Homeへ

歌舞伎とN響

 日本の音楽、舞台上演史において昭和三五年は、〈海外公演の年〉でもある。
 六月から七月には、松竹歌舞伎初の海外公演が、ニューヨークなど北米三都市で行われた。
 歌右衛門、松禄、勘三郎などが参加、《籠釣瓶》や《勧進帳》ほかを上演している。
 ボストン響の来日と同様、日米修好百年を記念するものだが、日程がちょうど日本の安保闘争の時期と重なることになった。
 アイゼンハワー大統領の来日を断わるなど、安保闘争がアメリカの威信を傷つける結果になったため、反日感情によって客足が遠のくのでは、と日本側の関係者は懸念したようだが、それほどの影響はなかった。
 とにかく自信にみちあふれていた当時のアメリカ人たちにとって、極東の一事件など、大したことはなかったのかも知れない。
 それよりも、自分たちの日本のイメージそのままの、つまりフジヤマ・ゲイシャ・ハラキリの世界が、歌右衛門をはじめとする名優たちの精妙な芸によって舞台に現出されたことに――歌舞伎をバカにしているつもりはない。相手の受けとりかたの問題である――、アメリカの観客は大喜びした。
 公演は大成功に終わり、以後〈グランド・カブキ〉の海外公演は世界各地に、ほぼ数年おきに繰り返されていくことになる。

 彼らが帰国すると、つづいてNHK交響楽団の一行百二十名が八月二九日から、六八日間にわたる世界一周演奏旅行に出発した。こちらも本邦初の、オーケストラの海外公演である。
 しかし同じ海外公演といっても、両者の性格はかなり違う。
 歌舞伎は、日本の伝統芸能を海外に紹介するという役割を担っていた。
 それに対し、N響の場合は、大げさにいえば明治維新以来、一世紀近く続けてきた〈西欧文明への同化〉の成果を、西欧の人々に知ってもらおうという意気ごみのもとに、行なわれたものであった。
 つまり、フジヤマ・ゲイシャ・ハラキリとは別の一面、西欧的文明国としての日本を紹介しようというのである。
 しかし、おそらくそうした、ちょっと肩に力の入った意気ごみのゆえであろう、歌舞伎の場合には見られないような見解のズレ、食いちがいが内外に生じたことは、興味深い。
 本章では、そのことを追っていきたい。

 見解のズレのひとつは、このN響の海外公演が、とんでもない金の無駄遣いだという、国内の批判である。
 当時の海外旅行事情を、少し見てみよう。
 まず、外貨の不足のため、まだ観光目的の海外旅行は、自由化されていなかった。
 商用や視察や留学など、日本に有益な結果をもたらす経済振興・文化の向上の目的以外は、出国できない建前だった。さらに出国を許可されても、持ち出せる外貨には上限があった。
 それでは、と外地で闇で換金すると、公式には三百六十円の一ドルが、四百二十円ほどにもなった。円はそれだけ弱い通貨だった。
 一九六一年にハンブルクに一年間留学した女性ピアニストによると、往復の旅客機代が五十万、生活費に百三十万円ほどかかったという。
 朝日文庫の『戦後値段史年表』によると、同年の都市銀行の初任給が一万五千円(一九九三年には約十二倍の十七万四千円)、日雇い労働者の日当が五百八十七円(同、約二十倍の一万一千七百十円)である。
 つまり当時は職種間の賃金差、貧富の差が今より大きかったので、単純な比較は難しいが、現代ならざっと十五倍くらいになるだろう。
 ただ注目すべきは、一方で当時一皿百十円のカレーライスが今は六百円とか、四百八十円の英和辞典が今三千円とか、物品の方は、十倍にもならないものが多いことだ。
 さらにステレオLPとなると、千八百円から二千二百円で、現代とたいして変わらない。
 つまり、物がそれだけ割高だった。今の倍以上の価値があったわけで、物を買いにくい、今よりたしかに貧しい時代だった。
 そんな時代に、九千万円(今なら十五億円くらいか)ともいわれる大金をかけて、持ち出しで演奏会をやることもあるまい、楽員の待遇改善にでも使うべきだ、という批判も、理解できないではない。
 しかしNHKはこの大旅行を、放送開始三十五周年の記念事業として敢行した。
 インドからアメリカへの十二カ国、ニューデリー、モスクワ、ルツェルン、ウィーン、プラハ、ワルシャワ、西ベルリン、ミュンヘン、ミラノ、ベオグラード、ロンドン、パリ、ワシントン、ニューヨークなど、東西両陣営の主要都市を含む二四都市を歴訪、三十数回の演奏会を行うという〈壮挙〉が完遂されたのだ。

 ズレのふたつめは、指揮者の選定である。
 このころのN響の常任指揮者は、ドイツ生まれのヴィルヘルム・シュヒターだった。
 カラヤンとベルリン・フィルの一九五七年に初来日に副指揮者として随行、それがきっかけで翌々年にN響に招かれた四八才のシュヒターは、厳しい練習で楽団を鍛え上げつつあった。
 当然この大旅行も、シュヒターに振らせようと楽団側は考えていたし、シュヒター自身、心中に期するものがあったにちがいない。
 ところが海外各国のプロモーターは、シュヒターではダメだ、と次々に通告してきた。
 欧州で中途半端に名を知られた、はっきりいえば二流だと知られてしまっている彼では、切符を売れないということなのである。
 超一流か、あるいは日本人の指揮者で、というのが彼らの要望だった。
 そこで楽団側は、ウィーンなどの数都市で、カラヤンに指揮してもらおうと画策した。
 一九五四年のN響客演以来、ウィーン・フィルやベルリン・フィルを率いて、すでに三度も来日しているカラヤンの日本びいきを思えば、可能性はあったのだが、日程の折り合いがつかなかったのか、この話は流れた。
 となれば、日本人しかない。
 ところが、N響と親しい日本人指揮者というのが、この当時はいなかったのだ。
 まだ戦後の混乱を脱しきれていなかった昭和二六年に、山田和男(一雄)が指揮したのを最後に、N響の定期演奏会には十年近く、外国人ばかりで日本人指揮者の姿はなかった。
 なんだか明治初頭、〈お雇い外国人〉が幅をきかせたころの話のようで、〈西欧の窓〉の役割を自任し、また周囲から求められていたN響らしいが、そこで楽団は、思いきった手を打つことにした。

和の国より

 数年来、指揮研究員の肩書で育ててきた、いわば〈子飼い〉の若者、二十代後半の岩城宏之と外山雄三を起用したのである。
 ふたりとも臨時演奏会や公開録音の経験はあるが、肝心の定期は指揮させてもらったことのない、にわかづくりの〈常任指揮者〉だった。
 岩城自身、『棒ふりのカフェテラス』(文春文庫)のなかで、「経験も何もない、まだほんのチンピラ指揮者」に降ってわいた、どえらいチャンスだった、と回想している。
 無茶な話である。
 しかし考えようによっては、これは冒険ではなくて、人情の機微にふかく通じた、見事な洞察の結果だったのかも知れない。
 馴染みのない中堅指揮者にまかせるより、副指揮者として、楽員たちと気心も知れている若者たちの方が、互いに協力しあい助けあい、うまくいくと考えたのではないか。
 もしそうだとしたら、まさに〈和の精神〉を重んじる日本的な解決法だったことになるが、これはあくまでも、私の想像である。
 
 こうして指揮者はふたりとなったが、外山の方は結局、岩城と交代で指揮した一晩をふくめて、五晩しか指揮しなかった。
 ほかに、シュヒターがイギリスとアメリカで(英語圏の二国だけは、彼を拒否しなかったらしい)四晩、パウル・クレツキがパリで一晩指揮した以外は、すべて岩城の指揮だった。
 つまり、全体の約三分の二が岩城の受け持ちで、彼が実質的な主役となった。
 一方、協奏曲で共演の独奏者も、ほとんどが日本人だった。十八才のチェリスト、堤剛は全行程に帯同、また十六才のピアニスト、中村紘子が後半に参加している。ともに音楽コンクール特賞を得たばかりの、期待の新鋭である。
 ほかに、当時西ベルリンを拠点に活動していた〈和製ギーゼキング〉こと園田高宏や、前年のロン=ティボー・コンクール優勝者、松浦豊明も数回ずつ共演している。
 まだ桐朋女子高に通う高校生の中村と堤のふたりはもちろん、園田も松浦も三十そこそこ、岩城たちも含め、とにかく若い、新鮮な力を前面に出しての楽旅だった。
 この若手起用は、この年から数年のうちに、小田実の『何でも見てやろう』、小澤征爾の『ボクの音楽武者修行』、堀江謙一の『太平洋ひとりぼっち』など、単身世界にのりだした、二十代の若者の体験記が次々とベストセラーとなったことと、どこか気分が似ている。
 日本全体に、若い世代に期待しよう、押し出そうという気分が強かったのだろうか。後の七〇年安保の頃とちがって、若者たちは生意気ではあっても、ただむやみに反抗するだけの存在ではなかったらしい。

 さいわいにも彼らの演奏は、各地で温かく迎えられた。
 もちろん、東洋から初めてやって来たオーケストラという、ものめずらしさが最大の理由だったことは否めないにせよ、多くの公演が満席に近い盛況だった。
 有名音楽家も聴きに来た。
 ルツェルン音楽祭に出演したときには、クレンペラーが楽屋に現れ、黛俊郎の曼荼羅交響曲はインドの音楽みたいだが、とても興味深い、というような感想をいって去ったという。
 またミラノでは、同時期にスカラ座管弦楽団を指揮していたチェリビダッケが、「思っていたよりずっと素晴らしい」とほめてくれた。
 これらの演奏会の大部分が各国の放送局によって録音され、そのテープが何本も日本で放送されたことで、日本の音楽ファンもその演奏ぶりを知ることができた。
 それらの中継のうち、一曲だけが日本ビクターの手でLP化されている。
 九月二六日、ミュンヘンのドイツ博物館のコングレス・ザールで演奏された、岩城指揮によるチャイコフスキーの交響曲第五番である。
 モノラルのためかCDにはなっていないようで、存在があまり知られていない(『らいぶ歳時記』でもうっかりしてしまった)が、実に立派な音で聴きやすい。
 演奏は岩城の特徴である、もっさりと重いフレージングと、むち打ち症になりそうなガクガクしたリズムで、聴きづかれはするけれども、熱気はたしかに伝わってくる。
 なにはともあれ、この大旅行の貴重なドキュメントだけに、再発してほしいものだ。

 しかし、チャイコフスキーやブラームス、ベートーヴェンなどの〈泰西名曲〉を聴かされただけだったら、向こうのお客は、本当には満足しただろうか。
 新聞等の評では、ウィーンやベルリンでは絶賛されたけれども、ニューヨークやロンドン、パリなどでは、ソリストも含めてよく整って美しい響きだが、迫力や輝きに欠け、どうもスケールが小さいという批判もされている。
 当時のN響がパワーあふれる楽団とはいえなかったことは、ちょうどこの年をはさんで、一九五九年と六一年に開催された〈NHKイタリア・オペラ〉のライヴを聴いても、わかる。
 〈泰西名曲〉を演奏しただけでは、日本人もなかなかやるじゃないか、で終わってしまったかも知れない。欧州の聴衆を驚かせ、喝采させるには、未知の新しい音楽が必要だったのだ。
 つまり、日本人の作品である。

日本が可哀そうだ

 そこはN響も承知していて、その曲目は、チャイコフスキーやブラームスなどの交響曲と協奏曲を演奏するほかに、この旅行のために委嘱した邦人作品の、前述の曼荼羅交響曲、矢代秋雄のチェロ協奏曲、間宮芳生の《えんぶり》などが加わる構成となっていた。
 だがN響の面白いところは、旅行前の国内ではこれらの作品を定期では取りあげず、臨時演奏会などでのみ、演奏していたことである。
 そのため、いつもいつも〈泰西名曲〉ばかりのくせに、外国でだけ、自国の曲を保護者づらをして演奏するなんて、ずいぶんとムシがいいじゃないか、と激しく批判した批評家もいた。
 たしかに曲のことといい、指揮者の選定といい、どうもこの旅行では、N響のウチヅラとソトヅラの使い分けが目についていた。

 誤解のないように申し上げておくが、私は、N響を攻撃するために、こんな文章を書いているわけではない。
 二面性は、N響だけの問題ではない。
 それは明治以来、洋行した日本人がかならず向きあわねばならない、宿命的な葛藤だった。
 国内ではまったく考える必要もない、日本とは、日本的とは何なのかを、海外に出てはじめて、否応なしに考えさせられるのである。
 日本人としての拠り所を、何に求めるか。
 服装に求めるひともいる。たとえば、ツアー中にN響と共演した中村紘子は、赤い振袖姿で舞台に登場、海外の聴衆を大喜びさせた。
 ところがちょっと妙なのは、和装の彼女が弾くのが琴でも三味線でもなくピアノであり、そして曲はショパンだということなのだ。
 民族衣装を着る音楽家は、どこの国でも少なくないだろう。が、それで楽器も曲も異国のものというのは、変わっているのではないか。
 しかし当時の日本人は、それをやった。ジャズ・ピアノの秋吉敏子も、一九五七年の有名なニューポート・ジャズ・フェスティバルで、やはり赤いキモノを着ていたらしい。
 その秋吉が弾くのも、バド・パウエル風のジャズ・ピアノなのである。
 もちろん、彼女たちが海外でキモノを着るのは、主催者側の要望や、外国人への受けをねらった、計算ずくの演出だったのだろう。
 しかしその演出がもたらす効果は、肝心の演奏には結びつかない。むしろ逆に、音楽と演奏者の間の差異を、異質さを強調する。
 だからこそ西洋人は、その異国趣味を満足させられるのだろうが、懸命に欧化をすすめている日本人たちにとっては、それは媚びにもみえて、気持ちのいいことではなかった。

 ところがこのN響世界旅行には、中村紘子の赤い振袖などよりも、はるかに西洋人たちを喜ばせ熱狂させ、それゆえいっそう、日本人批評家をいらつかせたものがあったのである。
 それは、ある作品だった。
 雑誌『音楽の友』昭和三六年一月号の座談会「日本のオーケストラと海外の評価」で、角倉一朗はそれについてこう述べる。

  あれは好評だったらしいが、一面ではああいうもので日本を代表されたら、日本が可哀そうだろうという……。

 日本が可哀そうだ、とはすさまじい。
 各地でくり返し演奏した曼荼羅交響曲でも、翌年に尾高賞をもらうことになる、矢代のチェロ協奏曲でもない。これら、芸術性の高そうな作品で評価されたのだったら、批評家たちも喜びこそすれ、腹をたてはしなかったろう。
 しかしこれらにはどうしても〈現代音楽〉ふうの難解さがつきまとっていて、聴衆を感心させはしても、熱狂させる音楽ではなかった。
 それに対してその曲は、ミュンヘンの聴衆は足をふみ鳴らして喜び、ナポリの聴衆はバルコニーから身をのりだして騒ぎ、ウィーンの聴衆は手を叩きながら舞台に駈けよって来るなど、楽員たちが、日本では見たこともない熱狂的な大喝采を、各地でまきおこしたのだ。
 批評家が何をいおうと、この世界旅行の成功は、この作品を持っていたことによって決まった、といっても過言ではない。
 外山雄三作曲、《ラプソディー》である。

 外山雄三は一九三一年生まれ、日本声楽界の草分け、外山国彦の息子にあたる。
 戦後のN響のヌシのような存在、有馬大五郎が父の弟子だった縁もあって、彼は岩城よりも前に、その指揮研究員に採用された。
 有馬は、戦前にウィーンに留学した経験をもち、その人脈をもとに同地から指揮者を招くなど、N響のウィーン色を強めていたが、その一環だろうか、一九五八年十二月、外山をウィーンに留学させている。
 指揮の勉強もさることながら、とにかく本場の音楽を吸収することが、外山の仕事だった。
 たとえば一九六〇年二月半ばには、ウィーン・フィルの定期に登場したクナッパーツブッシュのブルックナーの交響曲第三番を聴いて、

  こゝがウィーンであることも、立ち席で聞いていることも、Philharmonikerが弾いていることも、そしてKna.が振っていることも忘れて、たゞ音楽を感じていた。
 (ウィーンだより/『フィルハーモニー』昭和三五年四月号)

という感激を味わっている(この録音は残念ながら、世に出ていない)。
 こんな音楽が鳴り響く国と、故国日本とは、夢のように遠かった。

 チョコレートの函に意味もなく日本髪を結った婦人の絵を描き、脇にTOKIOなどと記してあるのを見ると妙な気もします。もちろん、オーストリアの製品ですよ、このチョコレートは。(中略)日本ブームなどというものとは全く違うとしても、いまやJAPANは何か漠然とした幻想的な憧れの的。ヨーロッパの人たちにとっては、まるで月世界のような全くの別世界、だからとても好奇心があるということは確かです。(同前)

 六月に帰国して、N響のために《ラプソディー》を作ることになる男は、そんな街に暮らしていた。 

Homeへ