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死ぬことを拒否したオーケストラ

 私の手元に、〈死ぬことを拒否したオーケストラ/アルトゥーロ・トスカニーニに捧ぐ〉という、二枚組のLPがある。
 演奏しているのはシンフォニー・オブ・ジ・エア、つまり旧NBC交響楽団の楽員たちなのだが、指揮者の方は、どこにも表示がない。
 楽団の資金募集の一助としてつくられたというこのLP、実は楽員たちがかつてのボス、トスカニーニの指揮を脳裏に浮かべながら、指揮者ぬきで演奏したものなのである。
 本章ではこの不思議な録音を残した彼らの、短くて多難な楽歴を追うことにしたい。

 ご承知のとおり、彼らの前身のNBC交響楽団とは、アメリカのNBC放送局がトスカニーニのために、特別に組織した交響楽団である。
 最初の演奏会は一九三七年に行なわれ、以来毎週の公開録音やレコードに、トスカニーニの文字通りの手兵として活動してきた。
 伝説的なまでに厳しい練習で知られたトスカニーニの要求に応えうる、精緻な技術を持ったオーケストラとして、彼らの名声はアメリカばかりか、世界に轟いていた。
 伝統はないが、腕っこきの演奏家をすきまなく並べて、ロボットじみた完全無欠の集団をつくろうという、物質文明、技術信仰、科学万能主義が支配していた当時のアメリカを、良くも悪くも象徴するようなオーケストラだったともいえる。

 ところがそれほどの評価を得ながら、十七年目の一九五四年に八六才のトスカニーニが引退すると、あっけなく解散させられてしまう。
 このあたりも、いかにもアメリカ風のドライな合理主義のなせる業だった。
 トスカニーニが現役のときからすでに、年に六十万ドルから百万ドルに及ぶ楽団の経費が、放送局にとって大きな負担となっていた。
 彼の引退から間をおかずに、NBC響解散が発表されたことは、放送局側がその日を待ち望んで、事後の準備を早くから進めていたことを意味するのだろう。
 トスカニーニの方も気づいていて、楽団のために引退を引きのばしていたらしいが、とうとう限界が来たのが、五四年の春だった。
 
 放送局とそのスポンサーには、トスカニーニ抜きのNBC響は、なんの価値もなかった。しかし楽員の方は人間である以上、不良在庫扱いされたのでは、たまったものではない。
 よせ集めとはいえ、十七年も続いていれば連帯感も強まるし、いまさら再就職も大変だ。
 そこで楽員たちの自主運営の形で誕生したのが、シンフォニー・オブ・ジ・エアである。
 この一風変わった団体名は、前身が放送局の楽団だったことから、放送することをオン・エアといったりするのに引っかけて、つけたものという。
 彼らの結成記念演奏会は、一九五四年十月二七日、ニューヨークのカーネギー・ホールで行なわれた。同じホールで、トスカニーニとNBC交響楽団が最後の公開録音を行なったのが同年の四月四日だから、それから半年と少しあとのことになる。
 彼らはこの演奏会の指揮をトスカニーニに頼んで、高齢を理由に断られると、演奏会を指揮者ぬきでやることに決めた。
 コンサートマスターのダニエル・ギレーをはじめとする九二人の団員たちが、トスカニーニが教えてくれた音楽を各自の頭に描きながら、それに従って演奏しようというのである。

 前述した二枚組LPは、この演奏会と同時期につくられたものらしい。
 とくに新世界交響曲はライヴ録音なので、おそらくはその晩の演奏ではないかと思う。
 他の収録曲の《マイスタージンガー》前奏曲や《シチリア島の夕べの祈り》序曲、《くるみ割り人形》組曲にくらべても、この新世界の演奏が、いちばん緊張感があっていい。
 演奏はたしかに〈トスカニーニ風〉で、終楽章のたたみかけるようなアッチェレランドなどは、そのままといってもいいくらいだ。
 ただその響きが、音が硬く直線的になった晩年のトスカニーニのそれであるのは、当然といえば当然のことで、仕方がない。

 こうして彼らの活動は開始された。財政基盤が不安定で、台所は苦しかったが、やはり旧NBC交響楽団という看板の威力は小さいものではなく、すべり出しは順調であった。
 結成翌年の一九五五年春には、アメリカ国務省の派遣という形で、日本やフィリピン、台湾や韓国などアジア諸国を訪れることになった。
 日本では、彼らが来る少し前の二月から三月にかけて、ソビエトからダヴィド・オイストラフが訪れて各地を巡演、一大センセーションをまきおこしていた。
 時代は、米ソの冷戦のさなかである。
 アメリカ国務省はオイストラフの成功に、いたく刺激されたらしい。そこで、負けるなとばかりに、急遽シンフォニー・オブ・ジ・エアの来日公演が決められ、アメリカの威信をかけて行なわれることになったのだという。
 できたばかりで、幸か不幸か日程調整が容易だったから、この楽団が選ばれたのだろうか。ただ指揮者の方は空いていなかったのか、ウォルター・ヘンドルとソア・ジョンソンという、二流どころしか来れなかった。
 楽員たちは何本も検疫の注射を打たれ、大量の胃腸薬を与えられ、不潔だからホテル外では食事をするな、などと延々と注意され、日本にのりこんだ。
 そして国務省の期待どおりというか、シンフォニー・オブ・ジ・エアの演奏は、日本の音楽界に衝撃を与えることになる。

黒船の老親衛隊
 
 指揮者の岩城宏之は、この年二三才だった。
 まだ東京芸大の打楽器科の学生だったが、すでに指揮の道をこころざし、NHK交響楽団の指揮研究員(アシスタント・コンダクター)に採用されたばかりであった。
 彼は『棒ふりのカフェテラス』というエッセイ集のなかで、このシンフォニー・オブ・ジ・エアの来日を、
「ちゃんとしたオーケストラが初めて日本に来たという点で、大袈裟ではなく、日本の音楽史上最大の出来事の一つだったと思う」
と述べ、いってみれば彼らは「黒船」のような存在だった、と回想している。
 日比谷公会堂での演奏会の初日、岩城は学生に無料公開されたゲネプロを、聴きに行った。このときには、桐朋学園の短大にいた二十才の小澤征爾も行ったというから、「黒船」に寄せられた期待と関心の大きさのほどがわかる。
 小澤によると一曲目は、指揮者抜きの序曲だったという。どうやらこの楽団の連中は、この芸当がよほど得意だったらしい。
 これらを聴いた岩城と小澤が、ほとんど同じ感想を述べているのが面白い。
 岩城の方は「あんなに大きな音がするものなのか」といい、小澤は「この世にこんな音が存在するのか」といい、ふたりともとにかく、ドギモを抜かれたのである。
 おそらく、会場にいたすべての日本人が、似たような思いをしたにちがいない。
 シンフォニー・オブ・ジ・エアはこの日を皮切りに各地で熱狂的歓迎を受け、最後は後楽園球場での、N響との合同演奏会でしめくくることとなった。岩城はシンバルのトラとして、彼らと同じ舞台に立った。

  オーケストラは二人の指揮者を連れてきていた。二人がシンフォニー・オブ・ジ・エアーを引き連れてきたのではない。両人ともあまりぱっとしない感じで、練習中に何か演奏上の注文をしても、楽員たちに相手にされていない様子なのだ。誰かに指揮者の名前を尋ねてみた。「アイ・ドント・ノー」ときた。ぼくはびっくりした顔になったらしい。彼は笑って言い足した。「誰が指揮しようが、オレたちはマエストロ・トスカニーニの音楽をやるだけなのさ。だから指揮者の名前なんか知る必要がないんだ」
  おそらく名前を知っていたに違いない。だが元NBC楽員としてのプライドが、そう言わせたのだろう。
 (岩城宏之『フィルハーモニーの風景』)

 かつてナポレオンは、老親衛隊と呼ばれる最精鋭部隊を持ち、戦闘の決定的局面にのみ投入する、決戦兵力としていた。
 忠誠心と団結は鉄のごとく、彼の興隆から没落までつき従い、その名にふさわしく髪に白いものが混じるまで戦い続けたことで知られる。
 NBC響とはまさに、トスカニーニの老親衛隊であったのだ。
 しかしだからといって、いつまでもこのままというわけには行かない。緊張感と規律を保つためには、やはり有能な指揮者が必要である。
 そのことは楽員たちも承知していたらしく、アメリカに帰国後の、五五年秋からのシーズンでは、初めてひとりの指揮者に、六回の演奏会をまかせることにした。
 レナード・バーンスタインである。
 彼と楽団とのかかわりは、結成記念演奏会の直後の、五四年十一月からはじまっていた。
 CBSのテレビ番組『オムニバス』で、バーンスタインが《運命》交響曲の分析を行なったとき、演奏したのが彼らだったのである。
 バーンスタインはこのころ、作曲家兼指揮者として名前こそ知られていたが、特定のオーケストラとの関係は持っていなかった。
 そこで彼の方も、シンフォニー・オブ・ジ・エアの方も、お互いに望ましいパートナーを見いだしたのである。
 マーラーの《復活》にはじまった演奏会シリーズは好評で、聴衆も批評家も、やがてはバーンスタインが楽団の音楽監督になるものと、この〈婚約〉を歓迎した。

 両者の共演は、正規盤では五六年四月のバーンスタイン自作の《セレナード》が残されているきりだが、他に五五年十二月のカーネギー・ホールでの、《ボエーム》の第一幕のアリアと二重唱をGOP盤で聴くことができる。
 歌手はユッシ・ビョルリンクにレナータ・テバルディという豪華なもので、特にビョルリンクが素晴らしい。
 バーンスタインは速いテンポで、しかもカンタービレをせずにあおっているあたり、ビョルリンクの表現とは合わないようだが、しまった響きは美しい。
 ただこの演奏、実になんともバーンスタインらしいのは、《私の名はミミ》の途中、ロドルフォが「シー」と返事するところで、一体何がおかしいのか、彼の笑い声が入っていることである。叫びや気合いなどはよく聞くが、笑う指揮者というのは珍しい。

 ともあれ、バーンスタインとの結びつきは、楽団に新しい未来をもたらしそうであった。
 五六年の春には、昨年のアジア楽旅に続き、やはり国務省の後援でトルコやエジプト、イスラエルなど中近東に行くことが決まっていた。
 だが、ここでこの楽団の運命は暗転する。
 三月、楽団の主要な楽員数名が下院の特別小委員会によって、危険人物と見なされた。彼らの活動と思想があまりにリベラルすぎ、共産主義のシンパだろうという嫌疑だった。
 悪名高き〈赤狩り〉に引っかかったのだ。

花火

 シンフォニー・オブ・ジ・エアは自主運営だけに、組合運動的な、社会主義的傾向が強まるのも避けがたいことであったのかも知れない。
 だが、五〇年代のアメリカにおいて共産主義者とは、中世の悪魔や魔女同然、もしそのレッテルを貼られれば、社会的に抹殺されてしまうことを意味していた。
 そしてこれも魔女狩りによく似た点として、彼が実際にどうであるかとは無関係に、そうではないかという疑いをもたれたその瞬間に、彼らのイメージは失墜してしまうのである。
 楽団の中近東楽旅は中止させられ、またバーンスタインとの関係も終わった。
 というのは、やはり同様の疑いを受けていたバーンスタインは、これ以上シンフォニー・オブ・ジ・エアにかかわることを危険だと判断したらしい。
 そこでバーンスタインは、再びフリーの立場に戻った。
 ところが運のいいことに、この年の十二月からニューヨーク・フィルを四週間指揮しないかという話が彼に来た。十一月に飛行機事故で急死した、カンテルリの代役である。
 バーンスタインはこれを期にニューヨーク・フィルに乗りかえ、翌五七年の秋からはミトロプーロスと共同の常任指揮者となり、その後の黄金時代への道を開いていくことになる。

 一方、シンフォニー・オブ・ジ・エアが受けた打撃は、決定的なものだった。
 もともと苦しい資金繰りが〈国務省御用〉の看板をとられて、〈アカの楽団〉とされたのでは、さらにつらくなったはずである。
 そうした時期の一九五七年一月十六日、彼らの精神的支柱、トスカニーニが八九才の生涯を終えた。
 引退後のトスカニーニ家と彼らの間は、どうもしっくりいっていなかったようだが、それでも追悼演奏会を開くにふさわしいのは、彼らしかいない。三週間後の二月四日、カーネギー・ホールがその会場となった。
 考えようによっては、このときほど彼らが、指揮者抜きで演奏するのにふさわしい晩もないように思うが、そうはならなかった。
 豪勢にもブルーノ・ワルターとシャルル・ミュンシュとピエール・モントゥーの三人が、順に指揮台に立った。そしてそれぞれ、ベートーヴェンのエロイカ、ドビュッシーの《海》、エルガーのエニグマ変奏曲を演奏した。
 エロイカの葬送行進曲や、エニグマの《ニムロド》はよく追悼に演奏されるし、三人のお得意の曲でもあるが、同時に故人が好んで演奏した曲ばかりで、よくできた構成である。

 ご承知のように、ワルターのエロイカはCDになっているし、他の二曲も音質はずっと悪いが、テープで聴ける。
 名演として有名な、エロイカだけでも見事な演奏だが、さらに三曲をとおして聴くと、楽員たちがいかに気合いを入れてこの演奏会にのぞんだかが、痛いほどによくわかる。
 三人とも大物中の大物だけに、その棒を無視することはしなかったろうが、彼らはやはり、トスカニーニとのかつての演奏を思い出しつつ演奏したにちがいない。
 というのもミュンシュはともかくとして、この時期はとかく、気迫の不足が目についたワルターとモントゥーの二曲が、ミュンシュ同様の熱演になっているのだ。あきらかにオーケストラの方が、引っぱったのだと思う。
 トスカニーニ、この名前だけが魔法の呪文のように、彼らの能力を引き出したのだ。
 後のことだが、シンフォニー・オブ・ジ・エアが文字どおり雲か霞と消えたあと、楽員たちはさまざまなオーケストラに散っていった。
 岩城がときに彼らOBたちと話をすると、何年たっても変ることなく、何かといえば「トスカニーニ」だったという。

 自分の夢の時代を語るように嬉しそうに微笑みながら「ザ・マエストロ」というのだった。
 トスカニーニは癇癪持ちで有名だった。練習のときは厳しく、恐ろしいひとだったらしい。元NBCたちは、息もできなかったほどコワかったと語りながら、昔の恋人を偲ぶような目をするのだ。
 (岩城宏之『フィルハーモニーの風景』)

 あまりにも魅力あるカリスマ的独裁者の下で演奏してきた彼らは、もはやどんな現存の指揮者にも満足せず、他人からみれば、無政府主義者の集団のようになってしまったのであろう。
 政治的には共産主義、芸術的には無政府主義では、アメリカでは生存できない。

 この追悼演奏会を最後の花火のようにして、シンフォニー・オブ・ジ・エアは規律と求心力を失い、急速に水準を下げていく。
 常任指揮者を得ることなく、マルケヴィッチやストコフスキーなど、さまざまな指揮者と単発的な仕事をし、さまざまなレーベルに録音をしていくうちに、活動はいきづまっていった。
 仕事がなければ、楽員たちも副業をしなければならない。
 一九五八年から同楽団の第一コンサートマスターに就任したルイ・グレーラーなどは、同時にバランシンのニューヨーク・シティ・バレエのコンマスを兼ね、またナショナル・オーケストラル・アソシエーションなる学生オケの指導とコンマス、さらにクロール弦楽四重奏団の第二ヴァイオリンも奏くといった具合で、何が本業かわからないほどだった。
 他の楽員も多かれ少なかれ、何か別の仕事を持っていたようだから、ステレオ時代のシンフォニー・オブ・ジ・エアは、コロンビア交響楽団とかRCAビクター管弦楽団といった、録音用の臨時編成の楽団と、大差ない程度のものに化していたのである。少なくとも残された録音を聴くかぎり、そう思わざるを得ない。
 楽団は一九六三年まで一応存続したが、実質的には、その数年前に終わっていたのだろう。
 グレーラーが楽団を抜けたのも、一九六〇年のことである。
 彼も人一倍にトスカニーニの音楽を愛していたし、元NBC響団員としての誇りも人後に落ちなかったが、もはやアメリカでやれることはやりつくしてしまった、という落魄の思いは、それ以上のものだったらしい。
 彼は、新天地に活路を求めることにした。
 日本である。
 一九六〇年九月、グレーラーは日本フィルハーモニー交響楽団の二代目コンサートマスターとして、五五年以来、五年ぶりに日本の土を踏むことになった。
 次章は、その日本の話をしよう。

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