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   帝王の剣


 カラヤンがタクシーに乗った。どちらへ、と運転手がたずねると、 「どこでもいい。どこに行ったって私を待っている仕事がある」

 これから述べるのは、一九六〇年の一年間に、ウィーンとザルツブルクで演奏された音楽と、それを演奏した音楽家たちの物語である。
 その中心となる人物をただひとり挙げるなら、それは指揮者、ヘルベルト・フォン・カラヤンということになる。
 カラヤンはこの年、五二才。
 冒頭の有名なジョークは、このころに生まれた。これが作り話とは思えぬほど、当時の彼の活動範囲は広かった。ウィーン国立歌劇場、ウィーン楽友協会、ザルツブルク音楽祭の各芸術監督を兼務し、ベルリン・フィルの終身指揮者であり、さらにミラノ・スカラ座、ロンドンのフィルハーモニア管弦楽団、ウィーン交響楽団とも密接な関係にあり、〈ヨーロッパの音楽総監督〉のあだ名は伊達ではなかった。
 七人の影武者を引き連れ、緋色の修羅となって家康本陣を衝いた真田幸村よろしく、カラヤンは世界各地に八面六臂の活躍を繰り広げていた。

 カラヤンにはもうひとつ、〈帝王〉なる異名があった。カラヤン帝国、という言い方もよく使われた。
 私は、カラヤンがもっともカラヤンらしかった時期、〈帝王〉の名にふさわしかった時代というのは、一九六〇年の前後十年ばかり、具体的には一九五六年から一九六四年にかけての、八年間のウィーン国立歌劇場芸術監督時代であると考えている。
 ウィーンでの音楽学生時代以来、指揮者カラヤンの目標は、彼が毎晩天井桟敷で聴いたこの歌劇場の、監督の座であったに違いない。
 一九二〇年代終わりのそのころ、すでにハプスブルク帝国は倒れ、オーストリアは一小国に縮み、ウィーンは東欧全体の首都としての役割を終えていた。しかしその栄華の余韻は、まだまだこの劇場に馥郁たる薫りをただよわせ、若きカラヤンに無限の陶酔と憧憬を与えたことだろう。
 第二次世界大戦後の彼は、なかなか彼を招こうとしないこの歌劇場に向かって、その周囲から執拗なデモンストレーションを展開した。
 この街第一の楽団、ウィーン・フィルに次ぐ第二のそれ、ウィーン交響楽団が、その示威の場だった。彼はここで、通常の演目に加えて演奏会形式によるオペラをしばしば演奏した。
 CDにもなった一九五四年の《カルメン》は、なかでもその頂点をなすもので、スカラ座とパリから呼び寄せた一級の歌手に、当時まだ珍しかった原語版で歌わせ、撥剌とした快演を聴かせている。
 それは戦災で焼け落ちた国立歌劇場の再開直前の時期であり、ひとびとが新劇場の舞台について、さまざまな想像を膨らませている最中のことだったから、彼の〈耳だけのオペラ〉には特別な効果があった。
 なぜなら、とりわけ舞台映ばえのする《カルメン》のような作品をあえて演奏会形式で演奏することは、これに舞台がついたらどれほど素晴らしいものになるだろう、と聴衆に想像させずにおかないからである。
 そしてさらには、アルプスの向こうからスカラ座を連れてきて、マリア・カラスを主役とする《ルチア》を国立歌劇場の舞台で上演した。
 二七年前の一九二九年、トスカニーニがスカラ座とともに客演し、同じ《ルチア》を演奏してウィーン子たちを熱狂させた(若きカラヤンもそのひとりだった)故事を、彼は再現してみせたのだ。
 カラヤンは新しいトスカニーニになろうとしたのである。
 それは、再開したばかりの国立歌劇場から、カール・ベームが総監督の座を逐われようとする、まさにそのときであった。《ルチア》の大成功が決定打となって、カラヤンはついに国立歌劇場芸術監督に就任した。

 歌劇場の監督なるものが、カラヤンあたりまでの年代のドイツ語圏の指揮者たちにとってどれほど重要なポストであるか、日本では今ひとつ理解されていなかったように、私は思う。
 交響楽団のそれと同じようなものだ、と思っているひとも少なくない。だがまったく違うのだ。権限と責任の大きさ、社会的、公的な重要性、一般の注目度、すべて別の次元と言っていい。
 交響楽団の場合、五十年も同じ指揮者が監督であった場合もあるが、歌劇場では十年続く監督はまずいない。あまりの激務であり、嫉妬と羨望の目と、中傷と陰謀の応酬に疲れ果ててしまうからである。
 それでも、いやそれゆえにこそ、指揮者たちは歌劇場の監督になりたがる。それは、〈ダモクレスの剣〉の話を思わせる。
 ギリシア時代、ある男が国王ダモクレスの権勢と豪奢な生活をうらやんだ。それを耳にしたダモクレスは、ではお前にもその喜びを味あわさせてやろうと、王の服を着せ、素晴らしい料理が並んだ王座に座らせた。
 男はその美味と心地好さに感激したが、ふと気がついて上を見ると、その頭上には、鋭い剣が髪の毛一本でぶら下げられ、いまにも落ちて彼を串刺しにしようとするところであった。男は愕き震ふるえあがり、そこでダモクレスは、王の地位とはこの剣のように、権力の一方で常に、失脚と暗殺の危険にさらされているものだと教えたという話である。
 逆に言えば、王とは、帝王とは、〈ダモクレスの剣〉を頭上にぶら下げたまま、歩いていける男のことなのである。盛者必衰の理に逆らい、天に向かって拳を振り上げるもの、それが帝王なのである。
 カラヤンが〈帝王〉と呼ばれたのは、彼が、度し難がたく、気侭で、陰口の大好きな連中の巣窟である歌劇場という〈王土〉に君臨し、倦むことなく彼らをねじ伏せ続けたからこそであろう。

 彼の得たポストとしては、三十年以上に渡るベルリン・フィルとの関係の方がはるかに長く、特に日本ではこちらばかりが強調されている。
 だがベルリン・フィルとの間には、晩年の辞任の際の大騒ぎは別として、それまでは〈ダモクレスの剣〉のような緊張は、表沙汰にならなかった。緊張ぬきの信頼関係に、〈帝王〉は存在しない。
 カラヤンは、自分にとってベルリン・フィルは、「よりかかることのできる壁」であり、ウィーンはそのような安心感を決して与えてくれない、と言ったそうである。
 全幅の信頼が置けないウィーンにおいてこそ、彼は〈帝王〉として、その専制的強権と栄耀栄華を、周囲に誇示し続けなければならない。さもなければ足をすくわれてしまうのである。
 一九六〇年という年に、その〈帝王〉ぶりを追っていくことにしよう。同時にこの年は、彼以前のもうひとりの〈帝王〉、グスタフ・マーラーの生誕百周年にあたり、その回顧がさまざまに行なわれた年であった。
 だが、そこに響いた音楽を、ただ昔話として誉めたたえても、感動などあるはずもない。「昔はよかった」では、なんの意味もない。
 しかし我々は、不完全なものとはいえ、録音されたレコードによってその音楽をいまも聴くことができる。それらの音楽こそが、ひとつの時代を、過ぎ去りし往昔を、耳のなかに甦らせるのだ。
 だから私は、ホメーロスにならって、次の言葉を唱えよう。

 ミューズよ、今ぞ我に語れ、かの人は如何なる人なりしかを
 ミューズよ、いざや歌え、その功しを


   トスカニーニのように


 一九五九年十月、ウィーン・フィルはカラヤンを指揮者として、世界一周の大演奏旅行に出発した。
 十月十八日、インドのニューデリーの演奏会に始まり、マニラ、香港を経て来日、東京、大阪、名古屋で計十公演、そしてホノルル、ロサンゼルスと東進し、シカゴ、ニューヨークなど北米六都市で演奏し、十一月二三日のモントリオール公演で終了、という大規模なものだった。
 この夏に就任したばかりの新楽団長、オットー・シュトラッサーの最初の大仕事である。彼はこの年五八才、第二ヴァイオリンの首席奏者でもある。幸い旅行はほぼ予定どおり進行し、好評のうちに終わった。
 しかしウィーンに戻った彼を、はやくも難事が待っていた。
 十二月十三日のニコライ記念演奏会の指揮者が、いなくなってしまったのだ。予定されていたベームが、同時期のニューヨークのメトロポリタン歌劇場の《フィデリオ》を、引き受けてしまったからである。病気で降板したオットー・クレンペラーの代役であった。
 穴埋めはカラヤンにしかつとまらない。そう考えたシュトラッサーは、渋る指揮者を説得し、ようやく出演を承諾させた。
 カラヤンにしてみれば、十二月八日の《フィデリオ》で国立歌劇場に復帰したあと、二日おきに公演を指揮し、新演出の仕込を行なっている最中なのである。その間を縫っての演奏会なのだから、楽な話ではない。
 にもかかわらず彼が引き受けたということは、彼にとってウィーンの重要性がこれまでになく高まっていることを、そして先の旅行で培かわれた楽団との結びつきの強さを、証明するものであった。

 話は変わるが、この時期のカラヤンの《フィデリオ》は、一九五七年のザルツブルク音楽祭で演奏した上演に、近いものであったろう。
 この年、カラヤンはこの音楽祭の新芸術監督として登場、八年ぶりにここで指揮をすることになった。そのお披露目に彼が自ら演出して上演したのは、《フィデリオ》と《ファルスタッフ》の二作品であった。
 この二作には意味がある。というのも、二二年前、同じこの二作でザルツブルクに初登場、大喝采を浴びた指揮者がいるからである。
 トスカニーニであった。
 カラヤンはここでもまた自分をこの大指揮者になぞらえたのである。これを茶目っ気ととるか僭越ととるかはそのひと次第だが、しかしカラヤンの公演も大成功だったことは、つけ加えておかなくてはならない。
 二公演ともCD化されている。録音の状態もよい。
 《フィデリオ》はいかにも当時のカラヤンらしい、快速の颯爽とした演奏だった。彼のこのオペラのライヴはその後の時期のものが三つほど遺っているが、私にはこれが一番好ましい。
 面白いのは、ここでは《レオノーレ序曲第三番》のあと、終景冒頭の合唱を、ドン・フェルナンドの言葉の前までカットしていることだ。
 クレンペラーによるとプフィッナーもやっていたそうで、またマーラーの弟子のボダンツキーも、メトの公演でこれに近いカットをした録音を遺している。どうも往時の慣習らしく、マーラーそのひとのしたことではないか、という気もする。序曲をここに挿入するのは彼の発案だったから、その後のつながりを円滑にする目的であったのかもしれない。
 ちなみにカラヤンは、一九六三年のミュンヘン公演ではカットせず、原譜どおりに戻している。

 一方《ファルスタッフ》は、ほぼ同様の歌手で一年前にスタジオ録音し、そして三月にはスカラ座で公演してきたものであった。さらに音楽祭のあと、九月にはウィーンに舞台を移して上演を重ねている。
 この周到な反復上演にも、カラヤンのトスカニーニへの憧れが隠されている。《ファルスタッフ》はトスカニーニが生涯でもっとも多く指揮したオペラであり、カラヤンはそのひとつを、一九二九年スカラ座のウィーン客演のときに聴いていた。
 「最初の一拍から、私は殴られたかのようなショックをうけました。あの《ファルスタッフ》――トスカニーニが何度も磨きをかけ、何度も試みを重ね、たびたび歌手を取り替えたというあの《ファルスタッフ》について、このウルム(当時の彼の歌劇場)で達せられている完成度の低さに私は全く当惑してしまいました。当時、この演出は初上演から十年か十二年もたっていました(事実は七年)が、熟成こそすれ、〈古く〉なってはいませんでした。そこで私は初めて〈演出〉とは何かを悟ったのです。トスカニーニには演出家がついていましたが、本質的な着想は基本的にトスカニーニ自身のものでした。その音楽と舞台表現の合致は、私たちにとってはまるで夢のように思えました。歌手たちは無意味に舞台に群がって立っているのではなく、すべてがそれぞれの位置と目的をもっているのです。ウィーンに客演したスカラ座は、すべてがあるべきところにあれば、ひとつの解釈からどんなに素晴らしいものが生み出せるかを我々若い世代に見せてくれたのですが、当時のウィーンの人々はその功績を理解していなかったと思います」(「カラヤン 栄光の裏側に」バッハマン 横田みどり訳 音楽之友社 ただし語句を一部変更)

 一九二〇年代のスカラ座におけるトスカニーニの業績こそ、カラヤンが目指すものであったろう。のちにトスカニーニがザルツブルクで上演したときにも、彼はすべての練習を聴いたという。
 それから二十年、彼がウイーン国立歌劇場芸術監督として初めてピットに登場したのは、一九五七年一月十六日のトスカニーニの死の直後、追悼として《フリーメーソンのための葬送音楽》を演奏したときであった。古き異国の王の死が、新しき王の治世のはじまりを告げたのである。
 そして、彼自身にいよいよ、《ファルスタッフ》を指揮するチャンスがめぐってきたとき、ゴッビとシュヴァルツコップの二人を要とするアンサンブルを固定し、自ら演出して各地で上演を繰り返したのは、トスカニーニの上演を歌劇公演のひとつの理想とし、そこに少しでも近づきたいという考えからだった。
 ウィーンでの公演を聴いた皮肉屋のクレンペラーさえ、それはとてもすばらしいものでした、とほめているほどなのだが、今CD化されているライヴは、どうもカラヤンの悪い面ばかりが出たときのものらしい。
 水平方向に流れるレガートばかりが目立ち、リズムがちゃんと下まで落ちて、ぐわんと弾むことがない。だから歌手が深く呼吸することができず、響きが浮わついてしまうことになる。
 ゴッビ、モッフォなど共通する歌手が多いセラフィンのライヴ(一九五八年シカゴ公演)と較べると、どうだ小僧、といわんばかりにセラフィンの呼吸の巧みさ、歌手の扱いのうまさがきわだってしまう。モッフォのナンネッタなど、極上の美唱が彼の指揮で引き出されている。
 この作品のフレージングはすべてトスカニーニに学んだ、と言うカラヤンだが、その絶妙のリズム感だけは、学んで学べるものではなかったのだろう。この傑作はやはり、一筋縄ではいかない代物なのだ。


   一九六〇年


 さて、この《ファルスタッフ》のように、ザルツブルクでの公演をそのままウィーンの通常公演に移した例は、他にもいくつかある。
 一九五九年の演目である《オルフェオとオイリディーチェ》(これもトスカニーニが好んだ作品だった)も、その年の十二月、前述のニコライ記念演奏会の二日後に、新たに国立歌劇場の舞台に登場している。
 毎日をフェスティバルのようにしたい、というカラヤンの考えによるものであった。同時に経費や練習時間のむだも少なくなる。

 ザルツブルクの《オルフェオ》は、グラモフォンから発売されている。
 現代楽器の大編成の楽団が出す響きは、当時でさえアナクロだと批判されたらしい。シミオナート、ユリナッツなどの歌唱も含め、古楽器演奏が隆盛した現代ではなおさらのことだろう。
 しかし、《妖精の踊り》から《精霊の踊り》にかけてのカラヤンの迫力、演出力は凄いもので、以降は音楽的感興がとめどなくあふれ、終わりの《シャコンヌ》でも、すばらしいたたみ込みを聴かせてくれる。
 その後ウィーンへ移されたときには歌手が交代したが、オルフェオ役のシミオナートだけは変わらなかった。
 この、スカラ座から〈貸し出された〉イタリア人メゾは、カラヤンの音楽性を深く信頼し、喜んで共演を重ねた。後年の回想で、この《オルフェオ》を、スカラ座でカラスと共演した《アンナ・ボレーナ》などとともに、自分のもっとも思い出深い公演のひとつに選んでいる。
 カラヤン時代のウィーンは、彼女のようなイタリア人スター歌手が常時出演し、国際化がはじまった時代であった。しかもそれは単なる客演にとどまらず、専属と変わらぬ緊密な関係で結ばれていた。
 世界最高のスターたちによって構成された、熟練したアンサンブル、という容易ならざる理想をカラヤンは追求したのである。〈帝王〉の統率力、コネクションをもってはじめて可能となる理想であった。

 年が明け、元旦恒例のニューイヤー・コンサートが、コンサートマスターのウィリー・ボスコフスキーの指揮で行なわれたあと、はやくも一月二日には《オルフェオ》で、カラヤンは始動した。
 いよいよ一九六〇年のはじまりである。
 楽団長シュトラッサーは、その名著「栄光のウィーン・フィル」(音楽之友社刊)のなかで、この年のことを次のように述べている。  「わがフィルハーモニーの歴史で、一九六〇年ほど多くの出来事があった年はほとんど見出されないであろう」(ユリア・セヴェラン訳)
 こと音楽に限っても、信じられないほどたくさんの印象的な演奏が生まれ、その多くが録音として遺される、実り多き年となるのである。

 三月九日、国立歌劇場でピツェッティ《大聖堂の殺人》のウィーン初演が行なわれた。指揮はカラヤン、主役の大司教トマス・ベケットを歌うのは、ハンス・ホッターである。
 このオペラは二年前にスカラ座で初演されたものであった。かって詩人ダンヌンツィオが愛好し、トスカニーニがそのオペラを頻繁に上演した作曲家、ピツェッティの最新作は保守的で、弦楽器の美しい響きに重点をおいたものだったから、聴衆には抵抗なく受け入れられた。カラヤンが珍しく原語版をやめて独語翻訳上演にしたことも、この種の現代作品ではプラスに作用した。
 しかし準備は大変だった。この作品でソロらしいソロを歌うのは主役だけで、あとはみなアンサンブルなのである。未知の作品に苦労して、喝采をあびる場面もないときては、歌いたがる歌手はいない。
 みなあれこれの理由をかまえて練習や出演を逃げようとしたため、高水準のキャストを揃えようとするカラヤンと彼らで、鬼ごっこが展開された。しかし結局、ツァデク、ルートヴィヒ、シュトルツェ、シェフラー、ベリー、クレッペルと常連たちが集められ、またしてもカラヤンの辣腕ぶりが証明されることになった。
 この公演はCDになってはいないが、テープで聴くことができる。
 カラヤンとオーケストラの響きの美しさといい、ホッターの心にしみるような歌といい、重唱のなかでもきっちりとその個性を際立たせる共演者たちといい、この歌劇場の水準の高さが示された演奏で、CD化された作曲者自演の放送録音とは、比較にならぬ充実度をもっている。
 忘れられた作品だが、これほどの演奏ならば一聴の価値があるだろう。
 カラヤンはこの作品を四公演指揮し、もう一晩を他の指揮者にまかせた。セットや練習に要した経費を考えると高価についたものだが、現代作品では仕方のないことであった。シュトラウスのあと、劇場の演目にながくとどまれるオペラは生まれていないのである。
「同じことばかり繰り返している歌劇場は、もうおしまいなんだ」
 こう言ったのは、カラヤンより五十年前の監督、マーラーであった。

 だが新作だけが劇場に生命を与えるわけではない。ひとりの傑出した指揮者、歌手の出現で劇場は活気づき、過去の傑作は甦る。灼熱の炎に焼かれて復活する不死鳥のように、その生命力は尽きることがない。
 マーラーもそれは判っていたはずで、彼はただ自らの生命力の衰えを、歌劇場の運命に重ねてしまったにすぎない。彼の死後も、シャルクやクラウス、ワルターのような優れた監督たちによって劇場は生き続けてきた。そしていま、その宝灯はカラヤンの手に委ねられているのである。
 カラヤン四回目の《大聖堂の殺人》は五月二十九日、ウィーン芸術週間開幕の日に行なわれている。
 そしてその二日後、《ラインの黄金》を最初に、ウィーンでは戦後初の《ニーベルングの指輪》通し公演がはじまった。この通し公演こそ、カラヤン指揮下の国立歌劇場の実力を、天下に示すものであった。

 残念ながらこのときの《指輪》の録音を聴くことはできない。このころの彼の演奏がどのようであったかを知ることができるのは、一九五八年四月スカラ座での《ワルキューレ》だけである。当時カラヤンはスカラ座と提携して、イタリア人歌手をウィーンに借りる見返りに、ドイツ・オペラをスカラ座に提供していた。
 この公演もそのひとつで、歌手と演出はすべてウィーンのものだった。
 CDでは、ハント社のザルツブルク復活祭公演の《指輪》全曲に付録としてつけられた抜粋が、手に入る。出演はジークムントがズートハウス、ジークリンデがリザネク、ブリュンヒルデがニルソンである。
 収められているのは第一幕後半の二重唱と、第二幕の《死の告知》の場面で、とくに前者ではカラヤンは何かに憑かれたかのような凄まじい演奏をしている。弦のうねるようなカンタービレ、噴き出る金管群、七年前のバイロイト盤にも、のちのザルツブルク復活祭盤にも、絶対に聴けない壮絶さである。もしこれを劇場で聴いていたなら、その音の奔流に巻き込まれ、私も他の聴衆たちとともに熱狂的喝采をおくったろう。
 凄い。凄いのだが、何か違う。
 録音というかたちで聴いてみたとき、その熱演の裡に、どこかわざとらしさ、芝居がかった大仰さが感じられてならない。
 《死の告知》の場面になると、それはより明らかになる。この場面の音楽にあるべき悲劇性、宿命に抗あらがって闘おうとする雄々しさ、気高さ、虚しさ、すなわち愚かしくも美しい自己陶酔のヒロイズムが、まるで響いてこない。これほどドラマチックな演奏は類を見ないのに、ここにドラマはない。真の感情を感じることができないのである。

 ある映画監督が、ドラマはあるけどチックがないよ、と女優の演技に文句をつけたという、有名な逸話がある。もっと誇張しろ、と言ったわけだ。その伝で言うと、カラヤンのこの演奏では逆に、
「チックはあるけどドラマがない」
のである。奇妙な話だが、あとで改めて考えてみることにしよう。


   「彼の作品を守り伝える者」


 時間が前後するが、《大聖堂の殺人》のウィーン初演の十日ほど前、カラヤンはベルリン・フィルと演奏会を行なっている。
 その日は、彼としては珍しい作曲家の作品が、メインになっていた。ハント編纂の演奏記録を見るかぎり、それ以前の三十年のキャリアにおいて、彼はこの作曲家の作品を演奏したことがなかったようである。
 その作曲家とはマーラー、曲は《大地の歌》であった。

 ナチスがユダヤ人マーラーの作品演奏を禁止してしまう前、ウィーンでの学生時代には、カラヤンはマーラーやシェーンベルクやウェーベルンの作品を、日々の糧かてのように聴いていたという。
 しかし戦後、ウィーンでマーラーがさかんに取り上げられるようになったとき、カラヤンはその仲間に加わろうとはしなかった。
 彼には同僚たちのマーラーが、あまりに感傷的なものに思えた。楽団からその種の感傷性を取り除くには充分な練習が必要だったが、当時練習時間はいつも少なく、それならやらない方がましだと彼は考えていた。
 彼によれば、マーラーを平凡と低俗から救い、本来の悲劇性をもたらすには、オーケストラの多彩な音のパレットが必要だという。
 マーラー生誕百周年のこの年、彼が突如としてその作品を演奏したのは、ようやくその準備が整ったと考えたからだろうか。
 ベルリン・フィルの支配人、シュトレーゼマンによると、これから演奏する作品についてなど、いつもは全くしゃべらないカラヤンが《大地の歌》だけは、興奮してその素晴らしさを語っていたという。
 録音があるのかどうか、聴いたことがないのでなんとも言えないのだが、演奏会は結局成功しなかった。メゾのレッセル=マイダンの出来が悪く、カラヤンの解釈も生煮えだったとシュトレーゼマンは述べている。
 演奏会のあと、カラヤンはひとこともこの作品について触れなくなった。その後、六月にウィーン・フィルとこの作品を演奏したのを最後に、彼は十年もの間、マーラーを演奏しなかったのである。

 長い空白ののち、彼が一九七〇年に再び取り上げた《大地の歌》が、ハントからCD化されている。
 曲想の変化を明快にするために、叙情的な声のラウベンタールと力強い声のシュピースの二人のテナーを、楽章に応じて使い分けたというこの演奏は、流麗で美しい。もたれやすいこの曲をここまで聴きやすくしたカラヤンの手腕は、疑いなくすぐれたものである。
 その後の一九七二年のライヴや翌年のスタジオ録音では、テンポが間延びして音楽が表面的になってしまったのに対し、ここではキビキビとした進行が気持ちいい。シュトレーゼマンもこの演奏を絶賛している。
 しかしカラヤンがここまで来るには、十年が必要だったのである。
 マーラー作品が一般に浸透するきっかけになった年、とされる一九六〇年においては、《帝王》の寄与はいまだわずかなものであった。

 マーラー復活の鐘を打ち鳴らしたのは、彼とは別のひとびとであった。一番大がかりだったのは、ニューヨーク・フィルの企画だったと思われる。当時の常任指揮者は、この楽団の歴史上、初めてのアメリカ生まれであった。レナード・バーンスタインである。
 この一九六〇年のシーズン、彼と、彼の前の常任指揮者のミトロプーロスのふたりで、マーラーの主要な交響曲を演奏したのである。
 バーンスタインが第二と第四、ミトロプーロスが第一、第五、第九、第十の各交響曲を演奏した。そしてもうひとり、ブルーノ・ワルターが《大地の歌》を指揮するために、ニューヨーク・フィルに登場した。
 言うまでもなく、ワルターはマーラーの弟子であり(学校で指揮法を教わったということではなく、もっと実践的な意味でだが)、マーラーのウィーン宮廷歌劇場総 監督時代には、楽長のひとりとしてその運営を助け、その死後は「未来永劫に彼の徒」と自ら任じて、彼の作品を演奏することをその使命としてきたひとである。
 作曲者が自ら演奏することなく終わった《大地の歌》と第九交響曲も、彼の手で初演されたのである。

 この一九六〇年には、彼はすでに八四才になろうとしていた。四年前に心臓発作に襲われた彼の活動は、以後限られたものとなっていた。
 しかしこの年ばかりは、ひっこんでいるわけにいかない。「彼の作品を守り伝える者」たる自覚が再び彼を起たたしめ、マーラーとゆかりの深い二つの楽団と演奏することを、決心させた。ニューヨーク・フィルと、そしてウィーン・フィルとである。
 二つとも、ワルター自身長く共演してきた相手であった。彼の年令を考えると、今度が最後の登場となるかも知れないことを、彼も団員もそして聴衆も、予感していた(そして事実、そのとおりになった)。
 それだけに彼が注意を払ったのは、あくまでマーラーのための記念演奏会であり、指揮者ワルターが目立ってはならないということだった。しかし、特にウィーン・フィルとウィーンの聴衆にとっては、ワルターそのひとこそが、特別な感慨を呼び起こさずにはいなかったのである。
 マーラーが第一次世界大戦前の、ハプスブルクのウィーンを象徴する存在だとすれば、ワルターはヒトラー直前の時代の象徴であった。
 師の没後、ミュンヘンとベルリンを本拠にした彼は、ナチス・ドイツの誕生によって第二の故郷、ウィーンに戻ってきた。そしてウィーン国立歌劇場とザルツブルク音楽祭の中心人物として、活躍したのである。
 だがそれも束つかの間、オーストリアもまたヒトラーの魔手におちたとき、ユダヤ人ワルターは海を越えてアメリカに去り、一年後には第二次世界大戦がはじまったのだった。

 一九四五年に戦争が終わったとき、国立歌劇場は瓦礫と化していた。
 それから二年、まだ傷痕も癒えぬオーストリアからウィーン・フィルがイギリスへ演奏旅行を行ない、エジンバラ音楽祭に出演したとき、一切の行きがかりを捨てて指揮をとってくれたのは彼、ワルターであった。
 ともすれば萎縮しがちな敗戦国の楽員たちにとって、彼が再び指揮してくれること自体、無上の励ましであったが、さらに彼が、まるで何事もなかったかのように朗らかに接してくれたことは、彼らに忘れがたい感動を与えた。そして音楽もまた、昔日のままに鳴り響いたのだった。


   指揮者の恋人


 話が脱線するが、指揮者にとってオーケストラとは、何なのだろう。ある楽団の固有の響き、能力などは、指揮者の演奏にどのような影響を及ぼすのだろうか。 「悪いオーケストラなどというものは存在しない。あるのは、悪い指揮者だけだ」
と述べた指揮者もいる。だとすれば、オーケストラの演奏は指揮者次第だということになる。
 しかし録音を聴き較べたりしてみると、楽団の個性が指揮者の演奏ぶりに影響することは、確かにあるように思う。
 例えばトスカニーニだ。NBC響を指揮したとき、ニューヨーク・フィルを、ウィーン・フィルを、BBC響を、あるいはフィルハーモニアを指揮したとき、そこから響き出る音楽は、明らかに変わっている。
 とりわけて違うのが、彼がスカラ座を指揮して、イタリア・オペラや合唱曲などを演奏したときである。両者はまるで科学反応を起こしたように、他の組み合わせに決してない、異常なまでの熱気と輝きを放つ。
 トスカニーニが真に彼らしいのは、スカラ座を指揮したときであり、スカラ座が天下のミラノ・スカラ座たりえるのは、トスカニーニが指揮したときであると、私は信じて疑わない。それはもう、どうにもならない結びつきなのだ。運命の星に導かれた恋人たちのようなものである。
 ワルターとウィーン・フィルという組み合わせも、それに近い関係なのではないかと思う。特にワルターの方に、それを感じる。
 彼の団員への接し方は、常に礼儀正しく、協調的なものであった。このやり方がうまくいくかどうかは、相手の出方次第である。
 だから、ニューヨーク・フィルのような悪達者な連中には、彼に学ぶものなど何もない、などと馬鹿にされることもあった。団員たちをうながし導いていく彼の演奏は、楽団の音楽性に大きく左右されることになったのだ。

 ワルターと楽団の相性による差を聴くための好例として、彼が遺したいくつかのワルツの録音を取り上げてみよう。
 彼はベルリン生まれだったが、ウィンナ・ワルツの名手であった。歌劇場でも《こうもり》は彼の十八番で、その洒脱で粋な演奏は、生粋のウィーン子さえ嫉妬をおぼえるほどのものだったという。
 ライヴ録音では、一九四四年のニューヨーク・フィルとの三曲、一九四七年にウィーン・フィルとの三曲、一九五〇年のロサンゼルス・フィルとの二曲がCDになっている。《ジプシー男爵》序曲が共通して演奏されている。
 当然といえば当然すぎるが、やはりウィーン・フィルのものが段違いに素晴らしい。他のものからその特徴を述べてみる。
 まずニューヨーク・フィルとのものは、ひどい。楽団が指揮者のことも曲のことも、なめきっているようにきこえる。ニュアンスも何もあったものではなく、ただ無表情に、ぶっきらぼうに奏くだけである。
 ワルターのワルツはメリハリの強いものではないだけに、こうなると何を言いたいのか、さっぱりわからなくなる。彼自身は何を思いながら、タクトを振っていたのだろうか。
 ロス・フィルは、彼と比較的相性のいい楽団のひとつだった。《ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯》の、跳ねまわるように活きのいい演奏とか、生気にあふれた面白い演奏がいくつか遺っている。このワルツもそのひとつである。
 ただクレンペラーに鍛えられたせいなのかどうか、いつも力一杯に演奏してしまう癖のある連中なので、ワルツにしてはちょっと一本調子な感が避けられなくなる。
 ウィーン・フィルのは、前述したエジンバラ音楽祭での演奏である。
 これは前の二つとは、まるで響きが違う。どのフレーズも息づいて、さりげなく、軽やかに歌う。軽快な、弾むリズム。無駄な力を抜いた、澄明な響き。光を放つように煌きらめくヴァイオリン群。そして何よりも、聴いている我々にも伝わってくる、音楽を演奏することの、純粋な悦び。ワルターは水を得た魚のようにふるまっている。
 これを、ワルツの本場なんだから当たり前さ、などとは片付けたくない。そもそもこの演奏には、〈ウィーン情緒〉などというような、押しつけがましく脂粉くさい媚びは、どこにもない。
 ただ洗練と、軽妙とがあるのだ。

 ところが、この洗練された音色は、実は一九六〇年には喪われつつあるものであった。団員たちがワルターの指揮に応えて出す響きは、一九四七年のワルツと、一九六〇年の告別演奏会とでは、ずいぶん変わっていたのである。
 ウィーン・フィルに何が起こったか。
 次章では、一九六〇年五月の告別演奏会に至る、ワルターとウィーン・フィルのマーラーの録音を追いながら、この楽団の変容を見ていくことにしよう。

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