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余命一年(いまひととせ)

 ミトロプーロスは、アメリカのメジャー・オーケストラに十年もいた割にはスタジオ録音が少なく、特に一般名曲がほとんどない。
 所属のコロンビア・レコードには、同時期に売れっ子のブルーノ・ワルターがいたため、彼はその陰に隠れてしまったらしい。
 彼が日本で過少評価される原因の一つに、この録音の少なさがあるわけだが、しかし一方、そのライヴが数多くCD化されていることは、彼を愛惜するファンが、欧米には少なくないことの証拠だろう。特に最後の一年余の演奏は、各所でのライヴがCD化されている。
 それらの録音を順に追っていくだけで、生き急ぐようにして逝った男の姿が見えてくる。

 一九五九年一月の心臓発作のため、半年間療養していたミトロプーロスは八月初めにアメリカから渡欧、同月二三日、ザルツブルク祝祭劇場でのフランツ・シュミット作曲《七つの封印の書》の演奏をもって、現場に復帰した。
 一八七四年生まれのこの作曲家は、オーストリア以外ではほとんど知られていないが、ウィーン・フィルは彼の作品をよく演奏している。このオラトリオは、シュミットの死の前年の一九三八年に初演された、ヨハネ黙示録の〈最後の審判〉を描いた大作である。
 ミトロプーロスはウィーン・フィルとともにその交響曲第二番を演奏したこともあり、さらにこの作曲者没後二十周年記念公演の、《七つの封印の書》の指揮も引き受けたところをみると、この伝統的かつ保守的作風の作曲家を相応に評価していたのだろう。
 この公演は前からメロドラムが発売していたが、最近ソニーの外盤で正規にCD化された。
 正規盤だからといって音がよくなるとは限らないのだが、幸いにもこの《七つの封印の書》はメロドラムより明快で、力もある。そのお陰で、ミトロプーロスの響きの緊張感、エネルギーのうねりもより伝わってくるようになり、この大傑作とはいえない作品に、我々を近づきやすくしてくれている。
 五人の歌手の中では、全曲の進行役の預言者ヨハネを歌うデルモータが、背筋のとおった、毅然とした歌いぶりで気持ちいい。

 病み上がりとは思えぬ、力のこもった指揮ぶりは批評家たちからも評価され、ミトロプーロスは二重の意味で復帰を遂げたことになった。
 一つはもちろん病気からの回復だが、もう一つは前年の音楽祭での、バーバーのオペラ《ヴァネッサ》上演でこうむった酷評からの名誉回復である。
 《ヴァネッサ》は五八年一月に、ミトロプーロスによってメトで世界初演された。
 アメリカ人たちにはそれなりに受けたが、半年後の夏に行なわれたザルツブルク音楽祭での公演は、欧州の批評家たちからこき下ろされ、四七年以来の新作上演の歴史の中でも、記録的な大失敗となってしまったのである。
 音楽祭に現代オペラは不要、と主張する人たちが、以後必ず引きあいに出すのが、この《ヴァネッサ》の惨憺たる敗北だった。
 私はザルツブルクでのライヴは聴いていないが、ミトロプーロスによるRCAのスタジオ録音と、メトのライヴをテープで聴いている。
 それらを聴くかぎり、《ヴォツェック》の亜流じみた、この大げさな音楽は私も好きになれない。だがオーストリア人たちの遠慮のない酷評には、作曲者がアメリカ人である、ということも少なからず作用しているように思う。
 《七つの封印の書》をニューヨークで演奏したら、逆にアメリカ人たちが、同じくらいにその音楽を嫌うような気が、私にはする。
 〈お国もの〉に寛大なのは、いずこの国も同じだろう。しかしアメリカでもオーストリアでも、それらの作品を指揮しているのが、何のゆかりもないギリシャ人だというのは面白い。
 コスモポリタンの名にふさわしい活躍だが、同時にいらぬ苦労を背負いこんでいるような気も、しないでもない。

 このあと彼はケルンに行き、マーラーの《悲劇的》やシュトラウスの交響詩など、二回の公開録音を指揮した。アルカディアがCD化していて、気合いの入った演奏がよい音で聴ける。
 続けてウィーン国立歌劇場で《トスカ》などを指揮した後、渡米している。
 十月二六日にメトのシーズンが開幕すると、その三日後にミトロプーロスは再び《トスカ》を指揮して、九ヶ月ぶりにここに戻ってきた。
 それから年末までに、《トスカ》の他に《蝶々夫人》、《カヴァレリア・ルスティカーナ》と《道化師》のヴェリズモ二本立てといった、十八番のオペラを何晩かずつ指揮している。
 そして十二月三十日に《蝶々夫人》を終えると、翌日の大晦日にはカーネギー・ホールのニューヨーク・フィルの演奏会に登場、年明けをはさんで一月三日まで、木金土日と四日間続けて、マーラーの交響曲第五番を指揮した。

 これはバーンスタインの企画による、マーラー生誕百年記念シリーズの第一週となるものだった。七日からの第二週には第一番《巨人》、十四日からは未完の第十番の二つの楽章、そして二一日からは第九番が、いずれも四日ずつ、ミトロプーロスの指揮で演奏された。
 第十番の第二楽章以外は、すべてアルカディアがCD化しているが、何か力が伝わりきらないようで、私は好きになれない。
 同じニューヨーク・フィルとのライヴでも、五一年の《巨人》や、五五年の第六番、五六年の第三番などに聴ける八方破れな迫力が、ここにはないのだ。
 ただし、最終週の一月二三日の土曜日の、第九番だけは素晴らしい。バーンスタイン流の濃厚な思い入れの代わりに、鋭利な、しかし機械的にならない自然な呼吸がある。
 翌日曜日の演奏も成功で、聴衆も楽員も感動し、終演後には長い喝采が指揮者に送られたという。楽屋を訪れた知人が、お体だけはどうか大切に、と声をかけると、彼は答えた。
「寝たきりになって死にたくはないんだ。ブーツをはいたまま逝くつもりさ」

劇場の怪談

 その言葉どおり、彼は翌週にはメトのピットに戻った。そして昨年の演目を再び指揮しながら、三月一日に新演出初演のヴェルディ《シモン・ボッカネグラ》の練習に入っている。
 主役シモンは、レナード・ワーレンである。
 この作品は二十年ほど前に、主役にローレンス・ティベットなど名歌手をそろえ、パニッツァの指揮で大評判をとったことがあった。その三九年の公演で脇役パオロを歌っていたワーレンは、それからスターへの階段をかけのぼり、その強大な声量で大向こうを沸かせる、メトきっての人気バリトンとなっていた。
 私個人はワーレンの力まかせの歌は苦手で、歌心をきちっとわきまえていたティベットなどとは似ても似つかぬ存在だと思うが、とにかく大声が好まれるようになった戦後という時代には、ぴったりの歌手だった。
 ところが《シモン》の練習中、そのワーレンが問題をおこした。
 彼が要求した高音の引き伸ばしを、指揮者が拒否したのである。ミトロプーロスは歌手を押さえつけず、その実力を存分に発揮させるようにしていたが、気ままを許す人ではなかった。
 自分を侮辱したと思ったワーレンがさらに不服をとなえると、今度はオーケストラが彼の態度に腹を立て、一斉に退席する騒ぎとなった。
 仲裁に入ったスタッフが彼の側に非があることをワーレンに納得させ、彼が頭を下げることでこの場は収まったが、この事件は苦い記憶となって、関係者の胸を痛ませることになった。
 というのも、大成功に終わった《シモン》の初日の三日後、《運命の力》に出演していたワーレンが第三幕のアリアの最中に倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまったからである。
 あわてて幕が下り、上演が中止となる大騒動の中、あの時ワーレンを説得したスタッフは、気も狂わんばかりに取り乱していたという。

 劇場の世界には、それを上演すると何か必ず災厄がおきるという、不気味なジンクスのついた作品がいくつかある。
 シェークスピアの『マクベス』や、歌舞伎の『東海道四谷怪談』などだが、《運命の力》という不吉な題名のオペラも、その一つである。
 このワーレン急死事件は、そのジンクスの中で最も有名なものとなった。
 公演の指揮者はシッパースで、ミトロプーロスは居合わせずにすんだが、半年後この作品が彼の生涯最後のオペラとなってしまうことも、偶然ながら暗示的な出来事といえる。

 メトの名支配人として有名なルドルフ・ビングは、四半世紀に近い彼の任期の中でも、この五九年~六〇年のシーズンは、ひとつの絶頂期だったと回想している。
 その華やかさに水をさしたのが、ワーレンの死であった。この不測の事態のため、CD化された四月二日の《シモン》の中継ライヴでは、フランコ・グァレッラが代役に立っている。
 グァレッラに魅力が乏しいのは仕方ないとしても、まわりのミラノフやベルゴンツィが同じように、声が立派なだけで何の味もないのは、どうも困ったものだ。鋭い響きで大きく歌う、ミトロプーロスの指揮の緊張感が素晴らしいだけに、惜しい演奏である。
 ミトロプーロスの最後のメトの活動としては他に、この前後の《トスカ》と《蝶々夫人》の中継のテープもあるが、両方とも音が悪いうえに欠落もある。すでにCDやLPで出た、五五年前後の録音を聴くべきだろう。

 四月三十日の《シモン》まで、三ヶ月間に二二回のオペラ公演を指揮したミトロプーロスだが、やはり無理を重ねていたらしく、ついに身体の方が耐えられなくなった。
 五月初めに膀胱の手術を受け、七月末までの療養を余儀なくされたのである。メトの残りの公演はニノ・ヴェルキが代わった。
 例年六月には渡欧して参加していたフィレンツェ五月音楽祭にも、当然彼の姿はなかった。
 去年と同じく、ザルツブルク音楽祭が、彼の復帰の場となったのである。八月二一日のベルリン・フィルとの演奏会が、ミトロプーロスの三ヶ月半ぶりの指揮であった。
 会場は新築のザルツブルク新祝祭劇場、曲目は二ヶ月後のケルン放響の公開録音のCDと同じで、メンデルスゾーンの《スコットランド》交響曲、シェーンベルクの《管弦楽のための変奏曲》、ドビュッシーの交響詩《海》である。
 このうち、シェーンベルクだけがヌオヴァ・エラでCD化されている。
 グールドとのバッハや、シェーンベルクの協奏曲と一緒に入っているもので、音はあまり良くないが、演奏は集中力と熱気にみち、ケルン盤とは段違いに出来がいい。やはりオーケストラの地力の差がはっきりと出ているようだ。
 この熱演は、ベルリン・フィルの楽員がやる気になったからこそであろう。
 一例をあげれば、当時二三才、入団から一年しかたっていなかったソロ・クラリネットのカール・ライスターは、全曲をくまなく暗記しているミトロプーロスの驚異的な記憶力と、オケをぐいぐいひっぱって、細部と全体の見通しを提示する手腕に、強烈な印象を受けた。
 そこでライスターは、少しでも彼の指揮で演奏する機会を得ようと、本来は出番のない《スコットランド》でも、第二クラリネットの席に座らせてもらったという。世界中の楽員たちから敬愛された〈指揮者の中の指揮者〉ミトロプーロスの魅力の一端が知れる逸話である。

ミラノに死す

 一週間後、ミトロプーロスは今度はウィーン・フィルの演奏会に登場した。会場は屋外のフェルゼンライト・シューレ、曲目はマーラーの《千人の交響曲》である。
 ベルリン・フィルとは反対に、このときの練習は大変だった。
 合唱やソロを合わせて、総勢数百人の音響をコントロールするのは、至難の技であった。ミトロプーロスはかつて誰も見たことがないほどに不機嫌になり、怒鳴りちらした。
 ついには指揮台を下り、すすり泣きはじめたというが、関係者が彼の指揮台を高くすることを思いつき、それによって指揮者はようやく音響を把握できるようになった。
 お陰で本番の出来は素晴らしく、そのCDはこの指揮者の最良の記念碑の一つとなった。
 ミトロプーロスのフレージングは、その息の長さが特徴である。それに合わせて我々が呼吸していくと、彼はしばしばぐーっと息を思い切ってためていき、もはや窒息しようかという瞬間に、一気に息を吐き出す。その開放感が、何ともいえずセクシーなのだ。
 この演奏でも、ゆったりと歌いながら、次第に壮大な高みにのぼっていく高揚感が素晴らしい。ウィーン・フィルの音色も、神秘的なほどに美しい。コーダの、「すべて移ろいゆくものは」と合唱が斉唱で出る瞬間は何度聴いても、背筋を電撃が走るような思いがする。

 音楽祭が終わると、ミトロプーロスはウィーン・フィルに帯同するようにウィーンに赴き、国立歌劇場に登場した。
 目玉となるのは、九月二三日初日の、《運命の力》の新演出である。スカラ座との提携によって、主役をステッラ、シミオナート、ディ・ステーファノ、バスティアニーニなどイタリアのスターたちが歌い、脇をデンヒやクレッペルなど座付の歌手が固める、典型的なカラヤン型配役による、イタリア語公演である。
 面白いのは第一幕をプロローグとして扱い、冒頭に演奏されるべき序曲をその後に移して、第二幕の前に演奏していることだ。
 よりドラマ性を高めるためだというが、これはイタリア式ではなく、両大戦間の時期の独墺で、ヴェルディ中期の諸作品が蘇演されて人気を集めたときの方法を踏襲したものである。
 しかしこのときの上演は、こうしたゲルマン風演出とイタリア風歌唱との間に齟齬でもあったのか、稽古の段階でさまざまな問題が起こって、指揮者を苦しめたらしい。
 良好な録音のCDが、初日の中継からつくられているが、たしかに集中力が持続せず、合唱などにしばしば弛んだ場面が聴かれる。
 ただし、ディ・ステーファノの出演場面だけは身がひきしまるような悲愴美にみち、特に第三幕のアリアは、このムラっ気のテナーの最高傑作といって過言ではない。

 公演は十月十五日までに六回行なわれ、演奏も尻上がりに良くなり、中でも三回目の九月三十日の出来は、感動的なものだったという。
 もちろんその録音は遺っていないから、我々にとっては死んだ子の年を数えるようなものである。ディ・ステーファノのアリアに聴ける、歌手と伴奏が一体となった緊迫感が、全体を貫いた演奏だろうと想像するほかない。
 この間の十月初めの二週間、ミトロプーロスはウィーン・フィルの定期を指揮している。そのうちの、マーラーの第九番の録音が遺っているというから、いつか聴いてみたい。

 《運命の力》を終えると、彼は去年と同様にケルンに行き、二回の公開録音を指揮した。
 両方ともCD化されている。一回目の十月二四日は、前述のようにベルリン・フィルと同じ曲目で、二回目の同月三一日の曲目は、マーラーの交響曲第三番である。
 マーラーの演奏はいつもの彼とは違って、精気あふれるリズムの代わりに、落ち着いた、平明な美しさをたたえた演奏となっている。
 実は当夜の彼の体調は、傍目にもそれとわかるほど悪かった。周囲の人は後半の演奏を中止するよう進言したが、彼は聞きいれなかった。
 そしてあの美しい、長大な終楽章を振り終えると、彼はお辞儀もそこそこに荷物をまとめ、夜行に乗ってミラノに旅立ってしまった。
 そのミラノではスカラ座の演奏会で、同じくマーラーの三番を演奏することになっていた。
 終わり次第、彼は渡米する。
 そしてニューヨーク・フィルともこの曲を来年三月末に演奏することになっており、またその前後に、例年同様メトで指揮をする。目玉は二月の、ニルソンとコレッリによる《トゥーランドット》の新演出である。
 そしてこれは私の推定だが、ウィーンでも六月に同作品を振り、ザルツブルク音楽祭では《シモン》を指揮する予定になっていたはずだ。
 来年も、彼はひっぱりだこだった。
 ここまで見てきたように、未知の現代作品に加え、一般には〈格下〉とされるプッチーニの諸作、あるいはヴェルディのマイナー作品やマーラーの交響曲のように、その価値が忘れられていたものを真摯に扱い、生き生きと演奏できる才能は、余人に代えがたかったからである。

 しかし、それらの公演はすべて代役が指揮することになった。スカラ座での練習中に彼は脳内出血に倒れ、ミラノに客死したのである。
 その日、午前十時に練習場に現われた彼は、その顔色をみて心配顔になった楽員たちに、
「私は部品のすり減った、オンボロの自動車みたいなものさ。でもまだ動くよ」
と声をかけ、練習を開始した。
 倒れたのは、第一楽章の八十小節目付近の、トロンボーンの入りをやっていたときらしい。
 トロッターによる伝記には、指揮台のストールに腰かけた彼は、しばしの無言の後、ゆっくりと石像が倒れるように前に崩れ、頭を激しく譜面台に打ちつけながら床に落ちた、とある。
 しかし異説もある。それによると、金管の入りを何度も繰り返してようやくうまく行き、
「きれいにできた!」と破顔一笑すると同時にくずおれたという。
 できすぎた話で事実ではないと思うが、しかしこの方が、彼らしくていい。

 一九六〇年十一月二日、ギリシャ人ミトロプーロスは長い旅の途中、ブーツをはいたまま死んだ。

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