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 個性の系譜

 毎年七月と八月に開かれるザルツブルク音楽祭は、一九六〇年に新時代を迎えた。
 多年の懸案だった新祝祭劇場が完成し、音楽祭はついに最新の設備を備えた、世界でも一級の劇場を持つことになったのだ。
 その規模は壮大である。
 設計者の細心の注意により、外観上は威圧感を与えず、街の景観に溶け込むように建てられていたが、内部の舞台は幅三十メートル、奥行六五メートル、高さ五四メートルもある。
 きわだつのが横幅の長さで、欧州では他に類を見ない。さらに左右両側に同じ幅の脇舞台を持つため、全幅は九十メートル、面積五千平方メートルの広さになり、しかも舞台は十五の部分に分割され、独立して可動する。
 ピットも非常に大きく、大編成の楽団もゆうゆうと収めることができる。客席数は約二千二百、音響も優れたものであるという。
 工事が始まったのは、カラヤンが音楽祭の芸術監督になるのと同じ、一九五六年だった。そのため彼が設備や、音響面の細部にまで意見を出し、その意向どおりに工事は進められた。
 だから、これは公共の建物でありながら〈カラヤンの劇場〉といってよかった。着工を許可した当時のザルツブルク州知事は、この贅沢のために次の選挙で破れたが、そのお陰でカラヤンは、理想的な歌劇場を手に入れたのである。
 それにしても、音楽祭の主柱とされるモーツァルトのオペラには、この劇場は広すぎる。グランド・オペラやワーグナーの楽劇など、大規模な作品こそがふさわしいだろう。
 だから巨大な新劇場の出現は、音楽祭の演目の性格にも変化を及ぼすことになったが、その変化をカラヤンは決して〈伝統からの逸脱〉とは思っていなかった。
 創設以来、音楽祭は必ずしも一貫した理念によって運営されてきたわけではなく、常にひとりかふたりの強力な人物によってリードされてきたのだ、と彼は主張する。そして今その任にあるのが自分であると、彼は信じていた。

 一九〇八年にこのザルツブルクに生まれたカラヤンは、十二才の年に始まった音楽祭をその目で見、肌で感じながら育った。
 少年合唱の一員としてまた副指揮者として、彼は常にその中に参加していたのである。
 音楽祭の歴史をふりかえると、さきのカラヤンの主張は、たしかに嘘ではない。
 理念とか伝統といった言葉は常に、その他大勢のひとびとによって唱となえられていただけで、各時代の指導的人物はそのようなものに拘泥こうでいせず、自己の芸術的信念を音楽祭に投影することを第一としてきた。
 音楽祭の最初の十年間をリードしたのは、作曲家のシュトラウス、劇作家のホフマンスタールと、そして誰よりも、演劇人のマックス・ラインハルトだった。
 この催しを〈音楽祭〉と訳すのは、本来は適当ではない。演劇と音楽の綜合芸術祭であり、特にラインハルトがいたころは、演劇の比重が大きかった。最初から、モーツァルトだけがその柱ではなかったのである。
 ラインハルトは独創的で、実験精神にあふれた演出家だった。
 普通の劇場の制約をきらい、ザルツブルクの街そのものを舞台装置として利用するような演出を考えつき、ホフマンスタール作の《イエーダーマン》を大聖堂前の広場で上演した。
 中世の野外劇に想を得たこの演出は圧倒的な成功を収め、現在でもザルツブルク音楽祭のシンボルとして、上演され続けている。
 都市そのものを劇場とする、それがラインハルトの目論みであった。
 崖の上にある馬術学校を劇場にすることも、彼が考えた。一九三三年のことである。
 馬術学校となる前に一種のコロシアムとして使われていたことの名残なごりである、岩をくり抜いた三層の桟敷を背景として利用し、広大な舞台に中世の街をまるごと再現し、ゲーテの《ファウスト》を上演した。
 場面転換の代わりに、役者たちは街並みを歩いて移動し、それぞれの場面に参加した。ラインハルトの巨大な想像力は、一大スペクタクルとなって観客を呑み込んだ。
 上演のための付随音楽は、同市のモーツァルテウム音楽院長、パウムガルトナーが作曲したものだったが、指揮はその弟子に任せられていた。彼こそ、二五才のカラヤンだった。

 ラインハルトは、やがて映画に関心を移してハリウッドに去ったが、入れ替わるようにして次のリーダーがやってきた。
 イタリア人、トスカニーニである。
 一九三四年に演奏会を指揮して初登場した彼は、翌年からオペラも上演するようになった。
 その演目のうち《フィデリオ》は問題なかったが、《ファルスタッフ》は論争を巻き起こした。モーツァルトの街、ザルツブルクでヴェルディとは何事だ、というわけである。
 だが「ファルスタッフなしならトスカニーニなし」という簡潔な電報が、反対派を打ち砕いてしまった。えらぶるだけで確固たる信念があるわけでもない彼らが、トスカニーニに勝てるわけがなかった。
 ナチス・ドイツの誕生によって独墺二国の関係が悪化し、音楽祭の一番のお得意だったドイツ人旅行者が激減したため、欧米各国の客を呼べる〈トスカニーニ〉の名前がどうしても必要だった時代状況が、この指揮者に味方した。
 トスカニーニにとっても、ムッソリーニ独裁に反対してスカラ座を飛び出し、ヒトラーの干渉を嫌ってバイロイト音楽祭への出演をやめたこの時期、自己の芸術を展開する場として、ザルツブルクこそ最適であった。
 一九三七年の音楽祭では、彼は四本ものオペラを上演し、演奏会も指揮した。もちろん、他の誰よりも指揮回数は多く、ワルターすらその陰に隠れてしまった。
 四本のうちモーツァルトは《魔笛》だけであり、さらに翌年からは《タンホイザー》、その次には《ボリス・ゴドゥノフ》と《セビリアの理髪師》が加えられることになっていた。
 もはや、〈トスカニーニ音楽祭〉と呼んだ方が正確だったのである。

  暗き客席より

 〈ザルツァッハ河畔のハリウッド〉と嫌味を言われたほど、このころのザルツブルクには、華美に着飾った紳士淑女があふれた。
 トスカニーニ自身は本当に音楽にしか興味がなく、社交界を軽蔑していたが、彼にはそのようなひとびとを群れ集わさずにはいかない不思議な力、輝きがあった。だから彼の行くところはどこも、華やぎと彩りが包んだのである。
 当時、アーヘン歌劇場の監督になっていたカラヤンは、トスカニーニのすべての舞台練習にもぐりこんだという。
 その音楽づくりを学ぶためだけではないだろう。男と生まれた以上、トスカニーニのようになりたい。ひとに騒がれ、畏れられてみたい。
 暗い客席に潜んで息を殺し、焼けるように熱い憧れを抱いて、光りあふれる舞台の前に立つ短気な小男を、彼は見つめていたはずだ。
 いや、一国の首相になるような男は若いときから、根拠もなくそのことを確信しているというから、カラヤンもただ未来の自分の姿を、そこに見ていただけかも知れない。
 私もああなるのだ、と。

 トスカニーニの録音のうち、ここでは一九三七年の《ファルスタッフ》を紹介する。
 跳ね回るような生命力に加え、驚くべきはその響きの明快さである。早口でまくしたてる歌手の、変幻するアンサンブルが口跡もあざやかに、すべて聴き取れるさまは本当に凄い。
 機械的に縦の線をそろえたのでは絶対不可能な芸当で、トスカニーニのリズム感と耳の良さの証明と言えるだろう。ウィーン・フィルもノリにノッているのがよく判る。
 残念ながら、CD化されたGDS盤は録音が泥のようで力がなく、以前のLPの方がよい。

 しかし一九三八年の独墺併合により、ナチス嫌いのトスカニーニはザルツブルクを去った。
 カラヤンの方もどういうわけか、第二次世界大戦の時期を通じ、この音楽祭に積極的には関わらず、ドイツ国内の活動に専念していた。
 敗戦後、とるものもとりあえず音楽祭が再開された時点で、はじめてカラヤンは音楽祭の一翼を担う重要人物となるのである。
 一九四六年の音楽祭では《フィガロの結婚》と《ばらの騎士》の指揮を任された。
 ところがいよいよ本番という段になって、連合軍から横槍がはいった。元ナチス党員カラヤンの出演はまかりならん、というのである。
 誰が思いついたのか、主催者側の解決策は、いかにも〈オーストリア的〉というべき、八方美人で、したたかなものだった。
 指揮台には影武者を立て、カラヤンはプロンプターボックスの陰から指揮をしたのである。
 木偶人形をやらされたふたりの指揮者、プロハスカとスワロフスキーこそいい面つらの皮だったが、そこまでしてカラヤンを失うまいと考えるほど、すでに関係者たちが彼の魅力に惹かれていたことが、この一件で明瞭になる。

 一年後の一九四七年十月、晴れてカラヤンの処分は解除された。
 一九四八年の音楽祭では《フィガロの結婚》と《オルフェオとオイリディーチェ》の新演出を、今度こそ堂々とピットから指揮をした。
 しかし、これですんなりと栄光の道が彼の前に展けたわけでは、なかった。

 彼の処分解除直前の音楽祭で、《ダントンの死》という新作オペラが、世界初演された。
 創設以来、新作の初演が行なわれるのは音楽祭では初めての試みであり、好評なら以後も続けていこうと、主催者たちは考えていた。
 第一作の成否が、その後の活動の鍵を握ることはいうまでもない。先駆さきがけの役割を与えられたのは、まだ二九才のオーストリア人作曲家、ゴットフリート・フォン・アイネムだった。
 指揮者にはクレンペラーが選ばれた。
 戦前〈現代音楽の守り手〉として活躍した彼なら、間違いなく初演を成功へ導いてくれるだろう。作曲者も含めてだれもがそう思い、この人選を最善のものと信じた。
 ところが、指揮者自身はそう考えなかった。いったん引き受けながら、彼はこの作品を嫌った。そして初演の二週間前になって、病気を口実におりてしまったのである。
 以後、クレンペラーはロマン派以前の演目に傾斜していくが、音楽祭の方はこの作品を投げ出すわけにはいかない。そこで急きょ代役となったのが、クレンペラーのアシスタントとして採用されていた三二才のハンガリー人、フェレンツ・フリッチャイであった。
 本来は一公演だけ指揮する予定だった彼が全公演を指揮して、初演は大成功になった。

 この公演のライヴは、ストラディヴァリウス社からCD化されている。
 フリッチャイの指揮は、終景の死刑台の場など、スリルにみちた俊敏な響きをアンサンブルから引き出しており、チェボターリやシェフラー他の歌手たちも、熱演している。そしてウィーン・フィルの音色は、戦前からのあの澄明な弦の響きがまだ薫っていて、美しい。
 《ダントンの死》は欧州各地で上演される話題作となった。アイネムはこの成功によって音楽祭の理事となり、実質上の芸術監督として、演目の決定に大きな影響を及ぼすことになる。
 自宅もザルツブルクに移し、彼はこの音楽祭を現代音楽のための一大実験場、そして聴衆の啓蒙の場とする気だった。
 演奏し続ければ、やがて聴衆たちはこれらの音楽に親しむようになり、好んで聴くようになるだろう、アイネムはそう信じていた。

  全員が承認するだろう

 だがこのとき、もうひとりの〈フォン〉が、理想の実現に燃える彼の前に立ちはだかった。
 ヘルベルト・フォン・カラヤンである。
 アイネムとは戦時中のベルリン国立歌劇場時代の同僚で、曲を書いてもらったこともある間柄だったが、戦後のアイネムの活動は、彼には気に入らないものだった。
 カラヤンの最も大切なレパートリーであるリヒャルト・シュトラウスは、ザルツブルク音楽祭の創立者のひとりだが、アイネムは彼のことを〈化石〉や〈ミイラ〉よばわりしていた。
 しかしとてもカラヤンには、アイネムや彼の仲間が、その〈化石〉にとって代われるだけの音楽を作曲しているとは思えなかった。
 〈現代性〉を隠れ蓑にした凡作を、なぜありがたがらなければならないのか。
 彼は一九四七年の大晦日に、宣戦布告となる挑戦的な手紙をアイネムに送りつけた。若く野心に満ちた〈ふたりのフォン〉が、ザルツブルク音楽祭の将来をめぐって激突したのである。

 ところが勝負は、あっけなくついた。
 カラヤンにもうひとり敵がいたからだ。ヴィルヘルム・フルトヴェングラーである。
 年若いライバルに異常なまでの嫉妬をしたフルトヴェングラーは、ザルツブルク音楽祭復帰の条件として、「怪僧ラスプーチンじみた男」カラヤンを追い出すことを当局に要求した。
 アイネムはこれさいわいとフルトヴェングラーにつき、はさみ撃ちを受けたカラヤンは敗北した。一九四九年の音楽祭では、オペラを指揮させてもらえず演奏会だけになり、翌年には自ら身を引いた。
 アイネムは勝った。
 しかしその勝利は、カラヤンよりはるかに化石じみた老人の力を借りた、なりふりかまわぬものだったのだ。いわば、未来が過去と手を組んで、現代をやっつけたのである。
 ふたりはそれぞれの道に専念することで、共存した。フルトヴェングラーはモーツァルトなど伝統的な演目を指揮し、アイネムは〈現代音楽〉のプログラミングを行なった。
 なかでも、一九五一年のベーム指揮の《ヴォツェック》は、批評家から絶賛を受けた。
 だが時代は、以後アイネムに逆風になる。
 東西冷戦下の西側世界では、現代芸術の特質である左翼性は歓迎すべからざるものだった。
 さらにもっとまずいことは、客が入らないことである。
 《ヴォツェック》さえ、四割しか客が入らない大赤字だった。他の〈現代音楽〉は言わずもがなであり、アイネム以外の音楽祭理事たちの不満はつのっていった。
 一九五四年のフルトヴェングラーの死後、彼らがカラヤンに急接近していったのは、当然の成りゆきである。いかに有能であろうと、客が呼べなければ誰もついては来なかったのだ。
 客を呼べる魅力、人を惹きつける雰囲気などというものは、芸術性や実務的能力などとは全く無関係の、どうにもならぬものである。
 自分が音を出すわけでない指揮者にとって、それは最も大切な要素であり、そしてカラヤンの持つそれは、トスカニーニとフルトヴェングラー以来、まさに稀有のものであった。

 かくて一九五六年三月、カラヤンはザルツブルク音楽祭の次期芸術監督として契約した。
 そのときある関係者が自信満々の彼に、音楽祭は何事も、芸術委員会の全会一致の承認が必要だからと、釘をさした。
 委員会は、かつての勢いはないとはいえ、アイネムそのひとが委員長である。
 だがカラヤンは答えたという。
「大丈夫。私が案を出せば、全員が承認するだろう」
 これでも彼は、妥協したつもりだった。全権を得るのが当然のところを、承認の形式だけは委員会に残したから、である。

 一九五七年、トスカニーニの故事にならい、《フィデリオ》と《ファルスタッフ》で登場したカラヤンは以後、音楽祭の全演目、全出演者の選定に、その辣腕を振るった。
 新劇場の完成まで、彼が好んだのは馬術学校の広い舞台だった。《フィデリオ》に続いて、《ドン・カルロ》《オルフェオとオイリディーチェ》と、年毎に新演出を披露している。
 広い舞台を好み、同時に三年間モーツァルトを一本も指揮せず、先輩のカール・ベームたちに任せきりにしていたあたりに、この芸術監督の志向ははっきりと現われている。
 そして一九六〇年、待望の新劇場こけら落としに彼が選んだ作品は、またも論議を招いた。
 モーツァルトではなく、シュトラウスの《ばらの騎士》だったからである。

 カラヤンは、シュトラウスがこの音楽祭の功労者のひとりであり、そのオペラを上演することも音楽祭の重要な伝統となってきたことを理由に、自らの正当性を主張した。
 そして、結局は外野が何を言おうと〈帝王〉の意志が変わるはずもなかった。
 ルドルフ・ハルトマン演出によるこの公演は同時期に映画化され、今も見ることができる。
 エリザベート・シュヴァルツコップ紛する元帥夫人の名演もあり、史上最も高名なオペラ映画となったものだが、ここでは、実際の開幕公演の録音について述べることにする。
 開演直後は、さすがのカラヤンも硬くなったか、せかせかと余裕がない。
 空気が一変するのはオットー・エーデルマンの歌うオックスが登場し、その存在感で舞台をさらったときで、以後演奏は安定し、ここから第一幕の終わりまでは、この公演の白眉となる美しさを響かすことになる。
 映画版のシュヴァルツコップは、実演では一度しか歌わず、開幕も含む他の五回に元帥夫人を歌ったのは、リーザ・デラ・カーザだった。

 デラ・カーザはとかくシュヴァルツコップと比較され、日本では評価が低い。たしかにオンマイクのスタジオ録音には、シュヴァルツコップの細かい音楽づくりの方が、向いていた。
 だがライヴの広い会場では、デラ・カーザの澄んだ伸びのある歌声は、シュヴァルツコップの臈たけた、細密な表情とは別の魅力をもつ。
 この録音でも第一幕の有名なモノローグや、続くオクタヴィアンとのやりとりで、その美しい歌いまわしが堪能できる。美しさの絶頂にあればこそ、やがて来る老いを予感せざるを得ない、若き元帥夫人がここにいる。
 《ばらの騎士》の話は、次章に続く。

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