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 フィルハーモニーたち

 一九三八年、ナチスによるオーストリア併呑により、ウィーン・フィルは〈アーリア化〉のために、十二人の楽員をうしなった。
 そのなかには、コンサートマスターのアルノルト・ロゼーや、首席チェリストのフリードリヒ・ブックスバウムも含まれていた。
 ふたりはロンドンに亡命した。
 世界大戦を経た九年後の一九四七年、ウィーン・フィルはイギリスに演奏旅行した。
 そのとき、ロゼーはすでにこの世のひとではなかったが、老ブックスバウムはまだ元気で、楽員たちと久闊を叙することになった。さらには演奏会に参加し、彼の後任で、教え子のブラベッツから首席チェロの座を譲られ、再びその席についたのだった。
 エジンバラ音楽祭では、指揮台にワルター、チェロにブックスバウムと懐かしい顔が並び、さながら同窓会のようになったのである。
 翌年、ウィーン・フィルがロンドンを再訪したときも、ブックスバウムは招かれた。
 しかし会場で待っていた楽員たちに届いたのは、会場に向かう途上でブックスバウムが急死したという、悲しい一報だった。
 だがそれは、オケマンにふさわしい〈名誉の死〉だったはずだ。ウィーン・フィルの仲間たちに見送られ、彼はロゼーの傍らに葬られた。享年七九、異国にありながらも、最期までフィルハーモニーの一員として生きたのである。

 こうして否応なく世代交代が進み、新たに楽団をリードしたのが、シュナイダーハン、バリリ、ボスコフスキーの三人のコンサートマスターである。いずれも独奏者として名を知られた三人が顔を揃えているのは、楽団史上でも空前の壮観だったという。
 エジンバラでの共演のあと、ワルターが戦後はじめてウィーンに戻って指揮をしたのは、一九四八年五月のことだった。
 彼は楽友協会主催の演奏会で、ウィーン・フィルと《合唱》を演奏した。楽友協会というのは、ウィーン芸術週間などの演奏会を主催する組織で、その会場が有名な楽友協会ホール、すなわちムジークフェラインザールである。その名を冠した合唱団もある。
 このころの楽友協会の音楽監督が、ヘルベルト・フォン・カラヤンである。
 戦時中の指揮活動のために、敗戦後演奏禁止処分を受けたカラヤンは、半年ほど前の処分解除のあと、まずここを足掛かりに活動を再会したばかりだった。彼の覇道の第一歩である。

 カラヤンがワルターと初めて会ったのは、一九三七年のことだった。
 二九才のカラヤンは、ほとんどぶっつけ本番の《トリスタンとイゾルデ》で、憧れのウィーン国立歌劇場にデビューしたのだった。
「あなたはスコアをよく憶えているようだが、もっと作品に没入しなくてはいけない」
 当時、この歌劇場の第一楽長であったワルターは公演後、そうアドバイスしたという。
 監督のケルバーは彼の才を認め、ワルターに次ぐ楽長として招こうとしたが、誰であれ他人の下につくことを肯んじないカラヤンはその申し出を断わり、地方歌劇場アーヘンの監督という現職にとどまることをえらんだ。
 鶏口となるも牛後となる勿れ、彼は〈第二の楽長〉にはなりえぬ男だった。

 戦後ウィーンで再会することになったとき、彼はワルターが、元ナチス党員の自分と顔をあわせることを嫌うのでは、と危惧していた。
 しかしそれは杞憂にすぎず、ワルターは喜んで握手してくれた。その大度に感銘を受けたカラヤンは練習にも立ち会い、さらに強い印象を与えられることになった。
 ワルターのやり方は、命令するかわりにその目で楽員たちを導くものだった。温かい人柄で彼らを魅了し、彼らが彼ら自身の力で善い方向に運ぶように、促したのである。
 このことは、カラヤンにとって貴重な経験となった。

 ワルターはこの演奏会に続けて、マーラーの《復活》を指揮した。
 これはCDになっている。その指揮は、まさに楽員を感化し、促すものである。
 もともとこの曲には、《復活》という副題からして、ハッタリじみた要素が多分にある。
 たとえば作曲者のマーラー自身、彼が宮廷歌劇場総監督を辞職、ウィーンを去るにあたっての告別として演奏したのが、この《復活》だった。何とも思わせぶりな選曲である。
 マッカーサーばりに「アイ・シャル・リターン」と言おうとしたのか、それとも、単なるあてつけだったのか。
 しかし客は集まらず、空席だらけの楽友協会に、むなしく〈審判のラッパ〉は鳴り響いた。
 生きるために死ぬ、と合唱は絶叫したが、彼は数年後に本当に死んでしまった。

 一九〇七年のその演奏会から四一年ののち、同じ会場において十年ぶりに〈復活〉したワルターも、この曲をえらんだ。
 偶然にもこの日、つまり一九四八年五月十五日にイスラエルが建国されたが、指揮者はユダヤ人として、この祝うべき事態と曲目とのあいだに、何事か意識しただろうか。
 しかし指揮台の彼は、芝居気など見せなかった。あくまでも楽員の自発性を引き出していくことで、音楽をつくりだしたのである。
 だから第一楽章などは、ものたりなく思うひともいるだろう。マーラー作品の持つグロテスクさは、ワルターにおいては後退する。第二楽章のしたたるような弦の美音にこそ、彼の望む音楽が示される。
 長大な終楽章においても、叩きつけるアタックやフォルテの噴出より、うわーんと円を描いて盛り上がってくるようなクレッシェンドの大波によって、聴きての心を揺り動かしていく。
 こけおどしに陥りやすいコーダも、充実感と説得力にみちている。

 変容(メタモルフォーゼン)

 ソプラノ独唱をマリア・チェボターリが歌ってくれているのが、うれしい。
 録音よりもライヴにこそ本領を発揮したこの歌手は、敗戦直後のウィーンにおいて、急速に大歌手への階段をかけ登りつつあった。
 一九四七年、前述のごとくエジンバラを訪れたウィーン・フィルは、続いてロンドンで歌手や合唱団と合流し、国立歌劇場としてオペラを公演したが、このときチェボターリはドンナ・アンナとサロメを歌った。
 《サロメ》はテープで聴ける。クレメンス・クラウスの躍動する指揮のもと、凄気ただようチェボターリの歌は、圧倒的というほかない。
 カラヤンは、自分にとってもシュトラウスにとっても、チェボターリこそ理想のサロメ歌いだったと言っている。
 このひとが一九四九年、これからという三九才で急死したのは、かえすがえすも残念なことだった。その一年前の記録であるこの《復活》では、歌う部分こそ少ないが、やはり圧倒的な存在感をもたらしている。

 オーケストラについてだが、戦前のあの妖しく、いたたまれぬほどの澄明感は、もはやここにはない。もう少しドライな響きである。
 だが〈軽み〉は喪われていないし、純粋で輝きのあるヴァイオリンの美音も、変わりない。
 この響きは、二年後の一九五〇年、ザルツブルクで演奏した交響曲第四番にも聴ける。ところが五年後の一九五五年の同じ曲になると、弦の音色が変化したことがはっきりと判るのだ。

 この年、国立歌劇場は十年ぶりに再建され、総監督ベームの指揮による《フィデリオ》を開幕に、記念公演が続けざまに行なわれた。
 ワルターはその一環として《ドン・ジョヴァンニ》の指揮を依頼されたが、高齢を理由に謝絶した。演出や歌唱の細部にまで気を配ってきた彼としては、いい加減な気持でピットに入ることは出来なかったのだ。
 その代わりに彼は、国立歌劇場で《合唱》を指揮して、十七年ぶりにこの劇場に帰還した。
 マーラーの交響曲はその少し前に、楽友協会大ホールで行なわれた演奏会の録音である。
 しかしベートーヴェンもマーラーも録音を聴くかぎり、会場を包んでいたはずの祝典的な華やかさは、音楽の方には感じられない。
 集中力を欠いた指揮のせいもあるが、ヴァイオリンの音色が渋くなり、純度が落ちて濁った響きになったことが、大きく影響している。

 興味深いことに、ウィーン・フィルの音色の変化と、コンサートマスターの変遷とには、符合するものがある。
 シュナイダーハンにはロゼーの艶はなかったが、高音の純粋な響きは、すばらしいものだった。一九五〇年頃までのワルター指揮下の楽団の音色は、まさにその反映なのだろう。
 しかし彼は一九四九年、独奏と室内楽活動を志して、楽団を去った。
 残ったボスコフスキーとバリリの響きには、彼のような純度はなかった。ボスコフスキーは甘い粘りのある音だが、そのリズムは弾まなかった。バリリは地味で渋く、好ましいが強い個性の持ち主ではなかった。
 もちろんコンサートマスターひとりが楽団の響きをつくるとは、私も思っていない。
 しかし、ことウィーン・フィルに限っては、コンサートマスターの響きに、そして彼が率いる弦楽四重奏団に、そのときどきの弦楽器群の音色が象徴されているようなのだ。
 一九五二年頃から、徐々にウィーン・フィルの弦の音色は変わっていった。たっぷりと粘りのある音になり、往年のただようような、高山の空気を想わせる澄明度は喪われていった。

 軽妙さ、リズム感の喪失は、ウィーン・フィルに限らず、一九五〇年代以降の音楽演奏に顕著な傾向である。
 力いっぱい、大きく豊かな音をひとつひとつ置くように鳴らす。音を鳴らしきるには、全体に共鳴するだけの時間がかかる。そのためにテンポは延びるし、ぽんぽんと弾まずに、ぼーと粘る音になる。
 音楽は軽快な推進力、弾力を喪い、べったりもっさりと響くようになった。
 速いテンポをとるときも、息もせずにどかんどかんと叩きつけるので、性急さばかりが前にでて、爽快感はない。
 懷ろが狭く、余裕のない深刻な演奏だらけになるのが、以後の音楽の傾向なのである。音楽は、深呼吸をしなくなったのだ。
 なぜなのだろう。
 音楽をめぐる多くの要素がかかわっているようで、簡単には書けない。
 私が演奏について調べたりしているのは、つきつめればこの変容を考えるためである。
 ただ確信しているのは、この変容は歴史的必然ではあったのかもしれないが、決して進歩でも発展でもない、ということである。

 一九六〇年五月二九日、ブルーノ・ワルターがウィーン・フィルとの生涯最後の演奏会に臨んだのは、このような変容のさなかであった。

 光の世界

 話がそれるが、この一九六〇年五月は、政治的大事件が頻発した月である。
 時代は、冷戦である。米国とソ連の対立を軸に、世界が回っていた。
 しかし、前年の一九五九年頃から雪解けの気配が米ソ二国間に見えはじめ、五月十五日にパリで予定されたアイゼンハワーとフルシチョフの会談で、さらに進展すると見られていた。
 ところが五月一日、米国のスパイ偵察機U2型機がソ連上空で撃墜されて会談は中止、両国の関係は再び緊張する。
 前年成立したキューバのカストロ政権、独立へ向けて揺れ動くアフリカの多くの植民地、南ヴェトナムの不穏な政情、そして東独の住民がとめどなく流出する西ベルリン――まだ〈壁〉はなかった――、第三次世界大戦の火種はあちこちにあった。
 日本では五月二十日、岸内閣が結んだ日米安全保障条約が、衆議院で強行採決された。右か左か、国内を騒然とさせてきた六〇年安保闘争は、この日から自然承認までの一ヶ月、いよいよ最終局面を迎える。
 アルゼンチンでは五月十一日、元ナチスのアイヒマンが、イスラエル諜報機関モサドに拉致された。ナチスに対するユダヤの復讐には時効がなく、暗闘がいまだ続いていることが、世界に明らかになった。
 喰うか、喰われるか。
 だがウィーンにやってきたワルターには、このような死闘の風潮など、関係なかった。
 一九三八年の第九番にも、一九四八年の《復活》にも周囲の状況が反映しなかったように、今度もそんなものは、彼の頭にはなかった。
 彼にとって重要なことは、師マーラーの生誕百周年を、この街で祝うことだけだった。
 そのために八四才の彼は、ウィーン芸術週間の開幕演奏会を引き受け、四年ぶりにカリフォルニアから渡欧してきたのである。
 心臓を患っていた彼は、過度の緊張と興奮を避けなければならなかった。続けてロンドン・フィルを指揮してほしいという依頼も断わり、彼はこの演奏会だけに、集中した。
 ウィーンだけが、特別だったのだ。
 彼は回顧録「主題と変奏」(内垣啓一、渡辺健訳、白水社刊)で、一九〇〇年頃に聴いたマーラーの公演を、次のように回想している。
「ウィーン帝室歌劇場は光の世界――そしてまた私の世界であると感じられた。このように歌い動くべきであり、舞台はこう見えるべきであり、オーケストラはこう演奏すべきであり、そして最後に――このように指揮すべきである、と思われた」
 それから六十年、これを最後の機会と覚悟して、彼はウィーンに戻ってきた。そして今度は彼の光で、この街を照らすべきときであった。

 プログラムのメインは当然マーラーで、またしても交響曲第四番である。
 晩年の彼にとってこの曲の平明な幸福感は、よほどその心境に適うものであったらしい。一九五〇年以降だけでも各地のライヴが六つ、CD化されている。
 しかしこの一九六〇年の演奏は、なかでも特別の光を放っている。
 率直にいうと、一九五五年以後の彼には、老いの翳が隠せなかった。平板で、緊張感のない演奏が多いのである。それが、この〈告別演奏会〉だけは、違う。何ともいえない幸福感がつつんでいるのだ。
 それはワルターが、ウィーン・フィルから導きだしたものだった。そのテンポは、遅い。それまで五三、四分で演奏されていた第四番に、六十分近くかけている。
 だがこの遅いテンポは、この時点でのウィーン・フィルの美点をいかすために、必要なものだったのだ。
 二十年前の澄明さ、純粋さの代わりに、今の彼らには豊満嫣然たる響きがある。その音色を存分にいかし、かつ音楽の生命力を鈍らせないために、彼は団員に、ひたすら深く深く、大きく大きく呼吸させたのである。
 呼吸しているかぎり、テンポがどんなに延びても、リズムは保たれていく。
 太極拳の緩やかで、しなやかな円運動にも例えられる名演は、このようにして生まれた。
 白眉は、第三楽章である。
 進むのをやめたかのような駘蕩たる時間の流れのなか、至福の感情だけが奏でられていく。
 《フィデリオ》第一幕の、あの不滅の四重唱の前奏に想を得たと思われる開始部が、これほど美しく、聴くひとを惹きこんでいく演奏を、私は他に知らない。
 マーラーの作品には、彼が劇場で指揮していたオペラの模写が、ときどき出てくる。
 しかし作曲家は盗作をしたつもりではなく、斜にかまえてパロディを気取るつもりもなかった。僕もあんな響きを書いてみたい、というアマチュアじみた憧れだったのだと私は思う。
 マーラーと同じように《フィデリオ》の名演奏者だったワルターも、師の憧憬に共感し、それを見事に音にしてみせたのだ。
 それはマーラーばかりか、その背後の偉大な作曲家たちの系譜への、無上の頌歌であった。

 第二ヴァイオリンのトップにいたシュトラッサーは、回想している。
「一九四七年にエディンバラで経験した、あの幸福に満ち足りた感情が戻ってきた。私の若い時代にはこんなふうに音楽演奏が行なわれたのだ。私に過去を呼び覚してくれた彼に対して、時間は何の手出しもできなかった」(「栄光のウィーン・フィル」ユリア・セヴェラン訳 音楽之友社)
 ワルターは今度もまた、楽員たちの力で事をよい方向に運ばせたのだ。その美点をいかし、欠点を隠したのである。

 六十年、ワルターとウィーンが体験した時間と歴史の掉尾を飾るにふさわしい、すばらしい演奏会だった。
 そこには、さまざまな過去のさまざまな出来事が、層をなしてつみ重なりあっていた。
 演奏会のあと、老若男女たくさんのひとびとが帰ろうとせずにホールを取り巻き、去っていくワルターを見送ったという。

 芸術週間では連日連夜、多彩な演奏会がひと月も続く。
 この日の楽友協会大ホールでも、夜には別の演奏会が行なわれている。
 マーラーのもうひとりの弟子、オットー・クレンペラーが手兵ロンドンのフィルハーモニア管弦楽団を指揮しての、ベートーヴェンの全交響曲連続演奏会の第一夜がそれであった。
 車椅子に乗った鉄の意志の男、クレンペラーは顔面神経痛に歪む顔をあげ、緊張して身がまえるイギリス人たちに開始の合図を送った。
 ワルターと同時代の、しかしまた別の過去を持った音楽が、一九六〇年のウィーンに、いま決然と鳴り響きはじめる。

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