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二〇〇九年
一月一日
 元旦。今年はハイドン、メンデルスゾーンの記念年。
 個人的には、メンデルスゾーン生誕二百年が盛りあがってほしい。
 賛美歌九十八番《あめにはさかえ》の旋律の原曲、《グーテンベルク祭のための祝典歌》をオーケストラ伴奏のナマで聴くのが、今年の願いの一つ。

一月三日
 例年より書くのが遅れて大晦日夜に投函ということもあり、民営化の影響はあるのかという関心もあり、確認のために出した自分宛の年賀状。
 今日朝に届いた。勝手な予想より一、二日早い。同じ区域だから他県宛てよりも速いのだろうが、郵便局はがんばっている、という印象。
 それにしても自分宛に出したのは、考えてみれば今回が初めて。まあ、普通は思いついてもやらないだろう。
 ところで年賀状には消印がないから、このままもう一度投函すると、数日後には同じように配達されてくるはずだ。
 何回くり返せるのか、消印が押されてしまうのはいつなのか、ちょっと試してみたい気もするが、営業妨害もいいところなので我慢。

 ちょっと妄想。干支一回りで、十二年後、二十四年後の自分宛てに出せるサービス、なんていうのはどうだろう。「タイム年賀状」とか。
 本人が死んでいたら、家族がそれを見て思い出してくれるだろうし。
 だがそれではお盆の行事か。赤垣源蔵徳利の別れの「来年の夏は新盆だから、そのとき帰ってくる」みたいな。タイム暑中見舞い。

 盆恋し 足元寒し こたつなし

一月四日
 都区内の友人から、年賀状が今日届いたとミクシィで教えてもらう。だいたいこんなところだろう。

一月九日
 NHK‐BS1の国際ニュース番組「BS今日の世界」に生出演。ベルリン・フィルの、インターネットによる演奏会有料放映について語る。
 二日前の七日に、この番組のプロデューサーをしている大学時代の友人から電話がかかってきて、いきなり出演することになった。かれと会うのは数年ぶりだし、仕事を頼まれるのは今回が初めて。NHKの番組自体、かかわるのは初体験である。報道番組の場合、こんなギリギリのスケジュールが当然だそうだ。
 弱ったのは、ちょうど七日から風邪を引いたこと。ノドは薬で抑えたが、鼻水が止まらない。テレビの生放送は初めてだから、どうなることやら。放送禁止用語を叫びたくなったらどうしよう。
 出演は二十三時十五分から。二十一時に局へ入り、キャスターのお二人も交えて最後の打合せ。相手の質問に答えていくうちに、何をしゃべり、何を省くかのアウトラインができてくる。このあたりのツボの押え方はさすがプロ。
 いつのまにか開始時刻。この瞬間にスタジオのセットを初めて見たことに気がつくが、事前に見たから何か変わるというものでもない。リハーサルもなく、マイクをつけて席に着くとすぐに本番。余計なことを何も考える余裕がないので、かえって緊張しない。
 キャスターの仕切におまかせで打合せた内容をしゃべると、ぴたりと規定の時間だった。一種のベルトコンベア式のパターンができていて、それに乗っかればよいだけだから、じつに楽だった。コーナーが終って生放送中のスタジオをあとにする。このあたりも、ベルトコンベアで外に運ばれていくような感じ。
 本番中は鼻水がぴたりと止まっていたことに、このとき初めて気がつく。
 メーク落としやら挨拶やら終えて局を出ると、もう午前零時半。帰宅後も心身は昂奮しているので、あっというまに三時半くらいになる。友人は夜のない生活だと言っていたが、たしかにこの時間帯に毎日本番というのはきつそうだ。
 ところで「今日の世界」って、むかし同じタイトルのニュースをテレビでよく見た記憶があるが、あれは何チャンネルだったか。

一月十日
 夜六時からのジンマン指揮N響の演奏会をきくためにNHKホールへ。昨日に続いてのNHK詣で。
 日経のSさんから「山崎さんて昨日テレビに出てませんでしたか、とN響の人が言ってましたよ」と聞く。視聴率低下をいわれながらも、やはりどこで誰が観ているのかわからないのがテレビ。

一月十五日
 宝島SUGOI文庫『帝都・東京』を読む。
 オリジナルは一九九五年刊の別冊宝島シリーズ歴史の再発見『帝都東京』で、現代東京の中の帝都の記憶を探ろうというもの。鮫ヶ橋、戸山など、我が家の近くで不可思議な雰囲気をもつ地域の歴史が扱われているのが購入動機だったが、藤森照信と井上章一の対談「『妄想力』を帝都の街造りにみなぎらせよ!」に、面白い一節をみつける。
 藤森が、神宮外苑の聖徳記念絵画館について述べたものである。
「この記念館はなんか非常に鬱陶しい。窓がなくて、ずんぐりむっくりしてて。僕もそれが非常に疑問だった。なんで記念すべき聖徳絵画館が鬱陶しいのか。でも、ある日、中へ入る機会があって、すぐ気づいた。中に明治天皇の一代記が描いてあって、明治天皇が愛した馬の剥製とか骨格が置いてある。あっ、これは廟だって。エジプトのピラミッドと同じように王の一代記の壁画が描いてあって、あの独特の自閉した感じというのは、廟だと思う。イメージ上は、明治天皇はあそこに埋まってるんだよ。ほんとだったら、明治神宮に遺体を埋め、そこに神社を作り、一代記とか、明治天皇の愛したものをいっしょに並べればいいんだけれど、それは慣習でできない。ほんとの遺体は京都の桃山御陵にある」

 絵画館そのものが巨大な廟。卓見だ。
 以前、私がここに入った話は可変日記に書いたが、そのときおもったのは中の絵画群が壮大な「明治神宮縁起絵巻」であるということだけで、建物が廟とは、考えもつかなかった。
 外苑は明治天皇の大喪が行われた青山練兵場の跡地であり、絵画館のすぐ北側には、そのとき遺体が安置された、葬場殿があった。
 絵画館が建てられたとき、同時に葬場殿祉にも記念の建造物が計画されたが、そちらは結局、円錐状に盛土して、上に楠を植えるだけにとどまり、絵画館が大喪の斎場を記念する建物となった。
 葬儀の故地に、廟にみたてた建物を建てる。この廟は、西洋風の建物(宗教色は抜いてあるが)だ。すると、同じ記念建造物でも隣接の明治神宮が和式なのに対し、こちらは洋式という対照になる。
 これは、明らかに意図的な設計だ。
 なぜなら、絵画館の中の、天皇の生涯を描いた絵画八十枚も、やはり日本画と洋画で半分ずつに分けているからだ。
 神宮と絵画館は和洋の一対で、明治帝を記念するものなのだ。神宮が内苑で、絵画館が「外」苑という名称にも、二重の意味があるわけだ。
 葬儀跡地の外苑が神社そのものではないのは、神道が死穢を忌むからだろう。洋式にするほかないともいえる。
 さらにうがって考えると、外苑が東側にあるのは、京と東京の関係に対応しているのかも知れない。
 和魂洋才、なんて言葉が明治期にあったが、神宮と外苑は、その時代精神を具現化しようとした霊域なのだろう。

一月十八日
「合羽坂に陸の橋が架かると云う話は大分前から聞いていたが、この頃外に出て見ると、辺りの模様が、だんだんそう云う風になって来た。合羽坂から真向うに見える四谷の丘の削り取った土肌が露出している崖の上に、四谷塩町の辺りから延びて来た新開道路の両側の家並みが、そこでぶつりと尻切れになっている」

 右は内田百閒の随筆「丘の橋」。
 宝島SUGOI文庫『帝都・東京』の佐伯修執筆の戸山ヶ原の項で、曙橋について述べた部分にこの随筆が紹介されていたので、それを含むちくま文庫の『忙中謝客』を購入して、読む。
 合羽坂に架かる「丘の橋」とは、新宿区で靖国通りを跨ぐ外苑東通りの陸橋、曙橋のこと。
 これが架かる以前、通行はここで谷をはさんで南北に分断されていた。しかも外苑東通りのうち、四谷三丁目の交差点(戦前は四谷塩町と呼ばれていた)の北側の北半分、東北へ曲がった部分は、昭和初めにまったく新たにつくられた道路(新開道路)だった。
 内田は一九二九年から三七年まで合羽坂上の市谷仲之町の借家に住んでおり、この随筆はその末期のもの。初出は一九三七年十二月、東京日日新聞である。
 軍国主義が足を速めたこの時代、帝都では自動車用の幅広の新道の建設が進められていた。外苑東通りだけでなく、曙橋下の靖国通りも同様の計画により、やはり新造されつつあった。内田は、その完成前の景色について触れている。
「合羽坂と四谷の丘の間の、普通の橋で云えば川が流れているところにあたる低地は、市ヶ谷から新宿の方に通ずる谷町の通りであって、軒の低い店屋の並んだ狭い往来を夜遅くまで自動車がひっきりなしに通るので、しょっちゅう人死にがある。士官学校の馬丁が通の飯屋で一杯飲んで、一足外に出たところを、暖簾とすれすれに走り過ぎた自動車に跳ねられて、その場に死んでしまった事もある。
 その狭い通を、半分ばかりはもとの儘に残したまま、すぐ裏側に立派な大通りが出来かかっている。ごみごみした長屋のかたまっていた辺りが、広広とした舗装道路になって、両側には歩道もついている」

 裏側(南側)の「立派な大通り」が現在の靖国通り、「市ヶ谷から新宿の方に通ずる谷町の通り」が旧道だ。
 当時、谷町とは現在の「あけぼの橋通り」、外苑東通りの西側を南北に走る谷間のことだが、内田はその南端(現在の住吉町交差点)から東に折れて、市ヶ谷見附へ向う道もそう呼んでいる。町並みはつながっていたろうし、やはり南北の崖にはさまれた地形だから、ここもそのまま谷町と俗称されていたのかも知れない。この「谷町」について、内田は一つ興味深いことを書いている。
「芝居でする四谷怪談のお岩さんは、谷町辺りにいたのだという話を聞いた事があるが、今でも津ノ守坂の下の辺りに蓮池と云う俗称が残っている事から考えると、一帯が湿地であって、泥川が流れていたかも知れない。四谷怪談の戸板流しは今の市ヶ谷見附の濠に、谷町の方面から来た下水が流れ込んでいる辺りであったと云う事であるから、昔は川や沼であったところに人の家が建ち並んで、自動車が走り、夜は美しい燈火が低地一面にきらきら光っている」
 お岩は、本当は市ヶ谷谷町にいた、というのだが、典拠は何なのだろう。
 いうまでもなく、お岩稲荷があるのは四谷の左門町だし、鶴屋南北が、実在の田宮家の抗議を避けるために舞台としたのは雑司ヶ谷四谷町(目白通りの、高田一丁目交差点付近にあった四ツ家町のことだろう)であって、市ヶ谷谷町ではない。江戸期の左門町も、住吉町交差点付近も、同じ御先手組の屋敷町ではあるが……。
 あるいは、鮫ヶ橋の谷町(現在の若葉二丁目と三丁目)と、市ヶ谷谷町とを混同したか。鮫ヶ橋谷町は左門町東の谷底にあった貧民窟で、お岩の墓も近くの元鮫ヶ橋の妙行寺(現在は西巣鴨に移転)にあったから、左門町と関わりが深い。
 戸板流しの隠亡堀も、鶴屋南北が設定した砂村(江東区)では遠すぎるが、市ヶ谷見附の濠なら、雑司ヶ谷からでも谷町からでも左門町からでも近い――まあこれも、信濃町の千日谷会堂付近にあった焼場を水源の一つとする鮫河なら、隠亡に縁が深いわけだから、やはりその下流の鮫ヶ橋付近と考えた方が、より自然な気がするが。
「橋の真下になる辺りにあった長屋が取払われて、夏の夕方など濛濛する煙の中に裸でうようよしていた住民達は、どこの方に散らばったのであろう。その中に、私は家まで知っているのだが、不気味なおでこをしたお神さんがいて、顔を見るとついお岩さんを思い出すのであった。昔の恨みがそこいらの窪地に残って、一人ずつはそんな女が絶えないのではないかと思ったりした」
 曙橋下の町も、貧民窟とまではいかないにせよ、豊かではなかった。そして四谷怪談に、窪んだ低湿地のじめじめした空気が似合うのは、中沢新一が『アースダイバー』で指摘する通りである。
 一方、合羽坂上の仲之町は「皇族の臣下された華族や、日本銀行の副総裁や、証券会社の社長や、皇室の女官長や、軒なみ偉い人ばかりのお屋敷であった」と内田が書いている。坂の上と下には、極端な貧富の差があったのだ。

 読んでいて楽しくなってきたので、曙橋に行ってみる。
 この陸橋が出来たのは一九五七年、つまり内田が件の随筆を書いてから、二十年も後のことだった。戦況逼迫の中、工事が中断したままになったらしい。
 驚いたことに曙橋の下には、靖国通りとは別に「市ヶ谷から新宿の方に通ずる谷町の通り」が、北側に細く、だが、ちゃんと残っていた。馬丁が跳ねられたのはどの辺りか、などと思いつつ歩く。
 道の記憶というのは、意外に深いものなのかも知れない。
 この「谷町の通り」も、新しい広い車道に踏みつけられ、横切られながら、あけぼの橋通りにぶつかるまでの道筋を、ちゃんと残しているのだ。
 以前から、住吉町交差点は妙に土地が無駄に余っている印象があって、不思議だったのだが、靖国通りに並行するこの旧道の存在を考えると、旧道沿いの土地の権利関係が複雑で、私道や空き地のままになっているのかも知れない。
 それから、この交差点から北に入る、あけぼの橋通り。東京のごく普通の町並みなのに、暗さと湿り気を宿しているのは、これが谷底の道、「谷町」だからということに、あらためて気がついた。
 崖上の建物を明るく照らす日光が届かず、道がうねって視界が開けないのが、暗さと閉塞感の原因なのだが、これは谷底の、かつて川が流れていた地形なら、当然のことなのだ。
 そしてそれは、かつて鮫ヶ橋谷町だった、若葉の通りの地勢にも共通する。
 また、千鳥ヶ淵の交差点からイギリス大使館の脇を下り、一番町交差点をこえて西に向うあたりも、幕末には谷町と呼ばれ、麹町の武家屋敷の真ん中に異彩を放つ町人地だった。あれも谷底をうねる道で、江戸初期にはその名も麹町地獄谷(!)と呼ばれ、死体を投げ込む場所という伝説があったという。
 いま谷町といえば、首都高速のジャンクションの名前ぐらいにしか残っていない。あの真下、サントリーホールの西南にも寺と墓地の坂下に谷町があったが、現在は改称して六本木一丁目である。
 戦後、近代化の加速とともに、本性を隠すかのようにその名を伏せた「谷町」とは何か。俄かに興味がわいてきた。

 靖国通りを合羽坂下交差点まで東に戻り、かつての「蓮池」なる池を想像しながら、津の守坂をのぼる。
 尾張家支藩、高須松平摂津守の屋敷の門前を通るこの道は、直線で見通しがよく、明るい(江戸期には一部が階段のようだから、もっと急だったろうが)。
 幕末、市ヶ谷甲良町にあった道場の試衛館から柳町通りを南下してきた近藤勇や土方歳三は、合羽坂を下り、向いの津之守坂を上って現在の新宿通りに出、西進して四谷の大木戸を抜け、追分から多摩方面の出稽古に向ったのではないか。
 外苑東通りも靖国通りもないなら、これが真当な順路だろう。のちに京洛でかれらの後楯となる会津中将松平容保の実家の前を、若き日のかれらは、そうとも知らずに歩いていたのだ。
 などと妄想すると、陽光の下をかれらと一緒に歩いているような気になって、嬉しくなる。帰宅。

一月二十日
「偏狭なるわが画興に適する(略)第一は鮫ヶ橋なる貧民窟の地勢である。四谷と赤坂両区の高地にはさまれたこの貧民窟は、掘割と肥料船と製造場とを背景にする水場の貧家に対照して、坂と崖と樹木とを背景にする山の手の貧家の景色を代表するものであろう。四谷の方の坂から見ると、貧家のブリキ屋根は木立の間に寺院と墓地の裏手を見せた向側の崖下にごたごたと重り合ってその間から折々汚らしい洗濯物をば風邪に閃している。初夏の空美しく晴れ崖の雑草に青々とした芽が萌え出でて四辺の木立に若葉の緑が滴るころには、眼の下に見下ろすこの貧民窟のブリキ屋根は一層汚らしくこうした人間の生活には草や木が天然から受ける恵みにさえ与れないのかとそぞろ悲惨の色を増すのである。また冬の雨降り濺ぐ夕暮なぞには破れた障子にうつる燈火の影、烏鳴く墓場の枯木と共に遺憾なく色あせた冬の景色を造り出す」

 右は永井荷風の随筆集『日和下駄』の「閑地」より(講談社文芸文庫)。これも宝島SUGOI文庫『帝都・東京』の村野薫執筆の「貧民窟」に紹介されていたので、購入したもの。
 新宿通りの四谷二丁目交差点を南に曲がり、急な坂を下りきったところで東に曲がると、かつての鮫ヶ橋谷町である。現在の若葉二丁目から三丁目にかけての若二商店街の通りだ。周囲の高所から斜面にかけて寺と墓場(服部半蔵や長谷川平蔵の菩提寺がある)が続き、それを抜けた、うねって視界のひらけない谷底にある。往時は山腹からわき出た細流が底を走り、鮫河となって紀州藩中屋敷(現迎賓館)を抜け、溜池に注いでいた。
 鮫ヶ橋は、江戸期には夜鷹、すなわち街娼の巣窟だったという。明るいところで顔を見たら歯が抜けた婆さんだったとか、梅毒を伝染されて鼻が落ちるとか、そういう夜鷹が多くて怖かったとは、川柳や落語家の噺でおなじみである。
 明治期には車夫や屑拾いなど最下層労働者の町となり、下谷万年町、芝新網町とともに、東京の三大貧民窟として知られた。荷風の『日和下駄』が書かれた大正四(一九一五)年にも、その貧しさは変っていない。
 その貧しさを象徴するのは、住民たちが残飯を買って食っていた、という事実である。昭和初期の調査では、鮫ヶ橋小学校(現在の若葉公園)の児童約三百九十八人のうち四分の一の百四人が、残飯を主食にしていたという。残飯の供給源の大手は市ヶ谷の陸軍士官学校(現防衛省)、青山の歩兵第三連隊(現在の六本木七丁目、青山霊園の東南側)などの軍事施設で、時代が進むにつれて百貨店や劇場の大食堂なども加わった。
 残飯食いはどこの貧民窟でも同じだった。四谷旭町、江戸期は天龍寺門前町と呼ばれ、現在の新宿四丁目にあった貧民窟――木賃宿の流れをついで、いまも安ホテル街がある――では、新宿三丁目の百貨店の残飯が主だったという。
 残飯に金を払って食べて生きる貧困は真に悲惨だ。それが軍隊、百貨店など、西洋化の象徴というべき場所から、まず出てきたことには考えさせられる。
 現代の日本は食料供給量の四分の一を残飯として処分しているのだそうだが、それに金を払って食う人はいない――黙って客に出す高級料理店はあったが。
 日本人にとっては、誰もが残飯を出せる社会こそが、西洋化の証明なのか。

 現在の若葉二丁目と三丁目には、貧民窟など影も形もない。荷風が見た貧家は消え、普通の住宅と商店がある。
 正確な時期は知らないが、高度成長期までに変ったようだ。一億総中流化と、東京の土地が寸土にいたるまで資産化される社会状況が貧民窟を消した。地名も谷町二丁目は寺町と合して若葉二丁目、谷町一丁目は若葉三丁目となり、鮫ヶ橋小学校跡地の谷町公園も若葉公園と改称した。市ヶ谷谷町が住吉町となったように、ここも「谷町」の名を消した。
 だが、地勢は消えない。平地なら道路も簡単につけかえられるから、建物を建て替えれば、かつての様子を想像するのは困難になるが、谷地では道路も家も、用地や方向が地形によって限定される。地理的特徴が、過去の人間の生活を想起させる「地勢の記憶」。
 私は目黒区緑が丘という、昭和になって宅地化された、それまではただの田畑だった過去しかもたない、郊外地域に育った。そこではまったく感じることのなかった面白さ。それが江戸の山の手の、山と谷の地勢が記憶する歴史だ。古くから陸地だった洪積層と、縄文時代には海だった沖積層の錯綜が描くまんだら。

一月二十一日
 藤川真弓ヴァイオリン・リサイタルを聴きに、千駄ヶ谷の津田ホールへ。
 我が家からだと電車に乗るには中途半端なので、小雨だが歩く。
 新宿通りから、外苑東通りか西通りに入って南下、中央線の線路をまたぎ、西進して千駄ヶ谷駅前に出るのが一般的だが、ちょっと気分を変えて、東西二つの外苑通りの中間にある、大京町の細い通り(正式名称不明)を南下。
 これが面白いというか怖い。途中まではさびれた商店街が続き、これはこれで陰気だが、それを過ぎて慶応病院の裏側に出たところが、怖い。
 道が拡がって「医学部附属予防医学教室」という、昭和初期風の古い建物が出現。これとその隣の「北里記念図書館」というのが、雨の薄闇の中で、何とも気味の悪い雰囲気を漂わせる。
 白衣の人が数人ずつ、闇の中から現れては、脇目もふらずに建物の内外に小走りで消えるのも、妖しさの香辛料。
 大きな慶応病院本棟の裏に、こんな古い建物が残っていたとは。
 津田ホールでこの様子を日経のSさんに話すと「それって『海と毒薬』の世界みたいですねえ」と言われたが、まさにぴったり。

 しかも、ここからが肝心なのだが、細い通りなのに、ちゃんと中央線をまたぐ陸橋がついていて、歩行者は外苑に入れる。また直交する道を使えば、外苑東通りにも西通りにも出られる。
 細くて目立たないのに、妙に便利な道なのだ。それで連想したのが、雑司ヶ谷の墓地とか桐ヶ谷の焼場の周囲にも、同じように便利な道がめぐっていたこと。ただしそれらは、もっと細かく曲がったりしているが、ともかく道なりに進んでいけば、やがて大通りにぶつかり、その交差点には信号がちゃんとあって、左右どちらにも自由に出られるのだ。
 この大京町の道も病院の裏だし、この道をよく使うのは、たぶん生者だけではないのだろうな、とおもう――むろん、まったくの推測にすぎないが。
 道の雰囲気というのは不思議だ。
 たとえば鮫ヶ橋谷町の道なら、一本道なのにうねっていて視界が開けず、しかも、入り口にはいまでも何となく入りにくい気配が漂っていて、知らない人が入りこむことは少ない。
 前述の「死者の道」が便利でわかりやすい(目立たないがわかりやすく、入りこみやすいのだ、不思議に)のとは対照的だ。現世の苦界の「生者の道」は、もう貧民窟などないのに、形状だけはそのまま、不便でわかりにくい。
 そういえば、内田百閒が眺めた市谷谷町の通りも、入り組んだ「生者の道」だったろう。それをつぶして、見通しのいい「靖国通り」、文字どおりの「死者の道」が出来たというのは面白い。

 慶応病院の用地には、それ以前は陸軍の輜重部隊がいた。大京町の通りの先に陸橋がかかっているのは、かれらと青山練兵場(外苑)を直結するためだ。
 明治の地図を見ると、戸山の陸軍学校から市ヶ谷の士官学校、信濃町の輜重兵営、青山練兵場、陸軍大学校、そして南青山の第一師団司令部と第三連隊兵営まで、現在の外苑東通り沿いには、陸軍の施設が北から南へ連なっていた。
 外苑東通りの原案は(曙橋の「丘の橋」も含め)、かれらを結ぶためにこそ計画されたのかも知れない。
 荷風は『日和下駄』に書いている。
「慶応義塾に通う電車の道すがら、信濃町権田原を経、青山の大通りを横切って三聯隊裏と記した赤い棒の立っている辺りまで、その沿道の大きな建物は尽く陸軍に属するもの、又電車の乗客街上の通行人は兵卒ならざれば士官ばかりという有様に、私はいつも世を挙て悉く陸軍たるが如き感を深くする」
 そして四谷の荒木町は、この陸軍銀座の、ちょうど南北の中間点にある。高級軍人には待合がつきもの。どうりで三業地が繁盛したわけだ。

二月十一日
 すみだトリフォニーホールで、ブリュッヘンと新日本フィルのロンドン・セット演奏会第一回を聴く。
 いかにも交響曲らしくなる百番以降と違って、合奏協奏曲的な箇所が残っているのが、ナマで聴くとよくわかって興味深い。
 あとで十二曲のメヌエットのどれかを演奏されても、正確に番号を当てられるのはきっと安田和信さんぐらいだろう、なんて無責任な話を、休憩中に片山杜秀さん、満津岡信育さんと交わす。
 このあとも二十八日まで、四回すべて聴く予定。

二月十四日
 オペラシティコンサートホールで、ラファウ・ブレハッチのピアノ・リサイタルを聴く。
 グラモフォンから出たウィーン古典派のソナタ集の、軽やかなリズム感がとてもよかったので期待して聴きにいったのだが、主張の見えにくい単調な演奏。このホールはピアノが単色に聞こえる印象があるので、それもあるのだろう。
 九日に聴いたベルリン放送交響楽団の演奏会でも、ベートーヴェンの協奏曲第四番での解釈は上滑りしている印象だった。そのときはヤノフスキとのスタイルの齟齬かとおもったのだが。
 まだ若い。響きそのものは好きなタイプなので、後日に期待。

二月十九日
 『東京の消えた地名辞典』(東京堂出版)なる本を書店で見つけて、谷町の地名を調べようと読んでみた。
 そこで偶然、市ヶ谷監獄、なるものがあったことを知る。
 旧幕以来の小伝馬町の牢屋敷に代るものとして明治初年につくられ、周囲の市街化で新設の巣鴨刑務所に移る大正初年まで、つかわれていたという。
 市ヶ谷、というと郊外育ちの人間は反射的にJRの市ヶ谷駅周辺を考えてしまうのだが、現在の地名は市ヶ谷台町、つまり都営新宿線曙橋駅、住吉町交差点の西北にあったという。かつての市ヶ谷谷町の、西側の山の上だ。うちのすぐ近くなので、興味がわいてネットで検索。地図などいろいろと紹介されていた。
 いま、住吉町交差点と抜弁天を結ぶ放射六号という、片側二車線のだだっ広い直線道路ができており、その北半分が余丁町、南半分が市ヶ谷台町である。その台町の部分が、ほぼそのまま市ヶ谷監獄の用地だったらしい。
 驚くと同時に、少し納得。
 抜弁天に猫の病院があるので、診察などの用事で放射六号はよく歩く。一面の住宅地だが、古い町にしては雰囲気のない、家が建てこんで用地に余裕のない様子を、以前から不思議に感じていたからだ。それが監獄の跡地だったとは。
 さらにあるサイトを見ていて、放射六号近くの、富久町児童遊園こそがかつての刑場跡だと知って、関心が黒雲のようにふくらむ。
 絞首刑場のほか、明治十二年までは江戸時代式の斬首場もあった。幸徳秋水たちが絞首刑になり、毒婦高橋お伝が首斬り浅右衛門によって斬首になった場所。
 この事実を知ったのが午後三時。すぐに向えば日没までに充分に歩き回れるので、仕事を放りだして家を出る。

 放射六号沿いに余丁町児童遊園があるのは、以前から気づいていた。
 それなりに広く、子供がよく遊んでいる。しかしその裏に、地続きで別に「富久町」児童遊園があるとは、知らなかった。刑場跡は、その富久町児童遊園の方だという。その名称にもかかわらず、住所が富久町ではなく余丁町四であることも、何やら因縁がらみ。
 靖国通りから上り、監獄西側の境とおぼしき住宅街の道をたどり、到着。
 たしかに不思議なつくりだ。地続きの児童遊園なのに、その一画だけ用地が張り出して、段差があって下がっている。しかし名称は低い柵に小さく書かれているだけだから、二つが別の公園であることに気がつく人は少ないのではないか。
 そうして、その隅にたしかにあった。

東京監獄市ヶ谷刑務所 刑死者慰霊碑

 監獄跡地がすべて宅地化されても、さすがにこの一画はどうにもならず、空き地のままだったのか。
 それが児童遊園になった。刑場跡が児童遊園。無邪気に遊ぶ子供たち。まあ、土地を浄化するにはこれがいいのかも。

 曙橋…。谷町に続き、今度は監獄。
 さらに永井荷風は、大正初年に『日和下駄』を書いたころ、大久保余丁町七十九番地にある父の邸宅に同居していたらしい。これは現在の余丁町十三のあたりで、市ヶ谷監獄の斜め向いだ。
 この地域は、どうもとても面白い。
 以前、ここの歴史的経緯など何も知らないだろう人がブログに「山手線の中なのに、仕事で曙橋に来ると、なぜか地の果てに来たみたいに感じる」と書いていたのを読んだことがある。
 たしかに妙に殺風景で、戦後になってひらけた郊外の、大きな国道沿いの風景みたいな印象があるのだ。私みたいな郊外育ちにとっては、だからこそ、ある種の親近感――近親憎悪的感情も含めて――が湧くのだけれども。
 このあたりの靖国通りも台町も、その姿になってからの歴史が古くないことを思えば、この印象は、あながち外れではなかったわけだ。

 ところでふたたび、市ヶ谷監獄。この用地は旧幕時代、ほぼそのまま備中松山藩板倉家の下屋敷だったらしい。
 板倉周防守って、あれ? とひっかかって調べると、やはり京都所司代板倉勝重の家系で、幕末には、老中をつとめた板倉勝静(かつきよ)が当主。
 かれは百姓出身の山田方谷(河井継之助に大きな影響を与えた人)を抜擢して藩政を委ね、自身は幕政に没頭した。
 養子で、実は白河公松平定信の孫であり、家康と吉宗の血を引く人なのだ。その血筋を意識してか、戊辰戦争でも最後まで官軍に抵抗して函館の五稜郭まで行き、維新後は上野東照宮の宮司として徳川家への忠誠を全うした、気骨の人だ。
 一方、薩長にとっては憎き奸賊。勝静の抵抗が原因で松山藩は減封された。
 廃藩置県の後、ここを監獄に選んだのは、そういう人物の屋敷跡だということと、無関係ではあるまい。
 本来は山上の、広い台地で日当たりのいい好地なのである。立地条件の等しい近隣の仲之町や余丁町の景色を思えば、ここを監獄にするのはもったいない。たとえば一九〇二(明治三十五)年、余丁町に広壮な屋敷を構えた永井荷風の父久一郎は、日本郵船横浜支店長という名士だった。
 なのに監獄。それは、父祖に殉じた孝心への報いだったのか。
 とすれば、この土地は、恥じるどころかむしろ誇るべき歴史を持っているのではないか、そんな気もしてくる。

二月二十日
 市ヶ谷監獄の話の続き。
 昨日ネットで色々と読んでいて、どうも腑に落ちない点がいくつかあった。
 微妙に話が矛盾するのである。用地のこと、刑場跡には、その名も絞首観音なる観音像があったらしいこと、等々。
 で、もう一度よく調べてみたら、なんとこの地域には監獄が二つ、別々に隣りあって存在していたのである。
 市ヶ谷監獄と東京監獄。後者がのちに市ヶ谷刑務所と改称したためもあり、しばしば混同されているらしいのだ。

 以前から『昭和東京散歩』(人文社)という本をもっていたので、古い東京に関心が向いてからは開く回数が増えていた。一九四一(昭和十六)年の地図と現在の地図をならべて見比べられる、便利なものである。
 それの牛込區市谷富久町に、面妖な建物があった。昭和十六年には市ヶ谷監獄は取り壊されていて、普通の住宅街になっているのだが、それとは別に西隣の富久町、都立小石川工業高校あたりに、どうも刑務所らしき建物があるのである。
 なぜ刑務所と思うかというと、「大」の字のように、細長い四棟の建物が放射状に建てられている。これがかつて犬山の明治村で見た、金沢監獄によく似ているのだ。金沢監獄の方は「不」の字のように五棟になっているけれども、いずれにせよその交点、扇の要の部分に看守所を置くことで、看守が五棟の牢屋をいっぺんに見渡せるようになっているのだ。
 なぜそんなものが市ヶ谷監獄以外にあるのか、と思っていたのだが、これが東京監獄、市ヶ谷刑務所の跡だったのである。だが市ヶ谷刑務所は昭和十二年に移転しているから、四年後のこの地図ではすでに無人となり、建物だけが取り壊しを待っていたのだろう。地図に何の説明もないのは、おそらくはそのためだ。

 二監獄の履歴を較べてみる。
 市ヶ谷監獄 明治八(一八七五)年設置。明治四十三(一九一〇)年、豊多摩監獄(のちの中野刑務所、現平和の森公園)に移転、廃止。
 東京監獄 明治三十六(一九〇三)年に鍛冶橋から移転して設置。大正十二(一九二三)年、監獄官制改正により市ヶ谷刑務所と改称。昭和十二(一九三七)年、池袋の東京拘置所(巣鴨プリズン)完成により移転、廃止。

 市ヶ谷監獄は明治八年から四十三年、東京監獄は同三十六年から昭和十二年まで。つまり明治後半には、二つが並んで存在したのだ。併存期には、前者が既決囚、後者が未決囚を収容したらしい。
 そして、どちらにも処刑場があった。斬首が行われたのは前者のみで、高橋お伝はこちら。幸徳秋水の処刑は一九一一年だから、後者の東京監獄において、ということで別々の場所になる。ネットで拾った数字だから未確認だが、前者の刑死者千三百、後者三百ともいう。
 昨日行った富久町児童遊園は、後者の東京監獄の刑場跡だった。用地の北東角(つまりは鬼門だ)になる。余丁町にあるのに「富久町」なのは、東京監獄の跡地だから、ということか。
 では前者、市ヶ谷監獄の刑場跡はどこだったかというと、現在の市ヶ谷台町十三番地、放射六号が軽くクランク状に曲がるあたり、やはり用地の北東側だ。
 移転後、慰霊のために大正二年にここにおかれたのが、絞首観音という不気味な綽名の、三、四尺の観音像だった。

 ということで、今日はそちらの刑場跡を観察に行く。
 刑場があったころは、鬱蒼として高い林に囲まれていたらしいが、いまは普通の住宅地。絞首観音は戦時中に供出されたため、青峰観音という手の平サイズの像が代りに置かれ、小さな祠がある。
 左はその名も観音ビル、右はそば屋。このそば屋は一度、山の神と来たことがあった。そのときは土地の由来など、まるで知らなかったが。
 ここについては、荷風の『日和下駄』に一文がある。「閑地」の章、鮫ヶ橋の火避地、現在のみなみもとまち公園について触れた直後に出てくる。
「わが住む家の門外にも此の両三年市ヶ谷監獄署後の閑地がひろがっていたが、今年の春頃から死刑台の跡に観音像ができあたりは日々町になって行く、遠からず芸者家が許可されるとかいう噂さえある」
 明治大正期は東京の市街拡大によって三業地、二業地も増加していた。ここに「芸者家」ができれば、戸山ヶ原の軍人さんたちが上得意になったにちがいないが、それは実現しなかったようで、住宅用に分譲されたが、きちんとした計画もなく、入り組んだ狭い道や路地で結ばれた。空襲で焼けたが、戦後も同様に再建されたらしい。

 それにしても監獄の跡地が、刑場跡まで含めて普通の人家になっている例は、他に少ないのではないか。
 たとえば伝馬町の牢屋敷跡は、その後住む者もなく閑地状態が続き、結局は十思公園と小学校、そして刑場跡は大安楽寺という寺になった。鈴ヶ森と小塚原の刑場跡は、それぞれ寺院の境内になっている。鍛冶橋の警視庁にあった監獄は、いまはJR東京駅の線路用地である。市ヶ谷監獄が移転した先の豊多摩監獄は前述のように中野刑務所となり、いまは平和の森公園。池袋の東京拘置所はいうまでもなく、サンシャインシティだ。巣鴨プリズンの刑場というのはおそらく、いまの東池袋中央公園だろう(これも用地の北側)。渋谷区宇多川町にあった衛戍監獄(陸軍刑務所。二・二六事件の首謀者などがここで処刑されている)の跡地は、渋谷区役所、公会堂、税務署、小学校になっている。
 このように大概が公園か寺、公用地になっているのに、市ヶ谷は違う。
 まあ、東京監獄の方は一部が宅地とはいえ、中央部は小石川工業高校(市ヶ谷に移転したのに旧名の小石川を名乗り続けたことは、この場所の因縁と関係があるのだろうか?)で、刑場跡そのものは児童遊園になっている。ところが市ヶ谷監獄は、一面の住宅地だ。
 大正から昭和にかけ、東京の山の手地域の市街化、大衆化が急激に進んだ時代だったことが、背景にあるのかも知れない。斜面の墓地もどんどん取り払って、宅地にしてしまった時代である。
 青峰観音にお参りして合掌。隣のそば屋も、今度は食べにこよう。

二月二十五日
 昨日、ミュージックバードの番組「ニューディスク・ナビ」のために新譜を試聴していて、オリヴァー・シュニーダーというピアニストの「モーツァルト・コントラスト」なるRCAの二枚組の素晴らしさに驚いた。
 しばらく前に外盤で出ていたが、そのときはチェックしなかった。来日するわけでもないのに国内盤化する理由が何なのかは知らないが、たしかにこれは、そうしなければならない価値がある。
 調べると、他レーベルからショパンの小品集も出ている。いまなら『クラシックジャーナル』の新譜欄にちょうど紹介できる。というわけでCD店に行くと、幸いにも店頭在庫あり。勇んで購入、小躍りしながら帰る。

三月九日
 白寿ホールで、プレガルディエンの歌う「美しき水車小屋の娘」を聴く。
 バリトナルな暗い声が実に魅力的で、それを活かした独自の装飾も、刺激的で新鮮。ドイツ語の響きの美しさを堪能。
 この装飾歌唱は先般発売されたCDでも行われていて話題を呼んだが、ライヴではさらに自由度が増していた。
 プログラムによると、シューベルトと同時代のバリトン歌手フォーグルが自身の歌唱法を反映させて改変した校訂版をもとにしたものという(八月二十日注記 『レコード芸術』掲載のインタビューによると、プレガルディエンとゲースの創意によるものという)。そのような歴史的経緯を踏まえた解釈で、けっして恣意的ではないらしい。今回の来日公演でも《冬の旅》は普通に歌ったそうで、プレガルディエンがすべてをこの流儀で貫こうとしているわけではないようだが、いい意味で名人の古典落語を聴いていような趣があって、私はとても愉しかった。
 ゲースのピアノも豊かに反応し、とても面白かった。歌があるときは抑え、ないときは思いきって鳴らすという、強弱のコントロールが冴えていた(最後の方は疲れたか、ペダル操作が甘くなったのが惜しかったが)。こういう歌と演奏を小さな空間で聴けるのは素晴らしい。

 帰路。「宇田川下り」を試してみる。
 白寿ホールは、小田急線の代々木八幡駅と千代田線代々木公園駅から南に少し下った、井の頭通りと東急本店通りの交点にある。
 このあたりに、かつて宇田川という川が流れていた。ここまで来たから、その河道を探して、歩こうと思ったのだ。
 この川の水源の一つは、代々木の狼谷(迫力ある地名…)というところで、江戸時代には焼場があり、今もそのまま、代々幡斎場という火葬場になっている。現在の渋谷区西原二丁目のことだが、これがウチのあたりと縁があるのだ。
 信濃町駅の南に千日谷会堂という葬祭場がある。あそこは江戸時代の初めに焼場だった。途中で周囲の市街化が進んだために西へ移転したのが、狼谷なのだ。
 この二つには、地形的共通点がある。谷の奥のどん詰まりで、水が湧く場所なのだ。谷底というのは、昔の日本では人や動物の死体を投げ込む場所というイメージをもっていて(麹町地獄谷とか)、そしてその谷の奥の水源地が、死者の弔いを行う場所とされてきたらしい。以前紹介した渋谷の神泉も、かつては隠亡谷と呼ばれた水源地だった。
 それで千日谷と似ているのかどうか、いちど狼谷を見学して、そこから旧宇田川の河道を歩いてみたいと思っているのだが、白寿ホールはちょうど渋谷への中間点にある。よい折なのでまずそこから渋谷まで歩くことにした。予報では雨だが、さいわいまだ降ってきていない。
 あらかじめ地図を見ると、井の頭通りと東急本店通りが並行して走る、そのちょうど真ん中に、うねりながら渋谷まで通じる道がある。蛇行するのは河道の特徴だから(蛇が水神というのは、こういう地形を見ると、なるほどと思う)、たぶんこれだと見当をつける。そして終演後、白寿ホール近くのその道をさがす。
 あった。
 その名もまさしく「宇田川遊歩道」。ごく簡単にフタをしただけのようで、下から「ゴオー」という流水の音がする。道筋は見事にうねっている。
 富ヶ谷から神山町までは車両通行禁止の遊歩道だが、繁華街の宇田川町に入ったところで、一方通行の車道になる。面白いのは、かつての堤を利用して、川を車道、沿った道を歩道にしてあること。そのため往時の雰囲気が想像しやすい。
 むかし、HMVがまだ東急本店斜め向いのワンオーナイン(いまのマルハンビル)にあった頃、休憩に出る店員さんたちとよく一緒に行った「アンカレッジ」(若い人はこの店名が何なのか、もうわからないかも)という喫茶店がある。その前の道に変な段差があるのを、いつも不思議に思っていた。
 今夜歩いてきて、その道がまさに旧河道だったことに気づく。そしてこの喫茶店が、川に架かる橋のたもとの位置にあることも確認。何となく腰が落ちつく店だったのは、「たもとの茶店」というロケーションのおかげだったのかも。
 河道は中華料理の「龍の鬚」と交番がある三叉路で、井の頭通りと合流する。
 暗渠はそのまま東に進んで、西武のA館とB館の間をとおり、山手線の下をくぐって(細いトンネルがある)、渋谷川の暗渠に合流する。しかし上流から歩いてくると、西武の間の道はゆるい上り坂になっていて、それが本来の河道ではないことがよくわかる。
 そこで右横を見ると、センター街の方がずっと低い。おそらく元の河道は三叉路の手前で右にそれ、センター街を進んで、駅前の交差点を抜け、宮益坂下で渋谷川と合流するのだろう。
 センター街がどうにもごちゃごちゃした落ちつかない印象(あそこが好き、というのは若い人以外少ないだろう)なのは、道が湾曲し、また窪地の底になっていて視界がふさがれるためだが、その両方とも、ここが河道だったことを考えれば当然なわけだ。
 センター街は低湿地、というより河原にあるのだ。全体に露店ぽい、小屋掛けじみた猥雑な雰囲気が抜けないのは、とすれば当然のことなのかも知れない。
 いまのHMVのセンター街側の入口の階段の上から、渋谷駅に向って下を歩く人々を水流に見立てて眺めると、消えた川の姿が見えてくるかも。
 河道を歩く面白さは、低い方に向ってしか流れない水に従って歩くので、常に谷底にいることになり、そこから見上げると、周囲の高低差がよくわかること。渋谷の複雑な地形も、川の流れで考えると把握しやすくなる。川が見えなくなっても、その気配と気分は消えない。

 それにしても、東京には川がないとあらためて思う。谷あいの温泉旅館などで真下に川があると、目も耳もくつろいだ気分になるが、東京はほとんどが暗渠だからつまらない。
 と、いう考えがいかに浅薄なものか、知人の教えで思い知らされた。暗渠にしたのは、下水道の整備と拡充が、昭和期東京の緊急の課題だったからだ。
 都市の川とはロマンチックなものではなく、ようするに下水なのだ。永井荷風は『日和下駄』で、下水があつまった汚い川にあえて風流な名をつける江戸人のセンスを面白がっている。
「河流と運河の外猶東京の水の美に関しては処々の下水が落合って次第に川の如き流れをなす溝川の光景を尋ねて見なければならない。東京の溝川には折々可笑しい程事実と相違した美しい名がつけられてある。例えば芝愛宕下なる青松寺の前を流れる下水を昔から桜川と呼びまた今日では全く埋尽された神田鍛冶町の下水を逢初川、橋場総泉寺の裏手から真崎へ出る溝川を思川、また小石川金剛寺坂下の下水を人参川と呼ぶ類である」
 しかし「今日の東京になっては下水を呼んで川となすことすらすでに滑稽なほど大袈裟である」というが、これが書かれた大正初期で既にそうなら、その後はさらに滑稽だろう。
 昭和の戦前から高度成長期にかけて、都市化と工業化が急激に進展、人口も爆発的に増加して、東京では下水道の整備が大きな問題になった。隅田川や多摩川が現代とは比較できないくらい、何も棲息できないほどにひどく汚染されたのはこの時代である。下水道と浄化施設の整備の遅れが原因だった。
 トイレの水洗化も進行中だった。目黒区緑が丘の我が家は、物心ついたときから水洗だったが、近隣でバキュームカーを見かけることが珍しくなかったから、汲取式もまだ方々に残っていたらしい。それらが順次水洗化されていたのだ。
 家の近くには呑川という、しかしとても呑めそうにない川が流れていた。幅の細い木の橋がかかっていて、上からよく川を眺めた。
 暗渠化と緑道化が始まったのは小学校に入る前後、一九七〇年前後だったと思う。呑川が消え、気がつくと側溝のドブにもフタがされ、物を落としたり、自転車がはまったりする危険がなくなった。バキュームカーも見なくなった。
 街は清潔になった。水が流れるのを目にするのは、蛇口から出て排水口に消えるまでの、わずかの距離だけになった。消えた溝川にロマンを感じたりできるのも、清潔な生活のおかげである。

 最後はタワーレコードにまわり、ちょうどプレガルディエンの《水車小屋》のDVDがあったので買い、線路をくぐって明治通りに出て、宮下公園脇の渋谷川の上をたどりつつ、副都心線の駅へ。

三月十三日
 「冬木透CONDUCTSウルトラセブン」を聴きにオペラシティへ。
 『ウルトラセブン』の音楽の作曲者である冬木透が、自ら編曲した交響曲《ウルトラコスモ》、交響詩《ウルトラセブン》などを、東京交響楽団(いつものことながらトランペット独奏が見事)を指揮して演奏するもの。
 ブリュッヘン指揮のハイドンを続けて聴いて、「交響曲」なるものが市民社会の隆盛とともに確立されたことを再確認したあとに、その末裔というべき日本式の大衆動員型交響音楽を聴くのは、なかなか面白い体験。
 特撮やアニメ関係のこうしたコンサートは、ライヴ録音と名がつけば何でも購入していた時代によくCDで聴いたが、ナマにくるのは今日が初めて。チケットは売切だそうで、会場は満員。お客さんがとても真剣に、神妙に聴いている気配が感じられる。そこに「音楽鑑賞」的な硬さがあって、その一種のこそばゆさを懐かしく、嬉しく思った。

 余談だが、ウルトラセブンもウルトラコスモも、ナカグロ(・)が入っていないのが好ましい。いまはやたらにナカグロで区切りたがるから、下手すればウルトラ・セブンなどとなるだろう。かつてはそうではなかった。
 ナカグロとか、送り仮名の扱いとか、現代の用法はたしかにわかりやすく統一性はあるが、杓子定規すぎてリズム感や流れを殺いでいる気がする。この点、音符を音価通りに鳴らして几帳面に置いていく、荘重様式の演奏と似ている。

三月十五日
 新国立劇場の中劇場で、同劇場のオペラ研修所による《カルメル派修道女の対話》を観る。
 一昨年見た《アルバート・ヘリング》が実にいい公演だったので、今年も楽しみにしていたが、期待は裏切られなかった。とてもしっかりと、入念につくられた公演。歌の巧拙はそれぞれにあれど、フランス語の響きが美しく、トレーニングの徹底ぶりがよくわかる。ヒロインを歌った上田純子は、シーンズ・リサイタルでは艶っぽい役を得意としている印象を受けたのだが、ここでは役のひたむきな性格をうまく表現していた。
 装置は簡素、オーケストラの編成も小さい。だが、こうした小規模公演の方が「オペラを味わった」気になるのは、なぜなのだろう。音楽をしっかりと全身で聴いた、という気になるのである。他の方は知らないが、私はそうだ。
 わかりにくい書き方を承知で書くと、小規模である方が、さまざまな「間」を感知しやすい気がする。それは時間的なものに限らず、空間的なもの、内面的なものまでを含んだ遠近の感覚だ。その間隔を利用して、想像力が働く。音楽なるものに私が期待しているのは、どうやら我が貧しき想像力を刺激して、その翼となってくれることらしいのだが、その飛躍の空間は、中小規模の公演の方が大きいようなのだ。
 ところで、中劇場でいつも気になるのが字幕の位置。舞台中央の上方にある。前方の客席だと首が凝りそうなのだが、そんなことはないのだろうか。

三月二十四日
 河村尚子のピアノ・リサイタルを聴きに紀尾井ホールへ。
 曲目は前半がスカルラッティ、ドビュッシーで、後半がショパン。この人のピアノは創意豊かで、詩情と幻想を大きな遠近感で聴かせてくれる。日本人にしてはまれな想像力と、それを実現するための多彩な語彙の表現力の持ち主。まだ若いから万全とはいかないけれども、ともかくどの曲も、よく考えられていた。
 ただ、「紀尾井ニュー・アーティスト・シリーズ」として、すべて無料招待の聴衆だったためなのか、客席に落ち着きがなかったのが残念。このホールは他会場よりも聴衆ノイズが響くように感じるので、かなり気をとられる。

三月二十九日
 千駄ヶ谷の古い道を歩いてみる。
 ちょっと長めに、西新宿の方から。都営新宿線の新宿駅で降りて甲州街道に出て、西新宿二丁目交差点のやや東から南下して、代々木駅へ向う道。この道に入った瞬間に、景色が「新宿」から「代々木」に変るのが面白い。といっても日本共産党的になるという意味ではなく(当り前だ)、代々木駅前の雰囲気がそのまま延長されている、ということだ。
 代々木ゼミナールが、とてつもない高層タワーとなったのに度肝を抜かれる。二十六階、とても予備校には見えない。
 しかし、街の雰囲気は懐かしい。若い人の街なのだけれども、予備校生中心だから学生街と違って飲み屋が少なく、欲望が隠蔽されて、表面的には禁欲が支配している。それなのに、あるいはそれゆえに、妙なエネルギーに満ちているのが独特で面白い。
 予備校というのは浪人であれ現役であれ、学究心ではなく入試突破という、新興宗教よりも徹底して現世利益を求める場だ。その目標に集中するために、他の青い欲望は一時的に隠されている。それが妙なエネルギー感の正体に違いない。
 かつて輸入レコード店「ジュピター」(私にとってはどこよりも思い出深いレコード店)があった金港堂書店二階を仰ぎ見て、代々木駅前を抜け、江戸期からの道のままに明治通りの北参道交差点を渡り、鳩森神社にお参りしてミニ富士に登山し、聖輪寺観音の脇を歩き、坂を下って、外苑西通りの観音橋交差点へ。

 ここにはその名のとおり、渋谷川に架かる観音橋があった。川はもちろん暗渠になっているが、外苑西通りと国立競技場のあいだの緑地になっている地帯に、かつての河道があった。地図上では、その河道が千駄ヶ谷一丁目と霞岳町の境界となって残っている。
 昔のままではないだろうが、河原の雰囲気をもつ緑地を北上。首都高と中央線のガードをくぐり、外苑西通りを歩く。
 渋谷川の源流の一つは、四谷の大木戸(四丁目交差点)のところで玉川上水から分れ、まっすぐ南に下る。それは外苑西通りの西側、新宿御苑の東の塀にそって流れていて、御苑正門(普段は閉鎖され、一般人は通行できない)のあたりで外苑西通りの下をくぐって、国立競技場方向へ南下していく。
 水流はないが、外苑西通りの橋はそのまま残っていた。南側(大京町二十九番地あたり)には、河道が湿った土の道として残されている。かつての川底には児童遊具が置かれ、「大京町遊び場」と名付けられているが、こんな人目のない、日陰でじめじめした溝の底ではいかにも人さらいが出そうで、そのせいか誰も遊んでいない。
 このあたりはかつて池尻という地名だった。御苑内の池が近くまで来ていたのだろう。江戸期の切絵図には、橋の脇に「水車」と書込がある。
 沖田総司がその納屋で若い死を迎えた千駄ヶ谷の植木屋平五郎宅は、千駄ヶ谷の「池橋尻」にあったという。おそらくは池尻のことだ。
 テレビの『新選組血風録』では沖田の最期の回で、植木屋の脇の水車が人の運命を示すように使われていた。あれは、この池尻の水車がモデルなのだろう。
 結束信二が書いた、沖田役の島田順司と土方役の栗塚旭の別れのやりとり(原作にはないオリジナル)が頭に浮かぶ。

「気をつけて行ってくださいよ。さっきみたいな、変な、ダンブクロがうろうろしている」
「大丈夫だ。俺は喧嘩をするときしないとき、そのコツを知っている」
「凄い人だな。いい死に方しませんよ」
「まったくだ。じゃ、行ってくる。……総司」
「えっ」
「今度生れるときはな、俺は、お前のような人間に生れたいと思っているよ」
 沖田、感激しつつ、笑いで涙を隠す。
「うふっ、困るなぁそれじゃ。だって私はね、今度生れ変ってくるときも土方さんと同じような人に、逢いたいと思ってるんですから」
「そうか。……。総司、また来る。元気でいろよ」
 見交わす二人。土方、あふれる思いを抑え、決然と、ふりむくことなく去る。
「さようなら。土方さん」

 「大京町遊び場」の地面の土をもう一度踏んで叩いて、新宿通りに出て帰宅。

四月四日
「どうも私の考えでは、鮫ヶ橋は容易ならぬところです。いつかそれ慈善会を打毀した、あの恐ろしい女乞食も鮫ヶ橋のものですよ。こう申せば何ですが、四ツ谷の空の一方には、妖しい雲が立ち上がって穏やかならぬ兆候が見えて、今にも破裂しそうで、気に懸ってなりません。打棄っておいてはお互の身の上でしょう。私の思いますには、彼らの心和らぐように折角恩を被せて、ねえ貴嬢」
(泉鏡花『貧民倶楽部』/『泉鏡花集成2』ちくま文庫)

 鮫ヶ橋が登場する泉鏡花の短篇小説二篇、『貧民倶楽部』『高桟敷』を読む。
 前者は明治二十八(一八九五)年七月の作品で、貧民窟鮫ヶ橋を根城とする快女お丹とその一味が、華族たちの偽善と裏の顔を暴き、懲らしめる物語。
 明治の作家が正面から貧民を扱った数少ない作品だそうで、内容はいかにも、明治二十年代東京のマスコミの気分を反映したもの。
 当時のマスコミとはすなわち新聞のことだ。自由民権運動とともにさかんになった明治の新聞は、新聞条例などによる規制を受けながらも、反体制的な色彩を濃くあらわしていた。
 その新聞が、二十年代に競って掲載したのが貧民窟潜入ルポである。それまでの日本では、仏教的な因果応報思想により「貧苦は怠惰の報い」とされ、救恤運動などなかったが、西洋社会思想が輸入され、個人の努力の有無とは無関係な、構造的社会悪としての貧民窟の悲惨な実態に眼が向けられはじめた。
 直接的には、イギリスの風刺誌「パンチ」連載のロンドン貧民窟探訪記などをヒントにしたらしい。日本での嚆矢は新聞「日本」に明治二十三年に連載された桜田文吾の『貧天地饑寒窟探検記』で、明治東京の三大スラムといわれる下谷万年町、芝新網町、四ツ谷鮫ヶ橋を中心に各地の貧民窟に潜入取材を敢行した。続いて「朝野新聞」「時事新報」も探訪記事を連載し、そして二年後の二十五年には「國民新聞」の松原岩五郎の『最暗黒之東京』、三十二年に横山源之助の『日本之下層社会』という、この分野での二大古典が登場することになる。
「鮫ヶ橋界隈の裏長屋は、人を容るる家と謂わんより、むしろ死骸を葬る棺と云うべし」
 泉鏡花が『貧民倶楽部』でこう形容した鮫ヶ橋を主人公たちの根拠地にしたのは、こうした探訪記の影響だろう。またその対極の華族の社交生活が華やかさをきわめたのも、まさにこの時代だった。明治十六年に開場した鹿鳴館は、二十七年に華族会館に払い下げられ、華族専用の社交場になっている。
 貧民倶楽部が華族倶楽部のもじりであることは言うまでもない。小説には鹿鳴館をモデルにした「六六館」が登場し、そこで開催された「婦人慈善会」に「女乞食」お丹が乱入して騒動になる。
 婦人慈善会とは、華族の奥方令嬢が行うチャリティ・バザー。「慈善」というのも西洋から輸入された概念で、実際に鹿鳴館では十八年から婦人慈善会が開催され、その多額の売上は慈恵医大附属の看護学校設立の一助となったという。
 こうした慈善ブームに、特権階級による偽善と自己満足の臭みが混じるのは避けがたい。華族の慈善と貧民窟の実態、明治二十年代のこの二つの流行事を組み合わせて、鏡花は物語をつくった。
 さらに、お丹が京橋の毎晩新聞の探訪員の仕事を請け負っていて、華族階級のスキャンダルを見つけては報告し、新聞を通じてそれを暴くという仕組には、社会の公器たらんという当時の新聞への鏡花の期待が表れている。そして、見栄と体面を極度に重んじる華族婦人社会(このあたりはひどく日本的)では、これが大きな効果を発揮することに、少なくとも作品中では、なっている。
 ところで六六館、「芝――町」と当時の芝区にあることになっていて、麹町区内山下町(現在の帝国ホテルの隣)にあった、現実の鹿鳴館とは異なっている。
 芝には現在の東京タワーのところに、紅葉館という名士貴顕のための社交クラブがあったから、こちらのイメージを重ねているのだろう。純和風建築の紅葉館は洋式の鹿鳴館よりも二年早く、十四年に開場していた。『貧民倶楽部』が書かれた頃には会員制ではなく超高級料理屋(一九六〇年代の赤坂ニューラテンクォーターみたいなものか)となっていて、鏡花の師、尾崎紅葉主宰の硯友社の面々も頻繁に利用していたという。
 作中では、華族が麻布市兵衛町(現在の六本木一丁目)の居館から六六館に向うのに、南の麻布の狸穴や我善坊町(麻布台一丁目北側の低地)を通っているから、六六館は位置的には紅葉館を目しているとみて間違いないだろう。
 またこうした地名が土地の貴賤の別を明示することが、ここではよくわかる。
 たとえば当時の市兵衛町は、梨本宮や大久保一翁邸のあるお屋敷町だった。対して我善坊は、徳川秀忠正室の崇源院を荼毘に付した場所といわれる、死者の弔いに関わる深い谷間。六六館へ向う華族を乗せた俥は、この谷で、貧民三十余人の異様な葬列に出くわすのである。
 登場する華族のお屋敷は、この市兵衛町のほか麹町区の番町や永田町、神田駿河台といった山の手の、高燥の台上ばかり。山の手の地形を人間の手に見立て、これら高燥地を指先とすると、低湿地の鮫ヶ橋は手のひらの真中のくぼみ、扇の要の位置にある。貧民お丹はそこから出撃して、華族の化けの皮を剥ぐ。
 これは、三大スラムの中でも、鮫ヶ橋が特別な位置にあることをうまく活用している。下谷万年町と芝新網町は場末に過ぎ、山の手の高燥地から遠い。対して鮫ヶ橋はその真中に沈潜している。
 町名は現実でも、さすがに建物や人名は架空なのだが、その中で宗福寺という寺が、作中でほぼ唯一の実在の建物として登場するのが面白い。四ツ谷の南寺町にあるこの寺で、華族婦人たちは鮫ヶ橋の貧民に恩を着せ、心を和らげて手なずけるため、米を無料で配ろうとする。
 その顛末は物語を読んでいただくとして、実際にこの寺に行ってみると、鏡花の設定の巧みさに感心する。
 南寺町は鮫ヶ橋の谷間に、西から東に向って直線に張り出した高地の、その尾根沿いの通りである。道の両側はその名のとおり寺ばかり続き、その裏の南北の斜面が墓地となり、それを抜けた谷底が貧民窟だ。宗福寺はこの南寺町の、東端にある。西からほぼ平らに伸びてきた道が、この寺の前から油揚坂(戒行寺坂)という直線の急坂になり、それを下ったところが鮫ヶ橋谷町の通りなのである。宗福寺は、貧民窟という異界に降りる手前の、境界の寺なのだ。
 全体に人物は戯画化されているが、なかでも愉しいのは華族に仕えている平民たち。貧民と紙一重なのに虎の威を借るかれらの、空威張りと卑怯ぶり。

 さて、新聞の活動であれ慈善であれ、こうした社会意識と行動は、前述したようにいずれも西洋からの輸入品である。
 永井荷風の『日和下駄』には、そうした風潮への反感が述べてある。他人事として「古寺と荒れた墓場と其の附近なる裏屋の貧しい光景」を眺めて喜ぶ態度をしばしば非難される荷風だが、それは精神修養のためだとかれは言う。
 東京の貧民窟は、ロンドンやニューヨークで見た西洋の貧民窟に対して「同じ悲惨な中にも何処となく云うべからざる静寂の気が潜んでいる」という。
「場末の路地や裏長屋には仏教的迷信を背景にして江戸時代から伝襲し来った其の儘なる日蔭の生活がある。怠惰にして無責任なる愚民の疲労せる物哀れな忍従の生活がある。近来一部の政治家と新聞記者とは各自党派の勢力を張らんが為に、此等の裏長屋にまで人権問題の福音を強いようと急り立っている。(中略)彼等が江戸の専制時代から遺伝し来った此の如き果敢ない裏寂しい諦めの精神修養が漸次新時代の教育その他の為に消滅し、徒に覚醒と反抗の新空気に触れるに至ったならば、私は其の時こそ真に下層社会の悲惨な生活が開始されるのだ。そして政治家と新聞記者とが十分に私欲を満す時が来るのだと信じている。いつの世にか弱いものの利を得た時代があろう」
「不衛生な裏町に住んでいる果敢ない人達が今猶迷信と煎薬とに其の生命を托しこの世を夢と簡単にあきらめをつけて居る事を思えば、私は医学の進歩しなかった時代の人々の病苦災難に対する態度の泰然たると、その生活の簡便なるとに対して深く敬慕の念なきを得ない。およそ近世人の喜び迎えて『便利』と呼ぶものほど意味なきものはない」
 全面的な賛成はできないが、個人の生き方としては否定もできない思想。

四月五日
 鏡花話の続き。
 『貧民倶楽部』は舞台化されたことがある。一九八六年に蜷川幸雄演出、堀井康明脚本、浅岡ルリ子主演で帝国劇場が上演した。当時の帝劇では蜷川と浅岡のチームで樋口一葉の『にごり江』に始まり、鏡花、谷崎、荷風などの小説の舞台化をシリーズにしていた。蜷川や唐十郎などアングラ演劇の人たちは、鏡花たちの妖しい曲馬団的耽美世界を好んで描いたから、その流れもあるのだろう。
 沢田研二の出演が『貧民倶楽部』ではいちばんの話題だった。ご近所が舞台だというので山の神が見にいったが、「ジュリー!」とたえまなく叫ぶファンの声がうるさくて、セリフが聞こえにくかったそうだ。
 ネットで見ると沢田の役名は、千破矢瀧太郎(ちはやたきたろう)とある。鏡花の別の短篇『黒百合』の主人公、華族にして盗賊の美貌の子爵の名前だから、戯曲化にあたって借りたのだろう。
 公演は当時から評判がよくなかったそうで、再演されたかどうかわからない。いずれにせよ、私は蜷川以降主流となった、やたらに怒鳴る演技が苦手なので、どうしても観たいとは思わないが。

 もう一つの鮫ヶ橋物『高桟敷』(文豪怪談傑作選 泉鏡花集/ちくま文庫)。
 こちらは『貧民倶楽部』から十六年後の、鏡花三十八歳の明治四十四(一九一一)年に発表されたもの。
 「谷町辺の坂下の窪地」とあるのみでどこの谷町かは書いていないが、「四谷の半分赤坂かけて、どこまで見通しか計り知られぬ」とあるから、まず鮫ヶ橋谷町だろう。「擂鉢の底のような処」という地形の描写も、いかにもそれらしい。口惜しいのはその近くとして出てくる、「強力松(ごうりきまつ)」なる地名の見当がつかないこと。
 掌篇で、明確なストーリーはない。逢魔が時に見た悪夢を文章にしたような、不気味な情景だけがある作品。世相の変化を反映してか、もはや『貧民倶楽部』のジャーナリスティックな公憤はない。
 ここでの鮫ヶ橋は、反体制派の巣窟ではなく、荷風いうところの「何処となく云うべからざる静寂の気が潜ん」だ、一種の迷宮に見立てられているのだ。
 屋敷町と卵塔場(浅学にして知らなかったが、墓場のこと。丸い墓石を卵に例えている。映画『エイリアン』の冒頭を思い浮かべてしまった)の交じる地域を抜けて坂を下ると、豆腐屋やラオ屋のある、にぎやかな通りに出る。これは寺町を抜けた、谷町の表通りあたりだろう。
 しかし少し行くと、「もうこわれごわれの長屋ばかり」。
「片側は一帯に裏が見上げるほどな崖で(略)じめじめと湿けていて、処々に樹の繁った、この崖に押被せられて、何時が世にも、長屋々々、その裏口には日の当たる瀬はあるまい」
「屋の棟へ、どろどろと崖の雪崩れた処には、蜜柑の皮、瀬戸物の欠片と一緒になって、上の墓地からであろう、卒塔婆の挫折れたの、石碑の砕けたのが、赤土まじりに、草の根に落掛って、しょぼしょぼ雨の陰気さだと、昼も青白く燃えそうである」
 このあたりの鏡花の、描写力と文体のリズムの勢いある合致には舌を巻く。
 夕暮せまる時分、墓場の崖にのしかかられた汚い長屋の路地にふと入り込んだ主人公は、黒板塀に囲まれた寺院に行き当たる。行き止まりか、と思って引き返そうとすると、抜けられますよ、と長屋の女に声をかけられる。
 しかしその言葉の裏に、なぜか嘲笑する気配を感じた主人公は、馬鹿にされてたまるかと意地になり、崖と黒板塀の隙間の、細い路に這入っていく。
「上は樹の間に、草を覗いて、墓石が薄のほうけたように、すくすくある、足許はもう暗い。溝の色は真黒で、上澄みのした水が、ちらちらと樹の根を映して流るるともなく、ただ揺れる。……そのへりを、畝って穴のような路は、漸っと人一人、崖と板塀とに、それも袂が擦れ擦れで」
 この、外観の形容と物の動きの描写という、静と動の両者をおかまいなしに、瞬時に混合させることでつくるリズムが凄い。野村胡堂は鏡花の文体のあまりに強い影響力から逃れるために、あの「ですます」文体に至ったというが、たしかにこれは危険な魅力を持っている。
 その文体の描写に導かれて、主人公は人ひとりがやっとの細い迷路を進んでいく。そして突然、下から見れば三階四階ほどの高さの崖の上から中空に張り出された桟敷、タイトルの「高桟敷」を黄昏の空に見上げるのである。

 ここから先は書くまい。鏡花ならではの迷宮をその文体で読まなければ、意味のないものだから。それに、鮫ヶ橋であれどこであれ、「谷町」という舞台装置の地形的気分を知っていてこそ、楽しめる作品という気もする。
 私はこれを読んで、夕暮の鮫ヶ橋が見たくてたまらなくなり、行ってみた。もとより架空の――まさしく空に架けた――幻想譚だから、高桟敷が実在するはずもないが、どのあたりの地形が鏡花に種を与えたのだろうと思ったのである。
 上町(地名ではなく、崖上の町という意味)はもはや味気ないビルに変わっていて、往時の高い樹々と草むす墓場の景色はない。崖下の寺院を囲み、視界を塞ぐ黒板塀もない。
 それでも、何となくの印象だが、下の妙行寺の崖際の墓場から、上の須賀神社の社を見上げたら、境内にまだ木々が残っているためもあり、作品世界の気配を少し感じられそうだった。

四月六日
 大岡昇平の『少年』を読み始める(新潮文庫)。
 明治四十二(一九〇九)年生れの大岡は、大正七(一九一八)年九歳のときから現在の渋谷区宇田川町三十二番地に住み、ついで同十一年から現在の松濤二丁目十四番地に移り、八年間住んだ。
 「ある自伝の試み」と副題されたこの作品は、大正時代の後半、青山学院の旧制中学を去る頃までを回想したもの。
 舞台として、まだ郊外の住宅地じみていた、しかし大震災後に急激に都市化する、渋谷の様子が略図つきで(この細かさはいかにも大岡)綿密に描かれる。
 明治期の山手線の西半分は、今の武蔵野線や南武線のような存在といっても大袈裟でない、郊外の武蔵野を結んだ貨物主体の鉄道だったらしい。田畑と林川の田園風景が、駅の出現で住宅地化し、やがて日本有数の繁華街となる。ここにはその変化のさなかのある時期が生活者の視点で描かれていて、現代からは目をみはるような記述が続く。
 大岡の宇田川町時代の家は、先月九日に「宇田川下り」をしたときに歩いた旧河道沿いの、大向橋(おおむかいばし)のたもとにあったという。この橋はどうやら、今のパルコクアトロの東側あたりにあったらしい。
 大岡家も近隣も、勤め人(いわゆるサラリーマン)に貸すべく新築された借家群で、大岡家の所には、もとは精米用の水車があったそうだ。明治二十八年、今の宇田川町八番地あたりに住んでいた国木田独歩の家を訪ねた田山花袋は、田園風景の中にその水車を見た記憶を『東京の三十年』に記しているという(これもぜひ読まねば)。
 田園風景はもちろん、大正七年の赤土と緑草の新興住宅街の景色さえ、今のセンター街からは想像しがたい。宇田川の暗渠を西武デパートの間へ移し、入り組んだ土地の高低を均し、道を新たにつけなおしたため、建物はもちろん、地形と道さえ、過去を偲ぶための頼りにはならないようだ。
 大岡家がここに越してきたころ、南側の荒木山(円山町)はようやく造成が済んで、家が建ち始めたばかりだったそうだから、やはり円山町三業地が形を整えたのは大震災以後のことなのだろう。
 現在のJRの渋谷駅と広場ができたのは大正九年のことで、それ以前の駅は三百米も南にあったというのも驚き。要するに、あの遠く離れた埼京線のホームこそが、旧渋谷駅の名残であるらしい。
 また、タワーレコード前の広い道路が昔はなくて、西側の丸井裏の細い道がかつての本道だったというのも目から鱗。タワーとHMVを行来するにはあの道を抜けて、ロフトの前を歩くのが早いと人に教わって自分もそうしているが、それがすなわち旧道だったのだ。このあたりは、消えない道の力という気がする。
 あと、今の神南小学校と渋谷税務署の位置にあった衛戍監獄、陸軍刑務所の話も、監獄づいた自分にはご馳走。四百頁の厚さを読みすすむのが楽しい。

四月七日
 五日に触れた鏡花の『高桟敷』について、もう少し。
 鮫ヶ橋の地勢を使ってはいるものの、細部の道筋などは架空にちがいないと思い込んでいたのだが、手元にある明治四十年(作品が書かれる四年前)の地図の複製を眺めていたら、そうではなく、実際の地形をほぼそのまま描いているのではないか、だからこそ逆に鮫ヶ橋をつけず、東京に複数ある「谷町」とだけ書いたのではないか、という気がしてきた。
 鮫ヶ橋の谷町の通りは、大雑把にいうと「つ」のような形に湾曲している。その左端は現在の津之守坂入口の交差点から南下する坂道につながって、「ら」の上の点を抜いた形になっている。
 ところが明治四十年の地図では、この南北に走る坂道とつながらず、「つ」のままなのだ。坂道と「つ」の左端との間を、寺と墓場がふさいでいるのである。そして両側は崖。現在は崖際の墓場を削って道とし、前述の坂道につなげているが、当時はまだそうなっていなかった。
 小説の主人公は「当なしに大通りを西へ入って、谷町辺の坂下の窪地をぶら」つく。途中「屋敷町に、処々まだ取払いを済まさない、卵塔場の交じったのを抜けて、がっくりと坂へ沈んだ、下り口は、急にわやわやと賑しく」とある。おそらくこれは、四年後に荷風も鮫ヶ橋谷町へ下りるのによく使ったという、西念寺の横町から観音坂を下る道筋だろう。
 底につくと谷町通りの中程である。荷風はそこから南に進んで、現在のみなみもとまち公園にあたる「火避地」に出るのだが、鏡花の主人公が逆に、通りを西へ進んだとすれば、なるほどたしかに、寺に行く手を阻まれることになる。
「前途にぴたりと、かなり大構の門がある。それから左右へ黒板塀を押廻した……その塀の角と崖の腹が、犇(ひし)とつぼまって薬研の如く、中窪みに向うが行詰まりになって」
 寺の名は日宗寺といい、現在もある。今は周りの墓場と庭は住宅地に変り、本堂しかないが、かつての境内は広く、中に池もあった。その池は埋め立てられ、家にかこまれた草地となっている。
 その境内を大きく、崖際まで黒板塀で囲っていたとすれば、『高桟敷』に出てくる景色そのものになるはずだ。
「その塀際を、ちょろちょろ水について構わずおいでなさいまし」
 そう長屋の中年女に言われて、主人公は黒板塀と崖の隙間の道に入っていく。
「塀の大な破目から、心するともなしに中を覗くと、五輪が見える。手水鉢が見える。向うに、干からびた藤棚があって、水は濁ったが、歴とした池がある境内の存外大い、これも寺院で、その池の面に、大空の雲がかかった」
 これは日宗寺の境内だろう。崖上は真英寺の墓地。
「上は樹の間に、草を覗いて、墓石が薄のほうけたように、すくすくある、足許はもう暗い。溝の色は真黒で、上澄みのした水が、ちらちらと樹の根を映して流るるともなく、ただ揺れる。……そのへりを、畝って穴のような路は、漸っと人一人、崖と板塀とに、それも袂が擦れ擦れで」
 ここでの要所は、崖上と崖下の双方に寺と墓場があることだが、鮫ヶ橋の枝分かれしていくつかある谷間のなかでも、崖下に寺があるのはこのあたり、谷町の西端だけなのである。
 さて日宗寺を過ぎると、北にあるのが法蔵寺とその墓地。その東の崖はかなり高い。もしこの崖に高桟敷がかかっていたとして、日宗寺側の低地から見たら、三階四階の高さに感じられるだろう。
 そしてこの高桟敷からなら「四谷の半分赤坂かけて、どこまで見通しか計り知られぬ」とはあり得る。
 その下を潜って法蔵寺の脇を回って、次の祥山寺(本当に寺ばかりが続く)の墓地を抜ければ、前述した津之守坂入口から下りてくる坂道に、ようやく出る。日宗寺門前から百五十メートルは歩くから、未知の道なら長く感じるはず。ここまでくると、まさに鏡花が描写するように、意外と「谷は浅い」し、上は「だらだら坂」。

 大岡昇平の『少年』を読みながら。
 渋谷区宇田川町の山上に衛戍監獄、陸軍刑務所があったことが書かれている。CCレモンホール(渋谷公会堂)、税務署、渋谷区役所、神南小学校(旧大向小学校)がある地域だ。高い塀に囲まれていたという。
 東急ハンズがある、井の頭通りの大向小交差点、その北側に裏門があった。
「斜面の裾に狭い畠がある。青黒い防腐剤を塗った冠木門があり、一劃は有刺鉄線で仕切られている。右側に一つの急な坂が上っているが、(その方はカラタチの生垣になっていた)畠の奥の崖を斜めに上る坂があり、その上に高いコンクリートの塀が迫っている。これが後の陸軍刑務所、当時の衛戍監獄である」
 「右側に一つの急な坂」が東急ハンズ前のオルガン坂。住宅地の裏の「草のしげった小道」だったという。また「奥の崖を斜めに上る坂」はその北側の、細い階段になった坂(昔「シスコ」のクラシックCD専門店が坂上にあった)だ。
「畠には青い服を着た顔色の悪い囚人が、作業していることがあった。彼らの通行人を見る眼付は、子供にはあまりよい見物ではなかった。そして畠の上に聳える監獄の塀は、子供には何か想像を絶した怖ろしい世界と映る。(略)抗命とか上官暴行とか、軍隊の組織と規則への反抗というものがある、とは子供に想像できない。しかし囚人たちのとげとげしい眼は、子供の頭にも、どこか泥棒とは結びつかない異様の印象を与えた」
 渋谷公会堂の入口前あたり、高燥で渋谷の一等地であるにもかかわらず、どうも薄暗い感じがして好きでなかったのだが、監獄跡だったとは。
 そして、用地の北側に刑場をつくるという監獄の通例からいうと、公会堂付近こそその跡地ではないか。
 と思ったら、西北角の税務署脇に二・二六事件首謀者の慰霊碑がある、と知人が教えてくれた。ということは税務署が刑場跡だろう。『少年』記載の略図によると東北側に正門があるので、その裏手に銃殺場があったわけだ。塀の間近の家々には、発砲音が聞こえたろうか。
 ちなみに、北のNHKと代々木公園の場所には代々木練兵場が広がっていた。
「練兵場はこの辺で最も広く、何もない空間だった。兵隊が掘り返した赤土に、雑草が疎らに生えていた。(略)春先には風で埃が舞い上って、空一面に黄色になることがあった」
 この練兵場が青山練兵場(神宮外苑)の代替地として開発されたのは、明治四十年以後のこと。
「われわれは子供の時から、この練兵場へ通う兵隊が隊伍を組み、軍歌を唄いながら、通り過ぎるのを見て育った。世田谷三宿には砲兵連隊、輜重兵連隊、駒場には騎兵連隊があって、明治大正の渋谷は、それらの兵営へ物資を納入する商店街、営外居住の軍人の住宅地、慰安花街として発展したのであった」

 ところで大岡作品では、少し前に『戦争』という『少年』以後のことを回想した一冊を岩波文庫で読んだが、そこにも興味深い記述があった。
 大岡の父は株屋でかなり成功していたが、昭和六年の満州事変のとき投機に失敗して大損をし、六年後に亡くなった。そこで東京の家を処分して大岡は神戸に移ったが、本籍だけは東京の父の兄の家においてもらっていたという。
 目をひくのは、大岡がいつも番地まで書く、その伯父の家の住所。
 市ヶ谷台町十三番地。
 これは、市ヶ谷監獄の刑場跡地、絞首観音と同じ番地である。
 気がついたときは首筋が寒くなった。大岡はその意味を知っていて、わざわざ番地まで書くのに違いない。
 ともあれこのところ、内田百閒に始まって永井荷風、泉鏡花、大岡昇平と、日本文学再発見の旅。
 鏡花以外は市ヶ谷谷町と台町付近に縁がある。そういえば中原中也も、市ヶ谷谷町に住んでいたことがあるらしい。
 谷町と監獄で読む日本文学(笑)。

四月八日
 まだ『高桟敷』の話。
 初めに出てくる「強力松」なる地名がわからず、歯がゆい思いだったのだが、どうやら「高力松(こうりきまつ)」のことらしい。
 外堀通りの、市谷見附から四谷見附交差点に向って登る坂道(マラソンでよく使われる)を高力坂というのだが、その途中にあった旗本の高力家の松の木が有名で、高力松と通称された。
 今、高力坂にある標識の説明には以下のように記されているという。
「新撰東京名所図会によれば、『市谷門より四谷門へ赴く、堀端辺に坂あり、高力坂という。幕臣高力小次郎の邸あり、松ありしかば此名を得たり、高力松は枯れて、今、人見の合力松を存せり、東京電車鉄道の外濠線往復す』とある。すなわち、高力邸にあった松が高力松と呼ばれ有名であったのでその松にちなんで坂名を高力坂と名づけたと思われる」
 高力松は枯れたが「人見の合力松」はあるという。人見というのは坂下の市谷本村町二丁目にあった、人見玄徳が住む屋敷のことだろう。そこに「ごうりきまつ」があったというのだ。
 鏡花はそれに強力松という字をあてたのだ。『高桟敷』の主人公は、近頃その裏あたりへ越してきたというから、ぶらりと散歩をすれば、なるほど鮫ヶ橋にも行くだろう。謎が解けて一安心。
 なお切絵図で見ると、高力坂沿いの人見玄徳の隣宅は、忠臣蔵の浅野内匠守の弟で旗本になった、浅野大学である。このあたりは市ヶ谷牛小屋と呼ばれていたらしい。

 夜は、サントリーホールでホール・オペラ《ドン・ジョヴァンニ》を観る。
 何はともあれ、今度もルイゾッティの指揮が面白く、素晴らしかった。さまざまな意味でバランスに問題があったとは思うが、それがこの人の個性。かれを首席客演指揮者に迎えた東京交響楽団も、去年の《フィガロの結婚》では日程が合わず出られないのを悔しがっていただけに、ノリノリ。
 ときに噴出する響きや旋律が、じつに見事だった。ドンナ・アンナが、犯人はドン・ジョヴァンニだと気づく瞬間に湧き上がる響きとか。それに第二幕、ドンナ・エルヴィラのアリアの伴奏の、天才的なオーケストレーションの冴えを、今回ほど明快に感じたことはない。
 しかし全体としては、去年の《フィガロ》の感激には及ばなかった。これは結局、この作品が本質的に抱えている上演の難しさ、つまり高い声楽的力量の要求に応えられない歌手が何人かいたこと、ソロのアリアが連続するドラマ上の欠点を演出がのりこえられなかったこと、この二つにつきるのだろう。
 特にドンナ・エルヴィラは力不足。彼女には他に合う役があるだろう。

 しかし、それはそれとして、とても感心したのは、演出家ラヴィアの、闇の表現の上手さ。去年の《フィガロ》第四幕もそうだったが、この人は、闇をじつに美しく空間化することができる。
 これは当然ながら、ただ暗くすればよいわけではない。影が、光によってその輪郭と暗さを際立たせるように、闇も、明りと対置されることによって、底深い真の闇となる。
 二期会の宮本亜門演出の《椿姫》などは、ただ陰気に薄暗いばかりでコントラストが活用されていなかったから、その闇には訴求力も恐さもなかった。
 対してラヴィアは、コントラストがうまい。闇の中に動く明り。ここでの明りというのは燭台の灯火、ともしび。
 「ともしび」は読んで字のごとく、人が灯すもの。人間の存在と意志と行動、つまり人為と理性の象徴。
 その灯火と対置されることで、闇は人為と理性を超えた何か、自然、さらには超自然(そこに神を見るかどうかは、その人次第)の象徴となる。ちっぽけな人間をつつむ、はてなきもの。
 《フィガロ》四幕の闇は人間をつつんで、その欲望と執着が生む迷妄を呑み込み、溶かし、大団円の人間讃歌に向かわせていくものだった。しかし、《ドン・ジョヴァンニ》の闇は違う。逆に、人間の心中の闇が外在化した、理性を超えて化物となった「もの」、物の怪としての闇でもある。
 去年の《フィガロ》は、貴族専制社会の終焉によって、人間精神が解放された場でドラマが展開されたけれども、《ドン・ジョヴァンニ》は世界が崩壊して、人間性を失った場所で展開される。だから、闇の意味も異なってくるのか。
 しかしその闇を、登場人物全員がもっているわけではない。闇は、その存在を自覚した人間の傍にしかない。たとえばツェルリーナは、矛盾を笑い飛ばしてしまう自己肯定力を持つし、マゼットは、自身の闇に気づく頭をもっていない。
 燭台にともなわれ、その光に照らされて、心中と外の闇を自覚自認しているのは、ドン・ジョヴァンニ、ドンナ・アンナ、ドン・オッターヴィオの、三人の貴族。闇とともにあるからこそ、貴族。
 石像がしゃべりだしたときにドン・ジョヴァンニを覆った闇、それに続くアンナのアリアで、その心中を示した闇、いずれも、ほんとうに暗かった。
 他方ドンナ・エルヴィラは、とにかく自らは光とともにあると信じ、闇に決して目を向けない人(だからこそ、じつはこの人の闇がいちばん深く暗いのではないか、という気がするわけだが)。
 貴族だけが、闇とともにある。
 こうした堕落と偽善を生む貴族社会の崩壊が、倒壊した舞台装置に暗示されていたのだとすれば、肖像が壁から落ちただけの《フィガロ》よりも一歩進んだ、といえる。いずれにせよ、二作とも革命の時代に生まれた、同一ライン上にある喜劇と諧謔的悲劇として、ラヴィアは見ているのだろう。

 とまあ、ここまでなら、因果応報よりも左翼性を押し出した、説教的お芝居ということもできるのだけれども、それが歌劇場でなくサントリーホールで上演されている、という状況が面白かった。
 ここだと、闇がプロセニアムアーチの中に閉じ込められることなく、客席にも共有されるのだ。プロセニアムアーチだけでなく、ボックス席もロイヤルシートもない、ワインヤード型のサントリーホールの客席が、闇を共有する。貴族なき劇場、裏返せば誰もが貴族の劇場。
 来年の《コジ》は、人物の光と闇のコントラストがいちばん強い作品ともいえるだけに、楽しみだ。キャストはもっとうまく選んで欲しいけれど。

 と、こんなことをミクシィで書いて、友人のミン吉氏から、ドン・ジョヴァンニはもっと中世的な人間なのでは、とご意見をいただく。
 これは面白い。
 ドン・ジョヴァンニが、十八世紀の啓蒙主義とも十九世紀の市民社会とも乖離した、よくも悪くもむき出しで荒々しい中世的な人間だとすると、構造をさらに多重化させることが可能になる。
 多分に牽強付会となることを承知で書くと、あの演出での燭台が象徴する、まさにenlightenmentの過程にあるオッターヴィオとも、真昼の、小市民的な道徳観念の中にいるマゼットとも異なる、それ以前の「燭台すらない」中世の闇の中に生きようとする男が、ドン・ジョヴァンニ。
 バイロン風のロマン的憧憬を持ち、それを過去に投影する、ドン・キホーテ的人物。だからこそかれは、挫折者、敗北者であることを運命づけられる。
 そしてレポレロ。貴族に雇われて、あくまで旧体制の中に生きる男で、主人の破天荒ぶりが大好きだったのだろう。
 だから最後、オッターヴィオのような偽善的貴族に拾ってもらう気もないし、さりとてマゼットのような新しい平民社会に加わる気もない。ということで、背を向けて去って行ったのではないか。

 書き忘れを一つ。
 闇について考えたきっかけは、今日の舞台を見ていて、誰だったかがエレノア・ルーズヴェルト(エリナー・ローズヴェルト)を評した言葉、
「闇を呪うより、闇に灯をともすことを選ぶ人だった」
を、突然に思い出したことだった。

四月十日
 カウンター・テノールのマックス・エマヌエル・ツェンチッチのリサイタルを聴きに東京文化会館小ホールへ。
 CDでの、ホフシュテッターの指揮で歌ったアリア集の快演(指揮の面白さも大きかったが)が印象的だったので、楽しみにしていた演奏会。
 曲はモーツァルトとロッシーニ、それにドニゼッティの《ルクレツィア・ボルジア》。合間に伴奏の大塚めぐみによるピアノ独奏曲がはさまる。
 響きが滑らかで、女声と聴きまがうほどで、そして強さと高い技術を有するのが、かれの歌の魅力。やはりロッシーニの音楽がそうした個性に適うのか、いちばん堂に入った歌唱だった。
 アンコールに《美しきエレーヌ》のオレストの歌を歌ってくれたのは、オッフェンバック好きにとって素晴らしいデザート。この作品でのオレストは、後に凄惨な復讐を遂げた代償に母殺しを悔苦することになる人間とはとても思えない、スネかじりの頽廃的人物だが、その性格が見事に活写されていた。
 ウィーン少年合唱団の人気ボーイ・ソプラノから、そのままカウンター・テノールになったという経歴の人である。

 ところでこのリサイタルは「東京・春・音楽祭―東京のオペラの森2009」のシリーズ。これまで小澤征爾指揮の文化会館でのオペラ公演を中心に据えてきた「東京のオペラの森」が、小澤と離れて、形を変えて続くことになったもの。
 今年はオペラがなく、文化会館大ホールでのハーガー指揮NHK交響楽団によるハイドンの《天地創造》二公演が、規模の大きさでいえばメインとなる。しかしそれ以外にも小ホールや旧奏楽堂、計四つの博物館と美術館などで、約三十の演奏会が行われ、春の上野の森を広く使う音楽祭になっている。
 東京の地域的音楽祭は今年「目白バ・ロック」が休止だった。それだけに「東京・春・音楽祭」には頑張ってほしい。
 来年にはオペラが演奏会形式ながら復活し、NHK交響楽団によるワーグナーが二年続く。来年の《パルジファル》はシルマー指揮だから大いに期待しているし、再来年の《ローエングリン》の指揮はアンドリス・ネルソンズで、こちらもどんな指揮ぶりを聴けるか、楽しみ。

四月十一日
 文化会館小ホールで、小倉喜久子による「ピアノの歴史」レクチャー・コンサート。これも「東京・春・音楽祭」。
 十八世紀以来の三百年のピアノの歴史を、各時代を代表する銘機四台を演奏しつつ語る、というもの。一七二六年製のクリストーフォリでジュスティーニ、一七九五年製のヴァルターでモーツァルトとベートーヴェン、一八四五年製のエラールでショパンとリスト、そして現代のスタインウェイでドビュッシー。初めの二台は復元によるもの。
 古今の傑作(ということは、演奏の良否がすぐ聴衆にばれてしまうもの)を弾きながら話すのは、素人考えでも楽ではない。だがとてもしっかりした演奏で、簡潔でわかりやすい話と合わせて、楽器の構造的特徴と作曲との関連を巧みに実感させてくれた。
 中でもご本人も話された通り、リストの《ラ・カンパネラ》を話の合間に弾くのは大変だろうが、これによって、エラールの楽器がこの難技巧の音楽の登場を可能にしたと、よくわかった。
 また、続けて聴くことで、楽器が音量と迫力に関して右肩上りの増大を続け、演奏会場とオーケストラの規模拡大に対応したこともあらためて確認できた。

四月十八日
 出版社のアルテスパブリッシングが吉祥寺に事務所を構えたので、打合せなどをかねて片山杜秀さんたちと訪問。
 数日前に行ったある演奏会で、一つ驚いたことがあった。アマチュアの合奏団の演奏会のチラシがプログラムにはさまっていたのだが、指揮者に「久山恵子」とあったのである。
 久山(くやま)は、小澤征爾や山本直純などとともに、斎藤秀雄の初期の弟子である。片山さんによると、野村義男が小澤に扮した『ボクの音楽武者修行』の一九八二年のテレビ・ドラマでは高見知佳が演じたという(斎藤秀雄は山本学、山本直純は山口良一だったそうだ)。
 一九六四年に桐朋学園のオーケストラ(サイトウ・キネン・オーケストラの原型)がアメリカ・ツアーを行う際に日本コロムビアに録音したレコードでは斎藤とともに指揮者を務めており、斎藤が信頼する弟子だったことは疑いない。
 その後も七〇年代に東京交響楽団の指揮者になったり、桐朋学園で教鞭をとるなどの活動をしていたが、近年はあまり表舞台で名を聞くことがなく(サイトウ・キネンの活動にも、関わっているのかどうか不明)、失礼ながら現役の演奏家ではないと思いこんでいた。
 いや、日本の演奏の現場にはるかにお詳しいはずの片山さんさえ、同様に思っていたというのだから、けっして私の寡聞のせいばかりではあるまい。
 その久山が、一九九七年の設立時から音楽監督を務める弦楽合奏団、アンサンブル多摩の演奏会を府中の森で指揮するというチラシが、入っていたのである。
 こういう「出くわす」驚きと昂奮は、まだネットより現物世界の方が大きい。
 私も聴いてみたいが、片山さんの方がさらに深く関心をもたれていた。何しろトーサイの直弟子である。根拠のない想像だが、女性の弟子の方が師の指揮ぶりを忠実に継承しているのではないかという気がするだけに、今それを聴けるなら貴重である。それも、トーサイが好んで指揮していた弦楽合奏なのだ。
 残念なことに日付が五月九日、藍川由美さんと片山さんの演奏会に重なっていて、今回は片山さんも私も行けないが、アンサンブル多摩の次の演奏会は、ぜひ行ってみたいもの。

四月二十日
 秋庭俊の『新説 東京地下要塞』(講談社+α文庫)を読む。
 『帝都東京・隠された地下網の秘密』で、東京には明治以来、陸軍が秘密裏に建設した地下鉄道・道路・施設の網が張りめぐらされていて、戦後の地下鉄網はそれを改造して(老朽化を防ぐ意味もあり)できたのではないか、という仮説を展開して話題になった著者の本。
 続編的にいくつか書かれた本の一冊ということもあり、また『帝都東京』でも気になった、大なり小なり話題がいきなり飛んで論旨が理解しづらいという著者の文章のクセもあり、まとまりも裏付も乏しい一冊だが、部分的には新宿サブナードのこととか、光る話題がある。

 個人的に面白かったのは、巣鴨監獄を線路内に入れるために、本来なら巣鴨と目白を直線でつなぐはずだった山手線のルートを変更し、西北にふくらませて大塚と池袋の二駅を加えたという指摘。
 確かに地図を見ると、巣鴨から大塚へは急な右カーブで、さらに大塚から池袋へはほとんど直角の左カーブになり、かなりの無理が生じている。巣鴨と目白を結んだ方がまるで自然である。ところがそうすると巣鴨監獄の南側を通ることになり、それを嫌ったというのだ。
 それが迂回の真の理由なのかは知らない。目を瞠ったのは、添付された一九〇九(明治四十二)年の巣鴨監獄の地図。
 この監獄は関東大震災で焼け、修復をへて三七年に巣鴨刑務所、のちの巣鴨プリズンとなるのだが、その大きさはまったく異なっていた。監獄の敷地は、刑務所時代の実に三倍もあったのである。
 刑務所用地は現在のサンシャインシティだが、監獄は、東は春日通りまで、南は造幣局や朋友小学校まで含み、そこにヒトデ型の獄舎を二つも並べた、巨大なものだった。市ヶ谷監獄と東京監獄の二つを合わせたより大きかったとは…。

 また、サンシャインシティの交通を便利にするためには、用地の東北角の東池袋中央公園の真下を通っている丸ノ内線に新駅を増設するのがいちばんなのに、それができなかったのはなぜなのか、という秋庭の疑問にも考えさせられた。
 たしかに西新宿や溜池山王駅の増設を思えば、ここにできて不思議はない。丸ノ内線から直接行ければ、入場者は大きく増えるだろうに、そうしなかった。
 まあ、この場所だと、巣鴨刑務所やプリズン時代の刑場の真下の駅(実松譲の『巣鴨獄中記』に、ここにあったことが見取図付で明記されていた。BC級戦犯用は旧来の処刑台を利用し、A級用はその奥の角に新設したそうだ)、ということになるのだけれども。

四月二十五日
 ドレスデン・シュターツカペレを聴きにミューザ川崎へ。指揮はファビオ・ルイージ、ジャパンアーツ式にはルイジ。
 曲目は前半が《ツァラトゥストラかく語りき》、後半がブラームスの交響曲第四番。《ツァラ》はこのオーケストラならではの美しい音色を随所で聴けたが、演奏自体はどうも表面的というか、グッと来るものがない。これはルイージのR・シュトラウス、オペラであれCDで聴いたオーケストラ曲であれ共通する印象で、何か決定的に合わない気がする。
 後半のブラームスは一転、ルイージならではのカンタービレがフレーズに波動をもたらし、一気呵成に進めていく。どこがどう、という解釈の問題より、勢いにまかせるだけで音楽がきちんとできあがるあたり、指揮者と作曲家の適性が高いのだろう。以前、MDR交響楽団の来日公演で交響曲第二番を聴いたときも素晴らしかった。
 アンコールの《オベロン》序曲も同様に勢いにみちた演奏で、会場をどっと沸かせた。前期ロマン派、そしてその延長としてのブラームス、このあたりでルイージの良さが素直に出る気がする。
 もちろん、個人的にいちばん聴きたいのはイタリア・オペラだけれども、今のポストだと、日本でそれを聴ける可能性は少なそうだ。

四月二十九日
 田山花袋の『東京の三十年』(岩波文庫)から、渋谷の国木田独歩の家を訪ねるくだりを拾い読み。
 それは明治二十九(一八九六)年十一月。山手線はすでに走っているが、まだ一望の田野を走る路線だった。
「渋谷の通を野に出ると、駒場に通ずる大きな路が楢林について曲がっていて、向うに野川のうねうねと田圃の中を流れているのが見え、その此方の下流には、水車がかかって頻りに動いているのが見えた。地平線は鮮やかに晴れて、武蔵野に特有な林を持った低い丘がそれからそれへと続いて眺められた。私たちは水車の傍の土橋を渡って、茶畑や大根畑に沿って歩いた」
 まさに、そこは武蔵野だった。やがて「野川のうねうねと田圃の中を流れている」あたりが宇田川町になり、ついにはセンター街になるのだが。
 そこから現在の井の頭通りを北に進むと、宇田川町九番のあたりに「牛の五、六頭ごろごろしている牛乳屋」があり、その先の細い坂道を東に曲り、登った丘の上の一軒家を借りて、独歩が住んでいた。まわりは草地と菜畠。
「好い処だ」とほめる花袋に、
「武蔵野って言う気がするでしょう。月の明るい夜など何とも言われませんよ」
と独歩は答えたという。
「丘の上の後方には、今と違って、武蔵野の面影を偲ぶに足るような林やら丘やら草藪やらが沢山にあった。私は国木田君とよく出かけた。林の中に埋もれるようにしてある古池、丘から丘へと続く路にきこえる荷車の響、夕日の空に美しくあらわれて見える富士の雪、ガサガサと風になびく萱原薄原、野中に一本さびしそうに立っている松、汽車の行く路の上にかかっている橋――(中略)思うに、国木田君にとっても、この丘の上の家の半年の生活は、忘るることが出来ないほど印象の深いものであったろうと思う。紅葉、時雨、こがらし、落葉、朝霧、氷、そういうものが『武蔵野』の中に沢山書いてあるが、それは皆なこの丘の上の家での印象であった」

 読後、渋谷へ行って、陸軍刑務所のあったC.C.レモンホールや、税務署のあたりを歩く。
 国木田宅の東の山の上にあたるが、花袋はこのあたりに「林の中に埋もれるようにしてある古池」があったと書いている。それがこの刑務所跡、現税務署の位置だったとすると、周囲より土地が窪んでいて、妙にじめっとしているのも納得がいく。山上の低湿地で、いかにも監獄にしたくなるような空気だったのではないか。
 税務署北西角にある二・二六事件慰霊碑も見学。どこの宗教ともつかぬ女神像が立っている。かつて市ヶ谷監獄の刑場あとには観音像が建ったが、こちらは戦後風に無宗教。絞首観音という前者の綽名にならって呼べば、銃殺女神か。
 その脇の道を通って、区役所、神南小の西側を歩く。崖側のビルが一つ取り壊されていたおかげで下が見えたが、宇田川の谷が想像以上に深いのに驚く。
 この斜面の途中に国木田の借家(東京の商人が隠居所か何かに建てたものだそうで、渋谷は根岸の里などに代る別荘地になろうとしていたらしい)があったというのが、目に入るのはコンクリートとアスファルトばかり。「武蔵野の面影」など偲びようもない。
 借家には六畳と二畳間に台所があるだけで、縁側の前にはぶどう棚があり、その向うに、渋谷方面の林や丘や水車が眼下に一望できたという。
「なつかしい丘の上の家は今どうなったか。もう面影もなくなってしまったことであろう。林も、萱原も、草藪も、あのなつかしい古池も……」
と花袋が書いたのは、それから二十年後の大正六(一九一七)年。
 その十年ほど前に代々木練兵場が出来て、丘の上は衛戍監獄の高い塀に囲まれていた。宇田川の水車は住宅に変り、一年後には大岡昇平の家族が引越してくることになる。

 大岡の『少年』には、大正十四年にかれが練兵場と監獄の間の坂道(今のNHKと税務署の間の通り)を、坂下から写生した話が出てくる。
「右は低い雑木林と住宅の生垣、左は練兵場を縁取る草と灌木の土手である。この陰気な風景は変に私の気に入ったと見え、七年後、油絵をはじめた時、写生しに行った。紺碧の空を背景に画面の中央には白い塀の角、そこから放射線を作る左右の土手、埃っぽい坂道の線」
 「白い塀の角」というのが監獄の塀の北西角、つまりいま二・二六事件の慰霊碑があるあたりだ。岸田劉生――有名な『道路と土手と塀(切通之写生)』の構図は右の描写にそっくり――などに影響されて「都市郊外の土木工事と武蔵野の疎林化の結果、意味を失った自然」を描きたかったのだという。
 いまはもちろん、その「自然」すら跡形もない。

 大岡昇平の『わが美的洗脳』という芸術エッセイ集(講談社文芸文庫)に入っている武満徹との一九七六年の対談「水・音楽・ことば」に、武満もまた宇田川の丘の上に住んでいたことが出てきた。
「陸軍刑務所の碑が建っていますね、二・二六の。あの傍に、不格好なアパートが建っているんですけれど、ちょうどNHKの前になります。あのアパートにいました」
 五年ほど住んでいたというが、昭和四十年前後だろうか。
「『少年』を拝読すると、あの辺りにあんなに水があったということが、まるで嘘みたいな気がします」

 独歩の渋谷も、大岡の渋谷も、はるかな時の彼方。

五月一日 フク復員と伏見特攻隊
 うちの猫は、ワサビとフクという。三歳のメスと一歳のオス。どちらも雑種をもらってきた。ワサビは食が細くてかなり小柄だが、フクはよく食べて大きく、近所の人に五歳ぐらいかといわれる。
 面白いのは、というか動物の関係というものについて考えさせられたのは、仔猫のフクが来て、その存在を承認したとたん、それまで子供っぽくワガママだったワサビが、保護者然として大人びた居住まいになったこと。
 普段は恐がりで、近所の野良猫とは関わりをもたないようにしているのに、外でフクがかれらとにらみ合いになって唸り声をあげたりすると、まさに弾丸のような速さで現場に駆けつけ、フクを護るべく、自分より身体の大きなオス猫に食ってかかるのである。彼女の勢いの凄まじさに、相手は気押されて去っていく。
 その一瞬の無私無我の勇気。「女は弱し、されど母は強し」とはこういうことかと感服。前にいた老猫ハナの見事な死にざまもそうだったが、生き物の挙措進退はかくあるべしと、教えられるのみ。

 さて、二匹とも自由に外に出してやっているが、ワサビよりもフクの方がオスのせいか、外出時間が長く行動範囲も広い。暖かくなってきたせいか、近頃は特に出っぱなし。
 それでもいつもは適当な時間に帰ってくる。ところがおとといの夜は六時過ぎに出たきり、翌朝が明けても帰ってこない。捜しに行っても気配がない。いわゆるMIA、Missing in Action(作戦行動中行方不明。ネコだけにミアですか、と上手いことを言った人がいた)。
 ウチのあたりはかつて「池ノ中」と通称された窪地で、周囲はすべて階段か坂という住宅地なので交通量が少なく、猫にとっては動きやすい場所。おかげで山の神によると、代々飼ってきた猫でMIAになったのは、三十五年くらい前に一匹いるだけという。
 だから、可能性としては交通事故よりも、他の猫に追われて逃げたことが考えられる。あまりに遠く離れて、戻って来られないのかも知れない。
 暗くなれば戻るかと期待したが、その夜も未帰還。山の神は何度か上の通りに行って呼んでみたそうだが、気配なし。
 よく電柱などに「迷い猫」のチラシが貼ってあって、日付が一か月も前だったりすると、人ごとながら悲しくなったりするわけだが、フクもいよいよそれか、という気になってくる。
 ――たった一歳だし、ワガママで苦労知らずな奴だから、死んだにしても、あまりいやな思いをせずにすんでいるといいが、などと胸がふさがる翌朝。
 十時からミュージックバードの番組収録だったのだが、十時半ごろ、偶然にも電源を切り忘れていた携帯が鳴る。
「いま帰ってきた」と山の神。

 庭に出ていたワサビが戻ってくるのに続いて、いきなり、音もなく、すーっと入ってきたという。
 思わず「足はあるのか」と聞きたくなるような話。
 数時間後、帰宅して復員猫に再会。
 ケガなどはないが、顔つきといい体つきといい、ひどく締まっている。
 メシを食ってないから多少は痩せたのだろうが、それ以上に外界の緊張がそうさせたのだろう。帰宅直後は家の中でも警戒していたという。
 こういうのを見ると、野良猫などはつねに似たような緊張状態にあるわけだから、寿命が短いのも当然だ、と思う。
 しかしさらに数時間たつと、顔も身体もいつものように丸くなってきて、なんというか「ゾル転」猫。
 ともあれ、もう二度と会えないかと思っていた顔を見られるのは嬉しいもの。

 いきなりテレビ話。
 昨夜、猫が心配だといいつつ、鶴田浩二主演の『新撰組』最終回を観た。
 一九七三年制作で、NET(現テレビ朝日)が栗塚旭を土方歳三役に据えて昭和四十年代に放映した、三つの新撰組シリーズの最後のもの。
 初めて観たが、評価の高くない理由がよくわかる。
 栗塚旭の土方と左右田一平の斉藤一は八年前の『新撰組血風録』と同じ配役だし、かつて沖田役で大当りした島田順司も会津藩の役人として出ているが、三人とも色褪せている。特に栗塚は、人相がとても悪くなっているのに愕然。
 それ以上に問題なのは、それまでの二本では脇役だった近藤勇に鶴田浩二を据えて主役としたのが、裏目に出たこと。大スターへの配慮が全体を鈍重にし、結束信二の脚本も冴えない。新撰組の敗北を第二次大戦時の日本軍に重ねる傾向は『血風録』ですでにあったが、それが陳腐な形で出てしまった。
 最終回は鳥羽伏見の戦いの前夜に始まるが、肩を撃たれていないはずの近藤勇どころか、肺病の沖田総司(有川博)までが伏見奉行所の新選組屯営に戻ってきて、それまでに死んだ隊士全員の遺骨と位牌をならべた部屋で涙を流しながら、明日の玉砕を誓い合う。
「総司、なぜ戻ってきた、帰れ!」と、余命短い重病人をおもいっきり二度も殴り倒す土方。しかし沖田の懇願にほだされ、近藤は同行を許す。
「我々は生れた年も場所もバラバラだが、死ぬのは全員一緒だ」
「先生!」
 まるで三国志の「桃園の誓い」。
 そもそも隊士が近藤を「局長」ではなく「先生」と呼ぶのも、大塩平八郎かなんかみたいで、どうも気持悪い。撮影所の序列では確かに鶴田は「先生」で、テレビ・スターにすぎない栗塚以下の面々とは、扱いが段違いなのだろうけれど。

 翌朝、飯炊きの婆さんが見送る前で全員整列、若い隊士たちは婆さんに別れを告げながら出撃。伏見というより、まるで知覧。
 そして砲煙弾雨の中、全員抜刀して走り出す。爆発で倒れる「誠」一字の旗。駆け寄った隊士が旗を掲げなおし、虎徹を敵に向けて走る近藤に続いて進んでいくところで、ストップモーション。
 いやもう、「突貫!」と叫ばないのが不思議なくらいの、突撃ラッパが吹かれないのが納得できないくらいの、帝国陸軍お家芸、正面からの壮烈な玉砕突撃。

 こういう悲壮感の大安売りを、久しぶりに見た気がする。
 いま、私がたとえば源義経や忠臣蔵の物語に没入できないのは、九郎判官であれ塩冶判官こと浅野内匠頭であれ、権力者に嫉妬され虐待される色男、という存在に対して、悲しんだり憐れんだりする感情や快感をほとんどもてないからだ。そしてそのような憐憫の情を抜くと、この二つの国民的物語は、ドラマとしての面白みが半減してしまう。南北朝が皇国史観を抜いてしまうと、ただの骨肉の権力闘争の連続で殺伐としてドラマにならないのと、同じである。
 同様に、特攻隊的悲壮感、つまり大義やら義理人情やらのために一命を擲つことに自己陶酔する快感というのも、すっかり流行らなくなった。しかし、一九六〇年代から七〇年代にかけては、ドラマをそれだけで成り立たせることができるほどのものだった。人を酔わせる酒精分が、まだかなり高かったのである。
 肝心なのは、右翼や保守的な人だけでなく、左翼の人までもがこうした悲壮感への陶酔を、行動力の源泉にしていたことだろう。当時の学生たちが熱狂した任侠映画はその典型だった(いうまでもなく、鶴田浩二はその大スター)。
 米ソ両超大国の勢威が最大に膨張し、交通と通信の発達で地球がどんどん小さくなっているのに、全面戦争、核戦争は絶対にできない。そのどんづまりの状況下で生れた沸騰期の昂奮を支えたのは、ある種の使命感だったのではないか。では使命とは何なのか、その正体は何だったのか、私にはいま一つよくわからないが、日本人のその風船をふくらませるガスになっていたのが悲壮感への陶酔だったのは、たぶん間違いないだろう。
 坪内祐三の『一九七二』では、一九六八年を文化変動期の頂点とし、六四年をその始まり、七二年を終りとしていた。『新撰組血風録』が六五~六六年、『新撰組』が七三年の放映だから、「悲壮感の時代」の勃興期と終末期につくられたわけだ。当初の若々しく均整のとれた感覚がたるみ、くどく説明過剰になる。
 そういえば七三年は映画『仁義なき戦い』が大ヒット、任侠物から実録路線にヤクザ映画が舵をきった年だった。

五月七日 麦のひとびと
 新国立劇場で《ムツェンスク郡のマクベス夫人》。
 音楽面は充分に満足、リチャード・ジョーンズの演出も示唆に富んでいた。本人が来ず、弟子とおぼしき人の代理によるということで、原演出との違いも言われているが、これは私にはわからない。
 ここで観たものからのみ語れば、類型化された群集の扱いが面白かった。
 舞台は背の高い、中央に仕切のある、西洋風の倉庫。わらや土砂など、崩れやすいものを高く積み上げるのに使う、あれだ。主人公の家は小麦商人だから、この場合は小麦粉の倉庫だろう。それを住居に見立てることで、使用人たちが穀物同然の扱いを受ける、疎外された存在であることが暗示される。そしてかれらはその状況に耐えるための唯一の対応、つまり無表情の仮面をつけて、家畜のように自らを装っている。
 だからかれらは主人の前では従順に、類型的に、無関心に働く。面白いことに主人ボリスもまた、他人を疎外することで自らをも疎外してしまった存在であるようで、使用人を人間として扱わないように、嫁のカテリーナのことも、人間としては見ていない気配がある。
 通常の演出でのかれは、嫁に歪んだ性欲を抱いているが、ここでのかれは相手と直面しようとしない。相手に関心はあるが、きちんとした関係を結べない人間たち。高く積み上げても自重で崩れる小麦粉のような、非動物的な関係。
 結婚式の場面の、パートごとに固定された合唱の動きも、それが各人の本心とは無関係の、調子を合わせたものにすぎないことを示しているのだろう。個人的には昔のファミコン時代のロールプレイング・ゲーム、『ドラクエ』や『FF』の一場面を思い出して愉しかった。性能がひどく限られていたファミコンでは、類型的にしか人を動かせなかったのだ。
 最後、流刑地に向う囚人たちが乗せられるのも、穀物運搬用のコンテナ車。囚人たちもまた、小麦のように無表情。
 こうした中で、ヒロインのカテリーナだけが人間的、あるいはより根源的な、動物としての関係を求めている。不倫も殺人も、それを求めて起きる。
 だが、最後まで誰も応えない。「一粒の麦」ともなりえぬ、砕かれて心を失った、歩く穀物たちの物語。

五月九日 ノルマントン号沈没の歌
 東京文化会館の小ホールで、藍川由美さんの「日本のうた編年体コンサート」を聴く。
 これまでは一人の作曲家に焦点を絞ったスタイルのコンサートが多かった藍川さんが、時代を追って明治維新以後の歌曲を横断的に歌うシリーズで、夫君の片山杜秀さんのお話も入る。
 まずは花岡操聖さんの三味線と、吉原の幇間がつくったという〈すててこ〉。この純和風の歌に始まり、堀内敬三が西洋風のピアノ伴奏を加えた〈金比羅船〉など。そして唱歌。中でもルソーの〈むすんでひらいて〉の旋律を用いた〈見渡せば〉という唱歌が歌われ、それが冒頭の歌詞だけ同じ軍歌〈戦闘歌〉になり、「見渡せば 寄せて来る、敵の大軍 面白や」と歌われる不思議。
 ところでこの歌詞。気分は敵の大軍を引き受ける千早城の楠木正成、というところだろうか。この日の後半で歌われた〈敵は幾万ありとても〉もそうだが、敵は大兵、我は寡兵という状況下で強がる気分が共通している。
 ――西洋列強は大国、日本は小国。
 この認識は、この時代の日本人にとってよほど強烈で、それが恐怖ともなり、また奮起の源ともなっていたのだろう。
 明治維新はこれが根底にあって成立したのだし、以後の日本人の精神構造にも大きな影響を及ぼした。
 少数精鋭、迂回奇襲をもって大兵力を瓦解させるという鵯越・桶狭間型攻撃への偏愛は、あるいは明治以後に、特に強まったのかも知れない。それに、楠木正成の人気も。千早城といい湊川といい、勝とうと負けようと、かれはつねに寡兵をもって果敢に臆せず戦う人だ。
 また、柔よく剛を制す、小が大を投げることを最高の醍醐味とする柔道が、明治後にあれほど広まり、日本を代表するものとして世界各地にまで普及していったのも、やはりこの小国意識の、精華というべき武道だったからではないか。
 日清戦争における三景艦も、この意識から生れたものだろう。敵の大艦、定遠と鎮遠を倒すため、小さな艦体に巨砲を一門だけ積んだ三隻で、機動力を利して戦うという、蜂の一刺し型の発想。
 戦後の、資源がないから精巧な技術力で稼ぐというのも、小国意識の発露だ。カメラ、トランジスタ、小型車。原子力発電にこだわる理由も、初期には省資源の大エネルギーがまさに日本にふさわしい、というのが大きかった。
 一九八〇年代――明治維新から百二十年、日露戦争から八十年、太平洋戦争から四十年――になって、このコンプレックスは薄まったように思うが、やはりどこかではいまも生きている気がする。

 演奏会に話を戻そう。ルルーの〈抜刀隊の歌〉が歌われ、当時の日本人は後半の西洋音楽的展開はなじめなかったが、前半の節だけはすぐに気に入ったという片山さんの解説があり、その証として、前半の旋律を流用した〈ノルマントン号沈没の歌〉が歌われる。
 この歌は、なんと五十九番まである。
一番「岸打つ波の音高く 夜半の嵐に夢さめて 青海原をながめつつ わが兄弟は何処ぞと」
二番「呼べど叫べど声はなく たずねさがせど影はなし うわさに聞けば過る月 二十五人の兄弟は」
 という調子で、明治十九(一八八六)年にノルマントン号という貨物船が紀州沖で沈没したさい、日本人乗客を見捨てて我先に脱出したイギリス人船長と白人船員たちの非人道的行動と、それへの憤懣、そして不平等条約下での裁判の模様などが、延々と書かれているのだ。
 歌詞に合わせてテンポの緩急や声の色調を変えつつ、長い全曲を歌いきって、貴重な機会を与えてくださった藍川さんには感謝するほかない。実際に聴くことで、この不可思議な長さが、より強く感じられる。万葉集を最後に長詩の伝統が途絶えていた日本で、新たにそれをつくる意図でもあったのだろうか。
 ラジオやレコードが普及していない時代には、よく知られた節(ふし)を転用することで、一般への流布を容易にする意味もあったのだろう。著作権の意識もほとんどなかった時代である。
 後半、日清戦争時代の歌として〈勇敢なる水兵〉――三景艦の旗艦、松島の水兵がモデルの歌――を聴いていたら、昭和初期の『のらくろ』単行本巻末に「のらくろの歌」の歌詞がついていて、〈勇敢なる水兵〉の節で歌ってください、と書かれていたのを思い出した。
 そこで祖父にそれを歌ってもらい、それに合わせて「のらくろの歌」を歌ってみたものだった。

五月十四日 大きな窪み
 大久保駅近くの淀橋教会で、西山まりえのバロック・ハープ独奏会を聴く。スケールの大きな表現力はさすがだが、ハープ独奏ばかりとなると、単調さが避けられなかったのが残念。
 帰路は百人町の古い住宅地を新宿へ。平屋の木造家屋なども多く、新宿からの近さが不思議なほど。大ガード西北には常圓寺の墓地も大きく残っているし、このあたりは昔のままなのだろう。
 職安通りで線路の下をくぐって東側に入り、歌舞伎町へ。あらためて、ここが窪んだ低湿地であることを実感する。この窪みは東へ、区役所裏を経てゴールデン街から花園神社へ至る。つまりはこの低湿地が、新宿最大の歓楽地帯をまるごと呑み込んでいるのだ。低湿地の湿って澱む空気こそ、歓楽街に欠かせぬ魅力なのだろう。
 そして北側の斜面にはラブホテル街が密集し、この地形は、やはり窪地にある渋谷センター街と、坂上の円山町ラブホテル街との関係に似ている。
 現代の感覚では、どうしても駅のある地点を中心に考えがちになるが、この低湿地の窪みこそが、本来の大久保、すなわち大窪なのではないか。
 旧町名で見ると、新宿文化センターのあたりが東大久保一丁目、窪みの底を蛇行する(ということは旧河道だろう)道路に沿う地域が東大久保三丁目、そしてその北側が西大久保一丁目となっているから、この想像は的外れなものではなさそうだ。
 ちなみに大久保駅と新大久保駅があるのは百人町二丁目(現在は一丁目)で、大久保ではない。

五月十九日 狼谷と十四烈士
 代々木の狼谷に行く。
 渋谷を流れていた宇田川の主な水源地で、江戸時代から焼場があり、現在は代々幡斎場がある。渋谷区西原二丁目。
 さらに西隣のジャイカ、国際協力機構東京国際センターの場所には、戦後から昭和五十年代まで、東京医療少年院があったという。
 天気も曇りで暑くないし、「焼場と監獄」がそろった場所とくれば、これは見にいくしかない、ということで出発。
 幡ヶ谷駅で降り、玉川上水跡の緑道を西へ。消防学校というのがあって、未来の消防士さんたちが大声をかけあって訓練している。その向いがジャイカの東京国際センター。
 少年院の跡地にしては明るい。現在の府中の関東医療少年院は、義母が眠る多磨霊園に近いために何度も車で前を通っているが、けっこう重苦しい雰囲気だった。それとはまるで違う。
 この西原や隣の大山町は戦前には高級住宅街で、ここも元は森永製菓創始者の森永太一郎の宏壮な屋敷があった場所だそうだから、明るくて当然なのかも知れない(しかし知人によると、夜はひっそりと人気がなくて暗く、けっこう不気味らしい。狼谷だけに、人狼伝説でもあったら面白いが)。
 この国際センターには「谷」の気配はまったくない。ところが、その裏手にある「製品評価技術基盤機構」なる独立行政法人の敷地になると、とたんに南に向って土地が低まり、木々がかぶさって土と空気が湿る、水源地の雰囲気になる。
 この機構の入り口は、センターの左脇に細長くつけられている。いかにも元来は一つの敷地だったものを、手前と奥の二つに分割した形だ。
 森永時代にはおそらく手前が屋敷で、奥の低地が庭園、そこに水源の池があったのだろう。西側の大山公園のグラウンドから見ると、見下ろすように低くなっている。この大山公園と東の徳川山に挟まれ、まさに峡谷と呼びたくなる谷間、狼谷の、ここがその始まり。
 実のところ、幡ヶ谷近辺の地形というのをほとんど知らず、平らな甲州街道沿いの駅という印象しかなかったので、その南にここまできれいに、あからさまな谷間があるとは、思いもよらなかった。これだけで来た甲斐があった。
 そして代々幡斎場は、この基盤機構の隣の東側斜面にあって、なるほど信濃町の千日谷に似た、谷奥の水源と焼場の組合せになっていることがよくわかる。
 この谷は、南東の小田急線代々木上原駅に向って、ほぼ直線に下っていく。地形的には高低がきついので、川というより渓流のイメージだ。
 下った一帯の野原がかつて「宇陀野」と呼ばれ、川名の元になったという。
 そして代々木上原駅に至ると、その南が「上原」の名にふさわしい高地になるため、川は線路に沿って東へ逃げ、代々木八幡駅へ向う。そこで参宮橋の駅からやはり線路沿いに来た河骨川(こうぼねがわ)と合流し、先日私が歩いた、渋谷への河道となる。
 こうしてみると、この付近は京王線と小田急線が並行して走っているのだが、前者が甲州街道と玉川上水沿いの高所の平地を直線に進むのとは対照的に、後者は川沿いに低地を縫うため、高低とカーブが連続してきつい。運転しにくいはずで、ちょっとセンスが悪い。
 ところで、先日「宇田川下り」の南半分を歩いたとき感じたのが、河道は上流から辿った方が見失いにくい、ということ。別れ道にきたとき、どっちが低いかを見ればまず間違えない。「水は低きに流れる」の例えどおり、周囲に流されやすい性分のせいか、私には水の気持がよくわかる。現代の宅地開発で河道が途切れ、いったん見失っても、近辺のより低い土地を探せば、暗渠が見つかる。
 これが下流からだと、その場の高低の比較だけでは見当がつかないのだ。それに低地へ下る方が、息も楽。
 普通に現代に生活する上では、およそ何の役にも立たない知識。

 というわけで、途中二箇所ほど途切れたものの、無事に代々木八幡駅にたどり着き、こんどは北へ。
 河道ばかりでも単調だし、低湿地は必然的に空気が悪いので、代々木八幡の神社のある山に登る。
 中沢新一の『アースダイバー』によると、縄文時代には入江や川だった低い砂まじりの沖積層に、陸地だった硬い洪積層が張り出した、その突端の「岬」にはたいがい神社がある。さらに縄文遺跡もあって、そこが縄文以来の「聖地」であることが示されているという。
 河骨川と宇田川流域の低湿地に囲まれた山の上にある代々木八幡神社は、まさにそうした、沖積層に張り出した岬。
 登ってみると、驚いたことに竪穴式住居が再現されていた。ここにも遺跡があったわけで、中沢説の言う通り。
 それにしても、こんな住居を見るのはたぶん、小学生のときに静岡の登呂遺跡に行ったとき以来。
 参拝後、東へ山を降り、小田急線をわたって代々木公園へ。

 代々木公園に行くのは、大岡昇平『少年』の一節が引っかかっていたから。
「代々木練兵場の縁を伝って、代々木八幡の方へ歩いたこともある。原宿から原を横切って富ヶ谷へ降りる道はその頃からあった。(略)敗戦の翌日、右翼団員が集団自決した十一本欅が、この辺で最も印象的な眺めだが、そこを過ぎると、大木はあまりなく、雑木林になって来る。原の下は千駄ヶ谷へ続く河骨川の谷である。(略)小田急はまだこの谷を通っていなかった。渋谷と甲州街道の人家密集地域の中間の人気のない田園、へんに静まりかえった一種の異郷だった」
 この「敗戦の翌日、右翼団員が集団自決した十一本欅」て何、と思ったのだ。
 ネットで調べると、青山にあった大東塾という結社の男性十四人が、終戦直後の八月二十五日に練兵場で古式に則って切腹自殺する事件があったらしい。ただし「十九本欅」とする記述もあって、どうもよくわからない。そこに石碑があるらしいのだが、具体的な場所は「練兵場の西」というのがせいぜいで、代々木公園のサイトにも案内がない。
 で、行って現地で確認するしかないと考えた。とにかく西側から入ってみようと。だが現地の案内板にも表記はない。さいわい西側に管理事務所があるので、そこで聞いてみる。
「すいません。なんか、右翼の人の慰霊碑みたいのがあると聞いたんですが、どこなんでしょう」
「右翼の人……?」
「大東塾とか、十四烈士とか、そんな名前らしいんですが」
「ああ。そういえばありますよ。右翼の人かどうか知らないけど、碑が」
 聞く方も答える方も、平和ボケした日本人気質まる出し(笑)。
 事務所におかれた「公園マップ」というチラシをもらうと、そこにはちゃんと「十四烈士の碑」と出ていた。ただし一切説明なし。「日本航空発祥の碑」には説明もついているし、案内板にもサイトにもきちんと出ているが、こっちはこの扱い。まあ、わからんでもないが。

 「大東塾十四烈士自刃の処」。場所は管理事務所のすぐ東、斜面を登った林の中。普通の人はあまり気がつかないだろう。昭和三十四年、ワシントンハイツが返還される前に、塾関係者が無理無理つくったらしい。米軍進駐前に採取した血染めの砂が碑の下に収めてあるそうだ。
 周囲の欅は数えたら、どの説とも異なる十四本。人数に合わせて、後で植えたのだろう。代々木公園は噴水の脇に「五本欅」という場所がある(こっちは大きな木)し、とにかく欅が目印らしい。大岡の少年時代には練兵場で、今と違って樹木は少なかったろうから、十一本の欅の林が目をひく場所だったのか。
 もらったマップには「昭憲皇太后大喪儀葬場殿跡」もあって心惹かれたが、東側で遠いのでまたの機会に。聞いた話だと、この葬場殿跡も薄暗い林の中に石碑があるだけという。公園にするとき、死に関わるもの、右翼的なものはみな林の中に隠すことにしたのだろうか…。

 帰りは原宿駅へ出ずに、せっかくだから乗降したことのない、これからもたぶんない、小田急線の参宮橋駅へ。
 だがこれが思ったより遠い。開通当時の雰囲気を残した、車内から見るよりさらに小さな駅。脇の踏切、ラッシュ時には開かずの踏切なのではないか。
 新宿経由で帰宅。約二時間の小遠足。

五月二十四日 鼠小僧と二つの谷底
 二か月ほど前にケーブルテレビと契約して以来、我が家のテレビでは、山の神の大好きな洋物ミステリーが朝から晩までずっと映っている。
 しかし、たまに他の番組を観られる。ここでも触れた鶴田浩二の『新撰組』とか、宣弘社が『月光仮面』の後につくった『遊星王子』とか。
 一九八〇年代の『ドリフ大爆笑』が懐かしい。ギャグそのものは子供だましで笑えないが、セットがいかにもバブル以前の日本家屋のアパートとか、中の雰囲気が懐かしい。マンガ『うる星やつら』などにも存在する、あの世界だ。そこには、石川秀美とか松本伊代とか小泉今日子とかといった「アイドル歌手」も存在している(オールナイターズまで出てきた)。彼女たちが歌うのは何とも貧相なセットで、樹木かそれに似たオブジェが一本、足元は風船かドライアイス。この一方に『夜のヒットスタジオ』の、豪華がウリのセットがあったわけだ。
 四半世紀前のそれがきれいなカラー映像で保存されているのは、何か不思議。残念なのは観はじめた時点ですでに放映がかなり進んでいて、一九八四年頃になっていたこと。自分がよく観ていたのは一九七〇年代末なので、その頃のものが観たかった(祭り太鼓の鳴る銭湯とか、ドリフターズ自体にもまだ勢いがあったように思う)。ウィキで見ると山手線式にくり返し再放送、いま三周目だそうだから、四週目を待つことにする。

 さて、今日昼間にやっていたのが林与一主演、三隅研次監督、新藤兼人脚本の『鼠小僧次郎吉』(一九六五年大映)。
 前年のNHK大河の『赤穂浪士』のニヒルな剣士、堀田隼人役で大人気になった林与一を大映が起用したもの。『赤穂浪士』と同じく、大佛次郎の原作。
 映画としては傑作とはいえないし、その後の林与一がパッとしなかったこともあり、ほぼ忘れられた作品でソフト化もされていないようだが、テレビに押されて急激に斜陽化する状況下でかなり力を入れた作品だったらしく(テレビで人気を得た人を起用する点がすでに苦しいわけだが)、セットなどはかなり贅沢。
 で、その大がかりなセットの中でも、ガツンと驚かされたのが、谷底の貧民窟の長屋街を再現していたこと。
 「市ヶ谷の谷底」となっているが、市ヶ谷にあそこまでの場所はない。擂鉢の底のような独特の地形は、おそらく四ツ谷鮫ヶ橋がモデルだろう。
 日が暮れて、新内流しや鳥追、屑拾いに駕籠かき、人足といった、当時の下層社会の住人たちが続々ときつい坂道を降りて帰ってくる姿(まさに明治中期の探訪記に描かれたもの)が薄闇のシルエットで映し出される場面や、入り組んだ路地と汚い木賃宿の内部を再現した場面など、思わず身を乗り出してしまった。
 鼠小僧たちは、追われるとここに逃げ込んで身を潜める。このあたりは、映画『望郷』でジャン・ギャバン演じるペペ・ル・モコが潜伏する、モロッコのカスバみたいな雰囲気だ。
 逃げ込むときも出ていくときも、必ず草深い土の坂道が描かれ、地形が擂鉢であることが強調される。
 考えてみれば、テレビ時代劇のオープン・スタジオが視覚的に刷り込まれているためか、江戸の町というのは平らな印象が強い。沖積地の下町はたしかにそれでいいが、山の手の地形にかなりの高低差があったことは忘れてしまいやすい。そのことを思い出させてくれた点でも、この映画は観た甲斐があった。
 ストーリーの骨子は、この谷底の土地を買い占め、貧しい住人を追い出して盛り場に変えようとする悪徳商人の企みを鼠小僧がつぶすという、いかにも大佛次郎好みの義賊、貧者の味方による勧善懲悪劇。もちろん「三尺高い木の上に」のせられての獄門さらし首は覚悟の上という、悲劇性を背負ったキャラクター。
 谷底を盛り場に、というのが面白い。吉原や堺町(いまの日本橋人形町三丁目にあった。旧吉原に近く、芝居小屋や茶屋があった。次郎吉はその芝居小屋の出方の息子で、やはり近隣の新和泉町生れとされる)のような場所を山の手に、というのだから、遊廓あるいは芝居小屋を中心とする盛り場だ。
 あまり史実をほじくってもと思いつつこだわれば、鼠小僧が活躍した文政期の鮫ヶ橋は岡場所(私娼窟)となって繁盛していたらしいから、貧民窟ではない。そのために原作者は市ヶ谷へ移したのかも知れない。鮫ヶ橋が貧民窟になるのは天保の改革で岡場所が禁じられ、遊女が外の街まで出て営業する夜鷹に変り、その根城になった、それ以降である。
 貧民窟の谷底と、盛り場の谷底。原作が書かれた昭和六年の四ツ谷には、この両者がともに存在していて、しかも距離的に近かった。
 貧民窟は鮫ヶ橋。盛り場は荒木町三業地。後者は高須松平家の庭の、擂鉢の底の池。維新後、池と滝を見下ろす崖上に茶屋ができたのが始まり。
 低湿地に自然発生的にできる飲み屋街(歌舞伎町とか、渋谷センター街とか)と対照的に、山の手の三業地というのは斜面の高低差を活用してつくられることが多いようで、荒木町のほかに神楽坂も円山町もそうだ。
 ところが故意か偶然か、荒木町の場合は池がどんどん小さくなり、そこに店が並んだため、谷底の花柳界という珍しいタイプに発展した。我が家のあたりも明治半ばまでは池で、その後も「池ノ中」という通称が残っていた。埋立後は「みうら」という料理屋(料亭)になり、舟橋聖一などがなじみだったという。
 というわけで、戦前には新宿通りの津之守坂入口交差点をはさんで、南東の鮫ヶ橋と北西の荒木町、対照的な「谷底」が、斜めに接していたのだ。
 ひょっとしたら、この二つの極端な対照をヒントに、谷底の貧民窟をつぶして盛り場にするという発想がでてきたんじゃないか、なんて気がしてくる。
 大佛次郎の原作本を読みたくなり、古本を探して注文。

 なお現在の荒木町の谷には、旧料亭の建物などは残っているが営業しているものはなく、すべて普通の住宅に変った。逆に上町の、かつては住宅地だったあたりが今は飲食店街になっている。鮫ヶ橋も普通の住宅地になっていることは、この日記で以前に述べた。

五月二十六日 高田馬場で飲み会
 大学のサークル時代の仲間と、高田馬場で飲み会。いつも使っていた飲み屋がビルの建替か何かで閉店していた。五~七人など、半端な人数でも必ず入れるので重宝していたのに残念。
 集合前にレコード店ムトウに寄る。クラシック売場は長いこと別の場所に独立していたが、CD全体の売上低迷のためか、元の店の二階という、学生時代と同じ位置に戻っている。喜んでいいことではないのだろうが、懐かしいのは確か。
 外資系大型店が渋谷新宿にできる前、夜の十時まで買えるクラシック店などはこのムトウくらいで、それだけで理由もなく親近感をもっていた。酔っぱらって寄っては、ずいぶんと無駄遣いをした気もする。
 そういえば学生時代は、夜一時まで開いている奥沢駅前の本屋とか「夜行型」の店がとにかく好きだった。あれは何だったのだろう。

五月二十八日 カラオケ
 同窓会的な催しはなぜか近接することが多く、今日は中学時代の仲間と銀座で飲み会。二次会はカラオケ。
 送電線工事の仕事をしていた頃、地方の現場に滞在しているときは行く機会が多かったが、それ以来だから約十五年ぶりのカラオケ。高い音が出なくなり、老いを痛感。

六月一日 テロルの時代に
「高力様の裏の方一帯でさあ。下町じゃちょっと見られません。屑のような奴の集まっているところでしてね。昼日中でも物騒で入って行けやしません」
 大佛次郎の『鼠小僧次郎吉』(徳間文庫)を読みつつ、録画した映画版を見なおす。
 「市ヶ谷の谷底」なる地域は、原作に詳しく出ていた。先日、泉鏡花の『高桟敷』のことを書いたときに出てきた高力松のところから、暗い裏町に入っていくのだという。現在の本塩町十四、三陽商会のビル(いまは八千代銀行)のあたりが旗本高力家の屋敷だが、その西側の斜面の下である。
「右手が市ヶ谷八幡の森のある高台、左手が四谷の台で、二つの丘に挟まれて一帯の低地が続いているところでした。高力屋敷の裏にある自身番小屋の前を通り抜けると、あとはまるで灯のない闇です。路が暗くなり狭くなって、奥へ入るほど家並がちいさくなっていくのでした。(略)ごみごみした長屋建てが、日あたりの悪い崖の下に蜂の巣のように重なり合っている町があります。(略)住んでいるものはどれもその日暮らしの貧乏人ばかりで、雨でも降れば職にあぶれて、物も食わずに寝ているよりほかない惨めな世帯ばかりでした」

 地形に関しては嘘ではないが、ちょっと無理がある。高力家の裏の崖下ということは、今の坂町の東半分くらいを指すのだろうが、ここの斜面と向かいの防衛省、当時の尾張家の上屋敷との間、つまり靖国通りのあたりはかなり余裕のある空間で、「二つの丘に挟まれ」た、谷町的な閉塞感はない。
 たしかに坂町は北向き斜面のせいか、現在でも小規模な住宅が廂を接して立ち並び、細くて車の通れない、このあたりでは珍しい、未舗装の路地さえまだ残る地域だ。本塩町との境目を南に登る坂などは、狭く蛇行して雰囲気満点。だが、大半の坂はなだらかで、崖下というほど極端な高低はない。
 やはりどうも、鮫ヶ橋の地勢を念頭におきつつ、しかし泉鏡花など他の人も書いた場所では芸がないと考え、坂町を選んだのではないだろうか。なお現実の坂町が市ヶ谷ではなく四ツ谷に属するためか、終りの方では「四谷の崖下」と、形容をさりげなく変えている。
 映画では、盛り場の予定地の地図をばっちり映していたが、荒木町の谷底まで含まれているのが可笑しかった。少なくとも小道具をつくった人が、荒木町の三業地を意識していたことは間違いない。

 あら探しはここまで。それよりも原作には、昭和六年一月から翌七年六月まで雑誌『講談倶楽部』に連載されたのにふさわしい「時代の気分」がそこかしこにあり、そこに注目するとまた面白い。
 文庫本の解説の福島行一は、悪徳商人が役人に賄賂を使って盛り場をつくろうとする陰謀は、大正末から昭和初めに起きた「松島遊廓疑獄事件」を念頭にしたものだろうと書いている。大阪最大の遊廓だった松島新地の移転先をめぐって、複数の不動産会社が与野党の政治家に賄賂を贈った、という事件である。
 一方、貧民窟の取払についても、明治五十年を期して計画されていた、青山練兵場跡を会場とする万国博覧会開催の暁には、会場に向う外国人に線路際の鮫ヶ橋を見られてはみっともないからと、取り払う話があったことを永井荷風が『日和下駄』に書いている。
 これらを組み合わせて、大正デモクラシーの残影を背景に、貧者の味方、鼠小僧の物語がつくられた。敵役の梵字の安五郎は、映画では強面のヤクザの性格が前に出ているが、原作ではそんな裏の顔をもちつつ、今は成功して、永代橋のたもとに大きな蔵と屋敷をかまえる一流商人となった、立派で男ぶりのいい表の顔の方が強調されている。
 その永代橋の店に、四ツ谷の貧民たちが大挙して抗議に押しかけると、野次馬まで加勢して大騒ぎになり、役人ともみ合いになるあたりは、労働争議か何かの場面のようである。
 そして鼠小僧にも、副主人公の浪人小谷新九郎にも――映画では林与一が一人二役――いかにも当時の時代劇の主人公らしい、虚無的性格が与えられている。最後、捕縛された鼠小僧は市中引き廻しの道中で江戸っ子の熱烈な見送りを受けながら、冷たく述懐する。
「道化芝居なのだ。貧乏人の味方のように自惚れていて、結局、わざとらしい大見えを切って世間の目を欺いて来ただけなのではないか。この空騒ぎのあとになにが残るのか? 自分がうるおしているように世に見せかけて来た貧乏人だって固よりそのままだ。貧乏人の期待を裏切って、ただ道化役者の空虚で惨めな影だけが残る。結局、それだけのことに、俺の一生が費やされてきたとする」

 自首する直前、鼠小僧は梵字の安五郎を殺している。黒幕が殺されたことで、崖下の貧民も、小谷新九郎とその周囲の人たちも、おそらくは救われたはずだけれども、そこをはっきりとは書かないのが、大佛の意地の悪さ。さらに、いったんは救われても、かれらの未来がどうなるかは、まるでわからない。それらすべてを置き去りに、鼠小僧は白粉をつけて役者気取りで、しかし寂寞たる思いで、三尺高い木の上に。
 この鼠小僧の自嘲は結末近く、昭和七年半ばに書いただろう部分に、唐突に現れる。
 もしかすると、この頃、昭和六、七年がまさにテロルの時代と化していただけに、英雄気取りの暗殺者への、大佛の思いが重ねられているのかも知れない。
 極右の冒険主義者が、ときの権力者や資本家を諸悪の根源とし、テロルこそ世直しと行動した時期。浜口雄幸襲撃、血盟団、そして五・一五。さらには満州事変もあって、日本が決定的に超国家主義へ傾斜しはじめる、その頃。

六月二日 無伴奏合唱の響き
 東京オペラシティで、国立モスクワ合唱団の演奏会を聴く。
 この名前は懐かしい。四半世紀前にジャパンアーツでバイトしていた頃、毎年のように来日していたからだ。往年のうたごえ運動やうたごえ喫茶への郷愁か、ソ連の合唱団ジャパン・アーツ謡は、当時は全国的に人気が高かった。
 この日も前半はロシア民謡。しかし私の目当ては、後半のラフマニノフ《聖ヨハネス・クリソストムスの典礼》抜粋。以前にミュージックバードでこの曲が入った演奏会の解説をして初めて聴き、その名曲ぶりに驚いたことがあり、ロシア人の歌う実演を聴いてみたかったのだ。
 民謡でのアンサンブルはかなり荒かったが(それでも声の威力には感心するほかなかったが)、後半のこの曲ではまるで真剣さが違った。ミーニンの指揮も自分が蘇演した曲だけに入念で、曲に対する理解と共感がかなり深いと感じた。
 渦を巻いて天を目指すような、無伴奏合唱の深い響きに酔う。やはりいい曲。

六月三日 東西の時間軸
 サントリーホールで、ウラディーミル・フェドセーエフ指揮のモスクワ放送交響楽団の演奏会。
 曲目はオール・チャイコフスキー。スラヴ行進曲に続き、河村尚子独奏のピアノ協奏曲第一番。この曲に初挑戦という河村はケレンを排し、純音楽的なアプローチ。冒頭部分などまるでソロモンのこの曲の演奏を思わせて見事だった。向後に煮つめていく部分もあるのだろうが、とにかくこの人ならではの音楽になっているのが頼もしい。
 後半の交響曲第五番はさすが堂に入った演奏。放送局のオーケストラなのに、ヴァイオリンが両翼配置でコントラバスを最後列に横一線に並べるという、十九世紀風の楽器配置が面白い。この配置を象徴として、ロシアのオーケストラの時間の流れというのは、西欧側とはまるで違うのかも知れないと感じた。
 二十世紀後半、西欧が「モダン」な無機的機能美を追求した時期――楽器配置もピアノ式になった時期――にも、ソ連では変わらずにそれ以前の様式が継承された。そしていま、西欧の様式は振り子のように戻って音に弾力性を復活させたのだが、ロシアはそれとは無関係に、昔のままの弾力性を維持している。
 それで、両者は一見似ているのだが、西欧の演奏があくまで機能性追求の時代を経過したものなのに対し、ロシアのそれは、よくも悪くも昔のままの野太さを残しているようなのだ。
 もちろん、事態の推移はこんなに単純な図式的なものではないだろうが、「鉄のカーテン」の厚さを想う。

六月五日 イオランタ
 チャイコフスキーのオペラ《イオランタ》を聴きに、サントリーホールへ。
 フェドセーエフ指揮のモスクワ放送交響楽団が演奏し、ヒロインの佐藤美枝子以外はスラヴ系の歌手ばかり。合唱にも同時期に来日した国立モスクワ合唱団が入り、演奏会形式とはいえ本場の出演者がそろった豪華版。
 期待以上に堪能した。近頃流行のセミステージ形式をとらず、歌手がオラトリオ風に指揮者の前に横一線に並ぶ、純然たる演奏会形式だったが、オーケストラの表現力が豊かで場面を想像させてくれるものだから、むしろそれでよかった。
 荒涼たる野を進むと、突如として草花の美しく咲く城館と庭園が出現する、というのはアーサー王伝説など西欧中世のお伽話でおなじみだが、《イオランタ》にあるのは、まさにそうした世界。
 こういう、沙漠とオアシスの対照のロマンは、もともとは中近東からシルクロード起源なのだろうか。千一夜物語や西遊記の世界でもあるし、西欧なら、イスラムの影響が濃いイベリア半島か。建物で取り囲んで外界から遮断し、緑豊かにするスペイン式の中庭は、その具現化なのだろう。《パルジファル》のクリングゾールの魔法の館もスペインという設定だし、異教的なエキゾティシズムを象徴する舞台装置なのだろうが、今回はそれが、完全に聴きてのイマジネーションの中だけにあるというのがよかった。
 チャイコフスキーのオペラは《オネーギン》に《スペードの女王》に《マゼッパ》と、大半がロシアを舞台にしているだけに、これは意外な感じ。だがバレエ《くるみ割り人形》と合わせて上演するために構想された(日本では歴史的にオペラとバレエが分断されているが、欧米では組み合わせた公演が少なくない)という解説を読んで納得する。
 この人のバレエはオペラと対照的に、ロシア外の中世ヨーロッパ的世界が中心になる。《イオランタ》はその趣味をオペラに持ち込んだものなのだ。ただそうすると、バレエにはない言語の壁がつきまとうのが難しいところ。
 歌手に大スターはいないし、脇役は国立モスクワ合唱団のメンバーが担当していたが、みな役柄に適った好演。
 佐藤も声楽面はよかったが、もう少し演技をしてもいいと思った。周囲がみな表情や身ぶりを歌に組み合わせ、視線を交わしたりしているなかで、一人だけ別の世界にいるようだった。初めは盲目を暗示しているのかと思ったが、視力を得ても変化はなかった。
 母国語で歌える人と、そうでない人の差もあるのだろうが、オペラ歌手ではない「声楽家」と感じざるを得なかった。

六月六日 黒田恭一さんの告別式
 須賀町の四谷たちばな会館で行われた黒田恭一さんの告別式に行く。
 黒田さんと初めてお会いしたのは『レコード芸術』の対談のときだった。ミラノ・スカラ座の録音の歴史をふり返るもので、グラモフォンのミラノ・スカラ座録音ボックスのブックレットにも再掲された。初対面の若造の話にもきちんと耳を傾けてくださるのが嬉しかった。けっして誰に対しても無批判な方ではなく、同じように対談して愛想をつかされた人もいると後で編集者から聞き、胸をなでおろした記憶がある。
 その後『レコードはまっすぐに』を訳したとき、ぶしつけに本を差し上げたところ、ご丁寧な礼状をいただいた。そのときにはまさか『ニーベルングの指環』の新訳をやることになるとは、夢にも思っていなかった。後日、その企画を学研から聞かされたとき、担当者にまずお願いしたのは、黒田さんのご諒解を得ることだった。ご快諾いただいたばかりか、素晴らしい序文まで寄せてくださった。
 最後にお会いしたのはジャパン・アーツの中藤会長の喜寿を祝う会だから、昨年の十一月十日である。会の発起人を務められていたのだった。
 黒田さんの大きな功績は、テレビ・ラジオでのご活躍とならんで、女性誌のクラシック欄で多数の読者を獲得し、ソフトな語り口で、クラシックを中心とするさまざまな音楽の世界に案内されたことだろう。一九八〇年代以降の、一つのカルチャーを代表された方だった。
 にこやかなご遺影に合掌。

六月十二日 愛の妙薬
 藤原歌劇団の《愛の妙薬》を観に東京文化会館へ。
 マルコ・ガンディーニの演出は、舞台を現代のデパートの化粧品売場と専門店街のような空間に移したもの。売場は白い床、銀色に縁取られたガラスの陳列ケースがまばゆく輝き、専門店は陰影をもって、スミレ色や赤紫に彩られる。
 予備知識なしで客席についたので、幕があいた瞬間には息をのんだ。店員と客が舞台を埋めて動き回り、歌いだす瞬間まで、ネモリーノがどこにいるのかわからない状態。主役たちがどこにでもいる普通の若者であることを強調する狙いなのだろう。ネモリーノもアディーナも、売場で働く店員である。
 絵面はきれいだし、発想も面白い。だけれど、ドラマや音楽との結びつきが弱く、説得力は乏しい。店員が業務中にこんなに私語を交わしたら、少なくとも日本ではクビになるだろう。売場の裏の休憩室みたいのを脇につくり、そこでしゃべらせればいいのにとか、余計なことを考えてしまう。さらに違和感があるのは軍服を着たベルコーレ。ヨーロッパなら士官候補生は制服で街を闊歩するかも知れないが、客に今風の女子高生がいたりする日本的景色には何ともそぐわない。
 どうせなら「格差社会」を反映して、非正規(ネモリーノ)と正規(ベルコーレ)の労働者の格差にあてはめてみたらとも考えるが、それをイタリア人演出家に望むのは無理だろう。
 などと、引っかかる点が多々あるにもかかわらず楽しめたのは、この演出が、作品の本質と矛盾しない明朗さをもっているからかも知れない。ミン吉氏が『オペラ御殿』の「棟梁日誌」に書かれた通り、「なんだか憎めない舞台」なのだ。

 それにしても今の日本には、オペラ中の兵士のように、体を張って手っとり早くまとまった金を手に入れられる稼業って、少ない気がする。かつてなら肉体労働だが、昭和五十年代以降は他の労働の対価が上昇して、相対的な価値と魅力が低くなっている。こういうのも、一億総中流化現象の遺産なのだろう。

六月十九日 思春期のもどかしさ
 長いことツンドクにしていた原武史の『滝山コミューン1974』(講談社)をやっと読む。

 東京都の東久留米市に誕生してまもない三千百八十戸のマンモス団地、滝山団地の子供たちが通う東久留米市立第七小学校に生れた「国家権力からの自立と、児童を主権者とする民主的な学園の確立を目指した」地域共同体。著者はそれを「滝山コミューン」と名づけ、一九七二年から七四年までのその動向を追う。
 この児童による共同体の黒幕は、大学を出たての団塊世代の若い小学校教師。かれは日教組の指導理論に従い、担任したクラスの児童を、児童自治の核となる団結した集団に育て、六年時にはその影響が学年全体、学校全体に及んでいく。同級生の中でそのさまを薄気味悪く思い、疎外感を味わう一人の少年。その児童こそが現在の著者で、つまりは自伝的なノンフィクション。
 この日々を再現することで、著者は一九七二年に「政治の季節」が終り、以後は「私生活主義」になったというような単純な歴史観に異議を唱える。
 学生運動の狂瀾は過ぎても、社会的には左翼支持の気分と行動が、たしかに七〇年代までは継続していたのだ。国政選挙は保革伯仲、大都市に革新派知事が多く、春闘のストライキの長期化が当然だった時代。自民党が対抗するために徹底して地方重視、一票の格差を平然と拡大させて、政権を保っていた頃である。

 面白かったし、考えさせられた。
 不満なのは小学生時代の著者の実体験に基づくだけに主観的に過ぎる点で、周囲の状況と卒業後の出来事を、もっと徹底して調査すべきだったと思うが、それはそれとして、著者は一九六二年八月生れで私と同学年。同年代の人間として刺激を受けた記述から。
 まず、舞台となる西武線沿線のマンモス団地という場所が面白い。間取だけでなく、収入や年齢、家族構成までが均質化された団地社会は、一億総中流意識の時代の始まりを象徴する。
 六八年から七〇年にかけて建設された滝山団地の特徴は、駅から離れていて、バスに十分間ほど乗らなければならない「陸の孤島」であること。駐車場が限られているので自家用車も少なく、父親たちの通勤は西武バスに依存しなければならない。著者によると西武沿線にはこうした団地が他にもいくつかあるそうだ。
 西武としては濡れ手に粟だ。住宅公団が沿線住民を増やしてくれるばかりか、同じ一人から電車賃に加えて、バス代までとれることになる。
 そこで思ったのが、かつての西武電鉄には、モータリゼーションを憎悪しているような印象があったこと。
 現在は変りつつあるらしいが、昔は多くの駅前にロータリーがなく、線路沿いの細い道路のみだった。駅前の再開発を怠ったためという。また高架化や地下化を頑強に拒否して、近隣の道路は踏切だらけで不便。特にひどかったのは環状八号線で、これほどの幹線道路にさえ、九七年に井荻トンネルが開通するまで「開かずの踏切」があったのだ。
 全体に、車なんか使うな、といわんばかりなのである。
 さらに、他社線との接続にも消極的だった。著者が武蔵野線に七三年四月一日の開通日に乗る話が出てくるが、その武蔵野線は、
「西武池袋線や西武新宿線とばかりか、新宿線の支線である拝島線や国分寺線、多摩湖線とも次々に交差するはずであった。だが実際には、ただ一つ西武との乗換駅と見なすことのできる新秋津ですら、西武池袋線の秋津との間はかなり離れていた。東上線に朝霞台、伊勢崎線に新越谷という新駅をまもなく開業させ、武蔵野線と乗り換えができるようにした東武とは対照的であった」
 交通網の四通八達を嫌う閉鎖性。現代の視点だと、マイカー抑制、電車とバス主体の移動はむしろエコで結構ではないかともいえるが、西武電鉄がそれを予見していたとはどうも思えない。
 均質化された団地を囲む、こうした閉塞性を「滝山コミューン」の背景に見るのは、なるほどと思う。

 「滝山コミューン」を生みだした教師の指導の根拠になったのは、日教組の全国生活指導研究会、略して全生研の著書『学級集団づくり入門』。
 同書には「大衆社会状況の中で子どもたちに生まれてきている個人主義、自由主義意識を集団主義的なものへと変革する」と書いてあるという。
 「個性の尊重」を謳いながら個人主義を悪とし、集団主義(全体主義とどう違うのか)に変える、典型的なソ連型共産主義の社会理論だ。マスゲームを一糸乱れず行う、共産主義国家の人民たちなどはその具現化だろう。
 面白いのは、集団づくりの方法となるのが徹底した競争主義であること。
 ただし、個人競争ではない。数人からなる班を最小単位として、互いに競争させるのである。連帯責任が徹底され、個人は班全体の勝利のために努力する。
 さらに面白いのは、班競争の目的が優勝や一位を目指すより、最下位にならないことにある点だ。ビリになったり、分担作業から外された班は「ボロ班」などと呼ばれ、屈辱感を味あわされる。その悔しさと反省がバネとなり、つねに底上げが図られることになる。
 一位争いが重要でない理由は、過熱すると集団の団結性を乱すからだろう。代りに優秀なリーダー、班、クラスを一つ存在させておく。教師の掌握下にあるかれらが核となり、突出せず常に模範となることで、集団主義が拡大していく。
 これは著者もいうとおり、まさに軍隊教育だ。最強の軍隊、最強の組織をつくるためには、疑いなく最適の方法だ。分隊、小隊、中隊、大隊といった単位ごとに競争させ、不退転の鉄の団結を築く。
 しかし、小学校に最強集団をつくっていったい何をしようというのか。
 軍隊ならぬ学校でのこんな指導が問題になるのは当然で、児童に有形無形のストレスを与えてイジメを生む温床として八〇年代に批判され、九〇年発行の『新版学級集団づくり入門』で、班競争やボロ班などの用語が消えたという。

 また、〈フニクリ・フニクラ〉の替え歌である〈鬼のパンツ〉の歌が、全生研推奨の「集団遊び」の一つだったというのは驚いた。そういえばJASRACでは「作詞者不詳」になっている。著作者を伏せたり集団名にしたりするのは、左翼団体の好む方式だが、さて。
 そのほか、四谷大塚のテストの話――都心へ出ての受験勉強は、コミューンに疎外感を覚える著者にとって救いになっていた――も出てくる。
 著者の同級生の母親には、長男と次男を二人続けて教育大附属駒場中に合格させ『有名中学合格!――母親が書いた初めての中学受験モーレツ日記』という手記を講談社から出した人がいたという。次男(著者と同級生)のときには東久留米市が同中の通学区域から外されたために、受験前に団地の家を売り、上高井戸の建売住宅へ引越したそうだ。
 これを読んでいたら、あの時代に「教育ママ」や「ママゴン」といった言葉ができたのを思い出した。まさに「モーレツ」な時代だった。
 同学年ということで、自分の小学生時代も思い出さずにはいられない。
 卒業式の「呼びかけ」は私も気味悪く感じた記憶がある(ナチス党大会を撮影した『意志の勝利』をのちに観たとき、そっくりの場面があったので、やはりこのあたりが原型かと深く納得した)。しかし、私の学校は日教組とは縁が薄かったようで、幸いにも班競争などはなく、全体主義の恐怖には直面せずにすんだ。だが、それでもやはり、教師にはまったくいい思い出がない。
 こちらも出来の悪い、いいつけを守らない生徒だったからおあいこだが、相手が子供で自己主張の能力が未発達なのをいいことに、よくも独善的な言動で決めつけをしてくれたものだという恨みは、三十五年たっても消えるものではない。
 いくつかの屈辱的な記憶は、いまも細部まで思い出せる。中学以降のことなら忘れているし、憶えていてもいまさら悔しく思ったりしないのだが、小学五、六年頃のことだけはそうはいかない。
 自我の発達がアンバランスで、頭で感じていても具体的な言葉にできない、反論できないという心身のズレ、思春期ならではのもどかしさが、その原因なのだろう。ひょっとすると、思春期のもどかしさくらい、記憶を鮮明に保つ感情はないのかも知れない。

六月二十日 ヌーブルジェ
 サントリーホールで、ジャン=フレデリック・ヌーブルジェのリサイタル。
 一曲目はバッハのシャコンヌをブラームスがクララ・シューマンのために左手用に編曲したもの、次がブラームスの第2番のソナタ。後半が《ハンマークラヴィーア》。ときに音楽が無機的になる弱点はあるが、きらめく才気、運動性の高さと弾力はやはりお見事。
 会場で《ハンマークラヴィーア》ほかの新譜を売っていたので勇んで購入。それにしても、痩せてすっきりしたのにびっくり。

六月二十四日 ボリショイ・オペラ
 ボリショイ劇場来日公演《エフゲニー・オネーギン》を観に東京文化会館へ。
 十九日にも《スペードの女王》を観たので、演奏会形式の《イオランタ》と合せて、今月はチャイコフスキーの代表的な歌劇三本をロシアの団体による実演で聴けた。
 なかでも今日の《オネーギン》は、圧倒的な出来だった。何よりドミトリー・チェルニャコフの演出が素晴らしい。演劇的センスと音楽センスが、非常に高い水準で組み合わされている。
 すべては室内で行なわれるため、閉塞感がつねにのしかかる。ときに救いのように外光や風が現れては消える。その気配の新鮮で、美しいこと。
 主役たちはこの閉じた部屋の中で、そこに形成された人々の輪(丸テーブルが暗示する)にも入れず、不器用な自己表現で他人との距離をとりそこねては傷つき傷つけ、昂揚した感情もロマンもポーズも、みな独りよがりだったことを思い知らされていく。
 なんと滑稽で、悲しく痛いドラマだろう。ほとんどの人は、よほど幸福な人は別にして、他者との適切な距離のとりようをしくじって苦しんだり、迷ったりしたことがあるはずだが、その傷がここでほじくり返される――甘美で、センチメンタルな音楽にのって。
 素晴らしいのは、一瞬の迷いやためらい、昂りなど千々に揺れる心を表す身ぶりや表情を、音楽にぴたりと合せて演出してくれたことである。「ロシアは芝居の国」という言葉を今さらに思い出しつつ、それがオペラでこれほど表現されたことに驚く。
 個々の音型や経過句から、意味と感情が引き出されていくことで、チャイコフスキーはここまで書いていたのか、これほど見事な心理表現をしていたのかと、そのヴェールが剥がされていくような、新鮮な感覚を味わうことができた。
 それは各歌手の役になりきった好演があってのものだが、指揮のヴェデルニコフの雄弁な表現力も大きい。演出が引き出した作品の可能性を、かれが実際の音にしたのだから。
 この指揮者、いままでちゃんと聴いたことがなかった不明を恥じるばかり。そのときどきに、欲しい響き、欲しい声部をスパッと抜き出して、シャープな輪郭をつけることができる。ドラマとリズムに対する鋭敏なセンスにおいては、明らかにゲルギエフより上だろう。
 ロシア系はユロフスキーといい二人のペトレンコといい、優秀な指揮者が輩出していて、大いに楽しみだ。

 それにしても今月はロシア国立合唱団にモスクワ放送交響楽団、ボリショイ・オペラと、ロシアの演奏家と音楽を立て続けに聴いた。さらに来月はプレトニョフの手兵ロシア・ナショナル管弦楽団の演奏会もある。
 どれも招聘元はジャパン・アーツ。私が四半世紀前に同社でバイトしていた頃の「ロシア・ソヴィエト芸術祭」を思い出すが、今回のはあくまで偶然の集中だという。聞いた話だと、ロシア経済の好調が背景にあるとか。
 あたりまえだが、時代は本当に変わった。昔は私企業がスポンサーにつくどころか、KGBらしき人がついていたり、その監視をかいくぐって亡命する人がいたりしたのだった。

七月三日 「草燃える」の苦い面白さ
 最近はまっているのは、CSの時代劇専門チャンネルのNHK大河ドラマ『草燃える』の再放送。
 大河ドラマはCSではおいしいコンテンツらしく、いまも『風と雲と虹と』や『太平記』『春日局』の三作品が全話放映中なのだが、一九七九(昭和五十四)年の『草燃える』以前は、全話が保存されていない作品が大半を占める。ビデオテープの保存量に上限が規定されていたため、破棄されてしまったそうだ。そうした作品からNHKに偶然残っていたり、関係者や視聴者が録画したりして現存する回を放映するのが、時代劇専門チャンネルの『大河ドラマ・アーカイブス』。
 多くは一作品一回分で、『天と地と』は川中島合戦だけ、『春の坂道』は最終回だけ、『花神』は第十九回だけ、『新平家物語』は局員が自宅で録画したモノクロ一回のみ、という体たらくだが、『草燃える』はいちばん年代が新しい――翌年の『獅子の時代』からは全話が保存されている――ために、五十一回のうち十四本が放映される。約四分の一、しかも個人が録画した質の悪い映像が多いが、それでも三十年ぶりの再見は新鮮。

 なにより、一九七九年にはこんな大人のドラマ(中島丈博脚本)を大河の枠内でやったのか、ということに驚く。
 とにかく、ヒーロー不在なのが凄い。
 それまでの大河は全般に、昭和初期の大衆歴史小説の方法論を受け継いで、吉川英治あるいは初期司馬遼太郎的なヒーローを軸にしていたと思うが、ここにはそれがひとりもいない。みんな欠点を抱えていて、表裏があって、複雑。
 暗いだけでなく、陽の部分もある。そのバランスがうまくて、じつに苦い。暗いだけでは制作側のひとりよがりになるが、そうでなく滑稽で「にがい」から、見続けてしまう。
 しかも役者の層が厚い。大河に出ることがまだ名誉だった時代ゆえの、異常な厚さ。江原真二郎の梶原平三景時、岸田森の大江広元、佐藤慶の比企能員、戸浦六宏の新宮十郎行家、小松方正の上総介広常などなど、私の中では未だにその役のデフォルトになっている連中ばかりだが、三十年ぶりに見てもそのはまりぶりは変わらない。みんな「にがい」。

 義経の扱いがいい。正直なところ、国広富之よりもう少し頭のよさそうな役者がいたろうと思わざるを得ないのだけれど――『関が原』の小早川金吾秀秋役は最高のはまり役だったが――、それはともかく、弁慶を出さなかったのがいい。
 弁慶なし。視聴者サービスを考えなければならない大河としては、かなりの英断だったと思うのだが、それをやれるくらいに「大人のドラマ」なのである(二〇〇五年の『義経』で能登守教経を省略してしまった、あの物語センスのひどい欠落とは、これはまるで意味が違う)。
 弁慶がいないだけで、義経というのがいかにひとりぼっちな、さびしい人なのかが浮彫になる。衣川の最期の場面も立ち回りすらさせてもらえず、追いつめられて自害するだけ。
 これを観ると、義経に同情した中世の人々が自分たちの代弁者として、武蔵坊弁慶を、死してなお義経を護る至忠の荒法師というキャラクターに仕立てずにはいられなかった理由、気分がよくわかる。ゆえに弁慶は牛若丸時代や大物浦以後という主君の不幸な時期にのみ活躍し、その栄光期である平家戦の期間には目立たない、つまりは『義経記』が扱う時間のなかでだけ精彩を放つ、不思議な人物になるのだ。その弁慶なしに流浪する義経は、ほんとうに悲惨だ。
 また、義経の恋人静が鎌倉につれてこられたとき、政子(岩下志麻)ひとりがその妊娠に気がつかない、という設定も面白かった。娘の大姫など女性たちはもちろん、男の頼朝でさえ勘づいたのに、何人も子供を産んでいるはずの政子が、他人に指摘されるまでわからない。
 母子の感覚の決定的な鈍さ、欠落。それが大姫や頼家や実朝という、政子の子供たちの不幸な運命を暗示する。

 先日の「頼家追放」の回は特によかった。仁田忠常をだまし討ちにする北条時政(金田龍之介)と仲間たちなんて、ほとんど『仁義なき戦い』的な実録ヤクザ映画の世界。鎌倉武士団を大小の組長たちの寄合みたいにとらえて、その派閥抗争に重ねてある。頼朝時代の御所が、石坂浩二(頼朝)に江原だの岸田だの、同じ七〇年代でも、商社――石油ショックまでの高度成長を象徴する存在――とか大企業を舞台にしたドラマの重役会議みたいだったのと好対照だ。いかにも面白がって変えている。
 修善寺に幽閉された頼家からくる手紙も効果的。文語ではなく口語で読まれるのだが、それが以前の義経の腰越状と重なって、肉親が殺しあう源氏一門の暗い宿命と鎌倉の陰惨さをほのめかす。
 この源氏一門の忌まわしき運命に関わる、後白河と後鳥羽とその宮廷の、化物じみた雰囲気。松緑の後白河を継ぐ、辰之助の狂気をはらんだ後鳥羽もいい。

 板東武者の蜂起に六〇年代末の学生運動の熱狂の嵐を重ね、それが過ぎたあとの白けた気分と実社会での生活とか、そういった、制作当時にまだあった「時代の余熱」がうまく活かされている(これらは七七年の『花神』の大野靖子の脚本にも反映されていたから、時代に共通する気分だったのだろうが)。
 その気分の象徴となる、伊東十郎祐之という架空人物の設定がじつにうまい。北条義時と同じ地方武士の伜だが、十郎の父が頼朝を排斥したのに義時の親が受け入れたことが運命の分かれ目、初めはよく似ていた若者二人の生涯は、まったく異なるものになっていく。
 その人物を、単に反頼朝勢力というだけでなく、三浦氏と曽我兄弟の縁戚でもある、伊東氏に設定した着想がにくい。その血縁を利用することで、十郎は連合赤軍的な革命家として戦い続けることができる。松平健の義時に対置される十郎役の滝田栄がまたいい。これで有名になったのがよくわかる。断続的でも最初から最後まで出演したという点で、政子と義時に並ぶ主役である。当時は怒鳴る演技ばかり印象的だったけれど、いま見るとさほどでもない。もう少しあとの俳優たちの方がよほどひどかった。
 ただ、飛び飛びの再放送なので、その転変ぶりがよくわからないのが残念。
 相手役に美輪明宏がちょっとだけ出てきたのにも驚いたが、なにより嬉しかったのが、岡本信人の藤原定家をまた観られたこと。これもデフォルトである。
 この配役にも深い意味があって、それゆえに高校生の自分にも印象的だったのだと、「頼家追放」をみて思った。
 後鳥羽も歌の名手。そして実朝(篠田三郎)も歌の名手。この二人に絡めるために定家が重要で、しかも、かっこ悪くなければならない。だからこそ「出前持ちと御用聞きをやらせれば日本一」の岡本信人だったのだ。
 この定家と十郎の対話が強烈でいまだに忘れられないが――美しい河原なんかどこにあるんだ! 転がってるのは餓死者ばかりだぞ! とかなんとか、周囲を見ずに美しい歌を詠み続ける定家を、十郎が怒鳴りつける――あれはきっと残ってないだろう。
 最終回の最後の場面は、私の記憶が正しければ、以下のようだったはず。
 石橋山から承久の乱までを見た挙句、盲目となった十郎が琵琶法師となり、政子と義時の前で「平家物語」を奏でる。
 壮大にして無惨な源家物語、鎌倉物語の〆に、平曲――それを十郎が。よく考えたストーリーだった。

 ところで、男は仕事、女は家庭。両者の会話は男が奥で飯を食っているときが大半。おかげで、頼朝が食う場面の多いこと(笑)。いまではありえない「男尊女卑」だが、時代劇はこれでいい気がする。当時は女性が前面に出る大河としてひどく斬新に感じたけれど、いまみると男女の一線は厳然とあるし、前述のとおり、政子の欠点も描かれている。
 考えてみれば『草燃える』は男ばかりの職場が崩れる、その直前の時期につくられていた。ヒーロー不在の物語は、男が疲れているからなのかも知れない。
 翌々年には橋田寿賀子が『おんな太閤記』で歴史劇をホームドラマ化して、突破口を開く。以降は、女性を無謬のヒーロー(ヒロインではなく)とする話も増えてゆく。
(九月十二日の追記 一般視聴者のビデオ提供により、『草燃える』は全巻がそろったらしい。すべて観られる日が待ち遠しい)

七月八日 『ボクの音楽武者修行』
 ある方のご厚意で、テレビ番組『ボクの音楽武者修行 ‘82小澤征爾の世界』のビデオを見せていただく。
 これは四月十八日の当日記で、久山恵子の話をしたときに触れた一九八二年放映のテレビ番組。残念ながらテープの収録時間の関係で三時間のうち二時間の抜粋だが、二十七年前の放映時の録画という貴重なものである。
 日付は一九八二年十月十四日らしい。大阪のザ・シンフォニーホール開館を記念してその当日に放映されたものだったとは、今回初めて知った。ホールの持主である大阪朝日放送の制作で、企画はテレビマンユニオンの荻元晴彦。荻元は小澤の話の聞き役として番組中にも登場、その姿と声が懐かしい。
 再現ドラマは番組の中の一部分にすぎず、一九八二年現在の小澤征爾の活動、演奏会やリハーサルだけでなく教育、日常生活、回想などの「世界」を描いたドキュメンタリーも大きな部分をしめる。
 しかもドキュメンタリーとドラマの二部にきっちりと分けるのではなく、両者を細かく交錯させ、さらに小澤本人が小澤役の野村義男に指揮を教える――予備動作、たたき、しゃくい、はね上げ、先入など斉藤メソッドの基本を小澤がやってみせる――場面や、母さくら役の山田五十鈴と本人があいさつする場面とか、メーキング映像も随時挿入される。
 現存の、活躍中の人物を扱うだけにこうした構成をとったのかも知れないが、あくまで全体は見ていない状態で感想をいえば、この形式のためか、どうもドラマ部分は腰が据わらない。
 しかし、そういえばやはり八〇年前後だったか、敗戦直前に極秘の停戦交渉をスイスで試みたベルリンの外交官(海軍武官?)を仲代達矢が演じた番組があったが、あれも、似たようにドラマとドキュメンタリーが入れ子になるスタイルだった記憶がある。
 ドラマやバラエティのNG場面の特集も人気があったし、少しあとに出てくるとんねるずも、裏話や楽屋ネタを積極的に語って、視聴者に仲間意識、というより一種の共犯者的意識をもたせることで人気を博したことを思うと、当時は舞台袖から見るような視点のずらしが流行だったのだろう。舞台裏への関心は表が盛りあがっていればこそ強かったわけで、たしかにこの時代のテレビ局は、ならぶものなき栄華の日々を謳歌していた。
 話を戻すと、ドラマ出演者のなかでも斉藤秀雄役の山本學は風貌や動作をかなり研究したようで、写真で見る斉藤の印象にとてもよく似ている。小澤にレッスンをつける場面で指揮をしてみせるのだが、右手を頭上に掲げてから振りおろすポーズが映像で見た斉藤の指揮姿そのままで、拍手したくなるくらい。
 おしまいが八二年夏にタングルウッドで演奏した《合唱》の終楽章というのはベタな終りかただが、翌月にザ・シンフォニーホール開場記念で小澤と新日本フィルの《合唱》演奏会があったそうで、複合的効果をねらったのだろう。
 途中、アルゲリッチと共演するベルリン・フィル定期演奏会、ザルツブルク音楽祭でのウィーン・フィルとの演奏会――このときが十二年ぶりの客演だった――と、アメリカからいよいよドイツ語圏に根をおろしつつあることが描かれているのは、いかにも「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の時代。
 時代といえば、番組を企画した荻元晴彦はこのあとの八〇年代東京に誕生する新ホール、サントリーホール、カザルスホールとも関わりが深かった。
 一億総中流意識からバブル期への中間にある八〇年代前半、「おいしい生活」時代のクラシックのあり方は、テレビマンユニオンに象徴されるのかも、などと考えてみる。

 ともあれ、貴重な機会を与えてくださった方に深く感謝。

七月十三日 高校生のための《トスカ》
 新国立劇場にて、高校生のための《トスカ》を観る。
 イマドキの高校生はどんな反応をするのだろう、と大いに不安だった。オーケストラのチューニングが始まると、スタッフが客席の通路を歩いて静粛をお願いしていくが、同年代の人間が集まっているだけに、なかなか静かにならない。これは大変な一日になるかと覚悟したが、意外にもざわついて落ちつかないのは、各幕とも開幕してから四、五分のみ。あとは満場静かに聴いている。
 沼尻竜典の指揮をはじめ、しっかりした公演であるからだろう。さらに《トスカ》は第一幕終りが壮大に盛りあがり、ナマならではの音と舞台の力を見せつける。これはオペラをよく知らないお客にも、あとの幕への興味をもたせる効果を発揮するわけで、このあたり劇場人プッチーニのセンスはさすが。

 そういえば自分の高校生時代は、東京シティ・フィルの東京文化会館の演奏会を学校で聴きに行った。
 堤俊作指揮で、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲(独奏は若い女性)、ベートーヴェンの《運命》、それにルロイ・アンダーソンが《タイプライター》など数曲、というプロだった。
 はっきりした記憶ではないが、コンマスが女性だったのが印象に残っている。あるいは大谷康子さんだったのではないかと思うのだが、大谷さんが同オケに入ったのは八一年とあり、私が聴いたのは八〇年で一年前の話だから、ちがうかも知れない。
 ちょうどいま、大谷さん独奏のメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲とラロのスペイン交響曲のCDのライナーを書いていて、とりとめもなくそんなことを思い出す。

七月二十三日 小澤征爾と若杉弘
 小澤征爾音楽塾の《ヘンゼルとグレーテル》を文化会館で。
 若杉弘の訃報を聞いた直後に、かれが得意にしていたオペラを観ることには感慨があった。

 帰宅後、山の神に聞いた昔話。
 一九七六年六月、二期会が《ボリス・ゴドゥノフ》を上演した。鈴木啓介演出による訳詞上演だが、最大の話題は、小澤征爾が日本で初めてピットに入って、新日本フィルを指揮したこと。
 合唱を補強する必要か、二期会は研究生の一部も授業の代りに合唱に参加させた。当時その一人だった山の神も駆り出されたという。
 代々木の旧二期会で声楽のリハーサルが行なわれたが、当然ながら小澤は顔を出さず、副指揮者にまかせっぱなし。
 ところが、ある日その場に突然若杉が現れた。そして、二回ほどリハをつけていったという。フョードル役が夫人の長野羊奈子だったので、おそらくその関係らしいのだが、研究生たちはびっくりするばかり。
 哀れなのは副指揮者で、さんざんしぼられたあげく「こんなんじゃ小澤さんにわたせないよ」と怒られていたそうだ。

 七〇年代の小澤と若杉の一挿話。

八月十一日 ファミレスの衰退
 山の神の母は多磨霊園のみたま堂という、お墓のアパートみたいなところに入っている。レンタカーで墓参り。
 行きは中央道。レンタカーにはETC装置が標準装備なので、カードをつくって使用してみた。なるほどこれは便利。
 さて、帰りは国道二十号でお茶だの食事だのしながら帰るのだが、府中や調布でファミリーレストランがかなり閉店しているのに気がつく。
 以前に通ったのは半年ほど前だが、そのときはまだこんなに減ってはいなかったと思う。
 国道二十号はバイパスとしては歴史が中途半端に、つまり悪い意味で古い。道幅がせまく(キチキチでやっと片側二車線)、沿線に小さな建物が密集して、色々な意味で使い勝手が悪いせいなのか、ファミレスの廃墟がそこここにある。
 廃墟といっても、寂れた旧街道で昔よく見た、つぶれたドライブインの看板などがそのままに風化したお化け屋敷風ではなく、きれいに内外装を剥がし、コンクリの躯体だけにしてある。
 つまり、店名の見当がつかないようにしてあるのだ。店名がわかると、チェーン店の場合はブランド全体のイメージに関わるからではないか。あるいは、こういう後始末のしかたまでも契約に盛りこんであるのか。

 郊外を中心にファミレスの撤退が増加したという話は聞いていたけれど、私自身、八〇年代以降のファミレス生態、三浦展がいうところのファスト風土化にどっぷりつかって生きてきたので、自分の目で見ると感慨が深い。
 学生時代、夜中に車で動きまわるようになったとき、二十四時間営業で駐車場のあるファミレスは大切な足場だった。
 そのあと働きだして、今まで行ったこともなかった関東の地方に初めて常駐したとき、救いになったのもファミレスだった。現場宿舎の、昔ながらの飯場の雰囲気が残る食事に慣れるまで、ときどき抜けだして食べに行くファミレスは、東京での消費生活を思い出させてくれるオアシスのようなものだった。
 と書くといかにも大げさだが、とにかく初めの頃は「都市的なもの」が恋しかったのだ。毎日、畑や農道の上に工事用仮設道路を敷設する作業が続いた。土の上にシートを敷き、丸太を組み、上に鉄製のブロックを並べ、番線(針金)で縛って固定する、土と木と鉄の日々。
 あるとき団地に行って草刈りをすることになったとき、団地の白いコンクリの階段と踊場を見ただけで懐かしくなったりしたのだから、環境の極端な変化で精神的にかなり追いつめられていたのである。
 埼玉県の坂戸市というところだったから、山奥の田舎などではない。ただ自分の心理状態がおかしくなっていたのだ。
 しかし、そういう心が焦げるような状態というのは、いかに馬鹿げたものであったとしても、その強烈さゆえに、二度と忘れられない。
 二週間に一度の休日――二十年前の工事現場は、そんな間隔があたりまえだった――が終り、宿舎に戻る直前の早朝にファミレスに入って、フライドポテトに目玉焼にパン、なんとも安っぽく子供っぽいが、現場ではけっして食卓に出てこないものを、娑婆とのお別れのように食べているときのあの心ふさぐ気分は、いま思い出しても苦い味がする。
 しかし半年もすると、慣れて辛くなくなった。
 生活パターンを自分なりに消化できたからだが、一方では、一九九〇年前後というその時期が、地方にもファミレス、コンビニ、ファーストフード、ホームセンター、書店、ショッピングセンター、大型薬局、洋品店などのロードサイド店が次々とできて、東京郊外の幹線道路沿いとまったく同じ風景になる、すなわちファスト風土化が急激に進行した時期であったことも、今から思えば、大きかったのかも知れない。
 東急沿線育ちの人間にとって、関東東海甲信越のどこに行かされようと、同じような消費生活ができる状況にどんどんなっていったのだった。
 それは、ともかく手軽で便利なことにはちがいなかった。

 閑話休題。国道二十号沿いでやっと見つけたファミレスも、二十四時間営業ではなく、朝十一時から夜十一時という、七〇年代まで戻ったみたいな営業時間。
このあたりではもう、夜中にダベりにくる若者も少ないのかと思うが、そうではなくドリンクバーのために長く居すわられるだけで売上げが伸びず、効率が悪いので夜は閉めているのかとも思う。
 こうしたファミレスの衰退はファスト風土化の終焉を示すわけではなく、消費者の家族構成や嗜好が変り、その業態が時代とズレたからにすぎないらしい。
 事実、最近テレビでよく紹介されている「スシロー」という回転寿司は、あちこちにできていた。
 また、埼玉の私鉄沿線に住む知人の話だと、その地域では「すたみな太郎」というチェーン店が大流行だという。サイトで見ると、二千円弱で九十分間食べ放題のバイキングで、焼肉からデザートまで、あらゆる食物が並んでいるらしい。
 とりわけ五十歳以下の日本人にとっては夢のような、まるでディズニーランドみたいな(笑)場所だし、店側にとってもバイキングはむしろ割安だというし、なによりも一定の客単価と回転率を確保できるから、無駄がない。
 この店の話を聞いて、なるほどと思った。この利点の裏返しが、ファミレスを衰退させる欠点そのものなのだ。
 ファスト風土化は、変容しつつ進行中らしい。近いうち東京都市部でも、「すたみな太郎」かその類似店を見られるようになるにちがいない。

 家の近くまで帰って来て、四谷四丁目の旧サンミュージックのビルを通る。移転していたことを酒井法子の騒ぎで初めて知ったが、まだ看板はそのまま。

八月十四日 山城新吾亡くなる
 山城新伍が亡くなった。
 生前一度だけ見かけたことがあった。十五、六年前、今はなき六本木WAVEの入口前。私が店を出ると、歩道から故人が歩いてこっちに来るところだった。
 ふだん、人の顔をほとんど見てない私なのに、なぜかこのときに限って「あ、山城新伍だ」と気がついてしまい、ほんの一瞬のはずだが見てしまった。
 携帯だか手帳だかを見ながら歩いてきた故人が、当方の視線に気づいた。
 怪訝な顔をした。と、次の瞬間、ばっと身構えて、あとずさった。
 後から考えれば、そこでこちらも『仁義なき戦い』モードに入って、「おんどりゃー」とか叫びながら走っていったら面白かった気もするが、そのときは当方も気が利かず、茫然としただけ。
 一瞬のちには姿勢をなおし、何事もなかったように脇を通っていった。
 大概の芸能人は、周囲の視線に気づいても知らんぷりをしている。身がまえてあとずさった相手は、後にも先にもこの人だけ。記者か誰かを警戒する必要でもあったのだろうか。
 あの一瞬の、緊張の表情がいまも記憶に残っている。

九月六日 音盤物語のこと
 『クラシックジャーナル』三十九号原稿を書きおえる。最後まで校了日ギリギリの体たらく。
 今回で隔月発行の形式は終りになる。自由に書かせてくれる場がなくなるのは残念。ヒストリカルが仕事の中心になるなか、新録音を好きなように選び、書きたいものを紹介できるのはとても楽しかった。このことは編集長に深く感謝している。この一年は三回に一回くらいしか原稿料を払ってくれなかったから、全体的にも潮時ということなのだろう。
(十一月十七日追記 未払分も近日支払ってくれるとのこと)
 音盤物語「一九五五」は途中になってしまったが、これは未執筆分のCDなど資料もそろえてあるし、なんとか完成させるつもり。
 私の仕事としては珍しく終りまでの構成が決まっていて、現時点の案では、全四十四話にエピローグとなることになっている。前半の二十七話が掲載済だが、再構成して一話削るので、残りは四百字詰で二百枚弱、というところか。ここまでは吉田秀和と大岡昇平を中心的な証言者としてきたが、一九五五年には二人とも帰国してしまうので、別の「洋行組」が出てくることになるはず。
 本文が八枚半の長さで一話完結、音盤一枚をメインとする連作形式は、前者は野口武彦さんの『幕末バトル・ロワイヤル』、後者は片山杜秀さんの『音盤考現学』のスタイルを参考にしたもの。
 最初は編集長にその意図が伝わらず、デザインを決めてもらうのに時間がかかったのも、いまはよい思い出。たくさんの人物、音盤を並行して取りあげるのに便利で、個人的には大いに気に入っている。演奏史譚の標準形式として、他の時代の叙述にも使いたいと考えている。
 とにかく、単行本になってもならなくても、なるべく早く書き上げよう(こうして宣言しておけば、きっとその気になるだろうという、浅はかな考え)。

九月十四日 第一段階
 去年の七月から月一回を原則にして続けてきた仕事が一段落。とはいえ、こちらも世に出すにはまだたくさんの作業が残っている。来年前半、くらいには…。

九月二十二日 「一九六〇年」のこと
 ホームページの「十二月のらいぶ歳時記」を完成して掲載。
 この一九六〇年に較べると、いま取りかかっている一九五四年から五五年にかけての方が、時代の節目、端境期としての変化を描ける点で、物語の題材には向いている。しかし、さまざまな事象が濃厚につまっている、その質量の充実において一九六〇年という年は格別で、それを示すには物語形式より、この「らいぶ歳時記」のようなスタイルがあっているのかも知れない。
 気がつけば一年合計で文字数が約四十万字、つまり原稿用紙一千枚を隙間なく埋めるだけの字数になっていた。
 ある録音と別の録音との、さらに他の事象との横のつながりの面白さ、いわば痛快なる共時性に気づく機会と、その材料を山のように提供してくれた点で、一九六〇年なる年との出会いは、ほんとうに大きなものだった。
 三谷礼二さんのお宅で、三谷さんとそのお仲間にこの年の話をさせてもらったのは、チェトラがクレンペラーのウィーン・ライヴのベートーヴェン・チクルスを発売しはじめたあとだから、一九八七年かその翌年のことである。
 一音一音にスタジオ録音とはまるで別物の気魄がこもっていて、あまりにも演奏がすばらしいのにまずは感激したのだが、それからしばらくして、その演奏日の玄妙な符合に気がついた。
 ワルター&ウィーン・フィルの告別演奏会と同じ、一九六〇年五月二十九日なのである。ということはこの二つとも同じムジークフェラインザールで、一日のうちに演奏されたものではないかと考えはじめ、調べてみるとまさにその通りだった。そして、どちらもウィーン祝祭週間の演奏であり、マーラーの弟子二人が顔をそろえたのは、この年がマーラー生誕百周年で、それが祝祭週間のテーマだったためということも、わかった。
 さらに、録音は出ていないが、カラヤンが同時期に《大地の歌》を指揮していて、どうやらそれが帝王カラヤンがマーラー作品を指揮した、最初の機会の一つであるらしいこと、そしてそれがあまりうまくいかず、十年間再び封印してしまったことも、わかってきた。ウィーン楽界のかつての王マーラーと、カラヤンの姿が二重写しになりはじめたのである。
 そしてこの年が「ヨーロッパの音楽総監督」カラヤンの権勢が絶頂にあった一年であることも見えてきて、多方向に興味が広がっていった。
 資料をさらに集め、HMV店頭で配布されていたフリーペーパー「はんぶる」のテーマを「一九六〇年」にしたのは一九九四年。それから九七年まで書いた。
 書きはじめてまもなく、著作隣接権の占有期間が日本やイタリアでも二十年から五十年に延長され、チェトラやメロドラムといったイタリアのレーベルの新譜が止まってしまった。かれらの一部は禁令が及ばないクロアチアなど東欧諸国に拠点を移して活動を再開した(イタリアと旧ユーゴ諸国が隣接して関係が深いというヴェネツィア共和国以来の地勢を、この一件のおかげで再認識した)が、自分が住む日本の法律からみれば「脱法行為」のようなものなので、なんとも扱いにくくなってしまった。
 再来年の二〇一一年になれば、それらがふたたび権利の切れた、つまり著作隣接権が公有のものとなった公有盤となって、戻ってくる。未発売の音源が新たに出現する可能性も高い。
 むかし、HMVの担当の方と話をしていて「十五年たてば、すべて適法ですからね。それだけのことじゃないですか」とうそぶいた記憶がある(三十代前半、私も若かった…)。それがあと二年だ。
 その年にはきっと、「一九六〇年」というテーマに私はまた向きあうことになるだろう。
 願わくは、CDのマーケットがまだ、再来年も残存していますように。パッケージメディアあっての自分だから。

 ところで、最近のCD広告文などで公有盤までひっくるめて「海賊盤」と呼ぶ向きがある。正規盤の価値を強調するため、ことさら他者を貶めたいのだろう。
 けれど自分としては、違法な盤とそうでない盤は区別したいと考えている。
 なぜなら「海賊」という行為は、かつての西洋ではそれだけで死刑になったという重犯罪である。法に背いているわけではない盤にそんな大罪を着せることには、どうにも抵抗を感じるのだ。

九月二十三日 新国立劇場の客席
 新国立劇場のシーズン開幕《オテロ》を聴きに行く。演奏評は日経新聞に載せるのでそちらに。
 あらためて思ったのはオペラを見る、聴くという点で、この劇場が東京ではやはりずば抜けていること。九月はスカラ座公演で東京文化会館とNHKホールに行く機会が重なったのだが、それらのあと二か月ぶりに新国立劇場の客席に座ると、そのありがたみを痛感する。

九月二十八日 河村尚子リサイタル
 河村尚子のピアノ・リサイタルを聴きに紀尾井ホールへ。
 大掛かりな宣伝がしかけられているわけでもないのに、CDや口コミで評判が広まっているのか、全席売切の人気。一ファンとして嬉しいかぎり。
 いままで同様、日本人離れした軽捷で柔軟なタッチが生む美しい響き、緩急強弱の俊敏なコントロールによる充実した遠近感などの長所は変らない。ただ全体に力んでいる印象を受けたのと、《クライスレリアーナ》や《幻想ポロネーズ》中間部での停滞感は気になった。
 もちろんこの停滞は、彼女が意図的につくりだした、迷宮をさまようような方向性での解釈なのかも知れない。いずれにしても私個人は、終演後の心理的疲労が重く、誰とも口をきく気になれずに家路を急いでしまった。

十月一日 鳶魚の自己嫌悪
 直参旗本、とくれば早乙女主水之介。しかし。
「諸大名の家来には、旗本と申しません習いでした。旗本は徳川家の家来にのみいわれました。従って、直参でない旗本はありません。旗本に限らず、御家人でも、徳川氏の家来を直参といい、諸大名の家来を陪臣というのが、江戸時代の習いなのでした。ですから、『生粋の直参旗本』というのは、何のことだか分りません」
(三田村鳶魚『大衆文芸評判記』)

 高島俊男の『お言葉ですが……』シリーズを読んでいたら、「一番おもしろかった本」として、三田村鳶魚著の『大衆文芸評判記』と『時代小説評判記』の二冊が紹介されていた。
 昭和初期のベストセラー、大佛次郎の『赤穂浪士』、直木三十五の『南国太平記』、吉川英治の『鳴門秘帖』『宮本武蔵』、中里介山の『大菩薩峠』、佐々木味津三の『旗本退屈男』といった時代小説の時代考証、往時の身分社会における心理言動の描写が、いかにいい加減で嘘だらけかを指摘している本だという。
 現在も読みつがれる作品は限られているけれど、映画やテレビの時代劇の原作になるなど、後世に多大の影響を残している人気作ばかりだから、その欠点があばかれているとなれば興味津々、さっそく購入することにする。
 残念なことにいまは品切だが、一九九九年に二冊とも中公文庫で出ていた。
 私が鳶魚の名を知ったのは一九八〇年代、海音寺潮五郎の随筆だった。かれが尊敬する、江戸時代に関する無二の大碩学と紹介されていたのでぜひ読みたいと思ったのだが、当時の文庫本には鳶魚の著作がまったく見あたらなかったので、断念した記憶がある。
 その後に江戸ブームが起り、その流れにのって鳶魚も復活、九〇年代後半に中公文庫で大挙して出たらしい。同文庫のカバー裏には「鳶魚江戸文庫」シリーズとして、計三十八巻を数えている。
 三十八冊、大変な数がいきなり復活したことに驚くが、十余年でふたたびすべて品切、という変化の速さにも驚く。
 国内盤CDでも品切の速さには驚くことが多いが、文庫も同じらしい。

 というわけで、古本を買う。
 なるほど面白い。考証はもちろん、明治維新から六十年ばかりで早くも往時の人間の心持がわからなくなっていたことを、手厳しく指摘していく(身分社会を破壊した点、維新は革命だったのだと、お陰でよくわかる)。
 鳶魚がまだしも認めるのは長谷川伸と吉川英治くらいだが、かれらも急所をつかずにはおかない。島崎藤村の『夜明け前』への鋭い批判は、これまた高島俊男がおもしろい本として挙げる『間違いだらけの少年H』を想わせる。
 作家たちのでたらめは大概、執筆当時の心理感覚で書いてしまったり、すべてを幕末に近い天保頃の風俗や地理で考えたりすることで起きているものだ。それを正解(鳶魚が考える正解)と比較し訂正することで、現代と江戸時代の心持の違いや、二百五十年のあいだにどんな変化が起きたのかが、ふつうの説明を読むよりも明快にわかる。
 しかも文体に勢いがある。鳶魚の本はすべて談話を筆記する形で書かれていたそうで、それだけにのったときの勢いがすさまじい。たとえば当時圧倒的な人気だった白井喬二の『冨士に立つ影』なんて、もうコテンパン。
「『山風舎』と称する『水野出羽守隠宅に納まってしまった』と書いてある。が、大名に隠宅なんてものがあるはずはない。また、沼津侯に『山風舎』なんて、そんなばかな名をつけたところもない。これはどういう意味なのか」
「例の山風舎という『五万石の隠宅』の話になる。その模様を書いた中に、『吉原焼出の青瓦に高床の仏縁』とありますが、青屋根瓦のどんなのが吉原から出たものですか。まして、『高床の仏縁』とは何のことでしょう。こういう建築が日本にあったとは、誰も知るまい。巻頭におめでたい肖像を掲げている著者先生以外、何人も知らないでしょう。西洋建築にはなおあるまいから、世界にないものに相違ない」
 こんな調子で痛罵していくのだから、大きな話題を呼んだのも当然だ。たしかに抱腹絶倒である。相手の作家連は現代では歴史上の人がほとんどだが、当時は世にときめく売れっ子先生ばかりだ。それを痛撃してくれたことにゾクゾクするような快感を味わい、快哉を叫び、世におもねることなき正義の味方、破邪顕正の筆誅と崇める読者も、若い層を中心に多かったことだろう。

 しかし、続けるうちに鳶魚も嫌気がさすし、読む方も笑えなくなる。二冊目の後半は、もう読む気になれなかった。バカの種がつきないことにあきれたのではなく、鳶魚の嫌味に惰性と痛々しさを感じたからである。
 巻末の山本博文の解説によると、後年の鳶魚は「あれは書くべきでなかった」と述懐していたそうだ。
 この本によって鳶魚の知名度は一気にあがったろうし、何よりも、海音寺潮五郎など次の世代の時代小説家に、考証の重要性を意識させるという大きな業績を残した。が、それでも本人は悔やんでいた。
 当時の人気作家やその愛読者の反発やいやがらせにあったから、などということではあるまい。「おとなげないことをした。オレは何様なのか」という自己嫌悪だろう。
 その意味で、この二冊を「鳶魚江戸文庫」では特別扱いの「別巻」にした、中公文庫編集部の見識に納得。

十月四日 町へ出よ
 ご多分にもれず、新譜はネットでチェックするだけのものぐさが、私もひどくなっている。
 ところが、数日前にひさしぶりのタワーレコード新宿店で、未知のCDを見つけた。ズヴェーデンがオランダ放響を指揮した《ローエングリン》と《マイスタージンガー》全曲盤。
 このところ、オペラはDVDよりCDで聴きたい気分が勝っているし、ミュージックバードの「ニューディスクナビ」で放送できるという仕事上の理由もあって、これは嬉しい。しかも一組約三千六百円とじつに安い。オランダの放送局の自主製作盤。《ローエングリン》の方にはPALのDVDもついている。

 ヨーロッパ放送連盟(EBU)の中でも、オランダ放送は飛び抜けてCD制作に熱心で、准加盟局だった(残念ながら過去形)ミュージックバードにまで、新人演奏家のセットとか、自国の現代作曲家の作品集とか、ロッテルダム・フィル演奏集などをいまでも送ってくれる。
 コンセルトヘボウ、ベルリン・フィルとウィーン・フィルをシャイー、アバドにラトル、ムーティが振り分けたマーラー全交響曲の記念祭セットなんて、数年おきに放送するたびに好評なので、ほんとに重宝している。
 オランダ音楽祭の記念アルバムを一九五〇年代から毎年つくって関係者に配布してきた歴史を持つだけに、他国とはちょっと違う。フィリップスという有力メーカーの存在とおそらくは歴史的に関係があるのだろうが、この国の放送局は多メディアでの展開にためらいがない(そのフィリップスも、レーベルとしてはデッカに完全に吸収され、地上から消えたが…)。

 このワーグナーは送られてきていないので買おうと思いつつ、一応HMVのサイトも再確認しようと(完全に一種の依存症だ)買わずに帰って家で見るが、やはりそこにはまったく情報がない。仕入のルートが違うためだろう。
 そこで翌日、収録のあとにタワー渋谷店に行ってみると、なぜかここには影も形もない。新宿店ではフェースされていたのに。あらためて新宿店に行き購入。
 あとでタワーのサイトを見たら、出ていた(このサイトは構造的に、新譜を概観することが難しい)。九月八日発売とあるから、渋谷店は売切れたのだろう。
 ワーグナーのライヴ盤はとにかく足が早くて、店頭で見たときに買わないと消えてしまうというのがLP時代からの鉄則だが、渋谷ではまだそれが生きているらしい(ちょっと嬉しい)。
 サイトは四千九十円、店頭より高い。電車賃を入れればタイというところか。
 中古盤屋だけでなく新譜店も足で歩かないとだめだと、また実感。

某日 一幕で退散
 オペラでいやな思いをする。
 上野の東京文化会館の、一階席。ここは半世紀近く前の一九六一年開場だからしかたないのだが、客席の前後の間隔に余裕がなくて通りにくく、また高低差も少ないため、前席にどんな客がくるかで視野に大きな差が出る。
 この日はどちらも悪い方に出た。開演前、席に着こうと通路側の席の四十前後のサラリーマン風にすみませんと声をかけると、革鞄を膝下にして、さも迷惑そうな顔で見上げるだけ。もちろん立ってくれるはずなどなく、前をやっとすり抜けると、隣の六十くらいの老人はでかい鞄を膝上に置いて座り込んでいる。
 こんなことはお互いさまで、立場がしょっちゅう入れ替わるのだから、ゆずりあった方が後味がいいのにと思いつつ腰をおろすと、さらに運悪く、前席にとても身体の大きな人がきてしまった。
 なにしろ両隣の人の頭が、その大巨人の耳のところまでしかない。頭の鉢も、女性の一.五倍はある。たとえ腰を低くするつもりが本人にあったとしても、前に空間がない。それどころか、その人もまたでかい鞄を持ち込んでいて、膝上に置くものだから背筋が伸びて姿勢がよくなり(当方としては大いに不都合)、結果として座高は、できるかぎりの高さになっている。
 なぜこの人たちはみな、大きな鞄を後生大事に席に持ち込むのだろう。半世紀前の冷暖房のない時代なら膝掛代りの防寒具になったのかも知れないし、三十年前のクロークのない時代なら預ける場所もなかったろうが、いまは荷物を持ちこまずに、できるだけ身軽にして他人の邪魔にならないようにするのが、特にこういう狭い席の劇場ではマナーだろう。きっとクロークは帰りに混むのがいやだとか、そんな利己的理由なのだろう。
 おかげさまで、舞台の中央が半円状に欠けることになった。
 さいわい、途中からは眠ってくれて頭が下を向いたので(たしかに主役も演出も指揮も、まるで必然性の見えない公演ではあった)、視野はある程度まで広がったが、大きな音がするたびにいつ目覚めるかとビクビクしているのは「ジャックと豆の木」じゃあるまいし、あまり楽しい体験ではない。
 第一幕が終る。休憩になったというのに、隣の老人とサラリーマンは友達もいないのか、いつまでも憮然と席に座ったまま。通路近くの人間は用があろうがなかろうが、休憩ではできるだけ早く席を立ち、戻るのはなるべく遅い方がいいと私などは思っていて、可能なかぎりそうしているのだが、二人は違うらしい。
 二人にわが尻を見せつけつつ、すり抜けてロビー、さらに屋外に出る。
 文化会館の広いロビーは、他の会場にない魅力なのだけれど、この夜ばかりは色あせて見える。
 招待してもらった公演では、最後まで客席にいて、拍手をするのが最低でも礼儀だと思っているのだが、夜空を見上げているうちに、またあの二人の前をすり抜け、大巨人の目覚めに怯えなければならないのかと考えると、どうにもつらくなってくる。あの二人も、せっかく休憩中もじっと座っているのに、また通られるのは迷惑だろう。
 主催者への失礼を承知で、ここで退散する。偉そうに書いていても、かれらのあの態度は私が引き出してしまったものかも知れないし、私自身だって、知らずに他人にいやな思いをさせることがあるにきまっている。

十月十日 玄徳、セナ、カイト
 昼から高円宮杯ユース・サッカーの準決勝を観に、国立競技場へ。
 ユースのサッカーなどろくに知らないくせに、これだけは三年続く恒例行事になっている。
 高校レベルとはいえ、日本で十指に入るチームの真剣勝負二試合をたった千円で見られる。しかも客が三四千人と少なく、客席を好きに移動しながら見られるのが、じつに心地よい。
 今回は四チームともクラブチームで、毎年残っている(しかも国立ではけっこう勝つ)高校チームがいない。クラブチームは高校より応援団が少ないので、いつも惜しい気がするが、一試合目は東京の三菱養和対横浜F・マリノスと首都圏同士なので、例年よりにぎやか。
 特に三菱養和の応援団は多かった。まるで知らなかったが、巣鴨と調布に本拠のある三菱系の、しかし浦和とは無関係の独立クラブだという。
 ともに創意と驚きのあるプレーをして面白かった。一対一でPK戦までもつれ込み、五対四で横浜の勝利。
 横浜のひとりは遠藤のコロコロを真似しようとしてしくじり、タイミングを失ってキーパーの正面に打ってしまった。きっと全国のユース指導者が「基本の大切さ」を説くにちがいない(笑)。
 これで先行しながら敗れた養和の二本の失敗はともにバー直撃。惜しかった。
 二試合目の広島対磐田が前半一対一のところで帰ったが、後半ロスタイムに磐田が追いつき二対二、やはり延長からPK戦になって磐田が勝ったそうだから、今年は二試合とも接戦だった。例年は二対〇くらいで九十分で決まるのが多いのだが。二試合目のPK戦は五時過ぎで、薄暮のため照明が入ったという。

 というわけで、来年もぜひ観に来ようという気になるゲームだったのだが、興味深いのが、選手たちの名前。
 かれらのお父さんは私と同年代くらいだろうが、いかにも「ジャンプ世代」っぽい名前がいくつかある。
 一点とった横浜のストライカーは関原凌河、「りょうが」という名前。最初掲示板の文字がよく見えず「トウガ」と聞こえ、「凍牙? 凍ったキバとはすげえ」と思ったが、さすがにそうではなかった。
 二試合目の広島と磐田のメンバーは、さらにユニーク。
 玄徳。クロノリではなくゲントク。三国志の劉備だ。雲長、翼徳(益徳)、孔明の四兄弟とかならさらにすごい。
 さらには靖奈。一瞬ユースに女がいるのかと思ったが男名前。「せな」。アイルトン・セナだろう。
 いま高二だから、二歳のときにセナは事故死している。両親もまさかそんなことになるとは思いもよらなかったはずだ。正直なところ、親の世代は納得するとしても、本人の年代だともうセナって、あまり印象がないのでは。
 以前、マンガの『ゴリラーマン』だったか、お父さんが大洋ホエールズの往年の好打者ミヤーンのファンだったために「宮庵」と名づけられたという高校生が出てきて可笑しかったが……。
 私の同級生には高校生、中学生の子供がいる人が何人かいるのだが、やはりいまの子供には変わった、難しい読みの子がいるらしい。
 かなり流行っているのが「カイト」。たしかに語感がよくて、疑いなく名前で読んでもらえるだろう。ところが姓だと海渡というのがあるが、名前ではこれという漢字のあてかたがないので、みんな違う。海人、海斗、絵人。じつは磐田ユースにもいた。凱士。字面はカッコいいが、かなり判じ物っぽい。しかしこういう感じが最近は少なくないらしい。

 こういう名前はそのうちに、普段はカタカナだけで書くようになるのかも。読みを間違えられることがないし、書くのも簡単だし。
 どういう漢字をあてるかは大切な秘密で、近親や恋人、主人にしか教えない、とかになると面白い。通り名とイミナみたいな、名前の新しい二重性。
 そういえば横浜には「アンドリュー」という選手がいた。
 ハーフとばかり思い込んでいたが、じつは生粋の日本人だったり、両親が暴走族上がりでほんとうは「闇怒竜」と書くんだけど秘密、とかだったら愉しいが。

十月十二日 我々は帝京なのだから
 埼玉で行われた高円宮杯ユース決勝、七対一の大差で横浜F・マリノスが磐田に勝ったという。そんな実力差は、素人目にはまったく感じなかったが。
 横浜はどこぞの代表と一緒で、うまいのだがあきれるほど決定力に欠け、準決勝でも「あとは枠に入れるだけ」の絶好機を少なくとも三回は外したが、決勝ではことごとく決まったらしい。例の関原凌河君もハットトリックだそうな。
 崩れだすと止まらないのがユース年代の怖さで、磐田もそうだったのだろう。ネットの試合評を見ると、一対四になった後半に磐田がセンターバックを前にあげて攻撃参加させたのが裏目に出て、さらに三点を奪われたらしい。
 これで思い出したのが、一九九五年正月の高校サッカー決勝、一年生に北島秀朗がいたときの市立船橋が、帝京に五対〇で勝った試合。
 それまで帝京には「国立伝説」という伝統があって、国立競技場が行なわれる準決勝まで進むことさえできれば、そこまでがどんなに不調でも、水を得た魚のように強くなるといわれていた。
 その伝説を、布監督率いる市船が完膚無きまでに叩きつぶしたのだが、テレビを見ていて忘れられないのが、五点目をとられたところで、帝京のコーチがピッチ上の選手に伝えたという言葉。
「ディフェンダーに、無茶をするなと言え。我々は帝京なのだから」
 ――我々は帝京なのだから。
 たしかに、以後は点をとられることはなかった。

十月十六日 今井正と戦後民主主義
 群馬交響楽団をモデルにした『ここに泉あり』を「一九五五」で取り上げるべく(この年の二月に封切)、監督の今井正の他の作品を見なおしている。
 あらためて、今井正とは日本の映画監督のなかでも、「戦後民主主義」を象徴する人だったと実感する。
 たんに出来がよいというだけでなく、時代の雰囲気や志向を的確に反映させて映画を撮ったという点で、傑出しているのだ。時代の気分をとらえたがゆえに、社会派といわれる題材にもかかわらず、作品は同時代人にとって理解しやすく、その結果として興行成績が優秀で、同時に、キネマ旬報に代表される評論界からも高い評価を受けた。そして、後世の人間にとってはその時代の最良の典型となっている。
 たとえば、一九四九年七月封切の『青い山脈』は、新時代の民主主義とヒューマニズムの讃歌だとよくいわれる。
 ハリウッド映画のように明朗快活、女性が溌剌と自らを主張し、恋と青春を称え、明快なストーリーで自由と正義の勝利を謳う。旧弊を「封建主義的」――この時代に大流行した言葉――として排する一方、旧制高校のリベラリズムとバンカラの魅力も描いて、日本人のプライドをくすぐることも忘れない(原作も映画も戦後だが、学校はまだ旧制だった)。行動的な二人の女性、高等女学校の生徒と教師を助け、恋仲となる男性二人は、旧制高校の生徒とOBなのである。
 対照的に、悪役の理事長側の手先となるのは意地悪な男性教師。こちらは封建主義の巣窟といわれた、師範学校の出身だろう。しかも従軍経験があり、そのとき性病をもらったことがあるらしい(戦争の影がほとんどないとされるこの作品中、唯一それに近いもの)。このあたりは、じつに図式的な勧善懲悪だ。
 当時十六歳の永六輔はこの映画に夢中になった一人で、本名を孝雄というかれがのちにペンネームを六輔としたのは、池部良演じる主人公の旧制高校生、金谷六助に憧れたからだという。
 一九五〇年三月公開の次作『また逢う日まで』では一転して、戦争の時代と社会に翻弄される恋人たちの悲恋と死を描いた。『青い山脈』が陽光きらめく夏なのに、こちらは対照的に寒風すさぶ冬。並べてみると、明らかに一対として今井がつくっていることがわかる。
 犠牲者、被害者としての民衆、「わたしたち」を強調する視点もまた、この時代の多くの日本人の心情にかなった「戦後民主主義」の視点そのものである。
 これは三年後の『ひめゆりの塔』にも共通する。ただし『ひめゆり』では日本が独立を回復した後という時代のおかげで、敵国としてのアメリカ、民衆を殺すアメリカを描くことができた。GHQ統治下では、それも許されなかったのだ。
 この二作品の間に、今井は独立プロでの活動を開始する。独立プロは東宝争議やレッド・パージで大手を離れた左翼映画人が始めたものである。
 最初は一九五一年の『どっこい生きてる』。ニコヨンと呼ばれた日雇労働者の世界を描き、社会派志向を明確にした。『青い山脈』と同じ一九四九年に日本で公開されて高い評価をうけた『自転車泥棒』や『無防備都市』など、イタリアのネオレアリズモの影響が顕著だ。
 東宝製作の『青い山脈』のハリウッド風から、独立プロのネオレアリズモへ。この変化の背景には、左翼の解放者とみられたGHQが、国鉄や東宝での労働争議の頻発に対して共産党を弾圧するようになり、共産中国の誕生や朝鮮戦争でその傾向をますますつよめ、レッド・パージにいたった政治状況がある。
 『どっこい生きてる』公開と同じ一九五一年、日本共産党は武装闘争路線を選択、毛沢東のゲリラ戦を範とした農村部からの革命戦に備え、学生などを「山村工作隊」として農村に送りこんだ。
 しかし中国式の猿真似で日本の現実を無視した山村工作は、当然ながらまるで成果があがらず、共産党は一九五五年に武装闘争から無血革命に方針を転換。柴田翔の『されど われらが日々』に描かれたように一部の学生と活動家を落胆させ、これが新左翼運動に発展する。
 それはそれとして、この時代の左翼は毛沢東の影響で、武装工作にかぎらず山村への関心を寄せるようになっていた。
 今井は、やはりその流行も反映した作品を撮っている。一九五二年の『山びこ学校』は、無着成恭編集の中学校の文集を原作とし、山形県の山間の寒村を舞台にした(生活綴方運動に基づく無着の作文教育は、戦後民主主義教育の精華とされた)。そして『ここに泉あり』も、そうした山村の子供たちに西洋楽器をナマで聴かせる、群響の移動音楽教室を扱った映画なのである。
 日共の路線転換のまさにその年に、この「日本初の音楽映画」が公開されたという事実は面白い。労音やうたごえ運動など、都市部での左翼の音楽運動はこの頃から全盛時代に入るから、この映画が山村と音楽の分水嶺にあるともいえるのだ。ラストシーンが都会のホール(使用されたのは旧日本青年館)での満員の演奏会というのは、そう考えると暗示的。

 気がついたことをいくつか。
 『ここに泉あり』の脚本はいったん小国英雄が完成させたが、今井正がボツにして水木洋子に新たに書きなおさせている。今井が小国のホンを拒否したのは二度目で、『青い山脈』でも原作どおりの北国を舞台にしたのが気に入らず、南国に変えた版を井出俊郎に書かせている。よほどウマが合わなかったらしい。
 コンサートマスター役の岡田英次は、『また逢う日まで』でも主役の帝大生を演じている。これも水木洋子の脚本。
 今回初めてきちんと観たが、キスシーンは有名な窓ガラス越しのもの以外に、普通のもちゃんとあった。当時はモラルが厳しくて窓越しが限界だったなどという話は、ネッシー同様のガセだった。
 また、途中の帝大生たちの会話には、前年に発刊されてベストセラー中の『きけわだつみのこえ』の戦没学徒の一人、中村徳郎が『ドイツ戦歿学生の手紙』について述べた部分が、そのまま採り入れられている。あの本を原型に、映画の教養豊かな学生たちは造型されたのだ。
 もちろん、同時期であることを考えれば不思議でも何でもない。だが、中村徳郎と岡田英次の間接的関係は、さらにもう一つあった。
 二〇〇八年十一月二十五日の当欄で、中村徳郎と、高木彬光の『わが一高時代の犯罪』の登場人物の山岳部員の類似について触れたことがある。岡田英次の出演記録をみていたら、東宝が『わが一高時代の犯罪』発表直後の一九五一年に映画化していて、岡田はなんと、その山岳部員の役で出ているらしいのだ。
 しかも原作とは異なり、日本アルプスの雪嶺で死ぬことを選ぶという。これも中村徳郎の無念を晴らすかのようだ。
 学制改革で旧制高校が消滅した直後という時期の話題性ありきの作品だろうから、出来は期待しない方がよいにせよ、一高の風俗が映像化されているのなら、いつか観てみたいもの。

十月十七日 丸山勝廣と周囲の人々
 『ここに泉あり』のため、群馬交響楽団の創立者、丸山勝廣の回想録を読む。
 映画で小林桂樹が好演した「飛ばしの亀」ことマネージャー井田亀夫のモデルである丸山は、群響の回想録を三冊書いている。そのうち最初の一九六七年刊の『この泉は涸れず』と、三冊目の一九八三年の『愛のシンフォニー』を読む。
 『ここに泉あり』前後の状況が細かく述べられているのは、時期が近いだけに一冊目。ただ、その後の推移を俯瞰するには三冊目が役に立つし、時間がたったお陰で明かされている事実もある。
 たとえば『ここに泉あり』の撮影前、資金の半額を群馬県側で調達するはずだったのだが、おそらく相手が左翼の独立プロであるために、県はもちろん地方銀行や都市銀行の融資も不可能となったことがある。そのとき、当時の北野群馬県知事が東京でI氏K氏と相談して、これはどうも無理そうだ、出来ないものに協力したあげく駄目となると格好が悪いから、丸山には内緒で、ノータッチでいこうと決めた、という話が一冊目にある。
 これが三冊目では、その「I氏K氏」が井上と近衞、つまり井上房一郎と近衞秀麿だったと明記されているのだ。
 初期の予定で映画の指揮者が近衞秀麿だったことは、今井正が述べている。近衞が降りたので山田耕筰に代ったのだ。交響楽運動の元祖として映画に箔をつけられる指揮者は、近衞以外では山田しかいないだろう。
 井上房一郎というのは群馬県有数の実業家で、群響の会長だった人物。建設業の井上工業社長をしながら、いかにも二代目のお坊ちゃんらしく美術や音楽など芸術への関心が強く、一九二〇年代にパリへ遊学した経験をもつ。
 群響の前身、アマチュアの高崎市民オーケストラが終戦直後の一九四五年十一月に旗挙げしたときから団長を務めた。初代の指揮者に那須に疎開していた山本直忠を招くことが出来たのも、山本の伯父(母の兄)で画家の有島生馬が、井上の仲人だったためだった。
 しかし、世話役の丸山が推進したプロ化には反対で、創立以来のアマチュア楽員と他県から来たプロ音楽家との確執が深まると、アマチュア側の味方をして楽団分裂の危機を招くこともあった。
 結局は元の鞘に納まり、井上も会長を続けたが、まもなくアマチュアが全員去り、さらにプロ楽員が山本に反発して辞めさせ、日本交響楽団(のちのN響)のチェロの三鬼日雄をトレーナーに招いたことも関係するのだろう、経営に直接かかわろうとはしなかった。
 このため『ここに泉あり』では井上をどう描くかが問題になった。丸山が「音楽映画というより、貧乏物語映画」と形容するほど楽団が困窮しているのに、その会長に地方財閥の資産家がいるという現実は、ストーリー上ではどうにも説明しにくかったのである。
「どうも名案がなくて困りましたよ。駅の前で後援者自らが音楽会の切符を売っているというのを考えたら、そんなみっともないのは困るというし、仕方がないから、かって、よく面倒みてくれた後援者が会社が景気悪くなり、最後の大演奏会の時に聴衆の中で、ひそかに祝福のえみをたたえているのを出したら、会社がつぶれたなんてのは困るというし」
 丸山の幼なじみで、この企画の発案者であり、共同プロデューサーの一人となった市川喜一は、その困惑を丸山にこう話したという。
 完成した映画には、井上的な人物は登場しない。前述の知事や近衞との密談を考えると、存在を映画から消すのは予定の行動だったのかも知れない。だが予想に反して映画は完成、さらに大ヒットした結果、小林桂樹の役のモデルとなった丸山の知名度が突出して高まると、別の感情がわいたらしい。
 このヒットのあと、「丸山は共産党員になった。群響は前進座のようになるだろう」と県庁を触れ歩いた「群響のある関係者」がいたという。
 県の制作資金調達が頓挫したため、後援会をつくって会員に前売券を買ってもらう形で資金を確保したのだが、これは前進座の方式にならうものだった。左翼系の独立プロ制作であることと合わせ、こんな話になったのかも知れない。
 丸山はこの「関係者」の名前を、一冊目でも三冊目でも伏せている。ただ「その噂の出所、原因を知った私は心底からの怒りを感じた」とする。群馬は名だたる保守王国なのだから、こういう噂は悪影響が大きい。この直前に諸井三郎から「今までの苦労は貧しいとか不遇といったものですが、これからは人間の心のゆがみから生まれる野心とか、しっととかいったものに悩まされたり苦しんだりしますよ」と忠告されていたが、そのとおりになったのだ。
 頭に来て、その人とは何か月も口をきかなかったが、上毛新聞の人間が仲裁に入ったので旧交を復した。だが「このできごとは、その後も幾度か形を変えて私の大きな悩みとなった」としている。
 これが井上房一郎のことかどうかはわからない。しかし少なくとも、井上に近い楽団関係者とみて間違いないだろう。
 こうして生れた相互不信がついに破局に至るのは、一九六三年のことである。常任指揮者の甲斐正雄と楽員の大半が丸山に叛旗を翻し、理事会もそれに同調、事務局長から降ろそうとしたのだ。
 丸山は自らの独断専行が過ぎたと反省しつつも、この確信的な反抗の背後に、井上会長の存在を感じた。
「会長の私に対する嫌悪感である。『ここに泉あり』以来、報道陣との接触もはげしくなり、私の名が紙面にでることが重なった。それが会長の私に対する嫌悪感になっていったことは、映画化のとき身にしみて知らされた」
 「映画化のとき」という記述に適合するのは、「丸山がアカになった」の誹謗中傷しかない。井上かそれに近い人物と推測するのはこのためである。
 この騒動は、高崎市長選に勝利した住谷啓三郎が、井上を退けて自ら群響理事長に就任、丸山を全面的に支持したことで丸山の勝利に終る。だが楽員はそれでは収まらず、全楽員三十二人の三分の二にあたる二十一名が自治を求め、甲斐とともに退団する結果となった(かれらは新たに楽団を結成したが、ほどなく瓦解した)。
 群響は楽員十一人の状態から再建された。名称を群馬フィルハーモニーオーケストラから略称と同じ群馬交響楽団に改めたのは、このときである。ここから本格的な交響楽団への道が始まるのだが、三冊目や丸山の七回忌の年に関係者が編んだ『泉は涸れず』を読むと、経営基盤が本当の意味で安定したのは、一九八〇年代のことのようだ。個々の要因はさまざまにあるだろうが、総体としては、地方にまで公共事業を通じて富がいきわたり、本格的に豊かな消費国となった、八〇年代という時代状況の賜物だろう。
 丸山は一九九二年、井上は翌九三年に亡くなっている(資本金五十三億円の井上工業も、二〇〇八年に破産した)。

 自伝だから、当然丸山の一方的な記述であって、井上や脱退した楽員の側にたてば、言い分はまったく逆のはずだ。この点は要注意だが、ともかく丸山の回顧録に影のように現れる、井上房一郎のことを考えるのは面白かった。だが、ほかにもう一人、気になった人がいる。
 映画化の動きが具体化し、ついに今井正が監督を受諾したとき、市川喜一が丸山を祝杯に誘いながら、こう忠告する。
「丸山さん、後輩の私がこんなことをいうのは失礼なんだけど、映画のモデルになって脚光を浴びると、それまでいい仕事をしていた人が急にダメになっちゃうことがあるんですよ。今度の場合そんなことはないと思うけど……」
 十年後の騒動は、まさにこの忠告が形を変えて現実化したものともいえるが、それはそれとして、「急にダメ」になった人物として、市川が誰を念頭に置いていたのかが気になるのだ。
 この記述だけではわからない。が、私の頭に勝手に浮かんだ人物がいる。
 市川の忠告は一九五三年三月。そのちょうど一年前に公開された今井正の映画に、無着成恭をモデルに木村功が主演した『山びこ学校』があるのだ。
 無着成恭。あくまで勝手な連想。根拠はない。外れている可能性も高い。
 数日前に本屋で佐野眞一の『新忘れられた日本人』を覗いたら、佐野が以前に『遠い「山びこ」 無着成恭と教え子たちの四十年』なる本を書いたとある。
 うってつけの本。調べると文庫が古本で買える。映画『山びこ学校』も、最近CSで放映したのを録画したばかり。
 読まねば。

十月二十一日 『男の隠れ家』ふたたび
 昨年春に『男の隠れ家』という月刊誌のクラシック特集に執筆させてもらったことがある。ところがそれからまもなく出版社が倒産してしまった。
 続いて同じく月刊誌『エスクァイア・ジャパン』からも声をかけていただいてクラシック特集に参加したら、こちらも程なく休刊。
 なんだか自分が疫病神になったような気がして(自意識過剰)いやなものだったが、クラシック特集を組みたくなるときというのは、雑誌の生命力が弱っているときなのかも、などとも考えた。
 司馬遼太郎に、他の作家がその晩年に『太平記』を小説化するのが多いことに触れた随筆があった。
 まるで『太平記』をやると死ぬというジンクスがあるみたいなのだが、もちろんオカルト話ではない。創作力や洞察力が衰えてきた人にかぎって、『太平記』を小説にできると錯覚するのでは、というのが司馬の考えだった。
 あの時代は皇国史観的なイデオロギーを抜いてしまうと、あとは殺伐たる私利私欲の権力争奪戦しか残らない。戦後に皇国史観に拠るのは無理だから、それ抜きでやるしかないのだが、それではとても魅力的な小説にはならない。ところが晩年の作家にはその陥穽を見極める力が衰えているので、やれそうな気になる。そうして取りかかってみてその不可能に気がつき、悪戦苦闘してさらに生命力を消耗し、結果として遺作になったりするのでは、というのである。
 クラシックが『太平記』と同じような陥穽をもっているのかどうか、ゆっくり考えてみると面白いかも知れないが、ここではそれはおくとして、ともかく二誌の休刊はそんな一文を思い出させた。
 ところが『男の隠れ家』は別の出版社が引きとる形で復活した。ふたたびクラシック特集を組むというので、めでたいかぎり。今日はその打合せに行く。
 旧編集部は虎ノ門にあったが、復刊とともに引っ越したという。聞いてみると我が家から近い市ヶ谷本村町二丁目だというのでちょっと驚く。
 防衛庁の向い、靖国通りと外堀通りが二股に分岐する間にはさまれた三角州のような場所で、昔私がバイトしていた時代のジャパンアーツもここにあった。
 江戸時代は旗本御家人の屋敷地で、外堀通りに面して合力松なる松があったとは、泉鏡花を調べたときに知ったこと。
 忠臣蔵の浅野内匠頭の弟、大学の屋敷があったこともそのとき知った。討入から八年後に大学は浅野家再興を許されたが、それは大名としてではなく、わずか五百石の旗本としてであった。その屋敷がこの三角形の南西角にあったのだ。
 新編集部は、浅野屋敷跡かそれに隣接する土地に建つビルの中だった。

十月二十六日 『小学五年生』休刊
 今夜は演奏会だと思って出発、会場に着いたら真っ暗。チケットをよくみたら十一月二十六日とあった。

 呆然としながら帰って、ミクシィのニュースを見る。小学館が『小学五年生』と『小学六年生』を今年度末で休刊し、来春から両誌に代る新学習漫画誌『GAKUMANPLUS』(仮題)を創刊すると発表した、というのがあった。
 一九二二年の創業と同時に創刊され、ピークの一九七三年四月号は『五年生』が六十三万五千部、『六年生』が四十六万部を記録したが、近年は両誌とも五万~六万部と低迷していたという。
 引っかかったのは、両誌のピークが一九七三年四月号だ、というところ。
 私の学年は一九七三年四月に小学五年になったから、まさにピークを記録した『五年生』を買った学年なのだ。
 ちょっと意外。私やその前後、昭和三十年代生れというのは団塊と団塊ジュニアの狭間で、そんなに子供の数が多くない年代だからである。
 日本が豊かになってきて、ママゴンとか教育ママとか、母親が子供にお金をかける傾向が顕著になった年代だから、ここにピークが来たのか。
 そういえば二年後に中学に入ったときに、『中一コース』と『中一時代』のどちらを定期講読するのか、親と本屋からせっつかれた記憶がある。もらえる契約特典の景品が違うので、早くきめる必要があったのだ。あのころの学年誌はとにかく売れるものだったのだろう。
 どちらもまったく読んだ記憶がないので、結局どちらを選んだのかもわからないが、そんなことを親や本屋が自分の頭ごしにしゃべっていた時代、自分が無責任な子供だった時代というのだけは、二度と戻りえぬだけに懐しい気もする。
 『小学五年生』に話を戻すと、ピークが一九七三年四月というのは、半年後に石油ショックが起きて不景気になり、翌年四月には売上が落ちたためだろう。
 まさに高度成長のどんづまりの年。 我々の四学年あとの一九六六年が「ひのえうま」でガクンと人が減り、翌年からは右肩上がりに増加して団塊ジュニアにつながっていくわけだけれど、その世代はきっと学年誌ではなく『コロコロコミック』とか、そういうのがメインになったのではないか。
 一九七七年創刊の『コロコロ』は「学童」という保育システムなどと同様、年代的にはわずかなズレなのに、私にはまるで無関係だった。それらは、団塊ジュニアをにらんでつくられたものなのだ。
 石油ショックを契機に、学年誌が象徴する大衆教養の時代から、『コロコロ』的「おいしい生活。」の消費時代へ。
 休刊より、そのことに妙に納得。

十月二十七日 妙なバレエ漫画の記憶
 昨日の休刊話についてミクシィに書いたら、中学時代の同級生の女性から、小学館の学年誌には必ず「たにゆきこ」なる人の描くバレエ漫画が載っていて、それに刺激されてバレエを始めた子供が多かった、というレスをもらう。

 それで、突然に思い出した。
 たしかに私にも小学四年生ぐらいのとき、妙なバレエ漫画を学年誌で読んでいた記憶がある。
 妙な、というのは、バレエそっちのけで、主人公のバレエ少女の周囲の人が毎月毎月、次々と死んでいく(事故死とか病死)話だったからだ。
 何か月か続くと、もう生きている人が少なくなってくる。「亡くなった」と聞いた主人公が「今度はまさか妹が!」と言い、読者も「うわっ」と思うと、そうではなくて、一コマしか出てこなかったような近所のおばさんだったり、そのへんの犬だったり。
 それで読者は「ああよかった」と胸をなでおろすわけだが、何かしら死んでいることには変りない。ヤケクソなのかセルフパロディなのか、もうわけがわからない展開になっていた。
 しかも、そんなおばさんだの犬だの、もう読者は憶えきれないから、誰のことかわかるように、フキダシの中にその顔が小さく描いてあった。
 それを読んで、さすがに子供心に「連載って大変なんだろうなあ」と感じたことまで思い出した。
 子供の読者に気をつかわせる漫画。ツタンカーメンの呪いみたいな、妙なバレエ漫画。あれがもしかしたら「たにゆきこ」だったのではないか。
 件の同級生によると、主人公が片足切断になり、片足で縄跳び千回跳べたら舞台に出られる、といって縄跳びを跳んでいたシーンもあったという……。
 調べねば。(この項続く)

十月二十七日(続) 甦れ、谷ゆき子
 小学館の学年誌に描いていた「たにゆきこ」なるマンガ家。
 調べるとファン・サイトがあった。偽野つみれさんの「Cafe Tsumire」に「谷ゆき子の世界」というコーナーがあるのだ。
 私より四学年上と思しき偽野さんは、一九六六年に『小学二年生』に連載されていた谷ゆき子の『かあさん星』に夢中になったことが、自分の漫画開眼だったのではないかと回想されている。そして谷の作品の特徴を、ジェットコースターのように悲劇が息もつかせず連続して起きることだとしている。この特徴、そしてサイト掲載の絵柄。私が読んでいたのもこの漫画家の作品とみて間違いなさそうだ。なおペンネームの表記は谷悠紀子から谷ゆきこまでさまざまあるという。偽野さんのサイトは『かあさん星』で使われた谷ゆき子で統一しているので、ここでもそれに従っておく。
 偽野さんは当時の学年誌などを丹念に調べて、未完全ながら作品リストをまとめられており、大いに参考になる。
 それを見ると、一九六六年から七七年までの小学館の各学年誌に、学年ごとに異なるバレエ漫画を並行して連載している。一作品の連載は数年にわたることが多く、『小学一年生』に一年間載せた作品は翌年に『二年生』へと、読者の進級にあわせて移るようになっていた。
 この中に、私の学年のものが含まれている。作品名は『さよなら星』。『一年生』一九七〇年一月号から『四年生』一九七三年三月号にかけて連載され、内容は「バレエ物+バレーボール物+不幸の連続超特急」だったそうだ。
 「不幸の連続超特急」というあたり、これできまりだろう。タイトルが『さよなら星』なんて、人がバタバタ死ぬのに実にふさわしい。
 バレエとバレーボールの合せ技というのもすごい。作品リストの備考に『アタック№1』と『サインはV』の漫画とアニメがこの作品と同時期に展開され、バレーボール・ブームがあったことが暗示されているが、そのとおり、お得意のバレエに流行のバレーボールを加えて、つかみにしたのだろう。
 面白いのは、一九七三年から七七年の『ママの星』になると、超能力物の要素が入っていたということ。たしかにユリ・ゲラーとかスプーン曲げ少年とか、オカルトはこの時期に大流行した。きっとこういう漫画から入って『ムー』の読者になったり、『ぼくの地球を守って』に耽溺した少女も、多かったのでは。
 後期の作品は悲劇に終るものが多いらしい。作品リストを眺めただけでも、最後の方はこの作者、漫画を描くことにかなり疲れていたのではないか、という気がする。

 残念なのは、ほとんど単行本化されておらず、当時の掲載誌でしか読めないらしいこと。
 たしかに一九七〇年代まで、雑誌とコミックスの連繋というのはあまりよくなかった。連載と単行本で同じ読者から二重に稼ぐ方式が確立されておらず、連載からコミックス化まで、かなりの時間があくのが普通だった。
 コミックスを早く出すと雑誌が売れなくなる、という消極的商法だったのである。小学館はひょっとしたら、当時は自社にコミックス部門をもたなかったのではないか。同社の『少年サンデー』に連載された漫画が、秋田書店からコミックスになっているのを不思議に思った記憶があるからだ。
 でももう一度読みたい、あの強烈な世界に触れてみたい。『さよなら星』。
 今のデジタル技術なら、雑誌の複写でもかなりきれいに修復できるから、誰か頭のおかしな編集者(笑)でも、復刊企画をたててくれないものだろうか。

 少女漫画のコミックスといえば、なぜか低学年の頃『アタック№1』が大好きで、コミックスを買ってもらっていたことを思い出した。
 アニメをきっかけに読み始めたため、好きだったのは中学生編だった。高校生編は主人公が髪を短くして、からだつきも大人っぽい描きかたになり、なにか好きではなかった……と、ここまで書いてさらに思い出した。
 高校生編は、子宮筋腫か何かで一生子供を生めない身体になってしまい、お母さんが「かわいそうなこずえ」とかなんとか悲しむ、というシーンがあった。
 それが、小学生の自分にはとてもいやで、もう読めなくなったのだ。よくわからないのに、ひどく生臭いもの、もっといえば何か血腥いものに感じられて、嫌になったのだ。
 たぶん、女子の読者にはそんな嫌悪感はなかったのではないか。少年の妙な潔癖症みたいなものだったのだろう。
 それにしても、あの頃はとにかく不幸の大安売りというか、人気が出て連載が長期化してマンガ家が疲れてくると、悲惨な展開になりやすかったのか。

 アニメには「子供の生めない身体」の話はでてこなかった。当時のアニメのスタッフは男中心だから、変えてしまったのだろう。男は、本能的にそういう話を避けるはずだから。
 でも、アニメにも別の意味で衝撃シーンがあった。全日本の合宿だったか、コミックスでは、
「今日の晩御飯は何?」
「カレーライスよ」
「わ~い。私カレー大好き」
だったのが、アニメでは二行目が
「ボンカレーよ」
になっていた。
 あれっと思って、そして番組のスポンサーが大塚食品だと気がついたとき、やはり大人の世界を見た気がしたっけ。

十月三十日 床屋漫談
 散髪及び染髪に行く。
 待ち時間に店員から聞いた話。ウラはとっていないので、ただのホラ話、都市伝説と思ってほしい。爬虫類嫌いの人は読まれぬよう。

 かれは犬を飼っているが、爬虫類も好きでヘビを飼っているという。私はそういう趣味がまったくないし、そんな人にも会ったことがないので、いい機会なので話を広げてみる。
「エサは?」と聞くと、
「ネズミです。冷凍のを売っているんですよ。一匹二、三十円。それも一か月に一回でいいので、ヤツの食費は月に二、三十円ですむんです」
 それで二、三十年は生きるそうだ。爬虫類に較べると哺乳類は、ずいぶんとせわしなく食って早く死ぬものなのだ。
 それにしても冷凍ネズミ…。解凍とかしたくないぞ。
 次に、ペット商品としての爬虫類の価値の特徴。哺乳類は幼児期にしか商品価値がないが、爬虫類は逆に年をとるほど価値が出るという。トカゲなどだと、尻尾を一度切って再生したヤツはガクンと値段が下がるそうで、生れたままの状態のヤツ(完品というそうな)がいいという。二度目に生えてきた尻尾は、どうしてもショボいのだそうだ。生き物というより、骨董品とか盆栽の世界。
 日本にジャイアントパンダが密輸されたらしい。目も開いてないような生れたてのもので、意外に安く、六十万円。無事育って、千葉のさる山中のお屋敷で、いまパンダが飼われているそうだ。

 隣でこの話をむりやり聞かされた女性のお客、いやだったろうなあ(笑)。

十一月一日 ラルペッジャータ!
 オーチャードで行われた大野和士指揮リヨン国立歌劇場による《ウェルテル》演奏会形式上演をみたあと、サントリー小ホールでのカウンターテノールのジャルスキーとラルペッジャータによる「テアトロ・ダモーレ」のハシゴ。
 十一月初頭は来日公演が密集して、私などですら前月三十日から七日まで九日連続で演奏会に行く予定になったが、結局は仕事が入ったり執筆が遅れたりで、実際は五日間のみの出動。
 今日がその始まり。ラルペッジャータは、CDでの今年最大の収穫といっていいモンテヴェルディ集「テアトロ・ダモーレ」を実演で聴けるというので、何があっても聴き逃せないと思っていた。ところが初めは五日の王子ホール公演がミンコフスキに重なってしまい困っていたのだが、この日の追加公演が発表され、大喜びで購入した。
 オーチャードからサントリーへ移動すると、同じ移動をした友人知人が何人もいる(笑)。考えることは同じ。
 どちらが面白かったといえば、これは圧倒的にラルペッジャータ。モンテヴェルディが少なく、他の作曲家が取りあげられたのには肩すかしをくったが(それにしても興行元の事前情報がきわめて少ない公演だった)、かなりの拡大編成だったCDやその元になった公演と違い、普段のラルペッジャータにジャルスキーがゲストに加わるというスタイルは、これはこれで、初めてナマでかれらに接する私にはよかったのかも知れない。
 リーダーの女性テオルボ奏者、クリスティーナ・プルハルのほか、リュート、プサルタリー、ヴァイオリン、コルネット、パーカッション、チェンバロの七人とヴォーカルのルチッラ・ガレアッツィという編成。ガレアッツィの歌はマルコ・ビーズリーなどと同じように民謡的なもの(二人が共演したラルペッジャータの『インプロヴィーゾ』というCDもある)だし、器楽も即興的でジャズ風アレンジを随所にまじえ、クラシックというより、民族楽器のアンサンブルのコンサートに近い雰囲気がある。
 サヴァールはじめ、古楽の世界ではもうこれが特殊でも何でもなく、ごく当然になりつつあるのだろう。十九~二十世紀風のクラシック演奏会の流儀とは、かなり異なってきているのだ。休憩なしでアンコールまで二時間近く続いたが、愉しくて飽きる暇もなかった。
 ジャルスキーは本来ならこうした民俗風より、もっと宮廷的なスタイルの伴奏が合う人なのだろうが、ともかく実に心地よさそうに歌っており、ガレアッツィとの「異種格闘技」的二重唱もとても愉快だった。さらにアンコールでは、日本語訳による歌(チェンバロの北御門はるが訳したものらしい)も聞かせてくれるサーヴィスぶり。
 アンコールのモンテヴェルディでは、ここまで聞かせなかった「モンテヴェルディのテーマ」ことそのトッカータの断片を、曲の最後に一瞬だけコルネットのドロン・シャーウィンが吹いて、見事な締めにしてくれた。
 個人的には素晴らしい演奏会だったけれども、興行として考えてみると、古楽は東京以外では売りにくいだろうし、音量的に小ホールしか無理だろうし、その割に出演者は多いわけで、なかなか収支のバランスが日本では取れないだろう。この点では二十世紀型のアンサンブルの方が、二十世紀型のホールと演奏会のスタイルに適合し、より利益をあげやすいことは疑いない。
 興行として成り立たせるためには、旧来のクラシック演奏会とは異なる工夫が必要になる。その意味で、ラ・フォル・ジュルネのような集中型同時多発式音楽祭というのは、こうした古楽アンサンブルにはちょうどよいのかも知れない(会場の音響はともかくとして)。なるほどあれはうまい発想なのだなあと、あらためて感じつつ帰宅。

十一月三日 一つ仕事の部屋
 『男の隠れ家』の「音の書斎」コーナー取材のために、宇野功芳さんのお宅にうかがう。
 リスニングと執筆兼用のお部屋がとても片づいているのに感心する。私の部屋などCDと本が乱脈な連峰をなして、溝のような通路がわずかに残っているだけなのに、まるで違う。とにかく少ないのだ。威圧的に巨大な棚もなく、ちゃんと壁が見える。
 だのに、半世紀にわたってご愛用のスピーカーなどのお話を聞くのに夢中になって、CD類をどのように収蔵されているのかをうかがうのを忘れてしまった。
 ともあれ、部屋の中に余計なものがない方が、目の前の一つの仕事やCDに集中できそうな気がする。宇野さんは〆切より前に書きあげることでも知られているが、片づいた仕事部屋というのは、人間精神のありようにおいて、それと深く関係がありそうにも思える…。

十一月四日 忘却は神の恩寵…
 パーヴォ・ヤルヴィ指揮シンシナティ交響楽団の演奏会を聴きにサントリーホールへ。
 録音でも曲の時代や地域でオーケストラを使い分けているヤルヴィ、この日もバーンスタインのディヴェルティメントとガーシュウィンのラプソディ・イン・ブルー、後半がラフマニノフの交響曲第二番と二十世紀の作品でまとめてきた。
 どれも大編成の二十世紀型交響楽団が機能的かつ華麗に鳴り響くのだが、ラルペッジャータの親密な時間に較べると、どうしても水で薄めた音楽のように感じられてならない(特に前半)。二十世紀型の大演奏会には独自の魅力があることは百も承知した上で、いまの自分の気分が偶々それから離れている、というだけのことだが。
 それよりも驚いたのは、ガーシュウィンの独奏者ツィメルマンがいま日本に住んでいるとプログラムにあったこと。そういえば近頃ツィメルマンは日本で散発的に何度も演奏している。「来日公演」ではなく在住者の音楽活動だったのだから、不思議でも何でもなかったわけだ。

 などと知人に話したら、数年前に食事した席でその話をしたじゃないですか、なんか日本を拠点の一つとしているらしいですよ、と指摘される。
 いわれてみればそんな気もするが、やはり憶えていない。
 情けない話だが、見方を変えれば、忘れるお陰で何度でも初めての遭遇として子供のように驚いたり感激できるのだから、それはそれで幸せなことなのかも知れない、と思ったり。
 忘却は神の恩寵だ。いちいち憶えていたら感性が磨耗して、最近のことはすべて劣化した反復としてしか、感じられなくなるだろう。九代目はこんなもんじゃなかった、五代目が生きていたら、という、あれだ。
 それよりは忘れた方がよい。つねに瑞々しい感性が保たれる。問題は、本人はそれで幸福でも、その「新発見」をくり返し聞かされる周囲はたまったものではない、ということだが。

十一月六日 ルーヴル宮音楽隊!
 昨日今日と、ミンコフスキ指揮ルーヴル宮音楽隊を二晩続けて、オペラシティのコンサートホールで聴く。
 素晴らしかった。弾力と呼吸感にあふれているのに、フォルムがきちんとしていて、まったく崩れないのがすごい。恐ろしく高い技術水準の上で、ほんとうに愉しそうにやっている。
 五日は前半がモーツァルトのポストホルン・セレナード、後半がラモーの「もう一つのサンフォニー・イマジネール」という予定だったが、演奏者の強い希望により逆にするとの発表。曲目の変更ではないのだから、遅刻早退する人以外にはさほどの問題ではないと思ったが、ミンコフスキはわざわざ開演前に通訳をつれて登場、自ら逆転を告知した。
 知人によると、数日前の金沢公演でもセレナードとハイドンの《ロンドン》交響曲という予定を逆にしたそうである。技術的な都合も考えられるが、おそらくは、セレナードの演奏効果にそれだけの自負があるということだろう。
 実際、ラモーもよかったが、モーツァルトはさらに圧倒的な出来だった。正直な話、ポストホルン・セレナードは長くて退屈な曲という記憶しかなく、ラモーが目当てで来たのだが、とんでもない、濃密なる音楽の愉悦がそこにあった。
 生き生きと飛び跳ね、対話し、さんざめくオーケストラ。ポストホルンは奏者が赤い郵便自転車(金沢の郵便局のものだとか)を乗り回しながら、片手で見事に吹くという趣向があったが、こうした遊びも本体の音楽の素晴らしい充実があってこそ、心から笑えるものになる。早くCDにもしてもらいたいもの。
 アンコールも鮮烈かつ愉しいものだった。だがそこで印象的だったのは、楽員のソロがひきたつ曲を中心にしたこと。
 ラモーの〈未開人の踊り〉では、打楽器奏者のシルヴァン・ベルトランが、目覚ましいばかりに強烈なタイコを叩く。若くて細いイケメンの外観からは、想像もつかないパワーとスピード。かれは三曲目のグルックのバレエ音楽《ドン・ジュアン》の〈怒りの舞〉、一般的にはオペラ《オルフェオとエウリディーチェ》の一部としてお馴染みの曲でも、冒頭に舞台裏でサンダーマシーンのような轟雷の響きを聴かせた。さらにこの二曲のあいだには、コンサートマスターのティボー・ノアリをソロに、ハフナー・セレナードのロンド楽章。
 楽員のソロをひきたたせることは、本プロ中から目立っていたのだが、アンコールではそれをメインにしてきた。
 こういうあたり、デューク・エリントンのライヴ録音に似たものを感じてならなかった。エリントンご自慢の腕利きども、ホッジズやらゴンザルヴェスやらプロコープ、カーネイにナンス、クラーク・テリーといった、あの連中を活かしたソロ曲をやるときの、あの感じ。
 この特質は翌日のハイドン演奏会でさらに際立った。《時計》《軍隊》《ロンドン》の三曲すべて、チェンバロが通奏低音を弾きつづけたのだが、小型で音量の小さい楽器のせいもあり、二階で聴いていると、ほとんど聞きとれない。間違えて飛びだしたりすれば耳につくが、正しく弾けば弾くほど目立たないという、なんとも報われない役割である。
 この地味な役目に徹したチェンバロ奏者に、ミンコフスキはアンコール二曲目でハイドンのニ長調の協奏曲の第三楽章を独奏させ、大きな見せ場を与えた。それも、わざわざ楽器を大型のチェンバロに交換して。昨夜も使ったそのチェンバロが舞台下手奥に最初から置かれていたので、なぜだろうと思っていたのだが、ここで使うためだったのだ。
 しかもその独奏のまた鮮やかなこと!弾いたのはフランチェスコ・コルティ。家に帰って調べると一九八四年生れとまだ若く、シュタットフェルトがピアノ部門を制したことで脚光を浴びたライプツィヒのバッハ国際コンクールの、二〇〇六年チェンバロ部門の優勝者だ。
 つまりコルティは立派に独奏者として立てる技量の持主であり、それはノアリやベルトランも同様だ。そんな連中が組んだオーケストラなのである。まさに、全盛期のエリントン楽団みたいだった。クラシックにおける、世界最高級のビッグ・バンドといってしまおう。
 しかもその贅沢さが、愉悦と輝くような生命力に直結していることが素晴らしい。二十世紀後半の糞真面目な荘重様式のクラシックとは、まるで異なるところにきていることがよくわかる。
 だが、この公演は残念なことに集客に苦労したという。不景気のせいもあるだろうが、それよりも、日本のクラシック・ファンに荘重様式好きの人がまだまだ多いことを思わずにはいられない。

 と考えていて、連想したのが草創期の群馬交響楽団の話。
 丸山勝廣の『この泉は涸れず』によると、楽団の源流は大正三(一九一四)年に詩人の萩原朔太郎が高崎と前橋につくった、上毛マンドリンクラブにさかのぼるという。何度か流れを変えつつ継続、戦中は「翼壮音楽挺身隊」となった。
 そして終戦の年の十一月、その一員だった丸山たちや、疎開中のOB交響楽団(東京の各大学の音楽部のOBによるアマチュアオーケストラ)の人など、高崎のアマチュア音楽家が市役所の会議室に集まって、「年をとってきたし、いまさらタンゴやワルツでもあるまい、戦いも終わって文化国家建設ということでもある。ひとつオーケストラをつくろうではないか」ということで結成されたのが、高崎市民オーケストラだった。「交響楽団のなんたるかを知っている者はもちろんひとりもいなかった」という。
 人数がどれくらいだったのかはわからないが、結成直後の楽器編成がメチャメチャだったことはたしかである。オーボエ、ファゴット、ホルンのような「特殊楽器」はなかった。しかし「高崎育ちのわれわれはそんな楽器は知らないから大して苦痛は感じない」。ピアノはもちろん、ギターやアコーデオンまでいたが、「モーツアルトやベートーベンにギターが入ろうと一向おかまいなし」だったという。だが東京を知るOB交響楽団の人たちは閉口し、足りない楽器を東京からトラで呼んで形をつけるようになった。
 そうしてギターも除かれたが、音量補強のためのピアノだけは残さざるを得なかった。「ピアノがはいっているオーケストラ」、これは「その後十数年の長きにわたり群響の宿命的課題」だった、と丸山は書いている。つまり、楽員二、三十名くらいの一九五〇年代までピアノは残っており、それを丸山は恥じていたのだ。映画『ここに泉あり』でも、ピアニスト役の岸恵子がそのことを自虐するセリフがシナリオにあった(ちなみに映画に登場する燭台付のピアノは、実際に群響が使用したものだという。戦災のせいか、一九五四年の東京ではこんな骨董品を手配できなかったためだそうだ)。
 しかしあらためて考えてみると、草創期の高崎市民オーケストラの編成は、まるでバロックの合奏団みたいである。弦楽器主体で管楽器の種類が少なく、リズムを刻む撥弦楽器がいる。ただしリュートやチェンバロの代りに、ギターとピアノ。近代楽器は自己主張が強いから、古楽器より響きがなじまないだろうが。
 敗戦直後のドイツ各地に、シュトゥットガルト室内管弦楽団のような合奏団が次々と生れたのと、似ているようで異なるのが面白い。あちらは貧窮を逆手にとって、古典派やバロックの復活演奏という目的を明確にした小編成だった。対して高崎のそれはあくまで近代の大交響楽団を最終的な目標とした上で、一時の方便でやっているもの。見すぼらしい代用品と、自らを恥ずかしく思っている。
 西洋文明が近代化の完成段階でいきなりやってきたため、それに追いつこうと必死だった当時の日本人には、重厚長大こそが理想のすべてだったのだろう。一九六〇年代にはLPのバロック・ブームの影響で東京大阪に合奏団がつくられるようになるが、地方はそれよりもまず、立派な交響楽団を、高速道路や新幹線と同じように望んだ。
 だから一九六〇~七〇年代の高度成長期には、全国各地の大都市に交響楽団が生れる。群響が本格的な交響楽団になったのも、その時期だ。
 そこから発想を転換して、金沢や水戸が室内オーケストラをつくるのが、消費社会成熟期のバブル期以降というのも、やはり時代に符合している。
 だのに、今回のミンコフスキの公演が東京以外は金沢でしか行われなかった理由の一つが、「音楽隊」なんてチンケな名前では一般ファンが買わないと危惧したためだった、なんて話を耳にすると、結局日本の民度は、終戦直後とあまり変っていない気もする。

十一月七日 最後の夕日
 埼玉県が公立高校五校を閉校するというニュースを読む。
 過疎地ではなく、大人口圏で公立高校が減る時代だ。いくつかの学校は他校との統合ということになっているが、最後の学年を送り出したあと、教員と事務員が別の学校に移るということだから、実質的には廃校だ。
 むかしは都市部の学校は増えるものと決まっていて、新設校で下級生がだんだん増えていった体験談はよく聞いたけれども、逆の閉校って、どんな感じなのだろう。過疎地の小中学校などではなく、町中の高校の場合。
 想像する。年々空き教室が増える。最後の学年が三年になったときは、ほかに誰もいない。クラブ活動も三年の二学期には実質的に終了。生徒会も二学期以降の中核になるべき二年生がいない。後半はもう執行部なしか?
 文化祭だって三年だけでやって、どのくらい盛りあがるのか。そこらじゅう空き教室なのに。
 きわめつけは卒業式。在校生の席は無人。見送るのは、教師と来賓だけ。
 よいリーダー役がいれば、逆に一年間お祭り状態になる気もする。自分の老化と社会の変化を同一視するのはたいがい独善的で滑稽な思い込みに終るが、この場合は、自分の高校生活の終りと学校そのものの終焉とを完全に重ねることができるわけで、それはそれで貴重な、得がたく忘れがたい体験になるのかも。
 最後の修学旅行、最後の体育祭、最後の文化祭、最後のクラブ、そして誰もいなくなる卒業式。
 なんというか、とても夕日が赤くて壮大で、ロマンチックではないか。
 でも、そんな体験をしてから大学に入ったら、しばらくヌケガラになりそう。

十一月十一日 トライアングルを撃て
 ヤンソンス指揮バイエルン放送交響楽団を聴きにサントリーホールへ。このコンビらしく壮大に鳴る。
 前半はヨーヨー・マがドヴォルジャークのチェロ協奏曲を弾き、続いてマのアンコールが二曲。
 二曲目のときはチェロをもたずに出てきて、首席奏者から借りて弾くという、アメリカンな趣向。
 ただし右側のトップは断って――そういえば一曲目でマが何か声をかけたのに首を振っていた――左の奏者が貸す。
 よくわからなかったが、ひょっとしたら断った首席はセバスティアン・クリンガー(OEHMSからバッハの無伴奏全曲も出している俊英)だったのではないか。なぜ貸さなかったのか、想像したくなるがともかく真相不明。クリンガーの楽器もカミッリという銘器だそうだ。
 しかしもっと面白かったのは、そのあとにマがでてきて、後列の管楽器かティンパニかに声をかけようとしたとき。
 通り道にいた打楽器のおっちゃんが、「今度はこれ使ってよ」とばかりに、トライアングルをわたそうとしたのだ。
 でもマはうまく反応できず。相手からのとっさのユーモアにはアドリブがきかない、あんまりアメリカンでないあたりが、いかにもマらしくておかしかった。

 で、後半がワーグナー。オペラに関心の薄いヤンソンスだけにドラマ性の希薄なワーグナーで、管楽器は意外に事故が多かった。
 ここで疑問。二十世紀後半の日本でのシンフォニー・オーケストラの演奏会だと、最後がドカンと終った瞬間、
「うおおおおおおおおおおおおっ」
という雄叫びというか、蛮声のようなものが年柄年中あがっていたのに、最近はそれを聞いていない気がする。
 TBS、トーキョー・ブラボー・ソサエティとか呼ばれていたかれらは、どこへ行ってしまったのだろう。
 その代りにフライング・ブラボーも少なくなったし、マーラーの交響曲第九番のときなどはみんな「だるまさんが転んだ」状態で、動いたら負けよという感じ(本当に感動して動けない、というわけではないような気がする)だし、全体のマナーはよくなったが。
 もちろん、ブルックナーの八番とかブラームスの一番とかマーラーの五番とかなら今でもガンガン叫ばれていて、私がそういう曲目の演奏会に行っていない、というだけの可能性も高いが。

十一月十四日 平家のひとびと
 岩波新書の高橋昌明『平家の群像』を読む。
 最近は各社の新書が多すぎるせいか、あるいは取次との関係に問題でもあるのか、岩波新書は大規模書店以外では新刊が並んでいなかったりする悲惨な扱いを受けているが、これは幸いにも並んでいた(ただし平積みではなく、いきなり書棚)。新規参入の他社には粗製濫造で息切れ気味のところも多いようだから、老舗のこうしたきちんとした本は大歓迎。

 著者は平家研究で定評のある人だそうで、前著の『平清盛 福原の夢』(講談社選書メチエ)も読んだが、それよりもこの『平家の群像』の方が示唆に富んでいて、個人的にはずっと面白かった。
 まず、資料についての近年の考え方の変化について。物語的脚色の多さにもかかわらず、どうしても『平家物語』が質量ともに他を圧するのだが、その『平家物語』でも、多数ある写本のうち、どれが原型に近いのかについての考え方は、学界で近年大きな変化があったらしい。
 現存の『平家物語』には大別すると、琵琶法師が語るための語り本と、読むための読み本がある。学校で教わったり、文庫で読んだりして一般的なのは前者の語り本の系統で、そのなかでも覚一法師が一三七一年に完成させた覚一本というものが、文学的価値が高いとされる。
 対して読み本は、記事量が豊富だが未整理な印象が強い。かつては語り本が原型に近く、読み本はあとで書き足したものと考え、「増補本」と呼んでいた。
 単純素朴こそ古典性が高いというのは二十世紀の典型的発想で、音楽学や演奏でもそうした傾向が強かった。
 ところが、近年はそれが変ってきた。
 『平家物語』で原型により近いのは逆に、読み本のいくつかであると考えられるようになった。それを刈り込んで洗練し、因果関係を明快にして文学性を高めたのが語り本である、と考えるようになったのだそうだ。つまり、語り本は文学としては優れているけれども、そのぶん脚色が進んでいることになる。
 ただし、読み本のすべてが原型に近いわけではなく、『源平盛衰記』などは書き足しが多い。語り本の洗練とは逆に、後世の人が増補して枝葉を増したものと考えられる。読み本で祖本(原型)に近いのは延慶本と呼ばれるものという。
 このへんの逆転が、クラシックでのピリオド演奏のスタイルの変化、荘重から俊敏への様式変遷に対応しているかのようで、愉快。まあ、新奇な方向を求めて強引に見出した突破口、という気配がある点も似ているが(面白いのならそれで結構、と私は思っているけれど)。

 そうした新しい考え方を基本に書かれた『平家の群像』の面白さは、清盛の子と孫たちの位置と関係を、かなり明確にしてくれたこと。
 清盛の子供たち、重盛、宗盛、知盛、重衡に関しては、『平家物語』が図式的なまでに明快にその性格の差を強調しているのだが、そこには因果応報の結果論的な脚色と虚構が混じっている。さらにたくさんの孫になると、『平家物語』では維盛一人がきわだって、あとは「その他大勢」で区別がつかない。
 著者はその位置関係をとらえなおしてくれるのだが、その根拠の一つは「母親は誰か」ということ。当時の貴族は一夫多妻だから、兄弟でも腹違いが当り前である。江戸時代には妻妾のタテの主従関係が整備されているけれど、この時代はもっと水平で流動的。
 そこで「父太郎」と「母太郎」という考え方が出てくる。前者は母が誰であれ父親にとって最初の息子。後者は、嫡妻(正妻)にとっての長男。二者が一緒なら問題はないが、違うことが多いので関係が複雑化する。
 父太郎はなんといっても成長が一番早いから、合戦のときなどに頼りになる。清盛にとっての重盛、源義朝にとっての悪源太義平が典型。対して母太郎は、嫡妻たる母の権力を背景にしている。
 平家が面白いのは、この父太郎と母太郎の対抗関係が三代続いていること。清盛と頼盛、重盛と宗盛、維盛と清経、資盛。父太郎の方が(父から信頼されつつも)自力で、戦をとおして経歴を切り拓かねばならないのに対し、母太郎の方はよくも悪くもお坊ちゃんタイプ。
 かれらはけっして反目しているわけではなく、ふだんは一門として協力しているのだが、重大事件のときには微妙な距離が表面化してくる。
 一門都落のさいに別行動をして生き残った池大納言頼盛はその好例だし、小松内大臣重盛が早世して宗盛が清盛の跡継ぎになると、重盛の小松家の息子たちの居場所は小さくなり、出世競争でも宗盛の長子清宗の後塵を拝するようになる。
 さらにその小松家のなかでも、美男子として知られた父太郎の維盛は負け戦の指揮官ばかりで自信喪失、母太郎の清経も母の実家が没落して後楯を失い、資盛は、後白河院の近臣(いわゆるお稚児だったと見る説もある)として一時は羽振りがよかったが、都落のさいに頼盛とともに院にすがったのに見捨てられ、しかたなく一門と行動をともにしたものの、当然ながら以後は浮いた存在に。
 一ノ谷合戦のとき、資盛以下の小松家の公達がそろって本陣から北に離れた丹波の三草山にいた事情も、こうしたかれらの特殊な立場を思うと、色々と考えさせられるものがある。

 こうした小松家の公達を、著者は権亮少将維盛を中心に描く。そしてもう一人の主役は清盛の四男、本三位中将重衡。
 維盛の叔父といっても、わずか二才上であるだけの重衡は、維盛と官歴がよく似ていて、どうやらこの二人が、小松家と一門主流(宗盛たち)とのつなぎ役になることを期待されていたらしい。
 こういう想定を読めるのが、私には愉しくて仕方がない。
 さらに、重衡というと南都焼討の大罪を犯し、一ノ谷では乳母子に見捨てられてあえなく生捕になるなど、気骨も人望もない愚将という印象が強いのだが、史実は違うという。それどころか宗盛に代って一門を代表する戦闘指揮官であり、平家が勝った合戦の指揮は、ほとんどかれがとったものだそうだ。
 ところが『平家物語』ではかれの戦歴を兄の新中納言知盛に移して、勇将の役割を知盛のものにしてあるのだという。
 驚いたことに、重衡と逆に知盛は、史実ではまるで存在感がない人なのだそうだ。何を考え、どう行動したか、『平家物語』以外にはほとんど裏づけるものがないという。その原因はどうやら、癲癇(てんかん)という宿痾に苦しみ、行動が制限されたためらしい。
 そうして、これといった記録がないからこそ、『平家物語』のなかではつねに「実現されなかった正しい方針」を宗盛に対して主張する者として、キャラクターをつくりやすかったのだろう、という板坂燿子の説が紹介されている。
 一ノ谷で捕虜にならずに、壇の浦まで重衡が指揮をとっていたら、その役割はかれのものだったろう。しかしかれは途中で脱落し、知盛にその役が回った。そしてその印象と効果を強めるために、重衡の軍功を知盛のものにしてしまった。
 このあたりの推理もじつに面白い。
 この本にはまた、平家累代の御家人、すなわち上総介忠清とか悪七兵衛景清とか越中前司盛俊とかいった侍大将たちがどんな家系で、重盛、宗盛など、どの公達と関係が深かったかも書いてある。
 こういう主従関係のわかりやすく明快な説明も、いままで見たことがなかったので、読めて嬉しかった。個人的には藤本正行の『信長の戦争』を読んだとき以来の、鮮やかな史的興奮があった。
 これを機会に『平家物語』原文をきちんと読もうと思いたち、書店で数種の文庫本を読みくらべてみる。文庫はどれも語り本で、読み本系はないらしい。
 現代文ではないだけに、本文のレイアウトや字体の読みやすさを重視して比較すると、角川ソフィア文庫の佐藤謙三校注の二冊本がいちばんよさそうだ。角川がよいというのは自分でもちょっと意外な結果だったが、さすがは角川源義の遺風、というところか。

 ところで、新中納言知盛卿といえば、なんといっても大河の『新・平家物語』の松山省二。子供だったからほとんど覚えてないのに、闘志と静かな諦観をともに秘めたその風貌と、一門の最期を見とどけたあと、ただ一人で舳先に立ち、碇を抱いたまま義経たちと言葉を交わし、一瞬に波の底に消える場面は、いまも目に焼きついている。
 あの最期は総集編ではカットされているから、もう二度と見られない…。

十一月二十日 二期会のカプリッチョ
 今日と明日と二日続けて二期会の《カプリッチョ》を観に日生劇場へ。日経新聞に評を載せるが、書ききれないことをここで。
 ジョエル・ローウェルスの演出は意味不明とか不適切とか、知人には首をかしげたり疑問を呈している人が多くて、その仕掛けを楽しんでいたのは初日にお会いした堀内修さんくらいだったが、私にはとても面白かった。
 弱点の少なくない舞台なのは承知している。東京シティ・フィルは東京のオーケストラとしてトップ・クラスではないし、歌手にはかなりひどい出来の人もいたし(初日は物語の要になるはずのラ・ロッシュの大演説が、ほとんど歌になっていなかった…)、舞台面がゴチャゴチャ混乱しがちだったこと、所作がどうにも西洋上流階級には見えない赤毛物っぽさが出ていたことなど、演出家の責任に帰すべき問題もあり、実務面では甘さが残るが、それでもそのマニアックなこだわりの波長が、私とは合うのだ。
 いかにもオペラらしい、立派で統一した雰囲気のある舞台ということでは、同時期に新国立劇場で上演した《ヴォツェック》の方が、はるかに上のレヴェルだった。装置はいかにもバイエルン州立歌劇場らしいものだったし。
 でも、あそこはこうだった、ここはこうだった、なるほどこの作品にはこういう要素があったのか、なんてことを考えさせてくれる、しゃべりたくてたまらない気持にさせてくれるのは、ローウェルスの《カプリッチョ》の方なのだ。
 ローウェルスは二期会では《ワルキューレ》以来二度目の登場である。あのときも、説明過剰な気配があるにせよ、人間族と神族との相違を時間感覚の差によって執拗に描いて、不老不死なんていう想像を絶する存在と直面する人間というのは、きっと恐ろしく不幸なのに違いないと思っている私には、そのこだわり方が「それだよそれ」という感じだった。
 そのかれの演出、今回は冒頭に「一九四四年、占領下のパリ」という設定が字幕に出て、オリジナルの十八世紀から移したことが明言される。そのあと、ダビデの星をつけたコートを着て逃亡中の作曲家と詩人が暗闇を利用して荒廃したサロンに戻ってくる、という場面があるのだが、これがどういう場面なのかはっきりとわかるのは、演出の全容を知ったあとの二十一日のことになる。全体に、一度では把握しきれない仕掛け、小芝居を面白がってやっていた(このあたりがやや素人くさい)。
 開幕後のマドレーヌと男二人のやりとりでは、マドレーヌが相手の直接的、肉体的な接触や露骨な情熱などを避けようとする人物であることが描かれる(だからこそ、途中の口づけのもつ重大さが強調される。これは二十日の佐々木典子の方が、明確に演技していた)。
 そうして、かれら全員が貴族を囲んだ非常に知的な、教養豊かなサークルであるのが感じられてくる。ということは、これと正反対の直接的な暴力の象徴としてナチス占領軍を出すんだろうなあ、という予想がしだいに強まってくる。一九四四年といえばパリ解放、『パリは燃えているか』の年だから、敗退直前のドイツ軍が無茶をやるとも考えられるので、そういう意味の時代設定なのだろうと。
 だが、ここまで大きな読み替えをやるとまでは予想できなかった。それまでかいがいしく働いていた執事長と給仕たちが、突然に黒いナチス親衛隊の制服を着て乱入してくる。
 このあたりは、歌詞に別の意味を見つけつつ演出。女優クレロンの「ここで過ごす時間は楽しすぎて」だったか、一瞬に過ぎ去った楽しい時間への痛切な告別の言葉には、二十日の加納悦子が深い悲しみのニュアンスをこめて、印象的だった(容姿的には、二十一日の谷口睦美の宝塚風の男裝の方が、はるかに女優らしかったけれど)。
 ただこのあとに関しては、フランスでの出来事としたのはよくなかったと思う(パリという言葉が歌詞に何度も出る以上、しかたないのだろうが)。
 ドイツ占領軍対フランス文化人、という構図で眺めてしまうと、この演出はわけがわからないし、説明が中途半端だしで、腹を立てた人がいるのも不思議ではない。
 第三帝国時代のドイツでの出来事、と考えないと納得いかないことがほとんどで、逆にそうすると、この演出はスジがとおってくる。
 「寒いからコートを着て」という歌詞にあわせて、ラ・ロッシュはナチスの一味になったらしく、鉤十字のついたコートを着る。一方、作曲家と詩人は(あの口をきかない老執事も、だったか?)ダビデの星のついたコートを渡される。ここは、舞台上のほぼ全員がドイツ人、在ドイツのユダヤ人と考えた方がわかりやすいのだ。
 気になったのはイタリア人歌手たち。かれらはナポリから来た。早めに普通に退場したようだったけれど、どうだったのか。二十一日のテノール役の村上公太は、スーツの下にあえて「黒シャツ」を着ていた。これには何らかの意味があるのだろう(ローウェルスは間違いなく、そういう人だと思う)。
 ただ、二十日はソプラノの方がその前の二重唱の場面で気絶していたのに、二十一日はテノールの方が気絶と、歌手の体格によって芝居を変えていたから、この退場の部分にも日によって相違があった可能性がある。いずれにせよ、他の人の動きに気を取られて見そこねた。

 サークルが解散させられ、室内が荒され、闇になったところで、本来は給仕たちが合唱する歌詞を、親衛隊員が歌う。ここで、前半の貴族と芸術家のサロンが高踏的なものであることを演出が強調してきた意味が、はっきりとする。
 もともとこの作品には、「言葉か音楽か」という単純な二者択一よりも、それを含めて、さまざまな芸術家が力をあわせ、切磋琢磨して「綜合芸術」をつくろうというテーマがある。どれが勝つかは決定的ではなく、切磋琢磨の過程の一時的なもの。
 何度も出てくる「グルック」という言葉の向うに、ワーグナーその人が意識されているのは自明のこと。そういう綜合的大巨人のあとを受けて、凡人たちが力を合わせてつくろうとしている。だからこそ英雄物語でない、自分たちを扱う、等身大の綜合芸術なのだ。
 このへんはいかにも二十世紀の新古典主義の時代の感覚であり、またロシア・バレエ団とか(ラ・ロッシュには明らかにディアギレフっぽい雰囲気がある)、ブロードウェイ・ミュージカルの徹底した分業制のようでもある。考えてみれば「言葉か音楽か」というのも、ロジャース&ハマースタインとか、ロウ&ラーナーとかのコンビの関係を思わせ、むしろブロードウェイのバック・ステージものになりそうなテーマ。
 だが、どんなに民主的でも、ここで語られる芸術は結局のところ、一部のインテリと金持のものにすぎない。大衆はもっと直接的でわかりやすい、英雄的なものを望んでいる。それがファシズムの専制を招く危険にもなることを、執事長と給仕たちの変身が暗示していた。
 芸術は永遠ではあるが、現実の直接的暴力に対しては無力だということが、よく出ていた(どんでん返しの効果をねらうあまり、そこまでが説明不足で、わかりにくい欠点は見過ごせないにせよ)。
 このことをいちばん思い知らされたのが、R・シュトラウスやフルトヴェングラー、あるいはツヴァイクのような、ナチス時代に生きたドイツの芸術家たちだったろう。
 ハーケンクロイツやダビデの星という刺激的な記号をそのまま出すことは、それだけで拒否反応を招く可能性が高いわけで(事実、知人の一人はそれを怒っていた)、難しいけれども、現実に対する芸術の無力感があれほど明確になった時代はないのだから、これでよいと思う。
(翌日に続く)

十一月二十一日 カプリッチョ(続き)
 やがて親衛隊も去ったあと、「月光の音楽」に合わせて踊られるバレエ。これが実に効果的だった。
 幻に終った共同作業による綜合芸術のなかで、ただ一つ実現したのが、オリヴィエがラ・ロッシュをあざけって口にした「廃墟でバレエを踊るんだぜ」だけだという、痛烈な皮肉と哀しみ。あのわずかな一言をすくい取って、一場面に仕立てた演出家のセンスの冴えに感謝。
 しかもこのバレリーナに関してのみ、下層階級の出身であることが、歌詞で明瞭に説明されている。そして演出も、それを際立たせる方向になっていた。
 バレエで認められたいと願っても、パトロンの庇護を受けねば生きられないという諦めがあり、嫌悪しつつ貴族に媚を売る。この演出では、女優クレロンがそうした彼女を激しく嫌っていたが、それは伯爵をとりあっての嫉妬というより、そのウソの媚態に腹が立つからだろう。なぜ腹が立つかは、クレロン自身の出自に関係があるのではないか。
 台本の協力者である指揮者クレメンス・クラウスの母、クレメンティーヌ・クラウスが、ウィーン宮廷歌劇場のソロ・バレリーナであり、私生児クレメンスをわずか十六歳で生んだということを考えると、ここで二人がつくったバレリーナの設定はじつに意味が深い。そうしてクレロンは、頭の二字CLが、クレメンティーヌと同じ。
 ローウェルスはこれを意識して、クレロンとバレリーナの愛憎関係をつくったはず。このあたりのマニアックさが、私はどうしても嫌いになれない(笑)。
 ともあれ、下層階級の彼女はひとまずは迫害されることなく、廃墟でバレエを兵士(かれ一人だけ親衛隊の制服ではない、国防軍の一般兵士というのが、また凝っている)と踊る。しかしやがて兵士も去っていく。彼女はこれから、はたしてどんな人生を生きることになるのか。

 そして終景。長い年月のあと、マドレーヌは年老いて、荒れ果てたままのサロンに戻ってくる。
 親衛隊指揮官となって去った執事長がいるはずもない。その声が、彼女の頭の中で聞こえるだけ。
 彼女と伯爵には、ナチスは手を出さなかった。友人とサロンを失った点では被害者だが、迫害を傍観したという点では間接的な加害者、ナチスの仲間(自らを犠牲にしてユダヤの若者を救ったラ・ロッシュだけがヒーロー。かれは確かに、ハンス・ザックス的大演説にふさわしい行動をした)。
 被害者にして加害者。マドレーヌは、ドイツにとどまったすべての人の象徴であり、そして誰よりも、R・シュトラウスその人である。
 作曲家と詩人は、途中で捕まったか、亡命先でツヴァイクのように自殺したのか、ともかくその後、ついに戻ることがなかった。永遠に選択の機会も、オペラづくりの機会も失われてしまった。
 老婆になったマドレーヌが鏡を見ながら(いや、その鏡も若き日の彼女を映し出す、幻影の鏡なのかも)、二度と戻らないあの日を幻想し、嘆く。それは悲しみと嘆きの歌であると同時に、夢半ばに死んだ芸術家たちへの慰霊、魂鎮めの歌でもある。
(ここは、途中で泣き崩れた釜洞祐子が嘆きを、昂然と姿勢を保った佐々木典子が巫女的な鎮魂を、それぞれに見せているように感じた)
 「みんなで綜合芸術をつくりたいな」というオペラの主題を、ローウェルスは「つくりたかったな」に変えたのだ。
 いわば《カプリッチョ》を、《メタモルフォーゼン》に読みかえた。ドイツ文化への挽歌《メタモルフォーゼン》を愛する一人として、それがとても共感できた。感想は人それぞれだろうが、私は音楽もうまく変容して《四つの最後の歌》の世界のようになっていたと思う。

 ただ、ここで大きな問題が残る。
 眠りこけていて、悲劇を何も見ずにすんだプロンプターが、最後の場面でも舞台に残って、詩人と作曲家が残した手帳と楽譜を手に、マドレーヌを見送る。
 その風貌がR・シュトラウスに似ているのだ。私はマドレーヌこそR・シュトラウスその人の化身と思い込んでいたから、かれの存在を気にしていなかったのだが、知人から、あれこそがR・シュトラウスなのでは、という指摘を受けた。
 そうかも知れない。しかしそうだとすると、R・シュトラウスは眠りほうけて苦難を回避した、おそろしく無責任な傍観者ということになる。
 アルマ・マーラーが記した有名な一場面、マーラーの交響曲《悲劇的》を聴いて、その重苦しさに打ちのめされているところにR・シュトラウスが来て、「みなさん深刻な顔をなさってますが、何かあったんですか」と能天気に聞いた、という話を思い出さずにいられない。しかしシュトラウス本人は、この話を「ありえない」と否定しているそうだ。
 このあたり、ローウェルス本人はどう考えているのか知らない。しかし私は、あれがR・シュトラウスだとは思いたくない。それなら、恨みを残してさまよい出たマドレーヌの亡霊を鎮魂する、高僧の役とでも思った方がましだ(能の幽玄の世界だ)。
 とは冗談だが、あのプロンプターは、作品を後世に継承していく音楽関係者すべての象徴、と私は見たい。

 ともかく、いろんなことを考えさせてもらえて、愉しい二日間だった。まあ、作品のことを何も知らずに見に行った知人の一人のように、《カプリッチョ》とはこういうオペラだと思い込んだ人がいたというのは、問題だろうが…。
 それにしても日生劇場がもつ、他のどんな音楽ホールとも異なる、細い曲線の優雅な雰囲気。これはどうしようもなく魅力的。一九六三年開場だから、私と同い年の劇場である。

十一月三十日 ホフシュテッターなし
 ホフシュテッター指揮シュトゥットガルト室内管弦楽団の演奏会を聴きに、紀尾井ホールへ。
 ホフシュテッターは、二十世紀前半の新即物主義の指揮者たちを想わせるような、気合の入った音楽をつくれる指揮者で、注目している一人。かつてミュンヒンガー、近年はラッセル=デーヴィスに率いられていたシュトゥットガルト室内管弦楽団の首席指揮者の地位に、二〇〇六年からついている。
 このコンビの録音が増え始めたのも嬉しいところで、メンデルスゾーンの協奏曲集がオルフェオから発売、まもなく同じ作曲家のシンフォニア全曲もやはりオルフェオから出ることになっている。
 そのかれをラルペッジャータ、ミンコフスキに続いてナマで聴けるとは、なんと素晴らしい十一月だと思っていた。
 ところが席についてプログラムを見ると、指揮者の欄にコンサートマスターが紹介されており、ホフシュテッターの名がない。ゲッと思って下の方を見ると、「急病のため、ホフシュテッターは来日中止となりました」の文字。
 呆然。

十二月四日 相対化の無限連鎖
 新宿ピカデリーへ、映画『イングロリアス・バスターズ』を観に行く。
 ローウェルスの《カプリッチョ》についてある知人が、あの演出はもっとオペラに対するLOVE&HATEの感情、ちょうどタランティーノがこの『イングロ』でみせたような映画に対する愛憎、とりわけHATEの方を発揮してほしかった、と指摘されたのに刺激され、観てみようと思ったのだ。
 最新型のシネコンなので、全席指定なのはもちろん、インターネットで座席を決めてあらかじめ購入できる。平日午後だし、あまり入っていないと聞いたし、実際前日の夜中でもほとんど空席。必要ないかとは思ったが、大きいホールではないので一応予約。最後列の中央の席。
 ところが、行ってみると周囲の席はほとんど埋まっていた。やはり新宿のように巨大な、ありとあらゆる生態の人々が集まる街となると、当日いきなり来る人が少なくないらしい。
 巨大シネコンは初体験なので面白い。「未来」風というか、白くスタイリッシュな内装は統一感があるが、やや殺風景で、映画館というより試写室がたくさんあるような感じ。軽食などの売店が下の階にまとめられていて、ホール階には飲料の自動販売機しかないのも、そうした印象をつよめる。
 そんな配置に気がつかずにかなり上の階まで昇ってしまい、いまさら降りる気にもなれず、ペットボトルのコーヒーを買って入場。
 映画館内でペットボトルを飲むのがこんなにわびしい思いをすることだとは、やってみるまでわからなかった(笑)。

 さて映画は、第二次世界大戦中のフランスが舞台なので、まさにローウェルス演出と同じ。タランティーノらしく下品で暴力的で、B級戦争映画、スパイ映画への愛とパロディにみちている。
 もし観る者がそう観たければ、痛快な勧善懲悪映画としてだけ観ることも可能なのがいい。ヒトラーやゲッベルス以下ナチスの要人がつめかけたパリの映画館に火をつけ、全員を撃ち殺し焼き殺し、皆殺しにして戦争を終らせる、というストーリーなのだ。ざまあみやがれ、イスラムのテロリストたちも同じ目に合わせてやろうぜと思うアメリカ人は、少なくないに違いない。
 ナチスに復讐の手を下すのは偽名で映画館主をつとめるユダヤ人女性、その恋人で映写技師の黒人、そしてインディアンの血を引くイタリア人中尉に指揮された、ユダヤ人だけで構成されるアメリカの特殊部隊。
 考えてみれば、有史以来、古今東西のあらゆる事象はすべて相対的なものなのに、ナチスが悪だ、ヒトラーが悪魔の如き存在だということの絶対性だけは(いつも一定数存在する狂信者を除けば)およそ揺らぐことがない。
 ひょっとしたらこの世で唯一確実なもの、どんな信仰より懐疑の余地がない、無二の絶対的なものかも知れない。
 この絶対性によって、ユダヤ人たちは犠牲者として復讐の権利を得る。そして不寛容で酷薄苛烈な憎悪を、一般のドイツ兵にぶつけていく。
 当然、かれらが今パレスチナで行なっていることに思いがいくわけで、ヒトラーが絶対悪であるということ以外は、善悪も正邪も勇怯も愛憎も優劣も、すべてが相対的なものになっているのがまた素晴らしい。アメリカ映画なのに、ドイツ語やフランス語や怪しげなイタリア語が字幕つきで延々としゃべられ、英語すら相対的な優位を保っているにすぎない。
 クライマックスは、アメリカ兵を次々と射殺する戦意発揚映画を観て熱狂するドイツ人たちを映画館内で皆殺しにするという、映画の中と現実の観客を「合せ鏡」にした構造になっている。合せ鏡の無限の連鎖の中で、敵を殺す自分に熱狂する自分を殺す自分に熱狂する自分。はてしないくり返しの中の一コマ。観る者までが相対化される、
 この相対化の無限連鎖を生むのは、たしかに映画への親愛と嫌悪の、矛盾するエネルギー。終演時の気分は苦い嫌悪としかいいようがなかったが、でも映画館内のドイツ軍人に合成らしきクルト・ユルゲンスがいたのが妙に嬉しかったり、こちらの思いも愛憎がいりまじる。
 帰路に家の近くの書店を覗いたら、洋泉社ムック『別冊映画秘宝』で、この映画の特集本が出ていた。たしかに、いかにも『映画秘宝』が好きそうな作品。

十二月六日 飯森、沼尻、大野
 東京交響楽団によるヤナーチェクの《ブロウチェク氏の旅行》日本初演を観にサントリーホールへ。
 いい上演だった。詳細は日経新聞の評で述べるが、つけ加えたいのは飯森範親の見事な指揮ぶり。つねに軽快さを保って、喜劇と悲劇の錯綜する難曲の特徴を余さず音にしてくれた。
 コンサートマスターと副指揮者は山形交響楽団でも協働している人たちだそうで、信頼する協力者二人を得たことが、初物でも安定感をもって指揮できる強みになっているのだろう。その安定が、終演後に聴衆に何とも言えない幸福感をもたらすことになっているのが、いまの飯森の魅力である。
 この飯森のほか、先日の《カプリッチョ》を指揮した沼尻竜典、そして大野和士と、いまの日本に優れたオペラ指揮者が三人もいるのは頼もしいかぎり。
 ただこの三人とも、得意分野が二十世紀の複雑な音楽に偏りがち。次の世代でモーツァルトやベルカント、バロックなどを得意とする、つまり音を弾ませる俊敏様式の指揮者が出てきたら、さらに面白くなるのだが、これはきっともう少しの辛抱だろう。

十二月八日 『草燃える』復活
 大詔奉戴日の今日、『草燃える』全話がCSの時代劇専門チャンネルで放映されることを知る。思わず頭の中で、軍艦マーチが高らかに鳴り響く(笑)。
 一般視聴者が保存していたテープの提供(NHK的には「戻していただいた」というのだそうな)により、全五十一話がそろったことはすでに聞いていたが、いよいよ来年二月十七日から一挙放送する予定という。
 昼と夜の、いま『太平記』をやっている枠だ。
 その『太平記』、一九九一年の放映時にはちゃんと観なかったが、今年の「こども大河」を知ったあとに観ると、出来がとてもよく見える(笑)。
 というか、北条氏一門を中心にした鎌倉の複雑な権力闘争はつねに面白いのかも知れない。『時宗』だって、時宗が執権になるまではとても面白かったし。
 ただ、画面のつくりが古くさく見えるのと、この前後の大河によくある、網野史学とアングラ演劇と野村万之丞をゴッチャにしたような舞踏芸能への執着は、どうも好きになれないが。
 といっても前者は、たぶんこちらの主観に原因がある。いつになっても、三十年前なら郷愁と再認識の対象になるが、十、二十年前だと中途半端に古くさく、気恥ずかしいものなのだ。
 こうした無責任な時間感覚は不思議。

十二月九日 九十九年一酔の夢
 四谷三丁目の交差点近くに、好音堂というレコード店のビルがある。
 店名からして、長い歴史のありそうな気配だ。
 岩城宏之の岩波新書『フィルハーモニーの風景』に、学習院の高校一年生の三学期、一九四九年二月に生れて初めて日本交響楽団の演奏会を日比谷公会堂で聴いたときの話が出てくる。指揮は山田和男(のちの一雄)、メインはショスタコーヴィチの交響曲第五番で、これが日本初演だった。
 岩城はその入場券を「家の近くの四谷三丁目のレコード店で」買ったという。臨時会員券を取り寄せてくれる制度があったそうで、レコード店がプレイガイドの代りをしていたのだ(こうした習慣は私がジャパンアーツでバイトしていた一九八〇年代半ばにも残っていて、銀座のモール名盤堂とか国立のアポロとかといったレコード店に演奏会のチケットを届けて回るのが、仕事の一つだった)。
 どことは書いていないけれど、これを読んだときは好音堂のことに違いないと思った。いつも空いていて、CD時代になってからはあまり商売になってなさそうな気配濃厚で、クラシックなどあるはずもなく歌謡曲中心の店だが、いかにも由緒ありげな店名からして、六十年前にはきっとクラシックを扱っていたろうと思ったのだ。
 その好音堂が閉店した。場所がいいだけに、おそらく近年は店の売上よりも、ビルの上階を貸すことで収入を確保していたのではないかと思うが、とうとう十一月二十四日に店を畳んだのである。
 シャッターに貼られた閉店のあいさつを見てびっくりした。なんと、四ツ谷の地で九十九年六か月にわたって営業してきたのだそうだ。あと半年で百年。
 ということは一九一〇年、明治四十三年の開業である。
 岡俊雄の『レコードの世界史』によるとエジソンの蓄音器の最初の輸入は一八八九年。グラモフォンの円盤型蓄音器は銀座の天賞堂が一九〇三年に最初に輸入したらしい。蓄音器とレコードの国産の開始は、四年後の一九〇七年のこと。
 それから三年後に開業したのだ。好音堂という店名が創業時からとすると、はじめから時計屋などではなく、レコードや蓄音器の専門店だったわけである。
 明治期の荒木町は、東京の西側では唯一の盛り場だったという(内藤新宿は南豊島郡の宿場町で、東京市の外)。当初からこの交差点(昔は塩町といわれた)にいたとすれば、盛り場だからこんなハイカラな商売の店ができたのだろう。
 好音堂から少し四谷駅側に「ねこや」という三味線店がある。三業地だけに芸者相手にはじまった店だろうが、それに隣接してレコード店が早くからあったことになる。あるいはクラシックよりも、邦楽が売上のかなりを占めたかも。
 どんな歴史があるのか、いつか知る機会がほしいが…。

 ことのついでに、大学の後輩が贈ってくれた『内藤新宿昭和史』という本を開いてみる。著者は武英雄。一九二四年に新宿一丁目に生れてこの地に育ち、府立六中(いまの新宿高校)から慶応大学に学んで一九四八年から停年まで伊勢丹百貨店に勤めていたという、筋金入りの新宿っ子。内藤新宿開設三百年の一九九八年に紀伊国屋書店が出した本で、内藤町と新宿一~三丁目の歴史、実見談と戦前戦後の比較店舗図がついた便利なもの。
 これによると、著者が六中生だった戦前、新宿で一番のレコード店は出羽屋といい、クラシックはもっぱらこの店で購入したそうだ。店舗は紀伊国屋の西隣にあったが、一九四五年五月の空襲で焼失し、戦後はオリンピック製菓というレストランになり、さらに一九七五年には紳士服の三峰館のビルが建った。その三峰のビルには、いまビックカメラが入っている。新宿はさすがに変遷が激しい。

十二月十日 オノフリ演奏会
 昨日今日と、エンリコ・オノフリのヴァイオリンと指揮によるチパンゴ・コンソートを聴きに紀尾井ホールへ。
 昨日はヴィヴァルディの《四季》、A・コレッリの合奏協奏曲第一番、ヴィヴァルディのシンフォニア、《アイネ・クライネ・ナハトムジーク》。
 対して今日は、前半はコレッリの合奏協奏曲第一番に始まり、森麻季独唱のヴィヴァルディとヘンデルのアリアに《四季》の《冬》第二、三楽章とヘンデルの合奏協奏曲第三番第一楽章がはさまる。後半はテレマンの四つのヴァイオリンのための協奏曲に、二つのヴァイオリンのためのガリヴァー組曲、そして《アイネ・クライネ・ナハトムジーク》。
 初日はオーケストラが出ずっぱりでまとまった曲を演奏し、いかにも近代の演奏会のスタイルで、生真面目な人が多い日本のクラシック好きに向いたもの。対して二日めは歌があったり楽章だけだったり、後半はヴァイオリン四重奏と二重奏があるなど、古典派までは一般的だった、変化に富んだ曲目構成によるもの。
 二日めの曲目の方が面白かったし、演奏もよかった。初日はどうしても楽員が硬くなるし、オノフリの俊敏なヴァイオリンと指揮にくらいついていこうとして力んで疲れたか、後半が単調な印象があった。しかし二日目は慣れもあるし、後半にヴァイオリン重奏があって奏者も聴衆も響きの変化を愉しむことができた。
 弾力、遊び心など、まだこれからの部分はあるけれど、それらは日本音楽界の教師も奏者も聴衆も長いこと無視してきたものだけに、すぐに採り入れることができないのはしかたがない。これから、どんどん変っていくのだろう。

十二月十九日 再会
 かつて送電線建設業が家業だったころの、メインの取引先の社員さんたちの同窓会に参加。会場は御徒町駅前の吉池。
 ウチの稼業は、もともとこの会社の工事班をまとめていた祖父が独立の会社をつくり、そのまま専属の下請として続いてきたのだった。この会社が十年ほど前に送電線工事から撤退したので、ほどなくウチも廃業することにした。
 撤退のさい、二、三十人いた社員さんは他の部署、つまり関東各地の火力や原子力の発電所の保守点検関係や本社にバラバラに移り、勤務を続けている。
 当時から各地の現場に数人ずつ散っていて、一堂に会する機会は忘年会くらいしかなかったから、今日のそれも、その一つのような気がしてくる。
 過去の時間と空間が一瞬だけ甦り、また去っていく。

十二月二十一日 グッときたオビ
 本にまかれる帯の話。本屋に行って、その一言が目に入るなり、心臓をグイッとつかまれる気がした惹句。
「歴史の原動力は金融だ! ただ、金融はあまり歴史に学ばない」

 ――金融はあまり歴史に学ばない。

 なんと含蓄のある言葉だろう。
 署名は『マネーの進化史』。書いたのはニーアル・ファーガソンというハーヴァードの学者。
 出版社が早川書房とはちょっと意外。早川は『第三帝国のオーケストラ』なんてベルリン・フィルの本も今日いきなり売っていたし、よくわからないが、にわかに大攻勢に出てきた。
 二冊とも欲しいが、年末進行真只中のいま、読むわけにはいかないし……『遠い山びこ』もツンドクのままだし……。
 ネットで買うだけ買って、箱は来年までけっして開けない、と約束することにする(いったい誰に?)。
 守れたら大したもんだ。

十二月二十四日 正月番組
 おかげさまで来年元旦もMXTVのクラシック番組の解説をやらせていただくことになり、今日が収録。
 ものは、一九九八年四月のフェドセーエフ指揮のウィーン交響楽団の「ウィーンの春」。《金と銀》とか《ドナウのさざ波》とか《軽騎兵》序曲とか、ウィーン・フィルのニューイヤーコンサートではまず聴けない通俗名曲が愉しい。《白鳥の湖》とかスヴィリドフの《吹雪》があるのも、フェドセーエフならでは。
 ただ、朝まで原稿書いて九十分だけ寝て、そのあとラジオの収録を三時間やってから続けて昼飯抜きで収録したので、いったいどんな顔つきに映るやら。
 収録中は脳内アドレナリン出まくりのナチュラル・ハイ状態で、疲れなど感じないのだが。
 帰宅すると原稿のゲラが届いていた。CDブックレット四ページに、四百字三十二枚分の原稿が、米粒どころかノミみたいな字でびっしりと書いてある。
 うーん…。

十二月二十八日 地下壕と屋形船
 クラシックジャーナルの忘年会。
 銀座晴海通りの銀座四丁目と三原橋の交差点の中間、かつては三十間堀という運河に三原橋(新シ橋)という橋がかかっていた地点にある寿司屋。半円形の脇道が晴海通りの両側をめぐっている面白い場所で、このさい脇道をおりてみたら、昔の川床らしい横断地下道におりる階段があった。
 階段の下から地上を見ると、地下壕からのぞいているような不思議な気分。地下鉄の階段などにある遮壁がなく、視界が左右に広いのに、まるで人がいないからだろう。なぜか、隠れているような気分になって、気配を消して息をひそめたくなるのが可笑しい。今にも地上に、ゴジラやガイラの巨大な足がズシンと地をゆるがして、現れそうな気がする。
 などと一人遊びをしているところを誰かに見つかったらカッコ悪いので、地上界に戻って宴会に参加。寿司屋は二階にある。会場の個室は細長い部屋で、屋形船にのっているような雰囲気。もとの運河の上だけにこれもいいかも。地下も階上も、色々な「見立て」ができる場所。
 都外に引越した鈴木淳史氏に、新居の様子などを聞く。
 二次会も銀座の古そうなビルの地下。文壇バーとして知られた場所だそうだ。

十二月三十日 年忘れハイドン三昧
 ハイドンばかり聴く。
 意図的にそうしたのではなく、ハイドン・イヤーで発売されたアイテムを注文しておいたら、年末に集中して届いた。
 だがどれもいい演奏なので、とても幸福。活力と躍動感こそ私が音楽に望むものだが、とくにハイドンは俊敏様式でないと、聴いていられない。
 まずはチェンバロのフィゲイレド。
 ヤーコプスの《フィガロの結婚》全曲盤での快演と日本公演以後、演奏を耳にする機会がほとんどなくてさびしかったが、このところオーストリアのPASSACAILLEというレーベルで録音を再開したようで、嬉しいかぎり。
 ヤーコプスのモーツァルトのオペラ録音や実演が、結局のところ《フィガロ》の録音以外は、もう一つ不完全燃焼のうらみがあるのは、ヤーコプスがコンチェルト・ケルン及びフィゲイレドと訣別したこと(何があったのか知らないが、フィゲイレドにとっては腹にすえかねる事件だったらしく、来日時もかれの前ではヤーコプスの名は禁句だったという)が原因では、と私は思っている。
 それからようやく録音を再開して、二枚目がこのハイドンのソナタ集四曲。歌うようなフレージングと活気に富んだリズムと音色が見事見事。一枚目のソレール作品集を買っていなかったので、あわてて注文。どんどん新録音してほしい。
 次は、十一月に来日しながら東京で公演しなかった、カザルス・クァルテットの弦楽四重奏曲集、作品三十三の六曲。これはハルモニア・ムンディ。いつものように、爽快な涼風の如き快活な音楽。
 続いて、クリスチャン・ヤルヴィ指揮トンキュンストラー管弦楽団によるパリ交響曲集(オルフェオ)。個人的には、いくつも仮面をかぶって正体を見せないパーヴォよりも、弟クリスチャンの率直な音楽づくりの方が好み。リズムに弾力のある指揮者だけに、古典派は合うだろうと思ったら予想通り。ムジークフェラインでのライヴだけに響きがほんわかとしていて、温かみと運動性の高さが両立した、気持のいい演奏。
 おしまいは、ノリントン指揮のシュトゥットガルト放送交響楽団によるロンドン・セット(ヘンスラー)。
 やっぱりノリントンは古典派がいいなあ、合うなあ、と安心して聴ける。水を得たように生き生きと、茶目っ気のある音楽になっている。かれの、いわゆるピュア・トーンは近年、ロマン派の作品だとむしろ無機的に響くように感じていたが、ハイドンだとそんな不満はまったくなく、澄んだ音色、立体的な響きが弾んで呼吸して、実にみずみずしい。
 モーツァルトの切迫感より、ハイドンの余裕の方がノリントンに合う。イギリス人ならではのユーモア感覚がぴったりなのだ。音と音の対話、やりとりを聴いているだけで愉快に、しかも満ち足りた気分になってくる。合奏協奏曲的な要素も存分に活かされている。
 発売が予定されているミンコフスキのセットも楽しみだけれど、それとは別にこれは長く愛聴盤になる。機械的な番号順でなく、一枚に三曲を演奏会風の配列(簡単にいうと、最後が百番代の大規模作品で終るようになっている)にした編集もよい。
 九十九番の緩徐楽章を聴きながら、ここ、こんなに広闊としたいい音楽だったのかと、目からウロコが落ちる。

十二月三十一日 追憶の町へ
 仙台ホテルが今日かぎりで閉店した。建替などの一時的なものではなく、完全に廃業してしまうという。
 この話を知ったのは今月のはじめ、片山杜秀さんやアルテス・パブリッシングの木村さんたちと忘年会を兼ねて飲んでいたときのことだった。
 仙台の話になり、私の母と片山さんのご母堂が同じ仙台市内の私立女学校の、二年違いの先輩後輩にあたることが判明して、不思議なご縁を喜んだりしたのだが、同時に片山さんから仙台ホテル廃業という話を聞き、ともにこのホテルに思い出をもつ者として、嘆息しあうことになった。
 このホテルの思い出は、二〇〇八年十月十一日のこの日記に書いている。東京育ちの私にとって、父母の出身地仙台にあるここは、物心ついて初めて泊まった純洋式のホテルだった。
 一九六六年から数年間のことで、当時の仙台、というより東北地方で唯一の洋式ホテルだった。いまの建物は一九六四年完成というから私の一つ下、私が泊まったころは新築同然だったわけだ(母親の記憶によれば、古い建物は駅の東側、繁華街とは反対側にあったらしい)。
 だがその十数年後、仙台駅前は急激な再開発の波にのまれた。一九七七年に駅前のペデストリアンデッキが出現、五年後に東北新幹線が開通する前後には、新しい大型ホテルが次々と建てられて、仙台ホテルは時代に取り残されていった。
 むしろ、それから今日まで三十年近く踏みとどまっていただけでも、大変なことだったのだろう。私自身、食事などで使うことはあっても宿泊は四十年近くしていないのだから、とやかくいう資格はまったくない。
 ただ、現し世での別れを惜しむのみ。

 次に仙台に行くとき、跡地がどうなっているのかわからないが、その前に立って、戸口から歩道に控え目に張り出されていた古風なテント屋根や、左側の階段を降りたところにあった店の、舶来のミニカーなどが並ぶショーウィンドウのことをしのんでみたいと思う。

 年内最後の荷物で、ネマニャ・ラドロヴィチの小品集とオリヴァー・シュニーダーのメンデルスゾーンの協奏曲集、そしてニケのドビュッシー初期作品集という、待望の新譜が到着。
 これらは年明けの楽しみに。

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