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二〇〇八年
一月一日
 大晦日夜から元旦未明にかけて、MXテレビのカラヤン特集の第一回が放映される。
 自分がしゃべっている画面をテレビで観るというのは、やはり妙な気分だ。前の仕事のころ、取引先の人と新橋駅の機関車の前で待ち合わせしていたら、『ニュースステーション』のカメラが来て小沢一郎について感想を聞かれ、それが放映されたことがあった――サラリーマンが相手なら、とりあえず新橋駅前でインタヴューというのは、昔も今も変わらないテレビ局の慣習――が、あれはあくまで偶発事。今回は違うし、しかも『ゆく年くる年』の裏番組というのも、何だかすごい。
 さて元旦の未明といえば、ナインティナインの岡村がフンドシ一丁で火の玉に突っ込んだり追いかけられたりする、日テレのバラエティ番組を観るのがここ何年かの恒例になっていたのだが、今年はやっていない。あのヤケクソぶりが大好きだったのに…。
 翌朝は遅く起きて、夕方に例のごとく須賀神社へ初詣。
 ふと思いついてサイトの色などを変更する。

一月二日
 朝起きると身体がだるく、頭が痛い。熱もある。休みで気が緩んで風邪をひいたらしい。一日寝る。

一月三日
 今日も一日寝ていたかったが、オーチャードホールでの東フィルのニューイヤー・コンサートに行くことにしていたので渋谷へ。通路で高嶋ちさ子さんと偶然にお会いする。
 東フィルは、年末から続けて各所で演奏しているようで、疲れているのだろうが、弦の後ろのプルトなどは、もう少し本気でひいた方がいいのではないかと思った。

一月八日
 今日は実質的な仕事始め。MXのカラヤン特集の一月放映分三回を撮影する。
 二日からの風邪は治ったが、ノドだけに痛みが残り、それがおさまると気管支をやられた。十二月の収録での疲労が一気にきたらしい。発声法を根本的に考え直さないといけないのかも知れないが、それはそれとして、まずは今日の収録をやり遂げること。
 ラジオならかなり細切れの編集も可能なので、失敗したところだけ抜いて繋いでもらうこともできるが、テレビでは映像の整合性から、ある程度の長さのテイクが必要になる。咳きこんだらすべてがパアなので、咳をのみこみ、暴れかける気管支を押さえつつしゃべる。晩年のカルーソーはノドの疾患に苦しみ、「虎を乗りこなすようにして」歌っていたというが、その伝でいけば、わたしも猫ぐらいには乗っていたことになるかも。
 ともあれ、プロとして最低の自己管理ができなかった。情けなし。

一月十八日
 満津岡信育さんと昼をご一緒して、業界の情報交換。夜は浜離宮朝日ホールでオノフリ指揮のヘンデル・フェスティバル・ジャパン演奏会を聴く。
 驚いたのは、オノフリの合唱指揮の手腕。ハーモニーと堂々たる響きを引きだし、ヘンデルらしい壮麗さを聴かせてくれた。本人もテノールで歌がうまいそうだが、それが好作用につながっているらしい。気持ちのいい一夜。

一月二十日
 ミューザ川崎のホール設計をされたACT環境計画の、林秀樹さんと小林洋子さんとある場所でお話させていただく。
 大規模なホール棟の設計というのは当然ながら複雑で、全体をまとめる主幹会社のほかに、専門分野ごとに協力会社がくわわる。ミューザ川崎の場合、施設全体は松田平田設計だが、たとえば音響は永田音響設計などと別れており、そのうちのホール設計をされたのが、ACT環境計画なのである。
 雑談という形ではあったが、シューボックスとワインヤードの特性の違い――前者は重厚な響きに強く、後者は明快な響きとなりやすい――や、ミューザ川崎の一階部分がなぜ狭く区切られているのかとか、オーチャードホールがどうして現状の配置になったのかとか、現場ならではの説明を聞かせてくださって、とても面白かった。
 上野の東京文化会館の、あのロビー部分の雄大な構想の、日本人離れした素晴らしさについて意気投合。林さんがそもそもホール設計に興味を持たれたのが、文化会館がきっかけといわれるので嬉しくなる。ところで大ホールの客席は、椅子の布の色がところどころ変えてある。その理由が「舞台から見たときに空席が少なく見えるように」するためというのはよく知られているだろうが、あれは業界で「お花畑」と呼ぶそうだ。
 それにしても音楽ホールとはその内部に限ってみても、聴覚面、視覚面、材質面など複数の立場の異なる設計者、施工業者、そして施工主の意向がすり合わされて、一つのものになるわけである。このへんの調整話も、いつかゆっくりとうかがってみたい。

一月二十四日
 新国立劇場で《ラ・ボエーム》。
 この作品、プッチーニはテノールだけに突出して声楽的センスを要求する音楽を書いている。他の歌い手は若手、とにかく意欲さえあれば若手でかまわないから、ロドルフォ役の歌手の確保に集中して予算を投下すればよかったのに、と思う。ミミ役のマリア・バーヨはいうまでもなく優れた歌手だが、それだけに言葉の真の用法で「役不足」に思えた。

一月二十五日
 新国立中劇場で関西二期会による《ナクソス島のアリアドネ》に行く。
 演奏と歌唱はともかくとして、最後の壮大な響きをこの小編成でつくったR・シュトラウスは凄い、と思った。

一月三十日
 雑誌『東京人』特集のための鼎談に参加。場所は池田卓夫さんのお宅で、池田さん、東京文化会館の里神大輔さんと春の音楽祭を中心にコンサートを紹介するもの。ラ・フォル・ジュルネや目白バ・ロックに加え、今年は「東京のオペラの森」が企画を拡大して、三月から四月にかけ、新旧の奏楽堂や各種博物館や美術館など、上野にならぶ文化施設の各所で演奏会を行うようになっているのが目をひく。東京という巨大な都市の中の、限られた特定の地域がそれぞれの個性を発揮して、音楽祭の舞台になってきているのが面白い。
 夜はサントリーホールでノリントン指揮のシュトゥットガルト放送交響楽団を聴く。後半の《英雄》は、CDよりもさらに細部の動きが凝ったものになっていた。感動というより、愉しい音楽会。

二月七日
 赤坂にある日音を訪ねる。
 日音はTBSの子会社で、音楽著作権に関わる業務を専門とする音楽出版社である。扱っているのは歌謡曲、ポップスやテレビ主題歌が中心でクラシックはないから、仕事での縁はなかった。
 ところが、オノフリ指揮のモーツァルトの第四十番の痛快なCDを制作発売したのは意外にもその日音なのだった。というわけで同社の担当プロデューサー水田大介さんにお会いしに行ったのだが、社長の桑波田景信さんもお時間を割いてご一緒してくださった。
 二年前のラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンでのオノフリの快演に惚れこんで、CD制作を始めたのだという。大きな企業の中のマイナー・レーベル。続編もぜひ、とお願いして辞去する。

二月十日
 ジャケット写真撮影のために『レコード芸術』編集部に行く。
 校了直前のこの時期は、書き手も編集者も睡眠不足で脳内アドレナリンが出っぱなしなので、箸が転んでも可笑しい。しかも興奮しているため頭が妙に回転する。ここにはとても書けないバカ話、バカ企画でゲラゲラと盛りあがる。

 ハリマオ関係の資料が集まってくる。
映画『マライの虎』ビデオを入手し、テレビ版のモデルだと私が想定している市来龍夫も、探していたその評伝『火の海の墓標』の古本を発見。まもなく落手できるはずなので大いに楽しみ。
 一方、テレビ版第四部『南蒙の虎』――というより、本当のタイトルは『満蒙の虎』だったんじゃないかと思われるストーリー――を観た結果、戦前の少年倶楽部の小説もきちんと読まなければならないことが判明。
 特に、山中峯太郎の創造した軍人ヒーロー「本郷義昭」は、どうやらテレビ版の源流の一つらしい。軍事探偵、という設定そのものが第四部のハリマオ像と重なるし、第四部最終回のタイトルはずばり「アジアのあけぼの」。本郷義昭物の代表作「亜細亜の曙」と同じなのだ。
 というわけで、山中峯太郎のことも調査開始。尾崎秀樹の書いた分厚い評伝が文庫になっているのだが、士官学校出の軍人あがりで、中国の「第二革命」などに関わったという、自分自身が大陸浪人みたいな活動をして、それから作家になった人なのだ。面白い。ユダヤ陰謀論なども少年小説に織り込んでいるそうで、後世への影響は実のところ、かなり深いもののように思えてならない。
 海野弘の『陰謀と幻想の大アジア』は現代日本の陰謀論の根が戦前に発していることを明らかにした快著だったが、ひょっとしたら、戦前と戦後の陰謀論を結ぶ地下水脈の一つが、少年たちが山中峯太郎から意識的・無意識的に受けた影響の、その残影だったのではないか。考えてみることにする。
 あと、『少年倶楽部』黄金時代の編集長、加藤謙一のこと。自伝のほか、息子が書いた評伝がある。それによれば戦後は『漫画少年』発行に携わり、手塚治虫やトキワ荘グループとつながりをもったとか。ということは、ここに『快傑ハリマオ』の漫画を書いた石森章太郎への補助線がひける可能性もあることになる。
 こうやって点から点へと、線がつながっていくのを眺めているときが、じつはいちばん楽しい。まとまるものやら。
 だが人生五十年。今から本気でやらないと、きっと間に合わない。

 といいつつ、年末に買った『新選組血風録』DVDを観てしまい、栗塚旭と島田順司の土方&沖田にしびれている、へたれなワタシ。
 左右田一平の斉藤一もいいなあ…。

二月十一日
 『火の海の墓標』が到着。
 著者の後藤乾一は、インドネシア交流史の泰斗。うちにもすでにスカルノ関係など、何冊か著書がある。
 それにしても、副題かどこかに市来龍夫と入れておいて欲しかった。それならもっと早く存在に気がついたのに。
 でもこれは、ネット検索するようになった時代ならではの感覚かも知れない。
 ネット普及以前に出た本(ちなみにこれは一九七七年刊)は、内容自体に関する情報もネット上には少なくて、以後の本とは明確な差がついている。情報の断層が生じているのだ。

 本郷義昭に関する小ネタ。
戦前の少年なら誰もが知っていたというこのヒーロー、どうもわたしは「義昭」という字を見ると足利義昭を連想してしまい、あまりヒーローぽさを感じないのだが、戦前の子供は逆に、足利義昭にまで「本郷的」な要素を感じて、ときめきを感じたのかも知れない。
 足利義昭をやたらに黒幕視したがる歴史家や作家の世代的始まりが、少年倶楽部世代だったりしたら、なにか面白い気がする。ただの思いつきだが。
 それにしても本郷義昭、アジアで活躍する軍事探偵という設定が災いしてか、戦後は絶対に復活の機会を与えられなかった、つまり戦後世代はほとんど知らない「幻のヒーロー」である。
 だが、前述したようにその影響はあちこちに残っている気配がある。たとえばわたしの年代は「本郷」と聞けば、脊髄反射的に初代仮面ライダーの「本郷猛」(ほんごうたけし)を思い浮かべる。
 作者の石森章太郎は疑いなく少年倶楽部世代だから、本郷義昭からとったんだろうなあ、などと思っていたら、さらなる裏付けがあった。
 高橋康雄の『少年小説の世界』というのを読んでいたら、やはり戦前の人気作家である南洋一郎の大人気作品に『日東の冒険王』というのがある。
 昔あったマンガ誌「冒険王」はこれが元だな、とも思うわけだが、それはそれとして、このタイトルは本郷義昭の初登場作『日東の剣侠児』にならったものとみて間違いない。そしてその中に出てくる帝大水泳部出身のヒーローの名は「東郷剛」(とうごうたけし)というのだ。
 本郷猛とは、本郷義昭と東郷剛が合体した名前なのだろう、たぶん。

二月十三日
 オペラシティにジョナサン・ビスのピアノ・リサイタルを聴きに行く。大ゼルキンを想わせる、がっしりした響きと幻想性をもった、いいピアニスト。要注目の存在。

二月二十日
 夜六時から二期会の《ワルキューレ》を東京文化会館で観る。
 演奏云々よりもまず作品自体の力に久々に打たれて、軽い興奮状態で帰宅。こういうときは眠れないので、確定申告の書類を仕上げてしまうことにし、午前三時過ぎにe‐Taxで送信。

二月二十一日
 昼前に起きる。昨晩六時に引き続き、今日は午後三時から二回目の公演。早めに出て上野公園内で時間をつぶすことにし、行きがけに税務署へ寄って、確定申告の添付書類を提出。税務署は駅へ歩く途中にあるので、どうせなら申告自体も一緒に出す方が簡単なのだが、e‐Taxは還付までの日数が短いのである。

 上野公園。平日の午後だというのに、天気がよいせいか大層な人出。科学博物館と迷ったあげく、中学時代以来三十二年ぶりの上野動物園を選ぶ。
 前と後のワルキューレ二枚でサンドウィッチした、動物園。
 《ワルキューレ》の演出はいささか説明的ではあったけれど、神属と人属の圧倒的な能力の差、不死の前者と有限の後者との時間感覚の差を提示した点が興味を引いた。
 また、神属がその不死性と引き換えに自由のない、原理原則に縛られた存在にすぎない――というより、原理原則そのものだから不死なのである――ことが、その意義を毫も疑わずに自らの権威の源泉とし、その維持しか頭にないフリッカに象徴されていたのも面白かった。ヴォータンは自分もフリッカと同じ存在であることを、(ト書きを離れて何度も登場する)彼女を見るたびに、鏡を見るように意識させられるのである。
 その影響のまま、神属と人属の差など考えている人間にとっては、鳥と動物、肉食獣と草食獣など、たくさんの動物たちの種の差がとても面白い。強いのも速いのもデカイのもいれば、弱いのも遅いのもちっこいのもいる。『篤姫』の平幹二郎の調所笑左衛門じゃないが、それぞれに「やくわり」があるらしい。

 だが、三十二年ぶりの動物園で何より強く感じたのは、ここが「親子の聖域」だということ。
 動物たちは安全健康で飢えの心配もないが、本来の生活環境から隔離され、閉鎖された環境で生きている。その不自然さは、どうにもならないくらいにかれらの生を歪めている。
 人のほとんどこない五重の塔と日本動物たちの地域にいたエゾジカの、隆々と角を生やした、王者の孤独としかいいようがない姿を代表として、みな不思議な威厳をたたえてはいるが、そこには虚無があるのだ。
 ところが子を生み育てる行為は、そんな不自然ささえ立ち入りえない、生命の聖域だ。子猿を背中にしがみつかせて移動するニホンザル、二十センチくらいの小さな身体に、子供二頭を抱きつかせているメガネザルみたいなやつ、育ちすぎて母の袋には入れないので、頭だけ突っ込んで乳を吸う、カンガルーの子供。
 それらの動きには生の輝きがある。どんな環境だろうと変わることなく、毀たれることのない輝きが。
 そして見ている人間も同じ。一人で見ている自分とか、若いカップルとか、女性の数人連れとか、先生に引率された幼稚園児たちとか、その誰よりも真剣に、「一緒に」動物を見ようとしているのは親子づれなのだ。
 おそらくはそのお母さんお父さん自身も、子供のとき父母に連れられてここに来て、動物の親子を目にしたにちがいない。その連鎖の力。継承の力。
 團伊玖磨は『ぞうさん』の歌を親子の情愛を歌ったものだと述べていたが、それは上野動物園の中にいると、痛いほど強くよくわかる。ここの象を歌うなら、絶対に親子の情愛の歌以外にはありえない。それは種への誇りである。
 もう一つ連想。『タイガーマスク』の伊達直人が孤児院を飛び出して虎の穴に入ることになるのが、みんなで上野動物園に来たときというのは、こうしてみると、とてもとても意味が深い。
 強い虎を見たからではない。上野動物園に、この親子の聖域に「みなしご」としていることが、伊達直人の心をあまりにも深くえぐったのではないのか(仲のよい親子を見ていらだつ直人少年、というシーンがあったような気もする)。

 そのパワーにくらくらしながら、前夜に続いて《ワルキューレ》へ戻る。
 神属に較べてあまりに脆弱で無力な人属ながら、神属をたじろがせる場面が一か所ある。第三幕初めの、ジークリンデが母としての誇りを歌うとき、彼女が放つ輝きのまばゆさは、ワルキューレたちを驚かすのだ。
 ワルキューレにも母はいる。だが、彼女たちは母になりうるのだろうか。ジークフリートと結ばれたブリュンヒルデに子ができなかったことには、何か意味があるのだろうか。そういえばフリッカも石女(うまずめ)である。エルダはブリュンヒルデの母――他のワルキューレも彼女の娘かどうかは、はっきりしていない――だが、この二人はどちらも母娘の結びつきがあまり強くないようだ。
 神属のなかでヴォータンだけが父でいられる。欲得まみれ、策略まみれのかれも、子への愛は真実である。

 もう一度、動物園の話。わたしがかつて見た、トドらしき巨大鰭脚類がいた西園の水槽のあった場所は、子供動物園か小動物館に建て替えられたらしく、存在しなかった。鰭脚類ではアシカが東園にいただけだった。

二月二十四日
 新国立劇場で《黒船》を観る。いかにも「日本的」なオペラ。面白いかどうかは別にして、とにかく考えさせられた。
 ひとことでいうなら「言わぬが花」。謙譲の美徳というか。とにかくすべてが婉曲的で、慎み深い。歌詞は含みが多くて言外に意味を持たせてある。ドラマの起伏もオーケストレーションも、一、二幕で抑えていて、三幕でようやく本音を少し出す感じ。
 三幕の調子で初めから鳴らせば、もっと娯楽性が高くなって、上演頻度も増すのではと思うのだが、それを抑えるのが「美徳」なのだろう。合唱の使いかたも遠慮がち。すべてをひっくるめた大音響で忘我の境地へ、なんて音楽は山田の辞書にはないらしい。
 これはいままでに聴いた山田の管弦楽作品に共通して感じることだが、同時代に大流行していたはずの初期ストラヴィンスキー風のバーバリズムの影響が、かれの響きにはほとんど感じられない。この人はとにかく土俗的な力、野蛮で荒々しい力には目をそむけ、耳をふさぐ。
 「ナムアミダブ」という内へこもっていく響きを採用して、太鼓叩いて「ナンミョーホーレンゲーキョー」という開放的なリズムを使ってないのが象徴的。
 その結果、とても不思議な音楽になっているのは、舞台版では今回が初めての上演となるらしい序景。これはヴィジブル・オーバーチュア、つまり「可視的序曲」と名付けられたパントマイム的なもので、盆踊りの場面から始まる。
 祭りは民族の特徴、特に異教的な迫力を出すのに最適の音楽のはずで、日本の作曲家も他国の民族楽派の人も多用している。しかし山田の音楽には、祭りらしい土俗的なリズムの開放性がない。陰気で、まるで祭りとは思えない。なんでこの場面をつくったのか、いったい何を描きたかったのか、何を説明したかったのか、よくわからない。《タンホイザー》の序曲とバッカナーレみたいな始め方をしようと思ったけれど、自分の資質に合わなかったということなのか(以前に日蓮宗の寺で夜のお会式に出くわしたことを思いだした。万灯こそ明るいが、太鼓と鐘が陰気に鳴るだけ。可視的序曲の音楽は、あの雰囲気にとても似ている)。
 土俗性の排除という性質は台本にもよくあらわれていて、お吉は「芸者ではなく、といって酌婦や端女でもない」という、よくわからない境遇になっている。自分の身が借金のかたになっているという意味の歌詞からみて、花街か色街か、あるいはもっと下賤の、とにかく苦界に生きる女性であることは、疑いないはずなのだけれども。
 さらに、領事とは性交渉のいっさいない、プラトニックな関係だという。日本風というよりもプロテスタントの禁欲的倫理観みたいなものが支配した、非現実的世界なのだ。まるで領事は牧師みたい(現実のハリスが敬虔なプロテスタントで生涯独身だったと、あとで知った)。このあたりは山田がキリスト者の家に育ったためなのか、原作者のパーシー・ノエルの感覚なのか――いずれにせよ、ハリウッド映画のヘイズ・コードや禁酒法など、両大戦間アメリカの「良識」のにおいがする。
 台本も音楽も、キレイゴトのタテマエがならぶ。日本も、欧米とは違うけれど同じく文明国なのだということを強調したいのかも知れない。文化的で洗練された国の姿だから、土俗的なもの、未開野蛮を想わせる祭りの音楽などは、つくりたくないのかも知れない。むしろ三味線とか尺八の小味な響きにこそ、文化の粋があらわれる。『夜明け』という初演時の題は当然、幕府時代は闇だったという当時の一般的な史観(同時に御用史観)に基づくわけだが、だからといって日本文化そのものが闇ではないことを、山田は強調したいのではないか。
 初演の昭和十五年の日米間の情勢を思えば、野蛮を嫌う文明国どうしというタテマエを並べたてることで、平和友好を訴えた作品と考えられる。だからこそ、戦後も再演可能だったのだろう。
 皮肉はけっこうある。領事をなかなか将軍に会わせなかった幕閣は、第三幕三場で突然態度を変える。領事はその変心の理由をたずねるが、役人はちゃんと答えずにごまかす。表面的なストーリーでは、領事が身を挺して日本人女性を助けたことで評判が高まったため、ととれるようにもしてあるけれど、もちろんそんなことで外交が動くはずもなく、黒船が再び来航したことで不甲斐ない幕閣が動揺したから、というのが本当の理由のはず。わかっているけれど、あえて誰も口にしない。いわぬが花。
 そこの歌詞。
領事「いかなるわけで?」

奉行「御身とわれらの国は、いまなお友の交りを」
領事「それはまこと?」
奉行「閣下よ、心安んぜられて」
外の領民の合唱「領事様ばんざーい、ばんざい」
伊佐「われらの落度は、ごめんくだーさーれー」
 唐突に場面が変って、領事とお吉の二重唱。
「われらの瞳あうときに 心の瞳もほの見ゆれ 言わね語らね魂触れて こよなき幸をわれら知る」

 会見できる理由をきいているのに、瞬間ぐっと息をのみ込んで、「両国の友好はまだ(続いていますから)」と、理由というよりはその前提条件だけを口にして、いきなり謝る。
 この謝罪の前に、領事の英雄的行為をたたえる領民の声をはさんで、それが理由だと誤解させるように念を入れているのもいいが、さらにうまいのは「ぐっと息をのみ込む」間の描きかた。
 そしてかれらに対する領事の反応は歌詞になることなく、続く二重唱では「言わね語らね魂(たま)触れて」とくる。すべてが暗黙の諒解なのだ。

 それにしても領事、とてもアメリカ人とは思えない。武力で威嚇し、幕閣を変心させる文字通りの「砲艦外交」の、その先頭に立つ人物のはずなのに、かれはそのことに気がつかない顔で、黒船は自分に食料を届けてくる船だ、みたいなことを歌っている。武張った奴より平和主義者の方がよほどタチが悪い(司馬遼太郎がいうように平和とはそうした欺瞞、裏での脅迫と屈従といった、どろどろの薄汚い行為によって、ようやく維持されるものなのだろうけれど)。
 「黒船」というタイトルは、平和友好の物語の背景に砲艦外交が厳然と存在することを意味しているわけで、これ自体にも皮肉が利いている。だから、初演のときには外したのかも知れない。

 最後の場面での勤皇の志士吉田の、天皇の意志は絶対だと宣言し、それに自分は反したから切腹するという論理の飛躍も、ひたすらに日本的。
「大君よしとのたまわば 何背くべき ただによし その御心を悟り得ざりし身の愚かさ この罪 死にて詫びまつる」
 天皇は無謬なのだから、それに反対の自分が間違っていることになる。天皇を否定できないからには、自分を否定するしかない。抗議ではない自己否定。対話の可能性を拒否した、問答無用の自己否定。抗議の気持や無念の思いは、言葉にならずに行為の彼方へ追いやられる。

 これは、上意だからと態度をコロコロ変える幕府の役人よりは、よほど清々しい。領事が吉田を賛美するのは、そんな役人への嫌悪、かれらに対して直接は見せなかった嫌悪の、裏返しともとれる。
 けれど、切腹はつまるところ流血の自滅。音楽自体はその自己犠牲の精神を賛美するようでもあり、皮肉るようでもあり(後世的拡大解釈をすれば、統帥権を盾にする軍部専横への皮肉とだって、見なすことは不可能ではない)。
 こういう意味づけも、場面場面の人の気持も、音楽も、すべてが婉曲で、あいまいに揺れている。
 暗黙の諒解だらけ。これが日本最初の本格的オペラ、それもほかならぬ山田がつくった作品というのは、とても考えさせられることだ。
 あいまいさを露出強調することなく、そのままにした演出も、これはこれで正解なのかも知れない。舞台両脇の下田名物のなまこ壁は、白線がもっと太くないとそれらしくないのだが、これはひょっとしたら「線が細い」ことに意味があるのか(多分、ない)。
 ところで、領事館の上手にある空中回廊(足利義満が金閣寺につけたみたいなやつ)は、何なのだろう…。

二月二十五日
「われらの落ち度は、ごめんくだーさーれー」
 オペラ《黒船》についてまだ考える。これまで理解していた以上に重要な意義を持つ作品であると、舞台を観て初めてわかってきた。たんに「オペラとしての出来の悪さ」だと思い込んでいた要素のなかには、日本を考える上で大きな示唆となる、山田の意図的な仕掛けも含まれているのだ。
 たとえば最後の切腹の部分。天皇絶対思想の本質を短くついた歌詞もいいが、それに加えてその音楽。とても静かに描かれている。
 プッチーニなら煽情的に、激情的に描くところだ。だがこの切腹は感情の爆発ではない。「言わぬが花」の最終的形態として、自己の思いや言葉を殺してしまう行為だから、静かなのだ。冷静さや客体視などとは異なる、思考と情動を殺すことで苦悩を去り、生れる平静。そうして平和の贄となる。
 もちろん、単にうまくいかなかった部分も少なくない。人の出入りが音楽だけでは充分に説明できておらず、視覚を得て初めて納得できる点もあった。また、なんというか、演劇的な時間感覚とオペラ内の時間感覚の差、その伸縮の生理みたいなものが山田の血肉になっていない印象を受けた。序景の問題も含めて、習作的性格はぬぐえない。
 だから、もっとオペラを書いてほしかったと思う。皮肉ではなく本気で思うのだが、言わぬが花の美学をオペラに持ち込むことなんて、おそらく日本の作曲家にしかできないはずだから。
 と書いて思いだすのが、晩年の武満徹のオペラへの執着のこと。あの音世界なら、新時代の、言わぬが花のオペラを書けたかも知れない。だがかれは、ついに満足すべき台本を得られなかった。山田がノエルの英語原作に基づいて日本語歌詞を書いたように、武満自らで歌詞を書くほかなかったかも知れない。
 その武満が書けなかったものを、山田が半世紀前に書いていた。その意味で、《黒船》は「あいまいな日本のオペラ」の最重要作の一つなのではないか。
 ただ、領事という「異人」までも日本型ヒーローとして「言わぬが花の人」に設定しているのは残念だ。
 初演当時の日本の聴衆の共感を得るためには仕方なかったかもしれないが、そうではなしに異界からの観察者という位置づけを明確に行なっていたら、ドラマはより深まっただろう。アメリカ人ノエルの原作でのハリスの扱いはどうなっているのだろう。それも含めてすべて曖昧模糊の霧の中、なのか。
 ところでこの領事、プログラム掲載の片山さんの解説によると、山田は藤原義江を念頭に置いて領事役をつくったそうだ。そしてその通り、藤原が初演を歌った。スコットランド人を父に持つ藤原なら、視覚的にはぴったりだったろう。

 二期会と東京交響楽団による全曲(東芝)を久しぶりに聴いてみる。一九六〇年八月に録音されたもので指揮は森正だが、さらに総指揮として山田自身がクレジットされている。山田はその四か月前に日米修好百年、作曲生活六十年を記念して大阪で上演された公演の指揮も朝比奈隆とともに行っていた(実質は朝比奈の指揮だろう。しかも演出が白井鉄造というこの舞台、観てみたかった)。
 序景はないが、オーケストラの細部はこの盤の方がわかりやすい。しかし何よりも驚いたのは、伊藤京子、柴田睦陸、立川澄人など主役陣の日本語の発声が、現代の歌手とは段違いに明瞭なこと。新国の上演では字幕を見てようやく理解できた文語表現も、耳だけでちゃんと聞きとれる。響きがきれいなのだ。
 大会場とスタジオの音響差もある。だがそれ以上に、訳詞上演など日常的に日本語で歌っていた往時の歌手たちの、磨かれた発声技術のたまものである。日本人がやらなくて、誰がきれいな日本語発声を守るのだろう。
 このCDの問題は悪名高きHS2088リマスタリングであるため、薄っぺらくキンキンした音質なこと。歌手の芸術を残すという意味でも、また作曲家自身が監修したステレオ録音という意味でも、オリジナルのテープがダメになる前に、きちんとリマスタリングした上で世に残してほしいのだが。

 CDを聴きながら、読み替え演出の舞台を妄想してみる。
 新国の舞台ではあいまいに隠されてしまっていた黒船の意味を、巨大で威圧的な影として見せるのはどうだろう。黒船来航は安保の傘、「パックス・アメリカーナ」の原点なのだから、現代風に、原子力空母エンタープライズやニミッツのシルエットで舞台をおおうとか。
 終幕、黒船入港を告げる砲声に合わせて上手の空中回廊にC47輸送機が着陸し、扉が開いて、あの階段をサングラス姿のマッカーサーが降りてくる、なんて演出もいい。そうすれば、あの無意味な階段の存在意義もできる。
 マッカーサーは黒船の人格化なので、これは黙役。切腹する吉田は、阿南陸相か、近衛師団の決起将校か。お吉が昭和天皇で、領事は鈴木貫太郎か吉田茂。
 日本市民が土下座する中をマッカーサーが尊大に進み、お吉と領事に対面。かたわらでは「ナムアミダブ」の声の中、吉田の遺体が自衛隊員によって手早く片付けられるところで、幕。
 平和友好。

二月二十七日
 有馬哲夫の新潮新書『原発・正力・CIA 機密文書で読む昭和裏面史』を読む。
 CIAの機密文書を資料として、親米世論を日本で形成するために読売グループの総帥正力松太郎と提携するCIAの活動、そしてその力を利用して、総理の座を狙う正力の姿を描いたもの。
 両者の取引の材料となるのが原子力の平和利用、すなわち原発問題なのだが、その副産物として日本テレビとディズニーとの結びつきが生まれ、番組『ディズニーランド』放映につながっていくという記述は面白かった。いまも読売グループは「いかにもアメリカ」的な興行をするのを好むが、その流れにも沿っていたのだろう。また、一人の人間に権力が集中する体質を遺伝のようにこの企業集団が引き継いでいるのも興味深い。まあ、正力のように大マスコミの長がその影響力を保ったまま選挙に出て、衆議院議員になる状況は、現代では考えにくいが。
 あと、テレビ方式ではNHKがヨーロッパ式のPALを推進したのに、日テレを率いる正力がアメリカ式のNTSCに変更させたのだという。この争いはモノクロとカラーと、二回にわたって行われたらしい。もしPALにして、方式の変換などが原因でアメリカの人気番組放映に手間どっていたら、民放の発展はもっと遅れていたかも知れない。
 個人的に参考になった記述は、正力自身が一九五七年から科学技術庁長官として入閣していた岸政権が、鳩山の日ソ国交回復などに対抗して、東南アジア重視政策を採用したというところ。インドネシアとの国交回復はその一環なのだ。
 そして、この岸の政策に合わせて正力が「カラーを南方へ」という、カラー放送のネットワークを東南アジアに広める運動をした、という部分。
 一九六〇年に日本テレビから放送された『快傑ハリマオ』が日本初のカラーによる帯番組であったこと、また東南アジアを舞台にするばかりか、ドラマ初の海外ロケを同地域に敢行したことなどは、この正力の動きに、まさしく合致するものなのだ。
 この問題に関して日テレと制作の宣弘社との間に、どのような意見交換があったのかは、知る由もないけれど。

三月六日
 国税の過納分が還付された。
 確定申告をしたのは二月二十一日だから、それから二週間ほどでの還付で、早いのに驚く。ネット経由のe‐Tax提出は通常の半分、つまり約三週間で還付というのがウリなのだが、それよりさらに早い。使用者を増やすためなのか。
 前にも書いたが、フリーランスにとって還付金はボーナスのかわりみたいなものなので、とても嬉しい(単行本の印税もボーナスに近いが、毎年必ずあるわけではないから、純然たる臨時収入。時期の定まっている還付金こそ、ボーナスのイメージに近い)。
 懐があたたまって、もう〆切なぞ気にせず遊びに行こうか、というキリギリス状態。でも国税のかわりにぐんと高くなった住民税は払わにゃならんし、たまった国民年金も収めないといかん。このぬくもりは嘘なのだ、嘘なのだ。
 それにしても早い。そのかわり去年、わざわざ区役所まで行って「住民基本台帳カード」なるものをつくり、さらにそれをパソコンに読み取らせるために「カードリーダー」を電器屋に行って数千円払って購入し、と手間をかけている。
 どちらも一年に一度のe‐Taxにしか、自分では使わない。しかもこれら以外に納税に必要な「電子証明書」は、有効期限が三年間なので、それを過ぎたら再発行の手続きが必要になる。
 本人確認と情報保護の重要性はわかるが、こんな余計な手間と金をかけてもメリットが還付までの早さくらいでは、やる人が増えないのは当然だろう。
 しかも、申告に関するすべてがネットだけで済むわけでもない。源泉徴収票や医療費の領収書などは「現物」を郵送などで提出する必要があるからだ。今年から医療費の領収書は提出不要でもよくなったらしいが、要項をよく読むと医療側の態勢が整ってないとダメだとか、やはり簡単ではない。
 それに、わたしなどは他にも提出しなければならない書類があるのだから、医療費の領収書も一緒に出す方が簡単だ。
 医療費しか控除のない、他に提出するもののない人ならメリットもあるだろうが、そんな簡単な申告の人なら、そもそもe‐Taxなんて面倒なことをわざわざやったりはしないだろう。他の書類もいずれ提出不要にする第一歩なら、それはありがたいことだけれども。
 このシステムの開発運用、そして広報にはきっと膨大な予算が投じられているのだろうが…。

三月七日
 アメリカの作曲家、レナード・ローゼンマンの訃報を知る。芸術音楽ではなく映画・テレビの音楽で知られた人だ。
 わたしは直接の知りあい以外の、メディアを通して知るだけの有名人に関しては、好悪の度合いに関わらず訃報に心動かされることの少ない質なのだが、なぜかローゼンマンだけはさびしい。
 映画『エデンの東』が世間的には代表作だろうが、個人的にはテレビの『コンバット』とアニメ映画『指輪物語』。幼少期から高校くらいまで、くり返しくり返し聴いていた音楽のつくり手が亡くなったというのは、どうやら心への作用の度合いが違うらしい。
 『指輪物語』のサントラを久々に聴いて、かれを偲ぶ。アニメそのものの出来は後年の実写版『ロード・オブ・ザ・リング』に遠く及ばないが、音楽は負けていない。メイン・テーマ、ナズグルのテーマ、ウルクハイの歌、ローハン騎士団のテーマ、みな懐かしい。印象的なのはバルログ飛翔の場面で弦が描き出す、異様な無重力感。もともとは無調の、バリバリのゲンダイオンガクの作曲家だったという前歴がここで顔を出す。
 この人の『蜘蛛の巣』の映画音楽はシェーンベルク風なのだそうで、グールドが誉めていることで知られる。バーンスタインもテレビの『オムニバス』で触れていたから、当時はよほど話題になったのだろう。その音楽も、買ってはいないが海外盤では出ているようだ。

三月十二日
 サントリーホールのホール・オペラ、《フィガロの結婚》を観に行く。
 ルイゾッティの指揮も歌唱陣も素晴らしかったが、それに加えてプロセニアム・アーチがないことを逆手にとった、ラヴィアの演出が圧倒的だった。
 終演後の心地よい余韻の中で、むかし演出家の三谷礼二さんにうかがった、
「充分な練習をして、《フィガロ》を装置も衣裳もない形態で演出してみたい」
という言葉が頭に浮かんだ。
 この作品には装置も衣裳もない、日本舞踊でいう「素踊り」でやるにふさわしい何かがある、という意味だろう。
 今日のラヴィア演出は時代風の衣裳をつけていたし、多少の装置もあったが、しかし舞台に額縁がなく、登場人物の活き活きとした動きによってその場その場の喜怒哀楽を描き出すことがドラマ表現の主眼であった点において、見事な素踊りだった。
 来年は同じ演出と指揮のコンビで《ドン・ジョヴァンニ》をやるという。いまから待ち遠しい。

三月十三日
 ノセダ指揮のBBCフィルの演奏会を聴きにサントリーホールへ。
 主目的はシベリウスの協奏曲を弾くヒラリー・ハーン。背筋の伸びるような緊張感はさすがだった。アンコールをハーンがきちんとした日本語で告げる。そういえばハーンは日本語をアメリカで学んでいて、会話ができるという話を誰かに聞いたのを思いだした。

三月十七日
 クラシカ・ジャパンの新番組『クラシカ・ラウンジ』収録。
 毎週日曜午後八時から放映されるもので、翌週放映の音楽番組の見どころ・聞きどころを予告編的にご案内するもの。ナビゲーターは八塩圭子さんで、わたしは週がわりに交代で出演する解説者の一人。今回担当するのは四月二十日放映予定、翌週に一周忌を迎えるロストロポーヴィチについての番組(かれの音楽番組自体は二十七日放映)。
 スタジオがあるのは世田谷区の小田急線沿線。小田急に乗る機会は少ないので面白い。ひどい混雑や頻繁な遅延など、わたしの周囲では評判のよくない小田急だが、さいわい行きも帰りも順調。一本分、十五分くらいの出演だから簡単かと思ったが、テレビ収録のつねでけっこう時間を食う。

三月二十三日

 クラブツーリズム(株)主催の「旅とくらし博」で行なわれたセミナー「クラシックの名曲をヨーロッパの音楽番組で知ろう」の講師をつとめる。会場は新宿アイランドウイングという西口のビル。
 スカパー!経由でクラシカ・ジャパンが引き受けたもので、同社の番組を紹介しつつヨーロッパ旅行にからめる、というような内容。
 百人くらいの会場が熟年層を中心に満員。五六か所で同時開催の他のセミナーも同様らしく、その熱気に驚く。

三月二十六日
 新国立劇場で《アイーダ》を観る。
 前半は見た目の豪華さとは裏腹に、まったくドラマに入れない、共振できない自分をもてあます。
 幕間に知人が「ヴェルディの音楽のドラマって単純ですねえ」と言う。今日の印象なら、そうとしかいいようがない。空虚と批判された十九世紀パリのグラントペラの雰囲気を、よくもわるくも現代に再現した公演なのかも知れない。
 結局、楽しめたのは第四幕の二つの場面だけだった。ここはフリッツァの指揮も安定して迫真味をまし、視覚的にも巨大な石の神殿、神像が主役たちの頭上にのしかかる重みが活きた。

三月二十七日
 平林直哉さんの新著『クラシック名曲初演&初録音事典』(大和書房)が届く。
 チラチラと拾い読みしただけだが、よくある初演データに加えて、初録音データが併記されている点にこの本の独創性と魅力がある。初録音というのはまとまった資料が少なく、特に編成が小さくなればなるほど調べにくい。それを丹念にひろいあつめているのだから、その労苦と執念には頭が下がるし、大きな価値がある。さらに多くの曲でデータだけでなく、その状況を紹介する注釈がついていて、読み物としても面白い。
 当然のことだが、二十世紀の作品になると初演と初録音が、微妙な関係でからみあってくる。その距離、ねじれ方から作品そのものに対する当時の一般の印象が想像できて、興味がつきない。
 作曲家七十四人、三百七十四曲。わたしなどは商売柄資料として重宝するが、一般の方にも大いに役立つ本だろう。

 昼すぎにミュージックバードの収録を終える。FM東京からは千鳥ヶ淵が近いので、桜を見に行こうと北上する。
 ところが途中で曲がるのを忘れて直進しすぎてしまい、気がつくと目の前は、靖国神社。
 呼ばれたのかどうか知らないが、来てしまったのだから参拝して、ここの桜を眺めることにする。
 それから遊就館に入る。大展示室の天井に特攻機「桜花」が吊るされていた。これもこれで一種の花見だなあ、と一人納得。
 展示された軍人たちの遺品の中に、紫電改で有名な松山三四三航空隊の飛行隊長、菅野直の札入があった。

三月三十日
 毎年、三月下旬は雨が多い。気象用語としては「菜種梅雨」というらしい。
 年度末にふる雨である。
 いまの稼業は天候など直接にはほとんど関係ないが、送電線屋のころは野外工事だから、切実な問題だった。
 そのとき感じたのが、梅雨の時期は意外に困らないこと。一日まったく仕事ができない雨はあの時期あまりないし、二日続くことはさらに少ない。ただ、曇りが多いだけである。
 むしろ雨にたたられるのは、この年度末の時期なのだ。二日続けて朝から晩まで降ったりする。ところが仕事的には、この時期こそ忙しい。予算消化のための手頃な規模の工事をやるからだ。
 手頃とはいえ工事の性格上、年度をまたぐことは許されない。遅らせられないので、悪天候でも休めない。それで、雨のことを強く記憶することになる。

 合羽の上からヘルメットをかぶり、安全帯を締め、水を含んでグチュグチュの皮手袋と安全靴で、つるつる滑るステップを握って踏みしめながら四十メートルの鉄塔を登り、もやってほとんど見えない隣の鉄塔との間の電線の下がり具合を毎日見つめていた、十数年前の自分。
 この時期がきて長雨になるたび、そのことを思いだす。
 ただしその現場は静岡の富士宮だったから、晴れたときには対照的に富士山がきれいだった。印象としては、空の半分が青い富士の山というほどに、デカイ。それを毎日見上げて仕事をする。
 その直前には山梨の塩山の現場に半年ほどいたので、見慣れているのは黒っぽくて遠い甲斐富士だった。だから青くて明るくデカい駿河富士が、とても気持ちよかった(県民性にも似たような違いがあったし…)。まあ、仲間には甲斐富士の方が好きだという人もいて、それはそれでわかる気もしたが。
 そういえば、塩山から富士宮の現場へ車で異動したとき、途中で上九一色村を通った。夕闇でよく見えなかったから、当時は「面白い地名」と思っただけだった。オウム事件でこの地が有名になるのは、その数年後のことである。

三月三十一日
 片山杜秀さんと飲む。
 今日は渋谷の豚肉メインの店。「おすすめ」メニューだけ見て注文したら、卓上に豚肉料理ばかりならんでしまう。調理法はいろいろ違うとはいえ、豚肉は豚肉。二人して辟易する。
 酒のサカナは、片山さんが「キイハンター」のある回と三十何年ぶりに再開したという話。
 このテレビの本放送は五年間で二百五十本以上つくられ、一九七三年、わたしたちが十歳の年に終っている。その一本で、片山さんが異様な印象とともに記憶している回があったという。
 五年もの放映中、後半はかなりわけのわからない話が多かったが、そのなかでも群をぬいて妙な話だった。あまりに異様すぎて、ひょっとしたら夢と混同しているのではないかとご自身で疑っていたくらいなのだが、東映チャンネルの再放送でとうとうそれを観て、その実在を確認した、という話である。
 その内容と筋は、なるほどとんでもない。ご本人がどこかに書かれるかも知れないので詳細は省くが、フランケンシュタインが出てくる話だ。
 わたしはこの番組自体、おぼろげにしか覚えていないのだが、片山さんの講釈つきで聞いていると、凄い番組みたいに思えてくるのが愉しい。
 あとは、片山さんが懸命に書かれたのに、書きあげたときには時間切れでオチていた原稿の話。これの内容も面白かったが、いずれ世に出るだろう。掲載予定だった誌名はあえて伏せる(笑)。

 大笑いして家に帰り、山の神に「キイハンター」の話をしたら、なんと彼女もそのとんでもない回を覚えていた。
 片山さんにそのことを伝えたら、大喜びしてくれた。

四月四日
 キャンディーズ解散コンサートから三十周年の記念イヴェントの模様が、テレビのニュースで紹介されていた。
 この解散は中学卒業の時期だった。特にキャンディーズのファンではなかったが、卒業に重なったのがセンチメンタルな作用をして、いまでも彼女たちの最後のシングル〈微笑みがえし〉が耳に入ると、甘酸っぱい気分がよみがえる。
 中学卒業の感傷と高校入学の期待と、どちらに比重があるかは人それぞれだろう。わたしは前者の方が大きかった。
 そしてたしか翌日が高校の入学式で、わが京華高校は解散コンサートの会場、いまはなき後楽園球場に近かったせいもあり、校長が式辞で「あんな馬鹿騒ぎに踊らされるな」というような話をした。
 それからの高校一年の一学期は、物心ついてからの人生で、おそらくもっとも長い四か月になった。それまで目黒・世田谷・大田を生活圏としてきた人間にとって、同級生の大半が埼玉の浦和・大宮、千葉の松戸・柏、板橋の志村・高島平などから通っている文京区の男子高の世界は、カルチャー・ショックといっても大げさではなかったからだ。
 キャンディーズ解散は、その始まりを告げるイヴェントだった。

四月六日
 昔『ひょうきん族』の「タケちゃんマン」に「バック・トゥ・ザ・ふゆち屋」という回があった。当然『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のパロディで、ふゆち屋は旅館か料亭の名だったと思う。
 などという話はどうでもいい。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』をひさびさにDVDで観る。もちろん一作目。
 やはり面白い。よくできている。ひさびさの再観のとき「あれ、こんなに簡単な描写でサクサク進む話だっけ?」と思うのは、よくできた映画の証拠。
 各場面やセリフを一度で覚えてしまうくらい印象が鮮烈な映画は、頭の中にあるうちに時間感覚が狂い、もっと説明が長く、描写が細かかった気になる。
 三谷礼二さんがいわれた「記憶違いのある映画は名作」論である。しかし現物はきわめて単純素直につくってあって、だからこそ一回で頭に入る。
 もちろん、このジェットコースター的な展開法はその後の四半世紀にどんどんパターン化し、ハリウッド的つまらなさの一因となるのだが、ここではまだ、そこまで通俗化はしていない。

 ところで観た理由は、一九五四/五五年の音楽状況に興味を抱いて調べる過程で、この映画が一九五五年に戻る話だったことを思いだしたから。
 観てみると、一九五五年十一月五日から十一日深夜にかけての話だった。
 ウィーン国立歌劇場の再建記念公演がベーム指揮の《フィデリオ》で開幕してから、クーベリックの《アイーダ》が上演されるまでの、ちょうどその間である――もちろん、アメリカの地方都市を舞台にしたこの映画には、ウィーン国立歌劇場はまったく無関係だが。
 なぜ一九五五年かといえば、基本的には映画公開年が一九八五年で、その三十年前、ということだろう。プレスリーやロックンロールが表舞台に出てくる直前の、古いアメリカが濃厚に残っていたころである。車や服には二〇年代以来のアール・ヌーヴォー風の雲型、流線型のデザインがまだ残っている。
 いまから三十年昔と考えてみると、偶然にも一昨日の日記で触れた、キャンディーズ解散の一九七八年だ。風俗的には現代との違いに、こんなふうに映画になるほどの面白さがあるだろうか?
 携帯なし、パソコンとネットなし、CDやDVDなし。コンビニやファミレスは数少なし。六年前の石油ショックの影響もあってテレビの終了時間は早く、終夜営業店舗も少ない。郊外や地方には、巨大ショッピングセンターがまだない、といった差もあるだろう。
 一方、服や車のデザインはたしかに古くさいが、面白がるほどの差はない。生活の質や便利さは変ったが、見た目の変化は小さいのではないか。
 実際、映画内の一九八五年はもう二十三年前の昔だが、ラジオつきデジタル時計(液晶や電光ではなく、四角い白文字をペイントした小板がパタパタとめくれるもの)とか、カセット式ウォークマンとか、そういったわずかな小道具以外、それほど昔という感じがしない――若い人が観たらどうかは知らないが。

 ただ、あることが強く目につく。そのため、映画のなかのつくりものの「一九五五年」よりも、一九八五年の状況にこそ過去の息吹を感じることになった。
 車や電気製品の要所を占めるのが日本製で、その企業名やロゴが強調されることだ。トヨタにアイワ、JVC等々。
 日本企業がこの映画にお金を出したということだとしても、それすなわち力と自信の証明だ。「一九五五年」の生活がすべてアメリカ製のはずなのとは、対照的なのである。
 公開当時のアメリカの空洞化と、日本の寄生ぶり(いまはもう、韓国や中国のメーカーにとってかわられた部分が大きいだろうが)。冷戦体制下のアメリカに物を売りまくって「ジャパン・アズ・ナンバーワン」幻想が成り立っていたことを、いまさらながら痛感する。
 当時のわたしたちはそこに優越感をもって、この映画に接していたかも知れない。バブルの入り口が見える。この映画のころにレーガン政権の人為的なドル高(二百三十円とか)が終って、円高に転じた直後の数年間、冷戦末期の数年間がちょうど日本のバブル期なのである。
 映画産業買収を象徴に、アメリカそのものを買い占めようとするかのように、円高を背景に日本企業は狂奔した。
 あれは、戦後日本のアメリカ文化への憧憬が、醜く歪んだものだったのだろうか。かつて遠くから憧れた令嬢が没落しているのを、金で妾にしようとする成金みたいな行為だった。

 その日本とは逆の、公開当時のアメリカの自信喪失こそが、物語の背景にあることにあらためて気がつく。
 ヴェトナム戦争後の一九七四年の『アメリカン・グラフィティ』を初めに『グリース』などが続いた、ハリウッドの懐古趣味。『スター・ウォーズ』も、公開当初は往年のハリウッド映画の健全なエンターテインメント性の復活、という文脈で評価されることが多かった。
 レーガンという、ジョン・ウェイン的な父性と逞しさとユーモアで大衆的人気をもつ大統領が登場したのは時代の要求だったのだろうし、この映画はそうした懐古趣味の仕上げのように登場した。レーガンの名は過去と現在を結ぶものとして、映画中でも薬味になっている。
 そうすると、平成不況後の小泉政権下に起きた「昭和ブーム」と、照応する気がしてくる。日本に起きたそれの場合、バブル期に噴出したアメリカ・コンプレックスとどのような関係にあるのか、いつか考えてみたい気もする。
 そういえば、ホイチョイ・プロダクションがつくった『バブルへGO!』は、まだ観ていない。あれも観たくなる。

 ところで映画の最後にドク・ブラウンは三十年後の未来に行くのだが、初めの方では「二十五年後の未来に行きたい」と言っている。この物語はもともと一九八〇年を舞台にして、二十五年前の一九五五年に行く話だったのではないかと思われるフシがある。このセリフもその名残だろうが、そうすると二〇〇五年のことになる。もう過ぎているわけだ…。

四月某日
 某所に某公演を聴きに行く。
 出来がよかったら日経の演奏会評に取り上げるつもりだったが、とても無理なことを終演後に記者さんに告げる。公演関係者の志向が、これほどバラバラの三すくみ状態ではどうにもならない。
 そもそも、与えられた席が五列目の左端、という場所だった。舞台袖から観るのに毛が生えたような位置だから、響きのバランスも何もあったものではない。こんな位置からの印象で評を書いたら、出演者に対して失礼だろう。

四月九日
 斉諧生さんのサイトで、グールド研究で名高い宮澤淳一さんが、公式ウェブサイトを開設されたことを知る。
 今後の充実が楽しみだが、驚いたのは「プロフィール」に「群馬県太田市生まれ」と書かれていたこと。十五年ほど前に一年近くこの太田の現場に赴任していたから、土地勘のある場所なのだ。
 ほかに、矢澤孝樹さんのご出身地でも長く働いたし、山尾敦史さんのご実家近くの現場には、半月に一度程度のペースで通った。安田和信さんの高校がある町にも、数か月滞在した。片山杜秀さんの現在のお宅の隣町には取引先の資材倉庫があるので、数か月に一度は通った。
 送電線屋時代に滞在したり通ったりした現場は、関東一円で二十弱程度だと思うのだが、なぜかクラシック関係の執筆者の方に縁のある場所がけっこう含まれていて、当方としては楽しい。
 その「コレクション」に太田が加わったわけだ。
 宮澤さんとはかなり昔に名刺を交換した程度で、向うはご記憶かどうかもわからないが、いつかお会いする機会があったら、太田の話をきいてみたいもの。

四月十三日
 数日かけて、司馬遼太郎の『新撰組血風録』と『燃えよ剣』を読みかえす。
 前者のテレビ版を観おえて、あらためて原作と較べてみたくなったため。きちんと読むのはほぼ二十年ぶりで、初読のときに大興奮しながら読んだものとはいえ、ほとんど忘れてしまっている。
 前者はじつに不思議な連作だ。手元の中公文庫版の綱淵謙錠の解説に、列伝体小説ではない「近代的心理小説」の試みとあるが、なるほどと思う。
 起承転結のある物語にまとめずに、登場人物が織りなす「人間の風景」みたいなものが、一話ごとにぽん、と放りだされているのだ。
 読むものを惹きこまずにはおかない、明快で雄渾な物語性をもつ『燃えよ剣』とは対照的な仕上がりで、これらを同時に書くことで、司馬はバランスをとっていたのだろうか。
 テレビ版の結束信二の脚本は、はるかに単純化されている。片山さんは「すべてが土方と沖田と斉藤だけの話になっている」と評されていたけれど、たしかにその通り。もちろん、だからこそわかりやすく、感情移入しやすく、大ヒットしたのだろう。テレビ番組としてそれはそれで魅力的だし、一方小説は小説で、その複雑な苦みが味わい深く、司馬作品の中でも異彩を放つ。
 『燃えよ剣』の面白さはいまさらいうまでもないが、司馬の初期作品ならではの、対象を姿形ではなく、臭いで感じさせる一種エロティックな生々しい描写法と、そして何よりも、剣闘場面の心理描写の巧みさに、あらためて舌を巻く――うろおぼえだが、後年の随筆などでは剣術修行の思い出話の類をほとんど書いていなかったと思う。どのようにして身につけたのだろう。
 前半、上洛前の土方が激闘をくり返す敵役が甲源一刀流であるのは、中里介山の小説『大菩薩峠』(ちょうど衛星で、仲代達矢初演の映画版をやっていた)との関連らしい気がしてきて――机龍之介は甲源一刀流の破門者なのだ――調べてみたくなる。

四月十五日

 アメリカでは、テレビ番組『ディズニーランド』の古いフィルムがDVD化されている。ウォルト・ディズニー・トレジャーズという。
 そのシリーズの存在を新書『原発・正力・CIA』に紹介された一九五八年のディズニーの原子力推進番組『我が友原子力』のDVD情報で知り、アメリカ・アマゾンで調べたところ他にもいろいろと出ていたので、まず『ディズニーランドUSA』を注文。届いたので観る。
 中身は一九五四年のテレビ放送第一回と、五五年のディズニーランド開園記念生中継、六二年の『ディズニーランド・アフター・ダーク』、そして六五年の開園十周年記念番組。後の二本はきれいなカラー(リージョン1なので、日本の通常のDVDプレイヤーでは観られない。念のため)
 日本でも一九五八年から日本テレビ系でこの番組を放映しているが、ウィキの放映リストによると、これらの回は放映されていないらしい。地域性が強かったせいか。
 ヴェトナム戦争前の「よきアメリカ」の臭いがとても強いつくりで、その懐かしさに、よくも悪くも酔わされる。
 開園当初はアトラクションも少ない。特に遊園地風のジェットコースターのような、スピード&スリル系の乗り物はほとんどないらしく、まず重視されているのは、テーマパークとしての雰囲気づくり。幼児でも参加できるものをそろえ、それを基本に、少しずつ対象年齢をあげたアトラクションを増やしていったようだ。十年目の一九六五年になると、かなり現在の印象に近くなる――三島由紀夫が観たのは、この中間の一九六〇年だ。

 さて、メインの購入目的である一九五五年の開園記念番組では、三人いる案内役の一人がなんとロナルド・レーガン。この人は、ちょうどこの頃から司会役として活躍していたらしい。
 この開園時の「トゥモロー・ランド」は、三十一年後の一九八六年の未来を描くというのがウリ。映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の「現代」が八五年で、三十年前の過去に戻るという設定と、妙にリンクしているのが面白い。
 その「トゥモロー・ランド」紹介の部分では、原子力を未来のエネルギーとしてメインにすえて紹介している。
 原子力の平和利用は、ディズニーにとって大切なテーマだった。前年の一九五四年に製作した映画『海底二万マイル』でも、同名の原子力潜水艦ノーチラス号を宣伝する目的を兼ねていたらしく、潜水艦の動力源に原子力らしきものが暗示されていた――原作小説は海中の塩分採取による発電駆動だったと記憶するが、映画はそれを無視している。
 『バック~』のデロリアンの時間航行のためのエネルギーがプルトニウムだったのは、三十年前のこうした時代状況を意識しての設定だったのかも。

 しかしレーガンといい、他の番組でもゲストとして顔がうつるのがアイゼンハウアーだったりニクソンだったりと、政治的には明確な共和党支持のカラーが出ていることには考えさせられた。
 赤狩りに積極的に協力したというディズニーならではだし、さらには当時の、ハリウッド全体の風潮なのだろう。

 合計三時間五十分のDVD二枚を休み休みしながら観て、寝て、朝起きると、今日は、日本のディズニーランド開園二十五周年記念の日だという。
 天気予報がそこから中継されていた。
「いや、もうそのお城はいいから」といいたくなる(笑)。
 ごくパーソナルな、どうでもいいシンクロニティ。

 ともあれ、一九五五年前後の核問題の切実さがだんだんわかってきた。
 ケンプが広島の平和教会でオルガンを弾いたCDと、映画『ゴジラ』の封切は同じ一九五四年十一月のことで、どちらも第五福竜丸事件と原水禁運動の流れの中にあり、その先に黒澤の『生きものの記録』もあって…。
 「一九五五」は「一九六〇」より低予算・拙速で書くはずだったのだが、いつのまにかやはり深みにはまりつつある。

 嗚呼、CDとDVDと本の冥府魔道。

四月十六日
 東京文化会館の資料室へ行き、一九五五年前後の資料を読む。
 一九五四年の『音楽之友』を読んでいたら、日本楽劇協会による《黒船》上演の話が出てきた。五月二十七日から六月一日まで六回公演で、指揮は四回が山田耕筰、二回が森正。演出も山田自身が中心になっている。
 これは一九四〇年の《夜明け》という題で行なわれた初演以来、十四年ぶりの再演だった。
 会場は日比谷公会堂で、回り舞台はないし舞台袖も小さいので、装置の入れ替えのために幕間を四十分も空けなければならなかったそうだ。
 ピットもなく、オペラ向きとはいえない日比谷だが、山田はインタビューの中で、きちんとした舞台機構をもつ劇場を数回かぎりの公演のために借りるとひどく割高になるため、ここしかなかったと話している。
 一九六〇年の《マイスタージンガー》日本初演でも、日比谷が使われたことを不思議に思っていたのだが、おそらくは似たような理由なのだろう。
 数日間だけの大規模なオペラ公演に借りられる場所、としての東京文化会館の出現の意味は、われわれの想像以上に大きかったのだ。

四月十七日
 コンヴィチュニー演出の《アイーダ》を観にオーチャードへ。
 素晴らしい。わずかな部分をのぞいて室内オペラのように凝縮させる、逆転の発想がお見事。各人物の心理状態が痛いほどに伝わってくる。
 そして重要なことは、読み替えかどうだとかいう以前に、コンヴィチュニーが歌手たちから引きだす動きが、その瞬間の音楽自体の動きにぴたりと合致した、音楽的な演技であることだろう。けっして演技上手の歌手ばかりがそろっているはずはないだろうに、その仕種が効果的にドラマを物語るのは、かれらの歌う音楽との齟齬がない、きわめて自然な反応だからではないだろうか。
 この一点において、コンヴィチュニーの才能は飛び抜けている。
 この《アイーダ》は、新国立劇場のゼッフィレッリ原演出との競演になった。秋の二期会の《オネーギン》も、十三日に観た「オペラの森」のファルク・リヒター版との比較が楽しみである。
 それから音楽。演出と引き比べて酷評する知人もいたが、私はそうは思わなかった。ドイツ風にリズムとフレーズをはっきりと描出するボージッチの指揮は、とても気に入った。オーケストラとの練習不足か、荒さも目立ったが、スタイルの好き嫌いだけでいえば、三月のフリッツァよりはるかに共感できる。
 この指揮あってこそ、コンヴィチュニーの考えるドラマも明快になっていたと思う。歌手も傑出してはいなかった――ラダメスは最後の二重唱で何度も声が裏返りそうになった――が、みな直線的な絶叫をせず、よく歌いまわしていた。
 最後の夜景は、新宿駅南側の線路周辺を高所から見たカメラのような気がしたが、違うだろうか。
 その「巷」の美しかったこと。
 本来はそうでないものを美しく感じさせる、音楽と舞台の魔術。

四月二十一日
 池袋で宇野功芳さんにインタビュー。雑誌『男の隠れ家』の特集のため。

四月二十四日
 ザルツブルク音楽祭制作の《フィガロの結婚》を観に、東京文化会館へ。
 先月十二日のサントリーホールのホール・オペラに続いての《フィガロ》。どういうわけか、昨年同様オペラの演目の重複が多い。それだけオペラ興行が増えて、日常化してきているということか。

四月二十六日
 岩波書店刊の『山田耕筰著作全集』の第二巻が家にあることを、すっかり忘れていた。背表紙を見てその存在を思いだし、《黒船》関係の部分を拾い読む。
 三百十六頁『歌劇「夜明け」の後書』
「(原作者ノーエルは)幕末叙情物語の中に、自己の日本観、殊に、高潔なる武士道精神の発揚を示顕せんと欲して、その台本に、数回の修正を加えた。もとより、台本作成に際して、私の積極的協力を得たことは言うまでもない」(原文は旧仮名遣い)
 《夜明け》と改題して昭和十四年に初演したさいの一文。「高潔なる武士道精神の発揚を示顕せん」というのは、おそらく最後の吉田の切腹の場面を指すのだろう。そしてそこには山田の考えも大きく入っている、という意味だろう。のちに英語歌詞を日本語訳する段階で、山田色はさらに強まっていると思われる。
 三百七十九頁の『黒船雑抄』
「愛の完成の寸前黒船は領事を拉し去るのである」
 昭和二十九年に《黒船》の題で再演したときのもの。領事とお吉の恋が結婚という形では成就されないのは当然としても、台本と音楽だけではその別離がどれほど先のことなのかよくわからなかったが、どうやらオペラの終りとともに、すぐ別れることになるらしい。
 ここにも「言わぬが花」がある。

四月二十七日

 注文していたDVD『デイヴィー・クロケット』が来る。
 ディズニー制作の実写映画。一九五四年秋にアメリカで放映がはじまったテレビ番組『ディズニーランド』最初期に大ヒットしたのが、デイヴィー・クロケットを主人公にしたドラマ・シリーズだった。第一シーズンにその生涯を描く三本がつくられ、その好評を受けて翌年に二本が制作された。主演のフェス・パーカーは一躍人気スターになり、五五年七月のディズニーランド開園記念番組にもその扮装で登場している。
 そのヒットの大きさは、トレードマークのアライグマの帽子がアメリカの子供たちのあいだで大人気になり、短期間に一千万個も売れたことに証明される。
 正編三本と続編二本はそれぞれ九十分前後に短縮再編集され、劇場映画として公開された。DVDはその劇場版二本を収録したものである。白黒のテレビ版よりかなり短いが、カラーだし価格もずっと安いので、こちらを買った。
 映画としての出来は大したものではない。日本でも正編の方が五五年に『デイビー・クロケット/鹿皮服の男』として公開されたが、あまり話題にならなかったのは当然だろう。テレビ版の方も日本では放映されなかったらしい。ただパーカー自らが歌った主題歌が、小坂一也の歌でヒットしただけのようだ。
 だから、日本ではクロケット役者というと『アラモ』のジョン・ウェインの印象が強いのだけれども、アメリカではその前にフェス・パーカーがいたのだ。
 もちろん、役者としての格は比較にならない。テレビのこの役で大当たりしても、「本編」の映画界でのパーカーはB級だった。
 テレビ草創期ならではの現象で、日本なら大瀬康一とか、栗塚旭みたいなものだろう。結局、クロケット的なフロンティア(西部開拓者)のイメージから抜けられず、ほかのヒット作も六〇年代後半に連続ドラマで演じたダニエル・ブーン(クロケットより古い時代の伝説的フロンティア)だけというあたり、土方歳三のイメージから抜けられなかった栗塚に近いのかもしれない。
 ただし、引退後はカリフォルニアのワイナリーとして大成功しているそうだ。

五月三日
 昨日から「熱狂の日」音楽祭がはじまっている。今年もクラシック・ソムリエ役をおおせつかり、今日がその一回め。
 終了後食事をしていたら、渡辺和彦さんがお声をかけてくださる。
 二十年以上前に三谷礼二さんのところで初めてお会いし、多少は仕事上の交流もあったが、その後はお互いに活動の場が背中合わせのように重ならず、おつきあいのないままになっていた。
 同じ東京で、似たような仕事をしながら、久闊を叙す、という言葉がこれほど適合するのも何か不思議。
 といいながら、じつは少し前にどこかのホールで隣り合わせになったらしいのだが、周囲に注意を払わないわたしの悪い癖で、まるで気がつかなかった。失礼をわびるが、後のまつりもいいところ。
 「明日、ネマニャ・ラドゥロヴィチを聴くんですよ」と話すと「あれはいいヴァイオリニストだよねえ」とのお答え。
 ならば幸いと、かねて疑問に思っていたネマニャ独特の「チーズのようにささくれる弓」について聞いてみると、弓の材質の問題などではなく、運弓がまったく独自の、とても激しく躍動するものだからではないか、というご意見。
 テレビなどでは左手の指の動きに目がいきがちだけれど、肝心なのは右手の運弓であって、それがネマニャの場合、一般的なものとはかなり違うのだろうといわれる。そしてそれは成長してからではなく、幼年期の初期教育によるものが大きいはずで、いったいどんな教育を受けたのかとても興味がある、とも。
 たしかにピアノでも、響きの色づくりに大きな影響をおよぼすタッチについては、初期教育の果たす役割が決定的だとされる。それと同じことなのだろう。
 食事しながらの短い時間だったが、とても参考になるお話をうかがうことができて嬉しかった。『レコード芸術』にもひさしぶりに登場されるそうである。

五月四日
 おもいたって、サイトに「月別仕事」というページを作成する。
 その月に自分がやっている仕事ではなくて、その月に公表される仕事をまとめたもの。「こいつこれしか仕事してないのか」といわれるか、「自慢げに書きやがって」といわれるか、どちらにしても全体像を告知することにはためらいがあったし、いまもあるのだけれども、新聞評の掲載日や放送の内容などは自分でもすぐわからなくなるから、備忘録として載せておくことにした。

 夜はラドゥロヴィチの弾くベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を聴きに国際フォーラムへ。共演はクワメ・ライアン指揮のボルドー・アキテーヌ管弦楽団。
 開始まもなく、まだ前奏なのにネマニャはおもむろに弓を挙げた。瞬間、周囲のあちこちから「あっ」というような驚きの息が漏れきこえた気がしたが、あるいはそれは自分のつぶやきだったかも知れない。そうして、ヴァイオリン・パートを抑えた音量で一緒に弾きはじめた。
 いよいよソロの開始。最初のフレーズで違いをみせつけた。ゆらめくような音の遠近感――としか形容のしようがない――が素晴らしい。その飛翔力。凡百のヴァイオリニストが音を置くようにひき伸ばすのに対し、かれの音は跳躍する。おそらくは、渡辺さんのいわれていた弓の使い方に、その秘密があるのだろう。
 すべての音が新鮮だから、さんざん聴いてきた曲なのに飽きることがない。いわゆる「クラシック」を聴く上で、わたしにとって何よりも大切なのは、この鮮度の高さである。
 昨年のチャイコフスキーの協奏曲ではまだ自分のことに精一杯で余裕がないらしく、指揮者と目を合せっぱなしだったのだが、今年はそんな必要もなく、のびのびと弾きながらアンサンブルの要所をきちんと押さえていた。たった一年のうちに豊かな舞台経験を積んだのだろう。
 音楽を聴く喜び、聴ける喜びにみたされて帰る。ほんとうはこの直後の、マンメル――フォルテピアノのスホーンデルヴルトと素晴らしい《冬の旅》をアルファに録音したテノール――が歌うツェンダー編曲版の《冬の旅》も聴きたかったのだが、時間が重なるために断念。
 両方とも一回だけの公演なのだから、十五分でもずらしてくれればとおもったが、このベートーヴェンに続けてなにかを聴くというのは、どちらにももったいないことだろう。一日ずれていれば…。

五月十二日
 昨日から山の神の供をして、箱根の小涌谷の三河屋旅館に一泊。
 硫黄の臭いのない、湯あたりしないすっきりした泉質で気持がいい。食事はまず野菜がうまい。音楽同様、野菜も鮮度がいのち。東京だとこうはいかない。
 帰りがけに宮ノ下の富士屋ホテルで昼食。ここの、和洋折衷の建物も大好きである。奈良ホテルに似ているが、あれよりはるかに入り組んだ――箱根というのはとにかく平地の少ない場所だと、今回あらためて痛感した――構造がいい。
 ホテルの前で、ある老名優とすれちがう。ここに滞在しているらしい。
 時間があったので早雲寺にも寄る。天正の小田原攻めのときにはここに秀吉の本陣があったというが、それにしては意外に小さく、イメージがわかない。

五月十六日
 早雲寺というと、その門前を舞台にした、目にも鮮やかな、そしておそろしいほどの創造力にあふれた一場面を、司馬遼太郎が短編の『助兵衛物語』の初めに書いている。

「聞くか、わが名は」
 と怒号したとき、臥せていた吉備之助は、おもわず声をあげそうになった。助兵衛の声とともに乗馬が土をにじって足掻き、琵琶股の筋肉が、
 びっ
 びっ
 と音を発するように波打つのである。吉備之助はそれを見、やがて眼をとじた。気はずかしいほど、体が濡れはてていた。
(まこと、男とは、あのような生きものをいうのか)

 ちなみに吉備之助というのは男名前だが、女である――個人的には、馬の琵琶股のたくましい動きに性的イメージを喚起されるというのは、女性よりも男性の側の感覚のような気がするが、そうでもないのだろうか。
 それはともかくとして、この一節はこれまでに読んだ司馬の文章のなかでも、もっとも霊感に富んだものの一つ、あるいは少なくとも、もっとも視覚的創造力にみちたものの一つ、として印象に残っている。

 さてその司馬の新撰組ものを再読した勢いにのり、『幕末』を読みかえす。
 桜田門外の変にはじまって、幕末の暗殺事件を連作形式で描いてゆく。「冷泉斬り」や「祇園囃子」はテレビ版の『新撰組血風録』にも使われた話だが、内容はまるで換骨奪胎されている。DVDを見たときにどこかで読んだテーマだとおもったら、ここにあったのだ。
 小説の後半は「幕末を象徴する典型的暗殺者」と作者自ら評する岡田以蔵と河上彦斎を意図的に外したせいか、暗殺よりも暗殺失敗事件が増えていく――ということは襲う方や襲われる方が死なずに生き残り、明治後の姿が描かれるようになるのが面白い。人間の生涯としてはむしろそういう連中の方が、味わいがふかいのである。
 土佐浪士の数少ない生き残り、田中顕助(光顕)がいつのまにか連作の主人公のようになって――「いつのまにか」は維新後のかれの立身ぶりにも重なる――『竜馬がゆく』の後日談を形成していくのは、おそらくは当初の構想ではなかったろうとおもうが、そのヒーロー不在の物語が、逆に魅力的。

(なお岡田以蔵のことは、短編『人斬り以蔵』でのちに書いている。ところで、以蔵というとわたしは、いつまでたってもNHK大河の『勝海舟』でかれを演じたショーケンの姿しか浮かばない。夜道の闇を歩きながら海舟に乞われて「よさこい節」を歌う姿が――そしてそれだけが――まぶたに焼きついている)

五月十七日
 三日前、家の猫がもう一匹増えた。
「ひとりっこ」より仲間がいる方が猫の情操にいいのでは、と考えた結果。今度はオス。むかしこの家にいたオス猫にちなみ、山の神がフクと名づける。
 先輩のワサビは拗ねて二日ばかり二階に引きこもっていたが、だんだん一階のフクのいるゲージのそばに寄るようになってきた。うまく仲よくなるといい。

五月二十日
 可変日記の昨年八月九日に、『モスラの精神史』という新書を紹介した。
 すると先日、著者の小野俊太郎氏ご本人からメールをいただいた。偶然に可変日記をご覧くださったそうで、大意は、
「言語学者=大野晋説は、なるほどと思った。朝日カルチャーセンターでモスラの話をするので、そのときにこの説を紹介してもよいだろうか」
 とのこと。素人のただの思いつきを著者に取り上げてもらえるなど、願ってもない話なので快諾する。
 わざわざご連絡をいただかなくても、当方はまったくかまわないのだが、何が起こるかわからないネット社会、念には念を入れておられるのだろう。わたしも学ぶべき姿勢かも知れない。
 その後、雑談的なメールの往復をしたのだが、ゴジラをめぐる話のなかで教えていただいたのが、『ゴジラ』公開より二年前の一九五二年に日本公開(実際の製作は一九四二年)されたアメリカ映画『絶海の嵐』。
 わたしはこれを二十五年くらい前、昼間のテレビ(たぶんテレビ東京)で観た記憶がある。ラストでものすごく唐突に大イカが出てきて、ジョン・ウェインが死んでしまうのだ。
 かの英雄ジョン・ウェインが副主人公にすぎず、主人公の引き立て役に甘んじていること、簡単に死んでしまうこと、そしてイカがあまりにも唐突に出現することで、忘れようにも忘れられない映画(笑)になっていた。
 とはいえ本編のデータを調べると百二十四分もあり、CM含めて九十分のテレビ版では半分強しか見ていないわけだから、中古DVDを購入して見なおす。
 『風とともに去りぬ』からわずか三年後につくられたカラー映画――この場合は「総天然色」と書く方がそれらしい――だから、それだけで大作だとわかる。ハリウッド史劇超大作の巨匠セシル・B・デミルが監督/製作、主演男優はレイ・ミランド、女優はチャプリンと別れる前後のポーレット・ゴダード。
 ジョン・ウェインが『駅馬車』で一躍スターになったのはこの映画の三年前だが、ここでは前述の通り副主人公扱い。
 フロリダ南端のキー・ウェストを主な舞台とする商船をめぐるスペクタクルだが、いつもながらに当時のハリウッドの艦船、海洋特撮がうまいのに感心。模型に決まっているのに、波濤の白い泡とのバランスが絶妙で、船がでかく見えるのだ。これは当時の日本特撮が逆立ちしてもかなわないこと(不思議におもうのは『トラ、トラ、トラ!』の赤城が悪天候のなかを進むシーンだ。日本で撮影したはずなのにスケール感がある。アメリカ側で何か細工したのだろうか)。
 この映画が『ゴジラ』にどう影響を与えたかは、小野さんに示唆していただいた話だし、ネタばらしは控えよう――大イカのことではない。

 ところで「唐突な頭足類」といえば、東宝特撮映画にも例がある。
 一九六五年製作の『フランケンシュタイン対地底怪獣』のラスト、富士山麓にできた地割れの中から唐突に巨大なタコが出てきて、バラゴンを倒した直後のフランケンシュタインを引きずりこんでしまう――あれはいったい何? 淡水に棲むタコなんて聞いたことがないから、あの湖は塩水? あんな化物が今後も出現したら、日本はどうなるの? など、ありとあらゆる謎をおいてけぼりにして消えていく大ダコは、ひょっとしたら『絶海の嵐』へのオマージュなのか?
 などとおもいだして、この映画をウィキペディアで調べたら、さらに衝撃の事実が。

(以下ウィキペディアから引用)
 二見書房刊の「大怪獣ゴジラ99の謎」によれば、この作品には少なくとも3種類の結末があると言われている。

・バラゴンを倒したあとでフランケンシュタインが地割れに呑み込まれるもの(劇場公開時の結末、いわゆるオリジナル版)。
・大ダコが出現する場面が追加されたもの。
・フランケンシュタインとバラゴンが同時に地割れに呑み込まれるもの。

 大ダコ出現版は海外版のために撮り直されたという説がファンの間で浸透していたが(スタッフすらそう思っていた)、東宝発売のDVD付属の解説書によれば、海外公開版もオリジナル版の結末であり、日本のテレビで放映されたものが大ダコ出現版の初公開である。大ダコ出現版は特撮だけでなく、人物が描かれる本編も撮り直されている。ビデオ発売などでは大ダコ出現版が使用され、オリジナル版の方が幻の存在となりつつあったが、現在ではDVDにて2種類のバージョンが視聴できる。
(引用終り)

 なんと、初公開版にあのタコは出てこず、フランケンシュタインが地割れに呑まれるラストだったというのだ。そして撮影だけされていた「タコ版」が、なぜかテレビ放映時――数年後だろうか――にさしかえられ、日の目を見たのだという(なお、第三のラストは実在が疑問視されているらしい)。
 わたしはテレビで初めて観たから、この映画といえば、あの奇妙な「タコ版」しか頭に浮かばない。ただ、昔なにかで読んだあらすじに、タコへの言及がなかったので不思議に感じた記憶があるのだが、原因はここにあったのか。
 なぜテレビでさしかえられたのか?
こっちに変えよう、と思ったのは誰なのか?
 DVDだとこの二種のラストを較べられる、とある。観たいといえば観たい……でもキリがない……。

五月二十三日
 暑いので、気が早いけれど納涼話。
 『クラシックジャーナル』に連載中の「音盤物語一九五五」のために、一九五五年の出来事を調べている。
 そのなかで「おっ、これはこの年の話だったのか」と、思い出し笑いならぬ、「思い出し寒気」を味わったのが、三重県津市中河原海岸での、女子中学生三十六人水難事件。
 一九五五年七月二十八日、学校の水泳講習中の女子中学生三十六人が、潮の速い流れにのまれて死亡した、という痛ましい事件だ。学校プールが整備されていなかった当時、水泳経験のない子供を集団で海に入れたことが惨劇の原因の一つとされ、プール設置が進むきっかけになったという。

 だがこの事件、怪談話としても有名なのである。
 遭難しながら運よく一命をとりとめた生徒の一人が「防空頭巾とモンペ姿の幽霊に、みんなが海中へ引きこまれた」と話した、というのだ。
 じつはその日からまさに十年前の一九四五年七月二十八日、津市は米軍の空襲を受けて多数の市民が死亡していた。その幽霊のしわざでは、という因縁話が、一九六三年に女性週刊誌に取りあげられたことでひろまったものらしい。
 わたしが知ったのは小学校から中学に上がる前後、つのだじろうのマンガ『うしろの百太郎』で読んだときで、うなされるくらいの恐怖とともに、記憶に焼きつけられてしまった。
 まあ、昭和期の女性週刊誌の怪談話なんて脚色し放題だろうし、もしその体験談が事実としても、意識を失いかけて幻覚を見て、映画で観たり話に聞いたりした戦災話が重なった(根拠のない想像だが、事件の二年前に公開された映画『ひめゆりの塔』の少女たちの印象が入っている気がする)というところだろう。
 と、頭は理屈で納得させても、少年時代の記憶というのは特殊なもので、こうして書いているだけで寒気がして、鳥肌がたっている。
 そういえば、大学のサークルの後輩に津の出身者がいて「そこはいまも遊泳禁止だと思います」と聞いたときも、気持ち悪かった。
 これは事実らしい。もちろん怨霊のせいではなく、事件の原因と推定される、「離岸流」なる特殊な潮流のためだろうけれども。

 ところでこの水難話には『百太郎』以外にもう一つマンガがあったなあ、『海を守る三十六人の…』とか、そんな名前だったが、と思って調べてみると、ネットのありがたさ、簡単にみつかった。正確なタイトルは『海をまもる36人の天使』。作者は丘けい子。
 すばらしいことに熱心なファンが「丘けい子の世界」というサイトをつくっていて、作者の了解を得たうえで、そのマンガ多数をネットで公開している。
 感謝しつつさっそく閲覧したが、これはまったくオカルト話とは関係なく、設定を小学生に変え(読者の年齢層に合せたのか)、指導にあたっていた教師の刑事責任をめぐる裁判物語になっている。一九六七年に『週刊マーガレット』に連載されたそうだ。一九七〇年ごろ、アニメの『アタック№1』が好きでその単行本を買った記憶があるから、きっと巻末広告に同じマーガレット掲載の、このマンガがあったのだろう。
 さて、では『うしろの百太郎』の方はどんな話だったか、などと思いつつ本屋に行ったら、なんと千頁だかの一冊本で復活していて、しかも偶然にもビニール・カバーなしの状態で陳列されていたので、思わずそこだけ探して立ち読み。

 やはり怖い…。
 それにしてもこういうシンクロニティは、ほんとうに不思議である。
 おかげで、このマンガのせいでコックリさんが大流行し、社会問題化したこともおもいだした。「地縛霊」とかも。

五月二十七日
 MXテレビのカラヤン特集、八月と九月放映予定の四本を一気に収録。今月だけで九本撮って、これにて一段落。

六月五日
 名古屋の宗次ホールにつとめる音楽同攻会の後輩が営業のために上京してきたので、先輩の池田卓夫さんと三人で会って話をする。
 とはいえ興行の現場に疎い自分では、さっぱり力になれそうもない…。

六月十四日
 日経批評のため、シズオ・Z・クワハラ指揮日本フィルの演奏会を聴きに、横浜のみなとみらいへ行く。

六月十五日
 片山杜秀さんの『音盤博物誌』発売記念イヴェントが渋谷タワーレコードで行なわれ、そのお話の聞き役をつとめる。
 少しは人前でしゃべることにも慣れてきたはずなのだが、近年ないくらいにあがってしまう。マクラも展開も〆もめちゃくちゃ。すべての人に申し訳なし。
 終了後、版元のアルテスパブリッシングの方たちと打ち上げ。山尾敦史さんが以前のブログに「所有CDを減らす」ことを書かれていたのが話題になり、片山さんが「自分もできればそうしたい」と口にしたが、当然ながら、ただのひとりも本気にする者はいなかった(笑)。
 参加者に編集、制作の方が多かったこともあり、ネットで最近話題の、マンガ家による出版社告発と雑誌編集者批判をめぐる騒動の話もでる。
 おしまいはできたばかりの副都心線で新宿に移動し、ユニオンを冷やかしてから片山さんとサシ。秋葉原の無差別殺傷事件の話から、マルクスも正規雇用と非正規雇用の二重構造までは予想していなかったらしいとか、名古屋を中心とする中部地方には、いまの日本の社会経済の無理が集中的に現れているんじゃないかとか、思いつくまま話が無責任に飛ぶ。

六月二十一日
 オペラシティのタケミツメモリアルで飯森範親指揮の山形交響楽団の演奏会。
 初台駅からホールへの通路で、耳に懐かしい東北弁のアクセントが、まわりを歩く人たちから聞こえてくる。父が仙台人で、親戚の半分もそうだからなのか――あと半分は御殿場人――この響きを耳にすると、奇妙な帰属感をおぼえる。
 この指揮者と楽団のコンビがとてもいい状態にあるらしいことは、発売された数点のCDや、東条碩夫さんのお話などで知っていたのだが、ナマで聴いたその「幸福感」は、想像以上のものだった。
 一曲目はキラールの《オラヴァ》。ちょうど一週間前の十四日、クワハラ指揮日本フィルで聴いたアダムズの《高速機械で早乗り》と同じく、ミニマル・ミュージックの忙しい小品。こうした曲によって冒頭からのエンジン全開をオーケストラにもとめるのが、若手指揮者たちの流行らしい。
 俊敏様式の普及とともに、ミニマルの演奏には、新しい可能性が展けつつあるようにおもえる。単純な反復にこめられた強大な活力。前世紀前半の新古典主義の作品が本来もっていたはずのものに似た、活力とまぶしさ。
 二曲目のショパンの《アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ》では、飯森と桐朋で同級生だったという仲道郁代が登場。舞台の配置換えを待つあいだに飯森が舞台の端に立ち、
「自分の同学年には優秀な人が多いが、それは大学に仲道さんという輝かしい存在がいて、みんなが彼女を目標にがんばったからだ。自分がいまあるのも彼女のおかげだとおもう。だから今日は、精一杯のサポートをしたい」
 というようなことをスピーチ。飯森は演奏会の前後にも演目解説やあいさつをしゃべって、客席の共感を得ていた。
 ただ演奏の方は曲が曲だけに、ピアノがヨーゼフ・ホフマン流の華麗なハッタリをかまさないと、空疎な印象ばかりになるなあ、と考えざるをえなかった。
 アンコールの前奏曲第二十番――冒頭のキラールが音楽を担当した映画『戦場のピアニスト』にちなむ曲――では巧みなテンポ・ルバートを披露していただけに、ちょっと惜しい。同様にルバートの横揺れでオーケストラをあわてさせ、引きずりまわすくらいにしないと、この曲は面白くならない気がする。
 素晴らしかったのは、後半のラフマニノフの交響曲第二番。
 高原の空気のごとく爽快に澄んだ響きが、とても気持ちよかった。ロシア芸術独特のどろどろではないことが、わたしには好ましかった。
 わたしは勝手に、交響曲第二番《君が好きだ》という副題をつけている。大学時代、音楽同攻会の部室でだれかがこの曲の第三楽章を再生していて、それを聴いた同級生K(いまはJASRACにいる)が、
「き~み~がすきだ~」
 と、このアダージョ楽章の主題にあわせて歌いだして以来四半世紀、わたしはこの部分を聴くたびに、思い出し笑いをせずにいられたためしがない。今回もやっぱりそうだったのだが――まわりに気取られないようにすればするほど、息が苦しくなって涙まで出そうになる――いつのまにかそれを忘れるほど、新鮮で美しい響きの時間が過ぎていった。
 つよく感じたのは、いま、ここにいる人間たちの関係が好循環の連鎖の中にあること。つまり、指揮者と楽員の関係、それを囲む関係者や支援者や、そして客席の聴衆を含めた関係、それらすべてが互いに好作用をおよぼし、円滑で温かい一体感を生んでいること。それが瑣末な出来不出来をこえた、場内の幸福感につながっているのではないか。
 もちろんわたしたちもよく知っているように、濃密で円満な人間関係が大人数のあいだで長く維持されることはない。早晩、失われるだろう。しかしその儚さにこそ、永遠なるものの影が見える。
 飯森の仕事に、できるだけ注目しようとおもう。

六月二十五日
 午後二時からクラシカジャパンの番組「クラシカ・ラウンジ」撮影。
 内容はネトレプコ&ビリャソンの《マノン》と演奏会を紹介するもの。前者ではオードリー風、ロロブリジーダ風、リズ・テーラー風、モンロー風、ジーン・セバーグ風と、一九五〇年代のスター映画女優の扮装を場面ごとに変えていく、ネトレプコの七変化が凄い。
 一方、ビリャソンもクラーク・ゲーブル風のカッコをしたりするのだが、ヒゲから何までまるで似合わないのが、やはり凄い(これは演出上の狙いだろうけれど、可笑しい)。
 それにしても暑い。司会の八塩圭子さんはさすがテレビのプロ、そぶりも見せないのだが、当方は汗だく。まあ初放映は八月下旬だというし、季節に合せたということにしておこう(よくないが)。
 終了後、次の収録――ひと月分四回をまとめて撮るので、解説役だけが回ごとに交代する。各回の内容を頭に入れ、手際よく切り換えていく八塩さんはさすがである――のために来ていた林田直樹さんにごあいさつ。十年以上前に林田さんが『レコード芸術』編集部におられたころ、すでにわたしも同誌に書きはじめていたのだが、どういうわけかきちんと名乗る機会を得なかった。
 わたしはどうも人に対して知らんぷりをしているように見えるらしく――そうではなく、本当にまわりを見ていないだけなのだが――声をかけにくいようなので、こういうときは、自分から声をかけないと損をする。

 いったん帰宅してシャワーを浴びてから、ジュンク堂新宿店での片山さんと佐々木敦さんのトークセッションに向う。
 文芸、音楽、映画などさまざまな分野の評論で活躍する佐々木さん――というか、本来評論家というのはジャンルを限定しないのだろうから、その王道を進んでおられるのだ――のお話は見事。
 わたしなどは非才ゆえ、お題を出すだけであとは片山さんの頭の回転と知識量におまかせしてしまうのだが、佐々木さんは自分の考えをガンガンしゃべり、そして相手の答えを引きだしていく。とても真似できないなあと感服する。
 打ち上げには、飯尾洋一さんも参加されていた。飯尾さん、アルテスの木村さんと鈴木さん、そして昼の林田さんと、音楽之友社の出身者に会う機会の多い一日。今日の収録では出張のためにお会いできなかったが、クラシカジャパンの担当も友社出身である。
 さらにいうと、片山さんも佐々木さんもわたしもふくめて、みんな一九六〇年代前半の生れだ。べつに同年代を選んで活動しているわけでもないのに、なぜかそうなっている。

六月二十六日
 夕刊を見ていたら、訃報が二つならんでいた。(以下は毎日新聞のサイトから短縮して引用)

 訃報 清水正夫さん 八十七歳(しみず・まさお=松山バレエ団理事長)二十五日、多臓器不全のため死去。妻の樹子(みきこ)さんと一九四八年、松山バレエ団創立。日中交流にも尽力した。

 訃報 田中治夫さん 八十七歳(たなか・はるお=ポプラ社創業者、現名誉会長)二十一日、心不全のため死去。一九四七年に児童書出版のポプラ社を創業。学校図書館の充実や書店振興にも尽力した。

 大正生れの同い年で、戦後まもなくに独立の事業を起し、それぞれのジャンルの筆頭的存在にまで育てて六十年、命日は違うが、同じ日の新聞にならぶことになった二人。
 学生時代、バレエやオペラの会場でオペラグラス貸出のバイトをやっていたのだが、松山バレエ団は東京バレエ団などとともにお得意先の一つだった。清水理事長にも名刺をいただいたことがある。裏側に日中関係の団体の肩書がとてもたくさん入っていたので、印象に残っている。一方、ポプラ社には特に縁はないけれど、子供時代は岩波少年文庫とともにお世話になった出版社として、忘れられない。
 故人同士の交流があったかどうかは知らないが、偶然の符合に感慨あり。

七月五日
 日本フィルの横浜定期演奏会を聴きにみなとみらいへ。
 最近、舩木篤也さんが高く評価し、大いに肩入れしている若いピアニストがいるという。となればぜひ聴いてみたいので、彼女がソリストとして登場するこの日の演奏会に出かけた。
 その名は河村尚子。曲はベートーヴェンの協奏曲第四番、指揮は広上淳一。
 なるほど、タッチの柔らかさ、多彩さが日本人離れしている。ここ数週間で続けて仲道郁代、清水和音、中村紘子の実演をオーケストラ伴奏で聴いてきたが、フレーズの呼吸感がその柔軟な手先から生れでる点において、河村はダントツにすぐれている。
 解釈の一貫性もよく考えられており、これから注目しなければいけない存在。なお名前は「ひさこ」と読む。

七月九日
 インターネット・ラジオのブルーレディオドットコムの番組『林田直樹のカフェ・フィガロ』のゲストにお呼びいただいて、二回分を収録。
 先月のクラシカジャパンの番組収録でお話ししたのをきっかけに、さっそく声をかけてくださった。司会の林田さんとアシスタントの柳志乃さん(『アニー』の主役でデビューして、ミュージカルと歌の世界で活躍されている)とともに、ヒストリカルの話をしゃべる。
 四つ持ちこんだ音源のなかで特に好評だったのが、ランドフスカがチェンバロで弾いたモーツァルトのトルコ行進曲。
 この曲をモーツァルトはピアノのために書いているのだが、それをあえてチェンバロで弾き、軍楽隊や大砲の響きをイメージさせるという、創造家にして想像家、ランドフスカならではの快演。
 こうした機会があるたびに、わたしはこれを聴いてもらう。ヒストリカルとかチェンバロとかに偏見がありそうな人たち――お二人はそうではないが――にも一発でわかってもらえるという、ほんとうに頼りになる「愛馬」だからである。
 個人的にはテスタメントの復刻が好きだが、カフェ・フィガロでは著作権の関係でナクソス音源しか使えないので、ナクソス盤を用いる。やや音が硬めだが、鑑賞に支障があるわけではない。

七月十四日
 新しい仕事の打合せをかねて、関係者三人で新宿にて飲む。
 実現すれば一年近くかかることになるが、わたしにとっては記念的な仕事になるだろう。
 悔いを残さぬように。

七月十六日
 高田里惠子の『文学部をめぐる病い』を興奮しつつ読みおえる。
 ちくま文庫が二〇〇六年に出したもので、その前に単行本が二〇〇一年に松籟社から上梓されたというが、どちらも新刊時にはまったく気づかず、ごく最近、本屋の棚で偶然に見つけて買ってきた。
 めっぽう面白い。「教養主義・ナチス・旧制高校」との副題どおり、昭和前半の戦前戦後の日本の高学歴者を扱うが、その対象(クランケ)は、おもに東京帝国大学出身のドイツ文学者に絞られる。
 第一章では、日本の教養主義の源となるドイツの作家ヘッセやリルケの紹介者として盛名あった文学者、つまり高橋健二や芳賀檀、吹田順介たちが、戦前戦中にはナチス文学を賛美するだけでなく、ヒトラーやその政体を称揚する文章を書きまくったことが指摘される。
 当時、かれらの多くは旧制高校のドイツ語教師をしていた。「ドイツ語は近代日本の発展のために役立つ言語と見なされ、エリート養成場である旧制高校では西洋語教育に授業時間数の三分の一が割かれており、ほとんど外国語学校のようなものだった」からであるが、そこにはある挫折感と憤懣がともなっていた。
「我らがドイツ文学者たちはみな、成績優秀で且つ『文学』を愛する心をもつ青年として成長し、東京帝国大学法学部などというところは軽蔑して、時には親の反対を押しきり、立身出世の見込みのあまりない『文学部』へ進み、そして旧制高校のドイツ語教師になったのである」
 一応の社会的身分を得た上で、かれらは自らがそこに安住するような無能者ではないことを示すべく「文化人として総合雑誌でドイツ事情のひとつも紹介し同時代文学を翻訳する、ついでに日本の文化的状況について辛口批評でもする」
 こうした、アカデミズムではないジャーナリズムでの華やかな活躍、すなわち「社会の要請に応えた紹介者の役回りを引き受けること」、それは東京帝国大学教授に成りそこね、旧制高校教師の境遇に甘んじるかれらにとって、「文学」を窒息させる閉鎖的空間「文学部」への、誇り高き抵抗となる行為だった。
「『文学部』から遠く離れるという勇気において、すなわち『文学』の側につくという無垢な心意気において、彼らは首尾一貫していた」
 その意味で、対象がナチス文学であるかどうかは、かれらには重要ではない。
「リルケやヘッセといった日本的教養主義を支えた作家たちの紹介者であることと、ナチス文学の賛美者であることとは、決定的な断層どころか、むしろ首尾一貫した姿勢のあらわれだった」
 かれらの「戦前の自由主義者からナチスの旗振り役への変身」も「戦前・戦中のファシズム文学信奉者・鼓吹者から戦後民主主義者への変貌」も「どちらの変身もごく自然に朗らかに進行した」のだが、論証が進むにつれて、これが変身ですらなく「小部分の言いかえや削除の問題でしかなかった」(池田浩士の言葉)こと、「二つの相反するはずの役割を同時に引き受けていた」ことが見えてくる。

 第二章では、こうした文学者の代表として、高橋健二の例が検証される。「相反するはずの役割」という撞着の超越を可能にしたのは、かれの「善良すぎるいい加減さ、あるいは柔軟性」であった。
 その象徴的行動が、戦時中に大政翼賛会文化部長を引き受けたことである。
「それなりの理性も誠意も備え、まったくの知識人である(いや、普通以上の知性と教育を授けられた)自分が、もし、ファシズムを支えてしまうとしたら、しかもすべてが終わったあとには自分をファシズムの被害者もしくは抵抗者として見なすことができるとしたら」、その根拠は何か。
 高田はその答えを、ドイツの現代哲学者スローターダイクのいう「混乱した二重スパイの心理」に見出す。
「自分がそこに属している場所に対して、あるいは恩恵を受けている状況に対して秘かに批判的まなざしをもつ、決してその状態に入れこんでいるわけでも賛成しているわけでもないが、しかし、その状態を推進する立場にいる」二重スパイ的人物。それが高橋健二である。
 クラシック好きなら、ここでフルトヴェングラーのことを思い浮かべずにはいられないだろう。
 ナチス時代のフルトヴェングラーも、まさしく「二重スパイ」だ。そしてこの指揮者もヘッセやトーマス・マンと同時代人であり、音楽好きの旧制高校生やそのOBにとって、不滅の憧れである。
 この第二章を読んでいて、かつて日本の文化人がなぜあれほどフルトヴェングラーのナチス問題に関心を抱いたのか、その理由の一つが見えてくる気がした。
 たとえば芳賀檀。フルトヴェングラーの主著『音と言葉』を抄訳ながら日本に初紹介したのは、東京帝大独文科を出て(その教授になれず)第三高校教授としてナチス賛美の文を連ねた過去をもつ、芳賀その人なのである。フルトヴェングラーの問題は、芳賀の問題でもあった。
(芳賀はこの本で道化的役割を与えられているが、その芳賀が造語を得意にしたという山下肇や保田與重郎の回想も面白い。「出会」とか「祝祭」とか「決意」などの現代語は、かれの造語だそうだ。「バイロイト祝祭管弦楽団」なる日本語は、芳賀なしでは存在しなかったのだ)
 この本には加藤周一の「新しき星菫派批判」や『ビルマの竪琴』の一高寮歌以外、音楽の話柄はほとんど出てこない。だが教養主義の対象であるドイツ芸術の一端に音楽は当然含まれる。クラシック紹介の先人の多くは旧制高校出身だし、また大学の文学者が音楽を語るのは、現代まで続く日本の伝統だ。読んでいて「文学」を「音楽」に置きかえたくなる箇所があちこちにあった。フルトヴェングラーの影はその典型である。

 第五章「症例 学校小説としての『ビルマの竪琴』」も、当方を刺激してやまない一章。
 高橋健二が昭和十三年に訳出した『ドイツ戦歿学生の手紙』(第一次世界大戦で戦死したドイツの大学生の手紙をあつめたもの)と、その日本版である東大生戦没者の書簡集『はるかなる山河に』及び『きけ わだつみのこえ』(東大生だけが戦没学生ではない、という批判によって生れた)とのあいだにある、越えがたい差異がここで示される。
 その差異とは、ドイツでは学校も軍隊も同じ「友情」の場であるのに、日本では両者が激烈に対立することである。
「軍隊は第一高等学校とは違って、反小市民的な気高い男性同盟の場ではなかった。そこは、日常的な瑣末主義、小市民的な狡さ、女々しい陰湿さ、卑しい物質主義に満ちあふれていた。それでもなお苦しみつつも『男らしく』あらんとする姿、それが、のちの平和な日本で最も好まれる戦歿学生の象徴となるだろう」
 この差異を、一高のドイツ語教師竹山道雄が慰霊の書として書きあげた『ビルマの竪琴』は、やはり善良に、あるいは柔軟に、乗りこえてしまうのだ。
 この小説のなかの部隊は現実の帝国陸軍ではなく、まるで一高のようだ。主人公水島安彦は、軍隊的小市民性にも、あるいは(生き残って)東大出のエリート社会人にという俗世にも埋没することなく、汚れを知らぬ若者のまま、「永遠の一高生」として――水島はエリートなどではないが、そのモデルは竹山の教え子の一高生たちである――ビルマの山河におかれる。これを「日本的学校物語」と位置づける著者の結論は鋭い。
 非常に興味深いのは、ここに描かれた学校と軍隊の対立という、日本独特の問題である。ここはもっとよく知りたい。
(八月十日の附記。同じことを編集者も考えたらしく、この著者の『学歴・階級・軍隊』が中公新書で、『男の子のための軍隊学習のススメ』がちくまプリマー新書で、ほぼ同時に発売された)

 強調しておきたいのは、この本がかれらへの単純な弾劾や断罪の書ではないこと。またフェミニズム的言説が頻出するが、男性社会非難の本でもない。
 一九五八年生れの著者が東大独文に学んだ経営学部の語学教師(桃山学院大学教授)で、かつての旧制高校語学教師の現代版として「同病相憐れむ」境遇にあるから、ではないだろう。
 登場する男たちへの著者の愛情、それも女性の側からの深い愛を感じるのだ。
「しばしば言われるように、女性嫌悪が実は女性のほうに、とりわけ思春期の少女たちに深く根ざしている」
 『車輪の下』受容を論じるのに『トーマの心臓』まで言及せずにはいられない著者の、これこそ自伝的な一言というほかない。著者の思春期以来の憧憬が、幻滅をくり返しつつも蘇り、不滅の愛になっているのではと、わたしはおもった。

七月十八日
 一九六三年の東宝映画『青島要塞爆撃命令』をDVDで観る。
 三十年以上前テレビの放映以来、二度目の再会。あのころは日曜午後おそく、一時間半の枠で日本テレビに映画劇場があり、戦争ものや怪獣などの古い日本映画をよくやっていた。『兵隊やくざ』を知ったのはこの枠だし、『太平洋の翼』や『海底軍艦』は何度も放映され、そのたびに観て興奮した。
 『青島要塞爆撃命令』も、おそらくそこで出会ったのだろうとおもう。
 ただしこれは一度しか観ていない。にもかかわらず強烈な印象を焼きつけられてしまった。一度だけの視聴で忘却不能になった点では、土曜午後早くの枠で観た『全艦船を撃沈せよ』――これについては以前書いた――と、自分史において双璧をなしている映画である。
 第一次世界大戦劈頭、日英同盟によってドイツに宣戦布告した日本は、山東半島の港湾租借地青島に拠るドイツ軍を攻撃、見事陥落させた(このときのドイツ軍捕虜が徳島に収容されて《合唱》の日本初演をしたことは『バルトの楽園』の題材になる)。『青島』はその攻略戦を描いたものだが、ストーリーは史実を下敷にしつつ大幅に自由な脚色をして、痛快戦争アクションとなっている。
 要するに、一九六一年公開の『ナバロンの要塞』に影響されて、巨大砲台が派手に爆破される特撮映画をつくろうとしたのだ。「ビスマルク砲台」なる大要塞が青島にあったことにして、日本の精鋭たちがごく少人数で破壊する話だ。
 ただし、主人公がコマンド部隊などではなく、揺籃期の海軍航空隊のパイロットたちである点に、この映画の特長がある。ヨタヨタと頼りなげに飛ぶ、たった二機のモーリス・ファルマン複葉水上機(単発複座)がかれらの武器なのだ。
 横須賀近くの追浜(おっぱま)にいた水上機二機が、貨物船を改装した日本初の「航空母艦」若宮丸に搭載されて青島攻略戦に参加したことは、史実のとおりらしい。このほか、藤田進演じる艦隊司令官が加藤(定吉)という名で、旗艦が「周防」であること、作戦中の若宮丸が機雷に触れて浸水着底することなども、一応は史実に従っている。もっとも、実物大セットを組んだ映画の周防は、ロシア旅順艦隊から捕獲した老朽海防艦にしては立派すぎるようだし、若宮丸も着底どころか派手に轟沈してしまう。
 それに肝心の水上機も、実際には低性能すぎて活躍の場はなかったようだ。映画のなかで加藤長官は「お前たちがしくじったら、私は航空機反対派の先頭に立つことにするぞ」というようなセリフでパイロットたちを激励するのだが、実在の加藤定吉は有力な航空機反対派だったそうだから、ひょっとしたらこのときの不甲斐なさが原因だったのかも。
 だが、映画のなかのモーリス・ファルマン機は、片々たる史実などにおかまいなく、なんとも愛すべき存在だ。
 向い風ではろくに速度が出ず、故障で不時着すれば牛に牽いてもらう、軍用機というよりエンジンつきの凧のような代物で、敵の単葉のタウベ機には性能の差を見せつけられ、爆弾が間に合わないのでレンガや釘を地上のドイツ兵に向けて投げつける――この場面は笑える――など、情けない場面の連続なのだが、最後の最後に要塞爆破の大手柄をたてる。
 映画後半、崖を登っての潜入や地上での戦闘場面には緊迫感がなく間延びしていて、お手本の『ナバロンの要塞』のサスペンスとは較べようもないのだが、とにかくファルマンが映る場面、そして最後の要塞爆破の特撮がいいのだ(昔のテレビ放映時は時間の関係でおそらく中盤をカットしたろうから、かえってよい場面だけ印象に残ったのかも知れない)。
 これは演出の古澤憲吾と特技の円谷英二という二人の映画人それぞれの、飛行機への愛情のたまものだろう。変に擬人化せず、あくまで無機的な機械として描くのも清々しくていい。
 しかしこの当時、複葉機が活躍する映画なんて他にあったのだろうか。第一次大戦もの空戦映画『レッド・バロン』や『ブルー・マックス』は数年後だ。一九二〇年代の『つばさ』とか、古い時代の空戦映画に範を得たのだろうか。未見だから何とも言えないが、そこではスピード感とパワーが強調されていそうな気がする。情けなさこそが魅力、という複葉機映画はかなり珍しいのではないか。
 こうした木と布の機体、肌で風を感じるのんびりした飛びかたと、地上を疾駆するドイツ軍砲弾輸送列車の、黒光りする硬い鋼と油の臭いとの対照は、宮崎駿のアニメの世界を想起させる。
 小野俊太郎の『モスラの精神史』によると、宮崎アニメに影響を与えた実写映画として『大盗賊』と『戦国野郎』の二本が挙げられるそうだ。実はこれら二本と『青島』は、一九六三年公開の東宝作品ということが共通している。
 宮崎駿における一九六三年東宝映画の影響、なんて論文を書く人がいたら、ぜひ『青島』も入れてほしい。ちょうどかれが学習院を出て、東映動画に入社した年にあたる。
 考えてみれば、わたしの大好きな『太平洋の翼』や『海底軍艦』も、みな一九六三年の東宝映画だ(正月映画の前者で松山三四三航空隊の三人の飛行隊長を演じた加山雄三、佐藤充、夏木陽介が、四か月後の『青島』では黎明期の操縦員になっている)。テレビに押されながらも当時の東宝には、喜劇も含めて、すばらしい活力と閃きと輝きがあった。わたしにとってそれは、永遠の憧れの対象だ。
 そういえばこの年、宮崎駿が二十二歳の誕生日を迎えたその日にわたしが生れているのだが、これはただの余談。

 余談ついでにもう一つ。日本軍包囲前に青島から脱出したドイツ東洋艦隊から別れて太平洋を単独で行動したのが、軽巡洋艦エムデンだったという。
 たった一隻で、のべ数十隻にのぼる連合軍の追跡の鼻先をかすめ、文字どおり神出鬼没の破壊戦を展開したエムデン号の痛快な物語を、むかし雑誌『丸』で読んだことを懐かしく思いだした。
 それにしても、イギリスの強大な海軍力に圧倒されっぱなしのドイツ海軍にとって景気のいい話は、単艦による冒険的破壊活動ばかりである。エムデンや帆船ゼーアドラー号といった第一次大戦の軍艦だけでなく、第二次大戦でも同様にアドミラル・グラーフ・シュペー、スカパ・フローに侵入したU47、そして『全艦船を撃沈せよ』のアトランティス号など仮装巡洋艦たち。二十世紀海戦史のなかでも孤立して、異彩を放つ海軍だ。
 ちなみにグラーフ・シュペー提督というのは青島から脱出した東洋艦隊の長官のことで、艦隊はエムデンと別れた後、太平洋から大西洋に回って南米大陸東岸に進出したが、フォークランド沖海戦でイギリス艦隊に敗れて壊滅、提督も戦死したという。こんなふうに艦隊戦はおおむね、対照的に意気があがらない。

七月二十一日
 十一月に行なわれる早大音楽同攻会の現役諸君のシンポジウムの手伝い役をすることになったので、打合せをかねて高田馬場で飲む。
 来てくれたのは三年生の幹事長と一年生一人。
 いまの三年生って就活こと就職活動の年だから大変じゃないの、と幹事長にきくと、そうなんですよ、という返事。
 わたしの頃は、四年生の十月一日に会社訪問解禁という約束事が全業界に名目上ながら存在した関係で、就活は四年になってから開始した。そのため音同では三年が幹事学年で、四年になると部活を引退して就活に専念していた。体育会系以外のほとんどのサークルが同じ体制だったはずである。
 ところが近年は三年で就活をし、うまく内定を得れば四年は悠々自適、という状況だ。部活と就活の同時進行はきつい。まあ早稲田祭が五年も中断し(現在は復活したが、音同としての参加はしていないという)、部全体での活動も減っているから、何とかなるのだろうけれど。
 他のサークルでは、二年生が幹事学年となるところも増えているそうである。三、四年生は隠居するわけだ。
 わたしの時代も東大の古典音楽鑑賞会は、駒場の一、二年生のみが活動して、本郷に行くと引退だった。駒場が旧制一高、本郷が帝大だった時代の名残ではないかとおもうが、サークル活動も実質的に教養課程の一部だったのである。
 いまの音同は、偶然にも二年生が皆無という。幸い一年生は何人もいるので、このままだと来年は否応なく新二年生が幹事学年にならざるを得ない。これを好機として、二年幹事制に移行することになるのだろう。

七月二十三日
 パリ国立オペラの《アリアーヌと青ひげ》を観にオーチャード・ホールへ。
 デュカスの精妙な管弦楽法を匂うように響かせるオーケストラに脱帽。二十五年前にガルニエ宮で《こうもり》をワルベルク指揮で観たときには、ヨーロッパの一流歌劇場でもこんなに下手なオーケストラがいるのかと驚いたものだが、いまの腕前はまるで別物というほかない。フランス随一の実力といわれるのも当然だろう。
 演出は、一階席からではわかりにくい部分もあった。〈オルラモンドの五人の娘〉で、突然に青ひげの妻たちが各部屋に出現して歌いだすところはホラー映画さながら、日暮れ時にまどろんだりすると夢に出てきそうな恐さだった(笑)。

七月二十六日
 高田里惠子の『文学部をめぐる病い』の話をもう少し。
 一九八〇年代までの日本には、さまざまな「ドイツへの憧れ」があった。
 ミリタリー・マニアのドイツ軍好き。医師の使うドイツ語。さらにサッカー、自動車のベンツやフォルクスワーゲン、みな男性的にたくましく武骨に美しく、質実剛健。
 当時のカラヤンとベルリン・フィルの人気にも、ベンツやBMWといったドイツ車への信頼と愛着と同質の、剛健と高性能への憧れが、まず何よりも強かったようにおもう。
 高度経済成長期のビジネスマンたちの一つの理想郷なのだ。渡部昇一の『ドイツ参謀本部』なんて新書がベストセラーになった背景にも、その組織の機能性への憧れがあった。
 こうした憧れは、その当時の少年たちに対してはサブカルチャーの分野を通じて伝えられた。一九七〇年代二大アニメの『宇宙戦艦ヤマト』と『機動戦士ガンダム』の、その人気の一端に敵国の軍装がドイツ風だったことがあるのは疑いない。小説『銀河英雄伝説』もそうだろう。
 一方、同時代の少女の一部も、かつて旧制高校生のバイブルの一つだった『車輪の下』などのヘッセ作品を愛読し、さらにその影響で生れた萩尾望都のマンガ『トーマの心臓』などに感動し、少年たちが女子禁制の寄宿舎で経験する、甘美かつ危険な世界に憧れた。その一部は同性愛物語に特化して「やおい」と呼ばれる同人誌や、ボーイズラヴのマンガやゲームの消費者、提供者となっていく。
 一九六〇年代後半から八〇年代前半の男の子と女の子が抱いた、大衆的、サブカル的に変容した「ドイツへの憧れ」。
 『文学部をめぐる病い』の面白さは、わたしも持っているそれを思いださせてくれたことだった。そこから源流の教養主義(と軍国主義)を眺める姿勢が、わたしには入りやすかったのである。

八月六日
 巷で話題のグーグルのストリートビューを覗いてみる。
 凄い。
 我家やら昔の家やら、あたりを見てみるともうばっちり。
 人の目よりも少し高い視点(二メートル強くらいか?)から写した画像が三百六十度、道に沿って途切れることなく続いていく。撮影車が入れる道なら、ほぼすべて写しているらしい。
 途切れないことが何より凄い。たとえば家から千住大橋まで、道のままにずっと画像を見ていくことだってできる。
 昔住んでいた家のあたりなど、今は訪れてもあまりじっくりは見られない――住宅街だから、空き巣狙いかストーカーと思われそうで――のに、この画像上なら、立ち止まって何度見回してもかまわない。
 歩いて回るのにかなり近い東京が、数千万の人々がその人生を送っている場所が、すっぽりここに入っている。
 「情報」なる概念の革命というか(欧米ではすでにやっていたわけだが)。ネットの情報宇宙はここまできたのだ…。
 東京のほか札幌、小樽、函館、仙台、埼玉、千葉、横浜、鎌倉、京都、大阪、神戸の十二都市あるという。

 でも、これを私企業が無料で提供しているのは、どうにもそらおそろしい。
 個人情報の管理云々ということではなく――最近はそれを気にする人が多い。個人情報そのものがアイデンティティであるかのように――こういう莫大な手間と予算を必要とするサービスを、少なくとも表面的には「無料で」企業がやれることが。
 テレビ、ラジオ、雑誌といった媒体なら宣伝という、間接的とはいえまだしも把握しやすい売買関係があるのに、ここではその関係があまりに迂遠、迂回していて、グーグルがどうやって利益を得るのか、よく見えない。といって、社会事業とか利益還元でもないらしい。
 よくわからないまま提供される、地球規模の巨大情報。
 非営利の公的機関なら各方面から保留意見が出て、絶対にやれなかったろうものが、私企業ならできてしまうという不思議。資本主義の恩恵といわれれば、たしかにそうなのだが……。
 なにか宗教か、神とか、そんな概念に迫っていく気もする。

 面白いのは、我家や周辺を眺めても手の届かない遠さ、見知らぬ街角と同じような距離を感じること。地図のように、ここでは景色が客観化されている。自分が毎日生きているこの場所は、地球規模の画像情報の、その中の無作為の一点にすぎない――たしかに、それが現実なのだが。
 高橋新吉の有名な詩『るす』が頭に浮かぶ。

 留守と言え
 ここには誰も居ないと言え
 五億年経ったら帰って来る

 とまあ妄想はここまでにして、ストリートビューには一つ苦手な点が。
 わたしはゲームなどでの「3D酔い」がひどいタイプだ。この画面もぐるぐる見回していたら、完全に悪酔いした。
 この為体では、どうやら情報宇宙には生きられそうにない。

八月十一日
 一年がかりの大仕事の一回目。とにかく始めてみないことには見当がつかなかったが、今日である程度見えたような。
 内容はまだここには書けないが、順調に行けば十二月か年明けには一部を公開できるのではないか。

八月十七日
 高田里惠子の新書二冊、『学歴・階級・軍隊』(中公新書)と『男の子のための軍隊学習のススメ』(ちくまプリマー新書)を読む。
 この二冊のように、同じ著者の似た内容の新書が同時期に出る事態は、残念ながらしばしば起きている。ご承知のとおり近年は新書ばかりが売れる状況で、各社とも毎月一定冊を出さねばならない。書ける人に注文が集中し、玉石混淆の度が強まり、その内容は薄まっていく。
 とくに近年の新書は構成のパターン化がすすみ、見出しや帯にキャッチフレーズというか、主題というか結論のようなものが一つだけ明確に――これが肝要――掲げられ、あとはその理由づけが、論理的というよりは雑談風に二百頁続くつくりの本がかなりの部分を占めている。
 たしかにこの方法なら誰でもそれなりに書き上げられるし、気のきいた著者なら何冊も書きつぐことが容易だろう。新書量産のためには最適なのだ。
 そして何よりもこの構成法の利点は、読者が飛びつきやすいことだ。途中で投げ出しても、結論はアタマに書いてあるから何の問題もない。結論さえキャッチーなら、そこに至る論証がしっかりしたものかどうかなど、大半の読者にとってはどうでもよい――どうせ数百円のものなのだから。
 ここ二十年ぐらい、ポップスの世界では「アタマサビ」、文字どおり曲頭にサビ――本来はサワリと呼ぶべきともいうが、ここは現代の慣用優先で――を置かないと終りまで聴いてもらえないことが増えているというが、現代の新書の構成のパターン化も、それによく似ているのかも知れない。

 さて高田の二冊。いい加減な本ではないのだが、しかし残念ながら『文学部をめぐる病い』の冴えは感じなかった。
 『学歴』などは三百頁もあって、新書ではかなり厚い部類だから文章量はたっぷりあるのだが、アタマに主題があってあとはそれが変奏されつづける、しかもその変奏に変化が少なく坦々としたまま延々とくり返されて、盛り上がりを欠いたまま終る印象だ。いかにも現代の新書らしい、アタマサビの傾向がある。
 それを避けるための工夫として、終章に戦争を生き残った学徒出陣エリートとして「光クラブ事件」の山崎晃嗣を出すというヒネリをくわえているのだが、これも途中でエンリンこと遠藤麟一朗に話がずれ、焦点がぼやけている。
 一高では母に溺愛される美青年で多芸多才、何でもそつなくこなす「名人久太郎」みたいな光り輝く才子だったのに、就職後は酒色に身を持ちくずして化けの皮がはがれたという、エンリンの存在そのものはとても面白いのだけれど。
 このエンリンは『文学部』で紹介されたドイツの学校小説の、主人公に刺激を与える「男らしい」親友そのものみたいなキャラクターをもっていて、高田がいかにも好みそうな題材――可能性に満ちながら充分な結果を出せなかった人物という意味では『文学部』における原田義人や橋本一明に通じる――なのだが、その扱いが妙にあわただしいのが惜しい。
 またもう一冊の『男の子』の方はこの著者、ふざけるのがあまり上手でない。
 けれども、『文学部』で渇望感をおぼえさせてくれた、戦前日本の高等教育と軍隊との不和が(特に『学歴』では)ずばり主題だから、その不足を補う役割は間違いなく果している――前述した構成の欠点から、太い幹にまとまることなく個々の事例が枝葉のように連ねられている感は否めないにしても――とにかく数多く調べて書かれている。

 それにしても、ここに書かれた敗戦前の大学生、日本男子の一パーセントほどしかいない正真正銘のエリートたちのもつ軍人嫌い、軍隊蔑視の心情には考えさせられた。
 直接的な影響としては、大正デモクラシー時代の教養主義が背景にあるのだろう。しかし一方、たとえば学徒出陣世代の司馬遼太郎が何かの随筆に書いた、志士気取り、壮士気取りの右翼学生にしても、兵隊にとられるのを激しくいやがる点ではまるで反戦主義者みたいだった、なんて回想をおもい出してみると、エリートの軍隊嫌いは単純な平和主義などではない、もっと根深いもののように感じられてくる。
 かつて日本は尚武の国、武を尊ぶ国などといわれた。十九世紀の列強の侵略をはね返しえた理由は、文弱の清国などとちがって武士が国をリードしていたからだ、などという人もいる。科挙あがりの中国の官僚は文人志向で武事を軽んじていたから、猛々しい欧米の帝国主義に好き放題に食われてしまったのに、日本は逆に武人が政治外交を司っていたのがよかった、というわけだ。
 地政学的な条件もあるから一概にはいえない気もするが、まあたとえそうだったにしても、明治維新後の日本のエリートは、それ以前とは異なる文弱志向、武人蔑視の人々になったらしいのである。
 しかしわたしはそんな変換があったわけではなく、軍隊蔑視は江戸期の武士の精神教育にこそ由来する気がする。なぜかれらが近代の軍隊を嫌うかといえば、それが百姓町民ばかりの、長州の奇兵隊の拡大版だったからである。飛び道具は卑怯、などという高貴な精神教育を平和期に受けてきた武士たちは、勝ちゃあいいといわんばかりの近代軍隊を蔑んだ。
 それでも、当初の明治政府が内戦によって成立した軍事政権だったことをおもえば、武士を軍隊にとりいれることは不可能ではなかったのではないか。西洋の軍隊がそうであるように、士族(武士)を将校とし、平民を下士兵卒とする形態にして自尊心を満足させてやれば――庄屋に制服とサーベルを与えて喜ばせ、郵便局をやらせたみたいに――武士を軍人に変換できたのではないか。
 だが明治の軍政者、たとえば奇兵隊出身の山県有朋たちは、故意か偶然にか、それに失敗した。士族は軍隊を蔑み、能ある者は文治の道に進もうとした(たとえば板垣退助)。軍隊は、特に陸軍は、平民気質まるだしの通俗集団、「鎮台さん」になった。
 この切断がなければ、明治十年の西南戦争をクライマックスとする各地の士族反乱はもっと小さなものになっていたかも知れない。そして西南戦争の敗北は、士族なるものの誇りを壊滅させた。
 そうして日本では、兵卒だけでなく将校さえも、数百年かけて精神教育を練り上げてきた武士階級――もちろん、旗本などには駄目で怠惰な奴も無数にいたろうが――ではなく、貧しくて高等教育を受けられない、貧乏人がなるものになったのだ。
 西洋には類を見ない、特殊な「民主主義的」構成の軍隊が、ここに出現した。そして、旧制高校なる不思議なモラトリアムも、西洋には類を見ない「民主主義的」教育機関として発展した。
 軍人をゾル(ゾルダーテンの略)と呼んで嫌う旧制高校生、大学生たち。かれらは長じて前時代の武士に代って日本をリードするエリートとなり、日本政府、大企業の要職につく。
 しかしかれらは武士よりも、科挙で選抜された中国の官僚、文人教育を受けた教養豊かな官僚たちに、何よりも似ているのかも知れない。その意味で、日本もやはり東洋なのである。

 満州事変から敗戦までの軍人たちは、日本を占領している気でいたのではないか、といったのも司馬遼太郎だったはずだが、その暴走の背景にあったのは、こうした将校までひっくるめた軍人蔑視に対する、エリート階級への復讐の念だったのではないか。
 そのかれらが統帥権を通じて、天皇その人と直につながろうとしたのも興味深い。中世の網野史学ではないが、埒外におかれた人々が天皇を担ぐのである。
 そういえばこの近代は、藤原摂関制に始まる二重権力制が崩れて――天皇親政とはいえないにせよ――天皇の官僚(朕の股肱)が日本を動かした、建武以来の時代だった。南朝と近代は、複雑にずれながらも似ていたのかも知れない。
 二重権力制に戻して日本を安定させた功労者という点では、足利尊氏とマッカーサーは同じ? アメリカは武家政権の室町幕府で、戦後日本は天皇とアメリカの二重権力制? すると、アメリカの衰えが見えた現代は、応仁の乱寸前の状況なのか?

「諸君は武士だろう」
 三島由紀夫最後の演説が頭に浮かぶ。戦後の自衛隊は、果して武士たるや。

八月十九日
 歌舞伎座で野田版『愛陀姫』を観る。
 人によって感想の分かれるもの、というよりも否定的意見の多そうなものだとはおもうが、わたしは愉しんだ。野田版『アイーダ』といいながら、実は野田版『国盗り物語』だったからである。

 基本はオペラに忠実。歌詞を、わざと大仰な直訳調の日本語セリフにして、アリアも重唱もアンサンブルも、そのまんまにしゃべる。互いの顔を見ずに自分の主張や内心を叫びあうのを、旋律抜きのセリフのかけあいで聞かせる場面は、その心情のズレっぷりが面白かった。それに、こういうかけあいのリズムに弾力をあたえてセリフを躍動させられる点で、やはり歌舞伎役者は巧い。
 場割も、第一幕第二場の神殿の場面を割愛した以外は筋書通り。まあ、あそこはドラマ的には無駄といわれるし、野田もそう考えたのだろう(コンヴィチュニーはあえてそこに大いなる意味を見出してみせて、さすがだったが)。
 一度も暗転させない素早い舞台転換により、八十分にギュッとまとめていた。

 設定は事前に明かされていた通り、戦国時代の美濃斉藤家と尾張織田家の抗争に変えてある。
 アイーダは織田信秀の娘、愛陀姫(七之助)。つまりは信長のきょうだいということになる(衣裳の背中に「人間だもの」と書いてあるという噂もあったが、それだと相田姫)。
 アムネリスは斎藤道三の娘、濃姫(勘三郎)。
 ラダメスは斉藤家家臣、木村駄目助左衛門(きむら だめすけざえもん。この名前は結構好き。橋之介)
 エジプト王は斎藤道三(彌十郎)。
 アモナスロは織田信秀(三津五郎)。
 オペラと違うのは神官ランフィスではなく、インチキ霊能師コンビのエバラとホソケ(扇雀と福助)がいること。この変更は、濃姫の運命に大きく関わる。

 この時空設定はどこからきたのか、というのが観る前からの疑問だった。
 アムネリスと濃姫の響きが似ている? ナイル川と長良川? どれももう一つ決定打ではない。
 そのなかで、「おおっ」と膝を打ちたくなったのは、オペラでいう第三幕、ラダメスの話にエジプト軍の進撃ルートとして「ナバタの谷」が出てくるとき。
 ほとんどオペラのまんまのセリフしかしゃべらない駄目助左衛門が、ここではちょっとセリフを加える。
「菜の花が美しく咲く、ナバタの渓谷」

 ナバタはきっと「菜畑」と書くのだろう。美濃が菜種油の産地で、菜の花畑が広がるというのは、まさしく司馬遼太郎が、本人も黄色い菜の花が大好きだったという小説家が、『国盗り物語』に描いた風景。そしてあの小説において、一介の油商人松波庄九郎が斎藤道三に成り上がるための重要なポイントになる点で、ただの景色をこえた「人間の風景」。
 ナバタを「菜畑」と読み替えた瞬間、わたしの心中で何かがパチンと弾けて、『国盗り物語』前半の世界が舞台の背後にひろがっていく。世界のイメージが加速的に多重化する、その瞬間。
 わたしの勝手な思い込みかも知れないが、そうであれ何であれ、それを味わえたことが嬉しくて、愉しかった。
 そして、アイーダとラダメスの運命はオペラそのままなのに、アムネリスは濃姫として尾張に輿入れし、別の悲劇、すなわち斉藤家滅亡のドラマの、その幕を開けることを強いられる運命になる。
 それを予感させて終るのだ。
 なんとなく、華やかな信長物語の前半のエピソードの一つとして片付けられ、軽視されがちな斉藤家滅亡だが、旧主の土岐家没落から三代目の龍興退去まであらためて考えてみると、そこにはシェークスピア史劇やギリシャ悲劇みたいな人間ドラマが、濃密につまっている。
 ほんとうの父かどうか疑わしい簒奪者の道三を討つ義龍なんて、ハムレットに見立てることも不可能ではない。
 その物語の大きな黒い影を、《アイーダ》のドラマに重ねる。
 これが、とても面白かった。

 音楽的には、いささか不満。歌舞伎で西洋楽器の拡声音はどうにも……。やはりナマ音でやってほしかった。
 終曲をマーラーのアダージェットに変えてしまったのも、安易というか陳腐。
 マーラーがヴェルディの音楽、少なくともそのオーケストレーションから大きな影響を受けていることは確かなので、後者を陳腐化させたのが前者のアダージェットである、とまで野田が考えて変えたのだとしたら凄いが、これはたぶん、わたしの過度な深読み。

 それにしてもこのパターンで、《ファルスタッフ》終曲のフーガが突然マーラーの交響曲第五番の終楽章に置き換えられたりしたら、それはそれで凄いかも。

八月二十五日
 ちょうど一年前の昨年八月九日の日記で、ドイツの仮装巡洋艦の話をした。以下に再掲する。

 ウィキペディアには「仮装巡洋艦」という項目があり、アトランティス号などのドイツの仮装巡洋艦も載っている。
 興味深いのは、敵から逃れて日本に来航した仮装巡洋艦が二隻もいること。
 まずトール号――アトランティス号を上回る十五万五千トンの敵船を撃沈した――は一九四二年横浜に入港したが、十一月に爆発事故に巻き込まれて沈没。その後、一九四三年三月に神戸に入ったミヒェル号は、トール号の元艦長グンブリヒを新艦長として出撃、インド洋と太平洋で通商破壊戦を行ない、七か月後に日本へ再び戻る途中、父島沖で米潜水艦の雷撃により撃沈されたという。
 ミヒェル号の艦長をグンブリヒに譲ったルクテシェルはその後、駐日ドイツ大使館に勤務していたという。この二隻の仮装巡洋艦の活動、軍港でなく民間の港にいたこと、そしてトール号の爆沈などなど、これ以上ないくらいスパイ小説向きの題材に思えるが、書いた人はいるのだろうか?(ドキュメンタリーでは『横浜港ドイツ軍艦燃ゆ』という本が出ているらしい)

 と書いていたのだが、本屋に行ったらドイツ仮装巡洋艦を舞台にしたマンガの単行本を発見、さっそく購入。
 『あたらしい朝』というタイトルも表紙も、およそ戦争物には見えない。浦沢直樹風の絵柄が目に入って手にとり、裏を見たら「仮装巡洋艦という詐欺まがいの軍艦で、若者は戦火の世界へ漕ぎ出した」と惹句があった(この文は『宇宙戦艦ヤマト』か何かのパロディか?)のでそれとわかった次第。
 作者は黒田硫黄。マンガに疎いわたしは知らなかったが、二十世紀終りから活躍していた人らしい。人物は浦沢直樹っぽいのに青木雄二風に筆を使った、線が太く黒々とベタの効いた絵柄が独特の魅力。アフタヌーン掲載だそうで、いかにも講談社のコミック誌らしい雰囲気。
 トール号の乗組員が主人公で、もろに横浜爆沈事件が話にからんでいる。作者は箱根の温泉旅館の資料室でかれらのことを知り、艦船模型を紙と爪楊枝で自作してから――作者のブログにその写真が出ている――マンガにならないかと考え始めたのだという。二〇〇六年九月号から連載というから、わたしが日記に書くより一年も前に始まっていたわけだ。わが不明を恥じるのみ。
 巻末には資料として朝日ソノラマの単行本『海の狩人・アトランティス』が紹介されている。これこそ『全艦船を撃沈せよ』の原作本の邦訳だ。
 このマンガがヒットして仮装巡洋艦ブームが起き、『全艦船を撃沈せよ』がDVD化、てことになったらいいのに。

八月二十六日
 藤原歌劇団の《椿姫》を観に新百合ケ丘のテアトロ・ジーリオへ。
 時間の都合で終幕を観られなかったので演奏については書けない。それよりも千席弱の小空間でオペラ――文化会館で上演されるのと同じものを――を観ることができて、気分がとてもよかった。
 学校のホールで舞台機構が簡素だから凝った演出には使えないとか、席数の限界で利益があがらないとか、苦しい点は多々あるらしいが、オペラって本来このくらいの空間でやるのが理想的なのだろうという気がしてならなかった。
 また機会があれば来たい。

九月二日
 サイトウ・キネン・フェスティヴァルのオペラ《利口な女狐の物語》を観に、松本へ。
 新宿発のあずさ。途中、仕事で二年ほど滞在した山梨の塩山を通過する。かつての事務所兼宿舎は踏切近くにあったので、それらしき跡地が見えた。もう十八年も前だ。よく通ったロードサイド型の本屋やホームセンターは今どうなっているのだろう。九〇年代の消費生活がなんとなく懐かしい、今日この頃。
 松本には開演より数時間前に到着。出無精なくせに、何かの機会で遠出したときには、一人で街を徒歩で回ることが好きなので、今回も早めに来てうろうろする計画。終演後には電車がないので一泊となるので、翌日も歩くつもり。
 ホテルは松本駅の西側、アルプス口にある。こちらは駅前から小さな民家も多く、見事なまでに未開発。主な市街は駅と線路の東側に限られているのだ。
 どうせだったら浅間温泉、辻邦生など旧制松本高校生が多く下宿していたという温泉街に泊りたかったが、オペラに行くのでは宿の夕食をゆっくり食べられないし、あまり夜遅く帰ることもできないので旅館は使いにくい。会場のまつもと市民芸術館からも離れているので、駅近のビジネスホテルにした。
 『文学部をめぐる病い』に影響されて旧制高校に興味が起きたこともあり、松本行きが決まってから北杜夫の『どくとるマンボウ青春記』を読んだ。
 北は終戦直後に旧制松本高校に学んでおり、その回想が同書に書かれている。旧制高校の雰囲気を知るには最適の一冊らしい。
「ともあれ、私たちはかなりの愚行を重ねて日を送ってきた。あとでふりかえってみて自ら忸怩たるものがある。しかし、すべてがあながち無駄ではなかったと思うし、それどころか、これほど吸収するところが多かった時代は、わが生涯に於いて唯一のものといってよいのではあるまいか」
 集団生活の外向の陽気さと反動としての内省の孤独、躁鬱の両面を対照させているのがいい。後半で東北大学の学生となって、わが父祖の町の仙台を舞台にするのも私にとっては嬉しい。
 さてその中で松本の「唯一の大通り」とあるのが縄手通り。現在はナワテ通りと表記するがいわゆる「畷」のことだ。この場合は女鳥羽川沿い北側の細長い土手道のことを指している。
 二〇〇一年に改装して昔の町並を再現したそうだが、あくまでレトロ「調」というだけであって、清潔な観光みやげ物屋が「道の駅」風に画然とならんでいるから、ごちゃっとした繁華街の風情を期待した当方としては肩すかし。
 女鳥羽川の南側には中町通りという、商家の土蔵が残る通りもあるし、これら東西方向に走る道と直交して南北に走る本町通りの方が目抜き通りという印象があり、終戦直後とは情況が変っている。あるいは当時でも、学生に用があるのは何より縄手通りだった、ということか。
 ナワテ通りと中町通りの中間の橋のたもとにある「おきな堂」という洋食屋で早めの夕食。ハンバーグの、こくのあるデミグラスソースが絶品だった(あとで松本深志高出身の方にきいたら、昔はカツサンドがうまかったそうだ)。

 食後、適当に位置の見当をつけて南下し、芸術館に向う。
 開演は午後六時半なので、まだ明るいうちに席につかなければならない。信州の夕暮というのが学生時代にサークル合宿で来たとき以来大好きなのだが、残念ながら今回は味わえそうにない。
 特に松本の場合、十年ほど前に送電線工事の関係で夕方に着いたとき、西陽に照らされてまぶしく光るアルプスの稜線と、その下の黒灰色の巨大な山壁との、その雄大な対照に感激した記憶が強烈だった――関東甲信越、中部北陸のさまざまな山河の景色と空気の中に身を置けるという意味では、あの仕事は実に愉しかった――のだが、それを再体験できないのはもったいなかった。
 『青春記』の次の一節でこの追憶に援軍を得ていたから、なおさらである。
「こうして二十年以上経っても鮮明に網膜に残っているのは、信州のひえびえとした大気の中にひろがる美しい山脈である。ことにその秋の私の心象を映してか、夕暮の光景ばかり思い出される。
 西方のアルプスの彼方に日が落ち、松本平を薄もやがおおい、山々はうす蒼く寒々とした影となって連なっている。草の実はいつ知らず地にこぼれ、タデもカヤツリグサも、根元々々にかぼそい虫の音をひびかせながら、うら枯れかかって霜を待っている。――そうした物寂しい光景だ」

 芸術館は入口から客席まで、まっすぐにけっこうの距離を歩く独特の構造で、空港の搭乗口を連想する。
 公演の感想は日経に書いた評にゆずるが、ただ、この美しい自然をもつ信州での上演であることを、演出のローラン・ペリーが少しでも意識してくれていたらもっと感動できたのかも知れないのに、とはおもった。標本のように切り取られた自然という今回の舞台は、大都市の劇場にこそふさわしかろう。
 終演後は「安藤さん」(某指揮者が日経新聞の池田卓夫氏のことをこう呼ぶらしい。『篤姫』で安藤対馬守をやっていた白井晃にそっくりだからである。私もこの役者が『新撰組!』で清河八郎をやったときから、よく似た人がいるなあとおもっていた)に連れられて、指揮者のシズオ・Z・クワハラ氏などと飲む。
 「ズィー」ことクワハラ氏はアメリカで指揮を学んだが、日本生れで両親ともに日本人。八月下旬に「子供のための音楽会」を松本と長野で指揮したあと、スタンドインの指揮者として待機しているのだという。武満徹の《ヴィジョンズ》の独特の記譜法についてなど、この人としゃべるのはとても愉しかった。
 いつのまにやら午前二時をすぎ、酔いと眠気でふらふらとホテルに帰る。

九月三日
 松本の朝。フロントからの電話で目が覚める。
 チェックアウト時刻をすぎています、とのこと。モーニング・コールをセットして、受話器をとったのにそのまま寝てしまった。夕暮が駄目なら、せめてアルプス早朝の景色を見ようとおもって西向の部屋をとったのに、もう日ははるかに高い。嗚呼。
 あわてて着替えて飛び出す。昨日は帰ってきたまま、シャワーも浴びてない。その時間だけ待ってくれと頼んでみる手もあったのに、気が急いて考えつかず、部屋を出てしまった。
 朝食も頼んであったのに無駄にした。どこかで食べようと、とりあえず深志城に向って歩きだす。今日は午後遅くのあずさで帰京するつもり。
 途中の喫茶店でトーストを食べる。自家製ジャムが美味。昨日の「おきな堂」もそうだが、喫茶店とか洋食屋とか、昭和以来の「型」をいまだに守っている店があるのが嬉しかった。東京のその種の店は、もはや色々な意味で清浄ではない(衛生上の問題でなく)雰囲気が漂うことも多いのだが、松本の店には共通して潔癖性を感じる。ファミレスとかチェーンのコーヒー店とかが少ないのもいい。郊外のロードサイドや大学周辺には、きっとたくさんあるのだろうけれど。
 深志城は以前に観ているので外から眺めたあと、歩いて離れたソバ屋に入ったが、ここはいまいち。ソバ自体は美味しいがタレが私には甘ったるすぎる。薬味にからし大根を使うのも、辛味と苦みが強すぎて他を殺してしまう。当たり前すぎてもやはりワサビはワサビだ。そこから再びナワテ通りに戻り、ナワテ横丁という細い飲み屋街を北に抜ける。『どくとるマンボウ青春記』に出てくるドッペリ(落第)横丁とは、ひょっとしたらここのことだろうか。
 上土(あげつち)通りという、大正期の面影を残すという道に出る。写真館などがある。「上土シネマ」なる昔風の映画館――私が子供の頃には自由が丘にもいくつかあったような――があり、その近くにも一つ、元映画館らしきホールがある。映画館が複数あるなんて、ここもかつては繁華街だったのだろうとおもうが、いまは眠ったような街。シャッターが下りたままの店も少なくない。
 そういえば、市内には書店が意外なほど少ない。唯一目に入った高美書店というのはいかにも由緒ありげな雰囲気で、あとで調べたら江戸時代から続いているそうだが、この店と双璧で松高生が愛用したという鶴林堂は一年前に破産し、ビルと看板だけが空しく残っていた。町独自の書店が地方都市の精神的柱であった時代は、いまさらいうまでもなく、疾うに過ぎ去っている。
(十一月十三日の附記。上土シネマも十一月十四日に閉館するというニュースがネットに出ていた。これで松本も市内に残る映画館は一つだけとなり、郊外のシネコンが主体になるという。ドーナツ化現象はいまも進行中だ)
 南下してナワテ通りをまたぎ、橋をわたって「まるも」という喫茶店に入る。ここも観光ガイド類に必ず載っている有名店。内装は古風で落ち着けるがやはり掃除が行き届き、清潔で好感がもてた。じっくり淹れたコーヒーがおいしい。
 この喫茶店の後ろにある、明治二十一年(!)建築という旅館も実に魅力的。演奏会とは無関係にいつか泊まりたい。南下を続けて「あがたの森通り」に出て東に折れて芸術館の前を過ぎ、今日の主目的である旧制松本高校の校舎へ。

 大正八(一九一九)年に開校、翌年に落成した旧制松本高校の校舎は戦後信州大学文理学部となり、一九七三年に信州大学が移転すると取り壊しの危機にさらされたが、熱心な保存運動により一九七九年に「あがたの森文化会館」として装いを新たに開館した。高校の広い用地の大半がそのまま「あがたの森公園」になっている。
 八十八年の長い歴史を持つ本館と講堂は「旧松本高校」として国の重要文化財に指定され、往時の旧制高校の姿をほぼ完全にとどめる全国唯一の遺構という。
 昭和二十年八月一日に入学した北杜夫は「ヒマラヤ杉に囲まれた古風な校舎」と書いているから、当時すでに「古風」だったらしい。その明灰色の洋風木造建築の内部を歩き回る。教室の一つと校長室が復元されている。他は貸教室になっており、それらと講堂では学生オーケストラがちょうど練習していたので、講堂に入るのは遠慮した。
 本館の東側には、一九九三年に開設された「旧制高等学校記念館」がある。松高だけでなく、一高以下のナンバースクール、地名校など全国の旧制高校ゆかりの品や写真が展示されている。一高の駒場の学生寮の平面図や、有名な校旗「護國旗」もあった(この旗の下に集う、武士ならぬ「国士」たちが懐しんでやまない「ノーブレス・オブリージュ」が、はたして仲間うちだけでなく一般大衆からも認められるものであったかどうかが、高田里惠子の『学歴・階級・軍隊』のテーマの一つだった)。
 もちろんいちばんの質量を誇るのは松高関係で、学生寮の一部屋が再現されていたりするが、北杜夫に関するもの、書いたものがかなりの割合を占め、中島健蔵でも辻邦生でもなく、北の『青春記』こそが、松高を記念する無二の存在になっているらしいことがわかる。三十年の歴史に幕を閉じようとする時期の松高に登場し、誰よりも華々しくにぎやかに旧制高校生の外面と内面を体現したのが、きっとかれだったのだろう。
 往時の縄手通りの夜の写真もあった。川面に近く露店や夜店風の店舗が軒をならべたその明りが水面に反射していて、これでこそ、北杜夫の描写から想像する気分にぴったりだ。

 「あがたの森公園」と松本駅を結ぶ東西二キロほどの直線道路が「あがたの森通り」。歩いて駅に戻ることにする。
 公園付近には高校もいくつかあり、途中にはまつもと市民芸術館のほかに松本市美術館もあって、行政としてはこの道を文教地区にしたいのではとおもえるのだが、景色はもう一つ荒漠としている。
 途中、通りに面して暴力団の事務所が堂々と、たかだかと組の看板を掲げていたのに呆然。こんなに公然たる事務所は見たことがない。何かの洒落かとおもったが、中からは雪駄を履いてガニ股の、どうにもいかにもな人が出てきた。
 止まらないドーナツ化と、それに抗してまだらに行われる再開発。あちこちにその無理と悲しみを感じた松本観光――信州大学や深志高校周辺はまた違うのかも知れないが――だったが、この戯画的光景はその仕上げのようだった。

九月二十日
 紀尾井ホールでの、ペーター・レーゼルによるベートーヴェンのソナタ全曲シリーズの第一回を聴きに行く。
 内容については日経の批評にゆずる。年に二回ずつ計八回、四年がかりという慎重な計画で、昨年の最後の三つのソナタをひいたリサイタルの大好評をうけて実現したものだそうである。あわせてキングレコードが、ライヴとセッションを編集して全集録音を行なうそうだ。
 しかし今日の二曲目、《テンペスト》では第二楽章以降、一人のお客のイビキが盛大にオブリガートしていた。フライングブラボーなら最後だけを録りなおすことで対応できるが、鼻楽器のオルゲルプンクトはどうにもなるまい。
 最近はさまざま注意をうながすアナウンスも流行しているから、休憩後に「演奏中の撮影、録音、イビキはご遠慮ください」とかアナウンスすればいいのに、とおもった。幸い後半はおきなかった。

九月二十四日
 某所から『トラ!トラ!トラ!』コレクターズ・ボックス発売の案内が来た。
 ニュー・リマスターで、しかも初DVD化の日本公開版がついているという。(既発DVDはアメリカ公開版なので、日本側場面にはばかでかい英語字幕が消去不能の焼付で入っていて、しかも料理係の渥美清と松山英太郎の日付変更線をめぐる出演場面がカットされている)。
 「十二月八日」、大詔奉戴日に発売というのも気をそそるし、大好きな映画だし、買おうかどうか迷っているのだが、それより気になったのが、同じサイトに出ていた『太陽がいっぱい』スペシャル・エディションの広告。
 この映画も好きだし、それ以上に「一九六〇年」制作であるという理由からその中身をチェックしたのだが、「?」と思ったのが下の方にある一文。
「今回発売のニューマスターはフランスにてPAL変換のため、ランニングタイムが113分(既発売の単品は118分)となっておりますが、本篇のカットは一切ございません」

 どうも妙に高飛車な書き方で、五分もタイムが短いのに、理由以前に何が起きているのかさえ、ちゃんと説明されていない。おそらく発売元からの案内文なのだろう。
 首をかしげることしばし、「PAL変換」という言葉で、棟梁ことミン吉氏がこの現象に関係ある一文を書かれていたのをおもいだした。
 サイトの「オペラ御殿」の棟梁日誌、二〇〇八年二月二十三日のところだ。一部を引用させていただく。

[引用始め]
 「PALのDVDは音のピッチが高い」という噂を聞いたことがあります。棟梁、PAL盤のオペラもずいぶん持っていますが、気になった記憶がないので、不思議に思っていました。
 調べたら、フィルム収録(映画など)をPALに変換する際に特有の問題だそうです。
 フィルムは、1秒当たり24コマの収録。一方、PALでは1秒当たり25コマ。これが微妙な差なので、面倒くさがって1コマ→1コマのままで変換すると、25÷24=1・0416666…、つまり約4・2%の速度アップ(時間で4%減)になってしまい、音のピッチが上がってしまうのです。これくらいだと、耳ではっきり分かる程度の差になります。
 ちなみに、PAL→NTSCは、前者が25コマ/秒、後者が30コマ/秒と、差が大きい(1コマ→1コマのまま変換すると、20%もスピードが上がってしまう)ので、調整つけていますから問題なし。
 この問題、ヨーロッパ映画ファンにはかなり深刻なようです。NTSCなら安心かと思いきや、直接フィルムから変換するのでなく、ピッチのずれたPALをマスターにしてしまうと、NTSCでもピッチのズレを引き継いでしまうのです。サウンドトラックCDの音声と比較して、正常かどうかをチェックしている人もいる程です。
[引用終り]

 このことを念頭において先の一文を見直すと、やっと意味がわかる。百十八分が百十三分、割った答は一・〇四四…で、まさしくフィルム対PALのコマ数のズレが出ているわけだ。セリフも音楽もそれだけ甲高くなっているのである。
 「それなら買わなくてもいいや」と自分に納得させる理由ができて、実に嬉しい。ああよかった。
 怖いものだ。かえって既発売盤にプレミアがついたりして。
 しかし、とすると鈍感な私は聞き逃しているが、一九六〇年のカラヤン&シュヴァルツコップの映画版《ばらの騎士》DVDなども、ピッチが高い可能性がある。うーん。
(二〇〇九年二月十九日追記 ものによっては再生速度の速いまま、ピッチを調整して下げたりしているらしい。テンポの速い、別演奏が捏造されてしまうわけだ。大量生産品において何が真正かの判断は難しいとはいえ……)

九月二十六日
 石丸電気の超高級オーディオ専門店、レフィーノ&アネーロにて、ミュージックバードの公開録音を行なう。
 今年のレコード界最大のトピックであるSHM‐CDの魅力について、ゲストにBMGの古澤龍介さんとユニバーサルの阿部香さんをお招きし、各社の展開などを語っていただきながら、通常盤、SACD、SHM‐CD、SHM‐XRCDを聴き較べるというもの。
 超高級というにふさわしく、再生機はスピーカーだけで一千万円近いとか、合計すれば首都圏にマンションが買えるくらいのオーディオである。さすがに響きの空気感が違う。
 秋葉原というより神田明神下、湯島の聖堂を下ったところにあるレフィーノ&アネーロは、広々と天井が高く、扱う商品にふさわしい余裕たっぷりのつくり。
 平日の夜六時という時刻だから、無料とはいえお客さん来てくれるのだろうかと不安だったが、数十ある客席が埋まっていて安堵。SHM‐CDへの関心の高さと、それにこの設備で聴けるということの魅力だろう。
 話しやすい空間のおかげで、落ちついて話すことができた。古澤さん、阿部さんともにお話が上手で、水を向けるのが楽だった。太平楽な私と違ってお二人とも企業人である以上、気を遣ってしゃべらなければならない話柄もあるのだが、実にうまく説明されていた。
 それにしても、一九五〇年代半ばのRCA録音の優秀さに、いまさらながら感服。物心ついたのが一九七〇年代だった自分などは、アメリカ製品はすべて大味で故障しがちというイメージで育っているのだが、それ以前の技術力と工業力の高さには恐れ入るし、あらためて、こんな国と戦争したことの無茶をおもう。
 しかしやっぱり、現在のソフトとしてはSACDがいちばん、と個人的には感じた。SACDとなるとマスタリングからやり直さねばならず、素材を変えるだけのSHM‐CDとは段違いの手間がかかるそうだから、メジャー・レーベルとしては簡単には使えないらしい。SAXRCDなんて、聴いてみたいのだが。

十月十一日
 ベルリン・フィル来日公演のプログラムの、一九五七年の初来日以来の公演記録の解説を書くために資料整理をする。
 そのなかにカラヤンとベルリン・フィルが仙台を訪れたときの記録があった。
 母親の話では、むかし家族で仙台ホテルに宿泊したさい、カラヤンたちと一緒だったことがあるという。警戒厳重で、とても近づけなかったそうだが。

 以前にも書いたが、親戚の半分は仙台市に住んでいて、亡父はじめ先祖の墓もそこにある。そのため、子供時代の長い休みには必ず仙台に連れていかれた。
 東北新幹線も縦貫道もなく、駅前のペデストリアンデッキもなかった時代である。特急で六時間(途中から五時間)、車となると国道四号か六号をひたすら走って、十一、二時間もかかった。空路ならYS11で一時間で行けたが、そんな贅沢をした経験は一度しかない。
 長旅だから親は大変だったろうが、電車なら寝台車に乗ったり、食堂車でオートミールを食ったり、また車なら夜中に走って三時頃ドライブインに入ったり、明け方に家へ着いて薄明のなかのベッドに入ったりと、子供にとっては非日常的な経験ができる、貴重な機会だった。
 それらの場面をいまもかなりはっきりと憶えているくらいだから、よほど印象的だったのだろう。といっても大概は酔いどめ(我が懐かしきトラベルミン)を飲んでフラフラで、起こされたとき以外はずっと寝ていたはずだが。
 行き先の仙台では親戚の家に寝ることもあったが、小さいときはホテルに泊まることが多かった。カラヤンと一緒になったのはそうした一夜のことだろう。
 カラヤンが仙台を演奏会で訪れたのは記録上一度しかないから、その日に違いない。ベルリン・フィルとの二回目の来日の一九六六年四月十七日、宮城県民会館での演奏会である。
 曲目はドヴォルジャークの交響曲第八番とドビュッシーの《牧神》《海》。前日夜にも東京文化会館で演奏会をしているから、当日昼に空路で移動して、演奏会の晩に仙台へ泊まったとみるのが自然だろう(次は翌々日に札幌市民会館)。
 発展した現代の仙台と違い、四十年前にホテルといえば、仙台ホテルただ一軒だった。だから私たちの定宿はそこだったし、カラヤンとベルリン・フィルが泊まるのも、ここ以外にありえなかった。
 とはいえ私が三歳のときだから、当然ながら何も憶えていない。憶えているのは当時の、ホテル内の様子だけだ。
 大きなベッドに洋式のバス。各所に制服のボーイさんがいて、朝は大きな窓の食堂で洋食を食べ、地下には小規模ながら洋風雑貨のアーケードがあって、外国製のミニカーを売っている。
 こんな外国風の光景は、自分がふだん暮らしている目黒区の住宅街には、影も形もなかった。エレガンスというか、あるいはそれに似たものを初めて認識したのは、仙台だった。だから私にとって、ホテルの原像は帝国ホテルやオークラではなく、赤べこの玩具を売っている、仙台ホテルである。
 しかし同時に、父の実家のまわりは一面の田んぼ、道は舗装されておらず、川も護岸などされておらず、土と草木と日なたの臭いと、それを運んで彼方から彼方へと吹きわたる風に満ちていた。便所も古い農家だから外で、汲み取り式。そういう田舎の風景を知ったのもまた、仙台だった。
 中間的な「郊外」では体験できない、都鄙の両極があるところだった。

 『どくとるマンボウ青春記』の後半、松本高校を卒業した北杜夫は、東北大学医学部に入学する。東北の木の香が漂いそうな町の名に憧れたのだそうだ。
「ところが、いざやってきた仙台は、空爆で中心部があらかたやられていて、砂埃の多い、殺風景な、木の香なぞほとんどない、都会とも田舎ともつかぬ場所であった。古い城下町の名残なぞ、ノミ取りマナコで捜さねばならなかった。都会には都会の、田舎には田舎の情緒がある。しかし、昭和二十三年の仙台は、その両方から中途半端で、のっぺら棒な索漠たる眺めにすぎないように思われた」
「私はよく一人きりで、空爆の跡の復興もまだよく整っていない街はずれの道をあてもなく歩いた。乾いて砂埃の多い道、そのころ仙台砂漠といわれたりした道、心のなかはその地面にも似て、殺風景で空漠としていた」

 仙台は昭和二十年七月十日の大空襲で中心部の大半が焼尽した。復興にあたっては、街路を直線にして幅広くつくり直した。滑走路なみの広さに「戦闘機でも飛ばすのか」と市長を非難する連中がいたと、親から聞いたことがある。
 人間は、闇市的な群集生活にはすぐ馴染むが、整然とした市街に血を通わせるには時間がかかる。すべて舗装し、大きな街路樹でおおうにも年月が必要だ。北が住んだのは、その前の「砂漠」なのだろう。整備工事が概ね終ったのは、昭和三十六年だという。しかしこの結果、道幅が広く緑の多い、近代的都市風景をもつ仙台、私の知る仙台が生れた。
 この終戦直後の仙台砂漠で、中学生だった亡父は、旧制二高生とGIのケンカに出くわしたという。
 巨漢の米兵を柔道で投げて叩きつけ、腰の手拭にプッとつばを吐いて、つまらん、といった顔つきで去っていく二高生は、最高に格好よかったそうだ。ここにはのちの力道山ブームの祖型があるが、それはともかく、腰手拭はマントや弊衣破帽とともに、バンカラ高校生の必須アイテムである。
 一方、それとは対照的な東北帝国大学生の姿も父から聞いた。さらに古い戦前の話だが、家の近くに下宿していたその人は大学生なのに既婚、いつも部屋で読書していた。子供だった父が覗きに行くと、「お、来たか」の声とともに本を閉じ、話し相手になってくれたという。
 二十代前半くらいの若者が、そんな哲学者然とした鷹揚な態度をしているのは何だか可笑しいけれども、大学生とはそんな内省的な存在だというのが、戦前の共通理解だったらしい。
 父の一つ上、昭和六年生れの小松左京も、自伝『やぶれかぶれ青春記』で、大学生とは「でたらめな『高等学校生活』とはガラリとかわった落ち着きぶりを見せ、身なりもととのい、言葉つきも紳士的でおだやかになり、遠くから一瞥しただけで、頭痛の起きそうなぶあつい原書をかかえ、大判の大学ノートを何冊もつみあげて、それにぎっしりと書き込みを行う」存在にみえたとしている。大阪でも仙台でも、高校と大学の相違は一緒だったのだ。

 二高生が肩で風切って歩いた戦前の仙台には陸軍の第二師団もあって、二という数字に縁の深い町だった(銀行は七十七だけれども)。
 父方の祖父は無学な百姓だが、その第二師団の軍人たちと交流があった。将校の必需品といえば日本刀、祖父も家が小規模ながら在地の寄生地主だったので暮しに余裕があり、道楽で日本刀に凝っていたのだ(道楽に凝る質は、隔世で私に遺伝しているらしい)。生活の不安がなく道楽もやり放題と、戦前の祖父はその範囲では幸福だったはずである。
 ところが、敗戦が根底からこの幸福をくつがえした。第二師団は霧と消え、日本刀は唾棄すべき軍国主義の象徴として日陰ものとなり、さらに農地改革で小作させていた土地は取りあげられ、働かざるもの食うべからず、となった。
 そして祖父は、東北大を受験したいという父の希望を「百姓の子は百姓だ」と許さず、願書を取り下げさせた。父はこのことを生涯の痛恨事にしていたが、理由が本当にそれだけだったのか、金銭的事情だったのか、さらに何かあったのか、いまとなってはわからない。
 結局のところ、父は百姓にもならなかった。宮城県工業学校(在学中に学制改革があって高校になった)を出て、にもかかわらず仙台国税局に勤務という、奇妙な経歴を歩んだ。二十七歳で東京国税局に転属、母と結婚して、長男にもかかわらず他家に婿入りし、送電線工事会社の跡取りになった。

 こんな行動をする父と祖父との間に、どんな意思の疎通があったのかは想像しようもない。ただ結果だけが残る。
 祖父の死は私の生れた翌年、昭和三十九年だった。どんな人なのかまったく憶えていない。たしかなのは、五十八歳で癌で死んだことだ。そしてその息子の父も、同じく五十八歳で癌で死んだ。
 こうした家系に生れているので、私も人生五十年、残りは余生と弁えて生きなければとおもっている。といいつつ、遊惰な日々に忘れてしまうのだけれど。

十月十二日
 昨日に引き続き、ベルリン・フィル来日関係の史料で気づいたこと。
 おもわぬ場所で、ドリームライフから出た「クレメンス・クラウス スペシャルBOX」に入っている、ヴェスターマンの《ディヴェルティメント》について書かれた文章を発見した。
 元NHKの細野達也が書いた『ブラボ! あの頃のN響』(三省堂教育開発)である。意外にもNHK交響楽団は無名に近いこの曲を演奏したことがあり、しかもそれは日本初演ではなく、二回めの演奏だったという。
 日本初演は一九六〇年六月、大町陽一郎指揮の大阪フィル。N響による演奏は一九六二年二月、指揮はシュヒター。
 これは、作曲者のヴェスターマンが戦中戦後とベルリン・フィルのインテンダント(総裁、あるいは支配人と訳すが、二つの邦訳はずいぶん印象が異なる)をつとめた人物で、その関係でこの二人の指揮者と結びつきがあったためらしい。
 シュヒターはかれの口利きで一九五七年のベルリン・フィル初来日に副指揮者として帯同(指揮したのは、カラヤンが「風邪」で休んだ仙台公演ただ一回だった。シュヒターには悪いが、仙台の人の落胆はいかばかりだったことか)、さらに帰国後、五九年からNHK交響楽団常任指揮者となったことにも、ヴェスターマンの推挙が効いていたらしい。
 また、一九五四年からウィーンに留学していた大町も、この一九五七年来日公演のさいに通訳として日本に里帰りさせてもらっていた。要は二人とも、お世話になった人の作品を演奏したのである。ヴェスターマンは大の日本びいきで、初の日本人団員として土屋邦雄を入団させたのもかれの判断だったそうだ。
 それからこれはクラウス・ボックスのライナーを書いたときには見落としていたことだが、この曲は一九四四年十月、フルトヴェングラー指揮のベルリン・フィルによって初演されている。というわけで録音年不明のクラウスとウィーン・フィルの録音も、順当に考えてそれ以降の、終戦までの時期の録音となる。

十月十三日
 仙台づいたので、井上ひさしの『青葉繁れる』(文春文庫)と『モッキンポット師の後始末』(講談社文庫)を読む。
 前者は昭和九年生れの作者が自身の仙台一高(新制)時代の、後者は紆余曲折をへて昭和三十一年に入学した上智大学フランス語学科での思い出をもとに、かなりの創作を交えて小説化したもの。
 作者は亡父より二歳下、そのかれのいた仙台と、そして私がいま住んでいるところに近い上智大と旧文化放送近くの学生寮が舞台なので、縁を感じて読んだ。前者が昭和四十八年、後者が四十六年の発表で、特に前者は出版後まもなく映画化、次いでテレビ化された。テレビ・ドラマの方は母が観ていた記憶がある。
 前者の裏表紙には「ユーモアと反骨精神に満ちた青春小説の傑作」、後者のそれには「お人好しの神父と悪ヂエ学生の行状を軽快に描く笑いとユーモアあふれる快作」とある。
 たしかに愉快な部分もあったが、読後感はともに苦い。
 作者自身をモデルにした主人公とその悪友たちのいたずらがあまりに身勝手、はた迷惑なものなので、途中から共感できなくなってしまったからだ。
 ずいぶんと陰惨なユーモア、としかいいようがない。貧困、苦悩、不安を忘れるためには笑いとばすしかないのかも知れないが、それだからと他人にこんなに迷惑をかけていいものなのか。若さの特権というだけで、許されるのか。
 自暴自棄ぶりにおいて同世代の太陽族と似たようなもの、平凡な境遇に育った田舎の太陽族、という印象だった。井上が仙台の孤児院時代をモデルに描いた『四十一番の少年』は、『青葉』の半年後に発表された、対照的に笑いのない悲劇だが、根の暗さ、内にこもる暴力性は共通する。
 昭和十年生れで同世代の鴨下信一は、『誰も「戦後」を覚えていない 昭和二十年代後半篇』で、この時期の日本人の心理の特徴を「イライラ・暴力衝動そして密告」としているが、まさにそれらが井上の作品では、若者のいたずら衝動に置きかわっている。愉しかろうわけがない。
 『青葉』の主人公は作者と同い年の一高生だけれども、家庭環境はまるで変えられている。作者は母がいるのに弟と一緒に仙台の孤児院に入れられるという、とても複雑な境遇で高校に通ったが、小説では市内の中規模の料亭の息子で、両親がそろっている。
 生徒のいたずらの責任を一身に引き受けて辞職する校長――作者のあとがきによると、亡国を招いた自分たち大人の過誤を認め、若い世代に未来を託そうとする人たちの一人、ということらしい――も、ウィキペディアで歴代校長の在職期間を見るかぎり、当時の一高にはいなかったようだ。また『モッキンポット師』の「お人好しの神父」も実在せず、孤児院で親身に面倒をみてくれたカナダ人神父たちをモデルに創造したもので、上智大の神父たちは逆に、落胆させられるほど冷淡に感じられたそうだ。
 こうした、現実とは異なる教師や神父といった架空の、ありえないほどに寛大な「受け皿」を設定することで、悪童側のいたずらもそれに合わせて大きく誇張されているのだろうが、とにかく私には笑えなかった。
 苦しみ、自損せずにはいられない迷える魂と、それを包む、犠牲的なまでに広大無辺の愛の物語という両者に共通する主題は、たしかにキリスト教的なのかも知れないが…。

 当方が勝手に期待した仙台市街の描写は、残念ながらさほど多くなかった。
 一高とその周辺を除くと、
「駅舎の真向いは青葉通りという名の、幅六、七十メートルもある広い道路になっていた。長さも長く、市街を真直ぐに貫通し、市を外から抱くようにしてゆるやかに流れる広瀬川にまで達している。この道路が着工されたころ、あれは米軍の謀略道路だという噂が市内に乱れ飛んだ。アジアに戦争が起きれば、その道路がそのまま米軍の戦闘機や爆撃機の発着する滑走路になるというのだった。稔などはこの噂を頭から信じ込み、朝鮮戦争の最初の一週間、この青葉通りに日参し、空ばかり見上げていたものだ」
というのがせいぜいである。
 日本語に対する考察の深い作家だけに「……おらもう世の中、やんだぐなったんだいっちゃ」とか「少し大盛にしてけさいね」とか、東北弁の文字化では笑わせてくれるが、視覚的な風景の描写には重きを置いていないようだ。『モッキンポット師』の四ツ谷付近の描写も同様で、若葉町の様子も現地をよく知っている人には想像がつく、という程度である。むしろ別のエッセイに、当時の「新道通り」は飲み屋街ではなく、生活雑貨を売っている普通の商店街だったということが書いてあって、その方が参考になった。
 ただ、高校三年で千本観たというほどの映画好きだけに、『青葉』に登場する映画は正しく昭和二十七年、作者が高校三年のときのものだけが選ばれている。
 大映の『乞食大将』――市川歌右衛門が後藤又兵衛を演じる時代劇――はこの年の四月三日、それとどちらを観るか迷ったあげくに選んだという新東宝の『上海帰りのリル』は四月四日封切だ。あとに出てくる『ウィンチェスター銃73』が六月二十六日、そして最後に登場する『十代の性典』は翌二十八年二月五日、きちんと展開に合っている。ただ、若者の劣情を大いに刺激したというこの映画で有名になった仙台二女高出身の女優、若尾文子は実際には一つ上のはずだが、小説の若山ひろ子、芸名若山浩子は同学年という設定になっている。
 一つ上といえば一高の一学年上には菅原文太もいたわけだから、いろいろと話題を呼ぶ学年だったのだろうか。
 それにしても、四十年代になっても雑誌が一日遅れ、テレビ番組が一週間遅れだったりした仙台、映画の封切日はどうだったのだろう。
 なお、昭和二十七年を正しく示す描写は他にもある。

「……ペンフレンドでもないとすっと、ああ、わかった、わかりましたよ、多香子さん、ヘレン・トロウベル女史の独唱会の切符が手に入ったんでねぇの」
「クラシックもソプラノもわたしの趣味じゃありません。わたしの趣味は校長先生のお歌だけ……」
 他の校長たちがお義理の歓声をあげ、すぐ三味線が聞こえだした。

 アメリカのワーグナー歌手トラウベルはこの年の五月に来日しており、十八日にクルト・ウェス指揮N響と共演した〈愛の死〉の録音がキングのCD「N響の基礎を創った指揮者たち」に含まれている。どうやらそのあと全国を回り、仙台にも来たらしい。この一文を読めただけでも、当方には大いに意味があった。

 ところで、講談社文庫の方にはこの文庫の恒例として、著者自筆(一部は別)の詳細な年譜が二十四頁にわたって附けられている。これだけでも価値があり、特にこうした半自伝的作品を読むときには本当にありがたい。

十月十四日
 片山杜秀さんの吉田秀和賞受賞を祝って、版元のアルテス・パブリッシングのみなさん、連載元の『レコード芸術』関係者の方々にまぜてもらい、片山さんを囲む飲み会に参加。
 いつもながらに片山さんのお話は縦横無尽で活気に富むが、そのなかに、小学生のころから俳優の平田昭彦のファンだった片山さんが、東宝ミュージカル『サウンド・オブ・ミュージック』に出演していた平田を楽屋まで訪ねたという、さすがとしかいいようのない話がでる。
 それを聞いていて、どうやら私もその公演へ行っていることをおもいだす。
 平田昭彦は、主役のトラップ大佐と同じ軍人役だった。大佐の長女が岡崎友紀で、婚約者が沢たまきだったとかは覚えているのだが、肝心のマリアとトラップ大佐が誰かは忘れている(片山さんはもちろん覚えていて、その席で教えてくれたのに、また忘れてしまった……)。前の三人はあらかじめテレビで知っていたから覚えたのだろう。沢たまきは、母が見ていた――子供番組以外、家のチャンネル権はほぼ彼女の手にあった――『プレイガール』で知ったにきまっている。
 インターネットで検索すると、一九七五年七月の、帝国劇場での上演だったことがわかった。母と妹、仙台の従姉の四人で観にいった記憶がある。一九七五年は従姉が東京の短大に入って我家から通いはじめた年だから、矛盾がない。私が中学一年の夏だ。
 『小川宏ショー』か何かで、宣伝のために出演者が出てきたのを観て、行きたくなったのだとおもう。マリアは以前の上演では長女役だった人で、そのことを感慨深げに語っていた、なんて断片的な記憶はある。あと、客席に宝田明がきていたことも。

十月十九日
 草野進の『世紀末のプロ野球』(角川文庫)を二十年ぶりに再読。
 草野進といっても知る人ぞ知る存在だろうが、評論家蓮實重彦の筆名である。名前は「すすむ」ではなく「しん」と読んで、女性ということになっていた。
 一九八二年から八四年まで中央公論社の文芸誌『海』に連載された野球コラムを中心として、一九八六年七月に文庫化されたもの。出た直後に読んで、面白いよと人に貸したりしているうちに紛失、買い直そうと思ったら絶版になっていた――売れなかったとはおもえないので、何か別の問題が生じたのか――ので、そのまま再読の機会を失っていた。ふとおもいだして検索したら古本が安く出ていたので、購入した。
 扱われているのは一九八〇年代前半のプロ野球だが、文章はいま読んでもやはり面白い。もちろん、私自身がリアルタイムで見た選手たちの話だからという要素も大きいので、たとえば二十代の人が読んでどう感じるかはわからない。
 八〇年代前半は、広岡監督率いる西武が「管理野球」で一世を風靡した時期にあたる。というよりそれを含めて、時代の象徴が西武グループだった。文化ならセゾン、百貨店なら西武池袋、町なら池袋、鉄道なら西武線という、八〇年代。アール・ヴィヴァンとニューアカ。そしてニューアカの雄たる人物の野球論。
 また、広岡西武の全盛期と同時に、ナガシマなきプロ野球の時代、大空位時代でもあった。
 一九八〇年秋に巨人軍監督を辞任した長嶋茂雄は、十二年間の浪人生活に入っていた。オフには毎年のように、大洋や日本ハムが招聘に動いては不成立という一幕がくり返され、そのたびにファンは落胆と安堵のまじった複雑なおもいをした。
 選手としての長嶋の素晴らしさはひたすらに伝説化され、監督時代の末期には批判の的になった迷采配まで、その面白さが懐かしく回想されはじめていた。
 その過去の栄光に較べて、現在のプロ野球は衰退しつつある、管理野球など面白くない、選手の無個性化と小市民化が進み、スポーツとしての面白さを観客も忘れているのではないか、というのが草野=蓮實の主張である。
「確かに守備の上手な選手ではないが、中継プレーに入ったときのアイルランドは、的確かつ大胆な動きでわれわれの目を楽しませる。それに反して、巨人の篠塚や大洋高木の場合は、プレーの基本には忠実でありながら、その動きはいかにも官僚的で攻撃性を欠いているのである。つまり、アイルランドはあくまでベースボールをしているのだが、篠塚や高木はたかだか守備をしているにすぎないのだ。それは、三塁手の長嶋がいつでもベースボールをしていたのに、原辰徳はいまのところ守備しかしていないというのと同じことだ。守備の着実さという点でなら、原は確かに良い三塁手である。にもかかわらず、彼よりも弱点の多い中畑がサードを守ったとき、そこで演じられるのが守備ではなくベースボールであるという点が重要なのだ」
 ここで「ベースボール」という言葉を一種特別な輝きあるものとし、平凡善良な日本選手がやる「野球」と区別する論法は、玉木正之がより通俗化した形で踏襲し、テレビや新聞といったマスコミに出ない草野に代って、各所に登場して広めたから、むしろ玉木の言説として憶えている人も多いのではないか。
 この主張は二十年の歳月で陳腐化しているが、それでもなお草野の文章には、独自の魅力がある。たとえば『80年代のベースボールは二宮尊徳系ではなくサラ金逃亡型でなければならない』という見出しの箇所。
「修学旅行的な平均主義を疑うこともない増田明美の二宮尊徳的な選手像がスピード走法の前に崩壊するとき、日本のスポーツ界は初めて新たな世界を獲得するだろう。ここに来てにわかにスピード感を増したかにみえる佐々木七恵の、あのサラ金を踏み倒して逃げているみたいなせっぱつまった走り方こそが、われわれにとっての真の希望の星なのだ。
 (中略)福本=高橋(慶)的な一番打者は原理において増田系であり、田尾=松本型は佐々木系なのである。前者は、川上V9野球の高度成長的なイデオロギーにつらなるものだが、小柄でも駿足であればチームの優勝に貢献しうるというその耐久レース的な発想は、スポーツというよりは権力維持のための戦略にすぎない。
 柴田の赤手袋を起源に持つこの発想は、小兵が図体のでかい連中を翻弄するという、太平洋戦争期の抽象的な倫理を体現しつつ、十九世紀的な分業主義と戦後日本を矛盾なく統合する反動的なイデオロギーなのだ」
 この論理が本当かどうかはともかく、「サラ金を踏み倒して逃げているみたいな」とか、読んでいて愉しい。

 しかし一方、八〇年代前半のプロ野球は、現在ではもはや想像しにくいほど社会的関心度も高く、まさに国民的娯楽だったのだと、あらためておもう。
 ドラフト制度が戦力の均等化をもたらし、フジ系の『プロ野球ニュース』が巨人戦以外の試合のハイライトを積極的にとりあげたことで、他チームの選手の知名度も大きくあがった(これらは一九七〇年代後半から進行した現象だから「昭和五十年代」でくくるのがより適切かもしれないが、誰かがいうように、東京五輪以後の日本は、西暦でくくる方が気分に適う)。巨人一チームに関心が集中したそれ以前が、清貧とひたむきさの世相の反映だったとすれば、富の分配がある程度すすみ、一億総中流化の幻想が広がった時代にふさわしい水平化だった。
 その巨人とて、独占力が相対的に落ちたというだけで、人気は凄かった。ウィキペディアによると、第一次藤田監督時代(一九八〇~八三年)の巨人戦の中継視聴率は二十五・五%、直前の第一次長嶋時代(一九七五~八〇年)の二十三・二%、直後の王時代(一九八四~八八年)の二三・九%よりも高く、特に一九八三年には平均で二十七・一%に達し、一九六五年の調査開始以後、歴代最高を記録しているという。十%を切る現代では夢の数字だ。
 江本孟紀の『プロ野球を10倍楽しく見る方法』が二百万部の大ベストセラーになったのも、一九八二年である。
 この人気は軽薄で偽りのものだ、と草野は批判する。
「テレビ中継という奴は、ゲームの博物館化にほかならず、滅亡のまぎれもない予兆なのだ。プロ野球をめぐるおしゃべりばかりが盛んな現状を、プロ野球人気の高まりと錯覚するのはやめにしよう」
 この視点から『世紀末のプロ野球』というタイトルになる。
(この項続く)

十月十九日(続き)
「プロ野球は二十世紀とともに滅びる。とうてい二十一世紀まで生きのびえないだろう。江川卓が四十五歳の誕生日を迎える二〇〇一年、ベースボールはもはやスポーツとしては存在しえなくなっているのではないか」
 ここに江川卓の名がある。小市民化の進む、物語化の進むプロ野球のなかで、そこに安住できない貴重な日本人選手として、かれはくり返し称賛される。
「江川が、たかだかリーグ戦の試合に一つ余計に勝つことを目的に生きている人間でないことは明らかだろう。ところが王貞治は、一つでも多くホームランを打つことに賭けてきた律儀な男にすぎない。こういう男を見ると、江川はからかいたくて仕方がない」
 落合博満も高く評価されるが、客のこない川崎市民球場のロッテの選手落合よりも、巨人にいる江川は重要度が高い。
 ここで、江川は東京ドームでは投げていない、ということをあらためておもいだした。落合がその後巨人の四番になって、原に代って活躍したことも。
 また、この本が扱う最新のシーズンは一九八六年。桑田と清原、野球選手であると同時に熱烈な巨人ファンの関西人という、最後の昭和野球的スターが新人だった年である。昭和野球とは、是非も好悪もこえ、巨人中心が制度化されていた野球のことだ。『世紀末のプロ野球』もまた、そのシステムの中にある。

 以後のプロ野球の変化は小さくない。
 東京ドームはじめ、球場が次々と建てかえられて大型化した。甲子園のラッキーゾーンは撤去、圧縮バットも禁止。時間切れ引分も廃止され、いったん無制限になって、現在の十二回引分に落ちついた。長嶋巨人の復活とともにフリーエージェントができ、ドラフトも骨抜きになった。一方、松井や上原のように桑田や清原とは異なる、巨人ファンではない選手が巨人を支えるようになり、また野茂をパイオニアとして、イチローや松井など、大リーグに舞台を移して成績を残す選手も出現した。そして、片道切符しかなかったプロとアマの関係にも、軟化がはじまった。
 これらには、当時の論法でいう野球を「ベースボール」に近づけるための革新(草野が提言した内容も多く含まれている)もあれば、巨人中心制を維持するための反動も含まれている。

 この本の中にあるのは、そのまえの八〇年代。小さな球場で圧縮バットを振りまわして、本塁打が量産された。
 一九八五年と翌年の、バースと落合両選手の二年連続三冠王は、不滅の偉業であることには間違いないが、二人の本塁打の合計が二百本を超えるのは、当時ならではのことだろう。
 本塁打礼賛は『プロ野球ニュース』で六試合の全本塁打を連続で映す「今日のホームラン」が人気コーナーだったことにも、よくあらわれている。打者と打球の映像の背後に流れていた音楽をいまでも覚えているくらいだから、私もある種の快感とともに、このコーナーをかなりの頻度で観ていたはずだ。
 『世紀末のプロ野球』は、いかにも当然ながらこの傾向を嫌う。
「とりわけいけないのは、ホームランというやつだ。これには、どんな人でも、ついすっきりした気分になってしまう。爽快な一打だの豪砲一発だのといったあからさまに性的な比喩がアナウンサーによって口にされ、スロービデオが何度も同じ光景を再現し、一、二塁間ではねたりガッツポーズを示したりする打者まで見せたりするテレビジョンが、ありもしない爽快感を誇張してくれるからだ」
 「今日のホームラン」は、その贋の爽快感のエキスだけをきわめて手軽に、短時間で味わえるものだったから人気があったのだが、それは球場で実際に体験するものとは別だ、と草野は続ける。
「球場で見ている者だってそりゃホームランには興奮する。だがその興奮は、あっ、どうしようという不意に言葉を奪われた体験からくるものだ。打球を目で追っている者に、ガッツポーズをする打者の姿なんか見えはしない。ただ、プレーが自分を置いてけぼりにして勝手に弾んでしまったことに興奮するだけなのだ。それは何よりもまず、驚きであり、美しさなのであって、射精産業が満足させてくれるスカッとした感じとは異質の体験なのである。ボールがわたくしたちを置きざりにして、時間と距離を超えてしまったときのとり返しのつかない過失を犯したような感じ、これは決して人生の役には立たない。ちょうど、試験の朝に寝すごしてしまった夢のように、ホームランは本質的にはとり乱すしかない困ったことがらなのである。少なくとも、球場で見ている限りは」
 柔道の一本勝ちをおもいだす。私のような素人が生中継で見ている場合、投げ技や足技の一本はまさに「プレーが自分を置いてけぼりにして勝手に弾んでしまった」状態である。あとで観るときは、一本にいたるまでの両者の勢いと動作を素人なりに分析しながら眺め、その結果として評価し、それが勝敗を決定づけたという意義を大いに加味して「ありもしない爽快感」をかみしめる。
 置きざりにされずにかみしめさせてもらう、それができるのがテレビ桟敷の醍醐味である。草野のように頭がよいわけではない私や他の多くの人々は、二十世紀最後の三十年間を全盛時代とするテレビにお膳立てしてもらって、それを試合の勝敗や通算成績と組み合わせ、色々と勝手におしゃべりすることで、プロ野球という国民的娯楽を愉しんでいたのだ。
「テレビ中継という奴は、ゲームの博物館化にほかならず、滅亡のまぎれもない予兆なのだ。プロ野球をめぐるおしゃべりばかりが盛んな現状を、プロ野球人気の高まりと錯覚するのはやめにしよう」
 そういう時代だからこそ、『世紀末のプロ野球』は逆説として面白かった。
「プレーは、選手たちからあらゆる言葉を奪う。長嶋茂雄がこれほどの話題となったのは、彼がプレーをやめて監督になったからだという事実を忘れてはならない。選手としての長嶋は見る者にため息をつかせることしかしなかった」

 私の大好きな文章をもう一つ引用。
「ただ、いったん勢いづいてしまったチームの選手がどんな振舞いを演ずるかだけはよくわかる。ドサクサにまぎれて火事場泥棒のような真似をしても許されるはずだという妙な自信から、涼しい顔で大胆なことをやってのけるのだ。V9時代の巨人の土井が得意としたサード盗塁などがそれである。(中略)土井の場合は伝染性を帯びていて、それをきっかけに高田が滅茶苦茶にファウルを打ち始めたりしたものである。V9時代のジャイアンツは、こうした勢いだけで勝っていたのだ。別段選手の技術が高かったとか、みんなが優れた才能の持ち主だったというわけのものでもない。何しろOとNがいたのだから、残りは火事場泥棒に徹していればよかったわけだ。
(中略)土井、高田、柴田、黒江、国松、末次、等々、どれをとっても、この程度の選手はいま、どこのチームにもごろごろしているだろう。要は、彼らが、打率だのホームラン数だのよりも、火事場泥棒的な振舞いの方に楽しみを見出しえたというだけの違いなのだ。ドサクサにまぎれての盗みの快感だけで彼らは生きていたのであり、いったんチームが勢いづくやいなや、彼らは無邪気な盗賊集団と化した。そんなとき、みんなして同じものを盗んでもつまらないから、おのずと専門分野がきまってくる。『哲』のカーテンの川上野球とは、火事場泥棒たちの特技を管理していた野球にほかならない。チームプレーとは、何のことはない、人の弱みにつけこんだ盗賊たちの連繋プレーなのである」
 本当かどうかは知らないが、V9時代の巨人野球がこうしたものだったとしたら、八〇年代の西武よりずっと面白かったろうし、巨人中心制も当然だろう。

 前述のように文庫本は絶版なのだが、二〇〇四年に蓮實重彦名義で『スポーツ批評宣言あるいは運動の擁護』が青土社から出ているので、おそらくは多くがそこに再録されているのではないか。
 しかし私はそれを読む前に、文庫の安原顯の解説(もともと『海』に連載を依頼したのはこの人だそうだ)に、
「ロバート・クーヴァーの野球小説『ユニヴァーサル野球協会』なんてメじゃない面白さ」
とあるのを契機にして『ユニヴァーサル野球協会』を再読することにする。
 どっちが面白いかの判断は安原に任せるとして、草野とはまさに真逆の視点からプロ野球の魅力を見つめた、しかし同様に説得力の大きい作品だった、という記憶があるからだ。

十月二十八日
 新国立劇場で《リゴレット》を観る。
 指揮、歌手の組合せなど、もう一つチグハグな印象だったが、そのせいか、これまでこの作品を観るたびに感じていた疑問が、今回はいっそう強まった。
 オペラパレスのように広い舞台でかけるべき作品なのか、ということである。
 歴史的にみると、初演されたヴェネツィアのフェニーチェ座は座席数千五百だったから、小さい劇場ではない。現代でもメトロポリタン歌劇場のような巨大な空間で、さかんに上演されている。
 にもかかわらず、ヴェルディはこれを中小の規模の劇場や、旅回りの一座が上演することを第一の目的として書いたのでは、とおもえてならないのだ。
 ソプラノ、テノール、それに座長的なバリトン、この主役三人が客を沸かせることができれば、あとの歌手はどうとでもなる。マッダレーナ役のメゾはチェプラーノ伯爵夫人とジョヴァンナも兼ねられる。主役三人以外の場面は少なく、上演時間も短め(ただし三人の負担が重いためか、休憩は最低二回必要になる)。
 こうした中戦車的性格というか、いわば中量感は、二年後に同じ歌劇場のために書いた《椿姫》にも共通する。しかしあちらでは二つの夜会の場面で、合唱と独唱の効果的な対照や、バレエ使用で変化と広がりを感じるためか、大きな舞台での上演に無理がない。対して《リゴレット》は違う。合唱の扱いが簡素すぎ、宮廷といいながら、大人数の存在、さまざまな立場の思惑がザワザワとうごめく喧騒が、感じられない。
 いうまでもなく、イタリアの小国が舞台なのは当局の検閲をかわすためで、元になったのはユゴーの、フランス国王とその宮廷を扱った戯曲だ。だからその宮廷のイメージは、けっして小さくないはずだ。似たような理由でやはり設定を変えた《仮面舞踏会》の上演では、舞台を植民地アメリカから本来のスウェーデン宮廷に戻す演出がよくある。同様に《リゴレット》のマントヴァ公をフランソワ一世に戻す手もあるはずだが、そういう話をあまり聞かないのは、この作品の音楽上の宮廷が、とても王室のそれとは感じられないからではないか。
 《仮面舞踏会》ではズボン役の小姓のコロラトゥーラなど、独唱と合唱のアンサンブルの構成にグランド・オペラの手法を踏襲したため、新大陸よりも旧体制の宮廷の方がしっくりくる。《リゴレット》は、そこがお安くできているのだ。二十年くらい前にENOで、禁酒法時代だかマフィアだかの話に置きかえた演出が好評だったのも、その方が王室よりこの音楽にはまるからだろう。
 写実的演出となると、よほど手間と金をかけ、映画的なモンタージュを効果的に用いないかぎり、《リゴレット》の宮廷の場面は、広い空間をもてあます。
 以前、三島由紀夫が自作の『鹿鳴館』上演について語った言葉をどこかで読んだのをおもいだした――といっても出典が確認できず、『評論全集』四巻をざっと見ても見当たらないので、勘違いか、別の作品の話の可能性もある。そんないい加減さをお断りした上で述べると、
「もともと『鹿鳴館』は小さな劇場で初演された芝居だった。狭い舞台に人をぎっしりつめて、無理矢理舞踏会をやったから雰囲気が出たので、大劇場の広い空間でやると、どうも間延びがする」
というような内容だった。
 《リゴレット》には、この意見がそのまま当てはまる気がする。小さな舞台こそふさわしい。宮廷の場面は、限界まで小さくすることで初めて、逆に豪奢なフランス王室のそれさえも、想像させることが可能になるかも知れない。一方、終幕の、名旋律と嵐の音楽に彩られたドラマの凝縮感も、余計なものをそぎ落としてこそ生きてくる。五人の距離が近ければ近いほどいい。

十月三十一日
 拙サイトの「らいぶ歳時記」九月分を掲載したのが二〇〇六年十月。それから二年も経ってしまったが、ようやく十月分を完成させて掲載した。
 九月分よりも五割増くらい、正確に数えてはいないが百五十アイテム以上あるので、金にならない自己満足のための作業なのに、三日もかかってしまった。
 おおよそのテキスト・データは普段からつくってあるのだが、欠落や訂正にコメントの清書、ジャケットの用意などに時間がかかるのだ。
 それにしてもここ半年は一九五四~五五年の音源に関心を向けていたため、久しぶりに調べだすと新鮮に感じる。
 十月はアイテム数に比例して事件が多い。音楽では筑摩書房の世界音楽全集のソノシートの話、宝塚、リヒテルのアメリカ・デビュー。音楽以外では映画『日本の夜と霧』公開と打切、浮世亭夢若自殺事件、栃錦断髪式、浅沼稲次郎事件、ワールド・シリーズ、日本シリーズなどなど。DVDの充実で話も増える。一九六〇年話をどこかに書いているときなら「これは原稿の方に使おう」などと節制してしまうのだが、そうでない今は、ついコメントにすべて書きたくなる。
 歳時記にまとめることで発見する事柄も少なくない。指揮者ロジェ・ワーグナーがフランス人であることとか。またジャズはクラシックほど網羅的に調べていないので、データの検証中に別の盤の存在がいくつも見つかる(重要なものや日本録音を除き、ジャズは原則的にライヴだけにしぼっているが)。今回もいくつか注文したので、到着次第追加の予定。
 しかし今回最大の発見は、いちばん下の欄のラテン音楽、『ティト・ロドリゲス・アット・ジ・パレイディアム』の会場、パレイディアムのことだ。
 いままできちんと調べたこともなく、同名のホールがロンドンやハリウッドにあることもあって、「大きめのホールなのだろう」程度に軽視していたら、なんとこれがメトロポリタン以前のニューヨークの歌劇場、「アカデミー・オブ・ミュージック」のことだったとは。
 四千六百人も入るのにボックス席の数が足りず、頭に来た金持がメトを建てる原因になった建物。それが名前を変えてパレイディアムになっていたのだ。
 メトの一座は創設以来ブルックリンにあるアカデミー・オブ・ミュージックに客演していたが、最後の公演は一九三七年、その後に改称して、七〇年代にはロックがメインとなった。
 八〇年代には磯崎新の設計で大改装され、大型ディスコとして有名だったそうだが、ディスコ文化には疎外感しかない私では、そんなこと知るよしもない。

 それにしてもおもうのは、この歳時記の原型は一九九四年にHMVの店頭で配った『はんぶる』なのだが、十五年前のそれに較べて何より異なるのは、日本国内の話題が大きく増えたこと。
 あのころは日本の音楽シーンへの関心なんて、自分にはほとんどなかった。顔は黄色いのに中身は白い、バナナ型日本人そのもので恥ずかしい話だが、言い訳すれば、こうした西洋志向は、それまでのクラシックのレコード界の大方に共通した気分だったとおもう。
 片山さんの登場や、タワーレコードの「Jクラシック」コーナーの成功もあって潮流が変わったのは同じ時期だった。私も「はんぶる」を書いていく途中で、N響の世界楽旅や近衞秀麿の存在に目がいき、どうやら色々と面白いらしいことに、やっと気がついたのだった。

十一月八日
 午前中に早稲田大学のエクステンションセンターのオペラ講座、午後に音楽同攻会主催の講演会。二毛作の一日。

十一月十日
 ジャパンアーツの創立者、中藤泰雄会長の喜寿を祝う会に招かれ、ホテルオークラに行く。自伝『音楽を仕事にして』(ぴあ)をいただいて帰る。
 一九八〇年代半ばの数年間、ジャパンアーツでアルバイトをしていた。大学を留年しながらフラフラと、親不孝な日々を送っていた時期である。
 チケットの電話受付係の一人だった。ちょうどチケットぴあが一九八四年に大規模なプレイガイド事業を開始、販売の形態が変化していく前後だが、インターネット販売はまだ夢の彼方、メインは主催者の事務所の電話受付だったのだ。
 当時ジャパンアーツは、一九八一年の新芸術家協会の倒産後、ここが一手に引き受けていたソ連の音楽家を引き継ぐことに成功し、もともと強かった東欧関係に加えて規模を拡大させつつあった。日本人演奏家も積極的に扱っていたが、ジャパンアーツといえば共産圏、というイメージがあった。
 積極的行動をほとんどしない植物的人間なので、このバイトも何となく入り込んでしまう形ではじめた。きっかけは一九八三年の大韓航空機撃墜事件だった。

 一九八〇年代の前半、モスクワとロサンジェルスの両五輪のあいだの数年は、東西関係が特に悪化した時期だった。
 そのさなかの一九八三年九月一日、アンカレッジからソウルに向う大韓航空の旅客機が航法ミスでソ連領空を侵犯、樺太付近で戦闘機に撃墜され、日本人二十八人を含む二百六十九人が死亡した。これが「大韓航空機撃墜事件」である。
 折悪しくジャパンアーツは直後に「ロシア・ソヴィエト芸術祭」と銘打って、ボリショイ・バレエなどソ連の音楽家を二か月にわたり招くことになっていた。当時の状況は中藤さんの自伝に詳しく述べられているが、それによると政治的圧力こそなかったものの、右翼の政治団体などから「人殺しの国の芸術祭など中止しろ」といった激烈な抗議を受けたという。街宣車が事務所前で大音量の抗議演説をぶち、事務所内にも押しかけた。
「抗議活動はひと月以上にわたった。僕の自宅の前に汚物が撒かれたり、火のついた紙が置かれるなどの厭がらせもあった。椅子や机を蹴り飛ばして凄む連中のおかげで、事務所はさんざんな有様だったが、社員たちは団結し、よく頑張り通してくれた」と中藤さんは書いている。
 さらに芸術祭が始まると今度は開演前の会場での全員黙祷を強要し、従わなければ爆弾を持ち込むと脅してきた。
 ジャパンアーツ側はこれらの要求に一切屈しなかったそうだが、公演の安全は確保しなければならない。自伝では触れられていないが、早稲田時代に地方で左翼活動をしていて右翼に刺され、入院した経験をもつ――そのとき懸命に看病してくれたのが、最初の奥さんだったという――中藤社長(当時)だから、楽観は許されないと考えたのではないか。
 芸術祭の始まりは、ボリショイ・バレエ団の横浜公演だった。このとき私は音楽同攻会(音同)の先輩の紹介で、会場内でオペラグラス貸出のバイトをしていた。ジャパンアーツ側からみると、出入りの業者の一人ということになる。
 爆弾という脅迫があっただけに、会場は警察が全面的に警備し、ものものしい雰囲気につつまれた。七〇年代の赤軍派による爆破テロの記憶が、まだ生々しい時代だったのだ(同じ年の春の神原音楽事務所によるメータ指揮イスラエル・フィル公演も、パレスチナ・ゲリラ側らしき爆破予告が入ってひと騒動になり、音同の学生が手伝にいっていた)。
 入口では持物検査が行われた。そして神奈川県民ホール前の、幅の広い半円形の階段の最上段いっぱいに、盾を手にした機動隊が一列に並んで日差しを浴びる光景は、頼もしさと異様さがないまぜになって、いまだに目に焼きついている。
 警察は交通規制をしいて街宣車がホール前に入れないようにしたが、敵もさるもの、大量の自転車を用意したとか、本気とも冗談ともつかぬ噂が流れた。「すげえや、右翼の銀輪部隊だ」と感心したが、現代の山下大将は結局こなかった。
 それやこれやが一段落したとき、ジャパンアーツの人から、次の東京公演の警備の手伝いに学生をあつめてくれと声をかけられた。どういう情報があったのか知らないが、NHKホールでは爆弾の危険がなく、警察は表に出ないことになったらしい(お客に余計な心配を与えたくないという事情もあったろう)。そこで音同の仲間やら友人やらに声をかけ、十五人ほどで参加した。
 爆弾はない代り、街宣車はNHKホール前まで入り込み、露助の革命踊り(なんじゃそりゃ)など見るな!と叫んだ。後輩がおもわず苦笑いすると「何がおかしい!」「笑うとは何事か!」と即座に集中攻撃を浴びた(相手のこうしたスキを一瞬も見逃さずにそこへ殺到するのが、こういうときの戦闘法なのだろう)。我々が相手を刺激したのでは本末転倒だから、「あいつは右翼の人の目に触れないようにしよう」と部署を交替させられたその男はいま、横浜で弁護士をやっている。

 どうにか無事に終り、その後もオーケストラの楽器搬入などを手伝ううちに、事務所の電話受付係に加えてもらった。当時の事務所は市谷本村町、自衛隊の駐屯地隣の市ヶ谷会館の向い、幽霊が出るという噂で有名なビルにあった。
 一九八三年は、二十歳の私が急に二十キロも太って、痩せっぽちからデブに変身した年、初めて行ったヨーロッパで虫歯の犬歯が折れて、以後長く歯抜けのままになった年だが、今からおもえば、三谷礼二さんにお会いしたことやこのバイトをはじめたことなど、現在につながる学校外の関係、社会との関係が生れた年でもあった。もちろん自身では、何かを選択しつつある自覚などなかったが。
 キャンセルやら変更やら、今も昔も外来演奏家には色々なことが起きる。八六年のムラヴィンスキーの来日中止や、カガンとグートマンとの室内楽という触れ込みで来日したのに、一人ずつとのソナタしか演奏しなかったリヒテルなど。これ以外にも当日に曲目を発表するとか、東京より北の町でしか演奏したくないとか、リヒテルは毎回お騒がせだった。
 当時ジャパンアーツは原則的に払戻しをしなかったので、電話番はこうした変更のあおりで仕事が増えることもあったが、手に負えない相手は社員に回せといわれていたから、気は楽だった。
 一九八五年にはブーニン・ブームがあって、バイトも大忙しだった(中藤さんの自伝にはブーニンのブの字も出てこない。よく知らないが、よほどの事情があるのか)。翌年にキーシンも来た。アントニオ・ガデス舞踏団の初来日も新宿文化であった。やたら回数が多いのを不思議に思っていたが、それがガデス側の条件だったと、この自伝で初めて知った。
 そこにある「八〇年代半ば当時、ジャパンアーツはまだ『スポンサーを探す』ということに慣れていなかったが」伊勢丹が見つかったという一節を見て、そういえば、スポンサーつきの冠公演が一気に増え始めたのは、ちょうどこのころだったと納得する。
 開催国の巨額の持ち出しが当然だったオリンピックが、ロス五輪でスポンサーに出資させて大儲けしたのを契機に変質したのも一九八四年。頑強なアマチュアリズムも崩れ始めて、イヴェントの広告化が始まる時期だったのだ。
 そしてジャパンアーツは一九八八年にメトロポリタン歌劇場を招聘し、西側に弱いという印象をくつがえす。

 当時、中藤さんとは最寄駅が同じで、東横線の中で偶然一緒になり、飲みにつれていってもらったこともある。一介のバイトながら目をかけていただいた。
 電話係のバイトを最後にしたのは一九八八年の春だった。家でレコードを聴くのとはまるで異なる、音楽が生れる場所の活気に主催者側から立ち会う経験はとても面白かった。だが、興行の現場と自己の志向とのズレに気づいていたし、一方、社会人としての覚悟はまったくできていなかったし、しかし、親のスネをかじる日々には終りが近づいていた。
 自伝を拝読して、満州からの引揚者として苦学された中藤さんに較べ、同じ早稲田の後輩でありながら、俺のは何とお気楽人生かと、呆然とするばかり。

 パーティではバイト時代の社員さんはじめ、懐かしい方に多数再会できた。
 中藤さんの末永きご健康とご多幸をお祈りし、これまでのご縁に感謝。

十一月十一日
 音同OBの同級生二人と飲み会。
 一年に一度くらいしか顔を合わせないが、気のおけない同士であることは変わらず――むしろ年をとってからの方がそうなってきている気がする――、集合から解散まで、五時間ひたすら馬鹿話。話題に出たのはこんな内容。
 まずは給付金。どうせこんなくだらないことをするのなら、給付法も「現金つかみどり」にしてみたらどうか。
 区役所前の駐車場に透明の箱置いて、穴から手突っ込んで、五百円玉をとれるだけとる方式。「手の大きい人には高額所得者が多い」という学説を東大医学部につくってもらって、穴の大きさは小さめに。つかみすぎて、穴にひっかかって抜けなくなる奴(まるで猿だ)とかの狂態をみんなで眺める。
 海外に拠点がある一人は、その時期だけ帰国しようかという。ならば向うで一時的に里子をもらってきて、二万円ずつ日本政府からもらい、手間賃として本人に二割払うというビジネスはどうか、なんて不謹慎な話も出る。
 さらに、この男には生れたばかりの一人娘がいるのだが、久世光彦の『一九三四年冬 乱歩』に出てくる「梔子姫(くちなしひめ)」みたいに育てみたら、とかとんでもないことを言っている奴もいた(私ではない)。
 父親も「俺はいいけど、女房がうんとは言わないだろう」と答える。
 ま、こんなひどいことを言いあえる関係は、無二のものにちがいない。

 続いて、昔流行ったローラーゲームの話。東京12チャンネルでやっていたころ、「番外地」といわれた12チャンネルの最高視聴率番組だと司会の土井まさるが叫んでいたとか、憶えていなくてもいい細部を一人が憶えている。
 ウィキペディアで見てみたら、次の記述が可笑しかった。
[引用始め]
 米国で1960年代から流行し、盛んにテレビ中継された。しかし、米国での市場調査の結果、このスポーツのファン層が、購買力の殆どない最低所得者層であることが分かり、やがてスポンサーが離れ、テレビ中継は下火になっていったが、現在でも一部に根強いファン層は存在する。
[引用終り]
 なんというか悲惨。

十一月十六日
 小学校のクラス会。うちの学校は実験校的な性格がつよく、まったくクラス替えがなかったので、全員六年間一緒だった仲間たち。
 仕事に多少の裁量が利くようになり、母親をやっている人も子供が大きくなって手がかからなくなってきたのか、出席率高し。もう数年たつと、親の介護でまた動けなくなるかも、とも。

十一月十八日
 オーチャード・ホールでロッシーニ・フェスティヴァルの《マホメット二世》を観る。
 イスラム・トルコの精強な軍隊によって、脆弱なキリスト教ヨーロッパが敗れていく。こういう、自分たちが粉砕される物語をつくるというのは面白い心理である。滅びの美学なのか。
 しかもトルコ軍は強いが、野卑な蛮族ではない。統制のとれた立派な正規軍であり、かれらを率いるスルタンが、明晰な頭脳と広い度量を持っている点に特徴がある。絶大な権力を握る専制者で、王としての天命に精励忠実だが、人間性は豊かなのだ。対してヨーロッパ勢は烏合の衆で、指揮官は個人としての勇気はあっても、統率力と作戦力は平凡である。
 これはアラモ砦の物語に似ている。サンタ・アナ率いるメキシコ軍が、きらびやかな軍装で揃えた大兵力の正規軍(ジョン・ウェインの映画では、やはり軍律厳しく紳士的な近代的軍隊)なのに対し、アラモ守備隊には三人の勇敢なヒーローがいながら、指揮系統はバラバラ。兵の大半は私服の民兵だった。
 これらは、欧米人の好きな物語の一つの型なのだろう。その原型は、紀元前五世紀のペルシアとギリシアの戦争で、少数のギリシア連合軍が圧倒的多数のペルシア軍を隘路の要害で苦しめて大損害を与えながら、衆寡敵せず全滅した、テルモピュライの戦いにちがいない。
 この悲壮な玉砕戦にかぎらず、これを含めてペルシア戦争を叙述したヘーロドトスの『歴史』が、その後のあらゆる西欧の歴史観、アジア観を規定したとみるのが、歴史家の岡田英弘だ。
「ペルシア軍はギリシア本土に進入し、テルモピュライの戦いで、スパルタ王レオーニダスの指揮するギリシア人の同盟軍を破って、アテーナイの町を占領した。ギリシア人の運命も窮まったかと見えた時、サラーミスの海戦でペルシア艦隊は敗れて、クセルクセース王は大急ぎでアジアに引き揚げる。このペルシア帝国に対するギリシア人の勝利をもって、ヘーロドトスの『ヒストリアイ』(研究)の叙述は終わる。
 この筋書きだけから見ても分かる通り、ヘーロドトスの『研究』の対象はギリシア人の世界ではなくて、もっぱらアジアとアフリカをおおうペルシア帝国である。彼が叙述したかったのは、ほとんど全世界を支配する強大なペルシアに対して、統一国家ですらない弱小のギリシア人たちが、絶望かと見えたその瞬間に、いかにして奇跡の勝利を収めたか、ということだったのである。
 ヘーロドトスの著書が、地中海文明が産み出した最初の歴史であったために、アジアとヨーロッパの対立こそが歴史の主題であり、アジアに対するヨーロッパの勝利が歴史の宿命である、という歴史観が、不幸なことに確立してしまった。この見方が、現在に至るまで、ずっとアジアに対する地中海世界、西ヨーロッパの人々の態度を規定してきているのである」(『世界史の誕生』ちくま文庫)

 たしかにこの歴史観、東方の強大な専制帝国に対する西欧の連合国の苦闘というパターンは、踏襲され続けている。ペルシア、フン族、イスラム、モンゴル、セルジュクとオスマンの両トルコ、帝政ロシア、ナチス・ドイツ、ソビエト、イラク。変遷しつつも、東方の貪婪で暴虐な専制国家の役割がつねに与えられる。
 西ベルリンにアメリカ人があれほど共感したのも、それが現代のテルモピュライ=アラモをおもわせたからだろうし、イスラエルという砦のような国家も、この東西対立の物語が存続させているのではないか。
 さらにいえば日露戦争も、開国して西洋の歴史観に影響された明治国家が、パターンどおりに西欧諸国の一つのごとき役割を演じようとしたもの、と見ることができるだろう。ひょっとしたらこの錯覚が、四十年後に大日本帝国を破滅させるのかも知れない。
 また、トールキンの『指輪物語』なども、まさにこの歴史観に依拠して組み立てられたファンタジーである。
 岡田は学者にしては断定が過ぎるので毀誉褒貶あるだろうし、とても鵜呑みにはできないが、この『世界史の誕生』の、時空を自由自在に翔る雄大な語り口は凄い。とくにこの西欧の歴史観の話は、強烈な説得力をもつ。

 『ヒストリアイ』に登場するペルシア王クセルクセースは、ギリシア側に上陸したあと、海陸を埋めつくす自軍の艦隊と軍団を眺め、その巨大な威容に喜びつつ、突如として涙する。
「これだけの数の人間がおるのに、誰一人として百歳の齢まで生き永らえることができぬと思うと、おしなべて人間の生命とはなんとはかないものかと、わしはつくづくと哀れを催してきたのじゃ」(前掲書より)
 勢威の頂点にあるときに、人間の限界、諸行無常の空しさを感じられる男。
 ロッシーニのオペラの皇帝メフメト二世もそうした男だろうし、モーツァルトの《後宮からの逃走》のトルコの太守セリムもそうだ。《イーゴリ公》のコンチャク汗までがこのタイプを引き継いでいる(ロシアは西欧から見れば東方だが、アジアを相手にするときにはヨーロッパの一員になれる)。クセルクセースの後裔として、人生の苦みを知るかれらの魅力に対し、西側の連中の、何と直情単純であることよ。
 こんな描きわけを、西欧の台本と音楽がやっていることが面白い。マゾヒスティックな快感なのか。それとも、西欧の絶対的優勢が確実になった十八世紀後半だから、余裕をもって過去の自らの未熟さを懐古できた、ということなのか。
 それにしても、ロッシーニが作りだす哀しみは、透明に澄んでいる。後輩のベッリーニ、ドニゼッティ、ヴェルディ、ましてプッチーニはいうまでもなく、かれらの激情とは異なる魅力がある。

十一月二十日
 十八日の《マホメット二世》に続き、ロッシーニの《オテッロ》。
 今回上演の二作品は、イスラム・トルコと戦うヴェネツィア人の物語ということで揃えてあり、前者が敗北の中の悲劇であり、後者は勝利のあとの悲劇。
 悲劇の原因となるヒロインの恋人が、キリスト教世界にとっての異物・闖入者である点は共通しているけれど、前者メフメトは外界にいるのに対し、後者オテッロは内側。外界にいる作品の場合は写実的演出、内部にいる場合は心理的演出と、ちゃんと分けてあることに納得。
 しかし指揮のクーンの、団子のような響きがかなり問題で、集中力を失いそうになる。困ったのは、上演中にある語句が頭に浮かんできてしまったこと。
 舞台の背景は一面に、打ち寄せる波と水平線、青空が描いてある。これを見た瞬間、『きけわだつみのこえ』のタイトルのもとになった、藤谷多喜雄の短歌が浮かんできたのだ。
「なげけるか いかれるか はた××××か きけはてしなきわだつみのこえ」
 ところが「××××」の四文字だけ出てこない。一幕を観ながら、ずっと気になりっぱなし。休憩になって、近くの知人でも誰でも、とにかく誰かにきいてみたくてたまらないのだが、こんなところでいきなり『きけわだつみのこえ』の話なんか始めたら、頭がおかしいとおもわれるだろう。
 どうにか衝動を抑え込み、第二幕。

 「柳の歌」から、デズデモナ殺しの場面。貴族の城館を暗示して、扉がいっぱい並んでいる。しかしそこにはやはり、青いわだつみが描いてある。
 この海と扉を見ていたら突如おもい出したのが、「親不知子不知」(おやしらずこしらず)の怪談。
 北陸最大の難所、親不知子不知。岩場を走り、岩穴に駆け込んで波から身を護り、波が引いたら飛び出してまた走る。
 必死で走って次の穴に到着すると、一人分の大きさしかないのに先客の老婆がいる。波が来たら自分は助からない。無我夢中で老婆を穴から引きずり出し、自分が入る。波が去って外に出ると、あわれ老婆は波に呑まれて姿がない。
 走っては隠れを繰り返し、やっと難所を越えて宿場に着き、旅籠に泊まる。
 そうして深夜、一人で寝ていると、外の廊下で誰かが水をビシャッ、ビシャッとたらしながら、近づいてくる足音がする。向こうの部屋の襖を開けている。
 ガラッ!「ここじゃない」ビシャッ、ビシャッ……ガラッ!「ここでもない」ビシャッ、ビシャッ……
 ……とうとう部屋の前に来た。
 ガラッ!「ここだあ!」
「ギャーッ!」

 これを思い浮かべつつ、固唾をのんで観ていると、刃物をもったオテッロがデズデモナを探して、「ここだあ!」をおもわせるそぶりをやってくれたので、ひとまず今日の公演は満足。
 帰宅後、とるものもとりあえず例の四文字を調べる。答は「もだせる」。
「なげけるか いかれるか はたもだせるか きけはてしなきわだつみのこえ」
 馬鹿話はさておき、いつまでもずしりと響く歌。

十一月二十二日
 七月十六日の日記で紹介した高田里惠子の『文学部をめぐる病い』の余熱で、一高関係の小説二冊を古本で読む。
 まず久米正雄の『学生時代』旺文社文庫版。久米は明治末年に一高に在学、同学年に芥川龍之介、菊池寛、山本有三、倉田百三など、錚々たる面々がいた。
 短編集だが、青年特有のいじけた心理を描くのがうまい。代表作の「受験生の手記」には、特にそれがよく出ている。作家本人は福島県立安積中学から一高へは無試験で推薦入学しているのだが、だからこそむしろ、不合格者の心理の襞をえぐることができたのか。並行しておきる失恋の方は、自身が師の夏目漱石の遺した娘に片思いして破れた経験が、反映されているらしいが。
 内容もさることながら、感心したのは旺文社文庫の本のつくり。一九七五年発行なのだが、巻末に二十四頁の作者と作品の解説、代表作品解題、年譜がついていて、久米正雄がいかなる存在だったのかが、コンパクトにまとめられている。装丁、表紙絵など全体の雰囲気も堅固な感じでじつに好ましい。私の学生時代、旺文社という受験専門社が保っていた堅実な印象に加えて、よほどしっかりした編集部の存在を感じさせるのだ。
 この本には、今の日本から消えた「教養」の薫りが残っていて、一九七〇年代までの書店の雰囲気が、眼前に蘇ってくる気がする。妙に懐かしく、泣きたくなるほど甘美な、けっして戻りえない風景の記憶の、そのよすが。
 ところがなぜか私は、旺文社に文庫があったことをまったく記憶していない。ウィキペディアには一九六〇年から八七年まで発行されたとあり、「内外の数多くの古典名作や純文学を中心に、旺文社らしい質の高いラインナップを揃えて」いて、「当時は旺文社文庫でしか事実上入手不能な本も多かった」という。巻末の目録からもそれはよくわかる。
 坪内祐三は、一九八〇年頃でも高田馬場駅前のいくつかの書店には、みな独自の個性があったと書いていた。そうした個性の基礎をなすのが、このように丁寧につくられた本たちだったのだろう。

 話を中身に戻すと、ここに出てくる一高はまだ本郷の向ヶ丘(向陵)にある。東大農学部と用地を交換して駒場に移るのは、昭和十(一九三五)年のこと。
 二冊目の高木彬光の『わが一高時代の犯罪』は、駒場での昭和十三年の物語。
 作者は昭和十二年に一高に入学していて、物語の主役たちと同学年。当時の校長橋田邦彦以下の教師は実名だが、物語は架空で、作者が創造した名探偵、神津恭介の推理小説になっている。作中での「わたし」は神津のワトソン的語り役、松本研三。二人とも一高生である。
 トリックは単純で、一高独特の学生生活(とそれを彩る寮歌)と、その背景の支那事変後の暗い世情を描くために、あえて推理小説にした印象が強い。
 おもな舞台は一高と、最寄りの繁華街渋谷にかけて。戦前の渋谷は怖い町の印象がつよかったと聞いたことがあるが、そのころの道玄坂上の喫茶店「白十字」や百軒店、「地上はるか」四階の高さにある銀座線ホームなどが登場する。
 道玄坂付近は、今でも古い渋谷、昔の渋谷の面影を残しているし、そこと駒場のあいだには軍人目当ての三業地の円山町と、その後背地の神泉町があり、このあたりも暗い。軍国主義の圧迫感を強調する作品の雰囲気に、この一帯特有の翳の濃さ、湿っぽさを重ねて読むと、なかなかに楽しめた。
 ところで読んだのは、一九九六年の光文社文庫版。この文庫は一九八四年開始だそうで、旺文社文庫と入れ代わるように登場した。そのとおり、いかにも八〇年代以後の軽躁な雰囲気の装丁の本で、旺文社とは好対照。

十一月二十三日
 新国立劇場オペラ研修所のシーンズリサイタル(試演会)を、小劇場で観る。
 客席の床のペンキがはがれたり、椅子もへたっていたりして、オペラパレスや中劇場より内装が傷んでいる。演劇の公演数は段違いに多いから、仕方がないのか。アングラっぽさが演劇らしくて落ちつく、という人もいるのだろうけれど。
 内容は二十世紀オペラからのさまざまな場面を、研修生が入れ代わりつつ歌っていくもの。《ばらの騎士》《メリー・ウィドウ》のような有名作も、珍しい曲もある。《つばめ》《ルクリーシャの凌辱》《欲望という名の電車》《中国のニクソン》《道楽者のなりゆき》なんてあたりは一部分のピアノ伴奏とはいえ、目にする機会が少ないので嬉しかった。
 ハコが小さくて歌いやすそうなこともあり、みんな溌剌と歌っていた。あくまで試演会なので曲数が多く、私の方は最後で少しくたびれてしまったが。
 それにしても字幕がないと、オペラとはこんなにもわかりにくいものかと、あらためて感じる。プログラムに場面解説があるが、大筋がわかっても、一つ一つの歌詞がつかめないと戸惑う。特に二十世紀作品は会話的なテンポで進むので、なおさら。
 先日読んだ中藤泰雄さんの『音楽を仕事にして』には、一九八八年の招聘のとき、渋るメトロポリタン歌劇場を説得して字幕を導入したとあった。この二十年でオペラ観客層が大きく広がったのは、何よりも字幕の力だろう。

十一月二十四日
 高木彬光の『わが一高時代の犯罪』の時代を、高田里惠子の『学歴・階級・軍隊』と『文学部をめぐる病い』を参考に考えてみる。
 物語の時期は、昭和十三年四月半ば。前年末に南京を攻略した日本軍は、徐州を制圧しつつある。
 オーストリアを併合したナチスが、ヒトラー・ユーゲントを派遣してくるのは四か月後の八月のことである。かれらは一高も訪問している。
 案内役は竹山道雄だった。「規律と清潔と服従を最大の美徳として鍛えられたかれらが」「無精な粗服をまとって底気味わるい薄笑いを浮かべてかたまっている一高生を見て、肝をつぶした」さまを描いた竹山の『空地』からの一文が、高田の『文学部』に引用されている。
 『ビルマの竪琴』の作者は当時一高のドイツ語教授だったから、理乙、つまり理系ドイツ語クラスの高木(あるいは作中の神津、松本と)と多少は縁がありそうだが、しかしそうではなかったのか、それとも他に何か理由があるのか、『わが一高』には残念ながら、学生から敬愛されたという竹山教授は登場しない。
 高木は大正九(一九二〇)年生れで、概ね学徒出陣世代(正確には少し上)、貧乏クジを引いた世代である(ただしかれは理系だから、終戦まで徴兵猶予のはず)。『学生時代』の久米正雄が明治二十四(一八九一)年生れで、明治末年から大正初期、戦争や災害と長く無縁の、世情に恵まれた時代の一高生、東大生だったのとは対照的だ。
 『わが一高』に登場する橋田邦彦校長(のちに米英開戦時の文部大臣としてA級戦犯容疑者となり、服毒自殺)は、一高に流れこむ軍国主義の濁流の象徴、自由の圧迫者として描かれる。
「日清日露の役には、極端な主戦論者であったという一高生も、今度の戦には消極的な反応しか示さなかった。それが校長には不満なのだろうか。私にはそう受け取るしか仕方がなかった」

 明治十五年生れの橋田は、日露開戦前の数年間にちょうど一高生だったから、「極端な主戦論者」の一人だった可能性が高い。その時代の一高生の気分がどんなものかは、日露開戦の明治三十七年につくられ、その後も《嗚呼玉杯に花うけて》とともに愛唱された寮歌《都の空》に、よく表れている。
 一番こそ「都の空に東風吹きて 春の吹吸をもたらせば 東台花の雲深み 墨堤花の雨灑ぐ」と歌うが、二番では「さはれ皆人心せよ 春は都にたちぬれど シベリア未だ冬にして 猛鷲独り羽を搏つ」と、暴虐の専制国家ロシアの野望に対する警戒が叫ばれる。
 五番では「其みいくさを忍びなば 其ますらをを思ひなば 熱血男児いかにして 都の春にあくがれん」と、一高生が非常時に都の春に浮かれるはずがないと宣言し、続く六番で「健児一千向陵に 基定めて十四年 朝経世の書を開き 夕降魔の剣を錬る」と、統治と軍事の両面で己を磨く一高健児の心意気を示す。
 そして九番では「北風一過浪を捲き 祖國の岸を打たん時 あはれ護國の柏葉旗 其旗の下我死なん」と、護国の鬼となる覚悟が歌われる。

 じつに勇壮な歌詞。しかし、橋田の二才下で当時まさに一高生だった、明治十七年生れの安倍能成(漱石門下で久米の先輩であり、また橋田の後任として学徒出陣時の一高校長。大正教養主義の良心というべき存在)によると、徴兵を猶予された現役の高校大学生はもちろん、卒業後の学士ですら、日露戦争に招集された者はまれだったという。
 つまり、軍人にされる可能性はほとんどなかった。だから校旗「護國旗」の下で死のうといえるのだろう。安全な立場からの「極端な主戦論者」なのだ。
 しかし四十年後の一高生、高木の数年後輩は、そうはいかなかった。かれらが一高から出征するとき、見送りに歌われたのは、あの《都の空》だった。

「ごぞんじありませんかね、この歌を!あの『都の空』を!
 これは一高の寮歌です。この学校の生徒が招集を受けて、筆を剣にかえて学園を立ち去るとき、友達がこの歌をうたって見送ったのだそうです。若い人たちは何者かの目に見えない大きな手によってさしまねかれるかのように、次々と出てゆき、一ころ、この歌は朝に夕べに校内にたえることがなかったといいます。この学校にいた一人の学生が、前に部隊はちがうけれども同じ町にいたことがあって、教えてくれたのです。これはいかにも若い人を見送るにふさわしい曲です。はでな、そして悲しい、心をゆるがすようなリズムです。(中略)日本でも、戦争中に、あの俗な流行歌のような軍歌などではなく、この『都の空』のような名曲がもっと人の口にのぼるようだったら、全体がもっと品格のある態度でいることができたろうに、と思いますね。
 われわれはこの歌をうたいつづけました。そうして自分たちのくるしい若い日々を嘆きながらも、なお慰められ、ふるいたつ力を与えられるような気がしました」
(竹山道雄『ビルマの竪琴』新潮文庫)
 《ああ玉杯》は知っているが、《都の空》は記憶にない。ネットで聴けるので聴いてみたが、いかにも寮歌風のいがらっぽい歌で、「品格のある」名曲とは私にはおもえない。まあ、寮歌とは何よりも歌うためのもので、聴くものではないのだろう。
 ともかく一高出身の教授、竹山は絶賛する。そうして、名作『ビルマの竪琴』のクライマックス、ビルマ僧が《仰げば尊し》を弾いて、自らの正体と別れを暗示する感動的場面の直前、一高出でもない兵士たちに、これを歌わせるのだ。
 面白いことに、市川崑の映画版では、別の場面の《ああ玉杯》は使われているのに、《都の空》は使われていない。水島を呼び戻すためにかれらが歌うのは、《信田の藪》(作詞野口雨情、作曲藤井清水)の、この部分だ。
「信田のお背戸の ふるさとで
子供にこがれた 親ぎつね 親ぎつね」

 別れた子を慕う、信太狐の葛葉の母心を歌った歌詞で、日本の父母をおもいだせ、と呼びかけている。目的を考えれば「若い人を見送る」歌《都の空》よりもこの場面にはふさわしくおもえる。
 このあたり、映画は原作に対し批評的に臨んでいる。けっして批判ではない。ただ、水島の選択が、凡俗の立場から見れば独善的なヒロイズムになりかねないことを、《都の空》を《信田の藪》に置きかえることで示すのだ。
 この批評性は、ラストでも明確に示される。語り役の兵士は、原作にない心配をするのである。
「そのときだって、水島のことを考えていたわけではありませんでした。私の考えていたのは、水島の家の人が、あの水島の手紙を読んでどうするだろう、ということでした。私は、隊長がきっと何とかうまく言ってくれるんだろうなあと、そんな変なことを、一生懸命心配していたのです」
 続いて、あかい大地を歩き去っていく水島の後ろ姿。それはビルマに置き去りにされた死者を弔う者であり、同時に、自らも帰らぬ死者となることを、父母を嘆き悲しませることを選んだ仏者の、きびしい姿である。

 一方、竹山の原作は、帰らぬ教え子がせめてそんな形ででも異国に生きていてくれれば、という切ない願いをこめている。だから独善だろうが客気だろうが、ヒロイズムとともに若者を永久に送り出さなければならない。
 父母も友も師も捨て、かれは、自由不羈の一高生は、異郷の天地に生きているのだ。そのかれを見送るのに《都の空》ほど、ふさわしい歌はない。
「東亜の天地三千里 健児飛躍の舞台ぞや」

 これを受けて「永遠の一高生」は《仰げば尊し》をもって師に答礼し、別れを告げる。
 原作は高田が指摘するとおり、たしかに学校小説だ。ここにあるのは、教師と教え子の永別の場面なのである。

十一月二十五日
 『ビルマの竪琴』の原作と映画の相違について、もう少し考えてみる。
 違いが生じる理由を想像してみると、主人公水島に何を求めるか、ということの「時差」に行きつくのではないか。
 物語の主要なテーマの一つは「帰らざる者」である。この未帰還者には、戦死して遺骸を異国にさらす死者と、かれらを弔うために居残った生者とがいる。帰らざる者の大半は前者であるが、後者である可能性も、ないわけではない。
 この物語の着想のもとになったのは、竹山の一高での教え子たちの戦死の報が届いて葬儀に参加すると、柩がない、あっても空、つまり遺骸が戻っていない状況に何度も出くわしたことだという。
 最初の一人は島田正孝といった。タラワ(米海兵隊との激戦地で、映画『硫黄島の砂』でも描かれている)の守備隊に配属され、昭和十八年十一月に五千の将兵の一人として玉砕した。新潮文庫版巻末の解説や小文から引用すると、一高時代の島田は「やや細くてしなやかな体をした美少年」で「品格の高い典雅なみづみづしい風貌」だった。訃報を耳にして竹山はおもう。
「その日は埃まじりの冬の風がつよく吹いている日でしたが、窓が鳴る音をききながら、私は南洋のおそらく絵のような青い海のほとりの椰子のしげった砂浜に、あのS君の屍が横たわっている様子が目に見えるように思え、夜遅くまで一人で昂奮していました」
 寒風が窓を鳴らす冬の部屋で、常夏の南洋の砂浜に死して横たわる美少年をおもいえがく、中年の教師。一種鬼気の漂う、悽愴な場面だ(腐女子好みの場面でもあるが、それはここではおく)。
 そうした、形見すらない葬儀に行くごとに「誰か異国の山野に伏している人々の屍を収めて、丁寧に祭ってくれる人があるといいが、としきりに思いました。できれば自分でタラワ島にでも行きたいが、と思いました」という。
 その後、未帰還兵の中に脱走してビルマ僧に化けた者もいる話を知り、その一人に弔い役をやらせるという、物語の骨組ができた。主人公の名は、住いの近くの墓地にあった戦死者の真新しい墓標の一つから借りて、水島安彦とした。
 つまり、水島もまた「帰らざる者」の一人である。ただし生存はしている。教え子も水島のように生きているかも知れないという、もう一つの切ない願いがここに込められる。
 そして、昭和二十二年から翌年にかけての雑誌連載と出版の時期の読者には、この願いに共感した人が少なくなかったようだ。
 戦後まだ数年、遺骨もないとなれば、家族が未帰還者の万一の生存を願っても不思議はない。実際、戦死公報が届いていたのに、数年をへて生還した例も少なくなかった。
 ある未知の読者からは「自分の弟は姓も主人公と同じだし、ビルマに出征していたし、性質もよく似ているしどうも他人とは思われない。弟をモデルにしたものにちがいない。しかし、本人はいまだに生死不明である。消息を知らせてほしい」という手紙がきた。ほかにもそんな手紙があったという。
 同様に、この物語をきっかけに生存を友人から期待された人に、一高での教え子だった中村徳郎がいた。
「彼の友人は『中村は生きている。きっとまだ生きている』といっているそうである。それは、『《ビルマの竪琴》を読んでそう思った』というのであるが、これをきいて私は感慨がふかかった。そういわれてみれば、中村君はそんな人だった。そして、作者は自分の空想が生みだしたものが何か事実の裏書きをされた思いがして、うれしかった」
 中村が一高山岳部時代の昭和十五年二月、学校を長く休んで消息不明なのを竹山が心配していたら、新聞に突如として三本槍雪中登攀の壮挙が報じられたことがあったという。そんな男だから、と友人たちは生存を願ったのであろう。
 竹山が創作した水島安彦は、一部の読者にとって希望の象徴となった。

 一方、市川昆監督の映画は昭和三十一年公開。撮影はその前年からで、戦後十年たっている。
 もうこの時期になると、肉親や友人がいつか帰ってくるのでは、という希望はかなり薄れていたろう。死別という現実を、粛然と受けいれる人が増えていたろう。そして、遺骨が異国で野ざらしになっている可能性が高いことに、心を痛める人が多かったはずだ。
 ここで水島は、生存の希望の象徴よりも、遺族に代って弔う人というもう一つの役割を、よりつよく期待されるようになった。
 しかし、それは立派な決意と行為ではあるけれど、自分の家族を放っておいていいのか。独善が過ぎるのではないか。ラストの兵士の述懐には、そんな感情が込められている。
 どんな姿でもいいから、とにかく生きていてくれという希望の時代は過ぎ、その行動の是非を省みる時代に、映画化の時点ではすでに入っていたのであろう。

 ところで、中村徳郎なる人のこと。
 この人は『はるかなる山河に』と『きけわだつみのこえ』の手記執筆者の一人である。『わだつみ』によると、大正七(一九一八)年生れ、一高から昭和十七年十月に東京帝国大学地理学科に入学したが、同月入営。二年後の十九年六月、フィリピン方面に向い以後行方不明(乗っていた輸送船が撃沈されたらしい)。戦死時の階級は陸軍兵長。将校や下士官になる道を選ばず、一兵卒だった。
 高田里惠子の『学歴・階級・軍隊』には「『山河に』と『わだつみ』のなかの最も有名な一節」として、昭和十九年二月十四日の中村の日記が引用されている(『文学部をめぐる病い』にも)。
「再び『ドイツ戦歿学生の手紙』を読む。何回繰返して読むも良い。ここにいて読むと殊に感銘が深い。彼らは真摯だ。塹壕の中で、蠟燭の火の下で、バイブルを読み、ゲーテを読み、ヘルダーリンの詩を誦し、ワグナーに想いを寄せる彼らは幸福である。寄せ得る彼らは」
 軍隊生活の中で「知力の低下。知性の磨消」に必死で抗している中村にとり、ドイツの出陣学徒たちは憧れであった。
 同月十一日の項には、竹山が触れた三本槍雪中登攀の思い出が出てくる。
「ストーヴが紅く燃えていた。燻んだ窓硝子を透して、静かなランプの影がこれもまた静かな、雪の舞うのを映していた。食膳に上ったパイナップルと紅茶が私たちの舌をこよなく楽しませた。快い疲れ!
 かくて四年前の今宵が暮れていったのを――限りない懐かしさをもって――黄金の夢のように憶い出す。三本槍の登攀を終ったあの日のことを」
 わずか四年で世情も生活も激変した。まさに「黄金の夢」だったろう。
 死の月の六月五日、父母への一節。
「南極の氷の中か、ヒマラヤの氷河の底か、氷壁の上か、でなければトルキスタンの沙漠の中に埋もれて私の生涯を閉じたかったと思います。残念ながら運命の神は私に幸いしませんでした」

 この日記は保坂正康の「『きけわだつみのこえ』の戦後史」(文藝春秋)によると、死の数週間前、習志野の兵営に面会にこさせた弟の克郎に「これは日本の戦没学生の手記だ」と、立会の将校が席を外した隙に手渡したものだという。
 そのとき、中村の左耳はつぶれて鼓膜が破れているらしく、丈夫だった歯も三本抜けていた。鉄拳制裁を受けたためだった。そうして「なぜもっとあの時、命がけで反対しておかなかったのか」と口にした。以下は克郎の説明。
「あの時、というのは、兄は山岳部に入っていたのですが、そうした仲間と、渋谷の道玄坂で反戦ビラを撒いたことがあるのです。それに山岳部でエベレスト登頂を目指していたこともあって、東大の寮祭のときに、時計台を登り降りするデモンストレーションを行なってあの時代への抵抗を示したことがありました。そういうことを指しているのです」
 「東大の寮祭」とあるのは一高の寮祭のことではとおもうが、どちらにせよ、山岳部、道玄坂、反戦ビラ、時計台など『わが一高時代の犯罪』と同じキーワードが並ぶのが興味深い。中村は高木彬光より二歳上だが、相前後して同時期の一高に在籍していた。登場人物の直接のモデルではないにせよ、その行動が何らかの形で反映しているのではないか。
 『わが一高』『竪琴』『わだつみ』。併せて読むと描写が立体化し、彫琢がまし、そして翳はいよいよ濃くなる。

十一月二十七日
 ドイツの仮装巡洋艦の話は、この可変日記で何度か触れてきたが、私がその存在を知るきっかけになった映画『全艦船を撃沈せよ』、とうとう三十何年ぶりかで観ることが叶った。
 アメリカの、とあるDVD屋のカタログにあったもの。どんな相手かわからないのにクレジットカードで注文するのは怖いが、もし何か起きたらすぐ破棄できるカードを使うことにして注文。
 数日で到着。この対応の速さは好感度高し。安心できそうな気になる。
「きた……」
 仕事も何も放りだし、震える手で(いやもう誇張ではない)DVDプレイヤーに入れる。再生。
 読みこまない。何度やっても。しかたがないのでパソコンに挿入してみる。やはり反応なし。またすれ違いか……とあきらめかけたが、ダメモトで中身を開くと、なんとMPEGファイルだった。いかにもなお仕事ぶり(笑)。
 で、ついに再生開始。当然日本語字幕なしだから、オリジナルの『UNDER TEN FLAGS』を観た、というのが正確か。ポルトガル語らしき(スペイン語ではないとおもう)字幕がついているので、ブラジルあたりでテレビ放映されたものか。
 問題はほかにもあった(後述)が、とにかく再会できた。やはり面白い。小学生の少年の記憶はウソではなかった。
 スタッフを見ると、制作ディーノ・デ・ラウレンティス、監督ドゥイリオ・コレッティ、音楽ニーノ・ロータなど、イタリア系ばかり。しかしキャストは米英系で、英語圏での興収をあてにした、マカロニ戦争物ということらしい。
 開幕は、一九四一年ロンドンの海軍本部(ADMIRALTY)の場面。ここはテレビで観たときはカットだったとおもう。オリジナルが約百分、九十分弱の番組枠に収めるためには三十分近くカットしていたろうから、まあ当然か。
 このカットもあってか、記憶上のストーリーと力点が異なっている。記憶ではアトランティス号艦長ロッゲ(ヴァン・ヘフリン)の人道的、騎士道的戦法が、第二次世界大戦の戦場において通用するかどうか、という点に中心があった(小学生の頭ではそれしか理解できなかった可能性もある)。
 ロッゲは、問答無用でいきなり敵商船を撃沈したり、脱出した漂流者を見捨てたりすることをしないのである。
 連合軍や中立国の国旗を掲げ、普通の商船に見せかけた仮装巡洋艦で目的の商船に接近、射程に入ったところで俄然ドイツ軍艦旗を掲げ(欧州の慣例で、戦闘行為前なら他国の旗を掲げていても国際法違犯にはならない)、隠していた大砲を瞬時に露出、威嚇射撃で停戦させる。
 そして乗組員、乗客を全員収容した上で、無人の敵船を沈める。流血を最小限にとどめ、大量の捕虜や民間人を乗せたまま作戦を続行していくのだ。なかにはユダヤ人もいるが、ロッゲはかれらも保護し、拿捕した商船に乗せて中立国の港まで送り届ける。
 この騎士道的戦法が通用するかどうかをめぐって、部下や捕虜と論争があり、結局は解放した捕虜から情報が漏れ、敵巡洋艦に補足されて撃沈される、という話だと記憶していたのだが、オリジナルの撃沈理由は違っていた。
 前述のように小学生の記憶違いなのだろうが、カットした物語の辻褄を合わせるために、吹替えのセリフをいじったからという気もする(当時のテレビでは洋画をカットするとき、多かれ少なかれセリフの改変をしていた。この手が使えない邦画では、話がとんで脈絡不明になることがよくあった)。
 監督のコレッティは『人間魚雷』『空挺部隊』などの戦争物で名を残している(いずれも未見)。その一つに『大いなる希望』というのがあって、第二次大戦で通商破壊戦を行うイタリアの潜水艦が主役なのだが、これも艦長が相手の乗組員を救助し続け、しまいには狭い潜水艦からあふれたかれらを、ボートに載せて曳航してまで助ける内容だという。私の記憶の中にある『全艦船』に近いが、そちらを見た記憶はないから、ごっちゃになっているわけではない。

 オリジナルでは、その人道主義はサブストーリーの一つに過ぎない。メインは変幻自在の戦法で敵をあざむき、縦横無尽に海を暴れ回るアトランティス号と、威信をかけて彼女を捉えようとする大英帝国海軍の、チェスをおもわせる対決の物語である。だから主人公のロッゲ中佐の好敵手として、イギリス海軍本部のラッセル提督(チャールズ・ロートン)が副主人公となる。
 ここに、独英海軍の性格の違いが象徴されているのが面白い。伝統も戦力もないドイツ海軍では、英雄的な艦長による単艦の冒険主義的行動だけが目立つのに対し、エリザベス一世の時代から世界最大の海洋国家の長い伝統を誇るイギリス海軍には、七つの海を支配する充分な戦力と、それを運用する機能的組織が存在する。いわば「点」でしかないドイツ海軍と、「面」をつくって戦うイギリス海軍。この、点対面の構図が、ロッゲ対ラッセルの対局に具現化されるのだ。
 この「面」を実現するのに必要なものは何か。情報、いわゆるインテリジェンスだ。そこには商船や軍艦からの大量の情報の集約整理だけでなく、諜報活動も含まれる。
 だからイギリス海軍は、伝統的に諜報にも重点を置いている(ジェームズ・ボンドも海軍士官だ)。この映画には、パリのドイツ西部海軍司令部に潜入したアメリカのスパイ(イギリス人でもかまわないので、これはアメリカの観客向けのサービスだろう。よく考えると一九四一年の話だから、アメリカが参戦しているのかどうか、微妙な時期だ)が機密書類を盗み出して、ようやくアトランティスを捕捉するシークエンスがある。
 もてる組織力と能力のすべてを駆使することで、ただ一隻を追いつめるのだ。その過程をラッセル提督が「狐狩り」と呼んでいるのも道理である。
 最後、アトランティス号は正体を隠したまま、イギリス巡洋艦デヴォンシャーにめった打ちにされる。あまりに無抵抗なため、疑心暗鬼にかられたデヴォンシャー号艦長は、何度も対応を本部にたずねてくる。それに対してラッセルが、
「絶対にアトランティスだ。戦闘を続行し、完膚なきまでに破壊せよ」
としぼり出すようにいう場面、七つの海の支配者の意地、という表情がいい。

 このかけひきの場面も面白いが、やはりこの映画の魅力の一つは「アトランティス」という、艦名そのものにある。
 前半は誰もその名を出さず、半ばになってようやく、その存在に気づいたイギリス側が、いまいましげにその名を口にする。そのとき、二万年前に沈んだ幻の大陸の名が輝かすロマンは、松本零士の「ヤマト」という言葉にも負けない。
 沈没直前、このまま沈めば敵は正体を確信できまい、そうなれば、
「アトランティスは進み続けるのさ」(the Atlantis so go on)
とロッゲ艦長が、炎上する艦内で不敵に笑う。この場面もまた、単艦冒険主義の意地以外の何物でもなく、ふるいつきたくなるくらいに素敵。

 じつはこのDVD、このあとのラスト数分が切れていて、ここからは再会できてなかった。一瞬呆然となったが、おもいなおせば、明日を生きる楽しみがまだ残っているわけだ。まさに
「アトランティスは進み続けるのさ」

 というわけで、映画の原作、ロッゲ艦長の回想録の邦訳『海の狩人・アトランティス』も、絶版だが適当な値段で古本が出ていたので、注文してしまう。これはこれからの楽しみ。
 なお映画の初め約十分は、ユーチューブでみられる。アトランティス号出現の場面(日本船香椎丸に偽装し、水兵が芸者に化けている)もあるから、雰囲気は伝わるだろう。ワーグナーのジークフリートや槍の動機を借りた、ロータの音楽も聴ける。こちらにはポルトガル語字幕なし。原題で検索すれば見つかるはず。

十一月二十八日
 『全艦船を撃沈せよ』との再会で気分が昂揚し、モノクロの戦争映画がもっと観たくなって、『ビスマルク号を撃沈せよ!』を中古で購入。

 これも偶然ながら一九六〇年制作。原題が「SINK THE BISMARCK」で、邦題はその直訳。『全艦船』と邦題が似ているのは、後者が真似たのだろう。日本では『ビスマルク』が一九六〇年六月十一日(先日話題にした『太陽がいっぱい』と同じ公開日)、『全艦船』が五か月後の十一月十八日である。
 『全艦船』という邦題は、直訳の「十の旗の下で」では勇ましくないからか。ロッゲ艦長の台詞に「遭遇した全ての敵船を沈めるのが任務だ」とあるから、それを採ったのだろう。
 さて『ビスマルク』。これは一九四一年五月、ドイツの超弩級戦艦ビスマルクとイギリス艦隊の死闘を描いたもの。ビスマルクは強力な武装と高速を誇る「怪物」で、対するイギリスも数隻の戦艦と二隻の空母など本国艦隊すべてを投入する総力戦となり、スケールは『全艦船』よりもはるかにでかい。
 実写と特撮をまぜた戦闘場面にも金がかかっていて、ビスマルクの怪物的な強さが巧みに演出されているので、それを相手にしなければならないイギリス側の苦慮と焦燥が、うまく出ている。
 たとえばイギリス戦艦フッドの有名な轟沈も、「たしかにこうかも」と納得する出来。弾薬庫を砲弾が直撃、一瞬おいて誘爆で大爆発、全艦が炎の柱になる過程は、一度これを見たら刷り込みになるぐらいに印象的である。
 この轟沈は、たまたま弾薬庫を直撃するという幸運(不運)によるものだが、ビスマルクを実際以上の怪物と感じさせる、強力な作用をした。その効果が見事に映像で再現されている。
 しかしスケールは違っても、ドイツが単艦冒険主義で、イギリスが艦隊運用という対照は『全艦船』と同じ。ドイツ側が最前線のビスマルクの艦内場面だけなのに対し、イギリス側がロンドンの海軍本部中心という構図もそっくり。これが両国の海戦の不動のパターンらしい。
 ただし、ビスマルク捕捉の手立てを差配しているのは作戦部長の大佐で、『全艦船』のラッセル提督にあたる第一海軍卿(日本海軍なら軍令部総長)は、かれの上役として政府への対応に専念。これは『ビスマルク』の方が史実に沿っているのだろう――その作戦部長と婦人士官との恋を並行して描いているのは、あくまで映画的演出だろうが。
 ビスマルク号の司令官リュッツェンス提督が狂信的なヒトラー信奉者で自信過剰なのは、アトランティス号のロッゲ艦長とは正反対。かなり紋切型の「ナチ」に描かれている。これは史実とは異なるらしいが、第三帝国を象徴する「怪物」の指揮官としてはこの方がそれらしく、映画的にはわかりやすい。
 この映画にはまた、アメリカの伝説的なニュースキャスター、エド・マーローが出演している。一九五四年にマッカーシー批判の狼煙をあげたことで有名な人物だ。かれが知名度を高めたのは、大戦初期にロンドンからアメリカに戦況を伝えたときなのだが、ここでその場面を自ら再現している。これは『全艦船』のテキサス人スパイと同様に、アメリカ向けのサービスだろう。アメリカ人は、とにかく自国人の姿に喜ぶものらしい。

 つよく印象づけられるのが、ここでは航空戦力があくまで補助的な役割で、戦艦対戦艦の砲撃戦主体の、大艦巨砲主義の戦争ということ。
 複葉機ソードフィッシュの雷撃がビスマルクの舵を破壊し、方向転換を不可能にして速力も激減させたことが、イギリス戦艦部隊の捕捉を可能にし、勝利に導くのだが、これはあくまで怪物の局部の弱点をたまたま突いたというだけで、胴体には何の損傷をあたえられず、直接に沈没へつながるものではない。
 航空機などその程度、脇役の殊勲賞がせいぜいというのが、この時点の世界の海軍の「常識」なのだ。航空機は旧来の水雷艇や駆逐艦同様、身軽さを利して、ハエのように巨竜につきまとうだけ。戦艦を倒せるのは戦艦のみという世界。
 半年後、ここでフッドとともにビスマルクと交戦したプリンス・オブ・ウェールズが、マレー沖海戦で日本の航空隊により撃沈されて「作戦中の戦艦も航空攻撃で沈む」ことが証明され、この常識、幻想はくつがえる。
 ここにあるのは、それ以前の世界。しかしこの世界には、物があるべき場所に収まっているような、一種の安定感があるのもたしか。でかいのは強くタフで、小さいのは弱いが素早いという、生物界の摂理に則っているからかも知れない。
 この安定感の心地よさをおもうと、戦艦大和も同じ世界にいたはずなのに、という気がしてくる。やはり単艦出撃(巡洋艦などの随伴はいても、戦艦は一隻のみという意味で。艦隊主義の日本では異例の作戦だった)なのに、一九四五年に大和が出撃した戦場は、まるで違ったものだった。
 それは雲霞のような数の、サソリのように致命的な毒針をもつ艦載機相手の、巨象の自殺行だった。これだけの戦闘の変化がわずか四年で起きたとは、あらためて考えても凄まじい。
 この最期を口惜しくおもう人が多いのか、『宇宙戦艦ヤマト』は、海の仇を宇宙でとる大艦巨砲主義だったし、二十年くらい前に大流行した架空戦記物でも、横山信義の『八八艦隊物語』シリーズなどは「八八艦隊計画がもし実現していたら」という歴史上のifに、「航空攻撃では戦艦を沈められないとしたら」という、戦術上のifをくわえてストーリーにしていた――私自身は架空戦記物が苦手で、ちゃんと読んではいないが。
 なお、映画中でビスマルクに扮するのは、イギリス戦艦ヴァンガード。この艦は、大戦中から建造されながら完成が間に合わず戦後に就役した、世界最後の新造戦艦である。
 大和よりも遅れてきた彼女には、もはや戦場そのものがなかった。一九五九年退役で翌年解体だから、大艦巨砲時代へのオマージュとなるこの映画が、最後の晴れ舞台だった。

 ところで脇役とはいっても、ソードフィッシュ、ジョン・カルショーの『レコードはまっすぐに』の初めで活躍する複葉機が飛びまわる場面はうれしい。
 以前、ある人から「あの自伝は面白いけど、初めの部分はまるでつまらない」といわれ、軍事話に興味のないクラオタなんて、クリープのないコーヒーみたいなもんだろ、と自分勝手な失望をしたことがあった――いうまでもなく、軍事話をせずとも魅力的な音楽好きはこの方を含めてたくさんいるので、いいがかりもいいところなのだが。
 私自身は、独特の緊迫感をもったモノクロ戦争映画の画面に、いよいよ心惹かれてしまった。とくにヨーロッパ製のものが観たくなる。
 だが日本では、ハリウッド製以外はDVDが少なく、あっても値段が高め。ドイツの『撃墜王アフリカの星』や『壮烈第六軍!最後の戦線』『U‐47出撃せよ』など有名作はいくつか出ているが、箱物だったりするのでためらう。『全艦船』のコレッティ監督の他の映画も観てみたいが、入手は容易ではない。
 結局、イギリス製に手を出し、「BRITISH WAR COLLECTION」なる五枚組を、アマゾンUKに注文。ポンドが久方ぶりに安く、とても我慢できなかった(苦笑)。
 日本で公開されたのは、そのうち二本だけらしい。『CRUEL SEA』は邦題『怒りの海』。北海でUボートと戦うイギリス駆逐艦の話で、なかなか評価が高いようだ。
 しかし、何よりも購買欲をそそられたのは、『DAM BUSTERS』こと『暁の出撃』。ランカスター爆撃機に特殊な跳躍爆弾をつけてドイツのダムを破壊するこの作品は、小学生のときに一度だけテレビで観たことがあり、その面白さをよく憶えている。
 これのメインテーマが、クラシック好きにはボールトの名演でお馴染み、コーツの「ダム・バスターズ・マーチ」だ。

 楽しみだが、さて仕事はどうする…。

十一月二十九日
 新百合ケ丘のテアトロ・ジーリオ・ショウワで、日本オペラ振興会主催の《ラ・ボエーム》を観る。
 以前の《椿姫》もそうだったが、やはりこのくらいの大きさのハコで視聴するオペラは気分がいい。
 歌手も好演だったが、いちばん感心したのは岩田達宗の演出。第一幕のボヘミアンたちの悪ふざけは、開巻早々の緊張のせいか居心地悪く感じたりすることが少なくないのだが、じつに自然に歌い、演じられていた。第二幕のゼッフィレッリ風の二段舞台による群集の動きも、活き活きとして愉しい。佐伯祐三の絵をモチーフにした背景も雰囲気豊か。
 印象に残ったのは第三幕。設定では暁闇から夜明けにむかう時間帯だが、この演出では暗いままだった。北ヨーロッパの冬の夜の長さを再現したものなのか。マルチェッロに愛想尽かしをしたムゼッタが投げ捨てた靴が、夜の闇の中に吸いこまれていく場面が目に焼きつく。
 一方、もう一つのカップルのミミとロドルフォの重唱はそのぶん比重が軽くなる。かれらの歌詞には、射るように白くまぶしい朝の光と、放射冷却現象でさらに冷えこむ大気こそが似つかわしい。

十一月三十日
 DVDで『暁の出撃』を観る。
 一九五四年制作のモノクロ映画。同じ邦題で、ジュリー・アンドリュースが女スパイ役という一九七〇年制作の第一次世界大戦ものもあって紛らわしい。原題を無視した、勇ましげなだけの邦題をつけたあげくにこの混乱である。映画内の作戦は夜間に行なわれ、出撃も夕方。どこにも夜明けは関係ない。
 一九四三年五月、ドイツの心臓と呼ばれるルール工業地帯のダム二つを一夜で破壊し、その洪水で工業地帯を壊滅させたイギリスの爆撃機部隊、第六一七中隊と、ダム破壊専用の特殊爆弾を考案した技師の物語。
 当時最大のランカスター爆撃機でも、ダムを上空から破壊できるほど巨大な爆弾は積めない。炸薬量の限界から、破壊するには水中で爆発させて、水圧を利用する手しかない。しかし魚雷では破壊力が足りず、そもそもダム内に魚雷を防ぐ妨雷網が張ってあるから、コンクリート製の堤にまで到達できない。
 この難問を解いたのがウォーリスという技師。水切り遊びの原理を応用して、円筒形の爆弾に回転を与えて水面を跳躍させることで妨雷網を飛び越えさせ、堤にぶつかったところで沈み、水圧を感知して一定の水深の水中で爆発する、という特殊爆弾を考案する。
 序盤はこのウォーリスが周囲の反対を粘り強く説得、作戦実施にこぎ着けるまでを描く。中盤で攻撃隊の指揮官ガイ・ギブソン少佐(リチャード・トッド)が登場、前例のないこの珍攻撃のための手法を工夫し、訓練をほどこしていく。
 そして出撃日、直前にギブソンは部下全員に初めて目標を明かす。この打合せの場面から、機体整備、食事、最後の休息、集合、搭乗、発進、目標への夜間飛行という攻撃前の過程を、たっぷりと時間をかけて描いていく部分がいい。百二十五分中の三十分にも及ぶこのシークエンスでは、坦々とした描写のうちにじわじわと緊張が高まっていくつくりが、じつにうまい。
 しかもここで使われるのは実物のランカスター爆撃機なので、迫真感が違う。四発の大型爆撃機が三機で密集編隊を組んだまま離陸、敵のレーダーの感知を防ぐために地表すれすれの超低空飛行を続け、ダムに迫っていくのだが、それを実写で見せてくれる迫力。終戦から十年以内、まだランカスターもそのパイロットも現役だったからこその芸当だろう。
 機上から夜の地表を見る場面の雰囲気もいい。『史上最大の作戦』でも、イギリス空挺部隊のグライダーが夜の闇の中を目標の橋めがけて旋回降下していく場面が印象的だったのをおもいだす。そういえばあのときの空挺部隊指揮官も、やはりリチャード・トッドだった。ほかに『バルジ大作戦』や『空軍大戦略』で私が好きなロバート・ショーも、ギブソン機のクルー(副操縦士)として顔を見せるのがうれしい。軍人らしく見える俳優というのは、きまっているのか。
 特撮の技術があまり高くないのが、この映画の惜しいところ。特にダム攻撃のさいの巨大な水柱は、悲しくなるような出来。しかし跳躍爆弾を一機一機投下していく場面自体は、何かスポーツを観るようなワクワク感があって楽しめる。運河に沿った低空飛行でダムに到着、一機ずつ結果を確認しながら順番に攻撃していくあたりは、『スターウォーズ』第一作の、デス・スターのトレンチ攻撃場面に影響をあたえたとみて間違いない。
 さて、攻撃が成功、誇らしげに鳴りひびくダム・バスターズ・マーチで一瞬興奮させたのち、帰還と着陸。ここの描写もふたたび坦々。しかし参加十九機のうち八機が撃墜され、百三十三人の乗組員のうち五十六名が未帰還という事実が、出撃時そのままの未帰還者たちの居室のシーンで静かに描かれる。悲しげに弦が歌うダム・バスターズのテーマ。
 『全艦船』や『ビスマルク』と異なるのは、イギリス側しか描かれていないこと。創意と工夫、勇気と意志で困難を乗り越えるというテーマそのものは、ダム工事や宇宙開発などと同じである。ただ、ここでやっているのはダム破壊であり、その結果として純粋な軍事施設ではない工場や民間人の生活を破壊することだ。戦争とは建設ではない、という当たり前のことをあらためて痛感する映画。

 ところで『空軍大戦略』の名が出たので、ついでにその話。
 この映画におけるバトル・オブ・ブリテンは、あらためて考えると、ヘーロドトスの『歴史』のペルシア戦争(十八日の日記参照)とそっくりである。
 鎧袖一触の気概と自信にあふれ、圧倒的な戦力ときらびやかな装備をもってドーヴァー海峡を越えてブリテン島に迫るドイツ空軍は、クセルクセースのペルシア軍そのものだ。ロン・グッドウィンの傑作、エース・ハイ・マーチの勇壮な響きに伴奏されて描かれるケッセルリンク元帥の閲兵場面で、その威容をこれでもかと見せつける。
 対するイギリス空軍は、機数わずか四分の一。ローレンス・オリヴィエ扮するダウディング大将は、敗北と滅亡を予感しつつ戦う。
 そしてその予想通り、奮戦空しく疲れはて、まさに崩れ去ろうというとき、偶発的な事件がきっかけでドイツ側は作戦を誤り、多大の損害を出し、ついにイギリス侵攻を断念する。ペルシアの計画を狂わせたのはギリシア海軍だったが、ここではイギリス空軍がその役を担う。
 スペイン無敵艦隊やナポレオンを相手にしたときもイギリスは似たような勝利の物語をもっているから、この国ほど、ヨーロッパの歴史観に忠実な国はないのかも知れない。大陸諸国と違って、ローマ帝国の後裔という意識をもてないことが、その徹底性の背景にあるのかも。

 話がとぶが、三国志の赤壁の戦いというのも、こうしてみると、東洋よりも西洋史観に則ったかのような状況と勝敗である。曹操が東の独裁強国、孫権と劉備が西の連合国。この戦いの結果、正統の皇帝は一人のみという中華世界の歴史観に合わない、三国鼎立という異様な時代が到来し、正史に混乱をきたしたのも、その西洋的性格のためだったとみれば、納得がいく。
 さらに飛躍。歴史観の要の一つが、このような戦争での勝ちかただとすると、鵯越だの桶狭間といった「迂回奇襲」好きの日本の歴史観は、世界に珍しいものだったかも知れない。
 日露戦争のときには西洋式に、サラーミスやトラファルガーに相当する日本海海戦の勝利で戦争を終りにするという、英米人、そして敵のロシア人にも理解しやすい構図を掲げて成功したが、太平洋戦争のときは、真珠湾奇襲という純和式で開戦した。
 日本的物語ならこれで相手は総崩れになるはずだったが、欧米人がそんな機微を察してくれるはずもなく、むしろ激怒して本気になった。そこで幕を開けた本格的な航空戦争は、日本の国力ではとても完遂不可能なものだった。
 悲劇なのは、鵯越も桶狭間も、史実では奇襲なのかどうかがはっきりしないこと。独自の史観によって世界の孤児になるのは悪いことばかりとは限らないかも知れないが、いかんせん、その土台がつくりばなしとは情けない。

十二月二日
 小説『ユニヴァーサル野球協会』(ロバート・クーヴァー/越川芳明訳/新潮文庫)を再読。一九九〇年に文庫化されたとき以来、十八年ぶり。
 主人公はアメリカのどこかの会計事務所につとめる五十六歳の男。平々凡々、結婚歴も子供もなく独り暮らし。未来の展望も野心もないが、面倒も不安もなく(目をそらしている気配もつよいが)、安定した日々を生きている。現代日本はじめ、豊かな先進国にたくさんいそうな「居心地のいい独房」にいるタイプだ。
 しかし帰宅後のかれは、退屈な外界、実社会とは別の内面世界に没入し、そこに充足と生きがいを感じている。
 サイコロでやる、一人遊びの野球ゲームだ。現実の大リーグを参考に球団も選手も主人公が考えた架空世界、ユニヴァーサル野球協会(UBA)である。八球団がシーズン八十四試合を戦う。主人公と同じ第五十六シーズンを迎え、往年のスターの子だの孫だのが選手として登場するほどの、長い歴史を重ねている。
 その脳内リーグに、スーパースターになりそうなルーキーが突然登場して大活躍を始めて、というのが物語の発端。

 むかし、この本に出会ったときは驚いた。自分も同じように、サイコロでやる野球ゲームを自作し、架空のリーグ戦を一人でやった経験があるからである。
 野球は、スポーツのなかでほぼ唯一、サイコロだけで簡単にゲーム化できる。
 アスリートの肉体はない。投げ打つ走るという動作を行う、選ばれた強靱な筋肉と迸る生命の代りにあるのは、サイコロの出目による確率のみ。一人の打者を示すのは打率、長打率、走力といったいくつかの数値と、名前のみ。
 これでも試合の醍醐味をけっこう再現(シミュレート)できるのが、野球というスポーツの不思議さである。防御率や奪三振率など、多くの個人成績が指標化される競技なので、人間を数値に置き換えることに無理がないためだろう。
 草野進が『世紀末のプロ野球』で擁護しようとした、数値化され得ない肉体性の魅力とは正反対、不倶戴天の方法論だが、逆もまた真なりで、ここにも一つの野球愛がある。
 サッカーでは無理な話だ。テレビゲームのごとく画面上の動きとして視覚化して、やっと愉しめる。肉体性ぬきではサッカーの醍醐味は甦らない。
 そして、野球ゲームにはもう一つ特長がある。一人遊びに最適なのだ。

 私が高校生の一九七〇年代末まで、家庭での一人遊びというのは、かなりやりにくいものだった。
 将棋や碁やオセロは二人用、人生ゲームなどの家庭向けは三~五人。一人でやれないことはないが、愉しくない。トランプには一人遊びもあるが、パズルの十五並べ同様、ゲームを愉しむより、ひまつぶしが主目的だった。
 小学高学年のころ、アメリカのウォーゲーム(ウィキペディアの「ウォー・シミュレーション・ゲーム」や「アバロンヒル」の項を参照)を知り、大いに凝った。ゲーム性よりも再現性に主眼をおいたものは一人でも遊べたが、ゲーム性が低いと作業的になりがちで、友人との対戦に較べて面白味や昂奮は少なかった。
 中学三年のときに考えたのが、野球ゲームだった。サイコロを三個使えば、打率などの確率を細かく設定できる。それを原型に、投手の能力や打球の方向などの要素を加えた。データは適当だが、雰囲気は出た。セ・リーグ六球団を再現してリーグ戦をやってみると、じつに愉しい。ウォーゲームの一人遊びでは味わうことのない、ゲーム的昂奮がある。
 なぜかといえば、試合を左右するのが采配――一人で両軍の監督を演じてやるもの――よりも選手個々の活躍、つまりかれらがよいサイの目を出すかどうか、という偶発性にかかっているからだ。この結果、自分一人でやっているという空しさが薄れ、選手たちの懸命のプレーを上空から眺めている気分になり、昂奮できるのだ。人間の英雄の活躍を見守る、ギリシアの神々の気分である。
 本塁打数やら勝利数やら個人記録をつけると、これが選手たちに「顔」をあたえることになる。手計算で大変だったが打率も計算した。ますます面白い。タイトル争いも愉しい。
 当初の現実の球団には、やがて問題が出てきた。好きな阪神や憎き巨人はともかく、関心のない球団同士の試合になると、義務でサイコロをふるだけになる。そこで、阪神と巨人を残して架空の球団をつくった。
 すると、架空選手の方に感情移入していることに気づく。実在選手は現実の成績を意識してしまって、やりにくい。架空球団だけに切り換えて現実と切断し、ゲームの成績がすべてにした。打率を低めに設定した若手が確率以上に打ちまくったりすると、新スターの誕生を見ている気になって熱狂した。もちろん翌シーズンには、残した打率どおりの主軸打者に成長させた。
 顔も姿もプレーも見えない。名前と数値だけ。しかしだんだん、イメージが頭の中にできてくるから不思議である。サイの目の結果がイメージを導き、逆にそのイメージが結果に肉づけしていく。このピッチャーがとる三振なら、決め球は大きく落ちるフォークだな、とか。

 そんな心理、想像力の作用が、『ユニヴァーサル野球協会』には恐ろしいことに、すべて書いてある。一九六八年にアメリカで書かれたこの小説は、十年後の日本の偏執的な思春期の少年の心理を、預言書のようにいいあてているのだ。
 特にまいったのは、次の一節。
「草創期の選手たちに対し行き過ぎとも思える愛着を感じているのに、一方で、すでに三〇代の名選手が過去一〇年間はどうであったのかといったようなこと、つまり選手の過去が全くわからないので、いつも困ってしまうのだった。しかしながら、ひとたび一種の連続性ができあがり、選手生活をこれから送ろうとする新人選手が野球協会を引継ぐようになると、ずっとましになった。実際、最後までプレーしていた初年度選手がようやく引退したときにこそ、ヘンリーは協会がついに成年期に達したと実感したのだった」
 つまり、協会を創設したとき、全員がルーキーではつまらないから、実績豊かな名選手というベテランも創造して、チームの中心にした。しかし、当然ながらその過去の成績は存在しない。架空世界の出来事とはいっても、実際のサイコロの出目という裏づけを重ねた本物の成績と、それなしに主人公ヘンリーがでっちあげた成績とでは、意味と迫真性がまるで違う。そういう、嘘の過去をもつ選手が引退し、全員が、ルーキー時代から積み重ねた本物の成績をもつ選手だけになったとき、協会が大人になって、自律的に動きはじめたという。
 この気持は、痛いほどよくわかる。
 私自身はとてもそんなに長くシーズンを重ねられず、嘘の過去をもつ選手がまだ大半を占めているところで終ったけれど、先に挙げた若手のように、ゲーム内で成長していく選手たちには、特別な関心をもっていた。それが何だったのか、何に育ちうる感情だったのか、この小説は、ものの見事に解きあかしてくれた。
 小説ではそうした協会が、偶発事から破滅の危機に瀕する。しかしある事件によって救われ、ついに創造主の個性も消え、完全に自律した世界となっていく。これは文庫の解説によると、旧約と新約の両聖書での、世界の創造と救済になぞらえているのだそうだ。素晴らしいメタ小説。

 私が大学に入った八〇年代にはコンピューター・ゲームが登場、一人遊びは家庭で手軽にできるようになった。
 コンピューターが対戦相手だから、それまでの、一人で何役も演じる偏執的な印象、どこか淫靡なわびしい背中、他人に見られたくない後ろめたさ――小説にもうまく描かれている――は、消えた。一人遊びは普通で、何も恥ずかしくなくなった。
 一方、ある事件を両側、さらに第三者たちのそれぞれの立場から実感できる、一人何役ならではの快感も消えた(これは野球よりも『戦国大名』という市販ゲームの方が味わえた。独自にルールを改変して、北は伊達から南の島津まで、十一人の大名を一人でやった)。
 いまでもときどき、その昂奮と快感が懐かしくなってやってみたくなるが、集中力が衰えているのでとても無理だ。
 再開するとすれば、小説の主人公のように、現世に身のおきどころのないおもいを抱いたときかも。

十二月五日
 ネマニャ・ラドゥロヴィッチを聴きに王子ホールへ。
 かれのヴァイオリンの音は力強いリズムが魅力だが、それだけにもっと大きめのホールが合うように感じた。この規模の小ホールで聴くと、アタックの強さにともなって発生する荒い音が目立ってしまう(CDの無伴奏リサイタルにもやはりそうした傾向がある)。いままでにかれを聴いたのは、すみだトリフォニーの無伴奏リサイタルに東京国際フォーラムAやCでの協奏曲と大空間ばかりだったが、そこでは夾雑音が消えて、もっと伸びやかに澄んで響くのだ。
 もっともこれは、ファヴル=カーンの荒っぽいピアノとの競演を、ネマニャが面白がっているために起きた現象かも知れない。サロン的な洗練が欲しい本プロよりも、アンコールのブラームスのハンガリー舞曲の土俗的で濃厚な歌いまわしの方が、このコンビには向いていた。

十二月六日
 プロ野球西武のコーチ、デーブ大久保が解雇とか。日本一の功労者がスキャンダルで一転クビ、という構図は、事件の内容はまるで違うけれど、往年の名ヘッドコーチ、青田昇みたい。
 と考えたら、ひさしぶりに青田の『サムライ達のプロ野球』(文春文庫)が読みたくなって読む。
 沢村栄治から長嶋茂雄まで、自らがグラウンドで接した選手・監督二十三人の逸話集。描写が活き活きとしていて、とても面白い(現役時代の川上哲治はチームプレーなどまったく関心のない、自分勝手な選手だったとか)。特に好きなのは巨人、阪神の名監督、藤本定義の章。
 解説の千葉茂の一文もいい。昭和二十年代の巨人軍第二期黄金時代を青田とともに支えた、かれの回想。
「あの昭和二十三、四年という時代、プロ野球はまだ一リーグでしたが、いま考えてみても、我々は本当に凄い野球をやっていたと思います。何しろつい昨日まで軍服着て鉄砲を撃っていた男達が、戦争の代りに野球をやっていたのです。それも野球が好きでたまらんからやっている。大変に高度な技術と闘争心のぶつかり合いがあった。砲煙弾雨が臭う野球であります。
 それが二十五年のニリーグ分裂で、ノンプロ界から大勢入ってきた。これで小生などいっぺんに気が抜けてしまった。何しろ小生、この世で下手クソと野球をするほど嫌いなことはないのです」
 文庫の新刊は品切みたいだが、ネットでは古本が安く買えるようだ。最近、ネットの絶版本は馬鹿みたいに高いのがある(店を見て回ったり目録をチェックする手間をかけながら機会を待つ日々に較べれば、よほど楽なのだが)が、文庫は数が多いせいか、まだひどくない。
 私自身は普通の文庫など、売ってもいくらにもならないと捨てがちなのだが、「天下のまわりもの」とわきまえて、きちんと浮世に戻すべきなのだろう。

十二月九及び十日
 今月の某月刊誌〆切は完全潰滅状態。ここ数年にないひどさ。
 九日は夕方から片山杜秀さんのサントリー学芸賞授賞式が東京會舘で行われることになっている。かたじけなくもご招待いただいたので、何とかそれまでに終えるつもりだったが、おもわぬミスがあったりして終らない。
 授賞式に出るべきか遠慮するべきか迷っているところに、某編集者から電話。
 ある事情で記事一つをどうしても差し替える必要ができたので、他の人がすでに書いた原稿は来月回しにし、代りに今月分を明日までに書けないか、という。
 すでに潰乱していて、仲間の編集者に最悪の迷惑をかけている書き手に、この上さらに依頼するなんて度胸あるなあとはおもうが、一方こういうときの書き手というのは完全なフルスロットル状態、痛覚がない状態だから(笑)、千五百字の原稿が一本増えることくらい、どうということもない。むしろ、終ったとおもってエンジンを切ったところにくる依頼よりは、はるかに楽。
 それに、どこを向いても借りばかりという状況のなかで、別の相手であれ少しでも返す状況は、精神的にありがたい。ということで引き受け、内容と手順をつめたあと、かれや他の編集者もこれから東京會舘に行くという話を聞く。
 校了直前の編集者が行くなら、〆切破りの書き手が行ってもかまわんだろう、という自分勝手な、論理不明の理論武装のもと、ネクタイして東京會舘へ出発。
 東京育ちだが「東京」と名のつくものに縁が薄い。東京會舘も今回が初めて。東京とつくのだから丸ノ内線の東京駅から行けばいいんだろうといういい加減な考えは大外れ、予想以上に遠かった。
 しかしその間、行幸通りにはじまり、内堀通り直下にある地下道の広さと長さは、いったいなんなのだろう。地下鉄数駅を、縦横に大きく碁盤目状に結んでいる。東京の地下空間の謎について書いたベストセラーがあったが、たしかにこれは地下鉄工事とは無関係の、その前から存在した地下街路のような気がする。
 途中、閉鎖された改札と階段があったりして、さらに興味を惹かれるが、今はそれどころではない。いつかこのあたりをまた見物に来ようとおもう。
 東京會舘の脇に来たが、出口はなぜか直結していない。大雨の中を少し歩く。

 申し訳ないことに式典はちょうど終ったところで、片山さんのあいさつは聞けずじまい。パーティが始まります、という声に導かれて懇親会場に入る。
 信じられないほど料理が旨かった。立食式の料理で、こんなに旨かったのは生れて初めて、といってしまおう(睡眠不足と疲労で脳が栄養不良を起している、という特殊事情もあるが)。
 元編集長、現カメラータ社長N氏とお会いする。あいさつもそこそこ「ここはローストビーフを食わないと損ですよ」と耳寄りな情報を入手。食う。旨い。やわらかく、みずみずしい。N氏はローストビーフを終えてから、オードブルを食べている。オードブルなんぞ後回し、という魂胆か。同感(笑)。
 わきを見ると、某編集者がパスタを食べている。どうですか、と聞くと「旨いですよ」の返事。取りにいく。
 パスタの皿の前に知人がいたので、ひとしきりしゃべったあと、「すいませんパスタが食べたいので」というヒドイ打ち切り言葉を口にして(最低のマナー)パスタ皿をとって、ひたすらに食う。挽き肉ではなく、サイコロ肉を使ったミートソース。なかなか旨い。
 終ってまた周囲を見ると、現編集長たちが寿司を食っている。中央の料理卓以外に壁際にいろんなコーナーがあり、その場でつくってくれる形式。
 寿司や天ぷらもいいが魚嫌いには「猫に小判」なので、隣のオムレツ・コーナーへ。若いコックさんが、フライパンを握った手首をトントン叩きながら丸めてくれる。プレーンをつくってもらう。
 旨い!
 卵はもちろん、ドミグラとウスターを混ぜたようなソースがすばらしく美味。
 そして、オムレツを待つあいだに目に入ったのが、となりにさりげなくあったカレー・コーナー。
 ここまで来てカレーライスを食わなくても、とはおもうが、わざわざ出しているということは、きっと自信があるに違いないと考え、一皿もらう。
 旨い!!!
 インド風ではない、ニンジンの入ったシチュー風カレーだが、甘くてしかもしつこくない。
 さっそく編集長たちに教えると、みんな旨い旨いと食いはじめる。
 地獄から紛れ込んだ餓鬼の集団のように、無我夢中で食い散らかした。最後はメロンを奪取して仕上げ。
 幸せ。片山さんに感謝。

 そのあと会場を移し、アルテス主宰の祝賀パーティ。さすがに食事は控える。
 ここでは片山さんが小学生時代にテレビから録画した、作品のタイトルバックばかりのビデオの上映、ご本人の解説つき、というのが最高のご馳走だった。
 気がつけば編集者たちは社に戻っていたので、これはマズいとわたしも早退けし、レコード店へ。さっき依頼された記事に必要なCDを購入。まさに泥縄。
 家に戻って、午前三時までに記事四本のうち二本を仕上げて送り、さすがに限界なので五時間眠り、翌日(二桁の十日なのだ!)午後までに残りの二本をあげて、どうにか今月は終り。
 とにかく、東京會舘は旨い。

十二月十一日
 第一高等学校の時計台を見にいく。
 いうまでもなく、現在の東京大学教養学部のことだ。京王井の頭線の、駒場東大前駅。いまさらながら、こんなに改札と大学が近い駅も少ないのではないか。
 一高時代には部外者立入禁止だったそうだが、いまは自由に入れる。正門の木製の門扉には、一高の校章柏葉が彫られている。高木彬光の『わが一高時代の犯罪』によると、一高生には「正門主義」なるものがあり、この門以外から出入りすることは厳禁だったという。
 正面の時計台のある本館(現一号館)と、左右の講堂と図書館(現博物館)も一高時代のまま。講堂と図書館がシルクロード風の、独特の建築様式で面白い。昭和十年代、帝冠様式が一段落したあとのツラニズムの反映だったりしたら興味深いが、未確認(設計者は本館や本郷の多くの建物と同じ、内田祥三)。
 一高は旧制高校のなかで数少ない全寮制で、「籠城主義」が大きな特徴となっていた。その学生寮は本館の裏にあったが二〇〇一年に取り壊されて、いまはない。そこで、一九三五年以来現在まで使用されている、本館の内部を歩きまわってみる。床、階段など内装は現代風に改装しているが、基本的な構造は変っていないのだろう。
 それにしても、部外者が屋外の通路だけでなく、建物内部にも簡単に入れて、自由に徘徊できる場所は、現在では大学以外には珍しいのではないか。早稲田大学だってそうなのだが、母校よりも他大学に来たときには――自分が部外者だという意識が強まるせいか――とりわけその無防備さを感じる。
(二〇〇九年二月二十二日の附記 だから、一月十四日に起きた中央大学での刺殺事件については、出入りの自由が裏目に出た、典型的な事件と感じた)
 帰りは渋谷に出て、道玄坂を久しぶりに登る。
 小中学生時代は渋谷に出ると、道玄坂を登る頻度が低くなかった。映画館とモデルガンメーカーのMGC直営店があったからである。ところが高校入学の一九七八年に東急ハンズができると、こことパルコ内の模型店ポストホビー(輸入ウォーゲームがたくさんあった)へ行くために宇田川町中心になり、その後もタワー、WAVEやHMVといったレコード店がこの地域に開店したため、道玄坂の方に行くのは、たまにヤマハの楽譜売場を覗くときだけになってしまった。
 町の歴史をふりかえってみても、七〇年代以降の渋谷再開発は、公園通りと東急本店通りに挟まれた、V字の内部に集中している。それ以前の中心街だった道玄坂は、時代に取り残されたのだ。小中学生時代はその過渡期で、道玄坂にまだ往年の名残があったのだろう。
 道玄坂の途中、北側にある百軒店は、関東大震災後につくられた商店街で、西武グループが渋谷で最初に手を染めた商業地域。名曲喫茶ライオンがあることでクラシック好きに知られる。
 その西隣が円山町。いまはラブホテル街だが、かつては三業地だった。三業地とは置屋、待合、料理屋の三業種がある地域のことで、要は芸者遊びをするところ。遊廓ではないので遊女はいないが、芸者の中には不見転(みずてん)と呼ばれる、芸をもたない売春専門の女性もいたから、花街ではあるが色街の部分も隠した地域である。
 ここが発展したのは大正初期らしい。代々木と青山の練兵場が明治神宮と外苑になって、陸軍の兵営が西南の駒場、池尻、三宿周辺に移転したため、かれらの遊び場所として流行したのだ。
 軍隊が町にもたらすのは盛り場だけとはよくいうが、円山町はその典型だし、私の住んでいる荒木町も、市ヶ谷の陸軍士官学校(現防衛庁)関係の軍人相手に発展した三業地である。士官学校は明治七(一八七四)年設置なので、興隆は荒木町の方が早かったようだ。
 実は円山町も元の名は荒木山だった。改称したのは昭和の初めだという。理由は詳らかではないが、あるいは同じ陸軍さんご愛用の遊び場として、先行の荒木町と混同されることを嫌ったのではないか。時期的にはちょうど、軍人の鼻息が荒くなりだしたころである。
 歩いてみると、山の上だとよくわかる円山町。その西の、下の谷間にあるのが神泉駅。東電OL殺人事件の舞台として有名になったアパートもまだあった。
 神泉は、その名のとおりかつては泉があり、隠亡谷と呼ばれて、死者の葬りに従事する人々が住んでいたらしい。水源地の谷間と葬りには歴史的に深い関わりがあるようだが、その話はまたいずれ。
 ここで引き返して道玄坂を下る。『わが一高』では、主人公たちが道玄坂上の「白十字」という、いかにも昔風の名前の喫茶店に通っているのだが、現存しない店なのだろうか。京王の渋谷駅への通路が改装される前、JRから井の頭線改札へ向う手前の、左側の階段を上がったところの喫茶店がそんな名前だったような記憶があるのだが、ひょっとすると、あれが後身だったのだろうか。
 井の頭線沿いの、ごちゃごちゃした極彩色の歓楽街を抜ける。渋谷のなかでは新宿っぽい一角。頭上にそびえるマークシティとまるで調和しないのがいい。
 数年ぶりに渋谷古書センターに寄る。音楽書のある二階がきれいに改装されていたので驚く。三一書房『ジャズ旋風』を開く。どこかで見かけたまま、長いこと出典不明になっていた、最初期のVTRテープの値段がばっちり出ていたので驚いた。高橋一郎による「TBSのジャズ番組」の章。
「アンペックス社製VTRは当時の価格で四千五百万円、また六〇分テープが一本で六万五千円という非常に高価なものだった」
 昭和三十四年八月の話だという。六十分テープ一本が現在の価値なら百万円くらいしたのである。たしかに高い。しかも手作業でやる編集作業は大変で、一か所につき当時一万五千円もかかったそうだ。
 この話を、NHK大河ドラマ関係の本で読んだような気がして、折に触れて捜していたのだが再会できなかった。それがおもわぬところにあった。以前立ち読みでもしたのだろうか。とにかく万々歳で購入する。こんな遭遇は、現物に触れる本屋でしかあり得ない。ネット頼りばかりではいけないと反省。

十二月十二日
 クラシックジャーナル恒例の座談会。
 いい年をして口のききかたを知らない人と話をするのは、腹が立つ上にひどく徒労感がある。残り時間が無限ではないことをおもえば、後まで尾を引くような無駄はできるだけしたくない。
 たとえ来年呼んでもらえても、自分としては今年かぎりにすると決める。

十二月十四日
 ミュージックバードで年末特番収録。二年ぶりに片山さんとの共演が復活。
 こういう人と会話する時間をもてる喜びがあるから、私はいまを生きている。野球ゲームのリーグ戦を一人でやらずとも、この世を生きていられる。

十二月十六日
 月刊『男の隠れ家』というのがある。
 半年ほど前にクラシック特集が組まれて、声をかけてもらって執筆した雑誌だが、発行元の「あいであらいふ」が自己破産とのニュースを知る。
 負債は、少なくとも二千名に対し二十四億円、とあった。
 原稿料が遅れることもなく、専門誌に較べればかなり単価のいい金額をくれたのだが……。自分は損害なく済んだが、執筆したばかりで、今月末以降にもらえるはずだった人はたくさんいるだろう。同業者として他人事ではない。
 もちろん、担当してくれた編集者たちのことも気にはなる。しかしかれらは労働者として、一応の権利は優先的に守られるはずだ。失業保険も出るだろう。
 執筆者は労働者ではなく契約した請負業者だから、債権者の一人として扱われるはず。面倒が増える上に、全額を回収できる可能性は低い。自分は運がよかった。

 打合せのために編集部を訪ねたとき、かれらが入っているビルの一階の書店がつぶれた直後で、がらんどうの書棚が並ぶ荒涼たる景色になっていた。いまおもえば、暗示的場面だったのかも。

十二月十七日
 近頃、ソフトバンクの携帯電話のCMで使われている、映画『八甲田山』の音楽。流れるたびに耳を傾けてしまう。
 芥川也寸志が《月の沙漠》をモチーフにして書いた旋律。きれいで哀しい。新録音なのだろうか。
 犬の声の北大路欣也が、映画では神田大尉、「天は我々を見放したッ…」と叫んでいた人、という二重構造も好き。

十二月十八日
 映画『全艦船を撃沈せよ』の原作『海の狩人・アトランティス』(杉野茂訳/朝日ソノラマ)を読む。
 邦訳は一九八八年に「文庫版航空戦史シリーズ」第九十九巻として出たもの。原本は、ヴォルフガング・フランクとアトランティス号艦長ベルンハルト・ローゲ(ROGGEだから、映画のとおりロッゲが近いのではないかとおもうが、ここでは本の表記に従う)の共著による。
 両軍のかけひきを描く映画と違って、艦長の一人称による回想で、艤装開始から一九四〇年三月末の出航、四一年十一月の沈没とドイツ帰還までが語られる。
 その前身は八千トンの貨物船ゴールデンフェルスで、二百名の乗員、主武装が六インチ砲六門、さらに航路と沈めた隻数など、映画ではわからなかったデータが詳細に載っているのがうれしい。
 一隻だけで独自に行動する艦の艦長というのは、裁量と責任が大きいぶん、魅力的だ。海洋軍人小説の金字塔、ホーンブロワー・シリーズの主人公の魅力も、通信能力のかぎられた時代に単艦で行動し、一人で判断し部下を動かし、道を切り拓く艦長であることが大きかった――それだけに、部下の戦死に直接的責任を負う苦しみをもつ――が、この本の面白さも似ている(あのシリーズを著者たちが読んでいるかどうかは知らないが)。
 特にそう感じたのは、修理、休息、偽装工事を行うために、南インド洋のフランス領ケルゲレン(本書ではケルグーレン)諸島に停泊するくだり。
 ドイツを出撃後、三百日目にして初めて錨を下ろす島は、南洋といっても南極まで二千キロしかない、亜南極地域の寒冷で強風の吹き荒れる、厳しい気候下の無人島である(現在はフランスの気象観測隊が常駐しているらしい)。
 通常の商船航路から遠く離れた無人島でなければ、誰にも知られずに停泊できないからだが、湾に入ろうとしたアトランティス号は暗礁に乗り上げ、二日間にわたり行動不能になってしまう。
「最も近くの文明圏からでも数千浬も離れた無人の荒れ果てた所で、もし離礁に成功しなかった場合にはどうなるか、ということについては考えないように私は努めた」
 地球上のとんでもない僻地に座礁している船、という場面も凄いロマンだが、内心の恐怖を隠し(おそらくは)部下に覚られないようにする艦長像は、ホーンブロワーそのものだ。そして、三十時間のあいだに三回の試みが失敗したあと、四度目の離礁作業に入る。
「最後の作業に取りかかる前に、我々は非常に苦労して、船尾の錨の大綱を短くし、船尾を風上の方に持って来た。全乗組員は甲板に上るよう命ぜられ、掌帆長の笛の合図に従って右舷から左舷へ、左舷から右舷へ移動し、船を揺さぶって離礁しようと試みた。もうこの試みも断念しようとしたまさにその時、船体が身震いし、大波に襲われたように振り動かされた。やがて船はまっすぐに浮き、船尾が風下に向かうように振り回された」
 この一節を読んだとき、ホーンブロワー・シリーズ第二巻『スペイン要塞を撃滅せよ』の、最初の要塞攻撃時の座礁場面を連想せずにはいられなかった。

 原作と映画を較べると、ドラマの起伏をつよめるための映画スタッフの工夫に感心させられる。脚色のお手本という印象。挿話の取捨選択に容赦はなく、右の脱出話など影も形もないが、一方で原作のわずかな描写を注意深くひろって、材料にしている。
 たとえば、劣悪な待遇下の植民地人の商船員たちは、砲撃を受けると同時に職場放棄して脱出にかかるので操船不能になるとか、あるいは白旗を掲げたあと発砲してきた商船があったとか、そんな一節がプロットの種になっている。
 一方、艦長がユダヤ人家族を見逃す挿話は原作にない、完全な創作。イギリスの作家ジャック・ヒギンズが一九七五年に書いた傑作『鷲は舞い降りた』の主役クルト・シュタイナ中佐も、ユダヤ人を助けたために冷遇されている設定だったから、当時はこうした人道的性格を加えた方が、米英の観客がドイツの軍人に共感できると考えられたのだろう。
 イギリス海軍本部とラッセル提督、機密を盗むアメリカのスパイの場面も映画だけのもの。ただしこれは、ドイツ本国からの指令をイギリス軍が察知しているのではないかという、ローゲ艦長の疑念(不幸にしてそれは的中する)が原作にあるので、その一言をふくらませて、ドラマ全体の骨組に仕立てている。
 アトランティスを追跡する海軍本部の場面という映画独自の設定は、ひょっとしたら、ホーンブロワー物の作者セシル・スコット・フォレスターが書き、公開前年の一九五九年に発表した小説『決断‐ビスマルク号最後の九日間』を参考にしているのかも知れない。
 この小説は映画『ビスマルク号を撃沈せよ』の原作だから、もしそうだとすると、『ビスマルク』と『全艦船』両映画の、単艦対組織という構図の相似も、当然ということになる。
 というわけで、フォレスターの小説版『決断』が読みたくなって古書を注文。ほんとうにキリがない。

十二月十九日
 小林まことの漫画『青春少年マガジン1978~1983』を読む。
 「1978~1983」というのは、小林まことのデビュー連載で代表作の一つ『1・2の三四郎』が、少年マガジンに連載されていた期間のことを指している。自伝的なセミ・フィクションで、少年マガジンの創刊五十周年記念に同誌に連載されたものだそうだ。
 『1・2の三四郎』やその前身のデビュー短編『格闘三兄弟』が載った一九七八年、高校一年の私もマガジンの愛読者だった。『青春』には当時の目次が載っていて、こんな漫画あったなあ、と懐しい。藤子不二雄の『少年時代』は少年サンデーで読んだようにおもっていたが、そうではなくマガジンだったと、この目次を見て気がついた。
 小林の登場と時期を同じくして、新しい世代の漫画家が続々と輩出し、八〇年代の創刊ラッシュを支えた、とある。
 たしかにジャンプを筆頭に少年誌が部数を飛躍的に伸ばし、青年週刊誌が各社から次々と創刊され、さらに枝分れをして、漫画誌は黄金時代を迎えた。一九八〇年を境に、日本の消費社会が爛熟期に入ったことを示す現象の一つだろう。
 しかしその隆盛のなか、漫画家は過酷な状況におかれていた。小林の場合、七日おきに出る作品を描くのに八日かかるというのだから、物理的には不可能。それを、身を削って可能にするのである。
「3日や4日寝ないのは当たり前 20時間くらい何も食わないのも当たり前 たばこは呼吸のように1日7箱 缶コーヒーは1日10本以上 締め切りのストレスで胃はボロボロ」「下手したら死んでるところだった」
 それでも複数の連載を抱え、ページ数も減らさず、ひたすら描きつづける。描けなければ生き残れない。
 もちろん、芸人やスポーツの世界でも競争は酷しい。が、それとは別に、週刊連載の漫画というシステム自体に無理がある気がする。プロダクション制による分業にも限界と個人差があり、最後は作者一人。しかし売れる以上は多作化と延長を求められるのが資本主義。爆発的に拡大する市場がさらにその要求を過酷にする。それがマガジンとサンデー創刊以来の、漫画週刊誌五十年の歴史らしい。
 小林と同年に連載デビューして「新人3バカトリオ」と呼ばれた大和田夏希と小野新二の二人は、苦闘のなかで心身のバランスを崩し、生命を落とした。小林は生き残りの戦友として、この漫画を二人に捧げている。
 私にとっても大和田と小野の名前は、懐しい。サッカー選手の小野伸二が登場したとき、すぐその名を憶えたのは、後者と音が同じためだった。
 しかしなぜ懐しいかといえば、自分が途中からかれらの漫画への興味を失い、まったく読まなかったからである。亡くなっていたことも知らなかった。
 そんな人間が、懐しいなどという。われながら勝手なものだ。

十二月二十日
 昨日、ある番組の収録があった。
 その解説をしていて、
「この作曲家は韜晦を好むというか、いろいろポーズをつけて、目くらましをする人なんですよね」
としゃべった。
 終了後、共演者の方からあそこは放送禁止用語ですよといわれ、スタッフの判断でその部分をカットすることになる。
 「目くらまし」が「めくら」に通じるから、駄目だというのだ。
 どちらも「目がくらむ」から出た言葉だから親戚ではあろうが、同じものではない。同音が含まれているだけだ。いままでに指摘された経験でもあれば反論したかも知れないが、とっさのことで頭が回らず、カットしても大意は伝わるし、こだわることもないかと、何もいわずに同意した。
 しかし帰宅後、ほんとなんだろうか、と気にかかる。
 ネットで調べたり、東京のキー局で働いている知人の話を聞いたりした結果を総合すると、「目くらまし」は放送禁止(自粛)用語ではないようだ。つまり、使用可能な用語なのである。
 これが「片手落ち」などなら、どうしてもそこに必要か、言い換えが可能かどうか、などを勘案して、できれば避けるそうだが、「目くらまし」は同音を含んでいるというだけだから、問題にしないようである。
 だが、忙しい現場などではそこまで確認する余裕がなかったりして、不安な用語をとりあえずカットしてやり過ごすうちに、それが既成事実化したのかも知れない。ことなかれ主義の伝言ゲームみたいなものだ。
 誰が悪いとかそういう話ではなく、いい勉強になった。もし次にどこかで同様の事態が起きたら、よく確認してくれ、と提案してみることにしよう。

 ところで、こういう提案は、言い方が難しい。どの分野でもそうだが、相手もプロのプライドをもっているから、下手に話すと「他はそうかも知れませんが、うちはこれが方針なので」とか、頑なな態度にさせてしまい、逆効果になる。
 少し前に、そんな失敗をした。
 山の神はガスストーブの信奉者なのだが、近所の取扱店で買うと、割引がなくて高い。そこで数年前に、新宿のカメラ&電機量販店まで行って買ったので、今年ももう一台買うことになった。
 ところが、前も買えたのだから何も問題ないだろうと、品番などをよく確認しなかったのがいけなかった。近頃はガスといえばファンヒーター、ストーブといえば電気、というのが世の趨勢だ。ガスストーブは店頭に出ていないので、店員にたずねると「置いてません」の返事。
 ここでわたしが「何年か前にもここで買ったから、リンナイのがあるはずだけど」と言ったのが、失敗だった。店員の防衛本能が働き、「私は何年もこの売場にいますが、扱っていたことはありませんねえ」と依怙地になってしまった。
 仕方ないので、家に帰ってその量販店の通販サイトを検索し、ガスストーブを購入した。そのとき、数年前にはどんな手順で購入したかをおもいだした。
 あのときは、サイトの商品ページを印刷し、新宿店に在庫があることを確認してから行ったのだった。やはり店頭には並んでいなかったが、余計なことは言わずに「これが欲しい」とそのページを見せると、店員(もちろん前出のとは別の店員)は「わかりました。在庫を出します」と即座に答え、ホースやソケットをつけて配送してほしいという追加注文にも、確実に応対してくれたのだった。
 中途半端がいちばんいけない。店員の方は毎日毎日、いい加減な知識や間違った記憶を振りかざして譲らない客たちの応対に、うんざりしているのだろう。そういう相手には、俺の方がわかってるんだ、と負けまいとするのだろう。
 かれらのプライドを傷つけずに、気持よく物事を運ぶためには、初めに店のサイトなど、反論余地のない「物証」を提示するしかないのだ。そうすれば、無益な知識のはりあいにはならない。
 そうわかっていても、とっさのときは忘れてしまう。進歩がない。

 閑話休題。「目くらまし」が放送禁止用語の同音を含むから忌避する、という言語センスのことを考えていて、歴史話をおもいだす。
 平安時代だったか、災害(たしか水害だった)が起きたので、陰陽師に原因を調べさせたところ、朝廷の儀式で歌う歌に、偶然にも物の怪の名前と同じ音が含まれていて、その物の怪が「俺のことを呼んでいるのか」と勘違いして暴れたため、という結論になった。そこで以後はその歌が禁止された、という話だ。
 ところが、物の怪の名前がなかなかおもいだせない。さすがに漠然としすぎていて、ネットでも検索しようがない。

 ――磯良(いそら)だ。
 しばらくあと、食事をしていて突然おもいだした。
 検索すると、ウィキに項目がある。
 安曇磯良、または安曇磯良丸(あずみのいそらまる)。安曇族の祖先神。別のサイトに問題の歌もあった。
「いせじまやあまのとねらがたくほのけいそらがさきに云々」
 神楽歌「磯良前」(いそらがさき)。それについて折口信夫が書いた文章の一部も引用されていた。
 イソラ、とカタカナにすると、東宝映画の怪獣みたいな名である。それにしても、安曇族に関係するものだったのか。
 あずみ、あつみ、あたみ……。日本各地に地名を残した漁撈種族。出雲も響きが似ているし、関係あるような気がするのだが、違うらしい。
 またの名をワダツミ族。その海神(わだつみ)こそ、磯良。
「なげけるか いかれるか はたもだせるか云々」
 おお、結局ここに戻ってきた……。

十二月三十一日
 仕事が終らず、年末の片づけもろくにできず。
 年賀状をようやく書いて、夕方投函。民営化の影響もあるというし、いつ届くのか気になるので、一枚は自分宛に。

「何やっとんねん! ケツから手ぇ突っ込んで、奥歯ガタガタいわしたろか!」と書いて、自らに督促しようとおもったが、関西人ではないのでやめる。

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