Homeへ

  オペラの冗談

 オペラの歌手たちは、身も心も役になりきって舞台の上にいるとは、限らないものらしい。
 観客に気づかれないように冗談をいったり、悪戯をしたり、演出家が知ったら激怒するようなことをやりあっているという。特に、ひと時代前のウィーンやメトのように、互いに気心の知れたおなじみの歌手たちがアンサンブルを組んでいたころには、そうした遊びも、公演の一部になっていたようだ。
 ロッテ・レーマンのような名歌手も、《ワルキューレ》のジークリンデを演じながら冗談をいって、必死で笑いをこらえようとするフンディング役のバス歌手を、あわや窒息死するほどに苦しめたという。
 さらにレオ・スレザークは彼女を上回る剽軽者で、《マイスタージンガー》の舞台で観客に背を向けた瞬間、当意即妙の冗談をとばして全出演者の緊張を失わせてしまった。
 吹き出しそうになって、アンサンブルは大混乱になりかけた。あまりのことに劇場から罰金を取られたこともあるというが、彼の悪戯は決して止むことがなかった。
 メトにいたエンリコ・カルーソーも、《ボエーム》の第一幕、ミミの手をとって「なんと冷たい手だ」と歌うところで、ミミ役のソプラノに熱いソーセージを握らせたりしたという。
 ひどい話だが、こういうヤンチャな歌手が、一方では観客を舞台に引きずり込む力を持っているのだから、面白い。レーマンもスレザークもカルーソーも、聴いた人に一生忘れられないような感動を与えうる、大芸術家であった。
 彼らは、何げない仕種さえもが絵になるような、天性の舞台人だったのだろう。彼らが表わす喜びも悲しみも、ただならぬ光を帯びて舞台から放射したのだ。

 一九六〇年のウィーンにも、そんな舞台人がいる。もっぱら喜劇に専念していたため、大芸術家という雰囲気ではないが、彼ほど聴衆に愛された歌手は少ない。
 エーリヒ・クンツである。
 ウィーン生まれのこのバリトンが、地方劇場での活動を経て故郷の国立歌劇場に初出演したのは、三一才の四〇年秋のことだった。
 《マイスタージンガー》の憎まれ役、ベックメッサーがその役どころだったが、その滑稽で快活な演技力と歌唱力はたちまち評判となり、戦時下のこの劇場随一の人気者となった。
 ザルツブルク音楽祭でも同様で、翌四一年に《ドン・ジョヴァンニ》のマゼット役でデビューすると、もう次の年には《フィガロの結婚》の主役、フィガロを任されている。

 この駆け足の成功には、実力ばかりでなく運も手伝っていたことは、疑いない。
 伝統のある劇場芸術はどれもそうだが、演じ手にいくつか決まったタイプの芸風があって、それが継承されていくことが多い。
 歌舞伎などでは父から子へ受け継がれる。まったく形姿が異なれば別だが、大体は〈立役〉の子は〈立役〉をやり、〈和事〉は〈和事〉、〈女形〉の子は〈女形〉だ。
 オペラに世襲はないが、やはり二枚目のテナー、道化的なテナー、逞しいバリトン、敵役のバリトン、父親的なバス、などの基本的なパターンは、それぞれの世代にトップ的な存在があらわれて、受け継がれていく傾向がある。
 そしてクンツの前にも、ウィーンには同じようなバリトンがいた。
 彼よりも三十才上のヘルマン・ヴィーデマンで、まだ宮廷歌劇場と呼ばれていた一九一六年にデビューして以来、四半世紀の間ベックメッサーといえば、この人と決まっていたのだ。

 ヴィーデマンのベックメッサーは、三七年ザルツブルクのトスカニーニ指揮による全曲(伊メロドラム)がある。またコッホ社のウィーン・ライヴ・シリーズでも、三三年から三八年まで、クラウス、ワインガルトナー、クナッパーツブッシュ、クリップス、フルトヴェングラーの指揮で(なんという豪華な顔ぶれだろう)歌った断片が遺っている。
 他にも《コシ・ファン・トゥッテ》のグリエルモや、《ばらの騎士》のファーニナルなど、持ち役がクンツと重なるこの人気歌手が、六十の声をきいて引退を考えはじめたとき、ちょうど若きクンツが登場したのである。
 聴衆も劇場も「二代目ヴィーデマン」を待ちかねているところに、あつらえたようにクンツが出てきたのだから、彼はその期待に乗っかっていくだけでよかった。そしてそれに応えるだけの才能も、彼には備わっていた。
 もしヴィーデマンが十五年遅く、あるいはクンツが十五年早く生まれていたら、ふたりの継承はすんなりとはいかなかったろう。しかし運も味方につくのが、スターという人間である。
 ヴィーデマンが後継者の出現を喜んだか、寂しく思ったかは定かではないが(多分その両方だろう)、彼は四三年に引退、その翌年に亡くなっている。

 クンツの幸運は、もう一つある。
 ザルツブルク音楽祭で、彼がここにデビューして一年後にフィガロを歌うことが出来たことも、多分に周囲の状況のおかげだった。
 その何年か前、三〇年代後半の音楽祭の主導的人物だったブルーノ・ワルターは、大衆的名声こそトスカニーニに後れをとったとはいえ、音楽的には遜色のないモーツァルト公演を行なっていた。
 しかしそれは、当時の一般の独墺の歌劇場の公演とは、雰囲気が違っていた。非常に珍しいことに、イタリア語の原語上演だったからだ。

 ワルターはモーツァルトに限っては、原語上演によってのみ、その真価が明らかになると信じていた。しかし普通の歌劇場では、独語翻訳上演の慣習を変えることは難しかった。
 音楽祭のような特別の場、国際的な場を得てはじめて、彼の宿願がかなったのだ。トスカニーニにひかれて、欧州各国から客が集まっていたことで、独語にこだわる必要もなかった。
 そのために彼は、普段のウィーンとは全く別のアンサンブルを組んだ。男性はイタリア人を主体とし、女性の方はゲルマン系ながら、すでにメトやグラインドボーンで原語上演を経験している歌手たちを多く選んだのである。
 彼らは必ずしも全員が名歌手とはいえなかったけれども、ワルターの躍動的な、生気あふれる指揮にのって、素晴らしい演唱を展開した。

 個人的には、三七年に録音された《フィガロの結婚》と《ドン・ジョヴァンニ》のライヴこそ、両作の最も優れた演奏のひとつだと、私は思っている。
 その俊敏さは、その後のぶっきらぼうな演奏とも、あるいは〈ロマン的〉といわれるような鈍重な演奏とも、次元が違う。古楽器による演奏(ガーディナーやクイケンなど)がちょっと近いが、柔軟なリズム感と呼吸において、ワルターははるかに優れている。
 ふわんとフレーズをふくらませながら、その終わりをキレよく跳ね上げる独特のウィーン流のフレージングが、心地よい。管楽器の歌いくちと音色も、他には聴けない美しさがある。
 この二作におけるスターは、なんといっても両方で主役を歌った、エツィオ・ピンツァだった。ほれぼれするような美声と、堂々たる容姿を併せ持った彼は、舞台に出てきただけで光が増すような、そんな歌手だった。
 ワルターは彼をはじめとするイタリア人たちを起用して、その後もモーツァルトを上演していく気だった。翌三八年には、新たに《コシ》が加わることになっていた。

  銃後の舞台

 しかしすでに何度も述べてきたように、三八年四月に起こった独墺併合によって、状況は一変してしまう。
 音楽祭はそのまま挙行されたが、《コシ》はキャンセルされた。《ドン・ジョヴァンニ》はベーム、《フィガロ》はクナッパーツブッシユが指揮をした。歌手は若干が替わっている。
 どちらも三十分ほどの抜粋が遺っている(前者はテープ、後者はウイング社のCD)が、それだけを聴くかぎり、ベームはせかせかと単調で、一方クナは独特の味があるが、重苦しい。さらにクナはチェンバロが嫌いだったのか、ピアノ伴奏に変更させている。
 クナもベームも、ワルターと違って原語主義の信奉者ではなかったし、アーリア人のための音楽祭となった以上、ドイツ語でやる方が、その筋も喜ぶ。
 そのため原語版の上演は三九年が最後となった。そして音楽祭終了直後の九月一日、ナチス・ドイツはポーランドに電撃的侵攻を行ない、ここに第二次世界大戦が始まる。
 四〇年の音楽祭は独仏戦と、続く独英航空戦のため、オペラ公演は中止になった。翌年に同じ二作品の上演が再開されたときには、新演出の独語版であった。歌手もドイツ系で、クンツがマゼットを歌ったのは、この公演である。
 四一年夏、ドイツ機甲師団がウクライナの原野を、モスクワ目指して驀進しているころの話だった。

 ワルターのイタリア・アンサンブル時代が続いていたとしたら、クンツはしばらく、マゼット役で我慢しなければならなかったろう。
 もとがドイツ語の《魔笛》などなら、パパゲーノを歌えたろうが、ピンツァたちをさしおいてフィガロやレポレロを歌うことは、できなかったのではないだろうか。
 それが戦争で独語上演に戻ったことで、クンツはチャンスを得た。
 アルベリヒのようなアクの強い役も得意としたヴィーデマンに較べて、もっと軽い美声を持っていた彼は、おかげで自分に最適のモーツァルトに、早く出会うことができたのである。

 四二年の彼のフィガロは、CDで全曲を聴ける。指揮はこの年から音楽祭の芸術監督兼支配人に就任した、クレメンス・クラウスである。
 歌詞は前述のとおり独語版だが、ここではむしろ長所となっていると思う。ドイツ語の「…ヴァイゲン」とか「…リッヒェン」というような独特の抑揚が、歌に円を描くようなリズムを与えるからだ。クラウスの歌いまわしは、その語感をうまく活かしている。
 ただ、その分まわりくどくなるわけで、三七年盤のワルターの軽妙さは、ここにはない。
 どちらにもそれぞれの利点があるので、難しいところだが、しかしクンツには、ドイツ語の方があっている。彼の歌自体が、ドイツ語の抑揚をそのまま、音楽にしたものだからだ。彼がしゃべるように歌うレチタティーヴォは、そのリズムが何とも耳に心地よい。
 ここでのクンツのスタイルは、すでに後年と変わらない。世事に長け、いつも微笑みを忘れないフィガロである。ただ、まだ若いだけに、声が出過ぎて単調になる傾向があるし、線が細くて、人を喰った感じは少ない。
 他のキャストには凸凹があるが、スザンナ役のバイルケのうまさと、伯爵役のホッターの存在感が目を引く。ただクンツと同い年で、今世紀最高のヴォータン歌いのホッターの伯爵は、短気で頑固な老人みたいにきこえる。
 つけ加えておくと、クラウスはワルター同様にチェンバロで伴奏させた。
 ふたりの師匠のシュトラウスとマーラーは、随所に即興的装飾を加えながら自分で弾いたそうだから、あるいはふたりもそれを真似て、自分で伴奏しているのではないだろうか。

 この年のお客は、着飾った紳士淑女の代わりに、戦場から休暇で帰国した兵士たちが多く混じっていた。数ヶ月後にドイツ軍は北アフリカのエル・アラメインと、ロシアのスターリングラードで敗退、戦勢は逆転していく。
 翌四三年には、クンツはザルツブルクには出演していない。同時期に開催されたバイロイト音楽祭に招かれて、ベックメッサーを歌ったからである。
 ワーグナーの〈聖地〉バイロイトで歌えることは歌手にとって名誉なことであったが、このときの聴衆は、ほぼ全員が兵士に限られ、もはや祝祭というよりは慰問活動だった。
 すでに戦争の影響は深刻で、ザルツブルクとならんで独墺の夏を代表するこの音楽祭も、作品は戦意昂揚のため、《マイスタージンガー》一本だけにしぼられていた。
 指揮はフルトヴェングラーとアーベントロートが分担し、キャストも二組に分かれていた。クンツはアーベントロート組で、ウィーンでの同僚である、パウル・シェフラーのザックスを相手に歌った。

 この公演は、とても良好な音質でCD化されている。アーベントロートの指揮はとにかく重厚入念なもので、細部まで堅牢につくっているが、それだけにこの作品の長大さがいっそう強調され、聴き疲れがする。
 しかし、いま一つ何をやりたいのか分からないフルトヴェングラー盤(EMIでCD化)に較べれば、主張は実に明快である。歌手もこちらの方が出来がよく、ノビノビと歌えているようだ。クンツの声はとにかく若い。

  歌劇場炎上

 この公演が行なわれていた七月、ドイツ軍は独ソ戦の天王山ともいうべき、クルスクの戦車戦で決定的な大損害を出し、以後は退却一方となる。イタリアではムッソリーニが失脚、九月には連合軍がシチリアに上陸してくる。
 その後の秋から冬にかけ、戦局がいよいよ重大となるなか、クンツはウィーン国立歌劇場で歌っている。
 四三年元旦に監督に就任していたベームは、物資の窮乏する状況下、果敢にいくつかの企画を実行していた。
 いや、むしろ日常的な水準の維持が難しくなっていたからこそ、特別の企画をしたのかも知れない。四三年には生誕百三十年を迎えたヴェルディの特集をし、翌四四年にはシュトラウスの生誕八十周年祭を行なっている。
 シュトラウスの誕生日、六月十一日がそのハイライトだった。作曲家臨席のもと、ベームは《ナクソス島のアリアドネ》を上演した。クンツはハルレキン役で参加している。

 この公演もまた、開発されたばかりの磁気テープによる、良好な音質の録音が遺っている。
 戦時下だからといって、この時期の演奏にその影響が必ずあるとは、私も思っていない。
 録音は、時代のドキュメントとしての価値を持つが、つねに時代状況を百パーセント反映しているとは、限らない。
 しかしこの《アリアドネ》に流れる静かな諦念は、確かに当時の空気を甦らせるものかも知れない。アリアドネ役のマリア・ライニンクが歌う、嘆きの場面の慰撫するような美しさが、公演全体を包んでしまっているかのようだ。
 クンツが出てくるコミカルな場面にも、あるいはツェルビネッタ役のアルダ・ノーニが披露する、華やかであるべきコロラトゥーラにも、何かわびしさがただよう。
 小編成だけにウィーン・フィルの管弦楽の美しさは格別で、ベームの無骨な呼吸をカバーしているが、祝典的な雰囲気には遠い。
 ほの暗い響きが、強い印象を残す。

 このときすでに米英の大型爆撃機が、ウィーン空襲を始めていた。五日前の六月六日には、北フランスのノルマンディーに連合軍が上陸、物量作戦で独軍を圧倒していた。ソ連軍はポーランドの東国境にまで迫っていた。
 そしてシーズンの最後、六月三十日の《神々の黄昏》が、国立歌劇場自体の最後の公演になってしまうことになる。
 七月二十日、講和派によるヒトラー暗殺計画が失敗、徹底抗戦へと進む状況下で、劇場活動が停止されたからだ。
 ザルツブルク音楽祭も、この年はシュトラウスの《ダナエの愛》が世界初演されることになっていたが、中止になった。しかし指揮のクラウスの奔走で、公開リハーサルの形での演奏が一度だけ許された。
 上演のあと、作曲者シュトラウスはピットに歩みより、涙を浮かべてクラウスと楽団員に話しかけたという。
「もっと良い世界で、君たちと再会したいものだ」

 一方、バイロイトは続行されたが、クンツは参加しなかった。その後は、演奏会やラジオ録音しか、歌う場所はなくなった。
 空襲は激化し、四五年三月十二日、国立歌劇場が爆撃されて炎上した。そして四月十八日、ウィーンは無抵抗でソ連軍の手に落ちた。

 こうして戦争は終わったが、信じがたいことにその二週間後の五月一日には、オペラ公演が再開されている。
 劇場関係者だけでなく、一般の人たちがいかにオペラを愛し、必要としていたかの証明なのだろう。国立歌劇場の一座は、フォルクスオーパーで《フィガロの結婚》を上演した。
 クンツは、この日の公演には参加しなかったが、その後も繰り返し行なわれたモーツァルトの公演(もちろん独語版)では、随一の人気者となった。
 パパゲーノやフィガロの見事な歌もさることながら、そこにはさまる、無数のアドリブのせりふや仕種に、聴衆は爆笑した。
 当時の会場だった、千人しか入らない小さなアン・デア・ウィーン劇場では、どんな仕種もちゃんと見えたのである。
 かつてのスレザークのように、共演者まで笑ってしまい、公演はしばしば危機に瀕した。

 四六年には、四年ぶりにザルツブルク音楽祭に出演して、原語でフィガロを歌った。
 このときは練習の時点まで指揮台にいた指揮者が、本番ではプロンプターボックスの中から指揮してきた。もちろん、ヘルベルト・フォン・カラヤンである。
 占領下とはいえ、音楽祭のお客は、兵士ではなく再び一般人に戻っていた。そして三十代後半になったクンツは歌手として、いよいよ油ののった時期に入ろうとしていた。
 次章、戦後のクンツの活躍を追っていくことにしよう。

Homeへ