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最前線の街

 今年と同様、一九六〇年はうるう年だから、オリンピックの開かれる年である。東京オリンピックの前回にあたるこの年は、イタリアのローマが会場であった。
 この大会では、マラソン出場のエチオピアのアベベが、ローマ軍団凱旋の道として名高いアッピア街道を裸足で走りぬいて優勝した。彼はまさしく、旧植民地が次々と独立をかちとり、〈アフリカの年〉と呼ばれた一九六〇年を象徴する英雄となった。
 だがこうした第三世界勢の活躍の一方、オリンピックは依然、東西両陣営が国の威信をかけて競いあう〈代理戦争〉の場でもあった。

 近代オリンピックが政治に利用されだしたのは、一九三六年のベルリン・オリンピックからといわれる。
 ヒトラーとナチスは、第三帝国こそ栄光のローマ帝国の継承者だと印象づけるべく、オリンピックを国威発揚の祭典にしてしまった。
 この大会からはじめられた聖火リレーも、アテネに発した文明のともしびが、今やアーリア人の首都、ベルリンに赤々と燃えていることを示しているかのような印象を与えた。
 しかしヒトラーの意に反し、その後聖火は世界各地に運ばれていったのである。
 二四年後の一九六〇年八月、ローマ五輪に聖火が燃えているころ、〈ドイツ〉は東西に分割されており、ベルリンも戦争の傷跡を大きく残したまま、二つに分かれていた。

  戦勝記念塔から、ティアガルテンの中を走る大通りを東に行くと、六本の円柱にささえられた壮麗なブランデンブルク門の前に来ます。ここにも「西ベルリンはここまで、ここから先はソビエト地区」と書いた立札が道路の中央に立てられ、門の東西に夫々の警官が出入者をしらべています。(中略)今は比較的自由なのでパスポートを見せてブランデンブルク門を越え、東ベルリンのお巡りさんの挙手におくられて一たび東ベルリン地区に入ると、あの繁華な西ベルリンとはうってかわったさびれよう。かつての目抜き通りであったウンター・デン・リンデンもいたずらにその広さをかこつばかりですし、北側にある戦前の米英大使館跡がくずれ落ちた廢趾のままで手をつけさせないというのに、その向い側のソ連大使館の豪華なこと、ここでは冷戦が現実の姿となって眼の前に現われているのです。
  門から数十米先でウイルヘルム通りと交叉しますが、これに沿って右へまわると、かつてその権勢を誇ったヒトラーの総統官邸跡があります。弾丸あともそのままに今は誰一人として居いママ廢趾となってこばむものもないまま、その昔ヒッママトラーが右手をさしのべて獅子吼したニュース映画でお馴染みのヴェランダや、ヒトラーの居室をたずねましたが、ひしひしと諸行無常の世のさまを感ぜずには居れませんでした。
 (福原信夫/N響とともに世界を旅して/『ディスク』昭和三六年五月号より)

 オリンピック後の九月、NHKの福原信夫はNHK交響楽団の世界一周旅行に同行し、米、英、仏の三国管理地区、通称〈西ベルリン〉で開かれた、ベルリン芸術週間に参加した。
 東ベルリンの同種の芸術祭に対抗して始められたというこの芸術週間は、西ベルリン地区内の歌劇場や劇場、大小のホールなど十八の会場で、連日さまざまな公演が繰り広げられるものであった。開始十年目にあたるこの年は、九月十八日から十月四日までを期間とし、例年以上の規模で挙行されたという。
 まず地元の団体ではベルリン・フィル、ベルリン放響、聖ヘドヴィヒ教会合唱団、ベルリン・ドイツ・オペラが中心となり、カラヤン、ベーム、フリッチャイ、マゼール、ヒンデミットたちが指揮した。
 さらに国外からはアメリカのバーンスタインとニューヨーク・フィル、イギリスのプリッチャードとロイヤル・フィル(多分プリッチャードは、引退したビーチャムの代役だろう)、そして日本から岩城宏之とN響などが参加、もちろん独奏者も多数出演した。
 音楽の小さなオリンピックといった賑やかさだが、参加しているのは西側諸国ばかりだ。ここにも、深く政治が関わっている。
 いわゆるベルリン問題をめぐって、一触即発の緊張感が高まりつつある国際情勢の下、西ベルリンの存在とその意義を自由主義世界に宣伝しようという意図が、そこにはあった。
 今やベルリンは、文明の中心どころか、世界の二大勢力が至近距離で向かいあう最前線となっていたのである。

 当時のベルリンについて、もう少し述べておきたい。すでに触れたように、西ベルリンとは西ドイツの一都市ではなく、戦勝国の米英仏の管理下にある地域のことである。
 西側自由世界が〈鉄のカーテン〉の向こうに残した橋頭堡であった。
 ただ注意したいのは、この一九六〇年九月には、まだ〈ベルリンの壁〉がなかったことだ。
 そのために福原も、その後三十年近く通行不可能になったブランデンブルク門から、堂々と(?)東ベルリンに入っているのである。
 外国人ばかりでなく、東西両市民の往来も比較的簡単で、三百万の東西全市民のうち、五十万人が毎日境界を行き来していた。東側にあるベルリン国立歌劇場管弦楽団も、楽員の七割は西側の自宅から通勤していたという。
 公式には等価のはずの西の一マルクが、闇レートでは東の四マルクにあたるという格差はあったが、東側の市民も西側の豊かで自由な生活を、自分の目と耳と手で確かめることができたのである。
 また西側でも映画や劇場、オペラや演奏会では、東西両マルクは建前どおり等価で扱われたから、東側市民も対等に楽しむことができた。
 だからこそ当時の西ベルリンは、〈西側世界のショーウインドウ〉だったのであり、また毎年数十万の東独人がこの都市を経由して亡命していく、〈脱出口〉たりえたのだ。
 こうした状況を終わらせるために、〈壁〉が構築されるのであり、それによって西ベルリンの持つ意味は一変し、以後は単なる〈孤島〉にすぎなくなるのである。
 〈壁〉がつくられるのは一九六一年八月十三日のことで、つまり一九六〇年九月の芸術週間は、〈壁〉以前の最後の〈ショーウインドウ〉芸術週間となることになる。

ベルリン十字軍

 長々と説明したのは、私のように「物心ついたときから〈壁〉があった」六〇年代以降生まれの世代には、この〈壁〉以前の状況を知らない人も少なくないのでは、と考えたからだ。
 さもないと、この一九六〇年のベルリン芸術週間のためだけに、バーンスタインとニューヨーク・フィルが遠征してきた意味も、わかりにくくなる。
 前章で述べたように、九月二一日にバーンスタインとニューヨーク・フィルはニューヨークから西ベルリンに飛び、二二日、二三日の二日間に演奏会を行ない、翌日に帰国している。
 この忙しい演奏旅行は、バーンスタインのテレビ番組のスポンサー、フォード社が十五万ドルに及ぶ経費の全額を負担し、演奏会と放送の収益については、すべて西ドイツの慈善団体に寄付することになっていた。
 つまり非営利の、フォード社丸抱えの派遣だったのである。
 西ベルリンとフォードの関係は浅くない。
 たとえばベルリン自由大学だ。この大学は、東独地域に入ってしまい、マルクス色を強めたフンボルト大学(旧称ベルリン大学)に対抗して、西側市民のために戦後に創立された。
 その運営を援助したのがアメリカのフォード財団で、そのためかこの大学の学風は、反共親米のカラーが非常に強かった。

 フォード財団とは、各種の社会事業を援助する慈善団体で、フォード社の株の配当や売買益をその主要財源としている。
 もともとは、慈善事業に税金がかからないことを利用して、フォード家が創業者ヘンリー・フォードの死後も会社への影響力を保つために設立した、相続税逃れの持株財団だった。
 とはいえ、戦後急速に業績を回復し、多額の利益をあげる自動車会社の株の大部分を持っているのだから、その財力はアメリカの同種の財団のなかでもすば抜けて巨大で、ゆうにどこかの小国の予算に匹敵するといわれていた。
 その事業の一つとして、彼らは〈自由の砦〉西ベルリンを援助していたのである。
 バーンスタインとニューヨーク・フィルのベルリン旅行も、フォードが援助したというよりは、フォードの計画にもとづいて、派遣されたようなものだった。
 こんなことを国家主導でなく、一民間財団の考えでやるあたりがアメリカらしい。この国の官民の関係は日本のような一方通行ではなく、その境界はゆるやかで、交互通行なのである。
 当時のフォード社社長ロバート・マクナマラが、数ヵ月後に成立するケネディ政権の国防長官として入閣することをみれば、国と企業との距離の近さが分かるであろう。
 もちろんこのことはよい点ばかりでなく、つねに暴走の危険をはらんでいるのだが……。

 このフォードの意を受けて西ベルリンに入ったバーンスタインは、あえていってしまえば、西部開拓時代の最前線の砦にパトロールしてきた、騎兵隊の隊長みたいな使命感や高揚感に燃えていたらしい。
 彼は演奏会以外に講演も行ない、それらはテレビのドキュメンタリー番組(もちろん、提供はフォード財団)にまとめられた。
 その講演はベルリン自由大学の学生七百人を相手に行なわれ、彼はベートーヴェンの音楽の素晴らしさと普遍性について、ドイツ人に向かって臆面もなく講義した。そして最後に、  
「主があなたたちに向かってその顔を上げ、平和をたまわらんことを」
という祈りを、ヘブライ語と英語で唱えた。親切といえば親切だが、やや押しつけがましい。
 夜は夜でパーティに顔を出し、翌年春からニューヨーク・フィルの副指揮者に採用する予定の小澤征爾と初対面し、夜ふけまで歓談した。学生たちとも飲みに行った。
 そして翌朝がくると、彼は夜の疲れなどまったく知らぬように、精力的に活動した。ベートーヴェンのピアノ協奏曲第一番を、弾き振りで一日で三回やってのけたのだ。
 まず午前中にテレビ収録のためのゲネプロを行ない、午後にその本番。そして晩の演奏会で計三回である。
 自由ベルリン放送局(SFB)のホールで行なわれたその演奏会も、ドイツ各地にテレビ中継されたらしいのだが、残念ながら我々はその映像や音を楽しむことはできない。
 その代わりに、彼がひと月後にニューヨークでスタジオ録音した演奏がある。
 第一楽章はまだエンジンが温まらないのか、ピアノも伴奏も重くてもたれる。しかし第二楽章では呼吸が自然になって、終楽章ではいかにも当時の彼らしい、元気のいい音楽が展開される。ピアノの巧さはいつもながらで、得意満面の彼の〈ヒーローぶり〉が、眼に浮かぶような録音だ。

 ベルリンでは他に、バルトークの《オーケストラのための協奏曲》も取り上げられた。彼の師のクーセヴィツキーが初演した縁もあり、二十世紀の管弦楽曲を得意とする彼の、十八番の一つである。
 しかし会場に居合わせたNHKの細野達也の回想によると、そのあまりにも親しみやすく、聴きやすい演奏ぶりが、いかにもアメリカ流で厳しさに欠けていると、かえってドイツ人たちを戸惑わせてしまったらしい。
 とはいえ終演後の喝采は熱演にふさわしく、盛大かつ熱狂的なものだった。バーンスタインの〈ベルリン十字軍〉は、大成功裡に終わったのである。

西方見聞録

 同じ九月二三日の晩にはもう一つ、ベーム指揮のベルリン・フィルの演奏会があった。
 曲目は、ヒンデミットの《ウェーバーの主題による大管弦楽のための交響的変容》、モーツァルトのヴァイオリン協奏曲第四番(シュナイダーハン独奏)、そしてシューベルトの交響曲《グレート》である。
 この日、ハンブルクから到着したばかりのN響の楽員や、福原など関係者の多くはこちらを聴きに行った。満席のために舞台上に特別席をしつらえてもらったおかげで、彼らはベームの指揮を正面から見物できた。他に客席には、評論家の大木正興、そして小澤征爾などがいた。
 まだ海外旅行は自由化されていなかったし、高度成長も始まったばかりだったが、留学や派遣の形で、海外の日本人の数は徐々に増えつつあった。そして彼らは、情報に飢える国内の同胞のために、旅行記や体験記を雑誌や新聞にさかんに書いたり、書かされたりした。
 さきに引用した福原の『N響とともに世界を旅して』も、翌六一年、つまり昭和三六年に月刊誌『ディスク』に連載されたものである。
 自分もいつかは行ってみたい、という憧れをかき立てられながら、何度も繰り返しそれらを読んだ読者も少なくなかったろう。
 旅行記のもつ意義が、現代とはまるで違う。〈壁〉以前のベルリンが想像しがたいのと同様に、夢のような昔話だ。
 海外旅行の方が国内旅行より安かったりする現代では、旅行記などはよほど新奇な珍しい地域を取り上げないかぎり、ほとんど自己満足の意味しかもつまい。

 だが現代の我々にとって、三六年前の旅行記が当時を知る貴重な記録となっているように、現代の旅行記も、三六年後の人々には別の価値をもつようになるのではないか。
 地球がどれほど小さくなっても、時間の力はいまだ巨大で、抗しがたいからだ。タイムマシンの時間旅行は、まだ当分できそうにない。
 行ってみることができないからこそ、我々は過去に憧れるのだろう。それは追憶ではなく、未知の新世界である。
 例えば、こんな対談がある。
 
 大木 小沢さんベームはベルリンではじめて?
 小沢 パリで一回と、ウィーンでウィーン・フィルを指揮していたのを聴いて、それからベルリンで「未完成」を、リアスで指揮した。ベームのいちばんの傑作はベルリン・フィルでやったシューベルトの七番(九番「ザ・グレイト」)ね。
 大木 僕もあちこちで何回か聴いたけれど、あんな立派なのはなかったな。
 (型破りの棒振り 小沢征爾大いに語る/『レコード芸術』昭和三六年八月号より)

 このベルリンのベームの《グレート》、福原もやはり「実に心あたたまる美しい演奏」に心から感動したそうだが、録音は出ておらず、聴くことはできない。
 だが、録音が残っている可能性はあるから、我々もいつか、耳にできるかも知れないという楽しみが未来にあることになる。
 この稿を私が書く理由は、もっぱらそうした楽しみを(読者にも、自分自身にも)増やすためなのである。

 話をもどして、すでに本章に何度か名前がでた小澤征爾のことを述べておこう。
 小澤はこの年二五才、渡欧してパリに住みはじめたのは、前年の五九年初春のことだった。彼の名を一躍高めたブザンソン指揮者コンクールでの優勝は、その年の九月十日である。
 彼がはじめてベルリンを訪れたのは、それから二週間ほど後の、ベルリン芸術週間の時期のことだった。彼の『ボクの音楽武者修行』(現在は新潮文庫)に、そのときに書いたという、家族への手紙がのっている。

  東ドイツを汽車で通ったが、西とくらべるとすべてが遅れている感じ。鉄砲を持った兵隊の姿が目についた。ベルリンには一昨日の朝着き、すぐ東ベルリンにもぐり込んだ。戦争の跡はなまなましく、まだ沢山の廃墟が残っている。ヒトラーの死んだという場所も見学したよ。国立歌劇場とコーミッシェ・オーパーだけはすごい建物だ。(中略)東ベルリンの四マルクが西の一マルクなので、四分の一の金でオペラが見られるんだ。
 ベルリンの町はどこか東京に似ている。どちらも長いこと米軍がいたためだろう。つまりどちらにも米軍の影響が歴然と残されているということだ。しかし今のドイツは文化運動が盛んだ。もともとそういう国なのかもしれない。オペラ、オーケストラ演奏、芝居等の公演回数が多く、みな張りきってやっている。だから客が見たいと思えば、いつでもどこかでいい物をやっている。その点ドイツ人はしあわせだ。

 不遜をおそれずにいわせてもらえば、ずいぶん子供っぽい文章である。だが、この子供っぽさ、見たまま感じたままに書いたかのような文体こそが、この『ボクの音楽武者修行』の魅力となっていることも事実で、それゆえに今も読みつがれているのであろう。
 ドイツの文化運動の盛んさを見て、「もともとそういう国なのかもしれない」などと、ドイツ精神主義に信仰に近いまでに傾倒していた戦前の日本人がきいたら、呆れて言葉を失ってしまいそうなほどに素朴な感想を平然といえるのが、小澤という人なのだ。
 話が先走ってしまうが、この若さを魅力と感じた大人たちが、帰国後の彼に日フィルやN響など、次々とチャンスを与えていったのであろうし、一方この子供っぽさにたえられなかった大人たちが、六二年のN響事件で彼をボイコットすることになるのだろう。
 だがもちろんこの時点での彼は、そんなことは夢にも想わず、コンクールは優勝したものの定職もなく、欧州での仕事場を捜していた。そんなときに訪れたベルリンは、オーケストラもよく物価も安く、パリよりもよい町と思えた。
 次章、彼の目を通してみたベルリンの話を続けよう。

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