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プッチーニとマーラーで

 十一月二日、脳内出血によるミトロプーロスの訃報は、各地に驚きと悲しみをもたらした。
 ドイツ、スイス、イタリアをツアー中のカラヤンとベルリン・フィルは、その翌日、偶然にも同じミラノのスカラ座で演奏会を開いた。
 はからずも追悼演奏会になったその晩、指揮者は予定のベートーヴェンの交響曲第四番とシュトラウスの《英雄の生涯》――『らいぶ歳時記』に紹介した《田園》は、翌四日の誤り――に加えて、演奏会の最後に、プッチーニの《マノン・レスコー》の間奏曲を演奏した。
 追悼用には異例だが、故人との友情を思い、故人と自分がともに愛する作曲家の作品を、あえて取り上げたい、とカラヤンは説明した。
 彼がわざわざ歌劇場のレパートリーを選んだことが興味深い。ウィーン・フィルならともかく、ベルリン・フィルにとってはあまり馴染みのない曲を演奏させたのである。
 追悼というだけでなく、ウィーン国立歌劇場を支える支柱となってくれたことへの、感謝でもあったのだろう。このオペラの、素晴らしいライヴ録音をメトに遺したミトロプーロスは、ウィーンでも同作品を指揮しているからだ。
 ウィーンにミトロプーロスを招いたのは、カラヤン自身であった。
「ウィーンの人たちはみんな、あなたの後ろ盾になりましょうといってくれるが、いざ後ろをふり返ると、誰もいやしないのさ」
 こんなことをいっていたカラヤンにとって、恬淡として表裏のないこのギリシャ人は、信頼できる数少ない同僚だったのである。
 ミトロプーロスの方も、カラヤンの華々しい活躍ぶりに目をほそめていた。この人は、自分と同じギリシャ出身ときけば、たとえどんな素性の相手であろうと援助を惜しまなかったというから、カラヤンの遠祖がギリシャ人であることもよかったのだろう。
 間奏曲の演奏後、大きな喝采が起きたが、指揮者は両手をあげてそれを制止し、全員で黙祷を捧げ、静かに演奏会を終わらせた。

 一方アメリカでは、やはり翌日の三日のことだと思うが、バーンスタインがニューヨーク・フィルの演奏会――曲目はおそらくリストのファウスト交響曲――で、マーラー《復活》の第四楽章《原光》を前音楽監督の追悼に、ジェニー・トゥーレルの独唱で演奏している。
 カラヤンのプッチーニに対して、バーンスタインがマーラーという選択は、両者と故人との接点を象徴しているようで面白いが、しかし後者と故人との関係は、前者とのそれにくらべて、はるかに微妙なものであった。
 それはおそらく、カラヤンとミトロプーロスの関係が、あくまで業務上、あるいは芸術上の同僚というだけなのに対し、バーンスタインの場合にはともに同性愛者であるために、そこに男女の関係に似た、感情的、情緒的な要素が多く混入してくるかららしい。
 彼らに実際に〈肉体関係〉があったかどうかの詮索は、どうでもよい。それ以前に、両者が恋愛の対象として、相手を意識することが可能だった、ということが重要なのだと私は思う。
 バーンスタインがまだ無名だった時代に、ミトロプーロスは彼を副指揮者に採用したいと声をかけ、その気にさせて長いこと待たせたあげく、結局は駄目だったことがあったという。
 なぜそんなことになったのか、それをバーンスタインは心中どう思っていたのか、こうした行き違いを秘めながら、二人が最後まで親交を結んでいたあたりの愛憎のもつれは、小説にでも仕立てられそうな素材である。

 だが一方が死んでしまえば、イヤなことは水に流され、すべては美談に変わる。しかし演出が過ぎると、生きている方のスタンドプレイだけが鼻につくことになる。
 ミトロプーロスが最期の日まで首にかけていた小さなギリシャ十字架を、バーンスタインはそれを入手した友人に頼んでもらい受け、形見として身につけた。
 そして、翌六一年の三月三十日から四月二日までの復活祭の週末四日間、ミトロプーロスが指揮するはずだったマーラーの交響曲第三番の指揮を、自らがあたることにしたのである。
 ここまではよかった。
 ところが三一日の金曜日の昼、舞台に現われたバーンスタインは指揮台に上がるや、何も言わずに頭を下げ、それを一分間ほども続けたあと、ようやく演奏をはじめた。
 ミトロプーロスへの黙祷のつもりだったらしいのだが、その印象はいかにも芝居がかった、ひとりよがりなものだった。この金曜日のマチネーには、各紙の批評家が列席していたが、彼らのほとんどが不快に思ったという。

時代のスーヴェニール

 実に、バーンスタインという男の人柄がよく出た逸話だと思う。
 こうなると、このあとの演奏がどんなものであったのか、聴いてみたいものだ。この当日ではなくとも、翌日の土曜日の中継録音が残っているはずなのだが、CDにはなっていない。
 これに限らず、バーンスタインの六〇年代のライヴというのは、ほんのひと握りしかCD化されていないのである。
 例えば六〇年前半のシーズンを例にとると、一月のミトロプーロス四週分、三月のライナー二週分、四月のワルター一週分の定期が各社でCD化されているのに、二月や五月など、十週前後もあるはずのバーンスタインはない。
 年長の過去の巨匠たちと違って、音のよい正規録音が大量に残されているから、需要がないのだ、ということなのだろうか。
 しかし、それでは困るのだ。
 私は、ある演奏家がどういう演奏をしたかということだけでなく、それに対して聴衆は、大きくいえば世間はどう反応したか、そしてさらにその聴衆と世間の反応が、演奏家自体に及ぼした影響はどんなものであったか、を考えていきたいと思っている。
 もちろん、もっと単純に、ライヴの方がスタジオ録音よりも演奏が面白い――特にオペラの場合に――ということもある。
 いずれにせよ、ライヴが少ない演奏家は困るのである。ドキュメントとしての面白さも、演奏自体の面白さも、限られてしまうからだ。
 バーンスタインもその一人なのだが、多少は助かるのは、彼のニューヨーク・フィル時代のスタジオ録音のほとんどが、実際の演奏会と連動して行なわれていることである。
 簡単にいうと、木曜日から日曜日までにカーネギー・ホールで演奏した曲目を、あくる月曜日か、遅くとも数週間以内の月曜日に、マンハッタン・センターかセント・ジョージ・ホテルなどの録音会場に場所を移して録音、というのがメインのパターンなのだ。
 つまりバーンスタインのスタジオ録音は、実際の歌劇場では共演したこともない、ショルティとウィーン・フィルによる《ニーベルングの指環》の録音などにくらべれば、まだしもセミ・ドキュメント、あるいはスーヴェニール、記念品ぐらいの意味はあるのである。
 そこで今回は、いささか変則的な方法だが、スタジオ録音を用いて話を進めてみたい。

 先にあげた三番も、やはり定期の翌日、一九六一年四月三日にスタジオ録音されている。
 他人の代理の、それも追悼的な意味の強い曲目をちゃっかり録音してしまうあたりは、いかにも彼らしいが、それはそれとしよう。この録音は後年、彼のニューヨーク・フィル時代最大の遺産と評価されることになる、マーラー交響曲全集の二番目となるものであった。
 一番目はというと、一九六〇年二月一日の第四番である。こちらはマーラー生誕百年記念シリーズの一環として、ミトロプーロスに続いて登場し、《復活》と第四番を演奏していた時期にあたるから、その演奏会と連動して録音されたものであろう。
 この二曲の録音にはさまれる、一年と少しの期間の彼の活動を、これから追っていこう。それは、このにぎやかで説明過剰で、ひとりよがりで自分勝手だが、しかし光に包まれていた男の前半生と、そしてまだ本当に自信にみちていた頃のアメリカの、一縮図となるはずである。

 まず、彼の第四交響曲のスタジオ録音は、どんなものだったか。
 フレージングなどはとても納得のいくものなのだが、残念ながらそれを支えるべき呼吸がない。そのためベタッと粘るような歌いかたになり、体が重くなるような聴き疲れをおぼえる。
 ただし終楽章で歌うレリ・グリストの声は可憐で、好ましい。後にはヨーロッパでスーブレットとして活躍することになる、この年二八才のこの黒人歌手が、実は一九五七年のブロードウェイの《ウエストサイド物語》の初演メンバーだった、というのは面白い。
 このミュージカルでは、舞台裏から《サムフェア》が歌われるが――映画版では主役二人の二重唱に変更――、それを歌ったのが彼女で、オリジナル・キャスト盤にも参加している。
 それが一九五九年夏、ブロードウェイ公演の終了を期にクラシックに転向、渡欧して本格的なオペラ活動を開始する直前の時期に、この演奏会に起用されたのである。ミュージカルからクラシック、彼女の芸歴はバーンスタインのそれと、軌を一にしているかのようだった。

 このグリストの歌う第四番の終楽章は、二月七日に放映された、青少年コンサートの〈グスタフ・マーラーって誰?〉――邦題は〈グスタフ・マーラーの魅力〉――のビデオでも見ることができる。
 この青少年コンサートには長い歴史があるのだが、人気が出たのは一九五八年に、バーンスタインの出演で年四回テレビ放映されるようになってからである。彼の活動の中でも、そのしゃべりたがり、教えたがりの性格が典型的に発揮されたものであった。
 ワイヤレスマイクが実用化される前らしく、背広の後ろから長いコードを引きずって指揮する姿に、時代が出ている。それだけにバーンスタインも若い。この時まだ、四一才なのだ。
 第四番の他に《復活》、《大地の歌》などのサワリが演奏されているが、あまりにも断片的なので、演奏を云々することは控えよう。
 それよりも、彼がしゃべるマーラー観の方が参考になる。彼はマーラーを作曲家と指揮者、大人と子供、西洋と東洋など、さまざまな葛藤を一身にかかえ込んだ、「ダブル・マン」と説明しているが、彼はそんなマーラーに、彼自身をもダブらせようとしているのだ。
 
恐れ知らない、これが若さだ

 興味深いことに、このとき彼はマーラー未亡人のアルマ・ヴェルフェルと親しく、夕食に招いたりしていた。当時マンハッタンに住むアルマはすでに八十才になっていたが、いまだに信じられないほど魅力的な女性だったと、バーンスタインは語っている。
 彼女がバーンスタインと亡夫をくらべて、どう感じたかはわからないが、彼の連続演奏会のリハーサルには欠かさず同席していたというから、憎からず思っていたことは疑いない。このシリーズで歌曲を歌ったトゥーレル(当時六十才)との親交もそうだが、バーンスタインは年上の女性に好かれるタイプだったらしい。
 ただアルマは、《亡き子をしのぶ歌》の回だけは来なかった。愛児の死のことや、それ以後マーラーの健康が急激に衰えていってしまったことなどを思い出すのは、年老いた自分にとってあまりに辛いことだからと、彼女はメッセージを届けている。
 しかし、アルマの半分の年齢の彼は、彼女の心情をどれほど理解できたのだろうか。
 二月十六日の《亡き子をしのぶ歌》(トゥーレル独唱)のスタジオ録音を聴くかぎり、彼の感情表現は表面的なものにしか聞こえない。
 さらにその演奏自体よりも驚かされるのは、なんと同じ日に《ピーターと狼》を録音し、ナレーションも自分で担当して、得々としゃべっていることだ。どういう神経なのだろう。
 実際の演奏会で、この二曲を同時に演奏したとは想像したくないが、その生き生きとした、巧みな演奏を聴くにつけ、若さとは素晴らしくも、残酷で無思慮なものだと、痛感せずにはいられない。
 偉大な芸術家とは永遠に子供なのだと、後年彼は語っている。きっとそうなのだろう。

 この日はさらに、チャイコフスキーの《イタリア奇想曲》も録音されている。
 導入部の胸がわくわくするような期待感と、主部の快速の躍動感と爆発は、スタジオ録音の不利をまったく感じさせない。一日で録りきってしまうことで、演奏の生気を保とうという彼の考えは、たしかに成功している。
 それにしてもタフでなければ、こんなことはできない。この後のことだが、四月中旬の定期に登場した八三才のワルターは、健康上の理由でセッションを三時間に制限していた。
 そのため、十八日と二五日の二回でようやく《大地の歌》一曲を録音したのに対し、バーンスタインはその十八日の、余った時間に《ミサ・ソレムニス》の一部を録り、さらに二一日の木曜日、演奏会前の数時間で、その全曲を録り終えてしまっているのである。
 ワルターに限らず、当時はLP一枚を二日間ぐらいで録るのが、普通だったのだ。ところがバーンスタインは、別表の五月二日の曲目を見ればわかるとおり、LP二枚半もの量を、一日で録ることさえあった。
 単純にいって五倍の速度になる。これだけのペースでLPを量産し、それがみな売れるのだから、当時のバーンスタインの人気の凄まじさがわかるだろう。同時に、それらを次々と買うことのできるアメリカの消費者の、世界一のフトコロの豊かさも。

 しかしこんなあわただしさでは、好不調の波が生じるのも当然だろう。
 前述の五月二日の録音は、得意の《ロデオ》を除けば、他は興奮が上滑りしていて、せかせかと軽薄な印象が強い。一方、二週間後の五月十六日の録音は、ノリにノっている。
 エリア・カザンの同名の映画のために、六年前に彼が書き、アカデミー賞の有力候補にもなった《波止場》の組曲の演奏は、彼の自演の中でも優れたものだ。さらに、チャイコフスキーの五番は輪をかけて凄い。騒々しいことこの上なし、迫力もまたこの上なし、バーンスタインこれにあり、といった演奏である。
 これは十五日までの定期の曲から、メンデルスゾーンの《真夏の夜の夢》を除いたものだった。十五日には昼の定期に続けて、夜に年金募集演奏会を行い、ベートーヴェンの第九と合唱幻想曲で派手にシーズンを終えている。

 これらの活動の合間をぬって、四月五日にはホワイトハウスのアイゼンハワー大統領の前で演奏し、《ラプソディ・イン・ブルー》で得意の弾き振りを披露している。
 さらに同月二七日には、ブロードウェイにも登場した。二年近い本公演ののち、九ヵ月にわたって地方を巡業していた《ウエストサイド物語》が、再びブロードウェイの劇場に帰ってきたのだ。それを祝して初日の序曲だけを、作曲者自身が特別に指揮したのである。
 開幕のとき、客席の通路から登場した彼はスポットライトに照らされ、まるでリングに向かうボクシングのチャンピオンのように、大歓声の中をピットに歩いていったという。

 まさにバーンスタインは、わが世の春を謳歌していた。

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