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 総監督の船酔い

 エーリヒ・クライバーが、《ばらの騎士》をウィーンで二晩指揮したことがある。
 それはまだ、戦災で焼け出された一座が小さなアン・デア・ウィーン劇場に仮住まいしていた時期のことだった。
 彼は二回の公演の楽員を同じく揃えるよう、ときの総監督ザルムホーファーに要求した。奏者が変わってしまっては自分の意図が徹底できない、と考えたからである。
 しかし楽員の出番は彼ら自身が決めており、監督といえども口出し出来ない問題であった。
 だから無理です、という回答に納得せず食い下がる指揮者に、生粋のウィーン子たるザルムホーファーは、無頓着に答えた。      
「でもクライバーさん、彼らは誰もみんな同じくらい上手ですよ」

 結局のところ、公演自体は長く語り草になるほどの成功を収めた。しかし、次期監督として有望視されていたクライバーは、決まりもしないうちからこのような要求を言い過ぎて、敬遠されてしまうことになった。
 その数年後、カラヤンが芸術監督就任の条件として同じ要求を突きつけたとき、今度は楽団側が折れ、演目ごとにメンバーを揃えることにした。さすがカラヤン、というほかない。
 だが、それも数年とたたないうちに元に戻って、いい加減になってしまった。芸術監督はそれを黙認した。少し手綱を弛めたときにこそ、連中が本領を発揮することに、彼も気がついたのである。

 ウィーン・フィルというのは、国立歌劇場でオベラを演奏している楽員たちが、演奏会を行なうために組織した、自主運営の団体である。
 この二つは、全く同じ組織ではない。ウィーン・フィルの定員は百二十人ほどだが、国立歌劇場の方は百六十人以上、エキストラを含めるとその二倍から三倍にもなるという。
 理由は簡単で、歌劇場の公演はバレエも含めて年三百回に達するからである。
 ウィーン・フィルの演奏会は昼に行なわれるが、その晩にも歌劇場の公演はあるし、それどころか彼らが海外に演奏旅行に出ても劇場が閉まるとはかぎらない。交代でなければ、つとまるはずがないのだ。
 楽長の方も同様で、六、七人からそれ以上の人数が分担して指揮をとる。
 どれほど力量があり、職務に対して情熱的な指揮者が総監督であっても、楽長としてはその中心的なひとりというにすぎない。彼の公演数は、どう頑張っても全公演の半分、いや三分の一にも満たないのが普通である。
 だから、彼以外の楽長にひとを得られるか否かが、劇場の日々の水準を左右する。
 監督が指揮者として優れているなら、同様に他の楽長も優れていなければならない。その格差があまりひどければ、彼のどんな業績も同僚の無能ぶりが打ち消してしまうからだ。
 例えば一九六〇年のカラヤンには、ミトロプーロスがいた。
 ほとんど練習なしで本番に臨んで、手に汗にぎるような緊張と高揚感をアンサンブルから引き出すことが出来るミトロプーロスは、その恬淡として野心を持たぬ人柄もあいまって、第二の楽長として無二の適格者であった。
 カラヤンの〈帝国〉は、彼ひとりで支えられているわけではなかったのである。

 そのカラヤン時代より半世紀前、マーラーが監督だったころ、彼が最も信頼した第二の楽長が、ブルーノ・ワルターである。
 マーラーは、同僚たちが彼と同じように指揮することを望んだ。
 ワーグナーの直弟子として特別の敬意が払われていたハンス・リヒターさえ、その遅いテンポを好まないマーラーによって、追い出されてしまった(クナッパーツブッシュのワーグナー演奏は、リヒターに倣ったものだという。彼もまた、カラヤンによってウィーンから敬して遠ざけられたような気配があるのは、偶然とはいえ面白い符合である)。
 あるいは、のちに監督になるフランツ・シャルクが初めて《ローエングリン》を任されたとき、練習に同席したマーラーは指揮台のシャルクの前に立ち、本番ではこれと同じにやれ、と指揮してみせたという。
 シャルクは屈辱にたえ、楽員たちは笑いをこらえながら演奏した。マーラー自身が採用したはずのシャルクとの関係が、このときを境に冷ややかなものになったことはいうまでもない。
 これほどのマーラーが満足していたのが、ワルターだった。
 他人の指揮を聴くといつも〈船酔い〉を起こすのに、ワルターにはそれを感じない、と彼は喜んでいたという。リズム感、音楽の呼吸などに、本質的な相似があったのだろう。
 マーラーの妻アルマも、ワルターは初め自信も経験もなく頼りなかったが、やがてマーラーの理想的な演奏に近づいたと、述べている。
 彼女のものの見方というのは、美しく魅力的で、しかも頭の切れる女性にありがちなことだが、鋭いが実は感情的な、単なる好き嫌いに発していることが少なくない。
 だから後世の我々は注意して接しなければならないが、この言葉に限っては、えこひいきではないと私は思う。

 ワルターのマーラー演奏は、アバドやインバルなどの〈現代的〉マーラーに対比して、バーンスタインなどとともに〈前時代的〉マーラー演奏の典型だと、しばしばいわれる。
 前者が客観的な、スコアの緻密な分析を解釈の基礎とするのに対し、後者は主情的な、〈ユダヤ的〉共感が演奏に反映されているという。
 だがものごとは、そう簡単に図式化できるものだろうか。前者はともかく、ワルターとバーンスタインの演奏には共通点より、相違するものの方が多いのではないだろうか。
 なるほどふたりとも作曲者と同じユダヤ人だが、ワルターはバーンスタインのように、引きずったり、すすり泣かせたり、大仰なパウゼをとったりはしない。バーンスタインの〈ユダヤ的〉なる情念は、むしろ非ユダヤ人のメンゲルベルクの粘液的演奏に近いように、私は思う。
 あるウィーン出身の作家は、バーンスタインはマーラーの持つオーストリア的文化背景(ハプスブルク帝国的と言い換えてもいいだろう)を無視してしまっている、と述べている。
 そして代わりに、自分の父親たちの環境、つまりウクライナからポーランドあたりのユダヤ人村の生活と文化(ミュージカル《屋根の上のヴァイオリン弾き》に描かれたようなそれ)を当てはめているのだと述べ、なにかというとジプシーや東方趣味と結びつける彼の考え方は、こじつけだとさえ書いている。
 マーラーはたしかに幼いころ聴いた旋律などを作品に取り入れたが、一方で狭隘な民族性に偏ることを嫌った。
 例えば、彼はスメタナの音楽を高く評価していた。しかし多民族国家ハプスブルク帝国の一員としての自覚から、スメタナがチェコ音楽の枠に閉じこもろうとすることには不快だった。
 移民の国に生まれたバーンスタインは、自らのルーツを求め、共感できる〈誰か〉を探さずにはいられなかったが、別の多民族国家に生きたマーラーは、〈根無し草〉の自分を積極的に認めようとしたのである。
 ワルターは、マーラーの傍らにいた。
 オーストリア人でもユダヤ人でもない私が深く立ち入ることは難しいが、決してやりすぎないワルターと、暑苦しく押しつけがましいバーンスタインの演奏の違いは、あえて言えば〈オーストリア的〉マーラーと、〈ユダヤ的〉マーラーの違いに近いのかも知れない。

 ウィーン、ウィーン、お前だけが

 ワルターのマーラー演奏は、くりかえすが、やりすぎない。
 緩急においても強弱においても、極端な対照がなされることはない。激しい情熱も、あふれだす感情も、音楽の進行の裡から自然にわき上がってくるものとして表現される。作為的な操作が表立つことはない。
 彼のリズムは推進力と軽快さを持ち、その結果としてテンポは、半世紀以上前の演奏の多くがそうであるように、総体に速い。
 このようなスタイルの鍵は、音色の変化と、フレージングの微妙な呼吸によるニュアンスである。そしてそれは、オーケストラの個性、表現力に大きく左右されることになる。
 ワルターの遺したマーラーの録音を聴いて痛感するのは、本当にこのひとにはウィーン・フィルが必要なのだ、ということである。
 その独特の音色、歌いくちと呼吸があってはじめて、このひとの音楽が生まれるのだ、つくづくそう思わざるを得ない。
 他の、ニューヨーク・フィルやコンセルトヘボウなどとの録音は、すべてその〈影〉にすぎないといっても過言ではない。
 例外的に素晴らしいのが一九三九年のNBC交響楽団との《巨人》だが、この曲の稚さ、青さを激しく叩きつけるようにして成功したこのスタイルは、二年後のメトの《フィデリオ》など、この時期にしか見られないもので、特殊な例というべきだろう。

 さて、ワルターとウィーン・フィルによるマーラーの交響曲のライヴは、今のところ次の六曲が手に入る。
 一九三六年 《大地の歌》  ウィーン
 一九三八年 第九番     ウィーン
 一九四八年 第二番《復活》 ウィーン
 一九五〇年 第四番     ザルツブルク
 一九五五年 第四番     ウィーン
 一九六〇年 第四番     ウィーン
 これらを聴いてみると、指揮者の年令的な変化とは別に、オーケストラ自体の響きが移り変わるさまが、はっきりと聴きとれる。
 まず、《大地の歌》と第九番は、ナチス・ドイツによるオーストリア合併直前の時期の録音であり、そしてマーラー時代を直接に知っていた楽員たちがまだ在籍していたときの録音として名高い。
 その代表が、コンサートマスターをつとめたアルノルト・ロゼーである。
 一八六三年に生まれたルーマニア出身のこのヴァイオリニストは、マーラーの妹婿であり、ワルターとならんでマーラーが気を許した数少ない音楽家のひとりであった。
 これらの録音のころには七十才を越えていたのだが、名実ともにフィルハーモニーの〈顔〉であることに変わりはなかった。
 彼が最前列に座っているだけで、全員の身がひきしまるような緊張と集中が生じたという。ワルターは彼のことを、コンサートマスターという〈理念〉の古典的実例だと称えている。
 マーラーが宮廷歌劇場監督を辞職した一九〇七年、彼は義兄に殉じるようにウィーン・フィルを抜け、歌劇場の職務と室内楽に専念した。
 ところがその後楽団の水準の低下が公然とささやかれるようになり、懇願された彼はついに一九二九年、二二年ぶりにフィルハーモニーに復帰した。爾来、ウィーン・フィルは再び昔日の栄光を取り戻したと言われるほど、彼の存在は大きかった。
 さいわいなことに、彼のソロの録音も、また高名なロゼー弦楽四重奏団のリーダーとしての録音も、けっこうな量が遺されている。
 面白いのは、そこに聴ける彼の響きと、一九三〇年代のウィーン・フィルのヴァイオリン群の響きが、実によく似ていることだ。ロゼー弦楽四重奏団と、弦楽器群の響きも似ている。
 当然だ、この楽団の弦楽奏者はみな、〈ウィーン派〉の教育を受けているのだから、と考える方もあるだろう。
 しかし、ことはそう単純でないと私は思う。なぜなら一九三〇年代においては、ロゼーのスタイルは年若き後輩たちにとって、すでに過去のものとなっていたからだ。
 ヴィヴラートの使用についてであった。
 前世紀の終わりまで、独墺のヴァイオリニストたちは有名なヨアヒムを初めとして、ヴィヴラートを控えめにしか使わなかった。ロゼーもそのひとりである。
 ところが彼より十二才下のクライスラーが、ベルギーのイザイの技法を発展させてヴィヴラートを多用し、絶大な人気を博して以後、後輩のヴァイオリニストたちはその真似をして、ヴィヴラートを常にかけるようになった。
 ロゼーは当然、その流行を喜ばなかった。
 彼もクライスラーも、その甘美なトーンと、無駄のない絶妙の歌いまわしという点で、ともに典型的なウィーンのヴァイオリニストだったが、両者の間には越えがたい溝があったのだ。
 ウィーン・フィルの入団試験を受けにきた若きクライスラーがロゼーに落とされたのは、このスタイルの違いが原因だともいわれる。
 他の入団試験の際にも、ロゼーの判定はかならずしも公正適切ではなかったようだと、シュトラッサーは述べている(とはいえ彼もロゼーに採用されたのだが)。
 しかし時代の趨勢は如何いかんともしがたく、ロゼーは次第に少数派になっていった。
 例えばクレメンス・クラウスの推薦でコンサートマスターに加わった南米生まれのオドノポゾフも、豊満な響きの持ち主だった。
 ロゼーはソリスト志向の強い彼を評価せず、そのライバルであるシュナイダーハンをこそ後継者に望んでいたが、若手のなかにはオドノポゾフを支持するものも多く、亀裂がそこに生まれることになった。
 結局、シュナイダーハンが彼の後を継いだ。
 しかしそれはロゼーの意向が勝ったからではなく、彼もオドノポゾフもユダヤ人だったために、オーストリアがナチスに併呑されると、国外に去らざるを得なくなったからだった。

 しかしその別れの日まで、ロゼーが最前列に座っているかぎり、後輩たちは彼を過去の遺物などとは、ひとりとして思わなかった。彼のソロほど美しい音は聴いたことがないと、シュトラッサーは語っている。
 ヴィヴラートを多用しないその響きは、それゆえに澄んで軽く、清明にして純度が高い。しかも同時に、これが彼の凄さなのだが、何とも形容しがたい艶、色気を薫らせる。澄明な艶、それがロゼーの音なのだ。
 ワルターの《大地の歌》や第九番に聴けるウィーン・フィルの弦の、煌めくような輝きと、芳わしき香気の共存は、まさしくロゼーのヴァイオリンそのままだと、私は思う。
 曲中でソロをとるのは、誰なのだろう。
 当時すでにロゼーは、かなり前からソロを後進に譲っていたというから、彼ではない。するとマイレッカーかオドノポゾフか、シュナイダーハンかということになる。
 誰であれ(私はオドノポゾフだと思うが)、彼は完全にロゼーに則って奏いたのだ。第九番での清々しく澄みきった響きは、一聴忘れがたい。

 いい加減なこじつけのはなし

 これらの録音の一九三〇年代後半、ワルターは国立歌劇場総監督ケルバーの依頼により、クナッパーツブッシュとともに芸術共同監督的な立場にあり、その中心的指揮者となっていた。
 断片だが《カルメン》や《ドン・カルロ》、《アイーダ》などの録音が遺っており、ザルツブルクでの《ドン・ジョヴァンニ》全曲の名演もCD化されている。
 二曲のマーラーの交響曲は、当時いくつか行なわれたレコード会社によるライヴ録音で、当然録音も聴きやすい。
 《大地の歌》は、作曲者没後二五周年を記念するものである。
 ソロを歌うトルボルクとクルマンは、当時歌劇場でワルターが好んで起用していた歌手たちだった。ふたりとも後にメトで活躍している。歌手も楽団も、自然にして巧まず、美しい。
 第九番は、さらに名演として知られる。
 多くのひとに感動を与えた素晴らしい演奏だが、ときにこれを数ヶ月後にウィーンを逐おわれる運命にあるワルターの告別であるとか、合併直前の異常に緊張した雰囲気が生み出したものとする意見があるのには、賛同できない。
 指揮者の回顧録や楽員たちの回想を読むかぎり、彼も楽団も、三ヶ月とたたぬうちにヒトラーが武力進駐してきて、オーストリアを呑み込んでしまうなどとは、予想もしていなかった。
 逆にこの共和国の存続を信じ、事態をまだ楽観していたのである。
 そんな彼らが、告別や亡国の歎きを詠うはずはない。この演奏が喚起する感動を、演奏者たちが知るはずもない未来の出来事と結びつけるのは、安易な結果論でしかない。
 第九番が録音された一九三八年一月十六日、楽友協会をどんな雰囲気がつつんでいたか、そこに立ち会ったひとたちの証言はない。
 部外者が(それもほとんど日本人だけが)、あとからあれこれ勝手なことを、何の根拠もなく想像で言っているだけである。
 これだけの名演を、周囲の状況が生んだものだなどとこじつけるのは、懸命に演奏した演奏者たちに対して失礼であると、私は信じる。聴きての傲慢、自己満足でしかないし、それでは何も見えまい。
 演奏についてのみ語ることにしよう。ここでのウィーン・フィルの響き、ふわりと空中にただようかのような〈軽み〉は、耐えがたいほどな美しさを、この演奏に与えている。
 音楽に感情を込めるということが、決して遅いテンポでねっとりべったりと引き伸ばすことばかりではなく、このような〈軽み〉によってもなしうるのだ、ということをこの演奏は教えてくれるのだ。
 しかし不可解なことに、ワルターはこの録音に大いに不満であった。
 気ぜわしい亡命生活や、遅れて出国した娘への心労などに追われ、テスト盤の充分な確認をしないままに発売を認めてしまったので、技術的に不備な点が多々残ったのだという。
 一九六一年にスタジオで再録音したとき、彼は存分にチェックし、満足して発売を許した。
 しかし聴きてのほとんどは、録音技術の進歩にもかかわらず、新録音より旧録音の方を高く評価したのである。
 演奏者の意志が徹底することが、かならずしもよい演奏を生むとは限らないことを、そして演奏者や批評家が嫌う〈無為〉がときにそれを生みだしてしまうことを、この一件は示しているといえないだろうか。

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