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仮面の下のショウマン

 一九六〇年という年を〈定点〉として、その前後の演奏の歴史を俯瞰してみよう、というのが、この物語の主旨である。
 この年を選んだのは、いつになく多様な出来事と、豊富な登場人物にいろどられているからだが、その中でも、特にこの年を印象づける、何人かの演奏家がいる。
 その一人がギリシャ人指揮者、ディミトリー・ミトロプーロスである。当時のウィーン・フィルが最も敬愛する指揮者の一人であった。
 国立歌劇場においても、マタチッチ、クリュイタンス、エレーデなど、毎年客演する外人指揮者の中でも一番信頼され、カラヤン、ベームというオーストリア人指揮者に次ぐ、〈第三の男〉として聴衆に愛された人物である。
 しかし彼がウィーンと関わったのは、五〇年代の後半になってからに過ぎない。自らコスモポリタンと名乗る彼は、特定の国にしばられずに生きてきた。まず、その芸歴を振り返ることにしよう。

 一八九六年にアテネで生まれた――ただし、本人は一八九九年だと言っている――彼は、同地で音楽教育を受けたあと、第一次世界大戦直後の一九二〇年に、ベルリンに留学した。当初は作曲志望だったという。
 しかしブゾーニについて学ぶうちに、作曲よりも指揮に自らの適性を見いだした彼は、学生の身分のまま、ベルリン国立歌劇場でコレペティとして働きはじめた。
 当時のワイマール体制下の歌劇場には、クライバー、スティードリーなどがいた。彼らの薫陶のもと、他のどこよりも刺激的で先鋭的な芸術活動が行われていた二〇年代のベルリンで、ミトロプーロスは指揮者としての第一歩を踏み出したのである。
 ところが二四年、アテネの市立管弦楽団の指揮者となることを恩師に懇願された彼は、ベルリンの職を捨て、故郷に帰った。音楽の後進国出身の俊才の、宿命といえるかも知れない。
 しかしアテネでの活動は、若年の彼にとって重要な経験になった。古典から現代にいたる広範なレパートリーを演奏することができたし、すべてを暗譜し、指揮棒を使わないなどの流儀も、この時期に身につけた。より柔軟な指揮をするためだという。当時は、他にもストコフスキーやロジンスキーなど、交響楽団の指揮者には素手で指揮する人が少なくなかった。
 三〇年、彼はベルリンで演奏会を指揮した。オケはベルリン・フィルとも、アテネ市立管弦楽団ともいわれてはっきりしないが、いずれにせよ彼の、実質的なヨーロッパ・デビューとなるものだった。腕だめしの手はじめに、まず自分の音楽的故郷を選んだのである。
 曲目にはベルリン初演となる、プロコフィエフのピアノ協奏曲第三番が入っていた。ソリストはブゾーニ門下の俊秀、彼の兄弟子にあたるエゴン・ペトリが予定されていた。
 ところが、ペトリは多忙を理由に断わってしまった。この難曲をおいそれと引き受けてくれる代役は見つからず、頭を抱える興行師にミトロプーロスは、それなら自分で弾こうと言い出して、そして実行したのである。

 ものがモーツァルトなどなら、弾き振りは珍しくない。しかし近代の作品ではあまり類がないことを、ミトロプーロスはやってのけた。
 およそショウマンという雰囲気のない彼と、こんな冒険とはどうも結びつかないのだが、人生の突破口を開くには、ときに無茶も必要なことを、彼は知っていたのだろう。
 事実、ミトロプーロスの名はこれで一躍有名になり、欧州各地でこの離れ業を繰り返すことになった。アテネに本拠をおいて各地に客演する生活が、以後十年ほど続くことになる。

 若き日の彼の代名詞となったプロコフィエフの弾き振りは、嬉しいことにライヴが遺っている。四五年、NBC交響楽団を指揮したものである。
 怜悧なピアノの音色は、師のブゾーニの影響を思わせる。多忙な指揮者とは思えぬほど、技巧もしっかりしている。もちろん指揮に専念したものに比べれば、細部に甘い箇所もでてくるのだが、これを生で見せられたら、文句など言う気も起こらないに違いない。
 同じCDには彼が世界初演した、クシェネックの協奏曲第三番も入っている。これはミヨーの協奏曲第一番とともに、彼の弾き振りのために特に作曲されたものらしく、弾き振りこそ当時の彼の、〈売り〉だったことがよくわかる。

 三六年にボストン交響楽団に客演してアメリカ・デビューしたミトロプーロスは、三九年冬からオーマンディの後任として、ミネアポリス交響楽団の音楽監督に就任した。
 その翌年に第二次世界大戦が始まり、ギリシャがナチスに占領されたため、彼はそのまま米国にとどまることになる。
 彼は楽団の水準を引き上げながら、さかんに現代作品を演奏して楽壇の注目を集めた。
 このころの彼は、ミネアポリス大学の寄宿舎に学生たちに混じって住み、修道僧のように質素な生活をした。日曜日には教会で、宗教と哲学の講話をした。自身は敬虔なギリシャ正教徒だったが、カトリックでもプロテスタントでもユダヤ教会でも話をしたという。
 一方、彼は異性を愛するにはあまりにも繊細であり過ぎたが、若い音楽家たちへの援助は惜しまなかった。
 ハーバードの学生だったバーンスタインはその一人で、彼が四十才まで指揮棒を用いなかったことや、ラヴェルの協奏曲の弾き振りなどを好んだことは、明らかにミトロプーロスからの影響であった。

 この二人の関係は、ミトロプーロスの本質を考えるうえで重要なヒントになる。
 ミトロプーロスの両手を大きく使う指揮を、バーンスタインが派手に真似してみせるとき、ミトロプーロスの禁欲的外貌の下に隠されたショウマンとしての素質を、バーンスタインが露わにしてみせることになるからである。
 もちろん二人の表わし方は違う。バーンスタインには多分に、自己と周囲への演技があったように思えるが、ミトロプーロスの場合は自己への過度の没入の結果として、人目をはばからぬ激しい身振りとなったのであろう。
 ショウマン・シップが悪い、というのではない。それどころか芸人としての演奏家には絶対に必要なものであり、ミトロプーロスが欧米で人気を得ていたのは、まさにこのショウマン性の故なのだと、私は思う。
 そして、日本では対照的に、近・現代音楽専門の鋭く冷たい指揮者のように思われがちなのは、このショウマン性が、スタジオ録音には現われなかったからなのではないだろうか。

協奏曲の魔術師

 四九年、ミトロプーロスは惜しまれつつミネアポリスを去り、ストコフスキーと共同でニューヨーク・フィルの常任指揮者に就任し、翌年には単独で音楽監督を務めることになった。
 その就任が決まったとき、「また一人、有能な指揮者がスポイルされることになる」と書いた新聞記事があったという。
 確かにニューヨーク・フィルの監督とは、労多くして実り少ない、損な役だった。一週間に四回もの定期演奏会を行なわなければならないし、その曲目もあまり冒険は許されない。特に協奏曲など、ベートーヴェンやチャイコフスキーといった、おなじみの名曲の繰り返しがほとんどである。
 一番つらいのは、彼らがつねに他の楽団と比較される運命にあることだった。
 この世界最大の音楽都市には、ボストンやフィラデルフィア、あるいは外国のオーケストラたちが入れ替わりたち変わり、客演してくる。気合いを入れて〈晴れの場〉にのぞむライバルに比べて、ニューヨーク・フィルがマンネリに見えてしまうのは、避けられないことだった。
 それを知りつつ、あえて引き受けたミトロプーロスは、大胆な演目で彼らに対抗した。
 四九年に演奏した《エレクトラ》や、五一年の《ヴォツェック》など、今世紀のオペラの演奏会形式上演が、その一例だった。

 二つともCDになっているので、その鮮烈な演奏を我々も聴くことができる。スピード感と鋭利な響きの一方で我々が注意しなければならないのは、どんな楽器も歌手もつねに呼吸し、旋律を歌っていることだろう。
 同時代の現代音楽の指揮者たち、つまりシェルヘンやロスバウトのフレージングが、どうしても頭で考えた不自然さを隠すことができないのに対し、ミトロプーロスはどんな複雑なスコアも自然に歌わせることができた。これが彼の特徴なのである。
 それにしても印象的なのは、《エレクトラ》終演後の、聴衆の異常なほどの熱狂である。こうした試みがニューヨーク・フィルの演奏会を活性化させたことは、確かであった。

 だが彼の弱点は、入り組んだ音楽の処理に見せる才能が、古典の簡素な書法には向かないことだった。響きが硬く肉痩せし、貧相な音楽になってしまいがちなのである。
 交響楽団の演目の中心である古典派やロマン派の曲が不得意ということが、監督としてはかなりの不利になることは、いうまでもない。
 楽団員からの信頼と一部の熱狂的ファンの存在にも関わらず、就任から五年ほどを経ると、彼とニューヨーク・フィルの大衆的人気の低落は、誰の目にも明らかなものとなった。

 ただ私は、古典・ロマン派の音楽でも、ミトロプーロス独自の天才を発揮する分野が、一つだけあったと思う。
 それは協奏曲である。
 ミトロプーロスは独奏者を気持ち良くのせ、その最大限の力を引っ張りだすことに、比類のない才能をもっていた。
 主体性に欠けているからではない。誰かと一緒に音楽をつくるということが、楽しくて仕方がないらしいのである。その昂揚感が独奏者に伝わり、オケに伝わり、客席に伝わり、生き生きと精気にみちた音楽が響きだすのだ。
 数も多いので並べるだけにするが、例えば、ミケランジェリとのシューマン、シゲティ、ゼルキン、カサドシュ夫妻とのモーツァルト、エルマンとのメンデルスゾーン、ルービンシュタイン、ハイフェッツとのベートーヴェン、カペル、ヘスとのブラームス、オイストラフとのショスタコーヴィチ。どれをとっても、そこには音楽の喜び、演奏の喜びがあふれている。
 しかも凄いのは、これだけの名手たちの多様な個性とのズレを感じさせずに、絶妙に合わせていることである。これはまさに、ミトロプーロスが音楽の呼吸というものを、どれほど深く理解していたかの証明にほかならない。
 相手の呼吸に合わせ、思う存分に呼吸させてやるという一点において、彼ほどの名手は今世紀にも数少ない。
 おそらく、彼が協奏曲を得意とすることと、複雑な近・現代音楽を得意とすることとは、同じことを意味しているのだろう。つまり、声部と声部のかけ合い、からみ合いを明確に、しかも官能的に美しくうねらせることこそ、彼の真骨頂なのである。
 こうした、多声部の音楽に発揮される魔術的な呼吸の見事さを活かせるジャンルは、協奏曲と近・現代音楽の他に、もう一つある。
 そう、オペラこそ、彼が指揮すべき音楽なのだった。五〇年代以降、彼はその才能を、この分野に発揮していくことになる。

願はくは、台の上にて我死なむ

 彼の指揮によるイタリア・オペラの録音として最も早い時期のものは、五三年六月のフィレンツェ五月音楽祭における、ヴェルディの《運命の力》である。
 彼がこの種の作品を指揮した経験は限られていたはずで、音楽祭当局の英断というべきだと思うが、彼は見事に期待に応えてみせた。
 引き締まった、しなやかな響き。間断するところのない快速の進行。歌手に楽に呼吸させながら、勝手を許さない手綱さばき。本当に素晴らしい。
 デル・モナコもテバルディも歌い過ぎず、しかし押さえつけられてはいない。単なる〈オーケストラ伴奏つきバカ声大会〉とは別次元の、歌手と合唱と管弦楽が一体となった、一つの生き物のような音楽が生み出されたのである。
 指揮者自身にも、この経験が大きな自信となったのではないだろうか。
 五四年十二月に《サロメ》を指揮して、五八才でメトにデビューした彼は、以後この歌劇場の長老的存在として、ベルリン時代以来三十年ぶりに、歌劇場の組織と関わることになった。

 微笑ましいことに、ミトロプーロス自身、メトで仕事をするようになって初めて、自分は歌劇場が大好きらしい、と気がついたという。
 ニューヨーク・フィルと並行してここに出演を重ね、たくさんのライヴも遺っている。
 メトは移民の国の歌劇場だけに、ドイツ物はドイツ人、イタリア物はイタリア人、フランス物はフランス人と、指揮者がわかれていた。
 しかしミトロプーロスは垣根を越え、国籍にこだわらなかった。自分はギリシャ人だから、なんでもやるのだ、と言っている。
 そのなかで特に素晴らしいのは、《サロメ》《仮面舞踏会》《トスカ》《オネーギン》《蝶々夫人》(これのみLP)などである。
 他の《カルメン》《ワルキューレ》などは、もうひとつ精気に欠け、響きがやせてしまっているが、これは指揮者自身にもどうにもできない、微妙な体調によるらしい。
 協奏曲でも先に上げたものとは別に、不調なものがいくつか遺っている。演奏が肉体によって生み出されるものである以上、避けがたい問題として、我慢するしかない。
 しかしそういうときでさえ、他の凡庸なオペラ指揮者には聴くことのできない、緊張感がそこにはある。メトの支配人ビングによると、団員たちは他のどんな指揮者よりも彼に心服し、つねに夢中になって演奏していたという。

 さて、ミトロプーロスがウィーン・フィルと初共演したのは、五四年のザルツブルク音楽祭での演奏会であった。
 最初の練習の前日、事務局から名簿を借りた指揮者は、顔合わせのときに全ての奏者を名前で呼んでみせて、彼らを驚かせ、そして喜ばせた。こういうことをわざとらしくなくやれるのが、彼の人柄だった。
 続いて彼らは五六年の音楽祭で、《ドン・ジョヴァンニ》をやった。二年前のフルトヴェングラーの公演を再演したものだが、その悪いところまで受け継いでしまったようで、彼の指揮とは思えないくらい鈍重なものになっており、私は好きになれない。
 圧倒的なのは、カラヤンの企画で実現した、翌年夏の《エレクトラ》である。
 私事になるけれども、十二年ほど前にこの演奏をLPで初めて聴いたときの感動を、私はいまも忘れることができない。

 当時二十才の私は、シュトラウスの音楽も、オペラというものも、ミトロプーロスという指揮者のことも、ほとんど知らなかった。
 しかし、叩きつけるような総奏で音楽が始まると、同じく叩きつけるようにして終わるまでの二時間、私は椅子から動くこともできなかった。ただ盤面を取りかえるため、麻薬中毒者のように立っただけだった。
 その音楽の凄まじさ。圧倒的なエネルギー。カミソリのような切れ味。憑かれたように歌う歌手と、弾きまくるウィーン・フィル。どんな言葉も、あの音楽には追いつかない。
 超人的な演奏をしたウィーン・フィルの楽員たちも、この演奏にほれ込み、なんとかレコード録音しようとした。だが専属契約の壁などに阻まれ、それは実現しなかったという。
 しかしそれでよかったのではないか。冷たいスタジオの中に、この青白き焔のような音楽が再現されたとは、とても思えないからである。
 残念ながら、CDで手に入る伊メモリーズ盤は、音がいま一つである。もっと良い状態のものが世に出ることを、切に願う。

 この《エレクトラ》のあとの五七年秋、ミトロプーロスはバーンスタインをニューヨーク・フィルの共同監督に採用し、さらに一年後には彼に監督を譲った。できた余裕を、彼はメトとウィーン国立歌劇場に振り向けた。
 カラヤンの招きを受けたウィーンでは、《蝶々夫人》と《仮面舞踏会》の新演出も指揮したが、《マノン・レスコー》などの古い演出の再演も、嫌がらずに引き受けた。ほとんど練習もないのに、緊迫感のある舞台をつくり上げる手腕は、誰にも真似ができないものだった。
 日替りで無数の演目がかかるウィーンでは、こうした手腕は何よりも貴重である。カラヤンの華やかな新演出上演の陰で、〈第三の男〉ミトロプーロスによる再演物は、日々の水準を高めるためになくてはならないものだった。
 一方メトでの重要性も増すばかりで、五八年から五九年のシーズンでは、《カバレリア》と《道化師》《マクベス》の新演出を含む七作品を指揮することになっていた。

 ところが五九年一月にヴェリズモ二本立てを指揮した直後、彼はひどい心臓発作を起こし、半年ほどの休養を余儀なくされてしまう。
 かなりの重症で、長生きをしたければ過度の運動と緊張を避けろと、医師は勧告した。要するに、引退しろと言われたのである。
 しかしミトロプーロスは、これを拒否した。
 家族もない自分には、音楽しかない。指揮台の上で死ねるなら、それこそ本望だ。
 彼は舞台に帰っていった。
 ニューヨークでは、バーンスタインの企画によるマーラー特集として、交響曲を指揮しなければならない。自分が監督のころには、マーラーは一年に一曲だけと理事会から制限されていたのに、今度は三曲やれる。メトでは新演出の《シモン・ボッカネグラ》が待っている。ザルツブルクでは《千人の交響曲》がある。ウィーンの《運命の力》新演出もある……。
 ミトロプーロス最後の一年が、明ける。

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