Homeへ

 停滞の兆し

 前月に続き、祝祭大劇場開場公演における、カラヤンの《ばらの騎士》の話をする。
 この演奏の面白さは、カラヤンの長所と短所が混在しているところにある。前月で触れたとおり、第一幕の後半は元帥夫人役のデラ・カーザの澄んだ歌声を活かした、心にしみとおるような美しい演奏だった。
 しかし第二幕の前半、〈銀のばらの献呈〉の場面になると、彼の悪いところが出てくる。念入りに、情感豊かにゾフィーとオクタヴィアンの二重唱を描きだそうとして用いた遅いテンボが、完全に裏目に出てしまうのだ。
 遅いテンポ自体が悪いわけではない。テンポの遅速は指揮者自身の呼吸に由来するものだから、速ければ生気があり、遅ければもたれるとは、一概にはいえない。
 問題はどんなテンポであれ、音楽が呼吸しているかどうかなのである。いかに遅くともリズムが弾んでさえいれば――クナッパーツブッシュのように――そこには生気が宿る。
 しかしここでカラヤンがとったのは、呼吸なしに延々と引き伸ばしていく方法だった。
 とはいえ演奏している方も聴いている方も、その間ずっと息を止めていたら死んでしまうから、音楽とは無関係に呼吸をすることになる。
 呼吸の支えを失った音楽は生気を失い、停滞し、バラバラになる。音から音、フレーズからフレーズをつなぐリズムがないから、バラバラに解体されてしまうのだ。
 この二重唱の後半、指揮者はクライマツクスを求めて盛り上げようとするが、その前の部分との関連がないために、性急で強引な感じになってしまう。カラヤンの指揮がときに「嘘くさく」聞こえるのは、この種の強引さが鼻につくからだと、私は考えている。

 この録音においては、まだその欠点はときどき――特に、デラ・カーザとオックス男爵役のエーデルマンが舞台にいないとき――顔を出すだけで、基本的には音楽は、呼吸している。
 しかし停滞は以後、年々壁のカビが拡がるように増殖していく。この演奏と、四年後の一九六四年の公演(前号参照)の第三幕の三重唱を較べると、その差は驚くべきものだ。
 肥大化し、水ぶくれしたその響きは、ひとりカラヤンだけでなく、六〇年代の演奏全般に見られる傾向をしめすことになるだろう。だが、それは先の話だ。一九六〇年という年においては、まだその兆しが見られるにすぎない。
 このこけら落としの翌日の七月二七日、座席数七百と小さなザルツブルグ州立劇場で、《コシ・ファン・トゥッテ》の新演出上演が行なわれた。
 この公演は、《ばらの騎士》に較べ、旧時代の遺産とも言うべきものであった。
 創設当初の音楽祭のオペラ公演が行われた場所での上演であったし、指揮をしたのも六六才のベテラン、カール・ベームだった。
 ベームの《コシ》は、ほとんどザルツブルク名物となっていて、一九五四年、六〇年、六二年、七三年、七四年の丘種の公演がレコード化(六〇年のみLPで、他はCD)されており、その人気のほどがうかがえる。
 しかし、ベームは、本当に《コシ》に向いた指揮者だったのだろうか。

 ベームがこの音楽祭に初出演したのは、一九三八年のことである。四四才だった。
 独墺併合後、ナチス体制下で開かれた最初の音楽祭で、もはや戻ることのないトスカニー二とワルターに代わって、ふたりの演目を指揮したのがフルトヴェングラーとクナッパーツブッシュとグイと、そして彼であった。
 だが〈千年帝国〉はその後七年で終り、第三帝国は硝煙の中に消えてしまった。
 ベームはナチス党員ではなかったが、戦時中のウィーン国立歌劇場で監督を務めたりしたためもあって、敗戦後は同僚たちと同様、二年程の演奏禁止処分を受けている。
 処分が解けてウィーンに復帰してみると、歌劇場ではクリップスが大活躍していた。クリップスもベームも得意の演目はモーツァルトだったから、ふたりは競合するかたちになった。
 結局、人望が薄かったらしいクリップスが去り、彼の手になる〈モーツァルト・アンサンブル〉は、そのままベームが引き継いだ。
 工業界に人気があったベームは首相の後押しを受け、一九五四年から再びウィーン国立歌劇場の音楽総監督に就任した。
 文化大臣推薦のクレメンス・クラウスと競っての勝利であり、失意のクラウスはこの年、メキシコの高地で心臓マヒ死することになる。
 しかし〈勝ち抜き指揮者合戦〉を連勝したベームにさえ、古き陰謀の都ウィーンは、勝利の美酒を長く飲ませはしなかった。
 一九五五年、国立歌劇場再建記念の晴れがましい行事を終えるや、一転して激しいベーム批判がはじまったのだ。
 監督のくせに外国ばかり旅行していて、職務に忠実でないとか、もっともらしい理由がついていたが、こんなときの群集心理には論理などない。就任のときには松明行列を組んで祝ってくれた、その同じ聴衆が今度は敵になった。
 一九五六年三月一日の《フィデリオ》の晩、すでに辞意を表明していたベームを迎えたのは拍手ではなく、激しい野次と口笛だった。
 
 その後任となったのがカラヤンであり、彼を招くために陰謀を仕組んだ連中がいたのだと、ベームは後に怒りをあらわにしている。
 ところがベームとカラヤン自体の関係は、険悪なものではなかった。そのためかどうか、一年たたないうちにベームはウィーン国立歌劇場のピットに戻ることになる。
 ベームというひとを考えるとき、もうひとつ釈然としないのは、こういう行動なのだ。
 石もて逐われた歌劇場に、平然と戻れるものだろうか。監督としては評価しないが、指揮者としては歓迎する、などと自分勝手な聴衆の拍手を、笑って受けられるものだろうか。
 しかし彼はその後も間断なく登場し、モーツァルトとシュトラウスのオペラに関しては、ほとんど彼の独壇場になった。
 屈辱さえ忘れるほどウィーンを愛していた、ということなのだろうが、私は同時に、舞台人としてのしたたかな打算を感じる。

 茨の花道

 彼によく似た例として、私はソプラノのミレッラ・フレー二のことを思い浮かべる。
 第六章でも触れたが、一九六四年にカラヤンは、彼女をヒロインとしてスカラ座で《椿姫》を上演し、惨憎たる失敗をすることになる。
 その前年、カラヤンとフレー二、そして演出のゼッフィレッリのトリオは、《ボエーム》の新演出初演によって大成功を得ていた。
 その勢いをかって《椿姫》に挑んだのだが、聴衆の方はヴィスコンティ演出、カラス主役による八年前の上演を忘れることができず、フレーニがカラスと同じ役を歌うなど冒涜だと、猛反発したのである。
 神経質になっていたフレー二がアリアの高音を外した瞬間、凄まじい怒号が浴びせられ、結局彼女は、ひと晩だけで《椿姫》を降りた。
 しかしこんな目にあっても、フレーニはスカラ座を去りはしなかった。十四日後に戻ると、得意の《ボエーム》で喝釆を浴びた。そしてそのまま三十年、この劇場にとどまっている。
 ただし、その後もモデナやロンドンでは歌った《椿姫》を、スカラ座では二度と歌わなかった。あそこの客には絶対に聴かせてやらない、これが私の復讐だと、彼女は語っている。
 しかしそれは虚勢で、虎の尾を踏むような危険を再び冒す愚を、避けたと見るべきだろう。彼女には、スカラ座が必要だったのだ。
 演奏家というものの特殊な立場を考えれば、ベームやフレーニの執着は当然のことなのかも知れない。演奏家は、作曲家でも画家でも彫刻家でも、詩人でも作家でもないからだ。
 そういう芸術家たちは、世間に背を向け、自分の工房で作品を――交響曲であれ絵であれ大河小説であれ――作り続けることができる。いつの日か、あるいは死後に、その価値を見い出してくれる人物の出現を待てばよい。
 演奏家はそうはいかない。演奏を聴きに来た聴衆がいてはじめて、彼は演奏家たりうる。その日その場の拍手喝釆以外に、彼の名声を保証してくれるものはないのである。
 だから演奏家は、芸術家というより芸人に近い。石にかじりついても、舞台を離れてはならない。野次られるのも舞台の板の上だが、再起のチャンスもまた、板の上にしかない。
 ベームにとってのウィーン、フレー二にとってのスカラ座は、そうした恥も外聞も捨てるだけの価値のある舞台であったのだろう。他の場所ではけっして得られない栄光が、そこにはあると彼らは信じたのである。
 そして彼らは間違っていなかった。
 少なくとも日本の我々にとって、彼らとその劇場とは、分かちがたい結びつきとして印象づけられているからだ。
 この芸人根性に対しては、青臭い心情論などは語るも愚かなのかも知れない。
 しかし私個人としては、監督辞任後、十三年間もウィーンのピットに戻らなかったカラヤンや、野次をきっかけに二度とスカラ座で歌わないレナータ・スコットの方が、子供っぽいが毅然たる自負の持ち主であるように思える。
 だが新天地に活を求めることは、大変な勇気が必要になる。それを嫌って戻るなら、今度は鉄面皮が必要になる。どちらにせよ、その選択には強烈な心痛が伴ったはずだ。
 舞台は演奏家に名声と報酬を与えるが、その花道は茨で飾られている。

 当然と言えば当然のことに、ベームはウィーンを最後に二度と監督職を引き受けず、ウィーンとアメリカのメトロポリタン歌劇場を中心として、客演指揮者として活動した。
 ただし客演といっても新演出公演なども指揮する、一目置かれた存在である。
 この一九六〇年にも、彼は前年末から三月までメト、その後はウィーンにいた。
 テープなどで、その動きが確認できる。メトではニルソン主役の《トリスタン》《フィデリオ》《ワルキューレ》を聴くことができるし、ウィーンでは、シュヴァルツコップをヒロインとする《カプリッチョ》がある。
 そしてザルツの《コシ》と、名声にふさわしい量のライヴが遺っているといえるだろう。しかし私は困惑せざるを得ない。どれも生硬に過ぎ、魅カ的な演奏には思えないからだ。
 
 日本では、ベームこそカラヤンのライバルとする時期が、六〇年代から七〇年代にかけ、長く続いた。
 ライバルというのは不正確かも知れない。カラヤンを聴くのは入門者、通はベームを聴くといった雰囲気が、そのころはあった。
 当時のウィーンでも、カラヤン派、べ-ム派というファンの二大派閥があったらしいが、日本ではさらに、ベルリンのカラヤン対ウィーンのベーム、という図式になっていた。
 それは、現代対伝統、技術対精神、素人対玄人といった、ある種のファンが大好きな対立関係を、もっとも象徴的に示すものだった。
 しかし私には、ベームはまるで伝統的とも、精神的とも、玄人向けとも思えないのである。頑固親父的な風貌はともかく、その演奏スタイルは今世紀前半に登場した、ひどくドライで即物的なものであり、強引で唐突な加速や、叩きつけるフォルテなど、素人にもはっきりと分かる〈凄さ〉が、その特徴であったと私には思えるからだ。
 伝統的で精神的で、通人好みのドイツの巨匠がいてほしい、という願望の根強い日本の音楽ファンの、老ベームこそそれに違いない、という思い込みが、往時の異常なほどのベーム人気をもたらしたように、私には思えてならない。
 昭和五六年の彼の死後、日本での評価がすっきりせず、ベームヘの熱狂ぶりに世代の断絶のようなものが見られるのは、ファンの側の思い込みと現実の彼とのズレが、非常に大きかったからではないだろうか。
 一般に演奏家は、死後の方が評価を高める傾向にあるのに、ベームの場合は逆である。私の周囲では、昭和四〇年生まれあたりを境に、生前の彼をそれほど知らない年代になるにつれ、彼への関心は薄れていくようだ。

 ベームの様式

 イメージのことはさておいて、実際の演奏に目をむけても、一九六〇年のものであれ、他のどの年の録音であれ、私にはベームの《コシ》の定評の高さが、どうも理解できない。《コシ》の音楽がもっているはずの、豊かにたゆとう旋律の波動や呼吸を、ベームの演奏にはまったく感じることができないのだ。
 無愛想な響きと、単純な呼吸で鳴らしているだけのように、私には聞こえる。軍楽風というか行進曲風というか、リズムはンパ、ンパと単調そのものだ。
 
 そういう、ぶっきらぼうな機械的演奏こそ、モーツァルトにふさわしいと思われていた時代があったのだ。いや、今でも日本のオペラ界、教育界では強固に信じられているようだ。
 たしかにモーツァルトの音楽のもつ自然な息吹には、作為的な誇張はそぐわない。だが誇張を避けるのと、生硬に演奏することとは同義ではない。そこがごっちゃになっている。
 こうして書きながら、私が《コシ》の理想的演奏として頭に描いているのは、フリッツ・ブッシュが一九四〇年にストックホルムで上演したもののテープである。
 CDではないのが残念だが、お願いだからこれだけは、テープ注文の煩雑さを厭わずに、すべての読者に聴いてほしい。音質も放送を音源としており、充分満足できるものだ。
 誇張も停滞もせず、生き生きと軽やかに、しかも歌うべきところは歌っていくという、こういう演奏こそが《コシ》にふさわしいと思う。
 ふたりのヒロインが厚化粧のオバサンではなく、はじけるように若い、十代の娘たちなのだと感じさせてくれる、唯一の演奏なのだ。
 対照的にベームは、どの年代の《コシ》の録音を聴いても、くぐもった声の女声陣が起用されており指揮者がすべて選んだわけではないだろうが、精彩に欠けている。
 そしてこの歌手の声質が象徴するように、べ-ムにも、ブッシュのような爽快さがない。
 ブッシュが長く務めたドレスデン国立歌劇場の監督を、一九三四年に引き継いだのがベームなのだが、ふたりの様式はまったく違う。
 テーブはともかくとしても、ブッシュのグラインドボーン盤(一九三六年録音)だって、ススタジオSPとしてはかなり優れたものである。
 それがまるで無視され――なぜか日本では、ブッシュの《フィガロ》と《ドン・ジョヴァンニ》だけが話題にされる――《コシ》がベームの専売特許のように扱われていたあたり、今世紀中葉のモーツァルト作品の演奏観がいかに堅苦しいものであったかが、よく表れている。
 
 こんな書き方をすると、ベーム・ファンは怒るだろう。
 私個人が主観で何を言おうと、当時のベームがウィーンにおいて、カラヤンに並ぶ人気をもっていたこと、つまり彼を聴きたがる、たくさんのオペラ・ファンがいたことは、まぎれもない事実である。
 その事実は事実として尊重するが、私はそれに迎合はしない。
 だが同時に、都合の悪い事実を隠したりはしないし、自分の意見を狂信的に他人に押しつけもしない。
 事実と、私の主観とを常に並置することが、「はんぶる」の方法であり、それが歴史、というものだと信じている。事実なき主観も、主観なき事実も、歴史ではない。
 私が思うには、ベームの演奏スタイルに適合し、その長所が十全に発揮されるオペラは、モーツァルトでもシュトラウスでもワーグナーでもない。ベルクの《ヴォツェック》だ。
 ベーム独特の乾いた響き、サラサラツルツルしたものでない、ザラザラに乾いてしまった粘膜、を思わせる響きと無骨なリズムは、この陰惨で、破滅的狂気を見事に描出した傑作にこそふさわしい。
 生前の作曲家とも交友があったベームは、この作品を深く愛し、各地で上演を繰り返した。そのいくつかはその国における初演となり、この傑作が世界的に認められるきっかけをつくった功労者といって間違いない。
 
 残念ながら一九六〇年ではないが、前年三月のメトの上演(舞台付では米初演)をテープで聴くことができる。英語による演奏だが、この種の作品ではハンデにはならないだろう。
 《神々の黄昏》のグンターを歌わせれば世界一だった、ヘルマン・ウーデがヴォツェックを歌った。余談だが彼はこのマチネ公演の後、晩の《ドン・カルロ》の大審問官も歌う〈ダブル・ヘッダー〉をやってのけて話題になった。
 マリー役のスティーバーも、こうした現代物の方が向いているし、他の歌手も揃っている。
 しかし主役は、ベーム指揮下のオーケストラである。ヴォツェックの入水のあたりの、噴き上げてくるような感興の大波は凄まじい。
 ベーム自身も非常に満足したようで、メトのオーケストラは、ウィーンでしか経験できないような美の極みに到達した、と語っている。
 現代では、《ヴォツェック》はもっと鋭利に演奏されるだろう。しかし、ベームの演奏の荒々しい追力は、作晶が生まれた両大戦間の時代と密接に結びついたもののように思える。
 それは、ウェーベルンが指揮した、ベルクのヴァイオリン協奏曲の一九三六年のライヴ(フォノグラム)に聴けるのと同じ、荒々しさだ。
 ベームはその時代の証言者であった。そしてそれ以前の時代につくられたオペラも、彼はその筋肉質の様式によって演奏した。ゴリゴリとしたその烈さこそ、ベームの人気の所以であったのだろう。
 ブッシュやクリップスが持っていた柔軟な呼吸が、〈時代おくれ〉などと軽視されていく時の流れのなか、ベームはカラヤンとは別の、現代的様式を代表していたのである。

Homeへ