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ヴィオレッタ対トスカ

 一九六〇年のウィーン芸術週間は、六月十九日のカラヤン指揮ウィーン・フィルの演奏会で幕を閉じた。演目のメインは《大地の歌》で、レッセル=マイダンとヴンダーリヒが歌った。
 三週間前にワルターのもと、これ以上ないようなマーラーを奏いたウィーン・フィルが、カラヤンの指揮ではどんな音を出したのか、興味深いところだが、レコードにはなっていない。

 その翌日、これも録音がないのだが、カラヤンは国立歌劇場で《トスカ》を上演している。
 カラヤンがこの作品を初めて国立歌劇場の舞台にかけたのは一九五八年のことで、そのときはちょっとした話題になった。
 というのも、それまで独墺の歌劇場ではプッチーニや《リゴレット》《椿姫》の類は、三番目か四番目の楽長が指揮するものと、相場が決まっていたからである。
 音楽監督が《アイーダ》や《オテロ》以外のイタリア・オペラを指揮することなど、ほとんど考えられないことだった。
 しかしカラヤンは違っていた。国立歌劇場芸術監督に就任した当初から、彼は《指環》の通し上演の達成とならんで、イタリア・オペラの高水準の上演をその二大目標に掲げていた。
 彼の就任後、それまで小編成で演奏されるのが通例だったイタリア・オペラの管弦楽は、ドイツ・オペラなみのフル編成に拡大された。
 そしてスカラ座と提携し、一流のイタリア人歌手を用いて、原語で上演する。スターを招く障害だった出演料の上限は、カラヤンの手で撤廃され、天井知らずということになった。

 その第一弾が、一九五七年四月のマリオ・デル・モナコの《オテロ》だった。続いて六月にはマリア・カラスの《椿姫》が予告されていたが、これは実現しなかった。
 なぜかカラヤンが彼女にのみ、その桁外けたはずれの出演料を認めなかったとか、契約が正式のものではなく、口約束だったためにカラス側が他の予定を優先してしまったとか、色々いわれているが、真相はよくわからない。
 当時の新聞は、カラスのことなら何でも大仰に書き立てたが、このときもふたりが口論になり、カラヤンがカラスの目の前で契約書を破り棄てたとか、そんな記事も出たという。
 いずれにせよ、カラスは当の六月はスカラ座でヴィスコンティ演出の《トーリードのイフィジェニー》を歌い、以後ついにウィーンでは歌わなかった。
 カラヤンの方もゼアーニとジェンチェルを代役として六公演を振ったきり、《椿姫》を二度とウィーンでは指揮せず、以降はクロプカールなど、他の楽長にまかせきりにした。

 実は彼は七年後のスカラ座でも、この作品で失敗している。そのときも彼の責任ではなく、主役のフレーニが、カラスの歌いぶりを忘れられない聴衆の反感を買ったのが原因だった。カラヤンはこの悲劇のヒロイン、高級娼婦ヴィオレッタとはよくよく縁がなかったらしい。
 彼と相性がよいのは、歌姫トスカだった。カラスのライバルのレナータ・テバルディは、一九五八年にこの役を歌ってデビューを飾り、以後翌年、翌々年とこの劇場に客演した。

 当時、カラスとテバルディの対立は、新聞や雑誌の格好の話題であった。
 しかしカラスとテバルディの間には何ら個人的な怨恨はなく、その対立なるものは、マスコミとそれぞれのファンが勝手につくりだしたものだと、当人や友人たちは言っている。
 だがカラスが美しく痩せ、凄まじい人気を得た一九五五年あたりから、テバルディがスカラ座に出ることを避けたのは事実である。
 たしかにふたりは、相手を憎んでいたわけではないだろう。それよりも、劇場の関係者やマスコミが自分の前ではお追従をいい、陰では相手にもおべっかをつかうという面従腹背に、深く傷ついていたのだと、私は思う。
 テバルディがスカラ座出演を拒んだのは、ふたりの間を右往左往する男どもの、ぶざまな姿を見たくなかったからだろう。カラスへの純粋な対抗意識なら、同じ舞台に立ったはずだ。それがプリマドンナの意地ではなかろうか。

 その後カラスもスカラ座と喧嘩をし、一九五八年十二月から丸二年、出演しなかった。その間の一九五九年、テバルディは実に四年半ぶりのスカラ座復帰を果たしている。
 一九五九年の十二月から翌年七月まで、離婚問題などで心身ともに消耗したカラスが完全に休養したのとは対照的に、テバルディの方は依然、多忙な日々を送っていた。
 冬はスカラ座、春はメトに出演、続いてローマ歌劇場、五月はドイツ各地でコンサート。そしてパリ・オペラ座で歌って、ウィーンにやってきた。五つの歌劇場いずれでも、彼女はトスカを歌った。彼女の名刺代わりとなるこの作品は、欧米ではとにかく圧倒的な人気がある。

 ウィーンの上演ではテバルディの他、スカルピアがバスティアニーニ、そしてカヴァラドッシは、カラヤンお気に入りのザンピエリというメンバーだった。
 ジュゼッペ・ザンピエリはイタリア人だが、ウィーンで活躍した歌手である。
 スカラ座にいたころは脇役に過ぎず、一九五四年に初演のカラヤン=カラスのコンビによる《ルチア》でも、アルトゥーロという小さな役を歌っていた。翌年ベルリンに客演して二回の公演を行なったときも、同じ役だった。
 ところが二日目の公演で主役のステファノが不調になり、終幕の長いアリアだけが突然、彼に回ってきた。見事に彼はこの急場を救い、カラヤンの信頼をかち得た。
 そして二年後のザルツブルク音楽祭の《フィデリオ》で、フロレスタン役に抜てきされた。
 録音で聴くかぎり、彼には真のスターに必要な声の魅力に欠けていたが、カラヤンは彼のようなバリトン風の暗めの声を好んだし、またドイツ語やフランス語の作品も歌いこなす器用さが幸いして、カラヤンが最も重宝するテナーとして、ウィーンに定着することになった。

バベルの歌劇場

 しかし、予定ではスウェーデンのテナー、ユッシ・ビョルリンクがカヴァラドッシ役のはずだったらしい。ライナー指揮のヴェルディの《レクイエム》録音のために、彼はこの街にいたのである。しかし彼の健康状態は悪化していた。心臓発作で急死するのは、これからわずか三ヶ月後のことである。
 ところで、そのビョルリンクがウィーン国立歌劇場にデビューしたときの、《アイーダ》《道化師》《ファウスト》のライヴの断片が遺っている。
 二四年前の一九三六年のことで、二五才の彼の若々しく張りのある声を聴ける。
 ただし、彼はどのオペラもスウェーデン語で歌った。数年後に出演したメトやロンドンではイタリア語で歌った彼が、ここで母国語を用いたわけは、共演のウィーンの歌手たちと合唱団が、ドイツ語で歌っていたからだろう。
 どうせ原語でないのなら、自分も無理してイタリア語で歌うよりも、歌い慣れた母国語がいい、彼はそう考えたのだと思う。
 当時のウィーンでは、どんな場合にもドイツ語翻訳上演が当たり前であった。ビョルリンクに限らず、ジーリがひとりでイタリア語で歌おうと、イタリア人デ・サーバタが指揮をしようと、これは変わらなかった。ひどいときには三か国語が一度に飛びかったりしたという。

 太古の昔、ひとびとが天まで届けと〈バベルの塔〉を築きはじめたとき、主は人間の不遜を怒って、彼らひとりひとりに別々の言葉をしゃべらせるようにした。互いの言葉が通じなくなり、意志の疎通が出来なくなったため、この摩天楼の建築は止り、やがて朽ち果てたという。
 往時のウィーンでは、〈バベルの塔〉の末路さながらの舞台が展開されていたわけである。
 この習慣は根強く、一九五〇年代のカール・ベームの時代でも、そのままだった。一九五五年の再建記念公演シリーズのひとつ、クーベリック指揮の《アイーダ》はドイツ語で、リザネクやホップ、フリックといったドイツ系の歌手によって上演されている。
 この慣例を破ったのが、カラヤンだった。
 オペラは原語で上演するときにのみ、真の美しさを明らかにする、それが彼の信念だった。
 そのためイタリア人歌手が増え、ドイツ系歌手の仕事が減り、慣れない歌詞の暗記で合唱団の負担が増えようと、それは仕方がない。
 現代では当然の考えとはいえ、当時のウィーンのように年老としふりた歌劇場で実現できるのは、〈帝王〉カラヤンをおいてなかったろう。
 前述したように、この《トスカ》の録音は世に出ていないが、六日後のマタチッチ指揮《アンドレア・シェニエ》がCD化されている。
 テバルディとバスティアニーニに加え、フランコ・コレッリがこの歌劇場に初出演した。
 《シェニエ》のような国際的公演こそ、彼の意図するものだった。

 話が、それる。
 この稿は道楽で書き進めているものだから、苦労などはないのだが、ときに困るのは、歴史が厳たる客観的事実であるのに、音楽を聴き、感想を述べる行為は、あくまでも私自身の主観によらざるを得ない、ということである。
 早い話、この《シェニエ》で歌っている歌手たちは、疑いなく当時第一級のスターたちだ。
 だが私は、感じざるを得ない。彼らの歌よりも、その背後で演奏しているオーケストラの連中の方が、マタチッチの深い呼吸のもと、よほど音色の変化を音楽にいかし、自分の楽器を歌わせているではないか、と。

 大きな音量、強大な響きを求めるあまり、歌手たちは、多くのものを犠牲にしてきた。
 テバルディもバスティアニーニも、立派な声である。だがその安定した音色は、その安定ゆえに、単色で変化がない。共鳴は豊かだが、それゆえに響きは濁り、俊敏さに欠けて鈍い。すべての音をきちんと響かせるために、フレーズの歌いかたは、直線的で単調になる。
 コレッリはいうまでもない。そのヴィヴラートのために音程は常にぶら下がり、響きは濁って開放感がない。大きな声をだそうと声を引き上げるため、旋律はすべてずり上げるように変形されてしまい、リズムは踏みにじられる。
 何を馬鹿な、これこそイタリア・オペラじゃないか、というひともいるだろう。現に今は亡き私の知人は、この録音を宝物のように思っていた。私には暴力的な蛮声としか聞こえないコレッリのビリつく高音は、そのひとにとっては血湧き肉踊る、輝きであった。
 感じかたはさまざまであり、そして説得力さえあれば、それらはすべて誤りではない。
 しかし私が残念なのは、今世紀中盤以降、ここに歌われているスタイルが、唯一無二の価値であるかのように思われていることなのだ。

 第二次世界大戦の前にも、例えばフランチェスコ・メルリなど、後のコレッリやデル・モナコのような歌いかたをする歌手はいた。
 だが一方同じロブスト・テナーでも、緩急、リズムの弾み、音色の変化、呼吸のタメと開放によって音楽を表現できる、アウレリアーノ・ペルティレのような男もいたのである。四五才以降、次第に重い役をこなしていったベンニャミーノ・ジーリも、その仲間になる。
 こういうテナーが、戦後のイタリアにはいなくなった。それ以外の国には、何人かいた。しかし彼らはひどく単純化された価値観の中で、正当な評価を与えられなかった。
 そのひとりが、アメリカにいる。その名を、リチャード・タッカーという。

ブルックリンのユダヤ人

 なぜ彼を取り上げるかというと、同じ年に、同じシェニエ役のライヴがあるからである。
 前述したように、テバルディはこの年の春にメトに出演したが、そこでも《シェニエ》を、タッカーと共演して歌った。
 全曲ではないが、主役ふたりの主要な部分がCD化されており、ウィーン盤と比較できる。
 イタリア人の歌ばかり聞き慣れた方には、タッカーの発声は、耳慣れないものに聞こえるかも知れない。しかし、耳慣れないものだから価値が低いとは、限らない。
 若いころの彼は、緊張して響きが硬苦しくなる悪癖があった。
 ところが四五才ごろから声帯の筋肉が柔らかくなり、無駄な共鳴が消え、ぜい肉のない澄んだ声が出るようになった。これは、窮屈なスタジオ録音では決して発揮されない特長だった。
 一九六〇年には、彼は四六才である。その明晰な響きのために、口跡は鮮やかであり、フレージングはくっきりと、音色の変化は切実に、歌いあげは、胸がすくように見事に鳴り渡る。
 彼はこの声を一九七五年、六一才の突然の死まで保ち続けた。その歌手寿命の長さは、コレッリやデル・モナコが五十才前後で極端に衰えたのと対照的である。
 その差は、声帯とそのまわりの筋肉の柔らかさと、その使い方によるのだろう。
 コレッリたちは硬い声帯をさらに硬く張りつめてアゴを突きだし、下顎に共鳴させるようにして声を出した。そのため音程はぶら下がり、小回りもきかず、消耗も激しかったのである。
 他の声域でも似たような発声をするひとが、現代の日本では少なくない。こういう無理な発声が〈本場物〉であるという理由だけで〈正しい〉とは、私には思えない。
 もっと大きな問題がある。共鳴の多い声は、同じような声やオーケストラと同時に鳴ると、全体の響きを混濁させ、団子のような、騒々しい音の塊りにしてしまうのである。
 私は、もしウィーン盤にタッカーが参加していたら、どんなに素晴らしかったろうと、勝手な想像をする。
 その澄んだ歌声は、決して混濁せずに、美しく明晰なハーモニーを聞かせたはずだ。タッカーとウィーン・フィルの息をそろえたかけ合いを、聴いてみたかったものだ。

 しかしタッカーは、ウィーンの舞台には立たなかった。彼は、アメリカ人である。
 〈本場主義〉の方には、それだけで認めがたい異邦人ということになるだろう。
 だが、〈アメリカ人〉とは何だろう。イギリスから来たアングロ・サクソンのことを指すなら、タッカーはそうではない。
 彼の両親は、ルーマニアから来たユダヤ移民だった。そして彼の本名は、リチャードではなくロイベンという。
 あるひとがアメリカ人とは、「アメリカ人であろうとしているひとたち」だと述べていた。
 非アングロ・サクソンのタッカーなどは、このタイプの〈アメリカ人〉だろう。しかし、そのことと彼の歌が〈アメリカ的〉――悪い意味で――であるかどうかは、別の問題である。
 彼はユダヤ教会で歌をはじめた。
 そして彼の母は、たとえお前が有名になっても、ヨム・キプールの祭日に教会で歌うことだけは、絶対に忘れてはいけないよと教えた。
 生真面目な彼は死ぬまで忠実に約束を守り、毎年必ず教会の先唱者をつとめていたという。
 彼はブルックリンに育ったけれど、音楽的には東欧のユダヤ村そのままのような環境から出てきたのだ。

 話が飛ぶが、クレンペラーはハンブルクにいた若いころに、イタリアの名テナーのカルーソーが歌う《カルメン》などを指揮した。
 そのときカルーソーは、かつて東欧に演奏旅行をしたとき、ユダヤ教会の先唱者の歌を聴いて多くのものを得た、と語っていたという。
 タッカーは遥かに、その系譜を継いでいる。
 彼ばかりではない。
 彼の妻の兄であり、トスカニーニが重用したジャン・ピアースこと、本名ヤーコブ・ピンカス・ペルレムートや、あるいはワルターにその歌声を愛され、ウィーンとメトで活躍したチャールズ・クルマンなどのユダヤ人二世テナーたちの発声法は、アメリカ産のものではなく、東欧のユダヤ村に由来するものなのである。
 そしてそれは、マーラー時代にウィーンで大活躍したレオ・スレザーク――ボヘミヤ生まれのユダヤ人――などと同根のものなのだ。
 彼らが、耳のよい大指揮者たちに好まれたのは、全員に共通するその哀しく明晰な声が、オーケストラの響きとよく調和したからだろう。

 もしタッカーの両親が移民しなかったら、彼は疑いなくウィーンで活躍しただろうと、私は想う。同じルーマニア系ユダヤ人のロゼーがそうしたように、東欧の才能はまずウィーンに集まったからだ。そしてそこでハプスブルク文化の薫陶と、洗練を受けたことだろう。
 だが彼らは海を渡り、ウィーンの方もマーラーのころを最後に、東欧世界の首都ではなくなった。広大な版図から無数の才能が集まり、シノギを削る首都では、なくなった。
 それゆえ、半世紀後のカラヤンは全ヨーロッパ的規模から、その手駒を集めようとした。
 〈小世界〉とあだ名されたハプスブルク帝国を超える範囲から人材を求めなければ、昔日の栄華にはとうてい及びえないからである。
 カラヤンがもたらした〈国際化〉とは、一面では古えの多民族歌劇場を、現代風に甦らせることだったのである。
 だが多民族国家のハプスブルク帝国が、結局は解体してしまったように、そこには多くの不満や対立が、避けがたく生まれることになる。
 その追跡は、ここではひとまずおこう。
 何はともあれ、ウィーンの音楽シーズンは六月で終わりだからである。
 我々は、風光明媚なるザルツブルクの地に行こう。真夏の夕べ、美しき街ではじまる音楽祭に、参加することにしよう。  

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