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坑道の冒険

 いうまでもなく、この物語の題名は『ウィーン/60』である。
 そのとおり、書きはじめたときは、ウィーンとザルツブルクに話を限るつもりだった。
 ところが、ミトロプーロスあたりから範囲が拡がりはじめ、当初は取りあげるつもりのなかったバーンスタインに至って、ついにこの一九六〇年の一年には、ウィーンとはなんの関係もなかった演奏家の話になってしまった。
 ひとえにいいかげんな構想と、筆の勢いにまかせた無軌道ぶりがなすところで、汗顔のいたりである。
 しかし弁解をさせてもらえるなら、書きはじめたときにはまるで予想もつかなかったほど、一九六〇年という年は、まさに〈逸話と人物の大鉱脈〉なのだ。
 掘りすすめばすすむほど、坑道はぐねぐねと曲がりながら、深く大きく、思わぬ枝道が見つかったりする。
 一番面白いのは、それぞれの坑道が交差したり、枝道でつながったり、ほんのわずかなところで並行してみたりすることだ。ほんとうに全部がこの一年間のことなのかと、驚くよりもあきれるばかりだった。
 また上から眺めてみれば、その前後の時代を俯瞰するのに、これほどひろびろとした視界をもてる年は、他にないといってよい。
 へんぺんたる題名など、なんであろう。
 事件とひとびとが、さあ書けといわんばかりに並んでいる。いつまで続けさせてもらえるかわからないが、いましばらく、この終点の決まらぬ旅におつきあいいただきたい。

 さて、日本で一九六〇年、昭和三五年といえば、一番大きな出来事はいうまでもない。
 六〇年安保である。
 現在では、岸信介内閣による安保、すなわち日米安全保障条約の改定は、極東地域を安定させ、その後の高度経済成長を可能にした要因のひとつとして、一定の評価を与える人が多い。
 だが、同時代の人々はそう考えなかった。
 この年の五月下旬から六月にかけ、十万人以上の安保反対のデモが、連日のように国会議事堂の周囲を練り歩く騒ぎになったのだ。
 三井三池炭坑の労働争議など、当時の左翼勢力は、現代とは比較にならない活力と動員力を持っていた。とはいえ、デモがこれほどの規模に膨らんだ一因には、そうしたイデオロギー的情熱とは無縁の人も多く参加したことがある。 安保の内容そのものよりも、その批准を行なうために、警察の力で反対議員を排除するなどの岸の強引な手口が、軍国主義復活の第一歩として、一般人からも危険視されたのである。
 六月十五日の、全学連の学生八千人の国会突入(このとき、東大生樺美智子が亡くなった)をクライマックスとする前後数週間のデモやストライキは、自衛隊の治安出動が本気で検討されたほどの激しさで、繰り広げられた。
 結局安保改定の阻止はできなかったものの、直後に予定されていたアイゼンハワー大統領の来日は中止、岸は退陣に追い込まれている。
 そして岸に代わって池田勇人(陰険な岸とは対照的に、妙に人気のある人だった)が、七月に首相となった。
 翌月、彼は有名な〈所得倍増計画〉を発表して、政治から経済へと季節を転じさせていく。
 八年後にGNP世界第二位になる日本も、この年の初めにはまだ、第二八位の小国だった。
 四年後の東京オリンピックをひとまずの目標として、高度経済成長が本格化する、一九六〇年はそのとっかかりの年でもある。
 
 音楽に目を転じると、安保騒動が本格化する直前の五月初め、シャルル・ミュンシュに率いられたボストン交響楽団が初来日している。
 万延元年に結ばれた日米修好条約の百周年を記念して、NHKが招いたものだった。偶然、楽団のマネージャーが黒船のペリー提督の孫だったので、当時のNHKのテレビ番組『私の秘密』に出演したりした。
 シンフォニー・オブ・ジ・エアの来日から五年、聴衆はその間にベルリン・フィルとウィーン・フィル(指揮はともにカラヤン)、またレニングラード・フィルやチェコ・フィルなどの来日公演を体験している。
 とはいえ、まだ海外のオーケストラは年に一つか二つ来るだけだから、マスコミも楽界も一般ファンもボストン響の初来日を、現代の来日公演などとはまるで別次元の、数年後まで語りぐさにするような大事件として扱った。
 内幸町の旧NHKホール(小さいが、音の良さでは東京一といわれた)で行なわれた第一回の演奏会の練習を聴いた岩城宏之は、その巨大な響きに「まるで脳震盪になったような眩暈めまいを感じた」と回想している。
 他にも、「天井が落ちてくるかと思った」ひとが何人もいたそうで、腹に響くというより、頭上の空間に充満してしまうような、とにかく燦然たる大音響だったらしい。

 五月の下旬には、日比谷公会堂で演奏した。
 ひと月後の樺美智子の国民葬や、半年後の社会党の浅沼稲次郎刺殺事件の舞台ともなるここは、音楽用には残響が貧弱で、多目的というより、いわば無目的ホールだった。
 だが翌年の東京文化会館の開場まで、ここが日本のカーネギー・ホール、などと呼ばれていたのだ。戸越銀座が銀座ではないように、ホールの音響にも、オーケストラの音量にも、日米にはまだ格段の差があったのである。

 しかし何度か欧州の楽団の来日に接し、またぼつぼつ外遊して〈本場の音〉を知り、耳が肥えてきていた批評家たちは、必ずしも手ばなしではボストン響をほめなかった。
 指揮のミュンシュがフランス人だけに、彼らはいかにもフランス風の洒脱さとかニュアンスを期待したようだが、案に相違して、豪快一辺倒の音楽を聴かされたのである。
 たとえば村田武雄とか山根銀二などは、異口同音に、これはフランス的感性よりアメリカ的感性によるものだ、と評している。むろんこれは否定的な意味合いで、単純幼稚な物量作戦、という軽蔑が込められている。
 文化使節という性格から、作曲家のコープランドも指揮者として同行し、彼やセッションズなど、アメリカの作品が毎晩必ず一曲は演奏されたのも、彼らを辟易とさせたらしい。
 ご承知のとおり、当時の多くの文化人、知識人は、とにかく〈アメリカ的なもの〉への侮りや、反感が強かった。陽気で開放的だが、深みと陰翳に乏しいというのである。

自家用車とビフテキ

 この来日公演の音ではないが、ミュンシュとボストン響の同年八月十四日の《ファウストの劫罰》のライヴを、テープで聴いてみた。
 日本や東南アジア、そして豪州楽旅を終えて帰国したボストン響が、毎夏恒例のバークシャー音楽祭(現在のタングルウッド音楽祭)で演奏したものである。
 歌手は、エレアノール・スティーバー、ジョン・マッカロン、マーシャル・サンゲールなどで、タングルウッドの有名な半野外演奏会場、シェッドでの演奏だ。
 たしかに豪快な演奏である。
 私はミュンシュの、リズムがちゃんと下まで落ちないというか、呼吸が浅いというか、腰がすわらないまま踊りくるっているような演奏を聴くと、どうも居ごこちが悪い。
 だが《地獄への騎行》などの迫力はやはり凄いし、ラコッツィ行進曲では最後の音を思いっきり長く引きのばして、大喝采を浴びている。
 最後の音を長くのばすのは日本の公演でもやったそうだが、こんなドンくさいやり方は、アメリカ的というより、ミュンシュ自身の個性のように思えるが、どうなのだろうか。
 もし彼がフランス国立放送管などと初来日していたら、なんと評価されたのだろう。

 ところでこの《ファウストの劫罰》は、ボストン響の来日直後の演奏だというほかに、もうひとつ日本とのかかわりを持っている。
 合唱団の中に、小澤征爾が混じっているらしいのだ。
 もちろん彼の声を聴きとれるはずもなく、へえーそうなの、というだけの話だが、しかしちょっと面白い。
 小澤は前々章でふれた、西ベルリンでのカラヤンのコンテストに合格したあと、パリから渡米してこの音楽祭に参加していた。
 この音楽祭は演奏会だけでなく、若手演奏家の研修と実践の場という目的も持っている。
 そこで彼は、以前から大ファンだった、憧れのミュンシュの指導を受けるかたわら、この曲やモントゥーの《合唱》などを歌ったという。
 そして音楽祭に参加した若手の中の最優秀者に与えられる、〈クーセヴィツキー大賞〉を受賞した。これがきっかけでバーンスタインの副指揮者になることは、すでに述べた。

 小澤とアメリカとの結びつきは、このとき以来となるのだが、もともと彼自身は、あくまでも本場欧州のパリかベルリンを拠点に活動していくつもりで、新大陸に行く気はなかった。
 渡米したのは、ただミュンシュの弟子になりたい、タングルウッドならその機会がある、というだけの理由だったのである。
 ところが、このときから三六年後の現在にいたるまで、小澤の安定した仕事場は、日本を別にすれば、つねにアメリカにあるのだ。
 ヨーロッパの楽団や歌劇場にポストを得たことはなく、そこでは客演者にすぎない。そうした方向性を決めたのが、この一九六〇年のバークシャー音楽祭だったといっていい。
 だが、彼の人脈を追っていくと、彼とアメリカとのつながりは、それ以前から宿命づけられていたことのようにも、思えてくるのである。

 それは、日フィルとの関係である。
 タングルウッドで小澤は、母校桐朋学園での恩師のひとり、河野俊達に偶然再会した。
 日本フィルハーモニー交響楽団の首席ヴィオラ奏者だった河野は、楽団から研修に派遣されていたのである。
 日フィルは初代コンサートマスターにアメリカからブローダス・アールを招くなど、日本の楽団としては珍しく、アメリカ色が強いことが特徴だった。河野の留学もその一例である。
 当時は、アメリカがクシャミをすれば、日本が風邪をひく、といわれた時代だった。
 政治、経済、文化、すべての面で日本は、超大国アメリカの影響下に復興発展していた。
 そして音楽において、アメリカの活力と高い技術に学ぼうとしたのが、この日フィルだったのである。
 伝統的にウィーン色の強い、NHK交響楽団の向こうをはり、新時代をリードする楽団となるために、楽団の指揮者の渡辺暁夫や若い楽員たちが、意図的にそのようにしたものらしい。

 この日フィルは、四年前に誕生した。
 その創設は、楽団の母体の文化放送の社長、サンケイ・グループのリーダー的存在で、当時の〈財界四天王〉のひとり、水野成夫の発案によるものだった。
 一説によると「連合艦隊の司令長官、プロ野球の監督、オーケストラの指揮者こそ男の夢」という有名な言葉を最初に口にしたのは、この水野だといわれる。
 彼は日フィルの創設のとき、楽員全員が自家用車を一台持ち、毎日ビフテキが食えるような生活を約束した。
 昭和三一年の時点においては、これはまさに夢のような、アメリカ映画みたいな、豪華な生活だったろう。
 〈自家用車とビフテキ〉という、ともに今では死語同然の言葉からは、アメリカ的豊かさへの強烈な憧れが、ぶあつい牛肉の焼ける香ばしい匂いとともに、薫ってくるようだ。
 そんな生活ができる楽団は、その生活にふさわしい、ビッグでゴージャスな、アメリカ的響きを当然に鳴らすべきであろう。
 日フィルのアメリカ志向は、水野にとっても望むところだったのではないか。

ヴァイオリンはやさしく

 実はこの水野は、三井の江戸英雄などとともに、小澤の有力な後援者のひとりであった。
 娘が成城学園中学で小澤と同級生だった関係で、早くからその才能を知っていたらしい。
 小澤がブザンソン指揮者コンクールで優勝する前の、つまりまだ彼が、海のものとも山のものともつかない渡欧前の時点で、いずれは日フィルの指揮者に、と見込んでいたという。
 さすがは財界トップにふさわしい、先見の明というほかない。
 話が先走るが、小澤と水野のこうした関係を考えると、一九六一年五月、小澤が二年の外遊から帰国して、初めて指揮した日本の楽団が日フィルだったのは、当然のことなのである。
 だが小澤がそのとき、アメリカのニューヨーク・フィルの副指揮者になって、バーンスタインやミュンシュとつながりを持っていようとまでは、水野も予想できたかどうか。
 偶然としても、日フィルにとって実に都合の良いことだった。

 こうした縁が重なって、日フィルは七二年の解散分裂まで、小澤の日本での活動拠点であり続けることになる。
 すでに何度もふれた『ボクの音楽武者修行』のなかで、小澤は日本のオーケストラは今後、欧州的伝統のない国としては先輩の、アメリカ的な方向に進むのではないか、と述べている。これはおそらく、日フィルの性格を念頭においているにちがいない。
 また初帰国のころの彼は、「ぐんぐん人間の力で押していくような、そうビフテキみたいな音楽をやりたい」といっていたそうである。
 また〈ビフテキ〉だ。当時のひとにとって、人間の活力の源、また活力そのものをしめす最高の言葉が、ビフテキだったらしい。
 そして繰り返すが、ビフテキとはすなわち、アメリカ文化を象徴する食い物なのだ。
 こうした言動や、ニューヨーク・フィルの副指揮者という肩書きなどから、六〇年代前半の小澤は、バーンスタイン風の派手な指揮の、アメリカ仕込みの高カロリーな指揮者というイメージで、世間一般に迎えられていた。

 だがボストン響への反感でもわかるように、批評家をはじめとする日本の音楽関係者は、やみくもに共産圏を持ち上げる人もふくめ、明治以来の欧州志向、本場志向を主流としていた。
 芸大もそうであり、N響もそうである。
 一九六二年に小澤がN響と大ゲンカした、いわゆる〈N響事件〉の伏線のひとつ(もちろん理由はこれだけではなく、他にも色々あったようだが)が、ここにあるのかも知れない。
 彼は芸大=N響=欧州ラインに属さない、桐朋=日フィル=米国ラインの指揮者であった。しかしそのことは、また後の章で見ていくことにしよう。

 話を、一九六〇年に戻す。
 小澤がタングルウッドから欧州に戻り、再びパリとベルリンを往復する生活に戻った九月の初旬、日本ではアールに代わる二代目コンサートマスターとして、ルイ・グレーラーが日フィルに着任している。
 前章でも紹介したグレーラーは、一九一三年ニューヨーク生まれ、やはり日フィルのアメリカ路線に従って、招かれたのであろう。
 グレーラーには演奏活動のほか、すべての弦楽奏者の教育指導の役割も求められていた。
 五年前にN響と演奏したときにくらべ、ずいぶんと日本の水準があがっているのに安心し、しかし彼らの自己主張の弱さに困惑しながら、彼はそのアンサンブルを整えていった。
 後年〈弦の日フィル〉と高く評価された合奏力の強化に、〈トスカニーニの老親衛隊〉の残党、グレーラーが果たした功績は大きい。
 私は、グレーラーが翌一九六一年頃に日本で録音した、ドルドラのスーヴェニールと《タイスの瞑想曲》のEPを聴くことができた。
 もちろん大ソリストの演奏とはいえないけれども、たっぷりとぬくもりのある美音である。
 彼には『ヴァイオリンはやさしく、音楽はむずかしい』という素晴らしい楽壇逸話集(全音音楽出版社)があるが、その文章と同じく、彼の人柄がそのまま出た、聴く者の心をあたためるような音楽だった。

 ほかに、我々は彼の着任直後と推定される日フィルの演奏も、CDで聴くことができる。
 それはマルケヴィッチ指揮による、《春の祭典》のリハーサルである。
 なぜ「推定」なのかというと、この録音を収めたプラッツのCDには、一九六三年九月二三日と表示されているからだ。しかし、この年にマルケヴィッチの来日はなかったから、これは誤りである。
 かりに九月二三日という日付だけは正しいとすると、これは一九六〇年来日時の、日比谷公会堂での定期演奏会の初日と一致する。
 他の一九六五年や一九六八年の来日時期は、年の前半だったし、また音質の状態からいっても、ライナーで宇野功芳氏が書くとおり、これは一九六〇年の演奏と見るのが自然だと思う。もちろん、日付だけが正しいという根拠はないから、推測の域を出ないのだが。
 なんにせよ、その圧倒的なスピード感、鋭利な響き、息をのむような緊張感など、良好なステレオ録音によるこの演奏は、一緒に収められた一九六八年の全曲より、断然優れている。
 マルケヴィッチが日本に初見参した一九六〇年の《春の祭典》は、楽団史上に残る超絶的名演として名高い。また、当時の雑誌などの反応を見ても、この年のすべての演奏のなかで、聴衆に最大の衝撃を与えたものらしい。
 真偽は知らず、伝えきくその名演奏のリハーサルとして、この十五分あまりの録音は、まさにふさわしいものと私には思える。

 マルケヴィッチと日フィルが日比谷公会堂を熱狂の渦に巻き込んだ九月二三日、N響は世界一周旅行の途上にあり、西ベルリンにいた。
 楽員の多くが、そこでベームとベルリン・フィルの《グレート》を聴いている。第十七章に紹介した、これも「伝説の名演」である。
 次回は、そのN響の話をしよう。

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