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私設領事館の女主人

  ベルリンに着いたら、二週間ほどの間、毎日音楽会に行く予定だ。その間に田中路子女史にあってドイツのマネージャーについていろいろ相談に乗ってもらうことになっている。なるべくベルリンで音楽会をしたいが、初めはもっと小都市になるだろう。
 (小澤征爾『ボクの音楽武者修行』)

 一九五九年九月、初めてベルリンを訪れたころの小澤征爾は、今後の進路を迷っていた。 
 ブザンソン指揮者コンクールに優勝し、多少は名前が売れたとはいえ、演奏会の契約が殺到してきたわけではなかったからだ。
 コンクールはいわばジャンプ台のように、二四才の無名の青年をたかだかとほうり上げてくれたが、その後どこへ着地したらいいのか、見当がつかなかったのである。
 この不透明な状況が原因で彼はひどいホームシックになり、十二月には半月ほどノルマンディの修道院に入ったりすることになるのだが、そんな彼の力になってくれたのが、ドイツ人俳優と結婚して戦前からベルリンに住んでいた、自称〈私設領事館の女主人〉田中路子である。
 一九〇九年生まれ、女優であり歌手であり、小澤の師斉藤秀雄とかつては恋仲だったという彼女は、欧州の社交界、芸術界に幅広い人脈を持っていて、それまでも大賀典雄や園田高弘、大町陽一郎などの若い音楽留学生たちを、物心両面で助けてきた女性として名高い。小澤にとっても何よりの援助者であった。
 後のことだが、一九六一年二月二十日、小澤は日独修好百年記念の特別演奏会の指揮をまかされ、生まれて初めてベルリン・フィルと共演できることになるが、これも田中の尽力によって実現したものだった。
 ただこのとき、ちょっとした行き違いから両者は一時絶交状態になることになる。
 田中は自力で道を切り開いてきたパイオニアであるだけに、後輩に対してもけっして無制限の援助を与える女性ではなかった。
 彼女はこの晴れ舞台のために、ベルリンでも一流の仕立屋を紹介して、小澤に燕尾服をつくらせたのだが、以前に背広をつくってもらったことのある彼は、今度もプレゼントだと勘違いしたのか、勘定を田中の夫にまわしてしまい、彼女を激怒させたのである。
 知人のとりなしでようやく和解し、その後は再び親交が続いたが、いかにも甘えん坊の小澤らしい事件であった。

 しかしこの一件は、小澤がどれほど田中を頼りにしていたかを教えてくれる。
 五九年当時小澤は、年が明けたらパリからベルリンに引っ越し、同市の放送局から月給をもらい、それで生活しながら音楽会を開こうという青写真を描いていたが、それも田中の存在があったからこそ可能になったものだろう。
 結局放送局の話はうまくいかなかったのか、彼がベルリンに定住することはなかったが、翌六〇年にも何度も同市を訪れている。

  ぼくはベルリンが好きだ。あれほど戦争で痛めつけられた町なのに、町全体に静かな音楽の匂いがただよっている。これはあの無残な戦争でさえかき消すことのできなかった匂いではないかと思う。
 (前掲書より)

 静かな音楽の匂いがただよう町、そう彼は書く。しかし一歩演奏会場の中に足を踏みいれてみると、そこには日本とは比較にならぬ熱気が渦巻いていることも彼は知った。
 そしてその熱気は、必ずしも芸術的なものばかりとも限らなかった。彼がこの町を初めて訪れた直後、五九年十月四日のシェーンベルクのオペラ《モーゼとアロン》のベルリン初演は、まさにそうした一例であった。

 未完の遺稿を整理したシェルヘンが自ら指揮にあたり、ゼルナーが演出する《モーゼとアロン》は、その年のベルリン芸術週間の演目の中でも一番の呼び物となっていた。が、幕を開ける前から西ベルリン市長ウィリー・ブラントのもとに、上演中止を求める抗議文が次々と送られ、新聞をにぎわしていたのである。
 小澤はシェーンベルク未亡人の知己を得、彼女から初日の切符をもらっていた。彼と一緒に客席にいた評論家の秋山邦晴(小澤より五才年上)と彼が十年後に行なった対談から、その騒動の理由を引用しよう。

 秋山 このオペラはあらゆるものがユダヤ的な音楽作品なんだな。まず作曲家のシェーンベルクがユダヤ人でしょ。オペラの内容がユダヤ教的。それを指揮したあのときの指揮者が故ヘルマン・シェルヘンだった。これもユダヤ人。すべてがユダヤと関連があるということで、それで右翼的なドイツ人の反感を猛烈にかったらしいんだ。ちょうどあの頃が一番ひどかったんだけど、とにかく毎日のように郵便局の窓ガラスとかに大きくハーケンクロイツが書かれたりして、みんな不気味がってたわけだ。(中略)ともかくドイツ人というのはいまだに猛烈にユダヤ人に対する反感が強いね。ぼくはドイツに住んで一番驚いたのはそれだね。
 (モーゼとアロン ベルリン初演を語る/『音楽芸術』一九七〇年三月号より)

 指揮のシェルヘン自身も度々脅迫の電話を受け、ついには彼のフォルクスワーゲンが何者かに破壊されるなどという事件をへて、初日を迎えることになる。

シェーンベルクは死んでしまった!

 ここからは長い引用になるが、対談には当夜の様子が生き生きと回想されているので、あえてそのまま書きうつすことにする。

 秋山 一幕目は別に騒動も起こらなかったね。ところが休憩があって、第二幕が始まろうとしたら……。
 小沢 始まる音を出そうと思ったときだ。
 秋山 そう。シェルヘンが出てきて、指揮棒を振り上げたとたんに、ワーッと天井桟敷で叫びだした、若い連中が。それで何だろうと思って、ぼくも上の方を見たら……。
 小沢 ワーッと妨害が始まったのよ。そしてシェルヘンはしばらく指揮棒をこう上げたままだった。そしたらとまらないので指揮棒をおろした。
 秋山 しばらくして静まってから、再び指揮棒を上げると、また反対の気勢があがった。そんなことを三回くらいくり返したね。そしたらシェルヘンがまっ赤になっておこって、観客席の方にふり向いて演説したわけよ。
 小沢 そう、おれ何にもわかんなかったんだけど。
 秋山 シェルヘンは、まず「シェーンベルクは死んでしまった!」って貴賓席を指さした。その二階の中央の貴賓席にはシェーンベルク夫人たちが座っていて、中央の空席にはバラの花束が置いてあった。それを指さして「シェーンベルクは死んでしまった! このオペラをやるのはわれわれの仕事だ! この仕事を最後まで私たちにやらしてくれ。文句があったらその後にしてほしい」といったことを名演説調でやったわけだったね。それでシーンとなっちゃって……。
 小沢 おまわりさんみたいなのが、その騒いだやつを出したよ。
 秋山 そして始まった。少ししたら、また女の声で「音楽の花園を荒らす者は何とかーッ」といった叫び声があがったんだ。大体ドイツ人というのは名演説に弱い。シェルヘンに名演説やられたもんだから、静まっちゃっていたところだから、今度は騒いだ女だけをみんなが連れだしちゃった。それで静まって、二幕が始まった。そして無事に二幕、三幕といって、全幕が終わったわけでしょう。終わってからがたいへんだったね。
 小沢 そうそう。
 秋山 反対者側と賛成者側とが取っ組みあいなんか始めたりして、ついにステージのシャッターが降りちゃった。
 小沢 おれは何にも様子がわかんないし、演説もわかんない。ただ騒ぐやつがいるということだけわかる。それで「ブラボー」って、立ってやったんです。そしたら変な奴ら――いま思うと反対派だね――が詰め寄ってきて、階段のところまで一緒に行ったのよ、そいつらともみ合いながら。おれ何にもわからないでしょ。ことばが、何言われたって(笑)。
 秋山 そこへゲルトルード・シェーンベルク夫人と、シェルヘンが救出にいったわけね。小沢君を(笑)。
 小沢 こっちは演奏がすごかったんでカッカしちゃってた。(中略)ぼくはとってもおもしろいと思ったよ。政治的な裏があるってしらないから、ただ音楽聴いただけでこんなに反対が出るくらいなら、りっぱなもんだと思って。だけどそのときちょっと、やっぱり何か反対しようと思って計画してきたようにも感じた。それに対してぼくはすごく腹が立ったわけ。
 (前掲書より)

 状況を冷静に観察し記憶し、事件の経緯と背景をきちんと説明できる秋山と、十年たってもよく分からないまま平然としていられる――彼自身が、意識的に天真爛漫であろうとして、言葉をえらんでいる気配も感じるが――小澤との対比がおもしろい。
 この対談が我々に教えてくれるのは、当時のネオ・ナチス活動の激しさである。なおも一部のドイツ人たちの体内には、ユダヤ人憎悪の感情がくすぶり続けていたのだ。
 ドイツ人の回想などでは、こうしたことは恥ずべきことと思うのか、あまり触れられることがないから、これは貴重な証言だと私は思う。
 もちろん、アジアに対して無神経な発言を繰り返す日本の閣僚が、日本人全員の意見を代弁しているわけではないように、ドイツ人がみなそうであったわけではない。
 この演目がベルリン・ドイツ・オペラの代表作として、翌六〇年にウィーン、六一年にパリとミラノ、六二年ミュンヘン、六六年ローマ、そして七〇年日本へと引越公演を数多く重ねたのは、芸術的な理由ばかりではあるまい。
 忌まわしい過去との訣別をことさらに明らかにしようという、ドイツ人たちの願いが込められていたはずである。

 そうした客演のうち、六六年ローマのライヴがCD化されている。
 残念ながら(?)ベルリンのような賛否の野次の応酬などはなく、終演後に喝采がくるだけだが、指揮のシェルヘン、モーゼ役のグラインドル、アロン役のメルヒャルトは同じなので、演奏の印象は類推することができる。
 この演出では第二幕の偶像崇拝場面のバレエの振付が非常にエロティックで、初演時の反対派には、その淫猥さを怒った人もかなり混じっていたらしい。小澤などは「騒いでいるやつはてっきりハダカ踊りで騒いでるんだと思った」というほどである。
 音だけのCDでは視覚的なことはわからないが、演奏もこのあたりのエネルギーと緊迫感が素晴らしく、全編の白眉となっている。

嘆きのマレーネ

 それにしても当時のベルリンは、表面の静かな雰囲気、〈ベルリナー・ルフト〉と呼ばれる戦前以来の快適な気分の陰に、ヒステリックなまでに強烈な、一種の狂気を宿す街だった。
 第三次世界大戦の戦端は、おそらくベルリンで開かれるだろうというのが、当時の一般的な観測だった。その緊張状態が生み出す焦燥感、不安と恐怖が、事あるときに一気に噴き出してくるらしい。
 そうした憤懣の鉾先はユダヤ人に対してだけでなく、ヒトラー時代に祖国を棄てて亡命した同胞にも、容赦なく向けられた。 
 《モーゼとアロン》騒動から七ヶ月後の六〇年五月、映画女優で歌手のマレーネ・ディートリヒが十五年ぶりに里帰りし、ベルリンを起点にドイツ各地でコンサートを開いたが、これも大変な騒ぎになったのである。
 ディートリヒは、ユダヤ人ではない。生粋の〈アーリア人〉である。一九〇一年ベルリンに生まれ、三〇年の映画『嘆きの天使』で大スターとなった彼女はハリウッドに渡り、三年後に誕生したヒトラー政権を嫌って、三一年から十四年間、ドイツに帰らなかった。
 それどころか、ヨーロッパを蹂躙しはじめた祖国を憎み、彼らを打倒すべく大西洋を渡るアメリカ軍に従軍して、二年間軍服を着て、最前線での慰問活動を続けたのである。
 はじめドイツ軍陣地で歌われ、やがて敵味方の区別なく両軍兵士が愛唱した歌、《リリー・マルレーン》も、彼女の十八番になった。
 そして四五年、連合軍の一員としてベルリンに帰っている。
 廃墟と化した故郷の姿に、彼女の心が傷まなかったはずはない。しかしドイツ人たちの目には、勝利者の軍服を着て、打ちひしがれた自分たちを見下ろす復讐の女神のように、彼女は見えたであろう。
 だから彼らの多くが、卑屈なほどの慇懃さで彼女に接した。だが本心は、どうだったか。

 それから十五年、アメリカの援助のもとに西ドイツは、驚異的な復興を遂げる。
 六〇年二月、黒人ジャズ歌手のエラ・フィッツジェラルドがベルリン最大のドイチュランド・ホールで歌ったとき、客席を埋めた一万二千人の聴衆は、熱狂的な喝采で彼女を迎えた。
 エラは彼らに応えて、圧倒的な歌唱を繰り広げた。特にウケたのは、ベルリンゆかりの《マック・ザ・ナイフ》である。
 両大戦間のワイマール・ベルリンの代表的音楽、ワイルの《三文オペラ》の冒頭に歌われるこの歌は手巻きオルガン伴奏の、場末のやるせない退廃と倦怠の音楽だが、エラはそれを見事にジャズ化し、スイング感あふれる肉感的な歌に変えた。そしてこの歌に続く《ハウ・ハイ・ザ・ムーン》の凄まじいエネルギーの開放に、〈世界一過激なジャズ・ファン〉といわれるベルリン子の興奮は、頂点に達していく。

 このコンサートをプロデュースしたのは、アメリカのヴァーヴ・レコード社長のノーマン・グランツで、その録音も彼の手で《エラ・イン・ベルリン》としてレコード化され、大ベストセラーとなった。
 当時彼はJATPという名称で、ジャズ・プレイヤーたちの欧州ツアーを制作しており、三ヶ月後のディートリヒのドイツ演奏ツアーも、彼のマネージメントによるものだった。
 十五年ぶりの帰還、ドイツの公衆の前に姿を現すのは二九年ぶりなのだから、話題性満点で成功疑いなし、と目論んでいたはずである。

 ところがツアーが発表されると、猛烈な反対や抗議の声がドイツでまき起こった。
「西ドイツ・マルクを稼ぎにやって来る、恥知らずの裏切り者を許すな」
 エラの歌に熱狂したのと同じ彼らが、ディートリッヒを認めようとはしなかったのだ。
 復興が進み、自信を回復しかけた彼らは、自らが多かれ少なかれナチスの所業に加担したり協力したりしたことを、そして敗北と降伏という屈辱的な過去を、忘れてしまいたかった。
 ディートリッヒという存在は、それを否応なしに思い出させてしまうのである。
 彼女は別に人格高潔な、禁欲的聖女ではなかった。むしろ自分の思うように生きてきた。しかしそんな女性がナチズムだけは許さず、ヒトラー自身の三度にわたる帰国要請を無視し、あまつさえその打倒に身を捧げた。
 彼女は彼女の愛国心にしたがって、連合軍に協力した。それは気高く勇敢で、歴史的にも正しい行為だったのだが、その勇気と正しさのゆえにこそ、祖国の人たちをいらだたせることになったのだ。

 五月一日に彼女が降りたったベルリンのテーゲル空港も、二日後の公演会場のティタニア・パラストも、「マレーネ・ゴー・ホーム」のプラカードと抗議の大群衆に囲まれた。
 西ベルリン市民に高い人気をもつブラント市長がどちらの場所にも姿を見せ、彼女に敬意を表したが、効果はなかった。
 初日は定員千九百の劇場に千四百人しか入らず、グロリア・パラストに会場を移した二日目は、爆弾を仕掛けたという脅迫があったためにガラ空き、タダ券をばらまいた三日目だけがようやく満員だったという。
 その後の西ドイツ国内の公演でも連日、抗議や脅迫が続いた。そして決定的事件は、十六日のデュッセルドルフで起こった。
 ホテルのロビーで十八才の少女が彼女につかみかかり、「この裏切り者!」と叫ぶや、顔に唾を吐きかけたのである。
 さらに一週間後のヴィースバーデン公演中、彼女はステージから転落して左肩を骨折した。しかしギプスを断わり、戦争中に兵士がしたように、縛って固定するだけで歌い続けている。

 こうしてディートリヒは、スカンジナビア諸国とスイスも含め、二五日間で十五都市・二三公演という強行軍を完遂し、それは、《マレーネとの再会》というライヴ盤になった。
 劇場外のヒステリックな非難の叫びは、もちろんこのレコードには聞こえない。
 たしかなのは、彼女がドイツ語で歌うとき、英語や仏語で歌うときにはない、妖しく魅力的なニュアンスが込められることと、そして、彼女が素晴らしい歌い手だということである。
 録音が行なわれた二七日のミュンヘンでのツアー最終公演は、カーテンコール六二回という記録的な大成功となったが、彼女の心の傷は、それで癒されるものではなかった。
 数年後、彼女は語っている。
「ヒトラーはドイツ人の中に宿っているあるものを、白日のもとにさらしてみせた。それは今もなお、ドイツの中に残っています」

 アルゼンチンに潜伏していた、ナチスのユダヤ人虐殺の責任者、アドルフ・アイヒマンの逮捕をイスラエル政府が公表したのは、公演のさなかの五月二三日のことである。ドイツの忌まわしき過去がまたも掘り起こされた。
 三週間後、彼女はそのイスラエルにゆく。

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