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  黙示録の使徒

 一九六〇年五月二九日の夜、クレンペラーが指揮台に座り、固く握りしめた右手を上げ、やがて一旋させたとき、楽友協会に鳴り響いたのは、ベートーヴェンの《献堂式》序曲だった。
 マーラー生誕百周年記念の芸術週間というのに、この偏屈な老人は、なぜかベートーヴェンの全交響曲を演奏しはじめたのである。
 だが彼にとっては、ベートーヴェンこそ、師のマーラーを顕彰する音楽だったのだ。

 この日の昼に演奏を終えたワルターと同様、彼もマーラーゆかりの指揮者である。
 ただし両者には、性格にも音楽にも、共通するものはほとんどなかった。
 ふたりとも時間の許すかぎり、相手の演奏会や練習を聴きに行っていたが、それは仲がよいからではなく、正反対のアプローチに接して、刺激を受けたいと考えていたかららしい。
 あるときワルターは、クレンペラーによるベートーヴェンの交響曲第七番を聴いたあと、知人にこう語ったという。
「私なら一小節とて同じようには振るまいが、あれはあれで偉大だよ」

 一方クレンペラーはというと、この一九六〇年の芸術週間の逸話が遺っている。
 例によってこのときも、クレンペラーはワルターの練習を聴きに行ったらしい。そしてそのあと楽友協会会長に言うには、
「いまそこでワルターに会ったから、ワルターさん、あなたは三十年前と変わらない指揮をしますね、と言ってやったよ。すると奴さん、それをほめ言葉だと思って喜んでいるのサ」
 ワルターの登場がウィーンにもたらした、懐旧と感傷の空気に、彼は嫉妬したのだろう。
 彼とウィーンとの間には、ワルターのように濃密な情愛は、なかった。
 ゆえに彼は、マーラーの時代を懐かしがらせるためにウィーンに来たのではなかった。彼が彼のやり方でマーラーの交響曲を演奏しても、ウィーン子たちは郷愁を感じはしないだろう。
 ならば、どうするか。
 彼の考えでは、マーラーは作曲家という以上に、指揮者として偉大であった。彼がマーラーから与えられた最大の感銘は、そのベートーヴェン演奏だった。
 指揮者とは何か、ということを彼はそこから学んだのだ。それゆえに、彼がベートーヴェンを演奏することは、彼自身にとっての〈マーラーなる存在〉を暗に示す、つまり黙示することに他ならないのである。
 だから彼は、ベートーヴェンを演奏する。
 そしてそれは、有無をいわさぬ説得力で、ウィーン子たちをねじ伏せてしまうほど、力強い音楽となった。

 紆余曲折、事件と波乱にみちた彼の長い生涯の中で、ウィーンに特定のポストを得たことは一度もなかった。この街は、思わせぶりな瞳で誘う、しかしそれだけの不実な美女であった。
 だが彼の方も、翻弄されるばかりではない。第二次大戦以後、ウィーン・フィルを指揮するのは、芸術週間のような特別の機会に限られ、定期演奏会には出演しなかった。
 ギャラが低すぎると、依頼を断ったのだ。カラヤンもベームもこの金額なのですから、という楽団側の言葉に答えて曰いわく、
「私はもっと上手に指揮する」
 それでも、彼がこの楽団を最高のものと評価していたことは、疑いの余地がない。
 一九五八年、芸術週間においてブラームスの《ドイツ・レクイエム》を演奏したとき、
「楽器を奏くことは、世界中で行なわれる。しかし音楽は、ただウィーンでのみ行なわれる」
と練習後に語り、団員たちを感激させている。

 この時のライヴが、ディスク・ルフランでCD化されている。
 ブラームスのセンチメンタリズムなどに目もくれない、ごつごつした手ごたえの演奏で、響きが濁ろうがささくれだとうが、委細構わずに驀進するフーガなど、凄まじいばかりである。
 その一方、第四楽章や第五楽章での管弦の美しさは格別で、さきのクレンペラーの賛辞もむべなるかなと思わせる。
 第六楽章での闘争と勝利のあとに訪れる、終楽章の高揚感もすばらしい。しかもそれが単なる平安な気分におわらず、緊張感と強い意志の力に支えられているのが、じつに彼らしい。
 私はこの曲のすばらしさを、彼の一九六一年のスタジオ録音盤に教えてもらったが、このライヴの荒々しいまでの〈ますらおぶり〉も、決して忘れることのできないものである。

  しあわせいっぱい

 彼の人生は、苦難との闘いの連続だった。
 脳腫瘍を患って半身不随になろうと、転んで腰の骨を折り、車椅子の生活となろうと、彼は指揮を止めなかった。
 人間の力を試すかのように、へこたれない彼にはさらなる苦しみが与えられ続けた。
 《ドイツ・レクイエム》の名演の数ヶ月後の夏、彼は多幸症を再発した。精神の病気で、はげしい躁状態に陥ることを指すらしい。
 彼は若いころから、ひどい躁うつ病だった。
 うつ状態のときには、寝床から出られないほどに無気力になるというが、彼は持ち前の意志の強さで、そんなときにも仕事をしていた。
 働けなくなったら人生はおしまいだから、と彼は言うが、並大抵の意志力ではないらしい。
 しかし彼を担当したレコード・プロデューサーのウォルター・レッグは、うつ状態のときの方が、彼はよい仕事をしたと語っている。他人の意見にも耳を貸し、つねに自省を怠らなかった。逆に躁状態では自己満足に陶酔し、いい加減きわまりなかったという。
 ちょうど、この多幸症が再発したころの演奏が遺っている。
 一九五八年九月三日スイスのルツェルン音楽祭で、ベルリン・フィルとブルックナーの交響曲第七番を演奏したライヴである。軽快で淀みなく、流麗といってもいいほどだが、聴いた後に残るものも、何もない。調子はいいが、腑抜けたような演奏である。

 多幸症は、しかし時がたてばやがて治まり、うつ状態に転じていく。ところがその前に、彼は寝煙草が原因で火事を起こして、全身に火傷を負い、いつ死んでもおかしくない危篤状態に陥ってしまった。
 一命をとりとめた後、後遺症に苦しみながらも一年の休養で復帰できたのは、強靱な意志の力というしかない。多幸症のおかげで終始楽天的だったのも、この場合にはプラスだった。
 復帰は前述のブルックナーからちょうど一年後、一九五九年のルツェルン音楽祭の、フィルハーモニア管弦楽団との演奏会になった。

 ロンドンを本拠とするこの楽団は、レッグが芸術監督となって一九四五年に創設されたもので、数年後に開始されたカラヤンとの活動により、世界にその名を知られることになった。
 彼と楽員たちは、必ずしも万全の信頼関係に結ばれていたとはいえなかったようだが、プロの音楽家としてよく協力しあい、LPの完成度は非常に高く、とにかくよく売れた。
 録音と並行して、カラヤンと楽団は毎年のように、欧州各国や米国へ演奏旅行を行なった。

 そのひとつ、ベルリンで彼らが演奏した《ドン・ファン》がCD化されている。
 一九五二年五月、カラヤンが大戦後ベルリンで指揮をした、最初の演奏会である。
 明確な響き、キビキビとした進行、即物的なまでに感情を排した演奏によって、彼はベルリン子たちに自分の存在をアピールし、そして疾風のように去っていった。
 これらの演奏旅行とLPにより、カラヤンの名声は広い範囲に及んでいったのだ。

 しかし一九五六年、彼がベルリン・フィルの終身指揮者になった段階で、レッグは次の指揮者を探さねばならなくなった。
 そこで選ばれたのが、クレンペラーである。
 短気で頑固な練習ぶりに辟易しながらも、やがて楽団は催眠術にかけられたように、夢中になって演奏しはじめた。短時日のうちに、楽団は指揮者の手足のようになった。

 レッグ著の「レコードうら・おもて」(シュヴァルツコップ編、河村錠一郎訳、音楽之友社刊)に、ロンドンでカラヤンがクレンペラーの《エロイカ》を聴いたときの話が出てくる。
 その演奏に感銘を受けたカラヤンは、終演後わざわざクレンペラーの楽屋を訪ねていった。
「カラヤンさん、何かご用ですか」
「感謝の気持をお伝えして、葬送行進曲を、あなたがおやりになったように指揮できる日が私にもやって来ればいいと願っていることをお話ししたかっただけです。さようなら」
 レッグが書いたのはこの問答だけだが、とても温かい調子とは思えないクレンペラーの口ぶりと、それにひるみながらも用意した言葉を一息にまくしたて、足早に立ち去るカラヤンが目に見えるようだ。

 話は一九五九年に戻る。復帰演奏会の練習でレッグは、クレンペラーを終身常任指揮者とすることを発表した。何よりの快気祝いだった。
 そのときの、クララ・ハスキルを独奏とするモーツァルトのピアノ協奏曲第二十番が遺っている。多幸症は治まってきたのか、引き締まった響きはハスキルの美しいピアノとともに、凛として印象的である。
 しかし体調は不安定で、十月にロンドンで予定された《ドン・ジョヴァンニ》の録音と演奏会形式上演の指揮は不可能になった。
 十二月には渡米して、メトロポリタン歌劇場にデビューを飾り、ニルソン主役の《フィデリオ》を指揮することになっていたが、これも健康が悪化して、キャンセルを余儀なくされた。
 同時期にメトにいたベームが代役となって急場をしのいだが、お陰でベームのウィーンでの演奏会に穴があき、その演奏会をカラヤンが引き受けたことは、第一章に書いた。将棋倒しのように、大物が続けて出てくるのが面白い。
 幸いその後クレンペラーは回復し、一九六〇年初夏、彼とフィルハーモニアは、ウィーンへ向かった。同地の芸術週間に出演し、ベートーヴェンの全交響曲を演奏するためである。

 ベートーヴェンこそ、音楽のアルファでありオメガである。これは彼の時代の音楽家たちの不文律であった。不文律というのは、彼らには当然のことすぎて、いまさら口にはしない、という意味である。
 クレンペラーもまた、ベートーヴェンの偉大さなど語りはしない。ただ、他の演奏家の印象を説明するとき、必ずそのベートーヴェン演奏を引きあいに出すことが、その傍証となる。
 ベートーヴェンこそ試金石であり、それをどう演奏するか、それだけで音楽家の価値は決まる。その作品を練習するとき、彼は他のどんな曲より時間をかけ、倦うむことを知らなかった。
 師のマーラーもまた、演奏論をするとき、必ずベートーヴェンを例にあげる癖があった。やはりこのふたりは師弟なのである。

 そのマーラーが大幅な加筆をして演奏したとき、ウィーン子は〈俺達のベートーヴェン〉を冒涜したと、激怒した。そこまで思い込んでいる連中の子孫が、ウィーンにいる。
 その街で、ベートーヴェンを演奏する。
 私がマーラーから教わったのは、こういう音楽だよ、と伝えるために。
 白刃ひっさげての、彼の挑戦状だった。

  最適のベートーヴェン指揮者

 チクルスの曲順は、きわめて単純である。
 ワルターの演奏会の晩に行なわれた五月二九日の初日は、《献堂式》序曲に始まって、第二番と第三番《英雄》。以後番号順に二曲の交響曲と序曲が組み合わされるだけである。
 第八番だけがヴァイオリン協奏曲とのコンビで、楽日は第一番と第九番《合唱》になる。

 六月七日まで、ほぼ一日おきに五回の演奏会だが、クレンペラーのスタイルは、最初の《献堂式》序曲一曲で、すでに十全に提示される。
 厳かで、堂々とした序奏。弾力にとんだリズム。軽やかに歌う木管。晴れやかに明快に、立体的に響く弦五部。そして何よりも、ひとつひとつの音に込められた気迫と、集中力。
 あとは、同じスタイルのまま、《合唱》の最後の一音まで、ただひたすらに突き進むだけである。だからこのチクルスにおいて、曲毎に演奏の特徴を述べるのはむだというものだ。
 作曲家の発展とか変遷などは、作品そのものが語っていくのであり、演奏家がことさらに強調するものではない、彼の演奏はそう教える。

 全曲に共通する特徴のなかで、とくに耳に鮮やかなのは、木管の明確な響きである。
 フィルハーモニアの木管奏者はもともと腕利き揃いだったが、クレンペラーのもとではその特長が、さらに強調される。
 木管がきこえることがもっとも重要だ、と彼は言っているが、その通り、どんなときにも木管はくっきりと聞き取れ、しかも朗々と歌い、ぼやけることがない。極端に言えば、木管楽器のための合奏協奏曲を聴いているような印象さえ、受けることがある。
 対応する弦楽も、つねに弾んで、呼吸している。手を抜かず、全力で演奏しているのに、重くはならないのだ。その響きは心地よいほどに澄んでいる。
 各声部がそれぞれに朗々と歌い、呼吸するとき、全体の響きは絶対に濁らない。
 ただクレンペラーが、たとえばトスカニーニやクナッパーツブッシュのような指揮者と異なるのは、低声部を強調していないことである。
 あとの二人は個性こそまるきり違うが、低声に明確にリズムを刻ませることで、全体の推進力をえる点では共通していた。
 クレンペラーはそうではない。低声は控えめであり、リズムを弾ませているのは全体、あえて言うなら内声部の、ヴィオラと第二ヴァイオリンである。
 彼の弦楽の、純粋で立体的な美しさはこのバランスから生まれるのであり、それはコンヴィチュニーなど、ある時代までのドイツ圏内の指揮者たちに共通してみられるものであった。
 彼の師マーラーは、いみじくも述べている。
「演奏での要諦のひとつは、たいてい守られないのだが、下の声部を上の声部よりもけっして強くしないことだ。そうしないと旋律は台無しになり、音楽の明確さとわかり易さは失われてしまう」(「グスタフ・マーラーの思い出」バウアー=レヒナー 高野茂訳 音楽之友社)
 クレンペラーがこの言葉を知っていたかどうかわからないが、彼のバランスはまさに、音楽は明確さがすべてだ、と言う師の言葉を音にしたものである。
 あとは、テンポのこと。
 後年の彼はしばしば異常に遅いテンポをとることで知られたが、ここでは響きの清明さを確保するために、速すぎも遅すぎもしない、実に適切なテンポをとっている。というより、音のひとつひとつが快く弾んで呼吸しているから、適切なテンポにきこえるのだ。
 テンポは感じるものだ、聴いていて、テンポはこれ以外ありえないと感じるのがマーラーの指揮の特徴だった、と彼は述べているが、私はこの言葉をそのまま彼に贈りたい。
 メトロノームでいくつ、などという問題ではなく、その音楽が響いている間、それしかありえないと感じさせるもの、それが〈正しい〉テンポなのである。
 音楽における〈正しさ〉とは、数値に置き換えることのできない、説得力の問題なのだ。
 説得力さえあれば、どんなものもすべて正しい。そして説得力は、呼吸によって生まれる。
 響きのバランス、テンポ、そして気迫、どれもが〈かくあるべき〉ベートーヴェンが、このとき鳴り響いたのである。

 ウィーンの批評家たちも、彼のベートーヴェンに脱帽するしかなかった。
「そうだ、それ以外ない(ゾー・ウント・ニヒト・アンダース)」といった絶賛の言葉が、クレンペラーに捧げられた。
 だがきっと彼は「こんなもの、おべんちゃらに決まっている」と信じなかったことだろう。
 これだけの演奏をやれるからには、うつ状態だったはずであり、そして何事にも悲観的なのが、うつ病の特徴だからである。
 いわれない苦しみを背負って、彼は素晴らしい音楽をつくりだしていく。

 サー・トマス・ビーチャムといえば、イギリスでもっとも重要な指揮者のひとりである。
 彼は、その派手で華やかな指揮ぶりばかりでなく、做岸といってもいいくらいの自信と、機知にとんだジョークと痛烈な皮肉を言い放つことでも有名だった。レッグは彼を、イギリスが生んだ最後の偉大な変人、と評している。
 一九五〇年代後半、クレンペラーがロンドンでベートーヴェン・チクルスを指揮して大評判をとったとき、ビーチャムは言った。
「ベートーヴェン後期の演奏者として、クレンペラーはまさに最適の人物である。なぜなら、ベートーヴェン同様、彼も耳が遠いからだ」

 実は本当に片耳が遠かったクレンペラーも、辛辣さではひけをとらない。
 一九六一年三月八日、ビーチャムが八一才で天寿を全うしたとき、その逝去を聞いた彼は「そうか、今年はよい年になるね」とその死を悼んだという。
 このときクレンペラーはちょうど《フィデリオ》をコヴェントガーデンで上演し、大成功を収めたばかりだった。CDにもなっている。
 交響曲でのスタイルを、そのままオペラにしたこの演奏を聴くと、この作品はこんなに生気にあふれた音楽だったのかと驚かされる。
 弾力にとんだ、絶対にあやふやになることのないリズムと明晰な響きは、とくに終幕の総唱に、信じられないほどの盛り上がりと圧倒的な完成度をもたらした。
 推進力と、盤石の安定感という、常には両立しがたいふたつが、見事に止揚されたのだ。
 これを聴けば、もう一度悪口を言うために、ビーチャムも生き返ったに違いない。
「とうとうまるで聞こえなくなりやがった」と。

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