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日めくり音楽祭

 一九六〇年のザルツブルク音楽祭では、戦後初めて八本ものオペラが同時に上演された。
 それまでは五本か六本が普通で、これを上回るには十本が上演された三七年――トスカニーニとワルターがいた最後の年――まで、遡らなければならない。しかも八本のうち新演出初演が五本と、これも三七年以来の多さである。
 幸いにもこの八本中の七本を、我々は何らかの形で耳にできる。今回は、前章までに取りあげていないものを、まとめて紹介しよう。
 なお、公演日等はヤクリッチュ編の公演記録に準拠しており、〈らいぶ歳時記〉掲載時のものとは異なっていることをお断わりしておく。
 また当時は、現在の祝祭大劇場が新祝祭劇場と、祝祭小劇場が旧祝祭劇場と呼ばれていたので、文中でもその呼称に従っている。

 音楽祭開幕の七月二六日の、新祝祭劇場での《ばらの騎士》(六公演)、二七日の州立劇場の《コシ》(四公演)に続いて、馬術学校(フェルゼンライトシューレ)の野外舞台では、八月一日からヴェルディの《ドン・カルロ》が上演されている(四公演)。
 カラヤン指揮で初演された(伊アルカディアでCD化)演出の二年ぶりの再演だが、この年の指揮は初登場のイタリア人、若干二八才のネロ・サンティに交代していた。
 歌手もフェルナンデイ、バスティアニーニ、クリストフなど非ドイツ人の多いこの演出は、音楽祭の国際化と巨大化を強力に推進するカラヤンの意志を、具現化したものであった。
 それを、他人に指揮を委ねてまで再演させたことには、特別な意図があったに違いない。
 というのも、モーツァルトの四大名作を一挙に上演したその年に、わざわざ二年前のヴェルディ作品を復活上演させる必然性が、特には無いように思えるからだ。
 この《ドン・カルロ》は、ザルツブルク音楽祭がモーツァルト専門の、ドイツ人のためだけの田舎の音楽祭であってはならないという、彼の示威行動だったのではないか。

 この公演は、以前にメロドラムがLP化していた。今は手元にないので、かつての記憶で述べさせてもらうが、サンティはいつもながらに力の入った、しかし大味な指揮だった。
 歌手の中で最も成功したのは、二年前のシミオナートに代わって公女エボリを歌った、レジーナ・レズニクだった。《むごき運命よ》のアリアなどは熱唱で、大喝采を浴びていた。

 二日後の八月三日に旧祝祭劇場で、前章で触れた《ドン・ジョヴァンニ》(五公演)が行なわれ、五日にはレジデンツ(ザルツブルク大司教の居館)の中庭で、モーツァルトの《見せかけの馬鹿娘》の新演出初演がある(四公演)。
 モーツァルテウム音楽院長としてカラヤンの旧師でもあり、そしてこの年から音楽祭理事長に就任した、ベルンハルト・パウムガルトナーの肝いりで行なわれた公演だった。
 マティスなどの若手歌手と、コンツ指揮のモーツァルテウム管弦楽団の演奏だが、これだけは録音が全く手に入らない。
 ただ、同じ指揮者が前年に州立劇場で上演したハイドンの《月の世界》のLP(伊メロドラム)の印象から類推すると、音楽学的興味の強い、〈お勉強〉のような演奏だったのではないだろうかと、私は想像している。

 八日には旧祝祭劇場でベームの《フィガロ》の再演が始まる(三公演)。
 ディースカウの独オルフェオのオペラ・ハイライト集に、十分ほどの抜粋が収められているが、それを聴くかぎり、五七年の全曲ライヴによく似た演奏のようだ。ただし、伯爵夫人はシュヴァルツコップから、デラ・カーザに代わっている。

 十二日からは同じく旧祝祭劇場で、《魔笛》が上演される(三公演)。
 前年にセル指揮で初演された演出(メロドラムにCDあり)の再演だが、指揮はカイルベルトに代わり、歌手も一部交代した。
 カラヤンと同年のカイルベルトは、ミュンヘンの指揮者というイメージが強いのだが、ザルツブルクにもカラヤンの招きで五七年から登場し、《アラベラ》などを指揮していた。ウィーンにもときどき出ているし、後にミュンヘンでカラヤンに指揮させたりしたところを見ると、〈帝王〉との仲は良好なものだったらしい。
 その彼の《魔笛》は、テープで聴ける。
 セルの器楽的な、重い演奏に比べ、速いテンポでキビキビと飛ばしているのが気持いい。カイルベルトの実直な音づくりは、ワーグナーよりもシュトラウスよりも、この《魔笛》に適していたのではないかと思えるほどである。
 歌手は、パミーナがデラ・カーザからフェルザーという若いソプラノに、ザラストロがベーメからフリックに、そしてタミーノがシモノーからヴンダーリヒに代わっている。
 後の二つの交代は文句なしの成功で、特にヴンダーリヒは、カイルベルトのきっちりしたリズムに乗って、この歌手の悪い癖である、身をよじるような歌い崩しがなく、無駄のない歌になっているのが好ましい。
 ケートの夜の女王は、この役にしては可憐すぎるような気もするけれども、これが当時の独墺の歌劇場の標準なのだろう。ベリーのパパゲーノは、若くて元気のいいのが売りである。結局この人は、次のステップへ成長できずに終わってしまうが……。

 十五日からは、《ばらの騎士》に続く、新祝祭劇場二本目の舞台作品が上演される。
 スイスの作曲家フランク・マルタンのオラトリオ《キリスト生誕聖史劇》の、舞台版の世界初演が行なわれたのである(三公演)。アイネムたちがカラヤン体制の下、毎年一作だけ続けていた新作初演シリーズのひとつであった。
 この公演にはスティッヒ=ランダル、レズニク、クメント、シュトルツェ、エクヴィルツ、ヴィーナーなど十三人の歌手――この人数に深い意味はないのだろうが――が出演し、指揮はハインツ・ワルベルクであった。
 ワルベルクは三七才、当時はブレーメン国立歌劇場の音楽総監督の任にあり、ウィーンにも客演を重ねていた指揮者で、これが音楽祭へのデビューだった。
 しかし我々にとってこの公演の最も気になる点は、ピットにウィーン・フィルでなく、ベルリン・フィルがいたことであろう。
 コンサート専門の彼らをピットに入れさせたのは、言うまでもなくカラヤンである。

聖域侵犯

 ザルツブルク音楽祭のメイン・オーケストラは、開始以来、ウィーン・フィルであった。
 彼らがここではウィーン国立歌劇場楽団員ではなく、オペラを伴奏するときにもフィルハーモニカーの名前で出演していたのは、その自負と矜恃の現われであったのであろう。
 もちろん、並行してモーツァルテウム音楽院のオーケストラも出演していたけれども、彼らは補助的な役割に終始し、大きな公演はことごとくウィーン・フィルに任されていた。
 しかし音楽祭の巨大化戦略を推し進めるカラヤンは、彼が芸術監督として初登場した五七年に、ベルリン・フィルを招いたのである。
 増加する一方の、演奏会の水準を保つため、というのがその理由だった。
 ウィーン・フィル側はもちろんその招聘を喜ばなかったが、完全に拒否することもできなかったので、さまざまなオーケストラが順番に、間隔をおいて登場するように要望した。
 それに従い、翌五八年にはアムステルダムのコンセルトヘボウ、五九年にはフランス国立放送管とニューヨーク・フィルが出演した。
 彼らは演奏会だけで、オペラには関係のない客演者だから、ウィーン・フィルはホスト・オケとしての立場を保つことができた。
 しかし六〇年にベルリン・フィルが再登場したとき、彼らはウィーン・フィルの〈聖域〉を侵し、ピットに入ってきたのである。

 このときもカラヤンは、ウィーン・フィルに対してゴリ押しをせず、巧妙に話を進めた。
 選択権は楽団側にあることを強調しながら、《キリスト生誕聖史劇》の本番と練習をやる気があるかどうか、もしなければベルリン・フィルに任せてもよいか、と訊ねたのである。
 そこで楽団は多数決を行ない、負担の大きさを理由に断わることにした。それまでの数年、音楽祭の新作初演は不入りの上に不評続きで、苦労しがいのない仕事という気分が強かったのが、この決定に影響した。
 これで、ウィーン・フィルが自分の意志で、ベルリン・フィルに任せたということになったわけだが、カラヤンは当然、初めからこの結果を予測していたろう。
 彼はもちろん、新作初演などやめてしまいたかったのだが、そうもできなかったので、それを逆に利用することにしたのである。
 かくしてベルリン・フィルは音楽祭第二の楽団としての立場を強め、オペラ演奏はこの一度きりだったものの、演奏会には一年おきに登場するようになるのである。

 それまでにもベルリン・フィルは、オペラ演奏の経験がなかったわけではない。
 例えば、最近アルカディア社が発売した、五五年九月のベルリン芸術週間における、ダラピッコラの《囚らわれ人》(ロスバウト指揮)などがその実例である。
 ただし、通常の歌劇場での演奏ではない。客席にいた評論家の山根銀二によると、同市の高等音楽院の音楽堂での、簡単な装置と衣装による半舞台上演だったという。
 だから本格的な歌劇場で演奏するのは、この六〇年が最初の機会であった。そして新祝祭劇場のピットは、まるで彼らを待っていたかのように、間口も広く大きく、彼ら全員をゆうゆうと収めることができた。
 カラヤン自身が指揮をしたわけではないが、この経験が、六七年からこの劇場で始まるザルツブルク復活祭音楽祭――カラヤン個人の音楽祭――での、彼らの伴奏による《ニーベルングの指環》上演につながることになる。

 さて、我々もテープで聴くことができる、この《キリスト生誕聖史劇》について。
 ひと口に〈現代音楽〉と言っても、マルタンはオネゲルやミヨーよりも二才上の一八九〇年生まれの大ベテランであり、現在の感覚では、〈近代音楽〉と呼ばれる様式のものである。
 畑中良輔は彼を、「オネゲルとならんで今世紀最大のオラトリオ作曲家」と評している。
 台本は十五世紀の聖史劇をそのまま抜粋したもので、音楽もいささか平板ではあるけれど、難解なものではない。
 この舞台版初演の前に、オラトリオ形式の世界初演が五九年十二月二三日、クリスマスの時期にジュネーヴで行なわれていた。
 作曲者と同郷で、長年の友人でもあるアンセルメの指揮によるもので、そのライヴもスイスのカスカヴェレ社がCD化している。
 前年のジュネーヴのコンクールで優勝したばかりの二二才のアメリンクや、すぐれたアルトのヘイニス、テナーのキュエノーなど、ライヴ録音の少ない名歌手たちを含む九人の歌手と、スイス・ロマンド管その他の演奏である。

 こういう珍しい作品では、どうしても具体的な聴き比べによるしか演奏の判断がしにくいので、仏語によるこのジュネーヴ盤と、独語翻訳のザルツブルクのテープを聴き比べてみる。
 平凡な結論で申し訳ないが、やはり私は七六才のアンセルメに軍配を上げざるを得ない。
 その響きは澄明で、神秘的で宗教的な美しさがある。また、私はリート歌手としてのアメリンクは苦手なのだが、この種の音楽には、その蒸留水のような清潔さがドンピシャリである。
 これが舞台付の上演となると、大編成の合唱団や管弦楽のバランスをコントロールすることが難しいのだろうし、歌手もドラマチックな表情が強調され、神秘性が後退してしまう。
 堕天使サタン役のシュトルツェの存在感は本当に見事だが、彼が目立ってしまうのは、聖処女マリアがメインのはずの作品としては、都合が悪いのではないだろうか。
 しかしこの上演は、過去数年の音楽祭の新作ものとしては、最も好評に迎えられたという。

賀茂川の水、双六の賽、山法師

 これ以外に現代音楽の演奏会も、八月九日に行なわれている。
 ブーレーズが、ケルン放響のメンバーとともに音楽祭に初登場し、ウェーベルンとシュトックハウゼン、それに自作を指揮したのである。
 残念ながらこの録音は聴いたことがないが、演目のひとつ、自作の《マラルメの詩による二つの即興曲》を、彼がローマでRAI響を指揮した、前年六月のライヴCDで聴ける(伊ストラディヴァリウス)。ソプラノ独唱も、同じローグナー――初演者でもある――である。
 五七年に作曲されたこの十八分程の作品は、マルタンとは比較にならない、バリバリの〈前衛音楽〉だ。私にはよくわからない。
 ガラガラに空いていただろうモーツァルテウムのホールに、これが響いていたのと同じ晩、馬術学校では《ドン・カルロ》が上演され、バスティアニーニたちが朗々と歌っていたことを思うと、なんとも不思議な音楽祭である。

 他にも、オーケストラや室内楽、リサイタルなどが並行して多数行なわれているが、こちらはその一部しか聴けない。
 室内楽は日付順にウィーン・コンツェルトハウスQ、ジュリアードQ、イ・ムジチなど。
 歌曲はディースカウ、ゼーフリート、ヴァレッティ、シュヴァルツコップ。最初の二人のジョイントで、生誕百年のヴォルフの晩もある。
 リサイタルはバックハウス、アンダ、フルニエ、チェルカスキー、カサドシュ夫妻。
 それからパウムガルトナーとモーツァルテウム管、その団員等によるたくさんの演奏会。これは大体、モーツァルト作品がメインである。
 これらのうちでCDで聴けるのは、八月十三日のシュヴァルツコップの独唱会のシューベルト四曲(伊ストラディヴァリウス)と、十日のフルニエの《モーゼの主題による変奏曲》(伊フォイエル)である。
 どちらも録音も演奏もいい。ただリサイタル全体を評価するには、断片的過ぎて無理だ。

 次にオーケストラ。
 ウィーン・フィルの演奏会は六回。ベーム、ミュンヒンガー、シューリヒト、ワルベルク、カラヤン、ミトロプーロスが指揮した。
 ソリストは最初の四回にバックハウス、グルダ、ボスコフスキー、ブレンデル。会場は、各会場をひととおり使用している。
 一方ベルリン・フィルがカラヤン、カイルベルト、ミトロプーロスの三回である。全て新祝祭劇場で演奏したあたりは、カラヤンの意向に違いない。ソリストは二回目にフェラス。

 このなかで、ベルリン・フィルの録音はミトロプーロスが一曲あるだけだが、これはウィーン・フィルとの《千人の交響曲》と共に、後の章で述べる。
 ウィーン・フィルの方は、既に取り上げたバックハウスとベームのモーツァルトの二七番の協奏曲以外に、十四日のシューリヒトの演奏会が、EMIでCD化されている。
 モーツァルテウムでの演奏だからか、曲目もオール・モーツァルト。
 ところが薄っぺらくて力のない録音なので、リズムがちゃんと下まで落ちず、この八十才の名指揮者の呼吸が伝わらない。
 だが録音ばかりでなく、指揮自体にも普段のキレと軽妙さがないため、響きが濁る。ボスコフスキーの独奏も、ちょっと単調で重い。
 ウィーン・フィルでは他に、二四日のカラヤンとの、モーツァルトの《レクイエム》がある(伊スート他)。プライス、レッセル=マイダン、ヴンダーリヒ、ベリーとカラヤン好みの歌手に、彼の忠実なる親衛隊、ウィーン楽友協会合唱団を揃えた演奏である。
 しかしこれも、私は好きになれない演奏だ。水平に流れていくだけで、ちゃんと呼吸をしていない。だから音楽が皮相に終わっている。

 ところでこの演奏会は夜八時から新祝祭劇場で始まったのだが、その数時間前、ザルツブルクの街では大騒ぎが起こっていた。
 なんとカラヤンが、今年限りで音楽祭の芸術監督を降りると発表したのである。
 任期満了に伴い、新祝祭劇場の完成によってその任務を完遂したため、というのが公式発表だったが、もちろん表向きに過ぎない。
 当時、カラヤン体制下の音楽祭は、演目が拡散するばかりで全体の方向性が見えない、と批判した新聞記者がいたらしいが、カラヤン自身もその欠点と原因を悟っていた。
 音楽祭のカラヤンは、全権者ではない。
 すでに触れてきたように、モーツァルトについてはパウムガルトナー、現代音楽ならアイネム、そして誇り高きウィーン・フィルなど、口うるさい連中の意見を適当に尊重しつつ、自分の腹案とすり合わせていかねばならなかったのである。拡散は当然だった。
「バイロイトはワーグナー家のものだが、ザルツブルクはカラヤンの意のままにはならない」
 そんな記事も出る状況に、彼は飽きた。
 一九六〇年は、拡がり過ぎた〈帝国〉を、カラヤンが整理した年でもあった。
 ロンドンのフィルハーモニア管との関係も終わりにし、そしてザルツブルクの面倒な雑務からも、身を引くことにしたのである。

 四年間の実績と圧倒的人気によって、芸術監督の地位を捨てても、音楽祭での立場が弱くなることはないと、自信もあったであろう。
 事実、あわてた音楽祭理事たちは、翌年以降も出演してくれることを、辞を低くして頼み込んできた。以後のカラヤンは、音楽祭に〈出てやる〉格好になった。
 表舞台から身を引き、自分がやりたい作品だけに関わり、黒幕として口を出す。いざとなれば不参加をちらつかせ、脅す。
 そのほうが気楽なばかりか、むしろ権勢もずっと強まったのである。
 こうして〈音楽祭の上皇〉の院政は、その死まで二九年間、続くことになる。

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