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うつろいゆくもの、永遠なるもの
一九六〇年の五月三一日、バーンスタインは自作のミュージカルの第一作、《オン・ザ・タウン》を録音している。
この作品がブロードウェイで開幕したのは、一九四四年の十二月末であった。
ニューヨーク・フィルの無名の副指揮者にすぎなかった二五才のバーンスタインが、インフルエンザに冒されたブルーノ・ワルターの代役として衝撃的デビューを飾ってから、十三ヵ月後のことである。
この一年の間に彼は、交響曲第一番《エレミア》とバレエ《ファンシー・フリー》をたて続けに初演し、指揮者としてばかりか、作曲家としてもアメリカで最も期待される若者となっていた。そしてブロードウェイの檜舞台でも認められることになったのが、この《オン・ザ・タウン》の成功だった。
第二次世界大戦下のニューヨークを舞台に、二四時間の休暇を得た三人の水兵の、花火のように短い恋と騒動を描くこの作品は、ブロードウェイの流儀に従い、本公演に先だって、ボストンで試演(トライアウト)が行なわれた。
ボストンが自分の生まれ故郷である、という理由もおそらくあって、バーンスタイン自身が初日の指揮をしたのだが、これがこの作品を彼が劇場で指揮した、ただ一度の機会となった。
以後の公演は、すべてマックス・ゴバーマン――《ウエストサイド物語》の初演指揮者でもある――などが指揮にあたり、後年に発表された《ワンダフル・タウン》《キャンディード》《ウエストサイド物語》などでも、バーンスタイン自身が指揮することはなかった。
理由は簡単で、週に八回も上演される(月曜のみ休演で、水曜と土曜は一日二回公演)ブロードウェイで一年も二年も指揮を続けるにしては、他にやりたいことが多すぎたのだ。
しかし初演から十六年後、《オン・ザ・タウン》が初めて全長版で録音されることになったとき、バーンスタインはその指揮を自ら行なうことにした。
前年の一九五九年に、オフ・ブロードウェイでこの作品が再演されていたが、コロンビア・レコードはそれと別に初演時の出演者を四人集め、彼に指揮させたのである。
その歌手たちのうちの二人、ベティ・カムデンとアドルフ・グリーンはバーンスタインの無名時代からの友人であり、この作品の歌詞と脚本を書いた当人たちでもあった。
このコンビはその後、映画《雨に歌えば》の脚本など、バーンスタインとは別の場所で活躍していたが、この録音で久しぶりに共同作業することになったのである。
そうしてつくられた《オン・ザ・タウン》を聴いてみると、営業上の理由はともかく、純粋に音楽を楽しむためには、当時実際の舞台に出ていたメンバーの方がよかったかも知れない。
カムデンとグリーンは歌手としてはイマイチだし、バーンスタインの指揮も、聴かせどころの《サム・アザー・タイム》の四重唱などで、練習不足があらわになってしまう。
彼の死後にティルソン・トーマスが指揮したビデオ――カムデンとグリーンも進行役で参加した――の演奏にくらべると、かなり低い出来としかいいようがない。
ともあれ、この《オン・ザ・タウン》が、一九六〇年前半の彼の最後の仕事であった。それから彼は家族や友人と避暑地に行き、二ヵ月のバカンスを過ごしている。彼はその間に、交響曲のようなシリアスな音楽の作曲にかかるつもりだった。
その昔マーラーが、歌劇場から解放される夏に、避暑地の作曲小屋にこもって作曲したのと同じやり方をしようとしたのだ。
しかし、バーンスタインの頭は、まったく何も生まなかった。多忙な指揮者稼業の疲労が、作曲に集中する心身の余裕を、奪ってしまっていたらしい。
「たとえ《オペラ》(ウィーン宮廷歌劇場)の仕事がどんなに重要であろうと、彼(マーラー)自身の作曲の音符の一つにも比べられないのではないか。片やその場かぎりのこと。片や永遠なること」
アルマ・マーラーはその『グスタフ・マーラー』(石井宏訳)で、こう述べている。
たしかにそのとおりだ。生前のマーラーの指揮がどれほど偉大なものであろうと、後世の我々は、一音たりとも耳にできないのだから。
亡夫の死から半世紀を経てバーンスタインと知りあったとき、アルマは彼にも、同じことを忠告しただろうか。
だがバーンスタインは、どうだろう。彼の時代には、ステレオLPもCDもビデオも商品化されていた。実際の舞台ではないにせよ、我々は彼の指揮を今も楽しむことができる。
もちろん彼の後世への最大の遺産は、何よりも《ウエストサイド物語》の作曲だと、私は思う。しかしそれは、彼の指揮者としての価値を低く見るという意味ではない。
ラジオやテレビの中継、そしてレコードによって、彼の指揮は全世界で聴かれ、注目を集めていた。〈指揮〉という活動の意義も、また聴衆の数も、マーラーの時代とは比較にならぬほど大きくなっていたのである。
こうしたメディアの発達と聴衆の大衆化は、指揮者を時代のシンボル、ヒーローとして偶像化していくことになった。マーラーが想像もしなかったような環境に、バーンスタインは生きていたのだ。
八月初め、実りないバカンスを終えた彼は、再び浮世の激務に身をおくことになる。
アット・ザ・カーネギー・ホール
彼とニューヨーク・フィルは、北米大陸を塗りつぶすような演奏旅行に出発した。
北はバンクーバー、南はニューオリンズ、西は太平洋を越えてハワイまで足を延ばし、八月二五日にここで四二才の誕生日を迎えている。
五十日間に三十公演というハードな日程をこなしながら、彼らは行く先々で熱狂的な歓迎を受けた。テレビが彼らをこれほど有名にしていたことは疑いなく、その影響力の大きさをバーンスタインは肌で感じたという。
演奏旅行の仕上げは、西ベルリンだった。
九月二一日に空路到着、二二、二三日に演奏会とテレビ番組を収録して翌日に帰国、あくる二五日にはワシントンで演奏し、数日後にはニューヨークでのシーズンが開幕するというのだから、忙しい。
この〈ベルリン特急〉には、当時の国際情勢が如実に反映されているのだが、それについては次章で述べることにしよう。
帰国後の九月二八日、バーンスタインは珍しく小品ばかりをいくつか録音している。その中では、自作の《キャンディード》序曲がシャンパンみたいな噴出力で、楽しい。
この一九五六年初演のミュージカルは、当時の彼の作品ではただ一つ、不評に終わっていたものだが、序曲だけはアンコールに最適の小品として、逆にクラシックの演奏会で最も演奏される彼の作品になっていた。あるいは、全米旅行やベルリンでアンコール演奏を重ねた成果として、ここで録音したのかも知れない。
この録音と前後して、カーネギー・ホールのシーズン開幕演奏会が行なわれ、アイザック・スターンがベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲で彼と共演している。
スターンの出演には、特別な意味があった。
彼の奔走がなければ、築後六九年のカーネギー・ホールはこの夏に取り壊され、オフィスビルに建てかえられているはずだったのだ。
老朽化がひどいし、別に新しいフィルハーモニック・ホール(後のエイヴァリー・フィッシャー・ホール)がリンカーン・センターの一角に建つのだから、というのがその理由だった。
しかしスターンを中心とする関係者や一般の猛烈な反対運動の結果、ニューヨーク市がホールを買い取って改修し、スターンを会長とするカーネギー・ホール財団、及び同協会に運営を委ねることになって、ホールは命拾いした。
もし予定どおり取り壊されていたら、新ホール完成までハンター・カレッジの講堂に仮寓するはずだったニューヨーク・フィルは、こうして今しばらく古巣に留まることになった。
フィルハーモニック・ホールのオープンは、二年先の一九六二年秋のことである。
この時点ではまだ、工事が始まって一年ほどしかたっていない。ホール用地の北側には、古いビル街がまだ手つかずに残っていた。
この取り壊し直前の無人の一角で、映画《ウエストサイド物語》(翌年十月封切)の撮影が行なわれたのは、少し後のことだった。
〈生還記念〉ともいうべき開幕演奏会に続いたシーズン最初の定期演奏会では、バーンスタインが自らピアノを弾くベートーヴェンのピアノ協奏曲第一番、レオノーレ序曲第三番、そしてシューマンの交響曲第四番が演奏された。
このシーズン、バーンスタインは全二八週の定期のうちの十二週を、六週ずつに分けて秋と春に指揮することになっていた。
それぞれ、六週間を通してのテーマがあり、曲目はそれにもとづいて構成されていた。定期のシリーズを音楽祭のように、相互に関連させようという彼のアイディアだった。
何だか、授業に興味を持たせようとして一生懸命の、なりたての小学校の先生みたいなやり方だが、その熱意がいかにも彼らしい。
最初の六週間は、シューマンの生誕百五十年を記念して、「シューマンとロマン派運動」と名付けられ、シューマンの交響曲や前期ロマン派の諸作品が取り上げられている。
別表のとおり、レコーディングもこのテーマにそって、シューマンの交響曲全集や、ロマン派の序曲などが選ばれた。第一週の曲が、後の録音日にずれこんだ以外は、ほぼ前日までの実演の曲目を録音するパターンが守られている。
たとえば十月三一日の録音などは、前日の実演から一曲を除いただけで、まったく一緒である。ただその一曲、サンソン・フランソワと共演のプロコフィエフのピアノ協奏曲第五番は、異色の顔合わせだけに聴いてみたいものだ。
この時期には他に、待望のアメリカ・デビューで話題をさらっていたソ連のピアニスト、リヒテルともチャイコフスキーやリストの協奏曲を演奏しているが、これも録音はない。
作曲もする指揮者
CDの演奏はどれも、とにかく元気がいい。
レオノーレ序曲第三番のように空回りして、音楽が小さくなってしまったりすることもあるけれども、シューマンの第二番などは名演だ。
ただよく分からないのは、このシリーズの最後に録音された、ファウスト交響曲である。
編成ばかり大きくて、曲自体はつまらない。それはレコード会社も百も承知で、バーンスタインに翻意を促したが、彼は契約をタテに録音を強行した。
それというのも、一年前にバーンスタインがコロンビアと新たに結んだ契約は、二十年間という異例の長期のもので、しかも曲目の選択権は、すべてバーンスタイン側にあるとなっていたからである。
ライバルのRCAが彼の横取りを狙っていたため、コロンビアはこの不利な条件をのむほかなかったのだが、その代償も安くはなかった。
案の定、この曲のLPは売れなかった。
こうして最初の六週間がすぎ、彼に代わって客演指揮者たちが登場しはじめた。ところがキャンセルが相次いだため、さえないシーズンが続くことになったのである。
無事に出演したのはシッパース、ウォーレンスタイン、ロスバウトだけで、後はライナーが冠状動脈瘤に倒れ、続いてミトロプーロスが急死した。マルケヴィッチも来ず、ベームは練習中に眼病が悪化、ウィーンに緊急帰国した。
代役のゴルシュマン、パレー、スクロヴァチェフスキー、コープランド、チャペスたちは誰が見ても格下で、比較にならなかった。
しかしバーンスタインは、ミトロプーロスの四月の演奏会の代理を引き受けただけで、十一月から二月までの四ヶ月間は、オーケストラを助けようとはしなかった。
それは彼が、この四ヶ月をアルマのいう〈永遠なるもの〉に捧げていたからである。
昨年までの十八週の出演を十二週に減らし、夏にできなかった作曲をしたい、という彼の要望を、楽団の理事会はしぶしぶ了承していた。ちょうどこの三月で、音楽監督としての三年間の契約が切れることになっており、このスター指揮者を手放したくない楽団としては、多少のワガママは承諾するしかなかったのだろう。
だが、そうまでして得た休暇の成果は、後世に遺るような大交響曲ならぬ、たった三十秒の短いファンファーレだけだった。
それはいわば〈機会音楽〉で、新しい合衆国大統領の就任祝賀会のための作品である。
一九六〇年十一月八日、つまりバーンスタインがファウスト交響曲を録音した翌日に大統領選挙が行なわれ、民主党のジョン・F・ケネディが共和党のリチャード・ニクソンを大接戦のすえに振りきり、新大統領に選ばれていた。
年は一つ下だが、ハーバード大学では一年先輩になるバーンスタインは、ケネディが上院議員であった頃からの知りあいであった。
その縁もあって、就任式前日の一九六一年一月十九日にワシントンで開かれた、フランク・シナトラのプロデュースする祝賀会に、各界のスターたちとならんで、クラシック界を代表として彼も出演したのである。
そしてワシントン・ナショナル交響楽団を指揮して、前述のファンファーレと、《星条旗よ永遠なれ》《錨をあげて》を演奏した。
祝う方も祝われる方も、ともにまだ四十代前半の若さである。アメリカという国の勢い、自信、そして情熱の申し子ともいうべき存在が、彼ら二人であった。
後に言葉をかわしたとき、彼は大統領に、
「君は、大統領候補のライバルにしたくない、唯一の男だよ」と言われたという。
作曲のための貴重な時間を削って、大雪の中を出演した甲斐があったというものだろう。
一ヶ月後の二月十三日には、今度は彼自身のために、〈バーンスタインに捧げるバレンタイン〉という、彼の作品によるニューヨーク・フィルの特別演奏会が行なわれている。
めでたく契約を更新し、この楽団では今世紀初の、七年間の長期契約を結んだ音楽監督を主賓とする、ガラ公演だった。
歌手やバレエ団も大勢出演し、友人のルーカス・フォスが指揮する《ウエストサイド物語》からのシンフォニック・ダンスの初演が、公演のハイライトとなった。
こうして彼の〈永遠への四ヵ月〉は、華やかな祝典に飾られ、しかし無為にすぎていった。あくまで現世と関わり続けるように、彼は生まれついていたのだろう。
《ウエストサイド物語》の成功後、ニューヨーク・フィルの指揮者になった一九五八年を境に、彼は〈指揮もする作曲家〉から〈作曲もする指揮者〉に変わっていたのだ。
以後、誰もが口ずさむような名曲を、彼がつくることはなかった。
一九六一年三月、指揮者バーンスタインは活動を再開した。四月の下旬には、初めての日本ツアーが待っている。そして彼の傍らには、新任の副指揮者、小澤征爾がいる。
彼と小澤が初めて会ったのは、半年前の西ベルリンでのことであった。
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