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  東風吹かば

 一九六〇年、クレンペラーとともにウィーンを訪れたフィルハーモニア管弦楽団は、カラヤンがベルリン・フィルを手中にする五五年までの、彼の〈世界を征ゆく船〉であった。
 その後もカラヤンとの録音や演奏会は続けられたが、その回数は徐々に減っていった。
 彼がフィルハーモニアとの最後の公開演奏会を行なったのは、同楽団のウィーン客演より二ヶ月前、四月一日ロンドンの公演である。
 翌月カラヤンはベルリン・フィルとパリに行き、ベートーヴェンの全交響曲を演奏した。そして単身ウィーンに戻り、クレンペラーとフィルハーモニアによる同じ演目を聴くことになったのである。
 カラヤンのパリ・チクルスを、クレンペラーの演奏と聴き較べられたら面白いのだが、残念ながらその録音は発売されていない。

 そのパリ楽旅の直前、カラヤンとベルリン・フィルの間には、ひと悶着があった。
 カラヤンが推薦したスウェーデン人ホルン奏者の入団を、楽員たちが拒否したのである。
 採用の当否は楽員が決定するもので、常任指揮者といえども口出しできないのだが、カラヤンは激怒、パリ楽旅を中止するといきまいた。
 横暴な脅迫を受けた楽員も黙ってはいない。逆にストライキしようという騒ぎになった。

 事態を収拾すべく楽員幹事がウィーンに赴いたが、カラヤンとの話し合いは平行線のまま、妥協点が見いだせなかった。
 沈黙が続き、最悪の事態が避けがたくなったとき、カラヤンは予想外の行動に出た。
「では、そうしよう」
 突如として彼は、すべての主張を撤回した。
 呆気にとられた幹事に向かって、彼はその奏者の入団は見送られること、パリ楽旅も予定どおり行なわれることを、何事もなかったかのように、にこやかに告げた。
 説得されたわけではなく、妥協したわけでもない。
 思い通りにならないと覚ったとき、あくまで自分の意志で、はじめから何もなかったことにしてしまったのだ。そして、他人がそれ以上この問題を追及できないようにしたのである。
 すべてか、ゼロか。
 他人に恥をかかずにすみ、過失を認めずにすます、彼なりの解決法であった。
 ウィーン国立歌劇場で問題が起きたときも、しばしば彼はこの方法で事を収めてしまった。交渉相手は釈然としない思いのまま、席を立つしかなかった。
 〈帝王〉たるもの、物事の最終的決定はすべて彼自身によらなければならないのである。

 ところでこの六〇年に、ザビーネ・マイヤーという女性がドイツで生まれている。
 八二年、長じてクラリネット奏者となった彼女の入団をめぐり、カラヤンとベルリン・フィルは、二二年前とよく似た諍いを再び起こすことになった。
 しかし今度は大騒動に発展し、ついには修復しえない溝が残されることになる。
 そのときカラヤンが〈いつもの手〉で主張を撤回できなかったのは、事件がマスコミに嗅ぎつけられ、経緯が逐一報道されたためという。
 衆人環視の中では、さすがのカラヤンといえど、〈何もなかった〉ことにはできなかった。

 情報の洪水は、ひとを裸にし、その幻影を奪い去る。
 どちらの事件も、ベルリン・フィルの意向が勝ったことにかわりはないのだが、六〇年の場合は表ざたにならなかったから、カラヤンは自らの〈帝王〉という幻影を守ることができた。
 たしかにこの年、彼は〈帝王〉であった。
 その証しとなったのが、《ニーベルングの指環》全四作の通し公演である。
 六〇年のウィーン芸術週間は、国立歌劇場でのカラヤンの《指環》公演により、クライマックスを迎えることになった。
 《指環》の通し公演は、ウィーンでは第二次世界大戦以後初めてのことであり、カラヤンはこの記念碑的行事にふさわしい豪華な歌唱陣を揃え、三年前に《ワルキューレ》を自らの演出で上演して以来、周到な準備を重ねてきた。
 このときが新演出初演となる《神々の黄昏》では、照明合わせだけで六十回に及ぶリハーサルが費やされたという。
 〈帝王〉以外の誰が、こんな贅沢を許されるだろう。カラヤンの統率下、ウィーン国立歌劇場は彼の手足のように働いていたのである。

 しかし歌劇場という場所は、とりわけウィーンのそれは伏魔殿、「水滸伝」の冒頭に出てくるような魔窟なのである。
 そこに潜む百八の魔王どもは、隙を見ては躍り出て人間の姿になり、梁山泊に立てこもる機会をうかがっているのだ。

 国立歌劇場でカラヤンが《神々の黄昏》を上演した六月十四日、楽友協会大ホールでは同じワーグナーの初期作品、《リエンチ》が演奏会形式で演奏されている。
 指揮をしていたのは、かつて国立歌劇場で輝かしい功績をあげながら、やはり魔の手にもてあそばれ、そこを逐われた男であった。
 その名を、ヨーゼフ・クリップスという。

 一九〇二年にウィーンで生まれ、この街の音楽院で学んだ生粋のウィーン子の彼は、音楽院での指揮の師であるワインガルトナーに、その才を愛された。
 彼の芸歴は十九才のとき、ウィーン・フォルクスオーパーに、ヴァイオリニスト兼コレペティトーアとして雇われたときにはじまる。
 二十代後半で地方歌劇場の若き音楽総監督となり、そして三三年、ウィーン国立歌劇場の楽長のひとりに加えられた。
 当時の国立歌劇場には、音楽総監督のクレメンス・クラウス以外、これといった楽長はいなかった。クリップスはこのチャンスに乗じ、たちまち頭角を現した。

  匂いおこせよ梅の花

 彼が登場して間もないころのライヴ録音が、断片ながら遺っている。
 三三年五月の《魔弾の射手》では、両大戦間の時期の最高のドイツ系ソプラノのひとりレートベルクと、名ヘルデンテナーのフェルカーの共演を聴くことができる。
 しかしクリップスの指揮ぶりを知るには、同じ月の《神々の黄昏》の方が判りやすい。
 三一才になったばかりの青年楽長は、とにかくオーケストラを煽りに煽る。うなり声をあげて楽員たちを引っぱっていく覇気はまことに頼もしく、口うるさいウィーンの聴衆たちがこの指揮者の未来に光明を見たのも、納得がいく。
 しかもその快速の進行は、歌手をせかしはしない。活気あるリズムで呼吸させながら、同時にのびのびと歌わせている。リズムの伸縮が俊敏柔軟、自在だからこその芸当である。
 大きく深い呼吸によって生まれる、各声部のからみあいの美しさ、ハーモニーは、生涯変わらぬクリップスの美質だったが、この時点でその特徴は、すでに明らかだったのだ。

 以後、彼は三人の監督の下で楽長を務めた。ユダヤ系の彼が、当時のナチス・ドイツ国内で働くことは不可能だったから、とりあえずウィーンで時期を待つしかなかったのだ。
 ところが三八年、オーストリアはドイツに併合、彼は一切の公職を追放され、楽長の座を奪われてしまう。
 それでも彼は、ウィーンを離れなかった。
 表面は別の職につきながら、ひそかに歌手のコレペティを務めていたという。どんな形であろうと、歌劇場に係わっていたかったのだ。
 強制収容所に連行されずにすんだ理由は、詳らかでない。何らかのコネを利用したのだろうか。ともあれ、生きながらえることが出来ただけでも、不幸中のさいわいだった。

 そして戦争が終わったとき、彼の運命に転機がやってきた。
 同僚のほとんどがナチス協力者の疑いで活動を禁止されたため、ウィーンで演奏できる一流指揮者が、彼ひとりになってしまったのだ。
 文字通り、石にかじりついてでもウィーンに踏み止まっていたことが、彼に幸運を与えた。
 ウィーンは、市街戦という最悪の事態こそ免まぬがれたものの、度重なる爆撃で荒廃していた。
国立歌劇場は瓦礫と化しており、一座はとりあえずフォルクスオーパーで公演を再開した。
 まだベルリンでは凄惨な市街戦が展開していた、四五年五月一日のことである。
 そして同年十月、アン・デア・ウィーン劇場を仮小屋として、ウィーン国立歌劇場は体制を整え、正式に再発足した。
 開幕公演の指揮はもちろんクリップス、演目は《フィデリオ》だった。
 舞台の上にはろくな装置もなく、椅子が置いてあるぐらいだったが、これほど感動的な舞台は二度となかったという。

 食料も生活物資も不足しているなかでの公演活動だったが、振り返ってみるとむしろ、それがよかったらしい。
 クリップスの手元には、一群の素晴らしい歌手たちがいた。シュヴァルツコップ、チェボターリ、ゼーフリート、ユリナッチ、ヴェーリッチ、コネツニ姉妹、デルモータ、クンツ、ホッター、シェフラー、その他その他である。
 混乱を極める国内事情のため、彼らはほとんどウィーンを動くことが出来なかった。舞台に立たないときには、練習でもする以外に時間のつぶしようもなかったのだった。
 クリップスは自らピアノを弾いて彼らとの練習を重ね、個性的でしかも熟練したアンサンブルを、練り上げていった。
 シュヴァルツコップはクリップスこそ、自分に最大の影響を与えた指揮者だと回想しているし、他の歌手たちも同様のことを述べている。
 彼と彼らが最も得意にしたのは、モーツァルトだった。収容数わずか千人弱のアン・デア・ウィーン劇場がもつ独特の親密な雰囲気には、モーツァルトこそふさわしかったのだ。
 そのゆえに彼らは、〈ウィーン・モーツァルト・アンサンブル〉と呼ばれることになった。

 クリップスと彼らのライヴ録音は、残念ながらほとんど聴くことができない。
 わずかに、国立歌劇場が四七年秋にロンドンに客演したときの《ドン・ジョヴァンニ》の断片しかない。
 それも、ドンナ・アンナとドン・オッターヴィオの二重唱、そしてドン・オッターヴィオの二つのアリアだけである。
 ドンナ・アンナはチェボターリだったが、ドン・オッターヴィオを歌ったのは彼らの仲間ではなく、五六才の伝説的名歌手、リヒャルト・タウバーだった。
 かつてウィーンで名声をほしいままにした彼もまた、ロンドンに亡命していたが、このとき一座と、最後の共演をしたのである。
 ドンナ・エルヴィラを歌っていたシュヴァルツコップは、彼と共演できただけでも畏れ多くて死にそうだったが、どうせ聴くのなら彼の脇でなく、いっそ真正面に立って、その歌い方を観察したかったと述べている。
 その様式は洗練の極みにあり、息継ぎは完璧だったと彼女はいう。ところが彼はすでに片肺しかなく、しかも死の病に冒されていたというのだから――三ヶ月後に肺癌で死去――その芸人魂には頭が下がる。
 録音で聴いても、ききほれずにはいられない声であり、歌である。
 公演はドイツ語で行なわれていたが、タウバーはドイツ語特有の抑揚を、絶妙にリズムとフレージングに活かして、歌いまわしている。
 クリップスの合わせも見事で、全曲がないのが、実に残念だ。

 クリップスの生涯の絶頂期の、この時期の全曲のライヴが遺っていないことが、巡り合わせの悪い彼の人生を象徴するのかもしれない。
 戦後数年たつと、同僚の指揮者たちが続々と復帰し、クリップスの独り占めは終わったが、ウィーンでもザルツブルクでも、彼の築いた地位は変わりがなかった。
 しかし、ウィーンの人々は、いささか表舞台に立ち過ぎた彼に、飽きていた。
 伏魔殿の魔物の一撃が彼を見舞ったのは、五〇年のことである。

  あるじ無しとて、春なわすれそ 

 彼はソ連に招待され、演奏旅行をした。
 だがその当時、第一次ベルリン危機を契機として東西両ドイツが誕生するなど、米ソの対立はすでに深刻なものとなっていた。
 オーストリアは未だに米ソ英仏の四ヶ国分割統治下にあったが、気分としてはもちろん、西側の自由主義に近かった。
 だからクリップスのソ連行きは、彼の敵に格好の攻撃材料を与えることになった。彼の方は外務大臣の要請で行ったのだと反論した。
 ところが外務大臣は、彼は私が頼んだときには乗り気でなかったと証言したのである。
 大臣に見捨てられ、さらにこの騒動のためにウィーン駐屯のソ連軍にもにらまれた彼は、この街を離れざるを得なくなった。
 ナチスの脅迫にもめげなかった彼は、ついに渡英した。そしてロンドン交響楽団の常任指揮者になった。続いて米国のバッファロー交響楽団というB級楽団の指揮者になっている。
 ウィーン国立歌劇場からも、ザルツブルク音楽祭からも、彼の名前は消えた。

 今となってみれば、このようなことで音楽家が窮地に立つというのは、実感しにくい。
 しかし同じころ、アメリカでは中世の異端審問官やロベスピエールの再来のような男、マッカーシーが旋風のように登場し、数年間も〈赤狩り〉の大鎌を振るい続けることを思えば、集団ヒステリーじみた時代の気分が、うかがえるかも知れない。
 現にクリップスも、五〇年にシカゴ響を振るべく渡米したとき、アカ扱いされて入国を拒否されている。

 ロンドンやパリで彼は温かく迎えられ、人気も上々でレコード録音もさかんに行なったが、都落ちの思いは隠せなかったようだ。
 その後ウィーンに復帰して、ウィーン交響楽団は頻繁に指揮していたし、客演として国立歌劇場でモーツァルトのオペラを上演することも多かった。が、彼の望むポスト、練習なども含めたトータルな意味で歌劇場に関わることのできる、楽長として契約されることはなかった。

 イギリスのレコード会社デッカのプロデューサー、ジョン・カルショ-の回想記に、クリップスとおぼしきウィーンの指揮者が出てくる。
 その指揮者とカルショ-がウィーンの街を散歩していると、旧オーストリア帝国皇帝、フランツ・ヨーゼフの銅像の前に出た。
 指揮者はその像を見上げると、子供のころに見たこの白髭の老帝の、温雅な人柄と寛大さをほめたたえた。
 ところが突然わっと泣き出し、一転、カラヤンの過去と所行を激しく非難しはじめた。カルショ-は、茫然と見つめるだけだったという。
 この話は、五八年のことらしい。

 それから二年後の六〇年、ウィーン芸術週間でクリップスは、ウィーン交響楽団と《リエンチ》を演奏した。
 ここちよい呼吸をもった演奏である。
 演奏会形式のため、どうしても堅苦しい感じになって、ファンタジーの飛翔が妨げられるきらいは否めないが、個々の曲の演奏はいちいち納得させられる。
 さらなる躍動感とスピード感を加えるには、オペラとして舞台上演するしかないのだろう。クリップスの本領が発揮されるのは、やはり歌劇場のピットにおいてなのである。
 窮屈なスタジオ録音では、彼のいいところは全く出なかったし――日本での不人気もそのためである――演奏会でもその感がのこる。
 ただ、当時五六才のヴェテラン、スヴァンホルムの堂々たる歌いぶりは特筆しておきたい。

 先のことになるが、クリップスはカラヤン時代の晩期、六三年に国立歌劇場楽長に復帰している。しかしそれは翌年カラヤンが辞めて体制が変わったためか、一年だけで終わった。
 その数年後、晩年にウィーン響を指揮したライヴがいくつか出ているが、なかではシェーンベルクの《グレの歌》が、印象深い。
 この大曲は、十二音音楽の創始者の作品中、最もロマン派的色彩の濃いものとされる。
 ワルターが頻繁に取り上げたことでも知られるが、クリップスはゆったりとしたテンポで、ワルターの演奏もこうだったのではないかと想わせるように、息づくような歌いくちと、美しいハーモニーで聴かせていく。
 一方、国立歌劇場の舞台でも、彼はマーラー以来の風を嗣ぐ作品を遺した。
 スメタナの《ダリボル》で、マーラーやワルターが好んで上演してきたこのオペラの、ウィーンにおける伝統を復活させたのが、六九年のクリップスの公演であった。
 これは素晴らしい。したたるように美しい弦の響き、アンサンブル間の俊敏な受け応え、わきあがるような音楽的感興など、劇場人クリップスの面目躍如たるものである。
 これを聴くにつけ、こんな名演奏をもう少しメジャーな作品でやってくれていれば、日本での評価も変わるのに、と思わざるをえない。
 だがそれが、クリップスらしいのだろう。

 その人生は、彼が若いころ抱いた青雲の志とは、かなり違ったものであったろう。
 監督の器では、なかった。
 しかし、マーラー以来のウィーンの楽長のあるべき姿を、その気魂をもって示したこと、そのことに疑いはない。
 彼が四度目に一座に戻るのは、七一年のことになる。そして、七四年にその生を終えるまで、今度は楽長であり続けた。  

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