナクソス島のアリアドネ》のDVD(TDKコア)のサンプル盤が送られてくる。
 この公演は、いわゆる「ベーム組」ではない、ユリナッチが作曲家役を歌っているのが魅力である。「ベーム組」の人選なら当然ルートヴィヒが歌うはずなのだが、ルートヴィヒが主役アリアドネに回ったため、ユリナッチの起用となったのだ。ところがルートヴィヒは声域的に無理があったのか、一九六四年の一年だけで降板、このDVDの六五年公演ではヒレブレヒトに交代している。
 ウィーン国立歌劇場ではかなり激しいライバル関係にあったというユリナッチとルートヴィヒの、火花散らす競演を見られないのは残念だが、ユリナッチとツェルビネッタ役のグリストを見られるだけでも、このDVDは充分価値がある。
 それにしても、グリストという存在も面白い。ミュージカル《ウエストサイド物語》の初演で「サムウェアの歌手」として活躍したあとヨーロッパにわたり、L・プライスやバンブリーなどともに、黒人オペラ歌手の草分けとして活躍。ベームに可愛がられ、クレンペラーのあの《フィガロの結婚》でスザンナ役を録音した。
 こういう人が自伝を書いてくれると、とっても面白そうなんだけどなあ~。

四月十八日
 ほぼ二十年ぶりに東京ディズニーランドへ行ってみる。「ディズニー的なもの」に全身を包まれる。これであと二十年は行かなくてすむだろう。平日なので空いていて、好きなように乗り物に乗る。最後に乗ろうとした「スペースマウンテン」が休止のため、代わりに入った「スペースツアーズ」で激しく3D酔いし、気分が悪くなる。妻はケロリとしている。乗り物酔いのない人間が、心底うらやましい。
 サイト・アドヴァイザーのミン吉棟梁からメール。ブラウザがIEのヴァージョン五・五以上なら、テキストの縦書き表示が可能らしい。さすが、十三億人の市場をにらんだ企業は違うなあ。しかしIE嫌いの人には横書きで見られてしまうことになる。そこがひっかかるが、この可変日記くらいの短文なら横書きでも我慢できないわけではない。時間ができたら考えることにする。
 さらに、ページのタイトルが抜けてますよと教えられる。「お気に入り」(ブックマーク)に加えようとすると出てくる、あれのことだ。トップページをいじっているうちに誤って抜けたらしい。
 早速入れようとして、ふと「ここに放送禁止用語が大量に並んでいたら、みんなどう思うだろう」と考える。
 みんなが困惑している場面が頭に浮かび、やってみたくて仕方なくなる。
 しかし、名前ばかりかご丁寧に素顔までさらしたサイトでそんなことをしたら社会的に抹殺されるかも知れない。そこまでいかずとも、こっちは友人だと思っているのに相手はそう思っていない、なんてことにはなるだろう――ようやく暗い衝動を押さえつける。
 こんなバカなことを思いつくのだからネットというのは不思議だ。出版用の原稿を書くときには、そんなこと考えもしない。よくも悪くも、社交用のマスクをつけて書く。
 そういえば約十年前にワープロ専用機からパソコンに換えた直後の二、三年、わたしは電話線を接続しなかった。
 思考をまとめる道具であるはずの機械を、外界につなげるのが怖かったのだ。心の奥底に穴があいて、そこから外界へ漏れだしてしまうような恐怖があった。ウィルスにやられるとかではなくて、もっと自分自身の心に由来する恐怖。
 ところがいざ使いだせば、便利さにまぎれてそんなことは忘れていた。
 だが、やはりこんな衝動が突如頭をもたげたりする。web、蜘蛛の巣とはよくも名づけたものだ。心の底にどんな蜘蛛が巣くうのかは、そのひと次第なのだろうけど。

四月十九日
 ミュージック・バード平日の帯番組、スペシャル・セレクション収録のためにFM東京へ行く。
 今回収録するのは五月三十日から六月四日まで放送予定の「ブラジル対アルゼンチン」。両国の作曲家や演奏家の録音を、三十五時間にわたって放送するという企画。選曲と構成は満津岡信育さん。ヨーロッパ本流にとどまらず、第三世界にまで詳しい満津岡さんでなければできない番組である。
 その収録に立ち会ったあと、続いて自分がマイクの前に座り、BBCコンサートの収録。放送予定は五月十五日と二十二日で、エッシェンバッハ指揮のパリ管弦楽団(シューマンの二番、《春の祭典》など)と、イヴァン・フィッシャー指揮のブダペスト祝祭管弦楽団の演奏会。
 後者はピアニストのシフも出演する。構成がユニークで、まずシフがバルトークのピアノ独奏曲を弾き、続いてオーケストラがその管弦楽版(ハンガリーの風景、ルーマニア民族舞曲など)を演奏することをくり返したのち、協奏曲第一番で両者が共演する。この発想が、かれららしくて面白い。
 ところが途中から、しゃべりが早口病にかかる(片山さんすいません。悪いのはやっぱりわたしです。前回のは濡れ衣でした)。困ったもの。
 終わったあと、「輸入盤ショーケース」の収録に来た片山さんと、先週に引き続き顔を合わす。今回は片山さんが後の収録。《マイ・ウェイ・オブ・ライフ》の感想でひとしきり盛り上がるが、収録前に邪魔し続けるわけにもいかないので退散する。
 渋谷タワーに立ち寄るが収穫なし。

四月二十日
 翻訳を担当した『レコードはまっすぐに』の見本が送られてくる。
 学研(わたしの年代は、小学生時代にその「科学と学習」、というより前者の付録を毎月楽しみにしていたから、この出版社には特別の愛着がある)から出るものだから、不安はなかったけれど、やはりいざ現物を手にしてみると「本当にもうすぐ出るんだなあ」という思いがこみあげてくる。

 この本は、デッカ・レコードの名プロデューサー、ジョン・カルショーの未完の自伝(生涯全体から考えれば、著者が自らの終わりを知るはずもない以上、自伝というのはつねに未完に決まっているのだが)である。
 カルショーにはより有名な『ニーベルングの指環』(原題はリング・リサウンディング)という録音顛末記があって、これはかつて音楽之友社から翻訳書が出ていたし、休刊した雑誌『グラモフォン・ジャパン』にも、その新訳が数回掲載されたことがあった。
 『レコードはまっすぐに』はその本とは別に、カルショーが自伝として書いたものである。だから《ニーベルンクの指環》以外のデッカ録音について、 SP末期からステレオ初期の時代を背景に記したものだ。
 しかしなぜか不運な本だった。一九八一年の出版後、ほぼそのまま忘れられたのである。黒田恭一さんが出していた月刊誌に抄訳が掲載されていたというが、雑誌自体がまもなく休刊。その後いくつかの出版社が邦訳権を獲得したが実現せず、原著も古本市場になかなか出てこない「まぼろしの本」と化してしまった。
 その存在をわたしが聞かされたのは、当時ある出版社に勤めていたIさんからである。
 七、八年前に渋谷で飲んでいたときだった。こういう本が存在すること、自分も出したくて出版会議にかけたところ、「そんな昔の本を出す意味がない」と会社側から拒絶されたこと、しかしまだあきらめていないこと、いつかどこかに働きかけて出そうと思っていることを、Iさんは話してくれた。そして、
「そのときには浩太郎さん、翻訳してみない?」
と誘ってくれたのだった。
 ところが何しろ、原書を手に入れることさえ面倒な本なのである(いまはネットで広範囲な検索が可能だから簡単に見つかるが、価格は安くない。ためしにSFBで検索したら最安値が三十五ドル、高いのは二百三十ユーロだ)。二年近くかかってようやく入手した。
 それからさらに何年かたって、フリーになったIさんは学研と話をつけ、わたしを翻訳者に推薦してくれて、ついに出版の動きが具体化した。しかし、わたしの翻訳遅延のために、Iさんに多大の迷惑をかけてしまうことになった。
 こうして形にはなったけれど、渋谷のあの晩のことを思い出すと、申し訳ないという気持でいっぱいである。

 ともかく、二十六日には店頭に並ぶ。あとは、少しでも多くの方に愛読していただけることを祈るよりほかにない。

四月二十一日
 吾妻ひでおのマンガ『失踪日記』(イースト・プレス)を読む。発行後一か月で四刷りとあるから、大ヒットなのだろう。カルト的な人気を誇るマンガ家が失踪して浮浪者生活をし、発見されて家に戻されるが数年後にまた失踪、浮浪者生活から配管工になって数か月働いているとまた見つかって家に戻され、そのあとアル中になって、治療のために入院する話。「全部実話」だそうだが、それをギャグにしているところが凄い。
 わたしは、吾妻ひでおが大好きというわけではないのだが、この『失踪日記』の冒頭部分「夜を歩く」第一話だけは、十三年前に出た大塚英志編の『夜の魚』で読んで異様に印象に残っていたため、ここで後日譚を読めたのは、目鼻をつけられたようで嬉しい。昔はわたしも3K産業(死語)に関わっていたから、ここに登場する配管工仲間たちの生態が他人事とは思えず、「こういう人、ウチにもいたなあ」などと共感する。「アル中病棟」篇は続きが出るらしい。楽しみ。

 夕方、単行本の企画打合せのために池袋へ。
 池袋のHMVは十年くらい前、外資系大型レコード店のフラッグシップ(現在ならタワー・レコード渋谷店がそうであるように)的な存在だったし、ここのクラシック売り場担当のKさん(わたしがこの世界に入るきっかけをくれた恩人である)と話をするのも楽しかったので、Kさんの迷惑も考えず、毎週のように通ったものだった。
 今ではごくまれにしか行かないこの町での打合せとは、音楽評論のさる大先達のご本の一部分に、聞き役として参加するためのもの。ひどく月並みな感想ながらやっぱり書いてしまうと、学生時代から愛読していた方のご本のお手伝いというのは、なんとも不思議な気分だ。
 帰り際、わたしが翻訳中の本について進行具合をたずねられる。この方とは縁の深い指揮者の評伝なので、刊行を心待ちにされているのだ。しかしどこかの誰かの翻訳遅延のため、待ちぼうけをされているのである。
「これからは何度かお会いできるから、そのたびに催促するからね」とニコニコ笑われながら、恐ろしいことを口にされる。冷や汗。

 ひとりになってから「ウィーン/六〇」冒頭のカラヤンに倣ってつぶやく。
「どこでもいい。どこへ行ったって締切りを過ぎた仕事がある」

――編集の人たち、笑ってくれないだろうな。そういえば『クラシックジャーナル』の原稿を落とすギリギリのとき、
「石原俊 主筆」
の隣に、
「山崎浩太郎 遅筆」
と表紙に掲げてくれと頼んだけど、やっぱり笑ってもらえなかったっけ。

四月二十二日
 ミュージック・バードでスペシャル・セレクション収録。放送の世界もGW進行のために、早めの収録である。
 終了後に銀座へ。四月五日の項で触れた綱太夫の『仮名手本忠臣蔵』が欲しくなったのだが、二年半前の発売なのに、もうネット・ショップでは品切れ。邦楽に強い山野楽器本店に期待して銀座に出たのだが、やはりない。
 木挽町の歌舞伎座の向かいに邦楽専門のレコード店があったはず、と歩いていくが、その店(文化堂?)にも見つからず。ここにないのでは難しいかも知れない。まあ最近は邂逅主義というか、「縁があればどこかで会うだろう」と思う方なので、いったん探索中止。昔なら、このまま東京中を走り回ったろうが。
 それにしても銀座。ここも池袋HMVのさらに十五年くらい前には、お茶の水・秋葉原とともにわたしのパトロール・コースだった。山野ヤマハはもちろん、モール名盤堂、ハルモニア、そして数寄屋橋ハンター。
 グッドオールの《神々の黄昏》のLPを買ったのは、四丁目交差点裏のモール名盤堂だった。「ゴダール指揮」と書いてあった。一九八一年、阿佐ヶ谷の七夕祭りの警備のバイト代の残りで、単なる物珍しさで買ってみたのが、あの指揮者との出会いだった。もう二十四年。

四月二十三日
 昼前に目覚めると、「ウィルスバスター」による不具合の騒ぎが起きていた。ウチもそのソフトなのだが、だらしのない生活のおかげで、寝ている間に問題の更新ファイルの配布が終わっていたらしい。締切に追われて早起きなんて日じゃなくて、ホントによかった。

 わたしが参加しているMLで、「ものを書くご商売の方がご自身の作品をロハで公開するというのはどんな気分なんでしょう」というご質問をいただいた。
 答え甲斐のある質問だし、長くなるので、こちらで答えさせていただくことにする。「である」調のままで失礼する。
 まず、わたしがこのページを立ち上げた理由は、山崎浩太郎の標識をつくろうということである。ネットで検索するだけで情報収集完了、という人が増えてきた現今の状況では、わたし程度の物書きでさえ、本人によるオフィシャルなものがある方がいい時期だと思ったのだ。
 物書きの標識なら、本人の文章がある方がいいだろう。ただ、書き下ろしはさまざまな意味で難しい。「ロハ」だからと程度の低い文章では、標識としての意味をなさない(かえって悪影響だ)し、といってあまりしっかり書くのも妙だ。書くのに時間を費やせば商業原稿に弊害が出るし、逆に弊害が出ないほどヒマなのも、それはそれで非常に悲しい。
 そこで過去の文章の再利用を考えた。書いたものすべてが単行本化されるようなメジャー・リーグ級の執筆者ならともかく、わたしには過去に雑誌等で発表したまま「マイ・ドキュメント」に眠っている原稿がいくつもある。
 それらは単行本などで商業的に再利用できるとは思えない。しかし無料のネットなら、忘却の河を渡りかけたような原稿でも、また読んでくれる人がいるだろう。かれらを少しでも延命できる上に、わたしという書き手の告知にもなる。
 というわけで資源の有効利用、原稿リサイクルによる「標識」として、このサイトを考えた。ネットそのもので収益を得ることは思っていないので、かれらを再び読んでもらえることが素直に嬉しいというのが、いまの気分。

四月二十四日
 予定を早めて「ウィーン/六〇」の第二章をアップする。
 月一回、全部まとめて更新するつもりだったが、考えてみれば「歳時記」と「ビーチャム」の三つを、交代で週一回更新した方が楽だ。
 ところが、第二章の表紙がないことを今になって気がつく。マックでつくったものをウインドウズにコピーして、その後PCを何度か代替わりさせているうちに、どこかで消えてしまったようだ。
 さらに第八章の本文もないのを発見。表紙ならともかく、本文の欠落は困るから、部屋のどこかにあるフリーペーパーの現物を探し出し、新たに打ち込むしかない。間にあうかなあ。

 フェニーチェ劇場のカーセン演出の「椿姫」DVD(TDKコア)を観る。
 これはすばらしい。独創的なアイディアに満ちた演出で「次は、じゃあ次は」と、わくわくしながら画面を眺め続けてしまった。
 一八五三年初演時の復元版というのが変わっている。ムーティの演奏などで聴ける部分も多い(厳密には異同があるのだろうが)が、第二幕第一場のヴィオレッタとジェルモンの二重唱は、あちこちベッリーニみたいな音型になっていて面白い。とりあえずルーチンワーク的な楽譜を書いておいて、あとで実体験をもとに書き直したのだろう。

 ここからはネタバレを含んでいる。DVDやフェニーチェ劇場の来日公演を見るので、先入観を持ちたくないという方は、お読みにならないでほしい。

 カーセンは設定を現代に移している。時代物というのは古典化されるぶん、生々しさが薄れがちで、なかでも失われるのは淫猥さ、卑俗の感覚である。カーセンは現代の風俗を用いることで、淫猥と卑俗とを、あらためてむき出しにする。
 しかしこうした「異化演出」は単なる思いつきや、現代の何者かへのあてこすり、パロディに終わってしまうことが多い。悪意のいやがらせとしか思えない、ろくでもない淫猥の表出も少なくないのだけれど、この「椿姫」は違う。
 淫猥と卑俗とが極端に表出されることによって、かえってその対極にある、清らかなるもの、聖なるものの存在が、ほのかに、しかし力強く感じられるようになっているのだ。
 至純なる「それ」は、現世にあるかぎり、目には見えない。空気として、あるいはただ眼差しにやどる光として、現われるのがせいぜいである。舞台上に「それ」が明確に姿をとることはない。
 しかし、第二幕第一場で舞い落ちる、紙幣でできた木の葉や、第二場のナイトクラブの妖しい煌めきや、第三幕終景での、主人の死を醒めた目で見ていて、そのコートを餞別がわりに持ち去るアンニーナのふるまい(そして、かつては華やかだった部屋の、壁画をはがしにくるペンキ屋たち)などが強調されればされるほど、目に見えぬ「それ」、手に取ることのできぬ「それ」が、(あえていえば音楽の中に)響くのだ。
 言葉にしてしまえば、見せてしまえば、とたんに偽善的で嘘くさく、生命力をうしなう「それ」。カーセンは見せることなく、その対極(紙幣によって象徴される)を強調することで、逆に「それ」の実在を感じさせる。「椿姫」という作品そのものが、音楽そのものが、そうして甦っている。その意味でカーセンの演出は、最終的には音楽に「奉仕」している。その本質に肉薄している。
 しかしそれはカーセンひとりの力ではなく、ヴィオレッタを歌い演じるチョーフィの功績が大きい。彼女なくしては、「それ」の説得力は半減しただろう。これからしばらくは、ヴィオレッタといえば、わたしはチョーフィのあの瞳を思い出すだろう(カメラ・ワークも秀逸)。
 マゼールの指揮はリズムが重くて、第一幕と第二幕ではピンとこなかったが、第三幕で(とりわけアルフレードとの二重唱のあとから)別物と言っていい迫真性を発揮する。有無をいわせぬ力強さがすばらしい。
 東京公演も、余裕のある方はぜひご覧になるべきだ。わたしには高すぎて、とても行けないけれど。

四月二十五日
 斉諧生さんの音盤狂日録を拝観したら、なんと一九六〇年ライヴのシェイナ指揮の《大地の歌》を、チェコのネット・ショップで購入したと書かれていた。
 思わず「ギャッ」とおめき叫んで防ぎ戦う(誰と?)。そういえば最近チェコのサイトは見ていなかったと気がつき、行ってみるとたしかにある。あわてて注文。「一九六〇」というキーワード検索で引っかかった、よくわからないチェコのポップス(?)もついでに注文。どんなものが聴けるやら。

四月二十六日
 ミュージック・バードにてスペシャル・セレクションの収録。今回は六月十三日から十八日に放送予定の「2005年後半に来日するアーティストたち」。
 構成と選曲は山尾敦史さん。毎度のことながら、日本のクラシック大国ぶりにあきれる。こんなにたくさん音楽家がやってきて、ペイしてるんだから凄い。
 それにしても、山尾さんの反応がおかしい。話しかけても返事が遅い。さては「ウィルス・バスター」の恐怖ファイルにやられたかと思ったが、山尾さんはマック使い(吉田戦車風にいえばキントッシュ使い)だからそんなはずはない。
 聞けば、GW進行のために三日間で約五時間しか寝ていないという。さすが業界のリゲイン男だと感心する。
 さらに、GWに開催されるフォル・ジュルネでは、ベートーヴェンに扮して案内役を務められる日があるとか。さすが業界のリゲイン男だと、もういちど感心する。

四月二十七日
 ミュージック・バードから連絡。「BBCコンサート」の六、七月放送用の素材(音源)がBBCから到着したが、問題点が二つあるという。
 両方ともに、なぜかスヴェトラーノフの指揮のものでの問題。ロンドン交響楽団との一時間プログラム(一九七〇年前後のBBCの録音は、一晩の演目を分割したり他と組み合わせたりして、一時間番組に仕立ててあることが多い)四つで二時間番組二本にするつもりなのだが、そのうち二つに問題があるのだ。
 ひとつは、ブラームスの交響曲第三番がオリジナルのテープに何らかの問題があるため、ディスクからのコピーとなったこと。きちんと書いていないが、ディスクとはおそらくトランスクリプション・ディスクのことだろう。
 一九七五年の時点で、まだトランスクリプション・ディスク(テープが高価だった時代に、地方局での再放送用などに少数つくられたLP)がつくられていたことに、まず驚く。この時期なら、テープ同士でコピーした方がよほど簡単かつ安価におもえるのだが(なお現在は、CDかCD‐Rである)。
 ともかく、音を聴いてみるしかない。結果、サーフェース・ノイズはあるし、少しモヤっともするけれど、(はやしひろしさんのスヴェトラーノフのページよれば)スヴェトラのブラ三は、N響盤などわずかのようだから貴重だし、放送前に「お断り」を入れれば、聴取者に納得してもらえる程度の瑕瑾だろうと判断して、放送することにする。
 次の問題は、カタログにスヴェトラーノフとあった一時間番組が、来てみたら別の指揮者だったこと。天下のBBCでもこんなミスがあるとは。ロンドン交響楽団の録音は他にないので、ソヴィエト国立交響楽団とさし替えることにする。
 一回の放送で二つのオーケストラが登場するのは異例だが、ジョン・リルを独奏者にしたロンドン交響楽団との「皇帝」は、この指揮者としてはレコードのない曲目らしい。というわけで、これだけは残すことにする。

四月二十八日
 今月二十四日の項で「はんぶる」の欠落のことを書いたが、それをご覧になった「鬼才!ケマル・ゲキチ」さんが、なんとその第八章本文と第二章表紙のテキストをメールで送ってくださった。
 テキストと書くのは簡単だが、「はんぶる」の一章分は四百字詰原稿用紙で二十枚もあるのだ(第一章のみ四十枚。印刷費がかかるため、第二章以後は一枚四ページに入る二十枚にした)。
 それを一から打ち込むなんて、作者自身でも面倒なのだから、ほんとうにありがたいことである。ここにあらためて感謝の言葉を述べさせていただく。
 なお、「鬼才!ケマル・ゲキチ」さんはそのHNのとおりピアニストのゲキチを応援しておられる。その後援会の、今年六月十八日のサロン・コンサートの内容というのが超豪華。
 シェ松尾にある一八九八年製の有名なスタインウェイをゲキチが弾き、ジョルジュ・サンドのレシピを同店のシェフが再現するのだそうだ。ご興味のある方、いかがでしょうか?

四月三十日
 ――ジュルネ、ジュルネと君らはいうが、野球場も映画館もお客で一杯だ。国民の声なき声は、巨人軍を支持してくれている。

 フォル・ジュルネがフタを開けたら予想外の大にぎわい、売切続出の大人気ということで、わたしもひとつそのブームにあやかろうと、神宮球場にヤクルト阪神戦を観に行く(文脈が変)。

 五年前から歩いて行ける距離に住んでいるのに、神宮で野球を観るのは十九年ぶり。一九八六年の何月だったか、バースの八試合連続本塁打の記録がかかったヤクルト阪神戦を観に来て以来である。
 当時阪神ファン(今はせいぜい「阪神フ」くらい)だったわたしは、前日にバースが江川から打った、あまりにも凄まじい一発(逆転スリーランだったように思うが、そんなことがどうでもよくなる一撃。通常の斜め上方ではなくて垂直に消えたのに、瞬間に大ホームランとわかる打球だった。相手が偉大な投手だからこその打球、と後にバースは江川を讃えたそうな)をテレビで観て、いたたまれないような思いになってしまったのだ。それで、ジャパンアーツの電話番のバイトが終わると同時に、神宮へ駆けつけたのである。
 異様な雰囲気だった。一塁側内野席の一部を除いて、あとは全部バースを観に来たファンだったからだ。ヤクルトの攻撃中さえ「頼むぞお、バースへ回せ~」と意味不明の声援が飛んでいた(何が頼むぞお、だ)。
 結局バースは打てなかった。全打席を通じて、たった一球あったというホームラン・ボールを、なぜかかれは見逃してしまったのだ。たしかにその一球、(誰が投げたか忘れたが)手頃な高さの棒球は、はるかバックスクリーン横の外野席で観ていた自分にもそれとわかったほどの、絶好球だった。たぶん、そんな球だからこそ(江川のストレートとは逆に)バースは動けなかったのだろう。
 その球があったのは八回表、二死満塁の打席だったと思う。結局は凡打に終わり、もう駄目だなと思って(八回なのだ)混む前に出ようと帰ったのだが、翌日新聞を見て驚いた。もう一回バースに回そうとした阪神ナインは必死で打ちまくって、直後のそして最後の九回に、バースをこの日六回目の打席に立たせていたのである。
 駄目だったけどもう充分、といいたくなるような、何とも「東京の阪神好き」にはぴったりのゲームだった。

 それ以来の、神宮のナイター。驚いたのは、二十年前と球場の雰囲気がほとんど変わらなかったこと。そして吹きぬける風が爽やかだったこと。東京ドームは数年前に何度か経験したが、あのこもった空気はどうにもいやだった。やっぱり野球は野外がいい。
 スタンド下の、航空母艦「赤城」の格納庫かなんか(戦争映画好きならではの貧困なイメージ)を想わせる、だだっ広くて、陰気な蛍光灯に照らされたコンクリートの売店街も昔と一緒だった。
 レフトスタンドは(味方ながら)応援がうるさいので、ライトへ移動する。古田の二千本安打達成後ということで気抜けしたのか、ヤクルト・ファンは静かで好ましい。試合はまあ、「タイガータイガー、じれっタイガー」状態だったが。

 適当なところで球場を抜け出し、渋谷へ移動して、レコード店に『レコードはまっすぐに』が出たかどうかを確認しに行く。ドラえもんカラー(クラシックジャーナル編集長命名)の本はちゃんとあった。「ゲキ売れです」と、嬉しいお言葉を店員さんから聞く。
 カルショーの名のもつ潜在的な人気の高さを実感すると同時に、「サイン・ゲリラ」をせずに済んだと一安心。
 サイン・ゲリラとは、本屋に押しかけて、著者(訳者)なんでサインしときます、と在庫の本に勝手にサインしていくものである。
 こうすると、著者だろうが何だろうが書き込みのある本は取次への返本が不可になるため、実際は店頭の不良在庫が増えただけなのに、取次と出版社と著者にとっては「売れた」ことになるという、まさに「外道の戦術」、本屋へのテロ行為なのだ。やらんでよかった。

五月一日
 NHK教育テレビの「芸術劇場」でSP覆刻の話題が取り上げられ、「オーパス蔵」の岡山県牛窓の蔵が、岩手のあらえびす記念館とともに紹介される。
 安原、相原両氏(両原)も登場。ちらりと映った瀬戸内の穏やかな海とやわらかな陽光が懐かしい。かつて3K産業(死語)に関わったおかげで、関東一円の各地に滞在した経験があるのだが、あれは、関東(というか板東)では見たことのない景色だった。
 岩手のあらえびす記念館も、あらえびすの息子さん遺愛と思しき《メサイア》(ビーチャム指揮)全曲もこの記念館にあるそうで、行ってみようと思いつつその機会を得ない。亡父の実家は仙台(柳生と書いて、やなぎゅう、と読む。ああかっこ悪い)なので、その気になればついでに回れるのだが。

 ところで瀬戸内、岩手とくると、平家と奥州藤原氏にゆかりの地域である。
 大河の「義経」も、福原と平泉と鎌倉の「風土の差」をもっと感じさせてくれれば、面白くなるのではないか。現在でさえ、風光のあんなに異なる場所なのだから、その空気の差を、CGで見せるよりも前に感じさせてくれたら。
 それぞれ、清盛、秀衡、頼朝の三人の英雄(ひでおじゃないぞ)の「夢の都」だったのだから、その差を描くことは、かれらの夢の差を描くことになる(後白河の京都も加えよう)。
 その四つの都を遍歴する「異人」あるいは「旅人」としての、九郎義経。
 そもそも九郎という人は、どこの方言でしゃべっていたのだろう? 京都の言葉なのか、奥州の言葉なのか、それがまじっているのか?
 もちろん当時の方言などは史料不足で再現不可能だろうが、どうせ現代日本語に翻訳するのなら、各地の方言に翻訳してもいいだろうに。文章にするとうるさいが、耳からなら効果的なはずだ。

「四都(しと)の旅人、九郎義経」
 使い古された源平の物語に新たな光をもたらすこんな小説、誰か書かんか。

五月二日
 ミン吉棟梁のご教授を受けて、パヴァロッティの「幻のシングル盤」のCDを入手すべく、渋谷のタワーへ。
 このシングル盤は「レコードはまっすぐに」の末尾ちかくに登場するもので、翻訳中には気がつかなかったのだが、ミン吉棟梁によると「パヴァロッティ・エディション」の十枚組ボックスのボーナス盤になっているという。
 おかしい、あのエディションの内容は「レコード・イヤーブック」で調べたはずと思ったが、これが浅はかな思慮足らず、なんと輸入盤にだけ、ボーナスとして写真集とこのCDがついていたのだ。やんぬるかな(いつの人間だ)。
 正直言って、わたしはパヴァロッティのCDを自分から買う人間ではないが、こればかりはしようがない。「ダブル・ポイントなんだから」と自らを督戦して購入する。
 しかしわたしの感情は置いて、デッカのこのボーナスは丁寧で好ましい(なんで国内盤はやらなかったんだろう)。嬉しいことにオリジナル・ジャケで、恩師の三谷礼二によれば「今の半分くらい」に痩せていた時代のパヴァロッティの顔が写っている(「レコードはまっすぐに」補足訂正のページ参照のこと)。
 録音時期は書いてないが、一九六四年の夏にパヴァロッティは、グラインドボーン音楽祭の《イドメネオ》出演のために一か月以上イギリスにいたから、その前後のものではないだろうか。
 ともあれ、聴けたことは嬉しい。
 なんといっても、デッカ・レコードという企業そのものの老衰を示す、時の移り変わりの象徴として登場するアイテムなのだ。四九七頁の「二十年間にわたって彼はよい成績を上げてきたけれど、今はもう席を譲るべき時なのだ」という一節を訳したとき、一陣の風が胸中を吹きぬけるような寂しさを覚えたことは、今でも忘れがたい。
 四十一年前のジャケットを見ながら、そこに込められたローゼンガルテン、カルショー、パヴァロッティ、それにデル・モナコの思惑に、想いを馳せてみる。

五月六日
 新宿駅西口北側を徘徊する。目的は、付近に点在するロック系のブートレグ(海賊盤)専門店めぐりをするため。
 ボブ・ディランがメジャー・デビューする前、一九六〇年秋(九月?)に故郷ミネソタの知人のテープ・レコーダーに録音した音源(ディランの録音ではおそらく最古のもの)が、少し前にミネソタの図書館に寄付されたんだそうで、ひょっとしたらその不法コピーが出ているかなと思ったのだ。
 ディランの初期録音では「ミネソタ・パーティ・テープ」と呼ばれる一九六一年五月のものが有名で、それは以前からCDになっていると聞いている。しかし一九六〇年の方はCDがあるのかどうか(LPはつい先日のe-bayのオークションに出ていたが、高かったし、正体もよくわからないので手を出さなかった)。
 その図書館では希望者に聴かせるだけでダビングは認めていないそうだが、ブートレグの世界はまさに「何でもあり」なので、もうCDで売っているのではないかと考えたのだが、当てずっぽうで出会えるほどの運には恵まれなかった。下調べもせず目についた店へ入るだけだから、探し方も悪いのだが。
 結局、数時間の無駄足に終わる。一九六〇年はビートルズ(の前身)の最初期の録音もある年なので、それとディランを並べて「ロック紀元前」みたいな小文にしようという目論見は、しばしのお預けとなった。
 代わりに、LPでは発売中止になった「ディラン・イン・コンサート」(一九六三年のカーネギー・ホールなどのライヴ盤)のCDを見つける。ボツになったはずの、アメリカ・コロンビアのオリジナル・ジャケットのコピーらしき外装に心が動くが、我慢。
 当時のCBSの正規ライヴ盤でLP一枚に編集してあるものの多くは、ヒット曲を除いた脱け殻みたいだからである。あくまでセッション録音の「埋め草」なのだ。先入観はもちろんよくないが、しかしバクチ覚悟で買うほどにディランが好きなわけではない。
 それにしてもこの新宿西口ブートレグ街、数年に一度しか来ないのだが、大型店ばかりになる前の、銀座や神田あたりのクラシックの小型店めぐりをしていたころの感覚を思い出すのは楽しい。
 ジャズ・ミュージシャンの中でただ一人(たぶん)、マイルス・デイヴィスのブートレグが、ロックのアーティストの中に当たり前のように並んでいたのも、面白かった。中山康樹さんの影響なのだろうか。

五月十日
 ミュージック・バードのスペシャルセレクション「二十世紀ロシアの作曲家たち ピアノ曲を中心に」(六月二十日~二十六日放送予定)の収録。
 選曲構成はわたし。マニアックな番組ばかりやっているわけではないのだ。使用するCDの大半はFM東京やミュージック・バードの所有するもの。
 当然国内盤なのだけれど、その多くは十五年くらい前、つまりバブルでCD市場が右肩上がりだった時期の国内盤である。この頃って、いまなら「レコード芸術」の「海外盤試聴記」にしか載らなさそうな、海外のマイナー・レーベルの珍曲まで、けっこう国内盤が出ているのである。おかげで、「こんなのあったのか」というような曲も放送できたりする。
 さらにNECアベニューとか、やめてしまったレーベルも混じっていて、レコード室の棚を眺めているだけでも懐かしい。一九九〇年前後のCD界の好景気をいまなお肌で感じられる場所である。

五月十一日
 妻が数日前からギックリ腰に倒れたため、「介護のおけいこ」をする。ほんとに重症だった最初のうちは何をしても感謝してくれるから気が楽だが、少し良くなってくると、予想どおり「あれができていない、これはどうした、何を考えているかわからない」と厭味の大嵐。渥美清の「泣いてたまるか」を相手に聞こえないように口ずさみながら、じっと耐える。
 映画『大脱走』の、どんな苦境でも微笑んでいるスティーヴ・マックイーンが大好きで、「男ならああなりたい」と思ってきたが、あれは実はただの「仮面うつ病」だったんじゃないかとか、そんなことを考えながら家事にいそしむ。
 ちょっと疲れた。

 注文していた本が何冊か、さみだれ式に到着。そのうちの一冊は学研が出した『虚人魁人康芳夫』。
 神彰のもとで「呼び屋」稼業に手を染め、オリバー君やら「アリ対猪木戦」やら、わたしが中学生頃に胸をときめかせた「テレビ的事件」の仕掛け人をした人物の自伝である。
 水木しげるの描く、あやしげな魔術師みたいな表紙がいい。「国際暗黒プロデューサーの自伝」とある。してみると学研は『レコードはまっすぐに』とこの『虚人魁人康芳夫』と「プロデューサー」なる人種の自伝を、二冊ほぼ同時に発売したわけだ。とはいえカルショーは、放送や映画でなら「ディレクター」と呼ばれる仕事をしていたし、康芳夫は「プロモーター」と呼ばれそうな仕事をしている。「プロデューサー」なる言葉はやはり意味がひろい。
 ちらりと目を通すと、神彰のアートフレンドがライバルにしてやられた裏事情には、当時の中ソ対立(中日対ソフトバンクじゃないぞ)が関係していたなどと書いてあって、面白そう。
 ほかは『「正史」はいかに書かれてきたか』(竹内康浩/大修館書店)など。
 中国の反日運動は、直接的には近現代の歴史教育が原因なのだろう。しかしその向こうには有史以来、この国が野蛮強悍な少数民族に脅かされ、そればかりかのべ数世紀にわたって支配された歴史的背景があるのではないか、かれらの中華思想はその裏返しなのではないのか、その歴史観はどんなものなのだろうか、と興味がわき、タイトルに惹かれて注文したもの。
 ところが、その注文の直後に、まったくの偶然で著者ご本人から、この「はんぶるオンライン」についてのメールをいただき、死ぬほど驚いた。
 なるほど縁というものは、この世にあるのかも知れない。気合をいれて読まねばなるまい。わたしは本を読むスピードが遅いので困るのだが(書くのはもっと遅いけど)、さて、どれからかかるか。

五月十三日
 さる方のご厚意で、フェニーチェ劇場の《椿姫》を東京文化会館に観に行く。
 四月二十四日の可変日記で触れたDVDと同じ、カーセン演出である。主役もジェルモンは代わっているが、ヴィオレッタのチョーフィとアルフレードのサッカはそのまま。指揮はマゼールからベニーニへ交代。
 正直に言うと、細部までつくりこまれたカーセン演出やチョーフィ入魂の演技を大きなハコで観るのは、もどかしさを少なからず感じた。先にDVDを見ているからで、それはある種、映画版『ウエストサイド物語』や『サウンド・オブ・ミュージック』を見て育った人間が、あとからその舞台版を観たときに感じる、もどかしさに似ているだろう。
 しかしもちろん、ナマならではの空間性に刺激された部分もあり、たとえば第二幕第二場の「田園」風景が、ヴィオレッタの財によって維持されている「箱庭」に過ぎないことは、舞台の方が明確に感じられた。
 また、同場でヴィオレッタが前奏曲の旋律にのせてアルフレードに訴えるクライマックス、「わたしを愛してアルフレード、わたしと同じくらいに」で、紙幣が降りそそいできた瞬間には、背筋を電撃が走るような戦慄と感激があった。
 ヴィオレッタの愛は真実だが、それを現実に示すのは、札束の力でしかない。アルフレードをヒモのようにしたり、あるいは逆にそこから解放したりする以外に、この「倫落の女」は愛を示すことができないのだ。
 その痛烈な皮肉と痛切な矛盾の中に響く、かの美しき旋律の愛の叫び。
 ここは《椿姫》の「扇の要」の部分だと思うが、カーセンはそれを見事に視覚化してくれた。
 本来なら尻上がりに来るはずのチョーフィはスタミナ配分をミスしたのか、第三幕ではややくたびれていたようだが、それでも素晴らしかった。
 声質に好き嫌いはあるだろうが(わたしは好き)、しかしまさにその声質、歌のうまさ、演技力において、たしかに「イタリアのプリマドンナ」の伝統を引き継ぐ歌手である。
 ベニーニの指揮は、はっきり言って「やすっちい」。リズムがちゃんと下まで落ちず、上滑りしたまま走ってしまうからである。ただ、その軽薄さのゆえに、ヴェネツィア初演版の特質が(マゼールが指揮したDVDよりも)明確になったのは面白い。
 各所にある、貧血を起こしたように漂う音型(ジェルモンのカバレッタに入る直前とか)が、妙にクセになるのだ。第二幕第二場の大アンサンブルのふわふわした音型も、耳に残る。
 トスカニーニとはいわないが(あのベルカント嫌いがこんな版をやるわけがないから)、パピやパニッツァや、あるいは現代のフリッツァだったら、どんなふうに響かせるか、聴いてみたくなった。
 それにしても、《椿姫》初演版の音楽に、《カプレーティとモンテッキ》を想起させる音型が諸所にあるのは、なぜなのだろう。
 どちらも、ロビーで会ったミン吉棟梁がいみじくも指摘したように、フェニーチェ初演である。

五月十五日
 一九六〇年録音なのに買いそびれていた、ジャン・ピアースの『ヘブライ民謡集』が届いたので聴いてみる。二曲目の「レーズンとアーモンド」は、ピアースの義弟でもあるリチャード・タッカーの十八番だった歌だが、ピアースの歌には、タッカーの哀しみとはまた別の悲劇性がみちていて素晴らしい。
 かれがトスカニーニの指揮で歌ったアルフレードとロドルフォの歌唱は、わたしにとって永遠のスタンダードとなっている。その源がここにあるのだろう。このフレージングと音色の変化。二十世紀前半のよき「俊敏」様式が、ここにはまだ活きている。

五月十六日
 ミュージック・バードの「輸入盤ショーケース」の収録。わたしに続いて片山さんも同番組を収録。レコード室からCD借出などをしている間に片山さんの収録が終わったので、二人して喫茶店で駄弁る。

 片山さんはこのところネットラジオの聴取に目覚めて、ヨーロッパ各地の放送局が連日次々と放送する現代曲を聴きまくっているそうだ。その多量さたるや、日本のFMはむろんCDさえ問題にならないもので、これまでなら収集に数年かかったほどの情報量がほんの数週間で、しかもタダで手に入るという。
 衰えを知らない知識欲と旺盛な好奇心はさすがに片山さんだが、ところがその片山さんさえ、最近、実は地獄にいるのではないかと思うようになったという。
 そりゃそうだ。二十四時間体制でいっぺんに複数の放送局が放送し続けているのだから、そのすべてを聴こうと思ったら、聖徳太子並みの「人にあらざる者」に進化しなければならない。
 いや今のままでも、わたしのような凡人から見れば、片山さんは充分に「人にあらざる者」じみているのだが、そのかれにして追いつかないというのだから、それはもはや、神の領域である。
 情報があまりに多すぎて、究極的にはまったくないのと同じ、禅じみた「無」の世界がネット上に現出しつつあり、それに応えるために人間は、進化論的な突然変異ではなく、人為的な操作によって進化させられてしまうことになるのではないか。人間は脳髄だけあれば充分になり、互いに接続されて情報を共有し、やがて「個」(個人)は消滅して「無」となる。
 進化できない者は、この「好奇心の太極」から逃れるために、何か防壁を設けるしかない。たとえばわたしが「一九六〇年」に執着し、この年に関する情報の入手を他の年の情報よりも優先しているのは、歴史の一点から過去現在を眺めようという意図の他に、情報の洪水に対して障壁を設けて、自己防衛するという目的からとも言えるのだ。

 ここで話は少し方向転換して、この情報の洪水は「ネット上の情報はタダであり、人類共有のものである」という、いわば「情報共産(無産)主義」が生みつつあるものではないか、と進む。
 ユートピアと見せかけて地獄をもたらすという点、物質上の共産主義と同じなのだ。そしてこの情報共産主義の面妖さは、その背景に二十世紀アメリカの消費社会が生んだ「情報は無料でサーヴィスしますから、代りに物を買ってください」というコマーシャリズムがあることなのだ。
 物を売るために情報がタダに見せかけられていること(民放のラジオ・テレビはその象徴)に慣れた人類が、無邪気にネット上の情報共産主義社会を受け入れつつある。まさに高度な市民消費社会が生んだ、二十一世紀型の新しい共産主義の出現。行きつく先は、地獄。
 情報はタダではない。それはサーヴィスではなく、固有の対価を求めるものである。そういう意識変換、いわば「逆革命」(カウンター・レヴォリューション)を起こさなければ、人類は無料にして無責任な情報の洪水のなかで、逆に「情報の貧困」に苦しむことになるだろう。
 そこで「情報資本主義」に大転換し、さらには有限の地球資源の枯渇を防ぐために、二十世紀アメリカ型の物質消費社会から、情報消費社会への転換を、物質ではなく情報を消費する社会への転換を図る。
 だが情報共産主義に慣れた人々は、激しく抵抗するだろう。あるいは戦争になるかもしれない。

 とまあ、話が大きくなったところで、「でも結局、情報の洪水に苦しんでいる人なんて、ひと握りなのではないか。あとの大部分の人は気にしないのでは」
と片山さん。
 そりゃそうだ、と二人して萎んだところで、お開き。酒も飲まずにケーキを食いながらこんな話を三時間もしているのだから、お互いまともではない。
 談天の快、まさにこれにあり。面白かった。

五月十七日
 ミュージック・バードのスペシャル・セレクション「アメリカ西海岸を行く」の収録(六月二十七日~七月四日放送予定)。構成は満津岡さん。
 南のサンディエゴから北のシアトルまで、西海岸諸都市のオーケストラや出身演奏家、作曲家たちの録音を紹介するもの。サンディエゴだけで六時間の番組をつくるなんて、満津岡さんならでは。アン・アキコ・マイヤースって、サンディエゴ出身だったのか。
 つづいてマイクの前に移って、「BBCコンサート」の収録。二週連続でコリン・デイヴィスの登場で、一九八〇年のロンドン交響楽団(五月二十九日放送予定)と一九六九年のBBC交響楽団(六月六日予定)の二つ。
 後者が特に面白い。「若者ぶり」がいろいろなところで強調されていた六〇年代末の雰囲気が、ひしひしと感じられるのだ。《皇帝》のビショップ(今のコヴァセヴィッチ)のピアノは元気一杯、デイヴィスもあおるあおる。プロムスの客は大喝采。
 後半の《惑星》は、当時の解説によるとデイヴィス生涯最初の演奏だという。しかもこのあとかれは、八八年にベルリン・フィルと録音するまで、なぜかこの曲をレコードにしなかったのだ。よくも悪くも若い演奏。
 それにしても、アポロ十一号が月に行ってから一か月後の演奏というのが、妙な懐かしさをいだかせる。

 この日は三連投で、引き続いて「クラシック自由時間」という番組にゲスト出演し、学級委員(学校の自由時間、という設定なのだ。ラジオなので詰襟を着たりはしません)の田中美登里さんと一緒にしゃべる。
 テーマは、ジョン・カルショーについて。『レコードはまっすぐに』の内容を話題にしつつ、そこに登場する録音を抜粋で紹介する。話題の対象がレコードだけに、それをぱっと紹介できる。わたしは「ナマは体験するもの、レコードは語るもの」だと思うが、その意味でカルショーの本は格好の素材である。放送予定は六月二十六日(七月三日に再放送)。
 ここからは、番組ではしゃべっていない抽象的な話題。
 岡田英弘の歴史論など読んでいて思ったことだが、「歴史」というのが出来事そのものではなく、出来事が人間の手によって記録されたときに初めて「歴史」になるのだとすれば、レコードとは、演奏を複数の人間の手を経て製品化し、それを多くの人が聴くようにするという点において、まさしく演奏を「歴史化」する行為ということになるだろう(言うまでもなく、人間の手を経れば、ある種の作為が混じることを避けられない。ここに問題点と面白味があるということも、歴史と同じである)。
 つまりカルショーの行為は、演奏を、積極的に歴史化することだったともいえる。この「積極的に」がカギで、そのことに関心の薄い音楽家たちとは疎遠になっていくのだ。

 それにしてもあらためて聴くと、カルショーの音感覚は、とてもドライだ。このことと、かつて戦場で死線をくぐってきたこととは、関連があるのだろうか。
 『レコードはまっすぐに』冒頭で戦場の体験が詳しく綴られているのは、音楽ファンにとってはどうでもよいことかも知れないが、実はかなり意味深いことなのではないか。《戦争レクイエム》と、「ボーファイター・ボーイズ」たちの記憶とは、かれは書かないけれど、深いところでつながっているのではないか。
 あるいはあの名録音は、同時代の傑作に出会えたという興奮ばかりでなく、自身の体験をも歴史化しようとするところから生まれたのかも知れない。だからこそ、『レコードはまっすぐに』全編において《戦争レクイエム》の逸話は、あれほどに印象的なのではないだろうか。

五月十八日
 アルファ・ベータ社に行く。『レコード芸術』に「二十世紀の不滅の大指揮者たち」というシリーズで掲載した原稿の単行本化について、最初の打合せ。
 まずはタイトルを決めることにし、指揮者がちょうど四十人いるので、『アリババと四十人の指揮者』でいくことに決定(うそ)。

五月二十一日
 新橋の欧州料理店「ベルラン」(リンクのページ参照のこと)にて開かれた、フルトヴェングラーセンター主催のレコード・コンサートにお招きいただく。
 テーマは「HMV一九四型蓄音機で一九二六年の〈運命〉を聴く」。
 フルトヴェングラー最初の《運命》録音である一九二六年ポリドール盤は、稀少盤(CD覆刻も少ない)として知られている。ベルラン店主の藤森朗さんがそのミント盤をめでたく入手されたので、その盤を中心にフルトヴェングラーのポリドール録音やニキシュ、トスカニーニ等の録音を、店主ご自慢のHMV一九四型蓄音機(一九二九年製とうかがったと記憶する)で再生しようという集まり。
 貴重な機会だけに、四十人もの方々で店内は満席。さすがにこの人数だと音が吸われて、思うような音ではないと店主は言われていたが、それでも高い天井と木の床の入念な内装によって、わたしは豊かな音響を感じることができた。
 一九二五、六年頃の初期電気録音をポリドールが重視しないのは、その直後にポリファー録音なる新方式を開発し、音質の向上がなされたためらしい。たしかに件の《運命》に続けて一九三〇年の《フィンガルの洞窟》などを聴くと、後者では残響の豊かさなどが格段に向上しているのがよくわかる。
 この時期のフルトヴェングラーの響きとリズムは、明快ですっきりしている。不慣れな録音スタジオという条件もあるにせよ、やはりかれもまた、二十世紀前半には「俊敏」な演奏をしていたのだ。正確には当時のベルリン・フィルが「俊敏」だった、ということなのだろうが。
 ビストロ「ベルラン」、料理にワインにSPと、趣味の通人にはこたえられないお店のようだ。また来よう。

五月二十四日
 サントリー・ホールのホール・オペラ《ラ・ボエーム》を観に行く。
 お目当てはニコラ・ルイゾッティの指揮とエヴァ・メイのミミだったが、ご存じのとおりメイはキャンセルしてしまったので、ルイゾッティだけが楽しみとなる。チョーフィに続いて旬のイタリアのリリコ二人をナマで聴こうという目論見は外れてしまった(余談だが、フェニーチェ劇場公演のプログラムで、チョーフィは自らの声質を「リリコ・ディ・コロラトゥーラ」と規定していた。寡聞にして初めて知った用語だが、チョーフィ独特の声質を端的に説明している)。
 ところが、第一幕が完全におかしい。出演者たちが慣れてから、と思って三日目を選んだのに、肝心のルイゾッティの指揮が上半身だけの、肩で息をしているような浅い呼吸の音楽なのだ。
 こうなると歌手たちの演技も浮ついてしまい、セミ・ステージという独特の演出も災いして、あえていえば学芸会を見ているかのような、気恥ずかしさを感じてしまう。もちろん、そのことをいちばん肌で感じているのは歌手たち自身だから、何とかしようと必死になるのだが、そうすればするほど、がなるような歌になってしまう。アンサンブルとはいえない、ただの混濁した音の塊があるだけ。
 なぜこんなことになったのか、わからないが、声を後ろに聴きながら指揮をするという、ホール・オペラ独自のスタイルがよくなかったのかもしれない。特に初めは歌手のノドも温まっておらず、響きにくく拡散してしまうから、指揮者がそれを聞きとろうとしているうちに、悪循環でうわずったようにも思える。

 こりゃ困った、「金返せ」オペラになったかと危惧しつつ、第二幕で合唱が入れば、この指揮者の持ち味からして持ち直すのではないかと望みをかける。
 フタを開けたら予想通り、合唱(舞台後方の客席部分にいるので、指揮者の視界内にいる)が入った瞬間に指揮者の身体が躍動し、全身での指揮が始まった。こうなれば音楽が動き出す。歌手たちはその弾むリズムに乗るだけでいい。
 やっぱりルイゾッティは、大きなアンサンブルに強いのだ。昨年の《トスカ》(シコフを聴くのが目的で指揮者には注目していなかったのに、その大きな呼吸感で驚きと喜びを与えてくれた)では、もっとたっぷりと鳴らしていたが、作品の音楽的質の差を把握して、《ボエーム》では軽妙さが活かされる。これで、独唱陣の響きがより明確だったらとは思うが、発声的にもホールの音響的にも仕方のないところだろう。
 ルイゾッティの指揮の白眉は第三幕。この幕では独唱陣も舞台後方(P席だっけ?)にいるから、アンサンブルのコントロールもやりやすいのだろう。旋律が息づいて、美しく歌われる。
 四重唱のクライマックスに響くトランペットが、衝撃的なまでに素晴らしかった。よく見なかったが、外人さんのようだった(オケは東響)。歌とオーケストラが照応し、相乗効果でドラマを生む。これこそがオペラの醍醐味だ。
 四幕冒頭のアンサンブルは、第一幕とはうってかわって説得力を増す。ただ、どうしても重唱が濁る(小ギャウロフという感じの声のコッリーネとか、一人一人はいいのだけれど)。しかしオーケストラは美しく歌っていた。
 去年の《トスカ》だけではまぐれ当たりかも知れないと思っていたが、やはりルイゾッティは要注目の存在である。
 今年は七月にN響も振る。行こうか、どうしようか。

五月二十六日
 ロンドン交響楽団のマネージング・ディレクター(いただいた名刺には「専務理事」とある)、クライヴ・ギリンソン氏とキャスリン・マクダウェル氏(女史、ていうのは最近使わないんだっけ。性差別撤廃もいいけど、定冠詞に女性形があったりするドイツ語やイタリア語は、やがては差別的な言語ということになるのだろうか…)にインタビュー。
 現職を二十一年間つとめたギリンソン氏は、七月からマクダウェル氏に譲り、その後はカーネギー・ホールで同種の職務に就かれるそうである。今回の来日は来年三月の来日公演(チョン・ミョンフンが指揮)のことが主目的のようだ。
 ミュージック・バードの「BBCコンサート」の番組用のインタビューなのだが、どんなことをたずねようと迷っていたところ、なんと前々日にゲルギエフの首席指揮者(二〇〇七年元旦から)とハーディングの首席客演指揮者への就任が発表され、気が楽になる。
 今のLSOには昇竜の勢いがある。一年間にわたる百周年記念行事、その仕上げとしての強力な指揮者陣の発表、CDの「LSOライヴ」シリーズの成功など(他の楽団も早速真似しはじめた)。
 この好調な流れをつくったのが、ギリンソン氏なのだ。もともとはオーケストラでチェロをひいていたそうだが、運営側に転じて、破産寸前のLSOを建て直し、今日あらしめたのだ。
 そのヴィジョンと熱意の豊かさに、圧倒される。カーネギー・ホールにヘッドハンティングされたのも当然だ。
 印象的だったのは、LSOでの「最も楽しい思い出」として、バーンスタインのことを話しだしたとき。
「ヒー・ワズ・ジニアス…」の一言に込められた「熱」が、尋常なものではなかった。――そうか、ギリンソン氏が先ほどからたびたび「エデュケーション」の一語を用いていたのは、バーンスタインの影響だったのか、と納得。
 バーンスタイン最後の来日となった、LSOとの日本公演のことを話しだしたときには、明らかに眼が潤んでいた。
 わたしは、バーンスタインのことは客席から見たことがあるだけで、直接には知るよしもない。だがこの優れた人物に、これだけの影響を残していったことを目にしただけでも、バーンスタインという人の「熱」がどれほどのものであったか、想像できるような気がした。
「あなたをカーネギー・ホールに招いたのは、きっと天国のバーンスタインその人ですよ」
 そう声をかけたくなったが、こっ恥ずかしくて言えなかった。そんなこと口にしたら、こっちまでもらい泣きしてしまいそうだったからだ。
 朝の十時から、女性たちに囲まれた席で、大の男二人が涙を流しているというのは、ちょっと見たくない光景だし。

 学研から『レコードはまっすぐに』の増刷が決定したというメールあり。
 よかった、と胸をなでおろす。
 部数は多くなくとも、「増刷」という事実は、その本が一定の成績を収めたことの証明だからだ。
 そもそもこんな二十年も前の「マニアックな」翻訳本を、学研のような規模の出版社がやってくれたこと自体が、あり得ないような話だった。それが実現にこぎつけられたのは、Iさんや学研のS部長の熱意があればこそなのである。
 迷惑をさんざんにかけてしまったけれど、これで、ほんの少しは義理を立てることができたかも知れない。

 心からの感謝を、
お買い上げくださった皆様に。
紹介してくださった方たちに。
関係者の方々に、
そして、泉下のミスタ・カルショーに。

五月二十七日
 『新撰組!』の完結編製作決定という嬉しいニュースを見たあとで近くのレストランに行くと、偶然にも歳三役の山本耕史氏を見かける(なんと下駄ばき)。この店で見るのは二回目だから、常連らしい(二度ともパスタを食っていた)。
 期待してます、と声をかけたかったがもちろん遠慮。それにしても、なるべく同じ配役とあったが、草薙剛の榎本武揚はどうするんだろう…。

五月二十九日
 大学時代のサークル、音楽同攻会の先輩のお宅を訪ねる。
 先輩、といっても大学で一緒だったことはなく、わたしが入学したときにはすでに社会に出られていた方なので、大先輩とお呼びするべきか。
 ご自宅の地下に特にしつらえられたリスニング・ルームで、ワインを飲みつつカルショーの録音をLPで聴く、という趣向である。お客は他に二人。いずれも音同の先輩で、お三方は学年こそ違うがほぼ同年代。つまりはわたしだけ十歳ほど年下なので、本来なら恐れ多くて口も聞けないところだが、三先輩の寛大なるお心遣いに甘えて、遠慮を忘れてお話に加えていただく。
 それにしても現役時代のサークルは、なんであんなにOBと仲が悪かったのだろう。学生にとってOBが煙ったいのは古今東西つねに変わらないだろうが、当時の敬遠ぶりは、いささか度を越していたように思う。
 結局、現役の学生たちがひどく斜に構えた聴きかた、音楽への接しかたをしていたのが、最大の問題だったのだろう。その「斜め聴き」がポーズに過ぎないことをOBに見抜かれるのがいやで、あんなに避けていたのかもしれない。
 音楽を聴くのが好きで、その話をするのが好きで音同に入ったのに、「人とは違う」ことを見せたくて(自分も仲間も先輩も後輩も)ポーズをとっていた、あの頃。バカだけど懐かしい。

五月三十一日
 ミュージック・バードにてスペシャル・セレクションの収録。内容は七月十一日から十六日にかけて放送予定の「クラブ・モーツァルト」。モーツァルトのさまざまな曲を調性でそろえ、三十五時間放送しようというもの。
 構成は、この種のものはこの人しかいない、安田和信さん。来年のモーツァルト二百五十回目の誕生日に向けての大特集(全三回予定)の一回目となるものである。曲が細かいため、使用するCDが九十枚を超えるという、スペシャル・セレクションでも前代未聞の枚数(通常の二倍半くらい)になる。それを自前で提供できる安田さん、さすがである。

 このところ、ハイムバッハ室内音楽祭のライヴ盤をよく聴いている。
 最近出た一枚で、モーツァルトのピアノ四重奏曲第一番、ベルクのピアノ・ソナタの弦楽六重奏編曲版、モーツァルトのピアノ三重奏曲第四番、そしてシェーンベルクの室内交響曲という構成。
 あとの二曲が特に気に入っている。モーツァルトのピアノ三重奏曲ではテツラフのヴァイオリン、リヴィニウスのチェロ、フォークトのピアノの三者が心地よく「スイング」している。叩く音、きしむ響きを一切出さずに音を漂わせているのが気持ちいいのだ。フォークトは、どうか指揮者に転じたりせずに、ピアノを弾きつづけてほしいと思う。
 シェーンベルクは、十四人の奏者をハーディングが指揮しているというのが、ききもの。やっぱり音を置かないのがいい。まさに俊敏様式の、呼吸するシェーンベルク。意外だけれど、シェーンベルクが二十世紀前半、つまり俊敏時代の音楽家であることを思えば、むしろこれが正しいのかもしれない。
 ベルクの作品も同様のスタイルだが、表情がより濃厚。曲の官能性がこの編曲により、いっそう露わになっている。
 俊敏の時代が始まっていることの喜びを、噛みしめさせてくれる一枚だ。
 しばらくの間EMI盤はCCCDがいやで、買いたくても買えなかったが、この頃はやっと買えるようになった。

六月十日
 二か月に一度の『クラシック・ジャーナル』原稿の執筆が六月頭までかかったため、その後一週間ほどは、ぼーっとしているうちに過ぎてしまう。どの日もちゃんと二十四時間ずつあったはずだが、何をしていたのか、まるで印象がない。
 昨日はサッカーを見た。このときしかやらないという、SMAPのCMロングバージョンも、その瞬間までその存在を忘れていたが、ちゃんと見た。
 八年前に比べると、アジア枠が三・五から四・五に増えたのが、たった一枠なのにとても大きい。八年前と同じ状況だとしたら、まだイランとの最終戦に勝てなければ決まらないわけだし、それでも駄目なら、韓国(今の順位のままだとして)と争わなければならなかったのだ。
 それはそれで見てみたい気もするが、もし勝ち抜けたとしても、出場を決めるだけで、選手たちは精根尽き果ててしまうのではないか。
 とにかくよかった。見る方も、リラックスしてコンフェデレーションズ杯を見られる。なにしろ、アジア杯で優勝した瞬間から楽しみだった「ジーコ対ブラジル」の一戦があるのだ。あつらえたように同じグループだから、必ず顔が合う。

 翌日、ジーコはとにかく運のいい監督だという某選手の感想を、東京新聞で読む。これを読んだ多くの人がきっと、司馬の『坂の上の雲』中の有名な科白(山本権兵衛だったかの)「東郷は運がいい」を連想するにちがいない。
 さらに進むと、ジーコ自身の「練習によってこそ運は呼び寄せられるのだ」というような言葉が書いてある。これも同小説で佐藤鉄太郎が言う「勝因の六分は運。残りの四分も運。ただし、あとの四分は人間の力で開いた運」という意味の科白を想起させる。
 選手としてのジーコがW杯では運に恵まれなかったのは気になるけれど、今度は、六分の運も四分の運も、ともに呼び寄せられることを願おう(まあ、運といっても誤審などはない方がいいが)。
 いつか、ジーコ神社ができたりして。十年ほど前に鹿島に行ったとき、ショッピングセンターの休憩所に、ジーコの金色の石膏像が立っていたのを思い出す。
 話はそれるが、鹿島では、もう一つ発見があった。住友金属の敷地の一角に掩蔽壕が残されていて、その脇に、ロケット式特攻機「桜花」の実物が、何げなく飾ってあったのだ。鹿島にその訓練基地があったのだという。
 言葉を失うほど頼りない機体だった。
――こんなもので生命を捨てるのか。
 この機体を設計した人は、どんな気分だったんだろう。「特攻専用」で、着陸することを一切考える必要のない機体。しかも目標直前までこれを運ぶのが、ワンショット・ライターの異名で有名な、防弾設備が薄弱ですぐに炎上する、一式陸攻なのである。生還を期しがたいのは桜花のパイロットだけではなかった。

 仕事でたった一日いただけなのに、鹿島は「石膏製のゴールデン・ジーコ」と「桜花」が鮮烈で、忘れられない。

六月十四日
 スペシャル・セレクション収録。今回は七月二十五日~三十日放送予定の「日本人若手演奏家」特集。
 構成は山尾「フル○ン」敦史さん。ただし、残念ながら今日はちゃんとズボンをはいている。したがって女性陣の悲鳴があがることもなかった。
 フ○チンさんの人選・選曲は、若手の実力者をもれなくあつめた、行き届いたもの。人気先行だけの人はほとんど入っていない。これを聴けば、J・クラシックの現状がざっとつかめるはず。
 続いてマイクの前に移って、BBCコンサートのスヴェトラーノフの二週分(六月二十六日と七月三日放送予定)を収録。ブラームスの交響曲第三番はうねるような凄い演奏。しかしわたしはまた早口病。うーむ。

 親の死を隠して、年金をもらい続けようとした無職の姉妹(五十歳代)が逮捕とか。この二人がどんな生活なのかは知らないが、似たようなケースは今後、東京でも地方でも増えるだろう。
 親の年金に寄生した無職の人間が、五十歳代以降にはたくさんいるはずだ。本当に財産持ちなら死ぬまで遊んで暮らせるだろうが、大変なのは、そんな財産などない層の連中。本人には収入も、もちろん年金もない。
 隠れていたそんな連中が、これからどんどん、老親の死とともに表面に出てくる。何万人も、何十万人も。
 三十歳前の「ニート」なら、訓練すれば社会に出られるかも知れないが、働く意欲も経験もないまま五十歳前後になってしまったような人間、どうすればいいのか。かれらは生活保護を平然と受けるだろう。そのまま社会が抱え込むのか。
 まさに「昭和元禄」の負の遺産。でもそのかれらも選挙権だけはある。それを利用して…。ここからは小説向き。

六月十五日
 サン・カルロ座の東京公演初日《ルイザ・ミラー》を観に、オーチャード・ホールへ。
 フリットリとサッバティーニの両主役を軸にした、充実した公演。
 とくにフリットリの安定感が見事で、そのしっとりとした響きを耳にすることで、フレーニ~リッチャレッリと続くリリコ・プリマドンナの系譜(もちろんそれぞれに個性は違うし、知性的容貌においてフリットリは恵まれているが)にある歌手という印象を再確認した。
 サッバティーニも、先日のサントリー・ホールでは拡散した響きだったが、オーチャードでは芯がはっきりと聞こえるので聴きやすい(声は特にそうだが、鳴りすぎるサントリーの音響はどうも苦手だ。響きが身体の中に残ってしまうようで、演奏会後に疲労感がつのる)。歌いあげるつよさの不足という声楽的な限界を、知的なコントロールで巧みにカバーしている。ただ、あの有名なアリアでとった遅めのテンポは、かれのスタイルには合わないものと思われた。
 指揮のベニーニは尻上がりに調子を上げ、終幕でのドラマの表出は素晴らしかった。

 それにしても、オーチャードのロビーは狭すぎる。上下二階に分かれているのが原因なのだろうが、大枚払ったお客を迎えるにしては、華やかさに決定的に欠ける(傘立ての数が足りないのも情けなかったが)。
 民間の建物だから仕方ないのかな、とも思う。用地も限られるだろうし。
 ロビーの広大さ、広さと高さにおいてずば抜けているのは、東京文化会館だ。
 開場から四十四年たってもあのホールが魅力を失わない要因の、その最大のものは、ひょっとしたらあのロビーなのではないか。たんに天井が高いのではなくホール周囲の部分を掘り下げてあることが、上方と下方に視界を拡げ、広い丘の上にいるような開放感を与える。
 日比谷公会堂はいうまでもなく、文化会館と同時期に開場した新宿の厚生年金会館のロビーの貧弱さを考えてみても、文化会館の構想の雄大さは、まさに日本人離れしている。
 もちろん、公園内という敷地条件の自由さがものをいっていることは間違いないが、チマチマとまとめなかったその精神の大きさをこそ、賛美すべきだろう。
 日比谷公会堂がその「歴史性」をなぜか「黴臭さ」とするばかりで、昭和初期の軍部専横期の暗い時代精神を連想させる、陰気な建物でしかなくなっているのとは、対照的である。
 日比谷のあの理想的な立地条件と歴史性を、有効活用できないかといつも思うのだが、どうも日比谷公会堂周辺のゲニウス・ロキは、質が悪いようだ。人も、また人外のものも、何かよくない連中があの土地には集まっている気がする。

六月十六日
 サン・カルロの東京公演《トロヴァトーレ》を観に、今日もオーチャードへ。
 席へ行ってみると、高崎保男さん、石戸谷結子さんの両先達の並びという、なんとも緊張する配列。
 大学のサークルの先輩(女性なので、あえて「大」はつけない)でもある石戸谷さんからたずねられる。
「ところで、山崎太郎というのは別の方なの? 脱字とかじゃなくて?」
 脱字どころか、山崎太郎さんは大学のドイツ文学の先生をされていて、わたしなどよりよほど素性確かな方である。
 わたしの方が年下だから、むしろ山崎浩太郎の方が、山崎太郎の「亜種」というのが正しい。しかし第三者が混乱しても不思議ではない。混乱のしやすさでは「渡辺和彦と渡辺和」と双璧かも知れない。山崎浩というのが出てきたら、さらに困るだろうな。

 さて《トロヴァトーレ》。指揮の予定がナポリの初演を指揮したフェッロからベルティーニ~オーレン~カバレッティと三転した。びわ湖ではブーイングもあったというだけに、カバレッティの指揮を心配していたが、意外や、フレーズの回る、とても歌いやすい指揮である。
 去年二月にナポリで二晩聴いたフェッロは軽快ではあったが、やはり「荘重」時代の人だから、アバドなどに似て呼吸感が薄く、弾力に乏しかった。
 かれの指揮では、フェランド役の歌手やマエストリ(ルーナ)が、ときどき声をひっくり返していた。ところが東京では、なみなみと声を出せている。本人たちの成長だけでなく、カバレッティの指揮の方が、フレージングが明確だからであろう。アンヴィル・コーラスの合唱も響きがより力強く聞こえた。これも指揮の力であろう。チェドリンス、リチトラものびのびと歌っていた。
 もちろん、ベニーニに比べればオーケストラは硬くて鳴りが悪い。響きも、純度と格調に欠ける。だらしないわけではないが、歌手の呼吸を活かす分、自身の主張が聞こえにくいのも事実だ。
 しかしかれも三十ちょっとらしい。若い世代から、「俊敏」は確実に始まっている。それは間違いないと思った。
 それにしても、やはり《トロヴァトーレ》の音楽は、《ルイザ・ミラー》とは比較にならないくらいに「火力」と「火勢」が強い。発火点も低く、冒頭から顔が火照るくらいに熱い。
 しかし、そのドラマには整合性も起承転結もないから、進むに連れて緊迫感が高まり、クライマックスが来るわけではない。第三幕や第四幕も金太郎飴だ。どんな天才演出家も、三舎を避ける演目なのではないか。
 あるいは、徹底的に様式化するしかないかも。今回の演出を面白いとは思わないが、スローモーションや静止を多用しようとしたのは、絵ヅラの美しさを出そうとしたのかも知れない(ただし、上下動するプラットホームの機械の都合か何なのか、舞台幅がナポリのオリジナルより三分の二位に削られ、その静止画としての美点は、東京では半減していた)。
 そうした作品の中でチェドリンスは、去年ナポリでインタヴューしたとき、後半におけるレオノーラの成長、愛の深まりを表現したいと語っていた。
 たしかにレオノーラだけは、このオペラの中で唯一、進化する役だ。だがそのせっかくの進化も、周囲の人間にほとんど何の影響も与えない以上、ドラマとしての効果は弱い。
 それでもチェドリンスは、レオノーラ同様に孤軍奮闘した。数年前のビロードのような美声が失われつつあるのは事実だ。むしろ今の彼女は、立ち上がりの鋭い、歯切れのいい響きによるドラマチックな表現を目指している。
 望むと望まざるとにかかわらず(そのいずれかは知らない)、チェドリンスはカラスの影響を強く受けた上で、イタリアの「美声ではないドランマーティコ」の系譜に、連なろうとしている。
 その点で、前日のフリットリとは対照的である。フリットリは役を制限し、ノドへの過大な負担をさける。このレオノーラなどは(以前にスカラ座では歌ったが)現在では歌うのをやめている。《ルイザ・ミラー》のような地味な作品の中から、優れた音楽とドラマを紡ぎだそうとすることに情熱を傾けている。
 思えば、サン・カルロの二日間の公演は二人のプリマそのままに、対照的である。サッバティーニもフリットリ同様に役を抑制してきた人だが、リチトラの方はとにかく歌える役は歌ってしまおうというタイプだ。マエストリも思い悩まない歌手。演目そのものの質の違いが、歌手たちの「ザ・ウェイ・オブ・ライフ&アート」の差につながっているのだ。
 その意味で、二日続けて聴けたのはとても面白かった。

六月十八日
 青いサカナ団の《ト ス ンとイゾルデ》を観に、中野ZERO大ホールへ。作品名は脱字でも虫食いでもない。理由は後述する。
 わたしは青いサカナ団の公演を観るのは初めてだから、これまでどんな上演をしてきたのか、実際には知らない。
 ただ、《トリスタンとイゾルデ》のような作品に挑むことが、大冒険であったことは確かである。オーケストラ(青いサカナ管弦楽団)は二管編成五十人、第一ヴァイオリンが七人と、通常の《トリスタン》上演の半分程度。大きなカット(初演時のワーグナー自身によるカットを踏まえたものと、池田卓夫氏の解説にある)もある。
 しかし一観客の感想としては、とても聴き甲斐のある、楽しい時間となった。その理由の第一は、イゾルデ役の飯田みち代の真摯かつ情熱的な歌唱にある。
 リリコである飯田にとって、イゾルデを歌うことは、いかにオーケストラの編成を抑えてあるといっても、大きなリスクを伴う冒険だろう。しかし飯田は果敢にもリリコによるイゾルデ歌唱という、ひとつの「夢」を現実化して見せた。
 イゾルデというと第三幕の「愛の死」にばかり関心が行きがちだけれども、本当の見せ場はその直前の「イッヒ・ビンス、イッヒ・ビンス!」のソロにこそ、ある。こここそ、イゾルデ歌手がその全霊をかけて歌うべき場所なのだ。
 そして実はこの部分、鈍重なドランマーティコよりも、リリコ向きに書かれている。そのことを教えてくれたのは、グッドオール盤で歌ったリンダ・エスター・グレイ(彼女も本来はリリコである)だった。だが、ここで絶唱を聴かせたグレイは、数年後にノドをつぶして引退している。つまり、イゾルデはリリコのための、見果てぬ夢となるべき「死の役」ともいえるのだ。
 ともかく、この部分があっての「愛の死」なのである。かつて若杉弘が抜粋版でこの作品を演奏したとき、かれはここをカットしてしまった。以来わたしは、若杉のドラマ・センスというものをもう一つ信用していない。
 とはいえそれは、当初イゾルデを歌うはずだった佐藤しのぶの力では「愛の死」直前にここを続けて歌うことは無理、と判断しての処置だったかも知れない。
 しかし結局佐藤は降りてしまったのだから(代役は誰か外人だった)、どうしてもここは戻すべき、戻さなければ《トリスタン》をやる意味がないと、歯がゆく思ったことを覚えている。
 そこを、飯田は素晴らしく歌った。そして「愛の死」へと、見事につなげて見せた。
 第一幕は緊張したのか硬かったが、第二幕以降は「なぜリリコがイゾルデを歌うのか」という問題提起への、明確な回答となる美しい歌を聴かせてくれた。
 それは、青いサカナ団のような団体がなぜ《トリスタン》を上演しなければならないか、という問題そのものへの、快刀乱麻の謎解きでもあった。
 その知性と向上心、芸への情熱に対して最大限の賛辞を捧げつつ、同時に無責任な客の一人として、どうかノドの養生を充分に、と感謝したい。
 そういえば、先日の新国の《ルル》騒動でも、佐藤の代りに飯田が歌えば三幕版も問題なくやれるはずなのに、と言われていた。
「リリコがなぜイゾルデを」の答えを聴かせることなく逃げてしまった歌手と、たとえ一生に一度のことであっても、その答えを歌って見せようと果敢に挑んだ歌手。
 舞台人としてのその距離は、大きいのではないか。

 さて、なぜ《ト ス ンとイゾルデ》かといえば、トリスタン役の田代誠が、歌をあちこちで抜いてしまったからである。たとえば第二幕の愛の二重唱のクライマックス。「え、落ちた?」とびっくりしたが、聞けば忘れたのではなく、危険なので初めから抜いてあったそうな。
 第三幕のトリスタンの夢も、いちばん盛り上がる部分がバッサリとカット。
 ――まあ、仕方ないのかも知れない。ただ一度のかりそめの公演に、歌手生命を賭けろとまで要求する権利が、どこの誰にあるというのか。
 少なくとも、八千円しか払っていないわたしには、言えない。遠慮する。
 だが、これだけは言える。田代が歌わなかった瞬間も歌い続ける飯田の姿は、輝いていた、と。

 神田慶一の指揮とオーケストラについては、第一幕と第二幕は機械的でつまらなかった。しかし第三幕だけは自然なうねりが出てきて、《トリスタン》ならではの音楽を楽しめた(第二幕で帰ったF本さん、残念でした)。

 粟国淳の演出も、第二幕だけはよくわからない点があったが、色々と考えさせられて面白かった。やはり二日前の《トロヴァトーレ》とは対極的に、演出家にとってやり甲斐のある作品である。
 まずクルヴェナールの扱いがいい。第二幕以降のかれは、トリスタンの剣をひっしと抱えている。
 自分が大好きだった、陽気で勇敢な、かつてのトリスタン。剣は、そのことを思い出させてくれる唯一の証なのだ。
 まるで人変わりしたトリスタンに戸惑いつつ、かれはその剣だけを頼りに主人に仕える。
 その剣は、第二幕の最後でメーロトに折られ、トリスタンの武勇がもはや二度と戻らないことを暗示しているのだが、クルヴェナールはあえて、その折れた剣でメーロトを殺す(だからメーロトの最期の言葉は「やったな、トリスタンめ」なのだ)。
 いっそ、クルヴェナール自身もその折れた剣によって致命傷を負ったらどうかと思ったが、そこまではしなかった。ともあれ、三河武士団のごとき「犬の忠義の人」クルヴェナールに、面白い屈折を与えていた。
 第三幕のマルケ王が、梯子を昇って現われるという間抜けぶりもオツである。

 そして、「愛の死」の最後で、第一幕のイゾルデの船室を再現したこと。
 これは微妙なところで、結局すべては毒薬を飲んで心中する、というイゾルデの計略が成就したに過ぎない、ということになる。
 考えようによっては、毒薬を飲んで以降のすべての出来事は、瀕死のイゾルデが見た夢、先にこときれたトリスタンの亡骸を前にしての夢だった、ともとれる解釈である。
 しかし粟国は、そこまであざとくはやらなかった。船室内で死んだ二人を見て(何が起きたのか見当もつかないまま)呆然とするマルケ王やクルヴェナールの姿を、描いたりはしなかった。
 ただ、イゾルデの呪いの成就を示しただけだ。飯田の渾身の歌唱を矮小化しないためにも、これでよいのだと思う。
(付記 一日たって思ったが、最後は「再現」ではなく、「船出」を意味しているのかも知れない。第一幕ではもっと後方にあった「帆」を象徴する白板が、イゾルデのすぐ後ろに来ていた。これは第一幕の船よりも小さい、つまり二人しか乗れない小舟を意味するのだろう。白板がいったん垂直に立ったのち、下端が後方に引かれて斜めになったのは、帆が風をはらんで走り出したという意味ではないか。そして帆は、血のように赤く夕闇にそまり、やがて暗転した。これはおそらく、死せるアーサー王が小舟に乗せられてアヴァロンの島に去ったという伝説を踏まえての、「夜の国」への船出なのだろう)

 ともあれ、やはり《トリスタン》は大傑作である。一世代を病ませた、という評価は誇張ではない。
 プッチーニはこの音楽を前にして立ちすくみ、なんとかそれに負けない音楽を書こうとして煩悶した挙げ句、《トゥーランドット》終幕の二重唱を書き上げられずに死んでしまった。
 ベリオ補筆版の《トゥーランドット》も、観ときゃよかった。

六月二十日
 頭の中で《トリスタン》が鳴る。
 日常生活の中で、ふと気がつくと、あの音楽が鳴り響いているのだ。
 愛の二重唱の一節だったり、第二幕でマルケ王の軍勢が乱入した直後の、木管の物哀しい響きだったり、第三幕の「ブランゲーネの声だ!」と怒りに我を忘れるクルヴェナールの叫びだったり。
 その時々で違うが、とにかく聴こえている。

――そうだ《トリスタン》は、二日酔いさせられる音楽だった。
 《トリスタン》の酒精分は、つよい。数日間も身体に残って、余震のように鳴り戻す。こんな音楽は、他にはない(風邪薬のドリスタンも愛用しているが、たぶんそれは無関係だ)。
 これが初めてではない。一九八三年にミュンヘンのバイエルン国立歌劇場で、生まれて初めて《トリスタン》の舞台を観たとき以来、二度目の体験である。
 観光旅行の途上のことで、数日後にウィーンに移動、旧王宮のあたりを歩いていたときだった。突然、頭の中で《トリスタン》の音楽があふれんばかりに鳴りはじめ、しばらく動けなくなってしまったのだ。
 そして音楽とともに、数日前に観た舞台が、昼日中の路上でいきなり、フラッシュバックしてきた――〈愛の死〉が始まると同時に、イゾルデを振りかえりながら暗闇の中へ去ってゆくマルケ王とブランゲーネ。黒いシルエットになった亡きトリスタンの横顔を見つめつつ、ひとり歌いはじめるイゾルデ。

 《トリスタン》の毒にやられた瞬間だった。
 初めての《トリスタン》劇場体験だったからかも知れないが、あのときのエファーディンク演出は鮮烈だった。
 演出家としての評価はけっして高くないし、その《トリスタン》演出自体も、むしろ不評だったと記憶している(念のためにつけ加えると、数年後にウィーン国立歌劇場来日公演で上演された、六〇年代の新バイロイト風の古い演出とはまったく別のものである)。
 何でも、各幕で行なう舞台転換のノイズがひどいなどと酷評され、装置をシンプルなものに変えてしまったとか。たしかに第一幕と第三幕は、依怙地になったようにあまりにも何もなく、特に第三幕は《愛の死》付近の動きを除けば退屈だった(字幕もなかったし)。
 しかし、第二幕だけは圧倒された。たぶん、ここは問題が少ないので、オリジナルのままだったのだと思う。

 幕が開くと、高さ二メートルほどの木の板塀が舞台の幅一杯にあり、視界をふさいでいる。イゾルデが灯火を消すと、その板塀が音もなくゆっくりと倒れる。
 向こうに拡がるのは一面の赤い花園。その真中に、青い夜の闇を背にして立つトリスタンの姿。
 美しく、またイゾルデの心のときめきをそのまま絵にしたような光景だった。
 その青い闇と赤い花に囲まれながら、愛の二重唱がはじまる。
 音楽が進むにつれ、花園の後方が高くなっていき、ついには高さ三、四メートルの斜面となって、二人を包む。しだいに明るくなった照明は、クライマックスでは輝く太陽となってギラギラと二人を照らす。
 朝日に照り映える、鮮やかな赤と緑の花園。
 ここで、「レッテ・ディッヒ、トリスターーン」の叫び声(クルヴェナール役の歌手はここで譜面を無視して引き伸ばし、悲鳴のような効果をあげた)があがる。全照明が黄茶色に変わる。
 そのとき、赤と緑の花園は、一瞬にして一面の枯野と化すのである。
 ここの効果は、背筋が寒くなるほど凄かった。気がつくと、後方の稜線にマルケ王とその兵七、八人(死刑執行人のように、顔を鎖帷子で隠している)が舞台幅一杯に直立している。そして低弦の走る音にあわせて、かれらは枯野の斜面をぐんぐんと下る。哀しく歌う木管。

 この「一瞬に枯野と化す花園」という光景は、二十二年たった今でもまぶたに焼きついて、離れない。
 指揮はサヴァリッシュ、トリスタンはスパス・ヴェンコフ、イゾルデはイングリット・ビョーナー、マルケ王はクルト・モル、ブランゲーネは確かハンナ・シュヴァルツ。クルヴェナールは誰だったか。プレミエではジークムント・ニムスゲルンだったが、その晩はかれではなかったと思う。
 前述したように続く第三幕は、あまりにも動きが乏しかった。オリジナル版の舞台転換を観たかったと思う(巨大なテトラポットがある舞台写真は、帰国後に目にした。そんなものは当夜にはまったくなかった)。

 その数日前に、ベルリン・ドイツ・オペラでヴィーラント・ワーグナー演出の《ローエングリン》(有名な六〇年代のバイロイト版とほとんど同じで、合唱が円形のひな壇にずらりと並ぶ、あれ)を観ることができたのだが、演出家が死んで十五年以上もたった舞台は、さすがに色あせていた。
 あとで《トリスタン》第二幕の鮮やかさと比べたとき、音楽と対照的に、演出は時代を超えていくのが難しいのだなと思ったことを憶えている。
 同じように今、あのエファーディンク演出を再び観ることができたとしても、きっと色あせて見えることだろう。
「一瞬の枯野」は、わたしのまぶたの裏でのみ、鮮烈に生き続けている。

六月二十一日
 長い一日。まず、朝八時にグランドアーク半蔵門にて朝食会に参加。
 朝食会などというと企業経営者や官僚の勉強会みたいでカッコいいが、そうではなくて我が母校、学芸大学附属世田谷中学校(ああ長げえ)のOB会のもの。
 この手の会の参加者の中心は、二十五歳以上は年上の大先輩(というより親の年代だ)が多いから、普段は避けているのだが、今回は同級生が弁者として講演するというので、着なくなって久しいスーツとネクタイをして参加。
 同級生というのは、横浜甦生病院のホスピス棟長をしている小沢竹俊で、彼が専門の末期医療について語るのである。

 末期医療の難しさは、ここでいまさらわたしがくり返すまでもない。(治癒が医療の勝利であると仮定すれば)絶対に負けることがわかっている戦いを、いかに戦うか、ということなのだから。
 第二次世界大戦のドイツ国防軍に、ハインリーチ元帥という退却戦の天才がいたが、上層部のかれへの評価は低かったという。そりゃそうだ、撤退時の損害をどんなに少なくし、敵に損害を与えて時間稼ぎをしたって「負けいくさ」は「負けいくさ」なのだ。
 医療の場における末期医療は、退却戦同様に、華々しい戦果は絶対にない分野である。
 小沢は、あえてその分野を選択し、その現場で活動しつつ、陽の当たりにくい末期医療の意義を理解してもらうべく、学校などさまざまな場で講演を行っているという。
 大変だろうな、と思う。どっかの坊さんが「宗教の目的とは、死ぬのはこわくない、と思ってもらうことだ」とラジオで言っていたが、その意味では、末期医療はかぎりなく宗教に近づくことになる(ホスピス、という発想そのものがキリスト教起源なのだろうし)。普通の人間がそこにかかわるのは、なまなかにできることではあるまい。
 講演後、大先輩の医師の方からの質問が、意地悪といってもいいくらいに鋭いものであったことに驚く。後進を鍛えようとする鞭撻の言葉なのか、それとも、もっと生々しい人間感情から出た言葉なのか。わたしには判断がつかなかった。

 十時にとなりのFM東京に移動し、ミュージック・バードのスペシャル・セレクションの収録。満津岡信育さん構成による「フィンランドの音楽」。真夏の八月十五日から二十日にかけて、少しでも涼んでもらおうという趣向である。

 夕方、渋谷のオーチャード・ホールへナポリ・サン・カルロ座の《ルイザ・ミラー》を観に行く。
 十五日の東京初日より、サッバティーニはずっと好調だった。あのアリアも渾身の歌唱で変化に富んでいた。
 終幕のルイザの姿を窺いながら吐き捨てる「祈れ、祈るがいい」の言葉に込められた暗く陰惨な情熱は、忘れがたい。フリットリは今日も、繊細にして漂うような響きを聴かせる。耳をすませて聴くべき悲劇。ここでヴェルディが書いた音楽は、なんと《トロヴァトーレ》から隔たっていることか。

 帰宅してメールを確認すると、なんと飯田みち代さん(十八日のイゾルデ役)からメールが来ていて驚く。
 もちろん面識はない。ご友人から、この日記のことを教えられたそうだ。
 勝手に一部を引用させていただくと、「声種を無視してのイゾルデへの挑戦をたたかれることを覚悟で、そのドラマと微妙な音楽表現にだけ賭けてみよう」という意志を、わたしが汲んだことに対しての感謝のお言葉を、ノドはつぶしませんというご決意とともに、わざわざ下さったのである。
 嬉しいが、お礼をいうべきなのは当方である。フリーランスの生活をしていると、目先の費用対効果にとらわれた仕事をしがちになる。口を糊しなければならない以上それは当然のことなのだが、あらゆる健全な企業経営と同様、われわれも将来への投資を怠ってはならない。
 ときに、目先の利益を忘れた大仕事をすること。それこそがフリーランスにとっての「投資」なのではないか。
 飯田さんのイゾルデ歌唱は、そのことを思い出させてくれたのだ。

六月二十三日
 早起きして(というか少し寝て)コンフェデレーションズ杯の日本対ブラジル戦をテレビで見る。点を取りあって引き分けという結果に大満足してまた寝る。
 怒られるかもしれないが、同点になってからの終盤、ニッポン・コールが聞こえてきたときには感動した。日本人が急に増えたのではなく、試合展開に興奮したドイツ人が、選手に対して贈ってくれたのである。
 今の日本代表は、四年前のチームよりも弱いという人がいる。手綱をゆるめたブラジルに引き分けて、喜んでいる場合かという人もいる。いろいろな見方があるだろう。だが、こんなにもアウェーで強いチームは日本サッカー史上に類がない、ということだけは確実ではないか。四年前のチームは、明白にホーム重点型(自国開催なんだからそれで正しいが)だったが、今回は逆である。
 昨年の、苦戦続きのアジア杯での、試合終盤の粘りは凄かった。まるで、伝説に聞く一九七〇~九〇年代の西ドイツ代表みたいだった。当時の西ドイツは絶対にギブアップしない、強靱な精神力を持ったチームだったというが、それを彷彿とさせたのだ。
 興味深いことに当時のドイツ代表と、アジア杯での日本代表には、もう一つ共通点がある。
 それは、どちらも烈しいブーイングと観客の敵意にさらされていることだ。
 西ドイツ代表はナチス時代の影響で、ヨーロッパ一の嫌われ者だったという。どこへ行ってもブーイングされた。ホームにおいてさえ、自国の観客は「ドイチュラント!」とは声援できなかった。ドイツは分割されていたし、歴史的経緯による遠慮もあった。現代もなお、中年以上のドイツ人は、ドイチュラント・コールをためらうそうだ。
 ブーイングにさらされたことが、ふてぶてしいまでの精神力の形成に直結しているのかどうかは、知らない。しかし、「アジア的停滞」という歴史用語を借りてきたくなるくらいに格差を見せつけられた対メキシコ戦からわずか二試合、(佐藤鉄太郎ふうに言えば)人間の力でニッポン・コールを招来してみせた今の代表は、われわれが誇りとすべきチームであることは間違いない。
 かれらがドイツで戦うというのは、きっと何かの因縁だろう。ただ、次の年代への受け渡しも見たい。特にFW(フォッケウルフにあらず)は、恐れ知らずでイキのいいのが出るといいのだが。大黒がこのまま伸びれば面白いけど、FWの「旬」は、一年かぎりの場合も少なくないし…。

六月二十四日
 玄関前の竹を伐る。
「雨後のタケノコのように」というが、初夏の竹の繁殖力は凄い。
 ちょっと目を離すと三メートルもの高さに伸びて、旗竿みたいになるので、始末におえない。切り倒しただけでは根がとれないから、数日たつとまた青いのがニョキニョキと何本も立つ。
 それが一時間で五十センチくらい伸びたりする。障害物にあたって、クランク状に変形をくり返して、まだ伸びてる奴もいる。植物なんだけど、正直いって不気味。
 だんだん家屋に根が近づいているのも怖い。家は半世紀前の木造なのだ。そのうち、床を突き破って出て来るかも。
 こないだは庭(猫の額)の金木犀の枝に小型のアシナガバチの巣ができかかっていて、植木屋さんが刺されて大変だった。二階の窓枠にも(ここは方角と風向がいいのか、ほぼ毎年、巣が作られそうになる)別のハチが巣を構築中なのを見つけて除去。ここに作るのはあまり凶暴な種類ではないが、洗濯物にまぎれこんで山の神を刺したことがある。
 タケハチ合戦。猫は知らんぷり。

六月二十五日
 以前買ったまま見ていなかった、DVD『からっ風野郎』を見る。
 ご承知の方も多いと思うが三島由紀夫の第一回主演映画(大映)で、東大同期の増村保造監督にしごかれたり、ロケ現場で頭を強打して入院したりと、映画の出来よりもスキャンダルで有名な作品。
 若尾文子が共演、当時はジャズ歌手だった水谷良重(現・八重子)の歌が聴けたり、志村喬がいたり、クロサワ映画で有名な菊島隆三が脚本に参加していたりと、大映側が力をいれた作品であることは間違いないのだが「頭の足りない、しかし変に小賢しいヤクザ」という無理な設定を演じる三島の演技がおかしくて、珍作としかいいようがない。
 神山繁が演じる、三島をつけねらう殺し屋も変だ。ぜんそく病みだから「喘息の哲」って、あんたいったい…。
 襲撃シーンで、ゴホゴホ咳きこんで失敗したりしてる。結核病みのドク・ホリデイのパロディなんだろうが、結核とぜんそくって、受ける印象がなんでこんなに違うんだろう。
 なぜ見たかというと、一九六〇年の制作・公開だからである。当時の評判を知ろうと思って「週刊新潮」を見たら、二月十六日深夜に主題歌の収録がキングレコードで行われたという記事を発見。
 三島が作詞して自ら歌い、のちに『風流夢譚』(その毒気ざましに三島は『憂国』を書いたという)で騒動を起こす深沢七郎が作曲して、ギターまで弾いたとある。録音スタジオの三島のとなりでギターを弾く深沢の写真も載っている。
 ところがこれ、映画では使われていない。DVDのどこにもない。こうなると無性に聴きたくなるのが、一九六〇年コレクターの哀しい性。探すと、新潮社の『決定版 三島由紀夫全集』第四十一巻として入手可能なことが判明。
 今は書籍に加えて、CDも文学全集に含まれる時代なのだ。『わが友ヒトラー』の朗読もあるというし、迷わず購入。
 さっそく聴いてみると、これもクセになりそう。「からっ風野郎!」の一言がたまらん。同じCDの《楯の会の歌》にもはまる。これをぜんぶ覚えて、酒席で歌ってみようか。
 喜んでくれるのは、きっと片山さんだけだな…。

六月二十八日
 新撰組の末期みたいな気分。せめてなりたや島田魁。

七月一日
 単行本『名指揮者列伝』のための手直し原稿を届けに、アルファベータまで。
 とはいえ四十人のうち、できているのは二十四人分のみ。少しでも視覚的要素を増やすべく、紹介したCDや書籍の表紙を掲載するつもりなのだが、そのCDを捜すのにとても手間がかかるのだ。
 捜すといっても、買いに行ったりするわけではない。自宅の中で姿をくらましている奴がたくさんいるのである。
 原稿自体は基本的に『レコード芸術』に掲載したものに少し手を入れるだけなのだが、CD捜しの方に、その何倍もの時間を空費する。ああ、馬鹿馬鹿しい。

 青山から渋谷に出て、タワーに寄っての帰り道、日暮れ前なのに大盛堂書店のシャッターが閉まっている。
 いやな予感がして近づくと、六月三十日(つまり昨日)で閉店しました(センター街入り口の小さい店舗は継続)という告示のビラが貼ってあった。
 かつての「本のデパート」も、近年は規模を縮小する一方だったから、予感はしていたが、いざ目にすると寂しい。
 東横線沿線(最寄駅は大井町線だが)に生まれ育った自分にとって、渋谷は最初の「山手線の駅」として、山手線ではいちばん親しい街だった。
 一方、新宿は誘拐やら恐喝やら強盗やらの横行する、恐ろしい街だと思いこんでいた。六〇年代末の新宿の熱気が、子供にはそう思えたのだ。『新宿警察』という、テレビドラマの影響もあったのかも知れない(新宿を無法地帯みたいに描かないでという地元の抗議を受けて、この番組は突如打ち切りになった――いま思えば、本当の理由は別にあったのかも知れないが)。
 それに対して渋谷は、七曲署もあるし(?)、小学生でも行ける街だと思っていた
 とはいえ、自分の行動範囲は映画館と書店、模型屋くらいである。だから、東急文化会館の四階の三省堂や喫茶店や、エスカレーター脇の映画グッズのスタンプ店(?)や、そしてプラネタリウムとともに、大盛堂は自分にとって「渋谷」そのものだったのだ。
 109やパルコ以前の、あまりしゃれていなかった頃の渋谷が、またひとつ消えた。

 オルフェオの新譜、ド・ビリー指揮ウィーン国立歌劇場による《ドン・カルロ》をひと足先に聴かせてもらう。ド・ビリーの指揮が素晴らしい。まさしく俊敏様式、この重苦しい音楽をこんなふうに鳴らすとは。
 とても気に入ったので、この演奏のことは『レコード芸術』の海外盤試聴記であらためて述べることにするが、それにしても、こういう刺激的な公演(コンヴィチュニー演出)を、小澤征爾は自分で指揮してみようと思わないのだろうか。ワーグナーのような重要な作品もティーレマン任せと、小澤征爾という人の活動は、およそドイツ語圏の歌劇場の音楽監督のそれとは思えない。
 通常とは別の、象徴音楽監督ということなのか。就任が公表されたときから予想されていたことだから、それで八方丸く収まっているのかも知れないが。
 聖域にまします音楽監督。たしかに波風は立たないから、契約延長もされるのだろう…。

七月二日
 巨人戦は「長嶋さん観戦試合」。
 試合開始前にフィールドに入る選手が「お席」に向かって頭を下げているのはどうも変。観客に手をふる長嶋の姿を見ていると、まるで「天覧試合」ならぬ「長覧試合」のようだった。
 戦後昭和には「天皇霊」を代行する国民的スターが何人か(美空ひばりとか石原とか)いたというのは、さて、誰の説だったっけ。
 その説にしたがえば、長嶋という人は天皇霊の代行者(使徒といってもいいし分身といってもいい)の最後の生き残りの一人である(小澤征爾も限られた範囲ではそうかもしれない。都知事も入りそうだが、あの人は「代行者のそのまた分身」と見るべきだろう)。
 そのことを印象づけられる画面だったが、しかし演出も、選手の闘志も、ともに空回り。「昭和は遠くなりにけり」を痛感させる展開だった(翌日の視聴率速報では十三・五%だとか。今年としては高いとはいえ、以前には比べるべくもない低視聴率だ)。
 期待された「感動物語」の見事なまでの空転を眺めながら、数年前に長嶋が監督を引退したとき、誰もが選手引退時のあの感動的なスピーチの再現を期待したのに、どうということもなく終わり、シラケたことを思い出す。
 あれと同じだ。長覧試合もまた、ON時代の幕開けを告げたといわれる、昭和三十四年の天覧試合の熱戦の再現にはなり得なかった。「愛・地球博」が「大阪万博」の幻影を求めるように、長覧試合もプロ野球黄金時代の幻影を求めて、虚しかった。
 もう昭和は終わったのだ。もちろん、思い出を大切にするのは当然のことだ。それはその人が生きた証しなのだから。
 しかしそこに未来はない。なぜ、長嶋の周囲の人々(長嶋本人ではなく)は、いつまでも夢よもう一度とくり返したがるのか。昭和的システムはすでに終わっているのに、それにしがみつく人たち。
 これが「老い」というものか。本当の意味の老人の智慧というのは、近視眼的な個人の体験を超えた、悠久の歳月から見た「諦念」にもとづくものではないかと思うのだが、ここで演じられているのは、単に自分たちの思い出を特別化しようとする、妄執にすぎない。
 どの時代にも、その時代ならではの社会情勢と価値観があり、そこに居合わせた各世代の人々が、それぞれに「生きた証し」(ただ子供を作って種の保存をしたという以上の)を立てて、そして去ってゆく。
 歴史とはその積み重ねである。各個に価値があり、ある時代の人間は別の時代の人間よりも優れているなどという格差は、巨視的に見れば存在しない。
 歴史に学ばない人は、えてして自己の体験だけを特別化する。そして時代の変化を見きわめることなく、追憶に甘えようとする。
 長嶋という太陽、巨人という太陽にすがってプロ野球全体が食おうという考え方は、国の儲けを公共事業として分配させて地方が食おうというのと、そっくりだ。その分配権を牛耳ることが経営であり政治であったのが、昭和的システムだが、もう耐用年数を過ぎて久しい。

七月四日
 六月二十五日の日記で触れた『からっ風野郎』主題歌に触発されて、あらためて『風流夢譚』事件の資料を読む。

 ここからは事件の概要なので、ご存じの方は飛ばしてほしい。
 革命が起き、天皇一家が惨殺されるさまを夢に見る、というこの短編の背景には、皇太子ご成婚と清宮貴子内親王の降嫁、浩宮誕生と一九五九年以来続いた、皇統繁栄の明るいイメージに対する、天の邪鬼な反発があるのだろう(今は逆に皇統断絶の危機感が、世に渦巻いているわけだが)。
 しかし『中央公論』昭和三十五年十二月号での発表は右翼の激怒を招き、翌年二月一日、十七歳の右翼少年が中央公論社長宅に侵入して家政婦を刺殺、社長夫人に重傷を負わせるという惨劇となる。
 この結果『風流夢譚』は、同時期に発表された大江健三郎の『セヴンティーン第二部 政治少年死す』とともにそれぞれの作者によって「封印」され、現在にいたるまで単行本未収録の「幻の作品」となっている。
 ところが、じつはこの二作品とも、掲載誌のコピーが二〇〇二年発行の鹿砦社『スキャンダル大戦争②』に「資料」として載せられて、なぜかいまも普通に本屋で売っている。
 テロ事件の顛末については、当時『中央公論』編集次長だった京谷秀夫の『一九六一年冬』(晩聲社刊、現在は平凡社同時代ライブラリーとして入手可能)に詳しい。

 さて、というわけで『一九六一年冬』を読んだら、惨劇の被害者二人が「四谷三丁目近くの伴病院に運ばれた」という記述が出てきて、思わず声をあげてしまった。
 家の近所に津の守坂(つのかみざか)という坂がある。家からその坂へ出るには三本のルートがあるのだが、その中でわたしは好きなのに、山の神が通りたがらない道がある。
 その道の脇、津の守坂に面してあったというのが、伴(ばん)病院という、当時有名だった救急病院なのだ。
 ただし二十五年以上前に廃業したそうで、数年前に来たばかりのわたしは知らない。生まれて以来ここの住人である山の神から、その名を聞いていただけだ。跡地にはいま、ビルが建っている。

 市ケ谷砂土原町の社長宅から、被害者たちは「あそこに」運ばれてきた。駆けつけた関係者の中には、三島由紀夫夫妻もいたという。
 ――家から百メートルも離れていないあの場所が「嶋中邸事件」に関わっていた。三島も、そこに来た。

 病院前の津の守坂を左に下れば、向こうにあるのは防衛庁、かつての自衛隊市ケ谷駐屯地。いうまでもなく、事件の約十年後、三島が自決したところ。
 読んでいたのは夜中だったが、我慢できなくなって行ってみた。
 四十四年前の冬、かれはここにいた。
 病院跡地から、巨大アンテナのそびえる防衛庁へ下ってみる。
 三島が、十年かけて下った坂――。

 ところで、山の神が通りたがらないのは、別に病院があったからではない、と本人はいう。
 当人が好きなのは、建設会社のビルの敷地内の通り道(一般にも開放されている)だ。
「新宿区みどりの文化財」に指定された由緒ありげなイチョウの高い古木があるそこは、かつて華族だか士族だかの、立派なお屋敷があったところだそうだ。
 しかし戦後没落、あわれ家の令嬢は借財を返すために芸者になった。とはいえ何の芸もできないから、芸者の中でも最低の不見転(みずてん)芸者になるほかなかったという。不見転とは誰とでも寝る、つまりは女郎同然ということ。
 近所にいくつかある通りの一つは、昔その手の店が集まっていたそうで(そういう「空気」は不思議なことに何十年たっても消えない。現在は飲み屋街だが、いまなお淫卑で薄暗い雰囲気が漂っている)、そこに出ていたのかも知れない。
 元華族の娘を自由にできるわいと、征服欲だか復讐だか知らないが、好んでかよった男もいたとか(最低だね)。
 うーん、わたしはこの敷地を通るほうが、よほど気持ちよくないのだが。

 『風流夢譚』に戻る。『スキャンダル大戦争②』でその(幻の)本文を読んでいたら、そっちはそっちで、七月一日の日記で触れたばかりの渋谷の大盛堂書店が出てきた。井の頭線から降りてきた主人公は、大盛堂書店前のバス停で、八重洲口行きのバスを待っているのだ。
 とはいえ「本のデパート」が今の位置にできたのは昭和三十八年頃のはずだから、『風流夢譚』のは、それ以前の大盛堂ということになる。
 さて、どこにあったのやら。わたしが生まれる前の、渋谷。

七月五日
 ミュージック・バードにて「スペシャル・セレクション」の収録。今回の特集は、八月二十二日~二十七日放送予定の「ジュリーニを悼んで」。
 ジュリーニは、いま準備中の『名指揮者列伝』の四十人の指揮者の中で、ただ一人の現存者だった。
 ついにこれで全員が故人となった。

七月六日
 アスベスト被害のことが、急にマスコミの話題となる。なんだかここまで突然問題化すると、じつは何かもっと大きな別の話題があるのに、目をそらそうとする意図でも隠れているのかと勘繰りたくなるが、これは陰謀史観の悪影響。
 三十年ちかく前、わたしの中学のロッカー棟はプレハブで、断熱材にアスベストが用いられていた。体操着に着替えるときなど、壁にあいた穴から少しちぎっては、手近の誰かのシャツの首筋に放り込むイタズラが流行っていた。
 アスベストが背中に入ると、チクチク痛くてたまらないのだ。ワーワーギャーギャーと遊んでいたが、今から思えばまさに「死亡遊戯」だったのだ。ちょうどそのころに危険性が指摘されて、住宅などでの使用が禁止されたのだと思う。
 しかし問題は終わったわけではなく、老朽化した(禁止以前の)建物が解体される際に大量に飛散する危険が、今後は増大するのだそうだ。
 そういえば、近所でも二棟のビルが相次いで解体され、建て直されつつある。解体業ってこれから流行りそうだが、競走が激化すると、安全対策がおろそかになりそうで怖い。ひょっとすると、解体作業についての法整備のための「地ならし」として、アスベスト被害が話題にされているのだろうか。

 それにしても、東京ではすぐ老朽化老朽化ということで建て直したがるが、鉄骨&コンクリート製の建物って、ほんとうに半世紀くらいで建て直す必要があるのだろうか?
 ニューヨークとかはどうなんだろう? エンパイア・ステート・ビルだって石造ではない(ピラミッドじゃあるまいし)だろうから、鉄骨&コンクリート製のはずだが、築後七十年で寿命が近いから壊そうとかいう話は聞かない。百五年目のカーネギー・ホールだって上はビルだけど、まだちゃんと建っている。
 日本は湿気が多い? 地震が多い? 
なんだか、物理的な老朽化ではなく、四十年も経ったのだから、老朽化「しているべきだ」とか、「していてほしい」という、日本独特の精神的老朽化のような気がするのだが。
 パリのエッフェル塔は平気で建っているのに、東京タワーは先に「老朽化」させられてしまいそうな気がする。改修で済むのに、建て直すことになってしまいそうな気がする。
 じつは日本人くらい、新しい建物が好きな民族は少ないのではないか。
「再開発」というのも、どのような都市計画を実現したいかではなく、ただ新しくて、でっかいビルを見たいがために、行なわれている気がする。

 新築で気分一新。伊勢神宮の式年遷宮みたいに。
 たしかに紙と木でできた家なら、壊すのは造作もないし、廃棄物も少ない。
 だが鉄とコンクリートのビルは、そうはいかないのである。大きな工事。騒音と振動。ビルと同じ大きさの産廃の山。
 いままでは建て直しも再開発も、用地の取得の問題だけを考えればよかった。あっても小規模な建物だけだから、更地にするのは簡単だった。
 だがこれからは、すでに鉄筋コンクリートのビルが建っているようなところばかりで、解体工事にともなう問題は大きくなる一方だ。
 現在の日本の土地は、解体しにくい建物で、すでに埋めつくされてしまっている。建て直しは簡単にはできない。
 でも壊したい。建て直したい。
 建て直し大好きの日本人とその社会にとって、ひどくイライラする時代が始まっている気がする。

 近所では、八階建ての大きなビルが取り壊され、あとに十八階建てのマンションが建つそうだ。ものすごく無駄な気がして、元の建物を改修して人が住めるようにした方がいいように思うのだが、日本の社会と産業の構造では、建て直しが選択されるのだ。
 あるいは、解体による多額の経費を計上することで、より大きな金額を「正当な理由のもとに」企業は借りられる、銀行は貸すことができる、ということなのかも知れない。
 それによって、見かけの資金の流動を大きくして喜んでいるのだとしたら、そういう資本主義は、病んでいるというべきなのではないか。

七月八日
 男子野球と女子ソフトが、オリンピックから外された。野球はともかく、後者が企業スポーツとして衰退しはじめることは避けられないだろう。
 それにしても、やはり五輪は、ヨーロッパ起源なのである。アメリカ式の興行性の強いスポーツたちとは、相容れないものなのだ。
 あらためて思うのは、ことプロ・スポーツに限っては、アメリカのモンロー主義、孤立主義はいまも生きているのだなあ、ということ。
 野球の「普及」とは、選手の供給源、興行先としての「植民地」が、カリブ海諸国から極東諸国へと拡大することを言い換えているに過ぎない(話題のワールド・ベースボール・クラシックは、宗主国による帝国主義的な祭典である)。
 スポーツの世界では、欧州とその旧植民地(アフリカと中近東)の勢力と、アメリカとその「スポーツ植民地」極東勢力の、二大帝国主義勢力の「棲み分け」が始まっているのだ。
 冷戦構造が崩れたことで、アメリカはオリンピックという土俵で、共産主義勢力と競走する必然性を失った。アメリカにおける陸上競技や水泳は、人間能力の科学的研究と実践の場としてしか、しだいに意味を持てなくなるのではないか(もちろん、それでもアメリカの選手たちは個人の尊厳において全力で戦い、メダルを獲りつづけるだろう。それがアメリカの活力である)。
 さて、中国はどうするか。

七月九日
 恩田陸の短編集『図書室の海』が文庫本になったので、読む。恩田作品を読むのは久しぶり。
 ほとんどが解決のない、広がりっぱなしの話で、短編というよりも長編の発端だけを続けて読んでいるような印象を受ける。最後にあとがきを見たら、多くが長編の「予告編」として書かれたものだそうで、納得。当然のことだったのだ。
 それが短編のあり方として妥当かどうかはともかく、恩田の長編を何か読みたくなったのは確かである。こういう手もあるのか。
 いくつかの恩田作品に描かれる、地方の名門高校がいかにも持っていそうな雰囲気が好きだ。わたし自身は東京の無個性な量産型三流高校の出なので、大学時代の友人たちから聞いた、感じたその気分に、憧れがあるのである。
 というわけで、『麦の海に沈む果実』なる長編を買ってくる。

七月十日
 大河ドラマ『義経』が一ノ谷合戦だったので、しばらくぶりにまじめに見る。
 いわゆる「鵯越の逆落とし」による奇襲を、旧来の伝説どおりにやったのは、ドラマなんだから、仕方ないのだろう。
 藤本正行の冷静かつ説得力ある考証によって、日本戦史の二大奇襲譚のもう一つ、桶狭間合戦の「奇襲」については、墨俣一夜城や長篠合戦の「新戦術」などとともに、どうやら小瀬甫庵たちの作り話であることが、わかっている(藤本正行『信長の戦争』講談社学術文庫)。
 しかし、この三つを除いたり、戦国合戦の実態を藤本説にそって再現したりしてみても、旧来の「信長・秀吉・家康物語」の面白さを上回るのは難しい。だから小説やドラマでは、そのままでいいと言えるわけだ(それが事実ではないらしいことは、知っておくべきだが)。
 一ノ谷もそれと同じ、というかほとんどが作り話であって、それを除いたら源平合戦譚など、何もなくなってしまう。
 菱沼一憲の『源義経の合戦と戦略』(角川選書)は、藤本正行に似た方法論で義経の実像に迫ろうとしたものだが、いかんせん時代が古すぎるのか、モヤが晴れるような謎解きの爽快さを得ることはできなかった。
 しかし個々の叙述は面白い。たとえば九条兼実の日記『玉葉』(信頼性が高いとされる)には、北の鵯越方面から衝いたのは義経ではなく、多田行綱だと書いてあるそうである。とすれば義経はまっとうに、海岸線に沿って西側から攻めたということになる。
 でも、それではドラマにならんなあ。

 口直しに『花神』総集編のDVDでもまた見ることにしよう。ふつう大河の総集編は駆け足すぎて食い足りないものなのだが、これだけは時間をたっぷりとり(八時間半もある、大河の中でも異例の長さ)、しかも巧みな編集によって冗長さが刈り込まれ、総集編の方は傑作に仕上がっているのだ。
 主人公を狂言回しにして他の人物にもきちんと脚光を当てていけば、群像劇としての歴史ドラマがどれほど魅力的になるかという、好適の例である。

七月十二日
 ミュージック・バードにて、スペシャル・セレクションとBBCコンサートの収録。後者では二〇〇一年のノリントン&シュトゥットガルト放響(七月二十四日放送予定)と、一九七四年のグッドオール&ENO(七月三十一日予定)の二週分を収録。
 ノリントンはオベロン序曲、ヴォーン=ウィリアムズの交響曲第三番、シューベルトのグレートという曲目。グレートはこの演奏会の数日前のシュトゥットガルトでのライヴがCD化されているが、ヴォーン=ウィリアムズの三番は未発売だけに貴重。澄んだ響きが美しく、なんというか彼岸の音楽。独唱はジビッラ・ルーベンス(シビラとかシビッラとも書かれるが、BBCの資料によるとジビッラが正しいそうだ)。
 ノリントン&シュトゥットガルトによるヴォーン=ウィリアムズの交響曲は、昨年の日本公演でも見事な第六番を聴かせてくれたし、結構やっているらしいのにCD化はされていない。いずれはまとめて出してほしい。
 グッドオール(アナウンサーははっきりグッドオールと、「オ」をいれて発音している)は、ブリテンゆかりのモールディングズでの演奏会。
 ヴァルキリー第一幕は、ダレ気味の全曲CDよりも推進力があって、ずっと出来がいい。印象的なのはカーフィの歌うシークリンデ(英語版だとシークリンデなのだ)。グッドオールの長大な呼吸に見事に合わせて、スケールの大きな歌唱を聴かせてくれる。

七月十五日
 「らいぶ歳時記」の作り直しに着手する。各項目を見やすくし、画像データもつけることにする。時間がかかる。こういうデータについては、アルファベット表記にしたほうが世界の役に立つだろうが…。

八月二日
ミュージック・バードにて、スペシャルセレクション「一八九〇年代の音楽シーン」(九月十九日~二十四日放送予定)を収録。選曲構成は東条碩夫さん。
 東条さんはミュージック・バードの生みの親というべき存在であられるので、わたしにとっては、放送の仕事においてもまた大学のサークルにおいても、大先輩にあたる方である。
 収録後、昼食をご馳走になる。時節柄バイロイト音楽祭の話になり、東条さんが二十八年前に大阪で観られたというヴィーラント・ワーグナー演出の《トリスタン》と《ワルキューレ》の、強烈な思い出話をうかがう。
 お話の中で、わたしが記憶できたものだけまとめる。《トリスタン》にはNHKの中継映像が残っているが、ヴィーラントの演出というのは空間を雄大に用いるものなので、とても画面には入りきらないそうだ。〈愛の死〉で、劇場空間すべてをおおう暗闇の中に、イゾルデ役のニルソンの顔だけがぽつんと白く浮び上がる効果は、とてもカメラに収まるものではなかったという。
 それから、ワルキューレたちがゆらゆらと槍を動かすだけなのに、異様に印象的な〈ワルキューレの騎行〉のこと。
 うーん、話に聞くだけでも凄そう。

八月四日
 スペシャルセレクションの新たな構成者を求めて、上野と渋谷で新隊士募集を行なう。
 両方とも好感触。特に上野では水戸(天狗党?)から三人加わってくれるということで、大満足(実際にお会いしたのは一人だけだが)。聞けば水戸っぽではなく、生まれと育ちは山梨県だという。
「山梨なら、わたしは前の仕事のとき、塩山(えんざん)に二年くらいいたんですよ」というと、「えっ、ぼくはその塩山なんですよ」と返事がきて驚く。
 滞在が長かったので、塩山は思い出が多い。作業員宿舎にはなんと温泉が出ていていて、夏場は重宝した。今は日帰り温泉に改装されたらしいが、そのころはタダで毎日入れたのである(石鹸が使えないのが不便だったが)。
 地元の土建屋さんや生コン屋さんが国会や県知事の選挙のたびに大騒ぎし、結果に一喜一憂しているのを間近に見て、地方における政治と土建業の根深い関係(まさしく田中角栄的な)を初めて知ったのも、塩山だった――とはいえ、山梨だけがそうだったわけではない。それは東京にいただけでは見当もつかない、日本の一面だった。
 それにしても、土地の縁とは面白い。この塩山だけでなく、当時わたしが赴任したり出張したりした関東の場所のいくつかは、いま仕事をご一緒している方たちにゆかりの場所なのである。
 たとえば山尾敦史さんのご実家の近くにもウチの現場がかつてあって、わたしは週一度くらいのペースで通っていた。片山杜秀さんの今のお住まいのあたりもその近くに取引先の資材倉庫があったため、やはりよく知っている。
 あの仕事をしていたときは、それがこんな形で今の同業者の方たちと結びつくとは、思いもしなかったが。他にも行った現場は関東甲信越を中心に十以上あるが、これからもそれらの出身者たちと知り合いになれるのだろうか。とすれば、けっこう意味ある経験だったのかも知れない。
 ところで当時気になったのは、山尾さんの実家近くの現場から、別の現場があった栃木県大田原市に向けて車を走らすと、途中に「風車の弥七の墓」なる案内板が道端に出ていたこと。
 風車の弥七って、実在の人物なのか?今になってみれば、まさかそれだけのために行く気にはなれないことを思うと、寄り道しておけばよかった。大田原には那須与一の墓だかもあったし…。

八月五日
 夏の高校野球で、明徳義塾の不祥事のために代わって高知高校が出場するそうだ。県大会決勝戦で延長で負けたという高知なら実力に遜色はないだろうから、案外台風の目になるかも――初戦の日大三高も、予選を見るかぎり、かなり上に行けそうな学校だが。
 ここ数年、甲子園大会そのものより、県大会決勝に注目する癖がついている。なぜなら、県大会決勝くらい、惜しい、悔いが残る敗戦というのは、他にないのではないかと思うからである。甲子園に出てからなら、たとえ一回戦負けだって甲子園出場という名誉は残る。
 あるいは地方大会ベスト4とかベスト8とかなら、まだしもあきらめがつく。しかし決勝というのは、たった一つの勝敗なのに、これほどすべてを失う敗北がほかにあるだろうか。これほど美しくない敗者が、ほかにいるだろうか。
 大敗なら、まだいい。九回裏に逆転サヨナラ負けとか――今年はどっかの県で本当にあった――もう、たまらないだろうなと思うのだ。
 そういえば今年はテレビの『H2』に始まって映画の『逆境ナイン』に『タッチ』と、ひと昔前の野球漫画の実写化が大流行、とうとう『アストロ球団』までやるらしい。監督とかプロデューサーたちの年代が、きっとわたしと同じか、ちょっと下ぐらいなんだろう。こういうノスタルジーが若い世代に通じるのかどうか疑問だが。その中で、あだち充の漫画版『タッチ』は「甲子園に出ること」にドラマのすべてを集約させた点で、すがすがしい傑作になっていた(同じ作者が二番煎じを覚悟しつつも、野球部創設という「その前」を描いてヒットした『H2』は、やがて甲子園大会という「その後」を描かねばならなくなり、とても苦(にが)い話になった)
 話を戻そう。いったんは「美しくない敗者」となった高知高校の選手たちがどう戦うか、思わぬ楽しみである。
 同時に、わたしは高校野球の連帯責任というか連座制には反対する。これあるかぎり、不祥事は隠蔽され、そしてその結果密告が、多くの関係者に傷を残す密告が、行なわれ続けるだろう。
 やみくもな連座制では、暴力といじめの根絶にはつながるまい。

八月六日
 昼食へ出たついでに寄った書店で『写真で見る 東京の激変』(世界文化社)という本を見つけて立ち読み(千八百円の持ち合わせもない…、情けなし)。
 古い風景写真を、同じ位置から撮影した現代の景色と比べるというやり方はたくさんの類書があるが、この本は一九五九、六〇年頃の写真を使っているので、わたしにとって都合がいい。
 銀座・新宿・渋谷などがメインだが、嬉しいのは「本のデパート」以前の大盛堂書店の位置が判明したこと。
 現在の大盛堂は、渋谷センター街入り口の左角の店だけが営業している。ところが、なんと昭和三十四年当時の大盛堂書店は、まさにその位置にあったのだ。
 ハチ公側から撮った写真には「大盛堂書店」と看板を掲げたビル(多分現在もそのままの建物)が写っている。
 つまり現在は、「本のデパート」以前の状態に戻った、ということらしい。なんでこんなところにいきなり、と思っていたのだが、じつは古巣だったのだ。
 あるいはこのビルそのものが、大盛堂の持ち物なのか。ただし、ここがその後もずっと書店だったかどうか、わたしはよく覚えていない(違っていたような気がするのだが)。
 深沢七郎の『風流夢譚』に出てくる大盛堂書店は、このセンター街入り口の店舗のことに違いない(そういえばそのコピーを載せた雑誌の発行元の鹿砦社の社長、いきなり逮捕されるとは…)。今度渋谷に行ったら、よく眺めてみよう。もちろん、『東京の激変』をちゃんと購入するのが先だが。
必ず買うぞ必ず買うぞ必ず買うぞ必ず買うぞ必ず買うぞ必ず買うぞ必ず買うぞ。

八月九日
 ミュージック・バードにて、スペシャルセレクションとBBCコンサート二週分の収録。BBCコンサートは八月後半の放送なので、涼しげにビーバーとヘンデルのコンサート。
 まず八月二十一日放送予定の番組は、マンゼ指揮イングリッシュ・コンサートによるビーバーの《キリスト復活のためのミサ》。もうすぐHMからセッション録音盤も発売されるが、これはその五か月前のライヴ。
 ミサの前後に同じビーバーの《教会へ行く農民》を演奏、それに合わせて歌手たちを入退場させ、教会に集まってきた農民たちがミサを歌い、終わると去っていき、そして最後に夜警の歌(これもビーバー)が歌われて無人となる(マイスタージンガーの第二幕のように!)演出が面白い。俗~聖~俗という音楽の変化が活きている。
 続いて二十八日は、N・クレオバリー指揮フライブルク・バロック・オーケストラによるヘンデルの《エイシスとガラテア》。ダーネマン(デーンマン)とアグニューの主役コンビなどの歌手陣に加えてオーケストラが上手い。個人的には途中で退屈してしまうことの多いヘンデルのオペラを、最後まで集中して楽しむことができた。

 学研より『レコードはまっすぐに』の第三刷が決定したとの連絡あり。
 個人的には五千部まで伸びれば、大満足と思っていた。しかし、お蔭様で発売から三か月ほどで、目標にあと少しで手が届く部数が達成されることになった。
 すべての読者の皆様に感謝。

八月十一日
 甲子園大会の一部を夜のスポーツニュースで見る。どうしても気になることが一つ。
 失点の後、ミスの後、なぜ選手たちは一様に笑っているのだろう。あれは自然のものなのか。いまの高校生は、あんなふうに笑うのか。変に日本ふうの深刻な表情をせず、笑い合おうとでも教育されているのだろうか。いつ頃から、こうなったのか。
 暗い顔をしていないと真剣さが足りないとか、そんなことは思わないが、みんな同じ笑顔というのとは、何か変。

八月十二日
 いま四谷三丁目角の消防博物館のビルには、平成五年の北海道南西沖地震(奥尻島が津波で壊滅した地震)のさいの津波の高さとして、二十九メートルのところの外壁に横断幕が張られている。
 現実にあんな高さの波を暗闇で目にしたら、それだけで心臓がとまりそう。
 話かわって、雑誌、ライナーノーツなどの締切りの津波が、三週間ぶりに一段落する。各所から悲鳴とSOSが届くなか、なんとか「作者急病のため休載」の事態は避けられる。デッドラインにどこまで近づけるか、なんてチキンレースは今度こそ止めようと毎回思うのだが…。
 原稿依頼があった時点でコツコツ始めていれば津波にもならず「ひねもすのたりのたりかな」で済むはずなのに。さすがに三週間も続くとくたびれる。
 とはいえもちろん、やるべき仕事を与えてもらえるのは、幸福なことなのだ。

 夜、アルファベータから近日発売される『名指揮者列伝 二十世紀の四十人』の見本を持って、発行者(兼『クラシックジャーナル』編集長)の中川右介氏が四谷三丁目に来てくださる。山の神と三人で、土方歳三御用達の店で祝杯をあげる。
 二十日前後に店頭に並ぶらしい。奥付を見ると、こちらも八月二十日発行とある。現実の発売日と公式の発行日がほぼ同じというのも珍しい。
 ところでこれは中川氏から聞いた話だが、奥付に発行の月日とか、発行者の氏名と詳細な住所とか、印刷所の名称などが載せられているのは日本独自の現象で、かつての治安維持法とか、情報統制策の名残なんだとか。
 たしかに海外の書籍では発行年だけで月日はないし(著作権の基準とするためで、その計算は年単位)、発行者は社名と大まかな都市名くらいだし、印刷所なんて一般にはどうでもよいことだから、載っていない。変なところに暗い時代の足跡が残っているもの。
 さて、訳書と違って自著の宣伝というのは気恥ずかしく、できれば知らんぷりしていたいところだが、これで口を糊している者としては、そうもいかない。

 お目にされたら、どうかお手にとってみてください。

八月十四日
 デスクトップのパソコン(PC)が壊れる。
 二週間ほど前から起動時にエラー・メッセージが出ることが多くなり、何度も起動し直すようになっていた。起動してしまえば問題はなかったので、原稿津波の最後の四日間ほどは、PCの電源を切らずに入れたままにしていた。
 終わったら、WINDOWSを再インストールするなど、何かやってみようと思っていたのだが、その直前に予想外の伏兵にやられてしまった。
 WINDOWSのファイルの更新などを、マイクロソフト任せで自動で行なうようにしておいたためである。その最新版とやらが、しつこく「再起動」を要求するメッセージを出すようになった。再起動せずともログオフで事足りることが多いのだが、今回は大きな更新なのが、再起動を求め続けてくる。
 ずっと無視していたが、原稿津波の最後、オーパス蔵のトスカニーニ指揮による、ロッシーニ&ヴィヴァルディ作品集のライナーを書いて送ったところで、また再起動を求めるメッセージが出た。
 締切からの解放感で警戒心がゆるんでいたのだろう。何気なく再起動に同意してしまったのが運の尽き。それっきり、二度と再び立ち上がらない。
 強制終了して何度起動させようとも、「COMPAC」のメーカー名が、ござんなれとばかりに赤く大写しになったまま、先へ進まなくなった。
 ドキュメントの類のほとんどは外付けのハードディスクにバックアップしてあるが、最新の三日分はコピーしていなかったから、その間の原稿はパア(入稿後だからまあいいが)。
 メールやアドレスも、再インストール直前にバックアップする気だったから、これもパア。まあ、職種的に相手から連絡を受けて動くことが多いので、とりあえずは「待ち」の姿勢で、アドレスを集め直すしかない。NHK大阪の友人からのメールだけ、返事を出す前に消えてしまったが、あとで謝るしかあるまい。

 津波を乗り越えて消耗した頭では修復作業など考えられず、ひとまず寝る。

八月十五日
 予備機のノートPCを出してきて、モニターやらキーボードだのを接続し、代用する。
 しかし、一九九九年製という前世紀の遺物で、低性能の安物ときては、使う方のストレスがひどい。インターネットの閲覧がほとんどできず、すぐ止まる。
 しかも、何もさせていないのに勝手にCPUがフル稼働している。
「お忙しいところすいませんが、合間にこれもお願いします」と、ご機嫌をうかがいながら仕事を頼み、めんどくさそうにもたもたと仕上げるのを、じっと待っていなければならない。
 だめだこりゃ。

八月十六日
 我が家はなぜか東京新聞である。
 その東京新聞にはここ最近、石油枯渇の話題がよく載っている。とうとう新規の発見量が使用量を下回ったそうで、つまり埋蔵量の限界が見えてきた、ということである。
 あと四十六年、という学説が紹介されている。それまでに代替エネルギーを実用化せねばならない。地球温暖化よりもよほど重大な問題だ、とある。
 そりゃそうだ。石炭石油の実用化以前といえば、十九世紀半ば以前、機械化以前の段階に戻るということだ。簡単にいえば、江戸時代の生活に。
 江戸期の人々が立派な一箇の文明人だったのを思えば、極度に不幸なことではないだろうし、人間の精神面においてはその方がむしろ健康的かもしれない。しかし問題は、現今の地球人口が到底維持できないこと。
 枯渇することのない回復可能な地球資源、すなわち植物と共存するためには、十分の一以下ぐらいに減らなければならないだろうが、それまでには、どれほどの不幸と苦難が我々を襲うことか。
 昔、石油ショックが起きたころ、「石油資源はあと三十年」という文章を何度か目にした記憶がある。三十年以上たった現在でも枯渇はしていないけれど、それが「限界が明らかになるのは三十年後」だったと考えるなら、あたっていたともいえる。
 あのころは、資源枯渇が終末論に直結していた(それまでの科学万能主義の反動だろう)。『大予言』やら『日本沈没』やら、終末論が流行っていた。マンガでも『デビルマン』や『漂流教室』のような歴史的名作はいうまでもなく、つのだじろうの『メギドの火』(だったかな?)とか、松本零士の『ワダチ』などがあった。
 特に『ワダチ』は印象深い。というのも、同じ作者の直前のヒット作『男おいどん』の世界――四畳半の安下宿に暮らす、昭和中期の貧乏学生の日常――をそのまま導入部にして、地球滅亡と人類の脱出を描くSFへと、転じていたからである。
 『男おいどん』の愛読者だった小学生にとっては、ペーソス(死語?)あふれる日常が、そのまま終末物語に変わってしまうという展開――ドアを開けたら悪夢、というような――そのものが、どうしようもなく悲しくて、恐ろしかった。今後はまた、こういう終末論マンガが復活するのではないか。
 それにしても、四十六年後とはなあ。わたしは八十八歳、ひょっとしたら生きているかも、というころだ。しかし、ほんとうに代替エネルギーの目途が立たなければ(間に合わなければ)、化石エネルギーの独占をもくろむ戦争や混乱が十年か二十年前には始まるだろうから、わたしもその悲劇を、目にすることになるのかもしれない。いや、枯渇が指摘されて以後の原油価格高騰を思えば、破局はとっくに始まっているのか…。

八月十七日
 デスクトップ機を修理に出してみる。「見積りを出しますから、それでご判断ください」との返事。前世紀末の数年間ほど急激なものではないにせよ、パソコンの進歩はまだ止まっていないから、古い機種を修理するよりは、買い換えた方がいいことも多いのだろう。
 故障したPCは二十一世紀最初の年に買ったもの――新世紀到来記念、というわけではないが――だから、四年たっている。そろそろハードディスクが寿命だろう。さらに液晶モニターはその前のPCの付属品だから、これは七年も使っている。今のところ矍鑠としているが、いつオシャカになっても不思議はない。
 そう思いつつ新聞を広げると、DELLの格安機の広告が、ぱっくりと赤い口を開けて待っていた。
 気がついたときには口の中、PCは買い直すことになっていた。

八月十八日
 選挙だ。ここで政治論は控えるけれども、ただ思ったことだけ。
 「強引な解散」とか「刺客」とか、小泉的手法が可能になる背景には、今の政治に「テロの予感」とか「テロの匂い」とかが、まるで感じられないこともあるのではないだろうか。
 わたしも「足して二で割る」式の旧来の安易な政治――それが政治だとして――は好きではない。しかし、そうして相手のメンツも意識してきたことの背景には、テロの匂いがあったからだと思う。

八月十九日
 PC店から連絡。故障したPCはやはりハードディスクが駄目になっていて、交換が必要であるとのこと。ということは、既存のデータはすべて失われる。
 それで四万円もかかるという。新規に買ったPCはその倍もしない。というわけで、修理はキャンセル。

八月二十五日
 一週間たつが、注文した新PCはまだ来ない。DELLは受注から発送まで日数がかかるものらしい。
 その間に、山の神が愛用するVHSビデオが壊れる。これもわたしが現場通いをしていたころ、ひたちなかの現場近くの家電量販店で買ってきたもの(家電とか小規模家具などは、車で行ける地方都市の家電店やホームセンターの方が、渋滞もなく駐車場も広くて楽なので、出張の合間に寄り道して買うことにしていた)だから、六年も使っている。もう充分だろう。
 今ならハードディスク・レコーダーの方が便利なので、それを買いに新宿に行く。ハードディスクという記録機器は、気がつけばデジタル家電の心臓的存在になっている。わたしの旧PCがダメになっても慌てずにいられたのも、USB接続の外付ハードディスクに、データがバックアップしてあったからだし。
 地下鉄と徒歩での持ち帰りなので手間はかかるが、地方都市を車で走り回るときよりも、二本の足で歩く距離がはるかに長いので、よほど健康的である。日本の都市生活の不思議。
 買いに行っている間にPCの配達があったが、不在で受け取れず。この後は家にいますよと電話したが、台風接近で配達も早じまいとのことで、明日に延期。

八月二十六日
 ようやくパソコンが到着。
 TDKコアのヴァントのDVDのライナーノーツと、ジャパンアーツの会報誌に載せるトスカニーニ・フィルの紹介記事を仕上げて仕事が一段落したので、新PCの設置にかかる。
 五年間ウインドウズ二〇〇〇を愛用してきたので、XPは初体験。なるほど、九五からME、二〇〇〇とつながってきた使用感は、XPではかなり変化している。その差が、テレビ・ゲームのロールプレイング・ゲーム(ファイナルファンタジーとか、ドラクエとか)の画面の変化とどこか似ているのが面白い。
 以前のものは箱庭というか、お人形さんごっこというか、細々と書き込まれたマップ全体を上から見下ろして、小さなコマをちょこちょこと動かしているような感じだった。
 しかし六、七年前からのゲームでは、ゲーム内のキャラクターの視点の高さ、あるいは少し高いところから斜めに見下ろす程度まで、視点を下げた。それによって劇映画を観ているような、キャラクターとの一体感を高める傾向に変わったのである。
 XPの操作感も、同じように「キャラ視点」まで高さを下げた印象がある。視界が狭まったぶん、目標を確認しやすくなった感じ。個人的ノスタルジーはさておいて、これはやはり、進歩なのだろうな。

八月二十七日
 十六日のところで書いた石油枯渇のことを、もう少し妄想してみる。

 化石エネルギーの枯渇にいちばん我慢できないのは、世界のどこよりもアメリカ合衆国だろう。
 この国はなにしろ、化石エネルギーによって誕生したようなものだ。それ以前の「合衆国」とは、東海岸の沿岸地帯のことを指しているにすぎない。北米大陸全体に広がったのは、化石エネルギーの力によってなのである。
 その枯渇によって、アメリカは国家像の基盤を失う。石油抜きでは、アメリカはアメリカであり続けられない。
 そのとき、かれらが過度に悪あがきすれば地球そのものを滅ぼすだろう。そうならず「軟着陸」できたとして、その後のアメリカは、どんな姿になるのか。人と家畜の力だけであの広大な国土の統一は不可能だろうから、分裂するか。そのとき、人口で多数派を占めるはずのヒスパニックは、どのように動いていくか。
 一方、地球規模で考えると、石油文明の終焉は、すなわち「アメリカの時代」の終わり、アメリカの一国支配の終わりを意味する。
 これは、地中海世界におけるローマ帝国の崩壊、東アジアにおける漢帝国の崩壊で「古代」が終焉したことの再現となるだろう。
 順番どおりなら、そのあとは、物心両面ですべてが停滞する「中世」が再来することになるのだが、さて…。

八月二十八日
 山の神が録画したNHKの時代劇『秘太刀 馬の骨』第一回を見せてもらう。
 面白い。ヒットした『蝉しぐれ』と同じ、藤沢周平原作と内野聖陽主演の組み合わせだが、前回とあえて手口を変えているのがいい。ロケで外光と湿度の空気感を画面に活かした前作に対し、今度は徹底したスタジオ撮影でCGを多用し、劇画風の人工的な画面をつくっている。人間以外の虫や動物を、わざとすべて作り物にしているのが楽しい。
 内野聖陽も今度はコミカルな部分を出しているが、それが魅力的。三船敏郎あたりを参考にしている印象を受けた。
 他の役者も、これから楽しませてくれそう。そういえば、来年の大河『功名が辻』も配役を見るかぎりは面白そうだ。ここはひとつ頑張れNHK。

八月二十九日
 ようやく『スターウォーズ』のエピソードⅢを観る。
 戦闘シーンの合間に少しだけストーリーがあるという感じだが、ともかく純粋に楽しんだ。
 冒頭のクリストファー・リーが倒される場面のセットが『ジェダイの帰還』のクライマックスの皇帝居室の場面の再現になっていて、暗黒卿の御前での決闘がその弟子たちの世代交代の「儀式」であることが暗示されているなど、あちこちに仕掛けられた「照応」が楽しい。
 『ジェダイの帰還』でルークがライトセーバーを投げ捨てて、「僕はジェダイだ。先代の父と同じく」と宣言するセリフの意義(それに対する皇帝の「So be it、Jedi…」という返答も)が、今作にその「前回の儀式」が描かれたことで、より強められている。
 ラストが、タトゥーインの砂漠に沈む二重太陽の夕日だったのは、ものすごく嬉しかった。第一作(エピソードⅣ)でいちばん印象的な場面は、ルークが眺めるあの夕日だから(そう思っている人が多いから、ああしたんだろう)。そういえば、あそこで響く音楽は『ジェダイの帰還』でダース・ベーダーの遺体を焼く場面にも使われていて、感動的だった。
 新しい前半三作の中でも、「照応」をいちばん楽しめるように作ってあることが、きっと今作の好評の一因だろう。

八月三十日
 スペシャル・セレクションと輸入盤ショーケースの収録を終えて、JR四谷駅まで歩き、交差点に立っていたら、目の前をスバル三六〇が通りすぎた。
 昭和三十年代の、あの小さなスバルである。あとで調べたら昭和四十五年生産終了というから、今日見たのは少なくとも三十五年前の車両ということになる。
 それがまるでクラシック・カーらしい目立ちかた(場違いな、時季はずれな違和感が生むもの)もなく、当たり前に現代の景色に同化して走っていたことに、衝撃を受けた。
 ――この車は今もなお、こんなにも東京の景色に合っているのか…。
 カラーが昔よく見かけた、緑がかったグレーの、いちばん平凡なものだったからかも知れない。
 それにしてもあとで不思議に思ったのは、そのスバルが窓を閉めきっていたこと。あの車にはエアコンなんてないはずなのだが、暑くないのだろうか。
 まあ、こういうクラシック・カーを楽しむ気持というのは、「やせ我慢」を楽しむ喜びに他ならないのだろうけど。

九月一日
 今年は、関東でも新学期始まりの日ではなくなってしまったらしいこの日、学研にて新しい仕事の打ち合わせ。
 順調に行っても形になるのは一年後の話だが、実現すればわたし自身だけでなく、多くの読者にも喜んでもらえる仕事になるだろう。いまは、障壁を無事越えられることを祈るほかにない。

 そういえば、デッカがお蔵入りさせていた一九五五年バイロイト音楽祭の《指環》が、テスタメントの手で来年春から夏にかけて発売されるそうな。
 ときはいま、か。

 フォースとともに在らんことを。

九月二日
 スターウォーズのエピソードⅥが観たくなって、DVDを借りてくる。
 昔から気になっていた「一つの銀河系全体の運命を懸けた戦いが、わずか一個小隊程度の地上戦で決まってしまう」欠点が、エピソードⅢの大軍勢同士の会戦(に見えるもの)を観たあとだと、いっそう際立ってしまうのは仕方がない。
 最後にいくつかの惑星での歓喜の光景をデジタル・リマスター版公開時に新たに挿入したのは、少しでもその小ささをカバーしようとしたのだろうが、決定的なのは新しく差し替えた音楽に魅力がないこと。初公開時の、イウォークたちの歌から混声合唱に転じ、トランペットのファンファンーレへと突入していく瞬間の快感が消えていて、画面は壮大なのに劇的効果が矮小化しているのだ。
 ただし『ジェダイの帰還』と原題に近く邦題を改めた今回のDVD、ラストに出てくるアナキンがちゃんとⅡとⅢの役者に差し替えてあったのは驚いた。なんとまあ、芸の細かいこと。

 それにしても、多くの人が指摘する通り、どんな激戦からも傷一つなく生還するウェッジこそ、銀河一の強運の持ち主だなあと、あらためて思う。

九月三日
 ORFEOが発売した、ルイージ指揮の《ギョーム・テル》(《ウィリアム・テル》のオリジナルのフランス語版)のCDを聴く。
 一九九八年ウィーン国立歌劇場のライヴだが、やはりルイージの俊敏な指揮がすばらしい。前半こそやや表現が滑っている感があるのだが、後半の大きな盛り上がりは見事である。
 ほぼ同時に出たド・ビリー指揮のパリ初演版に基づく《ドン・カルロス》とともに、「パリ・オペラの時代」が蘇りつつあることを感じた。
 注意すべきは「パリ・オペラ」であって「フランス・オペラ」ではないこと。偏狭な意味でのフランス人のオペラではなく、十九世紀半ばまでヨーロッパ・オペラの首都だった パリに関わるオペラが復権しつつあるのではないか、という意味である。
 かつてのその権勢は、分裂と停滞という「中世」がまだ続いていた、イタリアとドイツの養分を高々と吸い上げ、美しく花咲いてそびえたものだった。
 ところが十九世紀後半、イタリアとドイツが統一され、民族意識が昂揚した時代の中で、「搾取の都」パリはかれらの憎悪の対象となり、過度に貶められるという「復讐」を、二十世紀においてうけることになった。「フランス・オペラは《カルメン》だけ」などというとんでもない誤解は、偏狭な民族主義が意図的に生み出した誤解なのではないだろうか。
 ようやく現代になって、ヨーロッパ各地の歌劇場は民族主義の興奮から醒めて「パリ・オペラ」の歴史的意義を、冷静かつ正当に評価し始めたのではないか。
 まもなく出るという、シャイーの《ドン・カルロ》のDVDも楽しみだ。

九月六日
 オペラシティ・コンサートホールにてテノールのロランド・ヴィラゾンのリサイタルを聴く。
 いいテノールだ。何よりも響きに「哀しみ」がある。ゲストのチョーフィともども、歌がとてもうまい(当然のようで実は貴重なことである)。もちろんまだ若いだけに、響きが鳴りすぎる欠点が、特に前半に感じられた。しかしこれはペース配分の都合かもしれないし、むしろ「時分の花」として愛でるべきなのか。
 後半は《魔笛》のドイツ語を歌うことで響きをまず締めてから――調整用という以上の意義は感じなかったが――イタリア物へ。だが〈冷たき手を〉はいまいち。これは、チョーフィの言葉一つ一つのニュアンスを存分に活かした、絶妙かつ入念な〈わたしの名はミミ〉が素晴らしかったのに比べると、経験の差が出たのかもしれない。《アルルの女》と《フェドーラ》はさすがに堂に入っていた。
 だが、レパートリーとして最も適性と可能性を感じさせたのは、(鳴りすぎとはいえ)前半のフランス物。特に《マノン》は指揮者も俄然冴えていて、一夜の白眉となっていた。
 できれば、他にも人がいるイタリア物より、新しい「パリ・オペラの時代」を支える主柱に育ってほしいものだが…。

九月八日
 星野仙一の去就が加熱。これは間違いなく巨人の監督になるのだろうけれど、二球団がまれに見る一騎討ちを展開しているときにこの騒ぎは情けない。
 今回のデッドヒートが面白いのは、両球団の選手ともに、近々の優勝経験を持っているからだろう。運は岡田阪神にある(不運は、すべて井川が背負ってくれている)気がするが、それを覚ってのことか、一年生投手を多用して、またとない勝負経験を積ませている落合中日は、すでに未来を見ているようで、実はあきらめていない点に凄味がある。
 この二球団を取材するだけで書くことは充分にありそうな気がするが、やはり巨人番記者は人数も多いしプライドも高そうだから、そうもいかないんだろう。大阪の夕刊は書くことがなくなると、きまって阪神の「お家騒動」の話を作ってでも載せるそうで、以前はよくそのために火のないところに煙が立ってしまい、本当の火事に発展することがあったそうだ。今回の巨人をめぐるマスコミの動きは、それにそっくりである。
 控えるべきは、まず何よりもマスコミ自身だと思うのだが、やっぱり彼らはそんなこと、口をぬぐって書かないなあ。

九月九日
 掲示板「オペラ・ファンたちのメッセージ・ボード」で話題になっているのだが、首都オペラが上演した《運命の力》で、まず序曲のサンクト・ペテルブルク初演版を演奏して第一幕に入り、続いて現行版の序曲を演奏してから第二幕に入ったという。

 これは面白い。第一幕後に序曲を移すのは、一九二六年にドレスデンでこのオペラがフランツ・ヴェルフェル(アルマ・マーラーの二番目の夫)の独語訳(指揮にあたったフリッツ・ブッシュによると、自由だが美しい訳という)と校訂で上演され、センセーショナルな成功となったさいに行なわれたことなのである。
 この成功がきっかけで両大戦間のドイツ語圏では、それまで閑却されていたヴェルディのマイナー作品――《仮面舞踏会》《ドン・カルロス》《マクベス》など――の戯曲的価値が見直され、ヴェルディ・ルネッサンスが起きるのだが、その中でも《運命の力》ヴェルフェル版はウィーンなど各地で好評を博し、その結果として、序曲後置がドイツ語圏ではむしろ当然となったのである。
 これはワーグナーが《神々の黄昏》の〈ジークフリートのラインの旅〉と〈葬送行進曲〉で完成させた、管弦楽曲を挿入して場面転換に用いる――時空の転移を観客に示すのと同時に、劇的緊張を途絶えさせることなしに装置転換の時間を稼ぐという実用的な意味もある――方式の応用で、《フィデリオ》のレオノーレ序曲第三番挿入などと共通する、ドイツ語圏歌劇場での流行にのっとった方法であった。
 そして、このヴェルディ・ルネッサンスに関わった演出家や指揮者たちの何人かは、ナチス時代にアメリカやイギリスに渡って、この方式をそれらの国にも伝えた。特にメトは、原語上演にもかかわらずその牙城で、たとえば一九四三年、ヴェルフェルの友人ワルター指揮の上演でも、序曲後置が行なわれている(しかしナクソスのCDは勝手に前に移して、歴史を改竄している)。
 もちろん、これはヴェルフェルの個人的発案であって、正当な根拠はないのだが、戯曲的にも実用面でも、効果的な改変であることは疑いないのである。

九月九日(続き)
 夜は高田馬場で飲み会。ベトナムで投資顧問会社を経営している、大学のサークル(音楽同攻会)での同期生が一時帰国したので、同期と後輩六人で集まる。
 一時期は妙に意識して、音楽の話などまるでしなかったのだが、最近は再び、おずおずとするようになっている。表情もみんな柔和になってきたし、年をとるというのは、けっこう悪いことではないのだなあと実感。いちばん年若の一人はまだいろいろと迷いがあるみたいだが、もう少しの時間で、自分の居場所を見つけられるのではないか。

九月十日
 可変日記の四月と五月の分を、縦書き画像から普通のテキストに差し替える。
 古いものが細かく分かれていては煩雑だからまとめたいのと、容量を小さくするためである。
 いまのサーバーの容量は五十MBで、そのうち使用しているのは六MB弱だけだから、まだまだ余裕はあるのだが、ギリギリになってからでは作業が面倒なので、先手を打つことにした(原稿を書くときも、こういう風に先手を打てばよいのだがなあ…)。
 四月と五月の日記は文章量が多いのでテキスト化したら一MBも減った。横書表示になるが、いまさら読む人はごく少ないだろうし、検索などにはテキストの方が便利だから、これでよしとする。
 それにしても、新PCとウインドウズXPの起動時間の速さには感心する。前は初めこそ速くても、ソフトを入れているうちにどんどん遅くなったものだが、今回はほとんど変わらない。これだけでも買い換えてよかった。

 星野が巨人監督にはならないと記者会見。引き受けそうな印象だったし、わたしはなった方が面白いと思っていたので残念。
 巨人OB会なんて組織がまだ厳然と存在していたのには、驚きというより呆れた。他のチームのOB会と違って、ここのOBは自球団に頼らずに、他球団の監督・コーチや解説業で球界に関わってきた実績を持つ人が多いから、口うるささも人一倍なんだろう。でも、いまさら門閥主義を口にするなんて、危機の正体が理解できていないとしか思えない。
 かつて「巨人」の名が持っていた輝きと憧れは、とっくにメジャー・リーグへと対象が移っているのだ。近年の巨人を支えてきた松井も高橋も上原も、巨人に入りたくて入ったわけではない、という悲しい事実をまず見るべきだ。
 OBたちと同じ憧憬を共有するのは、桑田や清原の年代が最後であり、現役の選手(ナガシマという響きに特別の感慨も抱かず、昭和天皇の危険なまでの魅力も知らず、そして皮肉なことに、ドラフト形骸化後の世代)は、もはやほとんど持たない。
 かれらをやる気にさせ、お客が観たくなるような野球をさせるには、どんな監督が必要かを、考えるべきなのだ。原辰徳よりも、優れたアメリカ人監督を連れて来た方がいいのでは(まあ、選手であれだけスカばかり引く巨人の外人検索能力では、大いに不安だが)。

 一球団が全国規模の突出した人気を持ち、その集客力を他球団に分配することで球界が食っていくという図式は、中央の利益を公共事業によって地方に分配する角栄型政治と、よく似ている。これはアメリカや中国のような広大な国土を持たない日本の規模でこそ可能になったことで、国土が小さい故の幸福だった。
 分配という形態そのものは今後も止められないだろう(日本ならではの利点なのだから、それはそれでいい)が、土建屋だけに依存しない、特定球団の門閥主義に依存しない、そういう変化が必要なことは確かだ。
 まあ、その新しい分配法が容易に見つからないからこそ難しいわけで、田中康夫などはその困難を覚って、中央への色気を抱きはじめたんじゃないだろうか。ダムなどの公共事業をただ止めただけでは、地方は枯れる一方なのである。

九月十一日
 八月九日の日記で、ミュージックバードのBBCコンサートで放送するマンゼ指揮イングリッシュ・コンサートによるビーバーの《キリスト復活のためのミサ》のことを取り上げた。そのセッション録音盤(ハルモニア・ムンディ)が発売されていたので、買ってくる。
 ライヴがよかったので期待したが、残念ながら面白くない。いかにも商業録音らしく、すべてが整えられすぎてしまっているからだ。
 シアター・ピース風に農民たちが三々五々教会に集い、ミサを歌い、家に帰って行って夜が更けて、というザワザワした展開がライヴでは楽しかったのに、CDではそうした構成を捨て去り、お行儀よく演奏するだけになってしまった。
 このライヴだけでなく、ORFの古楽ライヴ盤など聴いても思うのだが、古楽演奏は現場ではトラッド・ミュージック的側面が強く出されているようなのに、商業録音ではそれが消えて、いかにもクラシックな印象になる。
 それが商業録音さ、と言われればそれまでだが…。

九月十三日
 ボブ・ディランの『ノー・ディレクション・ホーム:ザ・サウンドトラック』(ザ・ブートレッグ・シリーズ第七集)――このカタカナの羅列、何とかならんのだろうか。こういうのがカッコイイと思っているのだろうか――の国内盤がやっと出たので、買ってくる。
 ディランがフォークからロックへと転身する六〇年代前半を描いたTVドキュメンタリーのサウンドトラック盤なのだが、選曲は番組とは別なのだという(だったら「サウンドトラック」というのはおかしいし、それだけでもカタカナを減らせばいいのに)。
 買った理由は、五月六日の日記で以下のように書いた音源が、CDにあるのではないかと思ったからである。
「ボブ・ディランがメジャー・デビューする前、一九六〇年秋(九月?)に故郷ミネソタの知人のテープ・レコーダーに録音した音源(ディランの録音ではおそらく最古のもの)が、少し前にミネソタの図書館に寄付されたんだそうで、ひょっとしたらその不法コピーが出ているかなと思ったのだ」
 結論からいうと、やはり入っていた。二曲目の「ランブラー・ギャンブラー」がそれである。図書館に十二曲あるうちの一曲だけではあるけれど、とにかくこれで「らいぶ歳時記」(という名前にしてはセッション録音も多いから「録音歳時記」とでも直すか)にディランの名前が入る。よしよし。
 いかにもマニアックな蒐集ぶりと思われるだろうが、こんなふうに網羅的に集めているのは、いまは一九六〇年関係だけである。前はカーネギー・ホールの全ライヴ盤なども、並行して蒐集していたから大変だったが、いつのまにか一九六〇年以外は関心が薄れてしまった。
 ところが今回のディラン盤の貼付シールを見ると、一週間後に発売される紙ジャケ再発盤四枚を合わせて買うと、特典として一九六三年カーネギー・ホール・ライヴの未発売CDがもらえるとある。偶然ながら、これも五月六日の日記でその海賊盤の話をしたものだ。
 うーむ、蒐集退屈男の退屈の虫が…。

九月十四日
 平林直哉さん主宰のグランド・スラム・レーベルの新譜(GS二〇〇八)の広告ページを、当HPに同居させる。わたし自身が直接的に関わってはいないが、URLは下記の通りである。
http://www.saturn.dti.ne.jp/~arakicho/hirabayashi/grandslam2008.html
 アラン・サンダースによる英語解説を公開して、世界の人々にその存在を知ってもらおうというものだ。

 話は飛ぶが、先日どこかの国(中国のようだった)の英語によるネット掲示板に『レコードはまっすぐに』の表紙画像が貼られていて、
「これの原書は入手しにくいのか?」
「古いものなのでそうらしい」
 というような会話がされているのを発見した。
 ――なぜ日本では、今頃こんなものが翻訳出版されているのだ?
 なんて、あの表紙画像を眺めながら首を傾げている、いずこの国の誰とも知れぬ人々のことを想像していたら、なんだか愉快になった。

九月十五日
 ノリントンの新譜、マーラー《巨人》を聴く。
 その前に出たメンデルスゾーンの交響曲集がまるで楽しめなかったため、期待と不安半分で聴いたが、これはいい。折よく『レコード芸術』の担当氏からメールが来たので、返信ついでに尋ねてみたら、まだ「海外盤試聴記」で他の方からの「予約」は入っていないそうなので、書かせてもらうことにする。
 ところで、去年の日本公演でこの曲を演奏したときには、食指が動かずに行かなかった。
 これなら聴いとくべきだったか、などと思ったのだが、鈴木敦史氏の新著『私の嫌いなクラシック』に、これをナマで聴いたとき、実際に指揮ぶりを目にすると、その仕掛け――CDで聴くときには楽しめたもの――がむき出しになってしまうようで、興醒めしてしまった。指揮者もまた、醒めていたようだった、という意味のことが書かれていたのを思い出した。
 ノリントンの指揮ぶりはユーモアがあって楽しく、わたし自身は今後も接したいと思っているが、かれのしぐさが独りよがりに陥る危険と背中合わせであることは、鈴木氏の指摘する通りだと思う。ノリントンではCDの方が、ナマよりも演奏そのものの面白さに集中できることは、わたしの場合は疑いない。それは、去年聴いた二回の《田園》交響曲――東京と横浜で、かなり雰囲気が違っていたが――でも感じたことだった。だから《巨人》の場合も、CDで初めに聴いたから楽しめたのかもしれない。
 だが、ナマの優位が叫ばれて久しい現代の東京で、あえてレコードならではの楽しみを説くことは、典型的なコミュニケーション不全患者だと、蔑まれるかもしれない。
 たしかに「レコードの快感」を、現代のメールや以前の電話など「非対面型」の通信手段が持つ独特の楽しさや親密さと似ているといえば、いかにも現代人がその孤独から逃避するための道具、という印象が強くなる。
 だが、非対面型通信はけっして現代だけの現象ではない。
 文字やそれを記した書物こそ、その元祖なのだ。この非対面性――人間の肉体から切り離されていること――が、まさに思考の深化と文明文化の進歩発展を促してきた、と考えることもできるのだ。
 ナマが容易にいくらでも楽しめる現代の東京にいるからこそ、あえてレコードの意味を、代用品ではないその意義を、再評価する余地があるかも知れない。
 もちろん、肉体からの切り離しは、生命力の喪失に容易に直結する。その失敗例がマンゼの《キリスト復活のためのミサ》などの、多くの凡庸な商業録音だ。そうした、干からびたレコードを誉めようとは思わない。
 わたしが考えているのは、レコードでしか感じられない、肉体性抜きでの呼吸の一体感とか、そんなことである。

九月十七日
 高田馬場で『レコ芸』担当氏と、打ち合わせをかねて一杯飲む。話はノリントンの《巨人》ではなく、読売巨人軍のことになり、
「徳川幕府とは絶対権力者ではなく、三百諸藩の中の最大のものというに過ぎないと多くの人が気づいたとき、明治維新が始まった。巨人も、十二球団の中の大なるものというに過ぎないのだ」
「幕府の地位の相対化を促したのは、その上に君臨する天皇の権威を再発見したことだ。それと同じくプロ野球改革に必要なのは、コミッショナーの権威化だ」
などと、歴史好き酔っ払いの典型的な与太話で盛り上がる。

九月二十日
 今月の『レコード芸術』を読んでいたら、巻末に「音楽年鑑休刊のお知らせ」が出ていた。個人情報保護法の施行により、「音楽関係人名簿」の掲載が難しくなったためという。
 一九六〇年関係のことを調べるとき、当時の音楽年鑑は、使い勝手のいい大切な資料である。一年の出来事が簡潔にまとめられていて、そして何よりも、一年間の演奏会記録がまとめて載っているのが便利だった。もちろん、月刊『音楽の友』の記事に比べれば曲目などの情報が少ないのだが、『音楽の友』は当然のことに月単位の記載だから、一年通して(正確には刊行の二年前の年の後半から、その翌年、つまり刊行の前年の前半まで)の大きな流れを眺められる音楽年鑑には、別の利点があったのである。
 それに上野の音楽資料室では『音友』などの雑誌類は倉庫にしまわれていて、一々出してもらわなければならない――司書のオジサンたちは露骨に面倒そうな顔をする――のだが、年鑑は開架部分に陳列されていて、気軽に見ることができた(たぶん、何よりもこのために音楽年鑑に親近感を抱くのだ)。
 しかし近年は版を大きくしたにもかかわらず、演奏会の数が多すぎるためか、演奏会記録は省かれて、個人と団体の住所録がメインになっていた。住所録なら毎年出す必要はないわけで、休刊の決定も仕方ないのかも知れない。
 情報が多すぎる現代社会では、年という単位が間尺に合わなくなっているのだろう。

九月二十六日
 四谷の良心、と秘かに呼んでいた書店が、二十四日に突如閉店してしまった。
 四谷駅前の飲食店街、新道通りにあった「文鳥堂」である。山の神によると、かなり以前からある老舗らしい。
 隣の通りに、郊外型大規模書店の都会版(変な言い回し)みたいな書店があって繁盛していたので、以前から危惧していたのだが、とうとうこの日がきた(といっても、金銭的理由なのかどうかは知らない)。
 文鳥堂はクラシックなど、芸術社会人文関係の単行本が充実しているのが魅力だった。わたしが歩き回る範囲内では、他にそうした明確な個性を持つ書店がなかったので、勝手に「四谷の良心」と呼んでいたのである。
 本とは、店頭で「出会う」ものだ。ネットや書評などの情報が、それに取って代わることはない。文鳥堂が消えたからには、何であれ専門的な単行本を手に取るのに、新宿の紀伊国屋やジュンク堂まで地下鉄で行くしかないことになった。
 仕方がない。ともかく、文鳥堂さん今までありがとうございました。特にここ数か月は、拙訳や拙著が平積みされて、気恥ずかしくも嬉しかった(客のふりをして売れ行きをたずねたら、あまり売れてない、と言われてしまったけど。お役に立てなくて申し訳ない)。

九月二十八日
 楽天の田尾監督が解任された。
 Jリーグの神戸の監督人事もそうだが(レオンとか)、三木谷というオーナーのスポーツ人事は、ひどく安易である。
 わたしのような素人でも知っている、名前がある程度売れた人をチョコチョコと連れてきては、結果が出ないとポイ。今回も「ヒロオカ」にフロント入りを要請したが断られたので田尾を馘首して、「ノムラ」を招くという。一代で大企業をつくった人物に、人を見る目がないとは思えないのだが、ことスポーツに関しては、そうとしか考えられない。
 しかし楽天以上に気分が悪いのは、シダックスのこと。「ノムラ」を取られたら、シダックスの野球チームは宣伝効果がなくなるので廃部すると、シダックスの会長が語ったそうだ(本日の東京新聞朝刊)。道楽ではやれないからという。
 こんなチームに属した選手も大変だ。トスカニーニ引退と同時に解散させられた、NBC交響楽団の末路を連想してしまった。トスカニーニはかれらを心配して引退を何度かためらったそうだが、「ノムラ」はプロ野球に戻って、栄光を奪還する気らしい。企業に翻弄される選手たちのことなど、関係ないらしい。
 わたしの父は仙台人である。わたしの知るかぎりの仙台人は、功利主義を嫌う人が多かった。かれらは、こうした一連の動きをどう思うだろう。
 まあ、今の仙台は人口が飛躍的に増加して、都市化の悪い面がつよく出ているようだから(運転マナーの悪さなど)、違ってきているかも知れないが…。

十月四日
 ミュージックバードのスペシャル・セレクション収録。今回が構成デビューとなる矢澤孝樹さんの選曲で「イタリア・バロック」特集である(十一月二十一日~二十六日放送予定)。偶然ながら『レコード芸術』でもバロック特集が組まれていて、矢澤さんはそこでも大活躍だったが、いわばそのラジオ版。
 午後は自分のしゃべりで、BBCコンサートを二本録る。十月後半のラトル特集だが、ベルリン・フィルとの《合唱》交響曲の終楽章が滅法面白い。ウィーン・フィルとのEMI盤よりも表現が徹底している。最近聴いたアンスネス独奏、パッパーノ指揮のラフマニノフのピアノ協奏曲第二番のCDでも痛感したことだが、ベルリン・フィルは明らかに「俊敏様式」のオーケストラへと、自発的に変貌したようだ。

十月七日
 このところ、NHKの衛星第二でやっていた成瀬巳喜男特集に山の神が入れ込んでいるので、つられてたくさん観る。
 じつはわが家では、先日までテレビの衛星放送が見られなかった。だが、先日VHSからハードディスク・レコーダーに買い換えたら、ずっと前から衛星放送も視聴可能だったことが判明した。
 といってもアンテナがあるわけではない。ケーブルテレビの一番組として見られるのだ。十年近く前、例の巨大アンテナが市ケ谷駐屯地(現防衛庁)に建てられたさい、家の近辺は電波障害の可能性があるということで、防衛庁側が負担してケーブルテレビ化されたのだ。ところが当時まだ元気だった山の神の亡母が、その利用案内などを捨ててしまったために、いったい何が映るのか、まるでわからなくなっていたのである。
 しかし今の機械というのは便利なもので、チャンネル自動検出という機能がついていて、勝手に調整して視聴可能なチャンネルを探し出してくれる。それで、衛星第二が「発見された」というわけなのである。
 そこで、今までまるで接する機会のなかった成瀬映画を続けて観たのだが、たしかに評判通りの傑作が何本もあった。
 一本一本の素晴らしさは今さらいうまでもないことだけれど、続けてシリーズとして観て印象的なのは、やはりそこに記録された昭和二十~三十年代、高度成長期以前の東京の景色と風俗だ。
 次第にアメリカナイズされる世相を背景に描かれる、花柳界(流れる)や銀座のクラブ(女が階段を上がるとき)、それに鎌倉や世田谷のさまざまなサラリーマンの日常生活(山の音、驟雨など)。あのころの「クリスマスと正月」が持っていた不思議なまでの高揚感も、ばっちり入っている。子供だったわたしもかろうじて匂いをかいでいる、あの時代。
 映画同士でも、わずかな年月ながら変化が感じられる。昭和二十年代後半の数本の作品に続けて、昭和三十五年(一九六〇年だ)の『女が階段を上がるとき』を観ると、脇役たちの下顎から首筋あたりの脂肪が、明らかに丸く増しているのがわかる。その七、八年で、栄養事情がぐんと良くなったのだろう。
 一方、時代と成瀬美学とが加速度的にずれを増していく悲劇も、そこから見てとれる。東京とその近郊にこだわってきた成瀬が、スーパーマーケットの進出で脅かされる旧来の商店街を舞台にした昭和三十八年の『乱れる』で、清水市(いまは静岡市の一部になってしまった…)をロケ地にしているのは、もはや成瀬の欲しい風景が、東京にはなくなってしまったからではないだろうか(じつに暗示的なことに、衛星第二は成瀬映画と並行して「寅さん」ものを放送している。この一九七〇年代の「寅さん」では、葛飾柴又という、東京では辺鄙だった場所を主舞台にして、さらに寅さんには日本の地方を歩かせている。「かつての日本」を『乱れる』よりも、さらなる田舎に求めざるを得なくなっているのだ)。

 あと、『浮雲』の恋の発端が仏領インドシナだというのも、とても興味深かった。敗戦後の、貧窮して自信を喪失した日本での物語が、執拗に回想する「失われた楽園」としての仏印。
 これは片山さんに教わったことなのだが、戦前の日本には、植民地を満州方向に求める北進論と、南洋に求める南進論とがあった。いまは北進論の方だけが(実際に満州帝国があったこともあって)話題になりやすい。だからもし今『浮雲』的物語を誰かが書いたら、舞台は満州から蒙古にかけての草原地帯になってしまうかもしれない。しかし、当時はその対抗馬としての南進論、というか「南洋への憧れ」があったのだ。
(余談だが、北進論の象徴が奥九郎義経=ジンギスカン説であり、南進論の象徴が鎮西八郎為朝=琉球王説だった。面白いのは、ともに清和源氏であることだ。外征してまつろわぬ夷を平らげる、天皇の血を引く武人。このイメージの原型はいうまでもなく日本武尊である。肉親に疎まれ、悲劇的な最期を遂げる点まで、この三人は共通している。蒙古や琉球は伝説としても、義経が奥州、為朝が九州と、ヤマトタケルゆかりの夷の地に関係づけられていることは史実だ。このあたりに、源氏とは何か、すなわち、なぜ征夷大将軍――外征してまつろわぬ夷を平らげる、天皇の血を引く武人――は源家の棟梁でなければならないか、を考えるカギがありそうだが、それはまた別の機会に)
 その、戦前の日本が抱いていた「南洋への憧れ」を、『浮雲』が物語の発端としているのは、実に暗示的だ。南進論は欧米帝国主義と直接に覇を競う結果を招く。「鳥なき里のコウモリ」的な北進論よりもはるかに、西欧文明との直接の対峙を求めるのである。そして太平洋戦争となり、日本はコテンパンに負ける。そして夢破れた敗戦直後の日本各地で『浮雲』は展開する。
 最後が雨ばかりの屋久島というのは、南進論のグロテスクでちゃちな再現、なれのはてということなのか。外界への憧れを象徴する仏印と、日本のどん詰まり的な屋久島とでは、方角は一緒でも閉塞感がまるで違う。
 しかし南方への道は、けっして閉ざされたままではなかったはずだ――この映画の頃から高度成長が始まり、商社マンたちが東南アジアへ経済的進出を、新たな南進論を実現していくのだから。
 それまで並行していた日本と主人公たちの運命はここでずれて、ヒロインの死という終末を迎える。時代状況とずれてゆく個人への、挽歌。
 そう、わたしにとっての成瀬映画とはさまざまな意味での「挽歌」だ。

十月十一日
 ミュージックバードのスペシャル・セレクション収録。今回は特殊で、拙著『名指揮者列伝』の内容にそって、その演奏をわたしが紹介するというもの(十一月十四日~二十一日放送予定)。普段はプロの寺澤京子さんにお願いしているナレーションの代わりに、わたしが勝手にしゃべるのだ。
 四十人をまとめてしゃべると、個別に考えたときとは別の発見があって面白かった――たとえば、オーマンディとバルビローリとベイヌムの三人、すなわち強烈な個性をもつ先輩たち、ストコフスキー、トスカニーニ、メンゲルベルクの後継者として揃って苦労した三人が、ほぼ同い年であることなど。
 しかし、一人で三時間近くしゃべり続ける(音楽抜きで解説のみを先にしゃべるため)ことのノドへの負担は、想像以上のものがあった。結局、木曜日までの四日分をとったところで肉体的限界となり、残りは金曜日に改めて録音することになる。いまさらながらに、声を仕事の道具としている方たちの凄さを実感。

十月十五日
 東京芸術劇場での『山田耕筰の遺産』を聴きに行く。湯浅卓雄指揮の東京都交響楽団と、長唄囃子連中などの共演によるもの。
 前半がベルリン留学時代の、純西洋音楽式の管弦楽曲(交響曲《かちどきと平和》や交響詩《曼陀羅の華》など)で、後半が帰国後の長唄交響曲《鶴亀》と交響詩《明治頌歌》。
 現代のわたしたちの生活の、不思議さを思う。こうして音楽を聴くとき、わたしにとっては留学時代の純西洋風の山田の作品の方が、後半の曲よりもはるかに居心地よく聴いていられる。後半の、邦楽と洋楽を混交する長唄交響曲の、どうにもならない気色の悪さは、何なのか。
 邦楽は邦楽で素晴らしいものだし、洋楽は洋楽でいい。なぜ単独にせず、混ぜるのか。普段は、外来語を混ぜた日本語を話し書き、箸を使い、靴を脱いで家に「上がる」生活をして、和洋折衷の生活をしているくせに、長唄交響曲には耐えられないものがあった――篳篥が入るだけの《明治頌歌》や、武満の《ノヴェンバー・ステップス》などなら、別に気にならないのに。
 あるいは、邦楽が長唄、三味線、囃子と揃って、アンサンブルとしての完結性と完成度が強まっていたからか。邦楽の独奏楽器が一つか二つ西洋のオーケストラに混ざるのと、二群のアンサンブルが衝突するのとでは、齟齬の度合いが桁違いなのかもしれない。
 和洋折衷といったって、箸でハンバーグを食うのは気にならないが、本格的な懐石料理とフランス料理のフルコースを同時に出されたら、きっといやだろう。そんなものだろうか。
 ところでこの長唄交響曲は、昭和九年初演。会場で会った片山さんによると、橋本国彦が同種の作品をその三年前の昭和六年に作曲しているという(折よく、十一月に芸大で演奏されるそうだ)。
 満州事変の時期に、こうした曲――独奏楽器ではなく、和洋のアンサンブルを合わせる曲――が作られたのは、ただの偶然なのか、それとも何かあるのか。
 西欧型近代帝国主義を、日本風に消化しようとしている時代である。個人の教養の問題ではなく、システムとして。
 考えすぎかもしれないが、いちおう後日への宿題にしよう。

十月十七日
 十五日の日記で「後日の宿題」とした長唄交響曲とその作曲当時の社会との関連につき、斉諧生さん(いうまでもなくあの瀟洒にして有益なサイト「斉諧生音盤志」の主宰者であられる)から、早速示唆に富んだ情報を教えていただいた。

 ご情報とは、建築の分野での「帝冠様式」のことである。
 これは昭和の初めから十年代にかけて日本で流行した様式で、簡単にいえばコンクリート製の西洋式のビルに、日本の寺院や天守閣のような大屋根や破風をのせた、和洋折衷のものだ。
 官庁や博物館など官製の建物がほとんどで、東京で現存するのは九段会館(旧軍人会館)、ほかに愛知県庁、神奈川県庁などがあり、また旧満州にもいくつか残っているという。検索サイトで調べれば、それらの写真をたくさん見られる。
 「帝冠様式」という名は、それらの建物の多くが、昭和天皇の即位を記念して建てられたことに由来するらしい。
 昭和の新しい御代を迎えて、それまでの鹿鳴館式の西洋への盲目的な追従、文明と文化をごっちゃにして猿真似してきた明治~大正の姿勢を反省し、千年の歴史をもつ自国文化を近代社会に復活させようという動きだったとされる。
 満州国の官庁に帝冠様式が多く用いられていることを知ると、国粋主義や軍国主義に直結させたくなるけれど、どうやらそう単純なものではなかったらしい。というのは、帝冠様式はけっして為政者や軍部が強要したものではなかったらしいからだ。むしろ、当時の建築家たちの方が積極的に用いたがったという。
 つまり、西洋追従の尖兵となってきたインテリ層こそが、ここで和洋折衷を望んだらしい。インテリたちはその高い教養によって、西洋文明の――少なくとも物質面における――絶対的優位を確信していたはずだが、無制限の西洋化には懐疑的になっていたのか。
 だから、理想をいえば西洋文明の上に独自の和風文化を乗せられればいいのだが、文明というのは目に見えにくいし、固有の文化とは切り離しにくい。そこでとりあえず、目に見える西洋文化の上に日本の文化を「かぶせる」ことになったのではないか。
 その、現代から見ればエキゾチックな印象さえある和洋折衷様式には、たしかに長唄交響曲と共通する気分がある。昭和初年という同時代だし、音楽家山田耕作もまた、洋行帰りの典型的なインテリなのだ。帝冠様式と長唄交響曲とは、まさに同じ、昭和初期という時代精神が生んだもの、と考えてよいのではないか。
 その意気や良し。しかしまあ、はっきり言えば鵺(ぬえ)じみている。《鶴亀》じゃなくて《鵺》だ(そういえば、鵺を退治したのは源三位頼政、ヤマトタケルの再現者たる源氏の一門だった。関係ない――いや関係ある?――けど)。

 ともあれ楽しい「頭の遊戯」。示唆してくださった斉諧生さんに感謝。帝冠様式のことは何かで知っていたはずだが、教えていただくまで結びつかなかった。まったくネット上だけの交流で、お会いしたこともない。しかしそれゆえこその喜び。本当の意味は違うけれど、
「朋あり遠方より来たる」

十月十八日
 ミュージックバードにてスペシャル・セレクション収録。構成デビューの前島秀国さんによる「コンポーザー・コンダクター特集」(十二月五日~十日放送予定)。面白いナレーションをいただいたのに、放送時間の関係でいくつかカットしなければならなかった。残念。

十月二十日
 締切りをとうに過ぎていた、テンシュテット/LPOによる一九八四年来日公演ライヴ盤、《未完成》&《ロマンティック》のライナーノーツをようやく仕上げて、TDKコアに送る。
 同じときの大阪公演で、マーラーの五番を聴いたある妊婦の方の「演奏中お腹で子供が動いていた」という発言が妙に耳に残っていた――うごめく胎児というイメージが、何かテンシュテットのマーラー演奏にぴったりと合っていた――ところ、二十年後の昨年末、ある場所でその胎児の成長した姿に出会った。なんと某音大でピアノを学ぶ二十歳の若者になっていた、という話を含むもの。
 胎児が成人するだけの時間が経過したのに、スピーカーから出てくるその音は優秀にして新鮮。デジタル文化の玄妙さである。
 考えてみれば、文字というのは話し言葉を記号化するという点で、デジタル文化の原点である。記号になることで、色褪せぬまま数千年の時を越え、無数にコピーされていくのが、文字の力。デジタル化された音や映像は、その意味で文字に近づいている、ということか。

十月二十二日
 紀尾井ホールで行なわれた、第四回グレート・マスターズ・コンサートを、さる方のご厚意によりご招待いただいたので、聴きに行く。
 日本音楽界の大ベテランたちによるコンサートで、九十歳代二名、八十歳代四名、七十歳代四名、六十歳代二名、合計すると九百歳を超えるというメンバーによる演奏会である。
 世界一の長寿大国でありながら、こと演奏家となると、スポーツ選手のように演奏の第一線から離れてしまう方が多いだけに、その演奏をナマで聴ける機会はまことに貴重。チケットは毎回売切れており、実際の客席もほぼ満員という盛況が続いているという。
 最年長の松本善三さんは、九十四歳のヴァイオリニスト。一九三四年にウィーンへ留学してフルトヴェングラーやクライスラーをナマで聴かれ、また数多くの弦楽四重奏曲を日本初演してきた、生ける伝説のような方。
 数年前に少しだけお話させていただく機会を得たが、お体同様に衰えを知らぬ明晰な頭脳と、ご記憶の確かさに驚かされた。今年も変わらずお元気で、カルテットの第一ヴァイオリンとして、シューベルトの四重奏断章を奏かれた。
 一九六〇年に倉敷の大原美術館で初演された、黛敏郎のチェロ独奏曲《文楽》を、世界初演者である松下修也さんのチェロで聴けたのは意義深い体験だった。聴きながら、この時期の黛敏郎の「日本回帰」についても、あらためて考えてみる必要があること――昭和初期の帝冠様式などと比較して――を思った。
 ほかにも、人前で演奏するのは約十五年ぶりという江戸京子さんのドビュッシーは、ギーゼキングばりの明晰な、あえていえば男性的な響きによるもの。また藤原義江、三浦環、平岡養一などの伴奏を務めてきた八十四歳の田中園子さんのイタリア協奏曲は、気持ちのいいリズムと声部の掛け合いが素晴らしかった。
 とにかくみなさん、曲頭が不安定なのは仕方がないとして、進むうちに温もりがその音から漂いだすのが、とても心地よかった。司会の後藤美代子さん――わたしの中学の同級生のお母君でもある――のお声も、昔のままだった。

十月二十三日
 夕飯を安くあげようということで、四谷三丁目の「大戸屋」に山の神と行くことにする。
 ここは料理人(というか盛りつけ人というか)に腕のいい人がいて、廉価のチェーン店なのに割といけるのである。ただ、別のオバチャンがやってしまうことがときにあり、そうすると生気を失ってうずくまったような盛りつけの、具材の味がすべてバラバラな水っぽい料理が出てきて、同じ商品とは思えないものを食わされることになる。
 今日ははたしてどちらやら、などと思いつつ覗くと、これが満杯で入れない。日曜夜、勤め人が少ないはずの日でこれである。マンションやミニ建売りなど、四谷三丁目の「住人」は確かに多くなってきた。子供の数も増えている。その証拠にここの大戸屋のメニューからかつては削られていた「お子さまランチ」が、今ではちゃんと売られている。
 このあたりのマンションを買えるのはそれなりに裕福な層――自慢じゃないがわたしにはとてもムリ――だろうが、一瞥した印象がそうは見えない人たち(つまり失礼ながら、わたしの仲間たち)もたくさんいる。金持ちにかぎらず、山手線の中に人間が戻ってきて、住みはじめているのはどうやら間違いない。
 お陰で四谷三丁目は色々な店が増え、わたしが来た五年前よりも、確実に便利になった。わずか四百八十円で絶品のペペロンチーノを食わせる喫茶店もある。絶品とは味の問題ではない。もっと料理らしいペペロンチーノはいくらでもあるだろうが、本来まかない飯として生まれたペペロンチーノらしく、安くて単純なのにけっして飽きが来ないという点で、絶品なのだ。
 ただし、ここも店主が忙しいときにかぎるという条件がある。そういうときは見事なアルデンテの麺が出てくるが、逆にヒマだからと念入りに作られたりすると、のびたウドンみたいのを食わされることになる。他の仕事に追われているときだけ美味い、という店なのだ(わたしの原稿が締切りに遅れるのも、それに倣っているからである、などといってみたいものだなあ!)。
 一方、どんどん不便になっているのは隣のJR四谷駅周辺。相変わらず勤め人相手に平日だけ開ける店ばかりだから、休日は真っ暗。銀行も次々と消え、ついには文鳥堂まで消えて、本当につまらない町になりつつある。

十月二十四日
 マゼール&トスカニーニ・フィルのベートーヴェン演奏会を聴きにサントリー・ホールへ。
 ピアノ協奏曲第三番の独奏の上原彩子は、ピアノの音そのものにはハッとするような魅力はないのだが、第二楽章やアンコールのチャイコフスキーの《十月》のような音楽での大づかみの叙情がよかった。ただ第三楽章などはとにかく懸命という印象で、スケールが小さくなってしまった。
 マゼールの主張が明確だったのは後半の《エロイカ》で、とにかくいろんな音が透かし絵のように、あちこちから聴こえてくる。バランスを把握しつつ、特定の楽器群をここぞという箇所で浮かびあがらせる才能、コントロール能力は尋常のものではない。
 しかし、その音はとても粘っこくて重い。明るく、よく歌うオーケストラだが、べったりと弾まないのは、マゼール独自のものなのだろう。いうまでもなく、かつての荘重様式に属している音楽。
 あとで思い出したが、わたしが生まれて初めて行った外来オーケストラの公演は、マゼール指揮ウィーン・フィルの一九八〇年十一月二日(日付は、あいざーまん氏のサイト「海外オーケストラ来日公演記録抄」による)の、東京文化会館公演だった。
 マゼールをナマで聴いたのは《死と変容》や《新世界》が演奏されたあの日以来、ちょうど二十五年ぶりである。シルヴァー・ジュビリー・マゼール…。

十月二十五日
 某ショップから、一九六〇年エクス=アン=プロヴァンス祭での上演をテレビ収録した、グノーの歌劇《いやいやながら医者にされ》のDVD・Rが届く。
 DVDプレーヤーでは、なぜか再生開始後数分で停止(どころか電源まで落ちる)をくり返したので慌てたが、パソコンでは無事再生できたので一安心。
 さて、一九六〇年のコレクションも数が増えて、当時の有名な音楽祭は、そのほとんどが何らかの形で録音録画を入手できている。その中でほぼ唯一、欠けていたのがエクスの音楽祭だったのだが、これでようやく埋まることになった。
 一九五〇年代に音楽祭の立役者だったロスバウトがこの年は出演せず(理由不明)、エレーデ指揮の《フィガロの結婚》とギーレン指揮の《ドン・ジョヴァンニ》など、四演目が上演されたうちの一つである。プレートル指揮のプーランクの《人間の声》との二本立てになっていたが、映像は残念ながらグノーのみ。ボドが指揮をし、若きアルヴァなどが出演している。
 正規のものではないから仕方ないとはいえ、映像はテレシネ装置でフィルムに映したものをさらに劣化コピーしているから、貧弱どころではない。しかし音声は意外としっかりしている。
 それにしても、やっと手に入った音楽祭がいきなり映像で登場とは驚いた。これまで入手した一九六〇年のオペラ映像はスタジオ収録がほとんどで、劇場からのライヴ中継はミュンヘンの《アラベラ》くらいしかない。しかもエクスの会場は大司教館中庭の半野外公演だから、劇場よりも制約が多かったのではないか。
 しかし劇場公演は、プレスコ(いわゆる口パク)で迫力に乏しいスタジオ収録よりも格段に動きが面白く、またDVDのデータが不備な場合でも、手持ちの資料で日付や出演者を特定しやすいという利点がある。この公演も当時の『OPERA』誌で調べたら七月十六、二十四、二十九日の三回のいずれかであることが判明した。
 スタジオ収録は、付録データがいい加減だとお手上げである。同時に購入した《ファルスタッフ》は残念ながらその一例。ミラノRAIの収録で、セラフィンの指揮(見事な俊敏様式!)で外題役がタデイ、それにアルヴァ、カルテリ、バルビエリ、モッフォ――ナンネッタ歌いとしては天下無敵――に、演出がヘルベルト・グラーフと、ヨダレが出るようなメンバーなのだが、一九六〇年とあるだけで月日は不明。
 個人的な皮膚感覚かも知れないが、月日のわからない録音録画というのは、同じ一九六〇年ものでも、どういうわけか親愛度が薄くなる。隔靴掻痒の感が残るのだ。どうにかしてデータを調べよう。しかしできれば、正規発売してほしい。それだけの価値のあるものだ。

 日本シリーズがつまらない。ノッているというより、心が澄んでいる、頭が冴えているロッテと、首をかしげながらの阪神では勝負にならない。
 三戦目の今日は、満塁ホームランが出て十対一になったときのバレンタインの興ざめしたような、つまらなそうな表情が印象的だった。キレて投手交代が遅れる岡田采配に呆れているのかどうか知らないが、少なくとも、喜びを隠して無表情をよそおっているとは見えなかった。ゲームが壊れたことに、がっかりしているようにしか見えなかった。
 選手会の案のように、シーズン優勝は優勝として定め、あらためて一、二位の四チームが、たすき掛けでポスト・シーズンを戦う形式にした方がいい。二年続けて、単にいちばん試合数の多いチームが日本一になるだけではつまらない。

十一月一日
 ミュージックバードにて、スペシャル・セレクション収録。
 今回はわたしの構成で「フルネへのオマージュ」。放送は十二月十九日から二十四日の予定で、フルネの東京都交響楽団との引退演奏会に合わせてある。
 ただ放送まで一か月半もあり、その間に何か不測の事態が起きないとも限らないので、演奏会の告知などは避ける。収録を放送直前にすればよいのだが、番組の性質上、曲目の告知を早めにしなければならないので、収録も早いのだ。
 一九五五年ライヴの《セビリャの理髪師》のフランス語版という珍しい盤を入れる。これは十五年くらい前にフランスのBOURGから出ていたもので、最大の特徴は、レチタティーヴォを削除してセリフに変え、原作のボーマルシェの戯曲そのものから転用していることだ。
 これはオペラ・コミーク版と呼ばれるもので、この歌劇場――フルネは一九五五年まで芸術監督だった――では地のセリフを使用することが規則(慣習?)となっていたため、このような奇妙な改変をしたのである。《ファウスト》や《カルメン》にあとからレチタティーヴォを付けたのと、ちょうど逆の改変だ。パリ・オペラ独特の、官僚的形式主義の貴重なドキュメント。
 フルネが一九五八年の初来日で《ペレアスとメリザンド》を日本初演したときのペレアス役、ジャンサンがフィガロを歌うのも、偶然の一致で楽しい。

十一月二日
 わたしの職業は「プロクラオタ」。つまりプロのクラシックおたくである。おたく的作業――生産的ではない、ゼニにならないものとされる――をして、ありがたいことにお金をもらっている。
 しかも危険極まりないことに、お小遣い稼ぎの副業ではなく、クラオタ専業である。刹那の安逸を貪るキリギリスそのものだが、まあ一応はプロである。
 ところが、拙ページ内の「らいぶ歳時記」というのは、アマチュアのクラオタだった頃の「道楽的要素」が、いちばん残っている部分だ。いじくりだすと本当に止まらなくなる。しかも、いくらやっても終わりがない。
 だが困ったことに、そんな時間は何よりも楽しい。というわけで、「一九六〇年蒐集鬼」としてのオタ話を二つ。

 その一。三月分を掲載するためにチェックしたとき、買ってあったつもりで未購入のセッション録音盤が、たくさん見つかる。アメリカ・ソニーの廉価盤がほとんどで、この類はレコード店の店頭でも切れていることが多いから、某通販サイトで検索してみる。すると副産物で、現在はCDがないと思いこんでいたジョージ・セルの《未完成》が、国内盤の方で生きていることを発見する。
 九五年に出た[SRCR九八五二]という、《グレート》と組み合わされた一枚なのだが、五年後の二〇〇〇年に《グレート》だけ同一のジャケット写真のまま、ロザムンデとの組み合わせで再発売されている。だから、十年も前の《未完成》つきの盤の方は(店頭でも見かけないので)品切れだと思いこんでいた。
 ところが、サイトの発送状況には「五~六日」とある。なぜ前に検索したとき気がつかなかったのか不思議なのだが――輸入盤しかないはず、と思いこんでいたのか――とにかく注文。数日後、平然と送られてきた。唖然。
 店頭にないものが入手可能かどうかすぐにわかるのは、ネットゆえのありがたさ。昔ながらのレコード店経由の注文だったら、面倒くさくて在庫の確認さえしっこない。「あるかどうかわかりませんけど」とか、店員に釘を指さされただけで、心が挫けてしまうに決まっている。

 その二。逆に、店頭でないと気がつかない例。
 クラシック売り場で買い終え、なんとなくエレベーターではなくエスカレーターで降りる。で、何となくサントラ盤売り場に寄る。で、サントラ輸入盤を見てからなんとなく後ろを振り返ると、国内盤の色物系(というか、Jポップでも歌謡曲でもない、効果音とか運動会の音楽とか落語とか)のコーナーに、志ん生の今まで見たことのないシリーズの背表紙が目に入る。
 ポニーキャニオンの、昔からある志ん生シリーズ(五十枚くらい)が、新装発売になったらしい。帯に麗々しく「ニッポン放送に残る放送音源にまで遡り、リマスタリングしました」とある。
 クラシックでは「リマスタリング=進歩」とは限らないと散々教えられているのだが、こう書かれるとウズウズするのが悲しい性。前のはカセットやLP時代そのままの体裁で、音源の扱いも適当そうだったし…。今回初めて「昭和三十五年七月二十七日」と、日付まで表示された『牡丹燈籠 お札はがし』の入った盤など、未入手やそれに準じる数枚のみを購入する。
 志ん生の『お札はがし』は、以前のポニーキャニオン盤も持っていた。圓生の同じ噺が大好き――闇に響くカラーン、コロンという下駄の音の怖さと、「伴蔵さん、どうしてお札をはがして下さいませぬ」という亡霊の、恨みのこもった言葉の凄味が、圓生だとほんとにゾクッと来る――なので、志ん生のも聴き比べてみようと買ったのだが、それには「昭和三十二年七月録音」とあった。
 ところが今回録音年が訂正され、放送日が表記されたら、予想外のことに「待ってました」の一九六〇年に収まってしまった。こんなふうに「フタを開けたらこれも一九六〇年」という偶然が多発するのが、一九六〇年蒐集の醍醐味だ。
 一九六〇年とは、じつに玄妙な「総てが収まった、音の箱庭」なのである。
 さて、志ん生の『お札はがし』自体はよくも悪くもこの人らしいもの。音だけで死霊の世界への想像力をかきたてる、圓生の語り口とは対照的に、まるで人情噺みたいでさっぱり怖くない。しかも、牡丹燈籠が闇に浮かぶまでの前半部分を話すだけで、肝心要の「お札はがし」の逸話は端折られている。
 これに限らず、わたしは志ん生の芸にもう一つ夢中になれないのだが、この新装シリーズが示すように、一般における人気は現在もなおずば抜けて高い。長嶋茂雄の魅力にも一脈通じる、トリックスター的な人気なのだろうか。
 だとすると、わたしはトリックスターには興味が少ない質なのかもしれない。

十一月五日
 銀座にて、日本経済新聞の池田卓夫さんの取材を受ける。CD界のライヴ放送録音の隆盛について、勝手にしゃべる。
 続いて、池田さんとその奥様と三人で歓談。池田さんは大学のサークルの四年先輩(つまり入れ違い)、奥様は一年先輩である。とはいえ、奥様ときちんとしゃべるのは、大学時代以来二十年ぶり。

 あくまでも酔ってのバカ話だが、オランダ人の指揮者たちには何度も結婚している連中が多く、一方フランスのパリ音楽院のピアニストたちのある学年には、ゲイがとても多かった、などという話題でもりあがる。
 ということはつまり、指揮者には「女たらし」が多く、ピアニストには同性愛者が多いのか。また、プロテスタント圏には「女たらし」が多く、カトリック圏には同性愛者が多いということなのか。
 指揮者とピアニストの違いを、端的に示しているようでもあり、プロテスタントとカトリックの違いを、端的に示しているようでもあり。
 根拠はないが、けっこうそれぞれの性格の相違を言い当てているような…。

十一月七日
 また、一九六〇年オタ話。
 キングレコードから、一九六〇年七月発売の『勧進帳』の録音日についての、回答がメールで来る。
 この『勧進帳』はCDになっていて、何度か誌面で紹介したことがあるが、人間国宝級を揃えた長唄囃子連中が、圧倒的に素晴らしい一枚なのである。客抜きのスタジオ録音であることが、役者たちにとっては不利に作用している――ノリがもう一つ――のだが、長唄囃子連中にとっては逆に有効だったらしい。
 しかし録音データの方は、一九六〇年制作ということが記載されているだけだった。当時の国内盤LPは録音から二、三か月で発売されるのが通例なので、四月か五月頃のものだろう、と推定するのが精一杯だった。
 だが「らいぶ歳時記」に掲載するには正確なデータが欲しい。そこでキング・インターナショナルの方たちにお願いして、キングレコードの担当者に尋ねてもらったのだ。
 CDに日付の記載がないのは、すなわち詳細不明だからかも知れないが、そんなことに興味をもつ人はいないだろうと省いてあるだけ、とも考えられる。たとえばギターのナルシソ・イエペスの一九六〇年日本録音『禁じられた遊び』は、手元のCDに日付の記載がないが、『レコード芸術』の昔のイヤーブックを見ると、LPには「十一月十四及び十五日」と出ていたようだ。データはあるのに、CDでは省いているのだ。
 どうせダメ元だし、とキングに聞いてみた。すると話は意外と簡単、同社の関口台スタジオにある録音台帳を見れば、出ているだろうとのことだった。

 そうして、返答が来たのである。
「四月十八日、キングレコード・スタジオでの録音」というものだった。
 キングレコードのスタジオは、現在の関口台の建物になる以前のものらしい。『音のエンタテインメント』(佐藤和明編著/新評論刊)の百六十五頁、キングレコードのエンジニア菊田俊雄の章に写真のある、古色蒼然たる「吹き込み所」のことだろうか。
 LP二枚組七十五分もの大作を、一日で録りきってしまっているのは、当時の日本のレコード会社の流儀として、予想通りだった。だが、十八日という日付の方は、予想外のものだった。
 主役を演じた幸四郎と勘三郎(もちろん、ともに先代)は、毎月一日から二十五日前後まで、歌舞伎座などでの昼夜二部公演に出ずっぱりなのである。だから楽日後の月末の、翌月の仕込みをする合間に録ったに違いないと推測していた。
 ところが十八日。すなわち、午前十一時から夜九時頃までの公演を、連日こなしている最中の録音となるのである。
 ひょっとしたら、この日だけ休演したのかもと思った。だが当時の『演劇界』(歌舞伎の専門誌)を見たり、日比谷の図書館で朝日新聞の縮刷版を調べたりしたが、そんな記述はない。
 ということは、幸四郎たちは『近江源氏先陣館』『妹背山婦女庭訓』『籠釣瓶花街酔醒』等に出演した後の深夜か、あるいは早朝に、おそらくぶっつけ本番に近い状態で『勧進帳』を録音したのだ。
 役者たちのノリが悪いのは、こんな録音状況のせいもあるのに違いない。しかしひるがえって考えると、長唄囃子連中はよくそんな悪条件下で、あれだけの演奏をしてくれたものだ。かれらへの敬愛の念は、いや増すばかりである。

 状況がわかってくるにつれ、録音への愛着も増してくる。できれば、具体的な録音の様子も知りたい。前述の菊田俊雄さんならご存じかもしれない。あるいは義経の郎党役として出演した幸四郎の息子たち、染五郎と萬之助兄弟(今の幸四郎と吉右衛門)は高校生だったから、ちょうど記憶力のよい年代で、覚えているかもしれない。しかしこんな質問をしてみるには、さすがに雲の上すぎるか…。

十一月十二日
 大学時代のサークル、音楽同攻会のOB総会が市谷仲之町のトスラブ市ヶ谷で行なわれる。
 毎回OBの一人が講演をすることになっていて、今年一月の会では、わたしが講師役を仰せつかり、諸先輩を前にしてカルショーについて語る――釈迦に説法もいいところ――機会をいただいた。今回は、日本コロムビアでデジタル録音(当初はPCM録音と呼んだ)草創期のディレクターとして活躍された穴澤健明先輩による、スメタナ四重奏団との録音の逸話など。
 チェンバロ奏者のルージチコヴァーがユダヤ強制収容所の生き残りで、そこで入れ墨された番号が腕に残っているという話など、初めて耳にするものだった。

十一月十五日
 ミュージックバードでの収録を終えたあと、ホテルプレジデント青山で行なわれた、ナクソスの音楽配信事業の記者会見を聴きに行く。
 穴澤さんたちが実用化されたデジタル録音技術がその後のCDにつながり、そして今やこうして、インターネット配信に発展しつつあるのだなあと感慨に耽っていたら、当の穴澤さんにここでもお会いする。旺盛な好奇心こそが、人を前に進めるのだと感じ入る。
 かと思うと、平林直哉さんがLP用のケースみたいな紙箱をもって登場。デジタル配信がどうしたとかいう席に、LP持参とはさすが盤鬼ヒラリン、と感心していると、なんとLPでさえなく、LP用のスタビライザーだった。
 LP時代にわたしなどが見聞したのは中心部のレーベル面に置いて、重しにするタイプのスタビライザーだった。しかし平林さんがどっかの編集部の死蔵品を借りてきたというそれは、大きな環の形をしていて、LPの外縁にかぶせるようになっている。たしかにこれなら外周部が浮くのを防げるだろうが、使い勝手はひどく悪そうだ。ごくわずか製作されただけで市場から消えたというのも、当然の結果だろう。
 しかしまあ、ソフトという物がネット上に吸収されて消滅しようとしている席に、そのソフトを鉄の重みで押さえつけて動かないようにするスタビライザーがある――しかも失敗作――というのは、なんだか象徴的で面白かった。
 本来の、無形のものに還りつつある音楽。その便利さと可能性に感心しつつ、有形のものへの愛情と執着をとても捨てられそうにない、わたしたち。
 苦悩の旧里は捨てがたく、ということなのだろうか…。

 その後、渋谷のCD店でジョヴァンニ・アントニーニ指揮のバーゼル室内管弦楽団による、ベートーヴェンの交響曲第一番&第二番の一枚(OEHMS)と、ヤン・フォーグラーのチェロによる「ドヴォルジャークのチェロ協奏曲の秘密」という一枚(独ソニー)などを買う。
 イル・ジャルディーノ・アルモニコの創設者であるアントニーニの指揮は期待したが、面白いものではなかった。快速のテンポ、すっきりした響きはいかにもなのだが、リズムの弾力――跳ねたり、しなったり、うねったりするもの――に欠けていて、生真面目な音楽に終始している。これまでのピリオド楽器演奏にしばしば見られた、荘重様式をひきずったままのものだった。
 対照的に、フォーグラーの一枚――ドイツ・ソニーのローカル盤――は、いい買い物だった。シュターツカペレ・ドレスデンの首席を経てソロになった人だそうだが、どんな人かも知らず、何か惹きつけるものを感じたので買った。豊かな歌いくちと呼吸感が冴えていて、思わぬ発見だった――あとで調べたら、斉諧生さんの音盤志に、「斉諧生一押しの新進チェリスト」とあった。斉諧生さん、さすがの慧眼というほかない。
 ドヴォルジャークのチェロ協奏曲と歌曲、フォスター歌曲などの組み合わせ(その由来、「秘密」はライナーに載っているようだが、まだちゃんと読んでいない)。歌曲はキルヒシュラーガーがヘルムート・ドイチュの伴奏で歌っている。
 協奏曲での共演はデイヴィッド・ロバートソン指揮のニューヨーク・フィルだが、これも自然なリズム感と立体感ある音楽で、とてもよかった。
 現在セントルイス交響楽団の指揮者というロバートソンは、ブーレーズのアンサンブル・アンテルコンタンポランの指揮者だったそうだが、そのキャリアが予感させる、器楽的で硬直した音楽とは無縁の、自然な息吹を感じさせるものだった。いわゆる「ゲンダイオンガク」系の音楽家にも、こんな活力と呼吸感をもった人が出てきていることに、驚いた。
 ピリオド楽器演奏だから、現代音楽だから、というような安易な区別が通用しない、時代全体のうねりとしての俊敏様式の到来が、ここには感じとれる。
 それにしてもこのわたしが、最新録音盤をワクワクしながら買うなんて日々が来るとは、我が事ながら十年前はもちろん、五年前だって予想だにしなかった。

 「古い奴だとお思いでしょうが…」という鶴田浩二の歌のセリフは、まさに神の預言だったのだなあと痛感。

十一月十六日
 昨日の日記で紹介したフォーグラー&ロバートソンのドヴォルジャークを、今日もくり返し聴いている。その音楽の弾力感、緩急、各楽器の立体的な対話などがあまりにもわたしのツボにはまっていて、気持がいいからである。
 協奏曲以外の、チェロ編曲による歌曲の演奏もいい。太すぎず細すぎずの中庸の響きで、気持ちよく揺らいで、呼吸をしている。
 わたしはドヴォルジャークの音楽――少なくとも、耳にしたことのあるすべてのかれの作品――が苦手で、ふだん自分から聴くことはまずない。もっさりしていてキレのない粘着質の旋律、響きも主客の関係が不明確で、正体不明の印象を受けるからである。
 ところが、このCDにはそんな疎外感が一切ない。リズムと一緒に跳ね、うねり、フレージングに合わせて呼吸する、その幸福を、ドヴォルジャークで味わえるとは――もちろん、苦手なのでそうたくさんの演奏を聴いたわけでなし、偶々ここでそういう演奏に出会ったというだけで、きっとほかにもあるだろうから、「最高」だの「ベスト」だのという言葉は、使わない。この小ざっぱりとした音楽――小気味いいとか、小回りが利くとか、俊敏様式には「小」という接頭詞がよく似合う――に、もう少し色気が欲しいなどと思う日が来る可能性も、ないとはいえないし。
 大切なのは、いまここで巡りあった、その喜びだけである。そして、数年後にでも再びこのCDを聴きなおしたとき、何を思うか。それが楽しみである。
 変わらないCDに映る、変わっているはずの自分はどう感じるか。このことが楽しみで、わたしはレコードにこだわり続けている。

 少し前に衛生第二で放送した映画『好人好日』(渋谷実監督)を観る。
 何も予備知識のないまま、一九六〇年の「翌年」である昭和三十六年製作(公開は八月)で、笠智衆と岩下志麻が出ているから、というだけの薄弱な理由で観たが、楽しいホームドラマだった。
 世界的名声のある優秀な学者でありながら、中央から遠い奈良の大学で教えている偏屈な教授に扮する笠の、いつもながらのギクシャクした演技をたっぷり観られるのが嬉しい。
 あとで調べたら、一九六〇年に文化勲章を受章して有名になった奈良女子大学教授の数学者、岡潔をモデルにした映画だそうである。
 それほど優秀なのに母校京都大学――映画では母校を東大に変更し、教授夫妻に標準語をしゃべらせ、養女役の岩下に外では奈良弁、家では標準語と使い分けさせて、一家を奈良から浮き上がらせている――にいられず、奈良女子大で長く教えたというのだから、学者的処世術を苦手とする人であったことは疑いない。脳病院への入院歴もあったようだが、映画はあくまで愛すべき奇人として描いている。笠はぴったりである。
 深みのある青空など、鮮明なカラー映像なのも嬉しい点の一つで、当時の奈良の遠景など、今は失われた景色が美しくて、これだけでも観た価値があった。わたしは奈良独特のだだっ広い、余裕のある緑の都市空間がとても好きなので、映画を観たらまた行ってみたくなった。
 ところで監督の渋谷実、わたしはまるで知らなくて今回初めてその映画を観たのだが、松竹では小津安二郎、木下恵介に次ぐ、第三の存在だったのだとか。
 しかしその後は忘れられ、DVDもまったくない状態という。まあ、代表作の一つが『気違い部落』なんて、放送禁止用語の日本チャンピオンみたいなタイトルでは仕方ないのだろうか。乾いた笑いの感覚は、けっこう気に入ったのだが。

十一月十七日
 銀座の三笠会館にて『レコード芸術』の依頼で、ナクソスの総帥ハイマン氏にインタビュー。話題はもちろん、インターネット配信事業について。

 平岡正明の『昭和ジャズ喫茶伝説』(平凡社)と、小林信彦の『テレビの黄金時代』(文春文庫)をほぼ同時に購入して、取っかえ引っかえ読む。
 扱っている時代が似ているため、読んでいるうちにどちらの記述か記憶が混乱したりする――同じように過去の印象的な光景と光景とをつむいでいく手法とはいえ、時系列にしたがう小林の文と、あっちゃこっちゃしながらアドリブの連発する、まさに六〇年代ジャズ的な平岡のそれとでは、ずいぶんと違うのだが。
 平岡の文章を読んでいて驚く。白山下の「映画館」という店名のジャズ喫茶のことを書いている部分に、次の一節があったからである。
『そんなこんな、「映画館」という白山の店にはもっと足を運んでもいいはずなのだが、行ったのはそれ一回きりだ。俺は「映画館」の近くにある、自分の出た中学と高校、京華(けいか、と原文はルビあり)が嫌いなのだ』

 なんと、恐れ入りました。わが母校の先輩でいらっしゃったとは。
 昭和三十年代以降の京華を出た有名人なんて、グレート義太夫ぐらいしか知らなかった。
 わたしがその高校に入った時は、答案用紙に名前を書けば誰でも受かるといわれていて、学生時代も今も、
「京華から現役で早稲田の法学部って、いったいどうやって入ったんですか」
と真顔で聞かれてしまう程度の――普通に入試を受けて入ったんですけど――低い偏差値の学校である。
 「昭和三十年代以降の」とつけた理由は、没落した有名校の代名詞みたいな存在だからである。「英才教育」を謳った旧制京華中学の卒業生には市川猿翁、木村伊兵衛、井口基成、黒澤明がいて、新制改革後の昭和二十年代にも武満徹と岩城宏之が出ているのに、昭和三十年代以降はぱったりと人がいなくなる。
 どんなしくじりをしたのか知らないのだが(どなたかご存じないか)昭和四十年代には、完全なバカ学校に成り下がっていた。平岡先輩は昭和三十年代前半の在籍だから、下落が始まる直前の、よき時代を知っている最後の学年あたりなのだろうか。
 「京華が嫌い」なのも、その後の没落のためだろうか(黒澤明は、昔の京華と違うからと、OB会関係は断っていたそうな)。「お前なんぞ嫌いだ」といわれているようで、少し悲しい。

十一月二十日
 映画『春の雪』に便乗してのことか、本屋では奇妙なくらいの三島ブーム。色々と関連本が出ているが、堂本正樹という劇評家の書いた『回想 回転扉の三島由紀夫』(文春新書)を買ってくる。
 本人の書くところでは、若いときに三島と男色というか衆道というか衆道ごっこというか、とにかくそうした関係にあった人――このあたりの記述はまるでボーイズラブ物みたいというか、少年期らしい(わたし自身は残念ながら、そんな耽美な経験にまるで縁がなかったが)ケレンが描かれていて、こっちが気恥ずかしくなった――で、その後は演劇分野での友人また仕事仲間であった。
 最近自筆草稿が世に出て、三島の真筆と確認された匿名小説『愛の処刑』をめぐる逸話と、映画『憂国』の演出を担当したのが、二人の交流の、そして同時に本自体のクライマックスになっている。
 『憂国』のオリジナル・フィルムも、三島未亡人の破棄要請を拒否して、保存しているという(来年に三島全集でDVD化が予定化されている『憂国』は、この人の所有フィルムが元なのだろうか。そんな記事を読んだ気もするが、これはあやふやな記憶)。
 しかし購入した最大の理由は、四十九頁の「深沢七郎と(昭和三十五年)」という写真が目についたため。
 マイクの前に立つ三島が持つ楽譜を、ギターを抱えた深沢七郎がのぞきこんでいるこの写真は、まさしく一九六〇年二月十六日深夜、音羽のキングレコード・スタジオで『からっ風野郎』主題歌を録音したさいのスナップだ。

十一月二十三日
 山の神が、BS2で録画した映画『彼奴を逃すな』を観ていた。画面の雰囲気がいいので一緒に観たら、途中からだがとても面白かった。
 昭和三十一年公開の東宝映画で、木村功、津島恵子、志村喬に宮口「鋸山」精二――「鋸山」とは成瀬の『流れる』での宮口の役にちなむ綽名で、荒木町花柳界のごく一部で用いられていた――という『七人の侍』と同じ役者たちが出て、監督は鈴木英夫。
 殺人事件を目撃してしまったために犯人から狙われる、新興住宅地の若夫婦の恐怖を描いたサスペンス映画だが、白黒画面だけに表現可能な、光と影による緊迫感と凝集力が素晴らしい。不安げな表情や無機物のアップを多用する手法は、かつて三谷礼二さんのお宅で拝見した『アフスァルト・ジャングル』など、同時期のハリウッド映画でもおなじみのものだが、効果的に採り入れている。
 同時に印象的なのは音の使いかた、いわば「音のモンタージュ」がうまいことで、チンドン屋のクラリネットの響き、法華の僧が歩きながら叩く太鼓などが、画面の切り替えに合わせて増減し、切迫感を高めていた。
 国電と、蒸気機関車の貨物線とが並行して走っている線路脇が主舞台で、両者の「騒音」の違いが、映画のプロットの上で重要な意味を持っていることが、音へのこだわりのクライマックスである。
 当時の国鉄の貨物線が蒸気だったなんて、この映画で初めて知った――今は埼京線などに変わっている東京の線路だろうが、映画の舞台はどこなのだろう?
 鈴木英夫という監督も初耳だったが、あとでネットで検索したら、和製フィルム・ノワールの作り手として、一部で評価されている人だそうな。BS2はこの人の作品を何本か放送するようなので、それらも観ることにする――白黒の画面へのこだわりがひしひしと感じられるタイプだから、カラー映画の時代にはつらかったのではあるまいか。いずれにしても、こういう才能がいたんだなあ。
 もし三谷さんがご存命だったら、鈴木英夫について尋ねてみたかったものだ。『アスファルト・ジャングル』をお好きだった三谷さんなら好悪は別として、鈴木の映画を必ずご覧のはずと思うから。
 昭和三十一年というと、学習院の戯曲研究会にいた三谷さんが日活に俳優デビューする前年である。近々に映画関係のご文章をまとめた本が出るという情報が『CDジャーナル』に載っていたから、あるいはそこに鈴木英夫の名前を見つけられるかもしれない。楽しみである。

 それにしても、「彼奴」(きゃつ)という言葉がほぼ死語であることを、強く実感する。おそらくわたし自身、いままでの全人生の日常会話で、この単語を使ったことは一度もないと思う。

十一月二十八日
 小林信彦の『テレビの黄金時代』を読み終える。
 小林の指す「黄金時代」とは、一九五三年から五九年頃までのテレビの草創期に続く時期のことで、一九六一、二年から七一年か七三年までの約十年間のことである。この時代に小林が放送作家として関わったり、視聴したりしたヴァラエティ番組――『光子の窓』『夢であいましょう』『シャボン玉ホリデー』『てなもんや三度笠』『九ちゃん!』などなど――のことが綴られている。
 わたしはあまりにも幼すぎて、その時代のテレビの雰囲気を充分に知っているとはいえない。ただ、それらの番組の放送作家として登場した面々の中でも、永六輔、青島幸男、大橋巨泉の三人が、その後の数十年間のテレビ・マスコミ界に残した大きな影響――政界にまで及んだ――のことは知っている。そのかれらが登場し大活躍した時代なのだから、たしかに凄い十年間なのだろうとは思う。
 これは、大衆消費型の業界に必ずある「躍進期」なのだろう。
 それは、手さぐり状態で基礎をつくった「草創期」の後に来る。この時期には金も人も関心も集まり、つくり手も客も好奇心と意欲に満ち、やることなすことすべて初めてづくしの、お祭り状態が続く。無限の繰返しに陥らざるを得ない、それ以後の時代よりも輝いて新鮮に見えるのは、しごく当然だ。そして、才能ある人が正当にその才能を発揮し、正当に評価される時代でもある。
 それは消費文化の春秋の中に必ず存在する「真夏」である。成長と老化の過程で必ず巡ってきて、必ず過ぎてゆく。二十歳代前半のスポーツ選手が、怖いもの知らずに実力を発揮する数年間みたいなものだ。
 テレビ以後でも、家庭用ゲーム業界に「真夏」があったし、今はインターネット業界がそれを迎えている。

 だが、過ぎた後からその熱気を想像するのは、とても難しい。当時のヴァラエティ番組の中で現存する数少ない録画の一つ、『夢であいましょう』のDVDを観てみたが、たぶん小林が「こんなのじゃわからないよ」と言いそうなものだった。十年前のゲーム業界の活気さえ、次第に思い出すのが困難になっている。
 やがては「ブログや着メロが大流行した、なんて時代があってさ」となる。
 そのときには、どんなものが輝いているのだろう。

十一月二十九日
 ミュージックバードで一月後半に放送する「コンプリート・モーツァルト」の一部分を収録。
 モーツァルトの作品を、総計二百十二時間にわたって放送する大型特集――ミュージックバードでなければ不可能な――のうち、四十八時間分のためのナレーション部分を録音する。といってもナレーションだけなので、実際の録音時間は計八十分ぐらい。
 番組ではリンボウ先生と片山杜秀さんとわたしの声による「ハッピー・バースデー・アマデウス!」というジングルが適宜入るのだが、何といっても強烈なのは片山さんのしゃべったもの。中村伸郎風とか「空中元彌チョップ」風とか…。
 しかし、番組で実際に使うのはまだマトモなものだそうで、もっと過激なのもあるらしい。
 それ全部入れて、片山さんのサイン入りCD・Rにしてプレゼントしたら、ファンの方に喜ばれるに違いない。年末に片山さんと四時間しゃべる特番があるので、その特典用に提案してみよう。

十一月三十日
 江戸橋のキング・インターナショナルにて、同社のO氏、オーパス蔵のA氏と会う。
 フルトヴェングラーしか売れない――逆にフルヴェンなら何でも売れる――ヒストリカルの世界で、非フルヴェン盤をどのように出そうかという打ち合わせ。実際に聴いてみれば、いい演奏と感じる人も少なくないと思うのだが、とにかく手に取ってさえもらえないという現実にどう対処すべきか、頭が痛い。

 それはそれとして、昼食を三人で近くのファミリー・レストランで食べたのだが、ここが凄まじかった。
 午後一時過ぎの店内の禁煙席には、幼稚園児とその母親たちが何人も座っていた。そして園児の何人かは強烈な奇声をあげながら、空いたテーブルからテーブルへと傍若無人に走り回っていた。母親たちも店員も、誰もそれを注意しない。
 突き飛ばしてやりたくなったが、そんなことしたら訴えられそうだ。O氏が店員に席を変えるよう要求し、喫煙席へと移る。
 その瞬間に、店員たちがかわるがわる「申し訳ございません」と頭を下げてきたのが何とも不思議だった――わかっていても、あの園児と母親たちはお得意だから、何も注意できないのだろうか。
 こんな、母親からろくにシツケを受けない子供たちなら、小学校に入ってから授業中に動き回ったりするのも当然だろう。そのシツケを教師に押しつけるのは酷である。
 教師の人たちも大変だなあ、と思いつつ帰宅して、ふと思う。

 ――場所を考えるとあの連中は、五年ほど前に園児の母親が子供の同級生の妹を絞殺遺棄したことで有名になった、護国寺の音羽幼稚園なのではあるまいか。

 もちろん、だからどうということはない。あの子供と母親たちは「お受験殺人」として有名になったあの事件と、直接の関係はない。ただ、同じ幼稚園というにすぎない。
 夜になって近所の本屋に行ったとき、あの事件について書いたノンフィクションの本があったような気がするが、などと思い出す。
 そうして文庫の棚を歩いていたら、まるで招き寄せるセイレーンのごとく、おぼろな記憶の中にあるその本が、目立つように表紙を向けて陳列されていた。

『世紀末の隣人』重松清 講談社文庫

 これだッ!と叫びたくなるのを抑えて手に取る。何という偶然――たぶん、このところまた変質者による事件が続いているから、少し前のこの本を、表紙を向けて並べてみた、ということなのだろうけど。
 見るとやっぱりある。「ともだちが欲しかったママ」の章がそれだ。こういう偶然は何よりも大切にしたいと考えているので、買って帰る(文庫だし)。
 読むと、取材中の重松清もそのファミリー・レストランに入っていた。そして予想通り、犯人と被害者たちの園児グループも、ここによく立ち寄っていたという。そのグループの中で、犯人は注文を店員に伝える「雑用係」だった――パシリですな――という報道もあるそうな。
 重松が訪れた約五年前も、二十名近い園児母子グループがいた。ただしおしゃべりをしているのは母親たちで、園児たちはおとなしく退屈そうに座っていたというから、わたしが遭遇したあの「学級崩壊予備軍」とは違っていたようだ。
 犯人の女性は一九六四年生まれで、一つ上の重松と(わたし自身と)同世代だった。
 重松は事件の原因を「お受験の勝ち負け」ではなく、犯人が母親グループの中で感じていた疎外感――地方出身者で、裕福ではないこと――にあるのではないかと考える。そしてその疎外感は、
「一九七〇年代終わりから一九八〇年代半ばにかけて」の、
「世のさまざまなものに『差異』を見いだし、『選別』することを愉しむ時代」
に青春期を過ごした、われわれの年代のものではないかと考える。
 ネクラを嫌い、ダサイことを嘲り、マルビを馬鹿にした、あの時代。その落とし子としての、犯人――その犯人像が正しいのかどうかは、わからないが。
 ところで、だとすると、『下流社会』なんていう「選別」する本をベストセラーにしているのは、やはりわたしたちの世代、選別を愉しむ世代なのだろうか。

 などなどと、妄想を弄ぶ機会をくれたのだから、あのバカガキどもにも感謝しておくべきか。
 将来ロクなもんにならないと、絶対に思うけど。

十二月一日
 知人の誰かが、ウィルスにやられたらしい。
 わたしのアドレスで発信されたウィルス付きメールが、配信を拒否されたといって還ってくる。もちろん出した覚えもないし、わたしのPCが出したものでないことは、宛先が知らないアドレスであることから明らか。感染した人のアドレス帳に載っていたわたしのアドレスを勝手に拝借して、他の宛先に送付しているのだろう。
 断ってきた宛先は、メジャー・レーベルのアドレスばかり。わたしやレーベル関係のアドレスが使われている以上、当然クラシック業界の関係者に違いない。とはいえ大企業系のアドレスの持ち主なら感染する可能性は低いだろうから――こうして配信を拒否してきたことでも、ウィルス対策ができていることは一目瞭然――フリーランスの誰かか。いや、企業勤めの人でも自宅PCとか。ひょっとしたら携帯電話が感染ということは、ないのかしらん。
 わたしは携帯メールを使っていないので――自宅付近が、すり鉢の底状の地形で電波状態が不安定なため――よく知らないのだが、携帯のウィルス対策って、進んでいるのでしたっけ。

十二月二日
 朝三時に起きて、ミュージックバードの「コンプリート・モーツァルト」の残り四十二時間分の台本を書いてから十時に東京エフエムに行き、収録を終える。
 続いて午後二時から東条碩夫さんが、『伝説のクラシックライヴ』(TOKYO FM出版)の内容にそってCDを紹介される「スペシャルセレクション」(一月九日~十四日放送予定)の収録の初めだけ見学させていただき、それから次の収録の準備をして、いったん自宅に戻ってから、「北とぴあ」での寺神戸亮指揮のレ・ボレアドの演奏会に行く。
 クラシック・ジャーナルのデッドラインが目前のため、こんなところをアルファベータの人に見つかったら拉致されそうだが、会場で知人に会わなければならない用事があるため、行かないわけにはいかない(と自分に言い聞かせる)。
 前半が《魔笛》序曲とハイドンの交響曲――何番だったか忘れてしまった――で、後半がモーツァルトのレクイエム。前日からあまり眠っていないため、残念ながら前半は意識が朦朧として、ほとんど聴いていなかった(有料入場者なので少しだけお許しいただこう。談志なら叩き出されるだろうが)。
 しかし不思議なもので、終楽章コーダ付近でハープシコード協奏曲風に寺神戸たちが遊びはじめた瞬間、意識が俄かに覚醒した。会場の空気が一変したのに反応したのだろうか。その後の音楽はとても面白かった。
 音楽を聴きながら寝るというのは、わずか二十分くらいでも回復効果があるらしい。その後は頭が冴える。レクイエムはいい演奏だった――派手ではないけれど、ラクリモーサに悲劇の頂点を置き、結尾のアーメンの一言で、モーツァルトにこの世から訣別させていた。その後はまるで「天才なき退屈な日常」のように感じられた。砂をかむような、うららかな喪失感、春の退屈さこそ、レクイエムの後半――モーツァルト自身の手が入っているオッフェルトリウムも含めて――を聴く意味なのかも知れない。
 そしてアンコールに《アヴェ・ヴェルム・コルプス》の冒頭が響いた瞬間、天才は再臨し、残酷なまでにその美を見せつけたあと、冥界へと去っていく。
 終演後、主目的である会合に参加。なんだか七代目菊五郎の悪口と、サッカーのブラジル代表の十年前のキーパー、タファレルへの称賛ばかりしゃべっていた気がする。
 帰宅後、クラシック・ジャーナル原稿の残りに取りかかるが、さすがに脳がショートしてきて、三時間ほど「夜寝」をする。起きてから翌日昼までに書き上げる。印刷所が待っている状態だったが、何とか間に合う。

十二月三日
 少し寝てから新橋のレストラン「ベルラン」へ行く。ウーロン亭ちゃ太郎師匠のオペラ落語の口演にお招きいただいたもの。題目は《タンホイザー》と《フィガロの結婚》の二席。
 山尾敦史さんのブログなどで評判はうかがっていたものの、聞くのは初めて。とても面白かった。「座ったままでたくさんの役を歌い演じわけることのできる芸は、世界に落語しかありません」というちゃ太郎さんの説に感じ入る。とにかく感心したのは、ちゃ太郎さん独自の訳詞とアレンジによる日本語が、非常に分かりやすくて、しかも原曲の雰囲気を見事に伝えていること。
 残念なことに、本年かぎりで引退されるおつもりだそうである。
 終わってから、山の神が先日行ってみてよかったという三井タワーで待ち合わせをし、二人で千疋屋にて食事。和風のテイストを採り入れた三井タワーはたしかに素敵な建物で、森ビル系巨大ビルの殺風景な威圧感とは格の違う「三井の粋(いき)」が味わえる。昔の千疋屋の、昭和初期風に翳のある内装も好きだったが、今度の店はとにかく吹き抜けが高いのが素晴らしい。三階か四階分、いや、もっとか?

「あの空までのなんと遠いこと!」

十二月六日
 ミュージックバードにて、「コンプリート・モーツァルト」に続けて「BBCコンサート」を収録。
 十二月二十五日放送予定の、ハイティンク&LSOの《ロマンティック》が、「どうしたの?」と言いたくなるくらいにノリノリの大熱演で驚いた。
 その前週に、同じ指揮者がシュターツカペレ・ドレスデンを指揮したブルックナーの七番(七月放送分の再放送)をやっているのだが、まるで推進力が違う。オーケストラとの相性の差もあるのだろうか。前者は二〇〇二年、後者は二〇〇四年のプロムスのライヴ。

十二月七日
 晴海トリトン・スクエアに、ミロ・クァルテットを聴きに行く。
 普段は弦楽四重奏を積極的に聴くことは少ない。ナマで聴くのは昨年二月、ナポリのサンカルロ座でクス・クァルテット――メンデルスゾーンがよかった――を聴いて以来である。
 それがなぜチケットを購入したかというと、『レコード芸術』十二月号のサンプルCDに入っていた、ミロ・クァルテットのベートーヴェンの作品十八の断片がとてもよかったから。
 四人の響きがダンゴにならず、立体的に鳴っているのがとても魅力的だったのだ――それぞれがブレのない音程で、旋律や音型を明確に呼吸させているから、響きが混濁せずに「対話」するのだ。この作品十八の六曲は、何よりも演奏家のセンスが試される、理詰めではどうにもならない作品群だからこそ、かれらの魅力の大きさが、はっきりと出ているように想像された。
 早速そのCDも買ってみたが、折よく来日公演があって同じ六曲を弾くというので、晴海――四谷三丁目からだと接続が複雑でとても行きにくいのだが――まで出かけることにした。
 二回の休憩を入れて六曲で約三時間半という異例の演奏会だが、『レコード芸術』の「ハイマン氏インタビュー」を出発までに仕上げきれなかったので、四曲目が終わったところで早引けする。
 だから全体については語る資格がないが、期待に違わぬ見事な演奏だった。優れた呼吸感で音楽は弾力と活力に満ち、各声部が明滅するような、掛け合いの妙を愉しませてくれた。三曲目の第一番の緩徐楽章の深刻かつ悲劇的な表現は、聴いた四曲の中では白眉だった。
 この第一番がうまくいきすぎたのか、続く第五番は閉塞感があって単調だったけれども、これもライヴならではだろう――スタジオ録音のCDには、第一番のライヴでの緊迫感を聴くことはできないが、逆に第五番は聴き甲斐がある。
 席は後方だったが、尻上がりに高くなる曲線状の勾配なので、むしろ前方より聴きやすかった。
 帰宅後インタビュー原稿を仕上げる。担当氏から枚数を増やしてよいとメールが来ていたので、刈り込む必要がなくなって助かる。途中ネットで、ミロ・クァルテットによるシューベルトの弦楽五重奏曲のCDを注文する。楽しみ。

十二月八日
 スペシャルセレクションの『レコード・アカデミー賞特集』(来年一月三日~七日放送予定)を収録。
 わたしがしゃべって、受賞ディスクやノミネート盤を紹介するもの。そのリストは少し前にもらってあったが、選考経過などが記された『レコード芸術』の記事部分は昨日読ませてもらったばかりなので、早朝に準備。

 収録後に渋谷のレコード店へ回ると、いくつか新譜があった。セラフィン指揮の《ファルスタッフ》がVAIのDVDで出たが、これは可変日記の十月二十五日の欄で触れたのと同じもの。ただし一九六〇年ではなく、一九五六年五月九日の放送だった。
 前欄で触れたものには「一九六〇年」だけで日付がなかった。それで、日付がないのはどうも親近感が持てないと書いた。その理由の一つが、このように表記ミスの可能性があることなのである。
 たとえ海賊の世界であっても、オペラのライヴというのは、マニアが集めてマニア相手に売っているものだけに、データが正確である可能性が高い。交響曲などのようにもっと「商売になる」ものだと、悪質な偽造品を売る奴も出やすくなるが、オペラは「声」というごまかしが効きにくい要素がメインであるためもあって、わりと信頼できるのだ。
 だからこそ、詳細なデータにこだわるはずのマニアが扱っているのに、日付がなくて年度のみなどというアイテムは、とても「怪しい」のである。
 この場合、どこかの段階で「マニアでない野郎」が挟まっていて、データがいい加減になっている可能性が高くなる。この《ファルスタッフ》は、そうした例だったようだ。
 一九六〇年でなかったのは残念だが、演奏自体の価値が減じるわけではない。今回の画像はずっと鮮明で、その演奏の素晴らしさが一層きわだっている。何はともあれ正規発売は嬉しい。
 ほかに、ダニエレ・ガッティ指揮のチャイコフスキーの交響曲第四番も購入したが、またしても――この指揮者のCDはいつもそうだ――期待外れ。イタリアの新俊敏様式の一人として注目しているのだが、演奏は快速というだけの、表面的で単調な表現に終始している。チャイコフスキーの、手垢にまみれた作品をあえて録音する意味が、まるで見えない。
 はやく真価を示してくれえ~。

十二月九日
 ミュージックバードで『輸入盤ショーケース』の収録。エルガーの「一九三三年ステレオ録音」の自作自演によるコケイン序曲の一部を含める。
 ナクソスから出る、エルガー自演集のボーナス・トラック。実験などではなく偶然の事故で誕生「してしまった」ステレオ録音であるというのが、何か「妖怪人間ベム」みたいで、じつに楽しい。
 その発端はこうだ。一九八〇年頃にある蒐集家が、SP時代の録音風景の写真を眺めていて、一つの疑問をもった。モノーラルなのに、録音マイクが左右に二つ、別々に下がっているのである。

 ――一つでいいのに、なぜ二つある?

 と興味を持ったかれが調べてみると、面白い事実が判明した。
 ワックス盤の破損にそなえて、二台のターンテーブルで同時に録音していたのだ。一台は正規で、もう一台は予備(音割れにそなえて、録音レヴェルを下げてあったという)。そしてここが肝心なのだが、その二台は、左右別々のマイクから音を拾っていたのである。

 ――ということは、もしその二枚を揃えて、同時に再生すれば?

 そう思ったかれが首尾よく二枚を入手できたのが、一九三二年のデューク・エリントン楽団やストコフスキー、クーセヴィツキーのアメリカ録音と、このロンドンでのエルガーなどだったという。そしてその成果は、一九八五年頃にアメリカでラジオ放送されたそうだ。
 そのうちエリントン楽団だけはCD化されているが、クラシックではこのエルガーが初めてだという。
 聴いてみると、これが明快なステレオ録音なのである。左右にきれいに分離していて、何とも不思議な印象としかいいようがない。超常現象の世界でいうところの「オーパーツ」、つまり数千年前の電池とか飛行機とか、あり得るはずのない、存在すべき時空を間違えたアイテム――オーは、アウト・オブ・タイム、アウト・オブ・プレイスの「アウト」の頭文字――を想起させる、面妖なる生気にあふれた音楽。
 コケイン序曲はSP三面の第三面しか左右二枚が揃わなかったらしいが、エニグマ変奏曲全曲とかが発見されたら、演奏史上の重要な史料となるに違いない。
 あまりに面白かったので、エリントンのCD[NATASHA IMPORTS NI四〇一六]も、中古盤をアメリカのサイトで買ってみた。こちらには、四面十五分ほどが収録されている。
 全盛期のエリントニアンたち――ジョニー・ホッジズ、ハリー・カーネイ、バーニー・ビガードなどなど。わたしはかれらの響きが大好きだ――の濡れたように官能的な音色がステレオ録音で響く。
 オーパーツのほとんどは牽強付会か偽造品の類だが、これらの「アクシデンタル・ステレオ」(ナクソスの表現)は、正真正銘のオーパーツである。

 夜は、キングインターナショナルの創立十五周年記念パーティにご招待いただく。創立十周年から、はや五年。
 豪華賞品があたるプレゼントというので、ひょっとしたら「クナッパーツブッシュ大全集」が出るかと期待したが、それは厚顔無恥というもの。キングレコード賞の商品券をいただいて万々歳。

十二月十二日
 みずほ証券の入力ミスによる株売買の損失は数百億円というが、これは天災などではなく取引なのだから、その分を濡れ手に粟で儲けた人たちもいるわけだ。外資系証券が多いともいうが、本当なのかどうか――外資なら金に汚いから仕方がない、と納得してしまって、はたしてそれでよい?
 ともあれ株バブルの気配は、わたしのような「非経済的人間」でも、ひしひしと感じる。株で儲けている人も、周囲に見かけるようになってきた。
 それはまあ、いいんだけれども、ただ嫌な感じがしたのは、数百万を得たという友人が、それを頭金にマンションを買うと言っていたこと。「株で儲ける→不動産投資→価格上昇で含み資産が増え、それを担保に借金して株に投資→…」という中曽根時代のような図式が、甦えりつつあるのか。
 友人一人の問題ではなく、日本全体がまたぞろ――性懲りもなく――そうした意識を持ちつつあるのだろう。村上ファンドの村上氏も、阪神とTBSに投資する理由として、優良不動産の多さをあげていた。結局『二十世紀の神話』ならぬ「不動産の神話」は、不滅なのだ。株と不動産が互いの尻尾を追いかけながら上昇する「巴戦」の時代が再来するのだ。
 わたしはこの組み合わせに嫌悪を感じる。株は純粋に投資投機目的の商品――産業振興とか、おためごかしの理屈はさておいて――だからいいが、不動産は、耐震強度偽装問題で明らかなように、一般人の生活の拠点というよりむしろ、人生の目標、達成点となるものだ。それを投機の対象とするのは、人間生活の基盤を危険にさらすことに直結すると、単純に思ってしまうからだ。
 ところで、コンサート業界はバブル再来でまた潤うのだろうか。
 バブル期を彩った音楽、マーラーが再び人気を得つつあることは――女性の化粧が次第にギラギラしてきているのと同様に――その前兆なのかもしれない。
 二〇一〇年のマーラー生誕百五十年がそのクライマックスかも。
 全曲チクルスが一九九〇年以来、二十年ぶりに日本で行なわれたり――指揮者は誰だろう。ラトルかゲルギエフあたりか?――して、その直後に大暴落して、不景気になって、またブルックナーが流行る…。終わりなき輪廻。

 嗚呼、厭離穢土、欣求浄土。

(うちの日本語入力システム、「おんりえど、ごんぐじょうど」を一発変換したのにはビックリ。なんだこれ、浄土宗の信者とかが作ったのか?)

十二月十三日
 ミュージックバードにて、「コンプリート・モーツァルト」を収録。安田和信さんの台本と構成によるもので、これで一月後半に放送する二百十二時間分のナレーションを、すべて録音完了。
 一時頃に終わってスタジオを出ると、ちょうど別のスタジオで「輸入盤ショーケース」の解説を終えたばかりの片山杜秀さんに遭遇。
 片山さんはこの日記をお読みくださっていて、話が鈴木英夫(十一月二十三日の項参照)のことになる。
 嬉しいことに片山さんも『彼奴を逃すな』を高く評価されているという。「鈴木英夫の会」なるファンのグループがかつてあって、その縁で監督本人にも会って話を聞いたことがあるそうだ。
 片山さんによると、芥川があの映画で使ったピアノのみによる三拍子のオスティナートの音楽は、劇中で重要な役割を果たす蒸気機関車の轟音を模していて、音楽と情景音がこれほど効果的に結びついている例は、日本映画でも珍しいほどだという。
 なるほどあの映画では、法華の太鼓の音やチンドン屋など、執拗にくり返される音が、画面をしばしば埋めつくしていた。すべてをかき消す轟音の中での、モノクロのパントマイムの緊迫感が、実に魅力的だったのだ。
 生身の人間と、鈴木英夫の話題で盛りあがれることなど予想もしていなかったので――片山さんの日本映画への造詣の深さを思えば、不思議でもなんでもないのだが――興奮してしゃべっていたところ、収録中のスタジオから「静かにしてくれ」と注意される。いつも注意する立場の人間が逆に注意されるとは、いやはや情けない。
 文学座のアトリエ公演に行くという片山さんと別れて、安田さんと一緒にランチを食べてから帰宅。

十二月十五日
 衛星第二は稲垣浩特集で東宝の『忠臣蔵』をやっていた。討ち入りの時期だがもう地上波では、忠臣蔵の話題などまったく無視されている。ならばせっかくの機会だと観たが、やっぱり大味な稲垣演出で、面白いものではなかった。
 昭和三十年代に松竹、東映、東宝、大映が競って作った、オールスター忠臣蔵ものの一つ。昭和三十七年公開で、幸四郎の大石に市川中車の吉良など、前年に移籍した幸四郎一門を中心に、加山雄三の内匠守や三船敏郎の俵星玄番ほか、東宝スター勢揃いの映画である。
 しかし面白くないのは、監督のせいばかりではないかもしれない。今回の東宝版のほか、大映(長谷川一夫の大石)に東映(千恵蔵版と歌右衛門版の二種)とオールスターものはたぶん四本ほど観ているのだが、どれも食い足りなかったという記憶しかない。
 結局、三時間や四時間の長さでは足りないのである。NHKの大河ドラマ一年分くらいの長さが欲しいのだ。討ち入りだけで四十五分一本使うぐらいに。
 劇場版で印象に残っているのは、大映版で勝新太郎が演じた「赤垣源三、徳利の別れ」くらいか。
「あら、お帰りになるんですか。次はいつ頃いらっしゃいます?」
「そうだな。今度は……、来年の夏は新盆だから、たぶんそんとき帰ってくる」
「いやだァ、それじゃ死んだ人みたいじゃないですか」
 とかいうやりとりは最高で、もはや赤垣といえば勝新しか思い浮かばない、というくらいの「刷り込み」になる名場面だった。

 それ以外は、もっぱら大河の『元禄太平記』の場面ばかりを思い出す。
「討ち入りだ!」の叫びを聞いて布団から起き上がり、たすきをさっと懸け、それから枕元の薬罐の水を、ぐっと口に含む。そして刀の柄にぷーっ…と吹きかけて、滑らないように湿らせてから、寝間を走り出ていく小林平八郎――冬の夜の乾燥した冷気にそなえて柄を湿らせる。ただそれだけの動作が、この強敵の周到さと血戦への覚悟とを、見事に示していた――とか、
 浪士たちがいくつもいくつも部屋を抜けて最後の襖を開けると、一人静かに待ち受けている清水一学の姿とか、
 吉良を捕えた浪士たちの吹く呼子が、ピーッ、ピーッと邸内に次々と木霊していく中(これは『ナバロンの要塞』の最後で、要塞爆破を喜ぶ艦隊が吹き鳴らす霧笛の効果とそっくりだった)、白い雪の上を勇んで駆けていく浪士たちの走りっぷりとか、
 本懐後の別離をぐずる足軽を「寺坂吉右衛門信行!」と大石がフルネームで叱咤し、奮い立たせる場面とか。
 最終回近くにちょっとだけ出てくる、甲府宰相綱豊役の木村功も、時流に乗った人間の、余裕といやらしさを示す表情が素晴らしかった。爾来、わたしにとって綱豊といえば木村功しかいない。

 この『元禄太平記』を典型として、NHKは伝統的に屋内戦闘の演出を得意としてきた。それは去年の『新撰組!』の演出メインを張った清水一彦――『クライマーズ・ハイ』の前半もかれだった。今のNHKでいちばんの演出家だと思う――にまで、脈々と引き継がれている。
 ところが今年の『義経』は、そこが――そこも、か――さっぱりだった。うつぼとか、人名をかつての村上元三版『源義経』から借りてきただけでは、前作からいったい何を学んだのかといいたくなる。下手なことをせずに、あのときの壮絶な「衣川合戦」を、カラーでそのまま再現すればよかったのに。
 あのときの喜三太はたしか、馬喰らしく馬屋付近で飛び回るようにして戦い、最期は斬られて井戸に深く落ち、代わりにカラカラと跳ね上がって、引っかかった釣瓶がその死を示す、という演出だったはずだ。さらに、門を駆け出たところで目を射られて死ぬ郎党、傷ついて互いを突きあって死ぬ郎党…。
 瀕死の弁慶は持仏堂の前に立ち、薙刀を大地に突きたて、片手を横に拡げたところで頭を射られて「立往生」する。
 そこへ義経がやってきて「自害する間だけ防いでくれ」と話しかけるが、仁王立ちの弁慶が答えるはずもない。立ったまま死んでいるのに気がついた義経、
「弁慶。死してなお、我を護るか」
 弁慶を残して持仏堂に入ると、炎が上がってその死が暗示される。
 ひょっとすると「死してなお、我を護るか」はもっと口語調だったかもしれないが、わたしの中では絶対に文語調なのだ。この言葉にこそ主従の、無尽の想いが込められていると信じるから。

 合戦が始まる直前、郎党たちが手を重ね合わせて、「犬死にすまいぞ!」と声を揃える場面も鮮烈だった。
 そこに義経はいない。
 当然なのだ。郎党たちは義経が自害するための時間をできるだけ多く稼ぐべく「犬死にすまいぞ」と決意しているのだから、そこに主人がいてはならない。
 主人が名もなき雑兵の手にかかることなど、絶対にさせてはならない。これがかれら郎党の、最後の意地なのだ。
 だから義経と共に闘うことなど、あってはならない。義経から少しでも遠く離れたところで、雲霞のごとき敵を引きつけようとするのだ。
 そして弁慶も含めた全員、義経に再び生きてまみえることなく、それぞれの場所で討ち死にする――義経は、かれらの死ぬ場面を一つも見ていない。
 ただ、すでに死んでいる弁慶と、最後に出会うだけである。
 死してなお主人を護る弁慶立往生は、郎党全員の意地が、血まみれに結晶した姿なのだ。

 今回の『義経』には、こうした主従ならではの人間関係とか、あくまで馬喰として闘う喜三太の死にざまとか、そういう「人間の位置」を、場面や動作で示そうという想像力が、まるで働いていなかったように思う。ただの仲良しグループにすぎなかった。
 けっして昔はよかった、というのではない。現に去年の『新撰組!』では、同じ想像力が画面に満ちていたのだから。

 来年は面白いといいなあ。

十二月十六日
 オーストリア放送(ORF)の新譜がCD店にいくつか入荷していた。
 その中に、トリゴナーレ古楽祭のライヴ『TRIGONALE 2004』があった。前年の二〇〇三年盤がとてもよかったので、勇んで購入する。
 自慢できる話ではないが、こと古楽にかぎっては、一枚のCD全部が単独のアーティスト、単独の作曲家で統一されている物は、響きに飽きてしまうので苦手である。CDは頭から終わりまで通して聴くものだという、わたしの発想自体がクラオタ的で時代後れなのかも知れないが、身についた貧乏性は治らない。
 その点、数日間のさまざまな演奏会から数曲ずつ集めた古楽祭ライヴ盤は、変化があるので聴きやすい。
 トリゴナーレ盤はその典型だが、しかし同じORFでも、以前から数種出ている『RESONANZEN』シリーズの方は、わたしが聴いたものについては華やかさに欠け、陰鬱な圧迫感があった。ウィーン・コンツェルトハウスという会場のせいなのかどうか――古楽にかぎらず、この会場のライヴ録音で印象に残るCDがあまり多くないのは、なぜなのだろう――楽しくないのである。
 対してトリゴナーレには、隆盛を極める古楽再生の活気の一端が感じられる。二〇〇三年盤は「もう少し聴きたい」と思うところで次の演奏家に交代する、構成自体のリズム感がよかった。
 今回の二〇〇四年盤はそれに比べると単調で、ヒロ・クロサキ、ジュズアルド・コンソート・アムステルダム、アントニーニ指揮のイル・ジャルディーノ・アルモニコという三種の演奏会を一枚に、そしてもう一枚は、全てユングヘーネル指揮のカントゥス・ケルンによるバッハ演奏会にあてられている。だから聴く前は少し不安だった。
 ところが結果は予想と逆に、一枚目より二枚目の方が満足できた。厳めしげに堅苦しくても、逆に軟体動物的に演奏されても、聴いていて持て余してしまうバッハのカンタータとモテットが、幻想的に柔和に、しかしリズムのキレを失わずに響いていて、とてもいい。
 柔和さと、しっかりした構成感とのバランスが絶妙なのだ。これこそわたしが聴きたいと思いつつ、なかなか出会えなかったバッハ演奏かも知れない――今頃ユングヘーネルの良さに気づくなんて、と嘲笑されても一言もないが。
 以前から気になっていながら、購入をためらっていた、ユングヘーネルたちによるバッハのミサ曲ロ短調(ハルモニア・ムンディ)を買うことにする。

十二月十七日
 注文していたミロ・クァルテットのCD(レーベル名はOXINGALEとある)が到着。
 『エピローグ』と名づけられた盤で、メンデルスゾーンの弦楽四重奏曲第六番とシューベルトの弦楽五重奏曲(ハイモヴィッツがゲスト参加)の二曲。アルバム・タイトルは、二曲とも作曲者の最後の年に作曲され、没後に出版初演された「遺作」であることにちなむ。
 ところが痛快なのは、エピローグという言葉が想起させる「余韻」とか「しめやかさ」などとはおよそ無縁な、熱く豊かに歌う演奏であること。このあたりはいかにもこのクァルテットらしいし、その強固な自信と確信ぶりが、わたしにはとても好ましい。
 十二月七日の項で紹介したベートーヴェンの六曲とは、音質の印象が異なる。音場感と奥行の明快なベートーヴェンに比べて、こちらはより平面的。しかし響きの「厚さ」と「熱さ」という点では、この方が晴海での実演の印象に近い。
 特に二曲とも、アダージョ楽章に刻みつけられた鬱屈と悲嘆の表情が、晴海での第一番のそれとそっくりなので、曲は違えど、この『エピローグ』こそが、あのときの演奏ぶりを思い出すためのCDになりそうだ。
 それにしても熱く歌いながら、一瞬ふっと力を抜いてみたり、たゆとわせてみたりといった「息づかせ方」が素晴らしい。絶対に音を鈍重に置かない点で、かれらもまさしく、俊敏様式の時代の音楽家たちである。
 シューベルトの第三楽章スケルツォのプレストのダイナミックな力強さと、トリオの「嘆きの歌」との鮮烈な対比は、ナマで聴いていたら思わず拍手してしまいそうな出来である。
 このコントラストの強さが、現時点でのかれらの最大の美点であり武器だ。だが、容易にルーティン化して「俗情と結託」してしまう危険もはらんでいる。
 表現のパレットを拡大するか、レパートリーを拡大するか、どうなっていくかはかれら次第だが、ともあれ今後も注目していくつもり。

 携帯電話を別機種に交換する。といってももちろん、型番落ちの「価格一円」というやつ。一円ポッキリの買い物なんてなかなかない。
 カメラもメールも無用という人間にとって、最近の携帯はどれも高すぎ、重すぎ、かさばりすぎる。二十世紀末頃の、電話機能のみで重さが七十グラム弱しかなかったタイプが懐かしい。
 新たに入手したのはプレミニS、SO二一三iSという、名刺サイズで六十八グラムしかない、まさに手の中にすっぽり収まるもの。二つ折り式ではないから厚みも少ない。だがテンキーはカード式計算機以下の大きさだから、メールを打とうとしたら――カメラなしだがiモードだけはついている――気が狂いそうになるに違いない。不人気機種というのも当然である。
 しかしそんなことはどうでもいい。何ができようが、重ければ携帯する気が失せる。プレミニSは、ズボンのポケットや胸ポケットに入れても存在を忘れるくらいだ。わたしにとって携帯電話は、空気のような存在であることが望ましい。
 ウォークマン世代というのは、わたしの数歳上あたりから始まっている。だがわたしにはウォークマンからMD、携帯電話、iポッドにいたる携帯型機器――周囲の外界との遮断を生み出してくれるバリヤーであり、同時に別の世界へとつなげてくれる――への執着が、まるでない。せいぜい、単行本よりも携帯性のある文庫本が好きだ、という程度である。
 会社勤めの人たちにとっては、自らの「プライベート」を象徴してくれる道具なのだろうか。メールでもインターネットでも電話でも「私用」に対する会社側の締めつけと監視は強くなったが、社員がそれに耐えられるのは、携帯電話を持っているからだろう。
 ケータイがあればこそ、公私の別を厳格にすることが可能になる。わたしも会社勤めをしていたら、さまざまな携帯機器で「武装」して、「私」を確立しようとするかもしれない。
 若い人たちにとっては、あれは自分自身なのかも。アドレスやメール、画像など、人間関係、他者との関係のすべてがあの中に入っている――自身のアイデンティティの拠り所。というより、ひょっとするとアイデンティティそのもの?

 量販電器店店頭で、高価な最新型機種を「こういうのはどんな人が買うのだろう」と眺めつつ、一円携帯(略して円タイ)の持ち主は、下らぬことを考える。

十二月十八日
 ミュージックバードの年末特番『ディスクがなくなる日』(十二月二十五日放送、一月一日再放送予定)を収録。
 今年は田中美登里さんの司会で、片山杜秀さんとわたしの二人の対談形式。
 一昨年は『モーストリー・クラシック』の田中編集長(当時)と日経新聞の池田卓夫さんとわたしたちの四人、昨年は許光俊さんとの三人だったから、年ごとに一人ずつ減っている。
 人口減少時代の象徴というわけでもあるまいが、来年は一人、再来年は花瓶(ラジオじゃ見えねえって)となるのも困るので、これ以上は減らしたくない。
 まあ片山さんと二人だと、当方は気楽にしゃべれる。強固な自己を持つがゆえにこそ、自分の意見を押しつけることが絶対にない。また片言隻句にとらわれることなく、当方の言わんとする内容自体を、瞬時に理解してくれる方だから。
 心残りだったのは、時間の都合でダーク・ダックスの《トロイカ》をかけられなかったこと。キング・シンフォネットなる伴奏オーケストラの圧倒的な上手さ――技術とは別の――を聴いてもらいたかったのだが。

十二月十九日
 CDへの散財、というか無駄遣いでは人後に落ちないわたしなのだが(いばるな)、ここ数日、どうしても九百九十九円の商品が買えなくて戸惑っている。
 コンビニで売っている映画『大脱走』のDVDだ。行くたびに見つめたり、手に取ったりするのだが、どうしてもレジまで持っていけない。
 なぜだか、自分でもよく分からない。
 映画の内容は知りすぎるくらいに知っている。同年配の人なら、一九七〇年代にこの映画をフジテレビ系列で放送するたびに、三十六パーセントとか当時でもトップクラスの視聴率を取っていたことを覚えておられるはずだ。最初の放送の季節がいつだったかは覚えていないが、何度目かの再放送は、まさに年末時期にあったような気がする。そういうときは「今日は『大脱走』があるんだ」と朝から楽しみにしたものだった。
 今だって、あの主題曲が聞こえてくると心が騒ぐ。
 でも、DVDを買ったことはなかった――レンタル・ビデオでは一度観た――し、千円札でお釣りが来る今このときを迎えても、手が動こうとしない。
 よくわからないまま、早く売り切れてくれ、早く俺の視界から消えてくれ、と祈る自分がいる。
 なぜ? お手軽すぎるから?
 無理に言葉にすればそれだろうが、何かもっと、皮膚感覚の段階での困惑…。

十二月二十日
 ミュージックバードにて、スペシャルセレクション「心も身体も温まるロシアン・ティーのような音楽を」(二月十三日~十七日放送予定)を収録。
 構成はホンワカ系プログラムの第一人者、山尾敦史さん。数か月ぶりの復帰だが、今回はお時間に少しは余裕があったのか、ちゃんと睡眠をとられての登場。クリスマス間近なので、田中美登里プロデューサー差し入れのケーキ(シュトーレンなるドイツのクリスマス・ケーキ)も登場し、年内最後のスペシャルセレクション収録は、和やかムードで完了。
 午後はBBCコンサートの収録。三本分を一気に録る。ショルティ&チェルカスキーのチャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番は、BBCレジェンズでCD化されているものだが、放送局のオリジナル音源の方が、鮮度がずんと高い。
 なぜなのか、リマスタリングのせいなのかどうかわからないが、デジタル・コピーの時代にも、オリジナル優位の風潮が残ることは疑いなさそうだ。

 帰りにCD店に回ると、ダブルポイント・セールだったので散財する。ユングヘーネルのミサ曲ロ短調を買う気だったから、ちょうどよい。
 落語コーナーへ行くと、落語ブームのためか、新装再発売となるシリーズが増えていた。
 嬉しいのは、NHK音源による「新落語名人選」シリーズの登場。旧「落語名人選」は人数も演目も充実していた大シリーズ――今回のCD帯によると「五十万枚以上を売り上げた」そうな――だったが、カセット・テープ時代そのままの体裁で、裏面にも、そしてたしか解説にさえも年月日などの記載がないため、一九六〇年マニアとしては、手が出しにくいシリーズだったのだ。
 しかし今回からは放送年月日が裏面に表示された。特定の年度だけ買うなんて邪道な人間は少ないだろうが、名人たちの十八番の噺ならたいがい複数の音源が存在しているので、比較確認のためにもぜひとも必要なデータなのである。
 お陰で、柳亭痴楽の『幽霊タクシー』が六〇年八月放送であることが判明して購入。噺自体はかつてテレビかラジオで聴いた記憶のあるものだったので、思い出して懐かしかった。怪談がらみのお笑いだから、痴楽がきっと夏によくやっていて、それを聴いたのに違いない。
 あと別のシリーズで、六〇年元旦の圓生による『妾馬』こと『八五郎出世』が再発されたので購入。『妾馬』の題で出ていた旧盤は入手難になって久しかったから、この傑作が『八五郎出世』と名を変えて――放送時のタイトルはこっちだし、圓生も締めのところでこの題を出しているから、新盤の方が忠実である――買いやすくなったことは嬉しい。
 「らいぶ歳時記」では番号もジャケット写真も原則として一種のみだが、これは併記することにする。
 久しぶりに聴いたが、笑わせた挙げ句にホロリとさせる、「笑いと涙」の芸はやはりこの人の独壇場。圓生の代表盤といって過言ではないと思う。

十二月二十一日
 渋谷にて「クラシック・ジャーナル」誌の忘年会。編集長夫妻と船木篤也氏、安田寛氏、そしてわたしの計五人でイタリアンを食い、飲み、しゃべる。
 クラオタ専業になってからは運動不足で、筋肉が落ちたせいか酒が飲めなくなったが、今日はけっこう飲んだ。
 公開中の某戦争映画を見てきた某氏によると、出来はもう一つとか。やっぱり松林宗恵(昔の東宝の映画監督)は偉かったということになって、『連合艦隊』と『太平洋の嵐』の話で盛りあがる。ちょっと変。

十二月二十二日
 寺山修司による、一九六〇年代のラジオ・ドラマのCD化シリーズ(キング)に、一九六〇年放送のものが二種あるのを発見して購入。
 小学生が大人たちに反乱を起こして、ついに九州に革命を起こすという『大人狩り』は、全学連の学生たちや「左翼小児病」へのあてこすりなのだろうと思うが、なかなか面白い。
 「革命と暴力を煽動するもの」として一部の非難を浴び、当時の県議会でも取りあげられたそうである。
 今日は買わなかったが、翌一九六一年放送のニッポン放送ものは、寺山夫妻自ら出演し、倉本聡がディレクターで、音楽が山本直純だそうだ。六〇年安保後の世相への言及もありそうだから、買おうと思う。

十二月二十三日
 東京以外の日本は雪だらけ。二十年ぶりの寒さというが、一九八五年の冬ってそんなに寒かったろうか。大学生時代、東京に何度も雪が降った年があったのは記憶しているが、あれのことだろうか。
 しかし、あの頃はその冬以外、十二月なのに雪が少なくてスキー場が困っているというニュースを、毎年毎年見ていたような気がする。
 そうだ、当時はスキーが何よりも冬の大きな話題だった。十年くらい前まではこの季節、スキー用品店やスキー場&ホテルのコマーシャルがテレビでガンガンかかっていた。しかし最近は露出が減ったような気がする。今冬などはスキー場にとって万々歳ではないかと思うが、スキーの話題はほとんど聞かない。
 学生がこぞってスキーに行くという時代でもないのか。減ったというよりも、スキーをやる人はやるし、やらない人はやらない。昔なら付和雷同していた層がスキーへの興味を失っているのか。
 思えば、風俗としてのスキーは、ひどく昭和的な遊びなのかも。もはや懐旧の対象になっているのかも知れない。

 昭和的といえば「レコード大賞」の審査委員長の焼死も、不思議。
 誰もが思うのは、いまの衰退した「レコ大」でなぜ怪文書――ネット全盛時代に「怪文書」という表現もどうも…。メールじゃなくてFAXだったのか?――が流されたりするのか、ということだ。
 その最盛期、森進一と五木ひろしの一騎討ちとか、沢田研二がピンクレディに敗れたときとか、昭和のあの頃に起きたら、凄い騒ぎだったろうけれども。万策つきて、スキャンダルに頼るほかなくなったのか。
 今年は読売巨人軍、相撲、NHK、そしてプリンスホテル――スキー業界の象徴――にレコ大など、昭和の残存物の断末魔があちこちで聞こえた一年だった、ともいえるか。
 愛・地球博の盛況という「揺り戻し」もあったけれども、あれはEXPO70よりもむしろ、ディズニーランド現象の文脈で考えるべきかも知れない。
 ともあれ、天皇誕生日。
 ありきたりだけど、「降る雪や」という例の句で締めるか。

十二月二十四日
 山の神と新宿のデパートへ。
 クリスマス・イヴの大混雑を縫って、今ごろやっとお歳暮を発送し、ここなら空いているだろうと中華料理を食うという、ズレズレ生活。
 帰りがけに地下の食料品売り場を通ると、近年よく見かけるようになった、スープとかカレーなどのセルフサービス式レストランがあった。
 そこで二十歳前後の女性が何人も一人で食べているのを見て、ちょっと驚く。
 イヴの晩に一人で安い外食なんて、もてない男なら誰しも経験があるはずだが――わたしもマックでビッグマックとポテトを食った――今は女性も普通にするようになったのか。
 まあ、これは男の勝手な言い分だ。アパートで人目に触れずに自炊したって、ひとりぼっちなのは同じなのだから。
 イヴに女性一人で外食なんてかっこ悪い、という押しつけは、相手を「自炊してテレビ見てるだけ」という状況に追い込むことになるのだから、男性側の偏見である。むしろ、女性一人の外食が日常的な景色になったことは、ジェンダー差別解消のあらわれとして、積極的に評価すべきなのだろう。
 と思いつつも、二十年以上前の自由が丘駅近くの吉野屋の雰囲気を思い出す。
 当時の吉野屋は典型的な「むくつけき男だけの空間」で、客どころか店員にさえ女性はいなかった。それがある日、体育会系のバイトらしき女性店員がいて、店内が妙に殺気立っていた――客の困惑が、そのように現れたのだろう――ことがあったっけ。
 もはや、夢のように遠い昔。

 昔といえば、銀行の磁気式キャッシュカードって、各行のシステムを統一したのが三十三年も前の、一九七二年なのだとか。三十年以上前の技術なんて、安全だと考える方がおかしいだろう。
 カード偽造事件も、昭和の断末魔の一つだったか。

十二月二十六日
 九百九十九円の『大脱走』がコンビニから消えたのを確認して、ひと安心。
 不思議なことに、先日大型CD店に行ったときには、プレミアム・エディションとかいう名前の二枚組を、三千九百八十円だかで売っていた。メーキングとかドキュメンタリーに、日本語吹替のロング・バージョン(廉価盤の日本語は三分の二程度の短縮版)つき。
 でも、本編に変化はないし、コンビニ版の約四倍の値段となると今度は高すぎる気がして、やっぱり手が出ない。
 下がったり上がったり、落ち着きのない値段の波を眺めながら、ゆるまない財布のヒモ。いいぞいいぞ。
 でも、自分が買う気になれる価格帯って、結局いくらなんだろう?

十二月二十七日
 ドリームライフの一月新譜のDVD、バーンスタインのライナー二本を仕上げてからミュージックバードへ行き、「輸入盤ショーケース」一本を収録。
 続いて「BBCコンサート」の今後の予定を、田中プロデューサーと打ち合わせる。二〇〇五年のプロムスを中心に、数週間前に一度予定を組んだのだが、NHKがそれらの音源の日本での放送権を一定期間所有していて、使用できないことが判明したための、やり直し。
 まあ、最新のものはネットなどでも聴取できることを考えると、やたらに新しい演奏会を選ぶより、以前のライヴを有効活用した方が、かえって聴取者の方に喜んでもらえるかも知れない。

 いったん帰宅してから再び外出。新橋のビストロ「ベルラン」へ。
 サイト「Syuzo‘s Homepage」の作者Syuzoさんが、ご子息とともに「関東下向」された(上京とは言わないよな、やっぱり)ので、東京オフ会として仲間九人の忘年会。
 ベルランのコース料理を賞味し、一般のお客さんが帰ってから――われわれはちょっと一般とは言いがたい――蓄音機でSPを聴く。
 高校二年生のご子息と話すのも、面白かった。五年前に会ったときは、まだ小学生だった。いうまでもないことだが、ティーンの五年間と、四十男の五年間とでは、まるで長さの意味が違う。
 人格が形成される過程での長い五年間と、惰性で流れるだけの短い五年間――両者の流れのズレの大きさを味わっていると、まるでミニ・ウラシマ効果(龍宮城に行って帰って来たら、地上では長年月が経過していた、というやつ)を体験しているかのようで楽しかった。

十二月二十八日
 ここ一週間ほどの間に買ってきたCDや、通販で到着したCDを聴いたが、半分以上はハズレだった。まあ、期待や予想がすべて当たったなら、CDを買う楽しみも半減するだろうから、仕方ない。
 期待を裏切らなかったのは、ユングヘーネルのミサ曲ロ短調。
 歯切れよく、しかし刺激的な摩擦音や濁りがない歌声――独唱者が合唱を兼ねて、歌手は計十人のみ――と、柔らかだがコシのある、リズムの弾力。飽きのこない、適度の変化をもつ音色。大仰を排し、なおも充実しきった音楽。
「すべてが適切」としかいいようのないバランスが素晴らしい。音質も同様に、温もりと明快さを両立させた好録音。
 こういうCD、もっと早く聴いてないといかんよなあ。
 あと、ヤン・フォーグラーのチェロによる、アルペジョーネ・ソナタやブラームス歌曲のチェロ版――この人、歌曲をチェロで弾くのが好きらしい。素敵なことだ――などの一枚も気に入った。過度のヴィブラートのない、すっきりした響きで歌うチェロ。
 伴奏のカニーノも、もっと神経質で固い音楽だった記憶があるが、ここではうまく揺らいでいる。ドヴォルジャークのCDのヘルムート・ドイチュもそうだったが、フォーグラーという人は共演者を感化するタイプの音楽家なのだろうか。
 BERLINクラシックス時代のフォーグラーの録音は、品薄になっているようだが、あせらず集めていくつもり。

 午後は南青山のアルファベータへ。次号の「クラシック・ジャーナル」掲載予定の「年間ベストテン」座談会のため。
 石原俊さん、安田寛さんとの三人による昨年の座談会が載った号は、同誌始まって以来最高の売り上げだったそうだ。
 今回は石原さんに代わって、船木篤也さんが参加。途中、第十七号に執筆されたSyuzoさん父子と吉田真さんも顔を見せて、にぎやかな座談会となる。
 昨年は石原さん選定のベストテンを叩き台にする形式だったが、今回は趣向を変えて、三人が事前にそれぞれのベストテンを選んでおいた(岸純信さんもノミネートを出されたが、原稿執筆準備のため、座談会は欠席)。
 しかし、これが見事なまでにバラバラで、「クラシック・ジャーナル」としての綜合ベストテンなど選べるのかと、始まる前は大いに不安だったのだが、やってみると意外にぱっちりと決まる。

 星の数といっては大げさだが、とにかく大量リリースが続くCD界――もちろん、輸入盤を含めての話――で、すべてを満遍なく聴ける人間なんて、この世にいるはずがない。大型CD店に勤めている人なら、とりあえず全部の盤を目にしたり手に取ったりすることは無理ではないかも知れないが、すべてきちんと試聴するとなると時間的に不可能だろう。
 われわれ三人とて、聴いているのは氷山の一角だけ。しかも困ったことに、三人が別々の一角に取りついている。三人のうち二人が聴いている盤はいくつもあったが、三人全員が聴いている盤は、たしかなかったように思う。
 そんな状況で編集長はどうやって話をまとめたか。その盤を選定した者の推薦の言葉に、いかに説得力があったか――聴いていない人間が、どれくらい聴いてみたくなったかどうか、で決めたのだ。
 結果、まるで権威主義的でない、個人の熱意と、それに対する他の参加者の情動の大きさによって、十点が選ばれて順位もついた。全知全能者が存在し得ない現在のクラシック界――全知の者が、はたして全能かどうかという問題はさておき――にふさわしい、しかも言いっ放しではなく会話のある、楽しい選定になったと思うが、さて読者の反応や如何。
 来年の二月二十日頃に発売になるそうなので、乞ご期待。

十二月二十九日
 ある方から二十四日の可変日記について、「沢田健二じゃなくて沢田研二ですよ」とご注意をいただく。お礼のメールと同時にさっそく修正。
 じつは初めに書いたときも「モリシンイチ」のシンの字が思い出せなくて、ネットで調べたのだった。その後も、何か違和感――理由不明のまま、なぜかその箇所に目が行ってしまう。こういうときは必ずどこかに誤字脱字がある――があったのだが、教えていただいて、ようやくその原因がわかった。
 芸能人の漢字とか、かなり忘れていることに気がついて愕然。
 五年ほど前から物忘れがひどくなったのだが、その分、データやカタログへの強迫観念的執着も薄れた――一九六〇年だけを「標本用の小宇宙」として残し、あとは相手が去来するままに委ねられるようになった――ので、個人的にはむしろ幸福なことだと思っている。でも、ここまで健忘症じみてくると、ちょっと恥ずかしい。

 年賀状をやっと書き終えて、深夜に投函する。いつ着くのだろう。

十二月三十日
「クラシック・ジャーナル」誌の年間ベストテン座談会で、船木さんや安田さんの推薦によって「聴いてみたくなった」CDなどを購入。
 それが何であるかは、ベストテンの内容そのものをバラしてしまうことになるので控えておくが、たしかに買って聴く価値のあるものだと、聴いてみてよくわかった。
 あとはまず、ミン吉棟梁が誉めていたフランスのピアノ・トリオ「トリオ・ワンダラー」の一枚。ただし買ってきたのはゲストを加えた五人編成で、シューベルトの《ます》とフンメルの五重奏曲を演奏している(HM)。
 軽捷にして呼吸感豊か。かれらも、風の精エリアルに守護されているような、俊敏様式の音楽家たちである(そうだ、エリアルやシルフこそが、この様式の音楽家たちとともに在る気がする)。
 《ます》が泰西名曲であるのは重々承知しており、「名盤」系は何枚も聴いてきたが、もう一度聴きたいと思う演奏やレコードに出会ったことはなかった。何か、くどさを覚えたからである。
 だがこの演奏は違う。美しい瞬間が風のように、爽快な記憶だけを残して通りすぎていくので、何度も聴きたくなる。
 どうやら、CDを集めたい団体が、また一つ増えたようだ。三人とも――あとの二人はいかにも助演という感じ――見事だが、とりわけヴァンサン・コックの爽やかなピアノが印象に残った。

 チェロのフォーグラーもまた一枚。ショスタコーヴィチとワイルのソナタなどの盤を買う(ピアノはカニーノ)。
 面白かったのは、ここでもファリャの「七つのスペイン民謡」を、二十世紀前半のフランスの名チェリスト、モーリス・マレシャルが編曲したチェロ版で演奏していたこと。
 フォーグラーの「歌」へのこだわりは凄いものらしい。そしてこの一枚でも、「エリアルの歌」が響いている。
 あと、ユングヘーネルもモンテヴェルディの《倫理的にして宗教的な森》を購入。三枚続けて聴くような音楽でもないので、まだ一枚聴いただけだが、やはりいい。これは正月にじっくりと堪能できそうだ。今年最後の買い物は、ハズレがなかったようで満足。

 しかし、どれも数年前に発売されていたものばかりで、職業クラオタのくせして、何をしていたのかという慙愧の思いもある。だがそれよりも、今ようやく邂逅できたことへの喜びの方が大きい。
 何年まわりみちをしようと、何度すれ違いになろうと、それでも出会えるチャンスが残されているのが、レコード文化の恩恵なのだから。
Homeへ