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私の歌のなかに

 マレーネ・ディートリヒが西ドイツへの里帰りツアーを一九六〇年五月に行ない、続けて翌六月にイスラエルを初訪問するという行程は、彼女自身が考えたことだったのだろうか。
 西ドイツとイスラエルの因縁は、申すまでもなく深く難しい。当時はまだ国交のなかった両国を続けて訪れることで、ディートリヒは〈歌うかけ橋〉となろうとしたのかも知れない。
 しかし両国の聴衆の態度は、対照的だった。
 母国ドイツは彼女を裏切り者扱いし、もはや彼女が帰れる場所ではないことを思い知らせたのに、イスラエル各地の聴衆は、彼女を拍手で迎え入れたのである。

 当時イスラエルは、アイヒマン事件をめぐって難しい立場にあった。
 というのも十五年の追跡の果てに、この年の五月十一日、ナチス戦犯アイヒマンをついに逮捕したことはよしとしても、そのやり方に問題があったからだ。
 潜伏先のアルゼンチン政府に無断で、誘拐犯のように拉致してきたのである。
 アルゼンチンの抗議に対し、彼の方から自首してきたのだと(もちろん嘘だったが)、イスラエルは強弁しなければならなかった。
 手段を選ばない、この復讐じみた手口は、以後の裁判が弁護人も含めてすべてイスラエル人だけで進められ、被告を絞首刑としたこともあわせ、後々まで論議を呼ぶことになる。

 ディートリヒのイスラエル訪問は、このアイヒマン拉致の是非をめぐって、西ドイツとの関係に亀裂が入りかねない、まさに危機の時期に行なわれたのだ。
 西ドイツで屈辱を受けた彼女を、イスラエル人たちが温かく迎えた背景には、こうした両国の国民感情があったのかも知れない。
 ディートリヒは、西ドイツではもちろんドイツ語で歌ったが、イスラエルでは、アメリカや欧州各国でそうしているように、英語や仏語で歌うことになっていた。
 このユダヤ人たちの国では、ナチス時代の苛酷な記憶を封印するためだろう、ドイツ語による歌唱が禁じられていたからである。
 ところがリサイタルが始まると、客席の聴衆は彼女にドイツ語で歌うことを求め、そして彼女がそれに応じたことで、禁令は破られることになった。ドイツから逃げてきた古い世代の聴衆は過去を懐かしみ、彼女に唱和したという。
 故郷を失くした、根なし草の連帯感が、ディートリヒ――すでに触れたように、彼女はユダヤ人ではない――と彼らとを結んだのだ。
 六一年に彼女は『ディートリヒのABC』という、ABC順に並べた単語に、彼女が短いコメントをつけていく体裁の本を書いている(邦訳は福住治夫訳/フィルムアート社刊)。
 そこの〈GERMANY〉の項を見ると、
「ドイツのために泣いた涙は乾いてしまった。
 もう顔を洗ってきましたから。」
とあり、一方〈ISRAEL〉の項には、
「私はそこで、同情という名のクールな水で顔を洗いました。」とある。

 彼女がドイツでリサイタルを開くことは、その後二度となかったが、六四年に彼女は、自分がベルリンにいたころに歌われていた、古い歌ばかりを集めたLPを(もちろんドイツ語で歌って)、一枚つくっている。
 恥ずかしいことに私はこのLPをまだ耳にしていない。だが、《ベルリン、ベルリン》と題されたそのLPの曲目を見ると、私は思わず、マーラーがリュッケルトの詩に作曲した歌曲、《私はこの世に忘れられ》の最後の一節、
「私はひとり生きよう、私の天国に、私の愛のなかに、私の歌のなかに」
を連想してしまう。
 もちろん彼女にはこの詩のような、ナルシスティックな自己憐愍に惑溺するヒマはない。かわりに古きベルリンの歌に、せめてもの郷愁を託したのであろう。
 もはや夢と消えた、彼女にとってのドイツやベルリンを歌のなかにつなぎとめて、今日を生きようとしたのだ。

 さらにそのマーラーから、連想が進む。
 すでに何度も述べたように、この一九六〇年はマーラー生誕百年目の年である。
 この物語の初めの方で、クレンペラーがフィルハーモニアとともに客演してベートーヴェンの連続演奏会を開いた、六〇年五月末から六月にかけてのウィーン芸術週間のことを述べた。
 その芸術週間のテーマも、マーラーだった。
 期間中にはウィーン・フィルが、ワルター指揮の交響曲第四番や、カラヤン指揮の《大地の歌》を演奏し、ウィーン交響楽団はカイルベルト指揮で《千人》を取り上げた。
 また、シェルヘンと同楽団の日付不明の第七番のライヴCDも、あるいはこの期間内の演奏ではないかと思われる。
 それらの演奏の他、自筆譜や手紙、写真や絵画など関連美術を集めた、大がかりな〈マーラーとその時代〉展も、同市の分離派展示館(ゼツェシオン)で開催されていた。
 マーラーの弟子であるクレンペラーは、もちろんこのマーラー展に招かれた。
 そして会場で、記念のスピーチか何かを求められたらしい。
 ところがその場に居合わせた、当時のベルリン・フィル支配人シュトレーゼマンによると、そこでクレンペラーは、現代の西ベルリン市やその市長への「まったく不当な非難」を、とっさの思いつきでしゃべりちらして、彼を辟易させたという。

 彼の回想録『ベルリン・フィルハーモニー』の中でシュトレーゼマンは、クレンペラーの政治音痴ぶりを指摘するだけにとどめ、この「不当な非難」が何であったのかは伏せている。
 けれども、その舞台がマーラー展の会場だったと、彼がわざわざ説明しているあたりに、手がかりがあるように私は思う。
 マーラーはご承知のとおりユダヤ人であり、ナチス時代には演奏が禁じられていた作曲家のひとりである。そしてクレンペラーもユダヤ人として、ドイツからアメリカに亡命を余儀なくされた、ナチズムの被害者である。
 一方、前章でも触れたように、六〇年前後の西ドイツや西ベルリンでは、反ユダヤ的ネオ・ナチス活動が激化し、たとえば五九年のクリスマスに、ケルンのユダヤ教会が冒涜されるなどの事件が起こっていた。
 ヘイワースの伝記によると、この事件以来クレンペラーは、西ドイツはかつての愚を繰り返す気だと、怒りをつのらせていたらしい。
 これらのことを考えあわせると、クレンペラーの「不当な非難」とはおそらく、西ベルリン市がネオ・ナチスに加担しているとか、市長が反ユダヤ主義者だとかというような、ユダヤ問題にからんだことだったのではないか。
 〈マーラーとその時代〉展のカタログを見てみると、マーラーがウィーン宮廷歌劇場の総監督だった時期の同市の市長、カール・ルエガーの肖像や書簡がいくつか出展されている。
 このルエガーは、市長の要職にありながら反ユダヤ主義者として悪名高く、ヒトラーの先駆者ともいわれる男なのだ。
 小説的想像を許してもらえるなら、クレンペラーは半世紀前に死んだルエガーを、現代の西ベルリン市長、ウィリー・ブラントにダブらせてしまったのではないだろうか。
 もちろん、後に西ドイツ首相にまでなったブラントは、そんな品性低劣な男ではない。
 にもかかわらずクレンペラーは、マーラーを苦しめた反ユダヤ主義の問題が、現代にも続いていることを指摘しようとして、口をすべらせてしまったのではないか、私にはそんなふうに思える。

マーラーの年

 この年、誇張なしに本当にあらゆる場所で、マーラーの作品が演奏されている。この年のライヴ録音だけで、彼の交響曲全集が揃うのだ。
 一部の好事家の衒学的好奇心を超えた、広範なマーラー人気が、欧米ではすでに一般に根づいていたのだろう。
 客が来る目算がなければ、いかに記念の年とはいえ、大編成で金のかかる彼の交響曲が、これほど演奏されるはずがないからだ。
 しかしそうした人気とは別に、一九六〇年のドイツ・オーストリアにおいて、ユダヤ人マーラーの回顧が、単なる芸術的意義以上の重みを持っていたことも、おそらく間違いあるまい。
 ベルリン・フィルはこの年に、その交響曲の第三番(シルヴェストリ指揮)と第四番(シャンカール指揮)を取り上げたという。
 だが何といっても注目を集めたのは、カラヤン指揮の《大地の歌》だった。
 元ナチス党員であり、どうやらそれまでマーラーの作品をまったく指揮したことがなかったらしいカラヤンがやるというのだから、そこに何か政治的なメッセージを読み取ろうとした人も、いて当然である。
 だがいくつかの彼の談話を読むかぎり、カラヤンはいかにも彼らしく、その種の政治的質問には答えなかった。
 彼は、戦後の東西両ドイツの複雑な政治情勢やユダヤ人問題に関するようなことに、自分が下手なことを言えば、身の破滅となりかねないことを、わきまえていたのだろうか。
 しかしおそらくはそれよりも、そもそも彼自身の確たる見解がなかったのではないか。
 彼は元々の性格として、疑問点を徹底的につきつめ、自分なりの結論を出し、他人にもはっきりとわかる形でそれを公にする、というタイプではない。自己防衛本能が強く、都合の悪そうなことは触れずにおきたがったようだ。
 ただ単に、マーラーを演奏したくなったし、そのための条件も整っているし、生誕百年という適当なきっかけもあるし、というような、漠然とした動機があっただけらしい。

 動機はどうあれ、《大地の歌》の音楽そのものに対して、六〇年前半のカラヤンが首ったけになっていたことは、確かである。
 二月にベルリン・フィル(独唱はメゾのレッセル=マイダンとテノールのコンヤ)、六月にウィーン・フィル(テノールだけヴンダーリヒに交代)と、めずらしく短期間に、両楽団で同じ曲を取り上げているからだ。
 カラヤンが、ある音楽にこれほどいれ込むのは、異例のことだったらしい。
 ベルリン・フィルとの練習中、普段はこれから演奏する音楽についてしゃべったりしない彼が、めずらしくその素晴らしさを口にし、本番を楽しみにしていたと、シュトレーゼマンは回想している。
 その《大地の歌》は二月二八日、二九日、三月一日の三日間、モーツァルトの交響曲第二九番とともに、当時のベルリン・フィル本拠地、西ベルリンの高等音楽院ホールで演奏された。
 結果は意外にも、失敗であった。
 カラヤンの解釈は生煮えで、未消化な部分があった、とシュトレーゼマンは述べている。
 そして演奏会の後は、カラヤンはあれほど意気ごんでいた《大地の歌》について、まったく語ろうとしなかったという。
 イヤな思い出はなかったことにしてしまうのが、カラヤン流の過去の克服法であった。

若きヘルベルトの悩み
 
 しかし不評にも関わらず、カラヤンのマーラー熱自体が、冷え込んでしまったわけではなかったらしい証拠に、もうひとつ逸話がある。
 ベルリンとウィーンの二つの《大地の歌》の間の五月、〈カラヤンとともに指揮をする若者のコンテスト〉なる指揮者コンテストが、西ベルリン市主催で行なわれた。
 これは後年のカラヤン・コンクールとは別物で、カラヤン自らレッスンを毎月一回行なう、数人の弟子を選ぶためのものだった。
 このコンテストの課題曲が、《大地の歌》だったのである。

 ご存じの方も多いと思うが、このコンテストに合格した三人のなかに、小澤征爾がいる。
 定職もなくフラフラしていた彼にとっては、「渡りに舟」の催しだった。
 まことに、運がいい。
 さらに、この小澤の欧州武者修行時代の一番の援助者だった田中路子は、戦前のウィーン時代からカラヤンと(恋人という噂もあったほどの)親友だったから、何かと助かった。
 ところがそれで気がゆるんだわけでもあるまいが、彼は途中で課題曲が《大地の歌》に変更されたことを気づかなかったため、大変な思いをすることになった。
 連絡ミスに語学力の不足が重なり、西ベルリンの田中と夫のデ・コーヴァの邸宅に寄宿していた小澤が知ったのは、受験の前日だった。
 田中あたりが彼の勘違いを気づかなかったのだろうかという気もするが、細かいことまではいちいち世話を焼かず、当人まかせにするあたり、いかにも彼女らしいともいえる。
 小澤の方は大あわてでスコアを買い、徹夜で勉強するはめになった。日本ではマーラーなど教わっておらず、まったく知らなかったのだ。
 さらに当日時間を間違え、一時間遅刻するというハプニングもあったが、彼は幸い合格、十月からカラヤンの指導を受けることになった。

 三六年後の今日、小澤はマーラーを知らないどころか、最も重要なレパートリーのひとつとしている。
 そのきっかけとなったのが、この六〇年のカラヤンの《大地の歌》熱だったのだ。
 自分がそのとき一番関心がある曲だからと、カラヤンは課題曲を変更したにちがいない。
 そしてその一ヶ月ほど後、カラヤンはウィーンで再びこの曲に挑戦した。結果はどうだったのか、つまびらかではないが、大成功とはいえなかったようである。
 まるで少年の恋狂いみたいな《大地の歌》熱が残したのは、苦い挫折感だけだったらしい。
 その後十年間、彼はマーラーを演奏会でも録音でも、一切取り上げなかった。

 失敗だろうと何だろうと、この六〇年のカラヤンの《大地の歌》、どんな演奏だったのか聴いてみたいのだが、その機会を得ない。せめてスタジオ録音でも、と思うがそれもない。
 実はベルリンでの定期演奏会と重なる二月二九日と三月一日、カラヤンは夜の本番前にレコード録音を行なっている。
 そのとき彼は、演奏会の曲目からモーツァルトは録音したのだが、《大地の歌》は外した。
 そして代わりに何の関係もない、チャイコフスキーの交響曲第四番を録音しているのだ。
 基本的に当時のカラヤンは、演奏会と録音とを前後して行なっていても、曲目はせいぜい一曲が共通するだけで、他はまったく別なのが常だった。
 たとえばそのチャイコフスキーの第四番を演奏会に取り上げるのは、録音から八ヶ月もたった、十一月のことなのである。
 演奏会の直後、本番の火照りをそのままに同じ曲を録音するバーンスタインとは、対照的な行き方だった。

 さてコンテストの後、小澤はアメリカに渡って、夏のバークシャー音楽祭(現在のタングルウッド音楽祭)に参加、ここでも抜群の技量を認められてミュンシュの直接指導を受け、クーセヴィツキー大賞を与えられることになる。
 この大賞が、続いてバーンスタインとも縁を結ぶきっかけになった。
 自らもクーセヴィツキー大賞の受賞者であるバーンスタインは、後輩となった小澤に注目、翌六一年から、ニューヨーク・フィルの副指揮者に採用することにしたのである。
 内々にその話を知らされた小澤が、バーンスタインに初めて会うことができたのが、前に述べた六〇年九月下旬、バーンスタインとニューヨーク・フィルがベルリン芸術週間に参加したときだったわけだ。

 そのベルリン芸術週間には、もちろんカラヤンとベルリン・フィルも参加している。
 いや、彼らこそが芸術週間の主役だった。 
 芸術週間の開幕にあわせて、彼らのシーズン最初の定期演奏会が始まっているし、またその翌日の九月十九日には、三年後に彼らの本拠地となる、新しいフィルハーモニー・ザールの定礎式が、市長や政府要人たちの列席のもと、厳かに挙行されている。
 西ドイツが軍備拡張を進め、それに対して東ドイツ政府が九月八日に西ドイツ人の東ベルリン立入を禁止(米英仏の管理下にある西ベルリン市民は例外)するなど、東西両ドイツの関係が険悪化する状況下では、こうした文化的式典は特に重要視された。
 ところがカラヤンの方は、この芸術週間にあまり重きをおいていなかったらしい。
 仕事場のひとつにすぎなかったのである。
 彼は夏のザルツブルク音楽祭が終わった直後の九月初め、ウィーン国立歌劇場で《ニーベルングの指環》全作上演の大仕事をやってきた。
 西ベルリンに来たのはその後で、十八日からの三日間の芸術週間内の演奏会(ブラームスの交響曲第一番など)に並行して、十六日から二十日までの間にレコード録音(ワーグナー他の序曲集)をあわただしく終えると、翌日にはもうロンドンに姿を現わしている。
 かつての手兵、フィルハーモニア管弦楽団との最後の録音契約を果たすためだった。
 そして、バーンスタインがベルリンにいた二三日までには、彼はシベリウスの交響曲第五番と、《プロムナード・コンサート》などの小品名曲集の録音を完成していたのである。
 後者は大ベストセラーとなり、現在まで彼の代表盤のひとつになることになる。

 おそらくこの年のことと思われるが、シュトレーゼマンは市当局の依頼を受け、共産圏に孤立しつつある西ベルリン市民を鼓舞するため、芸術週間内にあと三夜追加して計六夜、ベルリン・フィルを指揮してもらえないか、とカラヤンに持ちかけた。
 だがカラヤンはトンデモナイとばかりに、この申し出を一顧だにしなかったという。
 彼を運ぶジェット機は、あまりに高く遠く蒼空に浮かび、地上に渦巻くベルリン問題もユダヤ問題も、まるで目に入らないようだった。

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