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二〇〇七年
一月一日
 初詣は昨年同様に地元の須賀神社。
 帰りがけに文化放送の旧社屋の前を通る。解体してマンションに建て直すらしい。
 大型ビルの解体工事というと粉塵や騒音防止のために全面を遮蔽してあるのが普通だが、ここは珍しく建物が丸見えになっている。瓦礫の山の向こうに上階内部の廊下とドアだけが残っているのが見えて、その「残骸」ぶりが凄まじい。
「墓地の上に建てられたので霊が出る」などと言われていたビルだけに雰囲気満点。九龍城か軍艦島か、はたまたベルリン市街戦跡かというような無残な姿。

一月三日
 新宿のレコード店にて「初買」。
 といってもこの時期に新入荷はないから、買い損ねていた盤を落ち穂拾いのように買う。
 ユリア・フィッシャーとクライツベルクによるチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲(ペンタトーン)は予想以上に素晴らしい。これは『クラシックジャーナル』に取り上げようと思う。
 あとはヤン・フォーグラーによるバーバーやコルンゴルトなど、アメリカに渡ったユダヤ人作曲家によるチェロ協奏曲集。ビュルガーのチェロ協奏曲の第二楽章というのが合間に入っているが、濃厚な歌いぶりでこれにいちばん感心。これを全曲聴いてみたい。相方の指揮者はトーマス・ザンデルリンク。
 十一月のボストリッジとの共演で唸らされたピアニスト、ジュリアス・ドレークの(ボストリッジ以外の)歌曲や室内楽のCDも買ったが、これらは期待ほどではなかった。この人、誰かの西郷南州評ではないが、相方が「大きく叩けば大きく鳴り、小さく叩けば小さく鳴ってしまう太鼓」のごとき音楽家なのかも。

一月六日
 近刊の単行本に含める予定の、昔の原稿をチェック。
 一九九一年から九五年まで『レコード芸術』誌のHMVの広告に書いていたコラムの文章で、わたしが今の商売を始めるきっかけになったもの。
 いちばん古いのは十六年前、二十八歳のときの文章だ。なんとまあ挑発的で生意気なこと。「ですます」で書いているのがまた厭味っぽい。各所に「俊敏」という形容が出てくるのに思わず苦笑。本当に進歩がない。
 あまりに過激な表現は抑えつつ、基本的にはそのまま載せるつもり。

 これ以外にもなぜか十二月以降、昔の自分に直面させられる機会が多い。
 大学時代の知人から約二十年ぶりに連絡が来たり(別の大学の人だったのに、早稲田の助教授になっていたのでビックリ)、身体を壊して田舎に帰っている別の人からメールをもらったり。またオンラインとオフの双方で、小中学校時代の友人たちに再会した。
 面白いのは一つの過去ではなく、小中学校、大学、三十歳前後など、さまざまな過去といっぺんに対峙したこと。
 こうなると過去を懐かしむより、ある過去から次の過去への時間の流れを、つまり大げさに言えば自分のこれまでの生きかた全体を回想することになる。そしてその思考は「流れ」なので静止せずに流動して現在へ至り、さらにそれを越えて未来へと進んでいく。
 何だか不思議な正月。

 未来といえば、ヴェトナム在住の大学時代の友人に娘が年末に生れ、さらに小学校時代の友人も四月に娘が生まれるという。この歳になって初めてパパになる奴が二人。時ならぬベビーブーム。しかもどっちも娘。
 男にとって「長女は永遠の恋人」だというが、特に四十代半ばでできた子となると、可愛くてしょうがないだろう。
「パパ・デビュー」の二人に幸多かれ。

一月七日
 昨日、近くの四谷二丁目で飛び降りがあったらしい。マンションの八階から飛び降りた四十九歳の男性が下にいたバイク便の若者(二十二歳)に命中して、二人とも大怪我をしたという。
 場所はどこなのかと思ったら「まちBBS東京二十三区掲示板」にちゃんと出ていた(2ちゃんねる系の匿名形式なので鵜呑みにするのは危険だが、ご近所の噂話などを知るには便利。昔住んでいた町の近況などもわかる)。
 新宿通り沿いの安売りスーパーのあるビルだそうだ。表通りに面した、通行人のとても多い場所で、わたしも毎日のように歩くところだ。物見高さを発揮して行ってみると、あった――店の前の歩道にチョークで書かれたヒトガタが。思わず見上げて、飛び降り階の八階(ビル自体は十階ぐらい)を、下から数えてみたりする。
 巻き添えになった若者は本当にかわいそう。

 考えてみると新宿通りは「飛び降り通り」とでもいうか、そうした「名所」がほかにもある。
 現場から四谷三丁目の交差点をはさんでちょうど反対側、新宿側に向った四谷四丁目の交差点には、岡田有希子事件で有名なサンミュージックのビルが二十年後の今も変わらずにある。また皇居方面の麹町には上智大学があって、あそこには「飛び降り連鎖の窓」がある。一人死んだので現場検証やったら、近くの植込からかなり前の飛び降り遺体がもう一つ見つかった、というやつ。
 この事件のはるか前の早稲田の学生時代に、政経学部だかの校舎にやはり「必ずそこから飛び降りる窓」があると、掃除のオバチャンから聞いたことがある。マンガ『うしろの百太郎』の地縛霊話を思いだしてゾッとしたものだが、上智の事件はそれを想起させた。

 ところでこれを書いていて、あの時オバチャンは、なぜあんな話を始めたのだろうということに思いが飛ぶ。
 昼飯を食った後、次の語学まで時間が空き、することもないので最上階のその語学用の小さな教室に先に行って、一人で本を読んでいたのだった。するとオバチャンがゴミ箱を片づけに来て、なぜか話しかけてきて、そういう窓があるんだよ、と教えられたのだ。
 そしてその途端、「ごめんね、いつも余計なことしゃべるって息子にも怒られるんだ」と言い訳して、彼女はそそくさと出て行ってしまった。
 ――なぜあんなに慌てたんだろう。そもそも、なぜあんな話題を出したのか。
 使われていない教室に一人だけ座っている陰気そうな若者を見て、何か不吉なものを感じて話しかけてみたものの、つい話題がそっちへ行ってしまい、慌てたのか。それとも慌てるほどに、その話を聞いた男(わたし)の顔つきが暗く変わったのか。

 うまく使えば小説の発端になりそうな話だが、わたしにその才能はない…。


一月九日
 「BBCコンサート」を収録後、ミュージックバードのスタッフと有楽町の東京国際フォーラムを訪ね、事務局で今年の「フォル・ジュルネ」の予定などを聞かせてもらう。
 帰りにレコード店に寄って、注目しているフォルテピアノ奏者、スホーンデルヴルトがテノールのハンス・イェルク・マンメルと組んだシューベルトの《冬の旅》(ALPHA)を購入。
 早速聴いてみる。素晴らしい。スホーンデルヴルトは数あるフォルテピアノ奏者のなかでも、自分の感性にいちばん合っている演奏家と思える。

一月十一日
 年末から新年にかけ、バラバラ殺人事件が二つ起きる。
 とても似ている。郊外のいわゆる「国道十六号線型犯罪」ではなく、山の手地域の経済的に豊かな家庭の中での犯罪。損得の判断力をまったく失っているという意味では衝動的なのに、バラバラにするという事後の行為は入念で執念深い。人目から隠すためではなく、自分の目から見えなくするためなのか。内へ向かっていく巨大なエネルギー。
 桐野夏生の『out』を読んでみたくなる。

一月十九日
 今日収録のミュージックバードの『クラシック自由時間』で、三月四日に紀尾井ホールで開かれる「伊福部昭音楽祭」が紹介される。
 番組ゲストとして片山杜秀さんと不気味社(昨年十二月十八日の当日記参照)の「音楽応用解析研究所大所長」の八尋建生さんが来られるというので、傍聴人としてスタジオの隅に座らせてもらう。
 あの強烈な不気味社の編曲を引き受けておられる八尋さん――話しぶりはいたって丁寧な、温和な方である――とともに「ご神体」(同社のジャケットなどに写っている、例のアレ)も出現し、楽しい二時間を過ごす。
 八尋さんも片山さんもこのわたしも、物心つくかつかないうちにテレビや映画館で東宝怪獣映画の伊福部サウンドに心を揺り動かされ、刷り込みを受けた世代である。その刷り込みの「琴線」に触れてくるのが、男声合唱による編曲版の不気味社サウンドの魅力なのだろう。

一月二十日
 『レコード芸術』二月号の神田のレコード店「ハーモニー」の広告に、「高齢のため神田店は二月末で閉店しまして、三月からは通信販売で営業いたします」と出ていた。
 「ハーモニー」は、わたしが大学時代にレコード店巡りをしていた時期そのままの店舗を残す、おそらく唯一最後の店だ。一、二年前に行ったときも、二十余年前から売れることなく並んでいるとしか思えないLPがあったくらい、昔のまんまだった。
 もう一度、眼に焼きつけねば。

 年末にアルファベータの中川さんから教えてもらった、『ミステリマガジン』一月号の石上三登志と大林宣彦の対談をやっと読む。
 話のポイントは、伊福部昭のかの有名な『ゴジラ』メイン・テーマが、その六年前の昭和二十三年の『社長と女店員』(大庭秀雄監督)なる映画の使い回しだった、というもの。ただしピアノ独奏版らしい。その後さらに二十五年の『蜘蛛の街』(鈴木英夫)でも、アレンジして使っているという。
 『社長と女店員』は伊福部の映画六作目なので、おそらくこれがこのテーマの初出らしい。対談では、伊福部が『ゴジラ』に触れられるのを長く嫌っていたことの背景に、この問題があったのではと推定されている。その推定が正しいかどうかはともかく、わたしにはロッシーニみたいで微笑ましい。

一月二十二日
 明日から二十七日までパリに行くことになったが、搭乗便は朝が早い。始発あたりに乗れれば間に合うが、万全を期して今夜の内に成田まで行き、ホテルに前泊する。
 空港近くのホテルはやや古びた大型の今風の建物だが、周囲はただのイナカ。昔関東各地の建設現場にいたときの、宿舎近くの風景を思いだす。向かいのコンビニへ行き、買い忘れた電池式の電気カミソリなどを買う。
 周囲の風景がどんなに違っても、コンビニの中身には都鄙の差がまるでないのが面白い。それにしてもこういう店、パリにはないだろうなあ。

一月二十三日
 午後ド・ゴール空港着。タクシーでパリに入る。車窓から見る近郊の団地風の建物群はけっこう傷んでいて、コンクリの近代建築の風化の早さは、いずこも同じと感じる。二十四年ぶりのパリ。ホテルは凱旋門の近く。近辺を散策すると、レコード・チェーンのFNACがあったので早速覗く。ユーロ高のため日本より割高になるので、何も買わず。
 夜はガルニエ宮に行き、関係者向けの公開ゲネプロを観る。演目は《消えた男の日記》と《青ひげ公の城》の休憩なし二本立て。カタルーニャの演出集団、ラ・フラ・デルス・バウスの演出は映像を用いた幻想的なもので、本水が使用されるクライマックスなど、とても美しかった。しかし時差ボケと飛行機疲れで、ときどき意識を失いそうになる。

一月二十四日
 バスティーユの新オペラ座に行き、昨夜の歌手、演出家たちに終日インタビュー。二十四年前にはまだ影も形もなかった建物だ。しかし開場十七年を経て、やはりどことなく古くさくなっている。周囲の古建築に較べてはるかに若いのに、老いさらばえつつあるのだ。近代建築には、日本人の「建替好き」の方が合っているのかも知れない。
 夜は、時間があればシャトレ座で上演されているスピノジ指揮の《試金石》に行ってみたいと思っていたが、結局動きがとれず断念。

一月二十五日
 朝はガルニエ宮のバックステージ・ツアー。『オペラ座の怪人』の舞台として伝説化されたこの大劇場の上から下まで見せてもらう。大規模な「化粧直し」がしてあるので、二十四年前に観た、豪華だけれどすすけた内装とは面目を一新している。客席空間はけっして大きくない劇場だが、舞台裏と周囲は広大で入り組み、まさしく迷宮。ルルーの小説では、ファントム以外にも多数の闇の住人が棲みついていることになっているが、それが不思議でないほどの隙間やら、小部屋やらが無数にある。
 舞台真下の有名な「池」も見る。とはいえ現物はただの貯水槽で、ファントムが棲むような大きなものではなかった。
 見学後、徒歩でルーヴル博物館へ。一九七四年の来日のとき、はるか上方に眺めただけの「モナリザ」を、初めて間近に観る。夕方はシャンゼリゼを歩いて宿に戻り、《ホフマン物語》を観にバスティーユへ。
 お目当てのビリャソンがキャンセルしてしまい、代役は「東京オペラの森」の《オテロ》以来のロートリッチ君。がっかりしたが、広い舞台を活かしたロバート・カーセンの演出はやはりDVDには入りきらないもので、面白かった。

一月二十六日
 昼はバスティーユにて、総裁のモルティエにインタビュー。
 終了後、現金が乏しくなったので両替しようとしたら、二十四年前と違って街角の両替店がほとんどないことに気がつく。ユーロ導入後、両替客が激減したために閉店していたのだ。現地の知人から少額ならクレジット・カードのキャッシングが手っ取り早いと教えてもらい、それに従う。クレジット・カードのATMがそこら中にあるのは、逆に二十四年前にはなかった光景。
 歩いてサン・ルイ島に渡り、西行してノートルダム寺院(今回のパリはここでだけ、大量の「観光客」を見た)を観たあと、対岸に渡ってオルセー美術館へ。
 この美術館も二十四年前にはまだなかったもの。有名な絵のいくつかには会えなかったが(皮肉にも日本で「オルセー美術館展」が翌二十七日から開かれるためだと、帰国後に知った)駅舎改造という建物が何よりも面白い。
 同行の方から、地階にガルニエ宮を縦割りにした大きな模型があると聞いていたが、なるほど奥行二メートルくらいのデカイのがあった。昨日案内された部屋部屋を確認しながら愉しむ。
 ところで同行の方といえば、海外在住で今回初めてお会いした方から、
「2ちゃんねるにはアナタの酷い評判しか書いてないので、どんな人が来るのかと思った」
という意味のことを――初対面から数日後に――言われた。海外にいる人にとっては、2ちゃんねるのクラシック板も貴重な情報源らしい。
 そう言われても、こちらとしては苦笑するほかない。まあ、そう教えてくれたということは、その評判とは違うと感じていただけたからだろうけれど。

 帰りはパレ・ロワイヤルの前を通る。なぜかチャーチルの石像に出会う。シャンゼリゼに出てヴァージン・メガストアを覗く。目抜き通りだけに在庫がとても多いが、日本盤(千円盤のミュンシュの芸術シリーズとか)が大量に並んでいるのに驚く。
 ミンコフスキ指揮のオッフェンバックのチェロ協奏曲などの一枚が売っていて欲しかったが、どうせすぐ日本で買えるだろうと我慢。TDKのDVDでカーセン演出のザルツブルクの《ばらの騎士》があったが、これも同じ理由で我慢。
 夜はガルニエ宮にて、《青ひげ公》などの初日。二十四年前に観た初日の客席と、客の扮装がまるで違っているのが感慨深い。
 二十四年前の演目《こうもり》の舞台はさびしい出来だったが、舞台上の夜会の客たちを圧倒して光り輝く、客席の淑女たちの姿には驚いたものだった。
 なぜかといえば、当時の日本の東京文化会館などのお客は現在よりずっと地味で、クロークも閉まっていて――サントリーホールの影響でやるようになった――雰囲気が全体に質素だったから、音に聞くパリ・オペラ座初日の、まさに絵に描いたような派手さに打たれたのだ。
 しかし今回のパリの客席には、演目の性格もあるのだろうが、豪華なドレスなどほとんど見かけなかった。黒服の男性も少なかった気がする。そういう意味で地味になった。だが、逆にかつて感じた「よどみ」は消え失せている。
 舞台自体は比較にならないほど充実しているし、オーケストラも上手くなったし、何よりも客席にも熱意がある。パリ全体のそこかしこに感じられた音楽状況の昂揚が、ここにもあった。
 二十四年前のパリと東京より、街の雰囲気の差は格段に小さくなった――よくも悪くもどちらもグローバル化した――ように感じたが、こと創造的な雰囲気となると、東京のクラシック界はまだまだ及ばず、消費地という印象がつよい。

一月二十八日
 パリが濃霧で出発が遅れ、予定より一時間半ほど後で朝の成田に着く。
 トランクは宅急便で送り、成田山新勝寺に寄り道してお参りする。行ったことがないし、こんな機会でないと行けないからである。
 こちらの期待が大きすぎたか、やや拍子抜け。いかにも農村地帯の大寺院で、その質朴さが大味に傾いているように感じられた。成田屋という連想でいえば、当代の団十郎の垢抜けない芸風に通じるものがある。
 しかし、漫画『げんしけん』に出てきた境内の飲食店街などは実見できたのでこの点は満足。
 帰りは京成のスカイライナー。日曜昼なので、老若さまざまの多数の鉄ちゃんたちが、線路傍に三脚を据えて車両を撮影していた。

 家へ着くと、猫が早くもサカリを覚えていて大騒ぎ。旅行がなければ年明けにすぐ避妊手術をさせるつもりだったのだが、手筈が狂ってしまった。
 でもせっかく生まれてきたのだから、一度くらいはサカリを体験するのもよかったのではないかと、個人的には思う。

一月三十日
 二十六日にパリで見かけたミンコフスキのオッフェンバック、予想通り東京のレコード店でも売っていたが、しかし国内盤のみ。
 さらには「日本先行発売」のキャプションを店側で――CD自体にはそうした表記はない――つけていた。
 不思議。ではパリで見た盤は何だったのだろう。「日本先行発売」とは、日本での発売が世界に先駆けているということではなく、単に輸入盤の出荷を国内では遅らせて、「日本盤先行発売」にしているというだけなのか?
 首をひねっていたら、知人からこの盤は、フランス国内だけで十一月に先行発売されたものだと教えられる。しかも、フランスのオンライン・ショップから購入しようとしたら、日本向けには送れないとキャンセルされたそうだ。
 何でもかんでもグローバル化するよりは差異があった方がいいとは思うが、ずいぶん入り組んだ話である。

二月三日
 営団地下鉄の四ツ谷駅構内には、数週間毎にネクタイ屋やら古本屋やらが交代で店を出すスペースがある。今日はDVD屋が出ていて、中古DVDや安売りの五百円盤などを売っていた。
 何気なくのぞいたら、往年のテレビ番組『月光仮面』と『快傑ハリマオ』のDVDシリーズが一枚五百円で売られているのを発見。
 どちらも前に高価なボックス・セットが出ていて、さすがにそれを買う気にはなれなかったけれど、ワンコインなら話は別だ。『ハリマオ』の第一部「魔の城篇」四枚(一クール十三回分)を買う。
 販売元は権利公有の往年の名画などを扱うファースト・トレーディング。なぜ『月光仮面』と『ハリマオ』だけが出ていたのかと思ったら、二本とも同じ宣弘社(現在は宣弘企画)という製作プロの作品であることに気がつく。二本合わせて権利をライセンスしたのだろう。

 両番組とも生まれる前で再放送も観た記憶はないが、『ハリマオ』は以前から小川寛興作曲の主題歌が大好きで、セリフ入りのLPまで持っている。それにわたしにとっては、これが「一九六〇年」四月から放映された番組であることも無視できない要素だ。
 『ハリマオ』は、日本最初のカラーによる連続テレビ映画である点も重要である。全六十五本のうちの最初の五本が試験的にカラー製作されたのだ。放映した日本テレビは、この年秋の日本シリーズ「大毎対大洋」でも日本初のカラー中継を行なっていて、カラー放映に関してはNHKより意欲的だったらしい。
 とはいえ当時の日本ではカラーはまだ実験放送の段階で、本放送はこの年の秋に始まる。しかもよく知られているように、家庭のカラー化が本格的に進みだすのは四年後の東京五輪のときだ。カラーの『ハリマオ』を観た人は関係者などほんの一握りのはずだったが、二〇〇二年にDVDボックス化されたときその幻のカラー・フィルムが使用されて、初めて一般に観ることが可能になった。
 嬉しいことに今回の廉価盤もそのまま一枚目全部と二枚目の一本、合わせて五本がカラーだった。これも買う気になった理由の一つである。

 早速観てみると、まず画質はフィルムの保存がよかったのか、タイトル部分以外はとても良好。
 構成が面白い。現在とはまったく異なる「連続番組」の考えかた(ラジオドラマを原型とし、マンガ週刊誌などが受け継いだもの)が、今となってはかえって新鮮だ。
 つまり、主人公側に危機が迫るなどしてスリルを盛り上げたまま、「この続きはまた来週」という調子で終わってしまうのである。そして翌週は前回までの回想もなく、唐突に続きが始まる。終わりらしい終わりは、第一部最後の第十三回にしかないのである。
 当時の子供たちは今よりもっと真剣に観ていたろうし、翌週が来るまで子供たち同士で前回のストーリーをくり返し話したり演じたりしたろうから、このようなつくりかたでも、かれらは忘れなかったのかも知れない。
 しかし同種のテレビ番組が乱立してくると無理があったのか、わたしが本放送や再放送を観るようになった昭和四十年以降の子ども向けテレビ映画やアニメの連続物はほとんどが一話完結で、たまに前後編の二本続きがあるくらいだった。だから「十三本続き」などという構成が新鮮なのである。

 それにしても、海外ロケが困難な時代――半年後の十月から放映された第三部では、香港やアンコールワット(!)にロケしているが――に、植民地時代の東南アジアやモンゴルを舞台にした話をつくっているのが興味を惹く。
 「ジャワ統治庁」なる建物が神宮外苑の聖徳記念絵画館だったり、奴隷商人の中国人陳秀明の居館が西ヶ原の古河庭園の有名な洋館だったりと「バレバレ」なのはご愛嬌だが、どうしてこんな無理な設定をしたのか。
 というわけで、ネットで色々読みながら妄想をもてあそんでみることにする。
 ハリマオ、というのは太平洋戦争の日本軍のマレー半島侵攻に協力した現地盗賊団の日本人首領をモデルにしていて、昭和十八年の大映映画『マライの虎』などで、白人の搾取と闘ってアジア人を助ける英雄として有名になった。
 映画から十七年後の『快傑ハリマオ』の原作になったのは、昭和三十年十月から三十二年十一月にかけて日本経済新聞夕刊に連載された山田克郎の小説『魔の城』。未読だし、どこから単行本化されたのかもわからないが、戦前の『少年倶楽部』の伝統を引き継いだような南洋を舞台にする少年冒険小説で、ハリマオは主人公の少年を助ける脇役のヒーローとして出てくるらしい。
 日経夕刊に少年小説が載っていたというのも面白いが、それよりも戦前・戦中にたくさんあったこうした南洋物が、昭和三十年代に復活したことが何か不思議だ。敗戦後は「大東亜共栄圏」思想との結びつきから、批判と自粛の対象になっていた印象があるからである。
 放映当時、テレビの『ハリマオ』はどのように受けとめられたのだろう。反動的とか逆コースとか、そんな批判があったという話は、わたしの知るかぎり聞いたことがない――子供向け娯楽番組なので、真面目な批評が限られていたせいもあるだろうが。
 番組を観てみてまず驚いたのは、時代設定の説明が本編中では一切行なわれていないことだ。現代なのか戦前なのか、何の説明もないのである。
 だから場合によっては、大戦後の独立直前の時期、東南アジアに残った日本人がハリマオと名乗って義賊をしている、ともとれる。独立戦争に協力した元日本兵たちがいたことを知っている現代からだと、とりわけそう考えたくなる。
 だが、途中の回でハリマオの正体が海軍中尉大友道夫であることが明らかになる。元中尉でも予備役でもなく現役であるらしい。ついでにいえば腹心の部下、「ドンゴロスの松」も海軍一等兵曹山田松五郎と名乗っていて、やはり現役軍人のようだ。
 こうした肩書を登場人物たちが自然に口にしているところを見ると、どうやら時代設定は隠してあるのではなく、自明のことだから、わざわざ語られていないらしい。つまり、ハリマオといえば戦前のヒーローのことに決まっているのだ。
 陸軍の軍人ではなく海軍にしているのが面白い。ここにもやはり「海軍善玉史観」があるような気がする。ただ、二人とも軍からどのような任務を与えられているのか、軍とどのような関係にあるのかは、全編のどこにも語られていないらしい。軍から独立して、自由不羈に東南アジアの平和のために行動する、およそ軍人らしからぬ軍人だ。これによって、「帝国主義の手先」じみた印象は消されている。

 色々調べているうちに、『ハリマオ』と『月光仮面』を製作したプロデューサー、小林利雄という人物に興味がわいてくる。かれが率いた宣弘社は、本来広告代理店だったという。佐々木守が『ネオンサインと月光仮面 宣弘社・小林利雄の仕事』という評伝を筑摩書房から出している。ネットで注文してみる。どんな人物なのか楽しみ。

二月七日
 早稲田大学教育学部地歴の助教授をしておられる箸本健二さん、それにベトナムで投資コンサルティング会社を経営する同級生、斉藤雄久君と三人で夕食。
 箸本さんにお会いするのは大学以来。昨年の宇野功芳さんの講演会に来ていただいたのが再会のきっかけになった。

 大学時代、東京のいくつかの大学の音楽鑑賞サークルを結んだ「連合会」という組織があった。
 わが音楽同攻会、東大駒場の古典音楽鑑賞会、慶応の三田レコード鑑賞会(片山さんが一学年下、許さんが二学年下におられたが、学生時代にはお会いしていない。評論家で大活躍の宮崎哲弥氏も三学年下にいたという)、サークル名は失念してしまったが立教、法政、学習院、上智、青山学院、都立大、明治学院、本女、東女などが入っていた。

 明治がないのは、ただ一人の部長兼部員が左翼運動に関わって地下に潜行してしまい、サークルが消滅してしまったからという噂があった。当時のサークルでも、上智などは部員一人きりだった。そこで孤軍奮闘しておられたのが、現在は古楽の音楽事務所アルケミスタの代表をつとめられる武田さんである。
 箸本さんは当時、法政のサークルの部長さんだった(鈴木淳史さんやアルトゥスの斉藤啓介さんは、その何年かあとの後輩になる)。東大の大学院に進まれ、いくつかの大学で教鞭をとられた後、早稲田のさる教授から指名されてこの大学に来られたのだという。それまでその先生とは直接の交流はなかったそうだ。縁故を排して優秀な若手を後釜に指名するなんて、粋な人もいたものだ。
 野球は南海、音楽はウェーバー。趣味にはひと癖ある箸本さんだが、つねに微笑みをたたえた、柔和なお人柄は昔のまま。心地よい時間を大学界隈で過ごす。
 斉藤には「東南アジアに働く日本人たるもの、『快傑ハリマオ』を観ずして何とする」というわけで、この番組の面白さを伝授する。

二月八日
 角川文庫で出た、八木荘司の『古代からの伝言』というシリーズを読む。
 著者は産経新聞の記者を長く務めた人で、この文も産経新聞に連載されたものだというから、いわゆる産経史観の持ち主らしい。強引な論法もあるが、なるほどと思う点も多い数冊だった。
 日本史学界では「捏造された人物」として非実在が定説化している初期の天皇や日本武尊、また「後世の類似の事件を過去に反映させたもの」として史実ではないとされる神武東征や神功皇后の新羅征服などを、日本書紀の記述を中心に実際の事件として物語化したものである。

 日本古代史、耶馬台国から欽明帝あたりの歴史を読む醍醐味は何といっても、何が本当なのか、さっぱりわからない点にある。それなりの説得力はあるが、決定的ではない仮説がいくつも存在して、しかも互いに矛盾しあっている。
 一つしかないはずの真実に対して、優秀なのからヘボなのまで、さまざまな探偵たちが謎解きをしようとして奮闘しているのを見るのが大好きなのだ。
 十五年ほど前、日本史の著名学者たちが書いた「日本の歴史」というような題の本を何冊か読んで印象的だったのは、とにかく天皇や英雄的人物の実在がかたっぱしから否定されていることだった。
 逸話のない人だから架空、事績に中国の逸話を借用しているから捏造、同じ事績を共有しているから一人の人間を二人に分けた――そんな調子で、どんどん削っていくのである。第二代から第九代までを非実在とするのは各書ほぼ共通しているが、あとはそれぞれ削る天皇に差が出てくる。
 応神と仁徳の父子は幼名からみて一人の人物を二人に分けたもので、どちらかは捏造と推定する本もあったし、雄略と武烈は事績も性格も似ているから同一人物――この結果、二人のあいだに即位した三人も捏造ということになる――と推定した本もあった。
 ほとんど思いつきじみた推定で削るのが凄かった。何か、例えば書紀では祖父と孫とされる二人を、親子としている別の証拠などが発見されたなら、真ん中の父にあたる人物は後世に挿入されたものと推定することもできるだろうが、そうした考古学的な根拠もなく、書紀と古事記の記述を深読み――よくいえば――しては天皇を減らそうとするのである。
 架空の人物が、実在した王の家臣団に挿入されるのはどこの歴史物語にもよくあることだろうが、帝そのものの捏造というのは、家系の周辺に矛盾が生じるので無理が大きい。そこまでして偽装する動機や必要性が理解できなかった。
 それから、王朝交代説もさかんに唱えられていた。数が多いものだと、神武、崇神、応神、継体を始祖とする四王朝が交替したことになっていた。
 これも説自体は面白いが、どうしても納得できないのは、政略結婚などではなく戦争に勝利して権力を得た征服者が、わざわざ敗者の系図を乗っ取って、自ら接ぎ木となるなんて現象が、はたしてあるのかということと、神武以来の忠臣である大伴と物部の一族が、どうして唯々諾々と新しい王朝に従い、失脚することもなく、変わらずに枢要の地位を占め続けるのか、ということだった。
 そうした疑問を抱きながら読んだうちで特に愉しかったのは「古代氏族一覧」というような題の共著本だった。大伴氏を担当した人は「大伴氏の古墳時代の輝かしい事績は、後世の子孫たちが捏造して物部氏に並べたもの」という意味の憶測を書いており、また物部氏を担当した人は「物部氏の輝かしい事績は、後世の子孫が捏造したもの」というような推定を得々と述べていたのだ。
 大伴氏も物部氏もみな捏造なら、うまいことに先の王朝交代の矛盾も減る。すべて後世の挿入なら、どの王朝のときでも実力者になるに決まっているからだ。
 まさに「そして誰もいなくなった」。可笑しいのは、大伴氏の活躍を否定する人は物部氏の存在は認め、物部氏を否定する人は大伴氏の活躍を認めていることだった。クリスティの傑作推理小説とは似ても似つかない、不条理の駄作だ。

 日本古代史研究とはすなわち正史の捏造を人に先んじて指弾すること、というのが当時の風潮だったのだ。今から思えば、学者や研究者たちは宗教的政治的権威と歴史を切り離そうとするあまり、すべてに対し懐疑的に臨むことが科学的態度だと、思い込んでいたのだろう。あるいは、天皇陵を調査させない宮内庁への間接的復讐だったのかも知れない。
 そうして書かれたものを鵜呑みにできないのと同様、八木の著作にも得心できない点がいくつかある。しかし少なくとも、減点法ではなく得点法で書紀に臨む態度は読んでいて心地よかった。
 初期の天皇家が長子相続制ではなしに末子相続制で、先帝の愛妾を息子の新帝が受け継ぐという、匈奴や蒙古などの北方遊牧民族と同じ習慣を持っていたことは、この本で初めて知った。
 また、武烈から継体への継承も、放伐的な王朝交代説を離れることで「万世一系」への民族的執念が見えてくる。
 このとき、朝廷を主導する立場にありながら、大王の座を簒奪せずにわざわざ継体を連れてきた大伴金村の心底には、それから数百年後の摂関政治の絶頂期、帝位をけっして望まなかった藤原氏一族と共通する信念があったに違いない。
 なぜ「万世一系」でなければならないか。世界でもおそらく日本民族だけが抱いてきた、この禁忌の合理的説明は不可能だろう。理解できるのは、それを守ろうとする人々の行動が、千年以上ものあいだ、日本の歴史を大きく動かしたことだけである。

 夜は日経批評のため、アンスネスのピアノ・リサイタルを聴きにオペラシティへ。終演後、音楽批評欄の執筆者が集まった席で池田さんから、文化欄を最終面にした紙面改革が成功し、社の内外から好評である旨が告げられる。関わっている人間の一人として素直に嬉しい。
 それにしても、執筆陣のほぼ全員が聴いたリサイタルをわたしだけ批評するのは、ある種のイジメではないか(笑)。

二月九日
 飼い猫のワサビを避妊手術のために病院へ連れて行く。
 夜は、ベトナム帰り――なぜか硝煙の臭いが漂いそうな形容――の斉藤を中心に、音楽同攻会OB五人で飲む。高田馬場なので安い。
 斉藤は『ハリマオ』DVDの他に『ネオンサインと月光仮面』や海野弘の『陰謀と幻想の大アジア』も買ったという。さすが「同攻の士」、動きが早い。

二月十日
 ワサビ退院。エリザベス・カラーをつけているため、さすがにおとなしい。

 『ネオンサインと月光仮面』を読み終える。佐々木守の著作には共通する傾向だが、本格的な評伝というよりは、小林利雄の仕事をめぐるエッセイに近い。
 しかし貴重な情報も多い。小林利雄が率いた宣弘社はもともと広告代理店で、戦後復員した小林は父からこの会社を受け継ぐと、焼け跡から復興しつつある東京の街頭に企業の広告板――ビルボードという――を掲げる仕事を中心にする。
 デパートや駅に巨大なクリスマス・ツリーを置くのは、日本では小林が仕掛けたのが最初期だった。上野駅コンコース上方にあるあの巨大な壁画も、小林の発案である。
 昭和二十五年、小林はネオンサイン広告の草分けとなり、日本初のネオンサイン広告(武田薬品)が銀座四丁目の鳩居堂ビル屋上に設置され、夜の街を明るく照らす。続いて東京各所に設置。
 このように、雑踏行き交う街角こそが小林の仕事場だった。そして、その延長にテレビが来る。
 昭和二十七年に設立した宣弘社ラジオプロダクションを四年後に宣弘社プロダクションと改称すると、三十二年に番組制作を開始、翌三十三年の『月光仮面』で空前のヒットを飛ばす。
 その後も『豹の眼』『快傑ハリマオ』『恐怖のミイラ』『隠密剣士』と人気番組を毎年生みだすことになる。四十四年に放映が開始されて現在まで続くアニメ『サザエさん』も同社の制作であり、広告代理店としては『ウルトラQ』以後の円谷プロ作品にも携わっている。
 テレビ初期の子供番組の世界に、不滅の足跡を残した人物と会社といって間違いないだろう。
 面白いのは、初期の三作品の『月光仮面』『豹の眼』『ハリマオ』すべてに東アジアが関わっているという指摘だ。
 まず『月光仮面』には東南アジアの架空の国、バラダイ王国の秘宝をめぐる物語がある。続く『豹の眼』は、戦前に雑誌『少年倶楽部』に連載された原作ではインカ王国の血を引いていた主人公を、モンゴルのジンギスカンの子孫に変更した。さらにヒーローの衣装の額には源氏の紋所「笹竜胆」を意識した「竹に雀」のマークをつけ、「ジンギスカン=源義経」説を想起させるようにしたという。
 『ハリマオ』はいうまでもない。テレビ版はマレーを離れて香港、カンボジアなど東南アジア広域に加え、内蒙古にまで舞台を拡げている。
 当時の日本のテレビ番組のほとんどが国内を舞台にした時代に、アジアン・ロマンとでもいうべきものを漂わせていたのである。
 このアジア憧憬は小林自身より、その部下で番組の企画を担当した西村俊一の発想によるところが大きかったらしい。『少年倶楽部』編集者を長年務めたのちに、講談社の常務になった人物を父に持つ西村は、父が雑誌で関わった冒険世界をテレビ上に展開したのである。
 石ノ森章太郎によるとハリマオ伝説の大元『マライの虎』も、『少年倶楽部』に「愛国熱血事実物語」として掲載されたという――長期的全国的にみれば映画よりもこの活字版の方が、あるいは少年たちの心に残ったのではないか。
 そういえば『快傑ハリマオ』は石森章太郎によるマンガが『少年マガジン』連載、三橋美智也の主題歌がキングレコードと、偶然かも知れないが講談社一家で固められている。

 さて、こうした戦前戦中の少年向け物語と後年の宣弘社番組との関連は、一九九三年筑摩書房刊の樋口尚文『テレビヒーローの創造』の中で指摘されているそうで、佐々木本から孫引きすると、
「宣弘社のヒーローらしさとは①戦前戦中の伝奇・冒険小説に横溢していたアジア色、南方幻想を強く受け継いでいる。②しかし、そのイデオロギー的な側面はきれいに捨象して、極力シンプルで典型的な勧善懲悪の物語に整理されている」
 『ハリマオ』の物語の骨子は、見事にこの文にまとめられている。
 東南アジアと南蒙をまたにかけるハリマオの活躍は、まさに戦前戦中の「南進論・北進論」を絵に描いたようだし、また小林利雄は『月刊日本ジャーナル』という雑誌の昭和三十六年二月号で、
「これは独立以前の物語ですが、日本軍は悪いことばかりしていたわけじゃない、独立のために尽くした日本人もいるのだ、ということを知ってほしい」
と語っていて、よい側面(だけ)を積極的に語ろうとする姿勢を示している。

 その小林が、戦争末期の昭和二十年三月に陸軍へ徴兵されて重機関銃隊の兵士となり、現在の中国・内蒙古自治区の首都、呼和浩特(フホホト。佐々木本ではホフホト)近郊に駐屯して終戦を迎えているという事実は、何か暗示的である。
 海野弘の『陰謀と幻想の大アジア』で得た知識だが、大戦中この地域には「蒙古連合自治政府」という、満州国に似た日本の傀儡政権がおかれていた。そしてここは、シルクロードを経て東南ヨーロッパを目指す日本の北進ルートの、最西の拠点だった。
 当時「厚和」と呼ばれたフホホト周辺は終戦まで平和のままであり、中国国民党軍に降伏したお陰でシベリアに抑留されることもなく、小林は帝国陸軍の兵士としてはきわめて幸運な地域に配属されていたわけだ。
 この南蒙を舞台とするのが『快傑ハリマオ』の第四部「南蒙の虎」である。イデオロギー色は抜かれていても、そこには小林の見た「蒙疆」地域の、何がしかが反映されているかも知れない(過度の期待は禁物だが…)。
 また、東南アジア・ロケを行なっているのは第三部「アラフラの真珠」だという。この番組を単独で提供していた森下仁丹は、当時東南アジアを有力な海外市場としていたそうで、ロケはこのスポンサーの協力で行なわれたに違いない。
 以前にテレビで観た成瀬巳喜男の映画『浮雲』では、恋の発端を大戦中の明るいインドシナに置き、ヒロインの死によって訪れるその終わりを風雨激しい屋久島にしていた。「南方」が希望に満ちた地域から日本のどんづまりとなる、グロテスクな変容を重ね合わせていて見事だったが、それから数年後のテレビでは、東南アジアがふたたび日本人の雄飛の舞台として現れたわけだ。
 そういえば、成瀬のいくつかの映画には昭和二十年代のクリスマスの景色が印象的に描かれていた。現実世界でのそれを演出した仕掛け人の一人が、復員まもない小林利雄だったわけである。こうした「交錯」を考えるのは愉しい。
 ともかく、『快傑ハリマオ』の第二部以降の廉価盤発売が楽しみだ。
(成瀬映画については、二〇〇五年十月七日の可変日記で触れている)

 先日購入したプソフォス・クァルテットによる新譜、ドヴォルジャークの弦楽四重奏曲第十四番とピアノ五重奏曲第二番の一枚がとてもよかったので、ジグザグ・レーベルから以前に出ていたメンデルスゾーンの第三番と第六番の弦楽四重奏曲を収めた一枚も買って聴く。
 これもいい。熱いうねりが大きな呼吸によってもたらされるのが、このクァルテットの魅力。メンデルスゾーンの六番はクス・クァルテットの実演(なぜかナポリのサン・カルロ劇場だった)で初めて聴いて面白い曲だと思ったのだが、個人的にはこのプソフォスの方が好きだ。
 それにしても、こういう熱演系の団体とジグザグ・レーベルのイメージは合わない気がするのだが、CDを見たらボルドーの弦楽四重奏コンクールがこのレーベルと提携していて、その縁で出たものらしい。
 プソフォスとレーベルの関係はこれ一枚きりのところをみると、やはりカラーが合わなかったのだろうか。

二月十一日
 義母の墓参りに多磨霊園へ行き、帰りに府中市郷土の森博物館へ回る。
 敷地の半分以上を占める大きな梅園で梅を眺めるのが第一目的。
 続いて十棟ほどある、江戸から明治大正の復元建築を見る。江戸期の農家は藁葺き屋根の大きさのわりに、部屋の数が少なく狭い。物の少ない昔なら、これで充分だったのだろうか。
 農家群は部屋に上がれず、周囲や土間から眺めるだけなのが残念。不特定の大人数が上がり込んだらすぐ傷んでしまうだろうから、仕方がないが。
 博物館本館には、江戸期の府中の街の大きな復元模型などがあって嬉しい。
 帰りは運悪く、隣の府中競馬場から帰る車の大群の渋滞に巻き込まれた。

二月十三日
 オペラシティで、エヴァ・メイのソプラノ・リサイタル。澄明に鳴りわたる響きが美しい。呼吸感も豊か。
 一曲目の〈すみれ〉は楽譜に首っ引きで、奇妙なほどにあがっていた。しかし徐々に調子を戻し、三曲目だったか、タイミングよく飛んだ「ブラボー」の掛け声に彼女が思わず「グラツィエ」と答えた瞬間、幸福の扉が開き始めた。
 前半に〈すみれ〉や《パリーデとエレーナ》があって、後半に《カプレーティとモンテッキ》、そして締めに《夢遊病の女》の大アリアという構成は、一九六〇年代半ばのレナータ・スコットの、あの圧倒的なリサイタルたちに似ている。
 もちろんメイには、スコットがあの数年間だけ手中にしていた、天に翔び地をえぐり、自由自在に駆け抜けていった鮮烈な表現力はない。しかし代わりに、よくコントロールされた、透明感のある響きがある。
 ピッチャーにたとえれば、六〇年代のスコットが高速スライダーのキレと球威で空振りを奪う豪腕型だとすると、現代のメイは球が軽くとも、絶妙のコントロールで見逃しのストライクをきめる制球型である。しかしどちらも、胸のすくような三振劇を見せてくれることには変わりがない。
 往年のスコットは得意の〈ダンツァ〉などで、まるでテノールのような力強い疾駆と歌いあげを聴かせてくれた。
 このテノール志向をメイが受け継いでいるのは微笑ましくも嬉しいことで、アンコールにはなんと〈フニクリ・フニクラ〉と《微笑みの国》を歌ってくれた。彼女の声で力任せに歌えば破綻しかねない危険な歌を、うまく抑制した響きで愉しませてくれた。
 幸福感に包まれながら帰宅。

二月十四日
 今日もコンサート。墨田トリフォニーでベルトラン・ド・ビリー指揮のウィーン放送交響楽団演奏会。
 二日続きで、とても幸福な時間を過ごせた。どちらも素晴らしい呼吸感。音楽に合わせて息をする喜びをたっぷりと味あわせてくれた。
 今日の演奏会は《タンホイザー》序曲に《未完成》と《新世界より》、それにアンコールがハンガリー舞曲に《雷鳴と電光》、それに《ラデッキー行進曲》という「マニアやクラヲタがつばを吐きかけそうな」超通俗プログラム。だがそんな曲目だからこそ、ド・ビリーの呼吸感が活きてくる。
 この人の専属レーベルの音質は混濁気味で平面的な印象が強く、とにかくナマで聴いてみたいと思っていたが、やはりいい指揮者だった。声部の分離が悪く、弦がかさつくのは指揮者とオーケストラにも責任があって、録音のせいだけではないという欠点もわかったが、リズム感の心地よさはそれを忘れさせる。

 二日続けて幸福感を堪能し、泉下の三谷礼二さんに「クラシックは死にませんでしたよ。四十年かかって、呼吸感が戻ってきましたよ」と声をかけたくなる。
 しかしそれは叶わぬ夢。代わりに三谷さん遺愛のテープから録った、レナータ・スコットの一九六六年エングルウッド・リサイタルを聴きつつ祝杯をあげる。

 明日のミューザ川崎のオラモ&フィンランド放送響にも行ければ、「幸せ三連発」になる気がするが、それはさすがに日程がきつい…。

二月十五日
 東京国際フォーラムにて、ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンの記者会見。
 参加者百五十人ということだが大入り満員。ここで爆弾が爆発したら、日本のクラシック・ジャーナリズムがほとんど壊滅するのではないかというくらい。
 アンバサダーという肩書で登場した樋口裕一という作家さんが、今回のメンバーの中でラドゥロヴィッチなる「イケメン」ヴァイオリニストを絶賛していた。
 この名前は見覚えがあって、TRANSARTというレーベルの無伴奏リサイタルが一枚、前から気になっていたが、手が出るまでいかなかった。「促し」には弱い方なので、帰りがけに早速購入。
 さらに、昨日ミュージックバードで会った舩木篤也さんがエベーヌ四重奏団を誉めていたのを思い出し、これも促しと思って、MIRAREから出ているハイドンの四重奏曲集を買う。
 聴いてみると、どちらも当たり。ラドゥロヴィッチは斬れ味鋭いが、音を叩きつけたり置いたりせず、弾力とうねりのある緩急と疾走感で惹きつける。まさに俊敏様式のヴァイオリニスト。
 帯には「二十一世紀のシゲティ」なんて惹句があるが、シゲティの弾みのない響きとは別物だ。ただし、バッハのパルティータではこの曲が求める深さと大きさが足りない。イザイやミレティッチの曲でこそ、今のかれの良さが出ている。
 エベーヌは、すっきりした端正な響きと躍動感の両立が心地よい。フォル・ジュルネの主宰者ルネ・マルタンのレーベルであるMIRAREの音質も好みだ。
 まもなく新譜でバルトークの弦楽四重奏曲を出すらしいので、これは楽しみ。

二月十九日
 山の神が伊勢参りに行くので、朝早く東京駅まで荷物持ちで同行。
 時間が早いし天気もいいので、神宮外苑の聖徳記念絵画館に行ってみる。
 遠くから眺めたことはあるが、入るのは初めて。『快傑ハリマオ』のジャワ統治庁として何度も登場したのに刺激を受け、ハリマオの「活躍跡」を偲んでみようと思ったのだ。
 まず建物の大きさにびっくり。ホールの高さと堂々たる内装にも驚く。これならルーヴル宮にも見劣りしない。
 ただ、明治帝の生涯を描く大きな絵がたくさんあるだけ(しかも監視員を減らすためか、ガラス越しで鑑賞しづらい)というのは、不敬を恐れずに言えば無駄な感じもする。平日の午前とはいえ、客はわたしを含めて三人しかいない。
 だが絵の内容自体――芸術的には、前田青邨の大嘗祭の一枚が飛び抜けていた――は、歴史に関心ある者なら興味つきないものばかり。
 続けて眺めていると、明治維新から西南戦争、日清戦争に日露戦争という内外の戦争と西洋化の激動をのりきった御代が、たしかに歴代でも稀な、聖徳(せいとく)あらたかなものだと実感する。そして、崩御後に神として祀られたことにも納得がいく。
 鈍感なわたしは、ここでようやく気がついた。絵画館とは、それ自身が壮大な「明治神宮縁起絵巻」なのだ。
 「外苑」といいながら、その意味ではここも明治神宮の「境内」なのである。無駄に広い空間も「神域」なれば当然なのだ。

 そのことに気がついてから外に出てみると、周囲の空き地がすべて駐車場に使われているのにうんざり。
 『ハリマオ』のロケの時代には広々とあいていたのに、何たるざまか。ご神域を何と心得るか。不敬であるぞ(笑)。
 それにしても『ハリマオ』でやっていた正面の階段での格闘シーン、今でも撮影許可がとれるのだろうか。
 統治庁を脱出したハリマオが、脱兎のごとく走った――小動物みたいで可笑しかった――跡を踏んで歩き、「なんじゃもんじゃ」の樹を眺めて、帰路につく。

 歩きながら妄想する。絵画館が神域なら、周囲の国立競技場も神宮球場も秩父宮ラグビー場も東京体育館も国立代々木競技場もみな神域にあり、そこでの勝負はすべて「神前試合」としての神聖性を付与されるのではないか――まあ、現実には単に練兵場跡で用地に事欠かなかった、というだけのことだろうけれど。

 絵画館を出て信濃町の駅に向かう。千日谷会堂へ下る坂道の入り口にビルがあり、その二階にコーヒーのチェーン店が見えたので、そこで早めの昼食をとることにする。
 窓の下がすぐ首都高。陽光うららかな空に排気ガスが立ちのぼる。何となくすぐ家に帰るのがいやになり、中野の「まんだらけ」に行くことにする。

 「まんだらけ」とは中野ブロードウェイを本店とする古マンガ店で、それ以外にアニメのグッズ、CD&DVD、ゲーム、オモチャその他、サブカルチャー系のあらゆる物の中古を扱っている。
 広いブロードウェイの二階から四階にかけ、分野ごとに別れて店舗がいくつも出ている。ブロードウェイには「まんだらけ」以外にも食玩やフィギュア、コスプレ用の服などの店がたくさんある。
 あらゆる物が高く広く見えた小学校低学年の頃、家から近い自由が丘のオモチャ屋さえ、色と光と物にあふれた広大な場所のように感じられたものだが、あとになってみると、ごく普通の大きさの店舗に過ぎなかったことに気がつく。ところが中野ブロードウェイに入ると、その広さのために昔の「オモチャ屋通い」のまばゆい感覚を再び味わえるのだ。
 少し前にテレビなどでよく紹介されたときは、秋葉原に続く「おたくの聖地」みたいに扱われたが、個人的印象としては秋葉原とはまるで別の空間だ。
 多色ネオンがギラギラ点滅し、電磁波いっぱいで欲望むき出しの秋葉原は、いわば電気仕掛けの街である。対して中野ブロードウェイは、紙と黴の臭いの残ったビルだ。動に比して静。そして基本的には「今」しかない秋葉原に対し、古マンガが中心の中野は「昔」にも目が向いている。だから、わたしのような中年男でも――他人から見れば違和感ありありかも知れないが――うろつける。
 わたしが購入するのは古マンガばかりで、食玩、フィギュアの類はショーケースを歩きながら眺めるだけ。古模型のコーナーは中に入って、昔買ったことのある箱を手にとり、見覚えのある箱絵を懐かしんではみるけれど、買わない。ゲーセンも同じく「昔よく行った場所」として、外から覗くだけ。大げさにいえば、自分が幼児期から大学時代までに通りすぎてきたサブカルの、博物館に来るような気分なのである。
 中野駅のロータリーから細いサンモールのアーケードを抜けて、大きい割に窓が少なく、外界の見えないブロードウェイの内奥へ入り込むのは、何か「胎内めぐり」のような感覚がする。ときどきこの「タイムトンネル」へもぐり込み、追憶の世界にタイムスリップするのだ。
 ところが一、二年ほど前から「まんだらけ」は、古マンガも新刊のようにビニール包装して中が読めないようにし、店を覗く面白みが半減した。そのために訪れる回数が減った。この可変日記でいままで触れる機会がなかったのも、行ったというだけで収穫がなかったからだ。
 しかし今日は目的がある。石森章太郎のマンガ版『快傑ハリマオ』だ。そして思ったとおり、何冊かあった。
 事前にネットで調べたら、いくつか覆刻版が出ているうち、一九九五年の翔泳社の二冊本が雑誌掲載時の広告やページ脇の文まで含めた「完全版」らしい。それが運良く店頭にあった。帯付の美品が合計千二百円ほどで買えた。
 ほかに、雑誌『ぼくらマガジン』(昨年四月三日の可変日記参照のこと)の一九七二年頃のが、一冊あった。
 たしかに見覚えのある表紙で、中身も読んでみたかったが、保存状態のいいものなので五千円前後もする。『少年マガジン』とは違って、現存する冊数が少ないためもあるだろう。心が揺れたが今日は我慢。次に来たときにもし残っていたら、有縁のものとして買うと決める。

 家に帰って早速『ハリマオ』を開く。雑誌の覆刻版ということでカスレやヨゴレを覚悟していたが、予想外にきれいな修復である。
 このマンガ版はもともと手塚治虫が引き受ける話になっていたが、多忙のため当時二十一歳の石森章太郎に代わった。そのため、最初の数回は手塚その人の下書きによっているという。そのせいもあるのか、若い石森の画はその後よりもはるかに手塚の画風の影響が濃い。ページ脇のファンレターの宛て先――現代では考えられないが、石森個人の住所である――がかの有名な「トキワ荘」で、「手塚スクール」の存在を実感する。
 このページ脇の文が与えてくれる情報量は大きくて、翔泳社版を選んで正解だった。たとえば第一回には「この『快傑ハリマオ』は、日本テレビで、カラーになって放送されています。関東地方のかたは、ぜひごらんください」とある。
 実験放送の段階ながら、例えば街頭に置かれていたカラーテレビなら、当時からカラー視聴が可能だったのだ。けっしてモノクロ版だけ放送されたわけではなかったのである。
 マンガの進行は、テレビ放映にきちんと合わせてある。各部も一クール十三週ちょうどだ。東京の子供なら、火曜夜に見たテレビのストーリーを、水曜に出る『少年マガジン』で読めたわけだ。テレビとマンガがここまでシンクロした方式は、それ以前に例があっただろうか。
 もちろん多少はマンガ用の脚色があって、テレビ版第一部ではただの岩場にすぎなかった「魔の城」には、大トカゲがいる。第二部には当時大流行したタカラの「ダッコちゃん」人形のパロディみたいな神像が出てくる。テレビ版は未見だが、まさか同じではないだろう。
 正直な感想として、マンガ版はいかにも当時の子ども向け活劇マンガの枠内に留まっている。無国籍アクション的で、「南洋ロマン」はほとんど感じない。当時の石森章太郎には東南アジアやモンゴルの具体的イメージがつかめず、ターザン映画のアフリカや西部劇の大西部、そして千夜一夜物語の中近東の風俗を借りてしまったようだ。そんなこんなでテレビ版に及ばない。しかしメディアミックスの元祖というべき展開が、この完全版でよくわかったことは収穫だった。
 それと、ハリマオの本名の漢字が「大友道夫」であることも確認。

二月二十五日
 『風林火山』が面白い。清水一彦が演出のメインをはるというので期待していたが、その後に続く磯智明もかれの影響下、緊迫感とリズムのある画面構成とドラマ進行を行なっている。
 それに脚本がいい。まず武田、今川、北条の三家がいずれも個性豊かな名門であり、勘助などが簡単には入り込めない力を持っていることをそれぞれに描く。しかし同時に名家ゆえの人間疎外が起きて、名将たちの人格を歪ませている――晩には酒を飲まない氏康というのが最高だった――ことを示したところで、何も持たぬがゆえに曇りなき眼をもった、爽やかな真田幸隆を登場させる。この段取りがお見事。
 今週は千葉進一が二刀を用い、斬った後に息を吐くという殺陣が、昔かれが得意とした柳生十兵衛物へのオマージュになっていたのは愉快だった。そういえば『ハケンの品格』でも『木枯し紋次郎』が下敷きになっている。
 内野が十兵衛の『魔界転生』なんて、観てみたいもの。

二月二十六日
 エベーヌ四重奏団のお陰でMIRAREレーベルに興味がわき、前から気になっていたピアニスト、アンゲリッシュのベートーヴェンを買ってくる。
 気に入った。軽快な運動性、うねり、それに何といっても羽毛のような音色がわたし好み。早く聴けばよかった。リストやブラームスも買わねばなるまい。ヴァージン・レーベルだとどんな響きになるのか、ちょっと不安だが。
 宣弘社の小林利雄をモデルにした、加藤文の小説『電光の男』が出ていることをネットで知る。早速注文。あまり評判にはならなかったようだが…。

二月二十七日
 『快傑ハリマオ』第二部到着。今度はネットで予約した。牧野良幸の『僕の音盤青春記』も購入。後者はカラー刷りになっているのが嬉しい。楽しみ。

二月二十八日
 部屋の電話は下四桁が三七九七、つまり「みんな来んな」になっていて、そのためか客が少ないのだが、今日は撮影のためアルファベータ関係者が来訪。朝からの部屋の片づけと掃除でぐったり。

三月四日
 午後はサントリーホールに「伊福部昭音楽祭」を聴きに行く。かなりの盛況。
 各三十分の休憩二回を挟みながら、約四時間の大演奏会。しかし片山杜秀さんの司会で停滞なく進行し、疲労感は意外なほどにない。第一部では藍川由美の歌う《アイヌの叙事詩に依る対話体牧歌》が伸びと張りのある美声と、大地を揺り動かすような力強い律動で素晴らしかった。ティンパニ伴奏が面白い。
 第二部の映画音楽と第三部の管弦楽曲は、本名徹次指揮の日本フィルの演奏。映画音楽では、舞台上手の上方にしつらえられたスクリーンにその映画の場面が上映された。〈アメノウズメの舞〉では残念ながら映像と音楽がズレたが、これをナマ一発で合わせるのは無理だろう。本名は経験を重ねて、伊福部音楽を自家薬籠中のものとしつつあり、その指揮には力感と安定感が共存していた。
 東宝怪獣映画の音楽では、音形を「不気味社歌詞」で口ずさみそうになって困る。それにしても、これだけ感傷や内省とは無縁の、外向的な祈りと祭礼の音楽を書き続けた伊福部はやはり凄い。
 早くも来年の第二回音楽祭の予定が決定している。楽しみだ。

三月五日
 昨日深夜に仕上げた確定申告を送信。
 賞与のないフリーランスにとって、源泉徴収の還付はその代わりのようなものだ。通常の半分の三週間で還付という甘言にのせられて、e‐Taxなる官製ソフトを導入した。電子証明用に区役所で住民基本台帳カードをつくり、それをPCに読み込むための――それ以外には何の使い道もない――カードリーダーを買い、合わせて四千円ほどかかったが、手書きするよりは速く、楽なのはたしか。
 支払証明書などの添付書類だけは別に送付しなければならないが、これは税務署が家から近いので出がけに届ける。
 そのままFM東京内のミュージックバードへ行き、四月からの「ユーロ・ライヴ・セレクション」のナレーションを初収録。これまで週二回だった同番組が五回に拡大されるのにともない、舩木篤也さんと二人でナレーションを分担することになったもの。
 月二十本以上ある番組を選定するだけでも大変だが、EBU(ヨーロッパ放送連合)の持つ音楽番組の豊富さはBBC一局などとは比較にならないから、やりがいがある。それにヨーロッパの最新の演奏会事情に触れられることは、他の自分の仕事にも大きな意味を持つはず。
 さらに今回からしゃべるだけでなく、機材を自ら操作して、録音や編集まで全部一人でやってみた。初めてなのでとても時間をくったが、プロデューサーの田中美登里さんに教えてもらいながら、六時間かけて何とか四本を録りおえる。
 ヘッドフォンで自分の声を聞きながらだと、意外にも落ち着いてしゃべれることに気がつく。昔は、ヘッドフォンなんてつけただけで緊張が増したものだが。

三月六日
 青山のアルファベータにて、『クラシックジャーナル』のための対談を山田治生さんと行なう。トスカニーニとその時代を描く連載を山田さんが始められるので、それに絡めて話題はトスカニーニ。
 十九世紀から二十世紀にかけての欧米の音楽状況を考えつつ、トスカニーニの生涯を話すことは、いつやっても最高に楽しい。
 拙著『クラシック ヒストリカル108』が今月下旬に発売と決まる。

三月七日
 午後はミュージックバードにて、舩木篤也さん、田中美登里さんとユーロ・ライヴ五月放送分の選曲会議。四時間かけて目鼻がつく。

 夜はそのまま新国立劇場の《さまよえるオランダ人》へ。
 これから二か月ばかりは、妙にワーグナーづくことになりそうだ。
 《オランダ人》《タンホイザー》《ローエングリン》と、ワーグナーの前半生「楽劇前」の三作品を作曲順に実演で、それも「東京で」観るという稀な体験をしたあと、四月二十二日には某協会の例会で「ワーグナーの録音史」について数十人のワーグナー・マニアの猛者たちを相手に講演するという、恐ろしい体験。
 そして並行して、以前からの翻訳仕事をいよいよ仕上げなければならない。

 というわけで、今日がこの「ワーグナー・シリーズ」第一弾。
 指揮と演出はあまりよくない前評判を友人たちから聞いていたし、観ての印象もほぼ同感。でも個人的には、耳を覆いたくなった「未だ来ないマイスター」指揮の《フィデリオ》に較べれば、作品について妄想するヒントを与えてくれただけ、はるかにまし。
 歌手はゼンタ役の――安仁屋投手ならぬ――アニヤ・カンペが図抜けていた。澄んだ響きがとても美しく、弱音にピンとした張りがある。前期ワーグナーのヒロインとして理想的な声質だと思った。他の歌手にも困った人はいなかった。
 ボーダー指揮のオーケストラは、とにかくリズムが下までちゃんと落ちない。弾むとか置くとかいう以前に、地に足がつかない。そして、緩急強弱高低すべての対照の度が弱められて、狭い幅の「中域」のみに圧縮されている。緊張感のない、一九七〇年代のモーツァルト演奏みたいな感じ。第三幕の合唱以降には緊迫感があったが、これは合唱の好演が生んだ、自然発生的なもの。
 シュテークマンの演出は、合唱や歌手の所作はいただけないし、鮮やかさにも欠けたが、最後の場面は面白かった。
 ゼンタが「人柱」となって幽霊船に乗りこみ、悪霊を四散させ、船とともに水底に沈む。これによって呪いから解放されたオランダ人は、大地の上で死ぬ、つまり「土に還る」という救済を得る。
 たしかにこのオペラでワーグナーは、「海と陸」を強く対照させている。言い換えれば、船と港、漂う者と待つ者、男と女、死者と生者、疑う者と信じる者等々、さまざまな対照と相違を、若き作者は図式的なまでに強調している。
 そしてその中に、ただ一人の異界者として、猟師のエリックがいる。他の全員が――それぞれは対照関係にありながらも、全体としては――海の民なのに、かれだけは山の民である。
 海幸彦と山幸彦の説話とか、『サンダ対ガイラ』(笑。伊福部音楽の余韻)とか、いろいろ妄想できるが、とにかく、「閉塞状況に置かれた女(ゼンタ)の狂的妄想」という解釈とは別の、自他の差異への期待と失望が生むドラマという解釈の可能性が、この作品にはある。
 残念ながら今回の演出では、あくまでその可能性にとどまっていたし、対照性をすべて圧縮する指揮というのも、その手助けにならなかったが。

 もうひとつ感じたのは、オランダ人の業ともいうべき猜疑心の強さや迷いを、ワーグナーは歌詞には書いているが、音楽ではその揺れ動く心理を充分に描けていない、ということ。
 《道化師》や《カヴァレリア・ルスティカーナ》の心理描写の拙さに似たものを感じた。要するに性急すぎるのだ。三作品ともそれぞれの若書きであることを思うと、この性急さこそが未熟、ということかも知れない。
 その未熟さが《タンホイザー》や《ローエングリン》ではどうなるのか。今回のワーグナー・シリーズで、その発展のさまを確認してみたい。

三月十日
 新国立劇場オペラ研修所の研修公演を観に新国立劇場の中劇場へ。演目は、ブリテンの《アルバート・ヘリング》。
 とても良質な公演で、愉しかった。中規模のハコを用い、センスのいい演出家と指揮者のもとできちんと練習すれば、スター歌手がいなくたって装置に金がかけられなくたって演目が渋くたって、お客を喜ばせるものができることの、雄弁な証明のような上演だった。
 その意味で、ブリテンの抱いた「室内オペラ」の理念が、よく伝わってくる上演だったと思う。イメージをとにかく膨張させようとするワーグナー作品の合間に、こうした、よい意味で「箱庭」的な作品を観ることができたのは、とてもありがたいことだった。

 《ヘリング》は表面的には単純な話だが、しかし台本のクロージャーも作曲のブリテンも、皮一枚の下にさまざまな暗喩を込めている――警察署長が「美徳」の素晴らしさについて述べるところが、《ラインの黄金》でローゲが指環の力について恍惚と語る音楽を想わせるなど、笑ってしまった。
 しかし、そうした暗喩や皮肉をことさらに強調せず、さらりと漂わせるだけでユーモアに包んだ演出と指揮が、まず成功だったと思う。
 このオペラはグラインドボーンで初演されているから、新国の中劇場の大きさはちょうどよい。まったく同じ時刻に隣のオペラ劇場では《オランダ人》の楽日が上演されていたが、充実度と満足感は中劇場の小さい空間の方が、はるかに濃密だったのではないか。
 ここからはまた妄想だが、この作品の初演当時のコヴェント・ガーデンとブリテンの関係が、今の新国立劇場にとっては暗喩的で、面白かった。
 作品の初演は一九四七年七月。その前年の十二月からコヴェント・ガーデンの歌劇団は本格的に活動を開始したが、ドイツ出身の音楽監督ランケル監督のもとで始まったシーズンは迷走気味で、数年後には「ドラマティコのいないイギリス人歌手にこんな大きなハコは無理だ。歌劇団はたたんで、特別な祝祭公演以外は劇場を閉鎖しろ」なんて声が出てくる。
 その状況を横目にしつつ、《アルバート・ヘリング》は前作の《ルクリーシャの凌辱》とともに、コヴェント・ガーデン式拡大志向(ワーグナー志向)のアンチ・テーゼのような「イギリス人のオペラ」を模索する道だった。芸術的にも経済的にも、室内オペラにブリテンは活路を見出そうとしたのである。
 しかしこの試みもすぐには結果に結びつかず、グラインドボーンの主催者クリスティとブリテンの協力関係は終わる。
 数年後、コヴェント・ガーデンはブリテンをアドヴァイザーに招く。ブリテンは《ビリー・バッド》や《グローリアーナ》という大劇場向け――後者は室内オペラをあえて戴冠式記念公演にやるという、すさまじい皮肉だったが――を作るが、それで手を引き、以後はオールドバラ音楽祭での室内オペラに専念する。
 その後、幸いコヴェント・ガーデンにはヴィッカーズやサザランドのような大劇場向きのスター歌手が出現して公演が軌道に乗り、危機を脱する。
 そういうわけでイギリスの歌劇運動はそれぞれの方向に丸くおさまるのだが、《アルバート・ヘリング》の頃はまさに混乱期の始まりだった。その二年後にブリテンがつくったオールドバラ・オペラの第一作が「オペラを作ろう」というタイトルだったのは、実に意味深である。

 暴論を承知で述べる。少なくとも現時点でのことだけれど、日本人歌手にはこうした中劇場の規模が合っているのではないか。この《ヘリング》のように、優れた演出家と指揮者のもとで簡略な装置と小編成のオーケストラを用いた、練り上げた歌手陣による良質で廉価な公演をここで続けたら、オペラをやる方も観る方も層が厚くなるのではないか。
 例えばモーツァルトの《フィガロ》や《コジ》、プッチーニの《ボエーム》、《カルメン》などのフランスのオペラ・コミーク諸作、さらにウインナ・オペレッタなど、中劇場の規模にこそふさわしい人気作品はいくらでもある。
 これらにブリテンなどの近代作品やバロック・オペラなどを適宜加えて、できればレパートリー方式の日替わりで多数上演する。そうすれば、特定の演目に出る歌手陣は出演間隔を空けられる。軽便な装置なら入れ換えも容易だろう。
 中劇場のレパートリー公演が形成するこうした「日常」の上に、オペラ劇場の「祝祭」公演を重ねる。
 まあ、結局はそれだけの金がどこにあるのかという問題で終わるのだけれど。

 おしまいにもう一つ。
 前述のように《ヘリング》の装置は簡素で、写実というより観客の想像力を誘う方向でつくられていた。
 舞台はイギリスの田舎町なのだが、その簡素さの中でひときわ印象的だったのは、舞台中央に高々と、すべてを睥睨するように教会の尖塔がそびえていたことだった。町のどこからでも、この高い尖塔は見えてしまうのだろう。
 市民の倫理と良識のシンボル。それが白くさりげなく、しかし常に人々を見下ろしている町。
 そのことへの反感がブリテンの背後にもワーグナーの背後にもあることを、思い出させてくれる装置だった。

三月十五日
 「東京のオペラの森」の《タンホイザー》を観に、上野の東京文化会館へ。
 友人知人には受けがもう一つよくなかったが、個人的には、タンホイザーを現代の画家に置き換えるカーセン演出の着想を、とても面白く思った。
 たしかに着想の面白さに比して、その展開に冴えや輝きがないとか、「ワサビ抜きのファミリータイプ」的な感もなくはないけれど、やはり才人だと思う。最後のシーンは、「オルセー美術館展、開催中!」の横断幕が出そうだった。
 つよく感じたのは、パリで一月に観た同じカーセン演出の《ホフマン物語》との類似性。最後にあらわれる芸術の女神の動きと、照明の処理がどちらもよく似ているのである。恋に破れたホフマン、破戒を許されぬタンホイザー、二人の芸術家を女神がともに導いて終わる。
 ただ《ホフマン》の結末が、ほろ苦くも希望の光が差していたのに対し、《タンホイザー》の方は明朗だが、カーセンならではの皮肉が効かせてある。
 《タンホイザー》もパリ・オペラ座で上演されるそうだから、おそらくは二作で一対ということなのだろう。

 でもワーグナー、《オランダ人》からずいぶん進歩したなあ、とは今さらながらに実感。
 一方、かれがある種自己を投影した気配のあるエリックやタンホイザーのような役は、ローエングリン以降では少なくなるのが面白い。
 それを意識しつつ《ローエングリン》を観てみようと思う。

三月十八日
 今日は珍しく、夜八時から十一時頃までテレビを観っぱなし。
 『風林火山』と『華麗なる一族』はどちらも父子相剋の話だった。

 かつて我が家でも、父が祖父に対して愛憎双方の感情を深く抱いていて、その反映なのか、わたしとの距離のとりかたにも戸惑っているようだった。
 わたしが生まれる前に死んでいた祖父は、「趣味を本業にした道楽者」という点で、わたしとたしかに似た者同士らしく、その二人の間に挟まれた堅実志向の人間にとっては、どちらも胃痛の種だったようだ。
 さいわい、父は信虎や大介のような病的な猜疑心や競争心の虜ではなかったから、骨肉の争いなどはなかったが、その代わりガンになって早くに亡くなってしまった。
 面白いことに、六十歳前後でガンという死因は祖父と一緒で、そのことに気づいたとき、父は一体どう感じたのだろうと思ったことがある。
 三代目のわたしの場合は、二代続いたのだから、自分の寿命も二人と同じくらいだろうと覚悟をするだけでよく、気楽なものだけれど。

 ドラマに話を戻すと、番組としては前者の方がやはり全然面白い。後者は息子をヒーローにしすぎてドラマの骨格が歪み、自殺への過程に説得力がなくなってしまった。それに女優陣が弱い。
 気がつけば、いつのまにか男優陣は個性豊かな連中がかなり揃っていて、硬派の優秀なドラマがいくつか生まれているが、対照的に女優の層はまるで薄い。
 しかし、キムタクが最後に泊まっていた猟師小屋の雪の夜景、「ひょうきん懺悔室」にそっくりだ…。

 そのあとは、NHKでやっていたテノール・コンサートを覗く。
 やっぱりルイゾッティはいい指揮者。東響がきれいに、そして愉しそうに歌っている。
 指揮ぶりを前からは初めて見たが、曲によって指揮ぶりがムーティ風だったりカラヤン風だったりバーンスタイン風だったり、まるで形態模写みたいなのが愉快。嫌がる人もいるだろうけど(そりゃN響とは合わないだろう)、わたしは微笑ましく思った。

三月二十四日
 すみだトリフォニーホールで、新日本フィルの《ローエングリン》。
 二十一日の初日に行った友人たちの酷評を知っていたし、さらには開演前にローエングリンとオルトルート役の不調があらかじめアナウンスされるなど、事前の期待値が下がっていたせいもあるだろうが、結果としてはかなり満足。
 何よりも、第二幕が(スターウォーズ初期三作の中で『帝国の逆襲』がじつは一番飽きないのと同様に)とても深い味わいをもっていることを再確認できたのが嬉しかった。
 とはいえ具体的な演奏評は、日経に書くことになっているので控える。

 ここで書きたいのは、ワーグナー「楽劇前」三作品を短期間に観ることができたことの意義と喜び。
 《ローエングリン》では、いまさらながらにワーグナーの天才ぶりを思い知らされた。
 《オランダ人》では歌詞に書くだけで音楽では表現できなかった「人間の猜疑心」が生む迷妄を、ここでは作品全体のテーマに据え、そして見事に音にしてみせている。一方、《タンホイザー》のテーマである「霊と肉」の対立も、ローエングリンとエルザの関係において、再提起されている。
 猜疑心と肉欲、この二つは人間の「原罪」である点で共通していて、キリスト教世界では罰を受けるべき対象となる。だから、オランダ人もタンホイザーも罰を受けていた。
 けれど、その罪深さこそが人間なのではないのか、という懐疑が《ローエングリン》に至って浮かび上がってくる。
 その懐疑は、正面からの問題提起は避けられている。どうするかというと、その反対の聖なるもの、すなわちローエングリンの力の源が、至純であるがゆえにひどく脆弱で汚れやすく、この世に長くはとどまり得ないもの(昨年のミーリッツ版《オテロ》のデズデモナ像にも通じるもの)であることを強調することで、その実用性への懐疑が浮かび上がるようになっているのだ。
 第二幕が素晴らしいだけでなく、同時に奥深い音楽である理由は、こうした懐疑が、明朗で叙情的な旋律美のただなかに、遅効性の毒のように織りこまれていくさまを描いているからだろう。
 しかしワーグナーは、あくまで懐疑だけで止めた。明確なキリスト教社会への批判はしなかった。以後はゲルマン神話の異教世界に進むことで、迂回した姿勢をとることになる(となると《パルジファル》をどう位置づけるかだが、これはいつか、この作品の実演に接する日の課題にしよう)。
 そして今日、《ローエングリン》を観ていてあらためて気がついたのは、《タンホイザー》におけるカーセン演出が、この懐疑をより明確化、具現化させたものだった、ということである。
 人間の「原罪」たる「愚かな猜疑心」は、じつは「賢き探究心」と表裏一体のものなのだ。二つはともに、証しを、証明を得ようとする不遜な欲求という点で同じなのである。
 信仰は人間を猜疑心から救うが、同時に真理とその証しを求める探究心を曇らせることもある。「画家」タンホイザーはその探究心のゆえに、中世のキリスト教社会から石もて追われたが、現代の芸術界では評価され、称賛される。

 ここでカーセンが流石なのは、現代社会における称賛の「証明」があくまで金銭であることを、画商が提示した契約書に嬉々としてサインするタンホイザーの姿を描いて、示していたことだ(同じカーセン演出の《椿姫》におけるヴィオレッタの「愛」の証しが、ヴェルディ紙幣であったこととダブる)。
 ヴェーヌスとエリーザベトの姿で権現した「至純なるもの」(タンホイザーがキリスト教に代わる存在として、汚辱の泥の中からつかみ出した光明)は、そのとき早くも消え失せていく。
 結局、人間は世俗に生きる。審判のその日まで。

 この三作品を短時日に体験させてくれた、すべての人々に感謝。

四月一日
 目白のイタリア・レストランにて、早稲田の音楽同攻会の渉外活動で知り合った「連合会」(二月七日の日記参照)の方々六人で、ミニ同窓会。この人数で集まるのは四半世紀ぶり。
 アルケミスタの武田さんが「朝日新聞沙汰」(笑)になったのを記念しての集まり。

 その前には江戸川橋公園で花見。今年も桜は白っぽいが、川の上を舞う桜吹雪がきれいだった。目白側の崖と早稲田側のビル街に挟まれて、桜吹雪が流されずにつむじを巻く。こういうのは峡谷型の地形ならではの喜び。

 花見と会食の間に時間が空いたので、早稲田の喫茶店へ。
 偶然にも今日はエイプリルフールなので、我が母校伝統の入学式の日(曜日は一切かかわりなく、この日と決まっている)だった。来ないと噂された斉藤投手も来たというし、その同級生たちで大賑わい。現役で早生まれなら、ついに平成生まれの大学生がいることになる。
 面白い、というか異様に感じたのは、かれらがまるで制服のように、一様に無地のダークグレーのスーツを着込んでいたこと。シャツはすべて無地の白。
 今はみんなこれを着るのか。まあ冠婚葬祭、全部これでいけるからだろうが、しかし細めのシングルで光沢のある生地のダークグレーだと、柄のシャツを着るのは難しいし、白以外の色は合わせにくい。ネクタイも鮮やかな色彩は無理で、選択の幅が狭い。だから全員が画一的にならざるを得ず、ひどく制服っぽい。
 汎用性を考えるなら、紺色の方がいいような気がする。中に何を着てもそれなりに合うし、その選択によって地味から派手まで、色々と演出できる。
「スーツは紺に始まって紺に終わる」とは、誰の言葉だったっけ…。

四月四日
 あちこちの〆切が脳血栓状態だが、これも仕事の一つなので、「東京のオペラの森」のムーティ演奏会へ。
 「頭は納得いかないが耳は満足」という不思議な演奏会だったが、その評は日経新聞に書くためにおくとして、そこには書かない感想をいくつか。

(一)テノールは『事件記者コルチャック』の主人公には似ていなかった。変な怪物も出なかった。

(二)後半のロッシーニが始まった途端に、小銭を床にばらまいてチャリチャリ音をたてた人がいた。
 それを聴いたわたしの頭の中では、ベートーヴェンのピアノ曲《なくした小銭への怒り》が鳴り響いた。
 しかし別の方は、「あ、お賽銭だ」と思ったそうな。たしかに宗教曲の曲頭に賽銭投げるのって、御利益ありそう。

(三)遠くから見るバルチェッローナはマツコ・デラックスそっくりだった。
 このことを終演後に会った知人たちに話すと、受けてくれる人と「?」の人とに、はっきりと別れる。マツコをまだ知らない人も多いのだ。
 マツコ・デラックスとは、昼十一時からのTBSの番組『ピンポン』にコメンテーターとして出てくる、大男の口の悪いオカマ。
 わたしは近々ブレークすると信じているが、まだ知っているのは専業主婦と、仕事と称して昼間からゴロゴロとテレビを見ている音楽ライターが大半だろう。
 ちなみに山の神は、MXテレビのニュース番組に出はじめたときから注目していた。MXの方がTBSより当然マイナーなので、毒舌もさらに凄いらしい。

四月六日
 朝からミュージックバードにて、『ユーロ・ライヴ・セレクション』の五月前半の放送分五本を収録。
 四月から番組は週五本、月二十本以上という、FM放送なみのライヴ番組になっていて、舩木篤也さんとわたしと半分ずつ、つまり一人が月十本か十一本を担当する形式になっている。
 今回収録した中には「ラ・フォル・ジュルネ」で話題になりそうなヴァイオリニスト、ネマニャ・ラドロヴィッチが出てくるものがあった。
 ヴェンゲーロフの代役として、チョン・ミョンフン指揮のフランス放送フィルと、ベートーヴェンの協奏曲を弾いたものである。そのヴァイオリンはいかにも才気煥発な若武者ぶりで、時代の先端に躍り出てこようとする、そのこと自体が魅力的だ。
 こういう瑞々しい初々しさは、容易に失われてしまう。テノールのビリャソンなんて、早くも最初の難所にさしかかっているようだ。それを越えられるかどうかで、かれらの未来が決まるのだろう。

四月十三日
 先日の都知事選挙、結果についての感想はここでは控えるが、それよりも気になったのはテレビでもラジオでも、複数のコメンテーターとか評論家、学者などが「クビチョウ」を連発したこと。
 聞き取り間違いを減らすために、役人やマスコミ人同士の符牒として使うのはかまわないと思うが、やはり正式の読みではないのだから、公の場では控えるべきなのではないか。
 市立と私立などなら、たしかに聞いただけでは区別がつかないから、イチリツとワタクシリツが一般語化していくのも仕方ない。「市立船橋」の通称が「イチフナ」なのもいいだろう。
 しかし首長と市長は音が違う。区別して発音することを心がければいいだけ。お金をもらって人前でしゃべる以上は、意識して当然のことではないか。

 前にもここに書いたが「手術」とか、「シュ」とか「フ」とか「ル」の音を、強く押すように、息を吹くようにしか発声できない人って、昭和二十年代後半以降の生まれでは、どんどん多くなる一方のようだ(いろいろ言われる団塊世代だが、かれらまでは息を呑みながらの発声ができている気がする)。
「シュチョウ」を言いたがらないのも、ひょっとしたらそれが理由なのかとも思う。下手くそな擦過音はマイクを通すととても聞きづらい。

四月十七日
 千駄ヶ谷の二期会にて、演出家の粟國淳さんと歌手の樋口達哉さんの対談記事のための司会をする。
 九月に上演される《仮面舞踏会》のプロモーション用に、『二期会通信』に掲載されるもの。お二人とは初対面だが、リラックスした雰囲気でお話ししてもらうことができたようだ。

四月十八日
 新国立劇場で、プッチーニの《西部の娘》を観る。
 非常に示唆に富んだ、面白い上演だった。まず何よりも、ウルフ・シルマーの指揮がいい。鋭く、しかし硬くならずにリズムの弾力のある響きで、複雑なテクスチュアを明確に描き出した。この作品はミトロプーロスやシノーポリなど鋭利な頭脳系の指揮者が得意としてきたが、シルマーもその系譜に属している。
 こうした良質の指揮とオーケストラで聴くと、このオペラがプッチーニの単純な「スランプ」作品などではないことがよくわかる。あまりに大仰すぎる感情表現とか、しばしば声をかき消してしまう管弦楽の配分の悪さとか、結果としては完全に成功してはいないけれど、意欲的な実験作で、魅力も多い。
 型にはまった形容を用いるなら、ここでのプッチーニは通俗性と芸術性の境で悩み、迷う作曲家だ。
 十六年後の、一九二六年に初演された遺作《トゥーランドット》は、大衆性をもった史上最後のオペラであるなどといわれる。ということは、その作家は通俗性をもった最後のオペラ作曲家になる。そしてその各作品を測る基準が通俗性の多さだけなら、《西部の娘》は確かに失敗作、スランプ作品となるだろう。
 しかし今回、初めてナマで観ての感想はそうではない。二十世紀は作曲という行為が通俗性を失っていった時代だが、プッチーニはまさに、その変化の中にいて、苦しんだ作曲家なのだ。自分がつくってみたい――それが自発的なものか、他の作曲界の影響なのかは判断がしにくいが――音楽が、一九〇四年初演の《蝶々夫人》初版以来、聴衆と乖離しつつある作曲家だったのだ。
 そしてかれの辛さ、やりきれなさは、やろうと思えば聴衆に受けのいい、通俗性の非常に高い音楽を書くことができてしまう、という才能を所有していることだったろう。《蝶々夫人》改訂版と《トゥーランドット》は、まさにその例だ。
 だがかれはもっと、ワーグナーとそれ以後の時代のスタイルをとりいれた、巨大で複雑、晦渋で陰鬱な管弦楽書法による、それでいてなお美しい音楽が書きたかった。《西部の娘》は、それが如実にあらわれた作品なのだ。ムソルグスキーを代表とするロシア・オペラが、R・シュトラウスなどともにこの音楽には木霊している。プッチーニが知っていたかどうかわからないが、シェーンベルクが無調音楽を書き始めたのも、このオペラの少し前の時期だ。
 当時の社会主義的な傾向も、無学を恥じるミニーの歌詞とともに、合唱の扱いにあらわれている。伝統的な、主役たちとそのドラマを見守るだけの無名の「世論」ではなく、ここでの合唱は、積極的にドラマの展開にかかわるのだ。
 ほんのわずかしか歌わない「端役」の鉱夫が多数いて、名前と一応の個性を与えられているのも、かれらが代表する合唱が、無名の群衆ではないことを強調するためだろう。このあたりは《ボリス・ゴドゥノフ》とともに、シャルパンティエの大ヒット作《ルイーズ》の影響がある気がする。
 プッチーニの作品としてどうか、という観点をいったん離れて、二十世紀初頭に各国でつくられたオペラの一つとして考えてみたとき、この音楽には別の意義が生じてくる。そこから見なおせば、プッチーニという芸術家をも考えなおすきっかけになるだろう。

 ホモキの演出も面白かった。
 時代設定に忠実なものではない。一九九〇年前後のアメリカで、西部の鉱夫たちは、旧共産圏、アジア、アフリカ、中南米からの貧しい移民たちの格好をしている。天井まで段ボール箱が積み上げられ、視界をふさいでいる。
 移民たちが押すショッピング・カートと段ボール箱の組合せから、品物を陳列せずに箱ごと積み上げた、アメリカ郊外型の巨大ショッピング・センターが舞台なのかと最初は思ったが、それだけではないらしい。ホモキは具体的に設定することなく、小道具というモノが喚起する周囲の景色のイメージを、そのときどきで自由にうつろわせているのだ。
 たとえばショッピング・カートは、ホームレスが生活道具一切をつみこんだもののようにも見える。生活道具をつめこんだ買い物袋を持って歩く女性ホームレスのことを「ショッピング・バッグ・ウーマン」などと呼ぶ時代があったはずだが、その発展系でカートに積んで歩くホームレスもいるのだろう。段ボール箱の山もショッピング・センターから巨大な倉庫となり、鉱夫たちは、そこで働く低所得労働者のように見える。
 いずれにしても、巨大な消費社会を支える下層で、未来の展望も帰るべき故郷もないままに働く、貧しい移民たちの世界が舞台であり、その現在と(ホームレスになる)未来が自由に想像できる。一方ミニーは、ツナギという「制服」を与えられることで、移民よりはましな境遇にあることがわかる。

 ホモキがなぜ「今日」ではなく、少し前の現代にしたのかは知らない。過度の生々しさを避け、イメージに自由な幅をもたせるためだろうか。
 その手に乗せられて妄想を拡げよう。この頃のアメリカの移民といえば、メキシカンなどヒスパニックの不法入国が、大問題だったはずである。特にカリフォルニアはそれが深刻だったはずだ。半世紀後にはヒスパニックがアングロ・サクソンを抜いて、アメリカ最大の人口勢力となるという予想もあった。
 ホモキは、それが人種の問題ではなく貧富の問題であると示すために、ここでの移民を雑多な出自にしているのだろうが、あの時代を選ぶ以上、わたしはそう連想してしまう。
 そこで思いつくのは、「ジョンソン」というアングロ・サクソンのような偽名を名乗る主役テノールの本名が「ラミレス」であり、ヒスパニックであるという出自である。字幕では「あのスペイン人め」というように出ていたが、ラミレスはメキシカンかも知れない。

 考えてみれば、ヒスパニックは十九世紀アメリカの「敵」だった。
 アラモ砦玉砕で有名なテキサス独立戦争の相手はメキシコだったし、世紀の替わり目にアメリカが伝統の孤立主義を捨てて対外戦争を行なったのは、キューバ独立をめぐるスペインとの戦争だった。独立戦争の相手イギリスを別にすれば、二十世紀以降にドイツとファシズム諸国と共産主義、そしてイスラムを相手にするまで、相手はヒスパニックばかりなのである(相手がすべてイズムを背負わされているのを思えば――それと戦うことが自由の国アメリカの大義なのだ――ヒスパニックは旧帝国主義の代表か)。
 オペラ《西部の娘》初演の一九一〇年という時点なら、まさに敵はヒスパニックだけだ。そして対外問題は、同時に国内問題となる。それが再び社会問題となったのが、一九八〇年代以降の不法入国激増の時期だったとすれば、ホモキの時代設定は暗示的である。そしてそれは、ヨーロッパ各国でも旧植民地などからの移住者の問題が顕在化し、世界的な社会問題となりはじめた時期でもある。
 まあ、考えすぎ、の一言だろうが。
 しかし考えさせてくれる上演は、わたしにとって何よりも面白い。

四月十九日
 《西部の娘》をCDで聴きなおしたくなる。どうせなら俊敏様式がいいので、一九五六年スカラ座ライヴのヴォットー指揮の盤にする。
 いつものことだが、作品をナマで観たあとの方がCDもよくわかる。ヴォットーの指揮は弛緩のない進行と、すっきりした響きがやはり素晴らしい。シルマーの鋭利さとはまた別の美しさを、作品から引き出している。
 ヒロインはフラッツォーニ。メトに去ったテバルディの穴を埋めて、ミラノでヴェリズモ・ソプラノとして活躍した歌手で、この前のシーズンに《蝶々夫人》
を歌って大当たりをとった(戦後では、単一のシーズンでの同一の役の最多公演数を記録している。第二位がカラスのヴィオレッタであることを指摘すれば、その人気の高さがよくわかるだろう)。
 いわゆる、欧米のメジャー・レーベルが嫌うタイプの激しさをもったイタリア人だが、この役にはちょうどいい。プッチーニがミニーのために書いた音楽が、蝶々さんのためのそれと、実によく似ていることもはっきりとわかる。
 このフラッツォーニを筆頭に、コレッリ、ゴッビなど、歌手は昨夜と比較にならないほど充実しているが、音は古い。

四月二十二日
 ワーグナー協会に講師として招かれ、「ワーグナーの録音史」をテーマに話をする。
 夢中になって話していたら、いつのまにやら三時間。また早口になっていたらしい。

四月二十五日
 マリボール歌劇場の《ラクメ》を観に東京文化会館へ。
 しかし第二幕までで帰宅したので、演奏については語る資格なし。

五月二日
 「ラ・フォル・ジュルネ」が始まる。今年もクラシック・ソムリエにご指名いただいたので、昼過ぎから二時間つとめる(あとで友人に聞いたが、NHKのニュースでちらりと映ったらしい)。
 終わったあとは、前評判の高いネマニャ・ラドゥロヴィチが独奏者をつとめるチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を聴きに行く。オーケストラはメナ指揮のビルバオ交響楽団。
 ネマニャは、目で見るとさらに強烈。全身からオーラがただよっている。そしてその音楽。セクシーにゆらめく音色とうねるフレーズ、情熱にみちたリズムの躍動、スケールの大きさ。足を踏みならしながらの熱演で、まさに若いからこその「時分の花」が、ここぞとばかりに咲き誇っていた。お上品に整える演奏とはまさに正反対の様式だった。

 空き時間に銀座の山野楽器まで歩く。ポップスの売場が小さくなっていた。二階の洋楽が地下に移動して、かつてはジャズと半分ずつ三階を分けあっていたクラシックが二階に降り、その全部を占めて大きくなっている。
 どこのレコード店でも、クラシック売場といえば縮小するばかりというお決まりなのに、増えたのである。
 しかしそれより驚いたのは、一階の邦楽売場にあまり活気がなかったこと。高校時代から三十年近く通ってきて、こんな雰囲気は初めてだった。
 もちろん、たまたま私が入った時がそうだったというだけかも知れないが、ポップスの新譜が売れない、ダウンロード販売に移りつつあるなどという状況と、どうしても重ねたくなったのは事実。
 山野銀座といえば、その昔は毎年恒例のユーミン新譜発売の時期になると、そのCDが数十秒に一枚とかいうペースでバカ売れするので有名だった店舗だ。いわば「国内強力新譜の象徴」みたいな店だった。
 と書くと、昔イギリスのミステリー・ファンは、毎年クリスマスに出るクリスティの新作を楽しみにした、なんて話と重ねたくなるが、ユーミンの場合はたかだか十年程度の「昨日」に過ぎない。
 それなのに、やっぱり今は昔と思わざるを得なかった。もう、あんな新譜祭りはありえまい。そしてポップスは何といっても新譜中心、旧譜とはすなわち不良在庫のこと(再販制なのであまり気にしなくてよいのだろうが)だから、新譜が売れなければ売場そのものが成り立たない。縮小への流れは、クラシックよりも自然のなりゆきなのである。

 などと妄想しながら二階にあがると、探していたブリュノ・フォンテーヌのモーツァルトのピアノ・ソナタ集と、チェリストのガイヤールと組んだフォーレの作品集があったので喜んで購入。
 CDによって当たり外れはかなりあるが、基本的にこのピアニストは面白い。

五月五日
 今日も国際フォーラムの「ラ・フォル・ジュルネ」に行く。帰りにまた山野銀座へ行って、(二日に買ったフォーレが気に入ったので)オフェリー・ガイヤールのバッハの無伴奏を買う。
 友人から、新しく広がった山野の売場は旧譜中心なのが特色と聞いたが、あらためて見てみるとたしかにその通り。新譜の棚が小さめで目立たないのは、本屋のジュンク堂の特徴を思わせる。その旧譜の棚にお客さんが多くいるのも、これまたジュンク堂的。
 これが、ポップスとの差だろう。クラシックは国内メジャーの強力新譜なんてたぶんヴァントが最後だったし、そのヴァントにしても、カラヤン王朝華やかりし時代とは、比較にならなかった。旧譜の比重が増してから長いのである。
 とはいえ、渋谷新宿のタワーやHMVのように輸入盤にも重点をおいている店なら、新譜のコーナーはまだまだメインの位置を占める。しかし山野銀座は国内盤中心だろうから、それが小さくなるのはこれまた自然のなりゆきだ。
 そして、旧譜商売でもポップスよりは何とかなるのが、クラシックなのだ。おそらくレコード界でのクラシックの地位は、縮小の度合いがポップスより小さいために、相対的に上がっているのだ。
 一見、時代に逆行するように思える山野銀座のクラシック売場拡大は、実は最新のレコード界の流れ(特に、都心部におけるそれ)を反映しているのだろう。

 しかし、それよりも本当に注目すべきは、どうやら山野銀座はレコードから高級楽器の販売へと、その重点を移しつつあるのではないかということ。
 ユーミンの一枚数千円のCDを大量に売りさばく場所から、数十万円の高価な楽器を誇らしげに展示して売る場所へ。同じ銀座でも、あんパンを売る木村屋から、グッチやルイ・ヴィトンの高級店の雰囲気へ。
 大量生産のソフトは、形のないダウンロードにまかせ、店舗の方は、高級なモノを少数の顧客に売る。
 格差社会とはまた別に(あるいは並行して)、こうした「二極分化」が進んでいるのかも知れない。
 そんな激動の狭間で、波と波がぶつかりあってエネルギーの打ち消された地点に生じた、奇妙な「静かな場所」で小春日和を楽しんでいるのが、いまのクラシックのCD界なのかも。

五月二十日
 アフターサービスに感心した話。
 うちでは、ブラザーのレーザー複合機(プリンターとFAXとコピーとスキャナーが全部一緒になっているやつ)を使っている。価格が安いので、SOHO稼業の人間には人気が高いらしい。同業者にもたくさんいて、「ブラザー兄弟」と呼んでいる。
 三年ぐらい使ってきたが、プリントアウトすると画像がダブるようになった。ドラムユニットの寿命かと思って交換したが、状況は好転せず。
 わたしは基本的にパソコンもオーディオも、保証期間が過ぎて故障した場合には買換えるタイプ。高級品でないせいもあるし、受渡と引取の手間とか、修理中の空白期間を考えるのが面倒なので、買換の好機と見なすことにしている。
 しかし複合機で劇的な技術革新があったという話は聞かないし、現行機で満足しているので、試しにメーカーに電話してみることにした。五年前までぐらいと較べてプリンターやFAXの使用頻度は大きく下がっているから、数日穴があいても何とかなると判断したせいもある。
 するとすぐに翌日、代替の貸出機が宅急便で到着。それが入っていた箱に故障機を入れて(梱包も簡単にできる)、相手着払いの伝票がついていたのでそれで送った。
 見積が高ければ止めればいい、経費を請求されたらそれは勉強だと思えばいいと考えていたら、出た見積は税込みで、一万六千八百円(新品定価の六分の一。私はその半分くらいで買ったが)。
 感心したのは、請求がこの修理代だけということ。代替の貸出機や運搬の経費は向こう持ちなのだ。しかも、ドラムユニットとトナーも新品に交換したという(トナーはちょうど無くなりかけていて、切り替えの時期だった。トナーだけで新品なら五千円くらいする)。さらに三年使ってあちこち壊れたりちぎれたりしていたのだが、それらも新品に交換。
 つまり、自前でドラムユニットを買い換えたのとほぼ同額で整備されたのだ。
 こういう経費も、値段に初めから入っているんだといわれればそれまでだが、機械を長く使おうという気になるし――それがメーカーにとって短期的には得にはならないところが、消費社会の難しさ――ありがたい、とつくづく思った。

五月二十二日
 六月号の『レコード芸術』の「この本を読め!」で、片山杜秀さんが拙著『クラシック・ヒストリカル108』を取り上げてくださったことに気がつく。
 どういうわけか内容は大変な絶賛で、気恥ずかしい。「片山さん、何か悪いもんでも食ったのか」と疑いたくなる。しかし、あまりに褒めすぎのところ、買いかぶられているところはともかく、短文の寄せ集めだけに必然的にくり返しが多い――某誌の評では選挙運動じみた「連呼」という形容をいただいて、結構落ち込んだ――本から、一つの流れ、史観を見出してくださっていることには、素直に感謝するのみ。
 はっきりいって、片山さんと私との間に交流があることを知っている人の中には、この一文をただの馴れ合い、仲間褒めととる人もいるはずだ(これは後で聞いたことだが、編集部内にもそれを危惧する声があったらしい)。
 しかし、わたしは片山さんがそうした意図で物を書く人ではないと知っているし、そのようにとられかねない書き方を避けてこられたことも知っている。だからいっそう、下司の勘繰りを受ける危険を百も承知で書いてくださったことに、心の底からの感謝の念を抱く。
 皮肉などではなく本気で書くが、この一文は私の棺桶に入れさせていただくつもり。浮かれすぎと他人に笑われようとも、わたしにとってこの世に生きた甲斐のあった、何よりの証なのだから。

五月二十五日
 藤原歌劇団の《リゴレット》を観に、東京文化会館へ。
 日経の評に書くので全体については控えるが、気になったのは指揮のフリッツァのこと。ムラが多すぎる。先輩のルイージやカリニャーニのように特定の歌劇場に身を置いて、指揮者としての基礎を固めるべき時期なのではないか。ルイゾッティもそうするようだし。

六月一日
 目白バ・ロック音楽祭の開幕公演、アントネッロによる《聖母マリアの夕べの祈り》を聴きに東京カテドラルへ。
 残響の多い教会で演奏するにしては、合唱の編成が大きすぎたようだった。

六月六日
 ラ・ヴェネシアーナ、リクレアツィオン・ダルカディアなどによる「もう一つのヴェネツィアの晩課」を聴きに東京カテドラルへ。
 声楽は六人だけ、しかも澄んでいる上に芯のしっかりした響きで、この会場でも愉しめた。

六月十二日
 新国立劇場で《ばらの騎士》。シュナイダーの指揮は「丁寧なカイルベルト」というか、シュタインなどの系譜に属する、荘重様式のもの。
 演出は、時代設定を第一次世界大戦直前という古きヨーロッパの最後に移すこと自体は「いかにも」なのだが、なぜオペラ初演翌年の一九一二年ときっちり特定したのか、それはよくわからず。

六月十四日
 トッパンホールで、ラ・ヴェネシアーナによるモンテヴェルディのマドリガルの一夜。女声陣が数年前のCDとは入れかわっているため、はるかに響きの純度と魅力を増していた。伴奏はハープ一本だったが、これも見事。

六月二十二日
 『ニーベルングの指環』、やっと翻訳完了。
 来週には校正作業が始まるから、まだまだ楽ではないが、とりあえずプレッシャーからは解放される。
 訳してきて、著者が最後に心憎い仕掛けをしたことにあらためて感心する。
 ずっと書いてきて、いちばん最後が
「Der Ring des Niebelungen.」
で終るようにしてあるのだ。文脈が多少強引だから、これは疑いなく故意だ。
 この一冊をこの言葉で終わらせようと企むのは、じつにカルショーという人らしい遊び。そして訳している人間には、その達成感が痛いほどによくわかる。
 いや、もちろん読者にも伝わるはずだが、訳者は著者と読者の、多分その中間ぐらいの位置で、その達成感と解放感の大きさを感じられる。この文章をキーボードで打ち始めたとき、背筋にジリジリっと電流が来た。
 これは、未完の『レコードはまっすぐに』を訳したときには、もちろん感じようがなかったもの。きっとあれも凝った終りかたをしたかったんだろうと、ふっと思う。

 だが日本語で素直に訳した場合、構文どおりに「Der Ring・・」で終わらせるのは難しい。しかしこの著者の遊びは、何とか活かしたい。
 取りあえずは私なりの終らせかた(どちらかというと個人的な)をしたが、校正のさいに再考するつもり。

六月二十三日
 フルトヴェングラー・センターの例会で講演。
 会場は千石にある沖ミュージックサロンで、再生機材の音がいいのでやりやすい。古い録音でも聴き疲れがしない。
 お客さんも熱心に聴いてくださった。

六月二十五日
 聴く時間もないのにCDをやたらに買い込んではストレス解消していたが、それらのいくつかをやっと聴く。
 幸いほとんど当たり。要するに、みんな気持ちよく呼吸させてくれる。
 ヌーブルジェ(NEUBURGER)の弾くチェルニーの五十番練習曲は、この練習曲を音楽として聴かせてくれるのが楽しい。素晴らしいリズム感。レーベルがMIRAREというだけで気になって買ってきたのだが、ルネ・マルタンはさすがのセンス。これは『クラシックジャーナル』で取り上げるしかない。
 ツェートマイアーがヴァイオリンと指揮を兼ねたブラームスのヴァイオリン協奏曲とシューマンの交響曲第四番初稿版の一枚は、後者がとにかく面白い。
 ラ・ヴェネシアーナのモンテヴェルディのマドリガーレ第八巻も気持ちいい。ここは十四日のコンサートの感想に書いたとおり、少し前よりこの第八巻などの今のメンバーの方が、響きがはるかに澄明。前のコルシカ・ライヴなどとは別の団体みたい。

 ある雑誌のあるCD評を読んでいて、気持が暗くなる。こんなにたくさん愉しい音楽があるのに、なぜわざわざ、書く人も読む人も後味が悪いだけで、全然幸せにならないような書きかたをする必要があるのだろう…。
 闇を呪うよりは、闇に灯をともす人を励ます仕事がしたい。自分には灯をともす力がないのだから。

六月二十七日
 コヴェント・ガーデンのヒストリカル・シリーズの新譜、ケンペ&ロス・アンヘレスの「バタフライ」を買う。音が既発盤とは段違いによい。
 ヘアウッド(ハーウッド)卿の遺品コレクションが音源だとか。このコレクションからはPEARLがグッドオールの(本物の)「ルクリーシャの凌辱」や、スティードリーの「指環」抜粋(サザランドが森の小鳥)などの貴重盤を発売していて、ヒストリカル分野の「エル・ドラド」のようになっている。
 正直いってヒストリカルでも、交響曲などはオケ違いで誰の何が出ようといい加減食傷ぎみだが、オペラはさまざまな要素が絡むだけに、まだまだ飽きない。

七月四日
 『ニーベルングの指環』の校正中。翻訳の場合は誤訳や欠落の最終チェックとなるので、自分のエッセイなどよりも、はるかに手間がかかる。八月末発売の予定。

七月十一日
 オペラシティコンサートホールで、チョン・ミョンフン指揮東京フィルの《イドメネオ》演奏会形式上演を聴く。
 第二幕初めのイーリアのアリアのオーケストレーションは、モーツァルトが書いた中でも、最も美しい音楽の一つだと思う。オーケストラという「庭園」で、弦楽器が樹木や草のように風にそよぎ、管楽器がおちこちで花と開く。そのパースペクティヴが素晴らしい。
 今日はこの部分が特に冴えていて、ミョンフンが舞台上演よりも演奏会形式を選んだ理由がよく伝わってきた(当初はこのアリアがカットされる予定だったようだが…)。
 ヤーコプス指揮の《フィガロ》のCDでも、何よりも美しかったのは、第四幕でオーケストラの花園の中に、歌手たちが立っているかのような音響だった。
 このオーケストラの遠近感の美は、モーツァルトの天才の中でも、とりわけて独自性の高いものではないか。そしてそれはおそらく、各楽器が実際にどう配置されているかという現場的問題よりも、音色と音域の対照、落差がつくりだす距離感なのだろう。
 対照と落差の天才という点では、このアリアの直後のイドメネオの猜疑を示すのに、アリアの音型の一つをそのまま使って、陰惨な響きに変えた劇的センスも凄かった。そして、それをはっきりと聴かせたミョンフンの手腕も冴えていた。
 R・シュトラウスが《ドン・ジョヴァンニ》第一幕の仮面の三重唱直後の数小節での一瞬の変換の見事さを指して、自作のオペラ三本と引き換えにしてもいいと絶賛した逸話を思い出した。

 家に帰ってから、ある指揮者の全曲CDを取り出して、このアリアからイドメネオの場面までを聴いてみたが、右記のような特長はまったく聴きとれず。ミョンフンの才能を再確認する結果になる。

七月十四日
 台風。知り合いが小笠原諸島に旅行に行っているので、気になる。
 それにしても父島、今でも船で二十五時間かけないと行けないそうだ。飛行場がない。でも長い滑走路がつくれる平地がないからこそ、栗林中将は米軍が父島の要塞ではなく、平らな硫黄島を必ず攻めてくると確信したんだなあと、軍事オタならではの無益な納得。

 冷凍コロッケなど、加工食品の実態が色々とネットにも書かれているが、その中で気になったのは、コンビニなどで売っているサラダに入っている、輪切りのゆで卵の話。
 卵一個まるまるではなく二、三枚入りの場合、みな大きさが同じで、半端な両端部分はない。どうしてかというと、あれは生卵をそのままゆでたものではないからだそうである。
 生卵を割って白身と黄身を分離し、中心に丸い棒を差し込んだ円筒にまず白身を流し込んで加熱、次に丸棒を抜いて、その穴に黄身を流し込んで再加熱する。こうすると、金太郎飴のように直径の同じ、白身と黄身のバランスも揃った、棒状のゆで卵ができる。
 べつに害はないが、あの妙な均質さ、大きさだけでなく白身や黄身の中身の均質さは、これが原因だったのか。白身がプリプリしてなくて、黄身にもとろみがなくて、全体にカマボコみたいな食感だった。
 直径が均一なら、確かに無駄は出ないし管理もしやすいだろう。まるでボルトやナットなど工業製品みたいな「サラダの部品」。
 でもなあ…。

七月十五日
 国立競技場へサッカーのナビスコ杯を観にいく。
 フロンターレ川崎対ヴァンフォーレ甲府の第二戦。中村憲剛をナマで見られると思い込んでいたが、考えてみたら彼はベトナムにいる。
 二十分過ぎくらいまで台風の名残で雨が降ったが、あとは晴れた。
 九十分間で川崎が三対二で勝ち、第一線で同じスコアで甲府が勝っていたために延長戦となり、その後半八分に川崎が一点を取って勝利。
 どちらのファンでもない無党派層としては、ついでにPK戦まで観てみたかった(ゴールシーンは全部で六つも観られたから、充分)が、そこまで行かず。
 凄いスターがいるわけではない両チームだが、延長に入る直前、九十分最後の十分間くらいは両軍選手が余力をふりしぼって積極的に動き、スタジアム全体にも熱気と緊張がみなぎって、ゾクゾクさせられた。この十分間だけで、金も時間も元をとれた感じ。

七月十七日
 カリニャーニ指揮の読売日本交響楽団の演奏会を聴きに東京芸術劇場へ。
 鋭利な音だが、前世代のように肘の硬いギクシャクしたリズムにならず、呼吸感のあるフレーズはやはり俊敏様式のもの。フォルムのしっかりした響きには安心感がある。メインの《春の祭典》では氷のように冷たい弦の響きを聴かせてくれたが、管楽器群は別の意味でヒヤヒヤだった(苦笑)。

七月十九日
 『クラシックジャーナル』恒例の座談会。神沼遼太郎、鈴木淳史、安田寛各氏と編集長に私というメンバーだったが、そこに鈴木氏がもってきたのが朝鮮民主主義人民共和国国立交響楽団のCD。

 ハングルと英語のジャケットだが、演奏会場はモランボン・ホールとある。焼肉のモランボンが金を出したのかと思ったらそうではなくて、「牡丹峰」という平壌市内の景勝地で、そこにホールがあるらしい。パルテノン神殿風の建物。

 で、解説にはオーケストラの創立年が一九四六年とあるのだが、その脇にjuche35と書いてある。さらにジャケット裏にも制作年がjuche89(二〇〇一)とある。
 ということはJuche0年が一九一一年。これは何?と共産主義関係の出来事をみんなで挙げてみたが、ピンと来ない。ひとしきり考えたところで、金日成の誕生年とかはどうだろうと思いつく。編集長がネットで調べると、これが一九一二年。日本の元号と同じく〇ではなく一年から数えるとすれば、juche元年がこの年になって辻褄が合う。
 多分これだろう。ならば、金日成没後もそのまま続いていることになる。いわゆる「紀元」なのだ。
 帰ってからネットで調べると、やはり右の想像どおりだった。さらにJucheとはチュチェ(主体)のことであると判明。
 国際共産主義ではない民族共産主義国家であることが、こんなところにも示されていたのだ。しかも建国の年ではなくチュチェ思想の提唱者である首領の生誕年というのが興味深い。
 ミクシィの友人からは台湾の中華民国も辛亥革命の年を元年とする中華民国暦を採用しており、偶然にも同じ一九一二年にあたることを教えてもらう。さらにいえば大正元年もこの年で、極東地域では節目の年といえる。
 さらにさらにクラシック好きにとっては、マルケヴィッチ、ショルティ、ザンデルリンク、チェリビダッケ、ヴァントにライトナーが生まれた「指揮者の当たり年」である。

七月二十日
 チュチェ思想というのは、ある民族における一君万民思想みたいな共産主義なのだろうか。建国年ではなく誕生年を紀元とするのは、明らかな個人崇拝だ。となると国家社会主義によく似ている気がするし、日本の「民族自決型皇帝制」という不思議なものにも似る。
 皇帝とか帝国といった、ユーラシア大陸の各隅(中国、ローマ、モンゴル、インド等)でそれぞれに発展した概念は、ごくおおざっぱに言えば、諸部族諸民族の上に君臨し、広大な(時差があるくらいの)版図をもっているもののはず。単一民族で、狭い版図しかない皇帝なんてものがいるとすれば、それは滅亡寸前の帝国にしかいないはず。
 そういう意味では日本古来のオオキミは天子とか皇帝ではないのに、聖徳太子や天智天皇たちはあえて誤訳して、対等外交と外征を――内政的な必要性はなかったはず――やろうとした。
 それからぐっと降って明治に開国したときにも、ヨーロッパ諸国が古来の王国から国民国家に変貌する過程の、混乱の象徴として各国に皇帝がいる(東ローマを受け継ぐロシアは別として、本来西欧世界には西ローマ皇帝ただ一人のはず)という奇妙な事態になっていたことが、日本人の誤解に手を貸したのだろう。
 現代の地球上に、EMPERORと英訳される存在の中でただ一人存続できているのは、それがもともと誤訳だったお陰なのかも。しかしこの訳語は、日本人が気づかないうちに、あらぬ警戒心を他国に抱かせるはず。皇帝とは、諸国に君臨するに決まっているものなのだから。

七月二十一日
 買ったきりで積んだままになっていた『快傑ハリマオ』第三部「アラフラの真珠」をやっと観おえる。
 感想は色々あるが、後日あらためて書くつもり。

七月二十四日
 ミクシィには「足あと」という機能がある。自分のページを見に来た人のニックネームが、時間の近い順にならぶ。一日に何度も来てくれる人の場合、最新のものが一つだけ表示されるので、いつといつに何度来たかまではわからないようになっている。
 ただし日付が変わると、その直前のデータは残される。上書きされるのは同じ日付の中だけなのだ。つまり、二十三時五十五分に来て、次に十五分後の零時十分に来た場合、この二つのデータが「足あと」として残る。
 わずか十五分の間隔で二度も来たということが、午前零時を挟んでいる場合にかぎって、わかってしまうのだ。
 翌朝七時にまた踏めば、零時十分という記録は上書きされて消えてしまうのだから、その間に相手が「足あと」を見なければ気がつかれない。しかしもしその間に見て、「何だかストーカーっぽい」とか思われたら、どうしよう。こちらには特別の意図などなかったのに、あらぬ誤解をされてしまうかも知れない。

 というわけで二十三時半を過ぎると、マイミクさんのページを見に行くのは日付が変わるまで待とう、などと考える癖がついた。
 自意識過剰もいいところだとは、自分でもよくわかっている。同じ服を着て外出すると他人にバカにされるような気がして、新しい服を買い続けてしまう病気と、似たようなものである。
 しかし、こういうくだらない自分の心理(ともいえないような、もっと衝動的なもの)を考えていくと、そこである前提に引っかかる。
 午前零時って、なんなのだ。
 この瞬間が一日の終りと始まりである意味が、一日の「紀元」である意味が、現代日本においてどれほどあるだろう。テレビ・ラジオの関係者が午前一時を二十五時と呼ぶように、都市生活者にとって、寝る前の深夜は連続した時間だ。それが「足あと」では区切られる。
 午前零時とは「正午」からいちばん遠い時刻、ということだから、天動説なら太陽が「真下」にある。そこで日付が変わる。いわばアウフタクトによって新たな一日が起動されるわけだ。
 だが、陽の正反対の陰の位置だから、という決定法は観念的で実感に乏しい。だから、人間の生活感覚に結びつかないのだろう。日の出や日没のように目に見ることはもちろん、肌に感じられるものでもないのだ。

 話はここでまた思いっきりずれる。
 前から興味があったのが、旧暦の「不定時法」である。これは、日の出と日没の間を、昼夜それぞれに六等分して一刻とするものだ。
 つまり、一刻が二時間ちょうどなのは春分・秋分の日だけで、夏至や冬至の前後には、昼夜で一刻の長さが大きく違う(今の時期なら昼の一刻が約二時間二十分なのに、夜は約一時間四十分)。
 「時刻」という用語をウィキペディアで調べたらこの話も載っていたが、驚いたのは、これが室町時代頃から始まった日本独自のもので、中国は定時法、つまり一刻はつねに二時間だということ(天智天皇の漏刻とかいう水時計、不定時法には合わないと思っていたのだが、この記述通りならあの時代はまだ中国式の定時法なので、無問題なわけだ)。
 日の出は必ず卯の正刻、日没は必ず酉の正刻。健常者なら誰の目にも見える太陽の傾きで大まかな時刻を読めるようにする不定時法は、これはこれで実感的、実務的な方法だ。野外での労働は日照時間に合わせてやるものなのだし(北ヨーロッパみたいに緯度が高くて、夏冬の日照時間に甚だしい差のある地域なら、不定時法は無理が大きすぎるだろう)。

 十二支による時刻表記法を漢文明から借りておきながら、運用は勝手に自国流へ変更。しかもこの複雑な変動に合わせて調整される「和時計」までわざわざ開発したという。
 これも、仮名の開発に似た「日本化」の一つだったとは。やはり面白い国だと思う。

七月二十五日
 プロ野球の工藤投手が、十三球団から勝星をあげたという。工藤がパ・リーグにいたのはかなり昔で、楽天となんか戦ってないだろうと思ったら、去年の交流戦で勝っていたそうだ。
 交流戦のお陰で、両リーグ一球団、計二球団に属すだけで十二球団から勝星をあげることが可能になったわけだ。
 一方、サッカーのアジア杯。三位決定戦は「パレンバン」でやると知る。戦争オタクにとっては帝国陸軍落下傘部隊の降下作戦で有名な、油田のある場所。
 もちろん代表には準決勝に勝って、決勝戦のあるジャカルタへ行って優勝してもらいたいが、パレンバンで戦う代表を『空の神兵』の「♪藍より青き~」を歌いながら応援してみたい気もしないではない。日本のユニフォーム、青だし……(馬鹿者、インドネシアの人の気持を考えろ、という正論に対しては反論しないが)。
 そういえば、東宝映画『無責任男』や『若大将』シリーズ、それにわたしの年代では『クレクレタコラ』の監督として名高い(か?)古沢憲吾は、パレンバン作戦に参加したそうで、撮影所でのあだ名が「パレさん」だったとか(そしてわが阪神の往年の古沢憲司投手は、監督の親戚だったとか)。

 講談社現代新書の『モスラの精神史』(小野俊太郎)を購入。
 中村真一郎・福永武彦・堀田善衛の純文学三人組がその原作を書いた意味や、時代背景(一九六一年なので、わが一九六〇年話に近接)、蛾という日本的生物の選択、そしてインファント島なる「南洋」への思い(これは『快傑ハリマオ』に通じる)など、わたしにはたまらない話柄が並ぶので、期待がふくらむ。
 あわてて『モスラ』DVDも注文。

 夜はミューザ川崎へ、ニコラ・ルイゾッティ指揮の東京交響楽団の演奏会を聴きに行く。
 首都圏の九つのオーケストラが日替わりで登場する「フェスタ サマーミューザ」で、ホスト役となる東響の開幕演奏会。曲はヴェルディの《運命の力》序曲とチャイコフスキーの《ロメオとジュリエット》、それにプロコフィエフの交響曲第五番。四千円と格安なのが嬉しい。
 ルイゾッティは、数年前にサントリーのホールオペラで《トスカ》と《ラ・ボエーム》を聴き、その優れた呼吸感と大きなスケールに感服し、俊敏様式の一人として大いに期待している人物。
 サントリーの飽和する音響――今度の改修では改善されるのだろうか――でプッチーニばかり聴くのにも飽きて、違うホールで別の曲を聴いてみたいと思っていたところだったから、まさに渡りに舟のような演奏会。
 一階1Cというのはオーケストラと一緒にアリーナの中になった席なので、ライオンの餌食になるところを周囲の客席から見下ろされる、ローマ時代の奴隷の子供になったような気分(笑)。しかし近くても、オーケストラの音がきれいに身体から抜けてくれる感じが心地いい。良いホールである。
 ルイゾッティの指揮も、期待通りの出来だった。《運命の力》ではキレのいいリズムとカンタービレが冴え、《ロミオとジュリエット》では大きな呼吸で、情景を目に見えるように描いていく。
 ホールオペラでも感じていたのだが、とにかくオーケストラの楽員たちが、ルイゾッティとの音楽づくりを全身で愉しんでいることが、目からも耳からもぐんぐん伝わってくる。聴いているこちらの気持まで嬉しくなるのだ。
 特に、ソロ・コンサートマスターの大谷康子――一緒に行った山の神によれば同時期に芸大にいた人だそうだ――がかれの音楽と相性がいいらしく、《運命の力》以下、彼女が直率する第一ヴァイオリンの鋭敏な反応が素晴らしかった。
 後半のプロコフィエフでも、大きな身ぶりで躍動する指揮姿そのまま、大柄な音楽が跳ね回る。ただ、第三楽章後半でオーケストラが疲れてきたのか、音圧と緊張感が不足したのは惜しかった。このあたりは客演の限界と、指揮者の若さだろうか。
 しかしそれはそれ、とにかく終演時の満足感、幸福感の大きさに心より感謝。気持ちよく帰宅。

 で、帰宅後にテレビでサッカーをチラチラと観ていたら、英霊たちに呼ばれたのか、なんとパレンバン行き決定。『空の神兵』が頭の中で鳴りっぱなし。
 その後ウィキペディアで「古沢憲吾」の項目を見る。と、かれがパレンバン作戦参加というのは、本人の「ホラ話」の可能性が高いと書いてある(笑)。
 しかも映画監督は佐賀県鳥栖出身で、古沢憲司投手は愛媛県新居浜出身とあるから、ひょっとしたら親戚話もホラ?
 大学時代の友人で、高校の同級生に古沢憲吾の息子がいたという奴がいた。
「古沢憲司が初勝利したとき、オヤジのところに泣きながら電話してきた」と友人に言ったという話をわたしは聞いているのだが、こうなるともう、いったいどこに何人ホラ吹きがいるのか、見当もつかない……。

 しかしそれはそれ(こればっか)、古沢憲吾の監督作品を眺めていると、『青島要塞爆撃命令』があるのを発見。
 子供のとき、近所の寿司屋の外壁に、自由が丘の小さな映画館で上映されたそのポスターが貼ってあったのを見て心に残り、後でテレビ放送されたのを観て、その面白さに夢中になった記憶がある。
 子供時代にたった一度観ることができただけなのに、さまざまなシーンが今も瞼に焼きついている点では、『全艦船を撃沈せよ』――ドイツの仮装巡洋艦、アトランティス号の神出鬼没の奮戦を描いたもの。米題はアンダー・テン・フラッグスというらしい――と双璧の作品だ。
 もう一度観たいと思って調べたら、なんと去年DVDが出ている。ネットで早速注文。
 ちなみにビールと同じく「チンタオ」と読む。第一次世界大戦、草創期の海軍航空隊を描いた痛快な戦争映画である。

七月二十六日
 大学時代のサークル、音楽同攻会の仲間二人と新宿で飲む。
 一人は後輩で、講習を受けに勤務先の大阪から上京したのを機に、二十年ぶりの再会。もう一人は同学年。大阪勤務だったときに、仕事で偶然その後輩に再会したのだという。
 某巨大マスコミの社長・会長クラスのセレブの息子たちが、父と同じ会社でサラリーマンとして、窓際ではないがトップにも遠い地位で働いている話などをする。同族会社なら後継者になれるだろうが、かれらの場合は父もサラリーマンだから、そうはいかないらしい。
 おのれの分を知るという意味では、それが正解かも。実力第一のヤクザ社会に世襲がないのと似ている。

七月二十八日
 パレンバンの戦い。真白き薔薇の花は開かず。
 ところで「♪この山河も、敵の陣。この山河も、敵の陣」の歌詞は、中国で戦うU22代表にぴったりだなどと、また馬鹿な妄想にふける。

八月一日
 『快傑ハリマオ』第三部「アラフラの真珠」の感想(以前のものは二月分)。
 まず書かなければいけないのは、第一部「魔の城」編の舞台が、どうしてジャワ島のジャカルタなのか、という話題。

 ハリマオのモデルである谷豊が活動したのは、映画『マライの虎』の題が示すごとく、いまのマレーシアのマレー半島である。なのに、『快傑ハリマオ』の舞台ジャカルタは、隣国インドネシアの首都だ。ともに公用語はマレー語だから、マレー語で「虎」を意味するハリマオがインドネシアにいても言語的には問題ないが、史実としてはおかしい。
 わたしは当初、この相違の意味をあまり重視していなかったのだが、それは間違いであり、テレビ版のハリマオ形成を考える上で、重要な示唆を与えている。
 その理由は、両国の独立の経緯の差にある。マレーシアは宗主国イギリスから一部の衝突を除けば、全体的には平和裡に一九五七年の独立をかちとった。
 インドネシアはそうではない。一九四五年から四九年まで、進駐したイギリス軍や旧宗主国オランダを相手に独立戦争を戦い、合わせて八十万人という大きな犠牲を払った。そしてその戦争には、帰還を拒否した旧日本兵数百人(一説に二千人)が参加していた。
 戦後の日本人たちにとってかれらは、東南アジアで日本がけっして悪いことばかりをしたのではないことを証明し、免罪符を与えてくれる存在だった。
 特に有名なのは、独立間近の一九四九年に東ジャワで戦死したアブドル・ラフマンこと、市来龍夫だ。かれは第二次世界大戦中に日本軍が組織したペタ(インドネシア人による祖国防衛義勇軍)の教練に従事した、軍の嘱託だった。ペタからはインドネシア軍人が多数育ち、独立戦争の中核となる(なお市来の上官である柳川宗成大尉は、その烈しい気性から「虎」と綽名されていたという)。
 おそらくは、この市来龍夫と谷豊のイメージを重ね合わせた、新たな架空のヒーローとしてハリマオをつくり、それを副主人公に、南洋を舞台にした戦前風の少年冒険小説の復活を試みたのが、一九五五年から五七年にかけて日経新聞に連載された山田克郎の原作、『魔の城』だったのではないか。
 市来たちの活動が一九五〇年代の日本でもすでに知られていたのは、かれや盟友の吉住留五郎をモデルにするらしい映画『栄光のかげに』を、東宝が昭和二十九年に池部良主演、本多猪四郎監督、円谷英二特監、田中友幸製作で撮ろうとしたことからもわかる(しかし国交回復前の補償問題の難航で、インドネシア政府からロケ隊入国を拒否されたために製作中止となった。そこで代わりに同じスタッフで企画製作されたのが、『ゴジラ』であることは有名だ)。
 映画『栄光のかげに』企画が一九五三~四年。小説『魔の城』開始が五五年。国交回復によってスカルノ大統領が来日し、市来・吉住両名の功績を讃える一文を寄せて、それが東京タワー近くの青松寺の顕彰碑にされたのが五八年。赤坂のナイトクラブのホステス根本七保子がスカルノに紹介されたのが、五九年(のちに結婚して第三夫人デヴィとなる)。
 市来と吉住は戦前、南方進出に深く関わっていた右翼の大立者、愛国社の岩田愛之助に可愛がられていたという。そして戦後のインドネシアとの国交回復と補償ビジネスに食い込んだのもやはり右翼の児玉誉士夫だから、市来・吉住が日イ友好の象徴となる「烈士」として特に顕彰されたのと、デヴィ夫人「差し出し」とは、右翼人脈のラインでつながっていることになる。
 『快傑ハリマオ』にまでこのラインがつながるかどうかは、わからない。ともあれ、インドネシア関係を背景に考えていくと、第一部では年代の説明がなく、ハリマオが現役の軍人なのか元軍人なのか、はっきりしなかった理由も見えてくる。戦前の谷と戦後の市来の、二つの時代と場所のイメージが混じっているからなのだろう。しかし第一部だけで判断すれば、行方不明の海軍中尉を捜しに来る婚約者やそれに対するハリマオの態度などには、戦後の気配の方が強い。
 さらに第三部でもアンコールワットや香港への移動に一九六〇年当時の旅客機が使われ、ますます現代色が強くなる。
 ところが、この気配は第三部の最後で唐突に逆転されることになるのだ。
 それは石森章太郎のマンガ版と決定的に相違する点となり、どうやら以後の第四部、第五部のストーリーに、大きな影響を及ぼすことになるようなのだ。

 全五部六十五話の『快傑ハリマオ』は一クール(十三話)毎に舞台を変えることを、意識的に行なったらしい。
 第一部「魔の城」では、前述のようにジャカルタ。第二部「ソロ河の逆襲」はジャワ島中部のソロ河とスラバヤに舞台を移す。第三部はタイの首都バンコク、カンボジアのアンコールワット、そして香港へと、目まぐるしく移動する。このあとも第四部「南蒙の虎」は蒙古、第五部「風雲のパゴダ」はビルマ(ミャンマー)が舞台だそうだ。
 興味深いのは、谷豊が活動したはずのマレー半島や、シンガポールを外していること。が、これが意図的なものなのか偶然なのかはわからない。ともかく――「七つの海を駆けめぐり」は誇張としても――アジア諸国をまたにかけて悪と戦う人物、という設定に従おうとしているのだ。
 そして第三部は、実際に東南アジア・ロケを行なっていることがウリである。
 海外旅行の自由化前のこの時代、テレビ・ドラマの海外ロケは、これが初めてだったという。『兼高かおる世界の旅』は前年の一九五九年から開始されているけれど、あれはパンナムをスポンサーとする旅行番組だった。
 一九七〇年代くらいまでは改編期前後になると、『Gメン75』などで香港ロケの類が必ずあった記憶がある。刑事が大挙して香港旅行というのも妙な話で、筋には必然性がないし、香港の名所などテレビで観ても別に珍しくはないしで、観る方にとっては特にありがたくもなかったが、話題づくりとキャスト・スタッフの慰労旅行みたいな意味合いが、まだ残っていたのだろう。
 しかし『ハリマオ』では、一応ストーリーに関連がある。ただし必然性があるのは最初のバンコクくらいで、あとはこじつけ。アンコールワットに行くのは、そこが海賊ブラック(第一部で悪役を演じた牧冬吉が役を変え、片目片足の姿で再登場)の根拠地だからというのだが、内陸奥深くの遺跡にいる「海賊」には、もの凄く無理がある。
 ロケには宣弘社の小林利雄社長以下、総勢十八人が参加したとキングのLP解説にあるが、どうやらその人数になったのは最後の香港だけらしい。
 バンコクとアンコールワットに行った役者は、ハリマオとドンゴロスの松と太郎とタドン小僧の四人だけ。他の役者がからむ場面は日本で撮って、各シーンを入れ子細工のように組み合わせているのが微笑ましい。色調のごまかせるモノクロ画面のお陰だろう。香港ロケには女性二人と陳秀明も加わり、今はなきタイガー・バーム・ガーデンが写る。
 そしてハリマオが陳秀明の巣窟で悪を壊滅させ、いよいよラストシーン。
 ここで突然、帝国海軍の旭日旗らしきものが大写しになる。ハリマオこと海軍中尉大友道夫と、松こと海軍一等兵曹山田松五郎は海軍の紺色の軍服を着て、他の軍人たちとともに登場する――その後方に停泊しているのは帝国海軍の艨艟ではなく、オンボロの民間貨物船だが。
 ハリマオたちは現役の軍人なのだ。そして帝国海軍が立派に存在しているからには、ここまでの話はすべて戦前、ということになる(ちなみに第一部の靖国神社参拝のシーンでは陸軍式敬礼をしていたハリマオだが、ここでは脇をしめた、きれいな海軍式敬礼をしている)。
 この場面が、マンガ版にはないのだ。ハリマオはついに正体を明かさないままである。第四部でモンゴル共和国に入るのも、日蒙友好を目的とする「平和のための探偵本部」に招かれたからである。
 しかしテレビでは、別にやらなくてもいい正体ばらしをし、第四部では――ネットで読んだあらすじによれば――ハリマオは明白に日本軍特務機関に協力して行動する。「南蒙」というからには、舞台は現在の中国の内蒙古自治区だろう。
 宣弘社小林社長が自らの思い出の地に重ねるため、強引にハリマオを戦前へ引き戻したのか?
 第四部の発売が楽しみ。

八月一日(続き)
 『快傑ハリマオ』に関する妄想を、もう少し。
 『マライの虎』の主人公の本名が谷豊で、『快傑』の海軍中尉が大友道夫であると知ったとき疑問に思ったのは、いくら架空の話とはいえ、どうしてこんなに似ても似つかない名前にしたのだろう、ということだった。どこかに同じ字を残すのがこういうときの常道だからだ。
 だが『快傑』のモデルが市来龍夫(いちきたつお)だと考えるならば、最後の「夫」の一字が共通する。これだけでは牽強付会かも知れないが、大友道夫の一の部下であるドンゴロスの松こと、海軍一等兵曹山田松五郎の場合も、市来の盟友、吉住留五郎と「五郎」が共通する。
 コンビで考えるなら、類似性は倍加するのである。わたしは、市来・吉住から名前を借りた可能性が高いと思う――それを考えついたのが小説の作者山田克郎なのかテレビの脚本家なのかは、小説を読んでみないとわからないが。
 キャラクターとして考えた場合にも、変装した特務機関員よりは、故国も恋人も捨てて異国の盗賊に身をやつし、孤独無頼のまま闘い続ける男の方が、陰影があって魅力的だろう。
 第一部でのハリマオは、間違いなくそうした『水滸伝』風の気配を漂わせていた。ところがそれをテレビ版は、すでに述べたように第三部の最後で変えてしまう。そこからはまるで「007」のようなスパイ・ヒーローになるらしい。そしてジャワ島を離れてしまうのだ。
 興味深いことに石森章太郎のマンガ版は、第三部までは放映スケジュール通りに一部十三週で進めていたのに、第四部は半分の七週に短縮し、そこで連載終了している。第五部は存在しない。
 これは、単に雑誌とテレビの連結的な契約が年内で終り、雑誌側の都合で打ち切られただけなのかも知れない。だが、テレビ版とマンガ版の設定にズレが生じて間もないところでの終了だけに、暗示的なものを感じずにはいられない。
 第三部放映まで、つまり一九六〇年までのハリマオと、一九六一年正月以降のハリマオは、別人と考えるべきか。

八月二日
 夜は新宿のロフトプラスワンへ、岡田斗司夫と唐沢俊一の対談を見に行く。
 二人の『オタク対談』(創出版。うちから百mくらいのところにある)の出版記念イベントとして開かれたもの。

 オタクは世代的に、
「六〇年前後生まれを中心とし、『宇宙戦艦ヤマト』や『機動戦士ガンダム』を一〇代で見た第一世代、七〇年前後生まれを中心とし、先行世代が作り上げた爛熟し細分化したオタク系文化を一〇代で享受した第二世代、八〇年前後生まれを中心とし、『エヴァンゲリオン』ブームのときに中高生だった第三世代」
(東浩紀『動物化するポストモダン』講談社現代新書)に分けられるという。
 要するに、感受性と記憶力がいちばん強い十代に、何が流行っていたかで分けられるらしい。
 ともに一九五八年生まれで、オタクの「第一世代」にあたる岡田や唐沢の対談集『オタク対談』には、「いまの若いオタクは」式の小言が少なくない。
 人間には自分の人生と、ある時代の興亡とを重ねてしまいたくなる習性があるが、かれら二人もどうやらそうらしい。ところがオタク経済は衰えるどころか今も拡大、あるいは少なくとも現状維持を続けていることが、かれらを苛立たせているらしい(ブログなどで若い世代の、かれらに対する遠慮のない感想を目にしてしまう機会も多いからだろうが)。
 ロフトプラスワンで唐沢が言ったことだが、オタク第一世代は「団菊爺」になれないという。つまり、団菊爺の絶対の優位は、若い世代が見られなかった明治の名優、九代目団十郎や五代目菊五郎をその目で見ていることにあるのに、オタクの場合は、ゴジラだろうがアトムだろうが今でも見られるのだ。そのため威張れるのはせいぜい、コミケの成長と発展に立ち会って、その空気を知っているとか、そんなノスタルジーにすぎない。
 クラシックとは対照的だ。演奏会やオペラ公演は団菊爺の楽園、相原コージのマンガの題を借りれば「サルでもなれる団菊爺(通称サル団)」の世界である。
 それに対してオタクの世界は、過ぎ去ることなくひたすら増大する情報に対して、どの世代も対等だ。その状況がかれらを苛立たせ、多弁にする。
 年のせいで記憶力も好奇心も磨滅してきた自覚はわたしにもあるので、同世代人としてかれらの「老いっぷり」にはいたく興味がある。

 本の中で特に共感したのは岡田の
「これからのトレンドは自殺だ」
「これまで遊んで暮らしたんだから、その時期を見て幕引きは鮮やかにやりましょう」
「楽しく生きるにはあと4年分の貯金しかない、と思ったら4年後に死ねばいいと思うんですよね」
「映像ファンなんだったら、老眼になって目が見えなくなったら死んだ方がいいんですよ。見ることが生きがいの人にとって、見えなくなってまで生きる意味ってないじゃないですか。(中略)消費者も消費ができなくなったら死ぬということが美談にならないのは僕には全く理解できない」
といった自殺論である。
 以下は私見だが、医療と消費社会の進歩による長命化、核家族化、独身化が進んだ先進国では、安楽自殺の権利が「最終的基本的人権」としていずれ認知されるのではないか。キリスト教国家では不可能だろうが、日本なら可能である。もちろん、価値観の大転換と制度のよほど慎重な策定と運用が必要になるだろうけれども、安楽自殺の権利を行使したいと思う一人暮らしの老人や病身の老人は、これからどんどん増えていくのではないかと思う。

 かれらを生で見られるし、ロフトプラスワンというトークショー用ライブハウスにも一度行ってみたかったので、いざ出発。場所は歌舞伎町のコマ劇場脇のビルの地下二階である。
 二人の人気なのか、唐沢の盗用疑惑騒動の野次馬なのか知らないが、開始時刻の十九時に着くと、百七十席がほぼ満席という人気ぶり。前から数列目の真ん中というよい席を係の人が親切にも見つけて案内してくれたが、身体を小さくして座るのは楽ではない。
 着いたときは、女性が陰気な声でぼそぼそとしゃべる映像が映っていた(そのときには何だかわからなかったが、さる有名力士の愛人の激白ビデオだったと、後でネットの情報で知った)。
 それから岡田が登場して一人で小一時間しゃべり、続いて唐沢が同じようにしゃべる。このあと、別の人がフランスのオタクの集会の模様を紹介したところで休憩。後半が二人の対談になるのだが、この時点で二十一時になっていたので、ここで退散。対談の方がノリはよさそうなのでそれを聞けないのは残念だが、仕事もあるし、窮屈さに耐えるのも限界。
 唐沢はYouTubeから『クレクレタコラ』を上映。二人とも、ネット上では旧来の著作権の概念が消滅していくだろうという考えに沿って話していた。オタクの世界はコミケという著作権無視の場で拡大発展してきたから、そこからYouTubeのようなネット上の無法状態へは自然につながるのだろう。
 今年のわたしは人前で話す機会がなぜか多い(前半二回、後半も二回予定)ので、一人でしゃべっているところを見ているのは参考になった。

 しかし結局、何よりも印象的だったのは、夜の歌舞伎町の異様に猥雑な活気。
 ――なんでこんなに人が多いのだ。
 考えてみたら、夜にここへ来るのは二十年以上前の早慶戦の夜以来(そのときはまだコマ劇場前に噴水があった)。
 渋谷などだって人は多いが、範囲と多様性の桁が違う。
 この歌舞伎町の他に、伊勢丹付近のハイソな活気、京王・小田急付近の沿線住宅街直結の活気、西口高層ビル群の威圧的な活気、西口大ガード付近の闇市的活気、ヨドバシカメラ付近の電磁波と高速バス発着所の活気、新宿二丁目のちょっと淫猥な活気、ゴールデン街のやさぐれた活気など、それぞれに顔の違う、数十万の欲望が同時に、大量に消費されているのだから、夜の新宿というのは、想像するだけでも物凄い空間。
 その一角のビルの地下二階の部屋に、百五十人以上の見知らぬオタクに囲まれて、身動きとれずに座って人の話をじっと聞いている、自分。
 帰りがけにそのイメージを思い描いてみたら、自己のあまりの矮小さに目まいがしてくる。
 家に家族がいることのありがたさを感じるのは、まさにこういう瞬間。独りだったら神経をやられてしまう。

 新宿という街には、小学校へ上がる頃が一九七〇年前後の「新宿が燃えていた時代」だったせいか、「あれは恐ろしい不良の街。行ってはいけない街」という印象を刷り込まれていて、何十年たってもある種の苦手意識が消えない。
 東横線沿線育ちにとっては、渋谷こそ近しい街なのだ。
 しかしこれも、九〇年代の「ジャリとチーマーの街」に対する嫌悪が刷り込まれた世代だったら、理解できない感覚だろう。自分の場合は、それ以前の七〇年代の渋谷、東急文化会館のプラネタリウムと映画館とゲーセンと三省堂と切手売場、それに「本のデパート」大盛堂こそが原像なのだ――考えてみたら、どれも現存していない。これで東横線が計画通り地下駅化され、あのホームとその変な眼鏡型の側壁が取り壊されたら、もうほとんど「ボクの渋谷」は消滅である。
 しかし、「ジャリとチーマーの街」としての渋谷も、すでに終っている。センター街は衰えた。相変わらず人は多いが、十年前の空気の密度や熱気はまるで失せている。原因は色々あるだろうが、ティーンの数の減少が大きい気がする。
 それと無意識に較べるから、二十年前と変わらぬ異様なパワーを持つ、夜の歌舞伎町の姿に圧倒されたのだろう。
 ここが衰えたら、日本はいよいよ終りなのだ、きっと。

 新宿はまた、昔も今も、地方出身者のパワーが動かす街という気がする。東京が大阪やその他と決定的に異なるのは、地方出身者の多さにあるといわれるが、新宿は中でもその焦点になる街なのだ。
 港町ではないのに港町みたいだとわたしが感じるのは、その流動する活力のためなのだろう。すぐ近くなのにホームシックにかかるのも、そのためだろう。

八月九日
 先月二十五日の日記で、映画『全艦船を撃沈せよ』に触れた。一九六〇年製作(これは偶然)のこのモノクロ映画は、現在DVDなどは出ていないらしい。
 第二次世界大戦ドイツの仮装巡洋艦、アトランティス号の話だ。仮装巡洋艦とは、商船に大砲などの武装を隠して取りつけ、他国の国旗を掲げて敵国の商船に接近、突如としてドイツ国旗を掲げて敵船を拿捕する通商破壊船のことである。映画の米題『アンダー・テン・フラッグス』とは、アトランティス号が十か国の国旗を用いたことに由来するらしい。
 何といっても、アトランティス号というロマンのある艦名が素敵なのだが――第一次大戦時に同様の作戦をした帆船、ゼーアドラー号と同じくらい――これは架空ではなく、実在の艦である。
 ウィキペディアには「仮装巡洋艦」という項目があり、アトランティス号などのドイツの仮装巡洋艦も載っている。
 興味深いのは、敵から逃れて日本に来航した仮装巡洋艦が二隻もいること。
 まずトール号――アトランティス号を上回る十五万五千トンの敵船を撃沈した――は一九四二年横浜に入港したが、十一月に爆発事故に巻き込まれて沈没。その後、一九四三年三月に神戸に入ったミヒェル号は、トール号の元艦長グンブリヒを新艦長として出撃、インド洋と太平洋で通商破壊戦を行ない、七か月後に日本へ再び戻る途中、父島沖で米潜水艦の雷撃により撃沈されたという。
 ミヒェル号の艦長をグンブリヒに譲ったルクテシェルはその後、駐日ドイツ大使館に勤務していたという。この二隻の仮装巡洋艦の活動、軍港でなく民間の港にいたこと、そしてトール号の爆沈などなど、これ以上ないくらいスパイ小説向きの題材に思えるが、書いた人はいるのだろうか?(ドキュメンタリーでは『横浜港ドイツ軍艦燃ゆ』という本が出ているらしい)

 やはり同日の可変日記で触れた『モスラの精神史』の話。
 いささか情報が多すぎ、というかキーワードでつながってはいるものの、関連性をもっと説明した方がいいと突っ込みたくなる話柄も多くてまとまりは弱い――自分自身の反省として、ネット時代にはキーワードによる情報の連鎖が簡単につくれる反面、それに溺れる危険も小さくないのだ――が、面白い本だった。
 モスラの故郷インファント島の位置の推測など、とても愉しい。また例のザ・ピーナッツの歌はマレー語で、戦後賠償の一環で東大に留学していたインドネシア留学生が訳に協力したという。それらしい南洋の言葉であればどこでもよかったのだろうが、そこでインドネシアがからむあたり、一九六〇年前後の日本の対外交流における、インドネシアという国の存在の大きさをあらためて感じる。
 原作の小説と映画では差も大きいのだが、いずれにせよ当時のトピックスや最新の巨大建築――原作では安保と国会議事堂、映画では東京タワーと小河内ダム――を貪欲に取り入れた上で、一つの寓話を物語ろうとしたことが、この本からはよくわかる。
 その時事性へのこだわりを考えると、主人公の一人に言語学者が選ばれた背景には、映画の四年前の一九五七年に岩波新書『日本語の起源』の旧版を書いてベストセラーとした、大野晋の存在があったのではないか。『モスラ』の言語学者の中条信一という名は原作者の一人、中村真一郎のつくりかえだが、大野晋とも「シン」が共通する。
 大野のこの本では、縄文時代にポリネシア語族に似た南方系の言語が行われていて、北九州への弥生文化の到来とともに、北方のアルタイ語系の朝鮮南部の言語が行われるようになったとする説が唱えられている(大野は後年に説を変えて日本語の起源をインドのタミル語とし、その説に基づいて『日本語の起源』も一九九四年に新版に書き換えている)。
 新版のタミル語説同様、旧版の「縄文=南方系、弥生=北方系」説も学問的根拠は薄いそうだが、本のヒットともに世間にかなり流布したのは事実で、日本の源流にポリネシア文化があることを広める役割を果たした。
 そしてこの説を利用して、『モスラ』のインファント島には、日本の「原像」というイメージが重ねられている。強大な西洋文明のなすがままに核実験場となり、女神的存在の小美人(原作では発光妖精)を連れ去られ、外国で見せ物にされる南洋の小島。その可憐さに、黒船以来の混乱、被爆と敗北、被占領、そして安保と、大国に翻弄される当時の日本の気分が重なるのだ(映画の中でザ・ピーナッツが歌う二曲のうち〈モスラの歌〉は前述のようにマレー語だが、〈インファントの娘〉はその題にもかかわらず日本語で、しかもキモノを着て歌われる。おそらくはアメリカの観客へのサービスなのだろうが、インファントと日本の二重性を暗示するかのようだ)。
 小説版のインファント島には、創世神話がある。発光妖精とモスラは、その創世神に直接連なる存在で、神聖不可侵のものだ。そして発光妖精の権威が夷狄の手によって侵されようとするとき、モスラが出現して彼女たちを護る。
 あえていってしまえば、モスラは「神風」のごとき存在なのだ。モスラの卵の前で炎を燃やし、その孵化を祈って踊り狂う島人たちの姿は、元寇のさいに一心不乱の加持祈祷を捧げる天皇家や全国の寺社の姿と変わらない。そして、十六年前の日本には吹かなかった神風が、一九六一年のインファント島には吹く。
 前年の安保闘争があれほど盛りあがった要因の一つに、一般大衆のアメリカへの反感があったことは、つとに指摘されるところだ。『モスラ』に出てくる大国がアメリカなのはバレバレなのに、あえて変名――小説はロシリカ、映画はロリシカ――にしているのは、その反感が本物であるのを、逆に証明しているのかも知れない。
 この作品のモチーフの一つはアメリカ映画『キングコング』だが、キングコングとモスラでは、与えられた意味がまるで違う。キングコングは未開野蛮の島の中でこそ王者だが、文明とその科学技術によって容易に圧殺される、夜郎自大な乱暴者にすぎない。モスラは違う。現代科学ではまるで歯の立たない、神聖不可侵の始源的な猛威なのだ。

 それにしても、『モスラ』公開の一九六一年前後には、科学技術が人類にもたらす災厄はせいぜい核戦争であって、結果論を承知でいえば「国家間で気をつければ回避できる」程度のものだった。
 だが半世紀後の現代では、温暖化や資源枯渇など、地球規模の「公害」を生みだすほど巨大なものになっている。政治体制ではなく、文明システムの抜本的変換が必要とされているのだ。その変化の速さを痛感する――イデオロギーの世紀が終ったことを、痛感する。
 そして思う。地球規模の公害こそ、新世紀のモスラではないか。科学では敵しえない「神風」なのである。

 トリビア。『モスラ』監督の本田猪四郎の第一回監督作品は一九五一年の『青い真珠』だが、その原作は直木賞受賞作『海の廃園』で、その作者はのちに『魔の城』を書く山田克郎だという。そしてその『海の廃園』は、光文社文庫の新鷹会・現代小説傑作選『男たちの凱歌』で現在も手軽に読める。山田は長谷川伸が主宰し、村上元三、山岡荘八、池波正太郎、棟田博、平岩弓枝などがいた小説勉強会、新鷹会に属していたのだ。
 道は『ハリマオの精神史』へ?

八月十九日
 朝パンをかじっていたら、中央左側の前歯の角が三角クジのように欠けた。
 現代の子供は予防技術が進んで虫歯が少ないそうだが、四十年前の子供であるわたしは早くからボロボロ。上顎の前歯を最初に差歯にしたのは、小学六年生ぐらいのとき。せっかくの永久歯を、わずか数年でダメにしてしまったのである。
 けさ欠けたのは、十年くらい前に入れた三代目(オリジナルの自分の歯を入れれば四代目、乳歯を入れれば五代目)。
 そういえば歯が欠けたり折れたりするのは、大体パンをかじっているとき。何か変な力が歯にかかるのだろうか。
 それにしてもこれを直すとなると前歯六本まとめてだから、また金がかかる。
 来月には単行本の印税が入るから懐が少しは暖かくなる(といったって、サラリーマンのボーナスとは比較にならない額だが)と思ったのに、入るとなると出てゆく。嗚呼……。

 大河『風林火山』の脚本の上手さ、副主人公たちの扱いの上手さはいまさら言うまでもないが、今日も大いに感心。
 GACKTの演技がいいとはわたしも言わないが、だんだん慣れてきたようだし、こっちも見慣れてきた。
 ベテラン役者がいなくなって薄くなるのが例年の大河の夏以降なのに、そこでとっておきの緒形拳を出してGACKTをバックアップするというのは妙手。
 かれ一人いるだけで奥行が出る。声の説得力でも緒形は仲代達矢に負けない。今年の緒形は新国劇の創立九十周年記念公演にも参加するそうだし、大河も『毛利元就』の尼子経久役以来十年ぶりに出演と、何か自己の芸歴の総決算をやろうとしているような気配があるのだが、まだまだ頑張ってほしい。

 しかしやっぱり脚本がいい。というか嬉しい。今日の「一盃の酒」にこだわった景虎と勘助のやり取りは、明らかに不識庵謙信の遺偈、
「四十九年一睡の夢
        一期の栄華一盃の酒」
の「一盃の酒」を想起させるようにしているのだろう。
 しかもそれをわざと説明しない。こういうところが歴史好きにはたまらない。
 来週は真田話らしい。真田一門への脚本家の思い入れも、いつも明らかに度を越しているだけに(笑)、楽しみ。
 この脚本ならきっと、少年時代の真田昌幸と勘助にも、何らかの交流を持たせるのだろう。

八月二十二日
 カルショーの『ニーベルングの指環』の見本来る。
 『レコードはまっすぐに』は青の表紙に白の帯で「ドラえもん色」と呼ばれたが、こちらは赤に白で、さしずめ「真夏のサンタクロース」。
 どの本でもそうなのだが、不思議なのはインターネットの書籍販売サイトで、帯をとったカバーのみの画像を掲げているところが多いこと。
 わたしたちが書店の店頭で現物を目にするときは、帯がついた状態である。買ってから外すかどうかは購入者の自由だが、少なくとも「商品」としての姿は、帯付の状態だ。それに古本を買う人ならご承知の通り、古本でも帯付の方が帯なしよりも一般に価値が高い。
 帯は商売用の「虚仮」であり、カバーだけが純粋な「真実」という理屈なのかもしれないが、カバーだって本来の出自は「ダストカバー」、すなわち汚れ避けの「虚仮」である。
 公立図書館のように非営利ならば「純粋」志向も道理に合うが、商売でやっているはずの書籍販売サイトが「虚仮」を嫌い、商品としての姿を歪めているのは矛盾だ。売らんかなの文字が並ぶ帯は、サイトにとっても宣伝に役立つはずである。重版になったときに帯の文章が変わることも多いので、管理が面倒とかいう理由もあるのかも知れないが、変だ。
(などとわめくのは、『ニーベルングの指環』の表紙デザインが白帯も含めて発想されているため、白帯を取ると赤一色でかっこ悪いという、はなはだ手前勝手な理由による)

 ともあれ、一人でも多くの読者に愛される本となりますように!

 付記 あとで思いついたが、帯というのは本という商品には含まれない、包装の一種なのかも知れない。つまり、カバーさえあれば完全な商品として成立し、帯なしのまま店頭で売っても問題なし、ということかも知れない。たしかに帯のなくなった新品も売られている。
 だから帯なしの画像は「この状態で商品として完全です」ということを示しているのだろうが、しかし……。

八月二十三日
 クラシック関係者には阪神ファンがけっこう多い。その一人、山尾敦史さんに声をかけていただいて、阪神好き四人で神宮のヤクルト戦を観に行く。
 神宮の内野席で阪神戦を観るなんて、三十年ぶりくらい。そのときは中村勝広が先頭打者ホームランを放ち、山本和行が好投したが大杉に打たれ、最後はリリーフで出てきた松岡の快速球に抑え込まれ、結局は二対二の引き分けだった。
 今日はいいところなしのボロ負け。
 しかし涼しい晩だったこともあり、吹き抜ける風が心地よかった。野球はやっぱりドームよりも屋外にかぎる。

 モスラ追想。言語学者の登場のこと。
 『モスラの精神史』で小野健太郎は、主人公の一人が文系の言語学者であるのを「意外」と考える。「ふつう怪獣映画に出てくる学者や博士は古代生物、動物学、地質学、天文学、宇宙工学などいわゆる理系の学者であろう」とし、『ゴジラ』で平田昭彦が演じた芹沢博士を例にあげて「制御できない怪物を作ったフランケンシュタイン博士につながるマッド・サイエンティストに属す人」とする。そして「怪獣映画に文系の学者を、しかも主人公として設定したのは、中村たちの想像力の限界を示すともいえるが、それだけユニークな視点を盛りこめたとも理解できる」と書く。
 だが、どうして文系の学者だと原作者の「想像力の限界を示す」ことになるのかよくわからないし、「それだけ~」以下も、論理上の逃げ道をとりあえず設けているだけであって、何がどうユニークなのかは説明していない。
 私見では、怪獣に直面するのが言語学者であることこそ、東宝怪獣映画の系譜の中でのモスラの特異性を何よりも示しているように思う。
 モスラは、ゴジラやラドンのような古代生物の生き残りではない。つまり太古の蛾の一種が、原水爆の影響で巨大化したバケモノではない。また、フランケンシュタインやサンダとガイラのように、科学者がつくりだした怪物でもない。キングギドラのように、宇宙から襲来する地球外生物でもない。
 では何か。神話そのものなのだ。中村が捏造したインファント島の神話によれば、男女の創世神が生んだ卵の最初の一つである。ほかの卵が孵って人間や蛾になったのに、これだけが孵らないままだった。そして、母神の遺体から生まれた四人の発光妖精が島外にさらわれて危機に瀕したとき、ついに孵化してモスラとなり、彼女たちを救うのである。
 古代生物ではないのだから、生物学者はお呼びではない。人間の力で倒せるものではないのだから、オキシジェン・デストロイヤーを発明するようなマッド・サイエンティストも必要ない。
 異国の神話だから、文系の学者の出番になる。なかでも当時の大野晋がそうであったように、日本語の系統論から日本と南洋との関連性を解きあかしてくれる言語学者を配置すれば、日本神話とインファント島の神話との二重性を暗示することになる。
 言語学者の起用は、原作者たちの想像力の限界ではなく、逆にその大きさを、いわば寓話力を示しているように思う。

八月三十日
 片山杜秀さんと新宿で飲む。
 内容は日本論のオタクっぽいもの。宣弘社から昔のテレビの話題になり、再放送の話になる。わたしたちの年代は『アトム』や『忍者部隊月光』以降、つまり自分が生まれた頃のアニメやドラマは再放送を見ているのだが、『月光仮面』や『ハリマオ』、さらに『少年ジェット』といった昭和三十五年前後の放映作は、再放送をまるで見た記憶がない。片山さんもやはり憶えていないという。わたしたちが物心つく前に再放送すら終っていたということなのか、それとも?
 続いて、寅さんみたいな固定した主人公によるシリーズ映画を嫌っていた、テレビ以前の全盛時代の日本映画の話。鞍馬天狗のように、小説など別のメディアで生まれたキャラクターを借りた場合は別として、映画独自のキャラクターのシリーズ化は、昭和三十四年以前にはあまり例がないのではないか。
 ゴジラでさえ、白黒で二本撮ったあとは、テレビに押されるまで復活させようとしなかった。日活の無国籍アクションも東宝の喜劇物も、シリーズ化が際立つのは昭和三十五年以降である。また、黒澤が『用心棒』の主人公をつかって『椿三十郎』を撮ったとき、同時代の人の中には映画の出来を云々する以前に――映画としては後者の方が絶対に面白いし、わかりやすい――黒澤までがそんな安易なことをするのかと、嫌悪した人が少なくなかった。そしてそれは昭和三十六年と三十七年、やはり日本映画の人気衰退が始まっていた時期の話なのである。
 信玄と信濃、信長と近江の話もする。盆地続きの信濃にこだわってしまった信玄に較べれば信長は開明的だが、あの近江と琵琶湖への執着を考えると、はたしてどこまで全日本的な構想を持っていたのか疑わしい、なんて話。不便な山上に住みたがったのも、かれのある種の古さを示すのかも知れない――その限界がよくも悪くもぶっ壊れているのが、百姓あがりの秀吉なのだ。
 などと、とりとめのない話を思いつくままに三時間。とても愉しかったが、某ブログに紹介されていた、本の重さでついにご自宅の書棚が崩壊した話は、聞こうと思っていたのに聞き忘れた。
 ところで、本であれCD解説であれ雑誌であれ、形になったときには何らかの達成感や幸福感が、本来ならある。
 しかし私も片山さんも〆切をあんまり――婉曲表現(笑)――守らない方なので、出たときには編集者やスタッフや読者への罪悪感と、後悔しか残らない。
 片山さんの場合はさぼっているわけではなく、原稿依頼が多すぎるため、一つの遅れが将棋倒しで他の遅延につながるからなのだが、いずれにせよ後味が悪いばかりでちっとも嬉しくないのは困ったものだ、どうにかならないだろうか、と二人して反省。いや、〆切を守ればいいだけなのだが、これが……。

 膨大な執筆量にもかかわらず単独のご著書がなく、政治思想・クラシック界の鏡明(かがみ あきら)と呼ばれた片山さんも、秋から冬にかけては続けてご本が出るという。大いに楽しみ。

九月一日
 『ニーベルングの指環 リング・リザウンディング』が書店に並びはじめたようで、三十日夜に買いました、という方からのメールをいただく。

九月五日
 荻窪の杉並公会堂へ、日本フィルハーモニー交響楽団の「アフタヌーン・シリーズ」第二回演奏会を聴きに行く。
 指揮に延原武春、チェンバロに中野振一郎を迎えたオール・バッハ演奏会。ブランデンブルク協奏曲第三、五番、チェンバロ協奏曲第四番、管弦楽組曲第三番のほか、チェンバロ独奏によるイタリア協奏曲第一楽章も演奏された。
 曲間に説明役をされた楽団の首席ヴィオラ奏者後藤氏によると、日フィルに入ってから、オーケストラでバッハを演奏した記憶はほとんどないとのこと。
 意外と思い、しかしまた納得もできる話だった。たしかに日本のオーケストラ活動を考えれば、曲目は後期ロマン派を中心とした大編成物に傾きがちで、バロック音楽を演奏する機会は、ほとんどないのだろう。そしてこれは日フィルに限らず、日本やアメリカの交響楽団の団員たちに共通する状況なのではないか。
 ピリオド奏法の学習と実践がオーケストラに内外からさまざまな影響を与え、その演奏を俊敏様式へと変化させつつあるヨーロッパの状況とは対照的だ。日本ではまだ、二十世紀が続いているとさえいえるのかも知れない。
 延原武春氏による話も面白かった。低音部のいくつかの「約束事」を基礎にして、上部をつくっていく――こう書くとマルクス史観みたい――というようなことを話していた。低音部の弾力のあるリズムを基礎に、他の声部が互いを聴き合い、掛け合いながらつくっていく、という意味だとわたしは理解した。そしてそれが楽員たちにも「愉しさ」を感じさせるにことになる、とも。
 しかし「バッハは愉しいでしょう?」という延原氏の問いかけに対して後藤氏が答えに窮した場面を象徴として、ここで響いたバッハはまだまだ「音楽の父」の額縁に入っていて、愉しいとまではいかなかったのも事実。近代オーケストラの機能の中に埋没することに慣れている楽員個々の自発性を再発見するのは、容易ではないのかも知れない。ところが、アンコールで演奏されたヘンデルの《水上の音楽》のメヌエットは闊達な、まさに愉しい演奏になっていて、延原氏の目指すものが垣間見えていた。
 楽員にとって、バッハと「音楽の母」ヘンデルとの間には、いったいどんな印象差が、距離差があるのか、それを知りたくなる。
 いずれにしても、こうした試みを重ねてリズムや呼吸の感覚が養われていくのなら素晴らしいことだ。早く「バッハは愉しい」と楽員が自発的に言える日フィルになってほしい。

 荻窪駅というのも来る機会の少ないところなので、少し観察。北口のバス・ターミナルの中途半端な大きさ、整理されていない無駄の多さなど、昭和前期のボンネットバスが無舗装の砂利道を動いていた時代からそのままだろう雰囲気が、現代の建物群になっても如実に残っているのが面白い。中野、阿佐ヶ谷あたりよりも都心から離れていることが、こんなところで実感できる。
 駅前にかなり大きなブックオフがあったので物色。わたしの日常の行動範囲にはこの店がないので新鮮。ほんとにたくさんのマンガが立ち読み可能な状態で並んでいる。こんなのが近くにあったら、毎日入り浸ってしまうに違いない。自分は間違っても大きなブックオフのある町には住めないなと痛感。
 帰りに新宿の某大型書店に寄って音楽書のコーナーを見ると、『ニーベルングの指環』は未入荷だった。いつもながらに書籍の流通ルートによる速度差は、不思議である。

 瀬島龍三死去を知る。ハリマオに関連してインドネシア戦後賠償に関心を持ちはじめたところだったので、感慨あり。

九月十三日
 サークルの大先輩、東条碩夫さんがブログを始められた。
 サークルといえば、西村雄一郎の『黒澤明 封印された十年』を買ってきたところ、西村氏も早稲田の音楽同攻会出身と書いてあってビックリ。この本は半自伝的なもので、そのへんの回想も出て来るらしい。

九月十五日
 久々の一九六〇年オタ話。
 モダン・ジャズ黄金時代のアーティストたちの演奏映像が、このところさかんにDVD化されている。
 多くはヨーロッパのテレビ局のアーカイヴズからの「蔵出し」だ。本国アメリカではモダン・ジャズの映像でまとまったものは少なく、むしろヨーロッパに残されているという。ジャズというジャンルの、アメリカでの位置を考えさせられる話だ。
 そうしたヨーロッパのジャズ映像から二種購入。まずは「JAZZ ICONS」のコルトレーン盤。わたしが好んで聴く数少ないジャズ演奏の一つ「マイ・フェイバリット・シングズ」がエリック・ドルフィーの共演で視聴できるのも嬉しいが、お目当ては一九六〇年三月デュッセルドルフでの映像。マイルス・デイヴィス・クインテットの一員としてヨーロッパをツアーしていたときのもので、マイルスが出演を拒否したために、仕方なくコルトレーンのワンホーン・クァルテットになっているのが面白い。
 マイルスの代りに、一緒にツアーしていたオスカー・ピーターソンとスタン・ゲッツが後半に参加してジャムとなる。コルトレーンとゲッツの共演が珍しい。拍手が入っているが、あとからダビングされたものという。
 もう一つは「IMPRO‐JAZZ」のエリック・ドルフィー。七月のアンティーブ音楽祭でのミンガス・セクステットのライヴから《四月の思い出》。ゲストのバド・パウエルの姿が観られるのも貴重らしい。なおこのコンサート全体はステレオ録音のCDで聴ける。

九月十六日
 タワーレコード渋谷店にて、『ニーベルングの指環 リング・リザウンディング』発売記念のトークイベント。
 お相手は『クラシックジャーナル』の中川編集長。真夏のように暑い日曜の渋谷はつらい。しかも自民党総裁候補の演説会があるとかでハチ公前は大混乱。
 このような悪条件にもかかわらず、たくさんのお客さんが聴いてくださった。ここは椅子席で聴いてもらえるのでこちらも話しやすいのだが、後方には立ち見の方までいた。サイン会も、予想以上の数の方に並んでいただいた。
 正直にいって、翻訳者がこうした場に出しゃばることに躊躇がないわけではない。僣越を嫌う人もいるだろう。サイン会となると、さらに微妙だ。
 だが、著者のカルショーに来てもらうわけにはいかない。誰かが販促に協力しなければならない。今回は、初刷の冊数をこの種のマニア本にしては多くしていただいた――もちろん、前作の『レコードはまっすぐに』をたくさんの方が買ってくださったから――ので、刷数に比例する印税がこの本からの収入額となる訳者としては、感謝の意味でもプロモーションに協力する義務がある。
 というわけで、はたして訳者の話を聴きたがるお客さんなどいるのだろうかと危惧しつつ会場に来たので、多くの方に熱心に聴いていただき、サインの際には温かいお言葉をかけてくださったのは、本当に嬉しかった。三文ライターにとっては無上の喜びであり、何よりの励ましである――同時に、いつかは翻訳ではなく自著で、同様のお言葉をいただけるよう精進せねばならないと痛感するが。
 なお、当日のトークの内容は『クラシックジャーナル』に掲載されるはず。

九月十八日
 ミュージックバードにて、舩木篤也さんと二人で「ユーロライヴ」の最終回収録。半年やってきたが、二人で一緒に出演するのはこの最終回が初めて。
 音源の提供者であるEBU(ヨーロッパ放送連合)からの通告により、番組が継続できなくなったのは残念。聴取者に対しても申しわけないばかりだが、一人二人の力ではどうなるものでもない。
 蟷螂の斧。

九月二十日
 音楽関係者、元関係者など四人で飲み会。
 評論家ならず者部隊の話になる。クラシックの音楽評論家と呼ばれた人の中には、各種泥棒が何人かいる。わたしが知っていたのは、古い話も含めると三人。
 ところが、ならず者はもう一人いた。その罪が何かは控えるが、かなりの重罪である。最近、名前をまったく見ないとは思っていたが……唖然。
 音楽評論家で「ギャリソン・ゴリラ」ができるとか、いや「ワイルド7」だとか、酔いが回ってきて馬鹿話になる。
 あとはまったく関係なく、映画『グランプリ』はとても面白い映画なのに、なぜDVD化されないのか?など。
 モーリス・ジャールの有名な主題曲――NHKのFMの何かの番組で開始時に使われていた――を歌いながら、「ブオン、ブオン」と空ぶかしの口真似。あのオープニングの細かい画面分割がすげえんだ、とマニアックに盛りあがる。

 帰宅後、ネットで検索してみてさらに驚く。「名前」とその「罪名」の二つのキーワードで検索したら、ばっちり日付や状況が出てきたのである。
 ネット以前なら、「確証もないのにそんなこというの止めようよ」とか、「人から聞いた話だから、本当かどうかしらないけど」とか、何らかの留保があったけれど、ネット社会にはない。すべてが記録に残り、データベース化され、誰でも検索できる。
 忘却なき世界の不幸。

九月二十二日
 舩木篤也、川田朔也の若手評論家両氏(両也?)と神田で飲む。
 舌鋒鋭く人を斬り、ときに返す刀で自分も傷つけてしまう川田さん、ソフトな語り口だが、寸鉄人を刺す舩木さん。タイプは対照的だが共通するのは、頑固なまでに真剣で深い音楽愛である。
 それに較べると、わたしは本当にいい加減。状況に流されるままここにいる。まさに適当人生。
川田氏「山崎さんの致命的なところは、かくかくしかじかですよ」
舩木氏「あえて口にしないことというのは、みんなわかってるから口にしないんだから、言わなくていいことなんだよ」

 あはは。

九月二十九日
 昨年の「ラ・フォル・ジュルネ」で愉しませてくれた、エンリコ・オノフリとディヴィーノ・ソスピーロ。
 日本のHARBOR RECORDSから、リスボンのライヴでモーツァルトの交響曲第四〇番と「セレナータ・ノットゥルナ」が十一月に出るという。サンプル盤を聴いたが素晴らしい。楽しみ。

 バーンスタインの英語版マタイ受難曲(ソニー)を買う。いや、前から持っているはずなのだが、CDのジャングルの中で未帰還・行方不明のため、新兵を徴募した。
 ライナーを書かせていただいたDVD『音楽のよろこび』でのバーンスタインのこの曲の音楽に関する解説がかなり面白かった――たぶん、クーセヴィツキーの影響下に生まれたもの――ので、もう一度聴いてみたくなったからである。
 この『音楽のよろこび』、まとめてでないと買えないのはキツイが、とても面白い番組である。
 ミュージカルの回などアイデア横溢。とくに最後、コール・ポーターの大傑作《キス・ミー・ケイト》の見事な開幕の音楽「アナザー・オープニン、アナザー・ショー」で締めつつ、「天才モーツァルトが出現してジングシュピールを飛躍させたように、今後のミュージカルにはどんな傑作が出ることでしょう」なんて言葉を、《キャンディード》と《ウエストサイド物語》の初演を一年以内に控えた作曲家が、いけしゃあしゃあと言ってみせるのだ。大言壮語して、それを実現してみせる快男児。バーンスタインこれにあり、としかいいようがない。
 オペラを扱った回も貴重。なにしろ、新築する前のメトロポリタン歌劇場、つまりオールド・メットを借り切り、ピットの中央に橋を渡してピアノを置き、そこでバーンスタインが語り、歌うのだ。オールド・メットの映像なんてあまりないから、わたしは初めて観たとき、バーンスタインそっちのけで内装に見ほれてしまった。
 メードルとヴィナイが歌った《トリスタンとイゾルデ》からの映像も珍しい。

十月一日
 新国立劇場の十周年記念ガラコンサート。指揮はオーギャン。来月まで待てばデラコートという、こうしたガラをうまく振れる指揮者がいるのに…と思う。

十月二日
 『レコード芸術』誌のために、TYサポートの依田巽氏へのインタビュー。
 クラシックのCD制作に対して百万円の援助を行なうという活動をしているもので、依田氏とはいうまでもなく、エイベックスを今日あらしめた人である。
 伺っていてなるほどと思ったのは、日本では演奏会は演奏家がやる芸術活動、CDは企業がやる営利活動、とイメージが何となく分かれていて、その差のために前者の支援を行なう企業・個人はあっても後者に対しては少ない、という話。
 だがクラシックのCDはマイナー・レーベル、個人レーベルの時代に入っていて、このイメージ分けが現状にあわなくなってきている。CDもメジャーが商売のためにつくるものばかりではなくなっているのだ。そのため海外では近年CD制作に対しても、演奏会同様に積極的な援助が行なわれている(ジャケットに企業ロゴなどが入っているのがその例)。
 TYサポートはその日本版。一社だけでなく、協賛企業を増やしていきたいとのこと。こういう活動は広まってほしいし、もっと知られてほしい。

十月四日
 十一月に放送される番組の打ち合わせのため、青山の東北新社内のクラシカジャパンを訪れる。テレビ収録というのは経験がない。どうなることやら。

十月七日
 家の向かいの古アパートで映画の撮影をやるという。前の日にはチラシをもってスタッフがわざわざ挨拶に来た。
 このあたり、テレビ・ドラマの撮影とはまるで手間のかけ方が違うのに感心。ウチの近辺は何かと便利らしく、ときどき撮影に使われている。しかしそうした撮影は基本的にゲリラ録りで、わざわざ挨拶に来たことなどない。山の神が先日観ていた二時間ドラマには、ウチの塀がばっちり映っていたという。
 話には聞いていたが、「本編」はスタッフの心意気がテレビとは違うらしい。設営時間も照明など用具の大きさも段違い。リハーサルの回数も多い。そして終了後にも挨拶に来た。
 ちなみにチラシによると、タイトルは『GSワンダーランド』、監督・脚本が本田隆一、主演が栗山千明と石田卓也。グループサウンズの時代を背景にしたものらしい。向かいのアパートは一九七〇年頃の建築だから、たしかにその時代にはぴったりだろう。
 いまさらの話だけれど、ここ数年の日本映画の隆盛ぶりは凄い。昨年は二十一年ぶりに邦画の興行収入が洋画を上回ったそうだ。興収の大勢を左右するのはアニメやテレビ局系の大作映画だろうが、それよりも強く感じるのは中小規模の実写映画の活気である。DVDによって、公開時の映画館数に左右されない売上げを見込めるのが大きいのだろう。
 いきなりこんなに流行して大丈夫なのかと、老婆心ながら不安に思ったりもする(それを指摘する本も出ている)。だが、テレビ・ドラマしか知らない三十~四十代の女優と、劇場用映画を経験した二十歳前後の女優とのあいだにある、演技力の格段の世代差のことなどを考えると、劇場用映画の意義は大きい。一時はただの負け惜しみにしか聞こえなかった「本編」という言葉には、いまなお本物の重みがあるのだ。

十月九日
 武蔵野市民文化会館へ上岡敏之指揮ヴッパータール交響楽団を聴きに行く。曲は《ドン・ファン》とブルックナーの七番。アンコールがあったのにビックリ。しかも《ローエングリン》第一幕の前奏曲だった。

十月十日
 昨日に引き続き、オペラシティコンサートホールで上岡敏之指揮ヴッパータール交響楽団を聴く。
 二日通しての感想として、俊敏様式の難しさを思う。上岡のうねり、緩急にはたしかに俊敏様式のセンスがある。日本では芽が出ず、ドイツに渡ってから認められたというのも、どうやら様式の変換が十年ほど遅れているらしい日本の音楽教育の状況を思えば、むべなるかなとも思える。
 ただ、動きの激しい俊敏様式は、背骨というか、構造感を失ってしまいかねない危険がある。荘重様式の場合には甲虫のごとき外骨格、外枠があるので背骨なしでも何とかなるが、俊敏様式では無脊椎動物のような音楽になりかねない。上岡の指揮には、シモーヌ・ヤングなどにも共通する、そうした危険性があると感じられた。具体的に言うと、響きがぐちゃっとつぶれて、澄明性が少ない。
 とはいえ、自らピアノを弾き、忙しく立ったり座ったりをくり返すモーツァルトの協奏曲では、その微笑ましさを大いに愉しんだ。

十月十二日
 サントリーホールで、バレンボイム指揮のベルリン・シュターツカペレによるマーラーの交響曲第九番を聴く。
 演奏そのものについては日経新聞の評に書くので触れない。ただ、終楽章を聴いていたとき、一九八五年にNHKホールで聴いたバーンスタイン指揮イスラエル・フィルの演奏の幻影と幻聴が、しばしば自分の目と耳を覆いそうになったのは驚いた。
 ひたすら濃密な音楽体験という記憶があるだけで、細部などは忘れていたはずのバーンスタインの演奏や指揮ぶりが、眼前のバレンボイムとその指揮にダブって聞こえ、見えたのである。
 脳のどこかに深く眠っていた残像が甦る、記憶という現象の面白さ。
 もちろん本物の記憶ではなく、それに見せかけて脳がつくりあげた、夢や幻にすぎないのかも知れない。そう思いつつも、二十二年前と現在の二つの時間の同時進行という体験は面白かった。

十月十四日
 サントリーホールで、ラザレフ指揮の日フィルを聴く。客席をふり返って拍手を求めるなど、「ロシア風ノリントン」みたいなラザレフの仕草が愉しい。演奏はやや荒かったけれど、活力にみちたものだった。
 六日間でオーケストラ演奏会四つ。ステーキを毎日食ったみたいな感じ。

十月十七日
 新国立劇場にて《タンホイザー》。
 失礼ながら二幕までで早引けして、歩いて帰る。
 途中、生まれて初めて新宿中央公園に寄る。悪いモノがたまっているとか、そんな霊的な噂の高い場所だ。
 悪いかどうかはわからないが、とにかく生気を感じない場所。渋谷の宮下公園の雰囲気を思い出す。草木も土も流水すらも、くすんでいる。

十月二十日
 大学時代のサークル、音楽同攻会の一年先輩の方々六人と東京駅近くで飲む。
 卒業されて以来だから、二十三年半ぶりの再会ということになる。
 お会いしなかったのは、学生時代に学年間で妙な壁ができ、それがわだかまりとなったままだったからである――いま思えば、いったい何?というようなことなのだが。
 少し前に先輩のお一人がメールをくださったのがきっかけとなり、みなさんが集まる機会に加えていただいた。
 同学年や後輩と一緒のときとはまるで違う、先輩、それも一学年だけ上という至近距離の先輩たちに混じって、後輩として会話するという感覚が、ひどく新鮮であると同時にひどく懐かしい。
 ずいぶんと年月がかかったけれど、手遅れになる前に垣根を一つ外すことができた。ちょっと胸が熱くなる。

十月二十二日
 書き忘れていたので、日付の不明確な話。音楽之友社から通知の手紙が来て、『栄光のオペラ歌手を聴く!』が絶版にされるという。
 動きの少ない本の在庫を抱えるのは経費の無駄、ということなのだろう。以前に同様の通知を受けた著者さんたちがその寂しい思いをブログなどに書かれていたけれど、たしかにこれは結構きつい。品切はまあ「再び逢うまでの遠い約束」だが、絶版は「死亡宣告」なのだから。

十月二十三日
 天王洲のスタジオにて、クラシカジャパンの番組「オーケストラの名曲ベスト20」を撮影。高嶋ちさ子さんのおしゃべりのお相手役。
 ラジオなどでしゃべっているときには服装や容姿、表情などはまったく気にしないでいられるのだが、映像となると当然ながら、そうはいかない。周囲のスタッフの人数もどんと多くなる。
 高嶋さんの軽妙な進行に助けられて、何とか二十本全部撮り終ることができたが、終了時の心身の疲弊感は、ここ数年なかったほどのもの。局の方に打ち上げへ誘っていただいたが、もう何もしゃべる気力がなく、失礼してそのまま帰宅。
 番組は十一月に放送予定。

十月二十四日
 昨日の疲れがどっと出る。翌日になって疲れが出るなんて、いかにも年をとったと痛感。廃人のごとく一日が過ぎる。

十月二十五日
 個人的に大好きな指揮者の来日公演プログラムへの執筆依頼をいただき、新宿にて打合せ。担当者は以前、わたしがひどいご迷惑をおかけしてしまった方なのだが、懲りずに(本当の本当に、よくもまあ懲りずに)声をかけてくださったことに、心より感謝。

十月二十九日
 片山さんとサシ。
 ついに出たご著書、『近代日本の右翼思想』(講談社選書メチエ)――失礼にもわたしはまだ半分しか読めていないのだが――や、プレトニョフのベートーヴェン交響曲全集の痛烈なニヒリズム、ノスタルダムス世代(後述)の持つ終末思想のことなどを肴に、愉しい酒席。

 ノスタルダムス世代はわたしの勝手な造語。五島勉の『ノストラダムスの大予言』が出た一九七三年十一月から一九九九年七月までの間に演奏されたステレオ録音やその演奏家に対して、同時代的、懐旧的な愛着を持つ世代。一九六〇年代生まれが中心。

十一月四日
 昨日と今日は、ティーレマン指揮のミュンヘン・フィルの演奏会を聴きにサントリーホールへ。
 今日のブルックナーの第五番はマッチョな、かなり力まかせの演奏。以前に見たナチスのニュース映画で、ニュルンベルク党大会の閲兵式に出席するヒトラーがベンツで登場、席へ着く場面にこの曲のフィナーレが使われていて、あまりにピッタリなのに感心したことがあるが、それを思い出す。
 「力」に対してドイツ人が持つ憧憬のある一面――もちろん、それがすべてであろうはずがない――の音化。

十一月九日
 フルトヴェングラーが指揮した、一九四二年四月十九日のヒトラー誕生日イヴの「第九」の録音は、二〇〇四年に発売されたアーキペル盤で初めて日の目を見たが、音が悪くて内容自体は語りにくいものだった。しかし最近登場したヴェネツィア盤は、音源自体は同じものだと思われるが、強音部の音割れやレベル変動が減り、聴きやすくなった――というのは、『レコード芸術』十二月号の「今月のリマスタ盤」でわたしが書いたこと。
 脇道にそれるのでその記事では触れなかったが、ついでに当日の映像(とされるもの)も観なおしてみた。
 家のDVDは、ドリームライフの『世紀の指揮者 大音楽会』。終楽章の最後の約五分が入っている。別の盤には、ゲッベルスが指揮台下の客席床面にしつらえられた演壇でスピーチをする場面もあったが、ここには入っていない。
 さてこの映像のミステリーは、音楽自体が三月下旬の演奏(EMIなどでCD化されているもの)と同じだ、ということである。そこから、三月下旬ではなくて誕生日イヴの録音なのではないかという推定――軍事オタク兼任にとってはより楽しい、ワクワクするような推定――が生まれてきた。
 しかし現在では、どうやら三月下旬の音声を誕生日イヴの映像に重ねたものらしい、ということになっている。
 わたしも映像と音声(三月下旬と誕生日イヴの二種)を聴き較べてみて、その通りだと思った。誕生日イヴ盤ではテノールがロスヴェンゲなのだが、映像の音声では三月下旬盤と同じ、アンダースの声が聴こえる。
 ただし問題はそれだけではない。どうやら映像にも、三月下旬の映像が混じっているようだ。件のDVDでいうと一時間二十分三十七秒からの部分、指揮者の右肩斜め上方から映しているカットは、おそらく三月下旬の映像である。
 なぜなら、ここでまずテノールの声が裏返りそうになり、続いてソプラノが裏返るのだが、映像でもそれとシンクロする形で、最初のミスではコンマス脇のタシュナーが怪訝そうに歌手の方を振りかえり、次のミスでは、コンマス(レーン?)と顔を見合わせて苦笑する場面が収められているからだ。
 この、比較的アップに近いカメラが三月下旬のもので、ロングに引いたカメラ――歌手たちや、舞台下手のハーケンクロイツや指揮台下の演壇が映るもの――は、誕生日イヴの映像を、三月下旬の音声に重ねる形で編集しているらしい。なぜなら独唱の右から二番目にロスヴェンゲがいるから、これは誕生日イヴのものに違いない。
 面白いことにこのDVDには、続けて翌四三年のクナッパーツブッシュ指揮のほぼ同じ部分が収められている。そこでは同じロスヴェンゲの姿が映るのに、声はフルトヴェングラーの映像のとはまったく別人の、いかにもかれらしい、朗々と響くものになっている。これを較べるだけでも、四二年の映像の嘘は明白だ。

 映像とは事実そのものよりも、嘘でもそれらしく見える方が大切だという制作者の見識は、良し悪しは別にして、いまも全世界で受け継がれている。
 おそらくは誕生日イヴの音声に何か問題があって、三月下旬の音声を借りてきたのだろうが、しかし興味深いのは、歌手のミスに苦笑する楽員の表情という、祝典にふさわしからざる映像まで、わざわざ挿入していることである。これは無作為のことなのか、それとも故意?

十一月十一日
 日比谷公会堂へ「ショスタコーヴィチ交響曲全曲演奏プロジェクト二〇〇七」の第四回を聴きに行く。井上道義指揮のサンクトペテルブルク交響楽団による、第十番と第十三番。
 シリーズ全体について日経新聞に書くことになっているので、できれば八回すべてを聴きたかったのだが、十一月の演奏会ラッシュの時期ではとても不可能。せめて一か月前後にずれていたらと思う人も多いはずだ。
 日比谷公会堂の演奏会なんて、何年も前にアマチュア・オケを聴いて以来。それ以前も、学生時代にサークルで主催した宮沢明子リサイタルを手伝った経験があるくらいだ。
 開演前や休憩時に客席を歩き回る。一階と二階(階上、というらしい)がそれぞれ千席ぐらい。二階が低くのしかかる一階後半の席は、音響的にも視覚的にもかなり苦しそう。二階の後方も実際には建物の四階にあたるので、かなり遠い。この「二階」部分の広さは、新宿厚生年金会館に似ている。
 しかし二階最前列はオーケストラにとても近く、各楽器がダイレクトに聴こえてきて、ショスタコーヴィチには向いているのかも。オーケストラも熱演、そして十三番の独唱者、アレクサーシキンが素晴らしかった。
 響きはデッドでも、会場内の雰囲気はとても温かく、好ましい。レトロな内装の好作用もあるのか。設計者が大隈講堂と同じ人と聞いて、何となく納得。

十一月十三日
 稲門音楽同攻会(早稲田では一般的にサークルOB会を稲門と呼ぶ)の総会。
 今年の講演を担当されたのはサークルの先輩でもある石戸谷結子さん。ヨーロッパのオペラ近況などのお話。
 その後は立食形式で歓談。出席していた現役諸君に聞くと、他大学の鑑賞サークルとの交流はないそうだ。それどころか大半が存亡の危機にあるか、すでに消滅しているのではないかという。活動内容がオーケストラとかピアノとか、自分で演奏するサークルでないと、いまは難しいのかも知れない。
 音同は現役の頑張りで、よく孤塁を守っている。現役という足掛かりがなくなったら、OB会は糸の切れた凧みたいになって寂しいことだろう。
 終了後は、同級生と一学年下の後輩の四人で二次会。先月に一年上の先輩と会ったことを報告すると、数学年合同で顔を合わせたいという話になる。とはいえ連絡をするのも調整をするのも、みなまだ忙しい年代だけに難しい。しかも二十年も連絡のない同士なのである。
 こういうときこそ総会を活用し、そこに顔を出すようにすれば簡単なのだが、と思う。
 だが総会は――どこもそうだろうけれど――どうしてもベテラン主体で、五十歳以下の参加は少ない。学生時代のOB会への根拠なき反感がいまだに消えないし、行ってみて年の近い顔見知りが一人もいなかったらいやだし、だからといって同級生とわざわざ誘い合わせるのも、というところだろう。
 数人は必ず知り合いがいる、ということにできれば、構えずに参加できるのだろうが。

十一月十五日
 名古屋フィルでは、定期演奏会のプログラムに前回の演奏会の批評を載せている。その執筆依頼をいただいたので、一泊で名古屋旅行。
 名古屋で下車するのは、小学生のときに祖父に連れられて犬山の明治村と犬山城を見に行って以来、三十三、四年ぶりである。小学五、六年生のころは、これまでの人生でも最悪の時期――外的にも内的にも、子供ではいられなくなる自分自身に惑い、惑わされた時期――の一つで、犬山旅行で覚えているのも、モンキーパークの猿に落花生を袋ごと取られたとか、ろくでもないことばかりだ。
 今回は「トラウマ消し」のためにも犬山を再訪してみたかったが、持ち時間が中途半端なので断念。名古屋を歩き回ってみることにする。
 先月二十日に再会した音同の一年上の先輩が名古屋にお勤めなのでお訪ねし、昼をご一緒に名古屋・中部情報を教えていただく。しかし、話題はもっぱら東京のオペラや演奏会の話。というのも、それらを聴きに頻繁に日帰りされているそうだからである。
 クラシックは東京への一極集中が強烈に進んでいる。都内では数えきれないほど多数の演奏会があるのに、その外は過疎化して、極端な落差が生じている。東京の次に景気がよく、室内楽ホールも新規にいくつか開場している名古屋の住人でさえ演奏会は東京中心なのだから、他は推して知るべし。ここには愛知県芸術劇場大ホールという立派なオペラ劇場もあるが、公演日程を見るかぎり使われる機会は多くなく、もったいない。
 今夜の会場はこれと併設のコンサートホールだが、音響が素晴らしいとうかがって期待がふくらむ。
 そのあとは先輩と別れ、芸術劇場と同じ愛知県芸術文化センター内にある美術館でロートレック展を見る。年明けには東京にも来るが、おそらく名古屋の方がゆったり見ることができるだろう。
 ホテルにチェックイン後、地下鉄で大須観音地区に行ってみる。大須演芸場で夏に行なわれるスーパー一座のオペレッタ公演でもオペラ・ファンには有名な場所。今風の電気街のある大通りと昔風のアーケード街が隣接しており、しかも後者はただ古いのではなく、若者向けの小型衣料品店が多く入った独特の街並み。平日午後でも活気があるから、休日はかなりの賑わいだろう。ウィキペディアには「浅草、秋葉原、原宿、池袋、巣鴨が全て足されたような地区」とある。
 そのまま北へ歩いて芸術劇場のある栄地区へ。こちらは銀座のような感じ。ただし、トヨタ本社のあるミッドランドスクエアができたりして、繁華の中心は名駅(めいえき)に移りつつあるという。「名駅」とはもちろん名古屋駅のことだが、驚いたことに名駅一丁目とか、そのものずばりの住所があるのだ。他にも名城、名港など、名古屋ではこうした地区呼称が普通のようだ。
 地下街が大きく、地上を歩く人が少ないのも印象的。大阪もそうだと聞いたから、東京がむしろ例外なのか。単純に、東京は人が多すぎ、広すぎるためなのかも知れないけれど。
 地下街で腹ごしらえをしてから演奏会へ。演奏については批評に譲るとして、音響のよさはたしかに特筆もの。豊かに鳴るのに抜けがいい。ミューザ川崎みたい。そういえば一階客席が小さく、二階に囲まれるような構造が似ている。

十一月十六日
 昼頃の新幹線に乗ることにして、午前は名古屋城を見学に行く。地下鉄から地上へ出たら目の前に愛知県庁と名古屋市庁舎があり、その堂々たる「帝冠様式」――洋風のビルに和風の寺院建築の屋根などをかぶせたもの。昭和初期に流行――に見ほれる。
 昭和十三年建築の愛知県庁は、日本屋根が具象的で帝冠様式の典型だが、その五年前の名古屋市庁舎にはインド、東南アジアの仏塔のような雰囲気があって、相違が興味深い。五年の時流のズレが関係あるのかどうかまではわからない。
 名古屋城の天守閣の大きさはさすがなだが、復元建築ということをこちらが意識するせいか、もう一つ印象が薄い。たとえば京都南禅寺の山門の、黒々とのしかかってくるような迫力はない。本丸御殿も二の丸御殿も失われているため、生活空間としての匂いもかぎにくい。
 ただ、二の丸御殿の裏の石垣上にある埋門(うずみもん)跡という場所がよかった。危急のさい、城主がそこから堀へ降り、石垣沿いに城の東北へ――抜け道は鬼門の方角につくると聞いたことがあるが、本当にそうなのだ――出て、木曽方面へ脱出するための門だという。
 下は急な石垣だから降りるのは大変だが、だからこそ抜け道の存在を隠蔽できるのだろう。底の水堀の脱出路には細道でもついているのかとか、上から覗いたり位置を変えて横から見たりして、色々と想像してみる。遺構や遺跡は「人間の行動するさま」をそこに想像できると、とたんに生き生きと気配を感じさせ始めるのが愉しい。
 三の丸の家老屋敷跡を通って西行し、五条橋で堀川をわたって円頓寺商店街のアーケードを歩く。
「えんとんじ」ではなく「えんどうじ」と読むそうだ。レトロな印象は大須と似ているが、まるで寂れた雰囲気。帰京後にネットで調べたら、明治大正期には栄・大須と並ぶ三大商店街だったが、衰退してしまったのだそうだ。一軒、ホテルのロビーのように広々とした素敵な喫茶店――カフェーと呼びたいような――があったが、気後れして中に入れずに通りすぎ、あとで悔やむ。
 アーケードを抜けてから南下して名駅に着き、新幹線に乗って帰る。

十一月十七日
 朝は早稲田に行って、エクステンションセンター主催のオペラ講座で講義をする。テーマは「ワーグナーを愛したイギリス人」で、チェンバレンとヴィニフレッド・ワーグナー、そして戦後のジョン・カルショーなどの話をする。今年は参加者が多くて、話し甲斐があった。教室は第二学生会館跡の早稲田タワー。
 夜はサントリーホールでジャン・フレデリックことジャン=フレデリック・ヌーブルジェのリサイタルを聴く。
 会場で会った知人がボロクソにけなしていた通り、たしかに音色や構成に単調なところはあったが、ともかくすべての音が弾んで敏捷に動いてゆくさまを耳にするのは快感だった。もっと音を置くように弾いたほうが「ピアニスト」らしいのだろうとは思うが、わたしはそれを好まない。大いに満足。

十一月二十一日
 東京では、昼の十一時半から十二チャンネルが昔の時代劇を放送している。
 この枠ができたのはいつからのことか知らないが、少なくとも十年は続いているはずだ。平幹二郎主演の『幡随院長兵衛 お待ちなせえ』とか、古いものも再放送されることがある。
 今日、なんとなく観ていたら始まったのが『大忠臣蔵』第二回。
 三船プロ製作のこの時代劇、まったく憶えていないのだが、三船敏郎の大石、菊之助(人間国宝菊五郎)の内匠守、市川中車の吉良などかなりメンツが豪華。
 こんな番組があったのかとウィキペディアで調べたら、いやこれがものすごい(上方のリンク参照)。
 一九七一年にNET(現テレビ朝日)が一年間五十二回放送したそうで、キャストがとても民放とは思えない豪華さ。
芦田伸介の小林平八郎と天知茂の清水一学なんて、もう名前を見るだけで心が震える(笑)。三船プロの人脈が大きい――脇坂淡路の錦之助とか、俵星玄番の勝新とかは、あきらかに俳優プロ社長同士の友情出演だろう――にしても、大した配役。音楽が富田勲というのも、NHKの大河を意識したのだろう。
 ちなみにこの年の大河は『春の坂道』で、主演の柳生但馬守は錦之助だから、両方の番組に顔を出したことになる。
 翌七二年が大河史上最も豪華な配役といわれた『新・平家物語』だったのは、この『大忠臣蔵』を意識した結果だったのかも。どちらの番組にしても、石油ショック直前の「昭和元禄」のテレビ全盛期、カラーテレビの普及で劇場映画を完全に圧倒した時代なればこそ、可能なものだったのだろうが。

 それにしても、なぜ今日までこの番組をまったく知らなかったのか。それが不思議。明日を生きる意欲にはなるから、知らないことが多いのは素晴らしいことではあるのだが。
 ただ子供の頃、亡父が「義士銘々伝」みたいに義士一人ずつの物語をじっくり描いた忠臣蔵のテレビドラマを喜んで見ていたという記憶だけはおぼろにある。あるいはこれこそがそれかも知れない。

十一月二十五日
 ドレスデン国立歌劇場の来日公演を日経新聞の仕事で観る。昨夜は東京文化会館で《サロメ》、今日はNHKホールで《ばらの騎士》。
 日曜の代々木公園といえば、わたしの年代だと「竹の子族」である。いまでも公園周辺ではダンスや歌やコントなど、さまざまなパフォーマンスが行なわれている。NHKホール前の公園通りでも、五、六メートルおきに並んでいた。
 ほとんどは歌で、バンドやデュオもいるが、一人でギター抱えてリズムボックス相手に歌っている人も多い。見物がたくさんの人もいれば数人の場合も、あるいは誰か立ち止まってくれることを期待して、無人のままでもとにかく歌っている人もいた。

十一月二十六日
 片山杜秀さんによる『近代日本の右翼思想』(講談社選書メチエ)を読了。
 片山さんのご本業である、近代政治思想史・政治文化論の一冊。右翼といっても、北一輝や大川周明のような狭義の右翼人だけでなく、西田幾多郎や阿部次郎や長谷川如是閑のような、戦後にはむしろ右翼と意識的に切り離されてきたような教養人にも頁を割き、その関連を論じているのが、わたしのような素人にも身を乗り出させる、巧みな仕掛けになっている。
 しかしそれは単なる叙述のテクニックではなく、日露戦争から「大東亜戦争」期に至る日本は、時代全体が右翼的である以上、その時代に機能した思想はすべて関連づけて論じなければおかしいという判断に基づくものである。
 そして面白いのは、この近代という時代に、ポストモダン的な様相を見出していることだろう。つまり、坂の上の雲を目指してひたひたと登りつめた健康な明治期に比して、目標を見失って規律を欠き、知識(教養)ばかりが増えていく日露戦争後の時代の病んだ精神状況を描いて、「大きな物語」を喪失した現代との相似を暗示しているのだ――もちろん暗示しているだけで、著者は安易な比喩や比定はしないが。
 このあたりは、明治維新後の日本が、四十年間隔の戦争で時代の節目を迎えてきたとする歴史観を想起させられる。その節目とは戊辰戦争、日露戦争、第二次世界大戦である。その次の「四十年目」である一九八五年前後には幸い戦争はなかったが、高度成長の終点としての「ジャパン・アズ・ナンバーワン」幻想と、バブル経済の破綻があった。
 健康な明治と昭和中期。病んだ近代と平成。大正期の明治への憧れの実態は知らないので自分の知っている範囲でいえば、「明治百年」頃の明治への憧れと、いまの昭和ブームのそれは、ひたむきさへの懐古という点で似ている気がする。時代精神は振り子のように対極から対極へとめぐっているのかも知れない。
 ただし、この書が扱う「近代」がポストモダンと決定的に異なるのは、日本には「大きな物語」のよりどころがまだある、それも間近なところにあると信じていたことである。
 その「大きな物語」になることを期待されるものこそ「天皇絶対の思想」だ。
 だが、これに執着したがゆえに、さまざまな可能性を持っていたはずの諸思想が「互いの思いを牽制し合い、にっちもさっちもいかなくなってしまった」。
「都合のよい天皇像がつぎつぎに引きだされ、思想のそれぞれは天皇という共通項を持つがゆえに、仮に各々が水と油のつもりであっても、一つの渦となって時代に作用してしまった。天皇を小道具に魔術をなそうとした者たちが、逆に天皇の魔術にからめとられて、今が気に入らないのか、今のままで大いに結構なのかさえ、よく分からなくなっていった」
 大きな物語を目指すものも、天皇にこだわるうちに小さな物語と渾然となり、思考停止の渦巻に至る。右翼思想が「今が気に入らないのか、今のままで大いに結構なのかさえ、よく分からなくなっていった」さまを、「世界新秩序の大構想から日常個々人の健康術まで」階層的に剥いでいくことで明らかにするのが、この書なのである。
 わたし自身が西田幾多郎や阿部次郎たちの著述や思想をもっと知っていたら、この書をより深く理解できるはずという悔いはあるが、片山さんの「日本の右翼の、あるいは右翼的な日本という国の、全体像を解き明かしていくための」第一歩として、大いに刺激を受けた。
 大構想を持った思想家たち個々や、そして天皇そのものについて、片山さんが書かれていくだろう将来が楽しみ。

十二月一日
 午後はすみだトリフォニーへ、ネマニャ・ラドゥロヴィッチの無伴奏リサイタルを聴きに行く。
 五月のラ・フォル・ジュルネではチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を聴いたが、相田みつを美術館でのリサイタルは満席で聴けなかったので、今回は待望のリサイタル。ただし、公演があること自体あまり知られていなかったのが、もったいない。
 演奏はやはり素晴らしく、大いに愉しんだ。曲目はバッハのソナタ第一番とパルティータ第二番、ミレティチのダンスにイザイのソナタ第二番と第三番。要するにTRANSARTで出たCDに、バッハの一番を加えた構成である。
 その、最初のバッハの第一番からラドゥロヴィッチ独特の世界が爆発。緩急強弱と音色が自由自在に変化して、大きな遠近感と活力に満ちた音楽が展開していく。温和で陰気な、動感のない音楽を求める聴きてなら、とてもついていけないだろう。フォル・ジュルネでの評価が二分した――というより、日本のクラシック好きには否定的反応の方が多かったかも知れない――のも当然である。盛りあがると足をドンドンと踏みならし、「足音伴奏つき」無伴奏ソナタとなる。ロックみたいという人もいるだろうが、決定的に素晴らしいのは、そのリズムに柔軟な弾力があること。まさしく俊敏様式のヴァイオリンなのだ。
 不思議なのは、弾くごとに弓がチーズのようにささくれていき、一曲終るごとにフサになって垂れさがることである。それをちぎりちぎりして演奏を続けていく。弓の材質のせいなのだろうか。
 それはそれとして、出てくる音楽はCDよりもずっと成長している。性急なところが減り、懐の深さが増した。だから遠近感が豊かになる。それをいちばん感じさせたのは、バッハのパルティータ第二番だった。CDでは明らかにこの大曲をもてあましていたのだが、今日はその雄大さに負けることなく、余裕さえ感じさせて弾ききった。
 アンコールの、イザイの第一番も見事だった。ここでも遠近感の大きさに、ため息が出る。
 強く感じたのは、ヴァイオリンがリズム楽器でもあるという単純な事実。古典派やロマン派のジャンルではピアノやオーケストラに伴奏され、メロディ偏重になりがちだが、民俗楽器としてのヴァイオリンはリズム楽器でもあるのだ。
 メロディとリズムを分離して考えてみるのが荘重様式――これはクラシックよりも、二十世紀後半のジャズやポップスにおいて顕著である――の方法論だが、俊敏様式では両者が密接に連関することで音楽を呼吸させ、ハーモニーを導き出す。わたしはそんな気がするのだが、ラドゥロヴィッチを聴いて、その思いはさらに強くなった。
 君に輝かしき未来あれ。

 終演後日比谷公会堂へ。井上道義によるショスタコーヴィチ全曲プロジェクトから、今日は東フィルとの第四番。「ヘヴィメタ・シンフォニー」と井上がこの曲を評した関係か、開演前に内田裕也が登場して井上としゃべる。
 演奏は今日も気合の入った熱演。二階前方は舞台に近いので、所狭しとならぶ打楽器群の活躍に、聴覚的にも視覚的にも圧倒される。
 終ると、歩いて数寄屋橋交差点へ。旧不二家本社、カーテンのドレープのように曲線のついたあのビルへ行く。頂部の不二家のマークはそのままだが、すでに売却されてクリスタルビルという名になっている。
 上階のもつ鍋屋で、中学時代の仲間三人が忘年会をやっているのに参加。バブル破綻後にもつ鍋ブームがあったのを憶えているが、最近また復活したらしく、満席の大にぎわい。考えてみれば前のブームから十五年くらい経っているから、復活というには遠すぎるか。
 三種バラバラの行事で長い一日だったが、どれも愉しかったので疲れず。

十二月五日
 直木孝次郎の『日本神話と古代国家』(講談社学術文庫)を再読。
 直木は昭和四十年に刊行されて大ベストセラーとなり、日本社会に歴史ブームを生んだ中央公論社版の『日本の歴史』シリーズの、その第二巻『古代国家の成立』を書いた人だ。
 そこには記紀を批判的に検証する津田左右吉の史学の影響のもと、記紀が事実を歪曲し隠蔽したという見地から、神武帝非実在説や歴代天皇捏造説、王朝交代説などが盛りだくさんに書かれていた。
 記紀を鵜呑みにしない姿勢は大切だろう。とはいえこれらの記述は実証性を欠いて推理を進めすぎた、極端な仮説ではないかとわたしは感じるが、四十年前にはこれが一般的だったのである。
 『日本神話と古代国家』はその後、一九六九年から八八年にかけて発表した十四編の論考をまとめたもの。三部構成のうち「日本神話の形成」と「建国神話の形成」はやはり記紀の記述の作為性を指摘批判するものだが、興味深いのは内容そのものより、その背景にある、史学界の大勢が津田史観に基づく極論に走った時代の「進歩的」な気分が、やや感情的な記述にナマに出ていること。
 建国記念日によって紀元節の復活を企てる一九六六年の当局者。書記の本文ではなく注の一書にしかない「天壤無窮の神勅」を取りあげることで、皇国史観をつくった明治の当局者。そして記紀「神話」を編纂捏造した八世紀の当局者。それらを批判する直木の、体制側とは過去も現在も変わることなく、つねに自己正当化のために歪曲をするものだ、という熱い態度が面白いのである。
 そのため、皇国史観的な記述を注にとどめて本文には採用しなかった書記編纂者の、明治人とは異なる、かれらなりの学問的良識などは無視される。
 先日読んだ片山さんの『近代日本の右翼思想』での主題は、戦前の思想をがんじがらめにして発展性を奪ったのが、万古不易たるべき天皇絶対思想だったということだが、昭和も明治も奈良時代も、曲学阿世の輩はどれも一緒、といわんばかりの直木の批判を読んでいると、右左どちらであれ、たしかに日本人にとって天皇は万古不易の存在だったのかもと、逆説的に実感する。
 内容については、後半の方が実証性を増してくるので、説得力がある。第二部でも『「天皇陵」偽造の歴史』などは、現在に至るまで天皇陵の学術調査が許されない理由の一つが、よくわかる。
 要するに、墓ではないただの丘などを陵に定めてしまったから、調査させるわけにはいかないということらしい。神武陵などは、江戸時代から整備して現在の立派な陵にしたものの、その前の実態はどうやら廃寺の土壇にすぎないという。
 たとえ誰のものであれ本物の墓であるなら、被葬者をめぐって議論の余地があるが、墓でさえないなら、戦いようがない。それがわかっているから、調べさせないらしいのだ――個人的には本物の墓でないと判明したら、墓ではないけれどその天皇を祀る場所、つまり「記念陵」として、歴史的な陵とは一線を画したものということで、別々に考えればいいじゃないかと思うのだが、そんな昔は昔、今は今、という時代相応の柔軟な展望を絶対に認めないのが、天皇絶対の思想なのだろう。過去も今も、すべてひっくるめて容認しなければならないのである。そうして、過去現在のすべてが「中今」になって、停まるのだ。
 ここでいう「中今」は、過去は過去として、とにかく今を正しく生きようというような前向きの姿勢ではない。過去のすべての時代が今と渾然となって、身動きできなくなるという恐ろしい状態である。片山さんが書かれた、最悪の形としての一億玉砕型「中今」である。宮内庁の、少なくとも一部分では、その状態がまだ続いているのだ。
 あと、第三部最後の「日本古代史の研究と学問の自由」は非常に面白い。明治末の大逆事件や「南北朝正閏問題」の直後に森鷗外が書いた小説『かのやうに』を入口に、その主人公のモデルと思しき歴史学者で、記紀神話に触れることを避けて出世する三宅米吉、かれと対照的に帝大を逐われる久米邦武、その久米の後継的存在である津田左右吉、それを攻撃する狂信的右翼の蓑田胸喜、といった人々を取りあげている。
 天皇が絶対である「かのように」、学者が生きねばならなかった時代が、簡略に描かれている。この反動として昭和後半という、記紀捏造をことさらに強調する時代があったのだ、ということがよくわかる一文。

十二月六日
 音同の先輩、鹿内雅俊さんの告別式に行く。
 鹿内先輩は十歳以上も年上で、もちろん学生時代はご縁がなかった。しかしわたしが『レコード芸術』のHMV広告に記名エッセイを書くようになったころから、早くも目をかけて下さった。
 それはわたしが、送電線工事のために群馬の太田市の現場に常駐し、東京の自宅には二週間に一度しか帰らない生活をしていた時期である。
 ある日、母から「ルクセンブルクにいる音同の先輩の、鹿内さんという方から電話があったよ」と現場に電話がきた。しかし電子メールが普及する前、ヨーロッパは今よりはるかに遠く、ご挨拶をしたこともない先輩に対してどう対応すべきなのか見当もつかなかったから、もう一度電話をいただいたら、よろしければお手紙をくださいと頼んでくれと母に言うだけで失礼してしまった。
 実際にお会いしたのはそれから何年もたって、鹿内先輩が海外勤務を終えられてご帰国になり、わたしもプロのクラオタに転じたあとのことである。それからは何かと引き立ててくださった。吉祥寺のお宅にお邪魔したこともあった。
 ところが昨年、病気で入院されているというお手紙をいただいた。わたしの父が五十八歳で癌のために亡くなっているため、さりげなく書かれた文面のご病状に、いやな予感がするのを打ち消せなかった。外れることを祈っていたが、それも空しくこの日を迎えてしまった。
 故人の、残されたご家族への思い、現役の企業人としての思い、それらがどのように深いものであるかは、わたしなどには見当もつかない。
 ただ、出棺前のお別れのさい、お胸の上に『レコード芸術』最新号が置かれているのを見たときには、音楽への、レコードへの深い愛着をいまさらながらに感じ、同誌に書かせていただいている者として、言葉にできない促しを受けたような気がし、また同誌が縁になって、遠くルクセンブルクからわざわざお電話をくださったことなどの思い出がいっぺんにわきあがってきて、心が乱れそうになった。
 ご出棺後、鹿内さんと前後される学年の音同の諸先輩方とともに、吉祥寺へ出てロシア料理を食べながら飲む。
 学生時代からの長い友人を失った悲しみと痛みと寂しさは、わたしとは比較にならないはずだ。しかしみなさん、一人としてそれをおくびにも出さず、愉しげに笑い、冗談を飛ばす。
 悲しくて愉しい、愉しくて悲しい日。

十二月七日
 新宿区の健康診断を受けに行く。正確には生活習慣病予防健診。八百円と安価だが診断書は出ない。フリーランスには勤務先の健康診断のようなものがないから、その代り。ちゃんとした人間ドックに入るべき年齢ではあるのだけれど。

十二月八日
 新橋のレストラン「ベルラン」が閉店することになり、クラシック好きの仲間でお別れ会。『クラシックジャーナル』の執筆者仲間のsyuzoさんは、わざわざ大阪からこのために東下された。
 蓄音機の豊かな響きを聴いて過ごす。

十二月九日
 ショスタコーヴィチ全曲プロジェクトの最終日、新日フィルによる第八番と第十五番を日比谷公会堂で聴く。
 今日が終ると次にこのホールに来る機会はいつになるかわからないので、早めに行って周囲を散策。
 公会堂の楽屋口は舞台の下手側にあって、地上からだと長い階段を登った場所にある。N響のトロンボーン奏者だった宇宿充人によると、かつてN響がここを本拠にしていたころ、スター楽員たちは終演後、階段下にならんだファンたちの熱い視線を受けながら、長い階段を一気に駆けおりてみせたそうだ。
 この楽屋口は学生時代に音同が宮沢明子リサイタルを主催したとき、裏方として出入りしたことがあるが、そのとき楽屋口から見下ろした高さの記憶は、おぼろなものでしかない。あまりうろうろすると不審者扱いされそうだし…と反対の上手側に回ると、この建物の外観がきっちりと左右対称になっていて、上手にも同じような階段がついているのを発見。
 楽屋口と違って階段部分には屋根がないが、上まで登ることができる。扉は機械室か何かの入り口で閉まっているが、内部に用はない。段数を数えながら登ってみる。上の高さはホールのロビーと同じなのだが、直線ひと続きの階段なのでいっそうの高さを感じる。
 それにしても、外観の厳格な左右対称は、現代のホールなら珍しいはず。

十二月十日
 午前中から日経新聞のショスタコーヴィチ演奏会の記事の仕上げに取りかかるが、意外に時間を食う。
 各オーケストラを一回ずつは聴いておくべきだった、という悔いに引っかかったため。広島交響楽団や名古屋フィルの演奏もとてもよかったらしいので、それに触れられないのが口惜しい。
 しかし明日夕刊の掲載だから、急がねばならない。とりあえず原稿を送り、ゲラは美容院あてにFAXしてもらうことにする。MXのテレビ収録が明日夜にあるのだが、あいにく火曜日のため、今日月曜日のうちに行かねばならないのだ。
 白髪頭を染めているとFAXが来たのでゲラに赤入れ。日経のS記者はやはりわたしの迷いを見抜いて、修正を求めてくる。直すだけでなく、行数合わせのための文章パズルをやらねばならない。
 校正途中で染髪時間終了。頭に巻いたタオルを取り、髪に貼りつけられたガーゼを剥がしたところで、店長さんの顔色が変わる。
 ――サイドがまっかっか。
 カラーを間違えたらしい。地が白髪のせいで、まあ発色の鮮やかなこと。日韓W杯のときの戸田選手が、こんな色の頭だったっけ。
 明日の番組で紹介するアーティストが「レッド・プリースト」とかなら、いっそこのままというのも愉しいだろうが、やっぱりカラヤンだし、それに町中を歩くにはちとつらいので、戻してもらう。
 脱色の薬品を塗って赤色を落し、それから本来の茶色で染め直し。髪や地肌の弱い人なら大変だろう。
 それでも下地の赤色は残っている。赤化した演奏史譚。ショスタコーヴィチの呪い?

 バタバタしているところへ山の神から電話が来る。帯状疱疹になったという。どうにか校正も染め直しも終り、帰宅。
 帯状疱疹は、それと気づくのが遅れて悪化させてしまうことが少なくないらしいが、山の神の場合は彼女の亡母もなったことがあり、そのお陰ですぐに気づいて診察してもらえたのは不幸中の幸い。腫れたのが生え際なのもまだよかった。瞼のあたりだったら、目もあてられなかったろう。
 ウチは本場の四ツ谷だし(苦笑)。

 『快傑ハリマオ』第四部「南蒙の虎」DVDが到着。

十二月十一日
 MXテレビで「カラヤン特集」収録。もとの東条会館の結婚式場のビルを使っているので、控室などが完全に「新郎新婦控室」のままなのが可笑しい。スタジオも一階の、前は喫茶室か何かだったらしい場所を改装したもの。
 衣装は当然ながら自前。友人には、快傑ハリマオの格好で出たらいいと言われた。たしかにあの格好なら「ファッションセンターしまむら」とかで五千円程度で揃えられそうだが、四ツ谷には「しまむら」がないので断念。
 第一回目ということでスタジオのセッティングに時間がかかり、収録もリハーサルをくり返したので、大晦日の分だけを収録したところで終り。
 司会の坂本知子さん(京大法学部卒なのだ)の好リードにより、思ったよりはあせらずにできた。昔は初めての仕事場なんて、吐きそうなくらいにあがったものだったが、やはり年をとったということか。楽だが、少し寂しくもあり。

十二月十二日
 日経のショスタコーヴィチの記事は、昨日夕刊の掲載。いつもの演奏会評よりも目立つ、最終面の上半分にのる「アタマ記事」と呼ばれるもので、顔写真(音楽評論家というよりは、拿捕された漁船乗組員という雰囲気だったが)も出た。
 目につく場所だけに、演奏会評よりも広い範囲の人が気に留めたらしい。高校の同級生と送電線工事時代の知人から、早速メールをいただく。お二人以外にもメールを出しはしないが、記事自体は見たという人がかなりいると考えられるわけで、新聞の伝播力はやはり大きい。

 新たな題材を一つ思いついて、資料用のCDを買いそろえ始める。
 といってもほとんどが以前所有していて、手放してしまったもの。無駄遣いといえばこれ以上ない無駄遣いだが、いつどこにくるかわからない題材にそなえて資料を全部残しておいたのでは、床がたちまち抜けるにきまっている。
 必要リストをつくり、ネットショップなどで調べると、幸いにも入手困難盤はわずかしかない。逆に「あれもそう、これもそう」と、リストがはてしなく延びていく。レコード店に行って現物を目にすると、また新たな発見がある。
 実際に書くよりも、こんな作業をしているときがいちばん面白い。旅行の最大の愉しさは計画段階にあるというのと、同じことかも。

十二月十五日
 安田和信、舩木篤也、川田朔也の三氏と神田で飲む。もとは先月に予定されていた飲み会だが、十一月は演奏会大渋滞月間なので全員がそろって空けられる日がなく、結局は忘年会の時期となった。
 舩木氏のヴィオラ・ジョークなど。

十二月十七日
 今日月曜日からの五日間は収録強化週間。ラジオが四回、テレビが一回ある。
 初日の今日はFM愛知の高嶋ちさ子さんの番組『GENTLE WIND』にゲストとして呼ばれたもの。名フィル定期批評に続いての愛知関連だが、収録は名古屋まで行くわけではなく、都内のスタジオで行なう。
 三十分番組二本に出演したが、そのうち一本はヨーゼフ・ホフマンとレッド・プリーストをかけつつ俊敏様式について高嶋さん相手に語るという、わけのわからない内容。名古屋の人、こんなの聴いてくれるのだろうか(笑)。
 しゃべるのは楽しかったが、のりすぎてエネルギーを大きく消耗する。

十二月十八日
 今日の収録はラジオとテレビのダブルヘッダー。二日目にして早くも強化週間の山場である。
 朝十時からミュージックバードの『ニューディスク・ナビ』一週間分を三時間ほどで収録。ミュージックバードのあるFM東京とMXテレビは、どちらも半蔵門のお掘端にあって目と鼻の先だが、時間があくのでいったん帰宅。
 夜六時に局入りして、カラヤン特集を収録。今回は六本を一気に録る。テレビはラジオよりも打合せや待ち時間が長いが、二回目ということもあってキビキビと進む。七時半から始めて、四時間ほどで終り。
 残念なのは、スタジオの都合で収録が火曜だったこと。水曜だったら五時からのナマ番組に出ているマツコ・デラックスをじかに見られるのだが。

十二月二十三日
 名刺帳を整理する。もらった日付を名刺にメモして、その順番で並べているのだが、怠けているうちに二年分くらいも抽斗にたまってしまった。建設業時代の古い名刺を別にひとまとめにして空きをつくり、新しいのを並べる。日付を眺めていると、人と知り合う時期、仕事をもらう時期の前後関係のつながりがあらためて見えてきて面白い。

十二月二十四日
 二期会会誌『二期会通信』掲載のインタビューのために千駄ヶ谷の二期会へ。
 《ナクソス島のアリアドネ》の演出を担当される鵜山仁さんにお話をうかがうものなのだが、大遅刻。インタビュアーが遅れるなんて、下の下の最低である。平謝り。
 タクシーが道を間違えたので頭に来て権田原で降り、そこから千駄ヶ谷まで走る。息は切れ膝は笑う。嗚呼運動不足。

十二月二十七日
 年内最後のラジオ収録を終え、夜はミュージックバードに縁の深い人たちで忘年会。片山さん、舩木ご夫妻などとご一緒する。
 舩木夫人が、日本人と皇室や右翼とのつながりに関する質問を片山さんにズバリぶつけられる。お二人の問答を拝聴。
 ご両親ともにドイツ人、母君はベルリンの壁建設の三週間前に東ドイツから亡命された経験をもつという舩木夫人は、日本語を完璧に解するだけでなく、日本文化にも造詣の深い方なのだが、それだからこそ、日本独特のいいかげんで曖昧な国民性への疑問が、ときに我慢ならなくなるらしい。

十二月二十八日
 片山さんにご案内いただいて、中野にあるクリストファ・N・野澤さんのお宅を訪問。
 以前にも別の方に連れて行っていただいたことがあるのだが、それから何年もたっているので、片山さんに仲立ちしていただいた。
 野澤さんと片山さんはローム ミュージック ファンデーションの『日本SP名盤復刻選集』の監修者をつとめられ、共同で素晴らしい解説文を執筆されている。第三集が発売されたばかりだが、野澤さんはすでに次回の選曲と原盤提供の準備を進められている。
 面白いことに戦時中には、日本作曲家の作品を録音するシリーズなんてものが発売されていたらしい。敵性音楽が禁止されている情勢下では、そうした企画の方が、国威発揚の大義に適うという理由で実現しやすかったらしいのである。だが企画が通ることと、非常事態の中で盤がどのくらい流通して、そしてまともな状態で残存するかというのはまったく別の問題で、野澤さんのような日本を代表する大蒐集家でさえ、現物は入手していないのだそうだ。当時の雑誌広告を手がかりに、伝手を求めて持ち主を探し出すのだという。『日本SP名盤復刻選集』のCDは、こうした熱意と手間によって生まれるものなのである。
 野澤さんのお宅にあるクレデンザは、豊麗に鳴り響くことで知られている。この伝説的な名蓄音機の中でも、特に優れた一台だと聞いたことがある。前に聴いたときにも感銘を受けたが、今日もやはりその響きに酔う。

 夕方辞去して、片山さんをお誘いして蕎麦屋に入る。軽く食べるだけのつもりが、昭和中期の日本建築の二階座敷に座り込んだら何だか妙にゆったりとした、いい気分になってしまい、いつのまにかビール三本を二人で空にする。
 話題はいつものように、とりとめもなく流れていく。なぜか飯能の街並みの印象――住んだこともないのにお互い詳しいのが不思議――からスタートし、西武沿線の駅前に共通する特徴など、そんな話から片山さんの中学高校のご友人の話になる。名門校だけに有名企業の跡取りも多かったのだが、大人になって不祥事や事件を起こした人が何人かいるとか。
 それから、わたしの中学の同級生である和仁陽という法学者の話。東大の助手論文に書いた『教会・公法学・国家 初期カール・シュミットの公法学』がとんでもなく優れた傑作だったことで、斯界では有名な存在である。相手はわたしのことなど憶えているはずもないが、当方にとっては忘れがたいクラスメイト。
 続いて、源氏鶏太の著作をいまこそ再評価すべきだ、という話。昭和ブームなどといっても結局は子供時代の懐旧譚ばかりで、当時の父親世代、つまりサラリーマンが読んでいた源氏鶏太を初めとする大衆小説、中間小説を誰かちゃんと研究してみようとは思わないのか、などと無責任に盛りあがる。
 蕎麦を食って〆。なかなかに美味で満足。中野という街の気持よさにも満足。

十二月二十九日
 青山のアルファベータにて『クラシックジャーナル』恒例のベスト・テン座談会。これで年内の外出仕事はおしまい。

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