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  アトラスのピアノ

 ザルツブルク音楽祭では、オペラ以外にも多数のコンサートや、リサイタルが開かれる。
 一九六〇年の八月二日にも、新築の新祝祭劇場でウィーン・フィルの演奏会が行なわれた。
 その演目の一曲がレコードになっている。モーツァルトのピアノ協奏曲第二七番、独奏はヴィルヘルム・バックハウス、指揮はベームだった。今回は、そのバックハウスの話である。

 一九六〇年という年は、とにかくたくさんのライヴ録音のレコードがつくられた年だ。
 私が集計したところでは百四十種ほどが入手可能で(十月までの分は「らいぶ歳時記」ですでにご覧になっていると思う)、一九五九年の約八十種、一九六一年の約百十種に較べると、かなり多い。
 その前後の二十年ばかりの中でも、これは集計していないので、ざっとした印象だが、一、二を争う多さのように思える。
 ただその充実のなかで残念なことは、ジャンルがオペラと交響曲に片寄り、室内楽や器楽が少ないことだ。
 そして、この稿の舞台となっているウィーンとザルツブルクに限定すると、事態はさらに深刻になる。ピアノ・リサイタルはなく、室内楽もフルニエのチェロ・リサイタルの断片が遺っているだけで、協奏曲さえ、ヴァイオリンとピアノが一曲ずつあるだけだ。
 そのただ一曲のピアノ協奏曲が、バックハウスが弾いたこのモーツァルトで、演奏もその希少価値にふさわしい、名演となっている。
 ベームの指揮は、普段の彼の演奏や、数日前の《コシ》などと違って、ぶっきらぼうさが後退した、大きく呼吸する、すぐれたものだ。当時のウィーン・フィルの特徴である、弦の濃厚な音色がよく出ており、また各楽器とピアノとのかけ合いも、実に見事である。
 ベームがどうしてこういう指揮をしたのか、理由は分からない。この日の他の演目(ベートーヴェンの交響曲第七番など)を聴けるなら、何か考えようもあるのだが、残念ながら、この曲がLP化されただけだ。いつもとは違うと指摘するだけにして、余計な想像は控えよう。
 それはともかく、主役はやはりバックハウスである。芯のしっかりした、粒だちの鮮やかな音色、明快な響きを、無駄のない自然体で、たゆとうように音楽に紡いでいく。

 この年七六才になっていた彼は、当時ドイツ最高のピアニストと評価されていた。
 この頃ウィーン・フィルの定期演奏会では、共演するピアニストをバックハウス一人に限っていたという話がある。
 真偽のほどは知らないが、五〇年代から六〇年代の彼らのライヴ録音に、他のピアニストが登場しないのは事実である。
 いや、これはウィーン・フィルに限らない。当時の独墺圏で行なわれたベートーヴェンやブラームスの協奏曲のライヴでは、バックハウスでないものを見つけるほうが難しいくらいだ。
 スタジオ録音においてはライバルとされたヴィルヘルム・ケンプも、ライヴ録音は数枚しかないのに、バックハウスはとにかく多い。
 以下に、レコード化されたものを列挙してみよう。レーベル名は省略する。

(一)ウィーン・フィルとのもの
・ブラームス第二/C・クラウス (五三年)
・ベートーヴェン第四/クナ   (五四年)
・モーツァルト第二七/ベーム  (五六年)
・モーツァルト第二七/ベーム  (六〇年)
・ベートーヴェン第四/クナ   (六二年)
・シューマン/ベーム      (六三年)
・ベートーヴェン第四/ベーム  (六五年)
・ベートーヴェン第四/ベーム  (六七年)
・ブラームス第二/ベーム    (六八年)
(二)他の楽団とのもの
・ベートーヴェン第四/カンテッリ(五六年)
           ニューヨーク・フィル
・ブラームス第二/シューリヒト (五八年)
      スイス・イタリア語放送管弦楽団
・《皇帝》/クナッパーツブッシュ(五九年)
          バイエルン国立管弦楽団
・《皇帝》/コンヴィチュニー  (六〇年)
   ライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
・《皇帝》/シューリヒト    (六一年)
      スイス・イタリア語放送管弦楽団
・《皇帝》/カイルベルト    (六二年)
      シュトゥットガルト放送交響楽団
・ブラームス第二/カラヤン   (六四年)
             ベルリン・フィル

 よくも限られた曲目ばかり、レコードにしたものだとも思うが、独墺の一線級の指揮者がずらりと顔を揃えているのは(イタリア人のカンテッリは別だが)、壮観というほかない。
 しかしひるがえせば、指揮者がまだこれだけ残っていたのに、それに顔を並べられるピアニストが、独墺圏にはバックハウスしか、いなかったということになる。
 いや、いなかったでは言い過ぎになろう。ケンプやグルダやブレンデルなど、いることはいたのだが、後世に何種類もレコード化して、売り上げを期待できるピアニストは、バックハウス一人だったと言いかえよう。
 これはソロのリサイタルでも同様で、例えばザルツブルク音楽祭のものでレコード化されたのは、バックハウス(六八年)以外は、ハンガリー出身のアンダ(五六年、六五年)、ルーマニアのハスキル(五七年)、カナダのグールド(五九年)、そしてソ連のギレリス(七〇年、七一年)と、非ドイツ系ばかりである。
 唯一の例外がエトヴィン・フィッシャーのベートーヴェン・プロ(五四年)だが、これもキャンセルしたミケランジェリの、急な代役としての出演という。そしてバックハウスより二才下のフィッシャーはこの年を最後に引退、六〇年の一月に七三才で亡くなっている。
 五〇年代半ば以降のバックハウスは、天空を両肩で支えて立つギリシア神話の巨人、アトラスのように、ドイツのピアノ演奏の屋台骨を、ひとりで支えていたのだ。

  あらえびすの耳

 このような事情のせいか、六〇年代の日本人たちの批評を読むと、「真のドイツ魂」とか、「ドイツの正統的な演奏家」とか、彼をドイツ的演奏家の典型と見なしていることが多い。
 私はこういう形容が苦手だ。みんなが何となく納得したり、安心したりするだけの、おまじないの言葉のようにしか思えないからである。

 そもそも、若いころのバックハウスは、自国人たちからけっして〈ドイツ的〉な音楽家とは思われていなかった。
 フルトヴェングラーの言葉に、「ケンプの一分間の演奏のためなら、バックハウスの一時間を引きかえにしてもいい」というのがある。
 幻想的で、起伏の激しい演奏をした、とされる(残念だが第二次大戦前の彼の録音を聴いていないので、伝聞でしか書けない)ケンプに対し、バックハウスは技術優先の冷たいピアニストと、フルトヴェングラーは見ていたらしい。
 デビューしたての頃のバックハウスは、イギリスとアメリカで大変な人気を誇っていた。
 それが自国人たちには面白くなかったのか、彼はそのテクニックでアングロ・サクソン人に受けているが、ドイツ音楽の精神性には乏しい音楽家などと批判されていた。後世の日本の評価とは、まったく逆だったのである。
 戦前日本に定住し、我が国の音楽教育に多大の業績を残したドイツ人ピアニスト、クロイツァーは音楽評論家の野村光一に語ったという。
「彼はまことに卓越したピアニストだ。だが、音楽家としては知的な人間ではない。」

 若いころの〈非ドイツ、非精神的〉評価と、老いてからの〈ドイツ的、精神的〉評価。
 この変化を、バックハウスが成長して、テクニシャンから精神的な芸術家に花開いた、大器晩成の物語、として語ることもできる。
 こういう〈成長物語〉の方が、誰にも納得しやすく、それなりに面白い。
 その物語は、しかし、ウソなのだ。彼の録音を聴けば、それがデッチアゲだと分かる。
 なぜなら、若いときの演奏がもし冷たいのなら、年老いた彼の演奏も冷たい。また年老いた彼の演奏がもし〈ドイツ的〉であるなら、若いときの演奏も、〈ドイツ的〉であるからだ。
 つまり、録音で聴くかぎり、彼はなんにも変わらなかった。
 私の聴いた最古の録音、一九〇八年の二四才の《調子のよい鍛冶屋》から、有名な一九六九年の〈最後の演奏会〉におけるシューベルトの即興曲まで、彼は作家の野村胡堂こと、あらえびすの言葉を借りれば、「演奏風格は、申し分なく高朗」であり続けた。
 変化があるとすれば、年とってテクニックが衰えたために、若いとき得意だったドリーブの《ナイラのワルツ》のようなアンコール・ピースを、弾かなくなったというだけのことだ。
 最後にこれを弾かないと、聴衆が帰らなかったというほど人気があったこの曲にしても、一九二五年のSP録音を聴くかぎり、技巧をひけらかすようなことは一切していない。粋で軽やかに、ピアノの美音を堪能させてくれる。
 レコード愛好家として名高いあらえびすの、「名曲決定盤」から引用しよう。
「難曲を難曲らしく弾くことは大抵のピアニストに出来ることだが、難曲を難曲として聴かせず、何の造作もなく弾き上げて、ただその曲の美しさを満喫させるのがバックハウスにだけ許される至芸である。」
 あらえびすの耳は正しかった。
 後年にいたっても、「何の造作もなく弾き上げて、ただその曲の美しさを満喫させる」ことは、変わらないバックハウスの魅力であった。
 批評家たちが、けなすにせよほめるにせよ、ドイツ性だの精神性だの、音楽とは無関係のことにとらわれるなか、ただあらえびす一人が、バックハウスの位置を見定めていたのだ。
 情報の限られていた昭和十四年という時点において、未来を見通すような判断をしてみせた彼の耳には、まったく恐れ入るほかない。
 しかしその不変のバックハウスが、なぜ戦後になると、〈ドイツ的〉と言われるようになったのだろうか。

 バックハウスの音は、美しい。
 しかし彼は、自らそれに陶酔することは、絶対にない。ピンと背筋を伸ばし、前だけを見つめて、ひたすら進む。
 彼は音に、必要以上に響くことを許さない。軽く、敏捷に、小気味よく歩んでいく。
 その一徹さを、第二次大戦前のドイツ人たちは、〈ドイツ的〉とは考えなかった。
 たしかに、例えば〈ドイツ的〉な作曲家の典型であるはずのベートーヴェンなど、その必須の要素であるケレンや大見得は、必ずしもバックハウスは得意としなかったと、私も思う。
 ベートーヴェンのそうした要素を見事に音楽化できたのは、むしろルドルフ・ゼルキンのようなピアニストであったろう。
 どうしても〈ドイツ的〉なる形容を使いたいのなら、ゼルキンの演奏の、起伏の大きなうねりと、爆発するエネルギーこそ、それなのではないだろうか。
 ウィーンとベルリンで活躍したゼルキンは、しかしユダヤ人だった。彼やシュナーベルなどのユダヤ人たちを追い出したあと、ドイツの演奏は変質していったように思える。

  〈ドイツ〉の変容

 その原因はユダヤ人がいなくなったから、ということではない。
 いわゆる新古典主義的なアカデミズムが、若い音楽家たちに浸透した時期が、ちょうど〈アーリア化〉、つまりユダヤ人の放逐が行なわれた時代に重なっていたのである。
 その一九三〇年代に、ドイツで頭角をあらわした若い世代では、音楽を呼吸させることよりも、拍子を杓子定規にきちっと確保することを第一とする傾向が、強まってきた。
 〈ドイツ的〉演奏というのが、拍子が確実でリズムが弾まず、渋い〈いぶし銀〉の響きをもった演奏を意味しはじめたのは、まさにこの三〇年代以降、特に戦後のようである。
 指揮者で頭に浮かぶのは、カイルベルトやヨッフム、シュミット=イッセルシュテットなどである。ベームも基本的にはそうだし、コンヴィチュニーも調子が悪いと、その仲間になる。
 彼らに較べると、その前代のドイツ人指揮者たち、つまりシューリヒトやフリッツ・ブッシュ、エーリヒ・クライバーといった連中は、造形感覚はしっかりしているが、堅苦しくない、柔軟なリズム感と呼吸をもっていた。
 そこが、変わってしまったのである。

 バックハウスは、後輩のリヒター=ハーザーやバドゥラ=スコダのような、真面目一辺倒の音楽家ではなかったが、そのような部分も彼のなかにあった。それが、若い世代の様式と重ねられて、戦後において〈ドイツ的〉と言われる要素になったのだろう。
 確かに、いかにもベートーヴェンらしい短調の有名なソナタ、《月光》や《熱情》などでの彼の演奏は、あまりにも坦々としていて、面白みに欠けている。
 その面白みのなさこそ、重厚深沈たるドイツの芸術なのだ、というのがアカデミズムの発想だが、私はそれに組みすることはできない。
 私は彼のベートーヴェンでは、芝居気の必要な短調の曲よりも、長調の比較的小規模の曲、六番とか二五番《かっこう》などにこそ、そのよさが発揮されているように思う。
 また特徴的なのが協奏曲で、自分の適性を知ってか知らずか、シューマンを唯一の例外として、ライヴが遺っているのは長調ばかりだ。
 深刻な短調では、彼の演奏は生彩を失う。長調においては、音たちの爽快な運動の喜びが、あふれ出す。
 例えばスコダの音が、どれも同じ重さと色で置かれていくのに較べ、バックハウスの音は、アクセントと色を変えながら、軽快に弾む。

 一九六〇年より五、六年前の、もう少し若くて指が充分にまわった五〇年代前半のライヴでは、彼の特長はいっそう分かりやすい。
 例えばカーネギー・ホールのアンコール四曲は洒脱で小気味よく、粋だ。素っ気なく弾いているようで、そのリズムの弾ませ方、さりげない呼吸は本当に素晴らしい。
 面白いのは曲に入る前、指ならしをするように分散和音を弾くことである。その響きによって、音が漂っているような、一種独得の雰囲気が包むなか、おもむろに曲が始まる。
 この習癖が、圧倒的技巧とあふれる生命力をもった今世紀最高のピアニストの一人、ヨーゼフ・ホフマンと似ているのが面白い。
 バックハウスより八才年上、ポーランド出身のホフマンも、曲の前に和音を鳴らし、その音の霧のなかから、ふっと姿をあらわすように曲を開始させていくことを、好んだ。
 アカデミックな観点から言えば、こんなやり方はもちろん間違っている。曲自体をいじったわけではなくとも、序奏を勝手に加えてしまったようなものだからだ。
 その是非を、ここで論じる気はない。否定したい人はそうすればいい。
 しかし、ホフマンやバックハウスのようなすぐれた音楽家がそれを試みるとき、その効果は比類がない。これこそ、芸というものだろう。
 バックハウスはけっして、堅苦しい学究肌の人物ではなかった。その巧まざる芸の素晴らしさが、ここに現われていると、私は思う。

 次に、協奏曲について。これが面白い。
 というのは先に触れた世代的な変化も含め、バックハウスとの共演では、指揮者たちの個性が浮きぼりになるからだ。バックハウスのピアノまで変わってしまうのである。
 一般にピアニストは、独奏よりオケ相手の曲の方が、奔放で外向的になることが多い。
 リズムの保持、という面倒な仕事をオケがやってくれるかららしいが、それだけに指揮者のリズム感が、大きな影響力をもつことになる。
 《皇帝》を例にとると、カイルベルト(伊ストラディヴァリウス)との共演では、指揮のきっちりした拍子にバックハウスも合わせて、動きのない演奏に終始する。
 六〇年四月のコンヴィチュニー盤も、出来不出来のあるこの指揮者のノリが悪く、まるで面白くない。公演の合間にも酒を呑んでいたほどの酔いどれ指揮者にしては、燃料が足りなかったのか、それとも入り過ぎたのか。

 これが、四ヶ月前のクナッパーツブッシュ相手だと、途端に目茶苦茶になるのが嬉しい。
 冒頭のトゥッティが、繰り返すごとに合わなくなる指揮なんて、他に聴いたことがない。バックハウスは知らんぷりで、平然と弾く。
 ところが曲が進むにつれ、指揮者の大きな呼吸がピアノも我々も包みこみ、重戦車が驀進するような迫力が最後には出てくるのだから、クナという男も摩訶不思議な人物である。
 お前などとは二度と共演しないと、ピアニストが激怒したこともあるというこのコンビ、一九六二年の第四番(キング)も無類に面白い。

 しかしちょっと異種格闘技戦みたいで、オケとピアノの応酬の面白さが先に立ってしまうクナよりも、他の誰よりも、バックハウスと一番相性がよかったのは、シューリヒトだろう。
 この老人コンビは、どうしてなのか知らないが、いつも火の玉みたいに燃え上がるのだ。
 六〇年のものがないのが残念だが、前後数年のルガーノでの共演が、二つ遺っている。
 《皇帝》は六一年のもので、序奏からして、七七才のピアニストの気迫が凄い。すると八十才の指揮者も負けてたまるかと、奮いたつ。
 背筋のゾクゾクするような、丁々発止の真剣勝負が最後まで続くのだ。
 三年前のブラームスの二番(伊ムジカ・クラシカ)もまったく同じような演奏で、ふたりの頑固ジジイが意地の張りっくらをしているような、凄いものである。
 ――いい年して何をやってるんです、はしたない真似はやめてください、と苦笑したくなるが、老成を拒否した、こんな頑固ジジイたちこそが、クラシック音楽を支えてきたのだ。
 彼らの気迫と心意気は、以後の〈ドイツ的〉な演奏家には、けっして聴けないものだった。
 その普遍性こそに、感謝を捧げたい。

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