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   モーツァルトの戦後

 前号に続き、エーリヒ・クンツの話である。

 戦後のクンツは、クリップスの章で紹介した〈ウィーン・モーツァルト・アンサンブル〉の主要な一員として、アン・デア・ウィーン劇場を舞台に大活躍することになった。
 当時ウィーンでさかんにモーツァルトの上演が行なわれたのは、ナチスの時代にワーグナーが過度にクローズアップされていたことへの、毒抜きの意味もあったようだ。
 戦後のウィーンの公演数をみても、一位がモーツァルト、次にヴェルディ、シュトラウス、プッチーニとなっていて、ワーグナーはその後になるらしい。
 夏の音楽祭でも、バイロイト音楽祭がヒトラーとの関係がネックとなって、再開のめどが立たなかったのに対し、モーツァルトを中心とするザルツブルク音楽祭は、敗戦直後の一九四五年夏からただちに再開されている。

 そのザルツブルク音楽祭では、独語翻訳上演のウィーンと違って、原語上演が再び主流となっていた。これも芸術的理由ばかりでなく、ナチス=ゲルマン色を払拭する目的が込められていたと考えられる。
 一九四六年、クンツが四年ぶりにザルツブルク音楽祭に出演した《フィガロの結婚》も、イタリア語で上演された。
 この公演を準備したのがヘルベルト・フォン・カラヤンだったが、皮肉なことに彼自身のナチス=ゲルマン色の払拭がすんでいなかった。すでに述べたとおり、元ナチス党員の経歴が問題になって、裏方にまわらされたのである。

 とはいえ、戦前にブルーノ・ワルターが先鞭をつけた原語上演の流れを引き継いだのが彼、カラヤンだったことは面白い。
 カラヤンは心中に何か含むものがあるのか、自身その上演を聴いたはずの、ワルターのモーツァルト公演について全く語ろうとしなかったが、そこから学んだものもあったはずだ。
 少なくともある一点において、カラヤンはワルターとそっくりのことをした。
 それは、モーツァルトのイタリア語上演に際し、女声陣はドイツ系の歌手を使うが、男声にはイタリア人を起用することだった。
 混乱の続いていた四六年には無理だったが、二年後にはそんな配役が可能になった。
 カラヤンが正式に復帰した四八年の新演出の《フィガロ》において、その題名役に彼が起用したのはクンツではなく、ジュゼッペ・タデイだったのである。
 カラヤンはその後、ミラノ・スカラ座で《フィガロ》や《ドン・ジョヴァンニ》を公演する際にも、女声だけはウィーンからシュヴァルツコップやゼーフリートを招き、男声はイタリア人のパネライやペトリを使っている。

 こうした起用法と関係があるのかどうか、クンツは四八、四九年の音楽祭に出なかった。その間にカラヤンが逐われ、音楽祭の主要な指揮者として、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーが登場してくる。 
 五〇年にクンツが復帰したのも、彼の《ドン・ジョヴァンニ》に出演するためだった。音楽祭でクンツが歌った唯一度のレポレロである。
 この公演は題名役をイタリア人のゴッビが歌ったが、他はヴェーリッチ、シュヴァルツコップ、ゼーフリート、デルモータ、ペルなど、ウィーンの歌手がほとんどだった。
 この公演は録音が遺っていて、モーツァルト・アンサンブルの片鱗を伝えてくれる。とにかく芸達者で個性的な歌手ばかりで、聴き飽きない。フルトヴェングラーの指揮は表現もテンポも過不足なく、適切である。
 こんなことを書くと怒る人もいるだろうが、私はフルトヴェグラーのオペラの指揮は、交響曲の場合とは対照的に、その特徴のなさこそが特徴であるように、思う。何か、腰が引けているようなのである。
 それはワーグナーやベートーヴェンにおいてはスケールの小ささにつながってしまうが、逆にモーツァルトの場合には魅力となる。
 ただし世評の高い五四年の《ドン・ジョヴァンニ》(東芝EMI)は、私は好きではない。五二年の大病後、めっきり衰えたこの指揮者の音楽が、あまりに陰々滅々としているからだ。
 それに対して五〇年盤は、重厚さが鈍重さに陥る一歩前の躍動感を保って、微妙なバランスが素晴らしい。名歌手たちの自由な呼吸に、指揮者が自然に合わせているのがいい。
 ウィーンの歌手たちの個性を殺さないこのバランスは、翌五一年に指揮した《魔笛》にも聴くことができる。
 クンツが十八番のパパゲーノを歌い、ウィーンに比べてお行儀のいい音楽祭のお客たちを、大笑いさせることに成功している。そのやわらかな歌いくちも見事だ。

 ところでこの《魔笛》だが、現在はEMIから正規に発売されている。
 正規発売というのは精神衛生上、実にありがたいことだが、肝心の録音が薄っぺらく、あまり良くない。クンツやデルモータの声が、ちっとも彼らの声に聞こえない。伊アルカディアの同曲のCDの方が、生々しくて手応えのある音がする。どうにかならないのだろうか。

 この五一年のクンツは、大忙しだった。ようやく再開されたバイロイト音楽祭にも出演したため、二つの町を行ったり来たりしなければならなかったのだ。
 バイロイトでは、ベックメッサーを歌った。音楽祭中断前、大戦下の四三年と同じ役を再開の年にも歌ったことになる。
 同時に上演された他の《指環》や《パルジファル》が、ヴィーラント・ワーグナーによる象徴主義的演出で、センセーショナルな話題となって新時代の様式と喧伝されていたのに対し、この《マイスタージンガー》はミュンヘンの演出家ルドルフ・ハルトマンによる伝統的、写実的な演出によって、過去との連鎖を示したものであった。さしずめクンツなどは、その連鎖を象徴する存在だったと言えるかもしれない。
 指揮をしたのはカラヤンだったから、クンツはフルトヴェングラーとカラヤン、犬猿の仲の二人と交互に共演していたことになる。多分どちらの指揮者も、相手のことを決して話題にしなかったに違いない。
 クンツがバイロイトに出演したのは、この年限りであった。体ももたなかったろうし、象徴主義的演出も彼とは無縁だからである。

   無国籍の純粋美

 五二年フルトヴェングラーは肺炎に倒れ、音楽祭に出演できなかった。翌年に復帰したが、その体力は衰え、音楽の生気も失せていた。
 彼がクンツを題名役として公演した《フィガロ》(独語版)も、鈍重で主張のはっきりしない演奏に終始してしまう。
 しかしこの上演だけ、ドイツ語でやらせたのが不思議だ。同じ年の《ドン・ジョヴァンニ》もベーム指揮の《コシ》もイタリア語版だったのだから、もはやこの音楽祭では異例の感があった。結局この年限りの上演となっている。
 そして五四年十一月、フルトヴェングラーは六八才でこの世を去る。

 彼と、その半年前のクレメンス・クラウスの死は、オーストリアの〈戦後〉の終わりを告げるものであった。
 翌五五年、オーストリアは米ソ英仏の四国統治から解放され、永世中立の共和国として再出発したのである。それと時を同じくして、ウィーン国立歌劇場の建物も再建され、一座はようやく本拠に戻ることになった。
 十一月から始まった再建記念公演でも、もちろんクンツは活躍した。ベーム指揮《ドン・ジョヴァンニ》と、ライナー指揮の《マイスタージンガー》の二つに参加している。
 後者はメロドラムから全曲が出ているが、前者は抜粋の形でしか出ていない。
 独語翻訳上演で行なわれたことを、イタリアのレコード会社が嫌うためらしい。メロドラムは全曲を切り刻み、出演したデラ・カーザ、ユリナッチ、ゼーフリート、デルモータ、ロンドンの各アリア集に分散してしまった。
 全曲はテープだけである。しかしそれを聴くと、当時のウィーンとザルツブルクの聴衆の気質の差がよく分かる。足を踏みならし、ウォーッという歓声を上げる反応は、取り澄ましたザルツブルクの聴衆には聴けないものだ。

 ザルツブルクと対照的に翻訳上演を続行したのも、そうした庶民性を考慮してだろうか。
 しかし演奏自体には、ドイツ語ならでは、という特徴はない。ドイツ語固有の抑揚とリズム感が、音楽に反映されてはいない。
 前章で紹介した四二年録音のクラウスの《フィガロ》が、語感を活かしたフレージングを行なっていたのに対し、ベームはイタリア語でやるときと全く変えていないのである。
 かといってイタリア語の語感に従っているかと言えば、そうでもない。語感などお構いなしに、拍子をきっちりと刻んでいるだけなのだ。
 こういうのを、純音楽的とか、音楽の純粋美とか、ほめる人はほめるのだろうが、私には何も面白くない。
 かつてクラウスが独語でやったり、ワルターが原語にこだわったりしたことには、聴き手の我々にもはっきりと分かる、必然性があった。
 言葉の抑揚に基づいて音楽にリズムを与え、呼吸させた彼らにとって、使用言語は音楽表現そのものと結びついた問題であった。
 クラウスがドイツ人を、ワルターがイタリア人を使ったのは、発音の正確さを求めるためというより、ネイティブ・スピーカーの方が、語感の美しさを確実に歌唱に反映できると、考えたからだろう。

 一方ベームの音楽には、こうした言葉の抑揚との結びつきを感じることは、できない。使用言語によって相違が生じるのは、非音楽的なことだと考えているのかも知れない。
 ワルターの原語主義を踏襲したカラヤンにしても、その演奏がイタリア語の語感を反映したものかどうかとなると、疑問である。
 彼らばかりでなく、演奏界全体が〈音楽の純粋美〉を求めはじめていた。二人のモーツァルト演奏は相異なりながらも、ともにその典型であったと私には思える。
 歌唱とてその例外ではなかった。そろそろ一本立ちしはじめたクンツの後輩たち、一九二〇年代後半に生まれた若い歌手たちには、その影響が表れてくることになる。

 国立歌劇場の再建も、歌唱の変化を促した。一千席程度のアン・デア・ウィーン劇場から、いきなり二千二百席の大きな空間に戻ったのだから、その違いは大きかった。
 古くからの歌手たちはその広さ、客席までの遠さにとまどった。並行して使っていたフォルクスオーパーも、ザルツブルクの祝祭劇場も千三百位だったから、十年の間に彼らは知らず知らずに小さなハコに慣れ、そこに適した歌唱法を身につけてしまっていたのである。
 ベテランになればなるほど、大きなハコに順応することは困難だった。
 彼らの多くがアン・デア・ウィーン劇場時代を懐かしみ、自らの最良の時代と位置づけるのは、何もなかったが夢だけはあった、というような青春時代への感傷だけではなく、聴衆との物理的な距離の近さも理由であったのである。

  千代松の歌手

 新しい劇場の隅々まで声が届くような声量となると、これは若い歌手の方が有利なことは言うまでもない。
 男性歌手に限っても、テナーのヴァルデマール・クメント、バリトンのエバーハルト・ヴェヒターとヘルマン・プライなど、二十代半ばの若手が続々登場した。ワルター・ベリーのようにクンツと同じ役柄、つまりパパゲーノなどを歌う歌手も出てきた。
 彼らの歌い方には、共通の癖がある。
 力いっぱい、とにかく鳴らそうとするので、歌いまわしが直線的で単調になる。言葉はギスギスと、とがったように発音する。また自分の声に自己陶酔してしまうのか、ただただ歌いまくって、音楽に締まりがないことがある。
 だから私個人は、彼らの歌を好きにはなれない。しかし劇場においては、若さと声量は抗しがたい魅力であったろう。ウィーンでもザルツブルクでも、五〇年代後半には急速な世代交代が行なわれていく。

 我らがクンツも、残念ながら例外ではない。
 音楽祭のパパゲーノは、五六年からベリーが歌うようになった。《コシ》のグリエルモは、五八年からイタリア人パネライに代わった。
 以後、音楽祭でのクンツの持ち役は、五六年からの《フィガロ》の題名役ぐらいになる。
 翌年の全曲が、CDで聴ける。ベームの棒はやはり陰気で重苦しくて、私にはその良さが理解できないが、クンツのフィガロは柔軟軽妙、憎らしいほどの余裕で歌っている。
 こういう余裕、懐の深さは真似のできないもので、神経質そうで幅のないフィッシャー=ディースカウの伯爵との、好対照が面白い。

 ザルツブルクの出演が減るのと反比例して、クンツは外国に行く機会が増えた。
 オーストリア政府が、クンツなどのウィーンの歌手たちを文化使節として各国に派遣し、モーツァルトを上演させたからである。
 五九年春には日本に来て、イタリア語で《フィガロ》と《ドン・ジョヴァンニ》をやった。そのころ行なわれていた〈NHKイタリア・オペラ〉と同様の形態で、主役と指揮者――ホルライザーだった――だけが来て、合唱とオーケストラは日本のものだった。
 しかしこれは、〈NHKイタリア・オペラ〉ほどの強いインパクトは与えなかったようだ。クンツ以外の、特に女声陣にスターがいなかったことなどが、もう一つ華やかさに欠ける要因になったらしい。

 この来日公演の録音は聴いたことがないが、幸いにもポルトガルの首都リスボンで、同様にして行なった《ドン・ジョヴァンニ》がCD化されているので、様子を想像できる。しかも好都合なことに、六〇年の録音なのだ。
 ジャケットには一九六〇年とあるだけで日付がないが、指揮のウィーン国立歌劇場楽長ミハイル・ギーレンが、秋にストックホルム王室歌劇場の首席楽長に栄転することを考えると、年の前半、おそらくは三月か四月だろう。
 キャストは無名時代のモンセラ・カバリエがエルヴィラを歌った以外は、当時のウィーンの歌手ばかりで、日本公演とほぼ同様だが、シェフラー(来日時六一才)にかわって、三十才のヴェヒターが出演している。

 だがこれを聴くと、ウィーンは〈博物館〉になりつつあるのか、と思ってしまう。
 言葉の真の意味で〈単なる拍子とり〉に終っている指揮のせいなのか、ヴェヒター、クメント、スティッヒ=ランダル、オットー、みな浮足立っていて、さっぱり盛り上がらない。
 クンツのレポレロだけ飛びぬけて見事だが、この生彩のない公演の中ではそれさえも、セピア色に変色した大昔の写真のように思えてくるのが悲しい。

 この録音と対をなすように、この年のザルツブルク音楽祭の、カラヤンの《ドン・ジョヴァンニ》新演出初演の録音がある。
 旧いほうの祝祭劇場で上演されたこの公演には、クンツの名はない。共通するのは主役のヴェヒターだけである。
 レポレロはベリーだった。
 ドンナ・アンナは、重量級の黒人レオンティン・プライス、エルヴィラはシュヴァルツコップ、ツェルリーナはシュッティ、男声にはヴァレッティ、パネライ、ザッカリアが出演した。
 ドイツ・オーストリアから三人、イタリア人三人、ギリシャ人とアメリカ人が一人ずつと、多国籍のオールスター・キャストで、典型的な〈カラヤン・サーカス〉である。
 芸術監督就任以来、初めて音楽祭でモーツァルトを指揮した――ウィーンでも《フィガロ》しか指揮していない――カラヤンのタクトは疾風のごとく、颯爽とした快男児ドン・ジョヴァンニそのものであった。ヴェヒターもそれに合わせ、ここぞとばかりに歌いまくっている。
 ベリーが歌うレポレロは主人ドン・ジョヴァンニの分身のようで、クンツの滑稽だが、したたかなレポレロとは全く別のものだった。
 その《カタログの歌》は、はっきりいって面白くも何ともないが、ともかくも〈現代風〉になっていることだけは確かである。

 この年の音楽祭は、創設四十周年と新しい祝祭劇場の完成を記念してか、モーツァルトの四大名作が一挙に上演された。
 そのうちレポレロとパパゲーノはベリー、グリエルモはプライ、クンツが歌ったのは前述のとおり、フィガロだけだった。
 このフィガロと《ばらの騎士》のファーニナル――絶妙の――が、クンツの音楽祭ヘの告別となる。後に七七年と七八年に《サロメ》の端役で復帰しているが、主役級での出演は五一才のこの六〇年が、最後になった。

 その後も国立歌劇場での出演は続け、レコードでも六二年のカラヤンの《魔笛》(伊モヴィメント・ムジカ)のパパゲーノ、六六年ベームの《セビリアの理髪師》(伊ミト、独語版)のバルトロ、翌年の同じベームの《ナクソス島のアリアドネ》(伊メロドラム)のハルレキンなどのライヴを、我々も聴くことができる。
 それから徐々に《トスカ》の堂守のような端役に転じ、八十才に近い八〇年代半ばまで、歌劇場で最も愛される歌手であり続けた。
 音楽のスタイルが変わり、総監督や楽長が次々入れ替わっても、彼は岩に根を張った老松のように、変わらなかった。特定の歌劇場と一生涯にわたって結びついた、最後のスター歌手のひとりであった。
 彼がここで歌ったフィガロは三四〇回、パパゲーノ二四九回、レポレロも二二〇回に及ぶ。
 並ぶものなき大記録である。

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