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二〇一九年
一月一日(火)年頭のご挨拶
   
 みなさま、明けましておめでとうございます。新しき年がみなさまにとりましてよき年となりますことを、心よりお祈りいたします。
 新年は、七十五年前のフルトヴェングラーに沈潜する一方で、平行弦ピアノの新たな音世界にはまっております。写真は年の瀬にかき集めた、平行弦ピアノ四人衆。
 名付けて、段違い平行弦(名付けなくていい)。
      
 左上のリスト作品集をひくファンベッケフォールトがCDのブックレットに自ら書いているように、これはベートーヴェンからショパン、リストまでの作品のための理想的なピアノのようにも思えます。音の濁らない、軽快で澄明なリストの響きは、これなら自分でも楽しめる!と嬉しくさせてくれるものでした。自分的にはシューマンも早く聴いてみたい。かなり印象が変わる予感がします。
 今年も古今東西の音楽への、好奇心と想像力の猛き翼を与えてくれる、すばらしき人々に出会えますように。
    山崎五十六(まだ数日早いが)

一月三日(木)レコード店二題
 タワーレコード渋谷店のクラシック・フロア、改装でジャズなども一緒になるそうだ。十四~十六日は、改装のために売場が閉まるのでご注意。
 最近は渋谷の街そのものがめんどうくさくて行っていなかった。改装前にN響でNHKホールに行くので、帰りを渋谷経由にして寄ってみるつもり。

 大晦日に新宿の天空の城こと、紀伊國屋書店八階のディスクユニオンに行ったら、八階のエレベーターの前に「エレベーター待ちの行列に割込みをした客が、制止しようとした店員を殴る事件が起きました。絶対にやめてください」という意味の掲示があった。大晦日は書店の方が空いていて行きも帰りもスムーズだったが、クリスマス頃はかなり混んで待たされたのかもしれない。キレやすい人間がそこらじゅうに。いやな世の中。

一月四日(金)日本録音の存在感
 マーストンのサイトをみたら、前回のラフマニノフの交響的舞曲自演に続く新譜が二点。シャリアピンの全録音十三枚組と、シドニー・フォスターなるアメリカのピアニストの録音七枚組という、大作二点。
 買おうかどうしようか思案中だが、トラックリストをみると、どちらにも日本での録音が含まれているのが興味深い。
   
 シャリアピンは一九〇二年から三六年までの全録音という。よく集めたものだが、その生涯最後の録音になったのが、一九三六年の日本訪問時の二曲である。
 もう一人のフォスターは一九一二年生まれで七七年に亡くなったピアニスト。マーストンによると「疑いもなく、その時代の最も偉大なピアニストの一人」だったが、商業録音が一枚もないために知られていないのだそう。そのかれの一九四一年から七五年までのリサイタルや協奏曲のライヴを集めてあるのだが、そのなかで目についたのが四枚目の、シューマンのピアノ協奏曲。
 一九六二年五月三日東京での録音で、共演が奥田道昭指揮日本フィルだと書いてある。来日していたとは驚きだが、しかしこういうアメリカ人ピアニストが登場するあたりは、いかにもニコラス・ナボコフとつながりが深く、親米反共色の濃かった旧日本フィルらしくて、納得がいく。
 しかも指揮者は、私と同学年だけど同業者としては大先輩である奥田佳道さんのお父上。当時は日本フィルの副指揮者だった。面白くなって手持ちの資料を引っかき回すと、正確には五月三十日東京文化会館での定期演奏会で、ほかはベートーヴェンの交響曲第一番など。奥田さんが初めて任された日本フィルの定期だったという。
 おそらくはフォスターの遺品にあった音源なのだろうが、いろいろなものが出てくるもの。

一月五日(土)正尊と弁慶、両シテ
   
 待望の国立能楽堂二〇一九年度公演ラインナップが公開される。
 まず目につくのは、四月末の企画公演二つ。
 二十五日は蝋燭の灯で、大槻文藏が復曲した『碁』。源氏物語を題材に、シテとツレ(どっちも幽霊)が碁を打つ場面があるという珍しいもの。
 さらに面白そうなのが二十七日の『正尊』。宝生流の宝生和英と金剛流の金剛龍謹、本来ならありえない、異流派の二人の顔合わせ。
 頼朝の密命を受けた土佐坊昌俊(能では正尊)が義経を夜襲して返り討ちに遭う、「堀川夜討」を題材とする大チャンバラ能だが、いかにも歌舞伎に近づきつつあった時代の作品らしいことに、シテとワキの区別があいまい。そのため、能の五流のうち観世、宝生、喜多ではシテが正尊でワキが弁慶なのに、金春と金剛ではシテが弁慶でツレが正尊と、流派によってシテが異なる、珍しい作品。
 おそらくはその食い違いを利用して、宝生の正尊と金剛の弁慶の両シテでやってしまおうという、国立能楽堂主催でなければやれなさそうな企画(どの場合でもシテが読むことになっている願書は、どちらが読むのか?)。それぞれの郎党も二流に分かれるだろうから、異流派の大チャンバラになる。これは行かねば。

 二〇一九年度はこうした顔合わせの妙がほかにもありそう。パッとわかるところでは、九月定例公演の『蝉丸』。野村四郎と大槻文藏、観世の二人の人間国宝が、シテの蝉丸とツレの逆髪で共演するということらしい。単独でも来年二月の豊嶋三千春の『井筒』とか、今年もいろいろと楽しみ。

一月七日(月)もっとよい世界で
 『いだてん』第一回を観る。これは面白くなりそうで一年間が楽しみ。今回はなんといってもクライマックス、主人公の登場場面で、勘九郎が隈取りを洗い落としながら現れる遊び心が最高だった。
   
 さて、年末年始のフルトヴェングラー三昧も終り、「レコード芸術」のための紹介記事もどうにか書きあげて送って、一段落。
 記事では内容の紹介に多くを割いたので、そこには書かなかった個人的な感想をここで。

 とにかく、一九九一年返還のオリジナル・テープを用いた音源が素晴らしかった。秒速七十七センチという速度と特殊なテープ幅、周波数特性をはじめ技術的に不明な点が多い困難を乗りこえて、約七十五年前の実物のテープそのものを再生して音源としたことが、多大の音質向上をもたらした。楽器の鳴り、空気感がしっかりと再生されることに感心したし、とりわけ協奏曲のソリストの響きが生々しく甦ることには驚いた。
 ギーセキング、マヒューラ、レーン、そしてなんといってもエトヴィン・フィッシャー。ブラームスの二番では技巧的限界もみせながら、それを補って余りあるタッチの美しさ、多彩さが再現されている。一九四二年十一月のこの演奏の直後、空襲でベルリンの自宅を破壊されたフィッシャーは、母国スイスに疎開してしまう。そして翌年秋、おそらくかれがひくはずだったと思われるベートーヴェンの四番とブラームスの二番のソリストに起用されるのは、弟子のハンゼンと同国人のエッシュバッハー。
 この二種については一九九一年テープではなく、ドイツ国内にあったダビングテープが用いられているので、音質面で損をしている部分があるにしても、それでも今回の「よい意味で静かな」、音の背後に沈黙をもつ音質で聴いてみると、技巧的にはフィッシャーをはるかに上回っているにもかかわらず、タッチの魅力において、超一流と一流との差が歴然とあらわれている。
 今回の二十二枚組は、年代順にコンサートの曲目をできるだけ(何が失われているのかも明示しながら)再現する形でつくられている。これはじつに素晴らしい構成で、コンサート内の時間の経過、コンサートからコンサートへの月日の経過を、ある程度まで感じとることができる。LP的発想で一曲ずつ人気の曲だけを聴くのでは、このセットの意義を十全には活かせないと思う。
 そうして順に聴いていって、一九四三年にいたってハンゼンとエッシュバッハーを聴いたとき、二人には悪いが、ああもうフィッシャーはベルリンにはいないのだ、と思わざるをえなかった。リヒャルト・シュトラウス風にいえば、「もっとよい世界」(*)が来るまで、フルトヴェングラーと共演することはもうないのだ、という強烈な喪失感と寂しさが、自分のなかにわきあがってきた。

 あるいはこのセットの最大の意義は、この感覚、つまり喪失の寂しさを味わえることなのではないだろうか。
 フルトヴェングラーとベルリン・フィルはいるが、聴衆のある者は戦場で、ある者は爆撃で、さらにはその後の凄惨な市街戦で、生命を失っていく。独奏者も減る。演奏会場も、フィルハーモニーもベルリン国立歌劇場も空襲で失われ、移転をくり返す。そして、演奏された曲のなかからも、録音が失われた曲が出る。最良のオリジナル・テープが失われ、ダビングを重ねたテープしか残らない曲も出る。
 ここでは、残ったもの、生き残ったものがその存在のかけがえのなさゆえに、失われたもの、この世から去っていったものの存在を、その悲しみを、強く強く感じさせる。
 我田引水を恐れずにいおう。このセット全体が夢幻能のようなものなのだ。われわれはここで、さまざまな死者の、生前の姿に出会い、その背後におぼろな幻を見、名前だけのその名を知り、喪失の嘆きをきくのだ。

 このセットのすべての演奏のなかで私がもっとも深く心を揺さぶられたのが、一九四四年十二月十二日のシューベルトの《未完成》だったことは、上のようなことを考えると、当然だったのだろう。
 とりわけ、七十四年ぶりに日の目をみた第二楽章。「神々の黄昏」が目前に迫っていることを誰もが知りながら、公然と口にすることは許されない状況下で、仮住まいのアドミラルパラストに響く、澄みきった祈りの、鎮魂の歌。
 終わらないことを、未完であり続けることを誰もが願いながら、過ぎ去っていく音楽。愛惜の楽の音。

 こんな話も、もう少し温めてから二月二十七日の朝日カルチャーセンターで話すつもり。

(*)一九四四年七月、連合軍のフランス上陸をうけ、ザルツブルク音楽祭で予定されていたシュトラウスの歌劇《ダナエの愛》初演は、直前で中止に追い込まれた。作曲者のために特別に行なわれた非公開の通し上演のあと、シュトラウスは関係者に向かってこう言ったという。「もっとよい世界で、君たちに再会したいものだ!」

一月十一日(金)戸山とアッシャー家
 早稲田大学の体育は、体育会があるものなら弓道でも相撲でも古武術でも、なんでもとることができた。
 高校は帰宅部で運動などしていなかったから、走らずにすむ弓道にしたかったが、当然ながら競争率が高く、一年のときはクジではずれて、フェンシングになった。面や剣は備品が使えたが、胸当てだけは八千円くらいで買わされた記憶がある。
 前期の練習場は文学部の先、古い体育局の建物の、四階だかにあった(後期は新築の十七号館の体育館に移った)。
 体育局の南は土のグラウンド(当時はグランドと発音していた気がする)だった。休憩になると、見るともなしにそこを見下ろし、学生仲間がホッケーか何かの授業をとっているのを眺めるのが、何となくの習慣になっていた。

 しかしそのとき、一緒に視界に入ってきて、妙に吸いよせられる、あるものがあった。グラウンドのさらに向こうの小高い崖の上に立つ、古い洋館である。
 崖からずり落ちそうなぎりぎりの位置に、林に囲まれてぽつんと建っているように見える。それゆえに妙な存在感があった。北向きの斜面なので、つねに日がかげっているような暗さがある。
 友達と話すと、何の種目であれ、体育局で授業をとっている連中は、ほとんどがその洋館の存在に気づいていた。みなどうしても目がいくのだ。そうして、その洋館を形容するのに、誰もが納得するひとつの言葉があった。
「ほら、あれだよ、あそこの、アッシャー家みたいなやつ」

 ああ、あれね、と、それでみんな腑に落ちてしまうのだった。夜空に紅蓮の炎を巻き上げて燃え、崖下に崩れおちていくイメージ。そういう、禍々しさを感じる洋館だった。
 その崖の上あたりがいわゆる戸山で、となりにかつては軍医学校、すなわち七三一石井部隊の本拠があったりした、霊感などまったくない自分でさえ異様に暗い妖気を感じてしまう、都内屈指の妙な地域だと知ったのは、それから数年後のこと。あの洋館も、それにかかわる建物だったのかどうか。たぶんいまはもう、跡形もないはず。
 我々の視覚イメージの元はたぶん、アメリカ製のホラー映画版あたりだったと思うが、その原作の『アッシャー家の崩壊』は、もちろんポーの小説。ドビュッシーがオペラ化を試みながら、ついに未完に終わった題材でもある。
   
 ハクジュホールで行なわれた青柳いづみこ主催の演奏会は、オペラ《アッシャー家の崩壊》の、市川景之による試補筆版をメインとするものだった。

ドビュッシー:
スケッチ・ブックから(1904) 青柳いづみこ
歌曲集「ビリティスの歌」(1897~98) 盛田麻央、青柳いづみこ
歌曲集「眠れない夜」(1899~1902) 根岸一郎、青柳いづみこ
交響詩「海」(1905・カプレによる6手2台版・日本初演) 森下唯、青柳いづみこ、田部井剛
– 休憩 –
■プレトーク 「音楽における恐怖への前進」 青柳いづみこ、市川景之
■未完のオペラ「アッシャー家の崩壊」(市川景之による試補筆版)
ロデリック:松平敬(バリトン)
マデリーヌ:盛田麻央(ソプラノ)
医者:根岸一郎(バリトン)
友人:森田学(バリトン)
ピアノ:青柳いづみこ、市川景之

 二十世紀に入ってからのドビュッシーの音楽には、グロテスクな官能性が強まる。かぐわしき薫りのなかに、かすかに混じる、爛れた肉の匂い、腐臭。バルトークに通じるもの。
 プログラムは《海》の珍しい六手二台編曲版の日本初演を中央に置き、その前後に歌ものがある。
 前半の二つの歌曲集、《ビリティスの歌》と《眠れない夜》は、まさにドビュッシー後期の妖しい官能美をただよわせたもの。
 《アッシャー家の崩壊》は、そこからさらに現実味を希薄にし、浮遊させ、狂気の海に漂わせたような、危ういバランスの上にある。登場人物の全員が、はじめから死者なのではないかという気さえする。おそらくはその浮遊感ゆえに、形を与えることができず、完成できなかったのではないか。
 音楽は未完だが歌詞については、ボードレールがフランス語訳したポーの作品にほれこみ、ドビュッシーは自ら台本を書いて一幕物にまとめていた。世紀転換期から新たな潮流となった一幕物オペラという凝縮された形式を、ドビュッシーも手がけようとしていたのが興味深い。近代の一幕物オペラのドラマは、狂気をその動機としていることが多いように思うが、これもそう。

 市川による試補筆の部分は、ドビュッシーの香りを感じさせつつ、過度の自己主張を控えた、謙虚なもの。四人の歌手とピアノ連弾による簡素なスタイルながら、主役ロデリックの狂気を歌う松平敬はじめ、雰囲気豊か。
 洋館などの写真とともに歌詞の日本語訳が後方のスクリーンに映しだされるのは、わかりやすくて効果的。
 ただ、耳から入るフランス語の「音」と、目から入る日本語の「意味」で頭のなかが一杯になって、なにかPCゲームのビジュアルノベルをプレイしているような錯覚に、ときに自分はおちいった。つまり、舞台の歌手やビアニストが意識の外に出てしまう瞬間があった。それでよいとも、よくないともいえる。このあたりは作品や編成次第か。
 ともあれ、実演に接する機会の限られるものだけに、得るものの大きい演奏会だった。オーケストラ伴奏版も聴きたくなる。散逸したスケッチも新たに用いたというオーレッジ再構成版によるCDが出ているので、買ってみる。やはりポー原作で未完成に終った《鐘楼の悪魔》と組み合わせ、ダブルビルにしているのも面白そう。
   
 などということをフェイスブックに書いたところ、佐伯茂樹さんから一九八〇年代の戸山の航空写真がついた、軍医学校について書いた落合道人さんのブログを教えてもらう。その画像をみると、上右の「穴八幡へ→」の文字の下にある白い五階建てくらいの建物こそが旧早大体育局だから、その手前にある「旧・化学兵器研究室、旧・軍陣衛生学教室」の建物こそが「アッシャー家」だったのかもはしれない。あるいは一九八九年の写真をみると、この建物のさらに北に小さく青緑の屋根の建物があるようにも見えるので、そちらの可能性もある。いずれにしても軍医学校そのものの建物だから、暗く不気味にみえたのも不思議はない。この写真をみていたら、慶応病院の西裏の、古く薄暗い建物群を思い出した。

一月十二日(土)音楽の窒息
 サントリーホールでヴィオッティ指揮東響によるヴェルディのレクイエム。
 あまりにテンポが遅すぎ、指揮者と背中合わせに、最前列に立たされた歌手たちが指揮者とコミュニケーションをとれないまま、音程がどんどん下がっていく(バスは音程がなくなっていた)困惑ぶりを目にするのがつらい。音楽の窒息。
 原則としてオケの退場まで拍手をすることにしているが、今日はどうにも耐えられず、終演直後に出てしまう。隣席だった知人と途中で再会。かれもすぐに出てしまったそうで、演奏についても同意見だった。とはいえ客席はわいたようだし、翌日の川崎公演は絶賛されたから、私の感想は少数意見なのだろうと思う。

一月十九日(土)耳に残るは君の声
 年が明けて今年も演奏会に通いだし、オーケストラ演奏会を十日から六回聴いているのに、どうしたことかどれも身体に入ってこない。演奏者のせいではなくて、こちらの感性にフタがされてしまっているようで、残念。
 いまのところ、自分の心が激しく反応したのは、ボストリッジが大野和士指揮都響で歌ったマーラー歌曲五曲の中の、その最後、《美しいトランペットの鳴り渡るところ》だけ。

Ach weine nicht, du Liebste mein,
Aufs Jahr sollst du mein Eigen sein.
Mein Eigen sollst du werden gewiß,
Wie's keine sonst auf Erden ist.
O Lieb' auf grüner Erden.

あゝ 泣かないで ぼくの愛しい人
年がめぐれば、きみはぼくのものになる
ぼくのものになるんだよ、きみが
この世のほかの誰でもない
みどりのこの世の愛しい人よ
(舩木篤也訳)

 緑の大地。草むす塚。耳に響く、懐かしき死者の声。
 長く生きていくというのは、死せる人の在りし日の声がたくさん耳に残っていく、ということでもある。

一月二十日(日)人形劇『サロメ』
      
 オーケストラに較べ、室内系は楽しめている。
 既に書いた十一日のハクジュホールの《アッシャー家の崩壊》に始まり、十三日王子ホールの篠崎“まろ”史紀&MAROカンパニーによる「MAROワールドVol.34」では、総勢十六人の弦楽オーケストラが溌剌として愉しい合奏を聴かせてくれた。ヴァイオリンには長原幸太と西江辰郎、ヴィオラのトップは佐々木亮と鈴木康浩など、在京オケの首席クラスがあつまる豪華版。
 しかもかれらを後見役のようにして、さらに若い奏者に即興的にソロを与えるなど、俊英を引きたて、育てようとする篠崎の姿勢が、じつに気持ちいい。
 ウェールズ四重奏団の第一ヴァイオリンで、ここでは既に中堅になりつつある崎谷直人、そして、ミュンヘン国際音楽コンクール優勝で話題の葵トリオの一員で、昨年の紀尾井のブルックナーでも素晴らしかったチェロの伊東裕など。とくに伊東は本当にうまくて音楽性豊か。リズムを刻んでいるだけで豊かな音楽が生まれてくる。すごい人が出てきたもの。
 十九日には市ヶ谷ルーテルでピアノの高橋望によるゴルトベルク変奏曲。毎年の恒例となっているゴルトベルクの旅。真摯に音楽に向きあうピアノが、回を重ねてさらに深化している。
   
 今日は東京文化会館の小ホールで、たいらじょう×宮田大アンサンブルによる『SALOME/サロメ』。人形劇俳優のたいらじょうが、自ら訳して脚色したオスカー・ワイルドの戯曲『サロメ』を演じ、チェロの宮田大率いるクラリネット、ハープ、コントラバスの四人のアンサンブルが音楽を奏でる。
 たいらが計六体の人形を操作し、声色を使いわけてすべての役を演じる、「ひとり芝居と人形劇を融合させた独自の表現方法」によるもの。人形といっても、人間より大きい点に特徴がある。胴体より下はなく、ほぼ頭と肩だけ(サロメにのみ、雪のように白い腕と手がある)。それらをたいらがもって動かしたり、スタンドにかけて立たせたりしながら、役を演じわけていく。たいらが役を憑依させるための巨大な仮面、マスクのようでもある。
 生身の人間ではなく人形が演じることで、サロメが少女、無垢な処女であることが強調されているのが面白かった。そのために白い肌に栗色の髪で、北欧かフランスなど、北方系の容姿に、あえてつくられている。頭上の白く輝く月には百合の花が描かれ、純潔の処女、聖母マリアが暗示される。
 ヨカナーンの生首に少女が口づけする場面も、人がやったらグロテスクになりすぎるだろうが、人形だと過度の生々しさを避けられる。サロメが口づけしながら首を持ちあげると、首の下から赤いバラがつぎつぎとこぼれ落ちる。ヨカナーンの血であり、処女の血でもあるもの。強い愛を象徴して、白い百合と強烈なコントラストをなす。
 最後をシュトラウス風に、サロメに兵士が殺到して一気にショッキングに終わるという形にしなかったのも、この演出のキモだろう。ヨカナーンの首を斬ったナーマンが再登場し、サロメの首を絞めたまま高々と掲げ、くびり殺す。しかしそのあとは愛おしむようにゆっくりと、遺体を横たえる。ナーマンもまたサロメを愛していたのだ。
 このナーマンという台詞がない黙役の首斬り役人の役だけは、たいらが人形を使わずに生身で演じたのも面白かった。言葉と表情のない男のみが、生々しい肉体によって演じられるのだ。
 最後、サロメは昇天していく。その死が堕地獄ではなく昇天であるとする逆転は、『ファウスト』のグレートヒェンの死のよう。天上に白く輝く、百合の花。
 宮田大率いるアンサンブルは、山本清香編曲のコルンゴルト、シベリウス、ブラームス、ショスタコーヴィチなどの名曲の旋律を巧みに用いて、ドラマを伴奏していく。シュトラウスの《サロメ》からは〈七つのヴェールの踊り〉の音楽だけ。独唱入りの部分はあえて避けたようだった。《フィンランディア》などおなじみのメロディを使うだけに俗っぽくなる危険もあったが、基本的にはうまくいっていたと思う。宮田の力強くキレのいいチェロをはじめとして、四人の演奏も見事だった。あえて高い音域の楽器をいれず、少しくすんだ幻想的な響きのなかで、ハープがじつに妖しくて効果的。
 シュトラウスの音楽を用いた〈七つのヴェールの踊り〉は、半透明のさまざまな色のヴェールをはためかせて、幻想的で美しかった。存在しないはずの人形の胸から下の裸身が、ヴェールの下に透けるように見えてくる、不可思議のエロティシズム。
 十一日の《アッシャー家の崩壊》の舞台と、不思議につながっているのも面白かった。ともに世紀末の退廃美、グランギニョル風のエログロの世界が、具体性のない想像美の世界にただよう面白さ。
 文化小でのたいらじょうの公演は、二〇一四年に古楽アンサンブルとの『メデア』、二〇一六年に宮田大のソロ独奏との『ハムレット』があったのだが、いずれも日程が合わずに行けなかったので、今回が初めて。二回公演がいずれも完売の人気ぶり。ぜひまたやってほしい。

一月二十一日(月)インタビューの日
 一日でインタビュー三件を初体験。インタビューは当然ながらインタビュイーの都合が最優先で、さらに興行主と取材社の都合もあるから、時間の融通が利く幅は少ない。だから三件となると、大概はどこかで重なって無理になるのだが、今回はレコ芸二件、音友一件と「社内案件」になったこともあり調整ができて、十二時から六時間で三件を行なう。
 まずは十二時から音楽之友社で、レコ芸の「青春18ディスク」のために、大先達にして斯界の最長老格である濱田滋郎さんのお話。田園調布育ちで久ヶ原の中学校に通い、レコードを探して大岡山の古物商で掘り出し物を見つけた、なんて話は、同じ東急沿線の緑が丘にいた自分にとっては、行動範囲が重なるのでものすごく愉しい。
「大岡山の古物商って、あの駅前から北にまっすぐ伸びる商店街とかにあったんですか」「そうですそうです」「ああ、あの商店街には他の東急沿線の駅とはちょっと違う、独特の雰囲気がありましたね」なんて、約三十年ずれているとはいえ、同じ場所の空気の思い出を共有できるというのは、なんともいえない快感。もちろんこの部分は内容が個人的に過ぎるので、記事にはならないが(笑)。
 続いて十五時過ぎに六本木のワーナーに移動、ボストリッジに話を聞く。第一次世界大戦で戦死したバターワースとルディ・シュテファン、それにワイルのホイットマン歌曲とマーラーの角笛、戦争に翻弄される人々がテーマの『レクイエム』というアルバムの話がメイン。
 はじめのうちは警戒度マックスで、それこそ塹壕の銃眼からヘルメットの下のおびえた目だけが光っているみたいな感じだったが――それでこそボストリッジらしいともいえるのだが――話をそらして《大地の歌》についてたずねたあたりから、リラックスして話をしてくれた。《大地の歌》のあの声とオケのバランスの異様な悪さについて、「この曲を歌わないことにしている」テノールから感想をきけたのは、ありがたかった。
 最後に十七時からオペラシティで、ホールのプロデューサーの鈴木学さん(都響のヴィオラ首席とは同姓同名の別人)に、自主公演の方針などについて話を聞く。このフェイスブックを読んでくださっているそうで、たいらじょうの『サロメ』はよかったですよねなどと、他のホールの話でも盛りあがる(笑)。
 終って東京文化会館小ホールに駆けつけ、アチュカロのピアノ・リサイタル。ルービンシュタイン風のぐわーんとよく響くグランドな低音と、ギターをかき鳴らすようなスペイン独特の高音の動き。

一月二十二日(火)新たな共演者
   
 翌日の夜はトッパンホールでボストリッジのリサイタル。ピアノが長年組んできたジュリアス・ドレイクから、イタリアの若いサスキア・ジョルジーニに変っているのが今回の特徴。このコンビは去年出たスイスの音楽祭のライヴを集めた十三枚組でシューマンを歌っていて(その話も昨日のインタビューで出た)、今回もシューマンとブリテン。
 伴奏者というより、呼応者として理想的な存在に思えたドレイクに対して、ジョルジーニの音楽は、よくもわるくもピアニスティック。シューマン歌曲のピアノにはそういう一面も濃厚だから、これはこれでありだと思ったし、その部分をこそボストリッジは買っているかもしれないと思ったが、シューベルトのように波動的で、軽快さが必要になるピアノだとどうだろう。若いだけに現時点では生硬に感じたが、育てていこうというボストリッジの思いなのか。
 面白かったのは、前半途中におかれたピアノソロの《子供の情景》。その前の歌曲が終わって下手の扉近くまできたボストリッジ、おもむろに左折して階段をくだって客席に降り、最前列真ん中に空いていた席に座って聴きはじめてしまった。予定された行動ではなく、たまたま空いているのに歌いながら気がついて、そこで聴くことにしたらしい。終了後、ふつうは休憩前ではない曲間の場合、カーテンコールは一回あるくらいだが、ボストリッジが座ったまま拍手しているので客もつられ、三回くらいになった。最後にジョルジーニが「まだそこにいるんですか」と困ったようにボストリッジを見たところでようやく立ち上がり、袖に入っていった。
 ほんとうは、こうした話をインタビューのマクラにできると、アーティストがリラックスしてくれることが多いので、できるだけインタビューを演奏会のあとにしたいのだが、日程的にそうなるとは限らないのが、むずかしいところ。

 終演後、演奏会仲間のある方から「フェイスブックに山崎さんが書かれている能の話、いままとめて読んでいるとこなんですよ。これからもがんがん書いてください」と話しかけられる。能の話に反応がくることは少ないので、嬉しいかぎり。十二月五日の『芭蕉』を最後に行けていないのだが、二十五日にようやく今年初の観能がある。調子に乗って、がんがん書くぞ(笑)。

一月二十四日(木)ピリオドの第九
   
 オペラシティで鈴木雅明指揮BCJの「第九」。
 一昨年、かれらが同じホールで演奏したミサ・ソレムニス同様、ピリオド楽器でこの曲をナマで聴くのは初めてだったが、じつに面白かった。
 ベートーヴェンの頭のなかで鳴っている響きには同時代を追い越している部分があり、それらをピリオド楽器でやるのはどうしても無理がある。昨日は木管の不安定さが否応なく耳につく。しかし、だからこそ明確になる、この音楽の革命性。時代の限界をぶち破ろうとする意志の力(耳が聞こえない、現場の音楽家ではないということもあるにせよ)。
 その革新性において、この作品が前年につくられたミサ・ソレムニスと兄弟作品だということを、同じBCJによる一昨年のその曲の響きと並べることで、あらためて痛感する。反戦と友愛の強烈な希求。
 しかし、ひどく対照的な兄弟。かたや伝統的な教会音楽、かたやロマン派を予告する声楽つき大交響曲。ともに神をたたえつつも、かたや知識人のための普遍語であるラテン語歌詞、かたやドイツ人のためのドイツ語歌詞。かたや複雑でポリフォニックな合唱、かたや大衆向けの平易な合唱。
 ききながら、マーラーの《千人の交響曲》は、この二曲のスタイルを一緒にして「宇宙を鳴動」させようとしたものなのかも、などと考える。ラテン語賛歌の第一部がミサ・ソレムニス、シラーの代りにゲーテを用いた第二部が「第九」。
 それにしても第二楽章、ブルックナーのスケルツォの元祖となった単調なあの音楽が、鳴りすぎないピリオド楽器の弦だと、じつに生き生きとしたものに聴こえたのは驚きだった。

一月二十五日(金)百五十年の道成寺
 国立能楽堂で能楽。
《開場三十五周年記念》
◎明治百五十年記念 苦難を乗り越えた能楽
・狂言『棒縛(ぼうしばり)』山本則重(大蔵流)
・能『道成寺(どうじょうじ)』観世銕之丞(観世流)
   
 この『道成寺』は、記念公演にふさわしい、ものすごい演能だった。いっさい間延びする瞬間のない、全員の気魄がこもった名舞台。
 竹市学の背筋が伸びるような笛に始まり、大倉源次郎の小鼓と掛け声が常ならぬ気合を込めて響きわたり、亀井弘忠の大鼓が鋭く打ち込まれて、囃子が凄まじい緊迫感をもって鳴り出してから、百十分間があっという間に過ぎ去った。そしてあっという間なのに、異様に充実した時間。
 能というのは、時間を支配してしまうことで空間の伸縮を自由自在にやってのけるものなのだと、今日ほど実感したことはなかった。
 まずそのことを感じさせたのは、能力役の狂言方、山本則俊の至芸だった。従僧役のワキの福王茂十郎に命じられて、女人禁制であることを周囲に宣言する。そのあと、ゆっくりと舞台の縁を半分ほど回る。
 しかしそのゆっくりは、ただ速度を落しているのではない。もったいぶっているでもない。普通に歩いているのに、遠くにいるのであまり進んでいないように見える感じ。距離感を狂わせることで、たった三メートルほどの移動で、道成寺の広い境内を歩ききったように思えるのだ。今まで見た能力役で、こんなことを感じさせた人はいなかった。
 そして白拍子役の観世銕之丞の登場。強い執念を露わにしたその謡い。亀井弘忠の大鼓の、辺りを払うような見事なソロ。観世宗家の観世清和が地頭をつとめる地謡は、ピアニッシモでも明快さと強さを失わない。そしていよいよ乱拍子。大倉源次郎の長く伸ばした掛け声と鼓の音がつくりだす、緊張に満ちた静止。息をあわせた銕之丞の足拍子。
 止まっているのに止まっていない。動いているのに動いていない。呼吸とリズムが時間を支配し、時間が渦を巻いて、魔術のように空間を歪ませていく。
 鐘入りの直前、銕之丞の立つ位置が左横にずれてしまい、そのまま鐘を落すと頭に当たることになりかねず、うわっと思った瞬間、大鼓と小鼓のわずかな隙間から後見役の梅若紀彰が割って入り、銕之丞の位置を直す。舞台の進行は止まることも遅れることもなく、おそらくは拍子の動きだけで(能面の極度に限られた視野では、周囲が見えないはず)銕之丞は落ちてくる鐘とのタイミングをつかんで、鮮やかに跳躍して鐘入り。
 位置の修正も跳躍も、一瞬でもずれていれば大事故だったはずだが(実際、ここで骨折などの重傷を負うシテ方も少なくない)、こうしたことさえ舞台への集中を高め、後々まで忘れがたいものにする効果となってしまうのが、傑出した演能の不思議さなのかもしれない。肩衣に長袴という、動きにくそうな礼装で俊敏に立ち回って銕之丞を助けた梅若紀彰の動きは、能そのものとともに瞼に焼きついている。肉体的な理由で銕之丞にシテを譲った梅若実も後見座にいたが、この瞬間は胸をなでおろしたのでは。
 そのあと、落ちた鐘に驚いた能力たちの場面になるが、ここも山本則俊が圧倒的な出来だった。時間稼ぎのドタバタになりかねないこの場面を、則俊はまったく力まず、ひょうひょうと、表情をいっさい動かさずに(能を直面で演じているかのように)、ゆったりとやることで、観客の興奮をいったん収めさせ、くつろがせる。それでテンポを失うどころか、逆に自然に笑いを誘い、次の場面へと流れよくつなぐ。
 そして蛇体の出現。銕之丞の蛇は、首をねじりながら般若の面を傾ける、その蛇そのもののような動きが見事だった。蛇と化した女の恐ろしさと哀しさ。もはや人には戻れぬことを、その首の動きが暗示する。
 上空では鐘がうまく固定できなくて、鐘後見たちが必死で吊り綱を結びなおしたりしていたが、終ってしまえばこれもまたこの日の舞台を忘れさせなくする、よき思い出。
 これだから観能はやめられない、とあらためて思い知らされた一夜。

一月二十六日(土)花鋏の話
 同業者でFB友達の家のつめ切りが行方不明になり、探していたところ、息子さんのプラモデルの山から発見されたとのこと。息子さんが、部品をランナーから切り離すのに使ったらしい。
 これは、多くの男性が身におぼえのあることだろう(笑)。ヤスリまでついているので便利なのだ。
 五十年前のわが家でも問題になったらしく、祖父が代りにこれを使えと、花鋏を買ってきてくれた。
 プラモデルは三十年以上つくっていないし、生け花もやらないが、コードを切ったりするのにいまも愛用している。研ぎを重ねて刃が半分くらいに減ったが、ほぼ五十年、現存する身の回りの道具のなかでも、最も古いつきあいの友達。というより、一種のお護り。
 もちろんこんなに刃が減っているのでは、護身用にはならない。ただ、この花鋏は私の指を誤って傷つけたり、落したときに刃を足にあてるとか、そういうことをまったく起こしたことがない。なので、お護りだと思っている。
   

 花鋏の「坂源」という商標をネットで検索したら、今もつくられているのを発見。二千円ちょっとらしいから高いものではないが、一九〇三年創業の三条のハサミ屋なら、そりゃいいものをつくるにきまっている。それにしても、最初はこんなにたくさん刃があるのか(笑)。
    坂源のサイトから

一月三十日(水)女装する武士たち
 国立能楽堂で定例公演。
   
・狂言『ぬけから(ぬけがら)』野村萬斎(和泉流)
・能『夜討曽我(ようちそが)』大藤内(おおとうない)辰巳満次郎(宝生流)

 曽我物の一つ『夜討曽我』は、曽我兄弟が仇の工藤祐経を狙って富士の巻狩に討ち入る直前、郎党の鬼王と団三郎兄弟に、ここで別れて母への報告に行けと告げる場面から始まる。一緒に討ち入るつもりでいた二人は反対するが、ついに説得されて形見の品をもらい、出発するところまでが前場。「忠臣蔵」の討入り後に、足軽の寺坂吉右衛門が主筋への報告のために別行動させられる場面の、原型のような話である。
 間狂言は野村万作による「大藤内」。工藤祐経が討たれたとき、同じ宿舎に遊女たちと一緒にいた神主の大藤内は、あわてたあまりに女の衣装を着て、おびえて逃げていく。これをわざわざ人間国宝が演じるのが開場三十五周年ならでは。
 後場は、仇討ちを果たしたあと、兄の曽我十郎を失って一人残った弟五郎(シテ)が奮戦し、捕えられる場面を描くもの。五郎を捕える御所の五郎丸は、女物の薄衣をかぶって油断させ、後ろから羽交締めにして捕える。大藤内と同じ女装でも、卑怯ではなく計略という差。
 作者不詳だが、シテとツレだけでワキは出てこない、芝居風の能。

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二月一日(金)ベルチャ四重奏団
 紀尾井ホールでベルチャ四重奏団の演奏会。
・モーツァルト:弦楽四重奏曲第二十二番《プロシャ王第二番》
・バルトーク:弦楽四重奏曲第六番
・メンデルスゾーン:弦楽四重奏曲第六番
   
 いちばん印象的だったのは、シャープで鮮烈、しかし金属的な耳ざわりな音を絶対に出さないバルトーク。その暗い官能性に、ドビュッシーとの相似を想う。きつくなりすぎない響きには、ナイロン弦の使用などが関係あるのだろうか。
 アンコールはベートーヴェンの第十三番の第五楽章カヴァティーナと、ショスタコーヴィチの第三番の第三楽章スケルツォ。前者では旋律を歌わせないのに生硬にならず、きわめて純度の高い音楽性を感じさせ、後者は凄い疾走感と弾力。
 その妙技に感服すると同時に、二曲ともアルファからCDが出ているものなので、今はこういうふうに、自分たちでCDの宣伝をする時代なのだな、と納得。

二月二日(土)人の絶望と意志
 東京文化会館でムーティ指揮シカゴ交響楽団によるヴェルディのレクイエム。
 最後の審判の日に人類に降りかかる災厄への恐怖と畏怖、無慈悲なまでに強大な神の威厳の前に裸でひきすえられる人間存在の、あまりの無力と矮小さを痛感させる演奏だった。
 オーケストラの響きは、鋼のように強い。しかしそこに、しなやかさと余裕があるあたり、ムーティの円熟を感じる。余裕があるからこそ、天地を覆うような圧倒的な力の存在と、その恐ろしさを感じさせる。
 同時期につくられた《アイーダ》も、政治と宗教が一体の古代王国の、戦争と国家の大義に翻弄され、押しつぶされる恋人たちの物語だったことを思い出す。
 どちらにも共通する、人の無力への絶望と、それでも自らの生を全うしようという意志。

二月七日(土)果しなき流れの果に
   
 昨日六日は新国立劇場で《タンホイザー》。非常に充実した公演とはいわないけれど、初日頃に行かれた方々の酷評から想像したものにくらべれば、かなり持ちなおしていたのではないかと感じる。回を重ねたことと、夜公演だったのが大きい気がする。みるのは昼のほうが楽だが、歌手のコンディション、全体の集中度など、オペラとはやはり夜公演向きのジャンルという気がする。合唱が特によかった。
 それにしても第三幕、ヴェヌスベルクの淫夢のさなか、「エリーザベト」という言葉をバリトンとテノールが繰り返した瞬間に、邪から聖へと、乾坤がひっくり返るようなドラマの大転換をやってのけるワーグナーは、何度聴いても本当に凄い。歌詞による描写的説明ではなく、巡礼の合唱という「音楽」を響かせることで、瞬時にそれをやってのける。
 まるで、この一瞬を十全に味わわせるために全曲が存在しているような、それくらいの、無限の時間がつまっているような瞬間。

 そういえば、二〇一七年九月にみたバイエルン国立歌劇場来日公演の《タンホイザー》、カステルッチの演出では第三幕がカタコンブのような遺体安置所になっていて、タンホイザーとエリーザベト役の歌手二人の名が記された石棺がおかれ、遺体がやがて骨と皮になり、骨だけになり、砕け、ついには砂と塵に化していく、悠久の時間の経過を執拗に描いていた。
 これはワーグナーが一瞬に、人の名を叫ぶ一瞬に招来してみせた「赦し」のときが、じつは果てしなき歳月の経過の結果であることを、神の沈黙と無慈悲を、暗示するような演出だった(二日のムーティとシカゴ響のヴェルディのレクイエムの演奏の印象も、カステルッチ演出を思い出すことにつながっている)。

 このことを思い出したから、というわけではないのだが、小松左京のSF小説『果しなき流れの果に』を、高校生以来四十年ぶりくらいに読みかえしていた。
 永遠に近い時間と宇宙的規模の空間を往来し、点と線をつないで描いてみせようという、雄大な小説。最後には、時間の果てにまで意識を飛翔させる(このことがカステルッチ演出に、私の頭のなかで接続したらしい)。
 少し前に読みかえそうと思ったときには品切れで、古本を買う気までにはなれずにあきらめていたのだが、一九六五年という執筆当時の現代を一応の起点として、一応の終点(時の終りではなく、登場人物の終り)が二〇一八年に設定されていることから、その年にあたる昨年にハルキ文庫で復刊されたらしい。
   
 むかし読んだときには気がつかなかったけれど、この小説内の物語の背後にあるのが、本土決戦を迎えることなく終戦し、東西冷戦の渦中にあった当時の日本そのものだということに、ようやく思いいたる。
 時をさかのぼり、未開の時代に潜んでゲリラ活動をする人びとは、小松左京も参加したという、一九五〇年前後の日本共産党の山村工作隊とその武装闘争を、山村という僻地から未開の時代という過去へ、つまり距離を歳月に置きかえることでつくられている。そうすることで、マルクス主義を信じる人びとが、歴史的必然であるはずの社会の進歩、「よき未来」の到来をさらに早めるために行なった活動を、悠久の時間の中で人類の進化そのものを促進させるための活動へと、スケールを巨大化させている。
 また、時代と宇宙を自由に行き来するなかで、本土決戦直前の、破滅と敗亡の予感のなかの生活も、地球と人類そのものの破滅におきかえて描かれる。
 そのなかで生き残ろうとする人びと。

『みんな──九十億の同胞の死を前に、一つの決意をしていた人たちだった。
 九十億の同胞の中からえらばれ、彼らから、その死をこえて宇宙へ伸びる意志と希望を託された人たち──九十億の「種」の遺児を託され、災をさけて、宇宙の涯へおちのび、そこに生きのびて「種」を根づかせ、まもりそだてるべき使命をになわされて、のがれることを強制された人たちだった』

 ここにある、「使命をになわされて、のがれることを強制された」という一言には、太平洋戦争の敗北のなかを生き残ってしまった当時の日本人の、死んでいった人びとへの思いが凝縮されている。後ろめたさに裏打ちされた使命感。
 昭和後半の日本社会が、その制度的な遅れにもかかわらず、いまの日本よりはましなものだったように思えるのは、生き残ってしまった、死に損なった人びとが担わされた使命感と後ろめたさが、宗教に代る倫理として機能していたからではないか、という気がする。

 そして、この破滅の直前、颯爽と現れて、お前たちを救いだしてやる、はるかに進歩した自分たちの科学の力で救いあげてやると、さも親切げに、しかし人類を見下して手を差し出す異星人の、なんともいえない、うさんくささといやらしさ。これはもう、いうまでもなくGHQとアメリカへの不信感にきまっている。
   
 だから今日、サントリーホールでヒュー・ウルフ指揮の新日本フィルによるコープランド演奏会を聴けたのは、最高の巡り合わせだった(笑)。
 大戦中、演奏会に来た聴衆を鼓舞するためにつくられた《市民のためのファンファーレ》と、それを効果的に使用して凱歌とした交響曲第三番。アメリカ民主主義の正義を高らかに振りかざす、勝利の音楽。武満徹の《波の盆》組曲の、神の軍隊のそれのように輝かしい、スーザ風の行進曲も連想する。

 『果しなき流れの果に』の再読で、気がついたことはもう一つ。この物語の骨格は能の『邯鄲』なのだということ。
 粟飯が炊けるわずかな時間のうちに、栄耀栄華をきわめる五十年間の夢をみて我に返るのが、『邯鄲』の物語。『果しなき流れの果に』の主人公の場合は、時空を旅して、ついには時間と空間の概念をこえた超未来、超意識の世界を知るにいたる。そこから現在の日本に「強制送還」されると、五十年の歳月が経過している。そして、最後にかれは言うのだ。

「それは長い長い……夢のような……いや……夢物語です……」

二月八日(金)野村四郎と山本東次郎
   
 水道橋の宝生能楽堂で銕仙会の例会。
・能『花月』野村四郎、工藤和哉、山本東次郎
・狂言『引括』山本則孝
・能『誓願寺 乏佐之走』鵜沢久、森常好、山本則重

 『花月』はシテの野村四郎が一九三六年生れ、ワキの工藤和哉が一九四三年生れ、アイの山本東次郎が一九三七年生れと重鎮揃い。シテとアイは人間国宝。
 昨年十一月の桂諷會で十三歳の長山凜三が演じたように、若者もやる『花月』のシテを、演目的にはシテ方の到達点ともいうべき「三老女」まで披いた四郎がやるというのがみたかったし、しかもアイに一歳下の東次郎が出るというのが楽しみだった。
 四郎と東次郎は共演することが多いようで、後述のように対談本も最近出た。戦後以来の能楽の転変のなかに身を置いてきた二人の芸。シテが登場して、扇で顔を隠したアイと戯れる箇所は、やはりある種の「爛れ」が暗示されていて面白い。もちろん二人はそれを坦々とやる。
 もう一つの『誓願寺』は世阿弥作で、シテが和泉式部の霊でワキが一遍上人というもの。
   
 家に帰ってから、四郎と東次郎の対談本『芸の心』(笠井賢一編/藤原書店)を読む。
 どちらも狂言方の家に生れながら、大蔵流山本家の長男として生れ、跡取りとして芸と心構えを父に仕込まれた東次郎と、和泉流野村家の四男で、十五歳のときにシテ方になることを望んで観世流宗家に入門した四郎、立場の微妙なズレがそこかしこに出て面白い。能と狂言の家の跡取り同士の対話だったら、こうはならないだろう。
 四郎の「結局は観世寿夫という人が何か我々の、知らず知らずに我々の心を動かしてきたのじゃないですか。ですから、私は戦後の能界の救世主と言ってるんですよ。確かに救世主。お囃子方も、狂言もみんな、ワキもみんな、それから流儀を超えて、非常に影響を与えたということでは、彼なくして今の能はないのかもしれない」という言葉に象徴されるように、この世代の能楽師にとっての観世寿夫という存在の巨大な影も、やはりそこかしこにあらわれる。
 古典芸能のありかたについて印象的だったのは、次のやりとり。長いので抜粹しながら。

山本「能・狂言の芸というのは、やはり死ぬまで何か追い求めていくようなものじゃないといけないと思うんです」
野村「永遠に未完成なんだとかね(略)古典というとただ古くて完成されたというイメージになる。私は伝統という言葉が大好きです」(略)
野村「伝統というのは要するに過去、現在、未来です。この全部が集まって、過去も現在も未来も集まって伝統になる。これが伝統の定義だ」(略)
山本「書物と違って、生きてるんですよね」
野村「そう、生きてるということなんですよ。東次郎さんも、私もそれぞれに伝統という荷物を背負って生きている。とりわけ東次郎さんは代々の狂言の大きなものを背負っていま歩いてます。それで、未来へ向かってます。前のものを背負いながら現代を生きて、次の世代に受け渡していこうと」(略)
山本「習い覚えてきて身についたもの、それはある意味預かりものなんですよ。祖先からの。習ってきたものを先人に恥じないようにやらなきゃいけないということが、どこかにないといけないと思ってるんです。家の舞台で稽古してると父や祖父の眼がいつもあるような気がして否応なしに追い込まれていくんですね」

二月九日(土)ハンス・ロットの交響曲
 紀尾井ホールとNHKホールの演奏会をはしご。
 まずはライナー・ホーネックと紀尾井ホール室内管弦楽団の弦楽合奏プロ。
・クープラン:パルナッスス山もしくはコレッリ讃
・バッハ:ヴァイオリン協奏曲第一番
・ヴォーン・ウィリアムズ:トマス・タリスの主題による幻想曲
・武満 徹:弦楽のためのレクイエム
・ストラヴィンスキー:ミューズを率いるアポロ

 《タリスの主題による幻想曲》ではオーケストラを二群にわけ、各パート二人ずつのオーケストラを最後列に横一線にならべ、メインのオーケストラは、首席が時に応じて弦楽四重奏を担当し、オルガンの三段鍵盤を模倣するスタイル。
 《ミューズを率いるアポロ》は夢幻的に美しいが、美しすぎて眠気に誘われるのが困りもの(笑)。

 夜はパーヴォ・ヤルヴィとNHK交響楽団。
・R・シュトラウス:ヴァイオリン協奏曲(独奏:アリョーナ・バーエワ)
・ハンス・ロット:交響曲第一番

 後期ロマン派の若き作曲家たちによる二曲。眼目は、二歳下のマーラーに大きな影響を与えたロットの交響曲を、N響の演奏でナマで聴けること。
 『エデンの東』のテーマを想わせる、ニニ・ロッソ風のトランペットのソロに始まる、四楽章の長大な交響曲。第三楽章はマーラーの「元ネタ」になった。
 終楽章では、ブラームスの交響曲第一番終楽章風のテーマが弦楽で奏される。面白いのは、この主題を用いていったん大団円になったようになりながら、第一楽章を回想しながらあらためてコーダをつくりなおすこと。ここはワーグナーやブルックナーの影響が濃くなるが、それはそれとして、マーラーの《巨人》の終りが終りそうになってまた始まるのは、ロットの影響なのだろうか。
 二十二歳でこの曲を完成させ、ブラームスに見てもらうが酷評され、精神のバランスを失って二十五歳で病死したという。執拗に鳴らされ続けるトライアングルの響きが不気味。
 ワーグナーなど新ドイツ楽派のサウンドなのに、純粋音楽にこだわっているのは、生まれ育ったウィーンがブラームスとハンスリック、純粋音楽の牙城だったためだろうかなどと思う。その分裂。
 若きマーラーが《巨人》を交響詩とするか交響曲とするかで迷ったことも思い出す。

二月十一日(月)想像の余地
 国立劇場の小劇場で文楽公演をみる。
 文楽もときどきはみたいと思っているのだが、多くは二部構成で各部が五時間弱かかるので、その長さに腰がひけてしまう。しかし今回の二月公演は三部構成で、各部が二時間半~三時間と短く、慣れない人間にもよさそうなので、十八時開演の第三部に行くことにした。
・『鶊山姫捨松(ひばりやまひめすてのまつ)』 中将姫雪責の段
・『壇浦兜軍記(だんのうらかぶとぐんき)』 阿古屋琴責の段

 前者は王朝時代、後者は源平時代の人物の伝説を元に、長い物語に仕立てたもの。中将姫と悪七兵衛景清、それぞれの主人公は能の『当麻』と『景清』と共通している。
 一体の人形を三人がかりで操作して、人間の動きを細やかに再現していく。その凝りようがすごい。今夜の二本は雪責(ゆきぜめ)に琴責(ことぜめ)とあるとおり、どちらもヒロインが拷問を受ける場面がみどころになっている。
     

    三枚の写真はすべて、「平成31年2月文楽公演特設サイト」から

 「中将姫雪責の段」では、雪の庭にひきすえられた中将姫が、男二人に棒でしばかれる。高貴な美女があられもない襦袢姿にされて下郎に折檻される、サディズムとマゾヒズムが入り混じった、陰湿なエロティシズム。
 美女が苦しみに身を引きつらせ、息も絶え絶えになるさまを、人形で克明に再現する。人間が演じたら残酷すぎる場面を人形がやることで、妖しいエロティシズムがただよう、その作用の妙。中将姫の人形遣いは吉田簑助。
 「阿古屋琴責の段」の拷問のしかたは違い、景清の恋人阿古屋が琴、三味線、胡弓の三つの楽器を次々と演奏させられるもの。歌舞伎では女形が自分で三曲をひき、歌ってみせるのがみせどころで、玉三郎の十八番だが、人形浄瑠璃では一人の三味線方が三曲をひきわける(今回は鶴澤寛太郎)。そしてその演奏に合わせて、桐竹勘十郎が遣う人形の手が、まったく同じように、ひいているように細かく動くのが素晴らしい。左目で舞台の人形、右目で出語り床の三味線方をみながら、その見事なシンクロにひたすら感服する。さらに太夫が歌いだせば、人形も同じように頭と身体を動かす。そのこだわりの妙。
 阿古屋の胡弓の響きに引きこまれて、詮議役の岩永の身体が動き出し、火鉢の火箸をつかってひき真似をするところなども、芸が細かくて楽しい。
 こうした細部への、徹底した職人的なこだわりこそ、どんな仕事にも大切なものだなと、自戒を込めて思う。
 なお浄瑠璃語りは「中将姫雪責の段」では二人が一人ずつ語って途中で交代したのに対し、「阿古屋琴責の段」は各人の役を五人が分担する「掛け合い」で、やり方が異なるのも面白かった。
   

 帰宅後、「阿古屋琴責の段」はCDが家にあったはずと探すと、「花もよ」が出した「豊竹古靱太夫 名演集(3)」に入っていた。
 大正十三年にニットーが出したアコースティック録音のSP十三枚組で、古靱太夫(のちの山城少掾)が重忠、三味線は豊澤新左衛門、三曲は竹澤団六、といった出演者によるもの。
 こういうものは一度実演で動きを知っておくと、聴くだけでも充分に楽しめるようになる。
 というよりさらに進んで、家で楽しむときは映像つきよりも、情景を脳裏に描きながら音で聴くほうが、よほど楽しめたりするのが、目と耳の感覚の玄妙なところ。想像の余地があるほうが、味わいはより深くなるのだろう。俳優と人形の生々しさのズレというのも、似ているのかも知れない

二月十五日(金)ハイドンの代表作
   
 すみだトリフォニーホールで、ソフィ・イェアンニン指揮新日本フィルの演奏会。ハイドンのオラトリオ《四季》を栗友会合唱団などとの共演で聴く。
 イェアンニンは、BBCシンガーズの首席指揮者をつとめる、スウェーデン出身の女性指揮者。
 《四季》は《天地創造》に較べると演奏も録音も少なく、実演で聴くのはもちろん初めて。
 題材が旧約聖書の有名な物語などではなく、登場人物が平凡な農民たちで英雄豪傑の類ではないというのが、なんとなく地味な印象を生むのだろう。
 しかし、その音楽は充実した自然讃歌で、とても聴きごたえがある。飽きさせないように、後半に音楽のスケールを大きくして単調さを免れる展開など、ハイドンの熟練の筆が光っている。マイナーどころか、代表作というにふさわしいものだと実感。

二月十七日(日)式能と翁
   
 国立能楽堂にて式能をみる。
 式能とは能楽協会の主催で、能が幕府の「式楽」(公式音楽)だった時代の番組編成の伝統を受け継ぐもので、『翁』に始まって神男女狂鬼の五番能を五流が分担、合間に四つの狂言がはさまるという、一日がかりの大規模な演能。
 五番能は、戦前まではけっこうあったというが、現代は各流派の定期は三番か二番、国立能楽堂の主催公演は一番で、四番あるのは少ない。自分の集中力では能二番がいいところなので、五番はとても無理と思っていたが、式能は半分ずつ第一部と第二部に分けて売られていたので、第一部に行くことにした。
 昭和三十六年に始まって、第五十九回だという。
第一部
・『翁』翁:観世清和(観世流)、三番叟:野村萬斎(和泉流)
・能『嵐山 白頭』観世恭秀(観世流)
・狂言『末広かり』野村万作(和泉流)
・能『生田』髙橋忍(金春流)
・狂言『鬼の継子』山本則俊(大蔵流)

第二部
・能『祇王』大坪喜美雄(宝生流)
・狂言『謀生種』野村萬(和泉流)
・能『枕慈童』大村定(喜多流)
・狂言『長光』茂山千五郎(大蔵流)
・能『綾鼓』種田道一(金剛流)

 第一部は十時~十四時三十五分、第二部は十五時~十九時二十五分。途中に入れ替え二十五分と休憩二回計五十五分をはさんで、正味八時間五分。通し券も完売だそうだから、全部みるという猛者も少なくないらしい。
 自分にとって最大の目当ては、『翁』をやっとみられるということ。各流派とも必ず年始に取りあげるのだが、どうもタイミングが合わなかった。
 神事性、呪術性を強く残し、特定の筋書きをもたないので、『翁』は「能にして能に非ず」といわれる。
 全員が素袍長裃に侍烏帽子という最高級の礼装で、翁の観世清和も三番叟の野村萬斎も直面で登場し、舞台で面をつけるという、ほかの作品にはありえない形式。小鼓が三人いるのも『翁』だけ。祓い清めるような気魄で、清々しい緊張感が場にひろがる。そのまま脇能の『嵐山 白頭』へと続く。
 この翁とは何者かを考えるのが、猿楽の起源とも結びつけられて、民俗学などでは面白いところらしい。しゅくしん、すなわち宿神、守宮神、夙神。さらには後戸の神、摩多羅神、秦河勝、などなどが翁の正体といわれ、中世日本の影の、謎めいた世界の表象となる。
 『翁』の不思議な魅力にはまる人がいるというのも納得。いろいろな流派でみてみたい。

二月二十日(水)和歌の道こそ、めでたけれ
 能とオペラのはしご。和歌をキーワードに、両者が緩くつながるのが快感。
 まずは十三時から、国立能楽堂の定例公演。
 毎年二月は「近代日本画と能」という特集ときまっていて、上村松園や前田青邨などの画の題材となった能が上演される。今日のテーマは上村松園が一九三七年に描いた『草子洗小町』。
・狂言『末広かり(すえひろがり)』茂山逸平(大蔵流)
・能『草子洗小町(そうしあらいこまち) 替装束』武田宗和(観世流)
     プログラム掲載の松園の画

 狂言の『末広かり』は、三日前に同じ場所での「式能」で、和泉流の野村万作と深田博治のコンビでみたばかり。筋書も台本もほぼ一緒だが、手法が決定的に異なる。
 和泉流はさまざまな動作を、シテとアドがまったく同じに繰り返すのに、大蔵流では初めは説明するだけで、二回目に動作をつけるというようにして、大きな動きは各一回にしぼってある。二度繰り返す和泉流が、いかにも「古典芸能」らしいくどさ、古めかしさなのに対し、大蔵流は近代的。当然ながら、現代人には大蔵流のほうが素直に受けとれる。

 『草子洗小町』は、小野小町をシテとするもの。能には小町ものというジャンルがあるが、ほとんどは貧窮した老婆か亡霊となって現れる話。そのなかで、宮廷で華やかに活躍した歌人時代の小町が登場する、数少ない作品。
 六歌仙から小町と大伴黒主、古今和歌集の撰者が紀貫之と凡河内躬恒、壬生忠岑の三人、それに官女二人、子方が演じる醍醐帝と、華やかに着飾った八人が登場し、宮廷の栄華を再現することから、人気のある能。和歌と漢籍に明るい教養人が、楽しみながら伸び伸びとつくった話という雰囲気で、あまり古い時代の作品ではなさそうな気がする。
 天皇主催の歌合で、黒主(ワキ)は小町と競うことになったが、とても勝てる自信がない。そこで前日に小町の家に忍び込み、小町が歌合に用意した歌を盗み(ベックメッサーみたい)、あらかじめ萬葉集に書きこみ、古歌を盗用したと難癖をつけようという計略をたてる。
 黒主の思惑通り、歌合で小町は窮地に陥るが、字の乱れと墨跡の新しさに気がつき、草紙を水で洗うと、黒主が書いた字だけが流れ落ちて、小町の無実が証明されて勝ちとなる。
 恥じて自害しようとする黒主を、小町は「道を嗜む志、誰もかうこそあるべけれ」と押しとどめ、帝も賛同する。小町が喜びの舞を舞って、終り。
 小書の「替装束」では装束が普段より華やかになり、小町が草子を洗うところでは唐織を脱いで肌着姿になってみたりする。舞では烏帽子をつけ、白拍子風になるのが中世風。
 おしまいの詞がいい。
「花の都の春も長閑に、和歌の道こそ、めでたけれ」

   
 そして夜、新国立劇場で西村朗作曲の『紫苑物語』。都響がピットに入ったオーケストラの響きは豊麗。ずりあげるような歌いかたのシュプレッヒシュティンメは、まあこれが現代オペラの歌唱法の定型、ということか。
 「とうとうたらり…」と、能の『翁』冒頭の詞で始まるのが、これも「式能」でみたばかりだっただけに、個人的には愉快。
 ただ、全体として石川淳の原作とは文体がかなり異なるのが、どうしても気になる。元が戯曲ではない小説だから、少ない台詞は補わなければならないし、オペラとして変えていく必要があるのはわかるが、どちらも日本語であるだけに気になってしまう。ゲーテもシェイクスピアも、気楽にオペラにしているのはフランス人だったりイタリア人だったり、母国語が違う人だというのを連想したり。
 すでに何人かの方が指摘していることだが、平太の登場が原作に比べて遅すぎるのではないかというのは、自分も感じた。音楽面では、松平敬さんがホーミー風の歌唱も駆使して平太の呪術師的な印象を強烈に描いてくれたけれども、ドラマ構成としては弱すぎる感じ。
 それは、オペラでは岩山の向うの、浄土に似た楽土の存在を、すっぱりと捨ててしまったためなのだろう。
 原作では、最後に主人公宗頼は、岩に掘られた鬼の首と化して、ついに向こう側に入り込むのだが、オペラにあるのはあくまで現世、此岸だけで、彼岸はちらりと見えるだけ。藤内が向こう側から来た、堕落した存在であることも、オペラでは省略されていた。そして平太も此岸の人間のように思える。
 だが平太は違うはずだ。和歌をきわめて「知」を、弓をきわめて「殺」を、千草を得て「魔」にいたった主人公宗頼が最後に対決するのが、この平太。
 知をもつ父に対しては殺を、殺をもつ弓麻呂に対しては魔をもって倒してきた宗頼に対して、平太はよく似た強大な力を持つが、正反対の存在。高い岩山を境にした、正反対の楽土の代表。打ち消しあって、一体化して、楽土に落ちる。
 その楽土を放棄したことが、此岸にあきたらなくなった宗頼が見ようとしたものを、時空を超えた拡がりを、此岸だけの小さな世界にしてしまった気が、自分にはする。

 原作で印象に残った言葉。
「紫苑は年ごとに冬は死んでもつぎの秋にはまた生きかえる。ほとけだちは岩とともに変らない」

二月二十三日(土)松風がみたもの
 国立能楽堂の普及公演。土曜午後の普及公演はポピュラーな作品を取りあげ、最初に三十分の解説「能楽あんない」をつける。
 今日は《月間特集・近代絵画と能》に合わせ、国文学研究資料館副館長の小林健二の「画家はなぜ能を描くのか」。続いて、
・狂言『腰祈(こしいのり)』松田髙義(和泉流)
・能『松風(まつかぜ) 見留』今井清隆(金剛流)
     プログラム掲載の小林古径の『松風』(1948)

 『松風』は名実ともに能を代表する、世阿弥の人気作なのだが、どういうわけか三年間の観能歴ではうまく出会うことができず、これが初めての鑑賞。
 たしかに傑作だと納得。映像ではみていたし、昨年の細川俊夫のオペラ版上演に先立って、国立能楽堂で一月に行なわれた会で、観世銕之丞が汐汲みと狂瀾の場を舞囃子形式で舞うのもみていたが、やはり面と装束をつけた全曲が目の前で演じられると、ドラマがこちらに迫ってくる力、心象風景が浮かびあがる力がまるで違う。実演経験の重要さを、またも痛感する。
 それにしても、いまさらながらに世阿弥の作能の凄さ。シテ、ツレ、ワキ、地謡が歌い交わし、時空を超越したような一つの風景を形成していく。
 詞の美しさと結びついた、音楽性の高さ。本当に美しい「音楽」。前半の長大な「汐汲み」で、それを堪能させる。

シテ「面白や馴れても須磨の夕まぐれ、海人の呼び声かすかにて」
ツレ「沖に小さき漁舟の」
シテ/ツレ「影幽なる月の顔。雁の姿や友千鳥。野分汐風いづれもげにかかる所の秋なりけり。あら心すごの夜すがらやな」

地謡「さしくる汐を汲み分けて、見れば月こそ桶にあれ」
シテ「これにも月の入りたるや」
地謡「うれしやこれも月あり」
シテ「月は一つ」
地謡「影は」
シテ/ツレ「二つ」
地謡「満つ汐の夜の車に月を載せて、憂しとも思はぬ、汐路かなや」

 そして後半、ワキの僧が一夜の宿を借りた海女の姉妹、松風(シテ)と村雨(ツレ)がこの世の人ではないこと、かつて二人を愛した在原行平が都に去ったまま亡くなり、再会せずに終ったために妄執が残り、成仏できないことが明かされる。
 行平が去りぎわに残した、形見の立烏帽子と狩衣を取り出し、こんなものがあるから忘れられないのだと捨てようとしても、思いが募って捨てることができないという松風の思いを、地謡が謡う。
 ここでシテの今井清隆がした、狩衣に面をこすりつけんばかりの動作に込められた強い思いの表現に、グイッと一気にドラマに引きずり込まれた。
 能における感情表現は、泣くことを表すシオリという動作に代表されるように、基本的には暗示的に象徴化され、直接的なものではない。ところが、そこに一瞬リアルな表現が加わると──抽象の皮膜を具象の槍が突き抜いてくると、ドラマが突如として生彩豊かに、しかし下品に堕すことなく、澄みきったエロティシズムの狂気で、脈うつように息づきはじめることがある。
 今回の『松風』では、まさにこの一瞬に「それ」が来た。花が開く瞬間──風が吹く瞬間。表情の動きがないはずの面が泣く。悲しみと妄執を露わにして、想像力の帆に風を与える。十一日にみた人形浄瑠璃の、あの人間ではないがゆえの、生々しい動きにも通じるもの。

シテ「宵々に脱ぎて我が寝る狩衣」
地謡「かけてぞ頼む同じ世に、住むかひあらばこそ忘れ形見も由なしと、捨てても置かれず取れば、面影に立ち増さり、起臥わかで枕より、あとより恋の責め来れば、せん方涙に、伏し沈む事ぞ悲しき」

 「起臥わかで枕より、あとより恋の責め来れば」なんて、なんとまあエロティックな言葉。松風は何を思ったか、立烏帽子と狩衣をを自らの身にまとう。

シテ「三瀬川、絶えぬ涙の憂き瀬にも、乱るる恋の淵はありけり」

 こんな恋歌が書けるだけでも世阿弥は凄い。『草子洗小町』に出た紀貫之や六歌仙、『紫苑物語』までをつらぬく、やまとうたの力。
 そして松風は、松の陰に、行平の姿をみる。

シテ「あらうれしやあの松陰に、行平のお立ちあるが、松風と召されさむらふぞやいで参らう」

 ここは、実際の能でみて、初めて意味がわかった。
 見所(客席)にいる私とシテのあいだに、作り物の松があるからだ。そのためにこの詞のとおり、本当に松の陰に行平(の格好をした松風)の姿が、私の視界に入ってくるのだ。
 狂気が生んだ幻影が現実化する。この世のものではないものが、そこにいる。
 狂った亡霊が目にしたものを自分もみさせられてしまう、視野を共有させられる、気味の悪さ。サキの傑作短編『開いた窓』を子供の頃に読んだとき、背筋がゾーッと寒くなったあのラストを、一瞬に思い出す(いまだに「フランス窓」と聞くと、不吉な感じがしてしまう)。

 そのあと、松風は松を抱きしめる。ここもためらいなく、本当に作り物の枝に袖を密着させ、リアルに抱きしめる。
 そしてこの物語のヒントになっている行平の古歌「立ち別れ、稲葉の山の、峰に生ふる、松とし聞かば、今帰り来ん」を謡いながら、「それは因幡の遠山松」、それは因幡の遠い山の松の話で、須磨の行平は今ここにいるぞと、松の周りを回る。
 このとき、舞台端とのわずかな隙間を走り抜けようとしたシテの袖が作り物の松に当たり、引きずって半回転させてしまったのだが、これも、それだけの覚悟でシテがぶつかっているからこそ、松風の哀しい狂気が伝わってくる。
 能は安全運転ではつとまらない。命懸けでやるのだというシテの気魄が、舞台に真実をもたらす。狩衣に友千鳥が描かれて、夜の浜の光景を暗示したのも、まことにお見事。

 ところで、私が読んだサキの『開いた窓』、気になってネットで調べると、どうやらこれらしい。
少年少女講談社文庫(ふくろうの本)
『怪談 ほか』小泉八雲ほか/保永貞夫 ほか訳
「魔のトンネル」ディケンズ/白木茂訳
「耳なし芳一」小泉八雲/保永貞夫訳
「むじな」小泉八雲/保永貞夫訳
「鳥取のふとん」小泉八雲/保永貞夫訳
「店をまもる幽霊」ビアス/白木茂訳
「さるの手」ジェイコブス/白木茂訳
「ひらいたまど」サキ/都筑道夫訳
「吉備津のかま」上田秋成/保永貞夫訳
「すいか」岡本綺堂/保永貞夫

 これの「ひらいたまど」の訳は素晴らしくて、その後に読んだ他のいかなる訳よりも怖かったという記憶があるが、都筑道夫だったか。和洋の怪奇譚が混じって、「ひらいたまど」のあとに「吉備津のかま」が続くという不思議さも、たしかにおぼえている。司修による銅版画みたいな挿絵も怖かった。
 もういちど読んでみたいが、一九七二年発行と古い少年向けの本の常で、よい状態で現存するものが少ないのか、ネットではみつからない。
 青い鳥文庫で一九八三年に同一内容で出ていて、こちらは買えた。しかし司修の挿絵の点数が――特に恐い絵が――減らされているようで、残念。
      

二月二十四日(日)ついさきの歌声は
 ドナルド・キーンさん逝去の報。
 ご著書の『ついさきの歌声は』に出会わなければ、メルヒオールをはじめとする戦前メトの歌手や指揮者に興味をもつことは、なかっただろう。なかったら、たぶん今の仕事で生きていくことにもなっていない。だから、どれほど感謝しても、感謝しきれない。
 『ついさきの歌声は』を初めて読んだのはたぶん一九八二年。当時の家の近くの緑が丘図書館においてあったから。むさぼるように読み、未知の世界を知り、借りるのでは飽き足らずに(自分以外に借りる人間などいなかったから、ほぼ占有できたとはいえ)のちに購入した。
 お目にかかれたのはただ一度、「モーストリー・クラシック」の企画で、二〇一〇年十二月二十九日にご自宅にうかがって、お話をうかがったとき。あつかましく手元の『ついさきの歌声は』をもっていき、サインをお願いすると、快く日本語と英語で書いてくださった。
 東日本大震災の、二か月と少し前のこと。それはもはや、昨日の世界。
   

二月二十七日(水)福島章恭さんの指揮
   
 福島章恭さん指揮の「ブラームス ドイツ・レクイエム特別演奏会」。しかし会場をオペラシティ・コンサートホールと勘違い。腹ごしらえをして、ホール近くまでいくと真っ暗。
 しまったサントリーホールだと気がつき、地下鉄を乗り継ぐが、着いてみると休憩になっており、前半のジークフリート牧歌を聴きそこねる。
 ロビーで会った友人知人を苦笑させながら席に着くと、正面のP席を通路まで埋めつくす大合唱団、ヴェリタス・クワイヤ・ジャパンがすでに着席している。たしかにこの人数が開演後に入場したのでは演奏開始までに何分もかかってしまうから、この手は正解だろう。
 福島さんが入場して三百人の合唱団が一斉に規律すると、そのあまりの視覚的な迫力に、自分も周囲も、思わず「おおー」と嘆声をもらす。そして演奏開始。
 オーケストラは福島さんの盟友崔文洙をコンサートマスターに、在京のプロ奏者を揃えた東京ヴェリタス交響楽団。
 メンデルスゾーンやシューマンが目指した「ドイツ国民音楽としてのオラトリオ」のなかで、最も成功した作品であるドイツ・レクイエム。だからこれを大編成の市民合唱が歌うのは、歴史的文脈として正しい。合唱指揮者、指導者として優れた手腕をもつ福島さんが自ら指導した合唱だけに、大人数でも混濁することなく、レガートでゆったりと、流れるように響く。第六楽章の後半、ヨハネ黙示録による力強いフーガが、全曲のクライマックスとなった。平井香織と与那城敬の独唱も美しく、心の温かくなるコンサート。

二月二十八日(木)怨霊、孑孑、獅子
 国立能楽堂の特別公演。
《月間特集・近代絵画と能》
・仕舞『船弁慶 キリ』片山九郎右衛門(観世流)
・新作狂言『孑孑(ぼうふり)』三宅右矩
・能『石橋(しゃっきょう)』塩津哲生(喜多流)
   
 仕舞と能はともに前田青邨の絵と結びつけられたもので、『船弁慶』は『大物浦』、『石橋』はチラシに使われた『出を待つ』に描かれた題材。新作狂言は九世三宅籐九郎(六世野村万蔵の弟)の作で、ボウフラの勢力争いを描いたもの。右矩はその孫。
 『石橋』は後場が歌舞伎の『連獅子』の原型となったもの。後シテの塩津哲生が白獅子、ツレの狩野了一が赤獅子。
 前場では、ワキの寂昭法師(森常好)が前シテの樵翁と、浄土へ通じる狭い石橋をめぐって問答をする。きわめて観念的で動きがなく、ここを省いて後場だけの半能にすることが多いのも納得。

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三月二日(土)文藏の義経
   
 観世能楽堂で「大槻文藏 裕一の会」をみる。
・能『屋島 大事 奈須与市語』大槻文藏
・狂言『鈍太郎』野村萬斎
・能『石橋』大槻裕一

 このほかに観世三郎太と観世淳夫、観世清和と観世銕之丞と、観世宗家と銕之丞家の当主と嫡男の仕舞。地謡も両家の若手を重鎮がまとめる編成で、文藏と裕一それぞれの世代に合わせた形。三役の顔ぶれもおおむね同様。
 大槻文藏の『屋島』が、いまさらいうまでもない美しさ、儚さ。小書の「大事(だいじ)」は、前説の馬場あき子(舞台にあえて上がらず、その脇でしゃべったのが印象的)によると、珍しいものらしい。変化が生じるのは後場で、まずは小鼓が使う床几と、通常はシテが使う葛桶を交換してシテが床几に座る。そして「弓流し」と「素働(しらはたらき)」の二つの小書をあわせて舞う。弓に見立てた扇を落とし、ひらひらと波に漂うように動き、刀を抜いて、平家の兵が舟から伸ばす熊手を切り払う動作をする。
 アイの野村太一郎が、大物の「奈須与市語」をあせらずに堂々と語って見事。
 『石橋』は二日前に国立能楽堂で塩津哲生(喜多流)をみたばかりなので、違いが面白い。あちらの前シテはベテランらしく木こりの老人だったが、今日は若い大槻裕一なので童子姿。一昨日はシテとツレ二人の獅子の連舞だったが、今日は一人だけ。
 いずれにしても、とにかく観念的な、超越的な仙境をイメージして楽しむ作品で、世阿弥の夢幻能とはまるで別の世界なのが面白い。

三月三日(日)対向配置の祖型
   
 新宿文化センターで日本オペラ協会公演のなかにし礼作・台本、三木稔作曲のオペラ《静と義経》をみる。昨日の『屋島に続く義経もの。
 ともに源義経が主役だが、六百年の歳月を隔てているのが愉快。後者は日経新聞に評を書く。「義経と静」ではなくて静が先にきているのがミソ。能の『吉野静』と『二人静』もまたみたくなる。特に後者の「思い返せば、古(いにしへ)も、恋しくもなし、憂き事の、今も恨みの衣川」の詞が、頭に浮かぶ。

 五時の終演後、急いで都営大江戸線に乗り、神楽坂の音楽の友ホールで五時半に始まる「エンリコ・オノフリ~輝くヴァイオリン、イタリアバロックの栄光」に向かう。
 音楽の友ホールの演奏会など、いったい何年ぶりやら。しかし出口を適当に出て適当に進んだら、これが大間違い。道に迷って遅れ、先月二十七日に続いてまた前半を聴きそこねる。

 というわけで後半、ウッチェリーニとカストロ、コレッリによるソナタなど四曲しか聴けなかったが、とても面白かったし、示唆に富んでいた。
 ソロではなく、ロゼッラ・ポリカルドのチェンバロを中央に、ヴァイオリンが二人。オノフリが下手側、杉田せつ子が上手側で共演する。
 同種の楽器二梃の合奏というのは、バロック期、古典派まではよくあるが、ロマン派では少ない気がする。中低声の楽器と奏法が進歩して独立性が高まったこともあるのだろう。高低の音域が協演するのが、音楽の常態になった。
 左右の手の音域が異なるピアノの構造が、作曲家の発想の土台になっていったからかも、などと考える。
 しかしここでは違う。音域が同じ二梃のヴァイオリンが対話し、協奏し、合奏する。その面白さと魅力。
 そうして、これは対向配置、両翼配置のオーケストラのヴァイオリンの面白さと同じということに気がつく。
 真ん中に低音、リズム楽器のチェンバロがいて、その両翼にヴァイオリンというのは、ヴィオラとチェロをその内側にして、コントラバスを最後列横一線にならべる古いオーケストラ配置の、その原型のようなものなのではないか。二十世紀半ばになってオーケストラもピアノ配置が主流になるのは、作曲においてピアノ的発想が顕著になるのと、照応しているのではないか。
 二梃のヴァイオリンとチェンバロという三人編成は、最小編成の交響楽団、いわば交響楽団の原点なのだ。今日の演奏が聴いていて愉しいだけでなく、響きに不思議な安定感がある理由は、それなのかも、などと勝手に納得する。

 極小と極大が、宇宙的な落差を超えて重なりあう。まさしく能的。頭がすっかり能かぶれ(笑)。

三月六日(水)一将功なりて
   
 国立能楽堂の定例公演。
・狂言『雪打(ゆきうち)』野村万作(和泉流)
・能『藤戸(ふじと)』小林与志郎(宝生流)

 『藤戸』は源平合戦のさい、攻撃路となる浅瀬の存在を独占するため、その秘密を教えてくれた漁師を人知れず殺してしまった佐々木盛綱のもとに、漁師の母親(シテ)が抗議にくるのが前場。後場ではシテは漁師の怨霊となり、盛綱の供養により成仏する、という話。
 盛綱が功名を独占するべく、口封じのために漁師を殺した話は平家物語にあるが、その母が抗議するというのは能作者(未詳)の創作。南北朝から戦国時代にいたる戦乱の世の同種の事件を、古典に結びつけたものかも知れない。
 罪もない者が武士の身勝手で殺され、死骸を捨てられるという重いテーマは、反戦性など現代にも通じるものなので、何かと話題になることが多い作品。
 であるので楽しみにしていたが、なぜか今日は自分の心身に入りきらないうちに終ってしまった。他日を期したい。

三月七日(木)カンブルランとの旅
 サントリーホールで、カンブルラン指揮読売日本交響楽団演奏会。いよいよカンブルラン時代の掉尾を飾る一か月。
・イベール:寄港地
・イベール:フルート協奏曲(独奏:サラ・ルヴィオン)
・ドビュッシー(ツェンダー編曲):前奏曲集
・ドビュッシー:交響詩「海」

 船旅を感じさせる選曲。ツェンダーがオーケストレーションした前奏曲集は、その《冬の旅》を想起させるユーモラスなもの。

三月十二日(火)ルイージ
   
 サントリーホールで、ルイージ指揮のデンマーク国立交響楽団の演奏会。
・ニールセン:歌劇《仮面舞踏会》序曲
・ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第五番 《皇帝》(独奏:横山幸雄)
・チャイコフスキー:交響曲第五番

 曲目がもう一つ苦手なものだったが、ルイージとの相性のよさを感じる、木質のオーケストラの響き。

三月十三日(水)リープライヒ
 日本フィルに客演した指揮者のリープライヒにインタビュー。リハーサル会場の杉並公会堂を訪ねる。
 レーゲンスブルク生まれとプロフィールにあるので、何げなく同地の有名な大聖堂聖歌隊には入っていたのですかときいたら、「入っていません。それというのは……」という答えから話が広がり、中欧~東欧の長い歴史、精神史の一端を示すような、リープライヒ家の物語になっていって、驚かされた。
 こういうふうに、つなぎのようなつもりで発した質問が、思わぬ大きな波紋を呼んでしまうような瞬間は、インタビュアーという仕事の醍醐味の一つ。

三月十四日(木)グレの歌
   
 サントリーホールでカンブルラン指揮読売日本交響楽団の演奏会。ラスト・マンス最大の呼び物となるシェーンベルクの《グレの歌》。完売の人気。日経新聞に評を書く。

三月十五日(金)小劇場の歌舞伎
 久々に歌舞伎に行く。国立劇場の小劇場、五百二十二席という小空間で十二年ぶりに歌舞伎をやるというので、その点に惹かれた。
『元禄忠臣蔵 御浜御殿綱豊卿』中村扇雀、中村歌昇
『積恋雪関扉』尾上菊之助、中村梅枝

 始まってすぐに、字幕なしで台詞の内容が容易に聞きとれるのに驚く(笑)。国立能楽堂では字幕の力を借りるのが当たり前になってしまっているし、先月に同じ小劇場でみた文楽も字幕があった。歌舞伎は狂言と同じく、ないのが当たり前だということを忘れていた。
 特に『御浜御殿綱豊卿』は、昭和十五(一九四〇)年の新しい作品だから、聞きなれたしゃべり言葉なのである。
 綱豊が浅野家再興運動に手を貸さないのは、大石たちに仇討ちをさせてやりたいからだと真意を明かすあたりは、日中戦争さなかの好戦的な時代の気分が、いかにも反映されているなあと思う。赤穂浪士の仇討は絶対的な正義だという確信が、作者にも登場人物にも客席にも共有されている時代でもある。町人も含めて登場人物はみな、客席と同様に仇討が必ずあるものとして、応援している。
 二〇一七年四月に大阪の松竹座でみた鶴屋南北作の『盟三五大切』は、数百年間にわたって日本人が無邪気に共有してきた忠臣蔵の絶対正義に対して、作者一人で疑念を呈していたのが、猛烈に面白かった。そのことはそのときの可変日記に書いているが、その絶対正義を毫も疑わない世界が、まさにここにある。
 赤穂浪士の富森助右衛門が、綱豊に寵愛されている義理の妹、中臈お喜世を御浜御殿に訪ねてきて、綱豊の座敷に通され、出された酒を頑強に飲むまいとするあたりは、落語の『妾馬』のパロディみたいで面白かった。
      
                    国立劇場歌舞伎情報サイトより
 掲載したのは、公式サイトにある舞台写真。『御浜御殿綱豊卿』には、綱吉を継いで二代続けての「能狂いの将軍」となる家宣(綱豊)が、能の『望月』のシテの扮装をする場面がある。もともと作者の真山青果は『船弁慶』を選んだのだが、能に詳しい人から仇討物として『望月』を薦められ、変更したのだという。歌舞伎の隈取りというのは、祭礼以外の場で面の使用を独占する猿楽に対する、遠慮から広まったものだと思えるから、いかに新作歌舞伎であっても、面を使う『船弁慶』よりは使わない『望月』のほうがいい、という判断があったのかも。
 次の『積恋雪関扉』は、舞踊が中心になるもの。こちらになるとさすがに台詞の中身が聞きとりにくくなる。関兵衛、実は大伴黒主の振付は、天明四年(一七八四年)にこの役を初演した初代中村仲蔵のものが、ほぼそのまま伝えられているという。文楽人形を想わせる動き。
 写真のような動きは、歌舞伎ならではのエロティシズム。先月に同じ小劇場でみた文楽の『鶊山姫捨松(ひばりやまひめすてのまつ)』の「中将姫雪責の段」での、雪の庭にひきすえられた中将姫が、棒でしばかれて息も絶え絶えという場面を人形で克明に再現したところに、絵づらが似ているのが面白い。
 責める、責められる。サディズムとマゾヒズムの表裏一体の、陰湿なエロティシズムとけなげな思い。中世以来日本人が好んできた復讐譚とともに、日本文化の特徴の一つなのかも、などと考える。

 期待どおりに小空間で見やすいと思いつつ、周囲に棧敷席がなくて壁面になっているのは、役者にとってどうなんだろうとも考える。明治村にある古い劇場などの、二階建ての桟敷が周囲にある、客席が自分を取り囲んでいるような、あのつくりのほうが、役者はのっていきやすいのではないか。能楽堂の脇正面が――私自身はドラマから疎外される感があって、座るのは苦手だけれども――役者にとっては大切な場所なのではないかと思えるのと、似た感じ。

三月十六日(土)ミニ都響の室内楽
 十五日から「東京・春・音楽祭」が開始。今年は十五周年ということで特に規模が大きく、楽しみな催しが目白押し。
 自分は今日の「都響メンバーによる室内楽 ~ソロ・コンサートマスター、矢部達哉とともに」から。矢部を中心に都響の首席クラスがモーツァルト、ブラームス、シューベルトの王道プロを演奏。
 音圧が高く、メリハリをつけてガシッと音楽を構築する硬派の音づくりが、翌日にサントリーホールで聴いた、インバル指揮都響のブルックナーの第八番と共通しているのが面白い。両方に出たメンバーはセコバイの双紙だけだったようだが、それでも都響には都響の音がある。それによって特にシューベルトとブルックナーのつながりが実感できたのも楽しかった。シューベルトの弦楽五重奏曲の第二楽章や第三楽章トリオの、祈りの音楽をじっくりと、腰を据えて描いたのが印象的。
 ところでそのシューベルトの配置は、舞台下手から上手へヴァイオリン二人、チェロ二人、ヴィオラという一般的な並びだったのだが、この曲こそ両翼配置、それも昨年新日本フィルでシュテンツがやったみたいな、左右対称配置で聴いてみたいと思った。つまりヴィオラを中央に、両脇に二群に分割したチェロ、その外の左右に二つのヴァイオリンを置く。こうしたら、音場のつくりがかなり違って聴こえるのではないだろうか。

ヴァイオリン:矢部達哉、双紙正哉
ヴィオラ:村田恵子
チェロ:清水詩織、森山涼介
フルート:小池郁江
クラリネット:三界秀実

モーツァルト:フルート四重奏曲第一番
ブラームス:クラリネット五重奏曲
シューベルト:弦楽五重奏曲

三月十八日(月)鴬谷のクレズマー
 東京春祭二回目となる今日は、上野の森を出て、鴬谷駅前の東京キネマ倶楽部での「クレズマー・ナイト 〜コハーン&シャールクジ・バンド」。
 クラリネット奏者のコハーン・イシュトヴァーンが、母国ハンガリーの民俗音楽トリオ、シャールクジ・バンドと共演するのに加えて、東京キネマ倶楽部という会場にも大いに興味があった。
 ここは、かつてのグランドキャバレーを改装したオープンスペース。客席は一階フロアの上に半円形のバルコニーになった二階席、三階席があって、かなり大きい。数百人は入れそう。ステージもメインのほかに下手側の上階にバンドが入れる小ステージが設けられており、往時にはこの二つのステージを使って、スター歌手のショーなどがあったのだろう。赤坂の大型ナイトクラブ、ニューラテンクォーターなどの鴬谷版だったのだろうか。東宝映画の社長シリーズとかでしかみたことのない、大人の夜の世界。
 今日は残念ながら客席は一階のみで二階以上には入れなかったが、東京キネマ倶楽部のサイトの写真などをみると、二年前の正月に仕事で乗った、豪華客船にっぽん丸の船尾にある劇場に感じが似ている。
   
 演奏は、楽しい一時間があっというまに過ぎて終演。カーテンコールだけは写真撮影OKとのことなので撮ってみた。
 それにしても、四十年近くさまざまなコンサートや公演に通っているが、鴬谷駅近くの会場というのは生れて初めてなので新鮮。上野の森はかつて全域が寛永寺の境内で、その北側の鴬谷には寛永寺門跡の隠居所があったから、歴史的には上野の森につながっている。
 戦前は静かな住宅地だったのが、戦後に焼け残った住居が、上野などで働く労働者向けの簡易宿泊所を始めてドヤ街となり、売防法施行の前後に連れ込み宿に転業し、現在のホテル街ができたのだという。このあたりは大久保のホテル街とまったく同じ形成のしかた。

三月十九日(火)果てしなき音楽の旅
 紀尾井ホールで、カンブルラン指揮の読売日本交響楽団。「読響アンサンブル・シリーズ 特別演奏会」として、小編成で二十世紀の前衛音楽だけを取りあげる、「果てしなき音楽の旅」。
   
・ヴァレーズ:オクタンドル(一九二三)
・メシアン:《七つの俳諧》‐日本の素描(一九六二)(独奏:ピエール=ロラン・エマール)
・シェルシ:四つの小品(一九五九)
・グリゼ:《音響空間》から〈パルシエル〉(一九七五)

 カンブルランの任期が成功裏に終ること、楽団からも客席からも本当に惜しまれていることを示す演奏会だった。このような曲目の演奏会を八百席という適切な空間で開催できることと、客席が完売満員だったことが、その証明である。カンブルランの盟友エマールまで登場するという贅沢さ。
 ヨーロッパでのカンブルランは、歌劇場での活動と並行して、早くから現代音楽のスペシャリストとして活躍してきたが、それだけに評価がその狭い枠に押し込められてしまう傾向があった。南西ドイツ放送響のシェフ時代にその枠を少し広げ、読響では聴衆の希望に応える形でさらに拡大したが、逆に現代音楽は、限られたものにせざるを得なかった。
 しかし、カンブルランの読響での選曲がヨーロッパ音楽全体の流れを俯瞰するものだったことを考えれば、いうまでもなくそれはシェーンベルク前後で止まるものではないし、二十世紀後半がメシアンだけのはずもない。まさしく「果てしなき音楽の旅」なのだ。その連続と展開の可能性の一端を示してくれる、今日のようなプログラムが最後に実現したことは、本当に素晴らしい。
 アンサンブルを聴くにはやや近すぎる席で、全体の響きを把握しにくかったのが残念だが、ともかくこの水準の実演を日本で聴けるのは貴重な機会。
 メシアンの作品はドビュッシー生誕百年記念に書かれたもの。本来は《エローに棲まうムシクイたち》がそのために書かれていたが、トゥーランガリラ交響曲の日本初演にあわせて訪れた日本の印象に霊感を受けたこの曲に、差し替えられることになった。書きかけたまま放棄された「ムシクイ」は、二〇一七年六月にトッパンホールでロジェ・ムラロがピアノ独奏用に再構成して世界初演した。その実演の記憶や、昨年のドビュッシー没後百年で発売された初録音の印象と、頭の中で並べてみる。
 そしてシェルシ。ブルックナーの曲の始まりの動機がそのまま引き延ばされたようで、単一の音がさまざまな楽器の響きの違いにより、色を変えていく。
 グリゼは次第にカオスとなり、最後に打楽器奏者がシンバルを盛大に叩こうと振りあげた瞬間、音がとまり、照明が落ちて無音と闇に包まれる。このパフォーマンスに笑いが起きて終り。
 なぜかこのホールでは、二〇一四年のネルソン指揮紀尾井シンフォニエッタによるシュニトケの《ハイドン風モーツァルト》とか、テツラフ・カルテットによるヴィトマンの弦楽四重奏曲第三番《狩りの弦楽四重奏曲》とか、音に出ない身ぶりが重要な、視覚的なパフォーマンスのある現代音楽を聴くことが多い。
 終演後に舞台袖に行き、二日後のトークイベントのことで、カンブルランにあいさつ。マエストロも楽員さんたちも緊張から解放され、とても和やかな、いい雰囲気だった。

三月二十日(水)ドゥダメル
 サントリーホールで、ドゥダメル指揮ロサンゼルス・フィルハーモニックの来日公演。「創立百周年記念ツアー」と題されている。昨年のクリーヴランド管弦楽団と近い。
   
・ジョン・アダムズ:ピアノ協奏曲《悪魔は全ての名曲を手にしなければならないのか?》(独奏:ユジャ・ワン)
・マーラー:交響曲第一番《巨人》

 日本初演のアダムズの曲では、演奏後に客席からご本人が登場したのにびっくり。あとであちこちから「生アダムズ初めてみた」という声を聞く。けっこう久しぶりの来日らしい。
 《巨人》はパワフルで明朗、楽観主義的な演奏。ドゥダメルは勢いにまかせるような感じではなく、じっくりと明るく音をつくる。ロス・フィルとの関係も十年になって、成熟しているのだろう。

三月二十一日(木)カンブルランとの対話
 紀尾井ホールでエマールのひくゴルトベルク変奏曲ほかを聴いたのち、新宿のタワーレコードに移動、カンブルランのトークイベントの聞き役をつとめる。アルトゥスから出るマーラーの交響曲第九番の発売を記念するもの。
 タワー新宿店は改装を終えた再オープンの初日なのだそう。これまでと同じビルの九階で、ポップスその他と同じフロアの一角となる。直前の告知だったのでお客さんがどのくらい来るのか、関係者全員が不安だったが、たくさんの方が売場に立つというスタイルで熱心に聴いてくださった。カンブルラン人気を実感。
 質問のポイントはマーラー主体。第九番の終楽章は現世への告別ではなく、まだ生きようとしていたのだから、過度に情熱的にすることを避け、次へつながることを意識したとのこと。
 マーラーでヴァイオリンを対向配置にする理由は、この作曲家とモーツァルトに関しては、そのほうが音のからみあいが効果的だと考えるから。モーツァルトのアイネ・クライネとマーラーの七番の組合せがそうでしたねと水を向けると、そう、あれはナハトムジークの始まりと終りの二曲、とのこと。
 南西ドイツ放送響のときは、前任のギーレンがあまりにもたくさんマーラーをやっていたので、自分が取りあげるのは難しかった。読響では「よし、今度こそ自分の番だ」と思ったとのこと。
 二、三、八番を取りあげなかった理由をたずねると、二、三はともかく、八番はたぶんこれからも演奏しないだろう、とのこと。ホールの音響空間を八番ではどのように使われるかを、ぜひ聴いてみたかったですと言うと、生れ変わったらやるかもね、とのこと。
      

三月二十三日(土)旅の始まり
 十一時から、東京・春・音楽祭の「子どものためのワーグナー《さまよえるオランダ人》」をみる。三井住友銀行本店の東館、ライジング・スクエアのアース・ガーデンの特設会場。百人以上の親子で客席は満員。縮小編成のオーケストラが舞台上手にいて、中央と下手に装置がある。反復を省きながらも独唱部分はほぼ含まれていて、オーケストラと声の迫力を子供に知ってもらうのに、よくできている。
   
 ただバイロイトでの上演と違って問題になるのは、ドイツ語では歌詞の意味が伝わらないこと。つなぎの台詞は日本語だったが、やはり「いま何を歌っているのか」を子供は知りたいだろう。年齢層がバラバラなので字幕も難しい。ここをどう解決するかが課題になりそう。来年は本公演の演目に合わせて、「子どものためのワーグナー《トリスタンとイゾルデ》」だそうで、この作品をどう子供用にするのか、楽しみ。
 昼を食べたあと池袋に移動、十四時から芸術劇場で、カンブルラン指揮の読売日本交響楽団。
   
・ベルリオーズ:歌劇《ベアトリスとベネディクト》序曲
・ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第三番(独奏:ピエール=ロラン・エマール)
・ベルリオーズ:幻想交響曲.

 同じ曲目と会場での明日の演奏会が千秋楽となるが、自分は能に行くのでこの日を選ぶ。両日とも完売。
 ベルリオーズとベートーヴェン。西洋音楽に革命的進歩をもたらした二人の音楽。カンブルランのプログラム・ビルディングの原点にある二人だから、最後にもってきたのだろう。表面的な感情や熱さにゆだねることなく、響きの構造を整然として機能的に、古典的な美をもって響かせるのが、この指揮者の真骨頂。
 そしてこの構造と機能が、リスト、ワーグナー、マーラー、ドビュッシー、そして……、と受け継がれながら、発展していくのだ。
 いまふりかえる、旅の始まり。

三月二十四日(日)春の別会能
   
 宝生能楽堂にて、「宝生会 春の別会能」。別会能とは、毎月の定期能とは別に、春秋の年二回行なわれる大規模な特別公演。『道成寺』の披きが含まれることが多く、自分は一昨年のこの会で初めてこの曲をみることができた。
 そのときは能三番に狂言一番ほかで正午から十八時半までかかったが、今年は開場四十周年記念でさらに大がかりに二部構成となり、十一時から二十時までの長丁場で能が四番。
 その第一部に行く。
・素謡『翁』宝生和英
・能『高砂 作物出』亀井保雄、今井泰行
・狂言『二人袴』山本東次郎
・能『安宅 延年之舞 貝付貝立』武田孝史

 まず宗家が裃姿で『翁』を舞い、続いてシテが前後で異なる『高砂』。
 シテが揚幕から退場するときに拍手が起きたのは、本拠地の演能にしては、個人の意見としては正直なところ、田舎くさい感じがした。
 十五日にみた歌舞伎の場合、客席からの喝采やタイミングのいい掛け声が役者をのせていくようになっていて、それだけに国立劇場小劇場のようなつくりよりも、二階席、三階席が役者を包む大空間のほうがやりやすいのではないかとあらためて思ったのだが、能はやはりそういうものではない。室町時代にどうだったかはともかくとして、おそらく江戸期に形成された儀式性は、現代では演能の重要な要素となっている。
 無人の何もない舞台に始まり、人が揃い、能を舞い、退場して、無に帰る。それを黙って見届けるのが、見所(客席)の礼儀だと思う。いっさい拍手をするべきではないとは思わない。国立能楽堂主催公演での定型となっている、囃子方の最後尾、すなわち舞台上の最後の人間が橋懸の三の松まで来たら控えめに拍手を開始する、あれがよいと思う。
 続いて『二人袴』。東次郎と則俊が出るこの狂言も、今日みにきた動機の大きな一つ。東次郎の親馬鹿ぶりが愉しい。息子役は若い凜太郎。
 この狂言は二〇一七年四月に国立能楽堂で野村万作と三宅右近が演じたのもみている。そのときは万作と息子(奥津健太郎)が一つしかない袴をやりとりするとき、穿くのを互いに手伝っていたが、今回は少し違う。東次郎は凜太郎が穿くのをかいがいしく手伝うのに、凜太郎は東次郎が穿くのを茫然とみているだけ。父親の過保護ぶりをより強調してある。則孝の太郎冠者も律儀そうで、それぞれが見事に役にはまる。
 そして『安宅』。武田孝史の弁慶は、昨年九月の国立能楽堂開場三十五周年記念公演でもみた。ただし今回は「延年之舞」と「貝付貝立」(狂言方が法螺貝をもつもの)という小書付。前回の衣は茶の縦縞だったが、今回は黒色。「延年之舞」があることもあって、より歌舞伎の原型という感じになる。
 知的で落ち着きのある弁慶。清流をくだる杯の動きを目の上下で暗示したところが印象的だった。能にかぎらずどんな作品でも、初見がいちばん印象に残るものと、回数を重ねるにつれ味わいが深くなるものとがあるが、『安宅』は後者らしい。どんどん面白さがわかってくる。

三月二十五日(月)春の交響曲
   
 サントリーホールで、クシシュトフ・ウルバンスキ指揮の東京交響楽団。
・モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第五番《トルコ風》(独奏:ヴェロニカ・エーベルレ)
・ショスタコーヴィチ:交響曲第四番

 エーベルレのヴァイオリンは細身の響き、イントネーションの明確さなど、師匠のチュマチェンコに瓜二つ。現代を代表するヴァイオリン教師の一人として、個性豊かな弟子を育てていることで知られるチュマチェンコだが、ここまでそっくりの弟子は初めて聴いた気がする。
 ウルバンスキは交響曲で本領発揮。純度の高い響き、見通しのよいしっかりしたフォルムで、複雑な音楽を明快かつ軽快に響かせる。東響がノットの薫陶で獲得した機能性の高さが活きる。ややもするとぐじゃぐじゃで正体のない音塊になりかねないこの曲、こういう響きで聴くと、マーラーよりもワーグナーからの影響の大きさが感じられる。特に低弦にはあからさまな引用もある。
 そして何よりも、この曲は第五番の前に、大粛清の前につくられていたのだという当たり前の事実を、明快な演奏で再認識する。ロシア・アバンギャルドのよき時代、ほんの短い春の季節につくられた、青春の曲。ここに暗い翳や予兆を聴こうとするのは、結果論である。

三月二十六日(火)マーラーの影
   
 二夜続けてのサントリーホール通い。どちらも隣席の知人に恵まれる。前者はネコケン先生、後者は舩木篤也さんで、有益な情報や示唆を演奏の前後に得られる幸運。今日はウラディーミル・ユロフスキ指揮ベルリン放送交響楽団。
・モーツァルト:歌劇《フィガロの結婚》序曲
・モーツァルト:ピアノ協奏曲第二十一番(独奏レイフ・オヴェ・アンスネス)
・ベートーヴェン:交響曲第七番(マーラー編曲版)

 もともとは前半がブラームスのピアノ協奏曲第一番だったが、アンスネスの右肘の故障のためにモーツァルト二曲に変更。なんでも、ブラームスのこの曲ばかりを十回くらい本番で続けてひいたらおかしくなったのだとか。本当かどうか知らないが、それはそうだろうと納得。
 代りのモーツァルト、敏捷だが丸みのある美しいピアノの音、右手と左手の立体感など、数年前のマーラー室内管とのベートーヴェンの協奏曲の素晴らしい響きを彷彿とさせるもの。特に第一楽章と第二楽章が素敵だった。
 ベートーヴェンはマーラー編曲版というのがききもの。十六型で木管は倍管、各四人。基本的にはトゥッティで四人が吹くかたちになるが、それ以外はオリジナルのままだったり、ときには三人になったりと芸が細かい。ただ分厚く塗りたくろうというのではなく、緩急やダイナミクスの幅を拡大し、色彩や陰影を強調しようというもののようだ。
 面白いのは、フレージングに強いアクセントをつけて、ふっ、と音を抜く箇所をつくることだった。足元の地面が突然消えて、落ちるような驚き。
 ここで連想したのが、クレンペラーの演奏がまさに、こういう音抜きをときにやってのけるものだったこと。クレンペラーのあの方法論は、師のマーラーから来たものだったのかと、強く納得する。
 それだけではない。ユロフスキはヴァイオリンを対向配置にして、セコバイの背後にヴィオラを置く。そしてヴィブラートを抑えてヴァイオリンを左右の翼のように響かせてみたり、ヴィオラの動きを明瞭に浮かびあがらせたりする。
 ヴィブラート抑制はともかくとして、両翼の面白さやヴィオラ群の存在感は、まさにクレンペラーの演奏の特徴。そこにさらに厚みが加わって、くどいといえばくどいが、とにかく面白かった。

三月二十七日(水)メルカダンテ体験
   
 藤原歌劇団によるメルカダンテの歌劇《フランチェスカ・ダ・リミニ》の日本初演。会場は新百合ケ丘のテアトロ・ジーリオ・ショウワ。
 サヴェーリオ・メルカダンテ(一七九五~一八七〇)は、ドニゼッティやベッリーニの同時代人で、十九世紀前半にはこの二人と並び称された人。二人より長生きしたが、最盛期は一八二〇~四〇年代で、後半生は後輩ヴェルディの栄光の影に隠れた。
 《フランチェスカ・ダ・リミニ》は一八三〇年作で、マドリード、続いてミラノ・スカラ座でも初演の企画がつぶれ、そのまま埋もれて、二〇一六年にイタリアのマルティーナ・フランカのヴァッレ・ディトリア音楽祭でようやく世界初演されたもの。音楽祭の音楽監督ルイージが指揮して、パオロ役を脇園彩が歌った初演ライヴは、DYNAMICからDVDとCDになっている。
 今回はヴァッレ・ディトリア音楽祭と日本オペラ振興会が提携して、このプロダクションをもってきた。セットは簡素だが衣装は本格的、独唱六人(主役三人はイタリア人とスペイン人)のほか合唱が三十二人にバレエ六人、ピットには東京フィルが入って、指揮はルイージのアシスタントをしたセスト・クワトリーニで、これで平日昼に一回だけの公演というのはもったいない。千三百弱のハコも十九世紀前半の作品にちょうどいい。
 音楽は、まさにロッシーニとベッリーニの中間というか。前者よりも合唱やオーケストラの扱いに劇性が強いが、後者のように独唱の旋律性が豊かではなく、技巧性が要求される。
 キャッチーなメロディがないのが残念だが、作品が進むにつれ、パオロのアリアやフランチェスカとの二重唱を中心に凝った、充実した音楽になってくる。
 メゾが歌うパオロ役に重点を置き、スターが来ることを意識して作曲していることが明白。プログラムの小畑恒夫さんの解説によれば、スカラ座では名歌手ジュディッタ・パスタがこの役を断ったことが上演中止の主因らしい。なぜ断ったのかは知らないが、パスタ抜きでは公演が成り立たないというのもなんとなく納得できる。今日は若いアンナ・ペンニージが、存在感豊かに歌ってくれた。

 ただ、フェリーチェ・ロマーニの台本の構成がいかにも無理。同時代の戯曲を元にオペラ化して何度も使い回された、言い換えると人気の高い台本らしいが、一幕で終るべきものを二幕に引き延ばしているのが問題。
 敵対する貴族ランチョット(大元のダンテの『神曲』ではジャンチョット)と政略結婚させられたフランチェスカは、夫の弟パオロと互いに一目惚れをする。ある日、アーサー王伝説の王妃グィネヴィアと騎士ランスロットの不倫物語を二人で読んでいるうちに、互いに秘めていた感情を抑えられなくなり、抱き合ったところを、夫に襲われてともに死ぬ、という話なのだが、驚いたことに今回は、第一幕だけでそこまで進んでしまう。ここでは危うく助けられて幕となるが、結局第二幕のドラマは同じことをくり返すだけなので、冗長を免れない(音楽的には第二幕のほうが充実しているので、感興は高まるが)。
 一九一四年のザンドナーイの同名のオペラが、ダンヌンツィオの戯曲版を元にしているだけに、悲劇のクライマックスに向けてもっと巧妙に構成し、策略やら戦争やら兄弟の美醜の対照と嫉妬やら、さまざまな劇的要素を盛り込んでいるので、差が目立つ。
 ただ、夫の名をランチョット(Lanciotto)と変えたことで、夫のほうがランスロットのイタリア名、Lancillottoに似た感じになっているのは、皮肉が効いて面白かった。
 このことは、舞台額縁の左右の辺に出る日本語字幕とともに、上辺に原語字幕が出ていたおかげで気がついた。このような未知の作品の場合、原語の歌詞も読めるのはとてもありがたい。もちろん、イタリア語などわからないのだが、「この単語は原語だと何なの?」とか、「原語はどんな構文なの?」などと気になったときにみて、理解が多少なりとも立体的になるからだ。
 テアトロ・ジーリオ・ショウワ、早くも十一月にはヴァッレ・ディトリア音楽祭との提携公演第二弾として、スカルラッティの《貞節の勝利》がある。こちらは金曜と日曜の二回公演。
 四月末には、ここで《蝶々夫人》の公演もある。オペラをこのくらいのハコでみられるのは気持がいい。幸い、小田急線名物の混雑や遅延も、完全複々線化でだいぶマシになったらしいし…。

三月二十八日(木)百万と十万
   
 国立能楽堂の企画公演。「能を再発見する/寺社と能・清凉寺」。
・解説 芳野明(嵯峨大念佛狂言保存会)
・嵯峨大念佛狂言(さがだいねんぶつきょうげん)『釈迦如来(しゃかにょらい)』嵯峨大念佛狂言保存会
・解説―『百万』の原形と現形 天野文雄(京都造形芸術大学教授)
・観阿弥時代の能『百万(ひゃくまん)』観世喜正

 「寺社と能」というのは、寺社に伝わる芸能などと、その寺社にまつわる能を組みあわせるシリーズ。今回は京都嵯峨の清凉寺に伝わる大念佛狂言と、この寺を舞台とする『百万』。旧暦三月に清涼寺で行なわれる大念仏という法会には、各地から多くの人が集まる。そこで上演されるのが大念佛狂言。その人出のなかで、生き別れだった母と子がめでたく再会する話が『百万』である。
 京都にはアマチュアによって維持される念佛狂言が三つあり、嵯峨のほかに壬生と千本閻魔堂で保存されている。嵯峨と壬生は無言劇で、全員が面をつけることに特徴がある。
 「能を再発見する」は、改作によって現代にいたっている作品の原形、古形を再現しようとするシリーズ。『百万』の現形は世阿弥による改変を経たものなので、その父観阿弥が得意とした形に戻そうというもの。
 どこが変わっているかというと、現行版では、母親の百万が子と会えない自らの境遇を嘆く曲舞があるのだが、観阿弥時代にはその代りに、地獄の恐怖を語る「地獄の曲舞」が舞われていた。これは百万の稼業が女物狂い、すなわち芸人で曲舞を得意としていたので、その芸を群衆の前で披露するという設定だったのである。
 しかし世阿弥はここを現行の曲舞に差しかえることで、芸人の芸よりも母親の嘆きという、よりパーソナルな心情が表に出るドラマにした。狂気の本質を、物狂いという芸から、悲しみのあまり正気を失ったという状態に変えたのである。
 このために「地獄の曲舞」は行き場を失ったが、後に世阿弥の息子元雅がこれを採り入れた『歌占』という能をつくって、再生させた。
 二〇一四年の「能を再発見する」シリーズで、「地獄の曲舞」を『百万』に戻すのと同時に、百万が曲舞車に乗って登場する形にして、観阿弥時代のスタイルの再現が試みられた。今日はその再演となる。
 蘇演時に百万を演じた梅若実が地頭に回り、今回のシテは観世喜正。端然として美しい舞い。母の悲しみがその姿から静かに放たれる。実子の観世和歌が子方をつとめる。

 清凉寺の大念仏会を創始したのは、十三世紀に実在した、円覚上人導御という律僧。元は捨子で、寺に拾われて僧となり、この大念仏をきっかけに母に再会できたという。親子再会話は寺社を舞台にした能の定番で、ほかにもたくさんあるが、ここではこの伝説が直接の元ネタなのだろう。導御は十万の衆生を救うというので十万上人と通称された。百万という芸人も奈良に実在した名手だという。十万と百万、似た名前の響きあい。

三月二十九日(金)あれから、
   
 東京・春・音楽祭。東京文化会館小ホールにヴィオラのアミハイ・グロスの演奏会を聴きに行く。
 一つ隣の席が某誌の編集長で、「週明けには〆切ですよ」と念を押され、「はいがんばります」と生返事(生返事とか自分で書くな)。
 それはともかく(ダメ)、久しぶりにショスタコーヴィチの遺作、ヴィオラ・ソナタを聴けたのが嬉しかった。大好きな曲なのに、なかなかナマで聴く機会がなかった曲。今日は周囲にもそういう人が何人もいた。自分はひょっとしたら、一九八六年九月に新宿文化センターで聴いた、バシュメットとリヒテルのデュオ以来かもしれない。
 とすると三十三年ぶりか。一九八三年の大河ドラマ『徳川家康』で、信長役の役所広司が家康役の滝田栄に、初対面の日のことを本能寺の変の直前に回想して語りかける、「あれから、三十五年たつぞ」を連想する(今年の『いだてん』の役所は、ちょうどあれからほぼ三十五年たっている)。
 あの異様に重く、暗かったデュオに対し、グロスは足でリズムをとるなど、ずいぶんダイナミック。終楽章ではリヒテルが、ベートーヴェンの《月光》ソナタ第一楽章から借りた音型を、ものすさまじく陰惨に、ひきずるようにひいたという記憶があるのだが、今日は《月光》よりも、ヴィオラに出る《英雄》の葬送行進曲の気配が強い。シュトラウスの《メタモルフォーゼン》に通じる感じ。
 あらためて考えてみると、一九八四年の時点では作曲と作者の死からまだ十年たっていなかったから、同時代音楽といってよいものだった。ソ連に生きる音楽家たちの音楽だったのか。

三月三十日(土)「歌え!」(一)
 東京・春・音楽祭。ムーティの「イタリア・オペラ・アカデミーin東京」を聴講させてもらう。東京藝大の第六ホールで行なわれる、簡単に言えば指揮者と歌手のマスタークラス。
 今年は《リゴレット》を題材に、朝から午後にかけて若手指揮者四人によるオーケストラ・リハーサルが四時間、夕方には出演歌手によるピアノ・リハーサルが二時間。
 毎日六時間のマスタークラスを六日間連続でやり、その前の日には東京文化会館で一般向けの解説、最終日には自ら指揮して抜粹上演というのだから、ムーティの熱意とタフネスぶりあってのもの。
 自分はまず、朝二時間のオーケストラ・リハーサルを聴講。曲は第二幕から二曲、リゴレットのアリア〈悪魔め鬼め〉と、最後の復讐の二重唱。後者はヴェルディのなかでも特に大好きな部分なので嬉しい。
 三十歳前後の四人の受講生にとって最大の試練は、指揮をしながら歌手のパートを自分でしっかり歌うことをムーティに要求されたことだった。一人はドイツ=アメリカ人でオペラ指揮の特殊性をわきまえていて、イタリア語もばっちりのようだったが、日本人、韓国人、シンガポール人の三人はそうはいかない。
 声を出すこと、歌うことにそもそも慣れていなさそうだったし、一人はイタリア語が不得意そうで、まったく歌えなかった。途中から代りにムーティが自分で歌いだしたので、こちらとしてはかえってありがたかったが(笑)。
 全員が来年の《マクベス》も続けて受講することが決まっているため、この人は最後に「一年間でイタリア語をマスターしてこい」とガッチリいわれていた。
 そして「トスカニーニはすべてのパートを歌うことができた。オーケストラはそれを聴いて真似すればよかった」という。その通り、トスカニーニは「歌え」などとあやふやな言葉を楽員にかけるのではなく、どのように歌えばいいのかを自分で歌ってみせていた。だから、ムーティが「歌え!」と声をかけたのがオーケストラではなく指揮者に対してだったのは、とっても面白かった。
 とにかく話の随所に「トスカニーニは…」が出てくる。「自分の師(ヴォットーのこと)はトスカニーニのもとでアシスタントをして、その手法をつぶさに学んだ。自分はその弟子だから、それを伝えるのだ」ともいった。
 今回、トスカニーニの評伝作家であるハーヴェイ・サックスを日本に招いて講演させることは、このこととどうやら深く関わっている。そしてこの思いは、夕方の歌手リハーサルを聴いて、さらにいっそう痛感することになるが、それはのちほど。

 「指揮者は、コントラバスをよく忘れる。しかしかれらは基礎だ」といった。指揮者がオーバーアクションをすること(とりわけ、身体でリズムをとったり、足をあげたりすること)を嫌った。楽員に対しては、これみよがしの大きな音でチューニングすることを嫌って「舞台に出た弦楽四重奏団は、耳元でほんの小さな音でチューニングをするじゃないか。オーケストラも大きな弦楽四重奏団であるべきだ」といった。
 そこからチューニングについて脱線して、チェリビダッケの話になる。「チェリビダッケは、人の意見にはすべて反対せずにいられない人だったが、偉大な指揮者だった。私は若いとき、ミラノでかれのリハーサルを聴いた。コントラバスから始めて、楽器ごとにチューニングさせ、三十分もかけた。それからようやく《エグモント》序曲にとりかかったが、そのころにはもう、すべて調子っぱずれになっていた!」
    東京・春・音楽祭のフェイスブックページより
 会場の様子は、東京・春・音楽祭のフェイスブックページに出ている。写真はそこから借りてきたもの。藝大の第六ホールというのはオーケストラ用のリハーサルルームみたいな場所で、聴講生は学生中心に百~百五十名くらいでほぼ満席。同時通訳もイヤホンで聞くことができる(指揮者の右手側にある小屋が同時通訳用のブース)し、この人数に限られてしまうのは、かなりもったいない。
 今回はここしか確保できなかったらしいが、もっと大会場でできれば聴講料金も下げられるし、社会人があいた時間だけ聴きに来ることも可能になるだろう。来年の《マクベス》ではそうなることを期待。
 長くなったので、残りと歌手リハーサルのことはまたあらためて。

三月三十日(土)「歌え!」(二)
 ムーティのアカデミー話の続き。
 私は幸運なことに二回、ミュージックバードの番組のためにムーティにインタビューしたことがある。二〇一三年の一回目はあまりに緊張していい出来とはいえなかったが、二回目の二〇一四年五月二十九日は、短時間なのが残念だったが比較的うまくいった。
 そのときの「可変日記」には、こう書いている。

 危うく虎の尾を踏みそうになった前回の轍を踏まぬよう、今日は鞄のなかに、お護りを二つ用意していった。
 三谷礼二の『オペラのように』と、TIMAClubの「アウレリアーノ・ペルティレ全録音集」CD八枚組。
 前者は、一九六九年フィレンツェで新人指揮者による《群盗》を見たという一節があるから。後者は、マエストロの新著『イタリアの心 ヴェルディを語る』のなかで、ペルティレの歌うシェニエの即興詩が絶賛されていたから。
 この二つのご加護により、今回はかなり打ち解けて話せた(残念ながら、ペルティレの話までは聞けなかったが)。
(中略)
 インタビュー開始。いまはなき師(正式の師弟ではないが、親しく謦咳に接して、大きな影響を受けた)の三谷礼二がオペラの演出家だったこと。かれが一九六九年にフィレンツェで若い新進の指揮者が、ヴェルディの《群盗》をみなぎる情熱で指揮するのを見たという話を聞いたこと。
 それがマエストロですねというと、パッショーネ(情熱)という言葉を、愛おしむように、過去を懐かしむように自らも口にしたあと、
「あれが私の指揮した最初のヴェルディのオペラだった。ならば我々には、縁があるんだね」
 光栄です、と答えるのみ。これはほんとにお護りのおかげ。
       

 このときは本当に三谷さんに護ってもらったと、今でも思っている。
 三谷さんからは活字になっていないものも含め、いろいろと思い出を聞かせてもらったが、その一つに、やはり六〇年代にイタリアの歌劇場で聴いた、当時売出しのカプッチッリが歌った《リゴレット》の話、というのがあった。
 第二幕終盤、娘のジルダが辱められたことを知ったリゴレットは、公爵への復讐を決意する。そこからヴェルディ以外には誰も書きえない、素晴らしく劇的な二重唱になるのだが、直前の有名な見せ場が、リゴレットの「No, vecchio, t'inganni … un vindice avrai.」の「avrai」。
 カプッチッリはこの言葉を、舞台のいちばん奥から前へ出ながら延々と引っぱって歌い、クレッシェンドをかけながら次第に音を高くしていったという。その凄まじさに満場は熱狂、たくさんの公演に出会うために同じものは一度しか見ないと決めていた三谷さんも、あまりの離れ業に驚き、我慢できなくなって(笑)もう一晩聴きに行ってしまったという。

 オーケストラ・リハーサルでは、まさにここが取りあげられた。最初にあたった受講生はドイツ&アメリカ(二重国籍ということか?)のヨハネス・ルーナー。かれがここを歌おうとしたところで、ムーティがストップをかけた。
 ──この「avrai」を、音をあげながらクレッシェンドして引っぱる、悪しき慣習がある。今でもドイツではやっている(アメリカでもそうです、とルーナー)。しかしヴェルディはそんなことを書いていない。ここはすんなりやって、激情の表現はオーケストラにまかせるように書いているんだ。
 というわけで、ルーナーも、なんとか歌えるほか二人の受講生も、ここはまったく引っぱらずにやっていた。ちょっとこれはいくらなんでも極端なんじゃないのと私は思ったけれども(笑)、放埒という歌劇場の悪しき一面が端的に出てしまう場所だけに、ムーティとしては絶対に譲れない、重大なポイントなのだろうなということも、よくわかった。
 というのも、それ以外の場面では、ムーティはけっして歌を圧迫するような表現は求めなかったから。むしろ、声とオーケストラが絶妙に呼応する表現を受講生に教え込もうとしていた(だからこそ指揮者が、歌のパートを自分で歌えなければ、話にならないのだ)。
 ムーティとカプッチッリ、客としての気楽な立場からいうと、どちらかが一方的に正しいのではなく、たぶんどちらも正しい(笑)。どちらも正しいという絶対矛盾のなかにあるからこそ、歌劇場の魅力は永遠につきることがないのだろうな、などと思いながら聞いていた。

 ここを歌手にはどのように説くのか、夕方のピアノ・リハーサルで聴いてみたかったが、こちらは第三幕全曲だったので、ちょっと残念。四日の本番を聞いてのお楽しみ、というところ。歌手リハーサルのことはまたあらためて。
    東京・春・音楽祭のフェイスブックページより

三月三十日(土)「歌え!」(三)
 ムーティのアカデミー話その三。
 十時半に始まった一コマめのオーケストラ・リハーサルは途中十五分ほどの休憩を挟みつつ、十二時四十五分終了。
 二コマめは十四~十六時の予定で第三幕をやるというのでこれも聴きたかったが、同時刻にサントリーホールで新日本フィルの上岡敏之指揮の《復活》交響曲を聴くために急いで出る。十三時終了の予定だったので、徒歩と銀座線で四十五分はかかるから移動時間がきついと思ったが、十五分早いおかげで余裕が出て、十三時半にサントリーホールに到着。手前のドトールでサンドイッチを食べる時間ができた。
 上岡の《復活》は安っぽい劇性を取り払い、弱音に重点をおいていたので、聞き飽きたこの曲が新鮮に感じられる。普通の休憩つきプロなら間に合わなかったが、これ一曲で十五時半に終ったのですぐに飛び出し、十六時半からのムーティのピアノ・リハーサルには十分ほど前につくことができた。雨が降らなかったのも大助かり。
    東京・春・音楽祭のフェイスブックページより

 歌手とのピアノ・リハーサルは同じ会場だが、歌手たちが聴講席の前に背を向けて座り、その向かいにムーティとピアニストがいる。歌声は裏から聴く格好で歌手の表情は見えないが、ムーティの指揮(指揮棒なし)は正面でたっぷり見ることができるので、貴重な機会。二時間近く、休憩なしで第三幕(終幕)をまるまる練習した。

 私は、ヴェルディ作品の指揮に関しては、トスカニーニが一九三七年から四六年まで、ちょうど七十代のうちに遺したいくつかの録音(三七年ザルツブルクの《ファルスタッフ》、四三年と四四年の二種の《リゴレット》第三幕、四六年の《椿姫》のドレス・リハーサルとオーケストラ・リハーサル)はあまりに見事なもので、誰も凌駕することが不可能な、「不磨の大典」だと思っている。
 ヴェルディの音楽をあまりにも完璧に実際の音にされているために、他の演奏の可能性を受けいれることができないのだ。各箇所でトスカニーニがどのように演奏したか、私の頭と身体に完全に入ってしまっていて、誰の何を聴いても、その響きと脳内で比較することになる。
 記憶力の悪い、音楽的才能などまったくない自分にさえ、そんなことが可能なのは、トスカニーニの表現があまりにもヴェルディの音楽的論理、語法に適っていて、「自然」としか呼びようがないものだからだ。ヴェルディの音を聞けば、トスカニーニの表現が頭のなかで鳴る。
 ほかの作曲家、作品については、トスカニーニとてけっして無敵ではないが、ヴェルディに関しては、唯一無二の存在だと私は思っている(セラフィンも素晴らしいヴェルディ指揮者だが、ここまでの呪縛力はない)。

 このトスカニーニを尊敬してやまないムーティ。
 歌手に対してムーティが求めるフレージング、表情、ブレス、装飾などを聞いて、頭のなかにある、一九四三年七月二十五日のNBC交響楽団によるヴェルディ・コンサートのさいの第三幕(その前の休憩中に、偶然にもムッソリーニ解任の第一報が流れ、場内が異様な興奮に包まれたという伝説のあるもの)の録音にとてもよく似ていると感じた。
 それは猿真似などではなくて、ヴェルディの楽譜を真摯に読み込んでいけば、自ずと導き出される表現の様式なのだろう。ムーティが七〇年代、フィレンツェやミュンヘンで、レナータ・スコットやドミンゴとの共演でやっていたライヴ演奏にもつながるもの(どういうわけかスカラ座に君臨した時代には、硬直してふくらみのない、痩せた音楽をするので苦手だったけれど、その後はまた戻ってきた観がある)。
 一息に歌いすぎる歌手には、ここでブレスをおいて間をとり、そこで色を変えた方がいいとアドヴァイスする。
 直線的に歌いすぎる歌手には、器楽的になりすぎだから、もっとround、歌いまわしをして、しかしリタルダンドはかけずにインテンポで、という。
 これなどはまさに、トスカニーニの偉大なスタイルそのもの。それでもうまくいかないと、私が指揮でガイドをするから、しっかり見て、という。「私はリッカルドであってグイドじゃないが、ガイドはする。しかし、絶対に伴奏はしないよ」と、冗談と厳しさの入り混じった、典型的なムーティ風の言い回しがここで出る。
 ここで、ムーティの左手がチェロをひくみたいなポジションにいくことがあったのは、まさにトスカニーニそのままで、じつに微笑ましかった。ムーティは元ピアニストで、チェロ奏者ではないはずだが、思わずやってしまうのだろう。トスカニーニがオペラのリハーサルのときでは、楽員に「ルック・アット・ミー、ルック・アット・ミー!」とときに叫んでいたのも思い出す(笑)。
 ただし、ムーティは「トスカニーニがこうしていたから」みたいなことは、オケリハのときとは対照的に、歌手に対しては口にしない。
 ヴェルディが楽譜にこう書いている、という言いかたをあくまでする。「女心の歌」が四重唱のあとにくり返されるところでは、「ヴェルディはここで、アクセントも装飾もわざとつけていない。公爵がもう疲れていることを表現するためだ。ヴェルディはそうしたことをちゃんと楽譜で書きわけている」という。
 たしかに、ムーティが歌手に求めている表現は指揮者的視点に限られたものではなく、レナータ・スコットやドミンゴや、オリヴェロやジーリやペルティレといった、真に優れた音楽性をもつ歌手たちのヴェルディ歌唱のスタイルに、きわめて近い。優れた歌手たちなら見つけ出すはずの表現を、教えている(上にあげた歌手にテノールが多いのもたぶん偶然ではない。十九世紀後半から二十世紀初めに大発展したテノールの歌唱法こそ、同時代のヴェルディ演奏にいちばん合っているものなのだろう。スコットやオリヴェロが、ソプラノなのにテノールのような歌いかたをした人たちなのは、その傍証だ)。
 ただ、歌手たちがそれぞれの個性でやってしまったら、いかに優れた音楽家とはいっても、いや、そうだからこそ、まとまりがつかない。だからオペラでは指揮者が統率する必要がある。作品に奉仕するために、指揮者が必要になるのだ。「ここまでは自由に歌わせるから、最後の他の歌手やオケと重なる部分になったら、そこではきちんとやりなさい」ということもムーティは言っていた。

 ヴェルディの楽譜という聖典があり、それを音にすることで素晴らしい注釈、訓詁をつけてみせたトスカニーニという指揮者がいて、その伝統を受け継ぐものとして、ムーティがいる。
 今の自分が能楽にはまっているからなのか、今日のムーティはまるで、古典芸能の宗家であるかのように見えた。伝統の護持者、としての再現芸術家。
 ただしそれは、ヴェルディが書いて、トスカニーニが音にした時点からの「伝統」で、ロッシーニやベッリーニの時代の様式とは、また別のものだろう。おそらくは、ヴェルディ在世当時の一般的演奏とも異なっている。
 それはそれでいい、と思った。いわば「トスカニーニ流」の当代の宗家。ことヴェルディ演奏においては、圧倒的な表現力をもつ流派。

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四月一日(月)松之丞で講談初体験
 最近読んで、なるほどと膝を打ったのが、堂本正樹の以下の言葉。
「演じる個人の芸によって批判されないものは、芸能である。芸術とは、個人の創造性によって刻々価値を更新するものであり、芸能とは没個人のものであって、批判以前のところに流れ去った景色だ」(『世阿弥』劇書房/六〇三頁)

 堂本の『世阿弥』は本文が二段組五百七十頁という大著で、世阿弥の生きた時代を描く本編ももちろん面白いが、それに加えて百五十二頁もある「私的ノートを含んだ恣注」という注釈も堂本独自の能楽論が存分に展開されていて、これだけ読んでもめっぽう面白い。右の一文も現代雅楽についての「恣注」から。
 これは、およそ再現芸術と呼ばれる、古典を再現する芸術すべてにいえる言葉だろう。再現芸術家という個人が価値を更新し続けないかぎり、芸術は芸術たりえない。個性を失えば、もはや批判しようもない「古典芸能」になる。
 生き物であるはずなのに、博物館に保管されているだけのものになる。

 今月は、伝統芸能を芸術たらしめてくれそうな、新たな生命を吹きこんでくれそうな若い二人の芸をみる。講談の神田松之丞と、能の関根祥丸(堂本さんがかれらをどう評価するのかは、わからないけれども)。
 松之丞はもう、いまさら私がいうまでもない俊英スター。浪曲にしてやられ、その浪曲も衰微した現代では、ほとんど片隅に残っていたような講談というジャンルを、復活させつつある男。
 チケットが発売と同時に売り切れる人気者だが、今日の日本橋劇場(このホール、今まで存在すら知らなかった)での独演会を、たまたまタイミングよく買えたので行ってみた。
      

 独演会のタイトルは「講談春秋」。講釈師は「冬は義士、夏はお化けで飯を食い」という。冬と夏は忠臣蔵と怪談で食えるが、さて春と秋は、ということで、落語をとりいれての勉強的な意味の会。
 噺家の三遊亭兼好が助演で、前半は松之丞がかれに教わった『鮫講釈』という落語をやる。
 松之丞によると、昔は噺家よりも講釈師のほうが威張っていた。そのため噺家は、落語のなかで講釈師をからかうことで、日頃の鬱憤をはらしていた。『鮫講釈』もその一つ。しかし今は立場が逆転して、講釈師は噺家の十分の一の八十人くらいしかいないから、肩身が狭い。
 武張ったもののほうが昔は偉かったのに、今はお笑いに人気を奪われているというのは、能と狂言の関係に似ていなくもないのが面白い。そういう現象が、あちこちで起きているらしい。
 そのなかで「古典芸能」化していた講談を、再び表舞台に呼び戻しつつあるのが松之丞。『鮫講釈』のあとに落語『鈴ヶ森』をやった兼好が、松之丞には劇画のような面白さがあるのが新しいといっていたが、後半の『徳川天一坊 天一坊の生い立ち』は、まさにそんな感じ。
 悪の魅力、ピカレスク・ロマンとしての、講談ならではの面白さ。空気が冷えて闇に沈むような、殺人の場の迫力。
 落語の地位が上がったのは、たぶん円朝という、圧倒的に創造的な個人が出たせいなのだろうが、松之丞はそれ以前の講談の面白さと魅力を、ナマで味あわせてくれる人かもしれない。
 夏になったらこの人の怪談物が聴いてみたいけれど、まず買えないだろう…。

四月四日(木)《リゴレット》本番
   
 東京文化会館で、ムーティのオペラ・アカデミー《リゴレット》の本番。
 マスタークラスでは余裕をもって歌っているように感じられたマントヴァ公役のテノールと、リゴレット役のバリトンが、大空間と満場の聴衆にのまれたように元気がない。それとは対照的に、非イタリア人ということもあって厳しく指導されていたジルダ役のソプラノが、堂々と自分の歌を歌いきっていて、面白い。
 ムーティの表現はまことに雄弁で、見事にツボを押さえたもの。来年の《マクベス》も楽しみ。ラヴェンナで行なわれている本家のアカデミーでは、指揮の講習生たちも本番を分担で振る日が設けられているそうで、日本でも実現してほしいところ。

四月七日(日)《オランダ人》
   
 東京文化会館で、東京・春・音楽祭の《さまよえるオランダ人》。第一幕ではまるで間がとれなかったアフカムの指揮が、第二幕ではぐっとよくなった。

四月十一日(木)レヴィットの真価
   
 東京文化会館の小ホールで、イゴール・レヴィットのゴルトベルク変奏曲。
 ドイツを中心に評価の高い俊英ピアニストなのに、CDではいま一つ生気を欠いて感じられるので、ナマを聴きたいとずっと思っていた。繊細で息づくようなタッチや音色の変化、即興性など、やはり実演でこそ真価のわかる人だった。

四月十二日(金)十五周年ガラ
   
 東京文化会館で、東京・春・音楽祭の十五周年ガラ・コンサート。
 初年度の《エレクトラ》から,小沢征爾が抜けて再出発、最初の年のメインとなった《天地創造》、その後のワーグナー・シリーズからのアリアや抜粹。同じ年に始まった「ラ・フォル・ジュルネ」とともに、平成の後半の東京を彩った二つの音楽祭。

四月十三日(土)BCJのマタイ
   
 レヴィットの二日目の変奏曲プロにも心を残しながら、さいたま芸術劇場にBCJのマタイ受難曲をききにいく。
 公演前後にセッション録音も進めているそうで、マイクが立ったままだが、今日のライヴは録音しないという。新調した大型オルガンを中央に、二群の合唱とオーケストラをシンメトリックに左右に配置し、響かせたのが新鮮だった。
 トーマス教会の来日公演での、人間によるイエスの処刑という「どうにも取り返しのつかないことをした」のを再確認し続けるような切実な痛み――しかし、もたれて退屈な時間も少なくない――とは別種の、劇性に富んだ表現で、三時間があっという間だった。

四月十四日(日)祥丸の鬼女
   
 一日の松之丞の次は、能の関根祥丸。
 まだ二十代半ばながら、能界の将来を背負って立つと期待されるこの人のことは、すでに昨年六月に能『西王母』、十月に舞囃子『胡蝶』をみて、私のような素人にまではっきりわかるその凄さを知っている。『胡蝶』のとき「この人は、能を知らない人をも能に惹きこむ力を持っているのではないか。あるいは少なくとも、持つことになるのではないか」とこの日記に書いた。
 今回は人気作『葵上』だけに、ものすごく楽しみだった。
 六条御息所の怨霊(原作と異なり、能では生霊ではなく死霊である)として、鬼女の役。出てきた瞬間から、場を支配する異様な緊張感。人を鬼に変えるほどに激しく深い怨みのエネルギーが、つきることなくその身体から放射される。
 能は、興味のない人にとっては、動きの少なさが退屈なところ。たしかに、名のあるシテ方でも、段取りを踏んでいるだけのように、訴えかけてくるものが少ない人もいる。そういうときはたしかに「没個人のものであって、批判以前のところに流れ去った景色」としての芸能としかいいようがない。
 しかし今日のシテは、みなぎる怒りのあまり「全速力で止まっている」。自らが六条御息所の怨霊であると明かす直前の、長い沈黙。能ではまったく無音という場面は少ないのだが、その沈黙に客席が退屈するどころか、中央のシテをじっと見つめさせられる、吸引力。
 後半、死霊を折伏する横川の小聖役の福王和幸(あいかわらずかっこいい)との対決場面も、子供だましになるどころか緊迫感にみちた、手に汗握るものになった。

 この人の創造性がこれからどのように花開いて、古典の価値を刻々更新してくれるのか、まことに楽しみ。この人も、どんどん買えなくなっていくのだろうと思うと、それは憂鬱だが(笑)。

四月十七日(水)ダブルビルの意義
 新国立劇場のダブルビル、「フィレンツェの悲劇/ジャンニ・スキッキ」をみる。演出は後者に力が込められていて、前者は動きがない。
 静と動、暗と明という対照を意図したのかもしれないが、せっかくこの二本を選んだのだから、セットなり小道具なり衣装なり人なり、何か共通性や関連性を持たせたほうが、より効果的なのではないか。昨年の藤原の二本立てや二期会の三部作が、そうした要素を巧妙に仕掛けて楽しませてくれただけに、味気なさが残る。

    
 『平成音楽史』の見本が到着。四月二十五日、改元連休前の給料日に発売。
 個人的に大好きなのが本文内のこの写真。収録時の愉しい雰囲気が、とてもよくとらえられている(ここに載っている本文がまた、そこはかとなくアブないことを言いあっている)。
 背表紙はこうしてみると、阪神タイガースの本みたいな感じがある。上に輝流ラインがついているからか?

四月十八日(木)荘村清志さんにきく
 昨日はレコード芸術の「青春18ディスク」のために、ギタリストの荘村清志さんにインタヴュー。
 若き日の愛聴盤を紹介していただきながら、東京オリンピックの直前に十六歳でマドリードに留学した四年間の思い出などを生き生きと、楽しく語っていただいた。
 教えを受けたレヒーノ・サインス・デ・ラ・マーサ(アランフエス協奏曲の初演者)、セゴビア、イエペスなどの伝説的ギタリストたちの愉快なエピソードが連発され、こちらは爆笑しているだけでいいという、夢のような仕事(笑)。
 個人的には、フランコ独裁政権下のマドリードがどういう雰囲気の町であったかを聞けたのも、すごく勉強になった。

四月十九日(金)シテの肉体
   
 国立能楽堂の定例公演。
・狂言『鈍太郎 (どんだろう)』野村万禄(和泉流)
・能『 邯鄲』大村定(喜多流)

 『邯鄲』はシテが腰か股関節かに不安をかかえているらしく、一畳台への昇降などに手間がかかり、そのたびに演者の肉体という現実に引き戻される。三月にみた『石橋』での塩津哲生もそうだったことを思い出す(ともに喜多流なのは偶然だろうが)。七十歳前後になれば仕方のないこととはいえ、想像力が飛翔できないのはもどかしい。シテの孫がつとめる子方も足がしびれるのか、ひんぱんに左右の足を入れかえるのも興をそぐ。喜多流の特徴らしい陰気な地謡も手伝い、シテの舞を含めてとても長く感じた。

四月二十日(土)平成、アルテミス、砧
 今月は音楽之友社の月刊誌三誌から依頼を受け、けっこうな量を書きまくり、迷惑をかけまくった(ダメ)。平成最後の発売の号ということで、二誌は平成をふりかえる特集だった。
      

 「音楽の友」誌では「さらば平成! 日本クラシック界プレイバック1989~2019」で、年表と五年ずつのまとめと、逝ける日本の大物たち。
 「stereo」誌では「平成オーディオ史~激動の30年を辿る~」の一環で、「平成名盤 クラシック編」十五点のコメント。
 「レコード芸術」は昨年二回にわたって「平成ディスク史」の特集を組んでいるので、今回はハルサイ特集。ただしその「平成ディスク史」は一冊のムックにまとめられて、五月二十日に出る。
 三つの「平成史」とも、私以外の執筆者が豪華で、資料としても充実した特集になっているので、実演とオーディオとディスク、ここで買っておけばそれぞれの三十年をふりかえるのに便利な保存版になると思う。まとめれば三本の矢、いや、寺堂院高校の八木沢三姉妹の三位一体攻撃(アタックNo.1)ぐらいの威力になるはず。
 今回いろいろと書いて、三十年というのは、前世紀なら大卒で入社して五十五歳の定年がみえているくらいの長さだから、社会や人間の変化を叙述するのに適当な長さなのかも、とあらためて実感。十五年では短いし、四十五年や六十四年となると長すぎる。

 「レコード芸術」に書いたなかで、とりわけ読んでいただきたいのは、アルテミス弦楽四重奏団のメンバーのうち、男性二人のインタヴュー。二〇一八年六月の来日時にインタヴューしたが、三か月後にメンバー交代が発表されたため、掲載の機会を逸してしまったもの。一時はお蔵入りを覚悟したが、来日の前後に録音されていたショスタコーヴィチ作品集がCD化されたおかげで、世に出すことができた。
 中身はショスタコーヴィチのこと、立って演奏する理由、そして二〇一五年に亡くなったヴィオラ奏者、フリーデマン・ヴァイグレ(読響の新シェフの弟)への、強い哀惜の念など。
 インタヴューをまとめながら、創立メンバーのチェロ奏者、エッカート・ルンゲが抜け、ヴァイグレと一緒に第二ヴァイオリンとして参加し、没後は遺品のヴィオラを引き継いでひくグレゴール・ジーグルが残るという異例の交代も、おそらくはそれぞれのヴァイグレへの強い思いが、違うベクトルに向ったからではないかという気がしてならなかったが、これはもちろん個人的な推測。

 話変って、NHKホールで山田和樹指揮NHK交響楽団の演奏会。
・平尾貴四男:交響詩曲《砧》(一九四二)
・矢代秋雄:ピアノ協奏曲(一九六七)(独奏:河村尚子)
・シェーンベルク:交響詩《ペレアスとメリザンド》

 プログラミングの妙が光る演奏会。にわか能楽ファンの自分にとっては、世阿弥の傑作能を題材とする《砧》にまず惹かれた。
 聴いてみると、能の筋書きとは不思議なくらいに結びつかない。『砧』は小泉八雲原作の映画『怪談』の「黒髪」の祖型みたいな死霊の話なのに、平尾の曲にはホラー的な要素はない。砧を打つ音という格好な音楽的要素にもこだわらず、ひたすらに夢幻的な音楽が展開する。
 野平一郎の解説に「留守宅で夫の帰りを長年待っている女性の情念や悲しい感情」とあるとおり、能の前場の、孤閨をかこつ女の夢想、妄念、淫欲、邪推、憧憬などを音にしているらしい。
 能の美しくも淫靡な詞章「かの七夕の契りには、ひと夜ばかりの狩衣、天の川波立ち隔て、逢瀬かひなき浮舟の、梶の葉もろき露涙、ふたつの袖や萎るらん、水蔭草ならば、波うち寄せよ泡沫」といったあたりがヒントか。
 そして一九四二年、昭和十七年作曲ということは、日中戦争から太平洋戦争へ突入した状況下での、銃後の女たちのことを直接的に考えてつくっていると思うほうが自然。エロスとタナトス。
 それから二十五年後の矢代秋雄のピアノ協奏曲は昭和の高度成長期、世界史的には六〇年代後半の文化沸騰期の、モダンでシャープ、ダイナミックな音楽。
 冴えたピアノを聴かせた河村はアンコールに《夢の舟》をひき、また夢の彼岸へと瀬を渡す。
 後半のシェーンベルクの交響詩《ペレアスとメリザンド》の爛熟の音響が奏でるのも、やるせない恋慕の夢。悲恋であり、実体感のないエロスとタナトスが渾然となる点で《砧》と同じ。三曲が緩急緩の大きな流れをなす、いい演奏会。
 終ってから渋谷へ降り、タワーレコードへ。『平成音楽史』の単行本がもう書籍売場に並んでいると教えられて驚く。しかも、目の前でレジに持っていったお客さんがいたので、思わず後ろ姿に頭を下げる。

四月二十四日(水)大ホール協奏曲
 下野竜也指揮NHK交響楽団を、サントリーホールで。
・ショスタコーヴィチ:ヴァイオリン協奏曲第一番(独奏:ワディム・グルズマン)
・ヴァインベルク:交響曲第十二番《ショスタコーヴィチの思い出に》

 生誕百年のヴァインベルクと、かれの才能を認め、引き立てたショスタコーヴィチの作品という、いい組合せ。
 サントリーホールという大空間にふさわしい表現を、顔を真っ赤にして聴かせたグルズマンに拍手しながら、カーネギーホールでこの曲をアメリカ初演したオイストラフのことを連想する。

四月二十五日(木)恋の対決、碁の対決
 国立能楽堂の企画公演に行く。
 明後日二十七日の公演とともに《特集・対決》と題され、対決をテーマとする能と狂言で、異流派や異なる家のシテ方が競演するというもの。いわば対決が二重になっている。
 初日の今日は蝋燭能でもある。
・狂言『弓矢太郎(ゆみやたろう)』三宅右近・野村萬斎(和泉流)
・復曲能『碁(ご)』大槻文藏・狩野了一

 狂言は今年七十八歳の三宅右近の、巧まない剽軽さの妙。
『碁』はその名のとおり、シテとツレが碁を打つ、他に類例がない能。一四七〇年代あたりに金春宗筠ぎん(均の上に竹かんむりをつけた字)が多武峰で初演したらしいが、その後は演能が途絶え、綱吉・家宣の「能狂いの将軍」時代に一時復活されただけという。
 一九六三年に金剛流で復曲され、近年は大槻文藏が二〇〇一年に取りあげた。今回はその文藏がシテを舞うもの。
 源氏物語の「空蝉の巻」を題材に、シテ(大槻文藏)は空蝉の霊、ツレ(狩野了一)は軒端の荻の霊。かつて光源氏がのぞきみた、生前の二人が碁を打つ場面を、ワキ(宝生欣哉)の僧の前で再現してみせる。
「急いで碁を打たうよ、まづ一手、二手、三手、四手五手六目ふしとか、七打八打、九打十市の里の碁の勝負、砧にそへて打たうよ」と、謡に合わせて碁盤に石を置く動きをするのが愉快。
   

 ただし原作では空蝉が勝つのだが、能では軒端の荻が勝つ。これはプログラム掲載の三田村雅子の文章によると、
「碁の勝者がすなわち恋の勝者であり、恋の成就を賭けた激突として碁盤上の戦いを位置づけようとするからであろう。軒端荻が結果的にその夜の光源氏の相手となったことから、碁の勝負こそ恋の成就を予兆するものであったとするのである。そこでは人妻空蝉の、光源氏の接近から身を遠ざけ、自ら身を引こうとする賢さや将来を見通した配慮は問題とされない。ひたすら光源氏をめぐるなまなましい恋の駆け引きを盤上で戦わそうとしている二人の女が浮き彫りにされる」
からだという。
 勝負に負けた空蝉は、衣を脱いで碁盤に掛けて、まさしくセミの脱け殻のような形にして、若いライバルに恋を譲る。
 蝋燭だけのほのかな明かりに浮かぶ、面の陰影の美しさ。
 しかし恋の勝者も敗者も、みな一時一夜のこと。時が過ぎれば、
「恨めしやただ、恋し悲しと見しことも、夢の浮橋途絶えして、現に返す薄衣、身を空蝉も軒端の荻も、かれがれに、空しき跡こそあはれなりけれ」
 源氏物語の巻名をさまざまに織り込んだ、詞章の遊び心も素敵。
 観世流の大槻文藏のシテに対し、喜多流の狩野了一がツレという異流共演。観世流の明快な発声と、喜多流のくぐもった発声との対照が面白かった。

 あぜくら会の会報の三月号の表紙に、今回の二つの対決の、以前に行なわれた公演での写真が載せられている。『碁』の碁を打つ場面(大槻文藏と大槻裕一)と、『正尊』の起請文を読みあげる弁慶(金剛龍謹)と、正尊(宝生和英)。

四月二十六日(金)小ホール協奏曲
   
 改元連休直前の今日、東京堂書店の神田神保町店に行くと『平成音楽史』が週間ベストテン(総合)九位に入っていてびっくり。
 この書店のランキングはかなり特殊で他店とは異なるそうだが、片山さんによると「絶滅寸前のインテリが購買層」というタイプの店で、ジャンルを超えて売れているのは素直に嬉しい。もちろん、九分九厘九毛は片山さんのおかげ。

   
 夜はトッパンホールで、「第47回サントリー音楽賞受賞記念コンサート シュニトケ&ショスタコーヴィチ プロジェクトⅢ」。
・シュニトケ:Concerto for Three ~クレーメル、バシュメット、ロストロポーヴィチのための~
・ヒンデミット:白鳥を焼く男
・ショスタコーヴィチ:チェロ協奏曲第一番変ホ長調
ワーグナー:ジークフリート牧歌

 山根一仁(ヴァイオリン)、ニルス・メンケマイヤー(ヴィオラ)、ピーター・ウィスペルウェイ(チェロ)の三人のソロに、井上道義指揮のトッパンホール チェンバー・オーケストラ(総勢三十八人)が登場し、計四十二人がトッパンホールの舞台にひしめくという豪華版。
 さすがのソロに在京オケの首席が並ぶオーケストラの響き、贅沢な体験のなかでも印象に残ったのは、ウィスペルウェイによるショスタコーヴィチのチェロ協奏曲第一番。小空間なので細かな動きだけでなく足を踏みならし、うなり声をあげる「ノイズ」まではっきり聴きとれ、一昨日聴いた、グルズマンによるヴァイオリン協奏曲第一番の巨大空間向けの音楽とは対照的なのが面白かった。
 オイストラフとロストロポーヴィチというソ連が世界に誇るソリストのために書かれて、三楽章に長大なカデンツァがあることなど共通点も多い、二曲の協奏曲がみせる落差と対照。

四月二十七日(土)太陽が二つ
 国立能楽堂企画公演、《特集・対決》の第二日。
・狂言『惣八(そうはち)』善竹十郎・山本東次郎(大蔵流)
・能『正尊(しょうぞん)』宝生和英・金剛龍謹

 この日は普通の照明による公演だが、中身はこちらも普通ではない。今日の狂言も能も、対決する二つの役のどちらをシテとするかが流派や家によって異なる作品なので、そのことを利用して、本来一曲には一人しかいないはずのシテを、二人にしてしまうというもの。
 狂言『惣八』では、今年七十五歳の善竹十郎と八十二歳の山本東次郎の両シテに七十七歳の山本則俊がアドという、重鎮揃い踏み。

 対して能『正尊』は三十代前半の宗家や嫡男など、若い世代による対決。義経誅戮の密命を頼朝に受けて鎌倉から上京した土佐正尊(土佐坊昌俊)の企みを義経主従が見破り、返り討ちにするという「堀川夜討」話。
 作者の観世弥次郎長俊は、世阿弥の甥音阿弥の孫。室町後期の能は人数が増えて大がかりになり、長俊の父信光の『紅葉狩』や『船弁慶』のように、ワキがヒーローとして活躍する、歌舞伎の祖型のようなスペクタクル的作品が増える。
 『正尊』はその一つで、シテとワキの区別があいまい。そのため流派によって異同があり、観世・宝生・喜多は正尊がシテで弁慶はワキ。金春・金剛は弁慶がシテで正尊がツレとなり、ワキは出てこない。前半の山場として、害意はないという嘘の起請文を正尊が書く場面があるが、前者はこの起請文を正尊が読みあげるが、後者は弁慶が預かって代読する。つまり、いずれにしてもシテが読むことになる。
 流派によるこの相違を利用したのが、昨年四月の大阪の金剛能楽堂の開館十五周年記念公演。シテの弁慶を金剛流、ツレの正尊を宝生流とし、さらに義経を金春流で演じる、三流合同公演にした。
 今回の国立能楽堂公演はこの公演に倣って、弁慶が金剛龍謹、正尊が宝生和英のツレとシテ、義経が観世流の銕之丞家の淳夫という三流合同公演。ただし金剛能楽堂版が金剛流の演出を基本にして、弁慶が起請文を読んだのに対し、今回は宝生流を基本にして、正尊が読む。
 自分がこの作品をはじめてみたのは昨年六月十三日のことで、観世流だった。であるので正尊が起請文を読むのは一緒で、弁慶をワキ方ではなくシテ方がやることだけが大きな違いになる(義経が観世淳夫なのも同じ)。ちなみにあのときの弁慶は、森常好だった。
 しかし、最初から弁慶の印象があまりにも違う。シテ方とワキ方というのは、役割がこんなにも違うものなのかと、同じ役で比べることで実感した。それはもちろん役の尊卑の問題ではなくて、互いのあり方の違い。ワキはあくまでシテあっての存在で、シテ抜きでは舞台にならないが、シテはワキ抜きで、中心として舞台を支配できる。ワキがシテになることはできないし、逆もまた真なりで、シテがワキになることもできない。恒星と惑星。
 近代演劇の主役と脇役の俳優が交換可能なのとは、意味が違う。能はシテとワキをまるで別の役割をもつ存在として、数百年かけて(完全に固定したのは江戸期だろうが)磨きあげてきたのだ。
 弁慶を演じる金剛龍謹が、お父さんの永謹譲りの重厚さを発揮して、ツレとはいいながらシテとして舞台にあれば、正尊の宝生和英も宝生流宗家の存在感で、あくまでシテとして舞台にある。全体を束ねるべく、周囲を吸いよせようとする中心が、三間四方の狭い舞台に同時に二つあるという、本来ありえない異様さ。二重太陽。
 これは能ではないぞ、何か別のものになっているぞ、という強烈な違和感が、ものすごく愉しい(笑)。

 観世流のときは義経方が五人、正尊方が十二人と合計十七人もいる大チャンバラだった。今回は六人対五人なのでこの部分は短めだが、それを埋め合わせて余りある、異流シテ対決の面白さ。
 能楽人口が先細りのなかで、シテ方五流派の独立性をいかにして保っていくかは、今後の大きな課題だろう。各流の相違が古典芸術の陰影と味わいをさらに深くしているらしいと、今回はあらためて強く感じた。その緊張感は保持していかねばならない。

   
 夜はオーチャードホールに行き、二期会によるマスネの《エロディアード》をみる。これは日経新聞に評を書く。

四月二十八日(日)藤原の《蝶々夫人》
   
 新百合ケ丘のテアトロ・ジーリオで藤原歌劇団の《蝶々夫人》。オペラは、やはりこのくらいのハコが気持ちよし。

四月二十九日(月)二つの会
   
 国立能楽堂で「長山桂諷会大会」。観世流シテ方長山桂三のお弟子さんの会。素人が主役といっても、能や仕舞、素謡などで共演するのは、四人の人間国宝、野村四郎、大槻文藏、亀井忠雄、大倉源次郎をはじめとする一流の能楽師たち。
 こういう共演が可能になるのが、お稽古事に能を習う醍醐味なのだろう(いくらくらいかかるのかは、見当もつかないが)。この日記に何度も書いてきたように、私が能楽の魅力に目覚めたのは、知り合いからこうしたお素人の会でシテを舞うからと誘われ、「能の実演をきちんとみたこともないし、国立能楽堂にも行ったことがないから、ひとつ話の種に」と軽い気持で出かけたのが、きっかけだった。平成最後の観能は、その原点に立ち返って、『橋弁慶』。
 十時半から十八時半までの八時間の長丁場で、出演者は次々と交代するが、主催者の長山桂三さんだけは地謡、後見、ツレなどと役割を変えながら、舞台に出づっぱり。
 自分は早退けして夜は新宿に行き、田中美登里さんのラジオ番組「トランス・ワールド・ミュージック・ウェイズ」三十周年記念パーティに参加。平成最初の春、平成元年の四月三十日に始まったこの番組は、日本と世界のあらゆる音楽を紹介するもの。現在はFM東京とミュージックバードで放送されている。
     
 計八十九人の参加者が、盛大に三十周年を祝う。サックスの坂田明さん、能管の一噌幸弘さんほかの演奏、さらには新宿タイガーさんまでゲストに登場して、大賑わい。
 美登里さんは、二〇〇二年から昨年まで、ミュージックバードのクラシック・チャンネルのプロデューサーをつとめられた。私が継続的に出演することになったのも、片山杜秀さんの推薦を受けた美登里さんが、声をかけてくれたのが始まりだった。私にとっては、フリーランスでどうにか食べていけるきっかけをつくってくださった大恩人である。
 その一つの記念として『平成音楽史』の発売が間に合ったのは嬉しい。
 そして平成を超え、令和の世にも「トランス・ワールド・ミュージック・ウェイズ」は続いていく。

四月三十日(火)中締めは百十一
 平成最後の日。半蔵門のミュージックバードのスタジオに番組収録に行くと、もうそこらじゅうが警官だらけ。
 ここで理由もなく全力で走り出したりすると、きっとみな殺到してくるだろうと妄想し、やってみたくなるが、家族や関係者の顔を思い浮かべ、やめておく。

 夜は王子ホールで、アンヌ・ケフェレックのピアノ・リサイタル。「Vive Vienne ~ウィーン万歳」と名付けられた、ウィーン古典派三人のプロ。
   
・ハイドン:ピアノ・ソナタ第三十一番
・ハイドン:ピアノ・ソナタ第三十二番
・モーツァルト:ピアノ・ソナタ第十三番
・ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第一番
・ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第三十二番

 なんといっても最後に、「ピアノ・ソナタの男どアホウ甲子園」こと、作品百十一が置かれているのが魅力。
 開演前に、ハイドン二曲とベートーヴェン二曲は続けて演奏するので、拍手はしないでくれとの告知あり。聴いてみると、たしかに作曲家ごとに違いが、チェンバロからフォルテピアノ、モダン・ピアノへと発展していく過程が具現化されていて、納得。
 一七七六年出版のハイドンは、細かく反復される音符の多さが、いかにもチェンバロや初期フォルテピアノのサウンドを想起させる。それだけに、モダン・ピアノでは音が鳴りすぎ、うるさい。脳内でフォルテピアノの音、特に響かない低音に置きかえながら聴く。
 一七七五年作のモーツァルトは、作曲年代こそ先のハイドンと同時期とはいいながら、二十四歳年下の十九歳の若者の音のイメージが、チェンバロではなく完全にフォルテピアノのそれになっていることを実感させる。
 特に、第二楽章のゆったりした歌いくち。声楽や管、弦のように音と音をつなぐことはできずとも、打弦楽器なら發弦楽器とちがい、鐘のように音を伸ばし、連ねて重ねることで長い旋律をつくることができる。同時期のハイドンにはない発想。
 そして後半、ベートーヴェンの最初と最後のピアノ・ソナタ。ともに革新的ながら、まだ耳が聞こえていた二十代前半と、頭のなかで鳴らすしかない五十一歳の曲との差。
 二曲続けるはずが、第一番が終ったところで「オ、ミ、ズ」とかなんとかいいながら袖に引っ込み、一瞬ゆるんだ客席の緊張が、三十二番の電撃的な開始で一気に集中へ向かう。勢い余って第一楽章ではミスタッチを連発したが、それはささいなこと。アタッカですぐに第二楽章に入る、その瞬間の効果。
 重い低音と跳ねる高音。楽器の限界を超えてあふれ出し、大地をうがち、高空に飛翔するもの。未知の、無限に広がる視野を示して、消えていく。

 ホール側のスタッフは、この曲目が決まった時点では、これが平成最後の夜をしめくくる一曲になるとは、誰も思ってもいなかったそう。ときにこういう玄妙なめぐりあわせがある。

 ということで、どちらさまも、よいお元をお迎えください。

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五月一日(水)新しき明日
   
 令和最初の演奏会は、トッパンホールで葵トリオ。昨年のARDミュンヘン国際音楽コンクールで優勝したことで、一躍有名となったピアノ三重奏団。
・ベートーヴェン:ピアノ三重奏曲第五番《幽霊》
・マルティヌー:ピアノ三重奏曲第三番
・メンデルスゾーン:ピアノ三重奏曲第二番

 若く元気のいい演奏。今後も楽しみ。

五月三日(金)昭和の健康法
 家では、炭酸水のウィルキンソンを常備して飲んでいる。基本は無味だが、レモン味などいろいろなフレーバー(甘くはない)を買い置きして、ローテーションして飲む。オレンジ味やコーラ味も好きだったが最近は見かけない。四月に出たのが紅茶味の「タンサン ティー」。最近になって飲んでみた。
   
 たしかに紅茶の風味。炭酸の酸味がまじる。
 瞬間、「あれ…この味、たしかに飲んだことがある」と思った。既飲感。
 少し考えて思い出した。紅茶キノコの味。一九七五年ごろ、流行に踊らされた祖父が『紅茶キノコ健康法』を読んでキノコの素を取り寄せ、次々と増殖させて廊下に大量に瓶を並べたあげく、誰も飲まないので廃棄した、あの味。
 もちろん、あれほどの強いクセはないが、酸っぱみのある紅茶というところが似ている。その紅茶キノコ、最近は「コンブチャ」という名前で復活しているのだとか(ただし自家製はいろいろ危険らしい)。
 味が口に広がるのと同時に、四十年前の家の廊下やら祖父の表情やら紅茶キノコが入ったコップやら、脳の中に残っていた光景が断片的によみがえってきた。味や匂いのもつ、不思議な効果。
 これをきっかけに、父がはまった健康法もついでに思い出す。一九七〇年代には、妙な健康法が突如として流行した。父は機具を買いこむのが好きで、そしてすぐに飽きるのが常だった。
 ボート漕ぎマシンはけっこう高かったろうと思うが、狭い室内に置く場所がなく、物干し場に雨ざらしになった。
 このマシンで、遊びにきた友達と「ベンハーごっこ」をしたのを覚えている。
 主人公が奴隷となって乗り込まされたガレー船のシーンを再現するもので、一人がゆっくり太鼓を叩く真似をし、もう一人がそのリズムに合わせて漕ぐ。「戦闘速度!」の叫びとともにリズムが速められると、文字どおり必死で漕ぐ。吐きそうになって一回でやめた。
 そのあとは、ぶら下がり健康器。これもすぐに梅雨時の部屋干し用の竿に変身していた。ぶら下がり健康法は、『いだてん』の肋木をみたときに思い出した。
 その『いだてん』、世の酷評にかかわりなく、自分は今も充分に楽しんでみているが、やたらに男の裸体を出すのは、なんとかならんのだろうか。展開がわかりにくいとかいう以前に、女性の視聴者は、あれでけっこう離れているのでは、という気がするのだけれど。

五月五日(日)国際フォーラム
 二年ぶりに、有楽町でラ・フォル・ジュルネのコンサートソムリエ。

五月八日(水)走れ、いだてん
 大河『いだてん』の第十七回をみる。前回に続き視聴率が大河歴代ワーストの七%台だったことで話題の回。しかし、第一次世界大戦で五輪の夢を絶たれた金栗四三が、駅伝という新たな夢をつかんで再生していく物語は、これまでのなかでも最も充実したものだったのではないかと思う。
 演出そのものがよい意味で開きなおっているというか、低視聴率にぶれることなく、当初の方針を貫くという覚悟を随所に感じさせたのも、気持がよかった。小さいことでいえば、志ん生に煙草をどこでも平気で吸わせるとか。わかりやすく説明しない、言い訳をしない画面。
 浅草十二階の上部から大正の東京を俯瞰する場面、いつもみるたびにすごい手間がかかっているなあと思うのだが、ほんの少ししかみせてくれない。眼下の大池(瓢箪池)のほとりに六区興行街があるあたりとか、ちゃんとつくられているようなのだが。
 今回は、皇居の向こうの青山練兵場跡地、東京オリンピックの拠点になる国立競技場付近が初めてちらりと見えた。
 一九六〇年の場面の、JOCの部屋にある青と白の格子みたいな模様の棚、まさにあの時代のモダニズムそのもので、とっても格好いい。
 半世紀の時間をつなぐ狂言回し役の志ん生、その周囲にあるのは、東京高等師範のハイカラ東京ともJOCのモダン東京とも対照的な、木と紙と瓦でできた、古くさくて埃っぽい日本の風景。地面の高さにはりついて、日本の庶民世界を象徴する存在。
 本放送の視聴率が悪かったのに、あとで人気が出た作品なんて、枚挙に暇がない。あとになるとみんな、最初から面白がっていたような顔をしているが。自分はとにかく、清盛とか西郷とか龍馬とか江とか、堪えられなくてみるのをやめた作品(やたらに口をとんがらかしたり絶叫したりして、不満や怒りといった感情を全部しゃべって説明しないといられない、三流のマンガみたいに想像力が欠けた脚本)とは、まるで出来が違うと思っている。
 大河の場合、なかなか逆転のチャンスはないかもしれないが、それはそれ。負け戦にも負けかたがある。負け戦のなかでも一生懸命に戦った奴のことは、あとで必ず誰かが思い出してくれる。このまま、ぶれることなく走り続けてほしい。

 ところで、京都から東京への駅伝の場面をみていたら、一九七五年の大河『元禄太平記』のなかの、松の廊下の直後、内匠守切腹を知らせる使いが、江戸から赤穂まで早駕籠を乗り継ぎ、疲労困憊しながら急行する回を思い出した。
 宿場から宿場へと必死で進んでいく過程を、何も知らずに平和な赤穂の日常と並行させつつ、長い時間かけて描いた、異様に印象的な回だった。あの回の映像は廃棄されて、まだみつかっていないらしいが、いつかまたみてみたいもの。

五月十一日(土)浮舟のまどい
 国立能楽堂の普及公演。
・解説・能楽あんない 「浮舟」のドラマトゥルギー 河添房江(東京学芸大学教授)
・狂言『二人大名(ふたりだいみょう)』善竹大二郎(大蔵流)
・能『浮舟(うきふね)』長島茂(喜多流)

 『浮舟』は源氏物語の宇治十帖に登場する女性、浮舟を題材とする能。
 口惜しいことに、もう一つ自分の心に入ってこない。このところ、どうも喜多流の能でそうしたことが続いている。なぜなのだろう。

五月十二日(日)アダムズの可能性
 NHKホールでNHK交響楽団の定期演奏会。指揮はエド・デ・ワールト。
・ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第五番「皇帝」(独奏ロナルド・ブラウティハム)
・ジョン・アダムズ:ハルモニーレーレ(一九八五)

 アダムズのハルモニーレーレが爽快に鳴りひびいて素晴らしかった。デ・ワールトは、一九八五年サンフランシスコでの世界初演時の指揮者である。
 アダムズはマーラーやショスタコーヴィチに続いて、日本のプロ・オケ界に新たに定着するレパートリーになりつつあると思える。適度な現代性。聴衆の新陳代謝をうながす効果もありそうだ。
 ブラウティハムのモダンピアノによる《皇帝》も、フォルテピアノ風の響きがとても好ましかったが、やはりフル・オーケストラの実演で聴くベートーヴェンのピアノ協奏曲は、よほどの演奏でないと予定調和になって、段取りを追って聴いている印象になる。ブラウティハムについては、明後日のトッパンホールでのフォルテピアノに期待。

五月十三日(月)ベルクとブルックナー
 今年度(四月~来年三月)の在京オーケストラのプログラムをみていたら、N響、都響、読響の「御三家」がそろってベルクのヴァイオリン協奏曲を取りあげており、しかもみなブルックナーの交響曲を組みあわせていることに気づく。

・NHK交響楽団(六月十四、十五日)
バッハ(ウェーベルン編):リチェルカータ
ベルク:ヴァイオリン協奏曲「ある天使の思い出のために」
ブルックナー:交響曲第三番ニ短調(第三稿/一八八九)
指揮:パーヴォ・ヤルヴィ
ヴァイオリン:ギル・シャハム

・東京都交響楽団(九月三、四日)
ベルク:ヴァイオリン協奏曲「ある天使の思い出に」
ブルックナー:交響曲第九番ニ短調(ノヴァーク版)
指揮:大野和士
ヴァイオリン:ヴェロニカ・エーベルレ

・読売日本交響楽団(二〇二〇年二月二十八日)
ヘフティ:変化(日本初演)
ベルク:ヴァイオリン協奏曲「ある天使の思い出に」
ブルックナー:交響曲第二番ハ短調(一八七七年稿/ノヴァーク版)
指揮:コルネリウス・マイスター
ヴァイオリン:クリスティアン・テツラフ

 B&B、ベルクとブルックナーの組合せは座りがいいのか。みな番号が微妙に違うのも面白いし、シャハム、エーベルレ、テツラフとソリストも特徴が違う。「ある天使の思い出に」という献辞を副題として扱うことも、いつのまにか日本ではすっかり定番に。

五月十四日(火)片山さんのトーク
 五反田のゲンロンカフェで行なわれたトークイベントを見に行く。
   
片山杜秀×岡田暁生
司会=山本貴光
クラシック音楽から考える日本近現代史
──『鬼子の歌』刊行記念イベント

 片山杜秀の新著『鬼子の歌』(日本近現代の作曲家たちを扱った、めちゃくちゃに面白い本)をテーマとするもの。二十三日に下北沢で片山さんと『平成音楽史』のトークショーをやるので、大いに参考になる。

五月十五日(水)フォルテピアノの音
   
 トッパンホールでブラウティハムのフォルテピアノ・リサイタル。
・ハイドン:ピアノ・ソナタ第四十九番変ホ長調
・ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第三番ハ長調
・ハイドン:ピアノ・ソナタ第五十二番変ホ長調
・ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第二十一番ハ長調《ワルトシュタイン》

 休憩をはさんで、変ホ長調のハイドンとハ長調のベートーヴェンのソナタ各二曲の組合せ。明るく力強い音楽。しかしモダンピアノのように鳴りすぎず響きすぎず、音が濁らないのが素敵。
 響きに適度な隙間(音を聴いている沈黙、といってもいい)と「たわみ」があるのが心地よい。高音と低音の対照よりも二つの声部の絡み合い、対話という性格が強くなる。
 面白かったのは、ハイドンの方が物理的には大きな音量になること。ベートーヴェンはパッセージを疾駆させるので、響かせている余裕がない。アンコールは《悲愴》ソナタの第二楽章。個人的にはN響のときと同じ《エリーゼのために》をフォルテピアノで聴いてみたかったが違った(笑)。

五月十七日(金)改元祝賀の能
   
 金曜と土曜は在京オーケストラ揃い踏みで、しかも面白そうな曲目が多かったので困ったが、金曜は能楽にした。国立能楽堂の定例公演。
・狂言『文荷(ふみにない)』山本則俊(大蔵流)
・能『加茂(かも)』朝倉俊樹(宝生流)
 間狂言『御田(おんだ)』 山本則秀(大蔵流)

 『加茂』(観世流などでは賀茂)は脇能、つまり神々が登場して治世と国土を寿ぐ能なので、もちろん令和改元を祝う意味合いでの選曲。今回は前場と後場の間に間狂言『御田』が挿入される、大がかりなスタイル。
 『文荷』では東次郎・則俊兄弟の見事な芸をみる。主人(則孝)から左近三郎という稚児に宛てた恋文を二人一緒にもっていけと命じられた太郎冠者と次郎冠者、能の『恋重荷』のパロディなどをしながらじゃれあっているうちに、書状を引き裂いてしまう。これでは持参できないので、扇であおいで、風の便りで届けることにしようといい、二人で謡うのが「賀茂の河原を通るとて、文を落いたよの」の詞で、これが能『加茂』に結びつくという趣向。
 『加茂』は、京都の下鴨神社の由緒を語るもの。播磨の室明神の神官役のワキの森常好が登場、キビキビと運ぶ。三月に宝生能楽堂でみた『高砂』でのワキの神官も同様だったから、仏僧や臣下に扮するときとは違うのかも知れない。神事的な清々しさがあって、気持がいい。
 舞台は正先に、一本の白羽の矢が立てられた矢立の作り物。
 現れたシテとツレ、水汲みの女二人に神官が加茂の社の由緒を語る。その昔、秦氏の女が水を汲んでいると、上流から流れてきた白羽の矢が水桶に止まった。女が矢を持ちかえるとやがて妊娠、男子を産んだ。矢は神体であり、子は別雷神(わけみかずつちのかみ)となり、女も神となって、三神で加茂社に祀られた。
 神の祝福による五穀豊穣と国土繁栄のイメージ。後場ではまず後ツレ(和久荘太郎)が御祖の神(みおやのかみ)という女神となって現れて舞い、続いてシテが別雷神となって舞う。舞も謡も流れるように進み、リズムがよくて、もたれない。脇能はこのように、生命と大地の生命力を感じられるほうが楽しめそうだ。

後ツレ「曇らぬ御代を、守るなり」
地謡 「守るべし守るべしやな、君の恵みも今この時」
後ツレ「時至るなり時至る」

などと謡われて、いかにもめでたい。
 帝の御代を讃えるこの種の祝言能は、世阿弥によって完成されたもので、『加茂』はその娘婿の金春禅竹の作だそう。なるほど、凝った美しい詞章や、世阿弥風のシテとワキの交唱など、いかにも禅竹らしい。

 挿入される間狂言『御田』は、独立して演じられることもあるもの。加茂明神の神職(山本則秀)と七人の早乙女による、神に捧げる田植の儀式。「それ年の年号の始まりはよき年の年号の始まり」だったか、いかにも改元を寿ぐ詞章が出てくるし、神の田への田植は当然、秋の大嘗祭を想起させる。
 速く舞いながら謡うのは大変そう。後見に東次郎と則俊がいるのが珍しい。狂言の後見は雑用係という印象が強く、若い人がやることがほとんどで、能のようにこのクラスの重鎮が目を光らせていることは少ない。大がかりなものだけに、次の世代への継承をしっかり後見しようということか。平成の始めには東次郎が舞ったのだろうか。
 錦が鮮やかにきらめく早乙女の装束も新しげで、パリッとして気持がいい。
 そういえば日本の神事は、伐りたての葉や白木、汲みたての清流の水など、とにかく新鮮なものの清々しさを第一とする。瑞々しさに五感で接することで、こちらの心もあらたまる。
 その意味で、生前退位による改元には死の影がなく、気持がいいのかも。

五月十八日(土)ベートーヴェン二種
   
 オペラシティで、ノット指揮の東京交響楽団。
・ブーレーズ:メモリアル(…爆発的ー固定的…オリジナル)~フルートと八つの楽器のための(フルート:相澤政宏)
・ヤン・ロビン:クォーク~チェロと大編成オーケストラのための(チェロ:エリック=マリア・クテュリエ)
・ベートーヴェン:交響曲第七番

 前半が現代曲でも客席が埋まるのはノットの人気の高さが第一だろうが、一方で聴衆の世代交代も着実に進んでいる気もする。とにかくノットのやることに耳を傾けてみようという雰囲気だった。
 前半は、三年前に亡くなったブーレーズにゆかりの二曲。ノットは二〇〇〇~〇五年にアンサンブル・アンテルコンタンポラン(EIC)の音楽監督をつとめていて、ブーレーズやIRCAMと関わりが深い。
 ブーレーズの曲はフルートのほかホルン二、ヴァイオリン三、ヴィオラ二、チェロという特殊な編成で、オーケストラ演奏会だからこそ可能な選曲だが、九人しか出てこない曲を曲目にのせられるのは、音楽監督の指揮だからこそ。各楽器がトレモロでさざ波のように呼応する。
 次の《クォーク》は、一九七四年生れでIRCAMに学んだロビンによるチェロ協奏曲。EICのチェロ奏者クテュリエが二〇一六年に初演し、作曲家から献呈されている。
 特殊奏法による二十五分間のノイズ音楽。ところでこの日は隣席が高校の先生の方で、土曜午前の勤務を終えて駆けつけてきたそう。だからネクタイに半袖シャツという先生らしい服装だけでなく、全身から懐かしい「先生オーラ」が出ている(笑)。
 そのせいか、曲を聴きながら、チョークで黒板を引っかいてキーッと音を立てるとか、教壇や机やロッカーをガンガン叩くとか、そんな場面が頭に浮かぶ。
 演奏の合間に聴いた話も面白かった。いまは生徒のカバンにタグがつけてあって、校門を出入りしたのが何時なのかすぐにわかるようになっており、親にメールで連絡が行くという。また、アメリカに生徒を引率してハイスクールを訪問したら、避難訓練があった。銃撃から逃げるためのもので、火事や地震よりよほど可能性も危険性も高いだけに、みな真剣だったという。

 ベートーヴェンの交響曲第七番は、十二‐十二‐八‐六‐五という弦の編成で対向配置。第二ヴァイオリンを同数にして、シンメトリーを明確にする。
 モダン楽器による演奏だがテクスチュアは明快で快速、テンポも表情も自在に動く。歴史奏法研究の成果を踏まえた、最新式の演奏。第一楽章のオーボエのカデンツァや第二楽章のクラリネットの装飾など、再現部に即興的な要素が加わるのが面白い。
 三月に聴いたユロフスキ指揮の同じ曲のマーラー編曲版は、倍管十六型の分厚い響きのなかで、とても凝った動きで一つのパートや楽器を強調したり、表情を多彩にしたりしていた。
 同じようなことをシンプルな編成で、爽快にやってしまっているノットのスタイルと、違うようで似ていて、似ているようで違うのが、とても面白かった。こういう二種の演奏が同時期に存在してしまえるあたり、まさにベートーヴェンは今も生きていると感じる。

五月二十一日(火)クリムト
   
 東京都美術館で「クリムト展 ウィーンと日本1900」をみる。

五月二十三日(木)片山さんとライヴ
 下北沢の書店B&Bにて、夜八時から片山杜秀さんと『平成音楽史』出版記念のトークショー。
 B&Bはブック・アンド・ビアの頭文字。書籍は凝ったものを厳選して並べ、毎晩トークショーが開かれるユニークな書店。モノをモノとしてだけで完結させず、コト(イベント)と組みあわせる、二十一世紀的なスタイルである。
 嬉しいことに客席は盛況。同年代中心のせいか、反応が鋭敏でどんどん笑ってくれるので、とても話しやすかった(自分で話したり、演芸場でお笑いを聞いていると感じることだが、高齢の男性で楽しそうに声を出して笑う人は少ない)。
 それにしても、片山さんの話術はやっぱりすごい。音響と映像の操作を担当してくれた渡邊未帆さんが、息のあったバッテリーのようにお互いの空気を読んでいくんですねと言ってくれたが、まさにそうかもしれない。
「前半は思い出話で入って、休憩後はオウムと佐村河内とノストラダムスでいきましょう」と簡単な段取りを決めるだけで、あとはしゃべっているうちに必ずキーワードが勝手に浮かんできて、話を動かしていくだろうと楽観していられるのが、片山さんとしゃべるときの安心感。
 あとはこちらが構えたミットに、ぎゅんっと鋭く変化しながら、ばっちりとボールが入ってくる。手のひらに残る強い勢いとキレを味わいながら、こちらもできる限りスナップをきかせて、ボールを返す。いつもはマイクの前で味わうことが多いこの気持のよいワクワク感を、ライヴで披露できる機会をもてたのは、ありがたいことだった。
       
                           前半のシメに飛び入りしていただいた田中美登里さんを交えて。

五月二十五日(土)武田神社の薪能
 一年ぶりに甲府を訪れ、武田神社の薪能をみる。これは毎年この時期に行なわれている。じつは昨年、矢澤孝樹さんからお話をいただいた山梨英和大学メイプルカレッジの講座の日程をこの日にあわせてもらい、一石二鳥で味わおうと思ったのだがそうは問屋が卸してくれず、みられずにおわっていたもの。
 そこで今年は日程を別にして、まず五月に能、七月に講座とした(講座は七月六日、広瀬大介さんと二人でトスカニーニの話をする)。薪能には矢澤さんご夫妻をお誘いし、ただでさえ多忙な矢澤さんを、中世日本の魔界へと引きずり込むことを試みる(笑)。
 青空が広がり、途中の列車内からは山梨側からの富士(『いだてん』でいうところの「箱根」)がよく見えたのはよかったが、好天をとおりこして、夏のような高温。湿気がないのでまだよいが。
 会場は武田神社に建てられた能舞台、甲陽武能殿。メインの演目は、観世流シテ方の佐久間二郎を中心に二〇〇六年に建てられたこの能舞台で上演されるのは初めてという大曲、『道成寺』。
・素謡『神歌』観世喜之、観世喜正
・狂言『二人袴』野村萬斎
・能『道成寺』佐久間二郎

         
                          写真は、佐久間二郎の公式サイト「花のみちしるべ」から

 武田神社は、信虎~信玄~勝頼の武田三代の居館だった躑躅ヶ崎館の跡に一九一九年に創建されたもの。信虎が館を造ったのは一五一九年で、つまり今年はそれぞれ百年と五百年の記念年にあたる。
 四半世紀前にも来たことがあるが、当時は土地の高低などまるで関心がなかったから、地政学的な意味など考えもしなかった。甲府盆地の北端、山裾を少し登りかけた位置で、背後に山を控えた斜面から、南側の盆地を睥睨する格好になっている。「躑躅ヶ崎」の名のとおり、山の突端部、崎っぽの南斜面なのだ。まさしく「君子南面す」の良地で、風水的なことも考慮されているのかも知れない。
 現代の市街の中心からは二キロほど北の「町外れ」の山裾にあるので、周囲は木々が多く、境内の空気は清浄。傾きかけた強い陽差しも高い木の陰になり、過ごしやすくなってくる。
 始まりに観世流シテ方の中森貫太による解説。中森は、鎌倉能舞台の創設者で現代風の薪能を戦後に創始し、全国に広めたことで知られる中森晶三の長男。さすがにツボを押さえてわかりやすい。
 本番は観世流の分家の一つ、矢来観世家の当主喜之が翁、嫡子の喜正が千歳を素謡(面や装束をつけず、囃子なしで謡う)で謡う『神歌』で開始。『翁』を素謡で謡うとき、観世流のみが『神歌』という別の名称を用いるそう。
 狂言は野村萬斎と裕基父子による『二人袴』。二か月前に、東次郎など大蔵流の山本家の同じ話をみたばかりで記憶が鮮明なので、違いがよくわかる。
 舅と太郎冠者が舞台に出たあと、野村家では続いて婿が橋懸りに出るが、山本家では父親が先に出ていた。野村家では婿がしゃっちょこばって動き、袴を穿くのを互いに手伝う。袴を裂くのは、舅の前に二人で出るために、父が一計を案じたもの。山本家では父の親馬鹿ぶりが強調されるが、袴は取りあっているうちに裂けてしまい、そこで前だけつけることを思いつく。
 展開は同じでも、特に会話部分がかなり異なる。狂言の現行の台本は江戸時代の後半、あるいは明治初めの衰退期をへて完成されたものも多いと読んだ記憶があるが、そうしたことが原因なのだろうか。もちろん、それだけに能よりも近代化され、人間の本音がドラマの前面に出て、理解されやすくなっている。
 休憩後、いよいよ『道成寺』。完全に暮れて夜空が包む。温度が急激に下がって肌寒いほどなのは、山裾だからこそ。
 正直、パイプ椅子では前の席との高低がつかないので、役者の上半身しか見えない。音で大半を把握することになる。PAなしの声は、最初こそ遠く感じられるが、次第にシテの佐久間二郎の声も響くようになり、こちらも慣れてきて、充分に聞こえるようになる。耳というものの玄妙さ、聴こうとする意識のもつ力。いまは安易な拡声技術に頼りすぎだと、こういうときはつくづく思う。さまざまな鳥の声や羽音、風の声も、やがて不思議に調和していく。能楽は本来、このような形で屋外で演じられるものだから、この音響こそが自然なのだろう(昔は基本的に昼間の上演だが)。
 視覚的には不完全でも、神社の澄んだ空気と開放感のなかで味わう能には、能楽堂とは別の興趣がある。そして『道成寺』は、やはり特別な傑作。時間の感覚を操作することで、三間四方しかない空間が広大無辺のものとなっていく、その歪みとねじれの快感。
 終演後は矢澤さんのお車に乗せていただき、甲府駅近くで夕食。肉も野菜も新鮮、そしてその鮮度を活かした味付けが美味。心地よき甲府の一夜。
 さらにお土産として、矢澤さんから京都ANDEのデニッシュ食パンをいただく。バターの香ばしさと、しっとりとしてムラのない食感が、じつに美味。
 甲府なのになぜ京都のデニッシュかというと、昨年十一月に、ANDEが矢澤さんが代表取締役社長をつとめるニューロン製菓グループに加わったから。東京のデパートにも随時出展されるそうで、甲斐に、いや買いに行かねば。
    写真は「デニッシュ食パンのANDE」のサイトから

五月二十七日(火)警官たち
 トランプ米大統領来日のため、新宿通りの警備が凄かった。改元前後の比ではなく、本当にそこらじゅうに警察官。しかし面白かったのは、警官が交差点に二人並ぶと平気で雑談を始めたり、コンビニで客の行列に並んで何か買ってたり、すきだらけなこと。
 それこそ昭和の頃は、公務中の警官が一般人の前で素の顔をみせるなんてことは、絶対になかった気がする。
 いいでも悪いでもなく、照る春や昭和は遠くなりにけり。

五月三十日(木)駆け過ぎていくもの
 『いだてん』第二十回を録画でみる。このドラマは全体に、駆け過ぎていくものがテーマのような気がしてきた。
 人の生涯の春夏秋冬は、あっという間に過ぎていく。絶頂期の短いアスリートの肉体美は、その象徴。選手から教育者へ、そして退隠へ。
 このことを最初に感じたのは、欧州から帰国した三島弥彦に向って天狗倶楽部の面々が、年をとったから解散だ、と告げた場面だった。青春の終り。しかし人生は終らず、人は次のステージへ。
 この移り変わり、さまざまな人間のそれを無数に絡めあいながら、このドラマは半世紀の歳月を描こうとしているらしい。例年の大河の弱点は、最後になると主人公が老耄して暗い話になるのが多いことだが、今回は、駆け過ぎていくものたちがバトンを次の世代に渡していくから、生命の輝きはつきることがない。
 それにしても、ほんとうに善人しか出てこない、ユートピアのようなドラマ。倒すべき敵は、ライバルは、自らの内側にしかいない。自分はそれが大好き。

五月三十一日(金)ヘレヴェッヘ再び
 すみだトリフォニーでヘレヴェッヘ指揮新日本フィル。十四時開始と思い込んでいて、家を出る直前にチェックしたら十九時開始。逆でなくてよかった。
 シューマンの交響曲第二番が明朗な響きで生き生きと流れ、生の歓びと感謝を感じて気持ちよし。明日はさらによくなりそう。ヘレヴェッヘを聴くのは読売日本交響楽団に客演したとき以来で、いつだっけと「可変日記」を読みかえしたら二〇一三年。もう六年も前とは驚き。
 対向配置で十二‐十二‐八‐八‐六。チェロはストバイの後ろ。コントラバスは最後列に横一線。読響では十四‐十二‐十‐八‐六と数を漸減させたのに、今回は完全に左右対称型なのが面白い。
 今年は、ヴァイオリン二本のあいだにチェンバロというオノフリのコンサートを聴いて以来、十九世紀一杯までは高音対低音のピアノ型ではなく、左右対称のシンメトリーこそ西洋音楽の音響の基本形だったんじゃないか(単にヴァイオリンの対向配置だけではなく、もっと全体的に。もちろん、オーケストラで完全な対称はないけれど)という気がして、このような「鏡合わせ」風の配置に出会うと、いろいろと参考になることが多い。
 四月に聴いたBCJのマタイも、オルガンを中央にして、二群の合唱とオーケストラをシンメトリーにしていたのが印象的だった。今日もそう。ただ、読響のときは十人のヴィオラがセコバイ以上に大活躍したのがとても面白かったが、今日の人数だと埋没気味。

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六月二日(日)金春会
   
 国立能楽堂で金春会定期能。
・能『盛久』山井綱雄、森常好、野村万之丞
・狂言『蚊相撲』野村萬、能村晶人、野村万蔵
・能『井筒』櫻間右陣、宝生欣哉、河野佑紀

 金春会の定期能は、東京では数少ない自由席。以前に来たときよりも今日はよく入っていた。『盛久』では首斬り役の刀が抜けないハプニング。

六月四日(火)久米部とライオン
 朝日カルチャーセンター新宿教室で片山杜秀さんが開講中の講座「クラシック音楽で戦争を読み解く」全五回のうちの第四回を聴講に行く。五回とも聴きたかったのだが日程が合わず、残念ながらこの日だけ。
 しかし内容は抜群に面白く、まさに片山ワールド。古代日本の代表的な戦闘歌として「久米歌」が紹介されるが、その解釈に援用されるのが松岡静雄(一八七八~一九三六)の『日本古語大辞典』。
 この著者の名前は初めて聞く。柳田國男の実弟で海軍軍人、大佐で退役後は兄への対向意識のように民俗学、言語学の研究に没頭し、多くの著作をなした(兄はその業績を評価しなかったらしい)。古代朝鮮語や南洋語で日本語のルーツを探るという、いかにも危ない(笑)作業に力を入れた。松岡によれば、「クメ」も古代朝鮮語でよめば「大きな群れ」という意味になり、すなわちその指揮官とされる大伴氏の「大伴」と同じ意味になるという。
 「これが本当かどうかはともかく…」と、一種のトンデモ本をジャンプ台に利用しながら、非武装の平和国家だった高天原が天孫降臨に際して軍備を整え、そのために戦闘歌が生まれることを語ってしまうなんて、片山さんにしかできない荒技(もちろん誉めている)。
 この後も、人間がポリフォニックな歌を身につけたのは、原始のアフリカで、集団でライオンを威嚇するためだったという新説が展開されるジョルダーニア著の『人間はなぜ歌うのか?』(邦訳があるというのがまた凄い)が出てきたり、とにかく面白かった。某出版社がこの講座の書籍化を予定しているとのことなので、大いに楽しみ(しかし、この話を原稿化するライターさんは大変そう…)。

 そして終了後、片山さん及び朝カルの担当者さんとしゃべっていたら、『平成音楽史』のトークショー第二弾を朝日カルチャーセンターで八月十七日にやろうという話になる。「片ヤマ崎」第二弾、自分としても大いに楽しみ。

六月五日(水)時頼とパガニーニ
 午後は国立能楽堂で定例公演。
・狂言『薩摩守(さつまのかみ)』高野和憲(和泉流)
・能『藤栄(とうえい)』金井雄資(宝生流)

 『藤栄』は武士たちの話なので、直面で演じられる。国立能楽堂のチラシとサイトには次のような紹介文がある。
「甥・月若の領地を横領した藤栄の前に身分を隠した最明寺時頼が現れ、藤栄を懲らしめます。藤栄の芸尽くしも見所の、能には珍しい勧善懲悪の物語です」
 シテ(金井雄資)が演じるのは、摂津芦屋の地頭だった兄の遺領をその子から奪い、のうのうと暮らす悪役の藤栄。シテが人間の悪役――鬼などではなくて生身の――という能は珍しいらしい。
 無一文で放逐された甥の月若(子方:野月惺太)は、下人(ワキツレ:則久英志)に伴われて、塩焼小屋にいる。そこへ一夜の宿を乞う旅の僧(ワキ:殿田謙吉)が現れる。子供の賤しからぬ面相に驚き、下人から事情を教わると、三日のうちに元の地位に戻してやるといい、藤栄が舟遊びをしている浜辺に向かう。
 そして、藤栄が友人の鳴尾と浜辺で舞や謡いで遊んでいるところに現れた旅の僧は、羯鼓も打てと挑発してシテに芸尽くしさせた後、我こそは最明寺入道時頼なりと正体を明かして藤栄をやりこめ、月若に所領を戻してやる。
 まさに水戸黄門そのままの展開。ただし藤栄には罰を与えることなく、慈悲の心で同じだけの知行を新たに与える。誰も傷つかない、皆めでたしめでたしの強引なハッピーエンドになる。シテに恥をかかせないようになっていて、晴れやかな場にもふさわしいようにという、武家社会のご都合主義なのか。
 そういえば、水戸黄門こと徳川光圀は兄の子に跡を継がせたことで知られる。大河ドラマの『元禄太平記』だったか、『峠の群像』だったか、光圀が将軍綱吉にも兄の遺児綱豊を世継ぎとするようにせまって、能を舞う場面があった。暗殺覚悟で小刀まで帯していたが、後で確かめると作り物だったという話。
 『元禄太平記』なら演じたのは森繁久彌だが、舞っていたのは宇野重吉だった気もする。後者なら『峠の群像』だが、これはあまり見ていなかったので、ここだけ見ている可能性は低い。あやふやだが、この場面で『藤栄』を舞っていたら面白かったかも(実際はもっとメジャーな曲で、面をつけていた)。
 冒頭のワキの謡は『敦盛』、芸尽くしは『自然居士』からの転用など、様々な能の詞章を借りて、楽しんでつくった感じの能だが、その一方で面白いのは、男色的な傾向が濃厚なこと。
 シテの藤栄が舟遊びをしようと浜に出ると、友人の鳴尾が笛太鼓を鳴らして、酒を持参してやってくる。これだけならただの飲み友達だが、ここで、
地謡「いつかは君と」
シテ「君と」
地謡「我と」
シテ「我と」
地謡「君と、枕定めぬ、やよりがもそよの」
と、色っぽい詞が歌われ、さらにそのあとに舞う鳴尾の能力(アイ:深田博治)の小舞の詞も、明白に男色の恋の歌なのだ。能力というより若衆の感じで、さらに舞のあと、この男は主人の客である藤栄に、自らの扇を献じる。すると藤栄はその扇を手にして舞う。男ばかりで妙に馴れ馴れしい、危うく艶めいた宴をしているのだ。
 室町から江戸にかけて、これも武士にとっては日常のことだったのかも。

   
 夜はサントリーホールのブルーローズで、クス・クァルテットによる「ベートーヴェン・サイクルⅡ」。「サントリーホール チェンバーミュージック・ガーデン」では、単一の弦楽四重奏団がベートーヴェン・ツィクルスを行なうのが恒例となっている。十六曲を六回ないし五回の演奏会にどう配置するかも毎年の聞きどころだが、今回は作曲順。
 作曲順というのは、四年前のミロ四重奏団以来だと思う。ベートーヴェンの発展と革新を、順を追って聴けるのは素晴らしい体験なのだが、演奏者の肉体的・精神的負担は大変なもので、コンディションや集中力の管理がとても難しい。
 今日はラズモフスキー三曲。コンサート後半のメインにもなりうる作品が三曲だから、やはり大変。ナマでこの団体を聴くのは二〇〇四年のナポリのサンカルロ劇場以来だから、十五年ぶり。現代風の鋭敏なセンス、敏捷でエッジの立った弦楽四重奏団たちに比べると、くすんで落ち着きのある響き。団体名の由来となっている第一ヴァイオリンのヤーナ・クスが旧東ベルリン出身と聞いて納得。
 日本音楽財団から短期貸与されたパガニーニ・セットのストラディヴァリウスを用いているそうだが、前の使用者だったクレモナ四重奏団にインタビューしたとき、素晴らしい楽器だが慣れるのに一年かかったと、四人が異口同音に話していた。クスの四人も楽ではなさそう。
 とりわけ、第1ヴァイオリンの音程が曲頭などで時々うわずるのは、クレモナの前のハーゲン四重奏団でも聴こえた現象なので、この誇り高き楽器のクセなのかもしれない。
 などと勝手なことを思いつつ、音楽家たちがどれほど難しくとも挑まずにはいられない、名曲の名曲ぶりを堪能する。

六月六日(木)名曲喫茶「ウィーン」
        
 二期会の《サロメ》を東京文化会館でみる。十四時開始の平日マチネーのオペラは新国立劇場でも珍しくないが、二時間弱と短いために十六時前に暗い空間を出て、六月のかんかん照りの下を歩くのは不思議な感じ。日経新聞に評を書く。
 JRを乗り継いで、久しぶりにお茶の水のディスクユニオンへ。天空の城と化した新宿店より行くのが楽。ミュージックバードの「夜ばなし演奏史譚」に使えるディスクがいくつかあって嬉しい。
 帰路、駅前の茗渓通りを少し進むと、懐かしい名曲喫茶「ウィーン」があるので眺める。といっても店は現存せず、ビル(サンロイヤルビル)の往時のままの派手な外装が残るだけ。
 今は各階に複数の喫茶店や飲み屋が同居する地上六階、地下一階の飲食店ビルだが、かつては全フロアが「ウィーン」という一つの名曲喫茶だった。名曲喫茶といってもほとんどの階が会話自由で、BGM的にクラシックが聴こえるだけ。たしか最上階(五階だったような)だけは私語禁止で、スコアを持ち込んで一人で集中して聴けるようになっているとか聞いた記憶がある。
 しかし自分がよく行っていたのは、クラシックに興味のなかった高校時代、一九七〇年代末のこと。駿台予備校で模擬テストを受けたあと、仲間七~八人でもすぐに入れて便利という理由で、値段も安かった。菜っ葉が一枚はさまった「鳥が食べるみたいな」卵サンドを食べながら、二階か三階でだべっていた。
 それが昭和の末に「サンロイヤル」と名前が変り、いつしか複数のテナントが同居する形式に変った。今は一階に喫茶店のプロントがあるが、喫煙スペースとの仕切りがないという古いスタイルで、煙くて頭が痛くなるので長居できない。脇の円塔部分にある螺旋階段には名曲喫茶時代の雰囲気が残っているので、そこを覗いて帰る。
 ネットで検索すると一九七二年に建ったらしい。すると自分が行ったのは建ってまだ七、八年という時期だったのか。いつまであるかわからないので、写真を撮っておく。

六月八日(土)幻影を追って
   
 サントリーホールでの日本フィルの定期演奏会で、プレトークを担当する。指揮はピエタリ・インキネン。
日本・フィンランド外交関係樹立一〇〇周年記念公演
・湯浅譲二:シベリウス讃‐ミッドナイト・サン‐
・サロネン:ヴァイオリン協奏曲(独奏:諏訪内晶子)
・シベリウス:組曲《レンミンカイネン》―四つの伝説

 湯浅譲二の作品は、引き受けたときには気がつかなかったが、世阿弥の能書の言葉に基づくものだった。三曲すべて、幻影や蜃気楼を音にしたような音楽。
 開場前にマイクテストで舞台に出たとき、諏訪内さんもおられたので、少しお話を聞き、プレトークに早速とりいれることができて、ありがたし。人柄もとても魅力的な美女だった。

六月十三日(木)リストの百鬼夜行
   
 FB友達のご厚意で、プレトニョフのピアノ・リサイタル。渋谷のさくらホールでのKAWAI楽器主催のクローズド・コンサート。曲目は前半がベートーヴェン、後半がリストで、十七日のオペラシティと同じもの。
 リストが凄かった。
・詩的で宗教的な調べより第七曲《葬送曲》~忘れられたワルツ第一番~《ペトラルカのソネット第百四番》~夜想曲《眠られぬ夜、問いと答え》~三つの演奏会用練習曲第二曲《軽やかさ》~凶星!(不運)~二つの演奏会用練習曲~暗い雲~ハンガリー狂詩曲第十一番~葬送前奏曲と葬送行進曲より《葬送行進曲》

 という曲目を拍手なしで一気にひく。葬送曲に始まって葬送行進曲に終る、陰々滅々、暗鬱の葬列。ハンガリー狂詩曲第十一番でさえ暗い闇のなかにあって、まさしく百鬼夜行。リストの暗鬱な作品は大好きなので、とても気持ちよし。
 アンコールはなぜか一転して、甘美な《愛の夢》第三番。

六月十四日(金)瑞々しきギター
   
 王子ホールでギターのティボー・ガルシア。滴るような、朝露を想わせる潤いと輝きをもつ高音が、ものすごくきれいに歌う。まだ二十五歳、しなやかで繊細な指の魔術。《アルハンブラの思い出》のトレモロの、スケーターが後ろ向きに滑っていくように弧を描いた美しい響きの線が、忘れがたし。

六月十五日(木)連歌の快感へ
 まず十五時からNHKホールでパーヴォ・ヤルヴィ指揮NHK交響楽団。三つのオーケストラによる「ベルクのヴァイオリン協奏曲&ブルックナーの交響曲」競演の一つ目。シャハムのヴァイオリンは期待どおり甘美だが、NHKホールの空間はこの曲には巨大すぎた。
 そのあと急いで国立演芸場に向かい、十八時から「花形演芸会スペシャル~受賞者の会~」。
      
落語     古今亭志ん五
コント    うしろシティ
活動写真弁士 坂本頼光
落語     三笑亭夢丸
講談     神田松之丞
―仲入り―
平成三十年度花形演芸大賞 贈賞式
【大賞】江戸家小猫
【金賞】神田松之丞、桂吉坊、三笑亭夢丸、坂本頼光
【銀賞】古今亭志ん五、うしろシティ、入船亭小辰(休演)、桂雀太
司会 桃月庵白酒
落語 ―ゲスト― 桃月庵白酒
上方落語   桂雀太
上方落語   桂吉坊
ものまね   江戸家小猫

 国立演芸場では月一回、芸歴二十年以内の若手を集めて花形演芸会を行なっている。そのなかから毎年大賞一人、金賞銀賞各四組が選ばれる。その贈賞式と記念公演の会。いきなり大賞をもらえることはなく、銀→金→大賞と年ごとに段階を踏む。
 二人組コントのうしろシティは、普段はお笑いライブハウスが主舞台で、噺家と一緒になることも少ないとか。それなのに選ばれている、ということが実力の証明なのだろう。
 弁士の坂本頼光は「サザザさん」シリーズで有名な人だが、この場ではそれは封印して――秘密ということになっているらしい――斎藤寅次郎監督の昭和五年の喜劇映画『石川五右衛門の法事』。
 登場と同時に「待ってました!」の声もかかった講談の神田松之丞は、談志を想わせる毒で笑わせながら『扇の的』。
 贈賞式のあとは白酒、雀太と笑わせてもらったあとに吉坊が続き、トリは小猫の見事な鳴き真似と話術。三時間半の長丁場。

 人前で話すものとして、かれらの話術はとても参考になる。今回、とても面白かったのは、まだ若く互いの距離に遠近があるからか、前の人の話をうまく受け継いでふくらませて笑いをとれる人と、アドリブがきかずに自分の話で完結してしまう人と、両方がいたこと。
 これは、ものを考えるヒントになる。昨年十二月にここで円丈の会を聴いたときは、全員が噺家で互いをよく知っているからだろう、前の噺の話題のポイントを巧みに採り入れて受け継ぎ、笑いをとっていったのが印象的だった。
 これは毎回、その場のアドリブで生まれるつながりなのだろう。そこで思ったのは、中世に大流行した「連歌」の面白さって、こういうものだったのかもしれないなということ。いつのまにか、巧まずして思わぬつながりが出て、ふくらんだり変化したりしながら、場の連帯感、共有感、連続性に、みなが「いま生きている喜び」を味わい、興奮していく。
 SNSでも、複数の人の即興的な書き込みから、こうした連続性の快感がまれに生まれてくることが、たまにある。
 それと同じように、寄席でも交代で出てくる芸人たちが話の連歌のようなことをしてくれると、開演時からずっと座って聴いている客にとっては、公演全体が一つながりのように感じられて、共有感が高まるのだ。

 そうして考えると、クラシックの演奏会で複数の人が交代で出るとき、もう一つ盛りあがりを欠くことが多いのは、こうした連歌的つながり、共有感をもちにくいからかも知れない。バラバラで、人が出入りしているだけになりやすいのだ(盛りあがる場合も、トリなどある特定の人が場をさらっているだけで、前後はかすんでいたりする)。
 クラシックのレパートリーのなかで、そうした連歌性を生じさせるには、どのような方法があるだろうか。難しいだろうことは自分にもすぐにわかるが、可能性がまったくないわけではない。
 どうにかそうした工夫ができれば、ガラ・コンサートのようなものは、もっともっとその折角の豪華さにふさわしい喜びと一体感を、聴衆にもたらすことができるはずだろう。

六月二十二日(土)劇場型演奏の愉悦
   
 紀尾井ホール室内管弦楽団の演奏会を鈴木雅明の指揮で聴く。
・モーツァルト:交響曲第二十九番
・バルトーク:弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽
・ストラヴィンスキー:バレエ音楽「プルチネルラ」(全曲)[松井亜希(ソプラノ)、櫻田亮(テノール)、与那城敬(バリトン)]

 モダン楽器で端正に無駄なく運ぶスタイル。曲によって楽器配置が変わるのが面白く、かつ効果的だった。
 初めのモーツァルトは八型のオーソドックスな対向配置(ヴィオラはセコバイの背後)だが、バルトークは作曲者がスコアに指定した配置に従い、七‐三‐二‐二と七‐二‐二‐二と二群に分割した弦楽をシンメトリックに左右に置き、中央の指揮者正面にピアノ、上手にチェレスタ、下手にハープ。ピアノの後ろにティンパニがいて、上手に大太鼓とシンバル他、下手に木琴。
 今年自分がこだわっているシンメトリーな音響効果、鏡像のような効果を、バルトークが実践していたことが実感できて、とても嬉しい。
 この配置を考慮したオーケストレーションがなされていることが、目と耳の相乗効果でよくわかる。弦楽もパート内でも分割されて左右が呼応してみたりと、とても芸が細かい。その音場設計の面白さがよくわかるのは、適切な編成と適切なホールだからこそ。
 互いの音、自分の音をよく聴いて音楽をつくる、顔がよく見える面白さこそが室内オーケストラの醍醐味。一昨日サントリーホールで聴いたパーヴォ&N響のトゥーランガリラの巨大編成の、爽快にして壮大な響き(各楽員の技術とハーモニー感覚が向上したからこそ)も気持ちよかったが、室内オーケストラはけっしてその「貧相なやつ」ではなく、個人がより画然とした上で合奏していることに面白味がある。

 このことは、後半の《プルチネルラ》の、独唱入り全曲版でも明らかだった。ここではピアノ配置に変り、チェロが上手前面に出て、その後ろにコントラバスがいる。弦の首席は最前列に一人ずつ座り、ソロ同士で演奏するときには互いの距離が近くなるようになっている。
 三人の歌手たちだけでなく、オーケストラにも演出を加えた「劇場型演奏」だったのが面白かった。十六曲目だったか十七曲目だったか、木管アンサンブルだけが演奏する場面では、弦楽は顔の向きを変えて管楽器を見つめ、指揮者は指揮をやめて横に行き、奏者たちにまかせてしまう。演奏はさすがに見事だし、終ったあとは木管以外の楽員が盛大に拍手するので、客席もつられて拍手。
 コントラバスの首席がソロをとる十八曲目では、ラメで光る蝶ネクタイをつけて(道化師の一座に加わった、ということか)、チェロの前まで出る。終わるとまた拍手。ソロのときに奏者が席を変えて最前列に出てきたりするのは、バッハなどバロック作品の演奏では日常的に使われている手法で、適切な編成と適切なホールではとても映える。
 歌手たちも表情と身振りをつけて歌ってくれたが、こちらは字幕やプログラムに歌詞が出ていなかったため、具体的に何を歌っているのかが客席に伝わりにくかったことは惜しかった。
 それはそれとして、室内オーケストラの特質と効果をうまく活用した、とても愉しい演奏会。

六月二十三日(日)京都からようこそ
   
 サントリーホールにて、京都市交響楽団の東京公演を広上淳一の指揮で聴く。
・ブラームス:悲劇的序曲
・コルンゴルト:ヴァイオリン協奏曲(独奏:五嶋龍)
・ラフマニノフ:交響的舞曲

 広上シェフのもとで演奏水準が上り、充実したコンサートで人気も高いという京都市響。一回は本拠地京都で聴いてみたいと思いつつ、外国人観光客の激増に気が引けて、行く機会を得なかった。
 一曲目のブラームスでは弦の響きが芳醇で、在京オケよりも強い個性を感じて嬉しくなるが、なぜか途中でアンサンブルが乱れた。しかしコルンゴルトとラフマニノフでは本領発揮。この二曲はどちらも、ストコフスキーの活躍を象徴として、オーケストラが妖艶で官能的な響きを出した一九三〇~四〇年代のアメリカで書かれた音楽だけに、優れた交響楽団が腕をふるうにはぴったり。
 こうして続けて聴くと、コルンゴルトの曲はその響きの蠱惑にいささか頼りすぎた作品で、その弱点ゆえに評価を得にくかったのだろうと納得できた。

六月二十六日(水)夢の聖火
 日頃愛用しているサイトに「日本の古本屋」がある。
 全国各地の古本屋さんが参加しているサイトで、長い歴史のなかで確立されてきた基準により、プロが目利きした値付けと状態判断(というか、基本的に美品しか紹介されない)がされているもの。玉石混淆、何でもアリがよくも悪くも魅力のアマゾンの古本とはかなり違う。
 ここのメールマガジンにはなぜか、新刊書を著者が紹介する「自著を語る」があるという。片山さんはあまりにも多忙なので、私が臆面もなく『平成音楽史』の紹介をした。サイトにも全文が紹介されている。
https://www.kosho.or.jp/wppost/plg_WpPost_post.php?postid=4982

 録りだめしていた『いだてん』前半最後の二回をやっとみた。関東大震災を描く二回。いうまでもなく、一九二三年という過去に二〇一一年の記憶を重ねて描く、震災と復興の物語。素晴らしい締めくくり。
 このドラマのテーマだと私が思っている「駆け過ぎていく者」の代表にシマちゃんが選ばれたのは悲しかったが、生命は受け継がれていく。慰霊の祭壇の脇で眠りこけた金栗四三が夢でみたシマちゃんは、聖火を手に外苑の競技場へと走り去っていく。聖火だとわかった瞬間は、胸が熱くなった(この時点で聖火リレーがあったかどうかとか、そんなことはどうでもいい)。まさに一場の夢幻能のよう。その遺志を体現するように、バラックに現れる人見絹枝(この役者さん、雰囲気があってとても素敵)。
 文明開化、かなり無理をして西洋化した日本の象徴だった十二階はあえなく崩壊したが、ここから外苑をみていた嘉納治五郎は、今度は競技場の二階から未来をみている。この人は、つねに高いところで夢を追っている。地面にへばりついて泣き笑いする庶民の代表としての志ん生(そのかれも、この長いドラマの語り部となるときには高座の上にいる)。
 隅田川の西岸、浅草から山の手にかけての「東京左半分」しか描かなかったのは、物語を広げすぎない配慮か。震災の夜の殺気だった自警団を描いたのは勇気のいることだったろうが、意義の大きいことだった(朝鮮人という言葉だけは、慎重に避けていたが)。
 この、善人しか出てこないドラマのなかで、人間の身勝手な悪意があからさまに描かれたのが、ここまでではこの自警団の場面と、アントワープ五輪での敗北を無責任になじる記者団の場面と、この二つだけだったことは考えさせられる。匿名の人々の、数を頼みにした無責任な暴走。
 短絡的な暴走が常態化していく、軍国主義の時代をどう描いていくのか、後半もとても楽しみ。

六月二十八日(金)リアリズムの影
   
 すみだトリフォニーで新日本フィルの演奏会。井上道義の指揮で、オール・ショスタコーヴィチ・プログラム。
・ジャズ組曲第一番
・バレエ音楽《黄金時代》組曲
・交響曲第五番

 バーンスタインにおけるマーラーに似て、この作曲家にただならぬ愛着を抱く井上らしい、力と思いのこもった演奏。ロシア・アヴァンギャルドの幸福から、大粛清の恐怖の時代への作品群。

六月二十九日(土)室内楽的快感
   
 午後二時から、晴海の第一生命ホールで行なわれた、トリトン晴れた海のオーケストラによる「ベートーヴェン・チクルスⅢ」交響曲第四番と第七番を聴く。
 コンサートマスターの矢部達哉を中心に、六‐五‐四‐三‐二の弦で総勢三十四人の室内オーケストラによる指揮者なしのベートーヴェン。音楽のありかたは室内楽の拡大版という印象だが、といっても微温的にまとまることなく、アグレッシヴで生命力にみちた音楽である。
 英雄的な指揮者が統率する大軍団、みたいな二十世紀的な交響曲演奏とは異なるもので、解釈の差を聴きくらべたりするよりも、そのときそのときの楽員たちの合奏ぶりと、そこから生まれる音を楽しむ、スポーツ観戦に似た感覚。あえていえば、レコードにおける音楽の楽しみかたとは、また別のもの。
   
 終演後は急いで新国立劇場の小劇場に移動して、新国立劇場オペラ研修所のオペラ試演会をみる。
 演目はチャイコフスキーの歌劇《イオランタ》全曲。ピアノ二台によるリダクション版とはいえ、ヤニス・コッコスの演出と美術による舞台上演。
 チャイコフスキーのオペラのなかではマイナーだが、昨年のプレトニョフ指揮ロシア・ナショナル管弦楽団の来日公演など、意外と数年に一度は聴く機会がある。これには行けなかったが、私も十年前の二〇〇九年六月に、フェドセーエフ指揮モスクワ放送交響楽団の来日公演でナマを聴いている。ただし演奏会形式上演だったので、舞台版は今回が初めて。
 中世の南フランスが物語の舞台だが、荒野に緑豊かな城があったり、イスラム教徒の医師が出てきたり、スペイン風。ロシアを舞台とするオペラや後期の交響曲のような泥臭さが少なく、バレエ音楽や交響曲第三番などのように、フランス文化への憧れが出ているのが、個人的にはとても好ましい。
 簡素な舞台だが、ヒロインが盲目だと主人公が気づくきっかけとなる、白と赤の花の色彩の違いは、演奏会形式上演では味わえないもの。
 研修所の試演会といいながら、二回公演が売り切れのために急遽三回になる人気ぶり。それが納得できる、雰囲気豊かないい上演だった。

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七月三日(水)逢はでぞ恋は添うものを
   
 国立能楽堂の定例公演。世阿弥の傑作の一つ、『班女』を初めてみるのが楽しみだった。そして期待に違わぬ舞台。
・狂言『犬山伏(いぬやまぶし)』茂山茂(大蔵流)
・能『班女(はんじょ)』佐野登(宝生流)

 『班女』の物語は美濃国野上宿(関ヶ原あたり)に始まる。シテ(佐野登)はこの宿場の遊女、花子。東下りの途中に寄った都の貴族、吉田少将(ワキ:野口能広)に深く愛され、扇を交換した。
 扇は「あふぎ」、すなわち「会ふ」に通じるので、恋人が再会を約すのに使われる。少将が旅立ったあとも花子はかれを慕い、扇をもてあそぶばかりで、他の客の酒席に出ようとしない。そこで宿の者たちは、彼女を班女と呼びはじめた。
 班女とは、前漢の武帝の寵妃、班捷妤(はんしょうよ)のこと。武帝が新たな女性に心を移して寵を失ったとき、自らを「秋の扇」、すなわち夏がすぎて秋になれば無用のものとなる扇に、自らをたとえた詩をつくったことで知られる。

 舞台には初めに野上の宿の長、すなわち遊女宿の女将が登場する(アイ:茂山あきら)。宴席に出ない花子を追い出してやると語る。呼び出される花子。ゆっくりと橋懸を歩む彼女に、長が「何をもたもたしている。早く歩け」とからむ。
 このアイがいつもの能のアイよりも、さらに人間くさい演技、つまり狂言のときの演技のようなのが面白い。シテの歩みの遅さをからかうときには、もったいぶった能そのものを狂言がからかっているような感じになる。実際、見所からは笑いも起きた(シテが舞台にいるときに笑いがおきるのは珍しい)。説教をしても耳を貸さない花子に怒りをつのらせ、ついに「出ていけ」と怒鳴るあたりも、歌舞伎風のリアルさ。
 写実的な激怒で始まる能は、自分は初めてみた。
 宿から放逐された花子は、能舞台から橋懸に出て、さすらいはじめる。
 ここが素晴らしかった。女が身の置き所なく、吹きすさぶ風の中をあてもなく歩く、その乱れ髪とおぼつかない足どりが、見えるような瞬間になったから。
 こういう、想像の翼が羽ばたいていく瞬間こそ、能の醍醐味。特にここでは、アイの具象的な演技からシテの抽象的な演技へと接続する、その変化そのものが宇宙の広がりを示すようで、見事というほかない、ドラマにみちみちた瞬間。さすが世阿弥。

 ここまでがプロローグ。
 東国から帰洛の途についた吉田少将は、野上の宿で花子を探させるが、もはや追われたと聞く。しかたなく京へ帰り、糺ノ森の下鴨神社に参詣する。
 そこに現れる女一人。もちろん花子。右の片袖を脱いで垂らしているのは、能の決まり事で狂女を示す。悲しみのあまり狂っているのと同時に、物狂いの舞や謡で参詣者を楽しませ、収入源としている。この二重性が、能の狂女の特徴。
 恋人に捨てられた悲しみを歌い舞う。ここの詞章の美しいリズムがまた、さすが世阿弥。
「秋風恨みあり、よしや思ヘばこれもげに、逢ふは別れなるべし。その報ひなれば今さら、世をも人をも恨むまじ。ただ思はれぬ身の程を、思いつづけて独り居の班女が、閨ぞさびしき」

 ――逢ふは別れなるべし。
 なんとまあ、心に沁みる言葉。さらに扇(逢ふぎ)の裏表にひっかけて、

「形見の扇より、なほ裏表あるものは、人心なれけるぞや。扇とは空言や、逢はでぞ恋は添うものを、逢はでぞ恋は添うものを」

 ――逢はでぞ恋は添うものを。
 会えぬがゆえに募る、恋慕の情。
 ここで吉田少将は家臣に、狂女の扇を持ってこいと命じる。いかに暗い輿の中だからといって、恋しい女の姿がわからないなんてことがあるだろうか、と自分は思ったりしたが、ここで片袖を脱ぎ下げにした、狂女の着方に思いがいく。
 脱ぎ下げの姿が暗示する現実の姿は、本当に落ちぶれた、見すぼらしい身なりなのだろう。着飾った遊女のときからは想像もつかないくらいに。だから、我が目を疑わざるを得ないのだ。
 そうなるまでに、彼女がどんな惨めな生活をしてきたか。どんな目にあってきたか。これも、瞬時に想像がつく。
 それやこれやをすべて呑みこんで、少将は女を呼び、自らの扇を開いて、自分が誰かを示す。再会。
 このハッピーエンドは、いかにも中世らしく、下鴨社の神のお導きであるわけだが、しかしそれに加えて、女と男が、自らの意志で運命を切り拓いているところが、また素敵(孤閨を嘆く女の姿が、やはり世阿弥の傑作『砧』の悲劇と、表裏一体になっているのも素晴らしい)。
 能っていいなあ、世阿弥ってすげぇなあと、今さらながらに思い知らされて、幸せになれた時間。

七月四日(木)浅草六区再訪
      
 半蔵門のミュージックバードで「ニューディスク・ナビ」の収録を終えた午後二時過ぎ、浅草に向かう。
 夜六時から浅草公会堂で「活弁と浅草オペラで誘う 麻生子八咫、麻生八咫の浅草!」という公演をみるので、浅草にもずいぶん行っていないし、浅草演芸ホールで寄席もみてみたいと思い、早めに行くことにした。
 アルテスの「帝都クラシック探訪」のために浅草各所を歩いたのが二〇一四年三月。それから五年たった浅草は、とても人の多い街になっていた。いうまでもなくこの間にインバウンドが激増し、買い物需要が一段落した現在でも、東京の繁華街では最も和風が濃い浅草に、外国人観光客が集中しているからである。
 二〇一四年のころは、浅草寺と仲見世・新仲見世に人が集中しているだけで、西側の六区はかなりさびれた雰囲気だった。特に下見に行った日は競馬の開催日で、場外馬券売場に来たお客さんたちがかもし出す、独特の雰囲気が包んでいたのを強烈におぼえている。
 しかし今日は違う。六区にもたくさんの観光客が来ていて、活気がある。その雑踏を抜けて浅草演芸ホールへ入る。入場料は二千八百円で、これで昼の部(十一時四十分~四時三十分)と夜の部(四時四十分~九時)をぶっ続けでみていてもかまわないというシステム。現在のビル(上階にいろもの専門の浅草東洋館がある)は一九五九年に増築したものらしく、内装のあちこちが昔懐かしい感じだが、トイレは清潔に清掃されている。意外だがとても重要な美点。当初は劇場だったそうなので内装は洋風で椅子席。
 六月十五日に国立演芸場へ「花形演芸会スペシャル」をみにいったとき、お笑いライブハウスが主という若いコントのうしろシティに、噺家たちが「やりにくい場所」として浅草演芸ホールにも出てみろと口々に言っていたので、どんな客層なのか興味がわいた。
 落語は十~十五分、いろものは五~十分ほどで入れ替わる。今日は空いているためか、客席の反応は薄め。このあたりがやりにくさなのか。噺家の一人が「浅草も若い人が増えて、お年寄りはどこに行ったかと思ってましたが、ここにいたんですね」と笑いをとったとおり、高齢男性が多いこともあるかもしれない。
 口をへの字にして、あら探しに来ているみたいな通ぶった嫌味な爺はいなさそうなのでまだよかったが、お爺さんというのは、大体どこでも、声を出して笑うことが少ない。拍手も少なく、感情を表情や動作にあらわさない、無愛想な人が多い。自分は積極的に笑ったり喜んだりしたほうが人生を楽しめるし、感受性や思考も活性化できるように思うのだが、年をとるとそうもいかなくなるのだろうか。寄席に来るくらいだから、笑いが好きなはずなのだが…。
 昼の主任の金原亭馬生の噺と、大喜利の茶番「塩原太助 青の別れ」で昼の部が終り、外に出る。せっかくだから老舗へ行こうと、神谷バーの二階にあるレストランで食べる。このビルが建ったのは九十八年前の一九二一年だそう。
 食後に、久しぶりの浅草公会堂。前半は麻生八咫(あそうやた)、子八咫の父娘の活弁による映画『東京行進曲』(溝口健二監督)とチャップリンの『寄席見物』。後半は山田武彦と東京室内歌劇場のメンバーほかによる、浅草オペラなどの歌。益田太郎冠者の〈コロッケの唄〉や〈おてくさんの歌〉も歌われた。
 六区興行街のまぼろし。

七月五日(金)ノトス・カルテット
 王子ホールで、ピアノ四重奏のノトス・カルテットの演奏会。
・バルトーク:ピアノ四重奏曲
・ブライス・デスナー:エル・チャン
・ブラームス:ピアノ四重奏曲第一番

 二〇〇七年結成の若い団体。バルトークはCD録音もしたもので、作曲家十七歳の若書き。作品番号も与えられているが未出版、自筆譜も行方不明とされていた作品を、かれらが見つけ出した。ブラームスの影響を感じるもの。
 イキのいい団体で、これからに期待したいけれど、ブラームスを聴いて引っかかったのは、なにか全体の音楽がデジタルな、ピアノ型の発想をしているように感じられること。弦もピアノみたいに音符を連ねていて、動きが硬い。
 この第一番はフォーレ四重奏団の十八番だけに、どうしてもかれらと較べてしまう。ピアノなのにピアノではないようにやわらかく歌い、弦楽器と完璧に調和しながら個性を発揮してくる、フォーレ四重奏団がなぜ凄いのかに、あらためて気がつく。あの弾力。

七月六日(土)塩山に歴史あり
 甲府にて、山梨英和大学メイプルカレッジの講座「“クラシック音楽”って、何?」の講師役を、広瀬大介さんとつとめる。テーマはトスカニーニ。
      
 トスカニーニの本質はイタリア・オペラの、それもヴェルディのオペラの指揮者であること、そして日本では誤解が多い存在であることを二時間、広瀬さんをお相手にくっちゃべる。
 今年の「東京・春・音楽祭」でのムーティの、トスカニーニの流儀を後世に伝えなくてはならないという強烈な意志を間近に見ることができたことは、トスカニーニが単なる「昔はよかった」の追憶ではなく、現代につながる音楽存在であると再認識できて、とてもありがたいことだった。その種子を植えつけられた人間として、しゃべってみたつもり。
 《椿姫》のリハーサル録音から《売られた花嫁》序曲へと音楽を紹介しながら、結局は自分自身がその強烈な音楽に呑みこまれていく快感(笑)。
 広瀬さんはお相手だけでなく面倒なCDとDVDの操作をつとめてくださり、さらには言いっぱなしの曲目リストを、矢澤孝樹さんがホワイトボードに書き出してくださる。
 鋭敏な大学教授と情熱的な企業経営者に雑用をまかせてしゃべり続ける素浪人て、それでいいのか俺よ(笑)。
 おふたりの介添えで二時間があっという間に終わる。受講生のみなさんも熱心に聞いてくださった。広瀬さんと矢澤さんに心から感謝。

 昨年もフルトヴェングラーをテーマにやらせていただいたのだが、中央線が西国分寺駅付近の信号故障で遅れ、矢澤さんにお話ししてもらって一時間遅刻、半分しかしゃべらないで講師料はしっかりもらっていくという、みっともない仕儀にあいなった。今年は無事に終えることができてよかった。
 そして今日は少し早めに行って、平成の初め頃、送電線工事のために二年近く滞在した塩山の町を四半世紀ぶりに訪れてみたのだが、駅前の様子が一変しているのに茫然。
 当時は駅に入る狭い道に活気のある商店街があったのだが、数年後にそれを取っ払って道幅を広げ、多くの店舗は周辺の道路沿いに移転したのだという。たしかに平成ヒトケタまでは、クルマ社会が絶対正義だったとはいえ、しかし今の、眠ったようなひとけのなさは…。
 駅の南側にあったショッピングセンター(自分は駅前にあったような気がしていたが、記憶違いだった)は、いまは居抜きで甲州市役所になっていると、あとで矢澤さんに教えていただいた。
 この建物も、そうとは知らずに近くまで行って、視界に入った瞬間、どうも建物の大きさやシルエットに見覚えがあるし、隣の広い駐車場も、地元のお祭りの会場になっていたところにそっくりだ…と感じたのだが、「もっと駅前に近かったはず」とか、「市役所なら地元の土建屋さんのためにも、自前で建物を建てるはず」などと余計なことを考えて、直感を打ち消してしまった。やはり、先入観よりも直感的印象のほうが正しい。
 矢澤さんによるとここは、さらに昔は絹倉庫だったのだという。それを記念してショッピングセンターは「シルク」と名づけられていた。往時の塩山が養蚕取引において日本でも三本の指に入る集積地だったとは、不覚にも知らなかった。私がいたころの塩山駅北側の温泉旅館が風格あるものだったのは、裕福な商人たちが利用して栄えたことの余韻だったのだろう。
 そしてその絹倉庫は、矢澤さんのひいおじいさんが経営者の一人だったそう。
 街に歴史あり。そして、夢のまた夢。

 一方、駅のすぐ北口に甘草屋敷という重要文化財に指定された江戸時代後期の立派な屋敷があることは、今回散歩して初めて気がついた。仕事でここにいた三十歳前後のころには、街や地形への関心などまったくなかったからだが、もう少し見ておけばよかった。

七月七日(日)史上最大の狂言(?)
   
 国立能楽堂で開催された、第五回・大蔵流五家狂言会をみる。
 現在、能楽協会に所属する狂言方には大蔵流と和泉流があって、それぞれがいくつかの家によって構成されている。
 この大蔵流五家狂言会は、大蔵家、山本家、茂山千五郎家、茂山忠三郎家、善竹家の、「30~40代の次代を担う総勢17名の狂言師が年1回開催している狂言会」。
・『業平餅』善竹大二郎、大藏教義、大藏ゆき、茂山千之丞、大藏基誠、善竹隆平、茂山逸平、善竹忠亮
・『止動方角』善竹富太郎、茂山千五郎、山本則孝、茂山茂
・『唐相撲』大藏彌太郎、山本泰太郎、茂山忠三郎 ほか

 狂言で最大の人数が登場することで知られる『唐相撲(とうずもう)』をやるというのが楽しみだった。
 ほとんどの狂言は二、三人でやるが、これは少なくとも二十人、今回は五家合同なので約四十人出る大イベント。ほかに囃子方四人、後見が四人いるので、合計で五十人近い。能では昨年六月の『正尊』で三十三人出るのをみたが、それを上回る、能舞台が抜けるんじゃないかというくらいの規模。
 強すぎて日本に相手がいなくなり、強い男を求めて唐に渡った相撲取り(山本泰太郎)。しかしここでも向かうところ敵なし、ついには唐の帝王にも無敵ぶりを愛されるほどになったが、故郷が恋しくなって帰国を願い出ることにし、通辞(茂山忠三郎)にその旨を告げる。
 ここで、帝王(大藏彌太郎)が子方の楽隊に先導され、親衛隊や臣下を引き連れて入場し、能『邯鄲』の引き立て大宮みたいな屋根のついた一畳台を玉座に見立てて、着座する。子方五人、親衛隊八人が能舞台に座り、臣下二十二人が橋懸に座る。唐風の服で、関羽みたいな長い髯も何人か。

 面白いのは、日本語をしゃべるのは日本人と通辞の二人だけで、あとは全員が唐音という中国語もどきしかしゃべらないこと(ときどきアドリブでハナモゲラ語みたいになる)。通辞が皇帝に取り次ぐと、臣下全員と相撲をして勝ってみせたら帰国を許すという。
 というわけで、一人で三十五人(プログラムには三十七人の名があるから数え間違いかもしれない)と続けて闘う、一乗寺下り松か極真会館の百人組手か、みたいな連戦が始まる。
 といっても狂言だから真剣勝負のわけがなく、五家のイキのいい狂言方がそれぞれに趣向をこらし、アクロバティックな動き(目付柱を上までよじ登って飛び下りたりとかする)を交えて拍手と笑いの渦を巻き起こしながら、唐人たちは次々と敗れていく。唐音による、わけのわからない応援のかけ声もおかしい。
 臣下全員が敗退し、ついに帝王が自分で闘うといいだす。ラスボス登場。戦闘着に着替える物着の間、鳴りひびく囃子の楽の音と四十人弱の謡(大迫力)。
 そのあと帝王が一畳台の上で舞うのだが、狭い一畳台で舞う帝王とくれば『邯鄲』のシテを想起するわけで、そのパロディで「空下り」をやったり、背を向けて台に腰かけたりするのが楽しい。ひょっとしたら『邯鄲』のシテ盧生と同一人物なのかも、なんて空想もふくらむ。
 しかし帝王もあえなく敗れて大混乱、日本人が襲いかかる唐人を蹴散らして退場すると、帝王は騎馬戦風の馬に乗り、隊列を整えてにぎやかに引きあげ(馬に乗ったのはあくまで「やるまいぞ」と追いかける、という意味か?)、終演。
 その規模にふさわしく、六十五分という上演時間も狂言では異例の長さだが、大いに楽しんだ。
 『唐相撲』は大規模なものなので以前は上演機会が少なかったらしいが、イベントとしての面白さがあるので、二十一世紀になってからは茂山千五郎家を中心にときどき取りあげられているらしい。特に今年は川崎で山本家、横浜で茂山千五郎家がやって、これが関東で三回目。前二回は日程が合わなかったので、ここでようやくみられて嬉しかった。登場人数は、おそらく今日が最多だったはず。
   
    横浜能楽堂での公演を紹介する

ページ

から、最後の帝王退場の場面

七月十二日(金)(一)妻に酌をする夫
 十日から十三日まで、オーケストラ強化週間。インバル指揮ベルリン・コンツェルトハウス管~ナナシ指揮読響~ヴェネツィ指揮新日本フィル~ヴィオッティ指揮東響。
 東京芸術劇場~サントリーホール~すみだトリフォニー~オペラシティコンサートホールと、みな会場が違ったのも楽しい。日本のオーケストラが技術だけでなく、音楽性においても進歩したことを実感。ハンガリーの筋肉質なお国ものを披露したナナシ、シェーンベルクとドヴォルジャークをブラームスで結んで、演奏会の前半も後半(アンコールにハンガリー舞曲をやった)もロマ音楽のわきたつリズムでしめたヴィオッティ。
 そのなかで、好悪をこえて強烈だったのはベアトリーチェ・ヴェネツィ。東京でも女性指揮者を聴く機会が増え、今年だけでも同じ新日本フィルでイェアンニン、藤原の《蝶々夫人》と新国オベラ研修所の《イオランタ》の鈴木恵里奈、それにムーティのオペラ・アカデミーでの沖澤のどかと、既に三人聴いている。
 しかし、ドレスで指揮する人をみたのはこれが初めて。アンコールのプッチーニの《妖精ヴィッリ》間奏曲がメキシコの音楽みたいに響いたのも、これまた好悪をこえて強烈だった(プッチーニと同じルッカ生れのイタリア人なのに)。どの曲のコーダも、上半身を左へねじりながら客席に半身を向けた姿勢で終わるのも、三たび好悪をこえて強烈だった。
    写真は

新日本フィルの公式ツイッター

から

・ニーノ・ロータ:組曲《道》抜粋
ヒナステラ:ハープ協奏曲(独奏:吉野 直子)
ファリャ:バレエ音楽《三角帽子》全曲(メゾソプラノ:池田 香織)

 夜は錦糸町から水道橋に総武線で移動して、宝生能楽堂で銕仙会の定期公演。
   
・能『通盛』観世銕之丞
・狂言『因幡堂』山本東次郎
・能『放下僧』長山桂三

 まず『道盛』と『因幡堂』。この二つは明白に関連づけられていた。
 『道盛』は井阿弥の作を世阿弥が改作したと考えられている。武士の霊がシテとなる修羅能の一つだが、男女の深い情愛、夫婦愛に重きを置いた点に特徴があり、そのために王朝物と戦記物の二つの要素を合わせたような趣がある。
 一般的な修羅能は、諸国一見の旅の僧(ワキ)が古戦場を訪れると、とても常人とは思えぬ人物(前シテ)が現れ、そこで戦死した武士のことを語って姿を消す。ここまでが前場で、次に所の者(アイ)が登場して僧と会話し、武士のことをあらためて説明し、件の人はその霊に相違ないから弔ってくれといって退場。ここからが後場で、僧が読経して弔っていると、霊が生前の甲冑姿で現れ(後シテ)、討ち死の様子を再現し、弔いを願って消える。前後に分かれ、後場は僧が夜にみた夢のようでもあるので、近代では複式夢幻能と呼ばれる。
 『道盛』のシテは、一ノ谷合戦で戦死した平家の公達、越前三位通盛(観世銕之丞)。しかしこの能では愛妻の小宰相の局の霊(谷本健吾)も一緒に出る。前場は通盛よりむしろ小宰相がメインで、夫の戦死を知って世をはかなんだ小宰相が、屋島へと海路退却する船から、鳴門の渦潮に身を投げる場面の再現がクライマックス。続くアイ(山本凜太郎)の語りで、通盛が討たれたのは一ノ谷近くの湊川だが、死んだ妻を慕って鳴門まで来て、一緒にいるのだろうと説明される。さらに語られる二人のなれそめは、まさに王朝恋物語。殺伐とした戦場のイメージと対比されて、失われた優美な日々の遠い思い出が悲しく輝く。
 そして、戦場の場面となる後場にも夫婦で出てくるあたりが、この能の興趣である。合戦前夜、通盛は戦陣に妻を呼び寄せ、自らの生を確かめるように、瀬戸際の逢瀬にすがりつく。通盛は妻に酌をしてやり、酒を酌み交わす。
 情けなく意気地のない弱い人間の姿。それゆえにこの能は江戸期の武士から嫌われたそうだが(やせ我慢こそが武士の誇りだから)、だからこそ共感できる。
 しかし通盛の弟、平家随一の猛将、能登守教経がいい加減にしろと怒鳴り込んできて、妻は船に戻され、夫は戦場に向かう。翌朝、義経の奇襲で平家方は総崩れとなり、通盛は敵と刺し違えて死ぬ。ここは銕之丞が迫力に満ちた足拍子で舞い、死にざまを見よとばかりに、最後の奮戦を描いて終り。
     
   舞台写真は2015年の銕仙会公演のもので、

銕仙会のサイト

から

 そのあとの狂言の『因幡堂』は、大酒ぐらいの妻(山本泰太郎)に堪えられなくなった夫(山本東次郎)が、妻が里帰りした機会に離縁状を送りつけ、因幡堂の薬師に参籠して、新しくよい妻をたまわれと祈って眠る。離縁状をみて激怒した妻は、因幡堂に駆けつけて夫の枕元に立ち、西門の角に立つ女を妻とせよと夢に吹きこむ。よい霊夢を見たと夫は、西門にいた女、つまり元の妻を顔も見ずに連れ帰る。
 帰宅して夫婦固めの盃をしようとすると、女は酌をしろと杯を差し出す。そうだった、祝言では夫が酌をするものだったと注ぐと、飲むわ飲むわ、正体をあらわした妻に夫は責めたてられて終り。
 夫のほうが妻に酌をするという動作が『通盛』と共通していて、しかし状況がまるで異なるという、面白さ。

七月十二日(金)(二)武士の能
 宝生能楽堂での銕仙会の定期公演、後半の『放下僧』の話。
 この能は昨年五月九日に国立能楽堂主宰公演で初めてみていて、この日記には以下のようなことを書いている。

 『放下僧』は仇討物。父を殺した仇に兄弟二人が放下(芸人)に変装して近づき、すきをみて首尾よく討つ。
 兄弟二人が舞うのかと思っていたが、芸を見せるのは出家の兄(シテ)のみだった。ちょっと拍子抜け。
 仇討物語は、鎌倉時代から昭和期まで約七百年、日本人が最も好む物語だったといってよいだろう。その原点が曽我兄弟で、頂点はもちろん忠臣蔵。
 能には曽我兄弟物が何作もあるし――それらをつなげて一つの物語にする試みも、去年セルリアンタワー能楽堂で行なわれていた――他にもこの『放下僧』や『望月』がある。
 歌舞伎でも江戸期の正月興行は曽我兄弟物と決まっていて、助六のように強引にその変形とされた狂言もある。忠臣蔵は群像劇だけに最高の材料になった。浪士が町人や遊び人に身をやつして仇を油断させ、隙をさぐるという筋書きの原型が、『放下僧』や『望月』なのだろう。
 王朝物語には仇討という発想はなさそうだし、平家物語は仏教的な因果応報の色が濃いし、太平記は怨霊譚。縁起や怨霊の力に頼らない、自助努力的な仇討物語は、京や奈良のような先進地域よりも東国などの地方武士が好んで、発展させたものか。『放下僧』も舞台は東国。
 権力が確立されて秩序が安定している時代なら、復讐の連鎖を生みやすい仇討は本来なら歓迎されないものだろう。しかし江戸幕府がこれを法制化していたというのは、仇討が武士の証明、権利と義務と見なされていたということか。

 二回目にみて、これはやはり「武士の能」、能が「武家の式楽」となって、武士が観客の中心であり、同時に演じ手ともなった徳川時代に愛された曲なのだろうと思った。ドラマとしての説得力よりも、武士の倫理や美学が優先されているように感じられるのだ。この日の前半の『道盛』が「女々しい」と嫌われていたのとは好対照である。
 芸人に身をやつして仇を探索し、油断させて討つという話なのに、目の前にいる仇に対する態度が、半僧半俗とはいえ芸人とは思えないくらいに喧嘩腰で、傲然としていることは、武士の美学によるものではないか。媚びへつらような表情を一切見せない。たとえ能でも武士たるものが卑屈な態度などできるか、と突っ張っている感じ。だから、とても相手を油断させようとしているようには思えない。しかし、それと物語は平行線のように、なぜか相手はお約束のように興に乗り、油断していく。
 この不思議さが面白い。

 初めに下野の武士牧野某の次男、小次郎(ツレ:観世淳夫)が出て、口論がきっかけで父が相模の利根信俊(ワキ:則久英志)に殺されたこと、仇討しようにも多勢に無勢で手が出ないこと、幼くして出家した兄(シテ:長山桂三)がいるので、味方になってくれるように頼むに行く決意を告げる。そして兄のいる寺を訪ね、説得に成功する。
 五体満足の長男が出家して弟が跡継ぎなのは不思議な感じもするが、母親の家格が弟の母よりも低いとか、そういう理由だろうか。放下に身をやつして仇を探す旅に出る二人。
 続いて後場で利根信俊が出る。このところ夢見が悪いので、下人(アイ:山本則孝)を連れて金沢八景の瀬戸神社に、笠で顔を隠して参詣することにする。
 寺について、下人は遠方で二人の放下僧が面白い芸をしているのを見て、そのようなものは近づけるなという利根の言いつけを無視して、招き寄せてしまう。そうなると利根も興がわいたか、近くに招いて二人に禅問答をしかける(歌舞伎の『勧進帳』の山伏問答の原型のような感じ)。しかしここで小次郎の答えが喧嘩腰なので、利根も刀を抜きかけ、一触即発になる。
 ここで兄が「これは禅問答だから」と押しとどめ、鞨鼓を叩いて舞い謡い、芸尽くしで利根を油断させていく。ここでも、剽げたところが一切ないのが能ならでは。面をつけない長山桂三の表情は動かず、気を込めて舞う。かぶっている角帽子(すんぼうし)は能では僧がかぶるものだが、これが黒地に金なので、立ち姿と面貌を見ているうちに兜のように想えてくる。放下僧に身をやつしても、心と覚悟は武士と示しているかのような。
 兄は舞いながら利根に近づき、心を許して笠をとった利根の面相を確かめる。ここでワキは立ち上がり、笠を自らが座っていた位置に置くと、おもむろに退場する。すると小次郎が「今は何をか包むべき」と叫んで太刀を抜き、兄は小刀を抜いて、二人で笠を刺す動作をする。
 これは、人を刺殺する場面を直接に描かずに、笠を人に見立てて刺すという、能ならではの婉曲表現。
 しかしここは、婉曲表現とはいいながらみるたびにドキッとする。対象は笠でも、刺すという二人の動作が、かなりリアルだからなのだ。笠に変わったとはいえ、直前までそこにいたワキの姿も声も鮮明なだけに、「あの人――仇とはいえ――が殺されたのか」という思いが、二重写しのように瞼の裏で重なる。
 こういう、手の動きだけがギョッとするほどにリアルというのは、『実盛』とか『忠度』とか、修羅能の戦闘場面にも出てくる。象徴表現を突き抜いて具象表現が突如として出現するので、その凄まじさと冷たさに、心臓をつかまれる。
 こういうところが、いざとなれば人を殺す覚悟を常にもっている、武士の感覚なのだろうと思う。かれらが常に帯刀しているのは、その覚悟の表明なのだ。ある種の能では、武士などいなくなった現代においても、その気魄が消えることなく、まざまざと再現される。
 修羅道。
 その凄まじさを目の当たりにすると、道盛が合戦前夜に何にすがろうとしたのか、あらためて考えさせられる。
      
   
    写真は、フェイスブックの「

世田谷 長山能舞台 『桂諷會』長山桂三

」のページから

七月十四日(日)オペラ夏の祭典(一)
   
 大野和士による「オペラ夏の祭典」の《トゥーランドット》を、東京文化会館でみる。感想は日経新聞に書く。

七月十五日(月)エベーヌをきく
   
 ハクジュホールでエベーヌ四重奏団の演奏会。
・ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第九番《ラズモフスキー第三番》
・ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第十三番《大フーガ付》

 《大フーガ付》は、二〇一七年十月七日にこのホールで聴いて以来二回目。あのときはヴィオラにマリー・シレムが代役として参加、急ごしらえとは思えない凄絶な演奏を聴かされて、驚かされ、心の底から揺さぶられたものだった。あまりに息が合っているので、その直後にシレムが正式に参加したことを当然と思ったことを思い出す。
 今回はその四人のプロジェクト、「ベートーヴェン・アラウンド・ザ・ワールド」の一環となる来日公演。世界各地でベートーヴェンの弦楽四重奏曲を数曲ずつ演奏しライヴ録音し、最終的に全集を完成させるというもの。来年のベートーヴェン・イヤーに合わせて発売し、アメリカやイギリスで全曲チクルスも行なうという。
 日本では、明日のサントリーホールのブルーローズで今日と同じ二曲をライヴ録音することになっている。個人的にはハクジュホールの音響のほうが好きなので、自分は今日聴く。二年前のあの電撃が走るような、手に汗握る一発勝負のときよりも、もっと曲を全員が把握して、磨きあげている。集中力と緊張感は変わらない。素晴らしい演奏。録音で聴くなら、今日のスタイルのほうが間違いなく合うだろう。

七月十六日(火)ローエングリンと羽衣
   
 日本ワーグナー協会編の『ワーグナーシュンポシオン 2019』(アルテスパブリッジング刊)に、「世の憂き人に伝ふべし ――ローエングリンと羽衣」というエッセイを寄稿した。
 二〇一六年六月一日の日記に書いた、『羽衣』と《ローエングリン》を同じ日にみたときの感想をふくらませたもの。大学時代に耽読した斉藤磯雄譯の『悪の華』の「高翔」を引用するなど、あれから三十五年たってもさっぱり進歩してないことを証明するような文章である。
 この年鑑の特集は「ワーグナーとイタリア」で、できればそれに絡めてくださいというご依頼だった。そこで、イタリア人が大好きなワーグナー歌劇といえば《ローエングリン》で、ジーリが録音したイタリア語訳詞の「白鳥の騎士登場の歌」なんて、とても美しいですよね、というような導入部分を考えていたにもかかわらず、とりあえず本論のところからいこうと書き出したら、そんなことすっかり忘れて枚数一杯に書いてしまい、もう入れようがなくなっていた。
 というわけで、この一文がどうイタリアに関連するのかは「内的動機」にとどまってしまったが、この年鑑には小畑恒夫さんによる「イタリア・オペラにおけるワーグナーの影響 ――《ローエングリン》のイタリア初演をめぐって」という素晴らしい論文が載っているので、拙文の主題が《ローエングリン》なのも、そこに結びついていると思っていただけると幸いである。
 ほかにも、《指環》全曲公演を成しとげようとしているアマチュアの愛知祝祭管弦楽団の音楽監督三澤洋史氏、団長佐藤悦雄氏、演出の佐藤美晴氏のインタビューや、菅尾友さん、森岡実穂さん、舩木篤也さんなどが寄稿されて、充実の内容。もちろん山崎太郎さんも寄稿されていて、「浩がついちゃったパチモン」と並んでいるのも楽しい。

七月十七日(水)エベーヌにきく
 エベーヌ四重奏団にインタビュー。
 昨日のライヴ録音のためのパッチセッションをブルーローズで六時間(!)やってきたにもかかわらず(大フーガだからやるしかないんだ、と言っていた。しかし毎回こんな感じらしい)、にこやかにかつ真剣に、たくさんしゃべってくれて大助かり。ベートーヴェン・プロジェクト、来年の三月予定の発売が本当に楽しみ。

七月十八日(木)オペラ夏の祭典(二)
 大野和士による「オペラ夏の祭典」の《トゥーランドット》を、新国立劇場でみる。同じ舞台だが、音響の違いなどがよくわかって面白い。
 客席の傾斜角度が違うので、どちらも一階席なのに、新国立劇場のほうが舞台を見下ろす感じになる。東京文化会館では、席が近かった東条碩夫さんが「どぶ臭いような舞台だなあ」と笑っていた通り、下水の臭いがしそうな地の底から、はるか上階の王侯貴族の世界を見上げている感じがしたが、ここでは受ける印象が違ってくる。それは登場人物たちへの当方の心理的距離感にも、影響する気がする。

七月二十日(土)ジャズ喫茶父子鷹
   
 トッパンホールで、リュカ・ドゥバルグのピアノ・リサイタル。
・スカルラッティ:ソナタ集(十曲)
・メトネル:ピアノ・ソナタ第五番
・リスト:《巡礼の年第二年イタリア》より第七曲〈ダンテを読んで‐ソナタ風幻想曲〉

 そして五曲ものアンコール。
・スカルラッティ:ソナタ二曲
・インプロヴィゼーション
・ファブリツィオ・ボッソ:ラウンド・ミッドナイト
・シューマン:ウィーンの謝肉祭の道化より第四曲 間奏曲

 個人的には、最後のリストからアンコールへつながるあたりが特に素晴らしいと思った。轟然と鳴り響きながら、澄明さを失わないリスト。そこからアンコールのスカルラッティ二曲につながったとき、前半ではつかみきれなかったドゥバルグのスカルラッティへのこだわり(四枚組五十二曲のCDが出る)が、より明快に聴こえたと感じた。声部と声部の官能的なからみあい、細かく飛び跳ね、転がっていく響き、こうしたものがリストにつながり、単純なようで深い。
 そして、「次はちょっとジャズ」といって即興と、ラウンド・ミッドナイト。軽やかにして、なまめかしい動き。
 ピアノという楽器ならではの官能性、その弱点を熟知した上での官能性――タッチと音色に無神経なピアニストが苦手な、自分みたいな人間も惹きこんでくれるもの――を聴かせてくれる点では、今はレヴィットと双璧なのではないか。
   
 ところでジャズといえば、自分にとってジャズというのは聴くものというより読むものという度合いが強く、むかし愛読したのが、『吉祥寺JAZZ物語』という、日本テレビが一九九三年に出した単行本。吉祥寺のジャズ喫茶経営者として名を挙げた寺島靖国、大西米寛、野口伊織の三人が、中山康樹と書いたもの。
 吉祥寺がどのようにしてジャズの街になっていったか、現状はどうか、なんてことが書いてある本。通う側ではなく、経営者側のシビアな視点で書いてあるのが面白い。大西の店が不振だったとき、この商売の先達である野口は「自分が好きなものをかけなければ客はくるよ」とアドバイスしたそうだ。
 吉祥寺のジャズ喫茶の歴史は、野口が「ファンキー」を開店した一九五九年に始まるという。日本でもモダンジャズが流行りだしたころである。
 これは、野口の父親が経営していた純喫茶の地下に、モダンジャズ好きの高校生だった野口の提案でつくられたものだった。七年後に野口は地上二階地下一階の建物全体の経営を任され、全階をジャズ喫茶に改装する。これが大ヒットして後続店が次々と開店し、吉祥寺は「ジャズの街」になっていく。最盛期には十軒以上のジャズ喫茶があったらしい。
 ところが一九七八年、パルコ建設のために「ファンキー」が移転することになると、野口は「鑑賞店の時代は終った」と宣言し、私語禁止が原則だったジャズ喫茶を、「ジャズの流れるティー・ルーム」に変えてしまう。
 これは経営者としての嗅覚がなせる業で、さまざまなジャンルの飲食店を次々と吉祥寺中心に開店させていき、『吉祥寺JAZZ物語』刊行時点では、十四もの店を経営していた。チェーン店という企業的発想ではない、個人規模の多種多様な店をつくるあたりが、いかにもバブル以前の時代の雰囲気である。
 その後、二〇〇一年に五十八歳で脳腫瘍のために急逝したが、吉祥寺の街を現在たらしめた人物として、いまも敬愛されているという。
         
 と、ここまでが話の前段。最近になって新潮新書の『新宿二丁目』(伏見憲明著)という本を読んでいたら、この野口伊織の父親の正体というのが、驚くべき人物だということがわかった。
 新宿二丁目のなりたちをテーマとするこの本には、導入として戦後初期の伝説のゲイバー「ブランスウィック」の紹介がされている。一九四六年に新橋の焼跡のマーケットに開店、翌年に銀座五丁目の、松阪屋の裏に移転して、ここで斯界に名を轟かすことになる店だ。
 何よりも、三島由紀夫が常連で、そして同性愛を扱った小説『禁色』の主舞台の一つ、ゲイバー「ルドン」のモデルにしたことで、一般の人にも知られた。堂本正樹の『回想 回転扉の三島由紀夫』(文春新書)でも、十五歳の少年堂本が二十四歳の新進作家三島由紀夫に初めて出会ったのは、「ブランスウィック」の二階だったとある。
 堂本によると「マスターは女房子供のいる普通の人で、最初なにげなく美形のボーイを集めた喫茶店を始めたが、特殊な、しかも気前の良い固定客が集まりだし、新しい鉱脈を掘り当てたという」。
 驚いたのはこの「ブランスウィック」のマスター、ケリーこと野口清こそが、野口伊織の父親だと、『新宿二丁目』にさらりと書いてあることだった。
 この二人が父子だとは、思いもよらなかった。銀座から吉祥寺へ、新宿二丁目を飛び越えての接続。
 しかもケリーは、日本初のジャズ喫茶の生みの親でもあるという。戦前の一九二九(昭和四)年、東大赤門前に開店した「ブラックバード」がそれである。
 渋谷の名曲喫茶「ライオン」が一九二六年創業というから、その少しあとの時期になる。「ライオン」のようなクラシックの名曲喫茶が各地で流行りだしたので、そのジャズ版をつくった、というところだろうか。四年後に銀座に移転すると、これが大当たりして、ケリーは銀座地域に他に飲食店を二店(名前も業種も異なるらしい)出した。
 面白いことに、「ブラックバード」の給仕にも美少年が雇われていて、同性愛の客筋も集っていたという。戦後の「ブランスウィック」の芽は、そのときからあったのである。

 戦前は日本初のジャズ喫茶、戦後は伝説のゲイバーの経営者。
 しかしケリーは一九五四年に「ブランスウィック」をたたむと、斯界から忽然と姿を消す。『禁色』のモデルとして有名になったことが、差別や同業者の嫉妬を増したのかもと伏見は推測している。
 ケリーは死んだという噂も流れた。この店で一週間ほど働いたことがあった野坂昭如は、一九六二年に三島由紀夫から「ケリーは生きてるんだってさ」と聞かされたが、それだけだった。
 見事に行方をくらましたこのケリーが妻子を連れて移住し、野口清一という名で新たに純喫茶「ブラジル」を開いたのが、吉祥寺だったのである。純喫茶とはいえ、「ブラックバード」や「ブランスウィック」と頭の「ブラ」が共通するのは、あるいはそのこだわりか。
 三島にさえ確かな情報が伝わらなかったというあたり、一九五五年頃の吉祥寺がいかに辺鄙な、都心から離れた、都下の町だったかの証明だろう。息子の野口伊織によると、当初は銀行が一つもなかったという。
 店名のブラジルが、コーヒー豆の世界最大の産地であることはいうまでもないが、戦前に多くの日本人が夢を抱いて移民した希望の地であるという意味も、そこには込められていたのかもしれない。
 吉祥寺に初めてきたのは中学生のころだと伊織は『吉祥寺JAZZ物語』で回想しているが、父についての詳しい話は書いていない。「それまで両親は、銀座の中心で小じんまりとした喫茶店をやっていたのだが、健康上の理由で空気の良い武蔵野に引っ越すことになったのだ」とあり、スイング・ジャズに詳しく、生まれつきの感性で大胆なポスターを描いた、などとあるだけだ。
 「ブランスウィック」がどんな店だったかを、伊織が成人してからも知らなかったとは考えにくいが、同性愛に対して今よりはるかに偏見が強く、好奇の目で見られがちだった四半世紀前の状況を考えれば、それについて直接的な記述を避けたのは当然のことだろう。
 それにしてもこの二人が父子だとは。経営者として天性のセンスとともに、新旧のジャズでもつながるのが面白い。
 自分にとっては、講談社で戦前に『のらくろ』などを担当した名編集者の西村俊成と、戦後に『月光仮面』や『ハリマオ』、『隠密剣士』など、宣弘社のテレビドラマを企画制作した西村俊一が父子だというのと、同じくらい面白い。
 ジャズ喫茶がつなぐのと、少年倶楽部的なものがつなぐのと、二組の父子鷹。
(十二月三十一日附記:文中に登場する堂本正樹は、本年九月二十三日、八十五歳で亡くなった)

七月二十一日(日)メメント・モリ
 令和になってから連鎖する、成人男子による複数の凄惨な事件。心の荒廃と孤独の闇が生む、あまりにも身勝手な、唾棄すべき自己顕示。
 合わせて気になるのは、いくつかの事件に様々な形で関わる、父親の姿と心。対照的に母親の姿は、一連の事件にはほとんど見えない。息子と父親、とりかえしのつかないしくじりをする男たち。弱いものいじめの腕力しか、自らを証明するものが残っていないと思い込む空虚。それが証明するものは何。
   
 堂々巡りの思いを抱えつつ、ミューザ川崎でノット指揮の東京交響楽団。
・J・シュトラウスⅡ世:芸術家の生涯
・リゲティ:レクイエム
・タリス:スペム・イン・アリウム(四十声のモテット)
・R・シュトラウス:死と変容

 リゲティはノットが継続的に取りあげている作曲家で、演奏が優れているだけでなく、前後に何を組みあわせるかというプログラム構成の妙で、いつも楽しませてくれる。
 特に印象に残っているのは二〇一五年十一月二十二日サントリーホールの、百台のメトロノームによるリゲティの《ポエム・サンフォニック》に始まり、ストコフスキー編曲のバッハの《甘き死よ来たれ》、R・シュトラウスの《ブルレスケ》。ショスタコーヴィチの交響曲第十五番というもの。
 このときは、バタクラン劇場襲撃などで百三十人以上の死者が出たパリの同時多発テロの直後だったので、サントリーホールの出入り口を封鎖するテロリストたちの幻影を演奏中に思いながら、聴いていた。
 そして今回も、芸術家たちの「メメント・モリ」がテーマらしいプログラムを聴きながら、無辜の人々が理不尽に生命を絶たれる悲劇を思う、悲しい偶然。
 異様に寂しい響きで開始しながら、芸術家の愉快な生活(生涯よりも生活の方が適訳だと思う)を描いたワルツから、典礼文が歪み、曲がり、ためらい、波うち、絡みあっていくリゲティのレクイエムへ。アマチュア合唱団が二十声部のミクロポリフォニーを見事に歌う。明快さと輝きが共存するミューザ川崎の音響の素晴らしさ。
 後半は二十世紀リゲティの「鏡」のようにして、十六世紀タリスの四十声部。カトリックとイギリス国教が振り子のように勢力を争い、死神の大鎌のように人の運命をもてあそんだ、チューダー朝のイギリス社会を生き抜いた男の作品。
 ここまでは面白かったが、最後のシュトラウスの《死と変容》では作品の青臭さ、底の浅さが露出し、演奏会全体の効果をむしろ薄めてしまったような。
 この作曲家でも他の作品があるのではという気がしたが、《メタモルフォーゼン》はすでにブルックナーの交響曲第七番と組みあわせたし(後者の第二楽章の葬送行進曲と照応させたのがとても面白かった)、《四つの最後の歌》だと歌が入るため、モテットとの対象が弱くなりそうで、なかなか難しいところか。

七月二十七日(土)戦下の作曲家(一)
 今日明日と、二日続けて午後に上野で音楽を聴く。一見無関係だが、実は同じ時代背景をもっているもの。
 予定を組んだときには何も考えていなかったが、あとでその連関に気がつき、楽しみにしていた。
      
二十七日(土)十四時 東京藝術大学音楽学部内 第六ホール 
・作曲家・草川宏のレゾンデートル ~草川宏作品集Ⅰ~

二十八日(日)十三時 東京文化会館
・バーンスタイン:ミュージカル『オン・ザ・タウン』

 自分は二〇〇二年の「レコード芸術」に「そのとき世界は」というコラムを連載した。その第十一回「栄光の在り処」は、「人間の声の栄光」フローレンス・フォスター・ジェンキンズが、年来の夢だったカーネギー・ホール・リサイタルを開いた(その一月後に急逝)のが一九四四年十月二十五日だったこと、そして同じこの日に、フィリピンのレイテ沖では、関行男大尉以下の神風特別攻撃隊が自らの命を武器として戦果をあげ、また栗田艦隊が「謎の反転」で戦場から離脱する、レイテ沖海戦が行なわれていたことをテーマにしたものだった。

 今日明日の二つの公演の関係は、これと似ている。
 今日の草川宏(一九二一~四五)は、《夕焼小焼》などの童謡の作曲で名高い草川信の息子で、東京音楽学校の作曲科で橋本國彦などに学び、一九四三年九月に卒業。同時期に一歳下の畑中良輔、二歳下の中田喜直もいて、交流があった。しかし研究科在籍中の一九四四年六月に陸軍に応集、一九四五年六月二日、フィリピンのルソン島で戦死する。
 ピアノ・ソナタや歌曲が現存、最大の作品は交声曲(カンタータのこと)《昭南島入城祝歌》(佐藤惣之助詩)。
 髙橋宏治により補作・編曲されたこの作品は、昨年七月二十九日に東京藝術大学奏楽堂の「戦没学生のメッセージⅡ トークイン・コンサート」で初演され、スケールの大きさで当日の聴衆に衝撃を与えた。そのことは司会をされていた片山杜秀さんが、『平成音楽史』の一五二~四頁で述べている。
 今年のコンサートは、その成功を受ける形で、草川宏の作品だけで行なわれたもので、ピアノのためのソナチネと小品二曲、絃楽三重奏のための変奏曲、六曲の歌曲が演奏された。もちろん習作の域を出ないが、才能の筋のよさはうかがうことができた。とりわけ歌曲は、音楽の扱いが楽劇風、シンフォニックで、ピアノ伴奏でもシュトラウスやマーラーのオーケストラ付歌曲をイメージさせるものだった。畑中や中田のような運に恵まれて戦後まで生き残っていたら、と期待させるものがあった(裏返してみれば、畑中や中田は、同様のギリギリの状況をくぐり抜け、からくも生き残ったのだ、ということにも思いがいく)。
 その音楽を、かれが短い青春を生きた東京音楽学校の後身、東京藝大音楽学部で聴けることも意義深かった。
 なお、《昭南島入城祝歌》などは、当日の録画を藝大ミュージックアーカイブで視聴することができる。

・「戦没学生のメッセージⅡ トークイン・コンサート」のサイト
 

http://arcmusic.geidai.ac.jp/9072?fbclid=IwAR39vMpPAEj8KWGB9LlK_lAhfUD56t4AZWuD_O6itnk-YZ3PleXPjKRUGiA



七月二十八日(日)戦下の作曲家(二)
 草川が南方戦線に従軍した一月後の一九四四年十二月二十八日、ブロードウェイで初日を迎えたのが、レナード・バーンスタイン(一九一八~九〇)最初のミュージカル、『オン・ザ・タウン』。
 ブルックリンの海軍工廠に停泊中の軍艦から、二十四時間だけの休暇をもらった三人の若い水兵。大都会ニューヨークを観光しながら三人それぞれに恋人を得て、短い青春を謳歌して、軍艦に帰っていく。
 ミュージカルは、LP時代の録音だとセリフ抜きの歌と音楽のみになっていることが多く(セリフはまた権利が違うのだろう)、それだけでは前後の状況がまったくわからないので、作品として楽しむことは難しい。『オン・ザ・タウン』の場合は一九九二年のティルソン・トーマス指揮の演奏会形式上演のライヴ映像がかつて出ていたので、ある程度全体を把握することができたが、大人数のダンスもかなりの比重を占めているのに、その部分は音楽しかわからなかった(代わりに、迫りくる特攻機を必死の対空砲火で撃墜していく当時の記録映像が音楽に重ねられることで、どういう時代の作品かはよくわかったが)。しかも権利の関係か、VHS時代に出たきりでDVDにはされず、音声のみのCDヴァージョンは、どういうわけなのか、同じ演奏とは思えないくらいに平板でつまらない。
 というわけで、原語の舞台版全曲を今回ようやく見られたのは嬉しかった。佐渡裕指揮の兵庫県立芸術文化センターによる公演は時代設定、衣装なども一九四四年当時の雰囲気で、ダンスの振付もクラシックな部分が多かったから、おそらくはジェローム・ロビンズの原振付をかなり踏襲しているのだろう。全体にオリジナルに近そうなことは、初めてみる人間にとって、また初演当時の時代の香りを作品に感じたいと思っている人間にとって、とてもありがたいことだった。

 そしてこうして舞台でみてみると、この作品はまさしくロビンズとバーンスタイン、振付と作曲の二人の天才が協同してこそ生まれたもので、バレエ《ファンシー・フリー》を引き継ぎながら、『ウエスト・サイド・ストーリー』につながっていくものだということが、とてもよくわかる。
 ロビンズ振付のダイナミックな群舞の迫力の源泉になるのが、バーンスタイン作曲のシンフォニックな構成と長さをもつ音楽なのだ。どちらも、オペレッタの延長にあったそれまでのブロードウェイ・ミュージカルにはなかったもので、ストラヴィンスキー以後のバレエ芸術の大発展が、ここに応用されている。
 ヒロインのひとりアイヴィに、歌を歌わないダンサーをあてるという、思いきった配役も、ロビンズ&バーンスタインの舞台だからこそ可能なのだということも、よくわかった(しかも初演では、この重要な役に日系人のソノ・オオサトが起用された。当時彼女の弟は、アメリカへの忠誠と勇気を証明するべく二世部隊に入って、ヨーロッパで戦っていた)。
 その恋人となるゲイビーは対照的に、〈ロンリー・タウン〉や〈ラッキー・トゥ・ビー・ミー〉のような叙情的で大切なソロのナンバーをまかされていて、初演がかなり歌のうまいバリトンだったろうこともよくわかる。このゲイビーと、女性ではヒルディ役、この二人だけは明らかに高い歌唱力が要求されている。
 そのヒルディこと、ブリュンヒルデ・エスターハージー(笑)が女だてらにタクシー・ドライバーをしている点に、男性が出征して銃後では足りなくなっている状況が暗示される。五十五歳の判事ピトキンが、クレアのような若い女性と婚約できたということも、若い男がいないおかげかもしれない。
 そして、そのクレアもヒルディも、ちょっとおかしいのじゃないかと思えるくらいに恋と男に飢えていて、獰猛なまでに積極的なのも、戦時下という状況ゆえだろう。まもなく戦場に出なければならない水兵たちと同じように、女たちも愛情に飢え、生きる証が欲しいのだ。
 これはバーンスタインとロビンズ、そして脚本と歌詞を担当し、クレアとオジーの役で出演もしていたベティ・カムデンとアドルフ・グリーンなど、みなまだ二十代だった作り手にも、そして観客にも、笑いながら深く共感できる要素だったろう。ニューヨークもカーネギー・ホールも、同じころに草川宏が生きていた東京や東京音楽学校に比べれば、夢のように豊かで華やかな場所だったろうが、遠近の差こそあれ、死神の大鎌の影は、誰もが見ていたのだ。
 だからこそ、この作品で最も印象的な歌、〈サム・アザー・タイム〉の意味が生きてくる。「一緒にいられて楽しかったけど、また今度ね」とか「いつかきっと、また会える」といった歌詞は、戦時下では何の保証もない言葉だからこそ、切実で美しい。
 ジャズ・ピアニストのビル・エバンスが愛奏したことでも知られるこの歌は、前述した一九九二年のティルソン・トーマス盤では最後に、アンコールにもう一度歌われていた。そこでは、二年前に亡くなったバーンスタインの遺影を背に、進行役として語りのみで出演した白髪のカムデンとグリーンがキャストと一緒に歌い、幽明の境を隔てた亡友に「一緒にいられて楽しかったけど、また今度ね」と捧げていて、とても感動的だった。
 それから、ナイトクラブのはしごの場面に出てくるラテン音楽。コパカバーナ・クラブと思しき「コンガカバーナ」が出てきて、バーンスタインお得意のコンガが演奏される。世界恐慌後のブロック経済の進行で、合衆国が南米や中南米の諸国と関係を深めた結果、一九四〇年頃のニューヨークで急速に流行しはじめたのが、ラテン音楽だった。それがここに迅速に採り入れられ、『ウエスト・サイド・ストーリー』につながっていく。

 こういう舞台を味あわせてくれて、とにかく満足。細かく場面が変わるのに、転換でまったく待たせない演出も巧妙。歌手でひとりだけあげるとすれば、飲んだくれの声楽教師マダム・ディリーを演じた、ヒラリー・サマーズ。全体のなかでも格の違う歌唱力の持ち主であることが明らかで、レッスン・ピアノを自分でひいたり、よほど本格的な歌手なんだろうなと思ってプログラムをみると、現代音楽やバロック・オペラで実績のある人だった(帰宅後に調べたらうちにもCDがあった)。来年は横浜の《シッラ》に出演するそう。こういう人が脇を支えるのが、ブロードウェイ・ミュージカルの層の厚さなのだろう(これはロンドン版のキャストだそうけれど)。
 バーンスタインのニューヨーク三部作でまだ舞台を見てないのは、『ワンダフル・タウン』。いつか見てみたい。

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八月三日(土)松之丞→伯山
 講談の神田松之丞独演会の売出しだったが、文字どおりの瞬殺で、わずかに出遅れたらもう売り切れ(笑)。抽選制になっている公演も増えていて、もう自分が券を買える存在ではなくなってきた。来年二月の神田伯山襲名に向けてさらに盛りあがっていくだろう。二回ナマでみられただけでも幸運だった…。

八月六日(火)ソッリマと芥川
   
 フェスタ サマーミューザのシリーズから、東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団と首席客演指揮者の藤岡幸夫の演奏会に行く。暑い季節の川崎はたどり着くのがなかなか大変だが、抗しがたいほどに曲目と出演者が魅力的だった。
・シベリウス:レンミンカイネン組曲から〈レンミンカイネンの帰郷〉
・ドヴォルジャーク:チェロ協奏曲(チェロ:ジョヴァンニ・ソッリマ)
・芥川也寸志:交響曲第一番

 話題のソッリマのソロが凄かった。冒頭、出番が来るまでは弓を床におき、愛器を抱き抱えて集中。おもむろにひき始めると、生き生きと歌い、飛び跳ねていく。なんというか、八艘飛びのような軽快自在な演奏。こういう古典的なレパートリーについては録音して残すよりも、その日その日の感興に身をゆだねたいタイプなのかもしれない。
 終ると客席は熱狂。始まったアンコールは特殊奏法も多用する自作。後半で手拍子を求めるとお客もすぐに乗る。日本のお客は手拍子がとても好きなわりに単調になりやすい弱点があるが、今日はソッリマの音楽にあわせて緩急強弱をつけられる、じつにノリとリズム感のいいお客だったのが素敵。
 後半は芥川也寸志が一九五四年に作曲し、翌年に改訂した交響曲第一番。本人が認めていたとおり、もろにあの時代のソ連交響楽の社会主義リアリズム、ショスタコーヴィチやプロコフィエフの影響が歴然とした、しかし猿真似ではない生命力をもった、いい曲。ナマで聴いてみたかったので嬉しかった。
 こういう音楽は、その後の東西冷戦下の一九六〇~七〇年代の日本の音楽と政治社会の変転のなかで演奏者と聴衆を失い、演奏と評価の機会を得ることがなかった。しかし今日では、より素直にこの音楽に接し、それを生んだ時代背景を冷静に考えることができる。藤岡はこうした音楽の発掘に力を入れていくらしいので、今後に期待。

八月八日(木)景清と項羽
   
 観世能楽堂で観世会荒磯能。
・能『大仏供養』野村昌司
・狂言『寝音曲』大藏教義、大藏吉次郎
・能『項羽』武田友志

 荒磯能というのは、観世宗家の若手シテ方が出演する会。初めに仕舞が二番。
・『弓八幡』田口亮二
・『殺生石』関根祥丸
 イキのいい二人、とりわけホープ関根祥丸のキレのある仕舞がみられたのは嬉しかった。
 続く『大仏供養』は、直面で演じるチャンバラもの。悪七兵衛景清が主人公。主君の平家が滅亡した後、再建された南都東大寺大仏殿の落慶法要に列席する源頼朝を暗殺しようとする話。
 前場は母に別れを告げる場面、後場は春日神社の神職に変装して、掃き清めながら頼朝に近づくが、狩衣の下に着込んだ鎧を見破られて失敗、討手一人を切り倒し、後日を期して逃走する。
 能屈指の名作『景清』の前日談だが、あのような深みはない、単純な武勇譚。しかしこの二曲の物語を組みあわせるような形で、文楽や歌舞伎にも改作されている。今年はどういうわけか景清ものが豊作で、九月に文楽、十一月に歌舞伎が国立劇場で上演されるので、予習としてもこの能をみておきたかった。
 この年四十八歳の頼朝を、貴人だからという理由で子方にやらせているのは、リアリズムを超越した能ならでは。もし大阪夏の陣の真田幸村をシテとする能があったとしたら、七十二歳の家康も子方がやるのだろうかとか、意味もないことを考える。

 後半の『項羽』は昨年十月の銕仙会でもみているので、今日が二回目。覇王項羽と愛姫虞美人の敗北と死を、複式夢幻能の形式に則って描いた修羅能。
 昨年みたときには、項羽といえば、の「垓下の歌」がまるで使われていないのにとにかく失望した。世阿弥などはこういう古歌や物語を巧妙に用いることで、何もない舞台のわずかな時間の経過のうちに、長大な歴史と広大な空間と無数の人間を多層化させてくれる。自分はそれこそが能の魅力だと思い、誰もがそれを真似るものと思いこんでいたから、「虞や虞や、汝をいかんせん」と痛哭の涙を流さない項羽など、考えられなかったのである。
 しかし今回はもう、そういう深い話ではないのだと割り切ってみていたので、虞姫の身投げから項羽の奮戦と死を、素直に楽しんだ。
 といいながら、やっぱり帰り道では垓下の歌を口ずさんでしまう。

力は山を抜き 気は世を蓋う
時に利あらず 騅逝かず
騅逝かざるを 奈何すべき
虞や虞や 汝を奈何せん

 ところで今日は、ある能のアイが詞をきれいに忘れてしまい、揚幕の脇の隠し窓にいた狂言方の助けを、延々と借りる状況に。アイも一言二言忘れるのは、先日別の能でもあったので(そのときは地謡の後ろから、ある聞きなれた狂言方の声で、しかし舞台では聞いたことのないような恐い口調で、助けが入った)、避けられないことなのだと思うが、今日は頭が真っ白になったのか、何度も何度も絶句をくり返してしまった。プロでもこんなことが起こる。見所のこちらもつらかった。

八月十四日(水)シベリウスへの架け橋
   
 九月のN響の曲目をみていたら、Bプロでパーヴォが北欧プロをやることになっていて、一曲目にトゥールの《ルーツを求めて~シベリウスをたたえて~》が予定されている。
・トゥール:ルーツを求めて~シベリウスをたたえて~(一九九〇)
・ニールセン:フルート協奏曲
・シベリウス:交響曲第六番
・シベリウス:交響曲第七番

 これは、日本フィルとインキネンが六月の定期で演奏した湯浅譲二の《シベリウス讃‐ミッドナイト・サン‐》と同じく、一九九〇年のシベリウス生誕百二十五周年を記念してヘルシンキ・フィルの首席指揮者セルジュ・コミッショーナが企画した「シベリウス讃」シリーズの一環として委嘱された曲。
 このプロジェクトはフィンランド、エストニア、デンマーク、米英仏など八人の作曲家が参加し、三~八分ほどの長さの規模のオーケストラ曲を提供したもので、後にまとめてCD録音もされた。
 同じプロジェクトから生まれた二曲が同じサントリーホールで、三月違いで取りあげられるという偶然。小品なので、北欧プロの演奏会の一曲目に適切、ということなのだろう。しかも湯浅は日本人で、トゥールはパーヴォと同じエストニア人なので、両国からフィンランドへの音楽の架け橋の役割をする。
 日本フィルの定期ではプレトーク役を仰せつかった。湯浅の作品が、フィンランドの白夜を世阿弥の書にある「夜半日頭(やはんじっとう)」、つまり真夜中の太陽という語句と重ねたものだったので、そんなことを話したばかり。これがトゥールの場合は、根源へと遡行するものになるという。ナマで聴きくらべるのが楽しみ。

八月十五日(木)オペラ以前のオペラ
   
 川口駅前の川口総合文化センター・リリアで開催された「ダ・ヴィンチ音楽祭 in川口 vol.1」のメイン・プログラム、オペラ「オルフェオ物語」へ。
 とにかく面白かった。現存最古のオペラ、ペーリの《エウリディーチェ》より百年ほど古い「オペラ以前のオペラ」。ポリツィアーノの台本しか残っていない作品の音楽を、濱田芳通が十七世紀のさまざまな楽曲を借りて復元した、再創造オペラ。
 音楽も演奏も舞台も面白かったが、何より驚いたのは、台本が、神話にあるオルフェオの「連れ戻し失敗後」のBL的行動と死を、しっかりと描いてしまっていること。
 この題材に基づく後世のオペラが、市民社会の良識に則って、そこまでは描かなかったのに(ハイドンの《天地創造》が、アダムとエヴァの結婚を賛美するだけで、その後の出来事には知らんぷりしているのと同じように)、この「オペラ以前のオペラ」の作者たちには、まるで遠慮がない。
 神話というのは時間を超越していて、過去の出来事の記録ではなく、語られはじめたその瞬間に新たに生起して展開するもの、つまり常に現在にあるものだ、ということを実感する。
 自分たちが賛美していた存在が、自分たちの思い通りにならないからと突如として引きずりおろし、辱め、引き裂き、地に叩きつける、血と殺戮の快感に酔う群衆。
 そのほか、欲望のままに女性を襲う身勝手な男。自らの才能に溺れ、傲慢から失敗し、一転して逃避を始める男。そのなかで際立つ、女神プロセルピナ(ペルセポネ)の永遠の悲しみ。
   
 オペラの前には金澤正剛さん、矢澤孝樹さん、いのうえとーるさんによるトークイベント「音楽家レオナルド・ダ・ヴィンチ」があった。今回の上演でオルフェオのライトモチーフに使われた、ダ・ヴィンチが判じ絵として書いた楽曲〈愛だけがそれを思い出させ〉の重要性のことなどなど、とても参考になった。
 充実した内容のガイドブックが売られているが、上演前には読まない方がいいというアドヴァイスも◎だった。これは上演後に読んで、なるほど~と思った方がたしかに愉しい。
 ともあれ、今回だけではもったいないから、ぜひ再演を重ねてほしいもの。

八月十七日(土)一九六三→二〇一九
 片山杜秀さんとの朝日カルチャーセンター新宿教室での「平成音楽史 オーケストラ編」、無事に終わる。
 前半はアバドの室内オーケストラ運動をメインに、ドゥダメルをからめて、経済の活性化とオーケストラの盛衰が連動するという話を、EUとベネズエラの景気動向をからめて。理念と経済の関係。
 後半は、戦没学生作曲家の草川宏と、四歳下で戦後の左翼全盛期を生きた芥川也寸志の話。アバド話で予想以上にお互いに乗ってしまい、かなりはしょらざるを得なかったのが残念。右と左の音楽、どちらも昭和後半にはまともに評価することが難しかったのが、平成になって冷静に評価できるかと思ったら、今はまた難しくなってきた。
 芥川の話は、六日のサマーミューザで交響曲第一番を聴いたあと、録音を聴きなおそうとCDを引っぱりだしたところで思いついた。CDで三種存在する録音のうち、唯一プロのオーケストラが演奏しているのが、一九六三年録音の作曲者指揮東京交響楽団による東芝盤。
 これは演奏もいいのだが、録音の時期や状況も、あらためて考えるととても面白い。前回の東京五輪の前年という意味では今年と同じで、奇しくも片山さんと私が生まれた年でもある。
 この録音のあと、東京交響楽団には悲劇が起こる。この年の年末、東芝との専属録音契約、TBSとの専属出演契約が相次いで打ち切られ、二大スポンサーを失って安定収入と経営基盤を失った東響は、翌一九六四年春に存続の危機を迎える。責任を感じた楽団長の橋本鑒三郎は入水自殺し、東響はこの悲劇を乗りこえて自主運営で再出発、現在まで活動を続けている。

 日本がオリンピック景気にわく一方、金にならないクラシックが、メディアから容赦なく切り捨てられたというこの話を、現代にからめて話すのはどうですかね、と片山さんに相談したのは、講義二日前の十五日、リリア川口のオペラ「オルフェオ物語」の開演前、ロビーで偶然にお会いしたとき。
 このとき、話を半分も話さないうちから、当方がこれから話そうとしていることの意図を先んじて理解した片山さんの眼が、みるみる輝いてきた。こういう瞬間こそ、生きていてよかった、こういう人と同じ時空に生きて、会えてよかった、と思うとき(笑)。
 こんな言い方は「オルフェオ物語」の後半につながってしまいそうで危ないが(笑)、とにかく、時間的に難しかろうがなんだろうがこれは講義に含めねばならないと、口に出す必要もなく了解しあった。
 どこまで当日にできたかはともかく、ともあれご好評をいただいたおかげで、もう一回機会をもてそう。そのときはまた新たな話題と切り口で行く予定。
 自分でいうのもなんだが、『平成音楽史』に書いてある話題には、ここをふくらませて補強すれば、新たに展開できそうとか、最新の出来事を加えればさらに説得力が出そうとか、そんなものがけっこう入っている。次もそんな感じにしたいと思う。
      

八月二十二日(木)松本と獅子文六
 一泊で松本へ行き、まつもと市民芸術館で《エフゲニー・オネーギン》をみる(公演の感想は日経新聞に書く)。サイトウ・キネン・オーケストラがピットに入るのは四年ぶり。コンサートをやるキッセイ文化ホールと違い、松本市街の徒歩圏にあるのでとても楽。
   
 一枚目の写真は会場に向う途中の深志神社の境内。本殿の向こうにみえるのが芸術館。ここ数年は穂高神社に参拝していたが、今年は時間的に無理なのでこの天神様に参拝。
 松本でも今年から平日マチネーが導入されることになり、三時開演で六時半には終わるので、日帰りが充分に可能なのだが、片道二時間半、往復五時間強を日帰りするのはつらいし、あまりに味気ないので一泊。夜はおきな堂で毎年恒例のおすすめポークステーキを食す。今年も美味。そういえばここ一、二年は松本市街にもたくさんいた外国人旅行客、今年はほとんど見かけなかった。
   
 二枚目は、昨年に続いて今年も行きに新宿駅ホーム売店で買ったサンドウィッチの、レトロ・パッケージ。昔のままの日本食堂のデザインを再現してあるのが好き(中身は緑黄色野菜サンドで、昔より間違いなく味が向上している)。
 日本食堂のロゴを眺めながら、その前日に会った大学時代のサークルの友人にもらった、ラピュタ阿佐ヶ谷の特集「獅子文六ハイカラ日和」の案内チラシのことを思い出す。
       
 これは、獅子文六の小説を原作とする映画を九月から十一月まで、十四本特集するもの。獅子文六は、昭和初期から高度成長期にかけての大衆消費社会の世相と人間を、大衆小説に活写した作家。モダン、軍国主義、戦争、戦後民主主義、高度成長、総中流化など、すべてを流行として大衆が旺盛に、貪欲に消費していったことが――戦争すら、大衆は流行として消費してしまったのだ――その作品を読んでいると如実にわかる。
 いつか、その生涯と作品の話を、きちんと長い文章にまとめてみたいと、私が夢見ている作家である。
 一時は大半が絶版だったが、近年はちくま文庫が復活させてシリーズ化し、十三冊も出ている。映画祭もそのお蔭だろう。渋谷実監督作品が『てんやわんや』など四本もあるのが嬉しいし、特に気になるのは、川島雄三の『特急にっぽん』(一九六一年)があること。チラシの表紙もこの映画のフランキー堺、団令子、白川由美の写真があしらわれている。
 主人公は国鉄の食堂車で働く日本食堂のコック。東京から大阪まで走る特急の車内での出来事を描く。原作のタイトルは『七時間半』。これは特急「つばめ」号の東京大阪間の所要時間。ただし執筆の一九六〇年には六時間半に縮まり、新型の「こだま」(新幹線の前のもの)も運用を開始していた。
 そこで映画では「こだま」を使っているらしい。映画の出来はわからないが、食堂車があった時代(つまり、食堂車が大衆に消費されていた時代)の鉄道がどう描かれているのか、これはラピュタ阿佐ヶ谷にみにいってみたい。
 以下は、二〇一一年六月十三日の「可変日記」の『七時間半』の読書感想文。いまは文庫化されているが、このころは全集を入手して読んでいた。

 『七時間半』というのは、東京大阪を結ぶ特急「つばめ」の所要時間のこと。ただし作品内ではそのままではさしさわりがあるのか、「ちどり」と名前を変えてある。じつは、東京大阪間の特急の最短所要時間は連載中に、六時間半に縮まっている。時代の変化の速度がどんどん増していることは文六にとってやりにくかったろうが、ともかく、新幹線以前の、食堂車があった時代の特急の話。
 その一本、午後十二時半に東京を発車して、夜の八時に大阪へ到着する車内が舞台である。
 首相から学生まで、さまざまな階層の人が乗り合わせるものだから、グランドホテル形式の群像劇にする手もあったろうが、文六はそこまで手の込んだことはせず、食堂車のコックとウェイトレスの恋に「ちどり・ガール」と呼ばれる客席係(もちろん実際はつばめガール。スチュワーデスのような客室乗務員)の美人をからめて主役三人とし、あとは脇役にしぼりこんでいる。安保前後の騒然たる時期の連載だけに、岸信介らしき首相や、全学連らしき連中も登場。
 品川操車場の朝の発車準備に始まり、東京から大阪までの車内や停車駅や沿線の様子を、時間の進行に合わせてかなりていねいに描いているので、小説とはいえ、鉄道好きには貴重な記録なのではないだろうか。
 まだ読んでいないが、文六は横浜駅のシュウマイ売りをヒロインにした作品もその前に書いているはずだから、かなりの「鉄ちゃん」だったのだろう。
 食堂車に「つばめガール」と、新幹線時代になれば消えることが当時から予感されていたものに着眼したのはさすが。(中略)
 人気の安定した獅子の作品だけに、これも翌年に映画化されている。川島雄三監督、フランキー堺、団令子、白川由美という、いかにもそれらしい配役で『特急にっぽん』というタイトル。いつか衛星などで観てみたい。

八月二十四日(土)憂いの花ざかり
   
 観世能楽堂で「銀座余情」。
・お話し「人間うれひの花ざかり」村上湛
・狂言一調「うれしき春を」山本東次郎 三島元太郎
・能『隅田川』大槻文藏 福王茂十郎 松田弘之 大倉源次郎 亀井忠雄

 八月下旬からのひと月は「大槻文藏月間」のようになっている。
 大槻は大阪在住の観世流のシテ方で、東京では年に三、四回しかみられない。しかし今年は本拠地の大槻能楽堂が七月から年末までの改修期間に入ったことから、初秋は東京に集中して出演、二十八日間に四回、つまりほぼ毎週、その美しい能がみられるのである。
 自分はそのうち三回みる予定で、今日はその一回目の『隅田川』。
 大槻をみる楽しみは品のある声と姿に加えて、装束の美しさ。いわゆる阪神文化圏に行くと、江戸開府から四百年をへても板東は粗野なままで、上方の洗練された美的センスには及ばないことを、五感のすべてで思い知らされる。洋物でもそうなのだから、和物ではまったく勝負にならない。
 今日も、光沢のある鼠色の水衣が、渋くも美しい。腰巻は川面を思わせる紺。子方(谷本康介)が入る塚の作り物が通常よりも細く小さく、それ自体がお地蔵様のようにみえる。土色ではなく緑色の布に卷かれ、上部の草もみずみずしく青い。狂女が灰色なのに対し、塚は鮮やかな緑色で、春の景色が失われた幼い生命の哀れさを際立たせる。この対照は、まさしく詞章にある「人間うれひの花ざかり」という風情だ。
 村上湛のプレトークは、この「人間うれひの花ざかり」を題としていた。寂しさと華やかさを対照させ、落差の動きのなかにおくこの詞は、いかにも作者の観世十郎元雅(世阿弥の実子)の人間観を象徴している。親が生き別れの子を探す能はたくさんあるが、どれも神仏の功徳でめでたく再会するハッピーエンドになっている。子に再会できないどころか、哀れにも死んでいたという悲劇は、この『隅田川』だけなのだ。それゆえにこそ人の心を打つ傑作となっていて、能作者としての元雅の異才がきわだっている。
 村上は、最後に子供の霊の声を母だけでなく、船頭など他の人が聞いているのも、やはり異例だと指摘した。
 というのも、世阿弥が大成した夢幻能では、ワキが深夜に一人で、夢とも現とも定かではない半睡半覚の状態で、霊に会う設定だ。第三者が立ち会って確認するわけではないから、ただの夢かもしれない可能性がある。ところが『隅田川』は多人数が体験することで、霊が実在する証明になる。そのことが、母親に孤独からの救いをもたらすのだ。
 そういえばこの部分、地謡がシテとワキに唱和する念仏は、まるで群衆が一緒に唱える声のように聞こえる。これも能では異例のことで、本来の地謡はあくまでシテとワキの述懐、心のなかの言葉を代弁したり補強したりするのが役割であって、オペラの合唱のように群衆を演じているわけではない。それなのに『隅田川』のこの部分では、声がドラマに参加している。これも十郎元雅の優れたセンスなのだろう。

八月二十七日(火)音楽と視覚(一)
   
 東京芸術劇場で、落合陽一×日本フィルVOL.3「交錯する音楽会」。
 オーケストラの上に設置された四枚の大型スクリーンに映る映像により、音楽の喚起するイメージの解像度をあげ、膨らませようというもの。
 詳細は、朝日新聞のデジタルマガジンに書く。
 この時点ではまだ予想もしていなかったのだが、これから九月にかけての三週間ほどのあいだに、音楽と視覚を連携させた演奏会に、偶然にもいくつか通うことになった。

八月二十九日(木)音楽と視覚(二)
   
 サントリーホールのサマー・フェスで大野和士指揮都響による、ベンジャミンのオペラ《リトゥン・オン・スキン》。
 予想していた以上に美しく、繊細で官能的な音楽。これも一昨日と似て、舞台上部のスクリーンに、映画のような映像が場面を物語るものだった。
 こちらは日経新聞に評を書く。

八月三十日(金)悪人たち
   
 深川江戸資料館で「大江戸悪人モノガタリ」シーズン2。
・神田松之丞『村井長庵』より「雨夜の裏田圃」
・蜃気楼龍玉『四谷怪談』より「お岩の誕生」

 講談と落語の悪人もの。チケット入手至難の松之丞、これは幸運にも買えた。
 大悪人、小悪人、凡人それぞれのエゴがきしみあい、みな不幸になる『村井長庵』。大悪人の村井長庵は松之丞の十八番。多忙の極みで左目が腫れ、疲れているのか普段より滑舌がよくなかったが、暗がりに浮かぶ悪の魅力はさすが。
 蜃気楼龍玉の『四谷怪談』も見事な語り口。しかし陰惨な話二本というのは聴く方も負のエネルギーに呑まれて、気疲れがする。清澄白河駅の周囲の、寺の多い町独特の暗さを感じながら帰る。

八月三十一日(土)指揮者の両輪
   
 ハクジュホールで、坂入健司郎指揮の川崎室内管弦楽団。
・ハイドン:交響曲第八十五番変ロ長調《王妃》
・ロドリーゴ:《ある貴紳のための幻想曲》(ギター:荘村清志)
・ストラヴィンスキー:バレエ音楽《プルチネルラ》(一九六五年全曲版、ソプラノ:中山美紀、テノール:藤井雄介、バリトン:加耒徹)

 一九八八年生れの坂入さん(個人的に交流があるので、さんをつける)はサラリーマンをしながら独自の音楽活動を行う若手指揮者。慶応大学時代に仲間と結成した東京ユヴェントス・フィルハーモニーと、プロ奏者が集まった川崎室内管弦楽団、大小二種、アマとプロ二種のオーケストラを活動の基盤としている。
 朝比奈隆は、演奏会とオペラは指揮活動の両輪といっていたそうで、実際に壮年期まではオペラ指揮者として、積極的にピットに入っていた。これは今も変わらぬ真実だろうが、現代においては、フルオーケストラと室内管弦楽団も、やはり指揮者の両輪となるものだろう。モダンとピリオド様式もそうだし、プロとアマの柔軟な連携も、今後の日本音楽界の状況によっては、重要さを増してくる。だから坂入さんの活動は大きな意味をもっているし、注目する必要がある。
 今日はプロの室内管との演奏会。ヴィオラを中央に、チェロとコントラバスを左右二群に分けたシンメトリックな配置など実験精神にみちたハイドン、ベテラン荘村清志との味わい深いロドリーゴ、しかし白眉はストラヴィンスキーの《プルチネルラ》。
 鈴木雅明指揮紀尾井ホール室内管弦楽団に続いて、今年は二回も全曲版を聴けた。しかし今日の方が断然面白い。演出をせず、音楽に専念して一気呵成に進行させることで、作品の力、音楽の力が素直に出てくる。活力、推進力、躍動と色彩、歌手を交えた編成と音響の工夫。
 モダン楽器の強靱さこそがそうした要素を支え、バレエ音楽のエネルギーをほとばしらせる。各曲の元ネタや全曲の歌詞対訳をつけた解説も◎。署名はなかったが、予想通りこれも坂入さん自身のものだそう。

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九月一日(日)芸道の門
   
 国立能楽堂で、観世流シテ方で観世九皐会に所属する永島忠侈と永島充の「能の会」(とてもシンプルな名称)。
・能『檜垣』永島忠侈(シテ)、森常好(ワキ)、野村萬斎(アイ)
・狂言『萩大名』野村万作、深田博治、石田幸雄
・一調『遊行柳』野村四郎、三島元太郎(太鼓)
・仕舞『百萬(笹之段)』観世喜正
・仕舞『砧(砧之段)』観世喜之
・能『安宅 ~勧進帳 瀧流~』永島充(シテ)、殿田謙吉(ワキ)

 『檜垣』が素晴らしかった。
 能の演目において世阿弥作の『檜垣』は『姨捨』『関寺小町』と合わせて「三老女」と呼ばれ、特別に格の高い、最奥の秘曲とされる。シテ方のなかでも劫を経た、長老格にしか許されないものなので、演じられる機会は少ない。
 七十九歳にしてついにこの曲を舞い、謡う永島忠侈は、息をのむように美しかった。とりわけ後場。
 動かない。静止し、すーっと、流れるように静かに動く。普通なら退屈してしまうはずのものなのに、それが緊張感と生命力にみちて、舞台に存在する。能ならではの大矛盾。
 女舞、序の舞は動きが乏しくて、もてあますことが多いのだが、心臓をグッとつかまれたまま、集中させられる。老女の舞だから通常よりもはるかに遅く、少ないのに、それが、まったく弛緩することなく、目を離すことを許さない。
 かつては男たちを魅了した白拍子の美女の、見る影もない老残の姿。その老婆が昔日を思い出して舞う、その姿。
 静止した数秒のなかを、人の一生が駆け抜けていく。一瞬の永遠。超高速の静止。若さがほとばしる老い。激烈なる静寂。言葉に満ちた沈黙。有為だらけの無為。大宇宙が入った微粒子。
 矛盾と落差という能芸術の魅力がつまっているような、世阿弥の大傑作。その見事な実体化。

 能のシテ方は一生をかけて、この究極の境地を目指していくのだと思った。
 『鞍馬天狗』から『烏帽子折』、『道成寺』に『安宅』をへて、「三老女」への長いようで短い、短いようで長い道。
 人生のそれぞれの段階にふさわしい作品が、門のようにシテ方を待っている。誰もが最後の門に到達できるわけではないのだろうが、とにかく目指して歩む。
 いや、どんな芸術家も、さまざまな門を通り抜けていく。その過程のあらゆる瞬間に、生涯のあらゆる段階に、その一瞬だけの生命の輝きを放ちながら、駆け過ぎていく。老いも若きも、神田松之丞も、坂入健司郎さんも。
 その、まばゆいきらめき。
 世阿弥ならではの、古歌の絶妙の引用は『檜垣』にも花を添える。これは和漢朗詠集からのもの。

――朝に紅顔あつて世路に楽むといへども、夕には白骨となつて郊原に朽ちぬ

 後半は永島充の『安宅 ~勧進帳 瀧流~』。元は古川充といい、六年前に永島忠侈の後継者となったそう。
 『檜垣』では後見で、前場では立ち上がるのに苦労していた忠侈――後場ではそれを一切感じさせなかったのがまた見事だったが――を助けたり、気配りが大変そうだった。
 それから一時間半の間をとっただけで自らがシテの大役というのは大変だろうと思ったが、橋懸に姿を現したときの顔と全身から放つ気迫は、見事に弁慶そのもの。堂々たる弁慶。
 関所を抜けてからの主従の回想場面が短縮されていたのは、長くなりすぎるからだろうか。

九月三日(火)クオ・ヴァディス?
   
 東京文化会館で東京都交響楽団の演奏会。指揮は大野和士。
・ベルク:ヴァイオリン協奏曲《ある天使の思い出に》(独奏:ヴェロニカ・エーベルレ)
・ブルックナー:交響曲第九番ニ短調

 東京のオーケストラ御三家、N響、都響、読響が、ベルクのヴァイオリン協奏曲とブルックナーの交響曲(三、九、二番)を組みあわせる偶然のシリーズの二回目。NHKホールでも感じたが、ベルクの作品は大ホールに向かないと思う。もっと親密さを感じたい。その意味で、重厚長大指向のブルックナーとはベクトルが真逆という気がするのだが…。
 ブルックナーはとても剛毅な演奏。

九月四日(水)元寇物語の受容と変容
   
 国立能楽堂の定例公演。
・狂言『河原太郎(かわらたろう)』野村万蔵(和泉流)
・能『白楽天(はくらくてん)』粟谷能夫(喜多流)、殿田謙吉、野村万禄、竹市学、鵜澤洋太郎、原岡一之、林雄一郎

 白楽天、すなわち中唐の詩人白居易が曲名になっているが、演じるのはシテではなくワキの殿田謙吉。しかも中国が舞台でもない。白楽天が皇帝から「日本の智慧を計れ」と命じられて、日本にスパイにやってくるという、かなり無茶な空想的設定。
 日本でとても人気の高かった詩人とはいえ、もちろん来日した史実はない。若い頃はエリート官僚だったが、あくまで文人で、スパイ向きには思えない。それをあえて選んでいるところにポイントがある。
 白楽天が唐から海を渡って筑紫に着くと、海上で年老いた漁夫に出会う。名乗りもせぬうちに、御身は白楽天かと名指しされて驚く白楽天。智慧を計りにくることは日本中に知れ渡っているので、釣をしながら待っていたという。
 唐では詩を書くことを慰みにするが、日本では何かと白楽天がたずねると、歌を詠むことだと漁夫は答える。
「天竺の霊文を唐土の詩賦とし、唐土の詩賦を以て我が朝の歌とす、三国を和らげ来たるを以て、大きに和らぐ歌と書いて大和歌と読めり」
 インドと中国の文化を採り入れ、日本化したものが和歌。それではと白楽天が漢詩をつくると、漁夫は即座に和歌にしてみせる。賤しき漁翁でもこんな歌が詠めるのかと白楽天が驚くと、日本では人間にかぎらず、「生きとし生ける物、いづれか歌を詠まざらん」と漁夫は答え、日本の智慧のほどを示す。
 実は、この漁夫の正体は筑紫の住吉の明神で、日本を狙う唐土の侵攻を阻止したものだった。
「住吉の神の力のあらん程は、よも日本をば、従へさせ給わじな」
 そして風を吹きつけ、白楽天の船を唐土に送り返してしまう。
「手風神風に吹き戻されて、唐船は、ここより、唐土に帰りけり」

 設定が北九州だし、唐船は「神風に吹き戻され」るし、鎌倉時代の元寇の記憶がこの能の下敷にあることは明らか。
 住吉の神の力があるかぎり、日本は征服させない、なんて激烈な詞は、元寇のときに日本中の寺社が調伏の加持祈祷をして、撃退できたのはウチの神様仏様のご加護のお蔭だと宣伝につとめたという有名な話を思い起こさせる。
 百年以上もたった室町期にこんな能がつくられた背景には、足利の四代将軍義持の時代になって、明や朝鮮との関係が悪化し、一四一九年に朝鮮軍が対馬を攻撃した応永の外寇があるらしい。
 侵略者を元の武人から唐の詩人に、干戈を詩歌の交りに置きかえているのが面白い。畿内の人にとっては、中国は文化の先進国という印象のほうが強いから、殺伐とした戦闘を描く代りに、日本の文化人が大好きな白楽天を出して、みやびな雰囲気にしたのか。
 「天竺の霊文を唐土の詩賦とし、唐土の詩賦を以て我が朝の歌とす」とあるのは、和歌よりも日本仏教の説明みたいだし、「生きとし生ける物、いづれか歌を詠まざらん」というのは、まさに中国から日本に伝わって広範囲に普及した「草木国土悉皆成仏」の思想を、歌に置きかえたもの。
 元寇を直接に扱った能は、少なくとも現行曲にはなさそう。中国仏教を堕落させた天狗が日本に乗り込んできて、比叡山の高僧の法力に撃退される『善界(ぜかい)』という能も、天狗に置きかえることで寺社関係の話にしている。
 元寇は、武士の戦記としては物語化されることなく、したがって英雄譚ではなく、神仏の霊験を示すものとして寺社を主体に語られ、受容された。それをさらに変容したものとしての能『白楽天』。

(以下、二〇二〇年四月十七日追記)
 この日から十九日後の二十三日に八十五歳で長逝した堂本正樹が、一九八六年に構想社から出した『世阿弥』を読みかえしていたら、三百七十六頁に「応永の外寇」についての記述があった。
 「応永の外寇」とは倭寇の跳梁跋扈を怒った朝鮮の大宗が、兵を対馬に差し向けたというもので、多くの日本人が虜囚にされた。朝鮮軍は糧食が尽きたところで島主の宗氏と和議を結び、撤退した。
 ところがこれが、都では大仰な噂となって伝わった。攻め寄せたのは大唐と高麗の連合軍で、西国勢がこれを撃退し、あげくに神変の大風や落雷で敵船団は沈没という、往年の元寇そっくりの大事件に話がふくらんだのだ。
 当時の記録として信頼性の高い『看聞御記』や『満済准后日記』にさえ、大唐の軍勢が攻めてきて、日本に着いたその日に大風が起きたため、「唐船悉く帰国す。過半は海に没する」とあるそうだ。
 これが当時の都人の「常識」だったのだとすると、能の『白楽天』の内容は、往年の元寇ではなくて、記憶に新しい同時代の事件を、文学的な霊験譚に変形させたものということになる。

九月五日(木)音楽と視覚(三)
   
 オーチャードホールで、熊川哲也のK‐BALLET COMPANYとバッティストーニ指揮東京フィルハーモニー交響楽団による、オルフの《カルミナ・ブラーナ》のバレエ版。
 熊川によるストーリーは、運命の女神フォルトゥーナと悪魔の間に生まれた、アドルフの物語。ベジャール風の群舞とかなり具象的な身振りが語っていく。男性の踊り手の技術と体格が、三十年ほど前とは比較にならないくらいに進歩しているのに感心する。最後にフォルトゥーナが復活してきた瞬間は、音楽と振付ががっちりとかみ合った相乗効果で、ゾクッときた。

九月七日(土)迦陵頻伽の飛翔
      
 国立能楽堂で、能楽座の第二十五回自主公演をみる。能楽座は観世寿夫ゆかりの能楽師の会で、年一回公演している。今年は「藤田六郎兵衛 偲ぶ会」と名打たれて、昨年八月に亡くなった笛方宗家の追悼公演。
・一管『平調音取』松田弘之
・舞囃子『砧 前』武田孝史。竹市学、大倉源次郎、亀井広忠。地頭:朝倉俊樹
・一調『竜田』梅若実。三島元太郎
・独吟『隅田川』宝生欣哉
・独吟『鐘の音』茂山千作(休演)
・舞囃子『融』観世銕之丞。竹市学、大倉源次郎、亀井広忠、小寺真佐人。地頭:梅若紀彰
・仕舞『玉之段』櫻間金記
・仕舞『熊坂 長裃』粟谷明生
・狂言『清水座頭』野村万作、中村修一
・能『羽衣 彩色之伝』大槻文蔵。福王茂十郎、喜多雅人、村瀬慧。松田弘之、幸正昭、安福光雄、三島元太郎。地謡:梅若実、梅若紀彰、山崎正道、馬野正基、谷本健吾、川口晃平、長山桂三、大槻裕一。後見:赤松禎友、武富康之

 能楽界全体に多大の影響を遺した寿夫だけに、流派を超えて能楽師が参集するのがこの会の魅力。
 粟谷明生の仕舞『熊坂 長裃』は、牛若丸に翻弄されて倒される盗賊熊坂長範最後の戦いの場面を、わざわざ動きにくい裃に長袴をつけて舞うもの。薙刀をふるいながら足をさばくのが大変そう。喜多流ならではのものらしい。
 メインの能『羽衣 彩色之伝』は、シテ大槻文蔵の天女が期待通りの美しさ。八月の『隅田川』でも触れたように、この人の装束は洗練の極みで、それをみるだけでも価値がある。今回は深い黄金色の衣に羽根模様が大柄に描きこまれて、迦陵頻伽の姿を想わせる。天空へ去っていく最後を橋懸の上でじっくりと舞い、すすっとあとずさって、ふっと消える。見事。
 ゆったりしたテンポで謡われた、梅若実を地頭とする地謡も素晴らしかった。

九月八日(日)《ランスへの旅》の意味
   
 新国立劇場で藤原歌劇団公演(共催:新国立劇場・東京二期会)のロッシーニの歌劇《ランスへの旅》。
 たくさんの歌手がいるだけに、個々に凹凸はあるけれど、全体としてはとても楽しい上演だった。たとえば光岡暁恵のコリンナには劇場空間全体を聴きいらせる力があったし、藤原歌劇団総監督の折江忠道自らが歌ったトロンボノク男爵には、舞台を仕切る存在感と声があった。
 一八二五年、フランス国王の戴冠を祝うためにつくられた、主役級の歌手がたくさん出てきて次々と見せ場を与えられる、一種の機会音楽だけれど、ただのアリア大会ではないところに、一九八四年の百六十年ぶりの蘇演以来、世界各地で上演を重ねる理由がある。ソロだけでなく重唱、それも六重唱とか十四声のコンチェルタートなどの手の込んだ音楽で、ロッシーニがその天賦の才を存分に発揮していて、本当に魅力的な音楽になっているからだ。
 その充実を実際に味わうことができたのは、歌手全体の水準の高さとともに、指揮の園田隆一郎の手腕が大きい。豊かな呼吸感と弾力をもった、軽快な指揮。以前に聴いたときよりも自信豊かに自らの意図をオーケストラに伝えていて、それが音楽に力を与える。

 それにしても、この作品の歴史的意義は面白い。ロッシーニは、ナポレオンの失脚とともに世に出てきた、王政復古の時代にオペラで活躍した芸術家だった。
 シチリア・ブルボン家(《トスカ》のなかではスカルピアの親玉として、完全な悪役扱い)が、ナポリをナポレオンから奪還した直後にナポリに来て、サン・カルロ劇場で名を挙げる。続いて王政復古のパリに出て、ここで大活躍。一八二四年に即位したブルボン家最後のフランス王、シャルル十世が七月革命で退位する一八三〇年までが絶頂期だった。
 新たなオルレアン家の時代となり、新作の契約を破棄されたのをきっかけに、オペラの筆を折る。オペラ作曲家としては、ブルボン家の浮沈と命運をともにした人なのだ。
 王家御用のオペラ作曲家、ということをどう考えるかは人それぞれだろうが、ともあれこの作品のなかでのシャルル十世は、平和と栄光のもたらし手として期待される。フランス、イギリス、ドイツ連邦、イタリア(当時は統一国ではなく地域)、スペイン、ポーランド(当時はロシアの同君連合)、ロシアの貴族が集まって、フランス革命が結果としてもたらしたナポレオン戦争の惨禍を越えて、連帯と宥和が讃えられる。
 ロシアの伯爵とポーランドの伯爵夫人が結ばれるとか、ローマ人のコリンナがギリシャ娘を保護していることが、オスマン帝国からの独立戦争のさなかにあったギリシャの状況を暗示しているとか、メッテルニヒ率いるオーストリアがドイツ連邦の盟主になっているとか、当時の国際情勢を反映しているのも面白い。
 ラスト直前、コリンナが新フランス王を讃えて「カルロ」と呼びかけたとき、そうか、この名前はカール大帝、ローマ皇帝シャルルマーニュに由来しているのだから、ヨーロッパ全体の連帯に関わる名前なのだと、ようやく気がついた。
   
 そして、アバドがこの作品を愛して上演を重ねたのは、音楽の素晴らしさに加えて、ヨーロッパの連帯と平和を呼びかけるというテーマが大きな理由だったのだと、やはり気がつく。
 だから、東西冷戦下の一九八四年に行なわれた歴史的蘇演のオーケストラは、チェンバー・オーケストラ・オブ・ヨーロッパ、その名もヨーロッパ室内管弦楽団でなければならなかった、のだ。
 さらに、そのときCD録音したのに、わずか八年後の一九九二年にベルリン・フィルと再録音しなければならなかったのも、その場所が冷戦終結後の統一ベルリンだから、だったのに違いない。
 最近はもう一つ、ちょうど中間にあたる一九八八年のウィーン国立歌劇場でのライヴもCD化された。ECユース管がオーストリアの若者を入れないことに怒ったアバドが、グスタフ・マーラー・ユーゲント管を設立した国。そして翌年、平成元年の来日公演の原型となった上演のライヴなので、平成の日本に結びついてくる。これも意義深い。

 そんなことを考えながら出演者に拍手を送り、あとでプログラムをみて、この上演が藤原歌劇団と新国立劇場と二期会の共催で、合唱をわざわざ三者から四人ずつ出して合同させているのは、まさに《ランスへの旅》の連帯の精神に則ったものだったのだと気がついて、さらに嬉しくなって、家に帰る。

 十月二十一日附記:ドイツとオーストリアの関係について、吉田光司棟梁のご指摘に基づき、記述を修正しました。ご指摘多謝。

九月十日(火)演繹されたロット
   
 台風十五号が通過した夜、サントリーホールのセバスティアン・ヴァイグレ指揮読売日本交響楽団の演奏会にいく。
・ハンス・プフィッツナー:チェロ協奏曲(独奏:アルバン・ゲルハルト)
・ハンス・ロット:交響曲

 十九歳と二十二歳のときに完成した若書きの二曲。若きハンスの悩み二種。ロットの交響曲がとりわけよかった。
 二月にパーヴォ指揮N響でも聴いたので、一年に二回ナマを聴けたが、演奏の印象はかなり異なるのが面白い。
 簡単に言えば、パーヴォの演奏はマーラーから帰納したロットで、ヴァイグレのはワーグナー+ブラームスから演繹したロット。だから、第三楽章スケルツォは、前者ではマーラーそのもののように聴こえたのに、後者はそこまでいかず、「これをいじって、マーラーはあの音楽にしたんだな」と感じさせる。
 そしてパーヴォが展開の支離滅裂さや接続の不自然さ、構成の破綻を感じさせたのに、ヴァイグレはなんとなく、作曲家本人にとってはこれでつながるのだろうと納得させてしまうもの、他人がとやかく言うべきでない感じがある。
 パーヴォが二人で叩かせて響きを強調した「壊れた目覚まし時計みたいな」トライアングルの執拗な連打も、抑え気味(一人で叩き続けたのがすごかった)。
 ヴァイグレの指揮は確信に満ち、作品を細部まで熟知しているように感じさせた。読響との息も合ってきた感じ。ワーグナー+ブラームス風の音楽が、語彙といい文法といい発音といい、指揮者の音楽言語と合うのだろうとも思った。
 そして、「ワーグナー+ブラームスから演繹した」音楽だからこそ、ロットの不幸を痛感する。ロットより十八歳下のブルーノ・ワルターは、ベルリンのシュテルン音楽院で学んでいたころ、歌劇場で夢中になったワーグナーの魅力を、音楽院の中で語ることは御法度だった、と回想していた。ワーグナーが大人気を集める歌劇場と、ブラームス的美学が支配する学校との酷しい対立。ロットの音楽も精神も、二つに引き裂かれている。
   
 冒頭、ワーグナーの響きを伴奏にニニ・ロッソが吹く『エデンの東』という雰囲気は、ヴァイグレのほうが強かった。
 そこで『エデンの東』の作曲家、レナード・ローゼンマンに思いがいく。シェーンベルクに学び、ハリウッドで初めて十二音を使った『蜘蛛の巣』の音楽は、グレン・グールドが絶賛した。
 自分にとっては、『コンバット』の音楽の人であると同時に、一九七八年のアニメ版『指輪物語』の人。ラルフ・バクシ監督のアニメ版は原作の三分の二で中断し、二〇〇一~〇三年の実写版『ロード・オブ・ザ・リング』の成功に隠れてしまった。しかし音楽は、後者のハワード・ショアよりも、ローゼンマン版の方がはるかに優れていると思う。マーチ風のテーマ、禍々しいナズグル、バルログの飛翔、ローハン騎士団とアイゼンガルドの戦い、などなど。家に帰ってから、サントラ盤を久しぶりに聴く。

九月十一日(水)南房総の送電線
 台風十五号に被災された皆様に、心よりのお見舞いを申し上げます。停電の一日も早い復旧をお祈りします。

 かつて送電線業界にいたころ、千葉県内の工事にも何度か参加した。南房総は内陸部の多くが未開発の山地で、沿岸部に集落も道路も鉄道も集中していた。同じ関東とはいいながら、群馬や埼玉や栃木のような、海がなくて広闊な平野が多い地域の送電線とは、まるで地勢の感覚が異なって、やりにくい地域だったという記憶がある。設備も古かった。
 大急ぎで復旧工事にあたる関係者の苦労は、察するに余りある。安全・確実・迅速な作業を祈るのみ。

九月十三日(金)音楽と視覚(四)
   
 豊洲のステージアラウンドで、『ウエスト・サイド・ストーリー』をみる。
 ステージアラウンドは、千三百人が乗れる円形の客席が回転するという大がかりなもので、周囲の壁面にさまざまなセットを組むことで、迅速な場面転換を可能にする。ガタガタ揺れたら乗り物酔いしそうと恐れていたが、スムーズに、滑るように動いて快適。
 新たに制作されたプロダクションは、制作陣もキャストもアメリカから来た本格的なもので、PAは使うが生演奏。
 来日キャスト版は八月十九日に幕を開けて、十月二十七日までの二か月強の公演。この間、毎週火曜だけが休演で、木曜と土曜は昼夜二回、他は昼一回で、一週間に八公演という、ブロードウェイそのままのハードなスケジュール。
 当然キャストはダブルなのかと思っていたが、そうではなくメインの出演者は一セットで原則的に固定らしい。今日もそのメンバーで、これもブロードウェイ流なのだろう(このあとの日本キャスト版は、昼五、夜三の週八回をダブルキャストで分担する)。それだけに、ノドの負担が過度にならない歌いかたをしていたが、ダンスのスピードや躍動感は素晴らしいものだった。振付リステージングを担当したフリオ・モンヘは、ジェローム・ロビンズの原振付を尊重しつつ、一部を現代風にリファインしている。
 マンハッタンの貧民街の街路や、ドクのドラッグストア、マリアの家や服飾店は、セットをいちいち組み直す必要がないので、細部まで作りこまれている。一九五〇年代の風俗を再現して、ジェット団にはバイクに乗る者もいる。こういう暴走族、カミナリ族みたいなのは、もっと郊外にいそうな感じだが、マンハッタンにもいたのだろうか。ともあれ客席が大きく回転するとき、それに合わせてバイクがセットを左右に走り抜けたりするのは、迫力がある。
 写実的な動きの一方で、デイヴィッド・セイントの演出は、「トゥナイト」の二重唱では、ためらうことなく超現実的な場面を出す。「ゴーイング・マッド、シューティング・スパークス・イントゥ・スペース」の歌詞をCGで本気で再現して、恋人たちがいる非常階段のベランダを、ニューヨークの摩天楼の上の宇宙空間にまで飛ばしてみせたのだ。セットをスクリーンが左右からふさいで、プロジクション・マッピングが用いられる。まるでピーターパンかメアリ・ポピンズのような、夢の世界。しかしすぐに下界の現実に帰る。効果的。
 ただ、「トゥナイト」でもクインテットのほうは、幅広い街並みの、それぞれの居場所に各人を配置したため、横に広がりすぎて、音に音が重なるような一体感が弱くなってしまっていた。音楽とドラマが融合していく名場面だけに残念。
 第二幕では、「サムフェア」の場面の処理が印象的だった。映画では、誰にでもわかりやすくするためなのか、ただの二重唱に短縮されたこの部分は、舞台版では別の女性歌手が歌い、バレエ・シークエンスもあって、バーンスタインの音楽とロビンズの振付の見せ場になっている。今回の舞台ではこの「サムフェアの歌手」を、なんとジェット団の一人であるエニバディ役に歌わせたのだ。これはコロンブスの卵的な、卓抜な発想。
 エニバディは、女なのに男の服装をしてジェット団に加わりたがっているが、不良少年たちからもそのガールフレンドたちからも相手にされず、つまはじきになっている。今風にいえば、性同一性障碍のために孤立させられる若者。
 「サムフェア」を歌いだしたそのエニバディに、トニーとマリアは手をさしのべる。そして三人で広い青空の下の、仲間たちの輪に加わる。
 この、どこかにきっとあるはずの理想郷は、トニーとマリアだけのものではなく――映画の描きかたではそうなる――疎外されたすべての若者たちの場所なのだ。それをはっきりと示してくれて、お見事だった。
 これに対し、結びの場面はあえて空虚に描かれる。映画版やこれまでの舞台版で見慣れていた町中の空き地ではなく、緑のある公園(この舞台で唯一、植物が登場する場面)でトニーは死ぬ。その後の若者たちの和解は暗示されない。さまざまな年月日と場所が両脇のスクリーンに投影され、おそらくはこうした無意味な殺人が、現代にいたるまで延々とくり返されていることを示す。舞台上の全員が客席に向って立ちつくしている。何をすべきかはあなたがたが考えろ、とでもいうかのように。
 終演後に豊洲の駅に向うと、まわりは鉄とコンクリートの巨大な工事現場。駅の反対側には豊洲市場の無機質な建物。作品にぴったりな光景だった。
   
    工事現場の奥、高層ビル街とのあいだにある、TBSのロゴの入った横長の白い建物がステージアラウンド。

九月十六日(月)音楽と視覚(五)
   
 東京芸術劇場で行なわれているサラダ音楽祭のメインコンサート、大野和士指揮東京都交響楽団によるベルリオーズの劇的交響曲《ロメオとジュリエット》。
 この曲はベルリオーズならではの、オラトリオと交響曲を自由に混ぜ合わせてしまった、独創的な構成。原作の登場人物として歌うのはバスのロランス神父のみ。主役のロメオとジュリエットの心と行動は管弦楽で表現される。以前にも書いたが、ベルリオーズにとってはシェイクスピアもゲーテ同様に母国語の作家ではなかったから、想像力を自由奔放に羽ばたかせることができたのだろう。
 今回の上演の特徴は、その想像力の翼を明快にするべく、東京シティ・バレエ団によるバレエを舞台前面で踊らせて、歌のない部分の物語を視覚的に表現させたこと。これにより、ベルリオーズの音楽の、標題音楽としての性格が明確になった。余計なことと思う人も当然いるだろうが、細部までわかりやすくなったことはたしかで、より多くの人に音楽に親しみ、体感してもらおうというサラダ音楽祭の趣旨に則ったもの。歌が入る部分にはバレエを入れず、歌詞に物語を語らせたのも、節度を保ったよい判断だと思う。字幕が出たのも親切。
 偶然にも三日前のロビンズ&バーンスタインに続き、シェイクスピアの原作を独自の方法で音楽化した傑作をみることになった。しかしここにはキリスト教という堅固な社会基盤があって、仇敵との宥和がなされる。二十世紀のニューヨークの若者たちにそれはない。いや、「どこか」にだけある。その差。そして現代の世界、現在の日本は、どうか。

 このように八月末からの三週間に、音楽に視覚を加えることでイメージをより具体的なものにし、わかりやすくしようという五つの試みに、いろいろな場所、いろいろな団体で遭遇した。お互いは無関係の企画なのに、音楽と視覚の連携を考えるフェスティバルのようだった。ここで整理してみる。
 八月二十七日、東京芸術劇場での落合陽一×日本フィル「交錯する音楽会」。
 続いて二十九日、サントリーホールのサマー・フェスで、大野和士指揮によるオペラ《リトゥン・オン・スキン》。
 九月五日、オーチャードホールで《カルミナ・ブラーナ》のバレエ版。
 十三日、豊洲のステージアラウンドでの『ウエスト・サイド・ストーリー』。
 そうして今日。
 こういう親切な「わかりやすさ」を、頭ごなしに否定する頑迷固陋な人もいるだろう。たしかにすべてが成功したわけではない。しかしけっして独りよがりな試みではなく、美しく感じた瞬間は少なくなかったし、とにかく現代を生きる若い層、より広い層に親しんでもらおうとする意欲と冒険心には、それだけで大きな意義がある。視覚からの刺激が手軽なものとなった、スマホ時代のありかた。さまざま試みがこれからもなされていくだろう。音楽を伴奏にしてしまうことなしに、聴覚が喚起する想像力の翼を助けて、高みへ、あるいは深みへと、導いていくものであってほしい。

 ところで、これら五つの企画のうち、二つに大野和士が関わっていたのは偶然ではないだろう。この二つだけでなく、二月から九月まで、今年の東京における大野和士は大車輪の活躍だった。
 二月は新国立劇場で『紫苑物語』
 四月は東京・春・音楽祭《グレの歌》
 七月は東京文化会館と新国立劇場の共同制作による「オペラ夏の祭典」の《トゥーランドット》。
 八月はサントリー・サマーフェス《リトゥン・オン・スキン》
 九月はサラダ音楽祭《ロメオとジュリエット》

 いずれも、さまざまな会場、さまざまな団体と連携しての、新たな何かを求めての企画だった。二月は新作で、新国立劇場のピットに都響を入れる。四月は都響単独では編成が巨大すぎて断念した作品を、東京・春・音楽祭の力を借りて実現。七月は、現代日本の経済事情では不可能になりつつある、歌手にも舞台にも金をかけたグランドオペラを、二団体の共同制作で実現。そして、サントリーとの八月と東京都との九月。
 これらもすべてが大成功だったわけではないが、ともかくも八か月間にわたってプロジェクトを実施し続けた意欲と実行力。二〇一九年の東京の音楽界は、大野和士を中心に回ったといって過言ではない。さすがに十月以降は、東京ではほとんど活動しないようだが。

九月十七日(火)江戸芝居の毒と景清
          
 国立劇場小劇場の文楽公演で、『嬢景清八嶋日記(むすめかげきよやしまにっき)』から「花菱屋の段」と「日向嶋の段」をみる。
 秋の国立劇場は景清特集のようになっていて、今月に文楽、再来月には大劇場で歌舞伎の『孤高勇士嬢景清(ここうのゆうしむすめかげきよ)』がかかる。どちらも平家屈指の侍大将、悪七兵衛景清の平家滅亡後の姿を描いたもの。
 大好きな能の一つにも『景清』という名作がある。能と同じ題材が、後世の文楽や歌舞伎ではどのように扱われ、変形されるのかを知るのに、国立劇場のシリーズはちょうどよい機会になると思い、みることにした。
 景清は人気の高いキャラクターだったようで、幸若舞や古浄瑠璃など、物語にヴァリエーションがある。江戸時代の文楽には、それらさまざま先行素材が混入しているのだろうと思うが、今回みたものは、意外なほどに能の物語を下敷きにしていた。
 能では、景清の娘で、鎌倉の亀ヶ江の谷(亀谷)の遊女となっている人丸が、日向の国宮崎に流された景清に一目会おうと、下人を伴って鎌倉を出発するところから始まる。
 当時の遊女にはそんな行動の自由があったのか、旅費を払えるほどの蓄えがあったのか、などと疑問がわくが、そうした細々したことは一切説明せず、想像に任せるのが能というものの面白さ。
 しかし江戸期の物語作者は、それを説明しないわけにはいかない。そこを面白おかしく、感動的に語るのが腕のみせどころ。「花菱屋の段」はそのために書かれた段で、自らの身を売って、その金で父を訪ねようと身売りに来た景清の娘、糸滝の孝心に感動した駿河の国手越の遊女宿花菱屋の主人が、店へ出る前に宮崎に行ってこいと、金を与えて旅立たせてやる話。
 そして、盲目の景清が登場する「日向嶋の段」は、能の『景清』を元に、思いきりふくらませたもの。
 冒頭、太夫が三味線の伴奏なしで「松門独り閉ぢて、年月を送り、みづから清光を見ざれば…」と能のシテの最初の部分をそっくり謡ったのには驚いた。
 この「花菱屋の段」と「日向嶋の段」は、元は享保十年(一七二五)に大坂の豊竹座で初演された『大仏殿万代石楚』の三段目で、三十九年後の明和元年(一七六四)に他の二作品と抜粹再編されて現在の『嬢景清八嶋日記』になったのだという。
 能の謡からの引用が、初めからあったのか、それともその後のどこかの時点で加えられたのかはわからないが、文楽と能との近さを示していて興味深い。
 江戸時代には猿楽はほぼ武家専有で、町人が接する機会は少なかったという話も読んだことがあるが、こういう引用を聴くと、少なくとも文楽の作者や演者には、能や謡の知識がかなりあって、参考にしていたことがわかる。客のほうも、全員ではないにせよ、ある程度の数の人は、謡曲が使われていることに気がついたのだろう。特に江戸よりも上方では、室町以来の伝統を継いで、猿楽は寺社の勧進などで、町人もみる機会が多かったのではないか。
 現在では、歌舞伎をみる人と能楽をみる人が分離していて、互いにあまり関心がない。こういう状況では、両者の違いが強調されやすくなる。違うのだから、あっちはみなくていい、関心を持たなくてもいいと安心して、それぞれの垣根の内にこもっていられるからだろう。
 それでは偏るからすべてを公平に、などと偉そうなことをいうつもりはない。自分自身もそんなことはできっこない。どちらにものめりこまずに、知識として等距離で知っているだけの人なんて、あまり魅力のない人だろう。
 自分の場合、いまはあまり歌舞伎に熱意はもてないが、能楽を最近かじり出したので、その魅力と構造をより深く知るために、立体的に眺めてみるために、それと関係の深い歌舞伎や文楽をみてみたいと思っている。そのうち、何かのきっかけで歌舞伎にのめりこむこともあるだろう。

 目の前の舞台に話を戻すと、謡の引用に続いて、景清の独白が始まる。ここは能にはない、追加された部分。旧主の位牌を出して拝みつつ、ろくなお供えもできない不甲斐なさを嘆くのだが、その旧主というのが平清盛ではなく、その長男で先に病死した重盛というのが面白い。「邪見放逸」の清盛よりも、「三世を見抜く日本の賢人」重盛が長生きしていたらと嘆くのだ。
 そこに娘がはるばる到着、景清を知らないかとたずねるが、盲人の自分にわかるはずがないと、他人のふりをする。困った娘が、折よく通りかかった里人にたずねたことで本人だと判明して、再会の場面になる。ここは能そのまま。
 しかし以後は文楽独自の展開となる。しばしの問答ののちに娘は船に乗って帰っていく。金とともに置いていった手紙を里人に代りに読んでもらうと、その内容は、遊女に身を売って金をつくったという娘の告白。
 これを聞いた景清は、娘を遊女に落として養ってもらうなど最大の恥辱と、見えぬ赤い目を見開いて泣きわめき、怒り狂う。能にはあり得ぬ、直接的な感情表現の嵐。
 ところがどんでん返しがおきる。里人は、実は鎌倉の源頼朝の家臣の変装だった。身をやつして、景清の日常を監視していたのである。
 無茶な展開だが、しかし能をうまくヒントにしたなとも思った。というのは、里人の役は能にも登場するのだが、こういう役を普通ならやりそうな狂言方のアイではなく、ワキ方がやることになっているである。そのため、アイがやるよりも重々しい感じになっている。実は武士の変装というのは、この重みから思いついたことではないだろうか。
 さて、正体を明かした武士は、この上は頼朝に仕えることにせよ、そうして禄を得れば、娘の身を無事に取り戻すこともできるぞと勧誘する。景清も観念し、「仁義正しく道を守る頼朝」に仕えることにする。武士とともに上洛すべく船に乗った景清は、もはや不要とばかりに、重盛の位牌を海に投げ捨てる。位牌はやがて波に呑まれて、幕。

 あれほど大切に拝んでいた旧主の位牌を、西海に沈んだ平家一門の命運そのままに、ポイと海に投げてしまうのが、なんというか、凄かった(笑)。
 喜怒哀楽の感情が、どれも極端に誇張されて表現される。劇的効果を求めての急展開のくり返し。娘と別れたあと、乞食の境遇のまま、独り死を待つ能の景清の、しみじみと深い諦観の世界とは、まったく別のわかりやすさ。
 個人的には正直言って、あまりのアクの強さにゲンナリしてしまったが、ここまでドギツイわかりやすさが、江戸期の小屋では求められたということなのだろう。お客は強い味ばかりに慣らされて、不感症気味になっていたのではないかという気もする。
 西の政権は邪悪で、東の政権は正義というのは、豊臣と徳川の交代を意識しているのだろう。西国に逃れて亡主を慕うという景清の人物像は、真田幸村を連想させる。こういう匂わせや重層化は、文楽や歌舞伎が好むところのはず。

 ちょうど二時間で終り、休憩をはさんで心中物の『艶容女舞衣(はですがたおんなまいぎぬ)』があるのだが、疲れたので早退け。たまには前でみてみようかと六列目を買ったのが失敗だった。
 舞台が見上げる高さになり、人形と太夫と字幕の三つが離れているので、目と首を大きく動かさなければならない。これからはもっと後方の席にしなければ。

 ともあれ文楽の景清、ここまで変わるかと面白かった。それに、人形の動きの精緻さ、表情と動きの写実的な表現への執念の深さには、感服するのみ。
 最初に述べたように、十一月には大劇場で、歌舞伎版の『孤高勇士嬢景清(ここうのゆうしむすめかげきよ)』が中村吉右衛門の主演でかかることになっている。前半には能の『大仏供養』を元にした、景清が東大寺大仏殿で頼朝を暗殺しようとする「南都東大寺大仏供養の場」があり、後半が文楽と同じ花菱屋と日向嶋の場となる。
 これもみる気だったのだが、ちょっと江戸芝居の毒気に当てられた感じで、腰がひけている(笑)。

九月十八日(水)パリの《ファウスト》
   
 東京文化会館で、ロイヤルオペラ来日公演のグノーの《ファウスト》。傑作なのにナマをみる機会がなく、生まれて初めての実演体験。
 作品、演奏、演出、三拍子そろった公演で気持がいい。平日昼の公演だが客席もよく入っている。マクヴィカーの演出は、上手側に聖性を象徴する教会のオルガン、下手側に魔性を象徴する劇場の桟敷席をおき、それらに挟まれた舞台に、聖邪の境界を揺れうごき、生きて死ぬ人間をおく。
 時代設定は十九世紀後半から二十世紀前半にかけての、ベルエポックのパリ。このオペラを生み、育んだ、この時代のこの都のもつ光と影、繁栄と退廃の虚飾が、聖邪の皮膜を主題とするドラマの陰影を、さらに深いものにする。

 清い心は、濁りやすい。清いものを穢してみたくなるのが、人間の、とりわけ男性の暗い欲望、魔性。男と欲の関係はすなわち、ファウストとメフィストフェレスの関係。
 愛情には、慈愛と利己主義が混じりあう。護ろうとすることは、支配しようとすることにつながる(先日みた《リトゥン・オン・スキン》の、プロテクターがそうだったように)。
 その清濁の波に翻弄され、苦しむ女こそが、この作品の主役。だから、かつてドイツではこの作品が《マルガレーテ》と呼ばれていたというのは、このフランス製オペラが偉大な原作のうちの第一部しか扱っていないからという表面的な理由を超えて、かなり作品の本質を正確に衝いた判断だったのではないかと思う。
 第二幕の街角の場面を、下着姿の踊り子が下品な踊りをするパリのキャバレーに変え、マルグリートをそこで働く女給にしたのは、卓抜なアイディアだった。泥中の睡蓮のように、彼女は美しく清純ではあるが、しかし彼女が暮らす世界が貧しく、下卑た欲望にまみれたものであることを示し、宝石に目がくらんでしまう彼女の弱さの由来を、そのことが説明していたから。
 性が商品となる悪所は、ベルエポックのパリならではの象徴的場所として、あと二つある。
 高級娼婦(《椿姫》のような)が生きるドゥミモンドと、そして、オペラ座のバレエ団だ。この両者を、第五幕の「ワルプルギスの夜」にともに現出してみせたのも、素晴らしいアイディアだった。
 メフィストフェレスはドラァグクイーンと化して高級娼婦の親玉となり、バレエ音楽(パリ・オペラ座で上演するために必要な条件として、グノーが一八六九年に書き加えたもの)では、オペラ座の《ジゼル》の場面が再現され、十九世期風の書き割りによる森の中で、チュチュをつけたバレリーナが踊る。そのうちのどれを落として愛人にしようかと、ジョッケークラブの正装した男どもが下手側の棧敷席から声をかける。これは『オペラ座の怪人』の世界のようでもある。
 そこに、妊娠したバレリーナがあらわれて踊り、仲間からつまはじきにされるが、それは私生児を抱えた彼女たち全員の末路を示し、そして、嬰児殺しのマルグリートの姿に重なる。
 この作品のキモは、終幕でマルグリートが歌う「Anges pure, anges radieux(清らかな天使たちよ、輝く天使たちよ)」に始まる祈りの瞬間にこそあって、この瞬間を十全に味わうために全曲が存在しているといってもいいくらいだと思うが、まさにその絶頂に向かって、優れた音楽とともに導いてくれる舞台だった。
 マルグリートのレイチェル・ウィリス=ソレンセンはピンと張った美声、ファウストのヴィットリオ・グリゴーロとメフィストフェレスのイルデブランド・ダルカンジェロはイタリア人だけにヴェリズモ風だが熱唱、ヴァランタンのステファン・ドゥグーはスタイリッシュで豊かな存在感。そしてパッパーノ指揮のオーケストラの、緩急強弱の変化を心得た、優美で劇的な響き。
   
 家へ帰って、最近出たクリストフ・ルセ指揮の《ファウスト》のCDを聴いてみる。これは同じオペラといいながら、一八五九年のグノーの初稿を演奏したもの。レチタティーヴォではなくセリフが使われていて、いくつかのナンバーも違う。初演のさいにはさらに支配人などのアドヴァイスによる変更があったので、これとはまた異なるものになった。つまり、グノー本人も実際の上演としては耳にすることのなかったオリジナルを、音にしたもの。
 売出し中のテノール、バンジャマン・ベルンハイムを初めとして歌手も指揮もよく、こちらはいかにもフランス・オペラという演奏。
 始源の形のこのCDと、実践的に改変を重ねて大向う受けのする、インターナショナルなグランドオペラになった今日の上演のヴァージョンと、どちらも充実していて、ともに愉しめたのが嬉しい。

追記:この日の次の《ファウスト》公演となった二十二日は、グリゴーロが降板した。これについて、イギリスの大衆紙「ザ・サン」が、グリゴーロが十八日の公演のカーテンコールでセクハラ行為をしたと合唱団から抗議があったためだと書いたという。
 私の記憶では、カーテンコールのときにグリゴーロが妊婦役のバレリーナの、ハリボテの丸いお腹を触ったりしていたのは見た。ほかにちょっかいを出していたかどうはわからない。触られた当人や周囲の表情がどうだったかも、注意していなかった(そういわれてみれば、バレリーナは戸惑っていたような気もするが…)。あれが問題だったのだろうか。
 遠目には、グリゴーロがただ面白がってハリボテに触っているようにしか見えなかったとはいえ、これは当事者の感じかたがすべてだから、難しい。

九月二十日(金)蝉丸と逆髮(前)
 国立能楽堂の定例公演。
・狂言『吹取(ふきとり)』山本則孝(大蔵流)
・能『蟬丸(せみまる)』野村四郎・大槻文藏(観世流)

 能『蟬丸』は、世阿弥作ともいわれる名曲。二〇一六年にも同じ定例公演で、宝生流のものをみているが、理解が深まったことと、出演者の豪華さもあって、今日のほうが感銘が深かった。
 蝉丸は、百人一首に「これやこの行くもかへるも別れては知るも知らぬも逢坂の関」という和歌が含まれていることで名高い。
 ただし、出自も経歴もよくわからない人物で、異なる伝説がいくつもあるが、盲目で琵琶の名手だったということは、共通している。
 今昔物語では、宇多天皇の第八皇子敦実親王に仕えた雑色で、卑しい身分ながら、音曲の達人だった主人の演奏を聴いているうちに、自らも琵琶の上手となった。その蝉丸が逢坂の関にいるという噂を聞いた博雅三位(はくがのさんみ)こと源博雅が、その茅屋に人を遣わし、なぜ京に住まずにこんなところにいるのかとたずねさせると、
「世の中はとてもかくても過ごしてむ 宮も藁屋もはてしなければ」
と、貴賤も貧富も同じ人生と詠んだ。
 この返答に感じ入った博雅三位は、それから折に触れて蝉丸の草庵に通い、ひそかに立ち聞きしていたが、ついに三年目にいたって、敦実親王の演奏を聴いた蝉丸以外には、もはやこの世に知る者のない秘曲を教わることができたという。

 ところがその後の伝説では、蝉丸は一介の雑色から皇子そのものに格上げされる。そして、盲目であるがゆえに高貴な身分を奪われ、琵琶の名手として卑賤に生きた蝉丸は、盲目の芸人たちの始祖とされることになるのである。
 能では、蝉丸は醍醐天皇の第四皇子という設定になっている。これは平家物語に従っているらしい。ただし平家物語では逢坂山の西麓にあたる、山科の四宮河原に住んだことになっている。
 逢坂の関に戻したのは、百人一首や今昔物語の世界を活かすためだろう。和歌が喚起する興趣を効果的に用い、詞章の中にもその語句を引用するあたりは、なるほど世阿弥的な作劇法。

 こうして王家の血を引く者となり、卑賤と至尊を直結させる存在となった蝉丸だが、面白いことに近世の琵琶法師は、自らの始祖を蝉丸ではないとしてきた。始祖は同じ皇親でも仁明天皇の第四宮、人康親王だというのである。この親王は四宮河原の近くに山荘を営んだそうで、四宮という地名も、この人に由来するともいう。
 能がつくられた中世の時点では、逢坂の関の歌を詠んだ蝉丸法師と、そのふもとの地に住んだ人康親王のイメージを混合して貴と賤をつなぎ、貴種流離譚としての蝉丸伝説に発展させていたような感じがする。関所も河原も、こちらとあちらの境界、能が好んで舞台とする「異界への門」としての情趣をもつ場所で、人と物が行き交う巷だから、盲目の芸人が生きていくのに好適である。
 しかし近世を迎えて、琵琶法師はこの混合を切り離した。兵藤裕巳の『琵琶法師』(岩波新書)によると、他の乞食芸人や非人と一緒にされるのを嫌い、かれらが始祖と仰ぐ蝉丸とは別の、人康親王その人に替えたらしい。差別が差別を生む、負の精神構造。
 そういえば能には、この蝉丸のような琵琶の名手が出てくる曲が『絃上』(げんじょう/けんじょう)とか『経正』とかあるが、かなり特殊な小書がついた場合以外は、舞台上で実際に琵琶が奏でられることはない。舞台芸術の普通の感覚では、琵琶を出す演出が自然だと思うのだが、それはほぼないのである。
 徳川時代には、平曲を語る琵琶法師も猿楽と同様に「武家の式楽」たる地位を得たが、両者の交流はなかったようだ。寛永年間に琵琶法師の座が定めた「当道式目」は、舞々・猿楽などの「いやしき筋目」との交渉を禁じているという。日本の芸事に特有の硬直した思考である。

 ともあれ、能の蝉丸は、尊貴と卑賤をつなぐもの、浄きものと穢れたものをつなぐもの、貴賤が表裏一体となった存在として、民俗学的にもかなり興味深い対象らしい。
 能は、まず皇子姿の蝉丸(ツレ・大槻文藏)が、臣下の藤原清貫(ワキ・福王茂十郎)に伴われて、輿に乗って登場。
 生まれつき盲目の蝉丸を、出家させて逢坂山に捨ててこいという父醍醐天皇の勅命により、都から逢坂山に向かう道中が謡われる。
 堯舜以来の名君なのに、どうしてこんな酷いことをされるのだろうと清貫が嘆くと、そんなことはない、これで前世の罪障をつぐない、後世をよくせよという親の慈悲なのだと答える蝉丸(当時は、仏教の因果応報説により、生まれつきの障碍などは前世の悪業の結果と信じられていた)。
 出家させられ、さらに盗まれるといけないからと、豪華な衣を貧弱な蓑に着替えさせられる。蝉丸は清貫の説明の見えすいた嘘にも、逆らわずに従う。
「かかる憂き世に逢坂の、知るも知らぬもこれ見よや、延喜の皇子の、成り行く果てぞ悲しき」
 天皇が残酷な仕打を一方的にするという、能独自の凄い設定なので、皇国史観の時代には上演を遠慮したという。

 勅命を果たした清貫は、涙をぬぐいつつ都に帰っていく。
 ところでこの藤原清貫は実在の人物。醍醐天皇の時代に大納言にまで出世した人だから、盲目の皇子の追放に関わっても不思議はない。しかし面白いことに、別の歴史上の事件でも有名な人なのである。菅原道真の追放に関わり、その二十九年後に、清涼殿で落雷に当たって死んだ。そのため、道真の怨霊に殺されたと信じられた当人なのだ。
 そういう人物を、作者が創作した蝉丸追放の場面に出すことの意味。蝉丸も道真同様に、罪なくして追われる敗者なのだろう。そして、この権力批判に作者自身の実体験とか、敬愛した貴人の没落とか、何か能が作られた時代の実際の事件が反映されているのかも、と想像するのは楽しいが、流罪の悲嘆は昔からの物語の定型だから、これはわからない。
 清貫に対して強がってはみたものの、蝉丸は、父が自らに何をしたかということに気がついている。
「皇子は後にただひとり、御身に添ふものとては、琵琶を抱きて杖を持ち、伏し転びてぞ泣き給ふ」
 ここで、盲目の琵琶法師として生きていくことが暗示される。そこにアイ(山本則重)が出てきて、雨露をしのぐための藁屋へ蝉丸を連れて行き、また見に来ると励まして退場する。こういう役どころは通常、近くの里人と定まっているのだが、ここではそれを博雅三位として、今昔物語に重ねるのが楽しい。
 先の清貫にしてもこの博雅にしても、一般的なワキやアイの役どころに実在の人物のイメージを重ねることで、物語の世界を多層化している。こういう巧妙さも世阿弥的だ――もちろん、どちらも本筋に関わる必然性があるわけではないので、後世になってあてはめられたもの、という可能性もあるだろうが。
        
    写真はすべて銕仙会のサイト(http://www.tessen.org/archive/photo/20151219-2/)から

 ここからは後場となり、架空の人物が登場する。他に典拠のない、能の作者が独自に創造したらしい人物であり、しかもそれが能の主役シテであることに、この能の大きな特徴がある。
 蝉丸は外題役であるにもかかわらず、あくまでツレなのだ(だからシテよりも若い人がつとめることが普通だが、今回は観世流の大阪の重鎮である大槻文藏。シテが野村四郎で、シテ方の人間国宝二人が共演という豪華版)。
 シテの役名は逆髮(さかがみ)。蝉丸の姉宮だが、彼女も「心よりより狂乱して、辺土遠境の狂人となつて、緑の髪は空さまにと生ひ上がつて、撫づれど下がらず」、つまり、ときおり我を失って狂乱状態になる病があり、髪が常に逆立っている。そのために彼女も宮廷を出て、蝉丸同様に流浪の身となる。
 しかし逆髮は、泣いてばかりの蝉丸とは対照的な性格の持ち主である。世間をさめた目で見つめて、没落は誰の身にも起きるし、それが本当に没落とは限らないと、彼女は考える。
 髪を笑う子供たちに、逆髪は言う。
「実に逆様なることはをかしいよな、さては我が髪よりも、汝らが身にて我を笑うことこそ逆様なれ、面白し面白し。これらは皆人間目前の境界なり、それ花の種は地に埋もつて千林の梢に上り、月の影は天に懸つて万水の底に沈む、これらをばみないづれか順と見、逆なりと言はん」
 貴人の没落を、貴人になったこともない下人が笑うことの滑稽さ。それは誰の身にも起きること。落ちるものが昇り、昇るものが落ちる。何が順で何が逆か。
「我は皇子なれども、庶人に下り、髪は身上より生ひ上つて星霜を戴く、これみな順逆の二つなり、面白や」
 正常と異常は表裏一体。それが人間であること、生きるということだ。「狂女なれども心は、清瀧川と知るべし」
 煩悩即菩提、生死即涅槃。矛盾を超越する精神の具現化として、逆髮は蝉丸を補うものとして、創作されている。

 この逆髮とは、坂神の言い換えだろうという。坂を越えて往復すれば、坂を上ることも下ることも、必ずどちらもすることになる。まさしく、「これやこの行くもかへるも別れては知るも知らぬも逢坂の関」という、さまざまな順逆が交錯する場所がもつ精神の具現化でもあるのだ。だからこそ舞台は四宮河原ではなくて、逢坂の坂でなければならない。
 世阿弥であれ誰であれ、古歌を重層的に織り込んだ、見事な作劇。そして逆髮という、蝉丸と対照的なキャラクターを創造し、しかも主役に据えたところに、能の作者の卓越した才能がうかがえる。
 蝉丸は、逢坂関という「境界」に停止している。この関は畿内と東国の境界とされ、皇親と高位の貴族は関を越えて東国に入ることを禁じられていた(東国に逃れて反乱を起こすことを防ぐため)。越えて行けるのは、それ以下の身分の人ということになる。蝉丸は、この貴と賤の境目に留まる。目の見えぬ弱者で、育ちのよさゆえに生活力も薄弱だから、そうするしかないともいえる。
 逆髮は違う。都を一人で出て東へ歩いて、逢坂関にたどりつく。賤が屋から不相応に格調高い琵琶の音が聞こえるのに驚き、弟がいることを発見する。手を取りあい、思わぬ再会を喜ぶ二人。
 盲目ゆえに月の光を見ることもなく、藁屋ゆえに雨音が吸われて降る雨に気づくこともなく、美しい琵琶の音を奏でるばかりの蝉丸を、逆髮は痛ましく思う。

 だがそれは逆髮の望む生活ではない。一夜が明けると、ここに一緒にいてくれという蝉丸の懇願を振りきり、逆髮は別れを告げて出発する。
 あてなどないはずだが、「行くは慰む方もあり、留まるをさこそ」と、彼女は行くことに慰めを見出す。境界に留まる蝉丸とは対照的に、逆髮は行く。どこへ行くとは書いていないが、出てきたばかりの京に帰るはずはないから、関の向うの東国へ、皇子の身であれば許されなかった境界を越えて、いずことも知れぬ未知の世界へ歩いていく。順調も逆境も、どちらもそこにはあるだろう。
 もともと「心よりより狂乱して、辺土遠境の狂人となつて」いるために宮廷にいられなくなったのだから、心の内だけでなく、現実の辺土遠境の狂人となる覚悟なのに違いない。
 運命に対して受動的で、その境遇を芸術に昇華させる蝉丸とは対照的に、能動的で、自らの境涯の意味と、その先に広がる世界を、自らの目と耳で確かめ、言葉にしようとする逆髮。
 坂道は、その途上にある人を休ませない。上るなり下るなり、とにかく行動して、そこから離れることを常に求める。だから逆髮は坂道の人なのだ。
 そして大概の人は、健常者であっても多かれ少なかれ、人生の坂道の順逆を行くことを求められる。だからこそ、作者は逆髮をこの能の主役にしたのだろう。
 蝉丸を逢坂に連れてきた清貫は、身をひるがえして宮廷に、絢爛にして陰謀渦巻く王朝世界に戻っていった(そうしてやがて、怨霊に殺されることになる)。逆髮は逆に、関を越えて辺土遠境へ。
 二人のいずれが順で、いずれが逆か。両者から置き去りにされ、順逆のない、境界の場に留まる蝉丸。

 ところでこの逆髮、不思議なことが一つある。姉と呼ばれ、狂女と名乗り、面も装束もたしかに女なのだが、登場のときには「延喜第三の皇子」と、自分が男であるようなことを語るのだ。あるいは男と女の境界も越えて、行きつ戻りつする存在なのかも知れない。

 今日の舞台は野村四郎、大槻文藏とともに、シテ方三人目の人間国宝となる地頭の梅若実の統率にも感服した。
 前にみたときは、再会したシテとツレが動かずに黙して座り、地謡だけが心境と情況を謡う「クセ」の部分があまりにも平板で長すぎ、ひどく退屈した記憶があるのだが、今日は集中が維持され、しみじみとした味わいを満喫した。その響き、呼吸とフレージングの波動で聴くものを引き込む、絶妙の地謡。
 さらに藤原清貫役の福王茂十郎、小鼓の大倉源次郎と、人の揃った素晴らしい舞台だった。

九月二十一日(土)六〇年代の空気
   
 「レコード芸術」十月号発売。特集は『「交響曲」をもっと識る9つのキーワード』。おざなりの名曲名盤の紹介ではない、ピンポイントの突込みがすごい。「レコード誕生物語」の船越清佳さんによるロトとレ・シエクルの《春の祭典》をめぐる「初演スコア再構成&楽器収集のドラマ」も面白い。
 自分が担当した記事は、ホロヴィッツの「ザ・グレイト・カムバック」十五枚組の紹介文三千二百字、月評の「バーンスタイン/ヤング・ピープルズ・コンサート Vol.3」、など。
 いまあげたこの二つは、一九六〇年代アメリカの空気が感じられるドキュメントとして共通しているので、特に書いていて楽しかった。
   
 前者は、五回のリハーサル録音がものすごくいい。舅にあたるトスカニーニのリハーサルとか、ラフマニノフの交響的舞曲の試奏の録音にあるのと同じ、「音楽する喜び」にみちているから。
 記事に、「リハーサルはしょせんリハーサルだ、本番の演奏で判断し、批評しなければならない、という人もいるだろう。それは真実である。しかし、超一流のアーティストが、音楽することを、演奏することを楽しんでいる録音に接することは、名演か否か、名盤か否かを問い、判断することに没頭するよりも、私には大きな喜びを与えてくれる」と書いたが、これに尽きる。
   
 後者は、おそらくこれまで未発売だった、一九六七年以降のカラー版九本が特に面白い。番組開始間もない時期の六〇年前後のモノクロ版の番組たちが、いかにも啓蒙的な大衆教養主義の雰囲気だったのに対して、まさに六〇年代後半の、あの熱くて混乱した世相の空気が、そこここに入り込んでいるから。モノクロの頃は精一杯おめかししていた客席の子供たちが、カラー版だとまさに六〇年代っぽいオレンジ色などの、カラフルでカジュアルなおしゃれ服に変わってくる。
 番組にも反映され、第十話「改変されたバッハ」(六九年四月)では、「ストコフスキー本人が登場してその編曲を指揮し、さらにルーカス・フォスによる前衛的編曲、ムーグのシンセサイザーによる電子版、そしてロック・バンドによるロック版まで、六〇年代末の熱狂と混乱の時代の空気を感じることができる」。
 ストコフスキー(本物)が出てきて指揮したのには驚いた。本文には書ききれなかったが、バーンスタインはどうやらストコフスキー式の編曲が嫌いらしく、「自分で指揮したくないから本人に出てきてもらった」という気配が、話の端々に漂うのがおかしい。友人のフォス編曲版はもちろんバーンスタインが指揮するが、ロック版ではバーンスタインは最後のあいさつにも顔を見せず、ひどく投げやりな雰囲気で終る(笑)。
 あと、最後の出演となった七二年のホルストの《惑星》の回。前衛音楽風の即興で《冥王星》をでっち上げて終わる。バーンスタインの名声を高めたヤング・ピープルズ・コンサートの出演は、よりによってこの音楽で終わったのかと思うと、非常に考えさせられる。
 番組最後の予告で、ナレーターが「次回はディーン・ディクソンによるブルックナーの交響曲」といっているのも、すごく気になった。もちろん、それは入っていない(残念)。

 午後と夜に演奏会をはしご。
 午後は十四時からすみだトリフォニーで、ポール・マクリーシュ指揮新日本フィル、友会合唱団その他の演奏で、前半がシューベルトの劇音楽《キプロスの女王ロザムンデ》抜粋(序曲、第三幕への間奏曲、バレエ音楽第一番、バレエ音楽第二番)、後半がメンデルスゾーンの交響曲第二番《讃歌》。
 メンデルスゾーンの交響曲は声楽入りなので演奏機会が少なく、楽しみにしていた。プログラムを開くと、英語訳詞版とあってびっくり。マクリーシュならではの、珍しい曲のさらに珍しいヴァージョン。メンデルスゾーンとイギリス音楽界の強い結びつきの証明のようであり、ヘンデルの英語オラトリオとの関連も思わせて、面白かった。
 夜は十八時からサントリーホールで、リオネル・ブランギエ指揮の東京交響楽団で、ブラームスのヴァイオリン協奏曲 (独奏:アリーナ・ポゴストキーナ)とプロコフィエフの交響曲第四番。
 ポゴストキーナは二〇一八年三月にオラモ指揮BBC響とのチャイコフスキーの協奏曲がよかったし、プロコフィエフも聴く機会が多くない曲なので期待したが、ブランギエの指揮がいま一つピンとこないままに終る。

九月二十五日(水)北欧プロ
 サントリーホールで、パーヴォ・ヤルヴィ指揮のNHK交響楽団。
・トゥール:ルーツを求めて~シベリウスをたたえて~(一九九〇)
・ニールセン:フルート協奏曲(独奏:エマニュエル・パユ)
・シベリウス:交響曲第六番、交響曲第七番

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十月一日(火)ポール・ルイス
   
 王子ホールで、ポール・ルイスのピアノ・リサイタル。
・ハイドン:ピアノ・ソナタ第三十四番
・ブラームス:三つの間奏曲作品百十七
・ベートーヴェン:ディアベッリ変奏曲
 ダイナミックで、確信に満ちた表現のディアベッリが、とりわけ見事。

十月二日(水)オッフェンバック!
   
 東京芸術劇場で東京都交響楽団の演奏会。指揮はフィリップ・フォン・シュタイネッカー。
・スッペ:喜歌劇《軽騎兵》序曲
・オッフェンバック:チェロ協奏曲《軍隊風》(独奏:エドガー・モロー、日本初演)
・スッペ:喜歌劇《美しきガラテア》序曲
・オッフェンバック:歌劇《ホフマン物語》より〈間奏曲〉〈舟歌〉
・オッフェンバック(ビンダー編曲):喜歌劇《天国と地獄》序曲
 今年は我が最愛の作曲家、オッフェンバックの生誕二百年なのだが、日本では二期会の《天国と地獄(地獄のオルフェ)》以外、ほとんど取りあげられない。
 貴重な例外がこの演奏会。チェロ協奏曲《軍隊風》の日本初演をやる。全曲は散逸したと思われていたが、二十一世紀になって発見された。長大で超絶技巧の連続という、物凄い代物。易々とひききったエドガー・モローも凄かった。
 日本初演の貴重な機会なのに平日の昼間の演奏会なので、浮草稼業の自分のような者などしか、勤労世代は聴けない。もったいない。

十月三日(木)頂きをめざして
   
 王子ホールで、エドガー・モローによるバッハの無伴奏チェロ組曲の全曲演奏会。十八時半開始で二回の休憩をはさんで、六曲を順番にひく大変なプロ。
 バッハの無伴奏というと、チェロでもヴァイオリンでも二夜に分けたり、土曜の午後と夕方の二回、間を一時間以上あけるというパターンが一般的だが、一回で真っ向勝負という、一九九四年生まれの若武者ならではの登頂作戦。
 しかし、ヴァイオリンの場合は中央を少し過ぎたパルティータ第二番のシャコンヌに頂点が来るが、チェロの場合は、進むにつれてどんどん難度が増していくという、険しい登山ルートになる。
 昨日のオッフェンバックを易々とひいたモローといえども、さすがに無理があったか、第四番あたりではヘロヘロになる。優れたチェリストなので、機会をあらためて二回に分けて聴いてみたい。二十一時半終了。

十月五日(土)三人目
   
 東京文化会館で、二期会による《蝶々夫人》。宮本亞門演出の新制作。
 六十七年間に及ぶ二期会の歴史で、このオペラを演出したのは、一九二六年生れの栗山昌良と三四年生れの故三谷礼二の二人だけだった。その意味を考えさせられる。評を日経新聞に書く。

十月六日(日)ノットのグレ
   
 ミューザ川崎でシェーンベルク《グレの歌》。ジョナサン・ノットの指揮、東響コーラスと東京交響楽団、トルステン・ケール、ドロテア・レシュマンなど。
 自分は今年二つめの《グレの歌》(行けなかったが、大野和士指揮都響もあった)。こんな巨大編成の大曲をナマで二回聴ける年は、今後あるかどうか。
 ノットらしいシャープな響き。

十月七日(月)ミンコフスキ&都響
   
 東京文化会館で、東京都交響楽団の演奏会。指揮はマルク・ミンコフスキ。
・シューマン:交響曲第四番(一八四一年初稿版)
・チャイコフスキー:交響曲第六番《悲愴》
 生き生きと快活な音楽。共演を重ねて息が合っている印象。

十月十日(木)能の再話としての歌舞伎
   
 歌舞伎座で歌舞伎をみる。
 新しい歌舞伎座の中に入るのはこれが初めて。東銀座駅からそのまま地下階へ入れるのは快適。劇場そのものは、建材が新しくなり、客席外に三階までのエスカレーターが左右につき、売店などの位置が変わった以外は、ほとんど変わっていないように感じる。座席の前後も相変わらず狭い。
 「芸術祭十月大歌舞伎」と名打たれた今月は、夜の部の最後に玉三郎が世阿弥作の能を補綴した『二人静』が出る。そして、それと対照させるように、昼の部の前半には能掛かり、つまり能を原作とする作品が『廓三番叟(くるわさんばそう)』『御摂勧進帳(ごひいきかんじんちょう)』『蜘蛛絲梓弦(くものいとあずさのゆみはり)』と三本かかる。
 『廓三番叟』は江戸後期の文政年間、『御摂勧進帳』と『蜘蛛絲梓弦』は江戸中期の田沼時代と、どれも明治維新前の作品。現代の玉三郎の補綴は、原作をかなり尊重しているらしいが、江戸時代には武家は能、町人は文楽歌舞伎と区別されていたから、能をどのように採り入れたのかをみてみたかった。
   
     画像は 「

イープラス 歌舞伎座公演 『芸術祭十月大歌舞伎』昼の部レポート

」から

 まず『廓三番叟』は、文政九(一八二六)年に四世杵屋六三郎が作詞作曲した長唄。能の『翁』の後半、狂言方が演じる「三番叟」は、江戸初期から歌舞伎にも採り入れられてきたらしい。
 ここでは吉原の廓の正月に舞台を設定して、傾城(中村扇雀)を翁、新造を千歳、太鼓持を三番叟に見立てて、『翁』をパロディ化して軽妙に、かつ艶っぽく謡う。プログラム掲載の結びの詞章。
「あゝうつつなの戯れごと 賑わう家の敷き初め月雪花の三つ蒲団 廓の豊かぞ祝いしける」
 傾城の名を千歳太夫としているのは、翁そのものじゃないですよという、躱しの工夫だろうか。
 江戸時代には長唄だけで、振付がついたのは大正になってからだという。作者の四世杵屋六三郎は、十四年後の天保十一年初演の『勧進帳』の作曲をしたことで有名な人。いうまでもなく『勧進帳』は、能を本格的に歌舞伎化した最初の作品とされる。能の謡曲に関心が深く、研究した人なのだろう。京はともかく、江戸での能は町人には縁遠かったといわれることがあるが、少なくともこの人はそうではなかった。
 歌舞伎の伴奏音楽ではない、鑑賞用に独立した長唄(お座敷長唄)を創始した人だそうで、そのときに謡曲は大きなヒントになったのだろう。最初の作品は文政三年の『老松』で、これも同名の謡曲が元である。六年後の『廓三番叟』も、当初はその一つだったわけだ。

 次の『御摂勧進帳』は、『勧進帳』より六十七年前の安永二(一七七三)年に初演されたもの。義経記や能の『安宅』を元にしている点では『勧進帳』に先行しているが、より泥臭く荒々しく、はるかに歌舞伎っぽい。ここで演じられたのは全六幕中の「加賀国安宅の関の場」。
 弁慶(尾上松緑)は、勧進帳を詠みあげる箇所では謡曲そのままだったりするのだが、全体的には古きよき「豪傑」のキャラクター。喜怒哀楽の振幅が激しくて動作が大仰だが、大力無双。
 最後、無事通行を許された義経主従の中で、一人だけ縛り上げられて関所に残される。一行が充分に遠ざかったのを確かめると縄を引きちぎり、番卒二十人ほどを相手に一人で大あばれ。
 番卒どもの首を次々と引っこ抜き、巨大な天水桶に投げ込んでいく。そして芋を洗うように、二本の金剛杖で桶をかき回すと、首がぽんぽん飛び出してくる。
 いかにも江戸荒事らしいこの場面からついた通称が「芋洗い勧進帳」。
 野蛮な話だが、しかし江戸期の芋洗いという言葉には痘瘡から身を護る意味があったから、その意味を込め、荒事らしく邪を払う縁起のよい芝居なのだろう。
   
     画像は「

歌舞伎役者 四代目尾上松緑・藤間流家元 六世藤間勘右衞門の公式HP

」から

 続く『蜘蛛絲梓弦』は能の『土蜘蛛』を、華やかにまた艶っぽく、町人向けに再話したもの。
 碓井貞光(尾上松也)と坂田金時(尾上右近)の若手の花形二人が、源頼光(市川右團次)の寝所で不寝番をしていると、蜘蛛の精(片岡愛之助)が襲ってくる。小姓、太鼓持、座頭、傾城と早変わりして、ついに正体を現す五変化が見せ場。おしまいは頼光率いる四天王が、葛城山に潜む土蜘蛛を退治する。
   
     画像は 「

イープラス 歌舞伎座公演 『芸術祭十月大歌舞伎』昼の部レポート

」から

 三作ともそれぞれのやり方で、能の囃子を再現する場面があった。原作を明確に意識しながら、つまり熟知した上で、ふくらませているのが面白かった。当時の観客はともかく、少なくとも作者たちは謡曲をよく学んでいたと思える。このあたりの関係はもっと調べてみたい。

昼の部
一、廓三番叟(くるわさんばそう)
傾城 中村扇雀
太鼓持 巳之助
新造 中村梅枝

二、御摂勧進帳(ごひいきかんじんちょう)
加賀国安宅の関の場
初世桜田治助 作
利倉幸一 補綴
武蔵坊弁慶 尾上松緑
斎藤次祐家 板東彦三郎
源義経 坂東亀蔵
鷲尾三郎 尾上松也
駿河次郎 中村萬太郎
山城四郎 中村種之助
常陸坊海尊 片岡亀蔵
富樫左衛門 片岡愛之助

三、蜘蛛絲梓弦(くものいとあずさのゆみはり)
片岡愛之助五変化相勤め申し候
小姓寛丸
太鼓持愛平
座頭松市     片岡愛之助
傾城薄雲太夫
蜘蛛の精
碓井貞光 尾上松也
坂田金時 尾上右近
渡辺綱 中村種之助
ト部季武 中村虎之介
源頼光 市川右團次

十月十一日(金)ティチアーティ
 昨日今日と、二夜続けてロビン・ティチアーティ指揮ベルリン・ドイツ交響楽団の演奏会を聴く。
   
 十日 サントリーホール
 ・ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第三番(ピアノ:反田恭平)
 ・ラフマニノフ:交響曲第二番
 十一日 東京芸術劇場
 ・R・シュトラウス:《ドン・ファン》
 ・モーツァルト:フルートとハープのための協奏曲(フルート:高木綾子、ハープ:吉野直子)
 ・マーラー:交響曲第一番《巨人》

 鮮度の高い、敏捷な音楽。とりわけマーラーが素晴らしかった。ティチアーティを聴くのは、二〇〇八年のザルツブルク音楽祭制作日本公演の《フィガロの結婚》以来、十一年ぶり。あのときはまだ二十五歳、生硬さを感じたが、その後は順調に伸びているようだ。これからはもっと聴く機会をもちたい。

十月十四日(月)クリスティ
   
 オペラシティで、ウィリアム・クリスティ指揮のレザール・フロリサンによるヘンデルの《メサイア》全曲。
 優美で明朗、華やぎと湧きいずる生命の輝きをもつ、素敵な《メサイア》。

十月十八日(金)暗殺の能(一)
 台風十九号の爪痕は大きく、思わぬ広範囲に及んでいる。ご苦労をされている方々のご生活が、一日も早く元に戻られることを願うばかり。
 能楽堂の研修生制度が、募集開始から四か月半をへても応募者ゼロだという。生活様式も娯楽のありようも、とどまることなく欧米化していくなか、日本の伝統芸能の存在意義が問われる。
 ただ、研修生制度が対象とする能の三役(ワキ方、囃子方、狂言方)のありかたには、現代では不合理な要素もあるようで、人を集めればいいという問題ではないこともたしか。これは寺の檀家制度や相撲などと同じく、江戸時代に完成された、既得権益を固定することによる、安定と同時に停滞したシステムのもつ問題。そこを改革しながら、中身を残すことができるか。やれなければ滅びる。
 とはいえ、自分もほんの四年前までは能楽など何の興味もなく、欧米文化があれば自分は充分に満足だと思っていたのだから、偉そうなことはいえない。
      
 とりあえず、いまはまだ目の前にある能の快楽を書く。
 国立能楽堂の定例公演。
・狂言『萩大名(はぎだいみょう)』山本泰太郎、山本凛太郎、山本東次郎(大蔵流)
・能『咸陽宮(かんようきゅう)』武田孝史(宝生流)、宝生欣哉、若松隆、一噌隆之、曽和鼓堂、柿原弘和、三島元太郎。地頭:朝倉俊樹

 九月四日の可変日記に、中唐の詩人白楽天が出てくるのに、なぜか舞台は日本という不思議な能『白楽天』の話を書いた。『咸陽宮』は、舞台はちゃんと秦帝国の首都になっている。しかし、これもかなり変わった能だった。
 『咸陽宮』は、古代中国の秦の都城を舞台に、荊軻(けいか)による始皇帝暗殺未遂事件を描いたもの。平家物語の巻第五の七「咸陽宮の事」の物語を、ほぼ忠実にドラマ化している。この部分は史記の本文よりも、唐の時代に書かれた史記正義という、注釈書の記述を参考にして書かれている。
 秦帝国の巨大な首都、咸陽に建つ始皇帝の壮麗な阿房宮を、敵国の燕の太子丹が放った刺客、荊軻と秦舞陽(しんぶよう)の二人が目指す。
 内裏は地上三里の高さ。金銀珠玉の階段の途中、恐怖で足がすくんだ秦舞陽を荊軻が励まし、昇りきる。燕の将軍の首と地図を献じることを名目に、帝に拝謁する二人。帝が地図の巻物を広げると、中から剣があらわれる。荊軻はそれを手にとるが早いか、逃げようとする帝の袖を秦舞陽と左右からつかんで押え、剣を胸に突きつける。
 進退窮まった帝は、この世の名残に寵妃花陽夫人の琴を聞かせてくれと頼む。毎日聴いていたのに、今日はまだ聴いていないからと。どうしようと荊軻がたずねると、しっかり押えてあるのだから、少しならいいだろうと秦舞陽が答える。そこで夫人は琴を奏で、歌う。
 ところが夫人の歌には、袖は引きちぎることができるし、七尺の屏風は躍り越えられると、脱出法が込められていた。帝は気がついたが、荊軻は名曲に酔いしれて陶然となり、気がつかない。油断を見すました帝は、二人を一気に振りはらい、太い銅の柱の陰に逃げる。怒った荊軻は剣を投げつけるが、空しく柱に突き刺さる。自らの剣を抜いた帝は、素手となった刺客二人に逆襲する。
「帝また剣を抜いて、荊軻をも秦舞陽をも、八つ裂きに裂き給ひ、忽ちに失ひおはしまし」
 そして兵を起こし、燕を滅ぼす。
「その後燕丹太子をも、程なく滅ぼし秦の御代、万歳を保ち給ふ事、ただこれ后の琴の秘曲、有難かりけるためしかな」

 寵妃の琴の音で始皇帝が救われたという話は史記本文ではなく、史記正義にある。平家物語では、頼朝挙兵の報が届いた都で、清盛におもねろうとした者が、清盛を始皇帝に、頼朝を燕の太子丹に見立てて、謀叛が必ず失敗する例としてこの話を述べたことになっている。
 能の『咸陽宮』も、始皇帝の賢明と胆力、夫人に代表される臣下の忠義と知略を賛美することで、その場にいる天皇なり将軍なり大名なりと家臣を、同時に寿ぐような性格を持っている。
 面白いのは、舞がまったくないこと。謡による詞章と写実的な動作だけで、物語を芝居のように進める。
 面をつけるのは、花陽夫人などシテ方のツレ三人だけ。あとはみな直面。
 宮殿に見立てた一畳台にいる皇帝役のシテを囲み、女性役のシテツレが三人、臣下のワキツレが三人、それに官人役のアイが宮廷の盛大な様子をあらわす。刺客役のワキとワキツレも加わるので計十人と、能にしては大がかりな規模。
 大がかりなわりに、シテが謡ったり動いたりする場面は少ない。最後に剣を振るって敵を打ち倒すところは単独の動きだが、あとはワキ方が動いてくれる。
 老いて動きの衰えたシテの太夫とか、あるいはそれこそ、能の経験の浅い素人の将軍や大名が、大勢に囲まれて気持ちよく演じるのによさそうな感じ。
 いつごろ、誰がつくったのかは不明らしいが、皇帝が自ら剣を振るって刺客を返り討ちにするあたりは、貴族よりは武士が喜びそうな話だ。

 中世以降に暗殺された天皇はいないが将軍では、足利六代将軍義教がいる。その時期に『咸陽宮』が存在していたのかどうかを想像するのは面白い。実際の義教は、能の『鵜羽』をみているときに襲われた。この世阿弥の自信作が廃曲になったのは、そのことを後の徳川幕府が不吉とみなしたためらしい。
 刺客を撃退する『咸陽宮』は逆に、まことにめでたい能である。実際、『咸陽宮』は江戸城内でも演じられた。そしてそのことは、今回荊軻を演じたワキの宝生欣哉を宗家とする、下掛宝生流の成立のきっかけになったという。
 今月の国立能楽堂主催公演は、《月間特集 所縁の能・狂言》と名打たれて、各流派にゆかりのある作品が集められている。『萩大名』は、初世山本東次郎則正(一八三六~一九〇二、現東次郎は曾孫で四世)が、明治十六年の天覧能で名を挙げたという狂言。『咸陽宮』は前述の理由から、下掛宝生流ゆかりの能。
 江戸期までのワキ方など三役の各流派は、それぞれシテ方の五つの座の専属となっていた。その一つ、シテ方金剛流の座付だったワキ方春藤流の、十七世紀半ばの当主の弟がシテ方宝生流の座付として独立を認められ、さらにその養子が春藤から宝生に苗字をあらためたのが、ワキ方宝生流の始まり。シテ方の宝生流が上掛(京都風)なのに対し、ワキ方は元が下掛(奈良風)の金剛流にいたので、下掛宝生流と呼ばれる。
 宝生座のワキ方に移った弟は春藤権七という。『咸陽宮』でワキツレの秦舞陽を演じたことがきっかけで、徳川三代将軍家光が正保四年(一六四七)に独立を認めたという。その前年四月に江戸城三の丸で『咸陽宮』が演じられた記録があり、そのときのことかも知れないと、プログラムの中村由起子の解説にある。

 しかし、みる前から不思議に思えたのは秦舞陽がただの脇役で、特に見せ場がなさそうなことだった。
 実際にみてもやはり、宮殿の階段を昇る途中で恐くなり、座りこんで荊軻に叱咤されるという情けない場面を橋懸の上でやるくらいで、あとは目立たない。男色家として名高い家光の命というあたりで、何か別の理由も考えたくなるが、そのあたりはわからないらしい。

十月二十五日(金)暗殺の能(二)
 能と弦楽四重奏団のはしご。まずは国立能楽堂の企画公演。
・狂言『子の日(ねのひ)』茂山逸平(七五三の代役)(大蔵流)
・能『望月(もちづき) 古式(こしき)』観世銕之丞(観世流)、谷本健吾、谷本康介。森常好。茂山千三郎。杉市和、大蔵源次郎、亀井忠雄、小寺佐七。地頭:浅井文義
   
 遅刻して狂言には間にあわず。
 『望月』は作者不詳ながら、能の仇討物の代表作。シテが遊芸人に扮して、ワキが演じる仇敵を油断させて討つ、という展開は以前にみた『放下僧』と同じだが、仇への敵意があからさまで、やたらに武張っていて、とても相手を油断させようとしているようにはみえない『放下僧』の男二人の芸に対し、『望月』の芸は女性の謡、子供の羯鼓(八撥)、男性の獅子舞と変化する。そのなかでの警戒から油断への敵の弛緩の波と、その背後で次第に高まる襲撃への緊迫感という、対照的な心理の交錯が音楽に合わせて描かれていて、はるかに出来がよい。
 架空の物語で、モデルとなるような事件は伝わっていないらしいが、時代としては室町時代。
 信濃の侍、安田荘司友治は、同国の望月秋長(ワキ)と口論したあげくに殺された。一族も散り散りになるなか、安田の妻(ツレ)は一子花若(子方)をつれて逃げて、近江国の守山宿の旅籠にたどり着く。すると偶然にも、旅籠の主は安田の旧臣で子細あって武士を辞めた、小沢刑部友房(シテ)だった。
 思わぬ再会を喜ぶところに、さらなる偶然がおきる。仇の望月が泊まりにきたのだ。安田殺しの罪で取りあげられた本領を、都に訴え出て見事に取り戻し、戻る途中に寄ったのである。
 それと気づいた友房は、芸尽くしで望月を油断させて討つ計略を立てる。まずは北の方が盲御前(御前はごぜんではなく、ごぜと読ませる。瞽女のこと)に扮して、曽我兄弟の仇討を謡う。
 高まる謡の調子に興奮した花若が「いざ討とう」と叫んでしまったので、驚く望月の従者(アイ)。いや、羯鼓を打とうと言ったのですと取りつくろう友房。この部分、囃子が急速に緊張を高めた瞬間に、子方の叫びが出るようになっていて、ドラマと音楽の連関が素晴らしい。
 花若の八撥(やつばち)が続き、そして友房の獅子舞。「乱序」から「獅子」へと、ここも勇壮な囃子が印象的で、トップクラスをそろえた囃子方が、存分に力量を発揮する。
 今回は「古式」という小書がつく。観世流では、白の大口袴から長袴へと装束が替り、赤頭も、赤い牡丹の花をつけた白頭に替る。また、ワキが笠を身代りにして退場する前に、仇討の問答がつく。
 左右から両袖を押えられた望月は、袖を「振れども切れども」、友房と花若は「放さばこそ」、ついに討たれる。
       
     画像は「

粟屋明生の能がたり

」のサイトから、

獅子の舞と仇討ちの場面



 ここのところ、一週間前にみた『咸陽宮』と場面が似ているのが面白い。ただし、美しい「秘曲」に酔いしれるのは暗殺者ではなく仇敵のほうであり、袖を引きちぎって逃げることはかなわずに、討たれてしまう。未遂と完遂の対照。
 こういう同趣向の変奏、ヴァリエーションを味あわせる選曲の妙は、国立能楽堂が得意とするところらしい。二〇一七年九月にも『楊貴妃』と『小督』、臣下が主君の寵妃の隠れ家を訪ねるという同趣向の二番(これも中国と日本の対照)を楽しんだことがあった。
 また、盲御前が宿泊客に歌を聞いてくれと呼びかけるところでは、
「かの蝉丸の古、かの蝉丸の古、辿り辿るも遠近の、道の辺りに迷いしも、今の身の上も、思いはいかで劣るべき」
 と、盲目の芸人の元祖である蝉丸法師の境遇と自らを比べていたが、その『蝉丸』も九月の定例公演でみたばかりなので、うまくつながっていた。
 プログラム掲載の表きよしによる『能「望月」演能史』によると、『望月』は意外にも室町~戦国~織豊期の上演記録はただ一度、天正十四年(一五六六)の天満本願寺での丹波猿楽梅若太夫のものしか残っていないという。そしてそれから六十三年後の寛永六年(一六二九)、喜多七太夫が江戸城で、大御所秀忠の前で演じたさいに復活した。
 喜多七太夫は秀忠に特別に贔屓され、喜多流の創始者となった名手。しかしその前、大坂の陣では豊臣方に加わって入城し、落城後に牢人した男。四年後、上洛した秀忠に召しだされて復帰した。そういう経歴の猿楽師が、復讐劇の傑作を復活させるというのも面白い。

   
 夜はJTアートホールアフィニスで、カザルス四重奏団の演奏会。
・ハイドン:弦楽四重奏曲第三十八番《冗談》
・ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第六番
・モーツァルト:弦楽四重奏曲第二十二番《プロシャ王第二番》
・ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第十一番《セリオーソ》

 スペインのカザルス四重奏団は、昨年のサントリーのブルーローズで演奏したベートーヴェン・チクルスは今一つの出来だったが、その後にハルモニア・ムンディから発売を開始した全曲録音シリーズは、あの失望はなんだったのかというくらいに見事な演奏になっている。
 ホールの音響、湿度などのせいもあったろうし、短期間のツィクルスではストレスも大きいだろうから、今日あらためて聴くのを楽しみにしていた。やはり期待を裏切らぬ演奏。とりわけ、ヴェラ・マルティネス・メーナーが一曲だけ第一ヴァイオリンを担当した《セリオーソ》が、溌剌として素晴らしかった。
 アンコールは二曲、ファリャと《鳥の歌》。チェロのアルナウ・トーマスがメインとなる後者のしみじみとした歌に聴きいりながら、カタルーニャ独立運動の激化のことに思いをはせる。
 このホールに来るのは初めてで、その点もありがたかった。数年前までは財団が自主公演をさかんに行なっていたが、その頃は縁がなかった。しかし会場で会った鈴木淳史さんから、JTがビルを売却することを決めたので、ホールの運命も次の持ち主次第らしいと聞かされる。室内楽用の民営ホールは難しい。

 帰宅後、録画していた舞踊『船弁慶』をみる。Eテレが放映した、今年の二月十七日の国立劇場での日本舞踊協会の公演。同名の能を歌舞伎舞踊にした、松羽目物とか能取物とか呼ばれるもの。筋書は能のままで、河竹黙阿弥の作詞も、大半は能のままのようだ。静と知盛を演じるのは花柳寿楽。
 長唄による『船弁慶』は、まず二世杵屋勝三郎の作曲により、明治三年(一八七〇)に初演されたという。このころ、維新の幕府瓦解で「武家の式楽」だった能の社会的地位は崩壊、能楽師たちは文字通り路頭に迷った。そのなかで長唄や三味線と共演して、庶民向けの新たな能を模索したのが、吾妻能狂言だった。その一つとしてつくられたのである。
 今回の歌舞伎舞踊はそれから十五年後に、その詞章を河竹黙阿弥が改作、三世杵屋正次郎が作曲して、明治十八年(一八八五)に新富座で初演されたもの。静と知盛を演じたのは九世市川団十郎で、かれの新歌舞伎十八番にも入った。
 この二つは、ともに能を長唄にしたものだが、目的は正反対である。
 吾妻能狂言は、能楽を生き残らせる目的でつくられた。それに対して黙阿弥版は、歌舞伎を庶民向けの下卑た芝居から欧化時代にふさわしい、高い品格をもった芸術に変えようとする、演劇改良運動によって生まれたものである。
 つまり、前者は能を庶民向けに歌舞伎風にしたものだったが、後者は歌舞伎を高級化させるべく、能を借りている。旧来の価値観が崩壊、西洋風に新たに構築される、その過程での逆転。
 十日に三本みた江戸時代の作品とはベクトルが逆で、能に近づいていこうとしているのが、実に面白かった。天保十一(一八四〇)年初演の『勧進帳』の成功がひな型となったのだろう。
 筋は能のままだが、セリフはわかりやすく補い、さらに舞やケレンのある仕種や見得、隈取りの大仰な表情は歌舞伎そのもので、まさに『勧進帳』の方式。だから義経も子方ではなく大人が演じる。最後は幕を閉じ、花道を知盛が薙刀を振るって大暴れしながら、派手に退場。これは九代目のときにも大受けになっただろう。
 能と歌舞伎の不即不離の関係は、これからもいろいろと考えたい。
      
      画像2枚は、

花柳寿楽のサイト

から。 Photo by Hiroshi Sugawara

十月二十七日(日)天狗揃
 宝生能楽堂にて「宝生会 秋の別会」の第二部をみる。
・能『天鼓 呼出・盤渉』前シテ小倉敏克 後シテ佐野由於
・狂言『水汲』野村万作
・能『鞍馬天狗 天狗揃』前シテ小林与志郎 後シテ前田尚廣
   
 昨年から宝生流の春と秋の別会は二部構成になっている。十一時からの第一部は、能『夜討曽我 大藤内』、狂言『腰祈』、能『松風』。自分が買った第二部は十六時から。能四番で大がかりなものが多い上に、シテが前場と後場で交代するので、出演者がかなりの人数。
 『天鼓』は名作とされるが、自分にはまだよくわからない。
 目当ては『鞍馬天狗』だった。子方が牛若丸以外に平家の公達の子弟役を加えて六人も出るので人気のある能だが、今回は「天狗揃」の小書もつく。これは、後場の天狗が、シテの鞍馬の大天狗以外に七人も出るもの。
 通常は詞章に名前があがるだけで、いることになっているが実際にはいない、「透明天狗」が本当に出る。橋懸に八人の天狗がならぶのは、たしかに壮観。
 脇正面や中正面の大半が空席なのがさびしい。来年は一部制に戻るらしい。

十月二十九日(火)三谷さんなど
   
 王子ホールで聴いたイザベル・ファウストとメルニコフによるフランクのヴァイオリン・ソナタは、あまりにも素晴らしいものだった。
 こういう音が響く瞬間に立ち会うために、自分は音楽を聴き続けているし、今日を生きているし、できれば明日も生きていたいと願うのだろうと思った。
 それに勇気づけられて、最近の出来事の話をいくつか。どういうわけか、恩師三谷礼二を思い出させるものが続いた。

 まずは九月三十日。ジェシー・ノーマンが亡くなった。
 この人の思い出は、三谷さんの思い出と一体になっている。一九八三年に三谷さんに出会わなければ、ノーマンという希代の音楽家のことを知るのはもっと後になったろうし、絶頂期の実演に接することはなかったろう。
 三谷さんは、一九八三年六月十三日にパリのテアトロ・アテネで聴いたリサイタルの素晴らしさ、その月の末にチューリヒで聴いた《大地の歌》の凄さ、この二つのノーマン体験を、折に触れ、語ってくれた。一九八三年から翌年にかけて「音楽現代」に連載された「私的演奏家論」の第十五回、一九八四年十二月号の最終回はノーマンに捧げられていて、それらはそこにもまとめられている。
「ほとんど聴きとれないほどの小声で諧謔と哀愁をふりまいたアンコールのオッフェンバック(《ペリコール》の〈手紙の歌〉)で、劇場の涙と笑いは甘美な陶酔の極に達し、しかもそこには不可思議な恍惚と覚醒のアンバランスなバランスがたちこめた。
 こうして意識と無意識の魅惑の落差に、人間の精神運動の理想的な活性化を残して、この巨人的音楽家は会を閉じた。彼女のドレスには、大胆にもベートーヴェンをはじめとする楽聖たちの肖像が大きくデザインされていたが、身を翻して立ち去るその姿は、ほとんど楽聖たちをしたがえる王者のように香しかった」
(筑摩書房『オペラのように』所収)
   
 そのノーマンの初来日公演は、一九八五年十一月に実現した。
 小澤征爾指揮の新日本フィルと共演した東京文化会館での演奏会での第一声、《タンホイザー》の「貴き殿堂よ」で、文化会館の広大な空間にエコーが返ったのにも驚いたが――物理的にはあり得ないのかもしれないが、私はたしかにその木霊を聴いた――それよりもその数日後の、昭和女子大人見記念講堂でのリート・リサイタルこそ、生涯忘れられない体験になった。
 いまの私なら、人見のあの広大な空間でリートを聴くなんて、できれば勘弁してほしいと思う。しかし昭和のあのころは、良質な中小規模のホールがまだほとんどなかったし、興行として成り立たせるには、大きな空間でやるのが当然という、大衆教養主義の時代でもあった。
 ところがノーマンは、そんな悪条件をものともしないどころか、忘れさせてしまう歌を聴かせてくれたのだった。ヘンデルの《リナルド》からの〈涙の流れるままに〉の、芳醇にわき出るメロディ。シューベルトの《死とおとめ》の最後、暗く宿命的に、冥界の底から響くような死神の声。《魔王》の圧倒的なドラマ。ラヴェルの《五つのギリシャ民謡》と《二つのヘブライの歌》の、艶と神秘。
 そしてなんといっても、アンコールの黒人霊歌《ものみな主の御手に》の、ホール全体を揺り動かすようなリズムの鳴動。「He's got you and me, sister, in His hands」での「 you! and me!」の、強烈なアクセントをつけた託宣は、三十四年たった今も耳の中にある。
 その少し後のライヴのリサイタルがいくつかCD化されているが、あの自由自在の表現を聴きとることはできない。声の張りと伸びが減り、高音が苦しげで、絶叫に近くなることもある。コンディションの問題か、録音というメディアの限界か、あるいは自分の思い込みか、それはわからないが、人見での歌は違っていた(NHKが放送したから、その録音が残っているとよいのだが)。
 とにかく、一生ものの経験になったことは間違いないし、それが三谷さんのおかげであることも、間違いない。
   
     

東京文化会館のアーカイブ

に掲載されている、1985年11月2日の「ジェシー・ノーマン日本公演 新日フィル特別演奏会」のプログラム。
     なお、自分がみた昭和女子大人見記念講堂公演と同じプロによる

11月8日の都民劇場公演

も出ている。

 私的演奏家論のノーマンの章は、次の一文で締めくくられる。
『ジェシー・ノーマンが示してくれる原理はいたって単純である。それは、「音楽は人間の幸福のためにある」というような、わかりやすいものだから――。そしてこの単純なものいいこそ、現代において、西洋古典音楽を“前衛”たらしめるのだから』
 ここを久しぶりに読みかえして、世阿弥が『風姿花伝』で同じことを述べているのを思いだす。
「そもそも芸能とは諸人の心を和らげて、上下の感を為さん事、寿福増長の基、遐齢延年の法なるべし。極め極めては諸道悉く寿福延長ならんとなり」
 能という芸が「寿福増長の基、遐齢延年の法」となる実例を、自分は先月一日の永島忠侈の『檜垣』でみた気がする。
 この素晴らしい演能は、まさに生きていてよかった、こういうものに出会えてよかったという幸福感で満たしてくれたのだが、そのあと、休憩をはさんで狂言の『萩大名』が始まったとき、シテの野村万作もアドの深田博治も石田幸雄も、いつになく嬉しそうに、生き生きと演じているように思えた。
 八十八歳の万作が、毎日のように舞台に元気に立ち続けているのは驚くべきことなのだが、さすがに最近は、セリフや動きのないところで息が荒くなったり、衰えを感じることがあった。それがこの日は溌剌として、若さを一気に取り戻したかのようだった。そして師のその様子に感化されたように、弟子の深田も石田も、本当に嬉しそうだった。
 はたして万作が『檜垣』をみたのかどうか、それで元気が出たのかどうか、本当のところは、もちろん知らない。しかし、そう信じたくなるほどのエネルギーを『檜垣』が放ったことは間違いない。
 ここで面白いのは、『檜垣』の話そのものはめでたい喜びに満ちたものではなく、むしろ悲惨なものだということだ。
 若いころ、美貌と優れた芸で名声をほしいままにし、男の心をもてあそんだ傾城が、老いたあとは見る影もない姿をさらし、やがて死ぬ。その驕慢の罪で地獄に落ちるのだが、残酷なのは、死後の姿が老後のままであることなのだ。
 しかし考えてみれば、若さを失い、何の喜びも希望もなく、いつまで続くのかわからない長い毎日を送るというのは、生きながら地獄にあるようなものなのかもしれない。世阿弥はその苦しみを明確にするために、老女を地獄に落としているのかもしれない。
 その苦しみの姿が、そのまま陶然たる美に変じる、能の舞と謡の不可思議。生きてあることの歓喜への、跳躍。絶対矛盾の跳躍。あの舞台にはそれがあった。
 そこにはまさに、三谷さんが言う「不可思議な恍惚と覚醒のアンバランスなバランス」があり、「意識と無意識の魅惑の落差」が、「人間の精神運動の理想的な活性化」を生み出す、死の果ての生のようなものがある。古典芸術を“前衛”たらしめるエネルギー。
 それが「遐齢延年の芸術」なのだ。

 翌十月一日、佐藤しのぶさんの訃報。佐藤さんのオペラ・デビューは、一九八四年十月に三谷さんが演出した、二期会の《椿姫》公演だった。私はダブルの常森寿子さんの日に行ったので佐藤さんの歌は聴いていないが、終演後の客席で、三谷さんに対して佐藤さんが深々とお辞儀をしていた場面はよくおぼえている。

 五日には宮本亜門演出による二期会の《蝶々夫人》。プログラムをみると、六十七年間の二期会の歴史の中でこの作品を演出したのは、宮本以前に二人しかいない。栗山昌良と三谷さんである。宮本演出については日経新聞に評が掲載される予定なので、ここでは触れない。
 それよりも、一九九〇年にみた三谷演出、とりわけ第二幕の後半が、自分がこの作品を考える上での血肉になっていることを、あらためて実感した。
   
 二十八日、トッパンホールで、トーマス・ツェートマイヤーとムジークコレギウム・ヴィンタートゥーアの演奏会。
 六型の室内オケにはトッパンホールが小さすぎて、かなりナマな響きになってしまった――ぜいたくな悩み――が、バンド的なノリの合奏だったベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲のひきぶりは、ガチャガチャしながらも愉しかった。ベートーヴェンの協奏曲は、ただたっぷりと鳴らされても、予定調和なだけでつまらない。
 それはそれとして、ツェートマイヤーも三谷さんとの思い出の中で、大きな比重を占める音楽家である。
 一九八六年、このヴァイオリニストがフレージャーのフォルテピアノと共演した《クロイツェル》のLPを私が録音したテープを、三谷さんに聴いてもらったことが、私のいまの稼業につながるきっかけ、あるいは愚かな誤解となっているからだ。
 それは、ヒストリカルのモヴィメント・ムジカでの衝撃的なジャケット・デザインなどで知られる、ヘルムート・エプネット(Helmut Ebnet)のアートワークと思しきジャケットの一枚。それを聴いてもらったときのことは、二〇〇六年二月八日の可変日記に書いている。以下に引用してみる。
   
 自分はとても面白かったのに、『レコード芸術』などでは酷評されたり無視されたりしているもの。そういうCDを三谷さんに聴いていただいたのだった。
 いちばん初めは、ツェートマイヤーのヴァイオリンと、フレージャーのフォルテピアノによる、クロイツェル・ソナタ(テルデック)だった。躍動感と推進力に満ちたこの演奏が、『レコ芸』では数行で片づけられていた。それがどうにも不思議で、「これってよくないんでしょうか」とテープに録って、上大崎のご自宅に持っていったのだ。
 数日後に「いやあ、あれはとてもよかったよ。面白いじゃない」とおっしゃっていただいたときの喜びは、今でも忘れられない。自信も、何のよりどころもない一介の学生にとって、三谷さんのような鋭敏な人に自分の感性を認めてもらえたことが、どれほど嬉しかったか。それは、とても言いつくせるものではない。
 あるいは、若造の気持を挫くのもかわいそうだと思って、大げさに誉めてくれたのかも知れない。そんな機微のわからない当方の、勝手な誤解だったかも知れない。たとえそうだったとしても、わたしがこの稼業につくことになったのは、このときの誤解がきっかけだった。
 しかし、数年間お邪魔させていただいたあと、わたしは三谷さんの元から逃げた。無学無教養なただのクラシックおたく、という自分の正体がばれてしまうのが怖くなったからだ。
 亡くなられる前に頭を下げに行って、きちんとお別れすることが出来なかったのを、今でも悔やむことがある。いつかあの世で再びお会いしても、口をきいてはもらえまい。
 演出を学んだわけではないから、三谷さんの弟子ともいえない。誤解を招かないようにあえて書くが、この世界に入ったのはその後で、別の方々が機会を下さった結果だから、三谷さんのお力や伝手を借りてはいない。
 しかし、あの日の「いやあ、あれはとてもよかったよ。面白いじゃない」というお言葉が、すべての始まりだったことは疑いない。あの言葉を聞いていなければ、音楽について公然と書いたり語ったりする勇気を持てるはずがなかった。
 その意味で、わたしがこの世にある限り、三谷さんは絶対の恩人なのだ。
(中略)
 そういえば数か月前、現役の学生さんから「演奏家や学者でもないのに、ただのクラオタなのに、何を根拠に自分の美意識を語るのですか」という意味のことを尋ねられた。
 とっさのことで、うまく答えられなかったが、ここで答えよう。恥を知らず、偉大な先人の言葉を借りて、答えよう。
「よき人に出会えたから」
(引用終り)

 だから、あれから三十三年たっても、私にとってツェートマイヤーは、評価の枠を超えた、特別な存在なのである。

 そして、今夜のイザベル・ファウストとメルニコフ。この二人が世に出たのは三谷さんが亡くなった後のことなので、特に関わりはないのだが、でもやはり、「音楽は人間の幸福のためにある」、という三谷さんの言葉そのものの演奏だったという意味において、分かちがたく結びついている。
 適切な空間、適切な奏法による二十世紀作品。この時代の作品の演奏でしばしば出くわす、「ピアノのように鳴るヴァイオリン」ではなく、あくまでもヴァイオリンがヴァイオリンとして奏でられ、空間になじんでいくことの幸福。
 そして、傑作というものがもつ、無慈悲で残酷な、「塗りつぶす力」を思う。
 ドビュッシー、バルトーク、ストラヴィンスキー、どれも趣向を凝らした二十世紀の名作で、鳴っている間はそれぞれの時間を支配していた。
 だが、フランクのソナタが響きはじめると、それはそれまでのすべてを呑みこみ、滔々と流れて、感性のキャンバスを上書きしていった。その凄さ、その恐ろしさ。第二楽章後半の疾駆、すべてを押し流していく、終楽章の力。

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十一月三日(日)BBCプロムス

   
 オーチャードホールでBBCプロムス・ジャパン。六夜シリーズの第五夜。トーマス・ダウスゴー指揮のBBCスコティッシュ交響楽団。
・細川俊夫:プレリューディオ
・エルガー:チェロ協奏曲(独奏:宮田大)
・ブルッフ:ヴァイオリン協奏曲第1番 (独奏:三浦文彰)
・ラフマニノフ:交響的舞曲
 大企業協賛だけに満員の盛況。

十一月四日(月)フィラデルフィア管
   
 サントリーホールで、ヤニック・ネゼ=セガン指揮のフィラデルフィア管弦楽団の来日公演。
・チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲(独奏:リサ・バティアシュヴィリ)
・マーラー:交響曲第五番
 日経新聞に評を書く。

十一月六日(水)野宮
   
 国立能楽堂の定例公演。
・狂言『磁石(じしゃく)』佐藤友彦(和泉流)
・能『野宮(ののみや)』香川靖嗣(喜多流)
 『野宮』は、源氏物語の六条御息所をシテとする夢幻能。しかしまだ自分には魅力がよくわからず。

十一月七日(木)シフと仲間たち
   
 オペラシティで、アンドラーシュ・シフ(指揮/ピアノ)とカペラ・アンドレア・バルカによる、ベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲演奏会第一夜。
 シフが信頼する仲間と結成した室内オーケストラを弾き振りするもの。コンサートマスターのヘーバルトやモザイク・カルテット、パノハ四重奏団、ホルンのノイネッカーなど、手練ぞろい。
 このメンバーなら、その経験に加えてシフの音楽をよく知っているだけに、ピアノをひくだけで間違いなくつけてきそうだが、シフとしてはとにかく指揮したいらしく、できるだけ拍子をとろうとする。それがまたあまり器用な指揮でないのが微笑ましく、このメンバーだから、それでも問題なく合わせる(笑)。
 やはりベートーヴェンのピアノ協奏曲をナマで聴くには、このくらいの編成で室内楽的に演奏したほうが面白い。
 今日は第二番と第三番、後半に第四番だったが、なんとアンコールで《皇帝》の第二・三楽章を演奏、さらにピアノ・ソナタ第十二番《葬送》の第三・四楽章という大サービス。音楽すること、演奏することが楽しくて、止められないという気分にみちて、じつに心地よし。

十一月八日(金)能と狂言の照応
     
 宝生能楽堂にて、銕仙会の定期公演。
・能『三輪 素囃子(みわ しらばやし)』大槻文藏。殿田謙吉。山本泰太郎。松田弘之、観世新九郎、亀井広忠、小寺真佐人。観世銕之丞。
・狂言『仁王(におう)』山本則俊、山本則重、山本則孝、山本修三郎、山本泰太郎、寺本雅一、山本則秀、若松隆。
・能『車僧(くるまぞう)』観世淳夫。宝生欣哉。山本凜太郎。杉信太朗、田邊恭資、大倉慶乃助、大川典良。馬野正基

 狂言の『仁王』は、仁王に化けて参拝者から金をだまし取ろうとする山本則俊の、妙な飾りをつけられた姿が愉快。最後はくすぐられて笑いだしてしまい、詐欺が露顕する。これは次の能の『車僧』に至って、ワキの高僧をアイの小天狗がくすぐってみるが、まるで相手にされないという場面が出てきたので、これに照応させた選択だと気づかされる。
 このように能と関連する狂言を選んでくるのが、山本東次郎家のいいところ。まったく無関係な作品をやる狂言方もいる中で、そのサービス精神が嬉しい。
 余計なお世話だが、ずいぶん人数が出てきたが、こういうときの人件費は銕仙会が出すのか、それとも山本家持ちなのか。どちらにしても、一族でワイワイやろうという心持ちの豊かさが、こちらの心まで明るく楽しくしてくれる。

十一月九日(土)ドンパス
 新国立劇場でドニゼッティの《ドン・パスクワーレ》。大好きな作品だし、プロダクション全体の出来もとても評判がいいのだが、自分は指揮の呼吸にどうしても乗れずじまい。

十一月十一日(月)ブル八の一
   
 サントリーホールで、ティーレマン指揮ウィーン・フィル。曲はブルックナーの交響曲第八番。指揮の強引さを感じることが少なく、充実した音楽。十日後にメータ指揮ベルリン・フィルで同じ曲を聴くので、感想はまとめて。
 この曲でアンコールをしたので驚く。ヨーゼフ・シュトラウスのワルツ《天体の音楽》。優美さと同時にこの作曲家のスケールの大きさを感じて、不思議にブルックナーと調和したのが面白かった。

十一月十五日(金)ナポリ派の歌劇
   
 新百合ケ丘のテアトロ・ジーリオ・ショウワで、藤原歌劇団によるアレッサンドロ・スカルラッティの歌劇《貞節の勝利》全曲。
 一七一八年ナポリで初演されたもの。「ナポリ派の歌劇」は、話では知っていても、きちんとした実演を日本でもみられることは少ない。自分も初めてなので嬉しい。
 嬉しい驚きは、ピリオド楽器のオーケストラだったこと。作品に見合った歌唱法をするには、オーケストラもピリオドのほうがいい。手間と金を厭わずに、よい公演を実現してくれたことに感謝。
 これはイタリアのヴァッレ・ディトリア(マルティーナ・フランカ)音楽祭と提携で実現した「ベルカントオペラフェスティバル イン ジャパン2019」のメイン・プロで、ほかにアリア・コンサートやシンポジウムもあった。日程がつまる中で新百合ケ丘に行く時間が捻出できず、今日しか行けないのが残念。

十一月十六日(土)重量級二本立て
     
 ダブルヘッダー。十四時から東京芸術劇場で インバル指揮東京都交響楽団。
・ショスタコーヴィチ:ヴァイオリン協奏曲第一番(独奏:ヨゼフ・シュパチュク)
・ショスタコーヴィチ:交響曲第十二番《一九一七年》
 続いて十八時サントリーホールで、ノット指揮東京交響楽団。
・ベルク:管弦楽のための三つの小品
・マーラー:交響曲第七番(夜の歌)
 曲目もあり、ともに指揮者とオーケストラのコンビの個性がよく出た演奏。

十一月十九日(火)黒田恭一さん

 王子ホールで「くろださんのいるところ」。没後十年を迎えた黒田恭一さんを偲ぶ会。オーチャードホールのプロデューサーをつとめられていたこと、NHKのラジオ番組や若き日の活動ぶりが、音楽家や共演者などによって回想される。
 黒田さんの告別式に出たのは、二〇〇九年の六月六日のことだった。

十一月二十日(水)オッフェンバック!
   
 日生劇場で、二期会によるオッフェンバックの《天国と地獄》(地獄のオルフェ)のゲネプロを見学。心地よし。

十一月二十一日(木)ブル八の二
   
 サントリーホールで、メータ指揮ベルリン・フィル。曲はブルックナーの交響曲第八番。
 ウィーン・フィルとベルリン・フィルで同じ大曲を同じホールで聴く珍しい機会。ティーレマンは強引さを抑え、病後のメータも椅子に座ったまま、あまり細かくは動かない巨匠風。この結果、二つのトップ・オケの特質が前面に出た。
 オペラティックに、主旋律を際だたせるバランスへ自分たちで巧みに調整しながら、表情にメリハリと変化をつけるウィーン・フィル。
 対して、各部分がいついかなるときにもすべてきちんと聴こえて、透視図のような一つの音響空間となるベルリン・フィル。普通の優秀なオケでは、弦の各パートはトップの周辺から聴こえる。後ろが聴こえたら、大体そろっていないことになるのだが、ベルリン・フィルはそうではなく、ヴィオラなどは後列から澄んだ響きがブロックとなって鳴る。凄い。
 聴きながら、宇野功芳さんの有名な言葉、「メータのブルックナーなど聴くほうがわるい。知らなかったとは言ってほしくない」が頭に浮かんで苦笑い。
 自分もメータの音楽の魅力は今までわからなかったが、フルオケをしっかりと鳴らし、聴く側よりも演奏者に充実感をあたえる点が優れているのだろうと思っていた。今日は指示が減ったからか、響きの鈍重さが消えて聴きやすかった。

十一月二十二日(金)いくさ狂い(一)
     
 国立能楽堂の定例公演。
・狂言『鐘の音(かねのね)』茂山千三郎(大蔵流)
・能『橋弁慶(はしべんけい) 笛之巻(ふえのまき)』観世喜正(観世流)

 国立能楽堂の定例公演には「演出の様々な形」と題して、各流派やその小書によって同じ狂言や能がどう変化するかを二か月の連続上演で比較させるシリーズがある。
 今年は『鐘の音』を大蔵流の茂山千五郎家と和泉流の野村万蔵家、『橋弁慶』を観世流の小書「笛之巻」と金剛流の小書「替装束 扇の型」で比較する。
 『橋弁慶』は五条大橋での牛若丸と弁慶の出会いを描く能で、通常の前場ではシテの弁慶が五条天神へ丑の刻参りに行こうとするところに従者がきて、五条大橋に辻斬が出るので危ないと警告する。
 一般的な伝説では、五条大橋で武士を襲うのは弁慶なのだが、能ではなぜか、牛若のほうが人を襲っている。
 「笛之巻」の小書がつくと、牛若のこの傍迷惑な行状が強調される。前場のシテは牛若の母、常磐御前に変る。腕試しに辻斬を続ける牛若を戒め、笛を与え、鞍馬寺に入れと命じる。ならば人斬りも今夜が最後と、牛若は五条大橋に赴く。
 牛若と母の話を描くこちらの方が、いかにも義経物語という感じなのだが、これが『橋弁慶』の原型だったのか、それとも後の改作なのかは不明らしい。
 前場の常磐御前と後場の弁慶、女役と男役を演じわけるシテは観世喜正、牛若は娘の観世和歌。対決場面では橋懸を五条大橋に見立てて、牛若の素早い動きに翻弄され、思わず後ずさるしぐさなど、喜正らしいキレのある演能。
 来月の金剛流の「替装束 扇の型」での『橋弁慶』もどのようなものなのか、大いに楽しみ。

十一月二十三日(土)いくさ狂い(二)
   
 国立能楽堂で「第十二回 桂諷會―源平屋島合戦―」。観世流シテ方の長山桂三主宰の会。自分は二〇一六年から毎年みにきていて、これがはや四回目。

・能『屋島~大事 奈須与市語~』
 長山桂三(シテ)長山耕三(ツレ)、森常好(ワキ)、舘田善博、梅村昌功(ワキツレ)、野村萬斎(間)、松田弘之(笛)、大倉源次郎(小鼓)、亀井広忠(大鼓)
・狂言『二人大名』
 野村万作、高野和憲、中村修一
・仕舞
 『道明寺』観世銕之丞
 『野宮』長山禮三郎
 『求塚』野村四郎
・能『菊慈童』
 長山凜三(シテ)、大日方寛(ワキ)、野口能弘、野口琢弘(ワキツレ)、杉信太朗(笛)、観世新九郎(小鼓)、柿原弘和(大鼓)、小寺真佐人(太鼓)

 『屋島』は、源義経の亡霊が屋島の戦いを回想して語る夢幻能。偶然ながら、昨日の『橋弁慶』の少年牛若に続いて、死せる義経の能をみることになった。
 武士の霊が出てきて、生前の戦いぶりを語るものを「修羅能」というが、大概の武士は、勇戦空しく討たれてしまい、修羅道に墜ちて死後も戦わねばならない境遇を嫌い、僧に弔ってもらって成仏することを願っている。ところが『屋島』は勝ち戦を誇らしげに語るもので、『田村』『箙』とともに「勝修羅」と呼ばれる。「勝修羅」はこの三作しかない。
 ここに出てくる義経は、平家の公達の霊とは対照的に、成仏を願うことなく、自らの武勇が輝いた日々を慕い、修羅道ではてしのない戦いを続けることに、快感を見出している男だ。
 いくさ狂い。華麗な軍装を身にまとった武士の、狂おしい戦への執念。
     写真(撮影:駒井壮介)は「世田谷 長山能舞台 『桂諷會』長山桂三」のフェイスブックから

 静御前をシテとする能『二人静』で静の霊が、自らの弔いを願う一方で、衣川に敗死した義経について、「身こそは沈め、名をば沈めぬ。もののふの、物ごとに憂き世のならひ」と、勝敗は兵家の常だが、負けてもその功名が朽ちることはないと、つきはなすように、あきらめたように、語っていたことを思い出す。
 女と違って弔いなど必要とせず、修羅道にこそ生き甲斐を、いや死に甲斐を感じて、戦いの喜びに身を奮わす男。
 能『景清』でも、老いて盲目となった平家の猛将景清は、屋島の戦いでの自らの奮戦を、誇らしげに回想していた。源平合戦のなかでも屋島の戦いは、両軍が正面から衝突して思いっきり力比べをした、まさしく「男らしい」、武士にふさわしい戦場だったのだ。
 義経にとっても、思い返せばこの戦場がどこよりも恋しい。だからかれの霊は衣川でも壇の浦でもなく、屋島に留まりつづける。自らが愛した静御前のことなどは、もちろんまったく頭にない。

 なるほどこれは、母親の話をどこまで本気で聞いたのか、それでも五条大橋で通行人を襲わずにいられない『橋弁慶』の牛若と、たしかに同じ人間だと納得。亡父の敵を討ち、平家を打倒し、戦うためだけに生きる、生粋の武人なのだ。
 三つ子の魂、死してなお。
 といっても、この二つの能の作者は同じではない。『屋島』の作者は世阿弥で間違いないが、『橋弁慶』は不詳。それなのに、牛若~義経の人間像に一貫性、武士好みのそれがあるのが面白い。

十一月二十四日(日)ネトピル(一)
   
 東京芸術劇場で、トマーシュ・ネトピル指揮の読売日本交響楽団。
・モーツァルト:歌劇《ドン・ジョヴァンニ》序曲
・モーツァルト:交響曲第三十八番《プラハ》
・プーランク:ピアノ協奏曲(独奏:アレクサンドル・タロー)
・ヤナーチェク:シンフォニエッタ

 二〇一二年新国立劇場の《さまよえるオランダ人》の快演以後、ナマを聴く機会のなかったネトピルにようやく再会。
 チェコ人らしくプラハゆかりのモーツァルト二曲、タローのピアノも冴えるプーランク、キレのいいヤナーチェクと、気持ちのいいコンサート。

十一月二十七日(日)ケラスとタロー
   
 王子ホールで、ジャン=ギアン・ケラス(チェロ)とアレクサンドル・タロー(ピアノ)の演奏会。
・ドビュッシー:チェロ・ソナタ
・ブラームス:チェロ・ソナタ第二番
・ブラームス:チェロ・ソナタ第一番
・ブラームス(ケラス&タロー編曲):ハンガリー舞曲集より第一番、第四番、第十一番、第二番、第十四番、第五番

 ようやく復活したデュオ。生き生きとはじけた、快活な音楽。

十一月二十九日(火)ネトピル(二)
   
 サントリーホールで、トマーシュ・ネトピル指揮の読売日本交響楽団。
・モーツァルト:歌劇《皇帝ティートの慈悲》序曲
・リゲティ:無伴奏チェロ・ソナタ
・リゲティ:チェロ協奏曲(二曲の独奏:ジャン=ギアン・ケラス)
・スーク:アスラエル交響曲

 この日はタローがトッパンホールでフランス・バロックをひいていて、どちらにするか大いに迷った。充実した演奏会だったが、あちらも素晴らしかったらしい。平日の夜にこういうものが重なるのはもったいない…。

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十二月一日(日)バッハの影
   
 NHKホールでNHK交響楽団。指揮は鈴木優人。
・メシアン:忘れられたささげもの
・ブロッホ:ヘブライ狂詩曲《ソロモン》(チェロ:ニコラ・アルトシュテット)
・アンコール バッハ:無伴奏チェロ組曲第5番からサラバンド
・コレッリ(鈴木優人編曲):合奏協奏曲第八番《クリスマス協奏曲》
・メンデルスゾーン:交響曲第五番《宗教改革》(一八三〇年初稿)

 一昨年まで、N響の十二月前半はデュトワ週間で、華麗で贅沢な響きを第九の前に聴くという慣例だったが、昨年からは三人の指揮者が交代するスタイルに様変わり。
 昨年は初登場のヘンゲルブロックがバッハとシェーンベルクを軸に、アンコールまで含めて西洋音楽六百年の歴史を、すべてクリスマスにちなむ音楽できかせるという、見事なプログラムだった。
 今年は、これもN響初共演の鈴木優人が、カトリックとユダヤとプロテスタント、キリストの受難と誕生、仏米伊独の地域性、バロックから二十世紀初めにいたる二百年超の時間など、さまざまな対照を網のように張りめぐらして、音楽で描いていく。
 十一~十二月のただの商業イベントとして、恐ろしく土俗化されてしまった日本のクリスマス・シーンの只中に、こういう、考えさせられるプログラムが二年続けておかれているのは嬉しい。
 印象に強く残ったのは、なんといってもメンデルスゾーンの《宗教改革》。純度の高い響きで音楽の骨格と構造を明示した演奏がよかった。初稿の、フルートによる終楽章への導入部(独立した楽章とする解説もあるが、今回は導入部と見なしていた)も美しく、そして必然性を感じさせた。
 それに加えて、異なる時代と地域から来たそれまでの三曲が、この曲の意味と意義を考えさせ、理解への端緒となる役割をもっていたことも、大きいと思う。
 改宗ユダヤ人がルターに始まる宗教改革を讃える音楽を書き、ドイツの国民音楽の担い手となろうとすることの、歴史的な意味。
 終楽章の、ルター作のコラール《神は我がやぐら》によるフガートが明確な骨組と力強い進行で聴こえてきたとき、今日の隠れた主役は、じつはバッハその人だと感じないわけにはいかなかった。目に見えない「扇の要」としてのバッハ。
 音楽史におけるバッハの意味と位置。その蘇演者としてのメンデルスゾーンの意味と位置。

 この演奏はきっと、鈴木優人が東京交響楽団と来年三月に演奏する、メンデルスゾーン編曲版のマタイ受難曲の演奏につながっていく意味をもつはず。
 宇野功芳さんは、むかし読響でこのヴァージョンのマタイを聴いたとき、あのメンゲルベルク盤のカットの原型は、このメンデルスゾーン版らしいと感じたと書いていた。そこには断絶ではなく、変容を重ねながら現在にまでつながる、時間の流れがあるのかもしれない。三月のこの公演も、今から楽しみ。
   
 五時過ぎにホールを出るとすでに日が暮れて、毎年恒例の青の洞窟。再建された渋谷パルコを横目に見ながら、公演通りの雑踏を縫って、JR渋谷駅へ行き、山手線で恵比寿へ。
 恵比寿では、小学校時代の同級生十二人が、今年八十九歳で亡くなった一、二年時の担任の先生の墓参りをしたあと、偲ぶ会をやっているのに遅れて参加。
 ピシッと厳しい先生だったが、生徒の性格や適性をいったん見定めると、あとはそれを無理にたわめるようなことをしない、ありがたい先生だった。我々が入学したのは一九六九年のことだから、奇しくも今年はちょうど五十年目。

十二月二日(月)ロシアの史劇オペラ
 サントリーホールで、チャイコフスキーの歌劇《マゼッパ》演奏会形式全曲。
   
ワレリー・ゲルギエフ(指揮)マリインスキー歌劇場管弦楽団・合唱団
マゼッパ(バリトン):ウラディスラフ・スリムスキー
コチュベイ(バス):スタニスラフ・トロフィモフ
リュボフ(メゾソプラノ):アンナ・キクナーゼ
マリア(ソプラノ):マリア・バヤンキナ
アンドレイ(テノール):エフゲニー・アキーモフ

 《マゼッパ》はオネーギンの数年後、交響曲第四番と第五番のあいだに書かれた壮年期の音楽だけに、とても充実している。
 プーシキンの詩を原作とし、十八世紀初め、ピョートル大帝時代のウクライナ・コサックの当主マゼッパの野望と恋、そして敗北を描く史劇。
 グリンカからムソルグスキー、プロコフィエフにいたるロシアの史劇オペラの輝かしい伝統に則って、チャイコフスキーがこれだけスケールの大きなスペクタクルを書いていたということに、初めて気がついた。
 そしてそれが、フランスのグラントペラに範を得ているということも、チャイコフスキーの音楽ではよくわかる。かれのバレエ音楽と同様に、ロシア宮廷文化へのフランス文化の影響力の甚大さを、実感させてくれるのだ。バレエがあるのはもちろん、最後にはヒロインのマリアによる「狂乱の場」がある。
 歴史群像劇として素敵なのは、絶対正義の人がいないこと。誰もがみな、多かれ少なかれ独善的で利己的で、欠点をもっている。主人公マゼッパすら、民族独立を悲願とする英雄ではなく、策謀をめぐらす冷酷な野心家として描かれる。
 このあたりは原作者プーシキンがシェイクスピアに学んだ作劇なのだろうし、オネーギンやゲルマンとも通底しているが、ここではそれが個人の物語にとどまらず、民族や国の命運を左右する悲劇となっていくことに興奮させられる。
 コチュベイ処刑の場面での、独唱と合唱による音楽は、劇的な充実感がとりわけ素晴らしかった。ヴェルディのようであるが、酔漢が歌うあたりはロシア風。
 そして、第三幕の間奏曲で描かれるポルタヴァの戦い。大会戦の推移をオーケストラだけで描いてしまう手法が、大砲こそ出てこないが《一八一二年》を想わせる。こういう音楽をオペラのピットに持ち込むのは、ワーグナー風の想像力でもある。ワーグナーから学んだ要素もあるのかもしれない。
 このように、チャイコフスキーを内外のさまざまな文化の中に置いてみるという、そういう視座を与えてくれたという意味で、真に刺激的で新鮮、そして忘れがたい公演だった。

 そして、この作品のオーケストラ書法の充実を知る上では、演奏会形式なのがむしろ効果的だった。演奏そのものも力演で、見事だった。
 演奏会形式では、歌手に一人でも楽譜を見ながら歌う人がいると、他も演技を控えてしまうことになりがちだが、今日は全員がステージ最前列のスペースを使って動き、役になりきった演技と表情で歌ってくれたので、ドラマが直に伝わってきた。これは、この歌手陣がゲルギエフのもとで舞台公演を重ねているからこそだろう。
 セットも衣装もないが、だからこそこちらの想像力を働かせる余地があり、面白さがある。これは能好きにとっては、慣れっこのことだ(笑)。
 休憩二回で夜六時から十時まで四時間かかるという話だったが、一回ですませて九時半過ぎに終ったので、帰りが楽になった。あとでジャパン・アーツに聞いたら、開演十五分ほど前にゲルギエフが「今日は休憩一回」と突然言い出して、大慌てで場内の時間掲示を変更したのだとか(笑)。

十二月三日(月)新国立劇場の充実
 新国立劇場で《椿姫》。
 ヴァンサン・ブサール演出の舞台をみるのは二〇一五年のプレミエから三回目だと思うが、今回が圧倒的によかった。それは、ヒロインのソプラノと指揮者の力によるところが大きい。ミルト・パパタナシュの細部まで心のこもった演唱を支えた、イヴァン・レプシッチのキビキビとして、劇性と緊張感をもった指揮。
 レプシッチは一九七八年クロアチア生れの指揮者。イタリア人ではないこともあって、日本のオペラ界での知名度は低いが、ミュンヘン放送管弦楽団の首席指揮者として、イタリア・オペラのCDを続けて出していて、注目していたところだった。その人の実演を聴くことが目的の一つだったので、期待以上の成果を聴かせてくれて嬉しい。
 大野和士が芸術監督になって以降、新国立劇場のオペラは派手な話題性やスター性――バブルの夢を追い続けるような――ではなく、知名度は地味でも実力のあるメンバーをそろえて、バランスのとれた、中身の豊かな上演が増えている。今回はその最良の例。こういう指揮者をさりげなく招いてくれているのだ。
 ヒロインと指揮が優れていれば、この作品の骨格は揺るがない。その上で、ジェルモンの須藤慎吾など、日本人歌手も好演した。なんでもかんでも外国人が多ければいい、というものではないのだ。

十二月四日(火)今年もヴィキングル
   
 紀尾井ホールで、ヴィキングル・オラフソンのピアノ・リサイタル。
 前半はラモーとドビュッシーの小品を入れ子にして演奏し、後半は後者の《ビアノのために》で始めて《展覧会の絵》という、この人ならではの構成。
 クリスタルな響きは昨年のリサイタル同様に美しく、《展覧会の絵》はホロヴィッツ編曲版も採り入れた、さらにヴィルトゥオージティックにした編曲。
 来週インタビューできるので楽しみ。

十二月十日(月)インタビュー・ウィズ
 エイベックス・レコードで、タワーレコードのフリーペーパー『intoxicate』のために、ヴィキングル・オラフソンのインタビュー。
 ヴィキングル(馴れ馴れしく名前で呼ぶわけではなく、アイスランド人には姓がないのでファースト・ネームで呼ぶ)はドイツ・グラモフォン専属だが、来日公演を仕切っているのがエイベックスなので、ユニバーサル・クラシックスの担当さん立ち会いのもとにエイベックスで話を聞くという、不思議な形になった。
 快活に、こちらの意を的確に汲んだ上でどんどん話をしてくれるので楽だったが、「いまはまだこれは内緒だよ」といいながら将来の計画もどんどん話してくれるので、面白いのに使えない部分だらけという、困ったインタビュー(笑)。

十二月十一日(火)変奏曲の父
 能楽とクラシックのはしご。
 昼は、国立能楽堂で東京能楽囃子科協議会の定式能。
   
・能『翁』友枝昭世・山本東次郎
・舞囃子『老松』藤波重彦
・舞囃子『田村』山崎正道
・舞囃子『枕慈童』出雲康雅
・狂言『昆布売』山本泰太郎
・能『猩々』観世喜之・安田登

 夜はすみだトリフォニーホールで、ヴィキングル・オラフソンのコンサート。
   
・バッハ:ゴルトベルク変奏曲よりアリア
(トーク:ゴルトベルク変奏曲と他の作品への影響について)
・バッハ:イタリア風アリアと変奏
・ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第三十二番
・モーツァルト:ピアノ協奏曲第二十四番

 前半はソロ、後半の協奏曲は新日本フィルをひきぶり。ベートーヴェンもモーツァルトもバッハと同じく変奏曲を含んでいる点がミソ。

十二月十二日(水)カサド登場
 サントリーホールでNHK交響楽団演奏会。指揮はパブロ・エラス・カサド。
・リムスキー=コルサコフ:スペイン奇想曲
・リスト:ピアノ協奏曲第一番(独奏:ダニエル・ハリトーノフ)
・チャイコフスキー:交響曲第一番《冬の日の幻想》

 今いちばん面白いレーベルである、仏ハルモニア・ムンディで、フライブルク・バロック・オーケストラを指揮して活躍するカサド。CDでの演奏が大好きなので、ナマを心待ちにしていた。
 数年前に別の在京オーケストラも客演の候補に選んだが、人気急上昇で直前にギャラが跳ね上がってしまい、呼べなかったという人である。
 セントルークス管弦楽団との録音もある《冬の日の幻想》が、泥臭さのない爽快な演奏で気持ちよかった。

十二月十四日(金)歴史の振り子
 ウィーン・フィルがニューイヤーコンサートで演奏するラデツキー行進曲の編曲者を、ネルソンス指揮の来年から、ウィーン・フィル自身という表記に変えるというニュースを知る。
 元の編曲者が後に突撃隊行進曲などをつくったナチ党員だったので外し、長いことウィーン・フィルは原アレンジにさらに手を加えて演奏していることから、自らを編曲者とするのだという。
 そのナチ党員というレオポルト・ヴェニンガー、どこかで聞いた名前と思ったら、クナッパーツブッシュとウィーン・フィルがデッカに一九六〇年に録音したシューベルトの軍隊行進曲の編曲者。その編曲はかなり普及していたのだろう。
   
 もちろん、編曲そのものに問題があろうはずはない。ナチ入党以前の編曲らしいだけに、なおさらそう思える。
 しかし、それでも忌避すべきということになるのは、むしろそれだけ、ネオナチ的な国粋主義、排外主義がオーストリアにおいて問題化しつつあって、そのことへの危機感の表明なのかもしれない。
   
 そういえば、岩波新書で今年いちばんのベストセラーと聞いて少し前に読んだ『独ソ戦』でも、著者の大木毅が面白い指摘をしていた。
 第二次世界大戦のドイツ軍戦記物のベストセラー、『バルバロッサ作戦』とか『彼らは来た』などを戦後に書いた、パウル・カレルのことである。
 私が学生の頃、つまり三、四十年ほど前には、ドイツ軍物といえばカレルの著作がバイブルみたいな存在だった。ところが大木によると、それが今やドイツでは、すべて絶版だというのだ。
 その理由は、ドイツの歴史家ヴィクベルト・ベンツが二〇〇五年に出版した研究書で、正体が明かされたためである。
 本名はパウル・シュミット、元は親衛隊の将校で、外務省報道局長まで務めたナチ・エリートだった。パウル・カレルは前歴を隠すためのペンネームだった。
 ナチ党員だったからダメ、というわけではない。前身を隠し、歴史修正主義者として史実を歪曲した点が問題だった。
 党や親衛隊を正当化しようとしたわけではない。カレルの著作に私が受けた印象でいうと、ホロコーストなどの悪行については触れず、ただ最前線の戦闘の推移を書き、国防軍は親衛隊とは無関係で悪いことはしなかった、数を頼む共産主義国を相手にまっとうに戦った、ということを強調するものだったと思う。
 そうすることで、国防軍に代表される一般のドイツ人民衆の、いってしまえば被害者的な側面を強調した。日本の「海軍善玉論」と似た感じで、だからこそ、同時代人にすんなりと受けいれられた。ナチを正面から擁護していたら、広く認められるはずはなく、激しい批判を受けたはずだ。その点で、やりかたが巧妙だったのである。
 カレルの正体が、同時代人にまったく気づかれていなかったとは考えにくい。取材対象が軍人なのだから、その中には旧知の人もいたと考えるほうが自然だろう。悪いようにはしない、ということで互いに口をぬぐっていたのではないだろうか。前歴を問題にしはじめたら、程度の差こそあれ、誰もが何らかの形で脛に傷をもっていただろう。
 そのような「後ろめたさ」を共有する同時代人にとって居心地がよく、とりわけ冷戦の時代には納得しやすい物語。そんな「そうであってほしかった」物語を捏造し、提供してくれたのが、パウル・カレルだったのだろう。
 しかし後の世代は、後ろめたさから遠慮したりはしない。虚偽は虚偽である。容赦のない態度で批判的な考証をする。もちろんそのなかには、行き過ぎた断罪もあるだろう。歴史の振り子は左右に揺れるのをくり返して、冷静で客観的な位置づけに落ち着いていくのだろう。

 ウィーン・フィルによるヴェニンガー編曲版のラデツキー行進曲、手拍子のないセッション録音を聴きたいと思って探すと、やはりこれもクナッパーツブッシュ指揮の一九五七年デッカ盤があった。
   
 二〇〇一年ニューイヤーでアーノンクールが指揮したオリジナル版(手拍子なし)と聴きくらべると、たしかに金管が増強され、響きが華麗になっている。ただし、打楽器はシンバルがメイン。ヴェニンガーが追加したというティンパニ、トライアングル、グロッケンシュピールの音は聴こえない。だから、もはや独自のウィーン・フィル版なのだという今回の主張も、理解できなくはない。
 それらを入れたらどんな派手な響きがするのか、聴いてみたい。クナッパーツブッシュの名が出たので当然連想するのだが、ブルックナーの交響曲五番終楽章の一八九六年版、いわゆるシャルク改訂版みたいな感じになるのだろうか。
   
 ナチ党員ハースが批判した、ユダヤ人シャルクによるブル五の改訂版。そしてナチ党員ヴェニンガーの編曲によるラデツキー行進曲。共通するのは、どちらも派手な軍楽風。
 結局は人種の問題ではなく、時代の趣味の共通性の問題。その双方を、さらにはヴェニンガー編曲のシューベルトの軍隊行進曲も、みなウィーン・フィルと商業録音してくれたクナッパーツブッシュ(たぶん、イデオロギー的なことは何も意識していない)。この問題の、簡単には白黒のつけられない根の深さを、三枚のCDを聴きながら思う。

 今日は、赤穂浪士討ち入りの日。復讐に正義はありや否や。

十二月十五日(日)年末特番収録
   
 ミュージックバードの年末恒例、片山さんとの年末特番「THE CLASSIC SPECIAL2019」、無事に収録完了。
 今年は「さよならテン年代」と題して2010年代も含めてふりかえる。この収録のために出てきてくれた(笑)、ヴェニンガーのラデツキー話はもちろん、音楽がかからないのに異様に盛り上がってしまった(苦笑)、チャイコフスキーの歌劇「マゼッパ」話など、例年同様に楽しい内容になったと思う。放送は一週間後の二十二日。

十二月十七日(火)継子いじめの能
   
 宝生能楽堂で、能楽協会による第八回能楽祭。
・舞囃子『清経』香川靖嗣(喜多流)
・独吟『大原御幸』観世銕之丞(観世流)
・一調一管『龍田』種田道一(金剛流)
・仕舞『昭君』櫻間金記(金春流)
・狂言『棒縛』野村萬斎、野村太一郎、深田博治(和泉流)
・能『竹雪(たけのゆき)』今井泰行(宝生流)、水上嘉・宝生欣哉・一噌隆之、大倉源次郎、國川純

 シテ方五流が顔をそろえる。目玉は能の『竹雪』。宝生流と喜多流にしかない珍しい能で、継子いじめが主題になっている。昔話では定番の継子いじめだが、能ではほとんど例がないとか。冒頭に説明に出てきた観世喜正も、実見するのは今回が初めてと言っていた。
 舞台は冬の越後。ある武士(ワキ:宝生欣哉)は前妻(シテ:今井泰行)との間に姉(ツレ:大友順)と弟の月若(子方:水上嘉)の二人の子を成したが、離別して後妻(アイ:大藏彌太郎)を娶ることにした。月若だけは跡取りとして手元に置き、前妻と姉娘は近くに別に住まわせた。
 武士が遠出をした間に、後妻は屋敷の竹に積もった雪をすべて払い落とすように命じる。月若は雪を払ううちに寒さに凍え、ついに倒れる。前妻と姉が駆けつけ、雪の中から月若を掘り起こすが、すでに絶命していた。戻ってきた武士と三人で嘆き悲しんでいると、竹林の七賢の声が聞こえてきて、月若は蘇生した。
 まさしく昔話をそのまま劇化したような、芝居風の能。奇蹟劇だが、唐突に助けるのが神仏ならぬ竹林の七賢というのが意味不明で、牽強付会じみている。
 こういう能もあるのだと、勉強になった。哀れを誘う愁嘆場というのは日本の伝統芸能が得意とするもので、そのベタベタなお涙頂戴が私は苦手だが、能だとさすがに控えめ。宝生流らしく、ややあっさりしすぎという気もしたが、演能頻度の低いものだけに、役者が没入しにくい要素もあるのだろう(見せ場になるべき箇所での絶句もあった)。

 終演後はお楽しみ抽選会。席番号により、夏の「オリンピック・パラリンピック能楽祭」のチケットが当たったりする豪華版だったが、かすりもせず。「こんなところで運を使わなくてよかった」と負け惜しみをいいながら、帰宅。

十二月二十日(金)変身する弁慶仮面
   
 国立能楽堂の定例公演。
・狂言『鐘の音(かねのね)』野村万蔵(和泉流)
・能『橋弁慶(はしべんけい) 替装束・扇之型(かえしょうぞく・おうぎのかた)』 金剛永謹(金剛流)

 先月二十二日の公演に続く「演出の様々な形」の二回目。
 今回の『橋弁慶』、前場は通常通りのスタイルで、五条天神に丑の刻参りに行こうとする弁慶(シテ:金剛永謹)に、従者(トモ:宇高竜成)が五条橋に人斬りの子供が現れることを告げ、止めようとする。しかし弁慶は、返り討ちにしてやろうと出発することにする。
 ここまでの弁慶は装束の印象も、荒法師というよりも徳の高い僧のよう。
 狂言方によるアイも、前回とは異なるもの。前回は二人出て、牛若に斬られたといって逃げてきた無傷の臆病者を、もう一人がからかうコント風だった。今回は弁慶の供衆の一人である早打が出て、ついていくのを怖がっているうちに弁慶が出発してしまったことを知り、態度を変え、手柄を立てそこねたと強がる。
 後場が五条橋での弁慶と牛若の立ち回りになるところは前回と同じだが、今回は小書の「替装束」がついて、弁慶は直面ではなく、熊坂長範に似た癋見(べしみ)の面をつけて豪傑ぶりを強調し、前場の僧形との対照を極端にしてあるのが面白い。まるで、戦うために怪物に変身したかのような(笑)。
 もう一つの小書「扇之型」のほうは、牛若(子方:廣田明幸)が弁慶をからかって、扇を橋懸の一ノ松から、欄干越しに舞台のシテに向けて投げつける。惜しくも柱に当たってしまった。

十二月二十一日(土)羅生門の鬼
      
 国立能楽堂で「第三回下掛宝生流 能の会」。
・舞囃子『三輪』友枝昭世
・狂言『二人袴』山本則俊、山本則重、山本則秀
・能『羅生門』粟谷明生・殿田謙吉

 ワキ方の下掛宝生流が主催する会なので、ワキ方が大活躍し、シテ方の喜多流が協力する形になっている。
 まず舞囃子『三輪』は、喜多流宗家預りの友枝昭世の舞だが、地謡が宝生欣哉を地頭とするワキ方なのが新鮮。夏目漱石が欣哉の曾祖父宝生新に謡を学んでいたように、独自の伝統をもっているのだそうだ。
 狂言『二人袴』も、山本則俊が息子の則重、則秀と演じるというので楽しみにしていたもの。兄東次郎の親馬鹿まるだしの演技とはまた異なる、馬鹿真面目な感じが可笑しい。
 おしまいに今日のメインディッシュ、これも楽しみにしていた『羅生門』。観世小次郎信光の作らしい、動きの派手なスペクタクルな能だが、一方でかなり特殊な配役をしている。
 ワキ方が七人も出るのに、シテ方はシテ一人。しかもシテは後場にしか登場せず、一言も発しない黙役という、シテなのに脇役、助演者的存在なのだ。信光は『紅葉狩』を代表に、ワキがヒーロー的に活躍する能をつくったことで知られるが、そのワキ方偏重が極まったのが『羅生門』なのだ。ワキ方主催の会でないと上演されないのが当然である。
 そのような能だから、渡辺綱の役はワキ方にとって最重要のものとなり、従来は宗家か、宗家に準ずる者しか演じられなかったそうだ。しかし今回は技芸の継承を重んじて、門下を代表して殿田謙吉が演じる。
 前場は、京の源頼光の館。大江山の酒呑童子を討ち果たして名をあげた主従七人の酒宴の席。頼光(宝生尚哉)、平井保昌(野口能弘)、渡辺綱(殿田健吉)と立衆四人、坂田金時・碓井貞光・卜部季武・独武者と、すべてワキ方ばかり。
 頼光の宝生尚哉は欣哉の息子。この貴人役は宗家の跡取りがやるものらしく、かつては欣哉も演じたそうだ。高校一年生、声変りをして低い声だが、謡いかたが子方風なのが面白い。
 この席で保昌が羅生門に近頃鬼が住みついていることを話すと、それを否定する綱と論争になり、最終的に綱が一人で行って確かめてくることになる。
 ここで前場が終って綱の従者(アイ:山本則重)が登場、状況を説明しているうちに綱が一人で出発したと聞き、助かったと安堵する。
 後場の前に、一畳台と布をめぐらした宮の作り物がでる。この宮を羅生門に見立てて、甲冑姿の綱が深夜の嵐の中を一人でやってくる。門まで来たという証拠の札を置いて帰ろうとした綱の兜(鍬形の着いた黒頭をそれに見立てる)を、宮の中からニョッキと出た腕がつかんで、むしり取る。鉢巻だけになった綱が刀を抜いてふり返ると、門の中から赤頭の鬼(シテ:粟谷明生)が現れる。
 黙ったまま、一言も発しないのが異例であるだけに、正体不明の鬼の不気味さが出る。斬リ組ミののち、ついに綱の刀が鬼の腕を打ち落とす。飛びすさって逃げる鬼を見送る綱。
 夜の闇、吹きつのる風、降り続く雨。都の南端、異界との境に建つ羅生門。想像力にまかされた部分が多いのが、気持ちよい。ろうそく能でやったら、いっそう雰囲気が出るのではないかと思った。

 三日前の『竹雪』に続き、十年に一度くらいしか舞台にかからないらしい能をみることができて、楽しかった。

十二月二十三日(月)救世主
   
 サントリーホールでBCJの《メサイア》を聴く。
 二〇〇一年から始まって今年が十九回目という恒例の催し。満席の人気で、しっかりと定着しているのを感じる。

十二月二十四日(火)第九
   
 サントリーホールで東京都交響楽団の「第九」。
 今年の指揮はレオシュ・スワロフスキー。オーソドックスで熱い、音楽する喜びをかみしめるような演奏。
 これで今年の演奏会通いはおしまい。

十二月二十八日(金)三十年前
   
 朝日カルチャーセンター新宿教室で、片山杜秀さんとの「平成音楽史 平成初期の巨匠たち」。平成初めに亡くなったカラヤンとバーンスタインの偉大な業績を偲びつつお送りするつもりが、どういうわけか放送禁止用語も飛び出す危険な中身に(笑)。やっている方は楽しかったのでまあよしとするか(ダメ)。
 おかげさまで第三弾も来年五月二日に行なう予定。
 それにしても、ちょうど三十年前の平成元年のクリスマスには、ベルリンの壁崩壊を祝って、バーンスタインが東西両ベルリンで「歓喜の歌」ならぬ「自由の歌」を響かせていたというのは、いろいろと感慨深いものがある。

十二月二十九日(日)早稲田と戸山
 まだ年内の原稿仕事は終っていないが(〆切を過ぎたので担当さんは仕事納めをしているが、すっきりと正月を迎えるためにも年を越えずに出したい)、外へ出る仕事は今日夕方の山田和樹さんへのインタビューで、年内はすべて終了。
 トーキョーコンサーツ・ラボという貸しホールが早稲田大学文学部の北側にあることを、この取材で初めて知る。
 早大関係のアマオケや合唱団には縁が深いらしく、リハーサルでよく使われているらしい。たしかにワセオケの本拠から近いし、そこからの紹介でさまざまな団体が借りているようだ。
 しかしそうしたつながりがない場合、早大生でもここに来たことがない人は、少なくないと思う。大学時代にはまるで入ったことのない地域だったので、こちら側はこうなっているのかと、新鮮な驚きだった。
 隣のスコットホールという赤煉瓦の建物も由緒ありげで素敵だった(教会みたいだが教会ではないらしい)。そして、穴八幡神社のすぐ裏がこのキリスト教系施設というのも、日本らしくて気に入った(笑)。
 帰りは徒歩にして、箱根山を脇に見つつ、戸山の坂道を越えて帰宅。
 年末の日没後に通る戸山一帯、かつて七三一石井部隊がいたあたりは、解体を待つ無人の高層アパートがうずくまっていたり、さびしくてさすがの雰囲気。
 ただ、昔ほど暗い雰囲気、街灯の光が街灯から離れられないような異様な暗さは感じなくなっていた。こちらが慣れたのか、それとも歳月をへて、土地として鎮まってきたのか?

 ところで週明けの十二月三十日(月)から「ニューディスク・ナビ」の再放送の時間が、早朝五時~十一時に変わる。いままでは午前零時~朝六時の深夜放送枠だったが、これからはモーニングの時間帯で聴きやすくなるはず。
 なお本放送はこれまで通り、十八時~二十四時。

十二月三十日(月)虚実のおぼろ
 一か月半ぶりに「可変日記」を更新した。長く止めたのは、九月二十日に国立能楽堂でみた能『蝉丸』の話を、腰をすえて書きたかったため。ずるずると引きずってしまったが、年を越したくないので、どうにか仕上げた。

 醍醐天皇の第四皇子で、琵琶の名手でありながら、生まれつき盲目だったために、勅命で出家させられ、庶人に身を落とされて、畿内の東限である逢坂関に捨てられる蝉丸。
 今昔物語などの蝉丸伝説をふくらませた能独自の設定だが、天皇が実の子に酷い仕打ちをするというショッキングな発端なので、皇国史観の時代には上演を遠慮したという作品。しかし、世阿弥か世阿弥に匹敵する才能が生んだ傑作。

 能は、境界を舞台にすることを好む。半醒半睡のおぼろな境目で、生者と死者が交感する夢幻能は典型だし、実在の橋や関所、東西南北の最果ての地など、歌枕になるような境界の場所もよく舞台になる。そうした境界、異界の門でこそ、人間の本性が露わになる。蝉丸が茅屋に住む逢坂関もその一つ。
 十一月から十二月にかけてみた二種の『橋弁慶』と『羅生門』も、境界を舞台にした作品だった。前者は洛中と東山を隔てる五条橋、後者は京洛の南端、鬼の棲む羅城門。
 しかし考えてみると、能舞台というもの自体、虚実の境界にあるといえる。
   
 近代の歌劇場や西洋風の劇場は、プロセニアムアーチという額縁の中の舞台が虚構で、客席という現実と隔てられる。歌舞伎小屋では定式幕が虚実の境目で、花道が現実に向けて張り渡されている。
 能舞台に幕はない。橋懸の奥、楽屋との境目に揚幕があるだけ。楽屋は、役者にとっての現実の空間。
 だから能楽堂には額縁の中のような、約束事としての虚構の空間はない。虚構の空間は、能舞台の向こう、目には見えない場所にある。
 その、存在しない虚構の空間から、現実の見所に向かって張り渡されているのが、能舞台と橋懸。
 つまりは、虚と実のおぼろな境目。その上で能楽師は、虚構のさらにその幻を見せる。だから、その虚構はあやふやだけれど、舞台の大きさなどに縛られることがないから、はてしのない大きさと高さと深さをもつことができる。
 正直にいえば、いつもその幻が出現するわけではない。出現しないときの方がはるかに多い、かも知れない。しかし、出現してしまったときの戦慄は、しなかったときの退屈さを忘れさせてしまう、鮮烈で広大無辺なもの。
 今年みた能は、ちょうど五十番。来年も恐ろしい幻に、たくさん出会いたい。

 歌舞伎の花道は、虚実のあやふやな境目であるという点で、橋懸よりも能舞台そのものに役割が似ているのかも。

十二月三十一日(火)二〇一九年大晦日
       
 十二月になると新聞も音楽誌もさまざまに、今年のベストテンとかベストファイブとかベストスリーの特集をする(掲載は前後するが)。
 依頼を受けて、私も無理を承知で、オペラやコンサートやCDで、さまざまな取捨選択に頭を悩ますことになる。結果そのものより、この一年間に何を視聴したかをあらためて見なおす作業のほうに得るものが大きく、けっこう面白い。
 ひとつ残念なのは、「音楽の友」のコンサート・ベストテンが、掲載時期の関係で集計期間が昨年十二月から今年の十一月までになること。
 なぜ残念かというと、第九まつりになる前の十二月前半は、じつは意外といいものが集中することが多い。二〇十八年十二月にも、大雑把に候補をたくさんあげた時点で、四つ入っていた。しかしなんとなく、二〇一九年の話なのに一八年のものをたくさん入れるのはなあ、という心理がある。これが難しい。
 今年の十二月もゲルギエフの《マゼッパ》とか、パパタナシュのヒロインとレプシッチの引き締まった指揮が素晴らしかった《椿姫》とか、ヴィキングルとかN響のエラス・カサドとか、来年困りそうなものがいくつもあった。
 音友の企画でありがたいのは、コンサートとオペラに通った回数を数えさせられること。前記の期間で百七十八。ついでに、能が四十、講談落語文楽歌舞伎が十で、計二百二十八。

 仕事の分野は例年同様で、新聞雑誌の寄稿、ミュージックバードのパーソナリティ、朝日カルチャーセンターの講座など。あまり大きな変化はないが、いくつか新たな動きや出会いもあった。
 片山杜秀さんとの『平成音楽史』が出版され、イベント、講座、ラジオ合せて四回も片山さんとおしゃべりする機会がもてたのは、とても楽しい仕事だった。
 山梨の講座ではトスカニーニ、ミュージックバードで今年始まった「夜ばなし演奏史譚」ではオッフェンバック、そしてボダンツキーにパニッツァにパピ、メルヒオールの「戦前メト」と、好きなもの、というより我が根っこにあるものの話を、思いっきりしゃべりたおす機会をもてたのも、今年のよき思い出。
   
 いまは『いだてん』のサウンドトラック完結編を聴いている。メインテーマのサンバに代表されるように、ジャズにポップスに交響楽団に邦楽器に世界各国の打楽器など、多国籍になっているのが素敵。最後は七分間に及ぶ、テーマのロング・バージョン。
 昨日やっていた総集編を録画して、頭だけ見たが、もとが五十年間を行きつ戻りつする話だけに、あとで撮影した部分を前につないだり、かなり大胆に編集しているようで、全部みるのが楽しみ。
 本放送は低視聴率でいろいろ言われたけれど、私は楽しんだし、なんといってもこの美術(背景や衣装、その他)は、あとで見返す価値がある。
 十二階や明治神宮外苑競技場の幻を見せてくれたし、同じく、もはやこの世にない旧国立競技場の、あのスタンドからの視界の再現も素晴らしかった。
 そして戦前のロス五輪の頃の日本選手団のユニホームの、モダンな美しさ。ヒトラーの褐色の服よりも、ムッソリーニの黒シャツの方が、はるかにデザインとして洗練されていることも、よくわかった(さすがイタリア)。
 スポーツを報道するメディアの、半世紀の発展をさりげなくきちんと織り込んだのも、面白かった。新聞、ラジオ(再現放送から生中継)、映画、テレビ。
 一年やっても入りきらないだけに、捨てたエピソードも多かった。ショーケンが途中で死んだために、高橋是清暗殺の場面を短縮しなければならなかったのは残念。あそこで叛乱軍(かれらとて日本の若者)に対してショーケンが何を話すのかは、みてみたかった。
 マラソンに重点を置いたのに、円谷幸吉の三位をあまり描かなかったのは、その後の物語が悲しすぎるからか。あのオリンピックで、メイン会場の国立競技場にあげた、唯一の日の丸だったのだが。

 ともあれみなさま、今年も一年間ありがとうございました。

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