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二〇〇六年
一月一日
 初詣は地元の須賀神社へ。帰ってきて郵便受けを見ると、年賀状の束の下に、箱型の封筒が入っている。
 年賀状以外の配達もきちんとあるんだと感心しながら開封すると、いきなり赤いハーケンクロイツが目に入ってきた。

 年末にネットでアメリカに新古品を注文した、DVD『意志の勝利』(米SYNAPSE。リージョンコードは0なので、日本の機器でも問題なく再生可能)が到着したのだ。
 女性監督レニ・リーフェンシュタールが撮影した、一九三四年九月にニュルンベルクで行なわれたナチス党大会のドキュメンタリー映画――この成功によって彼女は二年後にベルリン五輪映画『民族の祭典』も監督する――である。
 レーム粛清とヒンデンブルク大統領の逝去によって、急速にヒトラーが神格化されていく、ドイツの「狂い始め」を見事に映像に捉えた、かなりアブナイ映画だ。その政治的内容は別として、撮影手法などはその後のドキュメンタリー映画に多大の影響を及ぼした「危険な傑作」とされてきた。
 なにしろ、式典や演説や行進が延々と二時間続くだけなのに、それで飽きさせない――もちろん、観る側に興味と知識は多少必要だが――のだから、凄い。
 観るのは二十年ぶりくらいだが、改めて観ても、構成の妙に引きこまれる。初めから終わりまで、参加する多数の党員たちは職種による制服を着ているのだが――こんなに軍服風の制服だらけの党は史上に少ないのではないか。ナチス党とは、民間人まで制服を与えることで、全体主義の快感を味あわせる「制服全体主義」の党だった、というのがよくわかる――それでも前半は統制が今一つというか、制服を着つけていない、未完成の集団が登場する。
 しかし後半は徐々に、規律のとれた親衛隊の黒い制服が姿を見せはじめる。終盤にはその最精鋭、ライプシュタンダルテ・アドルフ・ヒトラー(直訳すればアドルフ・ヒトラー旗本衆、か。のちに武装親衛隊に発展する)が鉄兜姿で登場、軍隊そのものの威容を披露する。
 民衆が制服と規律を与えられ、その制服が褐色から黒色へと変化するうちに、全体主義国家のエリート兵士へ「進化」する。その過程を、画面に麻薬的な快感として描いた点で、『意志の勝利』はナチズムの一面――国民国家の陥穽――を永遠に固定することに成功したのだ。
 もちろん、この熱狂の先にあるのは、数世代を過ぎても消えることのない、破壊と殺戮と惨禍の傷跡なのだが。

 それにしても、こんなDVDが元旦に到着するとは、何だかちょっと困った年始。まあ、今年がドイツ・ワールドカップの年であることを考えるには、よい端緒なのかも知れない。
 ドイツ再統一後、最初のスポーツの祭典――ベルリン五輪からちょうど七十年目――において、新生ドイツが健康なナショナリズムをいかに表出するかを、この映画を思い出しながら楽しみに待て、ということなのだろう。

 このDVDには付録として、リーフェンシュタールによる一九三五年の短編映画『自由の日』がついていた。こちらは初めて観た。
 ベルサイユ条約を破棄して再軍備を開始したドイツ国防軍の、ニュルンベルクでの大演習を撮影したもの――再軍備=自由なのだ――で、サイドカー、ハーフトラック、六輪装甲車、一号戦車が疾駆し、三十七㎜対戦車砲、二十㎜対空機関砲、八十八㎜高射砲が撃ちまくり、ハインケルの複葉戦闘機などが上空を飛びまわる、ミリタリー・マニア(戦車男)には垂涎の一本だった。

一月二日
 「よしじゅんのホームページ」の主宰者よしじゅん氏から、一九六〇年四月の「らいぶ歳時記」について、ご教示のメールをいただく。
 四月三日の、山田夏精指揮フィルハーモニー交響楽団による《合唱》第四楽章の二十五㎝LPについてのこと。キングの『日本の現代音楽の古典』[KICC二五一]というCDの、長田暁二によるライナーノーツに、このフィルハーモニー交響楽団(長田はフィルハーモニア交響楽団と表記している)の実態はNHK交響楽団だった、とあるそうだ。
 わたしもこのCDを持っているので早速確認してみると、たしかにそうある。しかし恥ずかしいことにこのライナーの内容はすっかり失念していたので、よしじゅん氏にお礼のメールをすると同時にコメントの補足を行なう。
 それにしてもこの盤、山田一雄の音源はこれまでいくつかCD化されているのに、これはわたしの知るかぎり未CD化のようだ――まさか、改名前の「夏精」なので、山田一雄とは別人と思われている、なんてことはないのだろうが。
 小学六年生の鑑賞用教材として録音された盤だそうなので、それと知らずにお耳にされていた方が多いかも知れない。わたしの小中学校の音楽教師たちは、音楽鑑賞をなぜか一切やらなかったので、わたしは聴いていないはずだ。
 合唱が総唱する「歓喜の歌」だけが日本語訳詞で、あとはドイツ語という珍盤だ。中山悌一のあの美しいドイツ語による「おお友よ」なんて、一聴の価値がきっとあると思うのだが。
 山田一雄という愛すべき音楽家のことを、もっと顕彰したいと思う。そのためにもぜひ、この《合唱》をCD化してほしいものだ(都合がよすぎるか)。

一月四日
 東京文化会館小ホールにて、藍川由美さんの「新春を言祝ぐコンサート」。今年の「コンサート始め」である。
 藍川さんの夫君、片山杜秀さんにご招待いただいたもの。前半は「和歌披講」と「和歌独唱」、後半はNHK国民唱歌と国民歌謡・ラジオ歌謡という構成。
 前半の「和歌披講」は、その様子を初めて観たということもあり、とても興味深かった。簡単に言えば「歌会始め」の次第に従い、和歌を朗詠するもの。
 一人が長く伸ばして詠み、続いて藍川さんを含む六人の方々(星と森披講学習会)が節をつけて詠む、という形式により、《君が代》や石川啄木、若山牧水、中島宝城の八首が朗詠された。
 続いて藍川さんの独唱で、右の八首を歌詞とする、平井康三郎や古関裕而などの五曲が歌われた。
 披講の方は、正直にいって、八首とも同じような調子で詠まれたので、当方の集中力が持たなかった。それに比べて歌曲版は、同じ五七調でもそれぞれに個性があり、変化がつくので楽しめた――わたしはやっぱり、和洋の「接ぎ木文化」を生きる現代日本人の一人なのだ。
 後半の国民歌謡は、これは藍川さんがライフワークとされているものだけに、堂に入ったもの。きちんと、叙情が丁寧に歌いこまれていた。
 どうも身体に染みこまないウィンナ・ワルツ――あくまで個人的感覚――を無理して聴くよりは、よほど正月らしい、「コンサート始め」だった。

 帰りは秋葉原で途中下車。未だ訪れたことのない、タワーの秋葉原店へ行ってみようかと思ったが、どうも足が動かなかった。昔から、秋葉原のネオンサインギラギラの雰囲気が苦手なせいか、わざわざ未知の場所に行く気になれない。
 結局、石丸のレコード館へ。以前は何店舗もあったクラシック売り場だが、いまは一店だけらしい。
 石丸といえば、やはり東京最大の海賊CD・Rの巣窟なので、どうしても目がいく。ミンコフスキとかルイージとか、面白そうな盤があるが、ここは我慢。
 わたしは、海賊盤とはレコード文化に不可欠の暗部であり、麻薬や拳銃の闇取引とは違って、根絶すべきものではないと考えているから、その存在自体に目くじらをたてるつもりはない。
 でも買い出したらキリがないし、そもそも日本の海賊CD・Rは、あまりにも高すぎる。それで買わないのである。
 何も買わず、坂を登ってお茶の水のユニオンへ。お茶の水や神保町は、高校以来馴れ親しんだ土地なので、秋葉原の毒気を抜くにはちょうどいい。
 金聖響の《英雄》を中古盤で買う。面白い部分もたくさんあるが、残念なことに音楽が止まっていて、推進する弾力に欠けていた。日本で新俊敏様式の音楽家が出てくるのは、もう少し後の、より若い世代からなのだろうか。

一月五日
 『レコード芸術』から依頼された「二〇〇五年 私的ベスト五」の原稿を仕上げて送る。基本的には「クラシックジャーナル」と同じなのだが、こちらは「二〇〇五年に買ったもの」で、発売が少し前でもかまわないことになっているので、そうした盤をくわえて差をつける。
 以前よりも文章量が増えたので、選択の理由を書けるのが嬉しい。もちろん購入内容が充実していればこそで、仕方なしの選択だったら、困ったに違いない。

一月六日
 家の飼い猫が歯を痛がってどうにもならないので、病院へ連れて行く。
 わたしが移ってくる遥か前からこの家に棲んでいて、あと数年で齢二十歳。尻尾が二股に裂けて人語を解するという、猫又の怪物になる日も遠くない老婆猫だから、歯が悪くなるのも仕方がない。
 幸い、麻酔も打たずに先生が引っ張ったら虫歯が抜けた。先生は後で痛みが残ることを心配していたようだが、家に帰ってきたら、ケロリと忘れたような顔をしている。
 丈夫で長生きなことは、ペットが飼い主に与えてくれる、何より最大の喜びだろう。どうかこのまま、猫又になってもらいたいもの。人語をかなり解するようになっているのは確かである。

一月七日
 渋谷のCD店に「初詣」。人気掲示板「オペラファン達のメッセージボード」の常連投稿者として名高い、ぷーいちさんに出会う。
 じつは当方、ぷーいちさん宛の年賀状でご本名の字を間違える――嗚呼、「沢田健二」現象がそこかしこに――という阿呆なミスを仕出かしていた。年始の挨拶もそこそこに、まず非礼を詫びる。
 偶然にお会いできて、直接お詫びできたのでよかった。これはきっと、十年以上にわたり毎年数十万円もつぎ込んできた、このCD店の神様がお与え下さった「御利益」に違いない。
 それにしても、パソコンの宛名印刷ソフトは重宝だが、いったん間違えると自分では気がつきにくいので、恐ろしい。今回、当方でミスを発見したのは不幸中の幸いだった。こういうのって、相手からは指摘しにくいものだし(もし、他にも同種の非礼を被っている方がおられましたら、どうかお知らせください)。
 じつはわたしにも、何年も続けて「山崎浩一郎」宛に年賀状を送ってくれる、とても優秀で注意深い、得がたい後輩がいるのだが、こっちから言う気にはなれない――奴さんはこんなところ読んでいるはずもないから、ここに書いても無駄なのだが(野木君、もし読んでいたら、後藤の野郎にそう教えてやってくれ)。

 さて、ぷーいちさんからは、リヨンでご覧になった、ミンコフスキ指揮のオッフェンバックの《ラインの妖精》の圧倒的な素晴らしさを伺う。
 別の指揮者のCDを聴いただけでは、それほどの作品とは思えなかったが、ミンコフスキだとまるで違うらしい。
 休憩時も終演後も、たくさんのお客さんたちが、そのメロディを口ずさんでいたそうだ。これはまさに、オッフェンバックならではの魔術である。聴いてみたいものだ。

一月八日
 HDレコーダーに録画したままになっていた『土方歳三 最期の一日』を、やっと観る。
 期待を裏切らぬ出来だった。ただの落城敗北討死物語ではなく、いったん暗くしておいた話に中途で光を与えて、朝日とともに夢を駆けさせる形で展開したのがいい。
 榎本武揚をただの食わせ者にしなかったのは三谷脚本らしい扱いで、視聴後の味わいが爽やかだった。
 榎本役の片岡愛之助は、わたしのような門外漢でさえ去年から気になるほどに目立ちはじめていたが、やはり伸びてきた。次代の仁左衛門はこの人がなるべきだし、そうなってほしいもの。もう少し顔の造作が大きければ、信長役も合いそうだが…。
 その榎本に、最後に馬上から話しかける場面の土方は、本当に素敵だった。
 そして死の場面、
「新撰組副長土方歳三」
と名乗るのは、司馬遼太郎の小説『燃えよ剣』の有名な場面そのままで、やはりこうでなければならないと、観る者を嬉しがらせるのが憎い。
 ただ、司馬版の土方は、江戸脱出以後洋装をし、勝つために西洋歩兵戦術に切り替えていた土方が、最期の一瞬だけ時間を戻して、もはやこの世のどこにもない、旧い役職をあえて名乗るのである。瞬間にほとばしるアナクロニズムが、ロマンに昇華されていたのだ。
 それに対して三谷版の土方は、新撰組を京都以来変わらずに背負っていて、最後も仲間を救うために、あえて勝利を、少なくとも相討ちを捨てて戻るような人間だから、この台詞はごく自然なものとして語られる――というより、この台詞から逆算してつくられた土方像ともいえる。そのため、「なぜ洋装しているか」という点に矛盾が生じるのだが、でも山本耕史の、よい意味で青さを残した土方には、この方が合っている。
 戦死の状況に史実をとり入れた形にしたのも、三谷らしいこだわりだった。
 「ごめんなさい、でいいじゃないか」の佐藤B作もよかった。本編で永井尚志にこの人を起用した意味が、この続編でこそ本当に生きたように思う。
 首脳の中でただ一人、「東照神君家康公以来」みたいな鎧と陣羽織の姿である点に、本物の幕臣の最後の一人――土方や榎本や大鳥圭介は、幕臣としての意地よりも、自分の夢を描くことの方に傾いている――という気概が表れていた。こんなちょっとしたことが、時代劇の想像力なのだと思う。

 続けて『功名が辻』第一回を観る。
「首筋に年齢が出ているドラマ」という印象しか取りあえずは残らなかったが、まあまだ一回目だし…。

一月十日
 ミュージックバードでの「仕事始め」となる、スペシャルセレクション収録。偶然ながら、仕事納めのときと同じく山尾敦史さんの構成で「武満徹特集」。基本的には昨年放送した番組と同じなのだが、ナレーターが寺澤京子さんに交代しているので再録音したもの。
 収録後、山尾さんと一緒に渋谷のレコード店を「パトロール」。「レコ芸」のサンプル盤で気になった、バイバ・スクリデによるモーツァルトのヴァイオリン協奏曲などのソニー盤を買う。伸びやかなフレージングは気に入ったが、訴求力に乏しく、ヘンヒェン指揮のオーケストラも活力不足で、満足できなかった。
 帰宅すると、フランスに注文していたトリオ・ヴァンダラー(ワンダラー)による、シューベルトとハイドンのピアノ三重奏曲集が届いていた。前者は二枚、後者は一枚で、二〇〇〇年と〇一年の録音。ハルモニア・ムンディの供給だが、レーベル名はシャン・ドゥ・モンドである(最近の盤は、ハルモニア・ムンディ・レーベル一本になっている)。
 やっぱりよいトリオ。チェロにはもう少し積極性というか存在感が欲しいが、ピアノとヴァイオリンの爽快な歌いっぷりは、とても気持がいい。

一月十一日
 昨日の渋谷に引き続き、今日は新宿のレコード店をパトロール。
 輸入盤は、同系列でも店によって目につくものが違う――入荷アイテムに差がなくても、陳列にはそれぞれ個性があるし、わたしが買うようなヒストリカル盤は入荷数が少ないだけに、店によって在庫状況が違ってくる――ので、各店を回って「立体的に」眺めないと、見逃すものが増えてしまう。
 アントン=レック指揮フェニーチェ劇場によるR・シュトラウスの《ダフネ》新譜(ダイナミック)を購入。
 新俊敏様式の一人として期待しているアントン=レックだが、旧譜の《ルル》はオーケストラの水準が低すぎた。これはフェニーチェだから超優秀とまではいかないが、まず問題のない技量。
 ただ、作品自体があまり面白いものではない。聴きどころは終幕の変容の音楽だが、ここはレックの軽快な響きが美しく、買った甲斐があった。
 二〇〇五年六月のライヴとあるから、この歌劇場が来日公演から帰国した直後らしい。《椿姫》に出ていたロベルト・サッカがロイキッポスを歌っている。

一月十二日
 アメリカから、キャロル・ローレンスのDVD(VAI)が到着。
 テレビ番組『ベル・テレフォン・アワー』の映像を集めたもの。ローレンスはミュージカル歌手だが、日本での知名度は低い。《ウエスト・サイド物語》のヒロイン、マリア役のブロードウェイ初演者というのが、ほぼ唯一のウリである。
 ただし、ご承知の通り映画版はナタリー・ウッド(歌はマーニ・ニクソンの吹替)に変更され、ローレンスの歌は、OBC(オリジナル・ブロードウェイ・キャスト)盤などでしか聴けなかった。
 今回のDVDを観て、もう一つブレークできなかった理由がわかったように思う。声も容姿もきれいだが、大スターのもつ華やかさがないのだ――ただテレビ・ドラマやコマーシャルの分野では息の長い活動をし、まず「幸福な芸歴」の持ち主であるらしい。
 このDVDを買ったのは一九六〇年の映像があるからで、それは三月にハワード・キール(ハリウッド・ミュージカルで名高い)と共演したメドレーだった。
 気になったのは直前の二月まで、二人が主役のミュージカル《サラトガ》が、ブロードウェイで公演されていたこと。
 不評のために八十公演で打ち切られたこの作品と、その後のテレビでの共演――このあたりの動きは面白そうで、「クラシックジャーナル」の『響・一九六〇年』に使えそうだ。折よく、バーンスタインの話だし…。

 七日の日記で触れた「何年も宛名を間違っていた」後輩から、陳謝のメールをもらう。別の後輩がきちんと連絡してくれたのだ――感謝。
 本人によると、電子手帳から携帯電話から、すべて間違えて登録していたという。わたしも他の方に同じ非礼を仕出かしたばかりだし、ただのミスなのだからこの話はこれかぎり、お互い今後は気をつけましょうということで、一件落着。
 しかし、こういうミスを相手に伝えるのは難しいと、あらためて思う。一度きりなら忘れられるが、毎年くり返されることとなると、どこかで伝えないといけない。仕事の関係なら日数の経たないうちに会うだろうから、直接自然な雰囲気で言えるが、たまにしか会わない相手だと、そうもいかない。
 わざわざそのために連絡するのも、何か偏執的で気持ち悪いし…。

 それにしても、超一流企業の管理職の人からの陳謝メールが、こんなに快感とは思わなかった――クレーマーなる方々の気持が、少しわかったような気がした――嗚呼、ひねこびた「下流人間」の卑しさよ、下劣さよ。自己嫌悪自己嫌悪。

一月十四日
 近所の家が少し前から売りに出ているが、条件が合わないのか、なかなか売れないようだ。
 家のあたりは、今でこそ普通の住宅とアパートばかりの住宅街だが、かつては三業地(置屋、待合、料理屋という、芸者遊びをするための三業種の店がそろっている地域)と呼ばれた花柳界だった。
 そのためか、周辺には芸者さんが旦那に家を建ててもらって住んでいた、という場所がいくつもある。
 そうした敷地のいくつかには、小さな平屋の、見ほれるほど瀟洒で、粋な日本建築が建っていた――この十年ほどの間に次々と取り壊され、今はほとんど残っていない。
 家主には子供がいないことも多く、亡くなったあとには、どこかから親戚(甥とか姪)がやってきて、住んでいた。
 面白いのは、そうした直系でない相続者のほとんどが、その後結局は家を手放してしまった――それも、あまり幸福でない状況で――ことである。
 あぶく銭は身につかないということなのか。相続税だけで、棚ぼた式に手に入れたような家は、むしろその人の人生を狂わせる仕組みになっているらしい。

一月十六日
 夕方、近所の公園の脇の道を歩いていたら、視界の左端の公園の中に、異様な違和感を覚えた。
 すぐには原因がわからなくて、違和感があったあたりを見つめなおすと、何かが、公園の樹の枝から吊り下げられているのに気がついた。
 逢魔が時の薄明のために、見分けにくくなっていたが、やっとわかった。
 カラスの死骸だった。
 文字通りの「奇妙な果実」。カラスへの見せしめに、誰かが殺して下げたのだろう。実効があるのかどうかは知らないが、子供も遊ぶ公園でやるには趣味のいい方法ではないのは、確かだ。

 ところで、動物の死骸というのは、なぜそれと認識できる前から、強い違和感を与えるのだろう。
 ――何か見てはいけないものがある。
 この感覚が、必ず認識より先に来る。
 以前、家に棲みついていた野良猫――私になついていたが、家の老猫と折り合いが悪いので、かわいそうだが屋内で飼うことはできなかった――が、私に見せようと二日連続でネズミを獲ってきて、玄関先に置いていったときもそうだった(狩りの仕方を教えようとしているそうな。いいよ、そんなことしなくて)。
 見てはいけないものがあるぞ、という正体不明の不気味な感覚がまずあって、それから一瞬おいて、そこにネズミの死骸があることに気がついたのだ。
 これは何なのだろう。死骸を拒絶しようとする(忌む)無意識の感情が、網膜に写って、眼がすでに識別しているはずの「それ」への認識を、遅らせるのだろうか。そのズレが、先触れのような違和感となって、現れるのか。
 人間は、見たくないものを見ず、聞きたくないものを聞かずにすませようとする。しかしそれを上回って、先行する違和感はつねに強烈である。
 それとも、何であれ「死」が起きているという、異常と危険への、直感的な警報か。認識よりもはるかに早く、生存本能が察知して発するものなのか。
 こういう感覚と認識の時差は、他の場合はほとんど感じないが、強いてあげれば、まだ見つけていない誤字脱字の、その存在のみを感じているときの、あの違和感か。とすれば、視覚と認識の齟齬こそが違和感の正体、ということになる。
 すでに視覚しているのに、認識の方は「こうであるはず」という思い込みにとらわれて、無意識に修正してしまう。そのために歪曲された視覚からの抗議が、あの違和感になるのか。

 ともあれ「逢魔が時」とは、よく言ったもの。ろくなことを考えない。この不吉な時間が昔から嫌いだ――嫌いということは、強く意識してしまうわけだが。

一月十八日
 高田馬場にて音楽之友社の編集者二名と、打ち合わせ風の飲み会。しかし、結局は映画『空軍大戦略』でロン・グッドウィンが作曲した「エース・ハイ・マーチ」は素晴らしかった、というような話に終始する。

一月十九日
 わたしはシューベルトの「幻想曲」というタイトルを持つ二つの作品、ヴァイオリンとピアノのためのD九三四と、二台ピアノによるD九四〇が好きである――単純な好悪より、恩師三谷礼二との思い出にかかわる曲、という理由も強いのだが。
 レコード店に、その二曲の新譜が並んでいたので購入する。
 前者はイザベル・ファウストとアレクサンドル・メルニコフによるハルモニア・ムンディ盤で、親近感のもてる好ましい演奏。後者はキーシンとレヴァインによるRCA盤。ただしこれはカーネギー・ホールでのライヴ盤で、会場の規模も演奏者の音楽性も、この曲より、同時に演奏されたグランド・デュオD八一二の方がふさわしいようだ(追記 運動性の非常に高い、じつにカーネギー・ホールらしい元気な演奏だった)。
 話題のシュタイアーのフォルテピアノによるモーツァルトのソナタ集も買ってきた。たしかにトルコ行進曲楽章は面白いけれど、他はどうなのだろう…。

 夜はオペラシティのコンサートホールへ、東京フィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会に行く。某紙に演奏会評を書くため。

一月二十日
 まだカラスが下げられていた。真冬の奇妙な果実。
 いろんな原稿締切がつみかさなって、氷山に囲まれて行動不能になった南極観測船のような状態になる。ここ数年、なぜか毎年一月はいつもこうである。

一月二十一日
 ライブドア問題で世間は大騒ぎ。でも何が明確な違法行為で、何がグレーゾーンなのか、よくわからない。
 たしかに錬金術じみた「まやかし」なんだろうけど、投機なんて、もともとそんなものではないか。ただ、仕手戦などと得意になっていた時代には、一部の限られたプロ同士の「戦場」だったのに、今は一般人――選挙にも出られるくらいの「堅気」の人――もたくさん参加する「仁義なき大衆投機社会」になったというだけのことだろう。
 紳士ヅラした素人の方が、プロよりもはるかにえげつなかった、というのはバブル期にも言われていたことだし。
 ところでホリエモン自身は香山リカのいう「貧乏クジ世代」の勝ち組だが、側近たちは三十八歳、「バブル期入社組」だったのか。

 某紙から依頼された、十九日の東フィル定期の評を書き上げる。CD評と違って、曲目や出演者などのデータを本文に無駄なく組み込む必要があり、慣れないので手間がかかる。
 しかしこの方式はうまく使えば、データ紹介にも起承転結をつけることが可能になるわけだから、色々と工夫できそうだ(今回はそんな余裕がなかったが)。

一月二十二日
 NHKの『氷壁』第二回を録画して観る。寒いので、厳寒の景色にも感情移入しやすい。硬派の展開が楽しみ。しかし『クライマーズ・ハイ』といい、最近のNHKは穂高の屏風岩が好きだなあ。
 『功名が辻』も、第一回の力みが消えて観やすくなってきつつある。主人公たちを狂言回しにするくらいでないと、大河は面白くない。
 竹中半兵衛(いいなあ、筒井)が亡き道三への「義」を唱え、しかし「義」を貫けばたくさんの人が死ぬことになる、と嘆じたのは面白かった。
 これは疑いなく「正義のお人」石田三成の出現を予言する言葉で、一豊と千代の人生の転機となる、関が原合戦への伏線なんだろう。だからこそ、後半に出てくるだけの三成役に、わざわざ中村橋之助を据えているのか――島左近は誰だろう。いい役者だといいけど。
 ということは、それと対置される西田敏行の家康は、司馬版の家康ではなく、「戦国の終結と泰平の招来」を本願とする、山岡荘八版みたいな人間になるのかも。一本気な一豊は三成の「義」の美しさに心惹かれつつ、「泰平」を望む千代に従って家康に味方するのではないか。
 こんな想像を弄ぶのは楽しい。

 それにしても今回は香川照之、武田鉄矢と、柄本明以外に大河で秀吉をやった人間が二人いた。やがて西田も出てくるわけだから、秀吉役者が四人もいることになる。いっそ緒方拳と竹中直人と火野正平も出して――中村トオルもいるか。あれは、ちょっといいや――「七人の秀吉」なんてのも面白いかも。
 そしたらまた黒澤の息子が「盗作だ」とか損害賠償を求めたりして。

 サッカー、六月には平山が必要な気がしてならないのだが。今のチームに必要な「伸びしろ」をもたらすのは、かれしかいないのでは。
 このままの編成だと、あまりにも経験豊かな今のイレブンは――いつか懐かしく思い出す、伝説のイレブンになるだろうことは疑いないが――戦う前に老成しすぎている気がする。
 ワーテルローの戦いのときの、フランス老親衛隊みたいなことにならないといいのだが…。

一月二十四日
 ミュージックバードにて「スペシャルセレクション」収録。
 内容は「ドイツ・オーストリア バロック紀行」で、三月十三日~十七日放送予定。構成は矢澤孝樹さん。
 今回はわざわざ水戸から来ていただいて、非常に内容の濃い、意欲的なプログラムをつくっていただいた。感謝。

一月二十五日
 FM東京の、可動式CD棚の奥でCD出しをしていたら、他の方が別の棚を見ようとスイッチを押したため、迫ってきたCD棚にあやうく挟まれそうになり、飛び出して逃げる。
 安全スイッチを入れていなかった当方のミスで、相手の方に責任はない。
 まあ、CD棚に挟まれて圧死なんて、クラオタ冥利につきることかもしれないが、大量の仕事と締切を残して死ぬわけにもいかないから、ひとまずよかった。

 あとで一人で思い出して笑ってしまったのは、CD棚が動き出した瞬間に、思わず
「アカッ!」
と叫びそうになったこと。
 国際共産主義者の陰謀だとか、そういうことではない。以前関わっていた送電線建設の現場では「スイッチを止めろ」ということを急いで伝えようとするとき「アカッ」と言っていたのだ。
「その瞬間に止めないと危険だ」というニュアンスがかなり入っている言葉――もちろん、赤信号から来たのだろう――で、手を水平に横へ払うという動作を、言葉と同時に行なうことになっていた。他の建設業界でも、たぶん同種の用語を使うだろうと思う。
 でも、放送業界の人はきっと知らないだろう。本当に叫んでいたら、いったいなんだと思われたことか。「バカッ」と怒っていると思われたかも。それを考えていたら、可笑しくなった。

 そういえば建設業には「ヒヤリハット運動」というのがあって、日常の作業の中で、事故や怪我までにはならなかったが、あわやというケース、つまりハッとした、ヒヤリとしたという「ヒヤリハット」事例を余さず報告しましょうということになっていた。
 一件の死亡事故の背後には、それと同じ原因による数十件の負傷事故があり、さらにその背後には数百件の「ヒヤリハット」事例があるという統計に基づき、「ヒヤリハット」の段階で検討することで、大事故になる前に危険の所在と要因を見つけ出そうという運動だった。
 今回のは、まさに「ヒヤリハット」事例の典型だ。でも、それを報告する相手が今の自分にはいない。山の神に言ったって「気をつけなさいよ。馬鹿ねえ」とか返ってくるだけだろう。
 ヘルメット姿の数十人の仲間と「ヒヤリハット」をやっていた日々――じつはそうした現場の一つが矢澤さんのご実家の近くだったということもあって、思い出したのだが――あの時代に帰りたいとは決して思わないが、懐かしさは、またそれとは別の感情である。
「はっとしてもひとり」
 お粗末。

 レコード店に行くと、矢澤さんご推薦のヴァイオリニスト、レツボールによるビーバーのロザリオ・ソナタ(ARCANA)が目に留まる。
 昨年十月号の『レコ芸』のバロック特集で、矢澤さんの書かれた熱烈なレツボール賛を読んで以来、その録音が気になっていたのだが、どういうわけか買う機会を得なかった。
 それにここで出会うというのも、何かの縁に違いない。というわけで買って帰り、早速聴く。
 面白い。たしかに激烈で、ここまでイエスとマリアの物語を描写音楽的に表出した演奏は少ないだろう。
 しかし、それよりも気に入ったことがある。レツボールの音楽の呼吸が、非常に深いものであることだ。
 こうした呼吸を一緒にさせてもらうために、わたしは音楽を聴いている。矢も盾もたまらず、ネットで他のレツボールの盤を注文する。
 教えてくださった矢澤さんに、ふたたび感謝。

二月一~四日
 先月下旬以来、ひたすら雑誌の原稿やライナーノーツなどを書く。家から一歩も出ず、寝食の時間も惜しんで、一心不乱に書く。
 いや、ほんとですってば。

 徳岡直樹さんという方から、一九六〇年の「らいぶ歳時記」四月一日のミュンシュ/ボストン交響楽団の演奏会について、フォーレのバラードのみは一九八七年にM&AがCD化していますよ、というご教示をいただく。
 M&Aがレコード化していたらしい、という情報は知っていたのだが、詳細が不明のため書いていなかった。しかしご教示によって番号も判明したので、お礼と同時にページを手直し。

二月五日
 ベトナムで投資コンサルティング会社を興した、大学時代のサークルの同級生の結婚パーティに出席。
 相手は現地の女性で、式と披露宴は向うですでに行なった由。だから日本での会は、本人は昼食会にしたかったそうだが、ご両親のご意向もあって、多少披露宴ふうな形式に。これも親孝行だろう。
 とはいえ、始まってまもなく新郎新婦のひな壇席を離れて、大学の同級生がいるわたしたちのテーブルに席を移し、一緒に食事・歓談。
 某団体の大阪支部長を務めるK(その団体関係の裁判で大変だそうな)、三島で高校教師をするIなどとゆっくり話すのは、たぶん十五年ぶりくらい。

二月六日
 ミュンシュ盤について教えていただいた徳岡直樹さんから、今度はデジカメで撮影したジャケットを送っていただく。ご親切に再び感謝。
 ところでわたしは不勉強で存じあげなかったが、徳岡さんは現在台湾で指揮者として活動中で「クレモナの銘器の収集で世界的に有名な、台湾の奇美実業が三年前に設立したオーケストラの育成」を主な仕事として、台南にお住まいとのこと。前日に会った友人がベトナムで活躍中ということもあって、東南アジアで頑張っておられる方に対しては、手前勝手な共感を抱かずにはいられない。
 拙文をきっかけに「ホフマン、ソロモン、ピンツァ、ボダンツキー、パピ」などの音楽家の録音を聴いておられるという方が、現役の指揮者として活動されているとは。嬉しくもあり心強くもあり、しかし同時に、好きだからというだけで書き散らしてきた自分の仕事に、空恐ろしさを感じてもみたり。
 ともあれ、ますますのご活躍を祈念する。

 しかし「台南」と聞くと反射的に「台南航空隊~ラバウル~坂井三郎一飛曹と笹井中尉」とか連想してしまうこの軍事脳、なんとかならんのか。

二月七日
 ミュージックバードにて、スペシャルセレクションの収録。今回は自分が構成して、ノリントンの特集(三月二十日~二十四日放送予定)。
 ヘンスラー盤をかけながら準備をしていると、元気づけられているようで嬉しい。一方、EMIやデッカ、ソニーなどの盤を聴いていると、肩が凝ったり飽きたりするのは、なぜなのだろう。この人は本当に、シュトゥットガルト放送交響楽団というオーケストラと、ヘンスラーというレーベルと、幸福な出会いをしたのだと思う。
 続いては「BBCコンサート」で、二月十九日放送予定のウェルザー=メスト指揮ロンドン・フィルの九三年プロムスのライヴ。この人のブルックナーの七番のCD(九一年プロムスのライヴ)を聴いたときに感じた「呼吸感の復活」が、現代の俊敏様式との出会いにつながってきたことを、あらためて思い出す。
 この人がその魁になるなんて、あの頃は「淡い、身勝手な期待」以外の、何物でもなかったのだが…。

 帰りにCD店に回ると、ラルス・フォークトのハイムバッハ音楽祭シリーズのブラームス室内楽セット三枚組が、三三五〇円で売られていたので購入。
 一枚目のザビーネ・マイヤーとのクラリネット・ソナタ集が冴えず、これは失敗したかと思ったが、二枚目のテツラフとのヴァイオリン・ソナタ集と三枚目のペルガメンシコフとのチェロ・ソナタ集が素晴らしい出来で、満足する。
 テツラフのフレージングは個性的で、歌うというのとはちょっと違うのだが、にもかかわらず呼吸感が豊かで、音楽にスケール感がある。フォークトも一枚目とは別人のように鮮烈な響きを聴かせていて、「大きなものを聴いた」と感じさせてくれた。
 この録音の一年半後にガンで亡くなるペルガメンシコフも、そのどろりとした重厚な響きが、ブラームスにはぴったりだった。

二月八日
 きちんと読めずにいた本を二冊。
 まずはヒラリンこと、平林直哉さんの『盤鬼、クラシック100盤勝負』(青弓社)。「CD100選」と「SACD50選」がメインで、読みやすくて面白い。一枚のCDがあって、それについてコメントがあるという方式は、読者にとって把握しやすいし、ハンドブックとしての実用性も高い――自分もこの方式で書いてみようか、などと妄想する。
 最近の青弓社の本には、いくつか横書きのものがあって苦手――どうしても買う気になれない――だったのだが、これは縦書きで助かる。

 もう一冊は、恩師三谷礼二の『オペラとシネマの誘惑』(清流出版)。
 十五年前に亡くなった方の本だから、書き下ろしではない。学習院高校時代の後輩という蓮實重彦の談話を序文代わりにして、続いて鈴木清順と吉村公三郎両監督と三谷さんの映画についての対談があり、後半は『ディスクリポート』とその後身である『CDジャーナル』の、一九八三年から九二年にかけての連載コラムがまとめられている。
 自分が三谷さんの元を出入りしていたのは八〇年代後半の数年間で、このコラムが書かれていた時期に重なる。だからどの文章もなつかしい。
 百九十九頁、『CDジャーナル』八六年十月号掲載の「また、めぐり来た八月に」の項に、
「今私が夢中なのは、フェリシティ・ロットという歌手である。彼女は、欧米では有名だが、日本では無名だ。(…)今聴いているCDは、ヴィクトル・ユーゴーの詩についた歌曲ばかりのアンソロジーである。(…)ロットの歌うビゼーの『アラビア女の告別』などは、いくら聴いても飽きがこない。『歌』は、ひとりひとりの生命の原点だ」
とあって、嬉しくなった。六本木WAVEで買ったこのハルモニア・ムンディ盤を三谷さんの家に持っていって、聴いてもらったのは、わたしだったから。

 自分はとても面白かったのに、『レコード芸術』などでは酷評されたり無視されたりしているもの。そういうCDを三谷さんに聴いていただいたのだった。
 いちばん初めは、ツェートマイヤーのヴァイオリンと、フレージャーのフォルテピアノによる、クロイツェル・ソナタ(テルデック)だった。躍動感と推進力に満ちたこの演奏が、『レコ芸』では数行で片づけられていた。それがどうにも不思議で、「これってよくないんでしょうか」とテープに録って、上大崎のご自宅に持っていったのだ。
 数日後に「いやあ、あれはとてもよかったよ。面白いじゃない」とおっしゃっていただいたときの喜びは、今でも忘れられない。自信も、何のよりどころもない一介の学生にとって、三谷さんのような鋭敏な人に自分の感性を認めてもらえたことが、どれほど嬉しかったか。それは、とても言いつくせるものではない。
 あるいは、若造の気持を挫くのもかわいそうだと思って、大げさに誉めてくれたのかも知れない。そんな機微のわからない当方の、勝手な誤解だったかも知れない。たとえそうだったとしても、わたしがこの稼業につくことになったのは、このときの誤解がきっかけだった。
 しかし、数年間お邪魔させていただいたあと、わたしは三谷さんの元から逃げた。無学無教養なただのクラシックおたく、という自分の正体がばれてしまうのが怖くなったからだ。
 亡くなられる前に頭を下げに行って、きちんとお別れすることが出来なかったのを、今でも悔やむことがある。いつかあの世で再びお会いしても、口をきいてはもらえまい。
 演出を学んだわけではないから、三谷さんの弟子ともいえない。誤解を招かないようにあえて書くが、この世界に入ったのはその後で、別の方々が機会を下さった結果だから、三谷さんのお力や伝手を借りてはいない。
 しかし、あの日の「いやあ、あれはとてもよかったよ。面白いじゃない」というお言葉が、すべての始まりだったことは疑いない。あの言葉を聞いていなければ、音楽について公然と書いたり語ったりする勇気を持てるはずがなかった。
 その意味で、わたしがこの世にある限り、三谷さんは絶対の恩人なのだ。

 個人的なことに脱線してしまった。
 前半の映画についての部分は、わたしなど観たこともない映画も多い。ただ、目に鮮やかに焼きついたのは、次の箇所である。

三谷――僕は記憶違いのある映画は名作だと思ってるんですね。
鈴木――あははは(笑)。
三谷――それだけ勝手なイメージを誘発してくれるわけだから。大した作品じゃないと誘発もしてくれないから、その通り憶えているわけで(笑)。だから面白い映画を見ている最中は、他のことを考えたり、自分の中でバリエーションを作ったりということがありますね。だけどそういう行為の連続状態が、最終的には僕は映画を見ることだという気がするんですけどね。

 この「記憶違いのある映画は名作だ」という素晴らしい言葉について、蓮實重彦は当時の学生たちが
「名画座にかかるものはいいけれども、かからないものは見られるまでずっと待つわけです。そうすると、みんなでそのショットを言い合いながらいくしかないんですが、喋っているうちに、間違いなく、ない場面をつくってしまったりする(笑)」
と補足している。三谷さん自身も
「僕は映画は記憶し、追憶し、語るために見るという非常に詠嘆的、退嬰的な見方の映画ファンで、新作がどういうのが出来るかというより仲間と会って昔の映画の話をした方が楽しいという、ある一時期の映画ファンの典型なんですね」
と別の箇所で自己規定している。

 たぶん、三谷さんは「記憶違いのある演奏は名演だ」ともいいたかったに違いない。わたしが二十年前にうかがった、六〇年代欧米の名演奏家たちの演奏ぶりの逸話にも、おそらくは「記憶違い」がたくさんあったに違いない。
 しかしそれゆえにこそ、三谷さんが身ぶり手ぶりで語る逸話の中の演奏家たちは、光り輝いていた。記憶力のいい二十歳代前半にそうした話を直接に聞けたことは、わたしの宝である。
 わたしが今それを語ろうとすれば、わたし自身の「記憶違い」がたくさん入るに決まっている。
 でも泉下の三谷さんは、きっとそのことは――そのことだけは――笑って許してくれると思う。

 そういえば数か月前、現役の学生さんから「演奏家や学者でもないのに、ただのクラオタなのに、何を根拠に自分の美意識を語るのですか」という意味のことを尋ねられた。
 とっさのことで、うまく答えられなかったが、ここで答えよう。恥を知らず、偉大な先人の言葉を借りて、答えよう。
「よき人に出会えたから」

二月八日(続き)
 昼食をとりに出ると、津の守坂にある二階家(一階は飲み屋だが、かなり前から営業していない)のまわりに、見るからに記者らしき人々がたむろしている。
 何事かと思ったら、例の法隆寺で仏像を盗んだ男の倉庫が、その建物内(二階だろうか)にあるそうな。あとでニュースなどを見たら、家宅捜索によって仏像十八体が発見されたという。
 古い木造の、今にも穴が開きそうな建物なので、とても意外。

 意外といえば、昨日の紀子さまご懐妊にも驚いた。外国の特派員がすっぱ抜くのが恒例の皇室ニュースが、こんな早い段階で漏れたことは明らかに皇室典範改訂阻止派の行動なんだろうけど、それ以前に、この時期にご懐妊という事実自体が、あまりにも絶妙なので驚き。
 小泉総理がいつもの調子で強行しようとした直前だけに、作為とか謀略とかを勘繰りたくなるほどのタイミング。何らかの医学的操作とか、あるいは逆に超自然的な「天皇霊」の意志とか、そんなものを考えたくなるけれど、おそらくそんなものは何もない。
 歴史上の出来事にも、あまりに都合がよすぎて、黒幕の介在を疑われている――というよりそれを願いたくなる――事件(ほとんどは生ではなく、死にかかわることだが)がいくつもあるけれど、今回の玄妙さを見ると、できすぎた偶然というのは確かにあるのだと納得。
 でも、問題の先送りにすぎないことも事実。お生まれになる宮様が女性なら、改訂はいよいよ避けられない。男性としても、とりあえず男系の皇位継承者が一人増えたという、ただそれだけのこと。将来的に天皇以外の皇族がほとんどいなくなる可能性は、高いままだ。「東宮」の位置づけも難しくなる。
 わたしは女系天皇も認めるべきと考えている。男系でなければならないというのは、単なる先例主義以上のものではない。まあ、「駄目なものは駄目」という宗教的信念だから、理屈で説得するのは不可能だろうが。
 ひどく遠い旧宮家の男子をかつぎ出すくらいなら、いっそ後南朝の末裔を捜しだして、皇統をお返ししたらどうか。水戸史観ではそっちが正統なんだし。
 六百年ぶりの「皇の帰還」なんて、よっぽどファンタスティックじゃないか。

二月九日
 史料調べのために、上野の音楽資料室と日比谷図書館を目指して外出。
 ところが上野は休み。一階のエレベーター前に置かれた日程表を見ると、人員不足のためなのか、通常の公共図書館よりも休館日がはるかに多い。これからは事前に調べて行動しないと、今日のように無駄足を踏む可能性が高そうだ。

 仕方なく早めに回ることになった日比谷は、もちろん開館中。ここでは関西の漫才師で、中田ダイマル・ラケットに次ぐ吉本の看板だったという、松鶴家光晴・浮世亭夢若のことを調べる。
 この二人の『社長哲学』という漫才が一九六〇年十月三日という放送日(データは草柳俊一氏のサイト『道楽三昧』による)で存在し、CD化もされている。しかし浮世亭夢若がその十月に、副業の事業で作った借金を苦にして自殺し、コンビが消滅しているらしいのである。
 具体的な日付がわからないので、当時の朝日新聞を調べてみたいと思ったのだが、関西の事件のせいか、それとも吉本が抑えたか、東京版には載っていない。
 そこで書籍の方にあたると、足立克己の『上方漫才史』(東方出版)という本に出ていた。
 十月五日の夕刊各紙に記事が出たとあるから、どうやら十月四日の深夜に、潜伏先の紀州白浜の旅館で睡眠薬を飲み、死亡したらしい。
 ということは、遺された音源は死の、まさに前日に放送(録音はその一週間ほど前だろう)されたもの、となる。
 あまりの時間的関係の接近に、しばし呆然。
 当時の新聞そのものを確認したいが、大阪版となると、国会図書館にでも行くしかなさそうだ。あそこに行くと丸一日をつぶすことになりそうでいやだから、関西に行く機会があったときにでも調べることにしよう。
 一九六〇年には、何らかの因縁を持った音源が少なくないのだが、それがまた一つ増えた。それにしても、後味のよくない因縁である。気軽にあの漫才を聴くことは、今後は難しそうだ。

二月十二日
 山の神の亡母の命日なので、レンタカーを借りて多磨霊園に墓参り。
 地方出張が長かった五年前までは必需品だった自家用車だが、いまは必要なときに借りるだけ。子供でもいれば、そうはいかないのだろうが。

二月十三日
 五日の友人の結婚披露宴で会った大学時代の友人たちの一人、Kさんから「可変日記」を読みましたよ、というメールがくる。
 なんと、一八九八年生れのご祖父君も旧制京華中学(昨年十一月十七日の日記をご参照あれ)の卒業生だったそうで、名簿を眺めるたびに「昔はいい学校だったのに」と嘆かれておられたそうな。
 不肖の後輩として、何だか申し訳ない気持になる――べつにわたしが悪いわけではないのだが。

 新宿にて「レコード芸術」編集者と一献傾ける。「小皿叩いてちゃんちきおけさ」ならぬ、「小皿叩いてエースハイ・マーチ」。
 さらに往年のアニメの主題歌の話などで盛りあがる。途中ティオムキンの「皆殺しの歌」のことになり、あれを聞いてアル中の震えが止まるディーン・マーティンがかっこいいんだ、などという話になるが、二人とも最後まで映画の題名が思い出せないまま、お開きとなる。
 もちろん『リオ・ブラボー』。嗚呼。

二月十四日
 ミュージックバードのスペシャルセレクション収録。今回は前島秀国さんの選曲構成で「ノンサッチ特集」(四月十七日~二十一日放送予定)。
 春の平日の午後に六時間続けてライヒの音楽が鳴ったり、クロノス・クァルテットの演奏が響いたりするという、ミュージックバード以外には不可能な企画。聴取者の反応が楽しみ。

二月十五日
 アルファベータにて、社長兼編集長と新しい単行本企画の打ち合わせ。座談会の載った『クラシックジャーナル』見本をもらって帰る。よくまあこれだけベラベラしゃべったものだ…。

二月十七日
 今日こそはというわけで、上野の音楽資料室へ。
 一九六〇年の『音楽の友』を見ていたら、コルトーの演奏解釈講座(マスター・クラス)についての記事があることに気がつく。今まで見過ごしていたのは、録音はないと思っていたからだろう。
 ソニーが出した三枚組『マスター・クラス』には一九五四~六〇年録音とあるだけで、どこが一九六〇年の録音か判然としないのだが、それでも一九六〇年は二月二十九日から三月二十五日までの十二回、という日程が判明しただけで、不思議に目鼻がついた印象になる。
 突然《トリスタン》の一節を弾いたりなど、コルトーのロマンチシズムが瞬間的に迸るさまにゾクゾクするこの盤、日程が判明したことで「らいぶ歳時記」への掲載が可能になった。
 隅々まで読んだつもりの史料でも、機会あるごとに再読が必要なのだと痛感。

二月十七日(続き)
 このところ元気がないらしい、という噂だけ聞こえていて、心配していた友人から、ようやく電話をもらう。
「三谷幸喜って、三谷礼二さんの息子なの?」という、相変わらずのおバカな言葉を聞いて、一安心。
(違います。念のため)

二月十九日
 気がつけば、昨年四月からほぼ月イチで更新してきた『ビーチャム蕩尽録』も最終章。
 戦後のLP・ステレオ録音時代を一回で終わらせてしまったのは唐突というか端折りすぎだが、この記事を付録としていたディスコグラフィの連載が終わったので、それに合わせたためである。
 まあ、当時の自分のビーチャムへの関心はもっぱら「歌劇場人」としての姿に限られていたので、これ以上はもういいと思ったのも事実である。
 ビーチャムのセッション録音のオーケストラ曲には、ほとんど興味がない。その後、BBCレジェンズなどでライヴ録音盤の発売が相次いだから、今ならまた書きようもあるだろうが…。

 思いたって、「らいぶ歳時記」の更新情報を独立させる。
 いままでトップ・ページの更新案内には載せていなかったのは、マニアックすぎて、何人の方が見ているかもわからない部分だからである。また、更新自体がそれほど多くないだろう――実際には意外と多かった――と思ったためもある。
 そこで各月の初めに更新情報を書いておいたが、だがこの場所だとバランス的に、あまりたくさんは書いたままにできないし、いちいちページ自体を開かないと更新の有無がわからないのは、閲覧者にとって不便である。
 内容がマニアックだからこそ、むしろ使い勝手はできるだけよくすべきではないか、などと珍しく殊勝な気持になり、とりあえずやってみる。
 面倒くさがらずに、初めからそうすればよかったのにとも思うが、最初からあまり大きな計画を抱いたら、もてあましたにきまっている。
 このページを作るときにまず心がけたのは、「工事中」という看板だけの項目をつくらないことだった。
 公開できる段階になるまでは、伏せておく。予告を出してしまうことで自分自身に「催促」することが、わたしの場合は、性格的によい結果にならない――単にプレッシャーになるだけ、と考えたからだ。

 しかし考えてみれば、ネット文化というのは、その全てが「工事中」みたいなものだ。固定されたものなど何もない。あとから、いくらでもいじることができるのだから。だとすれば「工事中」なる言葉は、いわでもがなのことを確認しているだけ、ともいえる。
 むしろ「この箇所はいついつをもって固定し、以後一切改変せず、可能な限り掲載を継続します」などと宣言することの方が、ネットでは意義のあることかも知れない――もちろんそれだけでは当事者の自己申告というにすぎず、確実な保証はないが。
 何にせよ、流動的なことが進化につながるのなら嬉しいが、逆に消える可能性もある。どんなに有益なものも、いつ変わるか、消えてしまうかわからない。
 たとえば、以前のミラノ・スカラ座のサイトには第二次世界大戦後の公演記録がデータベース化されていた。上演回数の計算法などに問題があったけれど、とても便利なものだった。
 ところが、先日リニューアルしてからは、当方の探しかたが悪いのか、どこかに独立したのか、見当たらない。
 もちろん、あれだけのものをこれまでタダで利用させてもらったことに、ネット乞食の一人として感謝する。タダだったのだから、無くなっても文句をいう筋合いはない――そう納得はしても、やっぱり喪失感は大きい。「ネット乞食は、三日やったら止められない」のだ。
 単に「工事中」ならいいのだが。その看板も出ていない。
 あ、そうか、こういうときに安心感を与えるために「工事中」がいるのか…。

二月二十一日
 ミュージックバードの収録を終えたあと、渋谷のレコード店をめぐる。
 リヒテルの一九六〇年十月のカーネギー・ホール・ライヴ六枚組が入荷していた。かつてLP時代にCBSが発売し、リヒテルの抗議で廃盤になったままの演奏の、初CD化である。
 すぐ買おうと思いつつ、なおも店内をうろうろしていると、背中越しにキャッシャーにいる店員さんの言葉が、聞くともなしに聞こえてきた。
「二十四日から、ダブル・ポイント・セールですので…」
 おお!
 そうだ、この店では会計時に、数日後のセールを教えるのである。
 以前、気がつかないままオペラの箱物をたくさん買ってしまい、会計後に「明日から…」とか言われたときには、かなり凹んだものだ。あのときは店員さんも申し訳なさそうに言いよどんだほどだから、それと判るくらいに、落胆が顔に出たのに違いない。
 どうせ無駄遣いなんだから、そんなこと気にせずドンといけばいいのだが、そうはいかないのが、わたしの人間の小ささである。
 そもそも、電車賃とか考えたら、大して得になるわけでもない。しかし、事前に察知した喜びというのは何物にも替えがたいのだ。損得など問題ではない(いや、損得だけの話だよ…)。
 一万円を超える箱物は二十四日以降にというわけで、リヒテルさんにも棚へ帰ってもらう。
 しかし不思議なもので、ひとたび「人間小さい」モード(ドラゴンクエストの「いのちだいじに」とかみたいなもの)に入ると、次から次へとセコイことばかり考えつく。
 ――あのリヒテルの箱物は、ライバル店のサイトにはもっと安く出ていたような記憶がある。行ってみよう。
 丸井の裏を抜けライバル店に行くと、なんとこちらは今日から「ダブル・ポイント」。
 やりィ!と小躍りしながら探すと、ない…。残念ながら、まだ入荷していないらしい。ところが、ないとなると、今欲しくてたまらなくなってくる。高くてもいいから、今日買って帰りたい。
 しかし、さすがに前の店まで戻るのは業腹だ。新宿駅南口にある、前の店の系列店に行く。
 すると「本日休業」。なんてこった。

 結局、紀伊國屋書店脇の中古盤併売店まで歩いて行って、やっと購入。最初の店よりは八百円くらい安かったから、よしとしよう。
 狭きもの、それはわが心。

 家へ帰って《熱情》だけ聴いてみる。
 久しぶりに聴くが、やっぱり凄い。リヒテルのこの曲の録音は何種も残っているが、こんなに胸をしめつける凄絶な緊迫感に満ちた演奏は、他にない。
 誇張抜きで、聴いたあと一時間以上も心臓が苦しかった。セコイことしたあとにこんなものを聴くと、寿命を縮めるような気がする。

二月二十二日
 昨日買ってきたCDの中から、テノール歌手ジョセフ・カレヤのオペラ・アリア集を聴く。『レコ芸』三月号の付録CDの《真珠採り》の〈耳に残るは君の歌声〉での声が、まさしく「耳に残」ったため。
 わたしが大好きなテノール、アラン・ヴァンゾの、あの哀しさをたたえた美声によく似ていたのである。全十四曲のうち、中央付近にフランスの作品六曲がまとまっているが、やはりイタリアものよりフランスものが断然いい。日本では二枚目のCDで、デビュー盤はヴェルディだったそうだが、安易でつまらない選択をしたものだ。こういう声がヴェルディで映えるとは思えない。
 オッフェンバック作曲の《美しきエレーヌ》から「パリスの選択」を選んだセンスが秀逸だ。
 この牧歌には不思議な寂しさがある。死すべき定めのちっぽけな人間が、不老不死の神属、無限の智恵と美と冷酷とをそなえた女神たちと出会ってしまったこと、そのこと自体の、どうにもならない寂しさだと、わたしは思っている。そんな歌には、カレヤのような声質はぴったりのはずなのだ。
 ただし、残念ながらここでの歌自体はもうひとつ印象に乏しい。後半で息が上がったように盛りあがらないのは、リッツィの指揮とオーケストラに歌心が乏しいせいもあるだろう。《真珠採り》の、〈耳に残るは君の歌声〉にしても、まったく波動が感じられない。こんなふうに荘重様式をひきずったままの人たちの、動感と弾力のない音楽こそが好ましい、という聴きてもいるのだろうが。
 カレヤに戻ると、CDでいちばん心に残ったのはアダンの《われ、もし王者なりせば》の〈彼女が王女だ!〉の歌。ここでは寂しさが響いている。独奏ヴァイオリンとの絡みもきれいだ。

 〈耳に残るは君の歌声〉の、リズムのセンスに欠けた伴奏が悪い意味で耳に残ってしまったので、「耳なおし」にエチェヴェリがフランス放送リリック管弦楽団を指揮した、ヴァンゾの録音を引っ張りだして聴く。
 これは数種あるヴァンゾのこの歌の録音の中でも、歌唱と指揮の双方で、もっとも好きなもの。一九六八年の放送録音で、五九年のロザンタール指揮の全曲ライヴのときの歌唱などと較べると、声自体は滑らかさを失って、少しかすれてきているのだが、その嗄れた響きこそに色気と哀しさがあって、むしろ魅力がましている。
 わたしが持っているのは、シャン・ドゥ・モンが発売した《イスの王様》全曲盤の付録のもの。数えきれないほど聴いてきた録音だが、飽きることなく引きこまれる。いきなりアリアの主部に入るのではなく、前半部分をちゃんと歌っているのがいいし――主部の前奏が響きだすときの、息の合わせがまた絶妙に上手いのだ――くり返し部分(歌謡曲でいう二番の歌詞)の歌い出し「星の光で」の歌詞とともに、匂いたつように歌いだす木管群の美しさにおいて、この録音以上のものは聴いたことがない。
 考えてみれば、《微笑みの国》の有名なアリアの後半で独奏ヴァイオリンが絡むところもそうだが、ヴァンゾの魅力の大なるものの一つは、こうした楽器と声との妙なる、そしてときに官能的でさえある、絡みあいの美しさなのだ。
 しかしそのヴァンゾさえ、セッション録音のアリア集には恵まれていない歌手――去年出たユニバーサル盤の二枚も、この歌手の本領を伝えるものではなかった――だった。
 だから、カレヤの本領も今回のアリア集では見えていない可能性がある。ときに気になるフレーズを歌い急ぐ癖も、ナマならもっと長くとって、歌いあげの効果を高められるのかも知れない。

 殺風景な我が部屋の唯一の植物、サボテンが三年連続で開花する。手間いらずで、けなげに毎年咲くのが嬉しい。

二月二十三日
 『オペラ御殿』のミン吉棟梁と、野郎二人でフレンチのランチ。
 ご存じのとおり、フレンチなどは高価なディナーよりも、奥様方ご愛用のランチの方が、断然得である。我々が行った店も、前菜と主皿だけなら、一人分が千と五十円。ワインとデザートをつけたので約二千七百円になったが、それでも夜よりはずっと安い。
 お互いの年齢を考えると、もし上場企業の社員だったりしたらそれなりの社会的地位と立場があるわけだから、相応の値段を払って夜に行くべきだろう。が、幸か不幸か二人とも浮草稼業で、演ずべき社会的役割などない。
 というわけで、時間の裁量が自由なのをいいことに、実質優先でランチを食おうというわけ。
 早起きして、昼をちゃんと食って、夜を軽くした方がダイエットにもなって健康的なわけだから、金銭と体調管理の双方で、本来ならフリーランスたるもの、毎日こういう生活をすべきなのである。
 とはいえ、自己管理のきちんとしたキリギリスなんて、絶対矛盾という気がしないでもないが…。

二月二十四日
 普段は通り道でないために行く機会の少ないコンビニにたまたま入ると、なんと九百九十九円の『大脱走』DVDに再会してしまう。
 こんなところに隠れていたとは。前に置いていたコンビニとは違うチェーン店なので、思いもよらなかった。
 ついに観念して(なぜ?)購入する。

三月一日
 伸び放題になり、「ロシア人の毛皮帽のようだ」と山の神に言われていた頭をようやく散髪に行く。その後、池袋で友人たちと会食。
 HMVで落ちあって、激辛の四川料理で、入ると店員がまず中国語で話しかけてくるというくらいに中国人が多いという店に向かったが、予約してあったにもかかわらず、厨房の急な点検だとかで臨時休業。
 面白かったのは、休業の案内のビラが漢文で書かれたもののみで、和文は「ミン吉様」(原文はもちろん本名)宛のお詫びの一文だけだったこと。日本人のお客はミン吉様ご一行のみで、あとは中国人しか来るはずがないと、決め込んでいるらしい。そういう店が池袋駅西口北側にあるのである。
 それにしても、漢文のビラの方の、現代中国式に簡略化されたその文字は、意味がさっぱり取れなかった。「漢字」といってもまるで別物である。しゃべってもわからないが、文字でなら問答ができるなんていう、漢字文化圏の方法論は、もう通じないのかも。

 急遽店を変更して、もう少し北方の別の中華料理店――店の知識は友人たちに任せっぱなし。安くて旨い店をよく知っているかれらといると、とても楽だ――へ向かう。
 こちらは四川ではなく、東北地方の料理らしい。入店時にはまだ席に余裕があったが、七時頃には満席。この店も、日本にいる中国人たちには有名なところらしい。たしかに安くて旨い。
 隣席の中国人――貿易商か何かか、ものすごく高そうな毛皮を無造作に着ていた――がマトンの煮物を残しているので聞いてみると、
「コレハ『シン』ノタベモノダカラ、ワタシハタベナイ」
 この「シン」が「清」なのか「新疆」なのか、それともさらに別の地域を指すのかはよくわからなかったが、とにかく漢民族が食うものではない、ということらしい。

 帰る前にコーヒーを飲もうとみんなで探すと、昔ながらの深夜喫茶を発見。ファミレスなどに圧されて、高田馬場のような学生街でも見なくなったタイプの店に再会できた。
 コーヒー五百五十円に、午後十時以降の割増料金二百円がついて七百五十円。高いのだが、その割高感こそが昔風で、かえって嬉しいという妙な気持。

三月二日
 昨日、家を出る前から脊椎の痛みと悪寒があったので予感していたのだが、目覚めると風邪をひいている。
 さいわい頭痛とノドの痛みだけで発熱はないので、夕方まで布団に入って――仕事を休む決断だけは迅速だ――五時からクラシックジャーナルの座談会「あらかじめ失われた世代の指揮者たち」に参加。何とか最後までノドがもった。

三月三日
 二月末のことだが、ウインドウズが内蔵のDVD/CDプレイヤーを表示しなくなり、さあ大変。
 認識させようとしても「レジストリが壊れています」という回答。ハードそのものの異常じゃないのなら、手前で修復できないかと調べたら、システムを異常発生前に戻せばいいらしい。
 いまのウインドウズには、文書ファイルやメール類を消さずに、システムの状態だけを過去に戻す機能がついているのだ。しかもその保存は自動で、毎日行なわれている。「何月何日」と指定するだけで簡単に戻せる。
 というわけで数日前を指定して復元したら、無事にDVDプレイヤーが復活。どこかに副作用で異常が出るかと思ったが、取りあえずは大丈夫らしい。
 考えてみると、以前のパソコン数台も末期はCDプレイヤーを表示できなくなり、CDからの再インストールなどが不可能になって、買い換えていた。この復元機能があれば、あれらも戻せたかもしれない。

 便利さに感心しながら、思い出したのが以前に読んだ、誰かのSF短編。
 核戦争で地球が滅亡する日の、その直前の一年間を永遠にくり返している町の話だった。一年過ぎて「最期の瞬間」が来るたびに住民たちが一斉に祈念して、時計の針を一年戻すのだ。
 くり返しを憶えているのは祈念に参加した町内の大人たちだけで、その子供たちや一年の間に亡くなる人などは、その事実に気がつかない。ところがある少年が、「来年」の予想をすることに、なぜかひどく虚無感を覚えて、その原因を探っていくと…、というような話だった。

 ウインドウズのシステム復元も、ひょっとしたらこれと同じなんじゃあるまいか。たとえば十日戻しても、また十日後に異常が発生して、また十日戻して…の永遠のくり返しなんじゃあるまいか。
 それではまさに「久遠劫より流転せる苦悩の旧里」で、十日間だけの絶望的な輪廻をくり返すことになる。それはいやだ、と不安に思いつつ、戻した日数分が過ぎるのを待っていたが、その期限が今日だったのだ。
 異常はくり返されなかった。タイム・パラドックスを超越し、パラレル・ワールドに入ったらしい。輪廻を脱し、ウインドウズもいよいよ「悟りの境地」へ。
 だといいんだがなあ。まだ心配。

三月四日~六日
 風邪が治らないまま『レコード芸術』の記事いくつかを仕上げる。
 そういえば去年も同時期、『レコ芸』のクレンペラー特集の締切時に風邪で倒れ、編集のモトヒロ氏に大迷惑をかけたのを思い出す。
 四、五日動けないような風邪を、四、五年周期で一度ひくというのがこれまでのパターンだった。二年連続というのは初めてで、いよいよ身体が衰えてきたということか。
 ところで記事の一つは、テスタメントの《ジークフリート》。演奏・音質とも買って損のないもので、続巻が楽しみだが、ひとつ気に入らないのは宣伝などで「お蔵入りした主原因はカルショー」という印象になっていること。
 ライナーノーツをよく読むと、主原因は契約問題にあったと判断できる。そもそも、一九五五年バイロイトの《指環》をデッカがステレオ録音したことを多くのファンに示唆したのは、『リング・リサウンディング』でのカルショーの記述なのである。
 あの記述があったからこそ、テスタメントがデッカの倉庫を探すことになったのではないか。その功労者が主犯扱いとはあんまりだ。というわけで、カルショー擁護の視点から記事を書く。

 まあ、通報者が犯人ということも、ないとはいわないが。

三月七日
 ミューザ川崎でのロンドン交響楽団の演奏会(チョン・ミョンフン指揮)を聴きに行く。
 昨年五月二十六日に、ロンドン交響楽団のマネージング・ディレクター(専務理事と訳すそうだ)のギリンソンさんと後任のマクダウェルさんをインタビューしたのだが、そのお礼にお招きいただいたもの。
 しかし、席に行ってみたらマクダウェルさんのお隣だったのは驚いた。ご親切とお心遣いに感謝しつつ、緊張するやら恐縮するやら…。マクダウェルさんの反対側の席は、野村アセットマネジメントの社長夫妻である。エスタブリッシュメントな世界にはとんと縁のない下流人間ゆえ、失礼が少なかったことをただただ祈るばかり。
 メインのマーラーの交響曲第五番は、会場で会ったぷーいちさんのご感想とおり、チョンの指揮に作品自体への没入を妨げる、醒めた要素がある。しかし力強い演奏であることは確かだった。トランペット奏者が七十歳と聞いてびっくり。

 それにしても、インタビューが昨年五月二十六日だったとすぐにわかるのは、この可変日記のおかげ。日付などはすぐ忘れてしまう質なので、これは便利。

三月九日
 少し前から、友人に誘われてミクシィに参加している。
 一年ほど前にも後輩から声をかけられたことがあったのだが、そのときはこのサイトを立ち上げたばかりで手が回りそうになかったので、保留にしていた。
 流行っているようだし、無料だから様子を知るだけでもと思って、今回は参加してみた。
 ブログ風の日記もつけられる。しかし「裏日記」とか「二重日記」の類を別に書けるほど器用な人間ではないし、それに「仲間向けの日記」というのも違和感がある。日記というのはごく私的なものか、それとも逆にオープンなもの(不特定多数の読者を意識したもの)か、そのどちらかしかないと思うからだ。この可変日記の形態が気に入っているので、今のところはこれで充分である。
 それにやっぱり、横書きの画面は見ただけで萎えてしまう。縦書きでないと意欲がわかない。
 以前は原稿を書くときに、活字が横組になるものは初めから横書きで打ち、縦組になるものは縦書きでと使い分けていた。しかしいまは全部縦書きだけで打っている。横組のものは、送付前の最終チェックのときだけ横組に変更して調整する。横書きだとどうも文章をうまくつなげられず、執筆の所要時間が多くなると感じたからだ。
 たぶん、横書きの方がしゃべるように書く、つまり話し言葉のように書くのには向いているだろうが――それどころか近頃は「ブログを書くように」しゃべる人さえいるという。それだけ、話し言葉と横書きは親和性が強いということだろう――わたしはどうもそういう風には文が書けない。
 というわけで、ミクシィは友人の掲示板へ書き込むだけの利用となりそう。顔を知っている友人グループ内の、コミュニケーションの道具としてはとても便利なようだ。

 ところで文字の横組で思いついたが、今年の『功名が辻』のスタッフロールは横組になっている。大河では珍しいことではないか。
 タテガキストのわたしも、あれには賛成。五字程度の人名や役職などは、横組の方が見やすい。前にも書いたが、大切なのは、使い分ける自由と余裕があることなのである。

三月十日
 確定申告を行なう。今年からやっと青色申告にした。慣れないので手間がかかる。以前に小さな株式会社の経理をやっていたお陰で、帳簿だけは日常的に打ち込む習慣があるから集計は速いのだが、申告書類を手書きしているために時間がかかって、疲れる。
 カラープリンターがあればPCで打てるのだが、ウチにはモノクロのレーザープリンターしかない。普段はそれで事足りるが、このときだけは恨めしい。
 確定申告専用に、安いカラープリンターを買おうか。でもそうなると、一年に一回しか使わないからインクが乾燥してしまい、毎年カートリッジを買い換える羽目になりそうな気がする。
 それに、きれいに印刷してあると見やすいから、税務署の人が張りきってチェックして、ミスを――ゴマカシを、と書きたいところだが、そもそもゴマカスほどの収入がない――見つけ出してしまうような気もする。発見されるにしても、修正して税金が安くなるミスなら大いに結構だが、そういうときは、相手も口をぬぐっているのが世の道理である。
 汚い字の手書きの方が、見にくいので放っておいてもらえるんじゃないかなどと、勝手な妄想で自らを励まして、手書き手書き。

三月十三日
 昨日今日と古楽系などのCDをいくつか買ってきて聴いているのだが、どれも特筆するほどの強い印象がない。
 あげつらうことは控えようと思っているので、何を買ったかここには書かないが、これだけ勘が外れると凹む。
 釣りでいうところの「ボウズ」だ。
 本当はいい演奏なのに、長尺物の原稿などで心に余裕がないせいで、今は「出会えていない」だけかも知れないが…。

三月十六日
 ミクシィについて触れた九日の日記を掲載したところ、早速大学時代の後輩からメールをもらう。
 一年前に声をかけてくれたご当人である。加入時にこちらで検索したときはわからなかったのだが、探し方が悪かったらしい。かれのところからもう一人の後輩のページも判明したので、そちらには当方から連絡。
 ミクシィにはマイ・ミクシィなる「友達の輪」みたいなのがあって、親しい人と友人登録をしあうようになっている。友達の友達、さらにその友達と、連鎖できるようにということらしい――思わず「友達百人できるかな」と口ずさみ、しかし続いて「カレシの元カノの元カレの元カノの元カレの元カノの…」という、エイズ予防の不気味なCMをどうしても思い出してしまう――やだやだ。
 それはともかく、一方が相手を誘い許可を得る形式で、誘われた方は「承認」か「拒絶」かを選択することができる。
 後輩の一人からその誘いが来た。もちろん「承認」するのだが、しかし無性に「拒絶」を試しに押して、せっかくの相手の好意を無にしてみたくてたまらなくなるのは、なぜなのだろう。もらうたびにその思いにかられるのだ。
 ということを後輩に書いたら、「破壊衝動というやつでしょう。とても共感をおぼえます」というような返事。どうやら「破壊衝動」を抱えて生きている人はけっこう多いらしい。
 でも自分が相手から「拒絶」をくらったら、かなりショックだろうなあ。そう思うと、今度こそ押してみたくなる――ばか。

 ところで、後輩二人はミクシィ上で日記を書いている。公開の、つまりミクシィに入れる人なら誰でも閲覧できる形式だ。それでも、寄せられる感想の多くが友人たちからのもので、おおむね好意的な内容だから気が楽だ、と一人は述べている。しかしもう一人の方は何かいやなことでもあったのか、最近まで閲覧者制限をしていたという。
 これだけ広がってくればミクシィの中にもたくさんの、さまざまな人間がいるわけで、「楽園の幻想」は失われつつあるらしい。これからは友人内の「閉じた楽園」が増えていくのだろう。
 この可変日記だって、「オープン」などと偉そうに書いたけれど、ブログや掲示板のように他の人が同じ場所へ感想を記すことはできない。三か月後にテキスト形式に換えるまでは、画像だから日記の内容が検索で引っかかることもない。ミクシィ内の日記とは方法が違うとはいえ、やはり適度に閉じているわけだ。

三月十七日
 なぜか、同業の方々と縁のあった日。
 昨晩、鈴木淳史君から久々にメールがあり、GW(いまマスコミはこの呼び方しないそうですねえ、便利なのに)中の仕事についてのお誘いをいただく。直接会って話した方がよい内容なので、近々に打ち合わせしましょうと返信する。
 その後、平林直哉さんから電話があって少し話す。それからお茶の水のディスク・ユニオンに行くと、ここでばったり鈴木君に遭遇する。
 レコード店で、友人や同業者に出逢うのは日常茶飯事だ。しかし鈴木君とは十年以上前、いまHMVにいるS氏肝煎りの新宿の飲み会――毎週毎週、クラオタが十人近くも集まって朝まで飲んでいた――で顔を合わせて以来の知己なのに、レコード店で会うのはこれが二回目くらい(ひょっとしたら初めて)である。
 それがメールをもらった途端に逢えたのだから、人間の出会いの波長というのは面白い。喫茶店で仕事の概要を聞き、一件落着。
 といっても、もちろん仕事自体はこれから。あと六週間しかないんだが…。

三月二十一日
 WBCはとても面白かった。日本が団体球技の国際大会で優勝するのは、一九七二年ミュンヘン五輪の男子バレー以来三十四年ぶりだそうである。
 もちろん荒川静香の、あの神々しい静けさをたたえた滑走も感動的だったけれど、団体競技には独特の感激がある。
 松井が参加しなかったのは、よい判断だったのだろう。今回は「イチローのチーム」だったのであって、ここに松井がいても、単純な足し算で戦力アップとはならなかったに違いない。
 ところで、メキシコが勝って日本の準決勝進出がきまったときに「神風が吹いた」と王監督が言ったそうだが、この言葉がこれほど適切な場面で用いられるのを聞いたのは、ものすごく久しぶりの気がする――そんな言葉がすんなり出るなんて、やっぱりワンちゃんトシだなあと微笑まずにいられなかったが。
 でも、近隣諸国からは思いっきり誤解されそうな言葉(カミカゼなんて、特攻隊のことしか思い浮かぶまい)だから、取り扱いはむずかしいだろう。

三月二十四日
 「東京のオペラの森」の《オテロ》初日を観に東京文化会館へ。
 会場へ着くと張り紙があって、オテロのフォービス急病のため、ロートリッチに交代の由。指揮者が小澤征爾からオーギャンに変更になったのに続き、主役まで交代とは何のタタリだろうと知人たちと苦笑しながら客席へ。
 音楽的には、ほとんど得るもののない公演だった。オーギャンは一九六〇年代の生まれということなので、ひょっとしたら俊敏様式の音楽が聴ける可能性だってあると望みをかけていたのだが、切り裂き、叩き、叫ぶだけの演奏で、見事に外れ。歌手たちも単純な好き嫌いでいえば、好きではないタイプの硬い響き。
 休憩時のロビーの暗く沈んだ、途方に暮れたような聴衆の雰囲気が、何を書くよりも公演の出来をあらわしていた。
 その中で、ミーリッツの演出は好悪を別として、想像力を刺激してくれたことは確かだった。
 オテロとイアーゴの宿命的な対立という一般的な切り口には、ミーリッツは重きを置かない。
 ここに出てくる男たちはみな、凡庸な英雄と凡庸なサラリーマン軍人たちの群れに過ぎない。イアーゴは悪の英雄ではなく、全員の悪意の代弁者であって、どこにでもいる小悪党だ。
 かれらは強力な外敵がいたときまではオテロの統率のもとで団結し戦っていたが、いざ敵が滅んで平和と慈愛の日々――デズデモナが象徴するもの――が来ると、とたんに敵意の方向を内側に向け、嫉妬と内紛ばかりの愚人集団となる。
 マイク・タイソンのようなボクシングの黒人チャンピオンになぞらえられたオテロは、「戦闘マシン」に徹することで奴隷の境涯を脱して英雄となり、外敵を討ち滅ぼした。しかしリングを下りたかれは、ただの愚か者である。
 デズデモナが殺される場面では金網模様のプレートが舞台をふさぎ、デズデモナの逃亡を許さない――なんだかここでわたしはプロレスの大仁田厚の「金網電流デスマッチ」を思い出し、笑いそうになってしまった。

 いや、金網デスマッチを知ったのは、大仁田厚からではない。それよりずっと前に、梶原一騎原作のマンガ『タイガーマスク』でその存在を知ったのだ。
 そう、『タイガーマスク』だ。
 もともと現在の格闘技ブームにはまったく興味がなく――儲かりそうだとなると、すぐに有象無象があつまってきてしゃぶりつき、あげくに抗争と分裂をくり返しているあたりは、「興行」というものの本質を考える上で面白いが――格闘技というと梶原一騎の『カラテ地獄変』だの『四角いジャングル』だのしか思い浮かばない、当方の貧困な想像力のせいなのだが、こうなると舞台がすべて「梶原一騎世界」にしか見えなくなる。

 オテロが、リングを想わせる四角い、白いマットの上で死ぬとき、上方のライトがゆっくりと下りてきて、かれを押しつぶそうとする。
 ここで唐突に思い出す――リング上方のライトといえば、『タイガーマスク』アニメ版の最終回、タイガーマスクが生涯の仇敵グレートタイガーを、殺してしまうのに使ったものだということを。
 三十年以上前の本放送を観ただけの記憶だから、思いっきり間違っているかも知れない。
 でもかまうものか。「記憶違いのあるアニメは名アニメ」だ。
 記憶にある場面はこうだ――マスクがちぎれて素顔をさらしてしまったタイガーマスクこと伊達直人は、天井ライトに足を突っ込み、ぶら下がる格好になったグレートタイガーに対し、闘いをやめることができない。「やめろ」と命乞いする仇敵や恋人の声に耳を貸さず、ライトを固定する鎖を引きちぎって落下させ、マットに叩きつけて殺してしまうのだ。

 いま思えば、子ども向けのアニメとはとても信じられない、凄まじい怒りと憎しみにみちた、哀しい場面だった。
 三十年間、その場面を思い出すことなどほとんどなかったのに、人間の記憶というのは不思議である。
 オテロをつぶすライトを見た瞬間、グレートタイガーの惨めな死と、いつものタイツ姿なのに童顔の素顔を見せているという、ちぐはぐな、しかしちぐはぐだからこそ、その異形ぶりが恐ろしい、憎悪に我を忘れたタイガーマスク=伊達直人の姿が、脳裏に蘇ってきたのだ。
 子供時代に刻みつけられた強烈な記憶というのは、地震で深海の底からわき上がった小さな泡が、浮上とともに巨大化して大津波を起こすように、きっかけさえあれば浮き上がって――おそらくは記憶違いのためにいっそう凄絶な姿となって――人の心を引っさらってしまうものらしい。

 そういえば、ミーリッツ版のオテロは伊達直人にそっくりじゃないか。何でこんな不景気な歌を使うのかと、子供心に不可解でならなかった、あのもの悲しいエンディング『みなし児のバラード』――すげえタイトル――(木谷梨男作詞/菊地俊輔作曲)の

 強ければ それでいいんだ
 力さえあれば いいんだ
 ひねくれて 星をにらんだ僕なのさ

は、力だけを頼りに黒人奴隷から身を起こした、オテロそのものではないか。
 伊達直人は孤児院の子供たちの心に触れて人間性を取り戻す。オテロの場合はそれをデズデモナによって得る。

 ああ だけどそんな僕でも
 あの子らは 慕ってくれる
 それだから みんなの幸せ祈るのさ

 しかし、「虎の穴」に操られた反則マシンであるのをやめることは、裏切り者(抜け忍?)を許さない「虎の穴」の刺客レスラーたちとの、果てしのない死闘をタイガーマスクに強いるのである。
 そしてその結末、「虎の穴」の壊滅と伊達直人の勝利がすなわち、憎悪と瞋恚の「グレートタイガー殺し」なのだ。
 その勝利を、オテロの場合に置きかえると、まさしく開幕の嵐の場面ということになる。
 そうか、ミーリッツ版《オテロ》は、グレートタイガー殺しのあとの、伊達直人の姿を描いているのだ。
 ミーリッツによれば、あのオペラの登場人物はすべて、どこにでもいる平凡な人間たちだ。しかしデズデモナだけは、この世にあり得ないもの、至純のものだそうである。同様に、伊達直人が自らの正義の拠り所とした「ちびっ子ハウス」の孤児たちの純粋な心もまた、成長とともに必ず失われていく、この世にとどまり得ないものだ。
 敵を倒すためにひとたび憎悪の炎に身を焼いてしまった伊達直人=オテロは、平和がきてももう、まともな人間には戻れない。
 その壊れた人間が、この世にとどまり得ない「至純」を前にしたとき、とりうる態度は二つだけ――失われる前に自らの手で破壊するか、身を引いて去るか。

 オテロは破壊し、自らも滅ぶ。
 伊達直人はジャンボ機に乗って、国外に去っていく。

 ああ だからきっといつかは
 あの子らも わかってくれる
 みなし児の 正しく生きるきびしさを

三月二十五日
 昨日の勢いで『タイガーマスク』話をもう少し。
 日記を書いたあと、ネットで伊達直人を検索したら、少年時代のかれが「ちびっ子ハウス」を飛び出していく状況を、どなたかが書いていた。
 孤児院のみんなで上野動物園に行ったとき、トラの檻の前に立った直人は「トラみたいに強くなってやる」と叫んで走り出し、姿を消すのだそうである。
 そのあと、一人でいる直人にミスターXが声をかけてきて、「虎の穴」に誘う場面は、おぼろにだが自分もおぼえている。そして「黄色い悪魔」と恐れられる悪役レスラーに成長した直人は、日本にボーイング七二七――最終回はジャンボだったが、第一回はまだこれだった――で帰国、再び「ちびっ子ハウス」に現れる、というのが物語の発端だった。

 この展開を改めて考えていて、当時は考えもしなかったことに思い至る。
 それは、わたしよりも上の年代の子供たちを、親たちがおどかすのに使った言葉のことだ。
「ひとりでうろうろしていると、曲馬団の人にさらわれてしまうよ」
 曲馬団、つまりサーカスの人間が子供をさらっては、玉乗りや空中ブランコ乗りに仕立て上げるという都市伝説――ウソにきまっている――が昔あったのだ。
 「虎の穴」の原イメージは、そうした人さらいをする曲馬団だったのにちがいない。そういえばミスターXは、ルパン風のシルクハットに片眼鏡、それにたしか乗馬服を着ていた。あれはただの「ヘンな服」ではなく、サーカスの猛獣使いの衣装だったのだ。曲芸ではなく格闘を教えこむ曲馬団。それが「虎の穴」の正体だったのである。
 直人が叫んで走りだし、そのまま姿を消すというのも、いわゆる「神隠し」の話によく見られるパターンだ。
 いやあ、「やっと気がついたのか」と笑われるだろうが、今まで考えもしなかった。都市伝説をうまく利用して雰囲気をつくったことに、今さらながら感心。

 上野動物園というのも、神隠しの舞台にはぴったりだ。子供時代の記憶だが、薄暮時の上野動物園や上野公園には――要するに、上野の山そのものの雰囲気だろうが――たしかに神隠しに遇いそうな寂しさがあった。
 小学校高学年か中学一年か、学校で上野動物園を見学(写生?)に行ったときのことだと思う。あるいは、友人のお父さん――その一、二年後、酒場で元ボクサーと喧嘩して殴り殺された――に、博物館へ一緒に連れていってもらったときだったか。
 とにかく帰りの時刻に近づいたころ、どうしたわけかわたしは一人きりになってしまい、下方の水族館のあたりを歩いていた。セイウチだかトドだかの丸いプールが、屋外にあった。
 横にガラス窓があった。覗きこむと、巨大なセイウチかトドが、ぐわん、ぐわんと勢いをつけて、縁ぞいに円を描いて泳いでいた。窓のところにその長い身体が来たときには、灰色の腹で視界が、ずざああっとふさがれる。
 生き物の大きさを、これほど間近に実感したのは初めてだった。怖くなって離れると、薄暗くなってきつつある動物園に、自分は独りだった。
 記憶はそこで途切れていて、そのあと誰と会い、どうして帰ったか、まったく憶えていない。たった一人でセイウチを見た、という記憶だけなのである。
 あれが上野動物園のどこだったのか、確認しに行こうと思いながら、いまだ果たせないでいる。
 今年こそ行こう。もちろん一人で。

 あのとき神隠しに遇っていたら、わたしはいまごろ、セイウチマスクとしてリングに立っていたかも知れない。

三月三十一日
 民主党執行部総退陣。
 打開策を小出しにする、日本陸軍名物の悪手「戦力の逐次投入」をくり返したあげくだから、当然の結果だろう。
 永田寿康も最低だが、東大~官僚という「エリート」であろうと、どこにも粗忽者はいると天下に示した点で、存在意義はあったかも。
 一部の暴走にひきずられて火遊びをくり返した関東軍参謀本部のエリートたちが、どんな連中だったかを想起するためにも、いい実例だった気がする。

四月一日
 今年も新宿御苑にて花見。
 土曜日で凄い混雑。わたしの入った大木戸門(丸ノ内線新宿御苑駅の近く)はまだそれほどでもなかったが、帰りに新宿門(文字通り新宿駅に近い)を通ったら、切符購入待ちの行列が二百メートルほどになっていた。
 ともあれ、ここでは本物の土の上を長く歩けるのが、東京暮らしにとっては嬉しく貴重なことである。

 ルイージの新譜を二枚続けて鑑賞。
 MDR交響楽団とのマーラーの第四番のCDと、ドレスデンでのミサ・ソレムニスのDVD。前者は呼吸感にあふれた緩急強弱の変化が爽快、後者は後半の沈痛な祈りの表情が、澄んで美しい。
 このところ、現代の演奏で「ボウズ」が続いていたので、闇に灯がともされたような嬉しさを覚える。ほんとうに各地のオーケストラが、よくこれだけ俊敏に動くようになったものだ。その時代に立ち会えたことに感謝しよう。
 そういえば四月前半は、このルイージにハーディング、ルイゾッティと、私の残りの人生を楽しくしてくれそうな指揮者が三人そろって来日しているのだが、今の仕事具合だと、どれかを一晩聴けるかどうか。
 俊敏様式で期待しているもう一人、ウラディーミル・ユロフスキの《チェネレントラ》のDVDも序曲だけ観て、その素晴らしさに観続けていたくなったが、どこかからナイフが飛んできそうなので我慢。一段落したらこれが観られると、自分へのニンジンにする。

 テレビで『王の帰還』をやっていたので、最後だけ観る。アラゴルンが『チャングム』の王様と同じ声優だったので、ちょっと妙な感じ。
 アラゴルン以下の貴顕全員がホビットに頭を下げる、あの感動的な場面も「礼を受けるべきなのは、あなたたちだ」とかなんとか、イマイチの翻訳だった。あれは公開時の字幕の「いや、あなたたちは誰にも頭を下げる必要はない」というのがかっこよかったのに…。

四月二日
 遅く起きて『サンデーモーニング』のおしまい近くを観たら、村岡元官房長官が出ていた。
 この人、本当に自身の主張が正しいのなら、とことん闘って、橋本や野中のしたことを明らかにすべきだ。検察が橋本たちに関わろうとしないのは、かれらがすでに引退したので、話がついているからなのか。それとも、初動時の判断ミスを認めたくないからなのか。
 橋本たちは金丸信のみじめな晩年を間近に知っているから、その轍は絶対に踏みたくないのだろう。かれらのいさぎよすぎる引退には、その恐怖心があらわれている気がするのだが。

四月三日
 三月二十一日の「可変日記」を掲載したところ、ミュンヘン五輪は一九七六年ではなく七二年だというご指摘をある方からいただき、あわてて訂正。
 サイトというのはこういうときすぐに訂正できるからまだいいけれど、最近こうした数字の表記ミスや数え間違いがとても多くて、閉口する。脳のどこかが壊れているのではあるまいか。

 曲馬団について。
 東京育ちの自分は大きなサーカスしか知らないのだが、和歌山県出身の方から昭和五十年頃でもまだ、人さらいしても不思議でないようなサーカスとか、見世物小屋やらが故郷を巡回していた、というメールをもらう。後輩からは、昭和四十年代のアングラ劇団や暗黒舞踏の人たちも、やはり曲馬団的なものを偏愛していたと教えられる。
 異界としての曲馬団への興味と憧憬が一九七〇年前後には色濃く残っていて、それが『タイガーマスク』にも流れていたということだろうか。

 ここから、また私の妄想。
 『タイガーマスク』が連載されたのは講談社の月刊誌『ぼくら』と、その後身の週刊誌『ぼくらマガジン』だった。
 月刊から週刊に変わったのは、当時の『少年マガジン』が、想定する読者の年齢層を上げていたことと関係があるのではないかと思う。『少年マガジン』が対象年齢を上げたことは失敗で、ジャンプに抜かれる原因になったといわれるが、それはともかく、その下の少年層のために『ぼくらマガジン』が必要になったのではないだろうか。
 結局『ぼくらマガジン』は一、二年で休刊となった。人気の高かった一部の連載作品は救済措置で『少年マガジン』に引っ越した。『ぼくら』以来の読者だった私も『少年マガジン』に移った。
 そのとき引っ越した何本かの中に『タイガーマスク』と、そして石森章太郎の『仮面ライダー』があったのである。

 この二本は、不思議に似た物語構造を持っていた。
 『タイガーマスク』の敵たちは、異常な能力を持つと同時に、顔の見えない、素顔を奪われたマスクマンたちだった。
 かれらは曲馬団の、ピエロの化粧で顔を隠した曲芸師のようであり、また見世物小屋の見世物のようでもあった。同様に『仮面ライダー』の敵である怪人たちも、人間が改造された「怪物化した曲芸師」なのである(ナチスの人体実験の風味が加えられているが)。
 そして、どちらの主人公もその「曲馬団」から逃げた「裏切り者」なのだ。
 よく似ているというのはたぶん、『ぼくら』の編集者の持っていた志向の反映なのだろう。
 しかもこの二本だけではない。少し後の『デビルマン』も、悪魔という見世物的存在――人間に憑依して、この世に出現するのではなかったか。とすればかれらも人間だ――が敵であり、またもや主人公はその「裏切り者」だ。
 この永井豪の『デビルマン』は『少年マガジン』連載だが、その前身的な作品である『魔王ダンテ』は、やはり『ぼくらマガジン』連載なのである。
 『魔王ダンテ』は他の二本と違って、『少年マガジン』に引っ越すことを許されず、休刊とともに唐突で強引な最終回を迎えたが、続いていたら主人公は「裏切り者」になっていたかも知れない。その意味で『デビルマン』も『ぼくらマガジン』に源を持っているといえる。
 『タイガーマスク』はアニメ版の方が有名だし、『仮面ライダー』は特撮ドラマの印象が強い。『デビルマン』はアニメよりも、マンガ版の評価が段違いに高い。
 アニメ・特撮・マンガという、おたくの「三種の神器」でそれぞれに花を咲かせた三つの傑作が、すべて「悪の曲馬団と裏切り者」という共通の構造――白土三平の「抜け忍」物の忍者マンガがその大元だろうか――を持っていて、しかも『ぼくらマガジン』から生じてきたことは、興味深い。
 仕掛けたのは、どんな編集者だったのだろう。薄幸の、しかし偉大な種子を蒔いたマンガ誌、『ぼくらマガジン』愛読者の一人として、知りたい気がする。


 この話は、ミーリッツの《オテロ》が発端だったっけ。
 思えば遠くへ来たもんだ。

四月五日
 マリナーズの城島が、二試合連続本塁打で話題となる。
 ところで城島の顔をテレビで観るたびにいつも思うのだが、この人に一回でいいから、旧帝国海軍の詰襟の士官服を着せてみてくれないだろうか。
 白色のでも野戦色のでもいいが、できればやっぱり、あの紺色のヤツ。現代の日本人で、あの格好と坊主頭に軍帽が、城島くらい似合う人間は他にいないと、思えてならないのだ。

 当サイトを公開してからもうすぐ一年がたつが、この可変日記を読み返してみたら、昨年の四月五日から書き始めていた。というわけで、今日から二年目に入ることになる。
 始めたころは三か月くらいでネタが尽きるだろうと思っていたが、やってみたら意外なことに、長く忘れていた心の抽斗を開けてみる結果になったりして――伊達直人の「グレートタイガー殺し」の場面なんて、本当に三十年間忘れていた――とりあえず一年間続いた。

 ここで、読者の皆様へ。
 書き始めて一年、ご愛読ありがとうございます。
 いかに「可変」とはいえ、更新間隔がいい加減で、ひどいときには二週間もあくなど――締切時期で忙しいためもありますが、日記なんか書かないで仕事に専念していますというアリバイづくりのためもあって(笑)――勝手な方式で、読者の方々には無駄なクリックをさせることが多いのにもかかわらず、たくさんの方にお読みいただいているようで、嬉しく思うと同時に恐縮しております。
 物忘れも激しくなっていますが、できるだけ長く続けますので、今後もどうぞよろしくおつきあい下さい。

四月七日
 ふと思いたって、ナイチンゲールから出ているグルベローヴァの『狂乱の場』というCDを購入。
 一九九四年録音、九五年の発売だから十年以上前のもの。もちろん初めての購入ではなく、発売当時に買って数年後に手放したものを、再度買ったのである。
 約二千五百円だから大した金額ではないが、無駄遣いといえば無駄遣い、もったいないといえばもったいない。
 しかしそんなことを言い出したら、やっていられないのがコレクター畜生道というものである。
 買いたいときに買い、売りたいときに売る。欲しくなったらまた買う。まさにCDのデイ・トレーダーだ(絶対に利益は上がらないが…哀しいぞ)。

 それはともかく、グルベローヴァ好きでもない――むしろ苦手――自分が、なぜまた聴きたくなったかというと、伴奏のミュンヘン放送交響楽団を指揮しているのがハイダーではなく、ルイージだからである。
 ここでの指揮、とくに《アンナ・ボレーナ》での弾力のあるリズム感覚を聴いて、先輩イタリア人指揮者たちの弾みのない音楽とは違う、と感じて嬉しくなったことが、それまでまったく知らなかったこの指揮者との、出会いだった。
 それは、ヴェルザー=メストのブルックナーの交響曲第七番に続いて、俊敏様式の曙を告げる「二番鶏」だったのだ。
 もちろん、そのときにはそんな確信を持てたわけではなく、ほのかな希望というに過ぎなかった。なにしろ、荘重様式の歌唱芸術の一つの頂点というべきグルベローヴァを伴奏しているのだから、そう自由に動けるわけではない。やがて手放したのも、メインの歌に興味がなかったからのはずである。
 にもかかわらず、あらためて「ルイージとの出会い」の再確認をしたのは、俊敏様式が力強く時代の潮流となりつつある今だからこそ、私自身はその勃興をどう認識してきたのか、もう一度その原点から見直してみようと思ったからだ。そこから「いま」を、考えてみたいのである。いつまとめられるかわからないし、発表のあてがあるわけでもないが。

四月九日
 三月十七日の可変日記で触れた、GWの仕事が公表できる段階になった。
 「熱狂の日」の関連イベントとして相田みつを美術館で行なわれる「相田みつをミュージアムトーク」講演者の一人として、五月四日の午後二時から一時間、話をすることになったのだ。
 クラシック関係のライターやジャーナリストの中でも、私のような陰気・引きこもりマニア系に声がかかったのは、この催しが当初「裏フォル・ジュルネ」と仮称されたイベントだからである。
 「太陽の下、明るく楽しく気楽に、クラシックの生演奏を聴きまショー!」という健康的な表イベントの陰で、ひっそりと月見草のように話をしたり、CDやDVDをかけたりするものだ。ちなみに私の回のテーマは「モーツァルト演奏史の変遷」である(どうです、不健康でしょう)。
 講演者は日替わりで、三日から六日まで毎日の同じ時間に行なわれる。
 現時点での予定は、

 三日 片山杜秀氏
 四日 私
 五日 鈴木淳史氏&中ザワヒデキ氏
 六日 許光俊氏

 という、2ちゃんねるのクラ板に個人スレッドを立ち上げられた経験をもつ人間ばかり(笑)である。

 「熱狂の日」に行くが、チケットが買えなくて時間が余っているという方は、よろしかったら覗いてみてください。そちらの半券やチケットを持っていれば、無料で入れるそうです。
 案内は下記URLに出ています。

四月十一日
 午後を空けることができたので、新国立劇場のヴェリズモ二本立てを観に行こうと思いたつ。
 しかし、もたもたして文化放送の「ぴあ」に向うのが遅くなり、十時十分頃についたときには、すでに安い券は売切れだった(あとで友人に聞いたら公演は平日マチネーとは思えないほどの入りで、切符は数分間で売り切れたらしい)。
 B席以上ならまだあったが、安い席が混んでいるとわかっただけで一気に意欲が萎え、ピットでのルイージの指揮を観ることはあきらめる。
 いやまあ、もういい歳になっているのだから、たとえ財布がカラッポでもS券を買うことが、キリギリスなりの矜持であるとはわかっている。
 だが、有閑マダムでもないのに「平日マチネー」で安楽に観ようと思った段階で、「人間小さい」モード(二月二十七日の当日記参照)に入っているため、金銭感覚が学生時代に退行し、「たった三時間のために一万円なんてとても!」などと考えてしまうのである。
 情けない話だが仕方がない。また機会もあるさ。ルイージがドレスデンの歌劇場と来日すれば、一万円どころか数万円払うことになると、わかっているが。

 今回はまるで聴けなかったけれど、ルイージ、ハーディング、ルイゾッティとも、好評だったことは嬉しい。
 ルイゾッティについては評価が別れたようだが、この人は同世代の中でも、特に構えの大きな音楽を鳴らす人だから、当たり外れがあるのも当然だろう――とても雄大そうなのに実はクライマックスへ昇りつめるのが下手で、腰砕けになりやすいティーレマンよりは、ずっと好みのタイプなのだが、それだけにあざとくなりやすいのだと思う。
 ハーディングについては、売り手もマスコミも派手にあおっている感じで、ちょっと白ける部分もある。しかしスターがいた方が、功罪ひっくるめて周辺を活性化することは事実なので、これはこれでよいのだろう――わたしにとっては特定の一人のスターよりも、フリッツァやメストやユロフスキなども含めた、俊敏様式の指揮者たちが世代集団として、それぞれに個性をそなえて登場したことの方が、より重要だけれども。

 あらためて、カルロス・クライバーは孤立した人――同時代の指揮者たちからよりもむしろ、同時代のオーケストラの音楽性から――だったなあと思う。かれの孤立について考えたことが、俊敏だの荘重だのと考えはじめる、きっかけになったのだった。

四月十三日
 「らいぶ歳時記」の一九六〇年六月分を、ようやく掲載できる段階にまで仕上げる。
 毎月一月分掲載の予定だったが、一年で六か月、その半分のペースにしかなっていない。見やすくするためにデザインを多少やり直したのも原因だが、『レコード芸術』に連載したものでは抜けていた盤やデータを補足していると、ほぼ倍の分量になって手間がかかるのである。
 今は各月が約百アイテムというところか。六か月分でCD八百枚強だから、一年終えたら千六百~七百枚くらい(三枚組の中の五分間だけとか、そんなCDもあるから正確には計れないが)になる。
 今後の課題は、LPのジャケット画像が抜けていること。ウチのスキャナが小さくて、LPが入らないからだ。デジカメを買うとか、カラーコピーで縮小するとかいう手も考えてはいるが、めんどくさくてそのままになっている。
 進めば進むほど未掲載のLPがたまっていくわけで、一刻も早く対処すべきなのだ。そう頭ではわかっているのだが、困ったことに、破局へとじりじり進んでいくのを、あえて傍観するのに、一種頽廃的な快感を覚えたりもするのである――こんなところでデカダンなど気取るのは、ただの愚か者なのだが。

 未CD化のLPには、面白いものもある。DVDもVHSもなかった時代に、唯一の家庭用レコードであったLPは、かれらの役割をも背負っていた。
 自動車やバイク・レースの実況盤などはその典型で、たとえば六月なら十三日と十七日の「マン島TTレース」がそうだ。ホンダの世界進出の足がかりになったこのレースの実況盤なんて、アメリカの某ネット・オークションで見かけるまで、その存在すら知らなかった。
 これがあるから「らいぶ歳時記」でホンダの話ができる。さらに、その他の自動車レースのレコード(ジャズで有名なアメリカのリヴァーサイドは、これをシリーズ化していた)と並べていると、そこからジョン・サーティーズという、天才ドライバーの姿が見えてくる。
 一九六〇年当時、バイクで無敵を誇ったこの男は、無敵に厭きたのか、あまりにも危険なバイクに疲れたのか、この年からF1に乗りはじめる。五月末のモナコ・グランプリがそのデビューで、リタイアに終わったがその姿は、いまDVD――アマチュアがカラー撮影したフィルム――で観ることができる。
 以降は本格的にF1に参戦、六四年にフェラーリで年間チャンピオンを獲得。
 しかし、日本人にとってかれの名を忘れられなくしているのは何よりも、六七年にホンダF1が初めての勝利を得たときの、そのドライバーだったことだ。映画『グランプリ』(なぜかDVDにならない)の、主人公のモデルである。
 そういう男のことを、一九六〇年のレコードを通じて語れる。LPという文化の妙味の一つが、そこにある。
 少しでもその妙味を伝えるためには、画像という視覚イメージがあった方がいい。それがわかっていて、やらない。
 ダメだなあ~君は。

 夜中に「らいぶ歳時記」を仕上げながら、出たばかりのBBCレジェンズの何枚かのCDを聴いていた。
 ヨッフムの一枚がめっぽう面白い。ハイドンの《軍隊》と《時計》も活力とユーモアがあって楽しい――直後にセッション録音されたDG盤と聴き較べてみたが、間のとりかたや弾力など、呼吸感がまるで違っていた。スタジオ盤はやっぱり冷凍食品である――が、驚いたのはヒンデミットの《ヴェーバーの主題による交響的変容》。
 ヨッフムはこの曲を商業録音していないのだが、信じられないくらいの愛情をもって、楽しそうに演奏している。
 その猥雑さ、シニカルさ、賑々しさ。ヨッフムという人物からかつて一度も感じたことのない、「ワイマール・ベルリンの空気」のようなものが、このサーカス音楽じみた作品に、満ち満ちているのである。
 ブルックナーの交響曲や教会音楽を畏まって謹直に演奏した人物が、こんな一面を隠し持っていたのだ。かれも時代の子だったのである。オルフの《カルミナ・ブラーナ》に共感していたのも、こうした性格の証明だったのだろうが、このヒンデミット作品は、それをさらにむき出しにしてしまった。
 この種の音楽――たぶん、ハイドンも――の乾いたユーモアへの親近感と、それ以外の古典・ロマン派作品への、畏怖のような距離感。ここにヨッフムの芸術を考える、鍵があるのかも知れない
 それは「一九二〇年代のクレンペラーが、もしそのままの音楽性で年をとったら?」という設問の答えになり得るかもしれないし、また、荘重様式そのもの誕生の契機が、この畏怖だったのではないか、という想像にもつながる。

 ともあれ、驚いた。ヨッフムという人物へのわたしのイメージが、根底から覆った。まさに啓示的な「促し」の一枚。
 どんなに「いま」が楽しくなっても、ヒストリカルの面白さはまた別である。

四月十五日
 十三日の日記に「LPのジャケットがスキャナの可撮範囲に収まらないので、らいぶ歳時記の掲載をさぼっている」旨を書いた。
 すると斉諧生さんからメールをいただき、フォトショップ・エレメンツというソフトの、フォトマージという機能を使えば、画像の合成が可能なことを教えていただいた。A4用のスキャナだと、四回位置を変えてスキャンする必要があるが、その四枚を自動的に合成して、一枚の画像にまとめられるというのである。
 持ち前の貧乏根性で、我がDELLのPCを調べると、残念ながらフォトショップはないが、CORELフォト・アルバムというのが付属している。「パノラマ」なる機能がやはり写真合成に使えそうなので、早速試してみることにする。
 不思議なのは、こういうものにも必ず「ビギナーズラック」があることだ。
 初めにつくってみた『TTレース』や『海兵隊員誕生!』などは、それなりにうまくできた。よしよしと調子に乗って何枚もやり出すと、とたんにうまくいかなくなる。
 やっているうちに、歪みの目立つものが増えてくるのだ。「パノラマ」というのは単純な合成ではなく、魚眼レンズを通したみたいに球体状に歪む。極端にいえば、正方形のものが円形に近づけられてしまうのだ。立体を平面で表現するための細工をしようとするのだろう。
 パノラマでない、ただの合成という機能は、このソフトにはないらしい。何らかのコツがあるのかどうか、いくつか試したがすぐにはわからなかった。まあ、らいぶ歳時記のジャケット画像は一辺七十二ピクセルで、アイコン程度の小さいものだから、多少歪んでいてもわからない。きちんとしたものは斉諧生さんご推薦のソフトをいずれ買って作成することにして、とりあえずは雰囲気を伝えるだけにする。
 また、四枚合成よりも二枚合成の方が作業時間を減らせるだけでなく、誤合成――なんか恐怖ハエ男みたいのができる――も少ないので、大部分は二枚合成にする。下端部の数センチ(原寸)が欠けてしまうが、これも態勢を整えてからということにする。
 巧遅より拙速を尊ぶべし…べし。

四月十六日
 新聞のテレビ欄を見ていたら、午後九時のところが目に留まる。

 TBSが特番で
映画『いま、会いにゆきます』

 二つ隣のテレ朝が日曜洋画劇場で
映画『DENGEKI 電撃』

 後者の紹介文がいい。
「いま、殴りにゆきます…今夜は鉄拳制裁だ」
 笑った。

四月十七日
 「らいぶ歳時記」の六月十日の項、ストラスブール音楽祭でのヴェルディのレクイエムにつき、ライモンディがテノールのジャンニではなくバスのルッジェロになっていますと、旧知のフランコ酒井さんからご教示のメールをいただく。
 再検したらご指摘のとおりで、早速訂正。これは取りちがいとしては「初級レベル」もいいところで、書き込むときには注意しているはずなのだ。それどころかCDを眼前に置いて記入していたのだから、みっともないのを通りこして、奇天烈なミスである。
 しかも以前、仕事でも同じミスをしたことがある。「気をつけろ、お前の直感は間違っているぞ」という意識が空回りして、裏の裏をかくつもりで結局は間違えたのかもしれない。ああ恥ずかし。

四月十八日
 いつものようにミュージックバードで「スペシャルセレクション」を収録。続いて「BBCコンサート」も収録。
 後者の五月十四日放送予定分で、アラン・ギルバート指揮のマーラー室内管弦楽団の二〇〇三年プロムスでのコンサートを取り上げる。日本では評価の高くないギルバートだが、ここではオーケストラの運動性の高さをうまく活かして、いわば「馬なり」に演奏させることで、好結果を生んでいる。アンコールの《フィガロの結婚》が、特にその「馬なり感」をよく出していた。
 独奏者としてアンスネスが登場して、モーツァルトの《ジュノム》協奏曲を弾くのだが、これも跳力と音色の変化が心地よかった。ちょうど、この演奏会の一か月後にノルウェー室内管弦楽団を弾き振りして同曲をセッション録音しているが、このライヴのマーラー管の方が軽快で、生き生きとしている。

 帰宅後、新しい『CDジャーナル』に目を通す。この雑誌の誌面や構成に――内容そのものよりも――親近感を抱いてしまうのは、それがきっと、かつてのFM全盛期に数種類出ていた、隔週FM誌に通じるものがあるからだろう。
 ロック、Jポップス、クラシック、オーディオの記事が渾然とした前半は「昔のまんま」といっても過言ではない。後半のかつての番組表の代わりは、全ジャンルひっくるめた新譜評と、今月とそれ以降の新譜情報である。
 クラシックは商売柄、他からも情報が入るが、DVDや――何といっても――落語だの講談だのの新譜情報を、俯瞰的に読められるのが重宝である。この「気楽な俯瞰性」は、少なくとも現時点のネットでは味わえないものだ。録音年、制作年が可能なかぎり載っているのも、一九六〇年馬鹿として嬉しい。
 今月も発見がある。はたして無事に出るのかどうか危惧していた映画『憂国』DVDは、なんと今月二十八日に出る。当初の情報では書籍版全集の一冊になると読んだ記憶があるが、写真を見ると、通常の映画DVD式の体裁らしい。
 翌月以降では、五月二十七日に『日本の夜と霧』初DVDがあるのを発見。松竹時代の大島作品は「ボックス」という名の抱き合わせ形式で売られていて、必要のないものまで買わなければならないことを覚悟していたが、幸いこれは単品でも出ることになったようだ。

 FM専門誌の旧読者の「同窓会」的な気分が横溢しているのが、若い層に対してどうなのかわからない。ここでFMの代わりとなっているパッケージ・ソフトも、ゆっくりと衰退しつつある。
 あるいは、この雑誌自体が、ある時代への「挽歌」なのかもしれない。『レコード芸術』のようなクラシック専門誌よりも風俗性がつよいだけに、そうした印象があるのかもしれない。
 それでも、この気分をさりげなく続けていてほしいと思う。
 ぶっ壊して再開発することしか考えられない「土建屋の国」日本の中では、こんな願いはただの懐古趣味としか、思われないだろうけれど。

四月二十二日
 『ウィーン/六〇』の第十四章、ミトロプーロスの後編をサイトに掲載する。
 作成しているとき、表紙の年月日(オリジナルの『はんぶる』の発行日)を前章の日付に続けて、機械的に一九九五年八月一日とした。ところが原文をよく見たら「一九九六年一月一日」とあり、五か月後の日付になっていたので、そのように訂正する。
 すっかり忘れていたが、この二つの章のあいだにグッドール(当時の表記。その後、BBC放送のアナウンスを参考にグッドオールとあらためた)の評伝『終わりよければ』四回分と、『らいぶ歳時記』第三部を発行していたのだ。
 前後編の続きものを突然中断して、五か月も空けたのだから、ずいぶんひどい話である――当時は、こんな勝手気ままをHMVに許してもらっていた。あらためて感謝。
 さすがに今回は、この勝手な挿入を再現するつもりはないので、『終わりよければ』は後回しにする。
(一応つけ加えておくと、『終わりよければ』は単行本『クライバーが讃え、ショルティが恐れた男』の原型になったもので、長さは約三分の一である)

四月二十三日
 CDを二種聴く。今回は大当たり。
 まず、フレイレとシャイー指揮ゲヴァントハウスによる、ブラームスのピアノ協奏曲集。
 シャイーのCDといえば『クラシックジャーナル』座談会で二〇〇五年の第一位に選ばれた、メンデルスゾーンの《讃歌》が素晴らしかった。座談会の時点では未聴だったが、後で急いで買いにいって聴いた。そして曙光の眩さを想わせるその輝く響きに圧倒された。
 シャイーとゲヴァントハウスの黄金時代の始まりを告げるような演奏だったから、それに続いて出たこの協奏曲集もすぐに聴くつもりだったのに、何かの加減で買いそびれ、そのままになっていた。
 ところが『レコ芸』付録のCDに入っていた抜粋を聴いたところ、さまざまな声部が明瞭に聴きとれる響きに惹きつけられ、あわてて買ってきた。
 シャイーの響きの明瞭さ、音の綾の一本一本の色と動きを描き分けて際だたせる才能については以前から有名だが、ときにすべてが淡色で、薄味すぎる傾向があった。しかしゲヴァントハウスとのCDでは、その響きに確かな実在感が加わり、弱点が克服されているのだ。
 このブラームスでも、さまざまな音の綾が聴こえる。独奏ピアノに応答し、木霊するように鳴り響くオーケストラ。その対話が心地よい。フレイレのピアノも個性的ではないが芳醇で、鈍くはない。
 ただし、緩徐楽章などで音楽はときどき動感を失って、止まってしまう。これは荘重様式をひきずる――一九五〇年代生まれは過渡期の世代なのだ――シャイーの感覚なのだろう。この点で私などは不満が残るが、それを差し引いても、綾なす響きの美の価値は、非常に大きい。

 もう一枚は、俊敏様式の担い手のひとり、ウラディーミル・ユロフスキがロシア国立管弦楽団を指揮した、ショスタコーヴィチの交響曲第一番と第六番(ペンタトーン)。
 ユロフスキ指揮の交響曲演奏を聴くのは初めてだが、やはり見事だった。この人の響きは澄んでいて、切れ味が鋭い。冬の冷気を想わせる、身の引きしまるような緊張にみちていて、しかも――何よりも大切な――深い呼吸感がある。第六番第一楽章で細部をじっくりと克明に描き出しながら、なお音楽が止まらずに緊張を持続できているのは、まさしくこの呼吸感の賜物だ。
 第一番第三楽章などの濃密な歌、しかもベッタリとせずにコシがあって、弾力を忘れない歌いぶりにも引きこまれた。両曲とも、終楽章ではリズムの跳ねと力強さがいい。「統御された野獣性」とでもいいたくなる、緊張感と動感の両立がこの人の魅力である。
 何度も書くが、少なくとも指揮者に関しては、本当にいい時代になった。

四月二十五日
 ミュージックバードにて、スペシャルセレクション収録。
 放送予定は七月三日~八日とまだ先だが「俊敏の時代~新世代の指揮者たち」と題してヴェルザー=メスト、オラモ、ド・ビリー、ティーレマン、ユロフスキとルイージ、ハーディングを日替わりで紹介するもの。
 準備をしていて気がついたのは、一九五九年生まれという指揮者が何人かいること。特集に登場するティーレマンとルイージのほか、シルマー、メルクル、パッパーノ、クライツベルクなどがいる。それぞれにタイプは異なるが、一九五〇年代半ばまでの世代に較べ、その音楽に呼吸感が強まっていることは明らかで、どうやら「俊敏世代」はこのあたりから始まるらしい。
 私より四つ上、ほぼ同世代ということで、これを偏狭な同級生的共感ととられてしまうのは避けられないかも知れないが、しかしそれは本意ではない。同時代的共感であることは間違いないが、より幅の広いものだ。
 一九五九年生まれから本格的な「呼吸感の復活」、すなわち俊敏様式への転換が始まって、それから約三十年間、一九九〇年初頭生まれあたりまで俊敏様式が続くというのが、私の予想である――それ以後の世代はまた呼吸感が減衰し、二十年間かけて機械的な荘重様式に転換していき、二〇一〇年生まれあたりから、ふたたび完全な荘重様式の世代となるのではないかと思う。
 これは指揮者だけではなく、オーケストラの楽員にも起きている現象のはずであり、かれらがオーケストラの中核となった現代こそ、その効果を真に発揮し始めている(ユース・オーケストラでは、当然ながらその変化はもっと早い段階で起きた)。
 先般来日したハーディングは、「オーケストラの楽員もここ数年で世代交代が進み、四十代以降の人が中心だからやりやすい」と語ったそうだけれども、これは単に年代が近いというより、呼吸のセンスが似ているという意味だろうと、私は思っている。

 そのひとり、クライツベルクがウィーン交響楽団を指揮した、ブルックナーの交響曲第七番を買って聴く。
 二十三日の項で紹介したユロフスキと同じペンタトーン・レーベルのもので、よく行く店では三千四百円以上もするので手が出なかったのだが、別の店に行ったら約二千五百円だったので、買うことにした。大型店間では相互監視が行き届いて、価格差は少ないと思い込んでいたが、そうでないこともあるらしい。
 予想以上にいい演奏だった。同世代の中でも、いちばんブルックナーに合った音楽性の持ち主かも知れない。長大な呼吸を感じさせることで、音楽を雄大にうねらせている。一緒に息をするのが実に気持がいい。急くことなく、しかしリズムの弾力が保たれているので、もたれることなく流れる。
 登りつめていくときの、ほんのわずかな、しかし迷いのない決然とした加速が巧妙で、ききてに快感をもたらす。さらに作為的な大仰さを望む人もいるだろうが、私にはこの自然体こそが魅力的だ。終楽章のコーダを、引っぱずしたようにあっさり終わらせるのも――ここは後で録り直しているのだろうが――憎い。
 厚めで温もりのある響きも、曲にふさわしい。こんな演奏があまり評判になっていないのは、やはり高すぎて聴いている人が少ないからか。もったいない。
 正直言って、ブルックナーの音楽には食傷しているのだが、そんなことを忘れる。呼吸感のいい演奏は、どんなときでもつねに新鮮なのだ。この曲でこんな不滅の鮮度を感じるのは、クレンペラーのセッション録音盤以来かも知れない。
 二〇〇四年六月のコンツェルトハウスでのライヴ。同会場でのライヴ録音は、なぜかいいものが少ないと以前に書いたが、これはブフビンダー弾き振りのモーツァルトのピアノ協奏曲全集とともに、例外的存在だ。
 この人の指揮で《ローエングリン》全曲が聴いてみたい。もちろん《パルジファル》や《トリスタン》でもいいが、それらには名盤名演がすでに数多ある。一方、《ローエングリン》で指揮に呼吸感のある録音は、ステレオではほとんどないからだ。

 もう一つ、サカリ・オラモ指揮のバーミンガム市交響楽団のマーラーの第五番も買ってきた。これは機会をあらためて論じたいが、優れたリズム感と、澄んだ響きで克明に描き出されるフレーズの綾が、気持のよい刺激を与えてくれた。
 マーラーの五番も食傷した曲――《復活》のように「赤い玉」が出た、つまり当方の感受力が完全に磨耗してしまった曲ではないが――なのだが、やはりそれを忘れさせる快演だった。

四月二十六日
 鈴木淳史氏と待ち合わせして、相田みつをミュージアムに行く。講演の打ち合わせと下見のため。
 平成十五年に阪急デパートから東京国際フォーラム内に移転したという。平日午後でも入館者はひっきりなしで、老若の女性たちに混じって、中年サラリーマンらしき人の姿も見られる。
 相田のメッセージの力強さに、慰撫と励ましを得ている人の多さを実感。

四月二十八日
 また、一九六〇年オタク話。
 GW直前で煮詰まってきているが、抜け出して新宿のレコード店へ。
 オペラのコーナーで、ストコフスキー指揮のモンテヴェルディのオペラ《オルフェオ》がPONTOから出ているのを見つける。「これはひょっとしたら」と思ってつかむと、やっぱり一九六〇年のニューヨーク・シティ・オペラでのライヴ録音だった。
 ストコフスキーは一九六〇年秋にこの歌劇団に客演して、ダラピッコラの《囚われ人》との二本立てを指揮していたのだ。後者がプライヴェートLPで出ていたという情報は知っていたから、《オルフェオ》もあるいは録音が残っているのではと思っていたが、このポント盤で、四十六年ぶりに世に出てきたわけだ。
 主役はジェラール・スゼーで、二枚目にはかれの珍しいライヴ録音がいくつか収められているが、その中には一九五九年七月の、ホプキンス指揮のニュージーランド国立交響楽団とのマーラーの《亡き子をしのぶ歌》が含まれていた。
 これも、一九六〇年に関連するライヴ録音といえる。というのもスゼーは一九六〇年二月に、ニューヨーク・フィルの定期演奏会でバーンスタインと共演してこの曲を歌ったのだが、木曜日だけ出演して風邪で降板し、急遽トゥーレルが代役となる結果に終わった。商業録音もトゥーレルが歌っており(専属契約の関係などで、当初から録音だけ交代する予定だった可能性もあるが)、スゼー自身は結局一切この曲集の録音を残していないから、半年前のこのウェリントン市でのライヴは貴重な記録なのである。
 ただし音質は、モンテヴェルディもマーラーもちょっといただけない水準。ドルビーをかけて録音したカセットを、再生ではドルビーをかけ忘れてしまったような感じの、ハイ上がりのシャカシャカした響きで、テープ速度のムラもあるようだ。海賊テープ屋のカセットなみの音質で、CDで売る水準ではない。
 しかしそれでも、世に出たことだけで感謝してしまうのが、一九六〇年蒐集馬鹿の悲しいところ。

五月一日
 仕事で失敗する。いや、失敗したことを認めて、相手に報告と陳謝をする。この先は、相手の判断に委ねるのみ。
 来た仕事をすべて引き受けたくなってしまう。そして結局は、自分で自分の首を絞めてしまう。フリーランスにありがちな、しかし絶対に避けねばならないことをやってしまった。
 いまさら取り返しはつかないが、ともかく今後は、二度とこんなしくじりをするまい――次はない。

五月二日
 山尾敦史さんにお招きいただき、東京国際フォーラムで行なわれた、「熱狂の日」前夜祭に参加。
 明日からの期間中は無料コンサートなどの会場となる、地下展示場(ヨーゼフ二世)に、二、三百人ほどの関係者が集まる。二十六日に下見に来たときはまだ影も形もなく、この展示場も「ブランド大バーゲン」とかいう衣服のバーゲン会場だったのに、今日はもう音楽祭会場として準備が整っている。
 山尾さんは、未明に始める予定の実況ブログの準備のための取材に忙しい。邪魔をしてはいけないので、会場で会った前島秀国さんと一緒にうろつく。
 私はクラシック業界の中でも、ディスク関係につきあいが偏りがちで、実演・イヴェント系の方々には疎いのだが、今回はよい機会(仕事)を山尾さんと前島さんにご紹介いただいたので、さまざまな人と知り合いになるつもり。

五月三日
 「熱狂の日」初日。今日は仕事はないが、片山杜秀さんがトーク・イヴェントの先陣を切って講演されるので、様子見もかねて拝聴にうかがう。
 去年は予想外の大変な人出で話題をよんだ「熱狂の日」だが、今年も人は多いものの、会場内は意外と落ちついた雰囲気である。初めてづくしだった昨年に対し、今年は主催者側もお客さんも慣れたからかも知れない。前売りでほとんどの公演が売り切れているから、当日券売り場前などの狭い範囲に多人数がたまることがなく、来場者は広い会場内を適度に周遊しているので、何というか人気(じんき)にあふれてしまうことがないのである。この結果、騒がしさと空間の余裕とのバランスがとれて、華やかだが喧しくない、好ましい雰囲気となっている。
 片山さんのお話は、井上太郎の『モーツァルトと日本人』(平凡社新書)をヒントに、近代の日本知識人たちのモーツァルト観の変化を、時代状況、時代精神の遷移にからめて紹介するというもの。残念ながら時間が足らず、小林秀雄が出てきたあたりで終わったが、『近代の超克』に関連づけるなど、片山さんならではのお話で興味つきない一時間だった。
 出入り自由だが、誰か出て行けば入れ代わりに新しい人が来て、最後まで超満員のお客さんが熱心に聴いていた。

五月四日
 この日は午後二時から、相田みつをミュージアムでトークをし、さらに午後四時半からは「クラシック・ソムリエ」という相談係を当日券売り場の脇で二時間つとめることになっている。
 トークの題は「モーツァルト演奏史の変遷」。「史」抜きの「演奏の変遷」でいいのではないかとも思うが、いったんそうつけて、公表されたのでそのまま。
 何人かの友人は忙しい時間を割いて、講演のために来てくれたが、それ以外のほとんどの人はとりあえず時間が空いていて、タダで座れるし出入り自由だから入ってみた、というだけのはず。しかし昨日同様に最後まで熱心に聴いてもらえた。とても嬉しい。
 CDやDVDの録音録画を紹介しながら、俊敏~荘重~俊敏という演奏スタイルの循環について話をする。実例があった方がわかりやすいが、著作権の問題などもあるので、文章の世界での「引用」程度、つまりサワリを数分聴いてもらうくらいに抑える。
 ナマ演奏がみちあふれている会場でレコードを流すなど、はたして受け入れられるだろうかと思っていたが、やってみたら意外なくらいに効果的だった。
 友人の感想でも「みんなで聴くと、旧知の演奏でもさらに印象が強まった」というのがあった。
 おそらく、映画を自宅のテレビで観るときと、映画館で観るときとの違いに似た心理作用が働いたのだと思う。
 レコードもまだまだ捨てたもんじゃないな、というのが率直な感想だった。
 いまはみんな、あまりにも一人でレコードを聴いているのではないか。その個人性の高さを利用しているうちに、いつしか虚無の虜になったのではないか。
 もちろん、昔のような「レコード・コンサート」を現代に復活させることは、色々な意味で難しいだろう。それは承知の上で、何というか「弁士的活動」を自分の仕事に加えることはできないか、などとちょっと考える――それは結局、大学時代のサークルの「部コン」、部室レコード・コンサートという、自分の原点に還っていくことになるのだが。

 今回の講演の世話役的立場にある鈴木淳史君とお茶を飲んだあと、当日券売り場脇のクラシック・ソムリエ席へ。
 本来ならその名称通り、たくさんの演奏会から見つくろって、お客さんの嗜好に合わせて紹介する、というのが仕事なのだが、なにしろ今回は五千席のホールAの公演以外ほとんど売り切れという状況だから、ソムリエとしては、一本だけ残ったワインを飲むか、止めるかという選択をしてもらうだけである。
 というわけでそれ以外の質問、あの大画面に映っているピアニスト兼指揮者は誰ですかとか(答えはツァハリアス)、いついつの演奏会でのアンコールは何だったんでしょうとか、そういったものに答えるのが主な仕事になる。
 そうしたご質問に答えたり、いついつの演奏会が凄かったらしい、なんて噂があちこちから漏れ聞こえてきたりするさまをソムリエ席から眺めていて感じたのは、この「熱狂の日」の会場に満ちている楽しさは、何か「学園祭」に通じるものがあるなあ、ということ。
 一定の敷地内で多数の行事が同時多発的に開催されていて、誰にもその全体像を把握することは不可能なこと。このザワザワとした感じが、学園祭によく似ている気がするのだ。
 これは個人的な話だが、窓口にいれば何人もの友人たちが、通りすぎざまに声をかけていってくれるし、外に出れば、またあちこちで友人知人と言葉をかわすことになる。みんな、ここで一日を過ごすべく、うろついている。そんなところも遠い日の学園祭を思い出させる。
 おそらくかなりの人が、学園祭の楽しさを、それぞれの感傷とともに覚えていることだろう。それに似た祝祭空間を、少なくともクラシックでは、この「熱狂の日」が初めて提供したのではないか。

五月五日
 今日は午前の二時間がソムリエ役。昼食の席で日経新聞の池田卓夫さんに出会ったので談笑したあと、相田みつをミュージアムで鈴木淳史君たちの朗読会――というかパフォーマンス――を聴く。
 五人の出演者がモーツァルトのオペラの歌詞やさまざまなテキストをかわるがわる読んでいくもの。正直言ってよくわからなかったが、わかろうとしてはいけないのだろう、きっと。
 これで「おつとめ」は終わったので、演奏会を三つ聴く。帰りがけに見知らぬ人から「昨日の講演、とても面白かったです」と声をかけられる。照れくさくてすぐ逃げてしまったが、嬉しい。

五月六日
 そろそろ『レコード芸術』の締切がきつくなっている。夕方までに送らないとまずいので、今日の相田みつをミュージアムでの許光俊さんと鈴木君の対談は、失礼させていただく。トリオ・ヴァンダラーもとうとう聴けなかった。
 プレスパスを返す必要もあるので、七時頃に国際フォーラムへ行き、今回特に評判の高いペーター・ノイマン指揮ケルン室内合唱団を聴く。出てきて周囲を見ると、祭りも終わりに近づいて、寂しさと最後の熱気が入り混じっているのが、また好ましい。
 返し終えたところで、偶然に相田みつをのご長男で、ミュージアム館長の相田一人さんと出会う。今回はこの相田館長から機会をいただいたのがきっかけで、「熱狂の日」にかかわることになり、期間中も本当に親切にしていただいた。
 祭りの終わりにご挨拶できたのも、何かのご縁なのだろう。

五月九日
 祭も終わり、各種原稿をこなしつつその合間をぬって、ミュージックバードにて収録。
 スペシャルセレクションは、七月十七日~二十二日放送予定の「グルダとアファナシエフ」。
 BBCコンサートは、六月四日予定のオラモ指揮バーミンガム市交響楽団の演奏会(二〇〇四年プロムス)と、六月十一日予定のブリテンの歌劇《真夏の夜の夢》の、一九六〇年世界初演のライヴ。
 オラモの演奏会ではバーンスタインの《チチェスター詩篇》とアイヴズの交響曲第四番という、ライヴでは珍しい作品が前半に演奏されている。指揮者の冴えた響きのセンスが見事。

五月十日
 夕方で原稿が一段落したので、購入したままになっていたCDを夜に聴く。
 まずは、ペンタトーンのクライツベルクを二枚。ワーグナーの序曲集とJ・シュトラウスのワルツ集。アメリカのディスカウント店からで、送料を入れても日本で買うより数百円ずつ安かった。
 セッション録音ということもあって、ブルックナーの交響曲第七番のときの、響きが呼吸とともに身体の中に、すーっと浸透してくるような気持のよさはないけれど、それでも嬉しい演奏。
 堂々とした正攻法のアプローチだが、十年くらい前までの似たタイプの演奏と違うのは、音が弾んでいて停滞しないことである。ときにその呼吸の波動を急にずらして、ハッとさせる工夫が微笑ましい。二枚の中で唯一ライヴ録音となっている《トリスタンとイゾルデ》前奏曲と愛の死が、やっぱりライヴなので呼吸を同調させる力が強く、印象的だった。
 NHK交響楽団などはその音楽的志向からいって、こうした指揮者を常任に招くべきなのではないか。七月にあるワルツ演奏会がその第一歩になったら、面白いと思うが。

 もう一枚は、エンリコ・オノフリがヴァイオリン独奏と指揮――ディレツィオーネ・ムジカーレ。もう一人、アレッサンドロ・デ・マルキもムジカーレ抜きのディレツィオーネと表示されており、どのような役割分担かは不明――を担当した、ヴィヴァルディのヴァイオリン協奏曲集。ナイーヴのCDである。
 先日の「熱狂の日」でオノフリがディヴィノ・ソスピロを指揮したハイドンのチェロ協奏曲(独奏コワン)とモーツァルトの交響曲第四十番を聴き、仕掛けと刺激にみちた演奏がとても面白かったので、買ってきたもの。
 オノフリはイル・ジャルディーノ・アルモニコのメンバーだ。アントニーニが指揮するこの団体の録音は、刺激的ではあるけれどもギスギスして弾力と柔軟性に欠けるように思われ、あまり好みではない。だが、オノフリ指揮の先の演奏会では音の「跳ね」にバネがあって、けっして押しつけたり、こすりつけたりするだけの響きではなかった。そこが気に入ったのである。
 このCDのヴァイオリンも、同様の印象。息のうねりが感じられる。続けて聴くと飽きてしまうヴィヴァルディ作品を一枚聴き通せただけでも、大変な収穫。

五月十二日
 通販専門店「アリアCD」を通して購入した、DISCO ARCHIVIA製のCD・Rを聴く。
 トスカニーニ指揮NBC交響楽団の一九五四年三月二十一日の演奏会で、《セビリャの理髪師》序曲とチャイコフスキーの《悲愴》交響曲を指揮したもの。
 購入した理由は、これが十四日後のラスト・コンサートとともに存在が知られている、ただ二つのトスカニーニのステレオ録音だからである。にもかかわらずレコード化されたことのない、幻の録音だったのだ。
 聴いてみると、ラスト・コンサート同様に本物のステレオ録音(《悲愴》第三楽章最後の数分間のみモノーラル)。NBCのモノーラル音源と異なる、やわらかい響きであることも共通している。
 最晩年なので音楽のあちこちに悲しいすきま風が吹いているが、部分的には往年の精気を感じさせる箇所もある。《悲愴》第一楽章の初めの十分間ほどの緊迫感と躍動感の両立は、その白眉。それがステレオで聴けるのだから興奮した。
 面白いのは、曲紹介のアナウンスがライン入力ではなく、カーネギー・ホールの場内放送を拾っているような響きで聞こえること。
 この響きから想像すると、この録音はNBC放送のラジオ中継用のマイクとまったく別系統で、おそらくRCAのスタッフが試験的に録音したものだろう。前述のとおり柔らかい音質なのも、このためだと思う。
 ならばなぜ正規に発売されないのか。実験であってもRCAが関わっているのなら、トスカニーニ家と話をつければ発売できたはずだ。世に出せない、よほどまずい理由でもあるのか。ステレオ設備は希少品だったはずで、RCA以外の仕事とは考えにくいのだが。
 それにしても一週間前の十四日の《メフィストーフェレ》プロローグこそステレオ録音してくれたら、などと夢想するが、これはまさしく、死んだ子の年を数えるようなもの。

五月十三日
 オーパス蔵で発売予定のドヴォルジャーク作品集――フォイアマン独奏のチェロ協奏曲(タウベ指揮ベルリン国立歌劇場管弦楽団)と、セル指揮チェコ・フィルの《新世界より》の二曲――のライナーノーツを書き上げる。
 一九二八、九年と三七年という、二十世紀前半の俊敏様式まっただなかの録音で、一音一音に力を込めた、気魄にみちた「新即物主義的演奏」にあらためて圧倒される一枚である。
 この気魄の凄まじさは、現代の俊敏様式の演奏家には聴けないものだが、これはしかし、成熟期に入った一九三〇年前後と、まだ青春期の現代との、二つの俊敏様式のあいだにある年輪の差なのかも知れない。
 一九一〇年頃の草創期のオーケストラ録音に聴こえる、あの貴族的軽妙さこそが現代に照応するものなのか。だから、いまから二十年もすれば、ここでフォイアマンやセルが聴かせるような厳しい音が、ふたたび現れるのかも知れない。
 往昔を聴いて未来を待つ。楽しい。
 願わくは、あんな激動の時代状況でないといいが、これもまた…。

五月十六日
 ミュージックバードのスペシャルセレクション収録。今回の選曲構成は前島秀国さんで、ECMレーベルの特集(七月二十四日~二十九日放送予定)。
 二か月先の番組を録るものだから、その頃に何がどうなっているかは見当もつかない。山尾敦史さんにお願いした、六月十二日の週に放送予定の「ワールドカップ記念特集」も四月半ばの収録で、日本代表の健闘を祈りつつも、結果に左右されない構成にしていただいた。はたしてどうなることやら。
 今日のECM特集は七月末の予定。夏にECMサウンドはよいと思うが、今年は冷夏の気もする。まあそうだとしても蒸し暑いには蒸し暑いだろうから、涼しげな音楽が合うだろう。

 ところで、その初日はキース・ジャレットの特集で、モーツァルトのピアノ協奏曲などが取りあげられていた。
 先週収録した「グルダとアファナシエフ」でもグルダがチック・コリアとアーノンクール指揮で録音したモーツァルトの協奏曲などを取りあげたので、偶然にもジャズ・ピアニストの弾くモーツァルトが、二週連続でかかることになった。
 それで思い出す――一九八〇年代半ばから九〇年代には、ジャレットやコリアやジョン・ルイスといったジャズ・ピアニストが、モーツァルトやバッハを録音するのが流行っていた。
 ジャレットとコリアによるモーツァルトの協奏曲の夕べが、日本でも行なわれた。一九八三年か四年、昭和女子大人見記念講堂だったと思う。
 何かあの頃、クラシックの閉塞状況をジャズ・ピアニストが、打ち破るとまではいかなくとも、揺り動かしてくれるのではないかという期待感が、一部にあったのだ。
 当時の学生が、例えばピノックのチェンバロ演奏などを誉めようとするとき、「まるでジャズみたいな」という形容詞を枕詞のように用いることが多かった。ジャズには、都会的でしゃれていて、自由で活力と創意に富んだ音楽である、というイメージがあったのだ。
 たしかに、一九八〇年代から九〇年代のクラシック音楽の状況は、全般としては――例外はつねに存在する――本当に堅苦しく息苦しく、つまらなかった。私がヒストリカル音源ばかり、いまの私の用語でいう二十世紀前半の俊敏様式の演奏ばかり聴いていたのも、そのためだ。
 そこへ登場した、ジャズ・ピアニストによるモーツァルト。新風を期待させたのも当然だろう。
 だが、結果はそれほど面白いものではなかった。聴いてみて、ふーんと納得して、それだけ。当方が勝手に期待した、「挑発」とか「型破り」とかいった刺激にみちたトンデモ盤ではなかった。

 そうしたものはむしろ、「ジャズへの期待」が不発に終わった後に登場してきた、ピリオド様式の若い世代のクラシック演奏家たちがもたらすことになった。先日の「熱狂の日」でオノフリが指揮して聴かせたモーツァルトの交響曲第四十番などは意外性と創意にみちた、まさしく昔の学生なら「ジャズみたい」と形容したに違いない――ジャズを模倣したのではなく、クラシックが元々内包していた可能性なのだが――演奏だった。
 移植文化の国アメリカの音楽に期待されたクラシック演奏の活性化は結局、クラシックを自生文化とするヨーロッパが自らなし遂げたのだった(しかしそれは今のところ、作曲という要素と分離されている。今後はその再結合に課題が移るだろう)。
 いまはむしろジャズの方がはるかに閉塞的で、博物館行きの危機にある。もうクラシックは作曲でも演奏でも、ジャズに期待することはないだろう――などと考えていたら、とんでもない、つい先日の「熱狂の日」で、小曽根真が《ジュノーム》を弾いていたことを思い出した。
 ライヴ録画の音声部分を聴いただけだが、小曽根の演奏は、二十年前の「ジャズへの期待」に、誰よりも応えるものだった。響きの粒だちは甘く水っぽいけれど、音型の自由な動きは面白く、自作のカデンツァをここぞとばかりに聴きどころ、聴かせどころにするあたり、「待ってました!」と声をかけたくなる。
 ここにある異種格闘技的快感こそ、かつてコリアやジャレットが期待させながら、聴かせてくれなかったものなのだ。
 自由なジャズが堅苦しいクラシックに新風を吹き込むという、勧善懲悪的で予定調和な「物語」。日本では、二十年前のその物語がまだ生きていたのだ。しかもそれを実現したのは、どこの国でもなく、やはり日本のピアニストだった。

 小曽根の演奏自体は楽しんだし、否定するつもりはない。ただその物語のあまりの古さに、鼻白んでしまう。
 こういう物語のためには、クラシックは堅苦しく、活力に欠けたものでなければならない。まさしく、荘重様式の時代そのままに。そうすれば相対的に、ジャズはもっと自由な音楽だと信じることができる。つまり、荘重様式がまだ続いているという時代錯誤に頼るしか、ジャズは自由でいられない。
 これは単なる思いつきだが、バップ以降のモダンジャズは、あえていえばそれ自身が荘重様式そのものであって、リズムの弾力や呼吸感が、もともと構造的に欠落しているのではないか、と私は疑っている(俊敏様式への再生の可能性は、サッチモやエリントンや白人のスイングのような、オールドジャズにこそあるのではないか)。だから、クラシックにも荘重様式のままでいてもらわないと、物語は成り立たない。
 そうした物語が、俊敏様式のピリオド楽器団体と聴衆との距離を、これまでになく縮めるという功績をあげた「熱狂の日」の中で、同時に起きたのは面白い。
 ――なぜ日本人だけが、いまさらジャズを持ち出したのか?
 これは、もっと考えていこう。

五月十九日
 屋内をネズミが徘徊しているという。めんどくさいので「県警方式」で適当に捜査したふりをして、事件性なしと回答していたが、台所の食べかすや風呂場の石鹸を齧った跡が確認され、さらに山の神が台所でその姿を見るにおよんで、ついに立件せざるを得なくなった。
 古い木造屋だからネズミの通路はあちこちにあり、何十年も前からネズミ(クマネズミという奴だそうだ)がときどき屋根裏に棲みついてきたが、台所など人間の居住圏内を荒らしたことはあまりない。どうやら家の老猫が衰えて、行動力と行動範囲が狭まったのが原因のようである。とりあえず台所の穴はふさぐ。
 近々に若い猫をもらってきて、哨戒させることに決める。今の猫はネズミを獲らないというが、老猫は昔武勇伝を残しているし、去年まで家の外にいたメスノラも、私に見せようと二日続きで玄関に転がしておいたくらいだから、メスなら獲るかもしれない。ダメでも、家の中を哨戒するだけで脅威となるだろう。

 ラ・プティット・バンドのバッハ演奏会をオペラシティに聴きに行く。
 荘重様式のピリオド楽器団体。

五月二十四日
 ミュージックバードから連絡がある。今日の「スペシャルセレクション」で放送した《連隊の娘》のCDの、一枚目後半でノイズが激しくなり、エマージェンシー・ミュージック(何らかの放送事故が発生した場合に、「つなぎ」で放送する音楽)への差し替えを余儀なくされたとのこと。
 使用したのは私の持ち込み盤で、ヌオヴァ・エラのカンパネッラ指揮のもの。一九八九年製で、この時期のイタリアのマイナー盤(ヌオヴァ・エラのほか、アルカディアやASディスクなど)は品質が悪く、アルミ面の酸化が進んで、特に後半部でノイズが発生することが増えている。にもかわらず事前に音質をチェックしなかった、私のミスである(お聴きになった読者の方がおられたら、どうかお許しください。申し訳ありません)。
 同じく古い盤でも、国内盤やメジャーの外盤などは問題がないから、「CDの寿命は十五年」などと短絡する必要はないが、それくらいでダメになる低品質の盤もある、ということだ。国内盤とて、ゆっくりとでも酸化は進行しているはずで、五年先十年先のことはわからない。せめて私がこの世にいる間くらいは、もってほしいものだが。

 人間と同様に、モノの寿命というのもそれぞれ違っていて、予想がつかない。
 このところ、手持ちのVHSからDVDにコピーする作業をやっている。
 一九六〇年関係で未DVD化のテープが主な対象だが、テープの山をかき回していると、一九八三年頃に録画した「オレたちひょうきん族」だの「タケちゃんの思わず笑ってしまいました」のテープが出てきて、つい観てしまったりする。
 前者の「入間の竪琴」(映画『ビルマの竪琴』のパロディ)だの、後者の「田んぼ野球」や「田んぼバレー」(ドロドロの田んぼで、たけし軍団が野球やバレーをするだけ)だの、「たんすバレー」(たけし軍団がタンスを背負ってバレーをするだけ)だの、「異種格闘技戦 水泳対剣道」だの、「クイズ 勝ちぬき電気イス」だのは、今観てもあまりのバカバカしさで笑えるが、驚くのは、二十年以上前に安いテープへ三倍録画した画像が、とてもしっかりしていること。
 DVDやHDの画像を見なれてしまうと、昔の家庭用VHSの画質など耐えられないだろうと思っていたが、どうしてどうして、けっして捨てたものではないし、覚悟していたノイズやチラつきも、気味が悪いくらいに感じない。
 昔、亡父が初めて購入したビデオデッキで録画したものだ。一九七〇年代の価格の数分の一になっていたとはいえ、当時はまだまだデッキが高価で、安い機種でも十万円以下はなかったと思う。
 手持のテープが現在でも視聴可能な品質を維持している理由は、あるいはデッキがまだ高額商品――家電としてはということで、オーディオ製品としては大したことなかったが――だったことに関係があるのかも知れない。それからほんの数年で劇的に価格が下落して、デッキも「一家に一台」から「一人に一台」の状況になるが、そうした安いデッキでの録画だったら、はたして今どうなっていたことやら。
 ともあれ、VHSのように信頼度の低そうなアナログ・ソフトが二十年以上経っても平気なのに、CDのようなデジタル・ソフトがもう不安だらけというのは面白い。

五月二十五日
 『旅順攻防戦の真実 乃木司令部は無能ではなかった』(別宮暖朗/PHP文庫)を読む。
 単行本の原題が『「坂の上の雲」では分からない旅順攻防戦』だったことでもわかるように、司馬遼太郎が『坂の上の雲』や『殉死』で激しく批判した乃木大将とその幕僚による旅順攻撃について、その前後の時期のロシア・トルコ戦争や第一次世界大戦における、同種の要塞攻防戦や塹壕戦の状況と比較しながら論じたものである。
 この比較による結論として、このような攻防戦が両軍互いに大損害を与えあう消耗戦となるのは、当時の火器や機械の性能のために、むしろ当然のことであるとする。そして、正面攻撃を避けて初めから二百三高地を狙いさえすれば、義経の鵯越や信長の桶狭間奇襲のように完璧に、わずかな損害で短時日に勝てたはずなどとは言い切れないことが、ここで主張されている。

 私は司馬の文章から深い影響を受けている。改行の効果的頻用や、ひらがなの多用などによって生みだされた文体のリズムと呼吸感は、古今無二のものだと思っている。そして煩雑な形容詞を並べたてた描写をすることなしに、読者に風景を観させる文章力に、惚れこんでいる。
 だが狂信者ではない。その内容、いわゆる「司馬史観」と呼ばれる時代や事件への解釈は、四十年も経てばアラが見えてくるのは当然だと思う。
 ましてや『坂の上の雲』は近代史である。史料も桁違いに多く、ということは食い違いや矛盾が多発するわけで、因果関係や責任の所在は複雑に入り組む。それを単純に割り切ろうとする「小説」が事実から離れてしまうのは仕方がない。
 でも、その虚構性をこれだけみんなが躍起になって指摘する司馬作品というのは、この『坂の上の雲』だけだろう。
 原因は色々あるだろうが、一つにはこの作品の主人公が日露戦争そのものであって、秋山兄弟がその狂言回しに過ぎない点にあるのではないか。主人公が一人の人間なら、読者もその人物とその行動が、あくまで小説上の虚像であることを忘れはしまい。群像劇である『坂の上の雲』では、その虚構性を読者が忘れてしまいがちになる。
 或る戦争の推移を描く、群像劇としての戦記物語は傑作であればあるほど「小説」を離れて、民族が共有する「神話」――マンダラのような――に近づく。
 たとえば『平家物語』や『太平記』や小瀬甫庵の『信長記』、あるいは『三国志演義』などはそうした「神話」だ。近代の数多の歴史小説の中で唯一なりおおせるのが、『坂の上の雲』なのだろう。
 個人的には、より小説的世界と主人公をもつ『燃えよ剣』や『播磨灘物語』などの方が好みだけれど。

五月二十七日
 また、一九六〇年オタ話。
 『らいぶ歳時記』の説明文のために資料やらネットやらを再チェックしていると、ひょんなことから、いままで気がつかなかった一九六〇年もののCDを「発見」することがある。
 七月分をつくっていて(一体いつ掲載できるのだろう…)出くわし、注文したものがいくつか到着した。
 まず『バーミンガム・ジャズ祭一九六〇』という分売三枚のCD。調べたらイギリスのバーミンガム市では、毎年七月に大規模なジャズ祭があるらしい。そんなもののライヴ盤があるとは、と思って注文したのだが、来てみたら裏面に小さく「ミシガン州バーミンガム」とある。
 イギリスではなく、アメリカのデトロイトのベッドタウンで、人口二万くらいの小さな同名の町があるのだ。ご丁寧にそこでもジャズ祭が行なわれていて、そのライヴをアメリカのマイナー・レーベルがCD化したのである。
 制作した人はきっと、デトロイト周辺の購入者のことしか、考えていなかったのだ。はるかイギリスの同名の都市と取り違えられる可能性なんて、思いもよらなかったのではないか。表紙は紙一枚で「ライナーノーツが欲しければ電話かメールをくれ」と書いてある。海外からの注文なんて、きっと予想外だろう。
 それを、日本の住人が買う。
 アメリカ人にとってのインターネット世界って、どんな大きさなのか。きっと内陸部の人の大部分にとっては、せいぜい合衆国の版図だけのことなのでは。

 ほかに、スミソニアン・フォークウェイズ・レーベルのCD・Rをまとめて。ここでは、未CD化の自社LPをCD・Rで売っているのである。『ナッシュビル・シットイン運動の記録』とか、『非米活動調査委員会』とか、そんな一九六〇年もののドキュメンタリー盤があるのをレーベルのサイトで見つけて、注文したもの。キリがない…。

五月二十九日
 母校音楽同攻会の後輩諸君と飲む。昭和末年頃の生まれだ。平成生まれの後輩に出会う日も、そう遠くない…。

六月二日
 先月二十七日の日記で、バーミンガム・ジャズ祭のCDをイギリスのそれだと思って買ったら、デトロイト近郊の小さなベッドタウンでのものだった、という話を書いた。
 さらに、そのCDをつくった人たちは「購入者はデトロイト周辺の人くらいだろう」と思っていて、まさか日本人がイギリスの同名の都市などと間違えて買うなどとは思ってもいないのだろう、という意味のことも書いた。
 ひるがえって自分のことを考えてみると、たとえばこのサイトをどんな範囲の人が読むと思っているかといえば、やはりけっして広くない。
 なぜかといえば、日本語で書いているからだ。日本語を読める人しか考える必要はない。海外の読者は、日本で育って仕事などで滞在されている方くらいだ。まったく想像もできない国の人が読んでいる可能性はきわめて少ない。
 だが、英語を自国語としていたなら、こんな安易な想定は成り立たない。地球上、ネット環境があればどこでも、どんな人でも読んでいる可能性がある。
 英語しか使えないアメリカ人やイギリス人て、自分たちが思いもよらないうちに、凄い世界で生きていることになっているのでは。

 友人たちとのミクシィで、千駄ヶ谷の鳩森神社の話題で盛りあがる。
 あのミニ富士(小さいのに、登山路がいくつも設けられている)といい、神社前の不思議な印象の五叉路――呼ばれるようにそこへ出てしまう――といい、人気がないのに人がたくさんいるような夜間の変な雰囲気といい、みなそれぞれにあの場所へ興味と違和感を抱いていたことを、互いの投稿で初めて知る。やっぱり、あそこは妙な異界だったのだ。

六月三日
 いろんな原稿がつまっているのだが、夕方はそれらを放り出して、下落合方面へ向う。目白バ・ロック音楽祭のレツボール&リクレアツィオン・ダルカンディアのコンサートが、同地の聖母病院内のチャペルで行なわれるため。
 目白の演奏会場というと、東京カテドラルの聖マリア大聖堂の印象が強い。学生時代に音楽事務所でバイトしていたときには、椅子出しなどでよく通ったが、それ以来縁がない。聖母病院はそれとは目白駅を挟んで反対の西側にあり、けっこう離れているので西武新宿線の下落合駅から歩く。
 駅周辺の、うら寂しい雰囲気にちょっと驚く。土曜日の夕方だからなのかも知れないが、どうも西武線沿線は苦手。
 たどりついた聖母病院のチャペルは庭園に囲まれた、古風でシンプルな建物。木製の長椅子に座って演奏会を聴く。いい雰囲気だった。

六月四日
 今日も目白バ・ロック音楽祭で、西池袋にある自由学園明日(みょうにち)館の講堂へ。
 この音楽祭は約一か月にわたり、目白近辺のいくつかの教会や講堂などを会場として行なわれる。短期間に広大な同一会場で物量作戦によって開催される「熱狂の日」とは対照的な手作り感が、これはこれで好ましい。通常のホールなどではない、二、三百人規模の未知の会場で音楽を聴くのは新鮮で楽しい。目白・池袋周辺は幼時からほとんど縁のない土地だから、なおさらである。
 自由学園明日館は有名なフランク・ロイド・ライトの設計で一九二一年落成、隣接する講堂はその弟子の遠藤新の設計だそうである。余裕を感じさせる空間――アメリカを意識したそうだが、わたしは奈良を思い出した――の中に建つ、木造漆喰の建物。
 こういうところで、レツボールの無伴奏ヴァイオリンを聴けるのは幸福だ。この人の呼吸はじつに大きい。音楽に余裕があって、せせこましくもギスギスもしない。しかし響きと音色に自然な変化(しゃべるような)があり、凝集力も高いから飽きさせない。やはりバッハのパルティータ第二番が圧巻だった。
 最近は耳が老いたのか(老耳?)、低めのピッチの方が心地よく感じられるようになってきた。『レコ芸』で特選になったルミニツァ・ペトレの録音などは、演奏を楽しむ以前に刺激的な金属音としか思えず、集中できなかった。
 行きは目白駅から歩いたが、帰りは池袋駅へ向う。普通の住宅街を抜けると、いきなりホテル・メトロポリタンの近くに出る。広闊な自由学園から住宅街をへてビル街へと、瞬間移動したような奇妙さが楽しい。

 数日前に買った、ORFの『レゾナンツェン二〇〇五』を少しずつ聴く。
 ウィーン・コンツェルトハウスの古楽祭をCD化したこのシリーズ、これまでは陰気な印象がつよくて楽しんだためしがなかったが、今回は気持ちいい演奏が続く。とくにフロリレジウムの「ボリビアのバロック」がとてもよかった。
 これはチャンネル・レーベルで、ボリビアの教会で一枚分セッション録音したものも出ているらしい。それも聴いてみたくなったが、我慢。こういうのはちょっとだけ、つまみ食いするのが美味しいのだ。一枚は多分長すぎる――それにどうもあのレーベルとは相性が悪い。

六月六日
 一昨日聴いたレツボールのリサイタルが、「ぶらあぼ」の音楽配信サイト「ブラビッシモ」でダウンロード販売されたので、早速購入。便利な世の中。

 カード会社から山の神に電話があり、同一地域で近い時間にカードを使用した別の客がスキミング被害に遭ったので、山の神自体に被害はないようだが、すぐにカードを交換(番号変更)してほしいと言われる。その後家を空けていたら美容院から留守電で、店の機械にスキミング装置がつけられていたという報告と陳謝が入っていた。どのような状況で装置がつけられたのかまではまだ聞いていないが、恐ろしい世の中。

六月七日
 これは一週間ほど前の話。NHKの衛星第二を観ていたら、滝田栄がゲストで大河ドラマの思い出を語る番組(週刊お宝TV、司会が麻丘めぐみ…)をやっていた。
 滝田といえば世に出るきっかけになった『草燃える』の平家方の伊豆の武将、伊東十郎役が懐かしい。でかくて怒鳴ってばかりいる演技が妙に印象的だった。
 平家が敗れて盗賊に落ちぶれてから藤原定家(岡本信人!)邸に侵入、現実離れした定家の和歌を詠んで激怒、「舟なんかどこにあるんだ! 都じゅう死人ばかりなんだぞ!」とかなんとか怒鳴りつけて走り去り、あとで岡本信人が「私に何ができるというんだ!」とか喚くシーンは、今でもよく覚えている(お陰で、定家といえば岡本信人、という固定観念ができてしまった)。
 その後、十郎は目を斬られ、ラスト・シーンでは盲目の琵琶法師になり、鎌倉に招かれて、北条政子と義時に平家物語を語って聞かせるという、一年間出ずっぱりのオイシイ役だった。
 今の『功名が辻』も、島左近が滝田だったりしたら最高なんだが。あのでかい身体はぴったりだろう。
 それにしても今回の大河は、男性の脇の配役がじつに上手(女性陣はそれほどでもない。主演の仲間を喰うぐらいのが一人でもいたら、仲間ももっと映えるのだろうが)。舘の信長は、ここ十年くらいではいちばんそれらしかったし、先日の「光秀転落」の回――脚本も尾崎充信の演出も、ここまでで最高の出来だったのではないか――で出てきた西田の家康も、今後の演技を非常に期待させる雰囲気だった。何という役者か知らないが、さりげなく登場しはじめた秀長役の人も沈着ぶりが、とても大和大納言らしい。近藤政臣の幽斎もいい。
 島左近と本多佐渡に誰が来るのか、楽しみだ。今の感じだと、秀次と黒田長政も重要になりそうだ。千代と武将の子供たちとの縁を強調しているのは、千代を関が原合戦の「陰の主役」とするための伏線か。司馬作品ではつねに印象強烈な仙石権兵衛も、出てくるだろうか。

 ところで、先の『週刊お宝TV』では『花の生涯』の桜田門外の変の場面を再放送していた。例の、東映城を借りて撮影した有名な場面だが、なぜか印象に残ったのは浪士たちの襲撃時の走り方。
 刀の鯉口に手をかけ、前傾姿勢で上半身を揺らさずにタタタタタタ、と走るのを観たら、「そうだ、これが時代劇の走り方だ」と急に思い出した。
 いわゆる「ナンバ走り」に近いのだと思うが、この走法を映像で――日常生活ではもちろんのこと――観なくなって久しいと、そのとき気がついた。
 きっと戦後の体育教育の中で、消えてしまった走り方なのだろう。でも俊敏、というか「すばしっこい」感じで、日本人に合っている気がする。
 浪士役に山形勲がいたから、たぶん他の侍たちも東映時代劇の役者を借りたのにちがいない。かれらだからこそ、この「サムライ走り」ができたのでは。

六月八日
 大植英次指揮のハノーファー北ドイツフィルハーモニーによるワーグナー演奏会を聴きにサントリーホールへ。
 日本の音楽家が幼時にたたき込まれてしまった、弾力のない荘重様式の根深さを思う。俊敏様式への変化をかれらがもし頭で感じたとしても、その肉体に刻み込まれた荘重様式は、容易なことでは消えないだろう。

六月九日
 ここ数か月、行きつけのレコード・チェーン店ではM&Aレーベルを扱わなくなっている。
 原因は、噂話としては聞いているけれど、本当かどうか知らないからここには書かない。お陰で他のチェーン店で買う機会も増えたので、業界の健全な発展にわたしも、ほんの少しだけ寄与していることになった。
 ということで新宿の中古盤併売店でM&Aのワルターの《魔笛》と、カサドシュのモーツァルト協奏曲集、それにオメガ・ポイント発売の「日本の電子音楽」三巻、諸井誠の音楽詩劇《赤い繭》を買う。後の二種は一九六〇年アイテム。
 《赤い繭》は五百枚限定だそうで、他店では早々に売り切れたのか、見かけなかった。NHKの電子音楽スタジオで制作されたもので、一九六〇年十二月には草月ホールで舞台上演もされたという。
 指揮が、一九六〇年の録音には初登場の若杉宏というのが嬉しい。まだ東京芸大の指揮科の学生だったころの仕事である。あるいは、レコード化されたものとしては、かれの最初の録音になるのではないか。

六月十四日
 アレンサンドリーニ指揮によるモンテヴェルディのマドリガーレ集第六巻(ナイーヴ)と、ミンコフスキ指揮のモーツァルトの交響曲第四十番と第四十一番、《イドメネオ》のバレエ音楽という一枚(アルヒーフ)を買ってくる。
 現在いちばん「得点圏打率」の高そうな二人だけに外れはないと思ったが、そのとおり。とくにミンコフスキは予想以上に面白くて、刺激的。フレーズを深く歌わず、ふーっとただよわせ、ため息をつかせ、明滅させ、そして弾けさせるのは、この人ならではの至芸。第四〇番第一楽章冒頭、さざ波のような弦の響きも面白い。
 ただし、第四〇番は音楽が停まっている観がある。知人によればインターネットで放送したラジオ版はもっと生き生きしていたそうで、CD用にスタジオ録音風の演奏へ変容させられてしまったのかも知れない(音源自体はライヴ)。
 DG系のミンコフスキのCDではよくあることで、CDではまるでつまらなかったオッターとのオッフェンバック演奏会が、TDKコアのDVDでは見違えるような生き生きとした音楽になっていたことは記憶に新しい。
 このモーツァルトの場合、わたし自身はラジオ版を聴いていないのでなんとも言えない。ただ、演奏にざらっとした醒めた部分、一種の諦観のようなものが感じられるのは、あるいはそのスタジオ録音風の変容によってこそ、強調されたのかもという気がする。ここではそれが魅力の一つになっているので、ケガの功名というところか。
 個人的には、ベートーヴェンの交響曲のピリオド・アプローチのCDには食傷ぎみなので、モーツァルトを聴かせてくれたのが嬉しかった。

六月十七日
 ようやく「らいぶ歳時記」七月分を掲載する。
 現実の季節ともリンクするので、時期的にはちょうどよい。こうして毎月掲載できればいいのだが…。
 七月は音楽祭の季節ということで、クラシックやジャズはそのライヴが増えるが、一方我が日本の誇るライヴ録音、すなわち落語は納涼ネタということで、怪談物が増える。
 その中で個人的な因縁を感じるのが、上旬の録音らしい(放送は八月十四日)古今亭今輔の『藁人形』。
 落語の録音会場はヤマハホールなどのホールか、鈴本などの演芸場が大部分だが、これは珍しく東大赤門前の喜福寿寺で録音されている。納涼ということで、お寺の本堂を使ったそうだ――とはいえラジオなので、効果はあくまで「気分」に過ぎないが。
 個人的因縁というのは、この喜福寿寺というお寺に、小中学校の同級生のお墓があることなのだ。東大を出て本郷で自ら会社を起したが、数年前に癌で亡くなって、この赤門前の寺に眠っている。
 以後、毎年の命日頃に同級生数人で墓参りをするのが、ささやかな同窓会代わりとなっている(同窓会活動に一番熱心だったのが故人その人なので、亡くなってからは柱になる人がいなくなってしまった)。
 というわけで、わたしたちの生まれる前の録音なのにもかかわらず、この『藁人形』には不思議な親近感が湧く。いまの本堂は鉄筋コンクリート製の味気ない建物だが、当時はきっと古い、お化けの出そうな建物だったに違いない。
 いまはない建物のこと、いまはない今輔のこと。いまはない友人のこと、学校時代のこと――失われた時のなかのさまざまなものをCDに重ねあわせて、想いを馳せる。

六月二十一日
 わたしがかかわった『宇野功芳の「クラシックの聴き方」』(音楽之友社)の見本を、担当者の方からいただく。
 「生い立ち」と「ベートーヴェン交響曲演奏と大巨匠の音楽」の前半二つの章で、わたしが聞き役をつとめたのである(残りは宇野さんの『レコード芸術』での連載をまとめたもの)。生後三か月のお写真とか、珍しい写真も入っており、宇野さん指揮によるディスコグラフィという、ありそうでなかったものもついている。翌週には店頭に並ぶらしい。

六月二十二日
 今日は目白バ・ロック音楽祭とメトロポリタン歌劇場のダブルヘッダー。
 自由学園明日館講堂でのソプラノの懸田奈緒子とフォルテピアノのニコラウ・デ・フィゲイレドは大いに楽しんだ。平日昼間なのに二百七十席のほとんどが埋まっていたが、その期待を裏切らぬ出来だった。
 前半のモーツァルトの歌曲や独奏曲よりも、後半のハイドンの方がとにかく面白かった。ピアノ・ソナタ第二十三番はフォルテピアノならではの贅肉のない響きが快感だった。さらに驚いたのは、アンヌ・ハンターの英語詩による三つの歌曲《おお、美しい声》《忠誠》《見抜く目》。恥ずかしい話だが、こんな、色々な意味で「大きな」歌曲をハイドンが書いていたとは知らなかった。
 モーツァルトは天才だけれど、演奏者を入れる「容器」、その表現の自由を許容する「容器」としての大きさは箱庭的で、この点では明らかにハイドンの方が勝っているように感じた。かなり劇的なつくりなのだが、強奏しても鳴りすぎない、響きすぎないフォルテピアノの特性が、声とのバランスを整えていた。
 このハイドン歌曲では懸田さんの歌が伸び伸びとし、そのあとで前半に歌われたモーツァルトの《夕べの思い》が、アンコールとしてもう一度歌われたが、一回目よりもはるかに自由で構えが大きくなって、よくなっていた。無事に終わったという歌手自身の安心感もあったのだろうが、一方ではハイドンの音楽がもたらした一種の化学反応、マジックだったのだと思う。
 ハイドンの独唱曲というと《ナクソスのアリアンナ》くらいしか知らなかったが、これは聴いてみなければ。

 ところでフィゲイレドは、何といってもヤーコプス盤の《フィガロの結婚》のレチタティーヴォの快演が心に残っているが、コンチェルト・ケルンと同様に現在はヤーコプスと絶縁状態らしい。残念である。

 夜はNHKホールに《椿姫》を聴きに行く。
 演奏の出来を云々する以前に、二百七十席の小ホールで聴いた直後に、その十倍をはるかに超える三千六百七十七席の巨大ホールで音楽を聴こうとすること、それ自体が無理だった。ナマなのに、十四インチの家庭用テレビで劇場中継を観ているような疎外感を味わう。

六月二十三日
 夜は新国立劇場に《こうもり》を観に行く。仕事はたまっているし、低気圧のせいか身体はだるいしで、どうしようか直前まで迷ったが、結果は、行ってみて大正解だった。
 オペラが好きな連中が、オペラ好きの観客に向けて、オペラむきのハコで上演している。そのこと自体がこちらの心を楽に、大げさに言えば救われたような気持にしてくれる、好感のもてる舞台だった。凄い上演などではないが、その適度な「程よさ」こそが心地いいのである。
 二十八日にもう一度観に行くかどうか思案中。

六月二十四日
 午後、小山実稚恵のリサイタルを聴きに渋谷のオーチャードホールへ。
 これから二〇一七年までの十二年間、半年に一度ずつ二十四回開かれる小山のリサイタル・シリーズ「ピアノで綴るロマンの旅」の第一回。
 全百二十三曲、十一年後の最終回の曲目まで決めてあるのが凄い。好評によって、成り行きのままに毎年の恒例となるようなリサイタルはポップスなどにも珍しくないだろうが、あらかじめ十一年後までの綿密な計画を立てたシリーズというのは、世界的にも例が少ないのではないか。オーチャードホールが満員だったことで、この音楽家の人気を再確認。
 それにしても土曜日午後の渋谷に行くことなど、普段はなるべく避けるようにしているだけに、人出に圧倒される。

六月二十五日
 ミュージックバードのスペシャルセレクション収録。今回は生誕百周年企画で「ショスタコーヴィチのすべて」の第一週(九月十一日~十六日放送予定)。

六月二十七日
 インターネットのクラシック・ファン向けの公開掲示板「クラシック招き猫」の七月末での休止を知る。
 わたし自身が書き込んだのはほんの数回だが、現在ネット内外で交流のある知人の、かなりの方がここの投稿者か、その出身者であることを思えば、間接的にその恩恵をわたしも大きく受けたことになるから、残念だしさびしい。
 ネット人口の爆発的拡大と大衆化の状況下で、往年の「草の根BBS」時代以来の公開掲示板という形式が時代遅れになったのは、仕方ないのかもしれない。善意の一般人が、無報酬あるいはそれに近い状態で管理するには、後背地(常連投稿者以外の人々)の規模が大きくなり過ぎているのだろう。
 それにしても、これからネットを始めようかというクラシック好き(年齢を問わず)にとっては、不便な状況になりそうである。「公園デビュー」ならぬ「ネットデビュー」をするなら、とりあえず人のたくさんいる広場みたいな場所の方が気楽だろうに、そうした場が「2ちゃんねる」のクラシック板しかない、ということになりかねないからだ(ヤフーの掲示板もあるが、あまり機能していないようだ)。
 もちろんあそこはあそこで居心地いい部分があるだろうが、人間である以上、いつまでも「名無し」のままでは、自尊心を満足できない人も出るだろう。
 といって、いきなりブログを始めたとて、すでに無量大数のブログが氾濫している中で、不特定多数の関心をひくことは難しい。誰かのブログにコメントしたりして仲間を増やしていくにしても、時間がかかる。
 ブログ・ブームそのものも、一段落しつつあるようだ。ネットも今後は「観る人」と「つくる人」の分離が拡大して、後者の商業化、民放化(見た目タダ、ということ)が進んでいく気もするが、さて。

六月二十八日
 ジーコがブラジルに帰国。Jリーグ発足以来の一つの時代が終わった。
 鹿島市のショッピング・センターにあった、石膏製の金色の等身大ジーコ像のことを思いだす。

六月三十日
 ソ連史を専門とされる研究者、半谷史郎さん――なんと歴史者向きの名前だろう――から、岩波の雑誌『思想』七月号に掲載された御論文「国交回復前後の日ソ文化交流 一九五四年~一九六一年、ボリショイ・バレエと歌舞伎」の抜刷をお送りいただく。
 題名どおり、一九五四年のオイストラフの衝撃的初来日に始まったソ連演奏家たちの訪日公演と、その返礼となる一九六一年の訪ソ歌舞伎の間の、ソ連と日本のクラシックにおける文化交流に関する研究論文である。
 ソ連演奏家の訪日公演については、その「呼び屋」として名を馳せた一代の風雲児、神彰(じん あきら)の評伝『虚業成れり』(大島幹雄 岩波書店)などにも詳しく書かれているが、半谷さんの論文が貴重なのは、当時のソ連側の公文書などを調査して、ソ日双方の史料によって書かれていることである。
 とにかく面白い。オイストラフの訪日が、国交回復前の日本へのいわば「文化偵察」であったこと、それ以降の怒濤のような訪日公演が、日本のアメリカ離れと中立化の可能性を探っていたフルシチョフ以下の当局の希望にそった、一種の文化侵略という側面を持っていたことなどが、明らかにされている。
 しかし一九六〇年の安保改訂によって日本中立化の幻想は失われ、ソ連の文化政策も変化(利益度外視から、純然たる商売へと変わっていく)する。論文が触れるのはここまでだが、それまでぼろ儲けだった神彰の勢いが、一九六〇年代になると急激に衰えていく理由の一つに、このソ連側の変化があるらしいことを想像できるのが面白い。
 ドル建てでの支払いが当然だった報酬を、日本公演については円で支払うことを、ソ連側が特別に容認していたというのには驚いた。当時はドルを正規で入手することが難しく、呼び屋たちは高い闇ドルを買わねばならなかったのに、神彰は有利な日本円で支払うことを許されていたのである。神が儲かったのも当然だし、また、それならソ連当局はその持ち出せない円を、いったい日本国内で何につかったのだろうということなども、想像すると楽しくなる。
 そして訪ソ歌舞伎。安保後の、日本中立化の夢破れたあとにようやく行なわれたこの興行を取りしきったのは、旭川を拠点に北海道一円を抑えていた興行師、本間興業の本間誠一だったという。
 これも神彰のその後を考えると重要な指摘で、神彰の片腕だった康芳夫の自伝『虚人魁人康芳夫』(学研)によれば、本間は神彰が中国のスパイだというデマをソ連当局に吹き込んで、最大のドル箱――脱線するが、この言葉も当時のドルの圧倒的な強さと輝きが生んだ言葉なのだろう――だったボリショイ・サーカスの興行権を神彰から奪い取り、没落のきっかけをつくる仕掛人なのである。
 訪ソ歌舞伎という、神彰には実現できなかったソ連側の希望を、本間が叶えたことこそが、ソ連側の信頼を独占していた神彰の、転落のきっかけだったのかも知れない。

 半谷さんはこの論文以外にも、クラシック関係のソ連当局の史料をいろいろと調べておられるそうで、それらが今後、次々と日の目を見るのが楽しみである。

 それにしても、興行師という存在は面白い。口八丁手八丁、才覚と度胸だけを頼りに生きる生きざまと、予測不能の浮沈の激しさが、まさに「男のロマン」をかきたてるのかも知れない。
 偶然ながら、半谷さんの論文を拝読する直前、浪曲界・プロレス界を牛耳るだけでなく、呼び屋としても活躍した興行師、永田貞雄を描いた『興行界の顔役』(猪野健治 ちくま文庫)を読んだところだったので、かれらへの関心が高まっている(そういえば「マイ・ブーム」というのも死語だなあ)。

七月二日
 新しく来た仔猫を病院に連れて行き、ワクチンを打ってもらう。
 台所などにネズミが出没するようになったのは、前からいた猫が年とってニオイが少なくなり、ネズミを怖がらせなくなったせいらしい。
 というわけで、十日ほど前に仔猫をもらってきた。近所のペット用品屋を介して、早稲田大学の学生さんたちがやっている、捨て猫などの里親を世話するボランティア・サークルからもらい受けたもの。そんな事情だからもちろん雑種。
 仔猫だから当然とはいえ、やたらに元気がいい。先輩猫の方は、うるさいのを嫌って二階に行きっぱなし。ちゃんと序列を覚えさせなければ。

七月四日
 『レコード芸術』の取材で、青山のユニバーサルへ。
 五嶋龍のリサイタルをライヴ録音するために、グラモフォンのスタッフ二人がドイツから五百キロの録音機材とともに来ている。そのかれらへの取材。
 せっかくのワールドカップなのに残念ですね、と水を向けたが、二人ともそれほど興味がないとのこと。
 聴衆が入ると入らないとでは、非常に大きく音響が変わってしまうホール、客席では聴きやすいが録音しにくいホールなどを教えてもらう。ちなみに、サントリーホールは録音しやすいそうだ。

七月六日
 朝、サントリーホールへ行く。四日に引き続いての取材。楽屋口から内部に入るのは、開場二十年目にして初体験。
 夜の五嶋龍リサイタル録音用の、マイク・セッティングなどを見学させてもらう。プロデューサー、エンジニアの二人とも親切で、目茶滅茶ブロークンな英語での質問にも、きちんと答えてくれる。
 日本の技術屋さんだと「寿司屋の頑固オヤジ」風の人が多くて、もっとピリピリしているそうだ。しかしこのドイツ人たちは、テキパキと働きながらも余裕がある。
 続いてミュージックバードへ行って打合せをしたあと、夜はサントリーホールへ戻って、楽屋の一室にしつらえられた調整卓の脇で、ライヴ録音の仕事ぶりを見学。
 終演後に録り直しなどがあれば見てみたかったが、一昨日のリサイタルとリハーサルを合わせれば充分ということで、そのまま撤収。

七月七日
 ミュージックバードでBBCコンサートを一本(イタリアの古楽団体アンサンブル・ゼフィーロの演奏会)収録。
 そのあと、青山のアルファベータ編集部での『クラシックジャーナル』の座談会に遅れて参加。他のメンバーは平林直哉さん、田村和紀夫さん、安田寛さんと編集長。とっくに〆切を過ぎた『レコード芸術』の原稿が残っているので、終了後の打ち上げには参加せず帰宅するが、結局そちらは終わらず。

七月九日
 買ったままになっていた三島由紀夫の映画『憂国』DVDをようやく観る。
 海賊版も観たことがなく、今回がまったく初めてだったが、意外だったのは、キャラクターとしては三島自身の演じる夫よりも、妻に重点があったこと。個人的には夫の「切腹」よりも妻の「殉死」の場面の方が、強く印象に残った。
 三島自身がこの映画では青年将校役を「一個のロボット」として扱い、「ただ純真無垢な軍人精神の権化でなければならな」いとしている。しかし生身の人間が完璧にそうなるのは不可能なわけで、この夫から感じられるのは、無理や背伸びばかりである。
 そもそも日本人が西洋風の軍服を着る点からして、無理があるのだ。大和魂や武士道精神を、日本刀やそれによる切腹という行為だけに象徴させ、身なりは西洋風というのは――勝つために機能性を優先するという言い訳はあるにしても――無理がある。
 その無理にこそ一種のエクスタシーを感じることも可能だろうし、三島が文明開化後の日本に憧れたのは、まさにその無理が生む乱調の美に対してなのかも知れないが、しかし映画では、和服を着て純日本風の生活をしている妻が、その生活の延長上で自ら選択する「殉死」とその前後の所作の方が、ずっと美しい――あるいはそのように描かれている。
 三島夫人がこの映画を嫌ったのは、まさにここにある殉死の美学ゆえになのではないか、という気もする。
 この数年後の三島の実際の死、同じような軍服を着て行なった切腹の場合は、半西洋風の切腹が生む無理を超越し、美として完結させる純日本風の殉死は、なかった。
 三島ははたしてそれを求めたのか、あきらめていたのか。あるいはひょっとしたら、「介錯」という行為がそれを代行すると考えたのか。

 ところでここで使われている《トリスタンとイゾルデ》の管弦楽編曲版、解説によれば二・二六事件と同じ一九三六年に録音されたSPから採録されたそうだが、誰の演奏なんだろう…。

七月十一日
 ミュージックバードでスペシャルセレクションの収録。十月九日~十四日放送予定とかなり先だが、矢澤孝樹さんによる「イベリア半島バロック紀行」。いつもながらに丁寧で詳細な解説つき。
 帰りにCD店に行き、コンチェルト・ケルンによるモーツァルト小品集(新宿副都心の高層ビル街と青空を見上げるモーツァルトの後ろ姿、という不思議なジャケット)と、カイルベルトの《さまよえるオランダ人》のステレオ盤などを買って帰る。

七月十三日
 九日の欄で触れた、映画『憂国』の使用音源について。
 ある方から、映画の演出をした堂本正樹が書いた『回転扉の三島由紀夫』(文春新書)に、使用したのはフルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルのSP盤だとある、というメールをいただいた。
 私が日記で説明を端折ったからいけないのだが、同書のこの一節は、私も「既成概念」として、DVDを観る前に知っていた。しかし前島秀国さんと話をしたとき、映画を以前から知っていた前島さんに「オペラ本編の音楽を声楽抜きで鳴らしていますから、フルトヴェングラーじゃないですよ」と聞かされ、何だろうと思っていたのである。
 たしかに観て(聴いて)みると、第二幕の愛の二重唱など声楽入りの部分を、管弦楽のみの編曲で演奏したものが用いられている。フルトヴェングラーがSPで録音したのは「前奏曲と愛の死」の部分だけだから、フルトヴェングラーではあり得ないことになる。
 せっかくだから、あらためて調べてみた。証拠はなく、あくまで推測だが、おそらくはストコフスキー指揮フィラデルフィア管弦楽団による、第二幕と第三幕の音楽を管弦楽編曲で抜粋した「交響的交合(シンフォニック・シンセシズ)」がメインの音源ではないだろうか。
 一九三二年録音のSP四枚組、あるいは一九三五年から三九年にかけて録音された三枚組が、国内盤で発売されたかどうかは知らない。しかし三島があまり珍しい盤を所持しているとは思えず、入手の容易さ、一般性などを考慮すると、これではないかという気がする――アンダンテやパールでCD化されているので、近々に確認してみたい。
 この推測が正しいとすると、ちょっと面白い。いかにも三島が好きそうな、また当時の人々が特別視・神聖視していたフルトヴェングラー――堂本がそう思い込んだのも、それが、いかにもそれらしかったからだろう――ではなく、よりによってアメリカのストコフスキー。
 DVDの解説などで指揮者名が記されず、三島もその名を挙げなかったのは、なんというか、この名前がそぐわなかったからではないか。
 知らなかったから、ではないだろう。三島は指揮者の選択にこだわるほどのクラシック・マニアではなかったろうが、当時の知識人なら好き嫌いは別にして、映画『オーケストラの少女』の指揮者であるストコフスキーの名を、知らないはずはない。むしろ、その通俗なイメージを知っていたからこそ、知らんぷりをしたのではないか。
 だが大塚英志の『少女たちの「かわいい」天皇』にあるように、三島はアメリカのキッチュな大衆文化にも、複雑な愛着を持っていた。死の少し前、夫人――「殉死」しなかった夫人――に、ディズニーランドへ行きたい、と言ったという有名な逸話がある(当時のことだから、もちろんアメリカのそれ。三島夫妻は十年前の一九六〇年末に、そう一九六〇年に、ここを訪れた経験をもつ)。
 それは、公の場では隠されていた。だから、他人がフルトヴェングラーの指揮だと誤解しても、三島はあえてそのままに、仮面をつけさせるままにしたのではないか。
 近代日本の「西洋化」が、アメリカを象徴とする「ニセモノ」に過ぎないことを知りつつ、そしてそれを変転する日常として愉しみながら嫌悪しつつ、不変の核心としての天皇制――ひょっとしたら『憂国』の「殉死」が暗示するもの――にこだわった三島。
 その『憂国』と、ディズニーの『ファンタジア』の指揮者が、同じストコフスキーだとしたら、そしてそれがもし故意の選択だったら…愉しい。

七月十六日
 昨日七月十五日は「ファミコンの日」だったそうである。
 二十三年前の一九八三年のこの日に、任天堂のゲーム機「ファミリー・コンピューター」が発売されたのだそうだ。ということは、一九八二年秋に発売されたコンパクト・ディスク(CD)と一年弱の違いで、まあほぼ同時期だったことになる。
 昔から新製品に目の色を変えて飛びつくことはなく、市場でダブつくようになってから買うタイプだったから、大学生だった当時の、これらの発売のことはまるで憶えていない。自分が入手したのはどちらも発売後数年たってからの、一九八五年前後だろう。
 ゲーム機は五年ほどの間隔で世代交代しているが、CDの方はSACDあるいはDVDなどを派生させながらも、いまだにオーディオ・ソフトの中心にいる。SPやLPの歴史に較べればまだまだ短いけれど、デジタル・ソフトとしては、もっとも長命な部類に属するはずだ。
 直径十二センチのデジタル・ディスクという外形が、非常に高い汎用性を有していたことが、長命の原因だろうか。CD・ROMやCD・R、DVDなどの新規ソフトがすべてこの外形を踏襲したため、CDプレイヤーはさまざまな機器に組み込まれ続け、再生可能なソフトであり続けているのだ。
 いつのまにかCDは、半世紀も飛んでいた輸送機ダグラスDC3とか、フォルクスワーゲンのような普遍的存在になりつつあるわけだ。ただしCDの外観は、それらに較べるとそっけない。それらの魅力の一因があの独特の丸っこさだとすると、CDは円形だが厚みがない。
 あんパンとかメロンパンみたいな形にしていたら、もっと人から愛されたかも知れないが、それでは使い勝手が悪い。i・podなどは、その辺が有利かも。

七月十九日
 何となく買いそびれていた、ノリントン指揮のベルリオーズのレクイエムをようやく購入して聴く。
 素晴らしい。これは一連のヘンスラー盤の中でも最高級の出来ではないか。
 この指揮者には軽躁というイメージを抱く人も少なくない――日本のファンはやっぱり荘重系の音が好きな人が多数派だ――だろうが、これを聴けばそんな人でも評価せざるを得ないのではないか。ゆったりとしたテンポで歌わせながら、壮大なクライマックスを築いている。

七月二十一日
 NHKホールのN響演奏会を聴きに行く。クライツベルク指揮のウィンナ・ワルツ演奏会。
 一日だけのワルツ・コンサートなんて楽員は真剣になりにくいだろうし、練習時間も限られているだろうことは想像できるわけで、ときに無表情な音楽になったりするのは、そうした理由だろう。
 しかし、クライツベルクの持つ自然なリズムの推進力は、そうした欠点を超えて、やはり大したものだった。ワルツ集はウィーン交響楽団とのセッション録音も出ているが、停滞していて表情がくどくなりがちなCDの演奏に較べると、実演はやはり動感がある。
 《南国のばら》中間部のサーカス風の享楽感、ポルカ《ハンガリー万歳》の疾走はワクワクさせられたし、特に気に入ったのは皇帝円舞曲の終結部。
 そこまではわりと硬く歌わず、もっと動いてほしいと思っていたのだが、チェロ独奏に導かれて始まる終結は雰囲気が一転、「今までのはみんな、過ぎ去った昔の話」といわんばかりの寂寥感が、とても印象的だった。
 アンコール一曲目の《売られた花嫁》の「道化師の踊り」の、横揺れするリズム感もよかった。スメタナとか、カバレフスキーなどの曲もこの人の指揮で聴いてみたくなった。
 帰りにCD店に寄ると、ノリントンのブラームス交響曲全集のDVDとマーラーの交響曲第四番のCDなどが出ていたので、勇んで購入。

七月二十六日
 日経新聞に評を書くために「小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクトⅦ」を聴きにサントリーホールへ。曲目はマーラーの交響曲第二番《復活》。
 演奏については新聞評にゆずるが、思ったのは「復活」という概念の意味。日本にいるとそれを何となく、プロ野球のカムバック賞をもらうような行為といったらいいか、現世での復帰・再起という感覚でとらえたくなる(まさに、今回の小澤の休養からの復帰とか)。
 しかしマーラーが描いている場面とその歌詞は、黙示録の「最後の審判」と、それに続く神の国での「再生」のことを扱っている。それは、D・H・ロレンスの古典『現代人は愛しうるか』で述べたように、満たされぬ境遇におかれた人間(正直に生きているはずなのに…)が、現世を呪い、その破滅を願い、来世での復讐を信じることで、自らを慰めるものである。
 この作品の演奏で長く語り種になっているものは、たとえば一九〇七年、マーラー自身がウィーンとその宮廷歌劇場に別れを告げるときの演奏とか、一九六三年、ケネディ大統領暗殺事件を受けて、その追悼にバーンスタインがテレビで演奏した第四&五楽章とか、一九七二年、小澤が旧日本フィル改組前の最後の定期での演奏など、祝賀ではなく告別、追悼に解散といった、煮えたぎる怒りと無念の思いにみちた場での演奏に多い。そのことが、まさにこの曲の性格を物語っているのではないだろうか。
 そこで気になるのは、一九六七年の六日戦争でイスラエル軍が勝利してエルサレム全域を奪取したとき、バーンスタインがエルサレムに乗り込んで後半三楽章を――それもヘブライ語訳詞で――演奏したというもの(LPで発売されただけで、CD化されていない)。
 あの時点でのバーンスタインは、イスラエルの勝利が、平和をもたらす正義の復讐と思っていたのだろうか。

 解決の見えない中東情勢の背景にあるユダヤ教・キリスト教・イスラム教の対立と、この三つの兄弟宗教が、ゾロアスター教から引き継いだ「最後の審判」の教義を共有していること。また「キリスト教社会に生きるユダヤ人」だったマーラーとバーンスタインのこと。さらに、死者が西方浄土へ往くのや、個別に閻魔大王の裁決を受けることなどと「最後の審判」が決定的に違うのは、いったんこの世そのものが徹底的に破壊されることだなどと、ごたごた考えながら帰宅。

七月二十八日
 学生時代のサークル、音楽同攻会の同期生がベトナムから一時帰国したので、同期や後輩七人で飲み会。大阪に六年間赴任していた別の同期生も、東京勤務になったので参加。
 新宿で、四十代の男たちが飲むにはそれらしい場所二軒だったが、どういうわけかOB会というのは、必ず学生時代そのままの暴飲暴食系になるので、かなりの料金になってしまう。
 次回は絶対に高田馬場でやろうと決意(笑)。

八月二日
 音同の三学年上の先輩、Tさんとご卒業以来、二十四年ぶりにお会いする。私の同期生がベトナムから一時帰国しているのを機に、いまお住まいの広島からわざわざ出てこられた。三人して高田馬場のファミレスで二時間ほどしゃべる。こういうときドリンクバーは便利。

 夜、原稿が一段落したので本屋に行くと、漫画新刊の『THE3名様』というのが眼にとまる。
 ここ十年ほど、漫画週刊誌は青年誌も少年誌もほとんど読んでいないので、何が人気を集めているのか、さっぱりわからない。近くの漫画喫茶にでも行って数時間過ごせば、いまの流行もつかめるだろうが、漫画喫茶という風俗そのものになじみがなく、行く習慣がない。だから本屋で単行本を見るだけなのだが、『THE3名様』は気になった。
 小学館『ビッグコミックスピリッツ』連載だそうで、新刊「スプラッシュ烏龍茶の章」は第九集(ただし帯にそうあるだけで、表紙に巻数の表示はない)とあるから、九冊も出るほど人気があるらしいが、いままでは気がつかなかった。
 石原まこちん、という作者の名前は何か別のところで見た記憶がある――特徴ある名前は大切だ。俳優の田辺誠一なんて、顔を覚えてから名前を覚えるまでに二年ぐらいの時差があった。
 表紙にはサンダル姿のだらしない若者三人の絵に「脱力ファミレス・ギャグ」とあるから、きっと若い奴が真夜中のファミレスでグダグダする話だろう。自分自身にも経験のあることだけに共感を覚えて、買ってくる。
 読んでみたら、まさに予想のまんま。高校か専門学校を出てから七、八年、ニートあるいはニートに限りなく近いフリーター生活を自宅で続けている二十七歳の男友達三人が、毎日の夜から朝までをファミレスで過ごしている場面だけ、という漫画である。
 ドリンクバーがあるから、七、八時間いても数百円ですむ。一人はポテトフライ(嗚呼、四十代以下の男が大好きな食い物!)一皿をちびちびと食っている。
 親と同居しているので食うには困らないが、顔を合わせるのがいやなので夕方近くに起き出し、夜になるとファミレスに行って仲間とダベり、朝に帰る毎日。そういう生活をしている連中の話だ。
 そんな状況に後ろめたさはあるが、抜け出す気力も、差し迫った必要もなく、大人社会や人間関係が恐ろしく、手をこまねいているだけの親たちの庇護のもとで、友達三人(実はもう一人いるが、合宿免許に行ったまま、連載開始以来六年間、一度も登場していないらしい)の小宇宙に安住している。
 ほんとにどうしようもない連中だが、何か、自分だって一つ間違えばこうなっていたかも知れない、という共感を抱いてしまうのだ。たぶんそういう人が多いからこそ、人気があるのだろう。
 恥ずかしい話だが、わたしも大学時代一年間ぐらい、講義にもいかず、何をするわけでもなく、ブラブラしていた時期がある。かれら同様、自宅だったから食事や生活雑事の心配は一切なく、ただ無気力に過ごしていた。
 いやだったのは、昼前後に目が覚めたとき、今日じゅうにやらなくてはならないことが何もない――もちろん、やるべきことはいくらもあるのだが、とりあえずは今日でなくてよい――ことだった。もちろん、そんなことをいやがる権利など、まったくないのだが。
 日暮れ時になると、たくさん寝ているはずなのに眠くなる。人殺しをして逃げ回るだの、家の中にライオンがいて、妹や飼い犬が喰われている隙に一人だけ外へ逃げるだのといった悪夢を見て目覚めると、部屋は真っ暗になっていた。
 そんな時期に、わたしも午前二時くらいにファミレスへ一人で行って、ステーキ・セットを食った経験がある。
 何も事件はなかったが、その真夜中の場面は妙に憶えている。彼女だか、片思いだかの女の子の誕生日に歌を贈りたいという二十歳前くらいの男が、男友達にその作曲を頼んでいる――隣席のその会話を聞きながら一人でステーキを食い、黙々とコーヒーをお代わりする自分。

 いま五十歳以下の世代には、親に寄生している無職独身が、一体どのくらいいるのだろう。日本が豊かになったおかげで、普通の家庭でも一人ぐらいは、無為徒食のまま養うことができてしまう。
 監禁犯罪の犯人のほとんどがそうした生活をしているというのは、どういうことなんだろう。気ままな生活だから他人を監禁できるというだけのことなのか。それとも、自分がいる無気力の牢獄に、誰かを巻き込みたい?――考えすぎか。

八月三日
 『THE3名様』がいたく気に入ったので、四谷の本屋で第一集を買い、通り道のレンタル屋で、その実写版DVDを借りてくる。
 結果は、両者ともハズレ。第一集(これは巻数が書かれていて、表紙デザインも違う。第三集から現行のデザインになる)では、三人がなぜこのファミレスにいるのか、普段の生活はどんなものなのかの説明が一切なされておらず、バイト帰りの若者が、ちょっとの時間ダベっているだけのようにもとれる。
 グダグダの背後にある焦燥感、絶望感や、三十歳前ならまだ何とかなるだろうという現実逃避などが、昨日読んだ第九集にはあって、それこそがそのグダグダを活かしていたのだが、六年前の連載開始のころには、まだキャラが確立されていなかったらしい。正直に言って、第一集の時点で読んでしまっていたら、さほどの興味を持たなかっただろう。
 それと、ずっと同じファミレスなのだが、第一集ではまだドリンクバーではなく、わたしがよく行っていた二十年前と同じ、コーヒーだけがお代わり自由の店になっている。ドリンクバーのあるファミレス特有の、ぐちゃぐちゃとだらしのない清潔感のなさこそが、この漫画には似合うのに、だ。
 途中の巻にドリンクバー導入の話があるのだろうし、それ以後こそが「未来はないのに、とりあえず飲み物には困らない地獄」の、時間無制限の空虚さを感じさせてくれるかも知れない。

 DVDは、塚本高史、岡田義徳、それに佐藤隆太という若手俳優三人を起用した実写版で、第四弾まで出ているというから、これも人気があるらしい。
 わたしが観たのは第二集だが、少なくともこれは、わたしが観たい『THE3名様』ではなかった。三人ともいい男すぎるし、何よりも清潔すぎる。どうにもニートには見えない。大声で大きな身ぶりの演技も、映像だからしかたないとはいえ、ファミレスではなく飲み屋やカラオケにふさわしい。アルコール抜きの場という、ファミレス独特の奇妙な空間である必然性を感じないのだ。
 それに、ファミレスの内装もイメージが違う。ロケ先の都合などで自由に選べなかったのかも知れないが、木目調のシックな内装で、しかも狭苦しい四人掛けでは、グダグダ感が出ない。
 白っぽい、チープ・カリフォルニア風(そんな言葉があるのかどうか知らないが)の、無味な蛍光灯の明るさの、六人掛けの無駄に広い席こそ、この世界の舞台装置であるべきなのだ。
 DVDは、漫画の第一集の雰囲気に近い。その時点で好きになった人には楽しめるものなのだろう。だがわたしは、石原まこちんが長い連載を続けるうちに、深化させはじめた物語の方に惹かれる。

 というわけで、第八集や七集を買おうと四谷三丁目の本屋に行ったが、ここは広いくせに『THE3名様』の既刊を置いていなかった。波長の合わない本屋って、徹底して合わないんだよなあ…。

八月五日
 『THE3名様』にはまり続ける。
 山の神にも話したが「そんなの面白がるのは男だけ。女にはわからない」と興味を示さず。現代では安易な決めつけは性差別と言われかねないけれど、まあ、互いの心の傷に砂糖をすり込みあっているような連中の話などが好きなのは、たしかに男の方が多い気もする。
 本屋に行くと、半年前のベストセラー新書『他人を見下す若者たち』の帯に、この漫画が使われていたのに気がつく。
 新書自体は、立ち読みしたかぎりでは面白そうでなかったので買いもせず、帯のこともすっかり忘れていた。しかし独特の絵柄が脳のどこかに焼きついて『THE3名様』そのものを見かけた瞬間、「スイッチが入った」のかも知れない。
 それにしても『THE3名様』の単行本、巻の順番がわからないというのは凄い。それでも第六巻までは裏表紙に小さく書かれた雑誌コードの前半が統一されていたので、最後の「06」というような通し番号で判別できるのだが、七巻以降はいかなるわけか雑誌コードもばらばらになって、手がかりは帯の巻数表示だけになる。ところが、それもないものがあるのだ。
 確実に時間は進んでいるのに、それを直視しようとせず、その前後関係もわからなくなった登場人物たちの心象を、編集者は表したいのだろうか…。

 巻末付録やら何やらの情報を総合すると、『THE3名様』の作者石原まこちんは、大田区田園調布一丁目に育ったらしい。まこちん自身が「ファミレス引き籠もり」をした(している)場所も、その近辺のようだ。「田園調布」といっても、超高級住宅街なのは西側の三、四丁目で、一丁目というのは城南地域では平凡な場所である。そしてそこから二キロほど北にいった目黒区の南端で育ったわたしにとっては、わりと親しい地域の話なのだった。
 なぜか初めから感じた親近感の正体は近接した地域という、ゲニウス・ロキの力だったのだろうか。
 駅でいえば東急電鉄の多摩川駅――わたしの中ではいまだに多摩川園駅だし、さらには亡き祖父がいうところの「丸ッ子玉川」の方がしっくり来るのだが――で、脇を中原街道が走り、玉川には丸子橋がかかっている。
 高校時代、自転車を漕いでは丸子橋をよく眺めにいった。
 なぜかというと、周囲が低い建物ばかりで広々としていて、緑の多い中にある鉄橋が、戦争映画『遠すぎた橋』のアーネムやナイメーヘンにかかる鉄橋、田園風景と激烈な戦闘との対照が印象的な鉄橋たちに、雰囲気が似ていたからだ。
 多摩川台公園という、子供が戦争ごっこをするのには最高の大きな公園もあった。町全体に居心地がよくて、たしかに大人になりそこねやすい場所なのかも。

八月六日
 家の近くのとんかつ屋の壁に「高須松平藩の四兄弟」とかいうチラシが貼ってあった。
 荒木町が松平摂津守という大名の屋敷跡であり、「津の守坂」なる地名もそこから生まれた、とは知っていた。
 しかしその摂津守というのが、会津中将松平容保の実家、尾張家支藩の高須松平だったとは、どういうわけかいままで全然気がつかなかった。
 容保を含む幕末の高須四兄弟、つまり尾張藩主義勝、一橋茂栄、桑名藩主定敬が並んだチラシの写真を見て、初めてその事実を知ったのである。
 その後の歴史に直接関係はないと思うが、いまの市ヶ谷柳町近くにあった近藤勇の天然理心流の道場と、容保の実家とは、尾張藩上屋敷(現防衛庁)をはさんで、一キロ弱の近さだったわけだ。
 この高須松平の屋敷の、池の底だったあたりに我が家は建っている。
 また、江戸と平成の中間、尾張藩屋敷跡に来た陸軍さんのお陰でこのあたりが華やかな花街になった大正~昭和初年の頃――軍隊が町に残すのは、花街か色街だけである――には船橋聖一が通った三浦とかいう料亭が、我が家の位置にあったらしい。
 人間が古くから住む土地が想像させるイメージは、深く広くて面白い。

八月九日
 鈴木淳史氏の新刊、『萌えるクラシック』に影響されて、デイヴィッド・ロバートソン指揮リヨン国立管弦楽団のライヒ作品集(ナイーヴ)を買ってくる。
 ロバートソンといえば、昨年のフォーグラーの『ドヴォルジャークのチェロ協奏曲の秘密』で聴かせた圧倒的なキレと活力と集中力が忘れがたく、気になる指揮者の筆頭格の一人なのだが、CDを見つけ次第に買うことはしていなかった。
 というのも、こういう指揮者にはあのチェロ協奏曲で素晴らしく演奏した、ニューヨーク・フィルみたいな超一流の腕利きのオーケストラが必要な気がしたから、リヨンではどうなのだろうという不安があったためである。
 しかし杞憂だった。鈴木氏もライヒの音楽に呼吸感をもたらしたロバートソンの手腕を誉めているが、そのとおりここでのリズムの弾力と、響きの爽やかな、見通しのいい澄明さは素晴らしい。
 似たような音型のくり返しに浸っているうちに、身体が軽く浮くような浮遊感を得るのは、その弾力の作用だろう。
 この指揮者、やはり只者ではない。

八月十日
 ネットのニュース・サイトを見ていたら、ブログの爆発的拡大を扱った記事があった。何でも五千万を突破しているとかで、しかもその三十一パーセントを、日本語のブログが占めているとか。単純に考えて、一千五百万の日本語ブログがあることになる。
 これは全体の第二位にあたる。一位は英語の三十九パーセントで、まあ当然だろう。英米のほかオーストラリアとかカナダなどの旧英連邦諸国だけでなく、ネイティヴではないが、地球的な公用語として使用している人たちがたくさんいるのだから。
 だが日本語はどう考えても、地球的な公用語ではない。日本語を使える非日本人が以前よりは激増したといっても、世界人口でみれば、ほんのひとにぎり。
 世界のわずか二パーセント弱の人間しか使っていない閉鎖的な言語が、ブログの三割。ブログというスタイルが、よほど日本人の感性にあっていたのだろう。日記的な文化、備忘録的な文化をこれほど偏愛する民族というのも、たぶん珍しいに違いない。
 体系的な記録ではなく、日記形式によって有職故実を後世に残した藤原貴族の伝統が、民草にまで脈々と生きているということか。

八月十一日
 一九六〇年オタ話。
 この年のザルツブルク音楽祭では、オペラが八本上演された。戦後はおおむね五、六本だったのだが、新祝祭劇場の落成を記念して増やされたのである。
 モーツァルトはダ・ポンテ三部作と、《魔笛》と《偽りの馬鹿娘》。他に《ドン・カルロ》《ばらの騎士》とマルタンの《キリスト生誕聖史劇》の八本で、すべて例年通りORFがラジオ中継していたのだが、その中で唯一、わたしが音を入手できなかったのが《偽りの馬鹿娘》だった。
 一流の歌手と指揮者を揃えて、ウィーン・フィルあるいはベルリン・フィルが演奏した他の七本に対し、これはデビューまもないエディト・マティス以外はスターもおらず、コンツが指揮したモーツァルテウム管弦楽団の演奏だったから、レコード化されなかったのも仕方なく、入手をほとんどあきらめていた。
 ところが、意外にもその断片がCD化されたのである。
 オルフェオは毎年、ザルツブルク音楽祭のライヴ録音や録画のシリーズのカタログつきの記念盤を出すが、今年のそれはモーツァルトの劇場作品二十二本の抜粋を、一九五一年から二〇〇三年までの音楽祭の録音で構成した。そのなかに、マティスの歌う一九六〇年の《偽りの馬鹿娘》のアリア一曲があったのだ。
 やれ嬉し、八月分の「らいぶ歳時記」に、ちょうど間にあった。
 あとは、手元にあるのがテープのみで音質のよくない《キリスト生誕聖史劇》を、もっとまともなソースで入手できればいいのだが…。

八月十二日
 ヴェルザー=メストがチューリヒ歌劇場を指揮した《椿姫》のDVDを観る。ヴィオレッタがエヴァ・メイ、アルフレードがピョートル・ベツァーラ、ジェルモンがトマス・ハンプソンで、演出はユルゲン・フリム。二〇〇五年チューリヒ祝祭での収録(アルトハウス)。
 カメラ・ワークがうまくなくて、舞台の全体像が眺められないのがまず不満。これでは舞台の動きがわからないので、フリムの演出について語ることはできない。少なくとも、カメラの拙劣さをのりこえて伝わってくるほどに鮮烈な、独創的なものではない、とだけはいえる。
 歌手はやっぱり、メイがずば抜けている。ヴィオレッタの悲劇を全身で表現するには線が細いけれども、流れるようなフレージングのしなやかさは格別。
 ベツァーラは不満も感じないが、感動もしないという出来。ハンプソンはいつものように歌がわざとらしい。
 ジェルモンの第二幕のアリアのカバレッタや、ヴィオレッタの〈さようなら、過ぎ去った日々よ〉のくり返しなどは最近の風潮に従って、ここでも歌われている。しかしその必然性を感じさせる上演には、なかなか会えないのも事実。フェニーチェ劇場の公演(TDKコアからDVDが出ている)のように、初演時のスコアにまでさかのぼってしまった版の方が、むしろ自然に――演出や演技の力も大きかったけれど――感じられる。
 メストの指揮は第一幕が軍楽隊風でカンタービレ不足の、いわゆるドイツ風のヴェルディだったが、第二幕からは自然に流れはじめた。いずれはヨーゼフ・クリップスみたいなオペラ指揮者になってほしいもの。

八月十四日
 七月に、読売日本交響楽団を指揮したカリニャーニなる指揮者がとてもよかったということを友人から聞いた。インターネットの書き込みなどを見ても、好意的な反応が多かった。
 テノールのボータのアリア集、ドニゼッティの《パリジーナ》全曲がCDで出ているので、注文してみることにする。

八月十五日
 フィリップスのクナッパーツブッシュ指揮バイロイトの《パルジファル》一九六二年盤が、ユニバーサルのオリジナルス輸入盤で出ていたので購入。
 ニューリマスターで音質が向上しているかどうか以前に、一つ失望。
 いままでのCDでは二枚目に第一幕後半と第二幕前半を入れてしまい、すべての幕が途中で分かれていたのだが、時間的には第二幕も第三幕も一枚ずつに収まるものなのだ。二枚目を第一幕後半だけにすればいいのである。
 今回こそそうなっているかと期待したのだが、残念なことに昔のまま。なぜなのだろう。LPで五枚十面だったのをCD四枚に切りなおしたのだから、初発CDの編集にこだわる必然性はないと思うのだけれど。

八月十六日
 ラジオでアニメ『ゲゲゲの鬼太郎』の主題歌がかかっていた。
 原作者の水木しげる自作の有名な歌詞「おばけにゃ学校も~」は、子供時代に何ともうらやましかったものだが、あらためて聴くと、まるで『THE3名様』のための歌、ニートの歌みたいだ。
 二番以降はどんな歌詞だっけとインターネットで検索したら、案外見つからない。以前はこうした歌の歌詞とメロディが鳴る個人サイトがあったが、著作権の問題なのか、削除されている。ダウンロード・サイトの発達とともに、このあたりはうるさくなってきたようだ。

八月十七日
 コンビニでDVD『トラ・トラ・トラ!』を九百九十九円で売っていたので、思わず買って観てしまう。
 アメリカ公開版で、日本側のシーンがいくつかカットされているのが残念。一回観ただけだから記憶違いの可能性もあるが、山村聡の山本五十六が天皇に拝謁するところや、コック役の渥美清と松山英太郎の場面がない。それに日本語の場面で、大きな英語字幕が強制的に画面にかぶさるのもうるさい。
 しかし、このように「アメリカ化」されたバージョンでもなお、この映画の不思議さは消えない。これはハリウッドの巨額な予算を投入してはいるが、明白に日本側へ力の入った映画だ。俳優も監督もそれほどでない米側と、黒澤監督が降ろされたとはいえ、実力派揃いの配役の日本側。アメリカ側の予算は後半の戦闘シーンに喰われたのかも知れないし、一ドル=三百六十円時代の、円が安かった時代の金銭価値の差のおかげなのかも知れないが。
 冒頭の「長門」での登舷礼の荘重な様式美を支える原寸大セットの迫力は、CGにはないもの。どうもCGの画面というのは何度も観ようとは思わない――よくいえば、そのまやかしのアラに気がつきたくない、騙されたままでいたいと思うから――が、こうした実写ならではの空間には、何度も観たくなる力がある。

 戦前の帝国海軍の姿に、日本全体が抱きつづけた憧憬がいかなるものであったかを知るには、この場面を観るのがいちばんかも知れない。
 黒澤が演技のできない素人の旧海軍軍人をあつめた最大の理由も、あるいはここでの「姿」を完璧に再現するためだったのではないか。
 この映画では、徹底した「海軍善玉史観」で物語がつくられている。それは史実ではないだろうが、そう思い込みたくなるほどに、かれらこそが近代日本最高の「美しい組織」だったことを、この作品は見事に描いている――というより、それこそがこの映画の主目的なのではないかとまで、今回は思った。後半の大迫力の戦闘シーンは、映画的カタルシスのための付録にすぎないのかも知れない。
 近衞も東條も野村大使も、この「美しき海軍」をひきたてるために、軟弱者と調子者と無能者として描かれる(千田是也も内田朝雄も島田正吾も、その目的を十全に理解した、完璧としかいいようのない名演だが)。
 もちろんサッカーのオシム監督ではないが、美しい組織(エレガントな組織)が「強い組織」や「機能的な組織」であるとは限らない。そのことは真珠湾だけでは見えないわけで、ミッドウェーやレイテを描けば、いやがおうにも明らかになるはずだ。
 しかし、それをせずに「美」のまま置くことが、おそらく黒澤の望み――舛田利雄による完成版も、脚本の概要はほぼ黒澤版のままらしいので、ここでは黒澤原案と見なす――だったに違いない。あるはずの弱点すら、南雲の弱腰や五十六の終幕の暗い述懐だけにとどめることで「滅びの予感」という美にしてしまう。
 ジェリー・ゴールドスミスの音楽は、琴やら木魚やらの使用を嫌う人も多いけれど、あらためて聴いてみると、帝国海軍という「荘重な様式美」を、かれなりに表現しようとしたものだったのだと感じた。つまりかれも、黒澤の意図を正しく理解していた(表現できたかどうかは別として)ことになる。

 何はともあれ、日本単独では絶対に不可能だったこんな映画を、ハリウッドのお金と資材でつくってくれた、ダリル・ザナックに感謝するほかないが、やっぱり不思議だ。
 自国のアメリカ人がこの映画を、どうして喜ぶと思ったのだろう。ベトナム戦争の苦戦や黒人問題などで懐疑的になりつつある国情の中、今までもすべてが正しかったわけではないということを、みんなが考えてくれると思ったのか。
 ひとつ気がついた。大空襲のさなか、銃手たちが倒されて無人になった対空機銃に走っていってとりつき、日本機を撃ち落とす兵士は、どうやら黒人らしい。この映画の前に同じザナックが提供した『史上最大の作戦』の米軍には一人もいなかった黒人、この映画にもほとんど出てこない黒人が、わずかながら活躍場面を与えられている――あまりにわずかすぎて、「迷い」の現れにも見えるが。

 本で『黒澤明VSハリウッド』というのが少し前に出ている。読んでみることにする。

八月二十日
 今日は甲子園の決勝戦。
 例年はそんなに見ない甲子園野球を、今年はチョコチョコと観ていた。
 これだけ観るのは例の「松坂世代」が活躍した一九九八年夏の大会以来だ。わざわざ松坂世代というだけあって、あのときは別段の予備知識もなく、何となく観ているうちにいつのまにか夢中になったほど、各県に役者が揃っていた。
 特に鹿児島実業の杉内(現ホークス)の気持ちのいいピッチングは、わたしのお気に入りだった元タイガースの山本和行のそれを想起させたし、アナウンサーになったPLの上重は、仏像のような顔つきが印象的だった。
 しかし何といっても好きだったのは、滑川高校のキャッチャーをやっていた選手である。ピンチになるとマスクを捨ててマウンドに上がり、太い腕と野茂そっくりのトルネード投法で、剛球を投げこんでストッパーを務めるのだった。
 面白い選手だなあと思ったが、それから何年もたつうちに名前を忘れてしまった。だから、それがいま阪神にいる久保田の昔の姿だったと知ったときには驚いた。同時にかれが投手専業になれたことを、他人事ながらとても嬉しく思ったものである。

 さて、なぜそれ以来八年ぶりに今年の大会を観る気になったかというと、西東京大会決勝の早実対日大三高の大激戦をニュースで知り、それ以外の県大会決勝も再試合になった宮城を筆頭に接戦がとても多く、どうもそのまま、本大会も接戦続きになる予感がしたからである。
 結果的には、たしかにシーソー・ゲーム、というよりも乱戦が多く、何が起きるか予想もつかないけれど、満足度はイマイチの試合が多かった。打高投低の度が過ぎて投手分業制が崩壊し、経験不足の三番手四番手の急造投手がマウンドでさらし者のようになって敗れるさまは、観ていて気持のいいものではなかった。
 エースが打たれて試合が終わるなら、まだしも納得がいくだろうに、という思いだったのだが、その中で一人だけ「主戦投手」と呼ぶにふさわしい姿を見せていたのが、早実の斉藤投手だった。今日の決勝戦では、そのかれの力投が、潜在的にはエースの器を持ちながらピリッとしなかった駒笘の田中の、その真の力まで引っぱりだしてしまったかのようで、素晴らしい投手戦になった。
 延長十五回表、相手の最後のバッターとなる四番本間に対して、斉藤が投げ続けた百四十七、八キロのストレートには本当にしびれた。
 翌日再試合というのは、残酷な仕打ちだと思う。ともかく怪我のないように。

 しかし「歌」にはやはり不思議な、根源的な力がある。早実の応援席から《紺碧の空》やコンバットマーチが聞こえてくると、どうしても血が騒ぐ。
 いや、大学時代には、こんなに真剣で必死な《紺碧の空》を聞いたり歌ったりする機会は、ついに一度もなかった。それを得たかれらがうらやましい。
 夏の大会は《栄冠は君に輝く》に「君よ八月に熱くなれ(あゝ甲子園)」と、よい歌に恵まれている。春の大会は前年のヒット曲を開会式の入場行進曲に使っていて、昔はけっこう話題になったが、いまはどうなのだろう。「ヒット曲」という概念自体、消滅しかけているし。

 夕方、普段はほとんど開けないベランダのガラス戸をなにげなく開けたら、膝の高さの位置にアシナガバチ(体長四センチほど)が巣をつくろうとしていてビックリ。巣は直径十センチ、厚さ三センチぐらいの大きさになっていて、十匹ほどが作業中だった。
 蜂たちが作業に夢中で、ガラガラと音をたてて戸を開けたわたしに関心を向けなかったからよかった。
 しかし戸から三十センチも離れていない位置にある。いったん戸を閉めたら、二度と開ける勇気をもてない気がしたので、開けたまま息をつめて後退し、台所から殺虫剤を持ってきて蜂と巣の双方に吹きかけ、とりあえず追い払う。
 外へ出て家の壁を見ると、別の窓の上方にも、小型の蜂の巣の基礎部分がつくられているのを発見。位置が窓から遠くて身を乗り出す必要があるため、暗くなってから除去にかかることにする。
 夜、ベランダのアシナガバチの巣の方を外したあと、窓の巣に取りかかる。長さ三センチほどの円筒状でまだ小さいから、蜂も夜は余所で寝ているだろうと思ったが、念のために殺虫剤を吹きかけると、小さいのが二匹出てきた。
 ベランダの連中よりも小型だが、やはりアシナガのようだった。この大きさの巣で早くも「宿直」していたらしい。なめてかかって、いきなり棒でつついたりしなくてよかった。二匹が去ったあと、棒で巣を叩き落とす。根まできっちり取りたいが、手が届かないので断念し、監視を怠らないことにする。
 我が家にハチが巣をつくるのは例年六月前後だけなのだが、今年は今頃またやっていた。雨が多かったせいなのか、あるいはハチ自体が増えているのか。
 慣れない緊張でぐったりと疲れたが、不意の遭遇だったのに襲われもせず、また巣が稼働する前に発見破壊できた幸運に、ともかく感謝。巣が完全にできあがったあとであのガラス戸を開けていたらと思うと、ぞっとする。

八月二十二日
 ミュージックバードで収録。スペシャルセレクションに続き、輸入盤ショーケースの特別編として、オランダ国営放送が制作したCD十六枚組のマーラーの交響曲全集を、合計二十時間かけて放送する番組のナレーションを収録(十月十五日と二十二日に放送予定)。
 一九九五年にアムステルダムで行なわれたマーラー祭のライヴ録音である。コンセルトヘボウ、ウィーン・フィル、ベルリン・フィル、それにグスタフ・マーラー・ユーゲント管弦楽団の四楽団が登場、ハイティンク、シャイー、アバド、ムーティ、ラトルの五人が指揮をする。中ではウィーン・フィルに貴重なライヴが目白押しで、ハイティンクの三番、ムーティの四番、ラトルの七番と並ぶ。
 一九二〇年にメンゲルベルクがコンセルトヘボウで開催したマーラー祭の、七十五周年を祝う催しだそうである。七十五年前の催しは、おそらくマーラーの全交響曲を演奏した世界初の試みだったはず。それ以来のこの都市とマーラーの浅からぬ因縁を記念したセットだ。
 一連のオランダの放送録音ボックス物に似た、赤銅色のカートン・ボックスに入っている。使用したのはオランダ国営放送からミュージックバード宛てに贈られたセットだが、一般発売はあるのだろうか。出たら売れるだろうけれど。

 ナレーションの途中で口がくたびれてくると、「歌曲集」がうまく発音できなくなる。口の周りの筋肉の力が弱くなって、音をのみながらの発声ができなくなり、各音を強く押し出してしまうので、ギクシャクした響きになるのだ。
 「手術」をうまく言えないタレントは顎の力が弱いのだ、というのが山の神の説である。音をのんで発声しないとみっともないのは「シュジュツ」の「ジュ」も「カキョク」の「キョ」も同じで、わたしの場合は疲労によって、それができなくなった。
 帰りがけに寄った喫茶店でサンドウィッチを食べたら、パンをかじるつもりが力の加減がおかしくなっていて、唇を噛みやぶる。白いパンが自家製ジャムで真っ赤。痛い。

八月二十四日
 亡父の十七回忌で、墓のある仙台へ日帰り。三十年前は一面の田んぼだった柳生(やなぎう)の里も、今はすべて住宅街に変わっている。
 稲を揺らし、はるかな山裾まで吹きわたっていった夏風は、夢のような昔。

八月二十五日
 ミュージックバードにて、「クラシック自由時間」収録。宇野功芳さんをお招きしてお話をうかがう二時間番組(九月二十四日放送予定)。
 宇野さんのご本、『クラシックの聴き方』の二つの章で、聞き役をおおせつかって以来の対談。今回は音もかけられるということで、お父君牧野周一の貴重なSPからの漫談『音楽病院』などをご持参いただき、聴きながら話を進める。
 漫談は現代で言えば音楽療法の話なので、《運命》の口三味線などが登場し、「宇野節」の原型が明白にそこにうかがえて、面白かった。
 なるほどと思ったのは、クナッパーツブッシュがオペラを真面目に指揮してオーケストラでは遊んでいたように、宇野さんも女声合唱を指揮するさいにはひたすらに純粋な浄らかさを求め、一方オーケストラでは遊ぶ、とおっしゃられたこと(もちろん遊ぶとは、いい加減ということではない)。
 両者が互いに補完しあうのであって、片面だけでは不十分なのだ。日本ではどうしてもオーケストラだけに関心が偏りがちで、オペラや合唱における人声の美しさ、歌の魅力に耳を貸さない聴きてが少なくない。
 そんなことを話しているうちに、あっという間の二時間。リスナーにもこの楽しさが伝わってほしいもの。
 宇野さんには、十一月末にも早稲田の同攻会主催の講演会で、またお話をうかがう予定になっている。
 本からラジオ、次は一般公開。さまざまに場を変えながら、先達から刺激をいただく機会を重ねられるのは嬉しい。

 帰りは渋谷のレコード店に立ち寄り、いくつか購入。リヴィング・ステージ盤の《ワルキューレ》があった。クランハルス指揮による一九五九年モンテヴィデオでのライヴで、歌手陣はドイツの地方歌劇場で活動した、二線級ばかり。
 それを購入した理由はただ一つ、ヨーゼフ・トラクセルのジークムントが聴けるからである。高音の出るリリッシェ・テノールだったのに、トラクセルはジークムントまで歌ったという冗談みたいな話が、以前から知られていた。それが音として出てきたのである。
 一九五五年のバイロイトでの《さまよえるオランダ人》の舵手役ではその美声で大好評を得たが、その後の数年間に歌ったエリクやシュトルツィングという大役では、期待を裏切って成功できなかった。ジークムントはそれよりもさらに重い役なので、期待してはいけないとはわかっていたが、とにかくどんな歌いぶりなのかを知りたかったのだ。
 というわけで聴いてみた。シュトルツィングのときと同様に、中~低音域に力強さと輝きがなく、中抜けしたような響きを無理におして出すためにフレージングが直線的で、べったりと張りついてしまう。この結果として声色に変化もつかず、単調になる。
 ここまでは予想していたことなので仕方ないのだが、意外だったのは歌詞がうろおぼえで、歌う場所も間違いだらけだったこと。ほとんど役が入っていないようなのである。通しの舞台経験もないまま、代役で急に引っ張りだされたような感じなのだ。
 CDとしてはトンデモ盤に近いが、ともあれ確認できたことに感謝しよう。トラクセルの《美しき水車小屋の娘》がいつか聴けることを期待して…。

八月二十六日
 昨日買ってきたホーネック指揮のモーツァルトのレクイエムやルイージの《復活》を聴きながら――どちらも素晴らしい演奏だ――『黒澤明VSハリウッド』(田草川弘/文藝春秋)を読み終える。
 評判のよさが納得できる本だった。企画の発端から、黒澤が撮影開始後わずか三週間で解雇されるまでの経緯を、黒澤のオリジナル脚本、プロデューサーのエルモ・ウィリアムズへのインタビュー、解雇当時の黒澤明の心身の状態についての診断書、そしてフォックスと黒澤プロダクションの間の契約書などにあたりながら、噂や伝聞ではなく実証的に記している。その説得力は素晴らしい。
 黒澤になじみのない東映京都で撮影したのも、フォックス側が予算節減のために決めたという定説をくつがえし、黒澤自身の考えによると推定している。このことが象徴するように、『トラ・トラ・トラ!』は――少なくともそのドラマ部分に関しては――ほとんど黒澤の映画となるはずだったことが、エルモ・ウィリアムズの談話やダリル・ザナックの書簡から、浮かび上がってくる。
 もちろんクランクアップの後で、かれらが商業主義の論理をしたたかに振りかざして、映画を切り刻む可能性はあったし、そのようにもできる契約にもなっていたのだが、その契約はあくまでも最悪の事態にそなえた欧米流の「保険」であって、悪辣な「騙し討ち」をするつもりがフォックス側にあったとは思えない。かれらはできる限り、黒澤をもり立てようとしていたのである。
 しかし黒澤は、自壊するように撮影現場を混乱させた。どんな行動に出たのかはあちこちで語りつくされているから、ここでは省く。その真の原因がなんであったのかは、この本を読んでもなお不明である。結局、個人の行動の動機やその心理の内奥を他人が描こうとすれば、ノンフィクションではなく小説にするほかないだろう。
 それは置くとして、解雇後に舛田利雄が完成した日本パートは、黒澤が共作した脚本をほぼそのまま用いた。
 ただし、黒澤原案が三時間だったのに完成版は百四十七分(日本公開版)しかなく、約三十分がフォックス側の指示でカットされている。
 おそらくはその三十分に、山本五十六の人となりや、淵田中佐などの部下たちとの結びつき――著者によれば、それは『七人の侍』の勘兵衛(志村喬)と他の侍たちとの関係を想起させるという――などが、より深く描かれるはずだったのだろう。
 残った部分にしても映像的にはまったく別物なのだから、著者が書くとおり、「黒澤監督が手がけたセットや衣装や美術はともかく、フォックス版を基にして幻のクロサワ大作を推理したり、評価したりするのは危険が伴うことを忘れてはならない」とは思う。
 その危険を知りつつも、黒澤版の脚本や絵コンテを見るかぎり、やはり「美しき帝国海軍」という組織のイメージが全体の基礎をなして、その上に各個人の悲劇的な生が躍動するものとなるはずだったことは、間違いないと思う。
 フォックス版にも、その荘重にして美しい組織という基礎部分は、たしかに残っているのだ。

八月二十七日
 映画『影武者』が観たくなり、近くのレンタル屋で借りてくる。ただしDVDは置いていなかったのでVHS。
 いろいろな意味で『トラ・トラ・トラ!』の敵討ちのような作品――史実に基づく歴史大作であり、主役以外は一般公募(本職の俳優含む)であり、カラーである――だと思えたからだ。
 きちんと観るのは一九八〇年の公開時に映画館で高校の鑑賞教室があったとき以来、二十六年ぶり。記憶力のいい年頃で各シーンを鮮明に焼きつけることができたため、もういちど観る必要をいままで感じなかったのだ。
 リズム感が悪く、躍動感がなくて冗長なのは確かである(同時代の荘重様式のクラシック演奏と同じだ)。
 本来の主役だった勝新太郎なら違ったのではないか、とわたしは思わない。単純な外見だけなら、信玄の画像(とされてきたもの)に似ていたろう。しかし、当時の勝新の演技もリズム感皆無だったから、もっとひどいものになった可能性の方が高いと思う。
 むしろ、やっぱりこの役も三船敏郎だという印象を受けた。下賤ぶりを強調しようとするときの仲代達也の演技のしかたが、三船のそれを想わせたからかも知れない。重厚と野卑の鮮やかな対比は、三船がいちばん得意とする演技だったはずだ。
 黒澤が内に秘めたその思いを無言のうちに汲んで、仲代は――黒澤自身とこの映画とを破滅から救うために――あえて三船のごとき演技をしたのではないかというのは、想像のしすぎか。

 しかしこの映画のテーマもまた、「美しい組織への挽歌」だったことに、あらためて気がつく。
 本物の信玄が無念の死を遂げたシーンに続くのは、甲州軍団の行軍場面だ。赤備えの騎馬武者が、後方はるかに続く兵馬を見やりつつ、誇らしげに口にする。
「見よ、武田の精鋭、一糸乱れず」
 しかしこの瞬間に、かれら武田のつわものどもは「お屋形様」を失い、天地の間に置き去りにされている。
 その哀しさこそが、この映画の主題なのだろう。
 信玄以外には誰にも乗りこなせないという悍馬「黒雲」が登場する。この馬に振り落とされたことが、影武者が露顕するきっかけになるのだが、この「黒雲」は結局、甲州軍団そのものを象徴している。本物の信玄以外にその手綱をしめ、野を駆けさせること――京へ上ること――はできないのだ。分際を忘れてこの馬に乗ろうとした瞬間、「影武者」の企ては破れる。
 信玄の死を隠すためには「黒雲」を厩につないだままにするほかないし、同じく甲州軍団も、甲斐に閉じこもるほかない。だから「山は動かぬ」のである。
 つないだままでは、どんな名馬も強兵も持ちぐされになるだけだが、乗りこなせないのでは仕方がない。馬自身がたとえそれに気がついたとしても、かれが乗り手になりかわることはできない。あくまで乗り手あっての「影」なのである。
 山県三郎兵衛、馬場美濃守以下の武田の驍将たちは、お屋形様は病後ゆえ「黒雲」に乗るのはご遠慮いただくと話し合ったあと、側室方に乗るのもご遠慮いただく、と笑い合う。この冗談によってかれらは、いちばんの悍馬は、じつは自分たち自身なのかも知れないという懐疑から、目をそらしてしまうのだ。
 風林火山の旗は、信玄自身の旗印、すなわち甲州軍団を乗りこなす力量の存在を、証明する旗印である。その力量のない諏訪四郎勝頼に使用を許さなかったのは当然のことだし、その実質は諏訪湖に葬られた信玄とともに、水底に――現世の人間が手を触れることのできない世界に――すでに沈んでしまっている。

 『黒澤明VSハリウッド』によると、黒澤明は『平家物語』の映画化を夢見ていたという。これもまた平相国清盛という一人の英雄と、かれを失った平家一門という美しい組織の滅びの物語である。
 『影武者』は、武田家版の平家物語であったのかも知れない。映画の各所に諏訪湖の湖面が映り、ラストで風林火山の旗が水底(現実には川底)にはためくのは、壇の浦の「浪の下にも都の候ふぞ」に通じるものなのか。信玄と甲州軍団という美しい組織が常世(とこよ)の国へ去ったことの、証しなのか。
 批判の余地はあるけれども、美しい組織がもつ荘重な様式性が、黒澤ならではのスケールと緊張感で、この映画に表現されていることは疑いない。
 信玄が武田館に帰還する場面、馬蹄の響きだけが聞こえてくる中で「折り敷け!」という武者の掛け声が次々とかかるところ、そして高天神城前に信玄本陣が展開される場面、いずれも見事である。
 信玄と甲州軍団、そして清盛と平家一門などと考えると、黒澤の頭の中の「五十六と帝国海軍」も、おぼろに見えてくる気がする。

 むかし観たときと同じように気になったのは、池部晋一郎の音楽。
 あのときは予告編で観たスッペの《軽騎兵》序曲があまりにもはまっていたので、違和感が抜けなかったのを覚えている。今回は、旋律自体よりオーケストレーション次第で、もっとよくなったのではないかという気がした。その時々に鳴る楽器が、どうも画面に合っていない感じを受ける。現代の浜口史郎みたいな名人がやれば、かなり印象が変わるはず。
 「記憶違い」が起きていたのは、上杉謙信の場面。信玄死すの報を受けた謙信は、春日山城の木の窓を開き、降りつづく雪を見つめる。わたしはこの場面が、夜だとばかり思い込んでいた。
 雪明かりに青く照らされた夜空と、そこに降る雪。その寒く青い闇こそ、不識庵謙信の風景にぴったりで、さすがクロサワ、と思い込んでいたのだが、あらためて観たら、ただの昼の曇り空だった。「青き浄闇の不識庵」は思い違いだったらしい。

 ところで、『黒澤明VSハリウッド』で笑ったのが、黒澤が入った頃の東映京都撮影所の様子だった。
 一九六八年といえば東映やくざ映画の全盛期で、撮影所内には雪駄に着流し姿のやくざ者に扮した俳優やら、本物やらがうろうろしていた。黒澤はその存在を蛇蝎のように嫌ったという。
 海軍軍人役の出演者たちの目に、かれらの姿が入らないよう気を配ったというから、黒澤にとってやくざとは「美しい組織」の対極にある、みっともない連中だったらしい。
 そしてもちろん、そんなものに頼って存続しようとする、もはや失われた「美しい組織」日本映画界への憤懣も、そこに重ねられていたに違いない。

九月一日
 インターネットのサイトで、「DURBECK RECORDING DATABASE」というのを見つける(URLは上記)。
 「LPレコードのオペラ全曲、声楽&合唱の世界最大の個人コレクション」と謳うだけあって、かなりのもの。
 こうしたデータベースは検索しやすいかどうかで使用頻度が決まるが、これはたとえば「一九六〇」と入れるだけで、録音年や発売年で該当する盤がダダッと出てくる。
 録音年だけでなく、月日も細かく入っているのが嬉しい。セッション商業録音などでは月しかわからないCDも多いのだが、おかげでいくつかが判明した(少し誤りもあったので、全面的に信用するのは危険だが)。
 それと、このデータベースの大きな特長は「発売年」の項目があることだ。じつは手元にある書籍版のオペラ・ディスコグラフィの場合、かなり詳細なものでも発売年のデータはないのだ。
 ところが商業録音の場合、録音年以外に発売年も大きな意味を持っている。一般聴衆がその演奏に「初めて」接したのがいつのことなのか、その演奏がいつこの世に出現したのか、を示すデータだからである。
 録音年だけに気をとられると、録音された時点でその演奏を聴いているのは、まだ演奏者自身と録音スタッフだけだという単純な事実を、忘れてしまいやすいのだ。
 また、現代のようにLPの「板起し」が広まってくると、著作権の発生年という点でも、発売年は意味が重くなる。
 公的なデータベースではないから、前述のように盲信はできないが、少なくとも手がかりにはなるからありがたい。
Durbeck Recording Database 

九月二日
 サイト「歌舞伎素人講釈」(「素人」などとあるが、とても高度な歌舞伎講釈である)の主宰者、吉之助さんから、七月九日と十三日の日記で取りあげた三島由紀夫の映画『憂国』の使用音源につき、聴き較べてみた結果、やはりストコフスキーの録音のようだというメールを頂戴する。
 その一部を引用させていただく。

「ストコフスキーのSymphonic Synthesis は二種類ありまして、ひとつが1932年4月16日・23日の録音で、もうひとつが1937年4月5日・11月7日録音のもので、それぞれ編曲が違っています。
 映画に使用された録音は32年の方で(中略)前奏曲部分を除いたものが映画に使われていることが分りました。」

 ストコフスキーとフィラデルフィア管弦楽団の《トリスタン》「交響的交合」SPは、たしかに二種ある。
 どうしてわずか五年ほどで二回録音したのか不明だが、一九三二年盤と三七年盤(アンダンテのCDの表記による。別資料には一九三五年と三九年の録音とある)があるのだ。『憂国』DVDの解説には、二・二六事件と同じ一九三六年に発売されたSPを使用したという意味のことが書かれているから、一九三二年盤がそれであるとしても無理はない(発売年が日本盤のものなら、録音から四年後もありうるだろう)。
 わたしも聴き較べてみたが、やはりこの演奏とみて間違いないと思う。
 となると、これがストコフスキー盤であることを、三島が少なくとも積極的には明かそうとせず(消極的隠蔽)、堂本正樹がこれをフルトヴェングラー盤だと勘違いしたのは、堂本の思い込みだったのか、それとも、三島の誘導によるものだったのか。
 判明すれば面白いだろうが、同時にこれは、かれら男児二人の心の機微のままに謎として残しておくのも一興か、という気もする。

九月四日
 某掲示板でのご指摘により、『クラシックジャーナル』最新号でとんでもないミスをしていたことに気がつく。
 ワルター指揮の《魔笛》一九五六年盤を取りあげた欄(百四十七頁)で、これとは別録音の一九四二年盤を、原語の独語上演だと書いてしまったのだ。
 だが、これも実際には英語訳詞なのである。何を慌てたのか、《フィデリオ》一九四一年盤(これはドイツ語)と勘違いしたらしい。

 読者の皆様、申し訳ありません。

九月六日
 アストリッド・ヴァルナイと、イングリッド・ビョーナーの訃報を知る。
 二人とも、ワーグナーなどドイツ・オペラを中心に歌ったドラマティック・ソプラノであり、バイエルン国立歌劇場と縁が深いという共通点を持っている。

 とりわけ、ヴァルナイさん――この歌手にかぎって、なぜか「さん」づけしたくなってしまうのだ。日本のファンにはそういう人が少なくない――の死は、感慨深い。
 メジャー・レーベルの正規盤、商業録音の絶対性への疑問を感じるようになったきっかけの一つが、ヴァルナイさんの歌を知ったことだからである。
 深々と包みこむようなその声色、地の底からわき上がって高空へと翔るかのごとき、その長大な呼吸と歌いあげの力。これほどの歌手が、メジャーにはわずかな全曲盤しか残していない。
 サーチライトのように単調なニルソンの歌よりも、はるかに感動的だと自分には聴こえるヴァルナイさんの歌が、レコードにおいても文章においても、ほとんど無視されている――なぜ? というのが、ライヴの公有盤を聴き続ける、駆動力の一つになったのだ。
 たとえばメロドラムは、疑いなくヴァルナイさんに肩入れしていた。そこに仲間意識を感じたこと、それがイタリア公有盤に深入りする要因だった。
 日本ではまるで知られていない歌手たちばかりのライヴ盤を見かけると、ひょっとしたらそこにもう一人のヴァルナイさんがいるのではないか、と根拠のない期待を抱いて、買ったりしたものだった――ハズレることも多かったけど。

 ビョーナーは、わたしが一九八三年にミュンヘンで観た《トリスタン》のイゾルデ役だった。
 ワーグナー没後百年のあの年、バイエルン国立歌劇場ではサヴァリッシュが、ワーグナーの主要作品すべてを一人で指揮した。ビョーナーはドラマティック・ソプラノの主柱として、ブリュンヒルデとイゾルデなどを歌った。
 終景、影絵のようになって横たわるトリスタンの骸を前にして、すっと独りで立つイゾルデ役のビョーナーの姿が、目に浮かぶ。

 秋篠宮家に男子ご誕生。
 これでもう皇室典範改正は四十年後の話題、という人もいる。はたしてそうだろうか…。

九月九日
 重陽の節句。新橋ベルランで行なわれた、吉田真さん・早苗さんご夫妻の結婚披露パーティにお招きいただく。
 吉田真さんはワーグナーなどドイツ・オペラの研究評論で活躍されている。美しく聰明な伴侶を得て、本当に嬉しそうだった。
 途中、ベルラン店主ご自身の製作による、飛行船ヒンデンブルク号とツェッペリン伯号のペーパークラフト模型を拝見する。縮尺二百分の一でも一メートルほどある大物(ご店主のブログに、その製作過程が掲載されている)。
 このベルランというレストランは、タイタニック号とヒンデンブルク号、海と空の二大遭難事件の乗客用ディナーを再現したことでも知られているのだ。そういう店でパーティをやったけれど、真さんたちはきっと難破とは無縁だろう。

 その席で『クラシックジャーナル』編集長と話す。次号から強力な執筆者二人が新たに登場するらしい。いよいよ梁山泊じみてきた。楽しみ。

九月十一日
 フィレンツェ歌劇場来日公演の初日、《ファルスタッフ》を観に、東京文化会館へ。日経新聞に評を書くため。公演評はそちらにゆずるとして、今さらながらこの作品の傑作ぶりに感じ入る。
 第三幕第二場の冒頭、フェントンの独唱からナンネッタが登場して二重唱に発展しかける部分は、ヴェルディ全作品の中でも、最も霊感ゆたかな音楽の一つだと思う。そして、これから二重唱だという瞬間にアリーチェを闖入させ、惜しげもなく中断してしまうことによって、ヴェルディは若い恋人たちの熱き血潮に、「永遠に未完」の輝きを与えている。

 公演プログラムを眺めていたら、最後の方のベルリン国立歌劇場来日公演(来年十月)の予告頁に、《モーゼとアロン》をやるとある。音楽監督バレンボイム側の熱烈な希望によるものだそうだ。この演目を現代に取りあげなければならないという、かれの意思は舞台へどのように反映されるのだろう。
 しかし気になったのは、その頁のバレンボイムを紹介する枕詞に、「楽壇の帝王、現代のモーゼ」とあったこと。帝王はともかく、現代のモーゼというのは、いいのだろうか…。

九月十三日
 新国立劇場のシーズン開幕公演《ドン・カルロ》に行く。
 正直な話、演奏には初めから期待していなかった。鈍重で混濁した絶叫調の音楽になりやすい、十九世紀後半の荘重様式という、この作品でわたしが苦手な一面をむき出しにした指揮と歌唱だった。
 しかしそれは予想通りだから、まあよい(よくないが)。それよりも問題に思ったのは休憩の取りかた。
 第一幕+第二幕と、第三幕+第四幕の間に、三十分の休憩が一回だけ。
 前半だけで百分、つまり一時間四十分ぶっ続けなのだ。つらいので有名な《神々の黄昏》第一幕を観るのと同じ感覚。演奏の出来にもよるとはいえ、二幕の後半では周囲のお客の緊張が途切れているのを、痛いほど感じる。がまん大会に来たわけじゃなかろうに。
 たしかに平日だから、できるだけ遅く午後六時半に始めて、しかも十時までに終わらせるためには、こうなったのかも知れない。
 しかしこんなにつめこむとゆとりがなさすぎる。「働きバチ」時代の日本人が貴重な休日に観光旅行ツアーに行って、分刻みのスケジュールで名所旧跡を全部回り、よく見もせずに記念写真だけ撮るような、そんな感覚――参加したことはないが、現代の朝六時集合、夜七時解散の「日帰りツアー」みたいな感じか。
 うーん、日帰りドン・カルロ。
 オペラの幕間なんて、知り合いがたくさんいるときなどでなければ退屈なものだが、やはり集中と弛緩の適度な交代がないと、せっかくの公演の価値をわざわざ下げてしまうことになる。
 ドイツでも同様に休憩一回が原則だったから気にならない、という知人もいるから、人それぞれだろうが、わたしには少なすぎた。
 《椿姫》などなら休憩二回は無駄で、一回でちょうどよい。新国の前回の演目《こうもり》も休憩一回だったが、あれも大して長くなく、二幕と三幕を「夢の続き」にするという演出上の理由もあったので、無理とは感じなかった。
 だが今晩の《ドン・カルロ》は合計で二時間五十五分もあったから、それで休憩一回では少ないと感じる人も多いのではないか。また開演から百分連続というのは、遅れてきた人がその間ずっと自分の席につけないことを考えても、実用的ではないと思う。そう、オペラは公演中の出入りや飲食ができないから、映画館などより拘束感が強いのである。
 終演を午後十時に設定することは、東京の交通事情や生活習慣からみて正しいと思う。しかしそれで正味三時間のオペラをやろうとすると、平日はきつい。
 二期会・藤原などは平日を捨て、週末に集中して三公演だけといった形式が多い。対して外来オペラはある種「特別の祭典」だから、平日の夕方五時に開演しても許される。だが新国の公演は、その両者の中間にあるから難しい。

九月十六日
 日経新聞の『私の履歴書』の今月は、プロスキーヤーの三浦雄一郎が書いている。自分が子供の頃からその名前は知っていたが、三浦がどういう育ちをした人なのかは知らなかったから、面白い。
 ここ数日はちょうど、アマチュアからプロスキーヤーに転じた経緯が書かれている。一九六〇年にアメリカのスコーバレーで行なわれる冬季五輪――山間の小都市が五輪をきっかけに人気リゾート地に変貌することになり、五輪による町おこしの先駆けとなった――の日本代表を決める予選へ青森から参加しようとしたときに県のスキー協会ともめてしまい、アマチュア資格を剥奪されて永久追放になった。これが「日本初のプロ」となる原因だったという。
 これを読んで思いだした。わたしが子供の頃の三浦のキャッチフレーズは「日本初のプロスキーヤー」だった。エベレスト滑降とか、そういう冒険者としての業績が語られるのは後のことで、初めはまず、「プロスキーヤー」であることそのものが、特別の事態であるように喧伝されていた記憶がある。
 スキーでは、一九五六年のコルティナダンペッツォ冬季五輪でトニー・ザイラーと猪谷千春が英雄的存在となり、その後ザイラーが映画俳優に転じたりして、日本でもブームが動き出す。そして一九五〇年代末から、つまり高度経済成長と歩調を合わせて、スキーが本格的に流行しはじめる。ザイラーが設計したザイラーバレーなんてスキー場も、八ヶ岳にあった(二〇〇三年に経営者が変わって改称したという。昭和は遠くなりにけり、だ)。
 ちょうどそのブームの波に乗る形で、三浦は「プロスキーヤー」を名乗ったわけだ。ザイラー同様に三浦も劇映画に出たりしたという。しかしその前段階として、アマ永久追放があったとは知らなかった。
 その原因になったというもめごとの内容は、ここでは触れない。記述がいささか簡略すぎるせいもある。いうまでもないことだが、自伝は本人の観点でしか書かれない。この一件を論じるには相手方の意見や、そこに至るまでの背景の説明などをもっと知る必要があると思う。

 三浦と八甲田山の深い関わりを知ることができたのも嬉しかった。父の職業の関係で東北各地を転々とする中、八甲田山がスキーの故郷になったらしい。
 わたしは小学校五年のとき、八甲田山で行なわれたスキー合宿に参加したことがあった。たしかニッポン放送の事業部か何かの主催で、募集の「ウリ」は三浦雄一郎が二日ほど顔を出す、ということだった。三浦が来たのは、それがかれに縁の深い八甲田での合宿だったからなのだと、今回読んでいて初めてわかった。
 残念ながらスキーを見てもらった記憶はない。憶えているのは、朝スキー場についたとき、何気なくあくびをしたら目の前になぜか三浦がいて、「もう眠いのか?」と笑われたことだけである。
 こんなどうでもいいことを忘れずに憶えているのも不思議だが、人間の記憶とはそうしたものらしい。

九月十六日(続き)
 曇りのせいか温度が低く、とても気持のいい涼しさ。
 ネットを眺めていたら、午後三時から国立競技場でJリーグの清水対鹿島戦があるという。家から片道二キロ弱、遅い昼飯を食べに出るついでに歩けば、時間的にちょうどよさそうだ。きっと客席はそんなに混んでないだろうし、駄目ならそのまま帰ればいい。というわけでふらふらと出かける。
 まずは外苑東通りを、四谷三丁目から信濃町駅へ南下。さびれた感じで店が少ないので、こちらを歩く機会は少ない。いつのまにか道路拡幅の用意は進んでいる。左門町のお岩稲荷を過ぎたあたりからは創価学会系の大きなビルが建ちならぶ。空き地や駐車場など将来の建築予定地らしき土地も、通りに面していくつかある。全部が学会系のビルになったら、なかなか強烈な景色になるだろう。
 文学座の前も空き地になっていて、古い安旅館みたいな(失礼)その建物がよく見える。線路と高速を渡ったところで右に折れて、国立競技場へ向う。
 思ったとおり買えた。ゴール裏の席が三千円でいちばん安いので買う。鹿島よりホームの清水側の方が空いているかと思ってそちらを選ぶ。
 別にどちらを応援しているわけでもない。今年の清水のサッカーはとても面白い、ぜひ観るべきと新聞で読んだことが観戦動機の一つだったから、まあ清水側から観てみようかというだけ。
 その頃になって気がついたが、野球以外のスポーツを生で観戦するなんて、いままでしたことがない。国立競技場に入るのも、もちろん初めてのことである。しかし、何度か来ている神宮球場と設計が似ているためか、切符売り場から客席まで、まるで戸惑わずに行けた。
 スタンドの雰囲気も神宮そっくり。やっぱり古いなあと思う。日韓W杯の試合をやれなかったのも、これでは仕方ないだろう。テレビで何度も見た聖火台を仰ぎ見ながら、もし二度目の東京五輪があったら、ここはほとんど建て直しにするしかないのだろうなと考える。
 清水側が空いているという予想は外れた。ホームである以上は応援団も多い。しかし鹿島応援団の方が少ないのに賑やかな感じだったから、清水側の方が見やすかったと思う。電光掲示板が背後にしかないのは不便で、これはビジター側からの方が見やすい。次の機会にはあっちへ入ろう。
 入場者は二万人。座ったあたりは、適度に空席があって楽だった。満員のときはどんな雰囲気なのだろう。その中の一人になる気には、絶対になれないが。

 試合が始まると、やはり生ならでは。攻守に全員が連動していくさまなどは、テレビではわからない要素。
 いまさらながらに、野球とはまるで違うスポーツだと思う。野球はどちらが攻撃しているかに関わりなく、ホームベースという小さな一点に、球場全体の視線が集中している。そこから、ときどき放射状にボールと人が動き、またホームへ戻っていくことのくり返しだ。
 サッカーにはそんな「原点」はない。代わりに、ピッチの全域にさまざまな長さの「線」が、あらわれては消える。人が描き、また人と人との間に生まれ、一瞬で消える無数の線だ。
 その線は一つではなく、同時にいくつも出現する。ボールが実際に動くことで「実線」になる線もあれば、可能性だけで消滅する「空線」もある。その無数にして儚い線の出現と消滅が、生だと素人でもよくわかるのだ。
 試合は鹿島が二点先行して、清水が一点返したがそこまで。残念ながら清水の良さはあまり出なかったらしい。
 実際、鹿島イレブンの描く「実線」の方が、創造性と意外性、そして変化を持っている印象だった。三点ともセットプレーではなく流れの中での得点だったので、線のつながる快感も、より強かった気がする。
 なかなか楽しい。また来てみよう。

九月十八日
 アルファベータから出す予定の新しい単行本のゲラ受取りなどのために、青山の同社へ。そしてその本の宣伝で『クラシックジャーナル』誌に掲載するインタビューを、編集長から受ける。
 といっても半分は馬鹿話。万引常習犯の「人相書き」が、指名手配書みたいに店の壁に貼ってあった個人輸入盤店の話とか。使えるのかしらん。

 ところで雑談になったとき、同社宛てに送られた他社の本を見ていて、書籍は見本として「贈呈」されているようなのに、CDはプロモーション用に「貸与」する形態になっていることが多いのはなぜだろう、という話を編集長とする。
 貸与を謳った試聴用CDには「使用後は要返却」という趣旨のシールが貼ってあり、第三者への転貸・譲渡を禁じている。実際には、あらためて返却を要求されないかぎり、借りっぱなしの人が多いと思うけれど。
 どうしてCDと書籍は違うのだろう。価格的には大差ない(むしろ書籍の方が高いことも多い)のに。

九月十九日
 二期会の《フィガロの結婚》を指揮するホーネックを聴きに、オーチャードホールへ。
 この人、カルロス・クライバーに私淑しているのだそうで、指揮法などに影響があるという。たしかに序曲の演奏などは悪い意味で似ていて、リズムが弾まずに横にすべってしまい、すわりがよくない。しかし次第に調子が出てきたか、端正な造型の中に自然な弾力が出てきて、第二幕後半のアンサンブル場面のキビキビした進行などは見事なものだった。面白いことに、そういう場面での指揮ぶりはけっしてカルロス風ではなく、音楽も物真似ではない。
 感心したのは第四幕大詰めのアンサンブル。大団円といった雰囲気で朗々と歌わせるのをわざと避けるように、素っ気なく進めていた。このへんは少しクレンペラーみたい(これはいい意味)。
 歌手陣はもうひとつ。宮本亜門演出は場面場面で主役脇役、あるいは傍観者へと、登場人物の役割が一瞬のうちに変化するさまをわかりやすく描いていた。

 帰りは新宿のCD店で、少し前から探していたユロフスキ指揮の《モイーズとファラオン》の、ペーザロ・ライヴをようやく見つけて購入。『レコ芸』のためにムーティ指揮のこのオペラのDVDを観てとても気に入ったので、それをユロフスキの指揮でも聴いてみたいと思っていたもの。二枚目と三枚目の内容が入れ替わってプレスされているらしい。
 早速聴いてみたいが、仕事に無関係なオペラを聴く時間はなかなか難しそう。ユロフスキの盤て、なぜかこんなときにばかり買っている気がする…。

九月二十日
 『クラシックジャーナル』で取りあげる予定のDVDから、ハーディング指揮の《コジ・ファン・トゥッテ》とルイージ指揮の《ナブッコ》をきちんと観る。
 ともに演奏も演出も素晴らしい出来。こういう公演たちと、時代を共有できることが嬉しくてたまらない。

 新宿の飲み屋でCD店、CD輸入配給業の友人知人たちと飲み会。
 普通の飲み屋の雰囲気なのにクラシックがBGMにかかり、ヴァントのポスターが貼ってある店。ウィーン・フィルの楽員も来日のたびに来るという。わたしは十年くらい前によく来たきりだが、いまもその頃とほとんど変わっていない。
 音楽事務所にお勤めのサークルの大先輩に偶然出くわして、お互いびっくり。二十年前には「ゴールデン街の主」として勇名を馳せた方だが、最近はそっちはあんまりとのこと。
 帰りがけ、別の飲み屋の前を通る。こちらは十二、三年前、毎週金曜にクラシック関係の人間が十人くらいも集まっては、夜七時から朝四時まで、延々とクダをまきつづけた店。それでも一人三、四千円で済んだというありがたいところだが、親切な店長が解雇されたのをきっかけに行かなくなってしまった。
 降りているシャッターを見ると「夜十二時まで」とあった。深夜営業も止めてしまったらしい。ちょっとさびしい。

九月二十三日
 ホーネックと読売日本交響楽団によるモーツァルト演奏会を聴きに、池袋の芸術劇場へ。
 レクイエムをメインにモーツァルトのいくつかの小曲、舞台外のグレゴリオ聖歌(テープ録音だったようだ)、江守徹による本人の書簡や大江健三郎の詩、ヨハネ黙示録の朗読などがある。詩をドイツ人から日本人に変えた以外は、少し前に発売されたスウェーデン放送交響楽団のライヴ盤と同一の構成。そのCDがとてもよかったので、ナマで聴けるせっかくの機会だから行ってみたもの。
 きわめて優秀なスウェーデン放送合唱団に対して、こちらは国立音楽大学合唱団というのが不安材料だったが、蓋を開けたら真摯な好演で、むしろ独唱陣よりも印象に残った。合唱指揮の大ベテラン田中信昭の厳しい指導の賜物だろう。
 一緒に聴きにいった山の神は、約三十年前の芸大時代にこの人の指導で、サヴァリッシュ&N響によるレクイエムの合唱を歌ったそうだが、そのときも非常に厳しい指導だったそうな。

九月二十六日
 ミュージック・バードでスペシャルセレクションのクリスマス特集収録。十二月十八日からの週の放送予定なので、いくらなんでも早すぎるのだが、収録日程の都合で三か月前になる。
 BBCコンサートはアバドが一九八三年のエジンバラ音楽祭で指揮した《ローエングリン》の第二幕のみの演奏会形式上演(十月八日放送予定)と、一九七三年ロンドンでのポリーニのピアノ・リサイタル(十月十五日放送予定)。
 前者は第二幕だけというのが珍しい。その年か翌年にNHK・FMが放送したのを聴いた記憶があるので、二十二、三年ぶりの再会。後者は《告別》と《ワルトシュタイン》に交響的練習曲というプログラムで、国際的活動を再開して話題となっていたころの、まさにバリバリ弾きまくるポリーニ。アバドとポリーニが来日するのに合わせての選択。

 帰りに渋谷のレコード店に寄ると、前から欲しいと思っていたCDが入っていたので購入。ベートーヴェンのピアノ協奏曲第四番と第五番を、約二十人の縮小編成の二管オーケストラとフォルテピアノで演奏したもの(アルファ)。
 当時よく行なわれていたピアノ五重奏用の編曲などではなく、初演のロプコヴィッツ伯爵邸の広間の大きさと椅子の数から編成を割り出し、弦六人のオーケストラとしてみたもの。合唱用の宗教曲を四人とか八人とかで歌ってみる方式の、協奏曲版である。
 予想以上に面白かった。二曲とも通常編成の響きを聴き飽きていたのか、新鮮で楽しい。重要なのはフレージングや音色に微細な変化による呼吸を持たせていたこと。小編成でも単調に陥らず、多彩な響きの連続だった。リズムの弾力も自然でいい。同じような小編成で演奏したどこかの団体による《英雄》が、鋭いだけで単調単色だったのとは雲泥の差。この変化こそが、呼吸感の要素の一つだ。
 スホーンデルヴルトのフォルテピアノの響きにも、拡がりとうねりがあってオーケストラとよく調和している。水っぽくなく、また鋭角的でもないその音色のバランスが、とてもいい。同レーベルからシューベルトの歌曲集やショパンのピアノ小品集も出ているそうなので、探して買うことに決める。

九月二十七日
 「レコード芸術」編集者と十二月号の特集について打合せ。
 題材はわたしにとって少しだけ「罪滅ぼし」になるものなので、意欲がわく。それにしても、男二人で神楽坂のクレープ屋で打合せというのも、かなりオツ。

九月二十八日
 ローマ歌劇場来日公演の《トスカ》を聴きにNHKホールへ。
 やはり音楽に接するには巨大すぎるホールで、感想は書きづらい。一つ痛感したのは、ジェルメッティの指揮する音楽が、明るく澄んだ美しい響きではあるけれど、停まっていたこと。かれは一九四五年生まれ。十二、三歳下からの俊敏世代との隔たりは、大きいようだ。

九月二十九日
 ローマ歌劇場来日公演《リゴレット》を観にオーチャード・ホールへ。
 マントヴァ公がフィリアノーティからセッコへ、指揮者がバルトレッティからカンパネッラをへてピロッリへと変更が相次ぎ、それ以外にもさまざまによくない噂が聞こえる公演で、演奏の出来もここまでは不調と話に聞いていたが、行ってみたらジルダ役のメイの澄明な、漂うような歌声を聴けたので満足。
 面白かったのはカーテンコールで指揮者が登場したとき。客席は静かな拍手だったのにピットからは歓声と喝采が上がり、さらに足を踏みならすドドドドという音も地鳴りのように響いた。楽員たちは満足したらしい。

十月一日
 福岡で酒気帯び運転の公務員が引き起こした悲惨な交通事故以来、各地で飲酒運転が摘発され、公職者の場合はさかんに報道されている。
 警察が取り締まりを強化したのか、マスコミが細かく報じているからなのか、毎日何かしらその話題がニュースに登場する。たしかに飲酒しての運転は非常な危険行為であり、してはならないことだし、社会的に許されることではない。
 今のわたしのように仕事でも私用でも自動車や自転車を運転する必要が日常生活においてまったくなく、電車と徒歩で事足りる人間が、飲酒などの危険運転行為を非難するのはたやすい。良心に何のやましさも感じない。
 だが、十年ほど前まで地方都市で仕事していた頃を思い出すと、東京と地方都市では、まったく事情が異なっていることをどうしても意識する。
 各地を転々としたけれど、その中で長く――一か月からときには二年近く――滞在したのは、埼玉の川越に始まって山梨の塩山、静岡の富士宮や三島、群馬の太田や前橋、栃木の佐野などだった。
 土日以外の平日をそうした町で暮らしていたのだが、東京育ちの人間が戸惑ったのは、とにかく車がなければ仕事も日常生活もまともに出来ないことだった。歩ける範囲にあるものなど、わずかしかない。それに道路の構造が車主体にできているから、徒歩や自転車では動きにくい。現代の地方生活者は、東京で働く人よりも歩かないので足腰が弱いといわれるが、それも当然だと思った。
 ああいう生活環境では、飲酒運転の撲滅などかなり難しいと思う。道路整備と自動車関係の産業、というか車社会が地方経済の駆動力となっている部分も大きいわけで、それを変えていくのは生易しいことではない。

十月三日
 長野県の別所温泉へ一泊旅行。東京駅から上田まで長野新幹線で行き、そこから上田交通別所線というローカル線に乗り換えて着く。
 それにしても長野新幹線は「あさま」なんて、どうしてあまり速そうでない名前なのだろう。信州には特殊な風の名前とかはないのだろうか。
 群馬を抜けていくのだから、上州名物「からっ風」とか「赤城おろし」とか、「つむじ風」とかにする手もあるだろうに。まあ特急「つむじ風」なんて名前だと、すぐ客を置去りにして発車したり、車内でスリが多発したりしそうな気もしないではないが。
 去年、ほぼ七、八年ぶりに訪れた松本がとてもさびれたというか、何かすすけた印象になっていたのに較べると、上田は小さいが全体に明るい。長野の交通のメインルートが、東側の新幹線沿いに片寄ってきたためだろうか。
 真田氏ゆかりの上田城址を見学。途中にあったいくつかの公共施設が、昭和四十年代風の建築様式なのが嬉しい。上田観光会館というのに入ったら、ニスか何かが混じった室内の匂いがわたしの小学校とそっくりで、ひどく懐かしい気分になる。色よりも音よりも、香りが過去の空気を鮮やかに甦えらせることがあるのは、いつもながらに不思議。
 別所温泉での旅館「花屋」は昭和二十年代頃までの様式の洒落た日本建築で、各部屋は長い渡り廊下で結ばれた、独立の離れになっている。部屋には内風呂がついていて、浴槽にはかけ流しの温泉が常時ためられている。つまりお湯を入れたり流したりする必要がなく、大浴場同様に、入りたいときに入れるのである。そのぶん大浴場の設備はイマイチだが、内風呂の気楽さと快適さで充分に満足。
 惜しいのは、隣の離れが目に入るのを避けるためか、庭木が多くて視界が狭いこと。信州の夕暮れの景色がなぜか昔から大好きなのだが、そのために今回は味わえなかった。食事はかなり美味。信州にふさわしく、味噌の扱いがうまい。

十月四日
 別所温泉の北向観音や三重塔など見学してからゆっくり帰ると、もう夕方。
 日経の評を書くために、すみだトリフォニーホールへヴァンスカ指揮のラハティ交響楽団演奏会を聴きに行く。ラウタヴァーラの交響曲第七番など、日本ではこの日限りの特別プログラム。
 終演後はネット仲間と台湾料理店へ。

十月五日
 気がつけば今年は野球の当たり年。
 春のWBCに始まって、夏の甲子園も盛り上がり、プロ野球もパ・リーグは上位三チームが大接戦で、プレーオフの結果でどこが最終的に優勝しようと、これなら恥ずかしくないだろう。
 セ・リーグも「新庄効果」の余波なのか、阪神が踏んばって盛りあげている。中日がかなり有利なのは疑いないが、できるなら甲子園で花道を飾る新庄を見てみたい。むしろ中日は、落合監督の去就をめぐる暗闘の方が凄まじそうだ。
 サッカーの方が、W杯もそれ以後も、世界との遥かな距離、文化の違いを見せつけられる年となっただけに、野球のもたらす安心感、一種の帰属感が心地よいのかも知れない。ラグビーに続いてサッカーも、厳しい局面を迎えることになる予感もするが、どうにか踏みとどまってほしいものだ。とりあえずは、オシムが意欲を失なわずに続けられるような結果を出すことか。
 野球は巨人一極支配の終わりと、プロ出身者がアマ指導の場に戻ることによって、新たな時代に入りそうな気がする。学校教育にもう一つ馴染まない相撲とは対照的に、学校のクラブ活動と強く結びつくことで発達普及してきた野球が、アマとプロで断絶していたのは自滅行為だったはずだが、その回り道はようやく解消しつつある。
 それにしても巨人は、どうなることやら。一時期「ベースボール」と「野球」の差を玉木正之などが指摘していたけれど、野茂やイチロー、松井のMLBでの活躍によって、そうした声は聞こえなくなった。しかしあるいは未だに「野球」をやっている唯一のプロ球団――選手よりも関係者――が、巨人なのかも。
 来年、テレビ中継が激減して巨人の体制改革が否応なく始まり、おんぶにだっこのセ・リーグ数球団の再編成が行なわれたとき、プロ野球は初めて二十一世紀を迎えるのだろう。ひょっとするとMLBの下部組織化になりかねないが、そうならない道も必ずあるはずだ。

十月七日
 先日国立競技場で観たサッカーが面白かったので、何かないかと探したら、高校とクラブチームの全日本ユースの準決勝があるのを見つけた。そこで第二試合の、滝川第二高校対ガンバ大阪の一戦を観に行く。
 こうして観ると、やっぱりユースとプロの力の圧倒的な差を実感する。プロがピッチ一杯の大きさに一瞬に描いてみせる鮮やかな「線」は、ユースでは描けない。ボールのごく近くでの一対一の局面だけが続くような印象(素人目にそう見えるだけで、実際には「線」はあるのだろうけれど)。攻撃陣が敵ゴール前に一斉に殺到してくるときの、地鳴りのするような迫力もない。さらに、プロはここぞというときの瞬発力、もう一段の加速力を持つが、ユースにはない。
 それはそれとして、広い観客席すべてをうろうろと歩きまわれるので参考になった。メインスタンドはやはり快適だ。
 クラブチームは応援がとても少ないのでかわいそう。高校チームが正月の選手権で味わうだろう勝負の感激もかれらにはない。でも、世界のサッカーではユースなどプロへの準備段階にすぎないのだから、個々の技術を磨けばそれでいい、ということか。
 学校教育と縁の深い野球、閉鎖的な部屋制の相撲、地域的なクラブ機構によるサッカー。基盤が違うのは面白い。
 試合の方は意外にも、不利と見られた滝川第二が二対一で勝った。

十月十日
 ミュージックバードにてスペシャル・セレクション収録。矢澤孝樹さんの台本で「イギリス・バロック紀行」(十二月二十五日~三十日放送予定)。
 収録後に矢澤さんは続けて田中美登里さんの「クラシック自由時間」(十月二十九日放送予定)に出演されるので、合間に三人で昼食。
 矢澤さんは「テッちゃん」である。テッちゃんとは、鉄道オタクを指す言葉だ――クラオタの場合はクラちゃんとか、オペちゃんとか呼ばれたりしない。可愛げがないせいか。
 三十~四十代のクラシック好きは、鉄道マニアやミリタリー・マニア(というか戦争映画マニア)を兼ねているケースが多い。わたしは後者だし、満津岡信育さんはたしか三種兼業で、そして矢澤さんは前者なのである。
 というわけで、先日わたしが乗った上田交通(鉄道ではなく交通だそうだ)別所線など、鉄道話でもりあがる。しかし矢澤さんの場合、別所線の電車には乗ったが、別所ばかりか上田でさえ駅の外に出たことがないというあたりが、テッちゃんのテッちゃんたる所以である。
 さらに矢澤さんは新婚旅行で能登半島に行った際、二十五回だか二十七回だか乗り換えるルート(!)を考案して奥方に喜んでもらおうとしたが、結果はただうんざりされただけだったそうだ。奥さんは「テツコ」ではなかったのである。
 オタク男児たる者、女性を相手にして多かれ少なかれ似たような経験をしているだろうが、ここまでのは珍しいかも。可笑しいが、一事に対して真摯に没入する矢澤さんらしい話だ。
 「センクラ」で仙台へ行かれた田中さんから非常な盛況ぶりを伺うが、これもいつのまにか、水戸経由で仙台へ行くローカル線の話に変わっていた(苦笑)。

 渋谷のレコード店に回って、前から気になっていながら買わなかった、アルファ・レーベルのカフェ・ツィマーマンの『バッハ さまざまな楽器による協奏曲集』第三巻を購入。
 わたしはいかにもおしゃれ、いかにもセンスよさげな商品、というのが苦手である。八〇年代セゾン文化の「おいしい生活」に腰がひけて以来、敬遠するクセがある。六本木WAVEも開店後一年くらいは行こうとしなかった。
 別にアマノジャクというほどの強い意志や自己顕示欲があるわけでもなく、ほとぼりがさめて新奇性が薄れたころになると、買いまくったり通いつめたりするわけだから、典型的な「奥手オタク」の一人というに過ぎない。
 そういうわけで、アルファの紙帯のつくりや文面がぷんぷんと発する「これを買うのはセンスのいい人ですよ、人より優れたアンテナの持ち主ですよ」――真実かどうかは別として――的な臭いがどうも苦手で買えなかったのだが、先日ベートーヴェンのピアノ協奏曲(九月二十六日の項参照)に手を出したことでブレーキが外れ、カフェ・ツィマーマンも買えるようになったのだ。
 これはもっと早く聴くべきだった。ふわっとした呼吸感、柔らかい響きとリズムの軽やかな弾力がたまらない。堅苦しくなく、しかも崩れていないバッハ。ユングヘーネルよりもずっと肩の力が抜けているが、それは宗教曲ならぬ世俗曲だから当然だろう。
 五月にクイケン一家の演奏会をオペラシティで聴いたさい、全体に生彩を欠く中で一人だけ輝いていたのが、オーボエ・ダモーレのパトリック・ボージローだった。この第三巻ではそのボージローが参加して、チェンバロ協奏曲第二番の独奏をオーボエ・ダモーレ用に編曲した版を吹いている。それで第三巻を買ってきたのだが、この出来ならボージローにこだわらず、カフェ・ツィマーマンの他の盤も買わねばなるまい。うう、奥手オタクの虫が騒ぎだしてしまった。

十月十一日
 有楽町へ映画『夜のピクニック』を観に行く。やはり原作と映画は別物。
 進学校の高校生ならではの「恋」――好き、という感情や思い込みも含めて――が不成就に終わる確率の高さと、それゆえの甘美な記憶(現役の高校生がそれを感じるはずはないから、かれらの予感や伝聞として語られる)が、原作では登場人物の述懐として随所で語られるが、そうした内面に映画は目を向けない。
 異母きょうだいの不即不離の距離感の自覚、という物語のテーマも、恋愛のようで恋愛ではないというその自覚が、受験前の恋の不成就性と、しかし消えることのない記憶――卒業後何年たっても、同級生が互いに抱く微妙な親近感――とに結びつき、それらを象徴しているのだとわたしは思うが、映画では象徴性のない、恋愛感情とは無関係の特殊な事件として単純化される。
 「読者それぞれの共感を誘う」点に特長のある恩田陸のノスタルジーは、映像という直接的具体的なイメージを持つ映画メディアでは、活かしようがない。
 しかしその具象性の限界を逆手にとって、恩田陸の母校である水戸一高や、舞台となる水戸周辺の風景を見せたのは面白い(カメラワークの広がりと想像力はもう一つだが)。
 原作は日本のどことも書いていないのだが、映画はかえってさかのぼる形で、そのモデルを故意に顕示しているのだ。学生エキストラや撮影協力を得やすくするための製作上の工夫だろうが、それはそれとして、映画の景色を頭に浮かべながら、あらためて原作を読み直すという楽しみができた。
 ついでにいえば『六番目の小夜子』の舞台となった学校も、水戸一高の景色そのままだというから、映像の記憶が鮮やかなうちに、あれも読み直してみよう。

 映画開始前の予告編で、イーストウッドの硫黄島二部作をやっていた。これは劇場の大画面で観なければと決意する。

十月十二日
 カフェ・ツィマーマンのリュリとダングルベールの作品集を購入。
 アンサンブルのメンバーであるセリーヌ・フリッシュが弾くダングルベールの独奏曲がとても気に入り、今度はフリッシュのゴールトベルク変奏曲のCDも欲しくなる。オタクの連鎖爆発現象、止まらず。嗚呼。

十月十三日
 一九六〇年オタ話。
 一九六〇年録音のCDやDVDには、いまなお初CD化のものや、再発盤で詳細な日付が判明したりするものがある。ネットでそれを知るのに重宝するのが、イギリスのショップ「Crotchet」のサイト。「一九六〇」でサーチするとけっこう未知の新譜が引っかかるので、定期的に巡回することにしている。
 今日もそれをやっていたら新発見。コヴェント・ガーデン歌劇場が出したヒストリカル・シリーズのサザランドの《ルチア》には、最後に四分ほどのインタヴューがついている。CD自体にはそれについての情報、つまり日付やインタヴュアーの名前は一切出ていないのだが、前述のサイトには「一九六〇年八月二十八日」という日付(録音日とあるが、おそらくは放送日)と、聞き手の名前がちゃんと載っていた。
 自分の手元にあるCDが「一九六〇年物」であることを、ネットから教えられる不思議。検索すると、MDTのサイトにさらに詳しい情報が載っていた。どうやらイギリスでは、このCDに関する情報が別に出回っていたらしい。

十月十四日
 招待券をいただいたので、オーチャードホールにモンゴル国立馬頭琴交響楽団の演奏会を聴きに行く。
 馬頭琴というのはヴァイオリンや胡弓などと同じく擦弦楽器である。弓でこすって音を出す点でヴァイオリンに近いことを活かして、モンゴル風の琴の他に、チェロやコントラバス、フルート、打楽器など西洋式の楽器を加えて「シンフォニー・オーケストラ」としたもの。
 太鼓や笛、ラッパなどの民族楽器はモンゴルにもありそうな気がするのだが、馬頭琴と琴だけに抑えて――コントラバスの箱は馬頭琴型なのだが、これは伝統的なものではないらしく、あくまで「コントラバス」と表記されている――西洋色を強めている。その響きと、旧ソ連の影響が残っているらしいモンゴルの作曲家たちの音楽は、とても折衷的な、冷戦期の中国やソ連のラジオ放送で耳にしたようなものになっていた。正直いうと、数曲聴くと集中しにくくなってくる。
 でも、ナマでホーミーの玄妙な響きが聴けたのは貴重な体験だった。

十月十七日
 池袋にて、宇野功芳さんと早稲田大学音楽同攻会の学生四人、計六人で会合。
 十一月二十八日午後五時から、早大学生会館で行なう講演会(参加自由)の内容の打合せ。滞りなくまとまる。
 新しい学生会館というのは旧第一学生会館や第二学生会館の跡地なのかと思っていたら、戸山の文学部近くらしい。昔の体育館のグラウンドの向こう、「アッシャー家」と我々が勝手に呼んでいた崖の上の洋館――映画版『アッシャー家の崩壊』の屋敷に似ていたのだ――とか、七三一石井部隊がいたあたりなのか。一度下見しないと、見当もつかない。
 それにしても、あらゆる校舎を一片の感傷もなく、様式的統一感も一切なしに壊しては建てかえてしまうこんな大学は、世界にも珍しいのではないか。

十月十八日
 某悪所から購入したベーム指揮の《アイーダ》全曲CD‐Rが到着。
 一九六一年のベルリン・ドイツ・オペラの開場記念公演シリーズの一環で演奏された、ドイツ語訳詞上演。ライヴ・テープなどのカタログでも、いままで見たことがなかったもの。

アイーダ グローリア・デイヴィ
アムネリス クリスタ・ルートヴィヒ
ラダメス ジェス・トーマス
アモナスロ ヴァルター・ベリー
ランフィス ヨーゼフ・グラインドル
エジプト王 トミスラフ・ネラリッチ
尼僧 ジークリンデ・ヴァーグナー
使者 ドナルド・グローブ

 アイーダをグリュンマーにでも変えれば、そのまま《ローエングリン》がやれる主役陣。主役二人がアメリカ人というのは、いかにもこの頃のドイツの歌劇場らしい。デイヴィは短命な芸歴だったらしいが、ここでの声は張りと力強さがあっていい。もちろん自らの肉体の若さにまかせた歌いかただから、それゆえに短命だったのだろうが。グラインドルのランフィスは、私のようなグラインドル好きにはたまらないご馳走。ベリーもアモナスロのような悪漢役はじつに上手い。ドイツ語訳詞なので歌手たちの響きに一種の「翳」が生じるのも、かれらの個性を引き出す結果となっている。
 しかし演奏の鍵を握るのはベームの指揮で、集中力と緊張感にみちた、筋肉質のもの。個人的には彼のモーツァルトやワーグナーよりも好み。その点、ショルティに似ている。ベームはやはり、新即物主義の時代に育った人物なのだ。
 第三幕のアイーダとアモナスロの二重唱での激情の大波はお見事。ここが全曲の白眉だった。
 音質も当時の水準並みで、しっかりしていて聴きやすかったが、第四幕はやや不安定。しかしこれは、もっとちゃんとしたソースで聴けば違うだろう。
 可能なら音声だけでなく、映像も観たかった。なにしろヴィーラント・ヴァーグナー演出なのである。
 エゴン・ゼーフェルナーの回想録によると「エジプトの王様は、暑いさかりの日中に凱旋行進をするほどバカではなかろう」というヴィーラントの考え――この当時のエジプトはまだ緑が残っていたのではないかと思うが――で、場面はもっぱら夜の設定だったという。
 こけら落とし公演の《ドン・ジョヴァンニ》は映像が残っているが、こちらはないのだろうか。真っ暗すぎて、当時の技術ではまともに録画できなかったような気もするが。

十月十九日
 音楽之友社にて『レコード芸術』のためにオルフェオ・レーベルのクリスティアーヌ・デランクさんにインタヴュー。
 職名をたずねると、英語で言う「マネージング・ディレクター」だという。イギリス風に硬く訳せば業務執行取締役、アメリカ風に口語的に訳せば常務、というところだが、お名刺には「ゲシェフツフューレリン」とある。
「おお、フューラー!」などと反応すると大変なことになりそうなので、ここは我慢。
 レコード店を視察するために秋葉原へ行き、なんとメイド喫茶にも案内されたという。後学のために詳しく聞いてみたかったが、どう考えても『レコ芸』には掲載できないので、これも我慢。

十月二十二日
 肝心要の関が原前夜というのに、大河ドラマ『功名が辻』が面白くない。秀吉が死んだ回からずっとである。
 大河は終盤に失速するのが珍しくないとはいえ、ちょっと極端な気がする。石田三成がまるで描かれないのは、橋之助が他の仕事で忙しいからか。三成も家康も描写不足のため、大状況がまったく見えない。出てくるかと思った黒田長政も出てこない。こここそ主人公たちを狂言回しに抑えてかれらをメインにしなければいけないのに、まるで『利家とまつ』のような、山内家中ばかりのホームドラマと化している。
 こんなのだったら「義か利か」などという小賢しい選択はさせずに、原作どおりもっとあっけらかんと、家康へ味方させればよかったのに。信長以来の尾張・美濃の衆は、秀吉の子飼いも含めてみな家康につき、西国など地生えの大名だけが三成の味方になっていることを強調すれば、別にホームドラマだってかまわなかったはずだ。
 唐沢寿明やら嶋田久作やら「引っ越しのサカイ」やらが小手先的なゲストで毎回出てくるところを見ると、予算が尽きたわけではないのだろう。
 演出も冴えないが、何より脚本家が疲れてしまったのか。自分で伏線を張った山内康豊の細川ガラシャへの秘めた思いも、ほとんど活かされずじまい。

 結局、TBS版『関ヶ原』DVDをまた引っぱりだして憂さを晴らすことに。「団菊爺」になりたくはないが、ちょうど二十五年前放送のこの六時間(放映時はCM入りで七時間)ドラマは面白い。キャストが隅々まで掛け値なし豪華(間違いなく空前絶後)で、役者も裏方もワクワクしながらつくっているのがよくわかるから、何度観ても飽きない。これほどの歴史ドラマを民放が作ってみせたのは今から思えば驚きだが、これが「ドラマのTBS」の実力だったのだ。千秋実演じる山内一豊と角野卓造の堀尾忠氏のコンビも、最高。

十月二十四日
 楽しみにしていた、一九八二年バイロイト音楽祭のDVD《ローエングリン》を買って観る。
 一九八三年にNHK教育で放映されたとき、満月を背にしたローエングリンの影が浮かび上がる、登場の場面が大好きだったからだ――そのあとの晩秋に相模湾沿いの国道一三四号線を夜中に野郎ばかり三人でドライブしたとき、降りた海岸で見た眩しいほどに明るい満月と、その月光にきらめく波頭がこの場面にそっくりで、背筋がゾクゾクするほどに感激したことがある。
 しかし残念ながら、画質がイマイチ。その前年の『関ヶ原』の画像と較べるまでもなく、もう少しきちんとリマスタリングしてもらいたかった。

十月二十五日
 風邪を引く。寝込むような風邪を一年に二度も引くなんて、今までなかったこと。身体が衰えてきたか。
 夜に国立競技場でU21の対中国戦があり、売れていない――つまり空いている――というので心が少し揺れるが、新国立劇場の『イドメネオ』へ。評は日経新聞の紙面にゆずるとして、休憩が二回になっていたのはよかった。

十月二十六日
 日本シリーズは、四勝一敗であっさり日本ハム。
 新庄剛志の引退は、さまざまな意味で中田英寿のそれと対照的で、この二つが同じ年に起きたのは実に面白い――発表の仕方、チーム内の立場、その結果、などなど。しかし、シリーズ前後のマスコミ、特にテレビの新庄一人への過度な集中には鼻白む。
 中日は、与那嶺時代以来六度もリーグ優勝しているのに、ずっとシリーズでは負け続け。シリーズ勝率とか、かなり低い順位なのではないか。それにしても、唯一日本一になった一九五四年以外の、六回の優勝をすべて自分が知っていることを思うと、年をとったと実感。

十月三十一日
 神楽坂のレストランで、オヤジ四人の昼フレンチ。割安で美味。
 途中、ある二代目経営者が苦労しているらしいという話が出る。わたしもかつて出来の悪い三代目だった――いまも出来が悪いのは変わっていないが――ことがあるから、他人事とは思えない。
 わたしの場合、ある意味で幸いだったのは、父が早めに亡くなって一人だったため、進退の決断、すなわち廃業と転身の決定を自分でせざるを得なかったことだ。早まったかも知れないし、誤りだったかも知れないが、ともあれ自分自身で決めたことだから、悔いはない。
 従業員の人たちに対する自責の念が消えることはないけれど、それはそれとして、もしあのまま家業を続けられてしまったら、祖父や父が用意してくれたままの、自分で選択することのない人生になったろう。その選択によって、安定した人並みの収入も社会的地位もすべて失ったが、いまのところは、それを悔いてはいない――明日はわからないが。
 ともかく、身の丈に合わない「世襲」は、本人にとっても周囲にとっても不幸なことが多い。働く必要のないほどの不動産世襲とかなら、大歓迎だが(笑)。

十一月一日
 ア・カペラの男声コーラス、ジェンツの演奏会を聴きに東京カテドラルへ。
 教会でのコンサートなので、グレゴリオ聖歌に始まってルネサンス時代の英仏の教会音楽、二十世紀フランスのデュリュフレとプーランクの聖歌に、黒人霊歌と聖歌ばかりをあつめたもの。
 ナマで聴くそのハーモニーは、陶酔的な美しさ。休憩なしで一時間半ぶっ続けだったが、飽きることなどまったくなかった(教会の木の椅子なので、お尻は痛くなったが)。
 ルネサンス聖歌の厳格な響きが続いたあとにデュリュフレの《われらの父よ》が響いた瞬間は、モノトーンの配色から色彩と光の世界に転じて、きらめくステンドグラスが出現したような美しさだった。この一曲こそが白眉だったように思う。おしまいの黒人霊歌では、指揮者ダイクストラ自身も含めたソロを交えて、くつろいだ雰囲気で終わる。
 とても気持ちよかった。翌日はポップ・ソングを第一生命ホールで歌うというので、こちらも聴いてみたくなったが、仕事の関係で断念。あのホールは、往復で時間を喰われるのがつらい。
 終演後、カテドラルからは自宅近くの曙橋まで直通のバスがあるが、好きな気候の時期なので、目白駅まで歩くことにする。途中、田中角栄邸の一部を転用した公園が工事中だった。このほかにも旧山県有朋邸の椿山荘、講談社創業者の野間清治邸を改装した野間記念館、旧細川侯爵邸の和敬塾など、目白通りは偉い人たちの屋敷跡という「記念碑」が並ぶ、面白い道路になっている。
 渋谷のレコード店に回って、デュリュフレの《われらの父よ》が同じ作曲家のレクイエムなどとともに入っているジェンツのCDを購入。それと、突然国内発売されたフォーグラーとロバートソンの『ドヴォルジャークのチェロ協奏曲の秘密』も、応援の気持で買う。
 同時に、カリニャーニ指揮の《メフィストーフェレ》とアルミンク指揮の《大地の歌》を一緒に買う。後者は薄味(一九七〇年代風)に聴こえて、好みとはズレていた。CDの音質のためかも知れない。しかし今後も気にしなければならない存在であることは確か。

十一月四日
 ナクソスの新譜、山田耕筰の長唄交響曲を聴く。昨年十月十五日の日記で触れた東京芸術劇場での演奏会の後に、別会場でセッション録音されたもの。
 貴重な録音だけに、ともあれ発売に感謝するが、邦楽と洋楽の差がきわだたない、オフマイク気味のおとなしめの音質には、もう一つ不満が残る。
 個人的には、もっとオンマイクの生々しい響き――それも昔のデッカ・サウンドみたいな、明確な分離と音場感が両立した、モンタージュされた音響で――で聴きたかった。
 このCDの柔和な響きによって、演奏会で聴いたときの和洋の響きの異様な野合感、雑配感が減じて、聴きやすくなっているのは疑いない。しかしデッカ・サウンドなら、あの野合感をそのままに、忘我の官能へと高めてしまえるかも知れない。その方が、この曲らしい気がしてならない。
 ジョン・カルショーなら、二グループの配置や間隔をどう工夫したろうか。

十一月五日
 ワシントンDCのナショナル交響楽団の創立七十五周年記念アルバムが到着。
 『レコード芸術』の「海外盤試聴記」で満津岡信育さんが取りあげられていたのを見て注文したもの。一九六一年一月十九日、ケネディ大統領就任式前夜の記念演奏会から、国歌とラプソディ・イン・ブルーがハワード・ミッチェルの指揮とアール・ワイルドのピアノで聴ける。
 就任式前夜の記念演奏会としては、練兵場を会場として行なわれたシナトラのプロデュースによるものが有名だ。バーンスタインが自作のファンファーレを指揮して開幕、ベラフォンテやエセル・マーマンなどが歌ったこの演奏会はシナトラのリプリーズ・レーベルがライヴ録音しているが、権利の問題でいまだに正式発売されていない(シナトラの歌う部分だけは出た)。
 ナショナル交響楽団の録音もその演奏会からかと思ったが、そうではないらしい。ポップス畑をこぞったシナトラ版とは別に、クラシックの演奏家たちがコンスティテューション・ホールで行なったもののようだ。この晩のワシントンは猛吹雪で交通がマヒ、大混乱だったそうで、あちこち移動するケネディたちも大変だったことだろう。

十一月六日
 老猫ハナが突然に逝く。
 明け方に様子がおかしくなった。最近歯を気にしていたのでそれが痛みだしたのかと思ったが、ときどき激しく暴れ、目の焦点も合わない。次第にケイレンをくり返すだけになった。
 行きつけの動物病院には夜間診療がなく、代わりの病院を紹介してもらっていたが、電話してみたら留守電が「午前三時まで」と告げるのみ。ネットで調べて新目白通り沿いの中落合にある動物病院に行くことにする。乗ったタクシーの運転手さんが道に詳しくて、その病院を憶えていてくれたので助かる。
 診察してもらい、痛み止めの安定剤や強心剤などを打ってもらう。脳の血管がつまった、つまり脳梗塞とかそんな状態らしい。一時間ほどしてようやくケイレンがやみ、昏睡したように静かになる。
 家へ帰ってから山の神と相談。どうやら回復は難しく、痛み止めと点滴をしてつなぐほかにないらしい。静かに逝ってくれるならいいが、またあの発作が起きて、ひどい苦しみを味あわせる可能性もあるという。それはかわいそうだから安楽死させることも考えるが、医者は焦るなと言う。昼頃ハナは目が覚めたが、うなっているだけ。目も見えないようだ。山の神は所用で午後出かけなくてはならないので、帰宅後の様子で対応を決めることにする。
 午後五時に帰って来た。ハナはうなっているまま。いつもの動物病院にはタクシーで十五分ほどかかるし、連れて行けばどうするか、いよいよ決めなくてはならない。
 ――この状態で毎日病院へ往復させながら、発作に怯えつつ生かし続けるか、安楽死させるか。
 どちらを選んでも悔いが残りそうな苦渋の選択である。それを話していると、ハナが突然身をよじり、二回唸り声を上げて、静かになった――そろそろ痛み止めも切れるはずだし、仕方ないからともかく連れて行こうと二人で立ち上がったとき、山の神が「息をしていない?」とつぶやく。
 確かに絶息していた。

 あと十分もたっていたら、病院へ連れて行くために家を出ていたろう。そして病と死のどちらを選ぶか、わたしたちはもっと悩んでいただろう。
 しかし彼女は長く暮した自宅で、苦い選択をさせずに、いさぎよく逝ってしまった。さらにいえば、山の神が戻ってくるまでは待っていた。その間に死んでいたら、山の神は深く後悔することになったに違いないが、そんなこともさせなかった。
 見事な逝きざま。長い間ありがとう。わたしも見習いたいもの。

十一月七日
 バタバタの中で仕事が遅れ、デッドラインギリギリになる。気がつくとハナの最期が頭に浮かんでいて、涙が出ていたりする。みっともないので気をつけながらミュージック・バードに行き、収録を何とか終える。夜はトッパンホールのアントネッロ公演に行くつもりだったのだが、仕事の残量を見てあきらめる。
 ご招待いただいていたアルケミスタの武田さんに出席不能とメールすると、かえってお気遣いいただき、慰めのお言葉をいただく。
 武田さんは大学こそ違え、サークル時代からの知り合いだが、四半世紀後の今もこの業界でご一緒するとは、当時は夢にも思わなかった。直接の交流がない時期にも間接的なつながりがあって、不即不離の縁のある方である。

十一月八日
 今日も夜は公演がある。
 《レ・パラダン》の楽日で、最前列中央の席が買えてしまったので、どうにかして観に行きたい。ここまで出しておけば間に合うはず、というところまで送って原稿執筆を中断、オーチャードへ向うが四十分遅れ。
 第一幕残りの三十分は、一階最後列で立ち見になる。最後列と最前列、ずいぶんと極端な移動になってしまった。第二幕は指揮者クリスティの真後ろで観る。ヒップホップまでとり入れた現代的な踊りと映像の組み合わせも愉しいが、その舞台へ絶対に媚びずに真摯かつ優美に演奏するオーケストラとの対照が、それぞれの長所をさらに鮮明にする結果になっていた。そこにこの舞台の深さがあるのだが、それだからこそ売りにくい、という気もする。
 帰宅後、残りの原稿を仕上げて送る。

十一月九日
 朝、ハナを荼毘に付すために中野の哲学堂動物霊園へ出向く。
 遺灰にして持ち帰る。不思議なくらいに気分が晴れやかになる。肉体を離れ、ハナが楽になったのだといいが。

 午後は手持ちのCDを撮影するために「レコード芸術」編集部へ。今はスキャンしたジャケットのデータをメールするのが通例だが、リマスタリングの記事だけはパッケージごと撮影しているため、編集部に持っていく必要がある。無駄といえば無駄だが、こういうときがないとメールばかりで編集部の方々と直接に顔を会わす機会が減ってしまうから、ときどきはあった方がいい。

 仕事が一段落という解放感もあって、友社の神楽坂から隣駅の早稲田へ。
 二十八日の講演会場となる新しい学生会館を下見。旧体育局の裏、ホッケーなどのグラウンドがあった場所に建っていた。入り口をわざわざ遠い反対側につけたのは理由があるのだろうが、不便。
 途中、文学部の敷地にも約二十年ぶりに入ってみる。こちらは学生時代と、ほとんど変わっていない。
 周辺の食べ物屋にフランチャイズのチェーンが増えたのは、いかにも時代の流れ。有名なラーメン屋のメルシーとか、別に美味くはないが手頃なのでときどき通った、高田牧舎向かいの尾張屋とか、食堂は昔のままの店があったが、対照的に喫茶店はほぼ全滅していた。構造不況業種なのだろうか。
 法学部八号館は建てかえられている。大隈公の銅像に面した正面は何か威圧的権威的で、私学らしからぬ厭味な印象。反対の南門側の半分は、以前と同じデザインのようだ。こちら側は残して改築しただけなのか、真似て再建したのかはよく調べなかったが、正面側のコンセプトとズレがあって、鵺のようなつくり。
 季節柄、日が短い。四時半過ぎには夕闇が大学をおおう。通行人の数がみるみる減っていく。面白いもので、暗さで視界が限られてきたとたん、白髪頭の四十男であることを忘れて、学生時代の気分が甦ってくる。
 ――今はもうない第二学生会館地下のさびれた食堂で、Bランチのハンバーグ定食を一人で食う。地上へ出ると薄闇と街明かり。道路の向こうの部室には音同の、また学生会館のラウンジにはシミュレーションゲーム研究会の、それぞれの仲間たちがいるはずだ。だが、なぜかどこにも行き場がない気がして、地下鉄の駅に向って歩きだす。
 そんなときの、独りよがりな疎外感をありありと思いだしながら、学生会館跡地に建つ早稲田タワー前のバス停からバスに乗り、四谷三丁目へ。
 夕闇の中の常世の国から現世へ帰る。

 家に帰ると、生まれてまだ半年の仔猫がいる。この猫がいたお陰で、ずいぶん気持が救われた。数か月だけ交錯した、十八歳の猫と半歳の猫の二つの生。
 会うは別れの初めだけれど、ここで会ったも何かの縁、楽しく暮らせよ。

十一月十日
 さる方のご厚意で、サントリーホールで行なわれた、ウィーン・フィル楽団長ヘルスベルクの講演会を聴きに行く。
 テーマは「来日五十年の歴史」で、一九五六年の初来日以来の五十年間をふり返るもの。そのときの指揮者だったヒンデミットや、今年が記念年のモーツァルト、シューマン、ショスタコーヴィチの室内楽も演奏された。
 話の方で感慨深かったのは、最初の来日に参加したヴィオラ奏者、ヘルムート・ヴァイスがゲストで登場し、当時の思い出を語ったこと。
 この人はウィーン・コンツェルトハウス四重奏団のヴィオラ奏者として知られるエーリヒ・ヴァイスの息子さんで、父子二代でウィーン・フィルのヴィオラ奏者をつとめてきた。初来日にも二人で参加したという。その頃は入団直後だったが数年前に定年となり、今回はエキストラとしての参加らしい。
 二葉の写真が印象的だった。初来日時に全員で広島の慰霊碑に花を捧げている一枚と、三十年後の一九八六年の来日時に、当時のメンバー三人で写真を撮ったもの。そして今回の訪問ではついに一人になり、写真を撮らなかったという。
 初来日が五十二人という縮小編成だったことも現存者が少ない理由の一つなのだろうが、ともかくその歳月の長さを実感させてくれる講演だった。
 演奏の方はコンサートマスターのシュトイデが弾く、ヴィオッティからロゼーが引き継いだ歴史を持つストラディヴァリウスが紹介されたり、大ベテランのクラリネット奏者シュミードルの登場もあったりしたが、疲労が重なったためか、あまり冴えなかった。

十一月十一日
 日経へ評を書くために、アーノンクールとウィーン・フィルのモーツァルト演奏会を聴きにサントリーホールへ行く。
 最後の交響曲を三曲。ヘルムート・ヴァイスも第三十九番と第四十一番で参加していた。曲毎に十五分の休憩をとり、反復も行なうので長大な演奏会となる。六時に始まって、会場を出たのは九時十五分前だった。

十一月十三日
 一昨夜のウィーン・フィル演奏会の評を書き上げる。校正や語句の吟味には少し時間を空けた方がよいので、その間に確認の意味も込めて、アーノンクールとヨーロッパ室内管弦楽団による、モーツァルトの三大交響曲のCDを聴きなおしてみる。一九九一年、作曲家没後二百年記念のライヴ盤である。
 あらためて驚いた。一昨日の実演とまるで違うのである。実演は抑揚、緩急、強弱、バランス、すべてが細かく変化して刺激と示唆に満ちていたのに対し、CDの演奏は無為といってもいいほどに、きわめて普通の演奏なのだ。
 いや、以前からCDは何度も聴いているので演奏自体はよく知っているし、正直言って面白いと思ったことも一度もないから、その印象がさらに強められた、というべきだろう。
 我田引水を承知であえて言えば、CDの十五年前の演奏はまさに荘重様式であり、一昨日の演奏は俊敏様式だった。
 最近のヨーロッパ室内管弦楽団がどんな演奏をしているのか知らないし、また他の人の話で聞くかぎり、アーノンクールの演奏は日によってけっこう違うようだから、一概に決めつけることはできないけれど、この二種の差に限ればそうとしかいいようがない。
 おぼろな記憶だが、ベートーヴェンの合唱幻想曲などが入ったCDは、俊敏風だった気がする。聴きなおしてみようと思う。

 夜は、ノリントン指揮NHK交響楽団を聴きにオペラシティへ。
 同一曲目のNHKホールの定期もあったが、あのホールはどうもと思っていたところ、NTT主催のこのコンサートがあるというので買ってみた。S券五千円と安いのが嬉しい。
 曲目はベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲(独奏は庄司紗矢香)とヴォーン=ウィリアムズの交響曲第五番。
 オーケストラと一緒に、庄司もノンヴィブラート奏法に挑戦している。ノリントンと組む独奏者は大変だ。弓の返しのところなどで音程が不安定になったりもするが、庄司は健闘していたし、カデンツァで自作を用意するなど、意欲的な姿勢は確かだった。
 第二楽章の速めのテンポでの、点と線の響きの交錯の美は、ノリントンの真骨頂だった。オーケストラもとても頑張っていて、特に第二楽章の終わり、庄司が小カデンツァを弾く直前の弦の総奏の、澄みきった響きは本当に美しかった。
 この瞬間、楽員たちが思わず顔を見合わせたようにさえ感じたが、それが事実かどうかはともかくとして、彼ら自身も驚くくらいの響きだったことは確かだと思う。この瞬間を象徴として、楽員たちは互いの音を聴くことに、非常な注意を払っているようだった。この一事だけでも、ノリントンを呼んできた価値があるのではないか。

 後半のヴォーン=ウィリアムズも、澄明な叙情を楽しんだ。音が飽和しやすいこのホールでも聴きやすいのは、ノンヴィブラートの賜物。さすがにこれだけの編成になると、ゴマカシがきかない奏法だけにいくつかアラもあったが、これは仕方のないことだろう。ノリントンはヴォーン=ウィリアムズの交響曲を、ひどい録音(一九九〇年代というのは、音質の暗黒時代だった気がする)で録ったきりだが、マーラーが終わったら、ヘンスラーでCDにしてほしいものだ。
 コンサートマスターは、マロこと篠崎史紀。着席のとき燕尾服の右の尻尾を手ではね上げるのと、喝采に応えるオーケストラにいちいち起立の合図を送るしぐさが目に焼きついた。

十一月十四日
 一九六〇年オタ話。
 日本フィルが渡邉暁雄のライヴ録音集を自主制作で発売する。詳細が発表になったので見てみたが、一九六〇年ものが二種含まれている。
 これでこの箱物を買わざるを得なくなったという金庫番の嘆きと、買う理由と動機づけができたと安心する購入係の喜びとが、心の中に同居している。
 三十代まではとにかく何でも欲しかったけれど、近年はその不可能と不毛を厭わしく思うようになり、「一九六〇年」に関するものだけ限定解除することにしている。記憶の処理と管理力が衰えてきたので、幹と枝葉の区別、優先度の区別を強引につけてしまうことにしたのだ。
 しかし迷妄が消えたわけではない。このセットにもし一九六〇年ものが含まれなかったら、ひどく葛藤したはずだ。よかったよかった…か。

 もう一つ。クロチェットのサイトで新たに発見したライヴ盤が来た。
 音楽ではなく、去年ノーベル文学賞を受けたハロルド・ピンターという作家の『管理人(ザ・ケアテイカー)』なる戯曲の、八月ロンドンでのライヴである。
 映画『大脱走』や『007』の敵役、それに『鷲は舞い降りた』のヒムラー役で大好きな俳優ドナルド・プレゼンスが出ているが、録音はずっとお蔵入りしていて、ようやく今年世に出たという。
 プロデューサーが、のちのビートルズとの仕事で有名なジョージ・マーティンというのが面白い。当時のかれは戯曲のライヴ録音に凝っていたが、上司が発売許可を出さなかったのだそうだ。
 EMIのCFPシリーズは、よくこういう発掘や復活をやった上に、きちんと解説をつけてくれるので、頼もしい。

十一月十六日
 アルファベータにて単行本の打合せ。読みやすさと手頃さを考え、紹介するCDの数をしぼることにする。百とか二百とかが一般的だが、何となく、煩悩の数で百八にしようかと思う。
 帰りがけ、本屋によったら高島俊雄の『水滸伝と日本人』が文庫になっているのを発見し、そうだ、百八は水滸伝の好漢たちの数じゃないかと思い出す。
 『名指揮者列伝』はアリババの盗賊と同じ四十人だったから、こっちは梁山泊でいくのも手かも知れない。
 ところで『水滸伝』、一度きちんと原作を読もうと思いながらさぼっている。入手しやすい吉川幸次郎訳と駒田信二訳のうち、どっちがいいかと思ったら、著者によればいずれも難があるという。
 では何がおすすめかというと、じつは岩波少年文庫の松枝茂夫による編訳が、少年向けに残酷さや色恋の描写を抑えてあるとはいえ、前二者よりも原語版の面白さをよりよく伝えているという。一般の読者ならこれで充分とある。
 岩波少年文庫。わたしにとっては小学生時代の心の友であり、『名探偵カッレくん』や『西遊記』などは部分的に暗記するほどくり返し読んだが、なぜか『水滸伝』は、後半の戦争場面を拾い読みしたきりだ。浪裏白跳張順の討死とか、花和尚魯智深の往生の場面とかは、その緩急と動静の対照が見事な文章をよく憶えているけれど、全部はちゃんと読んでいない。
 こういう「促し」こそ尊ぶべし。岩波少年文庫版をもういちど――三十年ぶりに、そして初めて自分自身の金で――買うことにする。

十一月十九日
 今日は女子マラソン。JR四谷駅に向おうと思ったら新宿通りの交通規制に巻き込まれそうになり、慌てる。隙をぬって、規制にかからない側へ渡る。氷雨の中なのに、けっこう見物人がいた。みんなキューちゃんが目当てらしかった。声援が飛ぶところに通りかかったが、人垣で伴走車の上部しか見えず。
 上野の文化会館小ホールで、大阪から来たコレギウム・ムジクム・テレマンの演奏会を聴く。サイモン・スタンデイジをゲスト・リーダーに、中野振一郎のチェンバロで、ロンドンを訪れた神童モーツァルトの演奏会の再現を試みたもの。
 スタンデイジが入ると、関西版イングリッシュ・コンサートのような、ユーモアと紳士的端正さをもったイギリス風の響きにちゃんとなるのが面白い。
 それにしても古楽演奏の分野ではヨーロッパ各国の個性、というか「らしさ」が、はっきりと出るようになっている。それぞれの国が、「おらが国さ」の作曲家を持っていることが大きいのだろうけれど。
 EC的統合の中で顕著になる民族色。対照的に現代型のオーケストラは、グローバル化の象徴なのか。

 帰ってきてテレビを観ると、高橋尚子が引退はしないという記者会見。昼の人気ぶりを思い出して、人と金をあつめられる存在の、進退の難しさを思う。

十一月二十一日
 朝はミュージック・バードで、スペシャル・セレクション収録。帰宅後、夜はUBSヴェルビエ・フェスティヴァル・オーケストラを聴きにオペラシティへ。
 クラウス・ペーター・フロールの騒々しいだけの指揮はいただけなかったが、前半でモーツァルトとワーグナーを歌ったブリン・ターフェルはさすがだった。
 イギリス語圏の男性歌手にしばしば見られる傾向として、「がなる」ような響きをターフェルも持っており、そこがモーツァルトでは好悪の分かれるところだが、《さまよえるオランダ人》の〈期限は切れた〉での、烈しく雄々しい劇的な表現にはその雷鳴のような響きが見事に合致していた。アンコールはウェールズ民謡に続いて《ドン・ジョヴァンニ》のセレナード。客席に降りて女性客に歌いかけるサーヴィスで湧かせた。

 タワーレコードがグッドオール指揮の《トリスタンとイゾルデ》を十二月六日に発売するという。国内盤はまったく初めての発売であり、海外盤も廃盤になって久しかったから、待望の復活である。グッドオールの真価を広く世に知らしめることのできる、唯一のCDと信じてきたものが甦るのだから嬉しい。
 というわけで、少し前にタワーレコードのサイト広告用の一文を書いた。HMV小僧だったわたしが、タワーのために何か書くのはこれが初めてである。
 せっかくの機会なので『はんぶる』のグッドオール伝「終わりよければ」を自分のサイトに掲載することにする。

十一月二十二日
 夕方『レコード芸術』編集部から電話がくる。
「読者の方から指摘が来たんですが」
まずい出だし。
「特集の文章、ワルターの二人の娘の姉妹の順番が逆だというんですけれど」
 あわてて調べたらご指摘通り。ロッテが姉でグレーテが妹。大ポカだ。
 間違えました。読者の皆さん申し訳ありません。
 少し前も『クラシックジャーナル』で《魔笛》の一九四二年英語版を原語版と間違えたばかり。どういうわけかワルター関連でばかりミスが連発する。
 まるで祟られているみたいだ。いや自分でそう思うことが、さらなるミスを招くのか。お岩稲荷でお祓いしてもらっても、たぶん無理だろうなあ。

十一月二十五日
 早稲田大学エクステンション・センターのオペラ講座を見学に行く。
 池田卓夫さんと片山杜秀さんが日本の創作オペラの歴史について語るもの。面白かった。さ来週は自分の出番である。

 テレビで『氷点』の何度目かのリメイクをやっていた。
 わたしはオリジナルの頃はまだ幼稚園児だったから憶えていないし、再放送も観たことがない。周囲の大人たちから、そのタイトルの響きを聞いた記憶だけである。しかし年上の山の神は夢中になって観ていたそうで、彼女によれば、やはり新珠三千代たちのオリジナルには遠く及ばないという。
 リメイクがオリジナルより落ちるのはいつものことと言ってしまえば、それまでかも知れない。わたしにとって興味深かったのは、昭和四十年前後の旭川の建物を再現していたことだ。
 旭川は、亡くなった大学時代の後輩――『クライバーが讃え、ショルティが恐れた男』のあとがきで触れた、わたしにグッドオールの評伝を贈ってくれたかれ――の故郷なので、数年前に訪れたことがある。
 一泊二日、中心部をうろついたに過ぎないが、その範囲にかぎっては、古い町のはずなのに何と風情のない街並みなのだろう、というのが正直な感想だった。
 一九八〇年代以降の、新しい建物ばかりだったからである。今回のドラマ制作でも、北海道ロケですべて調達できたが「時代」だけは手に入らず、わざわざセットを組んだ、という苦労談が雑誌に載っていた。ということはどうやら市の中心部だけでなく、郊外にも「昔の旭川」は残っていないらしい。
 理由は想像がつく。この極寒と雪の地域で、日本風の華奢な木造建築に住み続けろ、保存しておけ、というのが無理な話なのだ。高度経済成長のもたらした豊かさが地方都市まで波及した一九八〇年代以降に、すべてを建てかえてしまったのは、当然のことなのだろう。
 だから、一九八三年春までこの町で暮らしていた亡友が見たはずの景色とは、だいぶ変わっているようだった。旭川行きの目的は単純な墓参りだけでなく、かれが高校時代に歩いたり立ち寄ったりした街路に我が身を置いてみたい、つまり故郷という、かれの大きな「墓」に詣でたいということだったのだが、そのよすがはほとんど見つからなかった。
 駅に近いビルの地下にあった、東京では見かけなくなったつくりの大きな喫茶店に入って着席したとき、かつて必ず奴はここにきてコーヒーを飲んだ、という確信が根拠もなくわいてきたが、それ一度きりだった。
 『氷点』で再現されたのは、かれが生まれた頃まで時代をさかのぼった旭川だけれども、自分がこの目で見た街よりはかれの故郷に近いような気がして、その点では観た意味があった。

十一月二十六日
 ミューザ所沢へ、ボストリッジの歌う《美しき水車小屋の娘》を聴きに、西武新宿線の航空公園駅まで行く。
 電車に酔う。一時間以内の乗り物に酔うことなどめったにないのだが、体調かそれとも西武線の揺れ方や視界に原因があるのか、頭が重くなって治らない。
 ところで所沢は日本の航空機発祥の地なのだそうで、駅の喫茶店は古い飛行機の名前だった。
 ――そんな名前のフランス製飛行機を買った、徳川何とか大尉とかいう軍人が最初に飛んだんだっけ?
 などと、片隅の記憶をもてあそぼうとしかけたが、店員の一人のふてくされたような接客態度にあきれて、現実に引き戻されてしまう。公演後、所沢駅の近くで食事をしたが、そこの店員のサービスもさえないものだった。想像以上に都心から離れていることを実感する。とはいえさらに北の川越ははるかに洗練されていた記憶があるので、このあたりは歴史の差なのだろう。
 ボストリッジの心を病んだような、激しくも内省的な歌と、ドレイクのピアノは素晴らしかった。
 ホールの内装は、趣味はともかく立派だったが、出入り口やホール脇の通路の幅が妙にせまく、トイレの数が少ないのも気になった。こうした「無駄」にも心を配るかどうかで、ホールの印象はかなり左右される。
 帰りの電車では、ゴルフ帰りの酔っ払い親爺が上石神井で降りるまで、ずっと騒ぎ続けていた。しかもその駅ではゴルフバッグを降ろすためにドアを閉められないようにしてしまい、遅延行為で駅員に注意されていた。
 嗚呼、遙かなる所沢。

十一月二十八日
 午前中はミュージック・バードで「BBCコンサート」の収録。ラトルの一九八〇年代の演奏会を三つ放送したが、中でも一九八九年のバーミンガム市交響楽団とのマーラーの第七番が素晴らしかった。EMIのCDの二年前だが、音もこちらの方がよいと思う。
 ラトルのマーラーではベルリン・フィルの一九八六年の《悲劇的》が出て話題になっているが、バーミンガムのオーケストラの方が鋭敏な反応をしていて、いい感じ。どうもベルリン・フィルのもっさりした響きは個人的に合わない。

 夕方は五時から、早稲田大学の学生会館で宇野功芳さんの講演の聞き役をつとめる。交響曲の中から具体的なポイントを選び、楽譜通りに演奏したものと「実はベートーヴェンはこうしたかったのでは」を斟酌しながら演奏したものを、聴き較べてみる。場合によっていじった方が面白かったり、逆に楽譜通りの方が印象的だったり、さまざまなことこそがベートーヴェン演奏の醍醐味らしい。
 ホールのスピーカーが、おもちゃみたいな音しか出なかったのは残念。まだ新しいはずなのに、普段は演劇などで無茶な使い方をされているからだろうか。
 終了後、宇野さんを交えて音楽同攻会のOB会が開かれる。ところが会費を払ったら文無しになってしまう。しかもパスネットの残金が百円だけということを忘れていた。しかたないので約三キロを歩いて帰る。歩ける距離でよかったが、嗚呼情けなや。

十一月二十九日
 普段より早く起きて、映画『父親たちの星条旗』の第一回上映を観に、有楽町へ行く。
 色目を抑えたモノクロに近い色調と、派手な演出を避けた坦々たる進行によって重いものを残す、期待を裏切らない映画だった。
 大激戦の末に占領した山上に星条旗を掲げるという一つの動作が、印象的な写真として残されたことで、祖国のために闘う無数の兵士たちの存在と行為の「象徴」となり、見た者を鼓舞する。
 しかしその動作自体は、被写体となった兵士たちにとって、必ずしも戦場での勇気を示すものではなかった。旗を掲げたから勝ったのではなく、勝ったことの証明として旗を掲げただけなのだ。弾雨をかいくぐって掲げたわけでもない。すでに敵が沈黙した状況で、静かに行なわれたものなのである。関わった兵士の半数が戦死したのもそのときではなく、その後に続いた戦闘の中だった。
 ところがこの非戦闘行為で「英雄」とされ、戦費集めに利用され、翻弄される生存者たち。死者はまだよい。生きながら英雄とされ、疎外される生者の孤独。
 ヤンキースタジアムの場面が印象的だった。満員のヤンキースタジアムのスタンドから大喝采を浴びるなんて、当時の平凡なアメリカ人にとって、大統領に言葉をかけられるのと同じくらいの、これ以上望み得ない幸福と栄誉だろう。
 出撃前には、自分たちを揶揄する東京ローズの放送を自虐的に聴いていたかれらが、その幸福を二つながらに、納得いかないまま味わうのだ――その東京ローズを聴く場面もとてもよかった。ただし東京ローズについての説明は一切ないので、知らない人が観たら理解不能の場面だろうが。
 ラスト、軍服を脱ぎすてて裸になった兵士たちが硫黄島の海で無心に遊ぶ場面は、長く記憶に残るだろう。
 この映画では戦闘中とその後、さらに大戦後、そして現代など、さまざまな時間が頻繁に交替しながら進むのだが、ここでそれらすべての時間が渾然と混じり合い、審判の日を無邪気に待つ、裸の死者たちの時間が出現する。それは、悲しくも美しい光景だった。

 日本側の兵士を、この映画では顔と名前のある人間として描かなかったのも正解。最前線の兵士たちは、どちらかが武器を捨てないかぎり、敵兵と交流することなどない。ただ殺し合うだけである。しかもここでの日本軍は捕虜を殺し(と米兵たちは思っている)、自らは捕虜となるよりも手榴弾で自決を選ぶ、交流不可能な存在なのだ。
 そういうものと闘う非人間的状況だからこそ、兵士たちは仲間を大切にする。襲ってきた日本兵を躊躇なく刺殺した衛生兵が、その直後に仲間を懸命に治療する場面は象徴的だった。かれに救われている当の負傷兵は、傍らで息絶えた日本兵の顔を、困惑気に見つめる。

 しかし出てこないからこそ、逆に我が日本兵たちへ思いがいく。軍部とマスコミが書きたてて銃後で讃えられる英雄たちは、日本でも支那事変や太平洋戦争の初期にたくさん生まれた――爆弾三勇士や西住戦車長、等々。
 かれらは名誉の戦死を遂げた「軍神」だから、どんなに称揚されようと、またのちにその真偽をめぐる論争が起きようと、本人たちが悩み苦しむことはない。
 だが、例えば訴訟事件になった「百人斬り」の当事者たちなどは、どうだったか。かれらはその報道を証拠として敗戦後、戦犯として処刑された。この事件の真偽の詮索はここでは措くが、報道が生みだした「英雄」が、後で本人にその代償を求めたケースとも考えられる。

 日本編となる『硫黄島からの手紙』も楽しみ。こちらは栗林中将やバロン西、それに「ルーズベルトニ与フル書」という、大統領宛の英語の手紙を懐中にして戦死した市丸海軍少将――この手紙もおそらく『手紙』の一通に含められるのだろう。「鎌倉の頼朝に会って言いたいことがある」と言い放って死んだ平家の猛将、能登守教経を彷彿とさせる逸話だ――など、どうしても英雄視したくなる人々がメインだけに、イーストウッドはどう扱うのか。

 ところで、ジョン・ウェインの『硫黄島の砂』を観ていなかったことに気がついて猛省。同じ題材だし、何しろジョン・ウェインなのだから、イーストウッドは強く意識しているに決まっている。
 『星条旗』ではパリー・ペッパー――『プライベート・ライアン』では神がかった狙撃兵、『61』ではヤンキースの悩める主砲ロジャー・マリスを好演した役者――が演じた軍曹役を、ジョン・ウェインが英雄的にやっているらしい。五百円DVDがあるので買うことにする。

十一月三十日
 新国立劇場の《フィデリオ》を観に行こうと家を出る前に、実相寺昭雄さんの訃報を知る。
 わたしは、年代的には「ウルトラマン世代」の後の方なんだけれども、正直そちらへの関心は人並み以下にとどまる。それより新国立劇場の《神々の黄昏》のときロビーで唯一度お会いして、お話しさせていだいた印象こそが強い。
 初対面の若造相手にも構えずにお話しくださったこと、そして何気なくヤマカズさんの名前を出したら、とても嬉しそうなお顔をされたのをよく憶えている。
 訃報を聞いた日にちょうど新国立劇場に行くというのは偶然だが、感慨があった。
 公演の方は迷走気味だったが…。

十二月二日
 横浜へ行く。
 宇野功芳さんからご招待いただいた、ご自身指揮の女声合唱団アンサンブル・フィオレッティの演奏会を聴きに神奈川県民の小ホールへ行くのが主目的だが、なかなか横浜へ行く機会もないので、ついでに各所を回ることにする。
 電池の残りが少なくなったために目覚ましが鳴らなかったが、さほど遅くならずにすんだ。四谷三丁目から営団で渋谷へ出て乗り換え、東横線の急行で菊名。横浜線に一駅乗って新横浜。
 電車には酔わなかった。やはり西武線は揺れかたが違う気がする。東急の車両はふわりと車体が車輪の上に載っている感じで、揺れがやわらかかった。

 新横浜の駅から十分ほど歩いて、ラーメン博物館到着。
 別段ラーメン・マニアではなく、館内に再現されているという「昭和三十三年の街並み」を観るのが目的だったが、スケールダウンされていることもあり、もう一つぴんと来なかった。
 ただ映画館は、入り口とその先が少し再現してあるだけとはいえ、子供の頃に自由が丘にあったのとそっくりで、ちょっと嬉しかった。これで少し小便臭ければ完璧だが、食い物屋のテーマパークでそれは無理か。
 懐かしさには、視覚よりも嗅覚の方が大きく作用すると思う(だから傑作として有名な『クレヨンしんちゃん』の映画「オトナ帝国の逆襲」が、匂いを懐かしさのポイントにしているのは大正解)。
 土曜日の昼時だったため、各ラーメン店はどこも長い行列で、行列が苦手のわたしは入る気になれず。結局、小学校時代の給食の最高のご馳走、揚げパンと牛乳を買って食べて退散。
 市営地下鉄で関内へ向かい、そこから歩いて神奈川県民の小ホールへ。
 演奏会は昭和前期の流行歌が中心で、『兵隊さんよありがとう』とか『月月火水木金金』とか『燃ゆる大空』などの戦時歌謡も歌われる。
 これらの戦時歌謡の持っている行進曲調のリズムは、コンサート中の適切なアクセントになっていた。より「平和」な後世の作品群には聞かれない、勇壮な生命力があるからである。少年時代の宇野さんを惹きつけたのもその力だろう(よく言われるとおり、その力は昭和三十年代以降、子ども向けドラマやアニメの主題歌の中に生き返り、わたしや前後の世代の少年たちを惹きつけた)。
 しかし『父親たちの星条旗』を観たためか、こうした戦時歌謡とともに硫黄島や南方へ送られた兵士たちが戦い、殺し殺される運命になった過酷さにも思いが行く。また、ラーメン博物館で見たばかりの、燃えやすい木造の家々のことも考えてしまう。兵士たちが守ろうとした祖国の家々は、爆撃に対してあまりに脆弱だった。
 だから戦時歌謡は「有罪」で封印すべきだ、とは思わない。音楽に罪はない。歌というものが持つ危険と魅力の両面性を忘れないためにも、歌い継いでいくべきだろう。そうすれば今後、あるいは同種の歌が出現したとき、その危険に早く気づくことができるかも知れない。歴史の役割の一つはそれである。

 終演後、関内駅から行くときに気になった、横浜開港記念館へ寄り道。
 大正六年建設のここは、昔はまったテレビゲーム『サクラ大戦』に出てくる、大帝国劇場のモデルである。偶然目にしてそのことを思い出した。
 午後四時までの見学時間を十五分ほど過ぎていたが、まだ閉まっていなかったので入る。小規模ながら舞台付のホールがあるなど、ゲームは内部構造までそっくり借りていたことがよくわかる。昼に見たラーメン博物館内の建物もスケールダウンしてあったが、ちょうどそれと似たような縮尺で、ゲーム内の大帝国劇場をふた回り小さくした感じ。うろうろと歩き回って、とても面白かった。

 記念館の向かい側からみなとみらい線に乗り、菊名で東横線特急に乗り換え、自由が丘駅で途中下車。これも予定外だが、四十年近く住んでいた町を、数年ぶりに見たくなったため。歩いてみると、かなり店の変遷が激しい。
 店員が女性だけなので有名な南口の床屋は、前と変わらずにあった。が、全員がサンタクロースの格好をしているのが目に入る。
 コスプレ床屋…。

十二月三日
 先月二十八日の講演会のあと、打ち上げ会場に傘を忘れてしまったので取りに行く。行きはバスにしたが、帰りはまた歩き。
 歩く途中で東京女子医大を通るが、建設中の大型施設の案内板に、女子医大と早稲田大学共同の、融合型施設(用語はうろおぼえ)になると書かれていた。
 早稲田が医学部を欲しがっているのは周知のことだが…。そういえば場所も近い。どうなのだろう。

十二月六日
 夜はオペラシティにスウェーデン放送合唱団を聴きに行く。フォーレとモーツァルトの二大レクイエムの組み合わせ。
 オーケストラではなくオルガン伴奏というのは、正直もったいない。三十人ほどの編成によって精選された、冬の晴空のように澄んだ響き。後半のモーツァルトで初めのソプラノ・パートが引っくり返るという思わぬミスが出て驚いたが、全体としてはやはり素晴らしい。アンコールはお決まりのアヴェ・ヴェルム・コルプス。透明で浮かび上がるようなハーモニーが、まさに天国的だった。
 NHKが収録しており、舞台上の数台の無人カメラが遠隔操作で動く。舞台脇の二階席だったので、その動きがよく見えて楽しい。

十二月八日
 ミュージック・バードにて、スペシャル・セレクションの特別版「2006年レコード・アカデミー賞」を収録。
 今年は《ニーベルングの指環》三本にプロコフィエフの交響曲全集と大物が多く、そのぶんノミネート作品の時間が減ってしまった。しかし大物をまとめてやれるのがミュージック・バードの強みである。
 放送は来年一月一日から六日の予定。

十二月九日
 早稲田大学エクステンション・センターのオペラ講座で話をする。題材はテスタメントのカイルベルト指揮《ニーベルングの指環》三作品について。
 一人で話すと大変だが、講座のまとめ役の池田卓夫さんと一緒なので、楽に進められる。煩雑なCD操作も引き受けてくださった。会場は十四号館(社会科学部)の大教室だったが、先日の学生会館よりも音質が数段いい。機材の差というより、コンディションの差なのだろう。
 それにしてもカイルベルトの《指環》を聴きなおしてあらためて思ったが、この演奏は幕毎でかなり出来の差がある。《ジークフリート》のように後がいいのもあれば、《ワルキューレ》のように前の方がいいものもある。単純なクレッシェンドではなく、デクレッシェンドもあるのだ。想像だが幕間に一時間も休憩があるため、公演全体の連続性が薄いのかも知れない。

十二月十日
 ジョン・ウェインの『硫黄島の砂』を観る。
 一九四九年製作、実戦からわずか四年後の記憶も生々しい時につくられたこの映画、思った以上に深く『父親たちの星条旗』に影響を与えていた。
 主人公の役名はジョン・M・ストライカー軍曹。現実(とイーストウッドの映画)の分隊長、マイク・ストランクをもじったものだろう。名を変えたのはストーリーが創作で実話ではないからか。チェコ移民二世のストランクよりも英語風の響きになっているのが、いかにも当時らしい。
 タラワと硫黄島の戦闘と、その合間の訓練の日々が内容。海兵隊の全面的協力のもと、実写フィルムも挿入されて迫真度満点だが、それはよい。注目すべきはストーリーである。
 ラスト近く、摺鉢山頂部へパトロールに出たストライカーは小隊長から星条旗を渡され、頂上にこれを掲げろと命じられる。ということはやっぱりストライカーはストランクなのか、と一瞬思わせるのだが、しかしかれはなぜかその作業を他の分隊の兵士たちに命じてしまい、自分は座りこんで休憩する。そして部下たちに「最高の気分だ」などと言っていると、縦穴から忍び出た(らしい)日本兵に狙撃されて落命する。つまりかれは、旗を掲げた六人の中の一人ではないことになる。
 その遺体から、部下たちは手紙を発見する。別れた妻と一緒に去ったまま、長いこと手紙もよこさない十才の息子に宛てて書きかけた、未完の手紙である。
 父親と息子、そして手紙。
 いうまでもなく、今回のイーストウッド二部作のキーワードでもある。さらに形容すれば「戦場での父親を知らない息子」と「投函されなかった手紙」。この二点がそれぞれ、五十七年後の二部作のテーマとして受け継がれたのだ。
 『硫黄島の砂』のストーリーは、いかにも当時のハリウッドの流儀に則ったもので、単純。鬼軍曹と一人の新兵との交流が軸となる。
 新兵ピートの父は海兵隊の大佐で、ガダルカナルで戦死したが、ストライカー軍曹とは肝胆相照らす仲だった。だがピートは家庭を顧みない軍人肌の亡父を憎んでおり、ストライカーに対しても、その人格に父の影を見て嫌悪する。
 しかし訓練と激戦を通じてピートは二人を見直し、生まれたばかりの自分の息子に亡父の名前を継がせることにする。そしてストライカーが戦死したあと、その書きかけの手紙を引き継いで、自分が書きあげると誓う。
 そこで星条旗掲揚のシーンになり、ピートはそれを見上げたあと視線を下げ、足元のストライカーの背中(仰向けに倒れたのに、なぜかここだけうつ伏せに変わる)を見る――「父の背中」と、そのシャツに墓碑銘のごとく記された名前。そしてくるりと背を向け、次の戦場へと擂鉢山を下りはじめるピート。
 父祖の遺志を引き継いで星条旗の下に戦おうという強い決意が、勇壮な《海兵隊の歌》が響く中で示される。
 そしてこの決意が、ストライカーと新兵のそれぞれの息子にもきっと力強く受け継がれていくだろうことを、この映画は微塵も疑っていない。

 一方『星条旗』に描かれた父と息子の関係はもっと複雑で、ねじれている。
 星条旗を掲げた兵士の一人だった父親は、除隊後に生まれた息子にはそれを自分から告げることをしなかった。死期迫った父の持ち物を整理していて初めてその事実を知った息子は、当時の関係者をたずね歩き、父と仲間たちの物語を探りだしていかねばならない。
 戦場の非人間的過酷さ、銃後の欺瞞。それらはヴェトナム戦争以降に突然始まったものではないという当然のことが、あらためて明らかにされる。「正義の戦争」とアメリカ人が信じた第二次世界大戦でも、大義の有無とは無関係に兵士たちは苦しみ、すりつぶされていたのだ。
 『星条旗』はまた、『砂』では軽視された「母親」という存在にもスポットを当てている。臀部だけが写った写真を見て「おむつを代えたお尻を見忘れはしないわ」と自分の息子に気がつく母親。彼女たちによって、人の死のもたらす悲しみが深められ、同時に普遍化されている――ただしこの映画が素晴らしいのは、それがお涙頂戴の安手なメロドラマになるのを断固拒否していることだ。
 『星条旗』と『砂』。一緒に観て損はなかった。

 とうとう『新選組!』完全版DVDを中古で購入。ちらっとだけ観たが、横長のワイド版(ハイビジョン用らしい)になっていて、予告編もあるし細かいチャプター分けもしてあるのが嬉しい。古い大河の完全版は予告編なし、チャプターなしの大雑把なつくりが多かったから、さすがに新しいだけある。
 『徳川家康』の完全版もいつか…。でもまずはこれを観なければ。

十二月十一日
 山尾敦史さんのご厚意で招待券をいただき、映画『神童』完成試写会を観に、銀座のヤマハホール――まもなく建て直されるらしいホールへの惜別の意味も兼ねて――へ行く。
 主役(成海璃子&松山ケンイチ)と荻生田宏治監督、ピアニストの三浦友理枝と清塚信也(テレビ版『のだめ』の千秋のピアノ演奏も担当している人)の舞台挨拶つきの、マスコミ向けを兼ねた試写会。なので挨拶撮影の時間もあり。こういうときはカメラ撮影とビデオ撮影のことを「スチルとムービー」と区別することを初めて知る。
 美少女成海璃子と『デスノート』の松山ケンイチに、柄本明や吉田日出子などのキャスト。『新選組!』の柔術師範、甲本雅裕もいる。こういう映画が次々と封切られて、たしかに巷に言われるとおり、今の邦画界には勢いがあるようだ。

 公開前だし、映画自体の評価はこれからご覧になる方々に譲る。ただ、音楽を音楽それ自身で伝える難しさは感じた。マンガという別の媒体を通せば、クラシックがより直接的な画と言葉に置き換えられることで、読者がそれぞれにイメージを創ればいい。テレビの『のだめ』はそのマンガ調、コミック調を活かして、音楽を画と言葉で補強していた。
 マンガの実写化はいま大流行で、しかもかなりの成功を収めている。日本の映像に関わる者たちが上から下までマンガ世代になり、無理にマンガを旧来の映画的手法にあてはめるのではなく、むしろ子供時代からマンガに学んで自らの画面を発想するようになっているから、マンガを自然に実写の画面に置き換えられる――CGや特殊メークはその最大の武器――のかも知れない。
 それに対して、この映画『神童』は遊びなし、粉飾なしの糞真面目。音楽の力で静かに正面突破をしようとしている。だから「日本初の本格クラシック映画」と名打っているのだろう。その意欲は買いたいと思う。
 大ピアニストのリヒテンシュタインを演じるモーガン・フィッシャーというミュージシャンは、イギリス人なのにわざとドイツ訛りの英語で話し、表情と仕種もリヒテルを彷彿とさせて楽しかった。

 夜は、知人のお父上のお通夜に出るために阿佐ヶ谷へ行く。
 学生時代に南口のパールセンターというアーケード街の七夕祭りの警備をアルバイトでやっていたので、南口はよく知っているが北口側はまるで知らない。その北口の住宅街の教会が会場。キリスト教式のお通夜に出るのは初めてだった。
 帰りは懐かしいパールセンターを抜けて、丸ノ内線の南阿佐ヶ谷駅へ。ほぼ二十年ぶりだがパールセンターはあまり変わっていなかった。
 中央線沿線のアーケード街は、地方都市と違って空洞化していないらしい。歩ける距離に人が住んでいることが大きいのだろう。

十二月十二日
 睡眠三時間でミュージック・バードのスペシャル・セレクション収録をどうにか終え、いったん帰宅してから西山まりえのゴルトベルク変奏曲を聴きに行く。
 会場はオペラシティの近江楽堂。前はしょっちゅう通るが、入るのは初めて。ドーム型の小ホール(最大百二十人入るそうだ)で天井が高く、そこにつけられた十字型の切れ込みを通してさらに上方で反響する構造になっているため、音はいいという。
 客席は石を投げれば当たる、というぐらいに知り合いがたくさん。

 西山さんは、最近出たCD――わたしも聴いてとても楽しんだ――が話題の古楽グループ、アントネッロの一員としても活躍している。そこではハープと歌がメインだが今日はチェンバロと、多才ぶりを発揮している。
 ゴルトベルクもおもしろかった。つまびくようなアリアに始まって、音形がうねったり揺らいだり、アイディア満載。第二十五変奏のリュート・ストップ使用も、ランドフスカ好きのわたしなど「待ってました」という感じ。
 都内で全曲を通して弾くのは初めてということだったので、各変奏間のつなぎ方や、解釈自体にもムラがあったとは思うが、そのへんは今後どんどんよくなるだろう。CDも録音されるということなので楽しみ。
 だが寝不足でゴルトベルクを聴くと、満員で次第にぽかぽかと暖まってきたホールのせいもあって、ときどき思念がいつのまにか桃源郷に遊んでしまう。それはとても贅沢で気持のいい「心の逍遙」なのだが、奏者の顔が見える位置に座っていたので、向うからはわからないだろうが、気が引けた。

十二月十三日
 昨日コンサートからの帰りがけに買ってきた、渡邉暁雄と日フィルの二十五枚組セットを開けてみる。アケさんに似つかわしい、全体を柔和な優しさが包んでいるようなセットだ。
 一九五九年からステレオ録音で収録されているのに感心する。当時の文化放送はモノーラルのAMだったが、資料用にステレオ録音していたという。同時期のボストン交響楽団なども定期演奏会のステレオ・ライヴ録音を(放送用でなく)資料用に行ない、アーカイヴズに保存しているが、それと同じことを日本でもやっていたとは驚き。
 アメリカに追いつき追い越せで技術立国を目指した、昭和三十年代の先人たちのけなげな努力と汗も、このセットに入っているのだ。
 その後の日フィルの解散分裂騒動のさい、こうした貴重なテープも産廃として土中に埋められるところだったという。

 ゲーム・ソフトの『ドラゴン・クエスト』の新作が、携帯ゲーム機のDSで発売されることになったと知る。
 数年前からゲーム機の「熱」の中心、炉心は低年齢層を中心とする携帯機へと移っていたが、その時流がいよいよ決定づけられたらしい。
 スーパー・ファミコン時代の最後の方(六作目だったか)を途中で投げ出して以来、『ドラクエ』との縁は切れているが、初期のファミコン時代には人並みに夢中になったものだった。
 だからPS以降の「立体的」な『ドラクエ』は知らないのでそれ以前の印象に過ぎないが、ライバルの『ファイナルファンタジー』が当初から映画的演出を志向していたのに対し、『ドラクエ』の方は箱庭の人形遊び的な雰囲気を持っていたから、携帯機の小画面や限られた性能は、むしろ原点回帰という気がする。
 老眼の気配があるわたしには、携帯ゲーム機などとても無理だが。

十二月十五日
 『硫黄島からの手紙』を観に行く。
 あらゆる意味で、物凄い映画だ。映画の出来も、こんな「日本」映画をアメリカ人の監督が撮ったということも。
 『父親たちの星条旗』は、本作へのプロローグ、予告編に過ぎないとさえ書いてしまおう。
 アカデミー賞の作品賞であれ主演男優賞であれ、こんな日本語しかない映画が取ったら大快挙だろうが――この作品の名声をわかりやすい形で広く残すためにぜひ取ってほしいと願うけれど――アメリカ人にとってこの物語は、意外と理解しやすいかもしれない。
 なぜならこれは、アラモ砦の物語そのものなのだから。
 つまり圧倒的な大軍を引きつけ、孤立無援での全滅を承知で奮闘し、敵に予想外の大損害と日数の浪費を強いた上で陥落する砦と、その守備隊の物語だ。
 栗林中将(渡辺謙)はトラヴィス大佐に、バロン西(伊原剛志)はデイヴィ・クロケットに比定できる(強弁すれば、中村獅童の伊藤がジム・ボウイか?)。
 しかしそこで重要なのは、安手のヒロイズムがまったくないこと。
 栗林に天下国家を一切語らせなかった脚本が、偉大というほかない。栗林は、硫黄島の戦略的位置から導かれる戦術の実行にのみ、全精力を傾ける。
 アメリカ駐在経験のある栗林には、対米戦の無意味と必敗がわかっているはずだ。だがそれを口にすることなく、あくまで「国家の信念と個人の信念にブレはない」という職業軍人の鉄則で自らを律し、生死する。その無理が哀しい。
 凄いのは、優秀な職業軍人であると同時によき家庭人として知られた栗林忠道を史実通りに描きながらも、しかしその家族の姿を画面には映さなかったこと。この冷徹な割り切りが、人でありながら軍人である栗林の悲劇――お涙頂戴でない、真の悲劇――を、感傷なしに厳しく浮き彫りにしている。
 殺し合うことの哀しさ、職業軍人の哀しさ、兵の哀しさ、人として生き抜くことの哀しさ。
 それらが深く強く胸を打つ。

 じつは『父親たちの星条旗』終了後に続けて上映された予告編を観たときは、この作品に対してとても不安をかきたてられていた。
 これは多くの方がわたしと同じ不安を抱かれたらしいが、英語の響きの『星条旗』の後に、力んだ日本語を聞かされた違和感は大きく、『星条旗』が排したはずの、自己満足のヒロイズムに満ちた映画を観せられるのかもという危惧を持たずにいられなかったのだ。
 だが本編はまるで別物だった。力んだ台詞は確かにあるが、それは一部だ。文語調と口語調を自然に併存させていた当時の日本人のしゃべり方を、脚本家はとてもよく研究していると感じた。

「うん、立派な軍人だ」
「私はパン屋でアリマス」
に始まる栗林と兵卒の西郷(二宮和也)との対話の素晴らしさは、しばらく思い出し続けることになるだろう。
 西郷には、不思議な「光」がある。弱っちくていい加減な「ダメ兵隊」に見えて、誰よりも強靱な意志と勇気を持ったかれには、国際人としての平衡感覚を持ちながらも、職業軍人の服を絶対に脱ぎ捨てることのできない栗林やバロン西にはない、生に対する正直さがある。
 バロン西との出会いでさらに磨かれたその正直さは、ついには栗林の軍服の下の人間性を、危うく露出させるほどの強さを得る。その過程も見事だった。
 そして、大本営から栗林への最後の無線(それが何であるかは、あえて書くまい)。観ていて震えが来そうだった。

 あまりに哀しすぎて、もう二度と観たくない。
 二度観ずとも、すでに我が心に刻み込まれている。
 その意味で真の傑作だと思う。

 今回の二部作のテーマの一つは「マス・ヒステリーの中で理性を保てるか否かは、個人の平衡感覚による」ということだと思うが、二本は対になることによっても、平衡を示している。
 『星条旗』のラストは、摺鉢山山頂のアメリカ軍戦没者慰霊碑で終わるが、対して『手紙』は、その脇にある日本側の硫黄島戦没者顕彰碑の場面で始まる。

 碑面の下に、揮毫者として「岸信介」とあるのがひどく印象的だった。

十二月十六日
 『硫黄島からの手紙』追想。
 予想に反して市丸海軍少将の出演場面は少なく、「ルーズベルトニ与フル書」も出てこなかった。
 天下国家を語らないこの映画の栗林の性格を考えれば、テーマの拡散を防ぐためにも、あの逸話をカットするのは当然なのかも知れない。
 映画での手紙は――『硫黄島の砂』と同じように――徹底して家族間の深い情愛を示すものだった。戦場における人間性の証、拠り所と位置づけられていた。
 中でも、死んだ米兵が持っていた母親からの手紙をバロン西が訳して部下たちに読み上げてやる場面は忘れられない。
 水のない硫黄島に闘う兵士たちの心の砂漠を、人間性という水が潤していく感動と、しかしそれがかえってかれらに喉の渇きを思い出させるという、情に溺れさせない厳しさとがそこにあった。

十二月十八日
 ミュージック・バード恒例の年末特番を収録。今回は片山杜秀さんと朝日新聞の吉田純子さん、そしてミュージック・バードの田中美登里さんと私の四人。
 そこで片山さんが持参されてものすごく受けたのが、不気味社のCD『豪快な伝説 伊福部昭先生と不気味社』。
 今年亡くなった伊福部昭の『ゴジラ』などの東宝怪獣映画の音楽を、アカペラの男声合唱で歌ったもの。ゴジラのテーマが「ゴジラ、ゴジラ、ゴジラとメカゴジラ」などと歌詞をつけて歌われる。
 すでに二十枚近く同種のCDがつくられて、コミックマーケットなど同人市場を中心に好評を博しているそうで、全容は別記のURLで知ることができるし、各トラックのサンプルも聴けるから、どんなものかは実際に耳にしてほしい。
 伊福部のSF交響ファンタジーもすべて口三味線というのが凄い。失礼ながら愛すべき大バカ。我慢できずにまず二枚注文してしまう。
不気味社のサイト 

十二月二十二日
 家の近くの喫茶店でタマゴサンドをテイクアウトして食べたら、胃が張ってしょうがない。どうやらタマゴが軽く傷んでいたらしい。
 今年はノロウィルスが大流行で、友人知人あるいはその家族でも罹ったらしい人がたくさんいる。そこまでひどくなくとも、わたしのように傷んだ食べ物に遭遇した人もかなりいる。そういうのも軽いノロなのだろうという人もいる。それは本当かどうか知らないが、いずれにしても東京のように密閉化の進んだ現代建築ばかりの街では、冬も食材が傷む可能性が年々高くなるのだろうし、ましてや今年のような暖冬ならなおさらだろう。
 しかしその喫茶店のタマゴサンド、コンビニのように防腐剤たっぷりのものとは違ってナマに近い点が好きなのだが、それがアダになった。胃が張ったぐらいで済んだから、これからも買って食べるだろうが。
 この店ができる前の話だが、別のチェーン式喫茶店が、傷むのを防ぐためテイクアウトを禁止にしてまで、おいしいタマゴサンドを売っていたことがある。しかしそのうちにテイクアウト可能な、けれどまるで味気ない代物に変えてしまった。まともなタマゴサンドを安く食べられる機会は、次第に減っている。
 現代の子供の中には、コンビニのタマゴサンドしか知らないという子もいるのだろうか。
 だからタマゴサンドなんて不味くて嫌い、と思ってくれるならまだいいが、ああいうものだと思って好んで食べている子がいるとしたら、悲しくて腹立たしい気がする。確かに安価で手軽で、腹を壊すことなどまずないだろうけど。
 録音でも、インターネットの圧縮された冷凍食品的な音質に次第に耳が馴染んでいってしまうのと、同じことなのか。

十二月二十三日
 『クラシックジャーナル』恒例の年間ベストテン座談会と忘年会。
 座談会のメンバーは昨年と同じく、舩木篤也氏と安田寛氏にわたしと司会役の編集長を加えた四人。今年も各人の候補作がほとんど重ならないのが愉快。
 その後の忘年会には執筆仲間の菅原透さんと神沼遼太郎さん、それに吉田真さんが事故で電車が止まったために遅れて参加された。
 神沼さんの本業はお固いお仕事で、しかもかなりのエリートと伺っていた。お会いしてみると、確かにそのお話の端々に頭脳の鋭さを感じる。だが、同時に大阪人ノリの楽しい一面をお持ちの方だった。あとでわたしと同学年らしいと知って、ちょっと驚いたが(笑)。
 この席でもわたしは不気味社の私設応援団と化して、人に推しまくる。

十二月二十九日
 小・中学校の同級生四人による忘年会に誘われ、五人目の珍客として加わる。
 メンバーは元・女子一名と元・男子三名(重松清の『トワイライト』を読んでいる最中なのでこんな呼び方)
 他の四人は数年前からときどき飲んでいるらしいが、わたしは初参加。しかも小中ともにクラスが違っていたのであまり縁がなく、元・男子三名は中学卒業以来の、ほとんど二十八年ぶりの再会。
 しかしすぐに打ち解けられるのが嬉しいところ。それに互いの話題の内容を誤読せず即座に理解しあえる「速度の共有感」は、やはり昔の仲間ならではという気がする。
 小中学の同級生には、それ以降の仲間とはまた違った、独特の親近感と照れくささがある。
 たとえば、料理の注文は友達に任せきりだったが、するとかれが選ぶのが、何というかとても共有感のある食い物なのだ。うまく書けないが、家から学校に持ってきたお弁当のおかずや惣菜がグレードアップしたようなタイプの、いかにも昭和四十年代の東京城南地域の小学生が食べていたものの延長にある、食材と調理法による料理なのだ。だから自分にとっても口に馴染んでいて食べやすいのだが、その共有感が照れくさいのである。
 小学校時代に帰宅方向が一緒で仲のよかった元・男子から、
「そんなによくしゃべる人だったっけ」
と訊かれる。
 自分自身では思ってもいなかったが、子供の頃のわたしはすぐ空想の世界に遊んで教師の話もろくに聞いていなかったし、そのくせ劣等生というプレッシャーは感じていて、居所がどこにもないような意識が強かったから、自分を抑え込んでいたのかも知れない。
 現在の自分の立ち位置、居場所だって砂上の楼閣に過ぎないかも知れないが、たとえ虚像であろうと、あるだけ小学校時代よりはマシだ。
 先に触れた『トワイライト』の、わたしとほぼ同年の主人公たちは、小学生時代のクラス内で得ていたポジションを、社会の中では得られずに苦しんでいる。その点わたしは小学生時代にポジションがなかったぶん、マシな気がする。

 最近、ミクシィ上でも小・中学校の同級生たちと出会い、やはり数十年ぶりの旧交を温めている。忘年会の席でそれを話題にしてみたが、四人ともミクシィという名前さえ知らなかった。
 我々の年代だと、ネットの知識もそれぞれにムラがあることを痛感する。「会員制のブログと掲示板のようなもの」といったって、通常のブログや掲示板の問題点どころか、それ自体にさえ関心のない人たちには想像もつかないだろう。
 かれらの不審げな表情を帰宅後に思い返してみると、どうやら宗教かマルチ商法の勧誘でもやっていると思われたのかも知れない――クラス会などで一番困るのは、久しぶりに会った友人がそうしたものにはまっている場合だ――という気がしてくる。
 まずどこから説明すべきなのかを、わたしは完璧に間違えたようだ。「おしゃべり」になったのはいいとしても、「ひとりよがり」では話にならない。
 やっぱり今も居場所はないのかも…。

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